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寺谷篤志/過疎化 SDGs・社会システム(仕組み)の力―地域経営組織をつくる/杉しかない町から誇りある智頭町へ―(加筆修正版)

追補
(1)寺谷篤志/社会システム(仕組み)の力―鳥取県智頭町と京都市のマンション自治会―/2024年12月16日/本文
(2)「三田活性化隊Ⅹ京大永田研究室」代表畑井克彦/鳥取県智頭町フィールドワーク―命を見つめなおす―/2024年12月17日/本文


 

目  次

はじめに―集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ
1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ
2. 社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた
3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間
4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講
5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見
6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける
7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート
8. 気づき、小集団が合流して群衆流へ
 
第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図
1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける
2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業
3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた
4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ
5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)
6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか
7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」
8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み
9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置
10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業
11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む
1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む
2. 創発規範の連鎖の拡大を検証
3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策
4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流
5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現
6. 域規範の「定点観察」、記録はメモから
7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング
9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味
10. 持続可能社会とコミュニティライフ
11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経
《引用文献》
 
第4章 身近に人生の師あり、独立自尊
1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく
2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る
3. 志を立て、国境(県境)を出奔する
4. 会いは神の計画、職場は人間形成の場
5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い
6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念
7. 希望の希求から新たな光が見えた
8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)
9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ
10. 無意識の力に突き動かされた
11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る
 
参考資料
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じめに― 集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

 秋田読書クラブの例会が、2022年4月24日㈰午後8時からZOOMで行われた。題本は『多様性の科学』(2021.6.25.第1刷)(著者:マシュ―・サンド)で、第6章の「平均値の落とし穴」を、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生が解かれた。明快な解説に得心した。草郷先生とは初めての出会いであった。解説をお伺いして社会システム(仕組み)の重要性を認識した。次回は7月24日、拙著『ギブ&ギブ、おせっかいのすすめ(以下『ギブ&ギブ』)』(今井出版発行)第3章を、私が紹介することになっていた。是非とも、草郷先生から拙著についての解説をお聞きしたいと思った。そこで『ギブ&ギブ』を出版後、即、智頭町づくり三部作をお贈りした。

7月24日㈰の読書会、最後の1分にコメントをいただいた。《実は三冊の本を送っていただいていたのです。(省略)ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみることで空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》(第3章9)と解析された。そして、間髪を入れず27日に、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店2022.7.15)が届いた。感謝、感激である。ご著書と解析に触れ、地域づくりの行動目的がはっきりした。つまり、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動(以下ゼロイチ運動)』(第2章)で、誇りの創造をテーマに地域づくりに取り組んだ。それはウェルビーイングを手繰り寄せるためであった。具体的手段が社会システム(仕組み)の創造である。草郷先生の解析によって1984年からの智頭町づくりと、2011年からの京都市マンション自治会の立ち上げの核心をつかんだ。

智頭町づくり三部作を夢中で編集したから導かれた。腎臓癌で命を救ってもらい、長年かかってやっと辿り着いた。応援してもらった方々の顔が浮かんだ。この納得感を、私一人の知識としてあの世に持って行くわけにはいかない、ムラムラと使命感が湧いた。今やらねば何時できる、わしがやらねば誰が書くとの心境であった。ところが、2022年の酷暑は凄まじかった。7月末から毎日パソコンにフラフラしながら向かった。構成は踏み込んで、また踏み込んで次が見えた、腐心しながら社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。やっと9月に入って推敲案を仕上げた。総括すると、社会システムが集落で奇跡を起こしていた。(第2章)

早速、PPと合わせ草郷先生にお送りした。「草郷です。修正資料を拝読させていただきました。セットで学生への貴重な資料になります。それから、差し支えなければ、関心のある知り合いに共有させていただきます。」といただいた。また、北京外語大学教授宋金文先生からは、「ゼロ分のイチ運動を社会システムの視点で整理して、いろいろ考えさせられることがあって、腑に落ちるものがあります。私も社会システム論の応用による境界突破という視点と、「制度創生と越境—過疎地域づくりの事例を通して」のテーマで社会システムの立場から、この事例の意味を総括しているところです。」といただいた。

本書は、二つのコミュニティにおける社会システム(仕組み)創造の実践記録である。編集から見えたことは、まさに結縁の連珠である。偶然の出会いが必然となり、出会いに意味が生まれ、まるで神の計画だったかのように人々との出会いが物語となった。生命があったからまとめられた。まず、出会った方々に心から感謝です!  2023(令和5)年2月—

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ                       

 1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ

智頭町への帰郷の話が突然舞い込んだ。1983 年 2 月、中国郵政局(広島市)でコンピューターの導入会議をしているところへ、那岐郵便局長の故長石公男氏が訪ねて来られ、喫茶店でお会いした。「寺谷君、地域に貢献する郵便局長になってほしい。」と諭された。10年前に智頭町内の郵便局の職員だったころ、青年団活動や総理府の第6回青年の船の団員として、オセアニアを訪問したことを知っておられて、是非とも決断してほしいと言われた。しかし、町の封建的で閉鎖的な体質に躊躇し即答できなかった。でも、いずれは故郷に役立ちたいと思っていた。妻から「あつしさんが必要とされている、智頭に帰ろう。」との一言と、一時、身体を壊していたので体調を考えて帰郷を決断し、二人の子どもを育てようと思った。

そうして50世帯ばかりの集落に住んでみると、過疎化・高齢化・少子化が迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外にない。しかし、役場職員は長年の封建体質で無気力となっていた。住民は時代の波に抗うこともできない、断腸の思いだった。その翌年、何とか一歩をと「杉板はがき」を発案した。鳥取国体の前年ということもあって全国から注文が殺到した。これを幸いに木工集団を組織して対応することにした。そうしたところ1986年に鳥取県知事からイメージアップ懇話会の委員の委嘱を受け、鳥取県のイメージアップ戦略に向けて議論を一年間行い、1987年春、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。早速、一人の積極人間として智頭町から発信した。夏休み、智頭杉にこだわって子どもたちに杉板を加工し応募してもらう、「木づくり遊便コンテスト」を開催した。全国から300点を超える作品の応募があった。地域を何とかしたいと一歩を起こし挑戦した。新しい出会いが夢を叶えるきっかけとなった。

1988年3月、智頭杉日本の家設計コンテストの開催に向けてコンサルタントに相談するため、故前橋登志行氏(後日、CCPT代表)と東京に向かった。早々に要件を済ませ、笹川平和財団に主任研究員の長尾眞文氏を訪ねたところ、長尾氏から地域の国際化に取り組む団体を支援し、社会人1名分の海外研修経費を助成すると伝えられた。帰途、新幹線の中で活性化策を相談した。その一つに、この際に社会人2名を派遣したい。二つ目は地域づくりの学習・実践集団を設立したい、と話し合った。善は急げと翌月、住民有志30人に呼び掛け、「智頭町活性化プロジェクト集団」(Chizu Creative Project Team:略 CCPT)を設立した。合わせて、鳥取大学の留学生を智頭町に招待しようと、長尾氏にお願いして鳥取大学工学部教授の岡田憲夫先生(現:京都大学名誉教授)を紹介してもらった。合わせて、「智頭杉日本の家設計コンテスト」は実行委員会を組織し、鳥取県職員の澤田廉路氏(現(一社)鳥取県建築士会専務理事)の協力を得て、賞金150万円2本(都市型と農村型)を役場に助成してもらい公募したところ、148件の応募があった。その年の12月1日、杉の御霊を祀った杉神社で厳かに表彰式を行った。

次に1989年には、八河谷集落で杉の木村(1986年に都市との交流に開村)を会場に、カナダのログビルダーを招聘して、智頭杉でログハウス5棟を建築する「智頭杉ログハウス建築イベント」を2ヶ月間にわたって開催した。そして、完成施設を集落に無償譲渡し、8月末、念願の社会科学を学ぶ場の「杉下村塾」(さんかそんじゅく)を開講した。そして、講師の一人である長尾氏からスイス山岳地調査に誘われ、9月末、スイスのシャンドラン(1,936メートル)の麓で、住民が検討委員会を組織して地域計画を実行しているコミュニティを視察した。そこで住民自治の種を見つけた。

その直後、町会議員の選挙違反が発覚した。議長候補者が金を配り議員の半数が逮捕された。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の変革にある。さて、どうすれば地域活性化ができるのかと悶々としていた。そうしていたころへ、岡田先生から「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と話され、第4回杉下村塾(1992年)に京都大学総合人間学部の杉万俊夫先生(現:九州産業大学教授、京都大学名誉教授)を紹介いただき、翌年の4月4日、第9回耕読会に『かや(規範)の理論』の講義-1を受けた。(第4章3)要旨。

《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』-講義1)

かやの理論は一匹のメダカの理論(第4章3)の補填となった。一年かけて地域戦略を練った。そして、意を決し翌年4月29日にCCPTの総会を開き、役場との連携(融合)を提案した。まず、第1弾として8月4日、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタートした。早速、買い物代行システムが発案された。まさに連想ゲームのようであった。そして、10月28日~30日に第6回杉下村塾を開催したところ、グランドデザインの策定と智頭急行シンポジウムの企画提案があった。こうなればトップマネジメントである。役場助役の故前橋伍一氏に一か八か相談した。快諾があった。そこで中国郵政局の協賛を得て、1995年1月14日、役場職員と研究者等で、「グランドデザイン(智軸づくり)策定」プロジェクトチームが発足した。7月、報告書の「杉(サン)トピア(杉源境)ちづ構想」がまとまり、その翌年の1996年4月、住民が地域計画を立て実行する仕組みづくりのため、「村おこしコーディネーター会議」が発足し、住民5名が委員の委嘱を受けて企画して、町長に計画案を答申した。そして、議会で決議され、1997年4月、起死回生策の『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』がスタートした。

2.  社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた

2006年に智頭町に移住し、2009年に「もりのようちえん」を開園した西村早栄子さんに、2016年に『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み(以下創発的営み)』を編集するためヒアリングを行った。そうしたところ、役場職員の積極的な姿勢と、「この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになる」と発言があった。地域づくりが、臨界値を超えて相転移を起こしていた。

《私は、鳥取県の職員として八頭総合事務所(当時)という、智頭町を管轄する機関に所属していた。智頭町では新しい事業がもたらされると、ほかの町村とは反応がまったく逆だった。智頭町以外のところはだいたいできない理由を必ず探すが、智頭町に持っていくと「やりましょう、やりましょう!すぐやりましょう。明日からでもやりましょう。」となる。新しいものに対して積極的で、他町村と比べると全然違う。(省略)それはやはり町長の影響も大きいが、長年に渡って住民がやってきた民意というか、住民自治での地域づくり、いわばゼロイチ運動とかの実績があるたらだと思う。十年前に始まった「百人委員会」では、住民が意見を出して住民自身が汗をかいて、それを行政が支援するという住民自治のスタイルがある。民間に対する信頼というか、住民が主役で行政を乗せていくというような雰囲気を感じる。行政に対しておんぶに抱っこを求めない住民をつくってきた、自立の地域の風土を感じる。》(『創発的営み』第 4 章 2)

《私たちがなぜ智頭町を選んだのかといったら、やっぱり「ゼロイチ運動」で住民が自立して、まちづくりに挑戦する精神が浸透していて、町に活気があることだ。ほかの町村と比べてもやっぱり智頭町ははっきり違っていた。この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになるのではないか。私たちも参加してお手伝いができるのではないかという雰囲気を感じた。この町のムードは、私たちが移住を決断する大きな誘因となった。》(『創発的営み』第 4 章 6)

西村さんは、住むなら智頭町へと決断された。もう一方、2015年に移住した「田舎のパン屋さんタルマーリー」の渡邉格氏ご夫婦は、役場職員の対応と地域体制を語っている。

《智頭町へ来る直接のきっかけは「森のようちえん」に息子を通わせるためだった。最初は岡山県美作市に住みながら智頭町に通わせよとしていた。それがなぜ智頭町に店も住まいも移ることになったのか。それは確実に役場の対応にあった。智頭町役場企画課のスピードと丁寧で確実な対応は驚くものがあった。》(『創発的営み』第5章4)

《例えば、旧小学校の駐車場にタルマーリーのお客様が車を停めることに対して苦情が出たことがある。最初に役場が使っていいと言ってくれたから大丈夫かと思っていたのだが、地域の方からそこには置かないようにと言われて戸惑った。そこで役場企画課に相談したら、企画課と地区振興協議会が相談してくださって、結果的には使ってよいとのことで落ち着いた。だから、いろいろな意見があっても、調整して治めてくれる体制があることは本当に助かる。》(第5章1)

お二人は外から見ていた智頭町と、住んで地域社会の評価を行い、確信を持って智頭町で輝き、内外に影響を与えている。つまり、社会システム(仕組み)が奇跡を起こしていた。

2006年に西村早栄子さんが移住するまでの間、智頭町で何が起こったのか。本書ではその取り組みを時系列で記述した。果たして社会システム(仕組み)は、コミュニティの持続可能にどのような影響を与えたのか、形成された創発規範はどのように連鎖したのか。それらを杉万先生が調査・検証されている。ところが、2010年3月にわが身に一大事が起こった。腎臓癌を発症し右腎臓を摘出した。さて、どう生きるか、2011年10月18日に京都市に移住した。たまたまマンション管理組合の理事に就任し、理事会に自治会設立を提案して臨時総会が開催され、2014年2月に自治会が設立された。本書事例は、二つのコミュニティで社会システム(仕組み)創造によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。その記録である。                                             

3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間

 帰郷した翌年の春、智頭町産のドウダンツツジを郵便小包で届けますと報道したところ、新聞・テレビで取り上げられ注文が舞い込んだ。そして、「智頭町どうだんつつじ祭り」が役場前で開催され、赤いバイクの後部座席にドウダンツツジが入ったケースを載せ、郵便配達をする様子がテレビ放映された。郵便小包のイメージからすれば意外性を演出した。この取り組みから地場産品を地域づくりのテーマにすれば、報道機関が取り上げられることを経験した。そして、7月に鳥取国体前年のミニ国体が開かれる。智頭町は空手会場である。その場に郵便局も臨時出張所を出店するが、記念切手を販売することになっていた。妻とお茶をしながら、郵便局なりの智頭町のオリジナル商品ができないかと話した。そこで「杉板はがき」のアイデアが浮かんだ。

早速、近くの製材所で建築用材の柱の端材を購入し、智頭農林高等高校の木材加工科で葉書版の厚さ1センチ程度の杉板を作ってもらった。枚数を揃えて地元紙に発表したところ大反響を呼んだ。智頭町に帰郷して僅かな期間だったが、アイデア郵便局長としてマスコミに取り上げられ、その宣伝効果もあってか、鳥取国体の翌年、1986年に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年後、鳥取県民の在り方を答申することになっていた。

1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に決意を寄稿していた。

《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》

鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだとはっきりと自覚した。一寸の虫も五分の魂の覚悟だった。

1986年、デザイサーの白岡彪氏、「杉の絵本・しんいなばものがたり」の製作機会をいただいた。
1987年、日本海テレビ副報道部長の須崎俊雄氏、「地平線」の執筆機会をいただいた。
1988年、コンサルタントの吉田幹男氏の鳥取交流サロンで長尾眞文氏と出会った。
1989年、写真家の池本喜巳氏、智頭杉「日本の家」設計コンテストの作品の撮影を依頼した。
1991年、鳥取大学の佐分利育代先生、智頭杉棒体操を考案してもらった。
2019年、今井印刷相談役の永井伸和氏、2022年に智頭町づくり三部作を刊行した。

イメージアップ懇話会で出会った方々は、鳥取県の積極人間を共有した人たちである。帰郷して3年で委員に選ばれグットタイミングで地域を学ぶ機会となり、各委員との出会いが人財ネットワークとなった。また、将来智頭町に地域戦略のソフト機関を実現したいと思っていたので、委員会での審議の経験は有意義だった。そして、1987年から「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」の三つをテーマに、とっとりingsマン=積極人間に挑戦した。

4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講

1988年4月、CCPTの設立と同時期に岡田先生に初めてお会いした。その時、何を研究されているのですかと訊ねた。そうしたところ「島根県の匹見町に行って、過疎の研究をしています。」と答えられた。それならば智頭町に来てくださいとお願いして、出会いをきっかけに手弁当でCCPTに社会システム思考の講義をしていただいた。当初、果たして地域に社会科学の学習の場を設けて人が集まるかと心配したが、講義を受けるためCCPTのメンバーが智頭町総合センターの会議室に集まった。郵便局の職員、役場の職員、製材所の経営者、農業・林業従事者、大工さんなど。そして、講義を受けて議論が始まった。ディベート訓練では年齢に関係なく、60歳を超えた人たちが熱くなって議論をした。予想を超えた。

1). ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。

2). 活性化プロセス
ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。

思いがけない学習の場であった。講義や議論の様子をみていると、地域に社会科学を戦略的に入れることは有効であると考えた。早速、身近な人たちに声をかけてみた。しかし、杉の木村は智頭町の最奥部で交通の便が悪い。誰が講習会に3万円も払って参加するものがあるか。地域は運営であって地域経営の概念はない、経営は企業である。と反対意見があったが、思い切って杉下村塾を開講した。当初は講義方式だったが、参加型集団企画技法の四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)を開発し、受講生と講師がほぼ同数で、地域テーマを設定して知的生産の場となった。開講趣旨は、明治維新は吉田松陰の松下村塾に始まったが、平成の維新は杉の下の智頭町から起こそうと気概を持った。1989年8月25日から27日の2泊3日、建築間もない杉のログハウスに合宿形式で参集した。開講テーマは1984年に一歩を起こしたCCPTの活動から、「地域経営」(2章2)とした。1998年まで10年(回)開催した。(『ギブ&ギブ』第1章5)

新しい価値の創造に向けての挑戦だった。現状は、他力本願、行政依存によって住民自治の意識は低い、実はそこに問題がある。例えば、住民一人ひとりが地域を治める意識を持ち、地域資源に唯一無二の価値を認め、住民が地域の主宰者として計画を立て地域を経営すれば、地域が変わるかもしれない。この視点を持てば、萎縮した地域社会から脱出することが可能ではないかと考えた。つまり、過疎化を真正面から捉えたとき、住民の一人ひとりが住民自治の自覚と地域経営の概念により、地域が変わると予測した。実証実験に向けて一歩を起こした。

5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見

第1回杉下村塾の開講直後、9月20~28日の9日間、スイス山岳地調査に長尾主任研究員と、岡田先生に同行して、アルプスの少女ハイジのモデルの町となったシャトーディを訪問した。街を取り囲むロケーションは山岳地から丘陵地へとなだらかに続き、スイスの絵ハガキの情景であった。その地にあるチューリッヒ工科大学の研究所で、スイスにおけるスリム化された行政と、住民と大学機関との連携等について説明を受けた。翌日、ヴァレー州にあるシャンドラン(1,936メートル)のホテルに到着した。ホテルに着いた途端に胸が息苦しくなり、頭がズキンズキンと痛んだ、高山病である。とうとう食事も取らずに寝床に倒れ込んだ。これまで経験したことのない苦しみと頭痛だった。(『ギブ&ギブ』』第1章6)

その翌日、さらに登って小さな集落を訪ねた。天気は快晴、せっかくのアルプスの景観だったが体調が悪い。山々を眺めると山岳部の中腹に点々と家が見えた。まさに天(点)村である。そして、峰の一軒のホテルに着いた。高山病で苦しいと通訳してもらったところ、早速、オーナーが大きな皿にトマトやキュウリをスライスして、着いて来いと言われた。そこはコミュニティハウスの地下蔵だった。並べられたワイン樽から赤いワインをコップに注ぎ、高山病の薬だと言って差し出され一気に飲んだ。赤ワインは妙薬だった酔ってくると頭痛から解放された。ところが、アルコールが切れると高山病がぶり返した。その様子を一生忘れることができない。

そのホテルのオーナーから、ご自身の半生と集落の盛衰が語られた。「今は避暑地として栄えているが、過去には村が存亡の危機にあった。その時、全財産を投げ打ってホテルを建てた。教訓として、まず自分の村に誇りを持つことだ。スイスは山岳地から始まった。自然との共生の中で生活してこそ価値がある。今朝も鹿を一頭獲ってきた、ホテルで提供する。子どもたちは海外から帰ってきて一緒に仕事をし、この村が好きだと言っている。」と、地域の存亡危機脱出の秘訣を聞いた。高山病と赤ワインとオーナーの話は、スペシャルメニューだった。そして、山を下りて麓のコミュニティ調査で、住民が検討委員会を組織し、主体性を持って予算を獲得して行政やコンサルタントの知恵を引き出し、地域計画を立て実行していた。住民自治の種を見つけた。

スイス山岳地調査の直前に智頭町の町会議員の選挙違反が発覚した。1989年に改選が行われ、議長候補者が多数派工作で有力議員に金を配り議員の半数が逮捕された。この時の屈辱感は、智頭町に住んでいることが恥ずかしかった。長年にわたる山林を持つ者と持たざる者の構図が、地域の独特の価値観をつくっていた。封建体質にこそ問題がある。

スイスから帰国後、CCPTでは世代別の住民意識調査(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第2章1)を実施した。住民の意識を冷静に分析しみると、高齢世帯(60代から70代)では、「CCPTと行政が連携すれば町は発展する」の項目の回答が63%みられた。これは依存体質の裏返しだと読んだ。その当時、岡田先生が「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と言われ、第4回杉下村塾(1992年11月6日から8日)に杉万先生を紹介された。11月7日㈯の夕方、杉万先生は杉の木村に入られた。外はみぞれが降って暗かった。初対面で研究の紹介があった。直感的に人間科学ですかとお伺いし、さらに、先生が書かれた本はありませんかと訊ねた。そして、翌年春の第9回耕読会(読書)の講師をお願いした。

6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける

1993年4月4日㈰午前10時、杉の木村には積雪が胸の高さまで掻き揚げられていた。山峡の地である。掻き揚げられた積雪に光が当たって眩しかった。そこで杉万先生から「かや(規範)の理論」の講義-1を受けた。人間科学を予想してテープレコーダーを用意していた。講義のポイントを紹介する。(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)

➀ ささやきかける、手を取る、肩を押しながら逃げる
《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》

② 「かや(規範)」は常に変化し、個人をしばる
《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろんなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をする。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》

かや(規範)の理論の吸着誘導法は、小集団活動の核心と受け止めた。テープ起こしをしながら、役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の革新が一度にできないかと考えた。ただ、この理論を実行するには、地域にある慣習的な良い人を捨てる覚悟が要った。それまで周囲からかなり批判を受けていた。地域では出る杭は打たれる。二人の子どもへの影響を考えた。しかし、自分には財産は何もない、そこで生き様を示すことだと覚悟した。それからもう一つ、地域社会では物事をすべて損得でみるが、それは軸受け(ベクトルの支点のリスク)を避けていることだと気づいた。なんであれリスクを取る覚悟である。どこまでやれるか挑戦だった。

そして、1989年に選挙違反した議員が執行猶予にも係わらず、1993年の町長選挙に立候補して当選した。また、それまで町長をしていた者が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕となった。そんな状況に発奮した。一年後の1994年4月29日にCCPTの総会を開き、役場とは対峙でなく、連携(融合)を提案し、智頭町の活性化は役場職員の覚醒化だと訴えた。

7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート

なぜ役場職員の覚醒化にターゲットに絞ったのか、それは職員が覚醒化することによって、住民規範が変わると予測した。まさに「かやの理論」の実践である。次の理由が考えられた。

➀地域で一番大きな事業体であり、雇用の場である。また、人材集積の場である。
②住民生活に影響を与える施策を実施している。施策に責任を持つ組織とする。
③国の過疎対策は的が外れている。声高に言っても仕方がない、この地に事実をつくる。
④地域を方向づける機関は他に無い。過疎化・高齢化・少子化、広域合併に備える組織とする。
➄住民規範は行政への依存体質である。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化が課題であり、住民のニーズに応えられる組織とする。
⑥職員に地域哲学(アイデンティティ)が無い。

1993年までの10年間にわたり役場職員を観察してきた。地域における公的機関の職員として意識が低く、長い間の封建的で保守的な体質は職員を無気力にしていた。つまり、職員訓練がほとんどできていない。1985年に就任したF町長は一期、1989年のO町長も一期、1993年のH町長も一期の町政が続いていた。そして、二度の町会議員の選挙違反による大量逮捕である。町政トップがぐらついていた。ここに連携(融合)を図る主因があると考えた。

まず、1994年8月4日、智頭郵便局と役場でまちづくりプロジェクトチームが発足した。当時、郵便局の社会貢献が課題となっていた。役場も他機関と交流することで活性化を考えており、お互いに思惑が一致して、連携プロジェクトをやってみようとなった。役場のメンバーは各課横断的に5名が選ばれた。郵便局の職員は意図的に町外から通勤する者を登用していこうと、内務職員2名と外務職員2名の4名とし、プロジェクトチームは計9名でスタートした。

会議は月1回、午後2時から4時までの2時間、会議の方法は司会と議事録係を交互に担当し、前回の課題に対する経過報告と、議事テーマを絞って討議に入った。討議方法はCCPTが開発した模造紙会議方式を使った。最初のブレーンストーミングで約30項目が出た。中でも高齢者と郵便配達を掛けて、「買い物代行(ひまわり)システム」が発案された。

〇国際ボランティア貯金、智頭町長フィリピン視察報告会の開催(1994.12)
〇国際ボランティア貯金、海外視察グラビア発行(1995.4)
〇税金自動引き落とし導入(1995.4)
〇水道料金自動引き落とし導入(1995.4)
〇役場前にポストを設置(1995.5)
〇綾木杯マラソン支援(1995.9)
〇智頭急行開業一周年記念事業、阪神・淡路大震災まちづくりリーダー会議(1995.12)

1995年4月、一部地区の試行で「ひまわりシステム」がスタートした。新聞、テレビ、ラジオで報道され大きな反響を呼んだ。何よりも嬉々として働く郵便局の職員に注目が集まった。その影響は役場職員にも伝搬した。1996年には智頭町全域でサービスが開始され、第一弾の連携策としては大成功であった。次の施策に向けて追い風となった。

 8.  気づき、小集団が合流して群衆流へ

第6回杉下村塾 (1994年10月28日から30日) を開催した。中日の29日、模造紙を囲み四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)の演習で、テーマごとに4時間にわたって議論を行った。テーマの一つに「はくと・はるか・関空」シンポジウムの開催を設けた。12月3日、鳥取県民の悲願である第三セクターの「智頭急行」が開通する。特急「スーパーはくと」に乗れば、京阪神に2時間でアクセスできる。さらに特急「はるか」に乗り継ぎ、関西国際空港まで所要時間は約3時間である。地域活性化の起爆剤にならないかと、シンポジウムの開催をテーマにした。このチームから、「智頭町のグランドデザインは何か?」と質疑が上がった。

智頭急行のシンポジウムの素案と智頭町のグランドデザインの策定構想を、助役の前橋伍一氏に提案した。実現に向けて取り組むと快諾された。早速、中国郵政局に協賛を要請するため、12月26日、前橋助役に小林総務課長と同行した。企画課長と助役の会談で協賛の内諾があり、地域づくりの本質論でグランドデザインの策定が話題となった。そこで、全体の事業費から100万円を充てることが約束された。翌朝、プロジェクトチームの陣容を説明して確認をとった。早速、電話で岡田先生と、杉下村塾で「はくと・はるか・関空」チームだった経営コンサルタントの福田征四郎氏、地域コンサルタントの平山京子さんにアドバイザーを要請した。

帰郷した翌日、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村の総務・企画担当者会議が開催された。大呂課長補佐の根回しで、議題に「はくと・はるか・関空」シンポが取り上げられ、3ヶ町村と郵便局(6局)でふるさとづくり実行委員会が設立されることになった。一度に、シンポジウムの開催とグランドデザインの策定と、二つのプロジェクトが動き出した。そうしていたところ、前橋助役が「CCPTの思いを五感で感じる。」と、身近な人に発言されたと伝わってきた。

1995年1月14日㈯、鳥取市内は豪雪だった。JR鳥取駅近くのホテルの会議室で、第1回グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクト会議が開催された。助役をチームリーダーに職員7名が指名され、アドバイザーは岡田先生と、福田征四郎氏、平山京子さんの3名である。コーディネーターは私が務めた。その後は、土・日曜日に会議が開かれた。そして、議論の上「杉」は智頭町民の精神的支柱であり、杉を「サン」と読み「杉(サン)トピア」「杉源境(さんげんきょう)」と、表記することに一決した。

2月5日、多くの住民が参加し、「どう生かすか、智頭急行シンポジウム」が開催された。

4月12日、役場職員の「さわやかサービス」の接遇研修が、経営コンサルタントの福田征四郎氏の指導の基、全職員を対象に開始された。当初、郵便局の9局でスタートし、民間企業も参加していた。そして、3ヶ町村の役場に導入された。

14日、「ひまわり (買い物代行) システム」の出発式が行われた。テレビ・ラジオ・新聞で大々的に報道された。町が一気に輝き、スタッフは自信を持った。次には全町でサービスの開始である。(『ギブ&ギブ』第2章1)

6月3日、「はくと・はるか・関空」シンポジウムの企画は、3ヶ町村の役場職員が当たった。大阪南港の太平洋トレードセンターで3ヶ町村の住民100名と、3ヶ町村出身の関西在住の知人100名を招待して開催された。一つひとつの施策が実施され、まさに群集流となった。

7月8日、岡田先生がカナダウオータールー大学から名誉博士号を授与となり、記念講演会を智頭町総合センターで開催した。テーマは「ゼロ分のイチ」であった。(『ギブ&ギブ』第2章4)

7月、グランドデザイン策定の詰めは、小林総務課長・大呂課長補佐と三人で、竹輪を齧りながら「杉トピア(杉源境)構想」の図表を、マイステージ(生活・自治)・ユアステージ(交流・情報)・フォレストステージ(森林・自然)と、3つのステージに整理した。報告書は平山京子さんの主筆によってまとめられた。関係者の手持ち資料としたが、経ってみると秘策はしっかりと根づいていた。1995年版CCPT活動提言書(P87-97)に収録している。

9月2~3日、CCPTと関係者とで先進地の広島県旧高宮町を21名で訪問し、地区振興協議会の活動の実態を聞いた。そこで智頭町では振興協議会を、利益要求団体や行政の下請団体等にしないため、時間はかかるが集落単位から地区単位へと展開することにした。そして、翌年4月12日、村おこしコーディネーター会議の委員の委嘱を住民5名が受けた。

1995年秋、杉万先生から論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)と、論文-2、「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫、2本の論文が届いた。1984年から取り組んだ地域づくりが調査・検証されていた。手元には、(ゼロイチ運動と「かやの理論」)講義-1と2、「杉トピア報告書‐ちづ構想」と、論文-1と2の三点が揃った。次の課題は実行案の策定である。これら三点をどう読み解くか大きなプレッシャーを感じた。ほぼ半年をかけた。

10月27~29日、第7回杉下村塾で「智頭未来色」をテーマに討論会を林新館で開催した。

これら紹介した施策は、CCPTと役場職員の連携施策である。手づくり施策の効果は計り知れない、地域に対して当事者に愛着が起こった。例えば、故藤原孝係長はひまわりシステムのリーダーとして、またグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動の企画に携わった。彼は、鳥取市との合併協議会の席上、「例え合併してもゼロイチ運動は譲れない。」と主張したと聞く。まさに智頭町づくりの自負心が言わしめたのだ。主体を持つことの大切さを学んだ。

 第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図

1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける

1996年2月、グランドデザインの具体案づくりに向けて、意を決しH町長に直接申し出た。プロジェクトチームを編成してほしいと直言したところ、返ってきた言葉は住民5名を選んでもらいたいとあった。1996年4月12日、町長の指名により委員の委嘱を受け、「村おこしコーディネーター会議」が発足した。私はコーディネーターの役割を務めた。その企画会議では論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)の「結語」が役立った。紹介する。

《あくまでも一つの可能性に過ぎないが、CCPT集合体が、一つの可視的「集団」としての様態から、より境界があいまいな、より緩やかな連結によって維持される様態へと変化するかもしれない。しかし、仮に、「集団」としての可視性を減じたとしても、あたかも変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう、もし、そうなれば、それは一山間の過疎地の現象と言うにとどまらず、現在の日本社会が直面している大きな課題の一つ、すなわち、新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言えるのではないか。》

杉万論文の「結語」に武者震いした。この「・・・新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言える・・・」に刺激を受けた。大体、行政機関ではグランドデザインの報告書があれば一段落である。しかし、文中「・・・変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう・・・」と、新しい社会システムの構築に向けて自負心がくすぐられ、さてどんな仕組みをつくるか、山間の智頭町から社会革新を起こす覚悟をした。その時のわくわくドキドキ感を今でも思い出す。時をかける思いだった。

そこでまず、地域づくりを「運動」とするか、一つの「事業」とするか議論を行った。やはり、子どもからお年寄りまで、自分たちが住んでいる地域を活性化するための計画づくりにしたいと考え、「運動」とした。では、運動のタイトルをどうするか、岡田先生の記念講演のテーマであった「ゼロ分のイチ」と、「杉トピア(杉源境)ちづ構想」の報告書から、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』と命名した。ゼロイチ運動で、集落振興協議会を設立した場合を想定した。計画された事業は各事業とも主体的に実施され、いずれ価値あるものは定着する。その一つひとつの事業が新たな規範を形成し、それらが群衆流となると予想した。それら施策について住民同士で「コミュニケーション」が図られ、「集合的行動パターン」が起こり、それが「暗黙自明の前提」となって集落の特色をつくり、共有規範が生まれ、集落の規範がいずれ「環境」となると読んだ。ゼロイチ運動の実行案づくりはプロジェクトチームの最大の課題である。つまり、集落には総寄合があって意思決定権を持つ、そして、どの集落にも既存団体がある。公民館活動、老人クラブ、婦人会、消防団、青年団など、個々別々に存在する。それらを包摂する新しい組織づくりを考えた。これこそ地域革新である。そこで集落全体を包む大傘をイメージした。

振興協議会の構想には、杉万先生の講義-1の『かやの理論』と、講義-2の『こころと意味・「かや」』 (『ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-1.と2.) の4点セットが役立った。早瀬集落で生活し、1986年から杉の木村の建設を体験したことが社会システムづくりに役立った。つまり、論文の「新しい総事」(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)を創出する組織にするため、集落振興協議会の構想を村おこしコーディネーター会議で議論を重ねた。そして、1996年5月21日㈮~23日㈰の3日3晩、不眠不休でゼロイチ運動の企画書等①から⑥ (『ギブ&ギブ』第2章4) をまとめた。私の思いを、大呂課長補佐へ人生のプレゼントと手紙を書いた。

企画書(1)趣旨《・・・その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。》

企画書の趣旨と、②集落振興協議会規約、③運営要領、④組織概念図、⑤地域プランナーの手引き、⑥計画策定ステップの6策(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)を町長へ答申し、7月の議会に諮られ議決された。企画書等は役場から各集落に周知された。

 2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業

1996年度中に、ゼロイチ運動で10年間目指す行動計画書を作成した集落が、翌年度から導入することになった。ところが集落の長老支配は厳然と続いていた、保守的な体質である。果たして集落で地域計画が策定できるか、心配しながら見守った。ところがプロジェクトで発案のあった智頭町認定法人の指定が役立った。ゼロイチ運動は新鮮な学習の場となった。計画づくりに住民が参加することで、ゼロイチ運動の本質や隠し味に気づき、集落の体質改善につながると新鮮な空気が生まれた。そして、自ら暮らす集落をデザインする画期的な取り組みとなった。住民は積極的に参加し、計画づくりが集落運営に大きく影響を与えた。

早瀬集落では、1996年8月に入って総寄合が持たれ、ゼロイチ運動を導入するかどうか協議された。多数決を持って導入が決まった。9月から住民アンケート調査が実施され、さらにヒアリングを行い、ブレーンストーミングで洗い出し、語彙を短冊に書き出した。四面会議システムのディベートでは年齢に関係なく、人々は熱くなって計画づくりを行った。杉万先生はその場に立会されていた。(杉万俊夫編箸『よみがえるコミュニティ』P123)

《杉万~すごく印象的だったのが、早瀬集落のゼロ分のイチ運動が始まった頃、まだ、雰囲気がすごく静かなときに、横でみせてもらったんですが、時計が夜11時を回った頃、80歳ぐらいのお年寄りが、ぱっと立ち上がって、「俺たちがやらなきゃだめだ」ってね、こう宙をにらんで大声で演説をされるわけですね。あれだけの宙をにらんでの決意表明、80歳まで生きた人の力強い訴えというか。見えない壁、敵、受け身であり過ぎた過去、そういうものに対する挑戦ですよね。》

お年寄りの顔が輝いていた。そして、他の集落の計画づくりをどう導くか、新たに発足した「ゼロイチ運動担当者会議」のプロジェクトチームで作戦を練った。集落の計画書の作成方法を議論し、早瀬集落が先行し事例を示す戦略をとった。そして、各集落には担当者が、具体例として計画ステップや行動計画書と行動計画表等の書式を紹介した。この作戦は的中した。役場の担当者とコンサルタント2名は、住民の計画づくりを見守った。村の開闢以来の大作業は住民主体で展開した。(『よみがえるコミュニティ』P93)その様子を杉万先生が記録されていた。

《「ゼロ分のイチ村おこし運動」への助走が始まって半年くらいたった1996年12月8日、前橋氏(CCPT代表)の還暦祝いの会が、地域と科学の出会い館で開かれた。会もたけなわになったころ、今後の抱負を語る中で、前橋氏が言った―「ゼロ分のイチは、CCPTの第2幕だ」。智頭という町を舞台に、CCPTという小集団が、猪突猛進、身を持って能動的な地域づくりを実践して見せた最初の10年が、第1部。そして、第2幕では、最小コミュニティ単位の集落に、その能動的姿勢が移植され、住民自治の根を張りつつある。》

杉万先生は智頭町の変革を常に観察された。それでは集落では何が起こっていたのか、早瀬集落の情報紙「夢ステージ早瀬」と「村づくり情報」を紹介する。

(1). 1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》

(2). 1997年12月20日発行:村づくり情報18の「動かなければ出会えない」から抜粋
《なんと「1,892人!」・・・この数字は、早瀬の村づくりのために動いた延べ人数です。その説明をしますと、平成8年8月29日に村の総寄合から委任された「ゼロイチ村おこし運動」について第1回検討委員会に参加した人から、平成9年12月14日の「ふるさと便り」の発送事務をした人数です。内訳は、役員会231人、委員会活動や部会活動・イベントなどに参加した人が1,093人、ボランティア活動に参加した人が568人となっています。この数字は事務局が記録している「活動記録票」から拾い出したので、かなり正確なものです。なお、早瀬集落以外から参加した人も数えられています。「在所(住むところ)に幸せを求めて喜びを創り出す」のがもっとも堅実な生き方です。メーテルリンクの「青い鳥」のお話でも、チルチルとミチルのきょうだいは、方々を探し回った挙句、自分の家に「幸せの青い鳥」を見つけて「ハッピーエンド」でした。私たちの村を幸せな村にしょう・・・これが村づくりの活動です。それにしてもたくさんの人が動いたものですね。》

(3). 次のステップに向けて、地域計画づくりにおける「地域経営」の概念
過疎化への起爆装置は、「集落振興協議会」と「地区振興協議会」の設立にあると考えた。地域の起死回生策として社会的紐帯の機能を模索していた。そして、CCPTの活動から、住民が地域を主体的に経営する概念を培った。そこで地域計画として、①は、住民自らの一歩による「住民自治」である。②は、地域資源を活かす「地域経営」である。③は、意図的に情報発信を行う「交流情報」の三本を、地域計画の要諦として提案した。つまり、1989年の第1回の杉下村塾の開講テーマに「地域経営」を掲げ、地域の課題を希求すれば必ず起死回生策が起こると期待していた。そして、いよいよゼロイチ運動によって地域理念(アイデンティティ)が復興する。

地域には、例えば農業経営はJAが、山林経営は森林組合が、商店経営は商工会が、企業経営は銀行によって経済循環している。地域福祉は社会福祉協議会、運動部門は体育協会、芸術文化部門は公民館である。財産区議会は山林等の管理である。すべてに社会形成されていると思っていた。ところが地域を主体的に見守っているのは一体誰なのか、町会議員なのか、役場職員かと、地域の主体を誰が持っているのか、地域の主体者(主宰者)は誰かととことん考えてみると、それは住民ではないかと思い至った。

住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごとで価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営の視点で捉えられてきた。地域の「運営」と地域の「経営」では異なる。例えば、住民が主体を持ち地域の経営者として仮定すれば、当然、地域の資源の価値を問う運動が必要である。つまり、地域経営とは地域に内在するあらゆる資源であるヒト、モノ、コト、技術、文化、社会システム等の価値を引き出す概念である。地域経営の観点を持つことによって、人財や資源や経済が循環し持続可能な社会が創造されると考えた。実験的であったが、ゼロイチ運動の計画づくりの必須要件として、「住民自治」「地域経営」「交流情報」を設定した。

3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた

ゼロイチ運動は1997年4月に7集落が、「〇〇集落振興協議会を智頭町の認定法人とする」(みなし法人)と指定を受けてスタートし、2011年まで(14年間)役場の助成が行われた。本運動を導入した集落は88集落の内16集落である。その内1集落は途中でリタイアしたが、15集落は堰を切ったように事業を展開し、報道発信を行った。集落ではゼロイチ運動をどのように受け取っていたのか、中原集落の中澤皓次氏が長老支配から脱却した様子を語っている。

(1). 中原集落の場合
《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》(『創発的営み』第2章6)

《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》(『創発的営み』第2章7)

 そして、中原集落では財産(山林)の配分ルールが変更されていた、長老支配を脱却した証拠である。ゼロイチ運動が集落運営に大きく影響していた。水戸黄門の印籠をつくる戦略は的を射ていた。ヒアリングによって中澤氏の証言に驚嘆した。まさに革命であった。

《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにしても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けとなった。》(『創発的営み』第2章5)

《親水公園のキャンプ場の目玉事業であるログハウス建築の第1期工事は、2005年秋から2007年7月で、間伐材150本を山から切り出し、手造りで建てた。作業人員は延べ460人、日数は28日間にも及んだ。この作業は危険を伴う重労働であったので印象深く思い出すことができる。何に一番腐心したかと言えば、怪我人を出さないことであった。そのため、酒を飲んでいる者、トロトロしている者、足手まといになる者は作業をさせなかった。怪我をしないように、場合によっては「もう帰れ」と厳しく言った。もし怪我人がでれば、「それみろ、怪我人がでた」と言われ事業がストップする。怪我人を出さないように細心の注意を払い、緊張感をもってやった。この事業は、この作業に携わった人々の汗と涙と、集落への思いと、誇りの結晶だと思っている。殆どの人は憎まれないようにやっているが、特に危険を伴う作業はいろんなことを想定して、自分が憎まれっ子を買って出た。一人の怪我人も出さなかった。ログハウスを建築するころから集落の女性の協力が得られ始めた。間伐材を切り出して中原神社の前まで運び、そこで一度組み立ててまた解体し、横瀬の谷の親水公園まで運んでいた。昼食はそれぞれ自宅に帰って食べていたが、その内、村の女性の有志は一生懸命に頑張っている姿を見て、自分たちができることをやろうと、カレーライスや丼物などを作ってくれた。自然発生的に始まった昼食の賄いの支援は、中原集落のゼロイチ運動の求心力を高め、結果的に集落のまとまりを一段と強くしていくことに一役買った。ログハウス建築の総工費は、175万円だった。内訳は寄付金96人で73万円、緑化推進委員会から10万円、キャンプ場収入5万円、自己財源87万円で、竣工式は2007年7月21日。初夏のまぶしいばかりの太陽の下、親水公園に歓声が上がった。》(『創発的営み』第2章7)

(2). 早瀬集落の場合
〇2012年8月発行:「ゼロイチ運動早瀬ものがたり」から抜粋
村おこし運動の年譜「10年間における人の動きのトータル」
《役員会114回延べ1,162名、部会27回延べ204名、委員会57回延べ609名、ボランティア延べ8,750名の参加者を数える。10年間のゼロイチ運動期間中には、外部からの視察79件、講演11回、大学生の卒業論文への資料提供など、わが村を説明する機会があった。夢ステージを語るに当たっては、計画した目標値を素材にすることが多く、実態との差を意識させられた。その意味において却ってこちらが足らざるを反省したり、新しい意欲(勇気)を湧かす機会としたと思う。》とあった。

〇2006年11月から12月:役員会によるゼロイチ運動総括[ゼロイチ村おこしで良かったこと]
➀ 理念として
・アンケートによる計画の策定は村始まって以来の事であった。
・ハードづくりに力を結集することで村のシンボルができ、村の意欲が揚がった。そして、ハードはソフトづくりから始まることがわかった。
・村おこしは経済面で計り知れない価値がある。
・ゼロイチ運動は終わるが、その過程で始まっているものも数多い。
② 自治会活動として
・「太陽の館(公民館)」の建築省エネ・自然エネルギー利用であり、若い人の力である。
・「東屋・竹炭窯・焼肉ハウス・いきいきサロン」の建設を成功させた。
・シンボル的なもの(交民の館・バス停・東屋など)に係わって沢山の動きが出てきた。
・自治会を発足させることで、土地の名義変更や税金対策ができた。
・葬儀の運営が合理化できた。・歳を忘れて皆よく頑張った。
・アンケートを半数以上の者が書いてくれたこと自体が素晴らしい。自分の村だからできた。
・盆典にたくさんの若い人が参加してくれるようになった。
・各土居が共同して動くことができるようになった。
・青年層の活動(公民館活動・盆典・消防団など)が盛んになった。
・村の歴史(古文書の保管で過去、村づくり情報で現在)を記録として残せた。
・ふるさと便り・村づくり情報は村の歴史となり、素晴らしい記録となった。評価すべきことだ。
・村づくり情報は「時の証言者」だ。後世にも大層な価値を持つことになる。
③ 交流活動について
・集落放送や村づくり情報などによって、情報公開ができた。
・人々の和(絆)が広がった。
・大阪自然教室と集落内で交流できるようになり、また収入も確保することができた。ゼロイチだからできた。
・外からの視察で、村の足りないところを意識することができ「自分を知る」ことに繋がった。
④ 集落運営について
・「太陽の館」の掃除が皆の協力により順調に行われるようになった。
・竹炭・味噌・給食等、自立したグループの結成と活動が良くできた。
➄ 組織運営について
・会長が辞めた後、事務局に入る人事の流れは良かった。
・ゼロイチ・うるおい事業の会計が詳細に記帳されており、担当された方に感謝したい。

〇2006年末:「活性化策5項目」を総寄合に提案
役員会のアンケート集約から、早瀬集落のゼロイチ運動10年を整理し、5項目を提案した。
①村の運営を早瀬自治会で行う。②自治会規約を制定する。③地方自治法260条の2項の地縁団体とする。④公民館(太陽の館)と、東屋(除雪機格納庫)の土地を法人登記する。⑤自治会長は自主的に立候補する。5項目が承認され翌1月から実行された。

〇2007年2月発行:「ふるさと情報・ふるさとだより」第40号から
「早瀬のゼロイチ運動に寄せて」から抜粋 杉万俊夫(当時:京都大学総合人間学部教授)
《・・・ゼロイチ運動の成果として新しい公民館(太陽の館)が誕生し、その「太陽の館」を管理するために自治会(地方自治法260条による法人)が結成された。そして、昨年末、その自治会に、ゼロイチ運動の組織である集落振興協議会のみならず、旧来からの寄り合いも包摂されることになりました。これら一連の動きは、昔からの伝統的な集落運営とは明らかに違う「もう一つの道」を早瀬集落が生み出したことを示しています。もちろん「もう一つの道」をいかなる道にすべきなのか、それを完全に見通せる人間など、この世には存在しません。それこそ早瀬の住民自身が試行錯誤を重ねながら、探し当てていくべき課題でしょう。「早瀬はこのままではだめだ。自分たちで動かんといかん」—―10年間のゼロイチ運動は、今は亡き老人の言葉を10年前よりも高い次元で受け止めさせてくれたように思います。》

〇2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代早瀬集落振興協議会長 長石昭太郎氏

《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》

早瀬集落の記録の編集は、全て初代会長の長石昭太郎氏による。「早瀬村づくり情報」は計第265号(第平成9年2月7日から平成19年3月26日まで)と、「早瀬自治会だより」は計第135号(平成19年4月23日から平成30年4月23日まで)が発刊され、更に冊子として編集された。50世帯の小さな集落の村おこし物語は、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈された。これらの記録を地域経営で評価すればいくらの値になるか、とんでもない価値である。長石会長曰く、「わしの70代はゼロイチ運動だった。」と語られた。

(3). 二つの集落から見えたこと
地域への思いが、地域理念(アイデンティティ)を復興させた。過疎問題が論議されるが、どうしても過疎化や人口減少に関心が持たれがちである。しかし、いくら過疎化・高齢化・少子化を負の面から論じても意味はない。何歳になろうとも常に目標を掲げて挑戦することである。杉万先生は早瀬集落で80歳の古老との出会いを紹介され、目標を持って挑戦することが大切であると説かれた。また、中原集落では財産の配分ルールが変更されていた。その分母となる定住期間を、意欲論で昇格させる方法を集落(長老たち)は認め、まさに革新を起こした。一つひとつ事業を起こすことによって人々が引き寄せられ、集合流が生まれ、集落がコンセンサスを得ていく、そのプロセスが繰り返えされた。ゼロイチ運動という過疎化の起爆装置は、住民が発信した創発規範に互いが共振し、集落丸ごとで覚醒化、葛藤化、攪拌化を体験した。まさにエマージング(創発)が起こったと言える。

4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ

2002年から2004年まで、合併か単独かと揺れた。智頭町の単独合併論争は寺谷元町長の信任闘争であった。町会議員の一人ひとりに自治権が委ねられた。町は異様な空気に包まれた。ここに合併に関する分析論文がある。(『アクションリサーチにおける質的心理学の方法によるセンスメーキング―町村合併で翻弄された過疎地活性化運動の再定位』―東村知子【心理学評論2006.Vol.49,No.3,530-545から】)

《第一の町長批判については、合併論者であった町長が、住民に何の説明もなく突然単独を表明したこと、すなわち合併問題が一部の人間だけで決められていることを徹底的に非難する。そしてその訴えを、第1ラウンドと同様住民の声を通して行う。》

《「住民のこえ、声、こえ、声・・・」あれだけ「合併、合併」と大合唱していたのに、急に「単独」と訳が分からん。・・・合併の相手が鳥取市だろうと八頭郡であろうと住民は一緒だ。「八頭郡、八頭郡」と言っていたのは町長、その時から住民の意見はもう入っていない。》

《・・・「我々に残された選択肢は、『より大きな不幸をとるのか、より小さな不幸をとるのか』しかないのです。合併は、より小さな不幸を選択するものであります」と述べる。このように合併派は、合併がいいとは決して語らず、自分たちは好んで選ぶわけではないこと、また、合併は自分たちのためではなく「子や孫のため」の苦渋の選択であることを強調する。一方、単独派は「お金で私たちの街を放棄したくありません」(議員の声)と主張し、財政問題を強調する合併派に対抗して、それが重要問題ではないことを訴える。ただし、チラシの大半は合併への反論となっている。単独派「創る会(語る会)」は、合併派「生かす会」の代表であるY氏にチラシ上で公開質問状を出し、名指しで批判する。特に、「合併のメリットを示さず、合併協議会にみちびくのは邪道」、「協議会で合併の是非を決めるかのような署名集めは方便」のように、上で見た合併の「手段」を攻撃する。・・・》

合併協議会の設置について、「賛成か」、「反対か」、を問うた。住民投票の結果は賛成3,134票で反対は3,027票とわずか「賛成」が107票上回った。合併の是非を問う住民投票では「合併する」が3,143票、「合併しない」が2,953票と「合併する」が190票上回った。そして、2004年5月に寺谷町長は辞職した。鳥取県東部10市町村合併協定調印式で調印されたが、町議会は合併関連議案を2度否決する。2004年6月20日に町長選挙で合併派の織田洋氏が当選した。ところが、町議会は単独派が多数を占め、再び合併関連議案を7月8日に否決して単独となった。これで合併単独論争は終結した。2008年6月、再選に向けて寺谷誠一郎氏が第一声を上げた。傍から見ていると進も地獄、引くも地獄、絶体絶命の覚悟を感じた。論文-6、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)に当時の状況が記述されている。

《・・・選挙運動の期間から、「もう俺についてこいという時代は終わった。これからは、あなたたち住民が主役となり、住民と行政が一体となって町の未来を切り開くしかない」と繰り返し訴え、百人委員会の実現を公約に掲げていた。寺谷町長が就任してすぐに、百人委員会の募集が始まった。一般公募である。寺谷町長に未来を託した住民が次々と応募してきた。予想を大きく上回る142名の応募があったが、これは住民の町政に対する危機感と希望が入り交じった結果であろう。また「優れた企画に対して町が予算を付けます」というのは全国的に珍しい試みであり、インセンティブとなった。》

いよいよ首長の姿勢が問われた。創発規範がCCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へと伝搬した。智頭町議会の単独決議によって町は水を打ったように静かになった。それから4年、満を持して「あなたたち住民が主役」と第一声が聞こえてきた。

5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)

2010年に、論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)が公表された。杉万先生はゼロイチ運動の追跡調査を実施し、運動に参加する15集落の全住民を対象に、集落振興協議会の発足初期の2000年と、9~10年目に2回のアンケート調査を実施し、10年間のゼロイチ運動が分析・解析されている。

《10年間という期間設定は重要だったし、10年間という区切りは適切でもあったようだ。この期間設定がなかったら、あれほどのエネルギーを動員することなど不可能だっただろう。われわれ筆者は、ゼロイチ運動という舞台が設営されたことによって多くの役者が登場するのを目の当たりにしてきた。よく人材不足を嘆く声を聞くが、「よい舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」というのが、われわれの実感である。》

運動期間を10年間に区切ったことによって爆発的なエネルギーとなり、集落は創発規範を発信した。もしも、「事業」としていたら単年度で終わっていただろう。期間を10年間としたことによって大きな成果があった。つまり、集落に地域計画を通じて主体が生まれ、人材が人財として育っていた。このことは集落に限らず他の組織づくりにも応用できる。つまり、旧村単位の地区振興協議会の設立に向けて試案となった。論文-3の「要約」に成果が分析されている。

《その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使い分けていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動等によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言力が増したことが見出された。》

これこそゼロイチ運動の成果と、論文-3の「3.考察」に示唆があった。

《別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

ゼロイチ運動を10年間継続したからこそ確認できた。つまり、集落に新しい自己実現の場を得たことは人生の価値である。想定を超えた成果となった。そして、2006年末には文章化された早瀬集落振興協議会の運動総括(前記3. 「ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた」)と、合わせて、杉万先生からアンケート調査結果の途中説明を受けた。そこから、本命の地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。すべての価値が手元にあった。

地区振興協議会の構想は、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間とし、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点とする。⑧運営要領等の仕組みづくりを委ねる。と要点を整理した。

6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか

論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)、1(3)b「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」から要点を抜粋した。

➀ 地域経営-P44
《地域を経営の視点で見直すと、地域には結構な資源を見直すことができる。ある集落では、かつて集落で栽培されていたギボシという山菜の栽培を復活させた。「20-40歳代の女性を中心に」ということにはなったものの、いかんせん、ギボシ栽培などやったことがない。そこに登場したのが、70歳以上の女性たち。昔とった杵柄(きねづか)が発揮されるとともに、それまであまり接点がなかった高齢女性と若年女性の間に交流が始まり、高齢女性もゼロイチ運動に参加しだした。この集落以外でも、竹炭、餅、地酒など、それぞれの集落の資源を活かした特産品づくりが行われた。》

《集落で古くから行われてきた伝統行事も、集落の貴重な資源になる。ある集落では、集落の寺にある地蔵(何か考え込んでいる風情の地蔵)の祭り「考え地蔵祭り」を地域経営の起爆剤に選んだ。集落内部の祭りを集落外にも開放し、積極的に集落外・町外からの参加を呼びかけた。今では、よその集落も出店を出すなど、当初は考えられなかった人数が祭りを訪れるようになった。祭りの最後には、盛大な打ち上げ花火も行われるようになった。》

《その葬儀のやり方に対して、ゼロイチ運動が問題提起を行った。葬儀のやり方について、真剣な議論がなされ、何をどう守っていくか、どこをどう簡素化するかが決定された。用意する小道具も、一つ一つについて図解入りで、簡素化の詳細が定められた。また、参列者に振舞う料理についても、喪主が気兼ねをしなくてよいように、品目と量の目安が定められた。こうして、数ある伝統の中でも、まさにアンタッチャブルと信じられてきた葬儀さえ、ゼロイチ運動によって再創造された。再創造されることで、葬儀屋に依存することなく、「集落住民の手によって葬る」という伝統が守られたのだ。》

② 交流交流情報-P45
《集落外との交流には、積極的に情報発信していくことが必要だ。ある集落では、集落のゼロイチ運動をインターネットで発信するために、ホームページを作ろうということになった(当時ホームページ作成は一般のパソコンユーザに普及していなかった)。そこで一躍中心になったのが、電気関係の会社に勤めている一人の人物だった。その人物は、集落にもゼロイチ運動にも、さしたる関心をもっていなかった。しかし、ホームページ作りという舞台が用意され、その舞台の上で自らの持ち味を活かしたすばらしいパフォーマンスを発揮した。その人物は、後に集落振興協議会の会長にもなっている。》

《集落を越えた交流は、集落間の協同にもつながった。ある地区(旧村の一つ)では、4つの集落がゼロイチ運動に参加していた。ゼロイチ運動を開始して数年が経過した頃から、これら4集落が互いに連携し、ネットワーク組織を形成した。互いに集落のイベントを手伝い合う、毎月一度、隣接する岡山県との県境にある峠のドライブインで各集落の特産品を持ち寄って朝市を開催するなど、ネットワークの強みを遺憾なく発揮した。またそれによって、高齢者が多い集落は、他の集落の中堅層のサポートを得ることができる、各集落独自の持ち味を組み合わせてイベントを開催できるといったメリットが生まれ、単一の集落では見られなかった相乗効果が発揮された。自らの集落を考える上で、他の地域の取り組みは参考になる。ほとんどの集落では、おもしろい取り組みを行っている地域を訪問し、自らの糧とする視察旅行が行われた。また、都市部の住民との交流、近郊都市の大学生との交流、あるいは、外国人との交流も行われた。》

③ 住民自治-P46
《当初のリーダーグループの範囲を超えて(リーダーとなりうる)人材の裾野が広がるか否かは、運動開始から数年間の大きな課題であった。リーダーは集落に登場するのでなく、集落が育むものである。大きくても数10世帯という集落は、いわば固定メンツの世界である。その固定メンツの中から一人でもリーダー候補者を育むことができるかどうかは、運動の推移を大きく左右する。まず、ゼロイチ運動以前から集落活性化を模索していた団塊世代グループは、同運動を追い風にしつつ、リーダーとして成長していった。ここ数年、それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

《一方、従来からの男性優位の集落運営に対して、ゼロイチ運動によって女性たちも集落の活動に参加し始めた。その中からは、女性グループで行う活動のリーダーが生まれ、彼女たちの中からは、男性とともにゼロイチ運動のリーダー的役割を担う人も登場した。・・・2つの集落では、ゼロイチ運動が開始されてほどなく、婦人会が消滅した。婦人会は、全国組織として、都道府県単位、市町村単位に設けられ、集落婦人会はその末端に位置している。その運営は、基本的に、上位機関からのトップダウンによって行われ、イベントごとに動員がかけられる。上からの動員には辟易させられつつも、やはり女性が活動できる数少ない場として、婦人会活動は継続してきた。・・・少なくとも、脱退を考えるなど皆無であった。そこにゼロイチ運動。女性も、男性と平等に、しかも個人の資格でやりたいことを仲間と考え、実行に移せる。そこには、上位機関から動員されて、たまたま時間をともにする活動では得られないおもしろさがある。もちろん、意見が対立する場合もあるが、それでも一方的な動員による活動とは比べようのない魅力がある。なぜ、婦人会などに加入し続けねばならないのか・・・そんな疑問が生じても無理からぬことであった。ゼロイチ運動で育まれた積極性は、長いものに巻かれるのではなく、「いやなものはいや」という意思表明をも可能にした。》

《ゼロイチ運動では、「既存の伝統的集落組織を捨てて、ゼロイチ運動組織(集落振興協議会)に移行する」という発想ではなく、「あえて新旧両方のわらじを同時に掃いてもらう」という戦略が取られている。すなわち、新システムの集落振興協議会は、決して伝統的システムを排斥することなく、伝統的組織(公民館、婦人会、青年団、老人クラブなど)をも包摂する形をとっている。住民が、新旧両方のわらじを経験した上で、自らがはきたいわらじを選んでもらう(場合によっては、新旧両方わらじの経験から第三のわらじを作ってもらう)という意図がこめられていた。》

《ある集落では、ゼロイチ運動によって、寄り合いに劇的な変化が生じた。その集落では、ゼロイチ運動への取り組みが評価され、県の補助事業をうけることができた。その補助事業によってボロボロだった公民館を新築し、ソーラーシステム完備の公民館を建築することができた。この新しい公民館を維持管理していくために、地方自治法第260条(地縁団体による集会施設等の不動産保有に関する権利と義務を規定した法律)に基づく自治会が結成された。そして、ゼロイチ運動10年目を迎えた2006年、同集落は、集落振興協議会と寄り合いを合体させ、自治会に一本化することを決定した。ゼロイチ運動の成果である公民館を維持管理するために設立された自治会が、集落を代表する組織となったことは、ゼロイチ運動が寄り合いを換骨奪胎し、自治会として発展してきたことを物語っている。》

《1997年、ゼロイチ運動がスタートして以来、同運動に参加する各集落で住民主導の姿勢が貫かれた。確かに、町役場には、ゼロイチ運動をサポートする部署が設けられ、1-2名の職員が配置されたが、そのサポートが軽微の域を出ることはなかった。》

その通り、ゼロイチ運動の価値が真に理解されているとは思えなかった。しかし、毎年3月、「ゼロイチ運動活動発表会」で、住民が発表する内容に圧倒された。ゼロイチ運動はきっと成果があると確信していた。仮にトップが代わろうともゼロイチ運動を止めることはできない。必ず人財は生まれる。その通りとなった。

《それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

2004年、智頭町は議会の単独決議によって死守された。ゼロイチ運動の企画前の集落の状況を一言で言うと、集落は自閉していた。住民は無関心で他力本願、集落運営は無計画であった。共有する地域に住んでいながら、個々ばらばらである。そして、旧態依然の規範に縛られていた。これらの現状を打破するため、自ら立てた計画に基づき実行する集落活性化運動を考案したのである。つまり、ゼロイチ運動は無責任な集落の運営を、責任ある集落経営に切り換える運動である。住民はゼロイチ運動の10年間、集落という舞台で知恵と行動力を発揮し創発規範が生まれた。そして、社会システム(仕組み)が集落に奇跡を起こした。

杉万論文は、ゼロイチ運動の発足初期と、9-10年目に実施された2回のアンケート調査によって考察されている。この論文-3から集落活性化の方策が読み取れる。ゼロイチ運動の最大の成果として、2-3割の人が、新しい自己実現の場を得た。また、少子高齢化が進む集落にあって明るい将来展望となったこと、女性の発言力が増したことが見出された、とある。住民が自己実現や明るい将来展望を持ったことが、運動の特色として上げられる。

7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」

ゼロイチ運動の本命は、地区振興協議会の設立にある。2007年秋、山郷地区の住民に打診して、事前の打ち合わせ会を持った。ところがいくら説明しても、有力者からできない理由の発言があった。住民感情の中に単独合併論争が根強く残っていた。それらを乗り越える企画がいる。年末、大呂企画課長の尽力によって、企画書と規約の二点が町議会に諮られ、議決された。企画書の「2運動の意義(次代の要請)」に、「偉大な創造」が提案されていた。

《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》

「偉大な創造」の一文は杉万先生が加筆された。そして、規約案の第1条(目的)に「ゼロに帰するか、イチを守るか」は、岡田先生の加筆による。住民に決起を投げかけた。

《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》

地区振興協議会の企画書と規約で、領域自治システムの発足が宣言された。企画書の策定に当たった大呂企画課長は、役場内の企画書の調整と議会対策を担った。悲壮な決意が表情に表れていた。私は「貴君の将来のポジションづくりだ。」と励ました。1989年にスイス山岳地調査から満18年が経っていた。おそらく、地区振興協議会の設立は、過疎化に向けて拠り所となるだろう。草莽決起の檄文である。企画書と規約で住民に覚悟を促した。

2008年4月、地区振興協議会(住民の自主選択)は、まず、事前対話を図った山形地区と山郷地区で設立された。次に2011年に那岐地区が、2012年に富沢地区と土師地区に設立され、町内6地区の内5地区で設立された。どの地区もよちよち歩きである。しかし、確実に一歩を踏み出した。そして、5年後の2013年12月に、論文-5、「旧村を住民自治の舞台にー鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例」伊村優里・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)の「5.考察」に、社会システム(仕組み)づくりの企図が解析されている。

《・・・「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。》

地区の人々に社会システム(仕組み)の運営要領等を委ねたことは、賢明な判断であった。住民が主体的に地区振興協議会を立ち上げ、地域理念(アイデンティティ)とウェルビーイングを手繰り寄せた。社会システム(仕組み)が人々を「偉大な創造」へと導いた。

8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み

地域活性化は、意欲論や感情論で持続性や継続性は起こらない。ましてや経済オンリーの価値観で覚醒化などない。地域の持続性を考え社会システム(仕組み)創造に、地域づくりを特化した。ところが、飯が食えん者が余分なことをするな、何にもならんことをするなと揶揄され続けた。私から言えば大きな家に住み、美味しい物を食べ、何時になれば豊かさをつかむのかと聞きたい。つまり、地域への無関心はだんだんと地域の誇りや地域理念(アイデンティティ)を欠落させた。その誘因は実は一人ひとりの生き方にあるとみた。アンチ経済論である。

1997年に集落振興協議会を設立し、次に2008年に地区振興協議会が設立された。これら住民自治システムに影響を受け2008年には行政主導により、住民の発想を活かす「百人委員会」が起動(委員は自主的参加)した。百人委員会では住民の企画提案が通れば、役場職員と協働で事業が実施され、「智頭町もりのようちえん」など数多くの施策が生まれた。

(1). 集落振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)
企画書の「3 各振興協議会のメリット」
➀智頭町の認定法人~智頭町役場と村おこし事業の窓口を務める。
②活動経費の支援~活動の2年間は地区100万円、集落50万円のソフト事業費(運営費)を助成する。
③リーダーの民主的選出~住民の総意によって3年間の任期でリーダーを選出する。
④村おこしのための運営団体の組成~各種団体を包含した組織とする。
➄アドバイザーの派遣~村おこしのためのアドバイザーと町職員を派遣する。

(2). 地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第5章)
企画書の「3 事業概要」
➀実施内容:地区(小学校区)単位で、ゼロイチ運動を推進する住民組織として「地区振興協議会」を設置し、自ら描いた「地区活性化計画」に基づき行政と協働しながら、住民自治や地域経営力向上に資する事業を幅広く戦略的に実施する。
②事業主体:地区振興協議会
③助成期間:10ヶ年(初年度に「地区活性化計画」を策定・認定する。) なお、計画は3年ごとに見直しを行う。

(3). 智頭町百人委員会
論文-6要約、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)

地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。
➀百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。
②百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政策の実行・実現にも当たる。

9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置

地域を地理的な視点で見ると、旧小学校区単位に地区振興協議会を設立する意図が分かる。智頭町は、戦前から終戦直後の「昭和の大合併」(1953-61年)で、当時の6つの村が合併して形成された。それら旧村は、現在、地区と呼ばれ、維持されている。渓谷の川筋添いに集落が点在し、一つの地区は、10から25の集落がまとまり、風景が共有できる空間である。旧村に小学校が置かれていたが、2012年1校(智頭地区)に統合された。

智頭町は93%が山林である。鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の最上流部の「山郷地区」は、岡山県の西粟倉村に隣接している。支流の北股川に「山形地区」があり、鳥取県八頭町と若桜町に隣接している。千代川は町の中心部で合流し「智頭地区」を形成するが、南東から土師川が注ぎ、「土師地区」とその上流部の「那岐地区」は、岡山県の奈義町に隣接している。また、西側には新見川が流れ込み、「富沢地区」が位置し、隣接するのは岡山県の津山市である。まさに杉源境である。地区によって、隣接する県境地域の言葉や生活習慣に影響を受け、それぞれの地区が特色を持っている。私達が小学生のころは年に一度、六部会という一堂に会する運動会が開催されていた。地区振興協議会の企画時点(2007年)に、六部会を復興させようと話し合った。

地区住民は、企画書の「偉大な創造」「創造的昔帰り」と、規約案の「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて・・・の檄文をどう受け取ったのか、草莽決起を期待した。2012年までに5地区で地区振興協議会が設立され、創発拠点を獲得した。地域計画の柱とした住民自治、地域経営、交流情報は、過疎化の起爆材となった。

論文、「旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ」(集団力学研究所、 2021年 第38巻 pp.20-34)樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部, 准教授)

《要約~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。

本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》

10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業

特に2015年から智頭中学校生と智頭農林高校生が、2017年には鳥取大学が参画している。
【平成21年度】(2009)
〇智頭町に森のようちえんを作ろう!~ 森のようちえんを運営する。
〇智頭米を活かした国際貢献~国際交流を通して、子どもの奉仕の心を育み、道徳心の向上を図る。
〇智頭農林業活性化プロジェクト~特産物の発掘、間伐材の有効利用、森林セラピーの推進を図るための先進地視察を行う。
【22年度】(2010)
〇郷土由縁の作家「米原万里展」の開催~智頭町由縁の作家故米原万里氏を町民に広く知ってもらう機会として展示会等を開催する。
【23年度】(2011)
〇木の宿場「第2段階」への林地残材活用のための先進地視察~ステップアップに向けた調査検討する。
【25年度】(2013)
〇智頭宿ハイカラ・プロジェクト~智頭宿ハイカラ市を開催し、レトロカーを集め誘客促進を図った。
【26年度】(2014)
〇自分を生きる学校の設立!~まるたんぼう付属小学校~智頭町の資源を活用した特色ある週末型フリースクールの運営をする。
【27年度】(2015)
〇Wonderful People ☆in Chizu!!!~智頭町の達人100人を図鑑で紹介する。伝統継承や智頭町の魅力UPを狙う。(智頭中学校)
〇智頭宿の魅力アップ-格子製作及び藍染のれん製作-智頭町の職人の技を継承し、見直すことで魅力アップにつなげる。(智頭農林高校)
〇「ちのりんショップ」の取組から見えてきたもの、平成26年度に開店した「ちのりんショップ」の拡大を図る~開店1時間後くらいからオープンカフェを実施し、住民の憩いの場、高校生との会話の場を設け、商店街に人を呼び込みたい。商店街各店舗の「わが店の自慢の逸品」を各店舗と高校生とが共同で見いだし、ちのりんショップで紹介する。商店街の人の往来を活発にしたい。(智頭農林高校)
【28年度】(2016)
〇「杉のまち智頭」独自の薪ストーブ等購入助成制度の導入~智頭町の山をきれいにする重要な3点 ①林業環境整備、残材、担い手育成、②の残材・間伐流通について、搬出された材を「薪」として町内に流通させることにより、智頭材の地産池消と環境貢献に寄与するため、薪ストーブの導入に補助金継続する。
〇学びにも選択肢を!「新しい学校」を智頭町に定着させたい!サドベリースクールの支援。
【29年度】(2017)
〇智頭宿まちかどプラットフォーム構想~空き家のリノベーションとIT技術の活用~智頭宿全体を「生きた博物館」として環境整備するために、平野家の利活用を検討する。鳥取大学建築環境工学研究室のメンバーを中心に、それをサポートする職能者(鳥取大学教職員・建築士会等)で「ForestValley(フォレスト・バレー:FV)」を設立する。平野家利用に向け、清掃活動WS、もの作りWS(裏庭整備・杉玉作り・風鈴作り・木製看板等)等を開催。Code for Tottoriと協力して「オープンデータ・ハッカソンin智頭宿」を実施する。(鳥取大学)
〇きて・みて・とまって・またきんさい~民泊マラソンを通じて民泊の魅力を伝える。智頭町産の杉板を使用した距離表示、方向指示表示、給水所表示作りをする。マラソンパンフレットに高低差の断面をつけたマップを作る。民泊先にインタビューし、各民泊先の良さをパンフレットにする。中学生もチームを作って参加し大会を盛り上げる。給水所、エイド、ゴール関係では、給水所の増設をし、ゴールで消化の早い食べものをふるまう。(智頭中学校)
【30年度】(2018)
〇智頭町百人委員会『10年のキセキ』~10周年記念広報誌として、これまでの各部会の活動の軌跡をまとめあげ、全戸配布、主要公共施設に配置する。上記広報活動を通じて、町民にまちづくりへの関心を高めてもらい、百人委員会活動のPR、新たなまちづくりを実践する。百人委員会活動の存在と事業・活動などをより多くの人に知ってもらい、これまでの支援に対する感謝の意を伝え、これからの活動への参加のきっかけ・機会を作る。
〇“智頭は今日も元気です”計画[CKGK](シーケージーケー)~智頭オリジナルカレンダーを作成し、県内外への配布活動を通じて町の魅力を伝え、活性化を図る。カレンダーの上半分のデザイン(12ヶ月分)については、写真や絵、デザイン、文字などを組み合わせて作成する。毎月のカレンダー部分の下に智頭町HPなどのアドレスやQRコード、検索を誘うような名称を記載。 (智頭中学校)
【令和元年度】(2019)
〇「智頭歴史トランプ」を学校教育に!~子供向けの智頭の歴史を知るツールとして、遊ぶだけで分かる「智頭歴史トランプ」を作成し、智頭の小中学校を始めとする教育関連施設に配布し、智頭の歴史を知ってもらい、智頭に愛着を持ってもらう。小・中・学童等に80セット配布する。
〇”新智頭図書館プロジェクト「智頭町にこんな図書館があったらいいな」~新図書館開館に合わせ、智頭らしさを滲ませた杉しおり3,000枚を製作し、ノベルティとして配布する。(智頭中学校)
【2年度】(2020)
〇森のやっかいものを地域の資源に!!~狩猟者が捕獲したシカを解体施設に搬入、1頭あたり1,000円の謝礼を狩猟者に支払う。消費拡大に向けたPR、捕獲頭数の増加、革製品の商品化、獣肉解体処理施設を整備する。
【3年度】(2021)
〇智頭町宿まちかどプラットフォーム構想~アプリを使った「智頭宿魅力発信マップ」作り~
7事業実施、3,910千円

11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

私にとって地域は唯一無二である。時代のうねりの中で過疎化、高齢化、少子化が進行している。杉万先生は論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)の「考察」で、地域力のメルクマール(指標)について記述されている。

《そもそも2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じ、今世紀末には人口はほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繫栄のメルクマール、人口減少の衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとするべきなのか、ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

何を持って地域力のメルクマール(指標)とすべきか、提案されている。実はこの提案を考え紐解くヒントが身近にある。毎週日曜日、我が家で楽しみにしている番組がある。朝日放送テレビの「日本全国大捜索!ポツンの数だけドラマがある。」の『ポツンと一軒家』である。

《日本各地の人里離れた場所に、なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには、どんな人物が、どんな理由で暮らしているのか!?衛星写真だけを手がかりに、その地へと赴き、地元の方々からの情報を元に、一軒家の実態を徹底調査しながら、人里離れた場所にいる人物の人生にも迫っていく。1枚の衛星写真から、どのような人がどんな暮らしをしているのかに思いを巡らせるのは、MCの所ジョージとパネラーの林修。》

人里離れた場所になぜだかポツンと存在する一軒家がある。見ていると過去には数軒あったが、その後に燐家は山を下りて、ほとんど最初から一軒家ではない。ポツンと一軒家に住んで、山峡の地にあっても、生き生きと暮らし、豊かな人生が送られている。新しいメルクマール(指標)はポツンと一軒家にあるのではないか。どんな地域活性化論よりも説得力がある。それでは、地域で生き生きと豊かな人生とするためには、創発的な舞台がいる。それが提案する社会システム(仕組み)の創造である。1984年に一歩を起こし、身に着いた知識がある。持続可能な地域づくりに向けて6つの戦略に整理した。

(1) 企画力
企画力は、模造紙会議から「四面会議システム」(『ギブ&ギブ』第1章10、2章6)を考案した。企画は人々の知恵を集めることにあり、事業計画を立てる方法を工夫した。壁面に模造紙を張って半円形に座り、ペンも資料も持たない、前頭葉を上に向け、ブレーンストーミングで思いついたことを発言してもらい、模造紙に殴り書きした。1990年に智頭町出身大学生との交流事業で、参画型集団企画技法に体系化を考え、岡田先生の助言を得て四つの部門(総合管理・広報情報・人的支援・物的支援)に整理し、ディベートを取り入れ策定ステップを示し、四面会議システムを考案した。誰でも使える企画法を目指した。1996年にゼロイチ運動で早瀬集落振興協議会と、2008年に山郷地区振興協議会の計画づくりに活用した。

(2) 物事の本質をつかむ概念の共有
本書ではひまわりシステムと、ゼロイチ運動の概念図等である。事業の目的や趣旨を明確にする必要がある。図式化は主催者の思いを伝える法として有効である。物事の本質を図式化するヒントは、広島市の職場でミニ情報紙を発行しその価値を実感した。CCPTの事業でも積極的に概念図やイラストを活用した。それと耕読会で南方熊楠の因果律に出会い、日常会話で「因果」の語彙で会話するが、因果律として偶然は「曲線」で、必然は「直線」で描かれ、それらの交点が「結縁」である。起点は「因」で終点は「果」と表記されていた。(鶴見和子著『南方熊楠・萃点の思想—未来のパラダイム転換に向けて』)図式表現にこだわった。2015年に『まちづくりに求められる思考のデザイン』(『「地方創生」から「地域経営』へ)概念図81を編集した。

(3) 社会科学による住民意識調査の実施
住民の意識調査を実施した。企画や活動を持続するためには地域の実態を踏まえることが重要である。〇1988年に八河谷集落の住民意識調査を実施した。また、スイス山岳地調査後、〇智頭町の世代別の住民意識調査を1990年から1991年の間に行った。そして、杉万先生は〇1995年秋、CCPTの活動10年を解析し、〇2010年にゼロイチ運動10年を考察された。住民意識調査はCCPTの方向づけと、地域づくりの戦略構築に役立った。

(4) 資金の裏付け
事業の実施には必ず資金がいる。(1)から(3)を踏まえ、必要経費の概算見積もりを洗い出すことができる。スタッフはボランティアに徹することである。しかし、地域経営の視点から人件費の計上によって、事業価値の目安が把握できる。CCPTの活動では、青少年の海外研修派遣事業は住民から寄付を募った。木づくり遊便コンテストは中国郵政局と智頭町商工会(樹齢100年の智頭杉の寄付)の支援で、智頭杉日本の家設計コンテストの事業資金は智頭町役場の助成である。また、杉の木村ログハウス建築事業イベントは、智頭町役場と笹川平和財団にお願いした。「はくと・はるか・関空」シンポジウムは、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村と中国郵政局の協賛によって開催した。杉下村塾は一人3万円の参加費で、CCPT活動実践提言書の発刊は一部3,000円で300部を販売し活動資金に充てた。

ゼロイチ運動の見積もりは、集落版で1年と2年は50万円、3年から10年は200万円の計300万円で、導入予定集落は20集落で6,000千万円とした。地区版は1年と2年は100万円、3年から10年は400万円の計600万円で、導入予定地区は6地区で3,600万円とした。総計9,600万円を見積もった。年500万円の経費である。実質経費は、集落版4,500万円と地区版3,000万円の合計7,500万円であった。行政は単年度予算である。企画者の思いが10年間の補助事業を実現させた。また、集落振興協議会と地区振興協議会への予算付けは、「先渡し方式」を選択した。これは郵便局の民営化前の渡切経費システムを応用した。そして、グランドデザインの策定は、係わる人々と人生を賭けた一大プロジェクトであった。仮にマネジメントすれば、数千万円、数億円が見込まれる。僅か100万円である。

(5) 人材養成
人材養成は、1984年に一歩を起こし1988年にCCPTを設立、青少年の海外研修派遣のため「智頭町活性化基金」を設立して、5年間で34人を支援した。1989年から1998年の10年間に杉下村塾を開講し、1997年にゼロイチ運動による集落振興協議会の15集落の設立は、論文-3で、《よく人材不足を嘆く声を聞くが、「良い舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」》と、人財養成が起こった。そして、2008年に地区振興協議会がスタートし5地区が設立している。人財養成の舞台ができた。合わせて、百人委員会の企画実践が地域づくりの核心にある。つまり、これら社会システム(仕組み)は過疎化における起爆装置である。当初、地域の持続性を考える機関は役場以外にないと吐露したが、住民の地域への思いが、社会システム(仕組み)の地区振興協議会を実現させた。

(6) 広報戦略
広報戦略は地域づくりに大きく影響する。農山村社会では出る杭は打たれる。批判や中傷が村の噂となる。本人が居ないときを狙って無言電話がかかってきた。新聞に掲載されただけで新聞社に抗議の声が届いていた。これには人権意識を持って闘おうと思った。地元紙の報道課長は鳥取県に必要な動きだと応援を約束し、今日まで支援がある。心強かった。こんな声に負けないためにも広報戦略を考える必要がある。どんな小さな事業でも地元紙に投げかけ、その継続発信によって無責任な批判者は口を閉ざす。つまり、徹底的に情報の発信を行い、ルーティンすることだ。負の規範の粉砕である。2011年に京都市へ移住したが、一人の関係人口として―智頭町の集合体の自伝―をささやかに編んでいる。

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む

 1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む

そうしていたところ2010年3月19日、主治医の木村文昭先生(玉野市民病院)から電話があり、翌日、受診を受けることになった。右腎臓癌の告知だった。4月27日、岡山大学病院で摘出術を受け、命を救ってもらった。そして、妻の「京都に行こう!」に触発され、2011年3月末に郵便局を退職し、10月18日に京都市に移住した。

京都市内の新築マンションに入居した。戸数は48戸である。翌年の7月、たまたま管理組合の理事に就任した。京都市内のマンションでは自治会を設立することは難しいと言われていた。そこで、この機会にマンション自治会を立ち上げてみようと思った。きっと、「かやの理論」が応用できる。そこで管理組合の理事会が主体性を持たせるため、理事の任期の半数を一年延長し2年交代を提案した。全理事が賛同して仕組みができた。次に、自治会を提案しようと規約案を協議して、2014年2月14日に臨時総会を開き、自治会が設立された。

《ホップ》2012年~[できることから]
理事会に防火責任者の設置提案する⇒手を上げる。
東階段と歩道の交差の危険性を理事会に提案する。
防火責任者研修受講⇒翌年度消防訓練計画策定する。
植木の剪定の承認あり⇒剪定作業をする。
節電のために照明センサーと時間設定の変更等を調整する。
照明センサーの移設工事、承認される。

《ステップ》2013年7月[社会システムを少しだけ変える]
管理組合の役員任期を2年に変更、半数入れ替える。
臨時総会~2014年2月
変更、2022.7.31.第11期通常総会~管理組合役員1名が自治会役員を兼務する。
駐車スペース1台分を賃貸にすることを決議する。
変更、2022.7.31.第11期通常総会で管理組合と自治会~別々に開催することを決議する。
消防訓練の実施~2014年4月⇒家族状況調査を実施する。
総会で予算5万円自治会助成を承認する。~2014年7月

《ジャンプ》2014年8月~[具体的に実施する]
地蔵盆・クリスマス会を実施する。
ハロウィン実施する。~2015年10月
出水学区の防災訓練に自治会が参加する。~2015年12月
剪定作業を返上~2020年9月、作業を関さん家族が手を挙げる
管理組合が居住者調書を作成予定~2022.7.31.第11期通常総会に提案する。
大規模修繕工事⇒2023年3月~6月末
社会システム(仕組み)は大きく変える必要はない、少し変えることを心掛けた。ところが、コロナ禍で新たな課題が起きた、仕切り直しである。

 2. 創発規範の連鎖の拡大を検証

地域に規範の定点観察の視点がない。つまり、その後智頭町はどうなったのか、CCPTの創発規範は伝搬(『ギブ&ギブ』第2章7)したのか、ゼロイチ運動は地域にどのような影響を与えていたのか、創発規範の「贈与と略奪」の行方を知りたいと思った。2015年夏、田舎のパン屋さんタル―マーリーの渡邉格氏ご夫妻にお会いして、出会い館で「腐る経済」の話を聞いた。そのころ智頭町では「おせっかいのまちづくり宣言」が行われ、百人委員会に智頭中学校生、智頭農林高校生が参画していた。そして、2016年7月、地域経営まちづくり塾の参加者から松岡正剛氏の「QON DAY 2016」の講演を紹介してもらった。

《「エマージング」です。つまり、「創発」ですね。物質現象は水が氷になったり水蒸気になったりするように、液体が個体になる、液体が気体になるなど、状態のフェーズを変えます。ことを「相転移」といいますが、この時に起こっているのがエマージングプロセスです。》

地域づくりをエマージング(創発)と認識してから、明治大学教授の小田切徳美先生に連絡して、同年11月、京都駅の喫茶店で面談し、書評の快諾をいただいた。書名は「創発的営み」とアドバイスをもらった。翌年の2月にかけて共著者の澤田廉路氏にヒアリングをしてもらった。ゼロイチ運動が大きく影響していた。そうしていたところ、2019年7月、智頭町が内閣府のSDGsの未来都市に認定された。勇気を得た。地域の持続可能に向けて地域づくりに挑戦してきた。10月、『創発的営み』を出版した。早速、杉万先生から手紙をいただいた。

《1992年11月、みぞれまじりの中を初めて智頭を訪れてから今までのことが、走馬灯のように駆け抜けましたというか、もっと正確には、走馬灯の中で私の知ることのなかったことも含めて、大作の映画を見るような感じでした。岩波ブックレット(『地域からの挑戦』2000年発行)と今回の本を比べると、インターローカルへの贈与-略奪の連鎖の拡大が明らかですね。岩波ブックレットでは、CCPT時代から集落ゼロイチの最初の2~3年を書きました。それはそれで壮絶ともいえるスタートだったわけですが、今回の本では、それが軽やかに拡大していった成果が如実に表現されています。(1)岩波ブックレット、(2)集落ゼロイチの総括をした高尾・杉万論文、(3)地区ゼロイチの端緒を書いた樂木・山田・杉万論文、(4)地区ゼロイチの経緯を追った伊村・樂木・杉万論文、(5)今回(『創発的営み』)の本、というように並べると、壮大な絵巻物になりますね。(2)-(4)は集団力学研究所のホームページにあります。大学の講義には、格好の予習・復習の課題になるかもしれません。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第8章6)

杉万先生の提案を重く受け止めた、何とか実現したい。グランドデザインの報告書の編集で、主筆を務められた平山京子さんに協力をお願いした。翌年、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』で実践編・資料編・論文編を発刊した、大作業だった。2020年、智頭町「おせっかい奨学金」制度が発足し、高校や大学等への進学者に向けて創設された。通常より有利な金利で、ローン返済の利子については全員、元金は10年以内に町に帰ってきた場合には補助対象となる仕組みである。2022年6月、横浜市立大学国際商学部の吉永ゼミ等との交流を『ギブ&ギブ』に編集し、発刊した。「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店(旧那岐小学校「一般社団法人 那岐の風」)が、2023年春オープンに向け、マネージャーを公募した。地域は動いている。

3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策

(1). おせっかいのまちづくり宣言(広報ちづNo766から)
(平成27(2015)年12月1日「おせっかいのまちづくり」推進懇談会)
《私たちは、家族や親せき、隣近所、地域、学校、職場など様々な社会の中で、支え、支えられて暮らしています。近年、この支えあいの力が弱くなっており、また「向こう三軒両隣」の助け合いの精神も、忘れ去られているのではないでしょうか。私たちが幸せに暮らしていくために、これからは、少しの「おせっかい」が大事な要素になってくるのではないでしょうか。そこで、地方創生元年の今、町民が肩を寄せ合い、共に支え合いながら地域の人々が、心も暮らしも豊かに「智頭らしく生きていく」そして、訪れた人が町を好きになり「ホッと癒され」また訪れていただく、そんなまちを目指して「おせっかいのまちづくり」をここに宣言します。今日から、押しつけにならないように気をつけながら、少しのおせっかいを始めることで、「安全で安心な住み良いまち」をめざし、本日、ご参会の皆様をはじめ、全町民の方が積極的に行動していきましよう。》

【本町が推進する「おせっかい」】(広報ちづ 2020年9月)
『目配り・気配り・心配りのあるやさしさ『おせっかい』⇒「心が温かくなる」「優しい心を育む」』
【毎月1日「おせっかいの日」】
【おせっかい標語2020】『大賞~あいさつと、笑顔でひとこと“おせっかい”』

(2). 「おせっかい奨学金」スタート(智頭町ホームページから2021年6月4日)
本町は年間25人(2019年)の子どもが生まれています。しかし、高校や大学進学などで自宅から通えない学校に通う場合は、町を離れていきます。子どもたちが町に帰ってきたいという気持ち、大人たちの町に帰ってほしいという願いを叶えたい思いで、このパッケージができました。
〇10年以内にUターンしたら奨学ローン返済額が補助対象
町外の学校に通う場合、自宅から通う人より生活費が平均で月に4万5千円多くかかります。鳥取信用金庫(連携金融機関)の「おせっかい奨学ローン」を借りていただき、生活費を補填いただくことで、中山間地特有の条件不利な環境の改善を図ります。また、その利子については全員が補助の対象、元金については10年以内にUターンした場合は補助の対象となります。
〇おせっかい奨学ローン借入額
高等学校/毎月3万円
大学、大学院、専門学校等/毎月4万5千円
〇おせっかい奨学金をまちぐるみで積み立て
「おせっかい奨学ローン」返済額を補助の対象とするために、「おせっかい奨学基金」を創設しています。町の予算だけでなく、子どもたちのUターンを支えるために、寄附を募り、それを基金に積み立てます。
〇実施時期
2020年4月からスタート

4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流

2021年3月、横浜市立大学国際商学部の吉永崇史先生の吉永ゼミ等の皆さんが、智頭フィールド調査をされていることを知った。それではと関係書籍をお贈りしたところ、4月11日、吉永先生のメールに論文が添付されていた。

《筆者は、横浜に戻った後で、智頭町をフィールドとして研究してみたいと考えるようになった。具体的な研究テーマが思い浮かんだわけでもないが、直感的に、この“コミュニティ”に研究者としての魅力を感じたのだ。あえて言語化するならば、智頭町の人が、雰囲気が、洗練されている。その“ 洗練さ” は何によってもたらされているのであろうか。経営組織論を専攻し、とりわけ組織開発に関心を持つ筆者にとって、このコミュニティに感じるものが何なのかを知りたい、そのように思うようになった。》(横浜市立大学論叢社会科学系列2020.03.31:vol.71No.03)

これは凄い評価だと思った。是非とも吉永ゼミ等の胸をお借りして、智頭町の魅力と洗練さを探ってみたい、そこで地域づくりのダイジェスト版を編集して送った。学生諸氏はどう受け取ったのか、「かや(規範)」「贈与と略奪」「ギブ&ギブ」「おせっかい」「提案マネジメント」など、新しい語彙が感度高く受け止められていた。実は、インターローカル論で、実践の知恵は地域を越える。そして、吉永先生から智頭町住民との“対話”を重ねた筆者にある洗練さのイメージは、①歴史と伝統に裏打ちされた本物の暮らし、②暮らし(ライフスタイル)と仕事(ワーク)両面での専門家、③自然との共生、④他者への温かさと受容、⑤他者との関係性構築としてのおせっかい能力。と解析された。やり取りを編集して『ギブ&ギブ』を出版した。学生から感想文が届いた。

〇智頭町の「おせっかい」が訪問者を魅了して、再訪を促す重要な要素になると再認識した。
〇まず、ギブ&ギブの精神は、相手の反応を予期せず、捨てるがごとく行うべきである。相手の反応を期待するのではなく、自分がしたいからする。これは非常に大切なことであると考えた。
〇自分で1から作ることは簡単なことではない。しかし、行動を起こしたからこそ、智頭町が変わっていったように、自分や周りを変えたいのであれば行動すべきである。
〇ギブ&ギブの利他思想の背景には、エディターシップの実践があることを改めて強く実感した。
〇地域づくりの根本にある精神的支柱は「ギブ&ギブ」の利他主義にあるということを実感した。
〇本書を通じて、「エディターシップ」「四面会議システム」等からトップダウン的な一方通行ではなく、普段からは汲み取ることのできない動機を洗い出し、能動的なコミュニケーションから生まれる案や考え方の重要性を再確認した。
〇初めて智頭町を知った時に感じた智頭町のエネルギーや時代に対応する柔軟さは、過去にCCPTのような智頭に対する熱い思いが、今も受け継がれていると思うと地域活性化とは、単に経済的な成功のみではなく、志や信念があってこそ活性しうるものだと実感することができた。

感想文は一部の紹介である。なぜ『ギブ&ギブ』を編集したのか、それは学生諸氏が、積極的に地域と向き合ってほしいと考えたからだ。例えば、知恵や考え方がどうであれ、自分たちの姿勢によって地域は掘れば掘るほど価値が生まれる。それをつかむため智頭町と向き合ってもらいたかった。そして、『ギブ&ギブ』の出版で、改めて智頭町の魅力と洗練さは日々の暮らしや、隣人との関係にあると発信した。

5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現

私は、夢を実現するという目標を持っていた。精神的に良く持ったものである。こうしたい、ああしたいと夢見る、次にそれを実現するためにどうすれば良いかを考える。ちょっと踏み出してみる。また考えて一歩踏み出す、この繰り返しでやってきた。目標を達成するためにはあらゆる手段を考え、そこにやりがいを見出した。心の中に分け入ってみると、批判や中傷を受けてもなぜ持ったのか、それは物事の本質を知りたいと強く願ったからである。例えば、なぜ過疎化が起こるのかを問うた。導きだした対案は、一つは「誇りの創造」をテーマにしたゼロイチ運動である。そして、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の「おわりに、ウィズコロナと創発的営み」に経済の尺度とは異なり、地域には唯一無二の価値があると提案した。

《これから地球規模で人類の大移動が起こるだろう。その際に、本書で確認したことが活きる。つまり、どの地にあっても思いがあれば創発(エマージング)的な生活により、小さな小循環が生まれる。先人はそのことを体現してきた。地域は誇りありきではない、また、経済ありきでもない。私の先祖も貧しいから山の中で暮らしてきたのではない、逆に豊かな地だから何世代にもわたって営み続けてきた。それは、便利とか、不便とか、お金や時間の尺度ではない。家族、風景、環境など、他では得られない唯一無二の桃源郷の価値を、その地に見出していたからだ。つまり、農山村には人々が生活していく確かな安全・安心がある。おそらく、これから人々は真に豊かな地を目指す。》

地域は唯一無二の地である、人々にとって掛け替えのない価値がある。一歩、一歩、踏み出しながら確信を得て取り組んだ。私はすごく慎重(臆病)な性格である。勝算が立たなければ事は起こさない。①事前に、企てを緻密に図る。そして、②大胆に実行する。③物事の事後は、繊細に情報を収集する。この思考でルーティンを掛けてきた。そして、実現すれば達成感を共に味わい、人々と美酒に酔った。極限の中で「一隅を照らすは 国宝なり」と、1200 年前の思想に拠り所を見つけた。そして、山間の地での生き方に落とし込んだ。青年時代から行動規範とした「我在存宇宙」、我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス、つまり、命が亡くなればすべてなし。人々と向き合い、一文字、一文章、一つの仕組みに精魂を込めた。政府の過疎対策に疑問を持った。単に批判ではなく、この地に事実を作ることだと覚悟した。社会科学の学びの場から、役場と研究者等のプロジェクトからゼロイチ運動を発案した。社会システム(仕組み)の創造はウェルビーイングを手繰り寄せた。

知人で彫刻家の近藤哲夫先生は、2012年4月京都に来て半年経った頃、岡田先生の退官祝賀会に出席のため我が家に一泊された。その際、「この文字がすっと頭に浮かんだ。」と言って7枚の色紙をいただいた。『やっと一息』『ほっ』『礎』『きょうもよかった』『生』『道』『魁』と、薄い墨と金色の太い文字で書かれていた。京都に来て心情が定まらないことを見透かし、最高のプレゼントであった。後日、畳一枚の『魁』(さきがけ)の扁額が届いた。

私は帰郷後間もない時期に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年かけて議論し、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。その後、自分自身の行動指針とした。世の中で二兎を追う者は一兎を得ずと言われる、ところが「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」と三兎を追い夢中で走った。納得である。

 6. 地域の規範の「定点観察」、記録はメモから

第3回杉下村塾で、岡田先生はベクトル思考で問題解決の種子は水平思考にある。つまり、水平型ネットワークのエディターシップ(編集)で、全体と部分を考えることが大切である。(『ギブ&ギブ』第1章8資料-1と2)そして、地域活性化は(熱)(執)(冷)の視点がいると説かれた。

《CCPTは、間口を広げる水平思考をしながら、プロジェクトにより問題解決し、目標を達成している。つまり、ベクトル思考を持った集団と言える。地域を活性化するためには、ベクトル思考を持たないと問題は解決しない。ベクトル思考とは二つ以上の軸を持って考えることが、備わっているかどうかである。そして、ベクトル思考は「地域経営プロジェクト方式」であり、障害を乗り越え問題解決し、目標達成する力である。》

《地域を活性化するためには、(熱)(執)(冷)が必要である。(熱)とは情熱的なひたむきな心で、(執)とは目的を達成するための執念であるが、だいたい活動家と言われる人々には、この二つは備わっている。しかし、あと一つ(冷)、冷ややかに見る目をもっているリーダーは少ない。(冷)とは科学での分析、検証、評価である。いくら個人的な感情面で地域をとらえても真の活性化は起こりえない。》

(熱)(執)は知的好奇心を持つことである。私は物事の頭に「なんで・・・」「どうして・・・」と、言葉を置くことによって物事に強く関心を持った。関心を持つことが熱意につながり、解き明かそうとするところに執念が生まれた。大切にしたことは、熱い思い(感性)である。そして、夢見る(希望)ことである。次にこうありたいとビジョンを持つことによって、行動規範となった。つまり、実現へのステップは、 1.気づき、2.企画し、3.実践し、4.記録し、5.編集する、と5段階のステップを常に心掛けた。私にとって一番できないことは(冷)である。地域で(冷)を持つためにはどうすればよいのか、岡田先生は科学での分析、検証、評価であると言われた。それでは住民が(冷)思考を持つには工夫が要る。私の解決策は観察と記録である。兎に角、観察して記録した。今、このように本書をまとめることができるのも、行事予定表に30年分を記録しているからだ。メモのきっかけは1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。気づいたことをメモにとる。積み重ねたメモは定点観察となった。

そして、CCPT活動実践提言書は1989年から1998年まで編集した。年に一冊200ページ、10年間で2000ページである。資料は、一つの証拠でメモも積もれば力となる。これら提言書は智頭杉の木箱に入れ、山形地区振興協議会、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈した。智頭町づくりの自伝の記録となった。

もう一つ、講義で要旨が語られる。鵜呑みにするのでなく、テープ起こしをすると講義の本旨をつかむことができる。大変な作業だが、言葉を受け止めるから知識を得る。本書はその事例である。そして、関係論文や報告書から何を引き出せるか、特に要約と結語を読み込んだ。報告書では文章末の結語である。それでは論文等を私一人で解釈ができたのか、秘訣は、翻訳プロジェクトチームの編成である。小集団を組織して課題を共有しながら、議論を行い、素案をつくり、議論を重ね、素案を作成してコンセンサスを得た。行政施策は最終的に議決が要る。手数がかかる分、その施策に思いを込め地域理念(アイデンティティ)が醸成された。

7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング

1984年からCCPTが取り組んだ地域づくりの資料は、山形地区振興協議会 (電話0858-75-0343:旧山形小学校:)の『智頭町まちづくりレガシー館』に保存してある。新聞記事はアルバム20冊、企画に伴う書類ファイル、CCPT活動実践提言書(1989年版-1998年版)、書籍関係、また、拙著『ギブ&ギブ』の校正原稿の編集ステップも保管されている。そこで、大呂佳巳氏が地域づくりの語り部を務めている。(1988年、地域づくりの目標を「親の世代から夢は与えてもらわなかったが、せめて子どもたちに語れる町にしよう」と話し合った。)

読者に分かり易く伝えたいと思い大呂氏にインタビューした。その中で「智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。」と回答があった。感動したまさに結縁である。

(1). 地域づくり、大呂佳巳氏にインタビュー(2022.07.20.)
《私は現在、山形地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-4)の会長をボランティアで務めている。地区振興協議会は2008年にスタートした。2012年に旧山形小学校の校舎の管理を智頭町から受託して、旧校舎の活用を地区振興協議会の独自事業と、テナントで民間企業が展開している。自分が卒業した小学校の校舎で、時代の流れとは言え、まさかのまさか、地区における創発拠点として「山形共育空間」構想の実現のため、本当に、日々忙しく、楽しく遊び、学び、人生実現に向けて取り組んでいる、とても不思議な世界にいる。

翻って、1980年代の役場の雰囲気は、トップが「烏が白いと言えば白い、黒いと言えば黒い。」がまかり通っていた。どうあがいても封建体質に従うしかなかった。そんな中で、寺谷局長からまちづくりをしようと声をかけられたが、「智頭町ではまちづくりはできない。」と答えたのは、そんな空気を感じてのことであった。しかし、CCPTは1988年に、智頭杉「日本の家」設計コンテストを実施した。これまでの智頭町の体質とは全く違う、外の世界を巻き込んだ仕掛けだった。そして、役場の中に事務局を置くということで、総務課の一員として事業に当たった。次に1989年に杉下村塾が開かれ、研究者や科学者の方と議論をする機会を得て、将来に可能性を感じた。ところが、町会議員の選挙違反が発覚した。4年後に選挙違反をした本人が町長に立候補して当選し、その直後に元町長が県会議員に立候補して金を配り、再び町会議員が大量に逮捕されるという事件が起きた。

そんな時、第6回杉下村塾での提案をきっかけに助役が中心となって、1995年1月14日に智頭町グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクトが発足した。例え、トップが揺れようとも自分たちが地域プランナーとして、確固たるまちづくり理念を持っていれば振られることはない。本プロジェクトを役場職員は真剣に受け止めた。そして、智軸づくりプロジェクトから、杉トピア(杉源境)ちづ構想へと、次にゼロイチ運動の企画へと進展したが、その取り組みによって救われた。まさに、智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。1998年のCCPT活動実践提言書の表題に、「居合わせた者よ、いきさつの語り部となれ」とあるが、その示唆もあって母校を舞台に、今、『智頭町まちづくりレガシー館』の語り部を務めている。まずもって感謝である。自分たちが歩んできた智頭町の地域づくりの軌跡を、自分の言葉で語っている。こんな幸せを、地域づくりからつかむことができた。幸せは豊かな「かや」から生まれると、次の世代に是非とも伝えたい。》

(2). マンション自治、関さんにインタビュー(2022.07.20.)
《マンションに入居したのは2011年秋のオープンと同時だった。それまで京都市内に住んでいたが、近所の方に子どもを可愛がってもらい、大変親しくしていただいていたので、新しいところへ移ることに少し躊躇していたら、一番親しくしていた方から、「新しいところに行ったら、きっと新しい出会いがある。また訪ねてきたらいいよ。」と言ってもらった。その時、上の子は2歳だった。

そして、2014年に自治会ができて、8月の盆過ぎの日曜日、京都ではどの町内会でもやられている「地蔵盆」が催された。地蔵盆では親子で参加した。子どもたちは学校や幼稚園の関係ではなく、同じマンションでエントランスを走り回り、ペットボトルをピンに見立ててボーリングやゲームをして楽しんだ。あるお父さんは図書館から紙芝居セットを借りてきて物語を話して聞かせた。そして、終わりにはビンゴゲームで商品が当たるというおまけつき、我が家の子は、特賞5キロのお米を当てて喜んで帰ってきた。僅か2時間ばかりの地蔵盆だが、参加した親子は本当に打ち解けた。その次にクリスマス会である。クリスマスツリーの飾りつけから後始末まで、できる者が参加して手作りで会をやってきた。

そして、2020年にコロナ禍で全て中止になった。そんな時、当初は寺谷さんが植木の剪定作業をされていたが、家族で話し合ってみんなでやってみようということにした。まず、ツツジの花を咲かせるため剪定時期を考えなければいけない。家族総出で剪定後の後始末をする。上の子は小学校六年生、下の子は6歳だ。行き交う通行人に気をつけながら作業をしていると、マンションの大人や子どもさんから「ありがとう」と声が届いた。それから今春、剪定をしようとした日に上の子の陸上競技会があって、剪定する間、下の子を寺谷さん家に預けた。本人は何の違和感もなく遊んでいて、成長を見ることができた。このマンションに同じように住んで、少しみんなのためになることをすれば、感謝の言葉が返ってきた。そして、子どもたちもツツジや植木に関心を持って、他所の剪定の様子など親子の会話の話題にもなった。こんなマンションはどこにもないなあと言って、親子で年に2~3回、一緒に汗を流している。コロナ禍で自治会の行事は中止されたが、みんなと遊んだ思い出はきっと大人になっても覚えている、このマンションがふるさとになった。素晴らしい出会いに感謝している。》

智頭町では地域の自伝を書く人は貴重だと聞く。また、マンションでは寺谷さんのようなお年寄りから子どもたちに声を掛けてもらうと助かる。と、ささやかな利他精神の実践である。先に出版した『ギブ&ギブ』を、マンションの子どもたち10人にプレゼントした。入居から10年が経って、みんな10歳大きくなった。「かやの理論」や「こころと意味」や「エディターシップ論」は、何かに役立つだろう。隣の阪本ゆうき君は小学校5年生、『ギブ&ギブ』の感想を聞いた。どんな言葉を覚えているかな、「ベクトル、マズロー、おせっかい」とあった。「おせっかいは、ゆうき君を赤ちゃんの時から知っているので、本を読んでねと言ったことが良い意味のおせっかいだよ。ゆうき君に感想をもらうことでおじいちゃんも元気になった、ベクトル、マズローに関心を持ったことは良いことだ。それではもう一冊、『「地方創生」から「地域経営」へ』をプレゼントするよ、右から読むと「思考のデザイン」が書いてある、絵をみたら面白いよ。」と話した。こんなやり取りができるようになった。私にとって大切な交流である。

9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味

本書の編集に当たって佳境に入ったとき、まさに天啓が起こった。私の思いで一度は袂を分かったが大きな心で受け止めてもらった長尾眞文氏(元笹川平和財団主任研究員)に、2021年の出版時に、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』をサプライズ謹呈した。合わせて、先般出版した『ギブ&ギブ』を献本した。主宰されている秋田読書クラブの題本(2022.07.24.ZOOMで読書会開催)に、『ギブ&ギブ』を推薦いただいた。1988年の出会いから34年の時を経て、新たなご縁へと導いていただいた。それは、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との出会いである。そして、珠玉のコメントをいただいた。特記すべきことは、《それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、解析いただいた。智頭町での地域づくりと、京都市マンション自治の取り組みの本質が喝破された。その直後、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)を贈呈いただき、神の啓示と受け止めた。

《実は三冊(智頭町づくり三部作)の本を送っていただいていたのです。全部読ませてもらって、そうなのだとつながりにたまたま昔からの同僚も沢山絡んでいて、大阪大学の研究室の三隅先生、杉万先生のラインの方々だと分かりました。今日話を伺って確信に変わったのは、寺谷さんはやっぱり革命家なのです。つまり、社会の中をいい意味で変えていく、社会は醗酵するという考え方を持っていますが、まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。凄く感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか、どこに原点があったのか、小さいときと言われたが、智頭町での遊びとか、智頭農林高校とか、謎だけど興味津々です。

杜氏はどうやったらできるか関心があります。寺谷さんのような人をいろんなところで発掘できないか、私的には同じような局面でどうやったらみんなが考えていない所に引っ張っていけるかを考えているけれど。例えば、大きな四角があったら端っこに誰も考えていないところに、それについて寺谷さんと共感する点がある。マインドセットを変える。考え方の枠組みを変えていけば、お金を作ることは結論で資源を使えないのかと、寺谷さんはやっていかれたのは凄く見事にやってこられた。杉の名刺、杉があるよねとあるモノを活かしていく、普通の人はお金に替えれば終わりだけれど、寺谷さんは止まらずに行く。かやの理論に寺谷さんは出会っただけであって、かやの理論的なところに踏み込みたいと思われていて、後押しする確信を持てるような要素を杉万先生の話から受け止めたからだと理解しました。それと、水平思考と訳されますが、エドワード・デボノのラテラルシンキングの考え方に通じる、「ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみること」で空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》

目の前の霧が一気に晴れた、長年の夢から覚めたような感じだった。草郷先生の社会が醗酵するとは、エマージングであり、場立ちである。これまで何を求めてきたのかがはっきりした。コミュニティにおけるウェルビーイング(幸せ・誇り)である。そのために社会システム(仕組み)の創造に関心を持ち、実現に向けて挑戦したのだ。

 10. 持続可能社会とコミュニティライフ

地域社会で無いモノをいくら嘆いても、地域は変わらない。私たちが智頭町で一歩を起こした時、住民は温泉がない、観光資源がない、見せる物は何もない、杉しかないと言っていた。ところがその杉にこだわった。そして、スイス山岳地調査で住民自治の種を見つけ、新しい住民自治システムの実現に向けて挑戦した。ベクトル思考を持ったことによって可能性が広がった。世界に目を向ければヒントがある。それでは京都市のマンションではどうか、周りの町内会では毎年地蔵盆の祭りが催されていた。そこで地蔵盆をやろうと声を掛けた。地蔵盆は400年前に豊臣秀吉の街づくり政策だったとの説もある。ところがお地蔵さんが無いとなった。そこで考えた、お地蔵さんは大地が蔵ですべての生命が芽吹くところと解釈した。石仏が無くてもよい、私たちは大地に見守られていると話した。皆さん納得された。地域づくりは地域文化に根差し、百果競甘である。その地の方言や生活文化を大切にすることが、地域理念(アイデンティティ)を育む。地域はそれぞれに違って価値がある。

実は、地域社会に無いのはモノではなく感性である。人々は日々周りに気遣いし、角を立てないよう生活を送っている。つまり、地域に無いのは実は創意工夫である。そのことに気づくことによってすべてが始まる。社会科学の学びから気づきを得て、感情論に捕らわれず、そこから社会システム(仕組み)をつくった。人々の規範がどのように変化するかを考え、企画、実践、検証、見直しを心掛けた。地域づくりは創作の場である。コミュニティを35歳で意識してほぼ40年になる。私にとって人間修養(啓発)の場であり“利他”(ギブ&ギブ)精神に導かれた。それは身近な生活環境にウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せることであった。

ところが、生活の場であるコミュニティに無関心の人が多い、コミュニティは何もしなくてもある。しかし、極論だが、無関心はある意味でコミュニティの崩壊につながる。私達はコミュニティで生活している。その生活の場をいかに豊かにするかが、結局、地域の持続可能につながる。人生100年時代になった。多くの人々が例えば70歳まで働いたとしても、それからどうするのだろうか。退職したら家庭のお荷物になる、そんな人生はおかしい。若い内からコミュニティに参画(協働)したが良い、私は、人々がコミュニティの価値に気づき、ライフスタイルとしてコミュニティに関係することは豊かな人生をつくると考える。

これまでの価値観は会社(組織)を中心に形成されてきた。一生懸命に勉強して良い大学に入り、一部上場の企業に就職し、立身出世をする。多くの人の目標であった。ところが頑張ってきたが幸せは一体どこにあるのか、皆さん、人生を問い質した。先日退職された知人に地域社会に関心を持って積極的に顔を出してくださいと提案した。そうしたところ年賀状をいただいた。『「何でも見てやろう、やってみよう」の精神で、地域の朗読会、ダンディイングリッシュなどにせっせと顔を出しながら、これまでと全く違う世界を楽しんでいます。』とあった。コミュニティライフ万歳! そして、三つの磁波(サイクル)がリンクすれば自己実現のイメージである。

11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経

草郷先生から《空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか・・・・・空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、私の思考について問いを発していただいた。本書の構成では社会システム(仕組み)をキーワードに、改めて筆を起こした。しかし、草郷先生の問いに答えていない、考え続けた。

社会システムの概念に出会ったのは、1988年に鳥取大学工学部の岡田先生を訪ねた時のことである。教室の表札に「社会開発システム工学科」と表記されおり、岡田先生に社会システムとはなんですかと質問した。問に対して「向こう岸とこっち側に橋を架ける場合、どこに橋を架けたらよいのかを考えるのが社会システムだ。」と説明をされた。この出会いから手弁当で智頭町を訪問していただき、CCPTのメンバーに対して社会システム思考について講義をされた。一部講義の内容は1章4「社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講」と、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の第2章2「課外授業、社会システム思考」、もう一冊は、『ギブ&ギブ』の第1章に収録している。1984年に一歩を起こし、1989年に杉下村塾を10年間にわたって開講した。その学習プロセスの記録はCCPT活動実践提言書に収録している。

それからもう一方に実践による体験がある。1989年の7月から8月の二か月間に杉の木村で智頭杉ログハウス建築イベントを開催した。現地スタッフは3名、全国からログハウスの建築のためボランティアを募集した。代表の前橋氏も私も現地で指揮をとることはできない。どうすればよいのか考えた。そこで、受付、保険加入、作業システム、炊事システム、宿泊システム、朝礼、安全点検、夕礼、五右衛門風呂で入浴など、ベニヤ板に書き、現場スタッフが説明した。一人5日間の作業を行えば向こう5年間、年3日無料でログハウスが使用できる。智頭杉の丸太を加工してログハウスを建築する大作業を展開した。事故が起きたらイベントは中止という条件、全体を動かすために、社会システム(仕組み)を具体的に示した。ボランティアは計68名、事故もなく5棟を建築し無事事業を終えた。(1989年版CCPT活動実践提言書収録)

私が考える社会システムとは、人間で言えば毛細血管や自律神経である。生身の身体を維持している交感神経や副交感神経に例えられる。表面的には分からないので観察や状況の分析によって浮き出てくる生活実体である。つまり、社会システムとは地域社会を維持する神経経脈で、それらは丸ごとで見る必要がある。そして、社会システムは地域を一歩進める仕組みづくりで、一気に百歩進めるものではない。社会システムはデザインによって規範が変わる。人々によって充実する社会システム(仕組み)の創造が理想である。 (ISディジタル辞典=社会システム概要「人間社会を機能させるための公共性の高いシステム。」)

もう一つ、地域活性化は「啐啄(そったく)」 (goo辞書=「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音) で起こる。例えば、地域づくりではいつも相手を説得し、集団を方向づけてきたと思われるかもしれない。しかし、説得工作は一切やっていない。当然、社会システムが成就した場合を想定し提案したが、後は当事者の選択に委ねた。例えば、青少年の海外研修支援事業しかり、本人が手を上げその人を支援する。また、ゼロイチ運動についても1997年のスタート時点、CCPTメンバーや役場スタッフの集落から参加はなかった。企画は欲しい人に提供するのが自然である。例えば、説得し説諭しても物事は成就しない。つまり、必然的に企画力が闘いである。「贈与と略奪」の理論(『ギブ&ギブ』第2章7)に物事の本質がある。早瀬集落ではゼロイチ運動の導入を総寄合にかけて多数決で決めた。一人の住民の意思を動かすことは至難の業である。民主的な一人ひとりの選択が成果につながった。だからこそ自主性を前提に社会システム(仕組み)の創造に全精力を入れた。

地域社会で社会科学を学ぶ場を意図的につくってきた、全ては実践による一歩と学びから始まった。岡田先生の説かれる社会システム論と杉万先生の「かやの理論」に喰らいついた。地域に具体的にどう落とし込み実現するかを考え続けた。そして、1995年1月、役場職員と研究者によるグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動が発案された。社会システム(仕組み)の創造によって、杉しかないと言われた智頭町に誇りが生まれた。小さな力で大きな成果となったが、もう一歩、社会システム創造の価値を過疎地域に紹介したい。

《引用文献》
論文-1 杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」【土木学会論文集NO.562/Ⅳ-35,27-36,1997.4】特集論文(土木計画学におけるリスク分析と応用)
論文-2 森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」【第43回日本グループ・ダイナミックス学会大会発表論文集(1995)】
論文-3 高尾知憲・杉万俊夫「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町
「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」【集団力学2010年第27巻pp.76-101集団力学研究所2010年掲載】
論文-4 樂木章子・山田奈々・杉万俊夫「「風景を共有できる空間」の住民自治—鳥取県智頭町
山形地区の事例―」【集団力学2013第30巻pp.2-35集団力学研究所2013年掲載】
論文-5伊村優里・樂木章子・杉万俊夫「旧村を住民自治の舞台に―鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例―」【集団力学2013第30巻pp.409-435集団力学研究所2013年掲載】
論文-6 叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み
―鳥取県智頭町「百人委員会」—」【集団力学2018年第35巻pp.3-83集団力学研究所
2018年掲載】
講義-1 『かやの理論』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
講義-2 『こころと意味・「かや」』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)

 第4章 身近に人生の師あり、独立自尊

 1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく

1948 年、鳥取県智頭町芦津に生まれた。芦津集落は、鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の上流、鳥取県と岡山県と兵庫県をまたぐ山岳地帯、渓谷と名瀑の宝庫とされる那岐山/氷ノ山/後山国定公園の芦津渓谷の登山口にある。下流の集落から断崖絶壁に沿って上ること約 2 キロメートル、これから上流に人家があるのかと思われるような山間の地で育った。本家の墓石を見ると、江戸時代から林業と少ない耕地面積の農業でほそぼそと生活してきた。四季が織りなすパノラマに80 世帯ばかりが暮らしている。集落は智頭杉の天然林を含めた共有林1,500 ヘクタールを所有し、その入会権は村人のみが相続する。村を出た者の権利は消滅する。集落では、寺谷・武田・綾木姓がそれぞれ氏神の祭祀を行い、同族意識が強く、血縁が結束の元にある。妻と二人の愚息のお嫁さん(各務原市と浜松市)も、先祖さんはよく命を繋いできたものだとびっくりしている。集落内の男は国有林(営林署)の作業員か、私有林の山林労務を行っていた。父は山林労務をしていた。時々、「この村に居ても飯は食えん」と言っていた。その言葉は子供心に残っている。父母は沖の山杉の赤差し苗の栽培や、なめこ茸の栽培をして三人の子供を育てた。働く後ろ姿から山里の生活は創意工夫することだと学んだ。

春まだ水が冷たい頃から渓流に入ってイワナを突いた。祖父母が囲炉裏で魚を焼いてくれた。裏山に登っては探検をし、台風が来ると近くの山で芝栗を拾った。大人は栃の実を拾いに深山に入った。祖父は入り婿だった。尋常高等小学校に上がらず、屋根(茅葺職人)屋の丁稚に入ったという。その時の切なさを話していた。家屋のみの分家で田畑はなかったが、木材の売買をして少しの山林と畑があった。なぜ本家の隣に家があるのかと聞いたところ、祖母の兄が分家を希望したからだと聞いた(おそらく、兄夫婦に子供がなかったため、叔父が5歳で養子になった。)。祖父は3キロメートル下った浅見集落で生まれ、20世帯ばかりの中に縁者が4軒あった。子どものころ連れられて祖父の生家の墓参りをした。背丈ほどもある自然石に「梅花山人」と彫られた墓石があった。裏側に回ると「思い煩うことなかれ なるようにしかならぬ 市蔵」と刻まれていた。峡谷の老梅を愛でた銘文に強く影響を受けた。

1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風は、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした。この台風で集落までの県道はズタズタに流されたが、翌年春、智頭町の中心部までの中間点にある旧山形郷中学校に入学した。道路が復興するまで毎日片道4キロメートルを歩いて通った。芦津集落の出身者は全員バスケットボール部に入った、中学、高校とバスケットボールをした。身長140センチながら走り回っていた。そして、三年生からは統合によって智頭中学校に通学となり、学年は一気に400人となった。1クラス50人のぎりぎりの教室で混ぜ飯状態であった。喧嘩に巻き込まれないために戦々恐々とした。

そして、バスケットボール部は大所帯となり、監督から身長の低い者は要らないと言われた。その一言で山形郷中学の同級生は皆辞めた。しかし、私は身長で区別されることに納得がいかなかった、くそったれと思って最後まで続けた。(この監督とは小学校六年生の時に出会っていた。無理強いする先輩を注意してほしいと約束したにも関わらず対応してくれなかったので、先生はおかしいと抗議したところ、いきなり平手打ちを喰らった。その理不尽さに遺恨があったので、退部しなかった。)秋の県大会で正選手に選ばれ、監督にリベンジした気持ちで納得した。

そして、地元の智頭農林高等学校の林業科に入った。恩師の言葉に勇気づけられた。国田隆広校長からは「君たちはメノウの原石だ、これから自分自身を磨いて宝石となれ!」と。肺結核で入院していて、病室の窓から燕が入って額に糞をしたそこで糞を運が着いたと希望を持ち、病状が回復したと話された。物事は受け止め様で生死の分かれ道になると語られた。小谷先生の「美しいバラの花は野茨の根の上に咲く」は、後日ジャーナリスト大宅壮一の言葉と知ったが、植物の本質と野茨の生命力を感じた。松永能典先生は「親になることは易いが、親たる親になることは難しい、人糞泌尿器になるな!」と説かれた。智頭農林高校に行かなければ出会えなかった。

智頭農林高校では森林の再生に関心を持った。例えば、森林の更新には5通りがある。挿し木、接ぎ木、取り木、実生、萌芽更新である。農業や林業を学んだことは、地域が拠って立つ基本を知った。そして、樹木の移植から根回しの語源を実感し、森林の下草狩りや枝打ちなど、優良材の生産にかかせない作業を実習した。そして林業は、なによりも祖父母の代に植林した杉・ヒノキを、30年50年後に伐採するというサイクルに畏敬の念を持った。目の前の森林は私有林であっても、周囲の緑の山々は共有林のように思えた。しかし、過疎化によって森林に手を入れなくなった。

見ていると地域の後継者に一つの現象があった。普通高校に行った者は大学進学や京阪神に就職して町を出た。実は地域の後継者は、実業高校の卒業生ではないかと自負を持った。高校を卒業して電気工事会社に就職したが、タンパク尿が出て会社を辞めた。社会に一歩出て挫折した。ところで我が家には一冊の本もなかったので、本家の本を借りて乱読をした。中でも「葉隠(はがくれ)」は「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」と、その崇高な精神に触発され、日々、覚悟を持って生きる姿勢を知った。志賀直哉の暗夜行路では鳥取の大山の宿坊で、ウドのカス漬けを食べたとあった。ウドのカス漬けを試作したが美味だった。また、吉川英治の「宮本武蔵」で、沢庵和尚は武蔵を池田輝政に預け、姫路城天守閣の開かずの間で「孫子の地形篇」を学ばせた顛末に、人生の師は身近にあると考え、祖父の薦めで地元の郵便局に再就職した。

2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る

21 歳の初冬の夜、地元小学校の宿直室に故小林義男先生を訪ねた。先生とは6 歳違いで年齢も近く、石炭ストーブに手をかざしながら自分の境遇を語った。次の夜、先生は一冊の本を手渡し、「自分が自分自身を諦めたらいけん、勉強しよう。」と、独立自尊を諭された。それは「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」だった。内容は、《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》とあった。そうか、誰にも能力の限界があるのだ、無能の限界を超えるには学び続けることだと気づいた。そして、1 対 1 の読書会が始まった。そこで実践が必要と考えるようになった。青年団活動に創作演劇を取り入れ、一作目は、山村の若者の都市へのあこがれを創作し、「芦津の田螺(たにし)」の脚本を書いて演出した。二作目は、地元小学校の統合問題を、児童と地域住民の立場に立ち、果たして統合が必要かと訴えた。いずれも仕事を終えて練習を行い、地域で公演をした。それまで黙って見ていた村の人たちが観に来てくれた。声援とともに御花(金一封)がびっくりするほど集まった。地域テーマを題材とすることの大切さを知った。振り返えってみると、1984 年からの地域づくりは、まさに故郷版地域シナリオの実践であった。

そのころ、曹洞宗興雲寺住職(当時智頭町農協組合長)の吉田冥莫(めいばく)和尚と、禅問答をして薫陶を受けた。死とは何か、生きるとは何か、面と向かって質問した。死とは何も無くなることだと返ってきた。その問答から自己の存在を強く意識するようになった。ある時、「今の職場の上司の下では寺谷の成長は無い、郵便局を辞めて農協に来い。そして農民のために働け!」と、強く転職を勧められた。冥莫和尚の言葉にショックを受け、どう生きるか悶絶した。合わせて青年団活動で新聞づくりをガリ版刷りで行っていたら、「戦前のような刷り物をするな、農協に持ってこい。」と、タイプライターを打ってもらい毎月発行した。

この時期、海外を見たいと強く思った。それは鳥取県選出の衆議院議員、故古井喜実先生の国会報告会で、日中国交正常化交渉について話を聞いた。私は勇気を出して手を挙げて質問した。「先の戦争で中国に甚大な被害を与えている。はたして国交正常化がはたせるのか?」と問うた。古井先生は満面の笑みで、「中国は偉大な国だ、心配ない。」と答えられた。1972 年秋、田中角栄首相が訪中して中国側の小異を捨てて大同(だいどう)に就くとの大英断によって、日中国交正常化が図られた。古井先生のご尽力と偉業に驚嘆した、身近で世界が動いていた。

古井先生の話を聞いて素直にぜひとも海外を見たい、世界を知りたいと思った。ところがお金がない、海外に行く方法を探した。そうして総理府の「第 6 回青年の船」に応募した。休暇申請について中国郵政局に問い合わせたところ休職扱いで乗船しろとあった。当時、智頭町の大原教育長から休職は履歴に傷がつくので乗船を辞めるようにとアドバイスがあった。しかし、なんであろうと乗船しようと思い、御殿場で開催された事前研修に参加した。そうしたところ、出航間際に公用パスポートが交付され、特別休暇で乗船することとなった。1972年10月、にっぽん丸は晴海埠頭を出航した。最初の訪問国のフィリッピンまで太平洋の荒波に揉まれた。そして、セブ島に上陸した。インドネシアのジャカルタ、オーストラリアのメルボルン・シドニー、ニュージーランドのウェリントン・オークランド、最後にラバウルに寄港し60 日間かけて訪問した。インド洋のど真ん中、海原を見回しても何もないが、クジラが潮を吹きイルカが群れて泳いでいた。生命を感じた。意を決し渡航した60日間、給料は支給された。仮に周りの人たちの声を聞いていたら、あの感動はなかった。初心貫徹であった。

3. 志を立て、国境(県境)を出奔する

冥莫和尚の薫陶を受けチャンスがあれば必ず活かそうと思った。考えた末、やっぱり郵便局で人生をつくろうと思い、勇気を出して故郷を出奔する覚悟をした。帰国して 2ケ月、郵便局の公報で中国郵政局(広島市)の職員募集を知った。チャンスをつかもうと受験した。二次試験で、数年後に直属の上司となる稲田人事課長の面接を受け、青年の船の体験を語った。そして合格した。周りの人たちはなぜ長男が家を出るのかと止めた。ところが冥莫和尚は「寺谷は広島に出て来い。」と明快だった。そして、餞(はなむけ)の言葉として“我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス”「我在存宇宙」と励ましの言葉をもらった。意を決し独立自尊を覚悟した。

将来、智頭町を何とかしたいと思っていた。僅か80世帯ばかりの芦津集落で、山林を持つ者と持たざる者の貧富の差を見てきた。同じ集落で祖父の従兄は山持の婿養子となっていた。その方は集落の顧問と称えられ、同じ婿なのにとポッと祖父の愚痴を聞いたことがある。格差に屈辱感を持った。1973 年7月、広島市で武者修行する思いで故郷を出奔した。私には何もなかったので行動目標がいると考えた。そこで一つ目は、是非とも労務管理能力を身に着けたい。当時、郵便局の職場では労働紛争があって自殺者が出ていた。二つ目は、自分自身の持ち味は企画だと思っていたので企画力を磨きたい。三つ目は、なんであっても信用・信頼される人間になりたいと、目標を持った。まさに一身独立の気概であった。転勤によって、法律や通達、文書を読んで仕事をするようになった。ところが読解力がない。そこで身近な人たちに声をかけて、土曜日の朝に自主参加で、経営管理・労基法・勤務時間管理規程、経済白書などを題材に輪読会を開いた。なぜ寺谷が主宰するのかと批判や中傷があったが、意に介さなかった。この自発的な勉強会によって理論を得た。その中に郵政省の教養の書のリーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」があった。

《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。

この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》

一匹のメダカと人間関係の原理に関心を持った。おそらく、体験的に社会規範は職場にあっても地域にあっても一点と全体から起こると考えた。一冊の小本によって小集団の本質と行動スタンスを学んだ。そして、帰郷後の1984年春、「決然」と一歩を起こした。木材加工による小集団を立ち上げながらCCPTを組織していった、一匹のメダカのリーダーシップ論は的を射ていた。中でも「小磁極」は地域理念(アイデンティティ)と解釈し、人々の精神的支柱である「智頭杉」をテーマに徹底して、「杉」にこだわり、施策の企画にわくわくドキドキしながら取り組んだ。

当初のやり取りを紹介したい。1988年に岡田先生に智頭町に入ってもらうようお願いした。その際、懇親の場で「なぜ、地域づくりをしているのか?」と質問された。私は即座に「自負心です。」と答えた。そして、帰郷後5年経ったころ地域で祝賀会が開かれた。上座の長老(元県会議員)から手招きが受け、こう切り出された。「良い声でなく鶏は枝ぶりを見て止まるが、見ているとあんたはどの枝にも止まらんが?」と、詰問された。私は即座に「小さくとも一本の木(気)になろうとしています。」と応えた。数年後、杖を突いて郵便局を訪ねられ、「どうか、地区の行く末を頼む。」と頭を下げられた。つまり、物事を成就させるためには日和見でいけない、私は一貫して決然とした態度で、まさに独立自尊の姿勢を貫いた。

合わせて、役場や助成団体の下請けはしないと決めていた。下請けは妥協と考えていた。例え、そのことでマイナスになろうとも貫いた。自分の心に忠実でなければリーダーは失格である。私の一挙手一投足を自覚した。それともう一つスタッフの悪口は絶対言ってはいけない、そんな評価(マネジメント)はない。人生を賭けた地域づくりである。一寸の虫も五分の魂、物事を成就させるには覚悟がいった。つまり、頼みとするCCPTメンバーや住民は常に私の姿勢を見ている、この自覚が大事だと思った。ところが、地域社会では小さい者や弱い者に対しては、強い者になびけと身近な人が善意でささやく。しかし、私は意を持って決然としていた。

そして、闘いを終えた感慨は、(箸)松本順のリーダーシップ論に出会えて本当によかった。どの理論よりもより実践的で、CCPT・ゼロイチ運動・地区振興協議会の思想性を作った。どんな本に出合うか、それこそ運であり万に一つの偶然である。まず文学全集を乱読した、小林先生から「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」で無能の限界を知った。広島の職場の輪読会で出会った「リーダーシップ論」と「孫氏の兵法」を愛読した。1991年から10年間にわたり開催された耕読会では、(箸)木村尚三郎の『「耕す文化」の時代—セカンド・ルネサンスの道』と39冊と出会った。本と出会い、人と出会い、物事と出会い、知識は増えた。しかし、実践者にとっては論より証拠、事実は小説より奇なり、社会システム(仕組み)を実現することが全ての回答である。

私の行動規範の起点は一匹のメダカの理論である。地域実現は日和見では起こり得ない。秘訣は「決然」、「智頭杉」をテーマに「一貫した価値観」と、「人財」にある。例えば、早瀬集落の革新は長石昭太郎氏から始まった。私は「長石先生は智頭町の文化振興に貢献されたが、早瀬集落には尽力されていない。このままで早瀬はいいのですか?」と問い、余人を持って代えがたいと貢献を嘆願した。氏は住民の英知を結集し、奇跡の集落づくりを実現された。(第2章2)

4. 出会いは神の計画、職場は人間形成の場

1). その人の本質をつかむ
「おーい、寺ちゃん、郵政記念日(4月20日)の宿泊担当をやってくれ―。」と、係長から命じられた。聞いてみると夫婦同伴で1,000人の宿泊のお世話である。中国郵政局に転勤後の1年間は貯金部調査課で、郵便局から上がってくる証拠書に算盤を入れた。次の2年間は給与担当である。その次の2年間は、広島郵便貯金会館(メルパーク)の経営管理と岡山郵便貯金会館の施設構想を担当した。その後、中国管内の為替貯金担当職員の訓練を5年間担当し、貯金部管理課に10年間在籍したが、凄く勉強になった。

先ほどの宿舎の職務は給与担当2年目のことである。なぜ、そうなったかというとおそらく背景に、大事な仕事をしたからだ。それは上司のA部長が退職されることになり、退職金計算をすることになった。ところが部長に兵役期間があったので人事部の要員給与課と何度も協議した。そこで、兵役後に無職であったことが証明されれば通算できると判断された。係長から「部長はきれいに退職されたいのだから・・・。」と、釘をさされた。しかし、私はそのことと退職金とは違う、是非ともご本人に確認してくださいとお願いした。その結果、兵役期間が通算され満額の退職金が支給となった。そんな経緯があった後、宿舎担当の指名である。広島市内のホテルを何か所か抑え、宿泊者を割り当て事前作業は終えていた。ところが、国鉄のストライキで全ての作業が無駄となり、5月に入ってから改めて同じ作業をやれとなった。そこで一計を案じた。一つは、トラブルが無いように宿舎担当を通して変更することにした。つまり、寺谷の印がないものは責任を持たないということにした。もう一つは、変更があった所属局に確認電話を入れた。そして、当日を迎えたのだが、トラブルは0件と納得のいく事務作業となった。後日、総括担当の秘書課課長補佐から良くやったと御馳走になった。

ある日、係長に今晩はついてこいと言われた。郵政局の玄関を出る際には大きな鍋と、麻袋に入ったワサビの葉を持って、歓楽街の流川へとタクシーに乗った。聞いてみると、今夜はバーを訪ねてワサビの葉漬けをして回るということだった。とにかく後ろについていった。訪問するとお湯を沸騰させてもらい、その鍋にワサビの葉を手で切って入れ、熱湯をかけて蓋をして力一杯振った。そして、水分を切って瓶に詰め、醤油をかけてワサビの葉漬けをした。とてもユニークな係長だった。気心が知れてくると人間関係の絶妙な機微に感嘆した。そこでワサビの葉漬けのことを聞いてみた。どうして私に声をかけられたのですかと聞いたところ、郵政局に職員が700人いるが、ワサビの葉漬けができるのは先輩のK氏と寺谷だと答えられた。何となく、ふーんと、頷いた。そして、庶務担当として毎週土曜日に各課対抗のバレーボールや軟式野球など、レクリエーションを開催した。どうしても参加されない方があるがと係長に聞いたところ、心配するな、この指さばれ方式だと意に介されなかった。職場が明るい空気に包まれた。

それから、広島郵便貯金会館の施設の増築が浮かんだ。収益を上げるためにどのように施設を増築するか、披露宴会場やレストランの稼働率など実態調査をして、シュミレーションしながら増築計画を立てた。そして、岡山郵便貯金会館の施設構想に入った。用地交渉から施設内容を本省と連携して取り組んだ。広島会館の反省から、岡山会館は会議室と披露宴会場のサービス動線と、客動線を切り離す方式を提案した。これは好評だった。広島会館の増築構想に携わったことが役立った。それと、玄関からコンベンションホールへの吹き抜けが実現した。

2). 部長朝礼とミニ情報紙の作成
月2回、N部長の朝礼が行われた。丁度、土光臨調の真っ只中のころである。貯金部100人あてにミニ情報紙が発行されていた。内容的には貯金部の事業等が編集されていた。そのころ、郵便貯金事業はどんどん改善され、公共料金の引き落とし、給与の振り込み、財形貯蓄など、新しいサービスが追加されていた。そこで新サービスの内容を分かり易く概念図で表すことにした。これがなかなか好評だった。私は法律や規則、規程を読んで図式に示した。そうしたところ、ミニ情報に収録された概念図の方が説明しやすいと、郵便局職員の講習会資料となった。そんな経験から地域づくりに概念図を多用してコンセンサスを得た。

そして、N部長による月2回(1回15分)の朝礼をカセットテープに取り、テープ起こしをして要点をまとめミニ情報に掲載した。情報は価値である。そのミニ情報を貯金部出身の普通郵便局の管理者に郵送を始めた。そうして1年経ったころ、目の前にN部長が立たれ、「管内の郵便局に臨局してみると、みんなが朝礼内容を知っているが?」、と訊ねられた。そこで、私は無断で送っていたことを白状した。そうしたところ、それならば心して朝礼をしなければいけないと、次の回から熱が入った。テープレコーダーに録って、文字に起こし、文章に編集して、要点をミニ情報で周知することにした。それから1年経って、文章を万年筆で浄書し一冊に製本して、N部長に表紙のタイトルを命名してもらった。部長朝礼「自戒」の編集を終えた。2年間、48回のテープ起こしによる文章化と、要点編集は、朝礼の本旨を読み取る貴重な訓練となった。単なる100人に配布の部内紙(B4版1枚)を、最先端の情報に切り替えた。どこに居ても創意工夫、我在存宇宙に導かれた。その思い入れのミニ情報紙一年分を、小冊子に編集し自費出版した。中国郵政局での仕事と知己は人生の財産となった。1973年に鳥取県境の因美線の物見トンネルを武者震いしながら越え、10年後の1983年初夏、一匹のメダカのリーダーシップ論と丸くしたマズローの欲求概念(『ギブ&ギブ』第3章1)、孫氏の兵法を秘め帰郷した。(第1章1)

3). 50年間、友人はどう見ていたか
2022年10月7日に郵政局からの友人である石田素風氏から、第37回国民文化祭の川柳の部で準特選に入ったと、作品の紹介とともに吉報メールが届いた。

課題は「フルーツ」/準特選作品「天と地と汗で実ったAランク」である。

《寺谷さんの生きざまを世に知らしめられたことに大きな拍手を送らせていただきます。ゼロからイチを生む、格闘の日々、芽を育て上げたプロセスが、奇跡を起こしドラマになり、共感を呼んでいるのですね。学者、評論家の皆様は机上論で生きている方も多いのでしょうが、実践論には勝てない。事実は小説より奇なり。オブラードで包んで、化粧しても、真の美学にはかなわない、と同じことでしょう。このほど発刊された書籍類が、これからも輝きを増してゆくことでしょうね。寺谷さんは大病との闘いもあったし、挫折もあったことと思いますが、流川の酒に溺れる(どなたかな?)こともなく、「今に見ていろ」を追い続けた勝利者です。これからも、「おしまいのページに好きな色を塗」(素風)って、行かれることでしょう。第37回国民文化祭/美ら島おきなわ文化祭2022 の 「川柳の祭典」の部に投句していたら素風の句が準特選になり、大会で読み上げるとの知らせ(本日)が来ました。沖縄旅でコロナのうっぷん晴らしをしてこようかな、と思っています。素風より》

友人とは中国郵政局で一緒に仕事をした。挑戦しているときも、病んでいるときも、挫折を経験したときも、ほぼ50年にわたって静かに見守っていただいた。最近の発句に「幸せの分母に蒔いた趣味の種」がある。私は視点に社会システムの目を感じると返信したところ、重ねてメールが届いた。《ありがとうございます。魂を込めて、これからも、句作りに挑みます。寺谷さんの生きざまこそ、句づくりのお手本です。》と、エールを交換した。天と地と友に見守られ、それぞれに実った人生である。お互いに後期高齢者となり新たな世界に入った。

 5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い

私には資産も財産もない。智頭町の規範の本質は、山林を持つ者と持たない者の長い歴史的関係にある。まず、地域の規範の本質を知らなければ活性化はない。山林が無い者がいかに正論を言おうと相手にされない。屈辱の社会構造であった。青年団活動をしていた時も、いつもあんたの父親は、祖父はと聞かれた。私にとってこの問いは常に序列かを意識した。家柄の意識が強く、町会議員になるのはその集落の有力者とほぼ決まっていた。

例えば、集落の総寄合で物事を決める。その翌日には反故になる。強いて言えば長老支配が続いていた。なぜそれが起こったのか、それは自分たちの祖父母の世代までは、中山間地域は耕地面積が少ないため、山林と田畑がない者は山持の家に労働等を提供して人夫賃や米などの糧を得ていた。つまり、家と家の主従関係があった。戦後、農地解放はあったが、山林開放はなかった。冬場の米一升が夏場の一人役とも言われていた。例え、集落の総寄合で決められたことであっても、山持(旦那さん)が頭を縦に振らなければ合意にならない、暗黙のルールがあった。江戸時代の家と家の関係がそのまま続いているように思えた。

私が広島市から帰郷したころ、友人に何かをやろうと言っても、智頭ではできない、周りがその雰囲気でない。突き詰めると町長が悪い、町会議員が悪い、組合長が悪い、と他人批判に終始していた。つまり、身を切らないと暗に言っていた。知人の役場の職員にまちづくりをしようと投げかけた。返ってきた答えは、「智頭町ではまちづくりなどやれない。」とにべもなかった(その知人とは大呂佳巳氏で、山形地区振興協議会長である。第3章7)。この状況に、それではどう生きるか自分自身に問うた。智頭町の活性化とは規範の切り変えである。ある種の秩序の中で静かに生活しているので、生半可な姿勢では達成できない。つまり、「人気」の生き方では地域の規範を革新することはできないと考えた。熟考に熟考を重ねた。結論として「本気」で生きることを覚悟した。二人の息子たちに生き様を示そうと腹を括った。想到な決意だった。

地域づくりは、山の向こうの人々に説得を試みても味方を得ることはできない。つまり、集まった人たちによって挑戦するしかない。そして、身近な人たちの価値を発見することにある。とにかく、この考え方を一貫して持った。私は知らぬ間に、社会の核心をつかんでいた。そして、何か事業を実施すれば必ず新しい人が現れた。知人がその様子を見ていて、どうしてあんな人たちと付き合うのかと忠告したが、帰郷後意図的に地域で変わっている人たちを訪ねた。正面から向き合ってみると、個性的で独特の持ち味があり、その方の長所もあれば短所もある、つくづく人とは面白いと思った。智頭町の規範はまるで平安京の鵺(ぬえ)のようであった。地域の規範を革新するという大望がある。変わった人たちを訪ね、懐に入ってその人に寄ってみると、常識人よりも個性的でユニークな個性であった。世の風評で人を見るようでは強力な組織はつくれない。組織化するならば個性的な人たちを方向づければダイナミックな集団になると考えた。まずは、相手の良いところを見つけてフォローする、一人ひとりが持つ得手をマネジメントする必要があった。そこで地域革新の志を持って組織したのがCCPTである。つまり、組織を維持するための集団はつくらない。テーマによって人々が集まり、テーマを達成すれば自然解散する臨機応変な組織づくりである。常に人間力が問われ、自分自身との闘いであった。

 6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念

1986 年 8 月 14 日、盆の14日に祖母が亡くなった。隣家の本家の仏様を拝み、お茶を一服いただいて、バナナを懐に入れたまま逝った、92 才の大往生だった。通夜の夜、本家の叔父から「杉の木村は、親族の恥さらしだ。」と叱責された。私は覚悟して取り組んでいたので、「いや、今、必要なのだ。」と言って口答えはしなかった。何百年にもわたる地域の規範からすれば、まさに私の行為は異端であり、大人の常識を親切心で諭す言葉であったが、思いを持って突っ走った。それから9年経って、1995年秋、杉万先生の論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1) の解析、4.「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」によって、杉の木村の建設から「新しい総事」の概念をつかみ、1996年にゼロイチ運動の企画書の要諦とした。抜粋して紹介する。

《しかし、忘れてはならないのは、「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘められていると考えることはできないだろうか。》

論文考察から集落活性化のヒントを見つけた。集落を能動的な経営感覚を持ち、「新しい総事」に挑戦する集合体に切り替えることである。そのためには八河谷集落で組織した「杉の木村産業組合」のように、各集落でも新たに「集落振興協議会」を設立すればよいと考えた。その協議会が集落の活性化計画を立て実行するのだ。そして、活性化計画の柱に「地域経営」を設ければ、必然的に能動的な組織となる。杉万論文を読み解くことによって、住民自治システムを具体的に構想することができた。私にとって論文によるヒントはまさに天恵となった。新しい総事をキーワードに「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」の具体策を1996年に企画した。

親族に理解されないことは苦痛だったが、杉の木村の建設は決して無駄ではなかった。過疎化の本質を知りたいと杉の木村の建設に執念を持って取り組んだ。言わば叔父の忠告を聞き入れなかったから、智頭町が茹でカエルにならなくてすんだ。ただ、心の支えとなったのは、祖母が生前だれに聞いたのか、「あつしは夢を実現する子だ。」と言っていた。通夜の夜の勝負感はなにからきたのか、それはきっと、祖母の慈愛に応えられると確信を持っていたからだ。杉万論文-1を手にしたとき、杉の木村の建設にこだわって良かったと心の底から思った。これで理論的な裏づけはできた。次の段階に向けてステップをどう踏み出すか、そこが勝負である。

実現に向けてアプローチをどうするか思案した。1996年2月、意を決しH町長に「村おこしコーディネーター会議」の設置を進言した。(第2章1)

 7. 希望の希求から新たな光が見えた

義父等から戦争体験で極限状態の話を聞いて息を飲んだ。生死の臨場感から人の在り様を見た。そこに過疎化のヒントがあった。つまり、死線を越えた体験談はどんな書物よりも得難い、希望の希求から生命の光を見つけていた。もうお二人とは二度とお会いすることはできない、身近な人たちから自然な言葉で聞き取った。静かに語られた戦争体験に心を打たれた。人間が生きようとした時、何を思いどんな考えを支えとするのか。ふっと1989年にスイス山岳地調査で出会ったシャンドランのホテルのオーナーの言葉がオーバーラップした。(第1章5)

義父は、第二次世界大戦中インドネシアに従軍し、飛行場を造っていた。明日は投降する前夜、戦友と枕に入れていた小豆をぜんざいにして食べて、美味しかったと語っていた。義父は、飛行場造成のため現地の人たちと働いていた。そして、戦争が終わって日本軍の兵隊は整列させられ、連合軍の前で首実検が行われたという。現地の人が悪い人と証言したら即銃殺刑となり、義父は「良い人」と言われて助かったと話した。重たい言葉だった。おそらく、義父は日本軍であるとき、虎の威を借りずに現地の人たちに接していたのだろう。もしかして、逆転を想定していたのかも知れない。生前中、酒に酔ってはインドネシア語で「テレマカシー(ありがとう)」と言っていた。

義祖母の弟は、ニューギニア戦線で撤退命令が出たという。頭を海面に出すと機銃掃射を受けるので、マングローブの下で一昼夜にわたって鼻だけ出して生き延びたと語った。話を聞いて私なら焦燥感と不安感で発狂していたかもしれないと思った。どうして生き残ることができたのか訊ねた。そうしたところ、夜になったら必ず沖合に友船が来て合図の点滅をしてくれる、その船に暗がりに紛れて泳ぎ、助かったと話した。戦争の友船は不確かなものであるが、友船を待つことで生き残ころうと耐えていた。極限の中、希望を持ったことで生き残ったのだ。お二人の話に引き込まれた。翻って過疎もしかり、誇りの前に希望を持つことである。希望は人々の英知によって創造することだ。希望の希求から新たな光が見え、その光を手繰り寄せることによって誇りが生まれる。

2021年5月、義母は 満99才で逝去した。私は妻と一緒になって満 45 年、いつも、「あつしさんが智頭に帰ってから智頭町は変わった。」「みんなは人の顔色を見ている、信じる道を歩きなさい。」「わしは信じている。」と、声をかけ続けてくれた。周りの誰の言葉よりも確かな評価である。義母の信頼に応えようと思った。振り返ってみると、私は常に人々の信用・信頼の輪の中にいた。まさに萃点(すいてん)(goo辞書=「萃」は、あつまるの意、さまざまな物や事柄があつまる場所。南方熊楠の造語。)の世界である。ところが残念なことにコロナ禍で葬儀に帰郷することができなかった。亡くなった義母に手紙を書いた「お義母さん、いつも勇気を与えてくれてありがとう。」と、一人の理解者を得ることは万人の力を得たと同じである。

まず目の前の方(人)と向き合うことである。小集団活動はイコールチーム人数ではない。そこに新しい発見がある。地域づくりは人の力による、大願成就するためには人徳貯金を心掛けることだ。人間関係は1対1の自他の概念(1章4)に秘訣がある。つまり、誰にも自他は存在する。他者にも自他がある。濃密な人間関係は一瞬にして自と他×2、自と自・他と他、とタスキ掛けで自と他の6通りが成立する。(「ギブ&ギブ」第3章2)次に三角形(トライアングル)のコミュニケ―ションによって小集団は輝き、希望を希求することによって光が見えた。

 8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)

地域づくりは無血クーデターだと言っていた。その意味するところは幸福革命である。当時、住民は智頭町には杉しかないと嘆いていた。そんなことはない、視点を変えれば大きな価値があると、一枚の杉の板切れを郵便はがきに応用すれば海外に届くと提案した。智頭杉日本の家と銘打ってアピールすれば地場の杉が使われて新築住宅や腰板が張られ、智頭杉で小学校校舎が2校建築された。そして、生木のまま活用する建築材の縁桁(えんげた)に価値があると、木材市場から智頭杉の生木を購入してログハウス村を建設した。その根底にあったのは、人も物も視点を変えれば最高に価値がある。まず、地域の特色に気づき、違いを認めることからはじめようと、青少年や社会人海外派遣事業や国際交流は、当初欧米の人たちと、そして軸足を東アジア(中国・韓国・台湾)へと展開してきた。それらの活動から地域の活性化は役場を覚醒化することだとターゲットを絞った。例えば、住民が役場の職員を説教しても効果はない、そこで経営コンサルタントの指導による接遇訓練の場を設け、全職員による研修システムが起動した。そして、町のグランドデザインを策定し、集落住民が地域計画を立て実行する日本・ゼロ分のイチ村おこし運動に15集落が10年間取り組んだ。この運動によって住民自治と地域経営の概念が地域に根づいた。次に領域(地区)自治を想定して旧村単位で地区振興協議会を設立したところ、行政(役場)による百人委員会が稼働した。

これら地域づくりは、どのような考え方を持って取り組んだのか。それは地域で生きることを誇りに思い、生き方や住まい方を発信した。こだわったのは「直感力」である。それらの取り組みは義務感でなく、未知との遭遇、わくわくドキドキ感で意外性の演出を心掛けた。兎に角、この地で面白く生きようと思っていた。そして、困難や壁に当たったとき、伝教太師の「一隅を照らすこれ則ち 国宝なり」と、平櫛田中の「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」の格言を唱えた。つまり、どこにあってもその環境に感謝し「足る を知る」と挑戦した。この姿勢によって、目の前の人が最高に輝き、自分自身も最善に活かされた。

1984年、杉板はがきや杉名刺を開発したころ、「寺谷のアイデアも一時のことだ、そう長くは続かない。」と、周りの人たちの嘲笑が聞こえてきた。面と向かって皮肉を言う人もいた。当初は閃きによるアイデアであったが、思いつきは限界があると考えた。そこで創作する場を設けた。その会議は前頭葉を上にして浮かんできたことを言葉にした。合わせて、周りの人たちも意見に乗って連想した。語彙を模造紙に殴り書きして、“つぶやき”や“ささやき”を企画に組み込んだ。創発規範の発酵の場は、まさに豊かな人生時間となった。

1994年8月24日、杉万先生から『こころと意味・「かや」』(「ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-2) の講義を受けた。要約すると、「環境」「集合的行動パターン」「コミュニケーション」「暗黙の自明の前提」の4点がワンセットで、「かや(規範)」と説かれた。つまり、コミュニケーションが通じる範囲の人々が世間を作り、コミュニケーションを張っている人たちの中で、暗黙自明の前提ができる、そこから意味が出てくる。その意味が暗黙自明の前提から取り出され、私たちの心の世界が出来上がるというのだ。究極、人々とのコミュニケーション(エディターシップ「ギブ&ギブ」第1章8)と、創発規範のわくわくドキドキ感によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。

9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ

自然災害は予測できない。2011年3月11日、テレビで衝撃の映像が飛び込んできた。東日本震災である。真っ黒な濁流が逆流し、自動車を飲み込んだ。「逃げろう―」と声を上げた。街をみれば津波に飲み込まれていく。その悲惨な映像は今でも目に焼き付いている。大きな衝撃を受けた。62歳で腎臓癌を発症し3月末をもって退職しようと決めていた。つまり、腎臓機能の低下は冬季間の除雪や、これまでのように公園の草刈りなどボランティアはできない。何分にも悪性癌の再発の可能性とeGFR値35にショックを受けた。自分自身の命の限りを自覚し、退職後は意を決し京都市への移住を決断していた。それこそ環境を変えることが生きることになる。妻の「京都に行こう」の一言によって、命がある内に妻の老後と二人の子どものフォローを第一義に考えていた。そこに東日本震災である。

予測がつかない、飛んでもない災害が起こることを改めて認識した。私に何ができるのか、満身創痍で汗をかくこともできない。そんな時、地震学者の今村明恒(1870年(明治3年)~ 1948年(昭和23年))の生き方を知った。《1899年に当時としては異端説とされた「津波の原因は海底の地殻変動とする」説を提唱。1905年に投稿記事の中で今村は「将来起こりうる関東地方での地震への対策を訴える」と猶予はないと警告し、今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されるが、’23(T12)年に関東大震災によって現実のものとなった。1923年に東京大学地震学講座の教授として、地震博士として幅広い震災対策を呼びかける一方、地震発生が予想される南海道地方に私設観測所を設置、’29(S4)年に日本地震学会を再設立して会長に就任。地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に業績を残した。’31年に定年退官。その後も私財を投じて地震研究を続けた。’33年に三陸沖地震発生後の復興の際に津波被害防止のため高所移転の提案をした。また、「稲むらの火」を教科書への収載を訴え、小学生から津波被害に関する教育の重要性の認知にも取り組んだ。(Wikipediaから抜粋)》

凄い地震学者がいた。自分自身も何にもならんことをするなと揶揄されてきた。ところが、今村は現職中に私設観測所を設置し、1931年に定年退官後も私財を投じて地震研究を続け、防災教育に「稲むらの火」と高所移転を提案した。その結果、高所移転を実現した岩手県大船渡市三陸町綾里(りょうり)地区では、東日本震災で住民の99パーセントが助かっていた。そんな生き方を知った。そうだ、地域づくりに定年はない。どこまで地域に関わることができるのか、それは自分自身の人生姿勢にあると思った。

そして、2011年に京都市に移住し、何から手をつけたらよいのか模索した。そうしていたところ2014年12月、明治大学農学部教授の小田切徳美先生が、『農山村は消滅しない』(岩波書店)を出版された。その一節に智頭町の地域づくりが紹介(P60)されていた。「1996年には、住民で組織する「智頭町活性化プロジェクト集団」(約30名)と行政職員が、約2年間にわたり積み重ねた議論を集約し、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』の企画書を作成した。これは、やや大げさに言えば、我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える。その全文を掲げておきたい。」とあった。運動の趣旨が丸ごと掲載されていた。“我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える”と最高の評価をいただいた。感動した。1996年に三日三晩で起草した文章だ。

小田切先生の書評に刺激を受け、ゼロイチ運動が住民にどのような影響を与えたのか、調べてみようと思った。2016年11月、京都駅の喫茶店で小田切先生にお会いし智頭町の動きを編集することを約束した。関係者にヒアリング(第1章2)をしてみるとゼロイチ運動が大きく影響していた。そして、2019年7月、智頭町が内閣府の「SDGs未来都市」に認定され、一気にまとめ10月に『創発的営み』を出版した。小田切先生は解題で“にぎやかな過疎”を提案されている。そして、創発規範の連鎖の拡大は、2021年に『ゼロイチ運動と「かやの理論」』と、2022年に『ギブ&ギブ』の出版によって検証した。敢えて言うならば、地域づくりに定年はない。

10. 無意識の力に突き動かされた

『ギブ&ギブ』の監修をしていただいた立命館大学教授山口洋典先生の「生き方・働き方の哲学への挑戦」の最終葉に、《寺谷さんの連作は、とりわけ全員が実名で登場する本作は、学問の枠に収まるものではなく、日常生活の科学を言語化する挑戦であったのだと確信しています。》と、解説いただいた。わが意を得た。つまり、「日常生活の科学を言語化する」との表現に出会い、日常における思考の在り様を知ってもらうことができたと思った。そのことを自覚するか無自覚かは知らないが、その人の内面の世界があって行動や思考が起こる。つまり、「日常生活の科学を言語化する」に反応した。そして、草郷先生から名指しがあった「まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。」と看過されたが、それらは特別に意識したものではなく、当然の感覚であった。その無意識で当然の感覚を問うてみた。

そうかと思いついたのは、私は肝臓疾患の患者であった。話せば長い。肝臓病を医師から診断されたのは30歳の年末だった。その夏、身体がだるかったので病院で血液検査を受けたところ、γ-CTPが異常値を示し、脂肪肝の病名がついた。今から考えれば疲れていたのだと思う。肝機能の数値に振り回され、組織検査を受けた。当時は、肝臓は再生しないと言われていた。ショックであった。治療薬が無いので漢方薬を服用した。そして、血液検査でC型肝炎が判明したので、インターフェロン治療を受けたが逆効果となった。そして、2005年に玉野市民病院の木村文昭先生の瀉血治療を受け、2010年に腎臓癌を発見してもらった。C型肝炎の治療薬 (エレルサ・グラジナ錠) が開発され、木村先生の薦めにより2020年2月に肝機能は完治した。この間、常に病気があった。まさに死刑囚のように時間を凝縮して生きてきた。そんな様子を見ていた関西医科大学看護学部教授鮫島輝美先生に、病気と地域づくりの関係について指摘を受けた。

《寺谷さん:いつもありがとうございます。自伝のところを読ませていただきました。人に生かされ、人を生かしてきたんだな、と思いました。確かに、病との関係性が「時間を凝縮した」といえるし、同時に終わりとの関係性がいつも切実にあるので、火事場のくそ力と言いますか、アドレナリンがどっと出る出会いが、ずっと続いているんだな、とも思いました。病と共にあることが、すでに寺谷さんのアイデンティティの一部になっている、そう感じられました。もちろん、病気になりたい人などいませんが、病があったからこその人生もあるな、そういう意味での「病の語り」を読ませていただいた気がしました。鮫島》

私が無自覚か自覚かに関わらず、肝臓病と腎臓癌は自身の個性となっていた。当然、病気になると限りある命を意識するので、火事場のくそ力を発揮したのだろう。病気が自分自身の思考や行動の深層心理の一端を担っていたことは確かである。鮫島さん曰く、「病があったからこその人生もあるな」と語られ、その通りである。しかし、病気は時間を凝縮したかも知れないが、どんな影響を与えたのかと問われると不確かである。ただ、出会いによる一期一会の意識は強く、言葉や語彙、その情景は映像の如く刻まれた。つまり、日常生活の科学を言語化する挑戦やマインドセットを変えたのは、好奇心と実は無意識の力によるかも知れない。

 11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る

2022年の夏、『ギブ&ギブ』を出版した。山形郷中学校の恩師の葉狩守先生に謹呈したところ、感想をいただいた。何分にも60年ぶりの通信簿である。

《貴重な労作をいただき恐縮しています。時間を無駄にせず、生命がけで郷土を想い描いておいでですね。一人で書き、考え、発想してまとめて、素晴らしい書物です。学生やこれに続く人たちの教えになります。自分の利益中心の考え方でなく、郷土の創生のために一銭にもならないことに生命を賭ける。そんな人が芦津から生じたこと、まことにうれしい限りである。小生、目の病で十二分の読破ができませんが、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』など骨が通じている。吉永先生をはじめ、大学の専門の方々の知恵、頭脳を参考にまとめてある。ひとりでできないことが、故前橋登志行様など地元の関心のある方々も寄り添って応援された。寺谷さん自身が動き、仲間を動かし、勉強の場を作られた。八河谷のログハウス、那岐地区の出会い館、アジサイの苗と花の園、魚の掴み取りやウグイのジャブなど、口先にとどまらず、手足、口、心が動いた。ゼロイチ村の振興協議会が動き、寺谷氏の心が村の自治に入り込んだ。郷土の古い物語を掘り起こし、英語の文に訳してスピーチを試みたり(省略)単なるギブ&ギブの本ではありません。》

葉狩先生には62年にわたって見守っていただいていた。すべて見通しておられた、有難いことである。また、日本海新聞社の元記者富長一郎氏から貴重なコメントが届いた。

《「ギブ&ギブおせっかいのすすめ」をご恵送いただき、ありがとうございました。もっと早く到着のお礼を差し上げなければならなかったのですが、生半可な返事は失礼かと思い、熟読しておりました。が、申し訳ありません。ギブギブとはあまりに大きなお題であり、体系的に消化できませんでした。断片的な感想です。大きく思ったのは、寺谷さんの「喜びや楽しみの壮大な回収」がいま始まっているということです。ギブギブとは文字だけ見ると捧げて捧げて略奪されまくったようですが、その一方で、この本からは広島から智頭に帰った時の思いを可視化できた寺谷さんの今の喜びがひしひしと伝わってきます。ギブギブとは地域を、集団を変化させる何よりの手段です。そして、その手段で願いをかなえた喜びを報酬として今、回収している。さらにはこの書を次代に残すことによって、地域づくりの実践を次代の若者に残すことができた喜びも回収されておられるのだと思います。いま、壮大な回収で全身が満たされているのではないでしょうか。断片的な感想ですので話題が飛びます。吉永先生が「関係人口」という概念にふれておられました。ふっと思ったのですが、これはカナダ・ペトロリアへ行く前夜の智頭町とペトロリアの人々の間柄もそうだったのではないでしょうか。カナダと智頭の間には絶対的な距離があったのですが、互いに交流する中で関係人口が創出されていった。いまとなってはその創出も寺谷流「ギブギブ」の産物ですね。そして関係人口が実際に交流すれば、どんな素晴らしい瞬間が待っているのかをだれもが体験した。それ以降、いくつもの多様なパターンの関係人口を創出してきたと思いますが、今回は学生たちという年代も居住地も距離がある人々との関係人口ができた。これは未来の関係人口です。本来は同じ時代の物理的な距離がある人々の間柄を関係人口と呼ぶのでしょうが、本書に収納されている関係人口は今と未来という3次元的な時間距離を隔てた関係人口です。次代への「時空を超えたギブギブ」という何よりの実践例ではないでしょうか。岡山にて》

広島時代の友人から一編の感想が届いた。出会ってから50年、地域づくりは人も物も本物が試され、人間力が根本から鍛えられた。

《今般は貴殿の大作を恵送いただき有難く拝読しました。約40年間にわたり智頭への思いがよく伝わりました。打たれても、打たれても進まれ、沢山の著作本当に素晴らしいことです。①エディターシップ、②ギブ&ギブ、③利他、この三つで頑張れたのだと思います。本著が集大成かと存じますが、益々のご活躍をお祈りします。浦部哲夫》

そして、本書の編集に当たって珠玉のコメントがあった。氏から「1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。」(3章6)、以来40年、塵も積もれば宝となれとメモ(記録)を実践した。

《感想 酒樽をかき混ぜるように、書き直すたびに、寺谷物語の豊穣な香りが立ち昇ります。しかも、ついには素風川柳まで添加された、大吟醸に仕上がってきたようです。見事な一代記です。極めてアナログ的な、地域おこしの集大成を、デジタルの手法を駆使してまとめ上げた、貴重な記録であることを、応援団の一人として、高く評価してやまない次第です。ご苦労様でした。山下宅夫》

地域づくりは世のため人のためと思っていた。情けは人のためならず、自分自身に返ってきた。ギブ&ギブの利他思想を持って邁進した。多くの人々の支援と協力を得て社会システム(仕組み)による地域づくりを実現し、誇りを創造した。まさに1983年に智頭町へ帰郷した時点から見ると雲外蒼天(うんがいそうてん)、想定外も想定外、遥かに予想を超えた地域づくりとなった。智頭町に賭けてよかった。そして「ギブ&ギブ」を出版後、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との面談(第3章9)をきっかけに、社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。

昨秋、北京外国語大学教授の宋金文先生が主宰された東アジアシンポ(横浜市立大学教授吉永崇史先生/韓国・全国災害安全研究所副所長羅貞一氏/鳥取県建築士会事務局長澤田廉路氏)の議論の中で、智頭町の住民は長年にわたって学習してきたと所見があった。まさに地域内外の人々との交流によって新しい知識に触れ心をときめかせた。それが刺激となって誇りを引き寄せたのだ。つまり、社会システム(仕組み)は、智頭町の人々の起爆装置となった。

1973年に一念発起し故郷を出奔してから半世紀の50年になる。奇跡的に命がある、まず感謝である。夢見たことを実現するため挑戦した。本書の第1章から第3章は、ゼロイチ運動による社会システム(仕組み)が、集落に奇跡を起こした事実を検証した。そして、本章は草郷先生の問いである思考の背景を書いた。文章の編集は孤独な闘いであった。できるだけ素直に一語一語を絞り出し、記録と記憶の取捨選択によって構成した。そして、京都市へ移住して11年になる5冊の出版と本書を編集した。地域に気泡のように萃点が生まれ、人々と事と心を紡いだ。実践者の学びと、社会システム(仕組み)創造の記録である。

参考資料
『ひまわりシステムのまちづくり』(共著:地域と科学出会い館、はる書房 1997)
『CCPT活動実践提言書』(編集:智頭町活性化プロジェクト集団 1989から1998)
『地域からの挑戦』(著者:岡田憲夫、杉万俊夫、平塚伸治、河原利和、岩波書店 2000)
『よみがえるコミュニティ』(編著:杉万俊夫、ミネルヴァ書房 2000)
『「地方創生」から「地域経営」へ』(共著:寺谷篤志・平塚伸治、編著:鹿野和彦、仕事暮らしの研究所 2015)(中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2017)
『定年後、京都で始めた第二の人生』(著者:寺谷篤志、岩波書店 2016)
『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み』(編著:寺谷篤志、澤田廉路、平塚伸治、今井出版 2019) (中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2021)
『ゼロイチ運動と「かやの理論」』(編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
『ギブ&ギブ、やせっかいのすすめ』(編著:寺谷篤志、今井出版 2022)

著者紹介
1948年鳥取県智頭町芦津に生まれ、1973年から1983年中国郵政局勤務。1983年那岐郵便局長、1984年杉板はがき発案、1988年CCPT設立、1989年地域経営をテーマに杉下村塾を開講する。1995年智頭町グランドデザインプロジェクト、1996年ゼロイチ運動の具体策を考案、1997年ゼロイチ運動スタート、2008年地区振興協議会スタート。2011年退職し京都市に移住、コミュニティにおける創発規範の連鎖を検証、執筆する。自称、地域経営実践士。
好きな言葉は、一隅を照らすこれ則ち国宝なり。いまやらねばいつできるわしがやらねばたれがやる。一寸の虫も五分の魂。我在存宇宙。独立自尊。


 

過疎化  SDGs・社会システム(仕組み)の力
―地域経営組織をつくる / 杉しかない町から誇りある智頭町へ―

発 行:2024年12月16日
著 者:寺谷篤志
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


 

お問い合わせ
本書は、『過疎化SDGs・社会システム(仕組み)の力/本編―地域経営組織をつくる 杉しかない町から誇りある智頭町へ―』2023年3月12日/( ⇨ 全編)の加筆修正版です。
本書についてのご意見、ご質問等のお問い合わせは、このページ(フロントページ)上段画像下のナビゲーションメニューの「プラットホーム」からお願いいたします。寺谷篤志から直接、所見を述べさせていただきます。


 

はじめに―社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

〇2022年4月24日㈰の午後8時からZOOMで、秋田読書クラブ (主宰者、長尾眞文氏) の例会が行われた。題本は、『多様性の科学』(著者:マシュ―・サイド)で第6章の「平均値の落とし穴」(pp.268-312)を、関西大学社会学部教授草郷孝好先生が解説された。社会システム(仕組み)の重要性を再認識した。草郷先生とは初対面である。
〇次回は7月24日、拙著『ギブ&ギブ、おせっかいのすすめ(以下『ギブ&ギブ』)』(今井出版、2022年)第3章(pp.141-165)を、私が紹介する約束をした。このご縁を活かし、草郷先生から是非とも講評をお伺いしたいと思った。そこで、『ギブ&ギブ』の出版直後、既刊の『地方創生へのしるべ―鳥取県智頭町発 創発的営み(以下『創発的営み』)』(今井出版、2019年)と、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』(今井出版、2021年)の智頭町づくり三部作をお贈りした。
〇7月24日(日)に読書会が開催されて、草郷先生から最後の1分間にコメントをいただいた。
《実は三冊の本を送っていただいていたのです。(略)ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみることで空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》
〇それから間髪を入れず、27日には草郷先生のご著書の新刊『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店、2022年7月)が届いた。感激した。ご著書から、私たちは予想を越え未知への挑戦を行っていたことがわかった。つまり、地域づくりで「誇りの創造」をテーマに、社会システム(仕組み)の「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動(以下「ゼロイチ運動」)」に挑戦した。それらは何のためにやったのか、私たちはウェルビーイング(至高善)を手繰り寄せていた。2010年に腎臓癌を発症した。命を救ってもらい必死の思いで三部作を編集したことによって、地域づくりの核心を掴むことができた。
〇そして、応援していただいた方々の顔が浮かんだ。この納得感をあの世に持って行くわけにはいかない、兎に角まとめなければいけない。ところが2022年の酷暑は凄まじかった。7月末からフラフラしながら毎日パソコンに向かった、本書の構成は踏み込んで、また踏み込んで見えた。社会システム(仕組み)をキーワードに編集したところ、智頭町の集落で奇跡が起こっていた。
〇9月に入って草郷先生に荒書きを送った。「草郷です。修正資料を拝読させていただきました。セットで学生への貴重な資料になります。それから、差し支えなければ、関心のある知り合いに共有させていただきます」と。また、北京外国語大学北京日本学研究中心教授宋金文先生からは、「ゼロ分のイチ運動を社会システムの視点で整理して、いろいろ考えさせられることがあって、腑に落ちるものがあります。私も社会システム論の応用による境界突破という視点と、「制度創生と越境―過疎地域づくりの事例を通して」のテーマで、社会システムの立場から、この事例の意味を総括しているところです」。お二人のコメントに使命感を覚えた。地域づくりに社会科学の視点を取り入れ、理論を翻訳し実践して、身近な仕組みを少し変えた。本書は、住民の覚醒化によって地域規範が変化した二つのコミュニティ(鳥取県智頭町と京都市のマンション自治会)の軌跡を編集した。

2024(令和6)年10月

[プログラムガイド]“ ゼロ(無)からイチ(有) ” の小さな大戦略

〇1983年ごろ、智頭町の住民は観光資源がない、温泉がない、傑出した人物がいない、杉しかないと言っていた。しかし、地域社会で無いモノを幾ら嘆いても、地域は変わらない。私たちは智頭杉にこだわった。1984年に「杉板はがき」を発案し、翌年に「智頭杉名刺」を製作した。杉材の板切れや端切れでなにが地域活性化かと嘲笑された。
〇1988年に「智頭町活性化プロジェクト集団」(Chizu Creative Project Team:略 CCPT)を組織し、“地域の国際化”をテーマに青少年社会人海外研修支援事業をスタートして可能性が広がった。そして、1989年にスイス山岳地調査で住民自治の種を見つけ、新しい社会システムの実現に向けて挑戦した。世界に目を向ければヒントがあった。ところが30年前には、選挙違反が二度起こり、町会議員が大量に逮捕され、我が町はこんな町かと屈辱感を持った。どこにでもある普通の町(中山間地)がどうして革新できたのか、それはたまたま起こったことではない。
〇地域づくりに意図的に新機軸の①小集団活動を取り入れ、②社会科学の学びの場づくり、③社会システム(仕組み)を創造し、住民自治の舞台を創った。1995年にCCPTと智頭町役場職員7人で「智頭町グランドデザイン策定プロジェクト」のチームを発足させ、叡知を結集し、1997年に「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」がスタートした。15集落の住民が、「住民自治」「地域経営」「交流情報」の3本の柱によって活性化計画を立て実行する社会システムである。そして、2008年に地区振興協議会(旧小学校区単位)を設置し、併せて、行政施策で住民と役場が協働する百人委員会が起動した。その委員会に参加した西村早栄子氏(移住者)が「森のようちえん」を提案した。地区振興協議会の活動と百人委員会が実行され、智頭町に誇りを創造した。
〇そして、私は2011年秋に京都市に移住した。そこでマンション自治会の立ち上げを目指した。気づけば周りの町内会で毎年地蔵盆が催されていた。地蔵盆は豊臣秀吉の街づくり政策と言われている。マンションの理事会に地蔵盆を実施しようと提案した。ところがお地蔵さんが無い。考えた。お地蔵さんは大地を蔵に見立ててすべての生命が芽吹くところと解釈した。2014年2月、マンション管理組合の臨時総会が開催され、住民の総意を持って自治会が発足した。京都市のマンション自治会で日常防災をテーマに、子どもさん30人のふるさとづくりが始まった。
〇私たちの地域づくりの特色は、CI(Community Identity)戦略による。住民への対話は不可欠である。一つひとつ施策を企図し、社会科学を学び、講義等の文字起こしを行って共有することが、創発的規範の核心(萌芽)となった。諦めたら地域実現はない。それはなぜか。生きる。地域に生き抜くぞという信念が語彙となり、言葉となり、文章となり、会話となって、創発的規範の核となった。本書は地域創生に挑戦したステップを紹介する。

第1章  一歩を起こし、助走から「かや(蚊帳)の理論へ

〇1986年に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を知事から受け、審議の中から地域づくりを学び、いずれ智頭町に「地域戦略のソフト機関」を創りたいと思った。答申した「とっとりingsマン(積極人間)」の実践を決意した。鳥取県内の多様な人財と出会い、多くの知見を得た。そして、1989年8月末に「地域経営」をテーマに第1回杉下村塾(さんかそんじゅく)を開講し、参加者へ《これら「奇人」をいかに認めるかが、その地の将来を左右する。そして、地域の人々から出た「起人」が、「企人」に生まれ変わる》と、檄文を発信した。社会科学の学びから、住民と地方大学研究者との連携によって地域創生が実現した。

第2章  ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)の創造

〇1993年に杉の木村で杉万俊夫先生(現:京都大学名誉教授)から「かや(蚊帳)」の理論 (『ゼロイチ運動と「かやの理」』講義-1、pp.206-228)(後記、参考資料3.参照)の講義を受け、CCPTと役場の連携を構想した。まず郵便局と役場職員は、高齢者サービスの「ひまわりシステム」を発案し、次に1995年にグランドデザイン策定プロジェクトチームを編成した。その時点に、杉万先生から「ゼロイチ運動と『かやの理論』―智頭町の活性化運動10年―」(論文-1、pp.4-27)が届いた。《「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある》論考によって、次の段階の“集落のCCPT化”を実現するため、ゼロイチ運動を企画しスタートした。住民と研究者の叡知を結集し社会システムを創造した。地域に舞台を創れば人財は生まれる。

第3章  コミュニティの価値、創発的規範の連鎖

〇智頭町で実行した「かや(蚊帳)」の理論と社会システム思考を応用し、2014年にマンション自治会を設立した。学区町内会と連携しながら、地蔵盆とクリスマス会を開催し、子供さん30人のふるさとづくりを行っている。第13期 (2023.11.25) 第2回理事会で「居住者名簿」の作成が決議され、地縁による安心システムが起動した。
〇そして、杉しかない過疎の智頭町は、誇りの創造から起業戦略(小さな商い)へと展開している。それら実態を横浜市立大学教授吉永崇史先生ゼミ、関西学院大学非常勤講師畑井克彦先生ゼミ、京都大学教授永田素彦先生ゼミ、北海学園大学教授大貝健二先生ゼミは、智頭町をフィールド調査し、創発的規範の連鎖を検証された。1992年第4回杉下村塾に参されていた京都大学教授永田素彦先生から、「成長を続ける/成長を促す智頭」(第3章11(10))をご寄稿いただいた。地域づくりのプロセスが物語科学によって検証された。学生から感動の声が上がった。

第4章  智頭町の秘訣~地域の国際化、「誇りの創造」

〇1988年にCCPTの結成時、活動テーマを“地域の国際化”とした。杉万先生から《豊かな意味を汲みとれる心をもつには、豊かな「かや」に包まれることをおいて他にない》と提案された。本書を三冊目の翻訳図書として中国に提案したい。令和の遣唐使(書籍・ヒト交流)プロジェクトを企画中。北京外国語大学教授宋金文先生は、《寺谷さんたちの取り組みをじっと見ていくと、それは、方法はあるのだということに気が付きました。いま分かるようになったのは地域おこしがけっしてたやすいものではない、成果を上げるまでには、地元の資源、ひと、知恵などを凝縮して、住民主体に活動し、リーダーの粘り強い誘導などをとおしてシステム的に個人や組織、社会を動かすしかないということです。それは、長い道のりですが、やればできるということです》と、国を超える大学間連携から、住民と大学の襷掛け交流を展開している。

第5章  身近に人生師あり、独立自尊

〇21 歳の初冬の夜、地元小学校の宿直室に故小林義男先生を訪ねた。先生から手渡された一冊の本『ピーターの法則―創造的無能のすすめ―』(著者:ローレンス・J・ピーター)に、《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する》とあった。書籍は山峡の地に時代の先端を指し、学びの原点である。
〇子供の頃、母方の高祖父の逸話を聞いた。旧社村(鳥取市内)の村会議員をしていた。現職中、反対を押し切って溜池や発電所の建設を進めたという。おそらく地域を長い目で見ていたのだろう。施設は三世代にわたって活き続けている。つまり、「地域経営」の概念は高祖父の逸話に影響を受けた。そして、帰郷した時点から見ると雲外蒼天、想定外も想定外、予想を超えた地域づくりが実現した。社会科学の学びの場づくりが突破口となった。

おわりに―奇跡のサスティナブル(永続的)ラン、至高善(しこうぜん)へ !―

〇私の至(志)点は拙著を智頭町立図書館に献本することである。多くの方々と出会い、出会った人の数だけ知恵をいただいた。ここに万感を持って筆を擱く、と書いたところへ明治大学教授小田切徳美先生から、内容的にも「ラストラン」ではなく「サスティナブル(永続的)ラン」と、慧眼のコメントをいただいた。そして、《智頭町のこの30年間の取り組みと成果は、それに抗する大きな力になると思います。このような偉業に感謝しております》(2024.02.06)と、メールをいただいた。地域創生の事実をつくった。

追記―おわりにを書き終えて、極論・農山村は消滅しない―

〇幼い頃、あの山を越えて外の世界を見たいと思った。奇遇にも現在、平安京の大極殿の陰陽師寮址に住んでいる。1,200年前にはこの地で安倍晴明が天変地異を占った。地縁を感じる。願いは、地域づくりを編集し国内の過疎地域に事例紹介したい。交流先の北京外国語大学北京日本学研究センターに届けたい。命を救ってもらい、多くの人々との出会いが励みとなった。2年半かけてようやく一文字一文字を綴り、本書を書き終えた。地域は人々にとって身体の一部である。例え自治体が消滅しても地域は消滅しない。

書評―智頭町の地域づくり~解析「地域の社会的生態系(エコシステム)」の創造

〇九州大学大学院教授嶋田暁文先生に書評をお願いした。そして、ご教示いただいた「計画された偶発性理論」により、自身の行動パターンを理解することができた。書評では、《まず、寺谷さんの取り組みは、「社会システム」の変革には間違いないですが、用語として、「地域の社会的生態系(エコシステム)」というような概念を用いた方がすっきりしますね。生態系(エコシステム)こそが、しっくりきます》《「いずれにせよ、寺谷さんの最大のご貢献は、生態系を作り直したこと、プロセスを通じて、フォロワーだった人々の主体性を引き出し、彼(女)らが新たな生態系の下で主体的に活躍していくようになる基盤を構築されたことだろうと思います。その営みの全貌と背景(おじいさまのことなども含め)を知ることができ、大変勉強になりました》、地域の「エコシステム」の変革と解析をいただいた。

参考資料
① 1979年「ハエ(鮠・はや)」の理論
② 1991年「水平型エディターシップ」の理論
③ 1993~94年「かや(蚊帳)」「心の形成4点セット」の理論
④ 1997~98年「贈与と略奪」「現前トトロと伝説トトロ」の理論
⑤ 2023~24年「計画された偶発性理論」

〇私は理論を段階的に学習し一歩を起こし、実践論の核心を掴んだ。1983年に帰郷後、即座に行動したのは、自主勉強会で出会ったリーダーシップ論(著)松本順の「ハエ(鮠・はや)」の理論により行動原理を学んでいたからだ。智頭町の小磁極は「杉」である。そのことを共通の価値観としてチームを組織した。振り返ってみると周りから何と言われようと決然とした態度で実行した。
〇1997年に第9回杉下村塾の講義で、杉万先生からCCPTの活動13年のキーワードは「贈与と略奪」と解析いただいた。そして2023年に嶋田暁文先生からご教示をいただいた「計画された偶発性理論」は、①好奇心②粘り強さ③柔軟性④楽観性⑤勇気にある。特に①好奇心と⑤勇気と直観力が、夢を実現する法則と言える。

[プログラムガイド]まとめ

〇おそらく最後の執筆となる、とうとう19万字を超えた。そこで何が起こったか、執筆作業が心の免疫力を高めた。気力が充実し、病気には特効薬であった。それと創発的規範の伝播によってきっとインターローカリティ(3章7に解説)が起こるものと期待し、その執念で書いた。地域づくりを実践し40年、社会科学を学び、翻訳し、気づき、実践し、事実をつくり、記録し、創発的規範の連鎖を確かめ編集した。書いたことを公開したことによって、大学ゼミの学生さんは本書を読み、智頭町フィールド調査を行い、地域づくりが検証された。地域社会にとっても自分自身にとっても評価書である。
〇「森のようちえん」を視察した畑井ゼミの女子学生の「あとがき」(第3章11(12))~命を見つめなおす~山下奈々美さんは、《現代の女性が子どもを産み育てることから離れてしまった原因は何なのか。本当の意味で子どもを育てるということはどういうことなのか。目の前の当たり前に疑問を持ち、「本当のこと」とは何なのか。考えていく必要がある》、子育ての本質を問う共育機会となった。
〇地域づくりになぜ挑戦したのか、1つは、社会の本質と真理が知りたかった。2つは、住民自治と地域経営を実現したかった。3つは、人権を認める社会を創りたかった。つまり、地域づくりの延長線上に一生と老後がある。地域の新たな創造に手応えを感じながら取り組んだ。それは自己満足か、いえ違う。地域づくりは利他主義の実践(贈与と略奪)であった。地域づくりの秘訣は、創発的規範のゼロ(無)からイチ(有)の小さな大戦略にあった。

目次―社会システム(仕組み)の力―


 

社会システム(仕組み)の力
―鳥取県智頭町と京都市のマンション自治会―

発 行:2024年12月16日
著 者:寺谷篤志
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


渡邊一真/排除・同質化・リモート化する社会における福祉教育・ボランティア学習を考える

出所:渡邊一真/排除・同質化・リモート化する社会における福祉教育・ボランティア学習を考える/『ふくしと教育』通巻36号、大学図書出版、2023年9月、22~25ページ。
謝辞:転載許可を賜りました日本福祉教育・ボランティア学習学会と大学図書出版に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所 渡邊一真

三ツ石行宏/福祉教育の探究―歴史・理論・実践―


 

Ⅰ 福祉教育史研究の現状と課題


















出所:三ツ石行宏/福祉教育史研究の現状と課題/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.22、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2013年11月  、68~76ページ。
謝辞:転載許可を賜りました三ツ石行宏先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅱ 福祉教育は都合よいボランティアの

養成方法なのか?

―福祉マンパワー施策及び福祉教育の概念規定に焦点をあてて―

 

Ⅰ.  はじめに

「ボランティアは都合よく利用されているだけではないか?」そのように、ボランティアに対して懐疑的な見方をする人は少なくはないだろう。たとえば、東京オリンピックのボランティア募集は「やりがい搾取」と批判され、ブラックボランティアとして揶揄されたことは記憶に新しい。社会福祉領域のボランティアについては、「『とり込まれた』ボランティア活動は、本人たちの意図とは関わりなく、結果として『安上り福祉』を支えることになってしまった」(田代, 2007, p.120)という指摘もある。

本学会(日本福祉教育・ボランティア学習学会)として着目すべき指摘は、阪野(1993, p.24)による「社会福祉の世界においては、いま行政によるボランティアの包絡化が進み、マンパワー対策の一環としてボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進が図られている」というものであろう。篠原(2020, p.103)はより踏み込んで「福祉教育はややもすると国家責任としての社会福祉の転嫁の流れ、在宅福祉サービスの流れ、地域福祉計画などの計画化の流れに位置づけられ、無償ないし廉価な人材の育成に資する側面をもつ点への注意が必要である」と指摘をしている。

つまり、福祉マンパワー施策と福祉教育との関連が問われている。先行研究において、管見の限り、福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて歴史的に明らかにした先行研究はない1)。そのため、本研究の目的は、まず福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて、その政治的含意を歴史的に明らかにすることにある。日本社会福祉学会事典編集委員会編『社会福祉学事典』を見ると、「マンパワー・人材」に1章分、割かれているほど社会福祉領域で重視されていることが分かる。マンパワー・人材育成と教育は切っても切り離せない関係でもあるため、研究意義があると考える。福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについての結論を先取りすれば、福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけは、「ボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進」(阪野, 1993, p.24)が主たる側面であったことにあり、それを実証的に跡付けることになる。ただ「ボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進」は果たして、どのような意味を持っているであろうか。ネガティブなことであるのか、またネガティブな側面があったとしても、それを克服しうる方策はないのであろうか。本研究では、その問いについて考察することを、もうひとつの目的として設定する。

Ⅱ.  研究方法

研究目的の1つ目である、福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて、その政治的含意を歴史的に明らかにすることにおいて、分析方法は次のものを採用する。すなわち「福祉教育を所与のものと予め設定するのではなく、(中略)答申や通知等において 、福祉教育がどのようなものとして語られているかを丹念に描き出していくこと」(三ツ石, 2013, p.74)を採用する。つまり、福祉教育の概念規定をいったん宙づりにして「言説に着目し、(中略)政治的含意を明らかにする」(三ツ石, 2013, p.74)方法を採用する。分析対象は社会福祉領域における先行研究で福祉マンパワー施策として俎上に載せられた施策とする。福祉教育の用語が全国的に最初に明文化して使われたのは、1968年全国社会福祉協議会による「市町村社協当面の振興方策」においてである(原田, 1996, p.75)。そのため、分析対象となる福祉マンパワー施策は1968年以降のものに限定する。

研究目的の2つ目は、「ボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進」は果たして、どのような意味を持っているのか、ネガティブな側面があったとすれば、それを克服しうる方策はないのか、といった問いについて考察することである。研究目的の1つ目として、福祉マンパワー施策における福祉教育の政治的含意を明らかにするため、言い換えれば行政側の意図を明らかにするため、その概念規定については宙づりにしてきたが、研究目的の2つ目では実践者・研究者側から検討・構築されてきた福祉教育の概念規定を踏まえてボランティア(主にネガティブな側面)について考察を加える。

なお、本学会の論文投稿に関するガイドラインを遵守する。本研究のような文献研究は、当該ガイドラインにおいて、引用・剽窃に関する規定(第4条)、多重投稿・二重投稿に関する規定(第5条)、人権への配慮(第6条)が主として関わると考える。具体的には本研究では自説・他説の引用に際して引用箇所等を明示し、また引用に際して一次資料を確認して引用・剽窃に関する規定(第4条)を遵守している。本研究は、他誌への同時投稿、既刊論文(および既刊論文の内容との重複)ではないため、多重投稿・二重投稿に関する規定(第5条)を遵守していると考える。論文投稿前に、差別的あるいは不適切と考えられる用語はないかを改めて確認し、人権への配慮(第6条)を遵守していると考える。

Ⅲ.  福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第Ⅲ章では、福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて歴史的に明らかにする。戦後の福祉マンパワー問題は、大橋(1992)によると4期に区分される。福祉教育が福祉マンパワー施策にどのように位置づけられてきたのかを、基本的にはこの大橋(1992)の4つの時期区分に沿って検討していく。

1.  第1期および第2期の福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第1期は、社会福祉主事の養成・確保をどのようにするかが問われた戦後混乱期から1960年代末までの期間である。この期は、行政整備と生活保護を中心とした経済的給付としての公的扶助が社会福祉における最大の課題であり、公的扶助を担当する職員の養成と研修が大きな課題であった(大橋, 1998, p.26-28)。第1期は前述のように、検討の範囲外である。

第2期は、「社会福祉施設緊急整備5ヵ年計画」に基づく社会福祉施設増大に見合う社会福祉施設職員の確保および養成に関する課題であり、おおむね1970年頃から1985年頃までである。この時期は、福祉事務所に就職することを想定している社会福祉主事の養成と、“社会福祉施設の近代化”の中で社会福祉施設に就職する生活指導員、ケアワーカーの養成のあり方とが混在している時期である(大橋, 1998, p.27)。この5ヵ年計画は、もともとは「新経済社会発展計画」にもとづき、その策定が求められ、1970年の中央社会福祉審議会の「社会福祉施設の緊急整備について」という答申を踏まえて策定されたものであり、保育所の整備や老朽社会福祉施設の建て替え等をその内容としていた。しかし、「社会福祉施設の緊急整備について」・「社会福祉施設緊急整備5ヵ年計画」のいずれについても、福祉教育という用語は使われていない。

ただ、第2期は、施設福祉から在宅福祉への転換期でもあるが、その転換に伴い、従来の社会福祉職員施策に関する問題では登場しなかったマンパワーの課題がクローズアップされてくる。それは、在宅福祉の固有の職員の確保、資質の向上と共に、ボランティアが重要なマンパワーとして捉えられたことである(小笠原, 1988, p.27)。たとえば、全国社会福祉協議会は1977年に「在宅福祉サービスに関する提言」を行い、在宅福祉サービスの重要性を強調し、それを担うマンパワーとしてボランティア等の確保と増員の必要性を指摘した。その「在宅福祉サービスに関する提言」であるが、「マンパワー対策」という項目の中に「福祉教育」の文言が見られる。すなわち「ボランティアの確保にとって,社会福祉の情報の提供と福祉教育の充実は不可欠である」という箇所である。この期から、福祉マンパワー施策の中でボランティアがマンパワーとして捉えられ、福祉教育が用語として使われ始めるのである。本節をまとめると、第2期の福祉マンパワー施策から、ボランティアがマンパワーとして捉えられ、福祉教育が用語として使われ始めるのである。

2.  第3期の福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第3期は、1987年に成立した「社会福祉士及び介護福祉士法」に基づく資格制度とその養成が問われてくる時期である(大橋, 1998, p.27)。「社会福祉士及び介護福祉士法」は、1986年に東京で開催された国際社会福祉会議で日本に社会福祉専門職制度のないことが指摘されたり、日本社会事業学校連盟が大学における専門職員養成のガイドライン作りを進めていたこと等を背景に、成立した法律である(大橋, 1997, p.29)。『社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集』(全3巻)を確認しても福祉教育の用語は出てこない。また「社会福祉士及び介護福祉士法」制定に変わった当時の厚生大臣のオーラル・ヒストリー(『斎藤十朗オーラル・ヒストリー』)を確認しても、福祉教育に関わる文言は出てこない。「社会福祉士及び介護福祉士法」を含む、この期の施策において、福祉教育の用語は見られない。

3.  第4期の福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第4期は、ゴールドプランとの関係で問われているマンパワー問題である(大橋, 1992, p.26)。ゴールドプランにおいて、数値目標が立てられたことにより、それだけのマンパワーを確保できるのかという問題が浮き彫りになったのである。厚生省は介護需要の増大に伴い顕在化した福祉マンパワー問題等を検討するために「保健医療・福祉マンパワー対策本部」を設置し、1991年に中間報告をとりまとめるのである(大橋, 1997, p.29)

(1)  ゴールドプランなどの計画等と福祉教育
ゴールドプランでは、在宅福祉推進10ヵ年事業としてホームヘルパー10万人等、また施設対策推進10ヵ年事業として特別養護老人ホーム24万床棟といった整備目標が設定され、さらには「寝たきり老人ゼロ作戦」の展開、在宅福祉等の整備の充実のための「長寿社会福祉基金」の設置などが掲げられた(秋元ほか編, 2003, p.123)。ただゴールドプランには福祉教育という用語は見られない。ゴールドプランは、1994年度中に出揃った地方の「老人保健福祉計画」で策定された整備目標を踏まえて作成しなおされ、1995年度からは「高齢者保健福祉推進10か年戦略の見直しについて(略称・新ゴールドプラン、以下この用語を使用)」になった。そして、この新ゴールドプランについては、福祉教育の用語が見られる。

新ゴールドプランにおいて、「介護基盤整備のための支援施策の総合的実施」として、「1.高齢者介護マンパワーの養成・確保対策の推進」から、「7. ボランティア活動・福祉教育・市民参加の推進」が7点挙げられている。そのうち7点目を見たらわかるように、福祉教育の用語が見える。そこでは、「ボランティア活動・福祉教育の推進」として「学童・生徒のボランティア活動の一層の推進を図る」とされている。

新ゴールドプランの後には、1999年に「今後5か年間の高齢者保健福祉施策の方向(略称・ゴールドプラン21。以下、この用語を使用)」が出された。ゴールドプラン21でも、福祉教育の用語は見られる。ゴールドプランにおいて、「今後取り組むべき具体的施策」として「(1) 介護サービス基盤の整備」から「(6) 高齢者の保健福祉を支える社会的基礎の確立」まで挙げられている。そのうち6点目の「高齢者の保健福祉を支える社会的基礎の確立」であるが、「長寿科学の推進」「国際交流の推進」に並んで「福祉教育の推進」が掲げられている。「福祉教育の推進」については「介護福祉士等の福祉専門職の養成を推進。あわせて、学童、生徒のボランティア活動を推進」とされている。「学童、生徒のボランティア活動を推進」となっており、新ゴールドプランの文言からの変化は見られない。

上記のように、高齢者関連の施策である新ゴールドプラン、ゴールドプラン21に福祉教育の用語は見られる。一方、児童関連の施策はどのようであろうか。1994年の「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について(略称・エンゼルプラン。以下この用語を使用)」、1999年の「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について(新エンゼルプラン。以下この用語を使用)」といった子育て支援計画はどうであろうか。エンゼルプランは,「子育てと仕事の両立支援の推進」など5つの基本的方向と「多様な保育サービスの充実」など7つの重点施策が示すものである2)。エンゼルプランの具体化として,大蔵・厚生・自治の3大臣合意により「緊急保育対策等5か年事業」が策定された。「緊急保育対策等5か年事業」において,保育の量的拡大等を図るために数値目標が設定され,計画的に推進することとされた。このエンゼルプランに福祉教育の用語は見られない。新エンゼルプランでは,「保育サービス等子育て支援サービスの充実」等8つの施策目標が示された3)が、福祉教育の用語は使われていない。つまり、エンゼルプランおよび新エンゼルプランといった子育て支援計画には福祉教育の用語は見られない。その他、障害者関連の施策はどのようであろうか。1995年の「障害者プラン――ノーマライゼーション7ヵ年戦略」は、リハビリテーションの理念とノーマライゼーションの理念を踏まえつつ、「バリアフリー化を促進するために」等の7つの視点から施策の重点的な推進を図るものである4)。しかしながら、障害者プランには福祉教育の用語は見られない。ここまでまとめると、高齢者に関わる福祉マンパワー施策には福祉教育の用語は見られるが、児童・障害者に関わる福祉マンパワー施策には見られないということである。

介護需要の増大に伴い顕在化した福祉マンパワー問題等を検討するために設置された「保健医療・福祉マンパワー対策本部」は、1991年に中間報告を取りまとめるが、その中に「次代を担う学童、生徒をボランティア予備軍として位置づけ、福祉マインドを醸成するための、福祉教育を推進する」(厚生省大臣官房政策課編, 1991, p.58)という文言がみられる。本項をまとめると、次のようになる。つまり、福祉マンパワー施策は、高齢者に関わるボランティア養成の方策として福祉教育という用語を使ったのである。

(2)  「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」と福祉教育
1992年に社会福祉事業法及び社会福祉施設職員退職手当共済法の一部を改正する法律(略称・福祉人材確保法、以下この用語を使用)が公布された。1995年には、福祉人材確保法に基づき、「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」(以下、福祉人材確保指針として使用)が告示された。この福祉人材確保指針も、福祉マンパワー施策に含まれる(潮谷, 2014, p.709)ので、この項で検討する。

福祉人材確保指針であるが、社会福祉事業は人を相手とし人が行うサービスであること、および将来的に労働力人口が減少すると予想されることから、従事者の処遇の充実、社会的評価の向上等、就業の促進および定着化を図るような施策について示している(秋元ほか編, 2003, p.401)。福祉人材確保指針において、次の2箇所で福祉教育という用語が使われている。1つは「第2 人材確保の目標と課題」に現れ、もう1つは「第4 国及び地方公共団体が講ずる支援措置」に現れている。以下、各々について、厚生省社会援護局の解説も見ながら検討する。

表1 「国及び地方公共団体が講ずる支援措置」の1つ

表1から福祉教育の位置づけの要点は次の2つに捉えられると思われる。1つ目は、社会福祉・社会保障に関する給付やサービス等の理解のための手段である。2つ目は、ボランティアという福祉のすそ野を広げるための手段である。なお、ボランティアは福祉専門職の前段階という位置づけでもある。続いて「第4 国及び地方公共団体が講ずる支援措置」に現れる福祉教育について検討する。

表2 「国及び地方公共団体が講ずる支援措置」の1つ

表2から福祉教育の位置づけの要点は、福祉の仕事に従事する者の社会的評価向上の手段であることが分かる。ただ、表1にも言えることであるが、「国民の社会福祉に関する活動への参加の促進を図るための措置に関する基本的な指針」を参照せよとある。

「国民の社会福祉に関する活動への参加の促進を図るための措置に関する基本的な指針」は福祉マンパワー施策ではないが、「福祉の担い手」について示している箇所があるので、その箇所について検討する。当該箇所は次のとおりである。

「福祉の担い手の養成確保の観点からは、総合的かつ体系的にサービスを提供す  るために、福祉の専門職から一般のボランティアまで多様かつ重層的な構成をとることが必要であり、また、ボランティア活動の経験は、社会福祉事業に従事する者の業務への理解を高めるとともに、将来福祉の職場に参画する契機ともなり得る。さらに、社会福祉施設におけるボランティア活動を通じて、その介護や育児の技術等が地域に伝達され、住民の介護力等の向上の機会としても役立つ。」

上記の方策の1つとして「福祉教育・学習」が示されている。福祉人材確保指針と同じように、ボランティアという福祉のすそ野を広げるためであり、ボランティアは福祉専門職の前段階という位置づけでもあることが示されている。ここで新しく示されたのは次の2つである。一つは「社会福祉施設におけるボランティア活動を通じて、その介護や育児の技術等が地域に伝達され、住民の介護力等の向上の機会としても役立つ」であるが、もう一つは「総合的かつ体系的にサービスを提供するために、福祉の専門職から一般のボランティアまで多様かつ重層的な構成をとることが必要」である。その方策として福祉教育が位置づけられていることである。

なお「国民の社会福祉に関する活動への参加の促進を図るための措置に関する基本的な指針」が告示された時期は低額な費用負担を伴う生活支援型のサービスがボランティア活動か否かという議論が生じた時期でもあり、一時、有償ボランティアという表現もみられたが、結局は住民参加型福祉サービスという整理に落ち着くことになった(原田, 2010, p.32)。当該指針では、住民参加型福祉サービス供給組織として福祉公社、消費生活協同組合などが挙げられ、それらの活動に対する国民の理解の増進に努める必要があるとしている。ただ、同指針では福祉教育の用語は使われていないし、また表2に福祉教育と住民参加型福祉サービスという両方の用語が見られるが、その直接的な関連について読み取ることは困難だ。

ここまで福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたのかを歴史的に検討してきた結果、基本的な流れとして、福祉教育はマンパワーとしてのボランティア養成の方策として位置づけられてきたことが分かる。主として高齢者に関わるボランティア養成の方策である。それも施設福祉から在宅福祉への転換期から位置づけられてきたのである。

その他、社会福祉・社会保障に関する給付やサービス等の理解のための方策、ボランティアという福祉のすそ野を広げるための方策、社会的評価向上の手段等の位置づけもあるが、「Ⅰ. はじめに」の問題意識に戻ると、注意すべき点は次の2点である。福祉の担い手は「総合的かつ体系的にサービスを提供するために、福祉の専門職から一般のボランティアまで多様かつ重層的な構成をとることが必要」〔下線引用者〕とされ、一般のボランティアが福祉サービスを提供することを求められていることが、注意すべき点のまず1点である。「ボランティアは都合よく利用されているだけではないか?」という疑問が頭をもたげてくる。もう1点は、福祉教育がマンパワーとしてのボランティア養成の方策として位置づけられてきたことである。都合よくボランティアが利用されることに福祉教育は加担しているのではないか、という疑問が生じる。次章において、これらの点について考察する。

Ⅳ.  ネオリベラリズムと福祉教育

1.  ネオリベラリズムが引き起こすボランティアに関する問題

福祉サービスをボランティアが提供することについて、まず考察する。「Ⅰ、はじめに」で触れた「ボランティアは都合よく利用されているだけではないか?」という疑問は、言い換えれば「ボランティアが単なる行政サービスの『穴うめ』にすぎない」(田代, 2007, p.123)のではないか、という疑問となろう。

もちろんボランティアは否定的側面(を想起させる面)ばかりあるわけでない。仁平(2005, p.485)によれば、ボランティア活動に対して国家や市場がもたらす問題への解決策として肯定的な評価がある。その一方でネオリベラリズム的な社会編成と共振するという観点から批判もある。ネオリベラリズムとは資本の蓄積・移動に対する阻害要因を取り除き、経済や社会保障領域への国家の介入を限定し、公的領域を準市場的に再編していくことを指し、米英を中心に1980年代頃から先鋭化してきた政治的立場である(仁平, 2005, p.487)。

仁平(2005, p.487)は、ボランティア論によって価値的に根拠づけられる特徴のうち、頻繁に参照される、①民主主義準拠性と②ケア倫理準拠性という2つを取り上げ、各々について、以下のように説明している。

「・民主主義準拠性:これまで公的なサービスや決定を行政が一元的に支配・掌握していたが、その官僚制および専門家による決定や事業運営は、非効率性や人々のニーズを捉えきれない等様々な失敗を生み出した。よって市民が参画していく必要がある。それはかつての反対型の運動とは違い、行政とパートナーシップを組みながら対案を示しつつ行う必要がある。つまり、まちづくりや学校づくりにボランティアが多く関わり、事業運営や政策立案の担い手として継続性を持ったNPOが参画することで民主主義は深まり、同時に、このような活動に参加すること自体に、民主主義を学習する教育的効果がある。

・ケア倫理準拠性:ボランティア活動が生み出す社会関係は、より根底的で前政治的次元の意義を有する。ボランティア活動とは苦しんでいる固有の他者の声に応答する活動で、共に人間という点で平等な地平にあるボランティアと被援助者は、相互の受容・応答関係によって人間としての尊厳を回復する。NPOはこのような活動に制度的根拠を与えるもので望ましいが、官僚制的・専門主義的な国家は画一的・手続主義的で、個別のニーズに対応できないし、承認のニーズに応えることもできない。」

ネオリベラリズムと①民主主義準拠性および②ケア倫理準拠性との共振問題について、仁平(2005, p.489-494)は次のように整理する。

まずネオリベラリズムと①民主主義準拠性との共振問題についてである。問題として、ボランティアやNPOの活動が公的サービスの縮小によって生じる財やサービスの不足分を補うものとして活用されることを指摘する。また、活動の活性化が、諸階級の闘争と妥協の結果として国家に権利として書き込まれてきた社会権を、自助・共助的努力の圏へと放逐する上での前提条件を提供するという問題も指摘する。このような問題については、行政の補完・下請けではなく、積極的に決定過程に介入することが推奨されるが、中野(2001, p.258)の「ここで浮かび上がっているのは、国家システムが主体(subject)を育成し、そのようにして育成された主体が対案まで用意して問題解決をめざしシステムに貢献するという(中略)まことに都合よく仕組まれたボランティアと国家システムの動態的な連関である」を引用し、決定過程に介入することも批判されうると指摘する。その他、決定過程に介入することについては、それを通して社会的不均衡が増大しうることも指摘される。市民の声が拡大されることは善とされるが、それが誰の声なのかという問題である。

次に、ネオリベラリズム②ケア倫理準拠性との共振問題についてである。政治思想的に見れば次のようなケア倫理の問題について指摘する。つまり、ケア倫理は、応答すべき/すべきではない声の線引きを特定の基準によって行わないが、すべての声に応答することは不可能なので、結果として既存の関係性が選択され、その外部が排除されうるという問題である。その他、個人化やネオリベラリズム的社会再編に伴う変化は、既存の秩序からの離脱可能性を高める一方、個人を生活保守主義やバックラッシュ、外国人排斥という新たな敵体性にも節合させうると指摘する。異質な他者を、法を超えて統制・排除する方向と一致しうるのである。

以上、仁平の整理を見てきた。前章において、福祉教育がマンパワーとしてのボランティア養成の方策として位置づけられてきたため、都合よくボランティアが利用されることに福祉教育は加担しているのではないか、という疑問が生じることに言及した。よって、ネオリベラリズムとの共振問題について、福祉教育も悪い意味で加担するのではないか、と疑念が生まれると思われる。次節では、ネオリベラリズムとの共振問題と福祉教育の関連について考察する。

2.  ネオリベラリズムとの共振問題に対する福祉教育の概念規定からの考察

第Ⅲ章において福祉教育を、福祉マンパワー施策における位置づけについて検討するため、言い換えれば行政側の意図を明らかにするため、その概念規定については宙づりにしたが、ここからは実践者・研究者側から検討・構築されてきた福祉教育の概念規定を踏まえて、ネオリベラリズムとの共振問題について考察を加える。

福祉教育の代表的な概念規定として、全国社会福祉協議会に設置された福祉教育研究会(1980年、大橋謙策委員長)による「福祉教育とは、憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも阻害されてきた、社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを受給している人々を社会から、地域から阻害することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動である」が挙げられる。

『新福祉教育ハンドブック』では、上記の概念規定について、次の3つの特徴を挙げている(上野谷・原田, 2014, p.14)。その3点をまとめると次のようになる。

a) 福祉教育は人権を基本として成り立つ教育実践である。その中で、教育基本法にもある平和と民主主義を作り上げ、ともに手を携えて豊かに生きていく(ノーマライゼーション)ための実践力を育むことを意図してきた。
b) 学習素材として「社会福祉問題」を取り上げることである。社会福祉は、私たちにとって身近な日常の問題であると同時に、差別や排除の対象として切り捨てられてきた歴史と現実がある問題でもある。
c) 「社会福祉問題」を正面からとらえて、かつ自分自身の日常生活と結びつける(切り結ぶ)ために、体験学習を重視してきた。直接的なふれあいや対話を通して現実の課題に気づき、そこから学ぶことを大切にしてきた。さらに、それらを解決する「実践力」まで期待している。

福祉教育の概念規定における上記3つの特徴を踏まえた上で、ネオリベラリズムとの共振問題について考察する。ボランティアとネオリベラリズムの共振問題は、仁平(2005, p.494)によれば「共感可能な他者との関係性を重視するケア倫理的準拠的な、またラディカルな政治性を回避する民主主義なボランティア活動」が「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>を外部に置く」ことに起因する。たとえば、防犯ボランティアは<他者>をリスクとしてとらえて排除するかもしれない。よって、ボランティアとネオリベラリズムの共振問題を回避するポイントは、「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>」への対応ということになろう。

前節において、都合よくボランティアが利用されることに福祉教育は加担しているのではないかという疑問について指摘したが、福祉教育の概念規定にはボランティアとネオリベラリズムの共振問題を回避する要素を含んでいるため、むしろボランティアが都合よく利用されることにつながらないことを以下論じる。

福祉教育の概念規定の特徴の1つとして、社会福祉問題を取り上げることが挙げられるが、「社会福祉問題に直面している人たちは、実は社会的に排除され、高齢者差別・性差別・人種差別あるいは家庭問題や失業問題などを、同時に抱えている場合が多々あり(中略)福祉における生の現実とは、多様な問題が入り組んだ矛盾の現実」(上野谷・原田, 2014, p.14)である。よって社会福祉問題とは社会福祉領域における「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>」の問題といえる。

福祉教育の概念規定は「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>」を逸脱したままでよしとはしない。仁平(2005, p.494)は「『われわれを<他者>が苦しめる』という構図から『われわれと<他者>を対立させ、苦しめる基層的な<社会>的原因がある』という構図へと転換することで、<他者>を共感・連帯可能な他者へと改鋳」する必要性を指摘しているが、福祉教育の概念規定では、人権を基盤とし「ともに手を携えて豊かに生きていく」つまり共生の思想が大切にされているし、社会福祉問題は個人の問題ではなく「科学的な認識」(牧里編, 2003, p.103)を持つことが求められる。

また福祉教育の概念規定は「社会福祉領域にも『既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>』がいて問題である」という理解の段階にとどめるものではない。「ともに手を携えて豊かに生きていく」ための実践力を育むことが意図されているし、社会福祉問題を解決する実践力も意図されている。その際、ボランティア活動が重要になってくる5)。

猪瀬(2020, p.65)は、ボランティアが自分の役割を小さくしようとする国家や、あるいはお金儲け以外はやりたがらない市場のそれぞれのシステムに都合よく使われるが、それだけ国家や市場システムが隅々まで浸透した社会において、国家のサービスから排除されている人たち(たとえば被災した人などのマイノリティ)や、お金をもっていない人は、ボランティアがなければ、より困るだけである。単にボランティアが動員されているとシニカルに批判しても、排除されている人たちの問題について何の解決にもならない、と指摘する。

そのような問題の解決には「今あるシステムがうまく機能しないところに入り込み、他者と共に生きる空間」(猪瀬, 2020, p.65)にすること、及び「国家や市場のシステムを掘り崩していく身振りを身に着けていくこと」(猪瀬, 2020, p.65)が重要となる。福祉教育の概念規定は排除されている人たちの問題(つまり社会福祉問題)を素材にし、直接的なふれあいや対話を通して、共に手を携えて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることまで射程にいれており、上記のように猪瀬が指摘した点についても射程にいれていたと言えよう。よって、当該問題の解決には福祉教育の概念規定を十分に理解した行動が求められると考える。

Ⅴ.  おわりに

本研究では福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけを検討し、ネオリベラリズムが引き起こすボランティアに関する問題について実践者・研究者側から検討・構築されてきた福祉教育の概念規定から考察した。ネオリベラリズムとの共振問題について福祉教育は悪い意味で加担するのではなく、むしろ回避する要素を含んでいることを明らかにした。

ただ、福祉教育にも課題はある。清水(2021, p.21)が「行政の行うボランティア養成では、自己判断能力を持たせずボランティア活動を社会善として、その枠の中に閉じ込めようとする。つまり、サービス型のボランティアのみ養成し、運動としてのボランティア活動を排除しようとする」と指摘している。「行政は、ボランティア領域内部を透明化し、運動に繋がりうるベクトルを分別・排除する欲望を持っていたが、近年その動きは強まっている」(仁平, 2005, p.495)ため、行政が行う福祉ボランティア養成によって、福祉教育の概念規定が骨抜きにされることへの警戒が必要である。本学会は、設立当初から「実践」を重視し、実践から学び、実践を深め、実践を広げることを重視してきた(原田, 2014, p.390)。その諸実践から、骨抜きにされないような示唆を得るための理論的な研究、例えば排除されている人たちの声について福祉教育を行う人たちが代弁したり、共に訴えて、積極的にその声を福祉マンパワー施策に反映して共生社会を作るといった「福祉教育とソーシャルアクション」の理論的研究を進めることなどが求められると考える。

付記
本研究は、JSPS科研費19K13975の助成を受けたものである。

【注】
1) 「日本産業教育学会においても高校福祉教育の研究が着実に蓄積されつつある」(日本産業教育学会編, 2013, p.60)という指摘にみられるように、高校福祉科と産業の関係については一定の研究成果が見られる。しかしながら、高校福祉科という狭い領域と、産業という幅広い領域の関係であり、福祉教育と福祉マンパワー施策との関連そのものの研究成果ではない。佐々木(2007)は、福祉マンパワー対策の中でも福祉人材確保指針・福祉人材確保法と社会福祉教育にについて分析しているが、幅広く福祉マンパワー施策と福祉教育との関連について検討したものではない。
2)  文部省・厚生省・労働省・建設省(1994)「今後の子育て支援のための施策の基本的方向 について」https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/angelplan.html
(最終閲覧日:2021年12月11日)
3)  厚生省(1999)「新エンゼルプランについて」
https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/syousika/tp0816-3_18.html
(最終閲覧日:2021年12月11日)
4)  障害者対策推進本部(1995)「障害者プランの概要――ノーマライゼーション7ヵ年戦略」https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/plan.html
(最終閲覧日:2021年12月11日)
5)  大橋(1987, p.74)は「社会福祉に関する意識は、知的理解でのみではなかなか変容しない。社会福祉問題を抱えた人々との交流の中で、あるいはその問題解決の実践・体験の中で変容する。それだけにボランティア活動の推進は重要である」と指摘している。

【引用・参考文献】
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秋山智久監修(2007)社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集1 成立過程資料, 近現代資料刊行会
秋山智久監修(2008)社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集2 成立後資料, 近現代資料刊行会
秋山智久監修(2008)社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集3 成立後資料(前史資料), 近現代資料刊行会
原田正樹(1996)「福祉教育」研究の動向と課題に関する考察, 日本福祉教育・ボランティア学習研究年報, 1, p.74-99
原田正樹(2010)ボランティアと現代社会、柴田謙治・原田正樹・名賀亨編, ボランティア論――「広がり」から「深まり」へ, みらい
原田正樹(2014)日本福祉教育・ボランティア学習学会の20年の軌跡と基軸, 日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編, 福祉教育・ボランティア学習の新機軸――学際性と変革性, 大学図書出版
猪瀬浩平(2020)ボランティアってなんだっけ?, 岩波書店
厚生省大臣官房政策課編(1991)21世紀を担う人々 ――保健医療・福祉マンパワー対策本部中間報告, 中央法規出版
厚生省社会・援護局施設人材課監修(1995)「福祉人材確保のための基本指針」の解説, 中央法規出版
中野敏男(2001)大塚久雄と丸山眞男――動員、主体、戦争責任, 青土社
仁平典宏(2005)ボランティア活動とネオリベラリズムの共振問題を再考する, 社会学評論 56(2), 485-499
日本産業教育学会編(2013)産業教育・職業教育ハンドブック, 大学教育出版
日本社会福祉学会事典編集委員会編(2014)社会福祉学事典, 丸善出版
牧里毎治編(2003)地域福祉論, 放送大学教育振興会
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大橋謙策(1987)福祉教育の構造と歴史的展開, 一番ヶ瀬康子ほか編, 福祉教育の理論と展開, 光生館
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大橋謙策(1997)社会福祉マンパワー問題と社会福祉系大学における教育, 大学と学生, (387), p.28-36
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阪野貢(1993)福祉文化のまちづくりと福祉教育, 福祉文化研究, 2, p.14-27
清水将一(2021)ボランティアと福祉教育研究, 風詠社
篠原拓也(2020)社会福祉学における人権論, 大学教育出版
潮谷有二(2014)福祉人材確保施策の動向, 日本社会福祉学会事典編集委員会編, 社会福祉学事典, 丸善出版, p.708-709
佐々木隆志(2007)日本における福祉教育と福祉マンパワー対策の分析, 静岡県立大学短期大学部研究紀要 (21-W), p.1-11
政策研究大学院大学C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト(2004)斎藤十朗(元参議院議長)オーラル・ヒストリー, 政策研究大学院大学
田代志門(2007)「看取り」を支える市民活動――ホスピスボランティアの現場から, 清水哲郎編, 未来を拓く人文・社会科学シリーズ 3 高齢社会を生きる――老いる人/看取るシステム, 東信堂, p.117-138
上野谷加代子, 原田正樹監修(2014)新福祉教育実践ハンドブック, 全国社会福祉協議会


出所:三ツ石行宏/福祉教育は都合よいボランティアの養成方法なのか?―福祉マンパワー施策及び福祉教育の概念規定に焦点をあてて―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.38、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2022年7月  、19~30ページ。
謝辞:転載許可を賜りました三ツ石行宏先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅲ 児童養護施設に関する福祉教育実践

―Y小学校を事例として―



























出所:三ツ石行宏/児童養護施設に関する福祉教育実践―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol35、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2020年11月  、111~123ページ。
謝辞:転載許可を賜りました三ツ石行宏先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


松岡広路/福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性とESD―


 

Ⅰ 福祉教育・ボランティア学習の新機軸

―当事者性・エンパワメント―




















出所:松岡広路/福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性・エンパワメント―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  年報』Vol.11、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2006年11月  、12~32ページ。
謝辞:転載許可を賜りました松岡広路先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅱ 福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性

―福祉教育から「福祉教育・ボランティア学習」・ESDへ―

出所:松岡広路/福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性―福祉教育から「福祉教育・ボランティア学習」・ESDへ―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.14、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2009年11月  、8~23ページ。
謝辞:転載許可を賜りました松岡広路先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

新崎国広/福祉教育・ボランティア学習と教育支援・教育協働―福祉教育・ボランティア学習の研究と教育支援・教育協働学の構築―


 

Ⅰ 学校教育における福祉教育・ボランティア学習実践研究の課題と展望



出所:新崎国広/学校教育における福祉教育・ボランティア学習実践研究の課題と展望/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.18、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2011年3月  、6~19ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅱ 学校と地域の協働化を促進する

教育支援人材地域の意義

―福祉教育・ボランティア学習による教育実践と福祉実践の邂逅をめざして―



出所:新崎国広/学校と地域の協働化を促進する教育支援人材地域の意義―福祉教育・ボランティア学習による教育実践と福祉実践の邂逅をめざして―/『発達人間学論叢』第19号、大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座、2016年3月、25~34ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅲ 教育協働に資する福祉教育実践研究

出所:新崎国広/教育協働に資する福祉教育実践研究/『発達人間学論叢』第21巻、大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座、2018年3月、25~40ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅳ これまでのライフヒストリーを振り返る

―課題に直面し、揺らぎ、怒り、連帯し、共に学び続けること―

 




















出所:新崎国広/これまでのライフヒストリーを振り返る―課題に直面し、揺らぎ、怒り、連帯し、共に学び続けること―/『発達人間学論叢』第23・24・25巻、大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座、2021年2月、1~20ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


大橋謙策/〔増補〕域福祉実践の神髄 ―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―


 

はじめに ―「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けての課題― 

 厚生労働省は、2016年7月に『「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部』を発足させ、2015年9月に発表した「誰もが支え合う地域の構築に向けた福祉サービスの実現―新たな時代に対応した福祉の提供ビジョン」(「以下「新しい福祉提供ビジョン」と略」)の具現化を推進させることになった。

それは、地域自立生活支援を展開する上で、①子ども、障害者、高齢者の全世代を一元的、一体的に受け止め、相談に応ずるワンストップサービスをシステム化すること、②福祉サービスを必要としながらサービス利用に繋がっていない人々をアウトリーチして発見し、支援することと、時には伴走型の継続的支援を行うこと、③福祉サービスを必要としている人々を地域から排除しない、新たな地域コミュニティづくりを進めること、④そのためにも子ども、障害者、高齢者の全世代が交流・利用できる地域における小さな拠点づくりが必要になること、⑤そして全世代支援、全世代交流を進めていくためには属性分野・機能別の縦割りの資格ではなく、各資格間の相互乗り入れが必要になること等を具体化、具現化させること、等が課題としてあることを指摘している。

しかしながら、これらのことは“言うは易く、行うは難し”である。それらの理念、考え方の具現化、具体化においては少なくとも福祉教育の推進、ニーズ対応型福祉サービスの開発とそれを企画できる力量のある職員の養成、住民と行政の協働を成り立たせる触媒、媒介の機能をもったコミュニティソーシャルワーク機能とそれを実施できるシステムを整備しない限り難しい。これ以外にも、専門多職種連携の在り方とシステム等の検討課題があるが、今回は触れない。

筆者は、それら「地域福祉実践の真髄」ともいえるそれら3つの機能の具現化とその理論化を求めて、50年間研究をしてきたといっても過言ではない。

その研究スタイルは「バッテリー型研究方法」ともいえるもので、実践家の実践を理論化、体系化するとともに、研究者の理論仮説を実践家に提起し、実践してもらい検証するという研究者と実践家とがあたかも投手、捕手のようにバッテリーを組んで行う方法であり、筆者の50年間の実践、研究はまさにその方法によるところが大きい。

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践もまさにそうで、筆者が関わった他のセミナーも含めて、それらのセミナー等において「バッテリー型研究方法」で実践され、論議され、システム化され、地方自治体の政策を産み出してきた多くの実践が先に述べた厚生労働省の報告書にそれなりの影響を与えたと自負している。

地域福祉実践の方法として検討しなければならないことは多々あるが、今回は「我が事・丸ごと地域共生社会」実現上特に考えなければならないことと、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践を通して考えてきたことに焦点化させることとし、本稿では、「地域福祉実践の真髄」ともいえるものの内、上記に挙げた3点を取り上げた。それを筆者がどのように考え、展開してきたのかを随想風に振り返りながら、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践に対し、若干のコメントをすることとしたい。

Ⅰ 地域福祉実践(社会福祉協議会活動)は  “ 福祉教育に始まり、福祉教育に終わる ”

全国社会福祉協議会が1979年から始め、1991年(12期生)まで続けた「地域福祉活動指導員養成課程」は、筆者の研究者的成長に大きな影響を与えると同時に、そこでの相互の学びの過程を通じての実践者との交流が「バッテリー型研究方法」の推進とその後の実践者の組織化に非常に大きな役割を果たしてくれた。その養成課程では、設置された各教科目のテキストに基づき、レポートが課され、添削指導を受けた上で4泊5日の宿泊スクーリングがあり、修了論文の提出が課せられた。

筆者はその第1期から「社会福祉教育論」という科目を担当した。それは多分、筆者が「社会教育と地域福祉」の学際的研究を行い、既に「月刊福祉」等の雑誌や著作で「社会教育と地域福祉」に関わる論文を執筆していたからお呼びがかかったのであろうと推察している。

筆者の社会福祉学研究、地域福祉論研究において福祉教育は大きな柱である。後に筆者は、福祉教育を「憲法第13条、第25条などに規定された基本的人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、社会福祉活動への関心と理解を進め、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを利用している人々を社会から、地域から疎外することなく、ともに手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」(1982年)と定義した。

この定義は、戦前の社会問題対応策としての社会事業と社会教育との関係性、とりわけ内務省が推進した風化行政、地方改良運動、精神作興運動等の研究を踏まえたものである。

この福祉教育の考え方と実践は市町村社会福祉協議会が住民主体の活動を展開する上で必要不可欠な活動であると筆者は位置付け、先の「地域福祉活動指導員養成課程」において、“社会福祉協議会の活動は福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”ほど重要な活動であることを強調してきた。

島根県瑞穂町(現邑南町)社会福祉協議会の事務局長になった日高政恵さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、1997年の第1回こんぴらセミナーのシンポジュウムの登壇者でもある)は、住民の生活実態に関する様々な調査を行い、それを踏まえて68の集落福祉委員会を基盤に、13のブロックでの「地域福祉デザイン教室」を行い、徹底的に住民による問題発見・問題解決型の共同学習を通じて、住民の社会福祉意識の変容、向上を図る地域福祉実践を展開した(『未来家族ネットワークの創造――安らぎの田舎への道標』万葉舎、2000年参照)。

瑞穂町の実践は、子どもの福祉教育、住民の社会福祉学習、介護福祉人材の養成等町全体で文字通りトータル的に福祉教育を行っており、日高さん自身社会福祉協議会活動は“福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”と述べてくれている。

福祉教育のより体系的実践としては、1988~89年に策定された東京都狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあ推進計画」で位置付けられた「あいとぴあカレッジ」がある。

「あいとぴあ推進計画」は、狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、のちに事務局長)が東京都社会福祉協議会のモデル指定地区を受託し、社協中心の地域福祉計画づくりを行ったものである。筆者はこの策定委員会の委員長で、委員には狛江市福祉事務所の所長にも入ってもらい、行政との整合性を持たせることを意図した。その後、狛江市は「あいとぴあ推進計画」と連動させた「あいとぴあレインボープラン」を行政計画として策定。狛江市では「あいとぴあレインボープラン」に基づき狛江市条例による「市民福祉委員会」を設置し、重要な社会福祉政策課題については「市民福祉委員会」で協議することを明記。筆者はその「市民福祉委員会」の委員長を15年勤めた。

「あいとぴあ推進計画」に基づく「あいとぴあカレッジ」(1991年から実施)は、年間15回程度の本格的な市民福祉教育のカレッジとして実施された(『地域福祉計画策定の視点と実践――狛江市のあいとぴあへの挑戦』第一法規、1996年参照)。「あいとぴあカレッジ」を担当した阪野貢さん(当時宝仙学園短期大学、のちに中部学院大学教授)が「市民福祉教育研究所」を設立・主宰し、ブログも開設しているので参照されたい。

また、体系的な福祉教育実践としては狛江市の実践よりも早く、筆者は山口県宇部市において1977年より「宇部市婦人ボランティアセミナー」を企画・実施している。

このセミナーは、文部省(当時)の助成事業を活用しての実践であるが、社会福祉と社会教育との有機的連携を意識したもので、1年間に17回の座学(講義)と14回の体験、実習(朗読、点字、手話、配食サービス、老人の介護等)のプログラムが組まれた本格的な福祉教育の実践であった(『宇部市の生涯学習推進構想――いきがい発見のまち』東洋堂企画出版社、1999年参照)。筆者は17年間、毎年数回宇部市に通い、最後はセミナー(後に2年制のカレッジに改組)30周年記念までお付き合いをしてきた。

このような実践は、上記以外でも、岩手県沢内村(現西和賀町)社会福祉協議会で地域福祉計画の策定とそれに基づく「コーリム大学」を1990年代初頭に実施した。

筆者の問題発見・問題解決型共同学習的福祉教育は、1973年の東京都稲城市(筆者の居住地)における「住みよい稲城を創る会」(代表幹事・大橋謙策)が主催した「集い」が最初である。

そのプログラムは、初めに生活問題を抱えている人に実態報告をして頂き、その後分科会に分かれて討議をするというスタイルで行われた。第1回目の集いでは、「嫁」(息子の配偶者)の立場から同居している姑の介護問題の報告、父子家庭の単独世帯の子育ての困難さの報告、学校拒否児(当時の呼称)を抱える家族の悩みの3事例の話を頂いた。

東京都の「市」ではあっても、農村的風土が残っていた地域だっただけに、「集い」というオープンな場での発題者を探すのに大変苦労はしたが、発題者の問題提起は実に重要で、その実態の深刻さが浮き彫りになった。その当時、筆者は知らなかったが、既に市内(当時人口3万人)に多くの学校拒否児がいたようで、その親たち(15名)が学校拒否児の親の体験報告があるということで個々に「集い」に参加してきていた。当初、分科会としては設定していなかった学校拒否児に関する分科会を親たちの要望で急遽作ったことが昨日のように思い出される。いかに、“事実は小説よりも奇なり”で、我々がその実態をただ把握していないだけだということを痛感させられ、アウトリーチによる問題発見の重要性に気づかされた。

1997年に香川県琴平町で開催された第1回こんぴら地域福祉実践セミナーは、「ふれあいのまちづくり事業」の補助金による事業ということも考えて、単なる一過性の福祉講演会ではなく、福祉教育、住民の社会福祉学習の機会として、かつ継続することを意識して行われた。当時、人口約1万2,000人の町で、参加者が600人にのぼり、会場が立錐の余地がないほどの状況は驚きであった。考えてみれば、1986年に琴平町社会福祉協議会が受託した「ボラントピア事業」において、夏の暑い日に、冷房のない学校の体育館に並べた椅子と椅子の間の通路に氷柱を何本も立てて行われた講演会になんと1,000人が参加された歴史を持っていた(講演者・大橋謙策)。それらの仕掛けをした琴平町社会福祉協議会の越智和子さん(現琴平町社会福祉協議会常務理事)も20代末の若い時に、山口県笠戸島で「地域福祉活動指導員養成課程」を受講した一人である。

筆者は、このような地域福祉と社会教育の学際的研究と実践に関わるなかで、1979年、全国社会福祉協議会が設置した「ボランティア基本問題検討委員会」(委員長・阿部志郎、作業委員長・大橋謙策)において起草委員長として「ボランティア活動の性格と構造」をまとめさせて頂いた。それは①ボランティア活動と市民活動との関係性をどう整理するかという問題、②ボランティア活動の目的を“自立と連帯の社会・地域づくり”と考えること、③市民活動とボランティア活動を考える場合、その活動には3つの性格の活動があること。それは第1に近隣での日常的なふれあいのある地域づくりを行うこと、第2に地域内にある福祉サービスを必要としている人を発見し、その個別課題に対応する対人サービス活動を行うこと、第3に市町村における(地域)福祉計画づくりを行うことの3つの課題があり、それらを構造的に捉えて考え、実践することの重要性を提起した。

また、そのような市民活動とボランティア活動との関係を意識したのは、1970年前後のコミュニティ構想が“住民参加、住民の権利ということが担保されない、権限なきコミュニティにおいて、麗〈うるわ〉しき隣人愛に基づく活動、助け合い活動”を求めていたことへの反論であり、かつ地域住民の生活を守るためには国レベルの社会保険制度の整備と共に、居住する市町村自治体における福祉サービスの整備が必要であり、重要であると考えたからに他ならない。(全社協・ボランティア基本問題検討委員会報告書「ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割」全社協、1980年参照)。

また、その頃、福祉教育の実践が求める目標として「4つの地域福祉の主体形成」(地域福祉計画策定主体、地域福祉実践主体、社会福祉サービス利用主体、社会保険制度契約主体)の必要性をまとめ、提起している。

「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けて、市町村における行政と住民の協働のあり方や全世代支援を行えるワンストップサービスができるシステムの構築等を考え、実施できるようにするためにも、まずもって住民参画による市町村地域福祉計画づくりが重要になる。また、その計画策定主体の形成も含めて地域福祉の4つの主体形成がなされなければ実現は難しいことになる。

福祉教育を皮相的にとらえるのでなく、地域住民が社会福祉の学習を通じ、地域にある問題に目を開き、気づき、それを解決するためにどう行動するべきかを考える機会を提供する福祉教育こそ地域福祉実践の根幹であることを改めて認識して欲しい。

Ⅱ ニーズ対応型福祉サービスの開発と「福祉でまちづくり」

筆者は1990年まで、日本には事実上ソーシャルワーク実践はなかったということを日本社会事業学校連盟(現日本ソーシャルワーク教育学校連盟)の社会福祉教育セミナーの席上や日本社会福祉学会等の場において発言してきた。しかしながら、残念ながら反論はされなかった。それどころか、戦後日本のケースワーク研究を牽引し、国際社会事業学校連盟からも高く評価されていた仲村優一先生は、“まさに君(筆者)が言う通りである”とさえ言われ、逆に日本におけるソーシャルワーク実践の定着を図る研究をしっかり頼むと励まされる状況であった。

戦後日本では、アメリカの文化、社会福祉に関するシステムの中で育ったケースワーク、グループワーク、コミュニティオーガニゼーションといった方法論が紹介・解説され、社会福祉教育の場において教えられてきた。

そこでは、インテークという用語やクライエントという用語が使われ、福祉サービスを利用しようとして、あるいは生活上の様々な問題を抱えて相談機関に来談した人とのラポートづくりから実践が説き起こされてきた。

筆者のように、戦前の社会事業における精神性と物質性の関係性の研究、地域改良・居住者の生活改善・人格向上を目指すセツルメント運動等を研究してきたものにとって、それには非常な違和感があった。多くの“社会福祉研究者”は筆者(大橋謙策)に対し、社会福祉六法体制とケースワーク等の社会福祉方法論とを前提としている“社会福祉プロパーの研究者”として認めず、“社会福祉体系外の研究者”として位置付ける言動を投げかけていた。

1977年に上梓され、1980年に日本語に翻訳されたハリー・スペクト/アン・ヴィッケリー編『社会福祉実践方法の統合化』 (Integrating Social Work Methods編)において、アメリカのシステム理論やイギリスの地方自治体社会サービス法に基づく実践を通して、1930年代にアメリカで確立された社会福祉方法論の3分類法を「ソーシャルワーク」に止揚するべきであるという問題提起がなされ、それが日本語に翻訳されて紹介されているにも拘わらず、日本では実質的に2000年まで社会福祉士養成のカリキュラムの中で社会福祉方法論の3分類法を堅持しつづけた。しかも、いまでも多くの研究者がインテーク、クライエントという用語を無自覚的に論文上でも使用している。

筆者は、1973年に東京都稲城市立公民館の建設に際し、1947年に制定された児童福祉法の国会審議に向けて厚生省(当時)が作成した予想問答集の考え方(保育所設置の目的は①働かざるを得ない母親の就労支援、②子どもの成長には集団保育が必要、③文化国家、民主国家を建設するには女性の社会参加、社会活動を促進する必要があるので子どもを預ける保育所が必要)に基づき、公民館に市の専任職員である保母(当時)を常駐させた公民館保育室の設置を社会教育委員として提案し、建設した。その公民館の機能として住民のたまり場、交流の場としての機能・空間ももたせた。また、同じように1975年には、児童館、老人福祉センター、公民館を合築する地区公民館の建物の構想を示し、建設した。

更には、1973年、貧困児童の就学援助を増進させるために、当時、文部省の基準は生活保護基準の1.5倍が就学奨励費支給の基準であったものを市と交渉し、1.6倍にまで引き上げてもらった。

このような実践を若い時(20代)からしてきたものにとって、「申請主義」に囚〈とら〉われた社会福祉実践・研究やカウンセリング的ケースワーク論は何とも理解しがたいものであった。そのような発想は、社会福祉方法論の分野のみならず、施設経営をする社会福祉法人も陥っていた呪縛であり、市町村社会福祉行政自体も囚われていた呪縛であった。

日本の社会福祉実践、研究は、1990年まで中央集権的機関委任事務体制で展開されてきたこと、また福祉サービスも行政もしくは行政に委託された社会福祉法人が運営する施設において提供されてきたために、法人・施設運営の視点はあったものの、経営の視点は脆弱であったし、市町村における社会福祉行政のアドミニストレーションに関する研究は実質的になかったと言わざるを得なかった。

ある意味、国が設計する制度に基づく“制度ビジネス”に“安住”しており、そこでは、一般に経済界で必要とされている“市場調査”としての“サービスニーズの把握”の視点や方法、あるいは“商品開発”に該当する“ニーズ対応型サービス開発”の意識は希薄であったことは否めない。

筆者は、戦後の社会福祉実践・研究は中根千枝先生の研究の「鍵」概念を借りれば、「場」(枠組み)である制度としての枠(社会福祉六法体制、中央集権的機関委任事務体制)の中で社会福祉実践・研究を考え、行われてきたと指摘してきた。

しかしながら、21世紀においては「資格」(機能)として求められているソーシャルワーク機能に基づき、潜在化しがちな国民のニーズの発見・キャッチが重要であり、かつそれに対応したサービス開発とその起業化・経営が必要であることを頓〈とみ〉に1990年以降指摘してきた(「施設の社会化と福祉実践」『社会福祉学』第19号、日本社会福祉学会、1978年所収)。それ以降、ニーズ対応型のサービス開発のヒントは、入所型施設で提供しているサービスを細かく分節化させることや家庭機能を分節化させて、それをどういうシステムで提供するかを考えることにあると述べてきた。また、1990年以降「福祉でまちづくり」の必要性を提起してきた。

21世紀に入り、急速に進められている規制緩和の時代にあっては、社会福祉分野といえどもニーズの把握、ニーズ対応型サービスの開発とその起業化に関する研究が社会福祉研究上求められている。それは、ソーシャルワーク機能そのものが問われていることでもある。それはまた、ソーシャルワークの楽しさ、醍醐味を味わう機会でもある。

ソーシャルワークの使命(ミッション)は、ニーズキャッチ・発見を基盤に、それらの問題解決に向けてのサービスの提供、サービスの開発であり、それこそソーシャルワークの価値であることを忘れてはならない。

筆者は、今、①高齢者分野の介護保険制度外のサービス開発と供給の方法に関する研究(株式会社などが入所型施設で提供してきているサービスを細かく分節化させて、必要時に即応できるサービスシステムの開発をし、サービスを介護保険制度外のサービスとして提供している。従来の地域福祉実践はこれらの制度外のニーズに対応できているのであろうか)、②介護保険制度外の福祉機器、介護ロボットの購入・利活用に関する研究(障害者分野の補装具や介護保険の福祉用具の利活用と一般市販される福祉機器との利活用がボーダーレスになってきており、その相談、利活用システムのあり方が問われている。既に、福祉機器・介護ロボットの利活用・相談センターが制度外で動き始めている)、③障害者総合支援制度外のニーズキャッチとその商品開発、及びそれに関わっての新たな障害者の雇用形態、就労形態のあり方を考えた「起業化」が行われており、それにふさわしい経営形態はどういう組織がいいのかに関する研究、④「限界集落」、「消滅市町村」における「高齢者の、障害者のための福祉のまちづくり」ではなく、高齢者も障害者も参画した「福祉でまちづくり」という新たな第8次産業(第6次産業+障害者・高齢者・子育て中の親の参画+商店街を構成する生活衛生同業者組合も参画した地産地消・循環型地域経済)を創出することに関する研究に関心を寄せて実践に関わっている。「福祉でまちづくり」という用語は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画策定において使用したのが最初である。それは特に市議会議員の研修会でその必要性と重要性を指摘した。

この④の研究、実践は、文字通り地域福祉実践そのものに関わる実践であり、これは地方創生や立地適正化計画(コンパクトシティ計画)、あるいは休耕田、空き家対策等とも関わるまちづくり、地域づくりそのものの課題であり、地域経済に関わる研究、実践でもある。

山形県鶴岡市の地域福祉計画策定において、新しく特別養護老人ホームを100床、ユニット型で建設する構想(社会福祉法人鶴岡市社会福祉協議会立特別養護老人ホームおおやま、2005年)に際し、地産地消型の視点を取り入れるべく、商工会に特別養護老人ホームへの食材等を納入する協同組合を新たしく設立頂き、地元の商工業者に参入頂いた。全国の約7,000ある介護老人福祉施設(特別養護老人福祉施設)及び全国に約4,000ある介護老人保健施設がこのような発想で「地産地消」の取り組みをすれば、地域経済に与えるえる影響は大きく、現在言われている社会福祉法人の地域貢献の実態よりもその影響は大きく、これこそ社会福祉法人の役割、責務ではないのだろうか。

先に述べた島根県瑞穂町の実践のスローガンは「未来家族ネットワークの創造」であったが、それはもう民法上の血縁家族に頼っていたのでは「中山間地域」という地域での地域自立生活が維持できなくなってきており、地域に居住している人々が血縁を超えて“地域の未来家族”として生活をしていこうとする願いでもあった。

一人暮らし高齢者のみならず、地域生活している単身の精神障害者や知的障害者、非婚の男性、女性が増えることを考えると、これからは「少子高齢社会」もさることながら、「単身生活者の時代」になり、単身生活者の生活支援が深刻な課題になる。そこでは、血縁家族機能へ期待することは幻想である。家族が居なくても、家族に頼ることもなく、人生を全うできるように、日常生活自立支援のシステム、成年後見制度のシステム、入退院支援のシステム、死後の対応としての葬儀・遺骨の取り扱いも含めての支援等、本人の意思の確認と尊重を踏まえた“自立生活支援”のシステムを地域ごとに構築していかなければならない。まさに、「未来家族ネットワークの創造」である。ここでも従来の地域福祉実践の枠組みを再検討しなければならない。

今や、社会福祉の制度の枠に縛られた実践、制度を改善することのみに行きがちな“制度ビジネス”的な実践、研究を脱皮し、新たな視点での実践と研究が求められている。

とすれば、地域福祉実践も従来の枠を超えて、「福祉でまちづくり」の視点を大胆に取り入れ、かつその実践組織も社会福祉協議会や施設経営の社会福祉法人だけでなく、NPO法人、株式会社も含めた多様な組織体による起業化が行われ、そのプラットホームの上に地域自立生活支援が成り立つという新たな地域福祉の展開の時代として、研究枠組みも実践の方法も考え直さなければならない。

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーで取り上げられた徳島県のNPO法人どりーまぁサービスの山口浩志さんは在宅のALS患者や重症心身障害児者への24時間ケアサービスを提供しているが、その根源には住民からの相談を断らないという哲学がある。その相談こそが“ビジネスチャンス”であるという発想で、それに柔軟に対応するために、かつその実践の社会的評価を得るために、社会福祉法人という経営形態ではなく、かつ株式会社という経営形態でなく、NPO法人という経営形態を選択したと言っている。

同じく徳島県美馬市木屋平地区のNPO法人こやだいらの実践、高知県津野町の学校跡地を利用した「集落福祉としての『森の巣箱』」の実践、人口減に伴う利用者減による経営困難でJAさえも撤退した山間地域でのガソリンの供給から日常生活の買い物支援、全世代交流支援型のサービス提供等の多機能型の地域づくりを展開している地域の生活支援の中核的組織である「あったかふれあいセンター『いちいの郷』」の実践などは、従来の狭い地域福祉実践の枠を超えた地域づくりそのものであり、血縁家族を超えた、地域での住民の自立生活を支援する実践である。

徳島県美馬市木屋平地区(合併前の旧木屋平村)のNPO法人こやだいらの実践は、筆者が“ベッドサイドから診察室まで、スーパーから冷蔵庫までの実践”と勝手に命名したが、人口710人の集落(高齢化率58%)での、世帯単位ではなく、個人単位の加入による「集落福祉のNPO法人版」である。標高1,955メートルの剣山の中腹(標高800メートル、地区の集落は標高200~800メートルに散在)で、一面の雲海を下に見ながら、蝉しぐれの中で、住民座談会を開催し、木屋平地区の集落福祉をどう進めるかを論議し、NPO法人格を取得して行うしかないといった論議をしたことが昨日のように思い起こされる。

これからの地域福祉実践には「福祉でまちづくり」をスローガンに、基礎自治体を基盤にしつつも、共同性と土着性が強い稲作農耕によって作られた、自然発生的に形成された地域、自治会を超えて、一定の生活圏域ごとにより分権化(市町村からの地域組織への第3の分権化、東京都地方分権推進委員会及び東京都社会福祉審議会で、委員として筆者が提唱)させた新たな地域組織に再編成し、そこで地域の多様な生活課題を解決する多機能型地域組織を構築し、活動を推進していくことが求められる。

それはある意味、住民一人ひとりが「選択的土着民」(静岡県掛川市元市長の榛村純一氏が提唱)となって、地域づくりに関わることであり、それはある意味、住民総参加の直接的民主主義という、地域を“コミューン”にすることである。そこに「限界集落」、「消滅市町村」問題を乗り越える一つの鍵がある。NPO法人こやだいらや「ふれあいあったかセンター『いちいの郷』」の実践はその萌芽とも言える。

Ⅲ 行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク

イギリスのミヒャエル・ベイリイが提唱(1973年)した考えを基に地域福祉の考え方に関わる発展段階を整理すると① Care Out The Communityの時代、② Care In The Communityの時代、③ Care By The Communityの3つの発展の時期・時代がある。

筆者は、日本では1971年~1990年が①の時代で、1990年~2000年までが②の時代であり、2000年以降は③の時代に入り、社会福祉法制も社会福祉法への改称・改正で理念的にそれを求め、明確化したと述べてきた。地域におけるヴァルネラビリティの人々とその人々を排除しない地域のあり方を指摘した2000年12月の「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書が出された意味は大きい。

ところで、コミュニティソーシャルワークという用語とその考え方は、1982年のイギリスでの「バークレイ報告」で提唱されたものであるが、イギリスではその考え方が実践的に必ずしも成功したとは言えない。

筆者は、日本的にコミュニティソーシャルワークがそれなりに定着できる状況になってきている要件として、(イ)まがりなりにも日常生活圏域における自治会等の地域組織機能があること、(ロ)全国の市町村に、地域を基盤として活動している社会福祉協議会が組織されていること、(ハ)全国の市町村に23万5千人の民生・児童委員と約5万人の保護司が設置されていることが大きいと考えている。

コミュニティソーシャルワークという考え方は、上記の③の時代には不可欠な考え方である。施設サービスから脱却し、地域での自立生活を支援していくためには、行政の力だけでは遂行できず、地域住民の参加、協働が欠かせない。そのためには先に述べた地域住民の4つの地域福祉の主体形成が求められる。

行政と住民との協働を促進し、住民の主体性を高め、住民自身が地域の問題を発見し、その問題に対し差別・偏見を持たず、地域から排除することなく、地域で問題解決を図る活動を推進するためには、住民の活動を活性化、促進させる触媒機能が重要であり、かつ行政と住民との協働を安定的に媒介させる機能が重要であり、それこそコミュニティソーシャルワーク機能である。

ところで、地域自立生活を支援するコミュニティソーシャルワーク機能の日本的発展段階には5つの段階があったと筆者は考えている。

第1の段階は、1979年にいち早く高齢化が進展していた秋田県が県単独事業として政策化させた在宅相談員制度である。一人暮らし高齢者を孤立させず、地域で見守ろうという実践で、社会福祉協議会と民生委員との協働の下に展開された。

筆者は、その初年度の在宅相談員の研修に招聘、参加させて頂いた。秋田県男鹿観光ホテルで行われた研修会では、従来の血縁的、地縁的見守りを昇華・発展させ、社会化させたシステムとして展開しようとする試みに社会福祉の新たな息吹と地域福祉実践の必要性を改めて認識させられた機会であった。そのもっとも優れた実践の一つは秋田県西仙北町社会福祉協議会の佐藤春子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)の取り組みで、「一人ぼっちの不幸も見逃さない」という映画になり、その後“黄色いハンカチ運動”等に繋がっていく。社会福祉協議会と小地域とが協働して住民の孤立やゴミ出し等のちょっとしたお手伝いを行う事業は現在でも全国で行われており、富山県のケアネット事業等も県単で行われている。

第2の段階は、1990年に「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」(平成2年8月、生活支援事業研究会中間報告、厚生省社会局保護課所管)と題する報告書がだされてからである。

筆者自身が、コミュニティソーシャルワークにより関心を寄せ、その政策化に関わるのは、この研究会の座長を仰せつかってからであり、日本におけるコミュニティソーシャルワーク機能が政策的に、実践的に意識された年である。

この報告書に基づき、1990年度にモデル事業として展開され、その成果を踏まえて政策化されたのが1991年度より始まる「ふれあいのまちづくり事業」という大型補助金事業である。モデル事業は福祉事務所、保健所、市町村社会福祉協議会で展開されたが、最も報告書の考え方を踏まえ実践してくれたのは富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん(中尾さんも「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、のちに事務局長を勤める)である。筆者は、氷見市社会福祉協議会へ約35年間通い、「バッテリー型研究方法」を展開した。最後の頃は、氷見市行政アドバイザーも勤めての実践だったこともあり、「ふれあいのまちづくり事業」は市町村社会福祉協議会で実施されることになった(このモデル事業の評価委員長は宮城孝現法政大学教授が担ってくれた)。

これが、実質的な意味での日本におけるコミュニティソーシャルワーク実践の始まりと言える。

この事業では、今日大きな問題となっている潜在的福祉サービスを必要としている人の発見、しっかりしたアセスメントによるケアマネジメントに基づく援助方針の立案、専門多職種によるチームアプローチ等が提唱された。また、制度の谷間の問題、多問題家族、多重債務者、在住外国人、核家族・単身者の入院時支援、家庭内暴力の問題等への対応の必要性と重要性を指摘している。

しかしながら、この「ふれあいのまちづくり事業」でコミュニティソーシャルワーク機能の具現化が図れたとはいいがたいと筆者は考えている。この補助事業が多くの市町村社会福祉協議会を活性化させる契機にはなったと思うが、コミュニティソーシャルワーク実践の具現化と先に述べた「生活支援地域福祉事業(仮称)」の具体化という点では筆者は必ずしも成功したとは考えていない。

第3の段階は、1993年から日本社会事業大学の社会福祉学部福祉計画学科の地域福祉コースの所属教員が研究会(研究代表・大橋謙策)を立ち上げ、厚生省(当時)の老人保健健康増進等事業の助成を受けて全国のいくつかの市町村をフィールドにして「在宅福祉サービスにおける自己実現サービスの位置とコミュニティソーシャルワークに関する実践的研究」を始めてからである。その研究成果は毎年報告書として出されているが、それを基に大橋謙策他編『コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス』(万葉舎、2000年)が上梓されているので参照されたい。

そのフィールド市町村の一つである岩手県湯田町(当時、現西和賀町)社会福祉協議会において、主任ホームヘルパーの菊池多美子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、全社協の「社会福祉主事養成課程」の修了者でもある。また、第1回こんぴら地域福祉実践セミナーのシンポジストとしても登壇)が実践していた事例に触れ、その実践こそがコミュニティソーシャルワーク機能を具現化させている実践であり、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を全国的に展開できると勇気づけられた実践であった(菊池多美子著『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記』万葉舎、1998年参照)。

その実践には、①アウトリーチも含めた問題発見、②フォーマルケアとインフォーマルケアとを有機化させて提供、③個別対応型支援ネットワーク会議の開催、④伴走型のソーシャルワーク、⑤ニーズ対応型サービス開発、⑥社会福祉協議会独自の新しい財源創出等の機能を濃淡含めて実践していた。その考え方に学び、実践を体系化すると同時に、新たな理論仮説を提起し実践もして頂いた。この実践に関わることにより、筆者はコミュニティソーシャルワーク機能の実践ができると確信がもてた。

ただ、その実践は必ずしも意図的な、自らの仮説をもって、検証し、見直すというPDCAサイクルの実践でなかったこと、組織的には容認され、実践されていたが必ずしも社会福祉協議会の計画的、組織的位置づけの下に行われていなかったこと、かつその実践はすぐれて個人的であり、システムとして構築されていたわけでなかったこと等の課題があった。

その後、これら湯田町の実践における課題を解決するためにはコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムづくりが必要であると考え、それには市町村地域福祉計画の策定との関わりが不可欠との認識をより強めさせることになった。

筆者は1970年代から市町村の地域福祉計画の必要性を論文で書いてきたし、先に述べた「ボランィア活動の性格と構造」のなかでも(地域)福祉計画の必要性を述べている。また、全社協が設置した「地域福祉計画研究委員会」にも委員として参加し、その委員会の報告書として1984年に上梓されている『地域福祉計画――理論と方法』(全社協)にも執筆している。筆者は、この研究会の論議を踏まえ、1985年に「地域福祉計画のパラダイム」という論文(『地域福祉研究』№.13所収、日本生命済生会福祉事業部刊)を書いているので参照されたい。

(註) 地域福祉計画策定委員長として1988年から取り組み、1990年に制定した東京都狛江市「あいとぴあ推進計画」(大橋謙策著『地域福祉計画策定の視点と実践』第一法規、1996年参照)や東京都目黒区が1990年から取り組んだ「目黒区地域福祉計画(福祉事務所と保健所を合体させ、人口26万人の区内を5地区に分け、その各々に保健福祉サービス事務所を設置)、あるいは同じく1990年から取り組んだ「遠野市ハートフルプラン」(大橋謙策他編『21世紀型トータルケアシステムの創造』万葉舎、2002年参照)等の計画策定の実践を行ってきた。
あるいは東京都児童福祉審議会(専門部会長・大橋謙策)において、筆者が委員長としてまとめた1990年の東京都東大和市の地域福祉計画で構想したものを、東京都児童福祉審議会専門部会に部会長である筆者が提案し、具現化して1994年から創設された「子ども家庭支援センター」(センターに保健師、社会福祉士、保育士を配置し、各区市町村に設置、現在58か所)等の政策提言及びその具現化の政策化及び実践がある。

これら一連の地域福祉計画において政策提言したことと、先のコミュニティソーシャルワークの実践課題の解決とを結び付けて提案し、システム化させたのが2000年4月から始まった長野県茅野市の保健福祉サービスセンターの実践である。

コミュニティソーシャルワークの発展の第4段階は、地域包括ケアシステムとコミュニティソーシャルワークとの連携がシステムとして確立できた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムであり、実践である(筆者は1998年から15年間茅野市福祉行政アドバイザーを担当)。

この時期は、厚生労働省も未だ地域包括ケアとか、地域包括ケアシステムという用語は使っていないし、政策化させていない時期であった。筆者は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画づくりから「地域トータルケアシステム」という用語を使用してきた。

長野県茅野市は、地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターを市内4か所に設置(当時人口5万7千人、中学校区9)し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属した。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属して、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワンストップサービスを展開することにした。

基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをすることにした。それは、フォーマルサービスとインフォーマルサービスとを有機化させることとアウトリーチ型のニーズキャッチをやりやすくさせるためであった。ある年の社会福祉協議会の職員は年間280日も地域へ出張り、住民の相談とニーズキャッチに努めた。社会福祉協議会のソーシャルワーカーを配属したのは地域住民の福祉教育の促進や住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るためでもあった。

その保健福祉サービスセンターでは、フォーマルな制度、サービスのコーディネート、家族、地域の支え合い及び新たな意図的なソーシャルサポートネットワークの構築とコーディネート、更には福祉サービスを必要としている人を発見、あるいは新たに必要な福祉サービスの開発等の機能を総合的、統合的に展開できるシステムとして構想された。

しかも、そのシステムは地域の各機関の機関長レベルの連絡調整ではなく、個別具体的な問題を個々に解決するためのチームアプローチを行う個別対応型支援ネットワーク会議を開催し、具体的支援をリードする拠点システムとしても構想された。

また、茅野市保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、訪問看護、高齢者デイサービス、訪問介護、地域交流センターを併設し、更には、システムとして内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進を図ることなども組み込んだ(大橋謙策他編『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規出版、2003年参照)。

長野県茅野市の計画、実践において、筆者は保健、医療、福祉の連携のみならず、社会教育との連携を意識して取り組んだ。地域福祉計画づくりに社会教育との連携を意識的に組み込むのは、1990年の遠野市の計画づくりからである。

なぜ、社会教育との連携を意識化したかというと、福祉サービスを必要としている人を発見し、支えていく上で、地域住民の力はプラスに働く場合もあれば、ややもするとそれらの人々への偏見、蔑視が働き、排除の動きにもなる恐れがあるので、地域住民のこれらの問題への関心の醸成と理解の深化を図ること及び住民自身が福祉サービスを必要としている人の支援者になることへの変容が求められるので、そのためにも筆者は一貫して地域福祉実践には福祉教育が不可欠であると述べてきたし、その一翼を社会教育が担うべきであると考えてきたからである。

更には、「福祉でまちづくり」の考え方を実現していくためには、住民の問題発見・問題解決型の共同学習が必要不可欠であると考えたからでもある。

まさに、地域包括ケアの構築には住民の学習を推進する社会教育行政との連携が必要と考えたからに他ならない。

この茅野市の実践事例は、その後、静岡県富士宮市、掛川市、千葉県鴨川市等へ波及していく。

茅野市のシステムと実践は、2006年に制度化された介護保険制度の地域包括支援センターのシステムとしてのモデルであり、かつコミュニティソーシャルワーク実践を展開できるシステムのモデルでもあった。

2016年7月からは、東京都世田谷区(人口91万人)の27地区に設置されている地域包括支援センター(あんしんすこやかセンター)で、子ども、障害者、高齢者の全世代支援型のワンストップサービスが始まっており、その地区ごとにコミュニティソーシャルワーク機能を担う社会福祉協議会の職員が1.5人ずつ配属されて活動している。

筆者が、この間、手がけてきた地域福祉実践の考え方が国の政策のあり方に最も反映されたものとして、2008年に発表された『地域における「新たな支え合い」を求めて――住民と行政の協働による新しい福祉』がある。この厚生労働省の研究会の座長を勤めさせて頂いたが、筆者が研究し、地方自治体で実践的に制度化、政策化させた考え方がほぼ反映されたと思っている。

しかも、その考え方は、2009年から始まる「安心生活創造事業」というモデル事業の創設により実証的に検証されることになる。そのモデル事業の市町村に指定された中に香川県琴平町があるし、筆者がアドバイザーとしてシステムづくりに関与している千葉県鴨川市も含まれている。

これらの地域福祉実践の積み重ねが、理論的にも、実践的にも可能性があるという判断がなされたのであろう、2015年9月に発表された厚生労働省の「新しい福祉提供ビジョン」にこれらの考え方が政策的に引き継がれていく。

コミュニティソーシャルワークの第5段階は、この「新しい福祉提供ビジョン」をどう具現化させるかという時代である。

その理念をより強固に具現化させるべく、2016年7月に「我が事・丸ごと地域共生社会」実現本部が設置された。

そこで求められる実践課題を筆者なりに改めて整理すると、①筆者のいう4つの地域福祉の主体形成と福祉教育の課題、②「福祉でまちづくり」を推進する上で必要なニーズ対応型サービスの開発というソーシャルワーク機能を発揮できる職員の養成とそれを展開できるシステムづくりの課題、③行政と住民の協働を触媒・媒介させるコミュニティソーシャルワーク機能とそれを展開できるシステムの課題がある。

ところで、これらのことを具体的に実施できるシステムの運営のあり方とその市町村毎のアドミニストレーションはどうあったらいいのか等は研究的にも、実践的にも未だ緒に就いたばかりであり、地域福祉研究的にはほとんど皆無の状況である。

ましてや、これらの活動の担い手をどう養成し、配属できるのか十分な展望を持てていない。筆者が理事長をしているNPO法人日本地域福祉研究所は、全国の県、市、県社会福祉協議会、市町村社会福祉協議会等と協働して、多数のコミュニティソーシャルワークの研修の機会を担ってきているが、果たしてその研修内容や方法も今のままでいいのか、かつての「地域福祉活動指導員養成課程」のようなe-ラーニングも含めたより体系的養成課程を行う方がいいのか、かつ全国の市町村においてコミュニティソーシャルワークの養成・研修を実施することへの対応の展望は見えていない。

イギリスでは、大きな制度改革が行われるときには、必ずといっていいほどその制度改革を担う人材の養成のあり方を連動させて取り組んできた。日本では、制度は制度、人材養成は別か、あるいは制度に必要な人材を制度ごとの研修で養成するという立ち位置で行われてきた。そろそろ、ソーシャルワーク機能、とりわけコミュニティソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成を抜本的に考える必要があるのではないか。今の社会福祉士の養成課程がこれから求められるソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成として相応しいとは必ずしも筆者には思えない。

それらのことも含めて、「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現にはいろいろ難しさがある、そうであればあるほど、改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認しておきたい。それが常に意識されていないと、福祉サービスを必要としている人を発見し、その人々が抱える問題を“我が事”のように理解、共感し、その問題を行政と住民が協働して地域を挙げて解決することはできない。

そして、それを推進しようとすればするほど、行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク機能が求められることを意識化しなければならないからである。

改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とは、を整理、確認すると、①地域に顕在的、潜在的に存在する生活上のニーズ(生活のしづらさ、困難)を把握(キャッチ)すること、②それら生活上の課題を抱えている人や家族との間にラポール(信頼関係)を築くこと、③時には、信頼、契約に基づき対面式(ファイス・ツー・フェイス)によるカウンセリング的対応も行う必要があること、④その人や家族の悩み、苦しみ、人生の見通し、希望等の個人的要因を大切にしつつ、それらの人々が抱えている問題がそれらの人々の生活環境、社会環境との関わりの中で、どこに問題があるのかという地域自立生活上必要な環境的要因に関しても分析、評価(アセスメント)すること、⑤その上で、それらの問題解決に関する方針と解決に必要な方策(ケアプラン)を本人の求め、希望と専門職が支援上必要と考える判断とを踏まえ、両者の合意の下で策定すること、⑥その際には、制度化されたフォーマルケアを有効に活用すること、⑦そのうえで、足りないサービスについてはインフォーマルケアを活用したり、新しくサービスを開発するなど創意工夫して問題解決を図ること、⑧問題解決には多様な関係者の個別対応型支援ネットワーク会議を開催したり、必要なサービスを統合的に提供するケアマネジメントの方法を手段とする個別援助過程を基本的に重視しなければならないこと、⑨と同時に、その個別援助を支える地域を構築するために、個別対応型の必要なインフォーマルケア、ソーシャルサポートネットワークの開発とコーディネートを行うこと、⑩地域での個別支援を可能ならしめる地域づくりに関する“ともに生きる”精神的環境醸成、ケアリングコミュニティづくりを行うこと、⑪個別生活支援の外在的要因である生活環境・住宅環境の整備等も行うことを同時並行的に、総合的に展開、推進していく活動、機能である。

これらのコミュニティソーシャルワーク機能が十分意識化されない皮相的な取り組みで「我が事・丸ごと地域共生社会」という政策が展開されることに、行政も社会福祉関係者も、住民も十分留意しなければならない。したがって、市町村においてコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムがない中で、安易に、コミュニティソーシャルワーカーという名称だけが一人歩きすることには気を付けなければならない。

おわりに

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは20回続いているが、それは他の実践セミナー(日本地域福祉研究所主催の全国地域福祉実践研究セミナーが22回、房総地域福祉実践セミナーが14回、沖縄かりゆし地域福祉実践セミナーが8回等)と同様に、“継続こそが力なり”と思い、続けることを意識して、かつ参加してきた。この20回に亘る四国・こんぴら地域福祉実践セミナーのすべてに参加しているのは、筆者と越智和子さんだけであろうか。

ところで、このセミナーは原則的に県行政や県社協の力に頼らずに、開催地を中心に自分たちで実行委員会を作り運営してきた。また、このセミナーは県庁所在地ではなく、「限界集落」と呼ばれる中山間地で行うことを原則としてきた。それは、「草の根の地域福祉実践」を豊かにしたいという思いからであった。県庁所在地での開催は第17回セミナーの愛媛県松山市が初めてである。このような考え方も四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの特色の一つである。

高知県の足摺岬のある土佐清水市でのセミナーに539名が四国4県から集まり、討議をした光景には、正直鳥肌が立つ程の感動と感銘を覚えた。この土佐清水市のセミナーに参加して、中央集権的機関委任事務体質、行政依存的体質が大きく変わりつつあることを確信できた。

しかも、この四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは、「地域福祉俳句会」は固より、ジャズを聴きながらの交流、あるいは徳島の阿波踊り、高知の「よさこい」踊りの体験等地域文化の野趣〈やしゅ、素朴な味わい〉に富んでおり、参加していてとても楽しい「集い」である。

本稿は「地域福祉の真髄」と題して3つの点に絞って述べてきたが、これ以外でもニーズキャッチの方法、福祉教育を実践する上での資料の作り方、市町村の地域福祉計画づくりの方法、コミュニティソーシャルワークを展開できるアドミニストレーションのあり方等も検討しなければ地域福祉実践は推進できないであろう。しかしながら、それらについては紙幅の関係もあり、後日に委ねたい。

また、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践の中でも高知市の「こうちこどもファンド」の取り組みや香川県の「香川おもいやりネットワーク事業」(施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会と民生・児童委員との3者がコラボレーションしての生活のしづらさ、生活の困窮者を地域で支える活動)、あるいは本資料には都合により収録できなかったが、愛媛県愛南町のNPO法人なんぐん市場が取り組んでいる、精神障害者の退院支援と地域定着、地域自立生活支援の取り組みの実践、更には想定される南海トラフ地震への対策も考えた災害時支援のソーシャルワーク実践のあり方等これからの地域福祉実践を考える上で大きな示唆を与えてくれる実践についても考察を深めなければならないし、かつそれに関わってこれからの地域福祉研究上の意義、あり方についても論述しなければならないが、これも後日に委ねたい。

最後になりましたが、20年間、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの開催にご尽力してくれた日開野博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、越智和子さん、白方雅博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、島崎義弘さん、佐和良佳さん、市川千香さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、日下直和(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)さんをはじめ、お一人、お一人のお名前を挙げられないが、四国4県の市町村社会福祉協議会及び県社会福祉協議会の職員の方々、そして日夜、地域福祉実践に傾注されている方々、更には聖カタリナ大学、高知県立大学、松山大学、高知大学、四国学院大学の先生方等本当に多くの人々に支えられ、このセミナーが継続実施されてきたことにこの誌上を借りて改めて厚く御礼を申し上げるとともに、心より感謝を申し上げる次第である。

付記
本稿は2017年6月3~4日に、愛媛県松山市の松山大学で行われた日本地域福祉学会において、地元四国4県の地域福祉実践の発表の一環として編集刊行された『「地域福祉の遍路道」四国・こんぴら地域福祉セミナー資料集』に寄稿したものに一部加筆したものである。

謝辞
本稿は、一般財団法人社会福祉研究所『所報』第93号、2018年3月、1~17ページ所収の大橋謙策先生の玉稿です(一部削除・修正)。転載許可を賜りました大橋先生と社会福祉研究所に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所

 

補遺
(1)社会福祉協議会は  “ 自己満足 ”、“ 唯我独尊 ”、“ 視野狭窄 ”  で生き残れるか?

新年に頂いた年賀状の中に、東京都の福祉局の職員として勤め、定年後に地区社会福祉協議会に関わり、草の根の地域福祉実践をしている方から、“社会福祉協議会は旧態依然で、改革する意欲がない”という嘆きの言葉が書かれた年賀状を頂きました。

私は厚生労働省が進めている地域共生社会政策の具現化には、社会福祉協議会が改革され、住民のニーズに対応する活動を展開できなければ、その具現化は難しいと思っていますし、かつ社会福祉協議会は生き残れないと思っています。

地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業は、包括的相談と福祉サービスを必要としている人の社会参加支援とそれを可能ならしめる地域づくりの3つの事業を三位一体として展開して欲しいとしています。

これを行うためには、市町村における第2層の専門多機関、専門多職種の連携と第3層の小学校区レベルでの住民参加、住民のボランティア活動の活性化が不可欠ですし、とりわけ第2層の機能と第3層の機能をつなげ、コーディネートする力が必要です。この第2層と第3層との有機化ができないと、また“新たな縦割り”を産みかねません。

これらの事業・活動を展開する組織として、最もふさわしい組織は市町村社会福祉協議会ではないかと私は思っています。

私の地域福祉実践、研究、教育は全国の社会福祉協議会とバッテリーを組むことにより展開され、体系化できました。言わば、私は社会福祉協議会によって“地域福祉研究者”に育てられたと思っていますので、身びいきすぎるかも知れませんが、上記の機能を考えたたら社会福祉協議会しかないと思っています。

1980年代から社会福祉協議会は小学校区レベルで地区社会福祉協議会づくりを推進してきました。その過程で、自治会組織や民生委員・児童委員とも深い関係を築いてきました。

1990年代には、住民に信頼される組織になるためには、住民のニーズに応える具体的サービスを展開し、そのサービス提供過程において、新たな住民のニーズを把握しようという「事業型社協」の考え方を打ち出しました。

また、1991年からは潜在化しているニーズを発見し、専門多機関でのチームアプローチによる支援を行う「ふれあいのまちづくり事業」を展開してきました。

このような経緯を考えれば、地域共生社会政策の具現化、重層的支援体制整備事業は社会福祉協議会がその中軸になって活動して“当たり前”だと私は思うのです。

しかしながら、冒頭に述べたように、社会福祉協議会は未だ1980年代までの“旧態依然”の活動、組織になっています。これで、社会福祉協議会はいつまでも行政からの補助金を貰えるのでしょうか。

全国各地の地方自治体では、9月の決算議会で社会福祉協議会への補助金の費用対効果が問われ、補助金の見直しの論議が各地の自治体で論議されています。あるいは、行政の監査委員会から社会福祉協議会への補助金の見直しの勧告もされています。行政の保健福祉部局が社会福祉協議会への理解を示してくれても、財政部局が理解せず、補助金カットの厳しい査定が続いています。社会福祉協議会が有している「基金」を全て遣い切ってから、改めて補助金の支出の論議を余儀なくされているところもあります。地方自治体の「指定管理制度」に伴う入札において、従来使用していた事務所がある社会福祉センターの管理運営に関わる指定管理で、社会福祉協議会が落札できず、他の業者に事務所代の賃料を払って入居している社会福祉協議会もあります。その場合の事務所賃貸料の補助金は行政から出ません。

このような状況下で、社会福祉協議会の経営のあり方は現在とても厳しい状況にあり、早く“眼を覚ます”必要があると思っています。

私自身、昨年だけでも岩手県、秋田県、福島県、香川県等の社会福祉協議会の経営問題に関する会議・研修に招聘され、上記のような状況と課題を提起し、コンサルテーションを行ってきました。

社会福祉協議会を取り巻くこのような状況を改革するためには、地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業を受託し、第2層の地域包括支援センターの運営を軸にした専門多機関協働と第3層の小学校区の地区社協における住民参加、ボランティア活動とを有機化させる活動に取り組むしか“生き残る道はない”と考えています。

そのためには、従来の社会福祉協議会の事務局体制を改編し、地区社会福祉協議会ごとの「地区担当制」を導入し、その地区において福祉サービスを必要としている人の“発見”と個別支援に関する包括的総合相談を行い、かつその福祉サービスを必要としている人の社会参加に関する問題解決プログラムを開発・提供すること、更にはそれらの活動を住民が支え、ボランティア活動として協力するとともに、福祉サービスを必要とする人々を地域から排除することなく、蔑視をすることなく、共に生きていける地域づくり、福祉教育の推進を統合的に展開できる事務局体制に再編するしか“生き残れる道はない”と思っています。

そのためには、社会福祉協議会職員、総務部門の職員も、生活福祉資金や権利擁護部門の職員も、施設・団体支援部門の職員も含めてコミュニティソーシャルワーク機能の研修を受講し、その資質向上を図るしかありません。

厚生労働省の2015年の「新たな福祉提供ビジョン」(この報告書が地域共生社会政策の起点になる)の中で述べているように、“個別支援を通じて地域を変えていく”過程が重要なのです。

その点、テーマ型NPO法人は、福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに特化した活動を展開していますので、“個別問題”に強い“印象”を創り出していますし、事実、個別課題分野ごとに大きな成果を挙げて評価されています。

また、それらのNPO法人は今日のインターネット社会の機能をよく活用し、全国的に組織化を図り、個別課題分野における“発言力”(政治的にも、行政の信頼度においても、行政からの補助金獲得においても、クラウドファンディングにおいても)を高めています。

正直なところ、この間の内閣府等の政府の福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに取り組むNPO法人への評価は高く、政府の審議会での発言力や報告書における位置づけも高いものがあります。

それに比して、社会福祉協議会への評価、位置づけは“相対的に地盤沈下”していると思います。福祉サービスを必要としている人の個別分野の取り組みが全体的に増加しているので、その個別課題に取り組む団体・組織が増えることはいいことであり、その結果、社会福祉協議会が“相対的に地盤沈下”するのも当然でやむを得ないと考えるべきなのでしょうか。

私は、社会福祉協議会の位置は“相対的に地盤沈下”しているのではなく、“絶対的に地盤沈下”していると考えています。つまり、住民のニーズに対応しないで、相変わらず“旧態依然”の活動に終始し、“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に陥っているのではないでしょうか。

これらの課題は一朝一夕には解決できないと思いますが、せめてNPO法人と社会福祉協議会との“彼我の位置関係”を確認するためにも、各都道府県、各市町村で取り組み始めて貰っている「社会福祉関係資料集」の中に、これら「福祉サービスを必要としている人の個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている当事者組織・団体」の把握を行い、収録することが必要ではないかと思っています。

私は、富山県社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーク研修において、『社会福祉関係資料集』の作成の必要性を説き、富山県福祉カレッジと協働して立派なものを作成してもらいました。この実践の取り組みは、現在では千葉県、岩手県、香川県、佐賀県の社会福祉協議会に普及しています。

地域共生社会政策では、社会福祉法の改正で地域福祉計画等を作成する際に、「地域生活課題」を明確に把握することを求めています。私は、この改正が行われる前から、住民のニーズに関わる「地域福祉・地域包括ケアに関わる基本情報」を市町村ごとに、かつ地域包括支援センター圏域毎に作ることの必要性と重要性を指摘してきました。

上記の『社会福祉関係資料集』は、これらの国の動向を踏まえても必要な取り組みです。富山県では、コミュニティソーシャルワークの研修の時のみならず、いろいろな研修の機会に活用しています。

せめて、これらの『社会福祉関係資料集』の中で、全国の、各都道府県の、各市町村で活動している「福祉サービスを必要としている人への個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている人々の当事者団体・組織」の一覧を収録することにより、“彼我の位置関係”を認識し、社会福祉協議会が陥っている“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に気付き、改革する契機になればと思っています。

そして、社会福祉協議会がそれらの組織、団体の参加の基にプラットホームを創り、その“中核的組織”として社会福祉協議会が活動を行い、社会的評価を高められればと祈念しています。

――「老爺心お節介情報」第38号/2023年1月2日(一部削除・修正)

 

(2)「バッテリー型研究」と「関係人口」

私は地域福祉研究の「研究方法」について長らく悩んできました。とりわけ、外部の人間として地域に入るのですから、“地域”との関わり方については悩んできました。

研究者として、“上から目線”で地域に入り、“教えてあげる”という“臭い”をさせながら、“地域を引っ搔き回し”、その成果をあたかも自分の“手柄”のように披歴する研究者に1970年代から辟易してきました

私自身はそれについては相当気を付けてきたつもりではありますが、住民の皆さんからみたら、同じような指摘を受けるのかも知れません。

また、住民の意識、関係等の大量的リサーチを行うのが地域福祉研究なのかとも思ってきました。

その地域福祉の「研究方法」については『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』で述べたつもりです。一言で言えば、実践家と研究者が野球の投手、捕手のようにバッテリーを組んで、協働実践を行う「バッテリー型研究」が重要だと考えてきました。

そのことに関し、阪野貢先生が「関係人口」に関わらせて説明しているので参照して頂きたい。その一部を以下に抜粋しておきます。是非、阪野貢先生のブログ(「市民福祉教育研究所」<まちづくりと市民福祉教育>(63)2022年1月21日)を読んで下さい。

阪野 貢/追補:「関係人口」と「よそ者」―田中輝美の論考と大橋謙策の実践研究―
〇筆者(阪野)の手もとに、田中輝美(ローカルジャーナリスト、島根県立大学)の『関係人口の社会学―人口減少時代の地域再生―』(大阪大学出版会、2021年4月。以下[1])がある。
〇「関係人口」という用語は、高橋博之と指出一正の二人のメディア関係者が2016年に初めて言及したものである。「関係人口」とは、高橋にあっては「交流人口と定住人口の間に眠るもの」、指出にあっては「地域に関わってくれる人口」をいう。その後、田中輝美は「地域に多様に関わる人々=仲間」(2017年)、総務省は「長期的な『定住人口』でも短期的な『交流人口』でもない、地域や地域の人々と多様に関わる者」(2018年)、農業経済学者である小田切徳美(明治大学)は「地方部に関心を持ち、関与する都市部に住む人々」(2018年)、河井孝仁(東海大学)は「地域に関わろうとする、ある一定以上の意欲を持ち、地域に生きる人々の持続的な幸せに資する存在」(2020年)としてそれぞれ、「関係人口論」を展開する(73~75ページ)。
〇田中は[1]で、こうした抽象的・多義的で、農村論や過疎地域論に偏りがちな(都市部における関係人口を切り捨ててしまう)関係人口論に問題を投げかけ、関係人口について社会学的な視点から学術的な概念規定を試みる。関係人口とは「特定の地域に継続的に関心を持ち、関わるよそ者」(77ページ)である、というのがその定義である。この定義づけで田中は、関係人口を、移住した「定住人口」でも観光に来た「交流人口」でもなく、新たな地域外の主体、別言すれば「一方通行ではなく、自身の関心と地域課題の解決が両立する関係を目指す『新しいよそ者』」(69ページ)として捉える。その際、地域とどのように関わるかについて、関係人口の空間(「よそ者」)とともに、時間(「継続的」)と態度(「関心」)に注目する。(中略)
〇ここで筆者は、「福祉でまちづくり」の「スーパースター」(田中輝美の言葉)的な「関係人口」や地域づくりの専門家(「実践的研究者」)といえる大橋謙策(日本地域福祉研究所)の「バッテリー型研究方法」を思い出す。大橋のそれについては、本ブログの<まちづくりと市民福祉教育>(27)大橋謙策「地域福祉実践の神髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」(2018年4月4日投稿)を参照されたい。
〇大橋は、全国各地の地域福祉(活動)計画の策定や地域福祉の研修会・セミナーなどに関わるが、その際の視点や姿勢はおよそ次のようなものである。

(1) 地域による実践の理論化・体系化と関係人口としての理論仮説の提起と検証(バッテリー型研究方法)を行う。
(2) 地域と長期間にわたって関わり、特定あるいは総合的・統合的な事業・活動への支援を継続的に行う。
(3) 地域による実践活動の活性化と、地域と行政や関係機関との協働を成立させるコミュニティソーシャルワーク機能(触媒・媒介機能)の展開、そのためのシステムの整備を支援する。
(4) 多種多様な、あるいは潜在的な地域課題の解決に向けた専門多職種によるチームアプローチの必要性や重要性を提唱し、その実現を図る。
(5) 地域との相互作用や相互学習の過程を通して、地域内外との交流や福祉等関係者(実践者)の組織化を促す。
(6) 地域による実践のプロセスとその結果の客観化・一般化や実践仮説の検証を図るために、著作物の刊行や地域によるそれを支援する。
(7) 地域による問題発見・問題解決型の共同学習(福祉教育)を徹底的に行い、地域(地域住民や専門家等)の社会福祉意識の変容・向上を図る。
(8) 地域との共同実践を通して地元自治体における福祉サービスの整備や、全国の地方自治体や国への政策提言を行い、その具現化の制度化・政策化を促す、

などがそれである。これらを総じていえば、地域による「草の根の地域福祉実践」を豊かなものにするために「継続は力なり」の意志を体して、理論と実践を往還・融合する探究的な「実践的研究」に取り組み、「福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク」を追究する、ここに大橋の「関係人口」としての具体的・実践的な視点や姿勢を見出すことができる。しかもそれらは、地域づくりや地域再生に「関係人口」が果たすべき役割や機能のひとつのモデルとして整理されよう。
〇なお、上記の(6)に関する文献に例えば次のようなものがある。紹介しておきたい。表記した地名は大橋が関わった地域である(それはそのほんの一部に過ぎない)。

・東京都狛江市/大橋謙策編著『地域福祉計画策定の視点と実践―狛江市・あいとぴあへの挑戦―』第一法規出版、1996年9月。
・富山県氷見市/大橋謙策監修、日本地域福祉研究所編『地域福祉実践の課題と展開』東洋堂企画出版社、1997年9月。
・岩手県湯田町(現・西和賀町)/菊池多美子著/『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記―』東洋堂企画出版社、1998年9月。
・富山県富山市/大橋謙策・林渓子共著『福祉のこころが輝く日―学校教育の変革と21世紀を担う子どもの発達―』東洋堂企画出版社、1999年1月。
・山口県宇部市/宇部市教育委員会編『いきがい発見のまち―宇部市の生涯学習推進構想―』東洋堂企画出版、1999年6月。
・島根県瑞穂町(現・邑南町)/大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著『安らぎの田舎(さと)への道標(みちしるべ)―島根県瑞穂町 未来家族ネットワークの創造―』万葉舎、2000年8月。
・岩手県遠野市/日本地域福祉研究所監修、大橋謙策・ほか編『21世紀型トータルケアシステムの創造 ―遠野ハートフルプランの展開―』万葉舎、 2002年9月。
・長野県茅野市/土橋善蔵・鎌田實・大橋謙策編集代表『福祉21ビーナスプランの挑戦―パートナーシップのまちづくりと茅野市地域福祉計画―』中央法規出版、2003年2月。
・香川県琴平町/越智和子著『地域で「最期」まで支える―琴平社協の覚悟―』全国社会福祉協議会、2019年7月。

――「老爺心お節介情報」第33号/2022年2月22日(一部削除・修正)

 

(3)地域福祉研究者の「バッテリー型研究」

私は、1960年代、東京都三鷹市で中卒青年等を対象とした青年学級の講師を約10年間担当した。その際に、青年たちから投げかけられた言葉はいまでも忘れられないし、忘れてはいけないと“自虐”的と思えるほど意識して研究者生活をしてきた。

その言葉は“あなたたちが大学院に進み、研究できているのは我々の税金があるからではないのか。我々は、勉強したくても家が貧困で高校へも行けなかったし、大学へも行けなかった。だから、この青年学級で学んでいる。あなた方の奨学金も我々の税金で賄われているのではないのか。そいうことを考えてあなたは生活し、研究しているのかという”問い掛けであった。

当時は、東大紛争もあったりして、このような言葉がだされたのだと思うが、この言葉は自分にとって大変身に堪えた。そうでなくても、日本社会事業大学を進路として選択する際に、そのような考えを自分でしていたものの、直接、面と向かって、このような言葉を投げ掛けられると身に堪えた。それ以来、ディレッタンティズム(もの好き)で研究するのではなく、社会に貢献できる研究者になろうと誓った研究生活であった。

そんなこともあり、私は講演や研修を依頼されると、常に参加者にどのような“お土産”を持って帰ってもらうのか、参加してよかったと思える“成果”をどう提供できるのかを考えてきた。

また、講演や研修等の頂いた機会にその地域、その組織、その自治体から何を自分が学ぶかということを常に考えてきた。それは自分自身の学びであると同時に、参加者への“お土産”の素材を掴むことにもつながっていた。

その際の私の姿勢として、自分が学んだことや自分が知っている情報を“分かち与える”という、ややもすると“上から目線”になりがちな“教える”ということではなく、参加者がこれから考える糸口、課題を整理し、学びへの関心、興味を引き出せるような契機になればということを常に意識してきた。それは、言葉で優しく言うとか、言葉で励ますとかいうことではなく、参加者が主体的に考え、行動に移したいと思えるような問題の整理と課題の提起を志すことであった。

一方、私は1985年1月に『高齢化社会と教育』を室俊二先生と共編著で上梓した。それに収録された論文の中で、生涯教育、リカレント教育、有給教育制度等に触れながら、これからは高学歴社会と高度情報化社会が到来し、従来のような知識“分与”的、情報伝達的教育や研修は変わらざるをえないことを指摘した。

今、文部科学省はアクティブラーニングの必要性をしきりに強調しているが、それはかつて社会教育が青年団を中心に提唱してきた「問題発見・問題解決型協働学習」で言われてきたことと同じである。

このような状況のなかで、地域福祉研究者は、気軽に“地域づくり”、“地域共生社会”づくりというが、どのような立ち位置で研究し、どのような立ち位置で講演や研修に臨んでいるのであろうか。

他方、私は地域福祉実践をしている現場の方々と“バッテリーを組んで”、その地域、その自治体、その社会福祉協議会をフィールドにして研を行ってきた。そして、その研究は一時的なものではなく、長期に亘り、継続的に関わることによって行われるべきものだと考えてきた。

地域に住んでいる住民は、移転、移住しようにも、先祖伝来の土地、「家」のしがらみの中で生きており、気軽に移動できない状況を十分理解しないままに、外部から入り、外部の目線で“気軽に”地域づくりを言い、短期で関わりを切ってしまう研究方法は、あたかも住民の方々を弄ぶかのように思えていたからである。

私は、1970年に現在の東京都稲城市に移住し、地域活動を始めたが、それ以降、よほどのことが無い限り、この稲城市を離れることをしまいと決意を固めた。“地域づくり”を言うということは、それだけの重みのある取組であるべきだし、そうでないと住民の方々は納得してくれないと思ったからである。現に、そのような指摘は各地で幾度も聞いたし、聞かされてきた。

そんなこともあり、“バッテリーを組めた地域”には、長い地域では40年間のお付き合いをさせて頂いている地域もある。

ところで、このような文章を書いたのは、まさに「老爺心お節介」の最たるものかもしれないが、最近目にする論文等を読んでいて、研究者自身の立ち位置を明確にしないままに、取り組まれている実践を評価、紹介しているものが多く、地域福祉研究者として“一種の研究倫理”に抵触しているのではないかと思う論文を散見するからである。全国のいい実践は、大いに紹介し、情報共有化がおこなわれてほしいが、その場合でも紹介なのか、評論なのか、自分の学説の論証に使うのか等その位置づけは明確にしてほしいものである。しかも、その実践のアイディアは誰が出したのか、参与観察をするならばどういう立ち位置で行うのかを明確にする必要がある。最近、政治学の分野で「オーラルヒストリー研究法」が活用されているが、ある政策、ある実践がどういう形で企画され、政策化されていくのかを、その過程の力学も踏まえて研究が進められている。地域福祉研究においても、同じような研究の枠組みを作る必要があるのではないかと考え、この拙稿を書いてみた。

――「老爺心お節介情報」第23号/2021年3月25日(一部削除・修正)

 

(4)社会福祉実践における「実践仮説」と実践者の  “ ゆらぎ ”

筆者は、ここ数年千葉県、富山県、香川県、佐賀県、大阪府、岩手県の社会福祉協議会において、CSW研修を体系化させようと取り組んできました。その際、感じることは、社会福祉関係者の活動には「実践仮説」をもって意識的に取り組むという姿勢が弱いと感じている。

筆者が、東京都三鷹市の勤労青年学級の講師として取り組み始めたのは1966年度からですが、その際、小川正美社会教育主事から強く求められたのは、①勤労青年という教育実践の対象になる「学習者理解」を深めること、②これらの青年に対し、どのような教育目標を設定し、どのような教材や教育方法を駆使して実践するのか、1年間の、あるいは中期の「実践仮説」をもって取り組むこと、③年度がおわったら、「実践仮説」に基づいた実践がどうであったかを総括、評価し、文章化することであった。当時、日本社会事業大学の学部4年生であった私にとっては、それはとても厳しい“注文”であったが、それを意識化して取り組んだことが筆者を育ててくれたと今では感謝している。

三鷹市の勤労青年学級だけではなく、教育学分野では、教師が「実践仮説」をもって、実践に取り組むということが必要だと教えられてきたが、1970年代、社会福祉分野において「実践仮説」という言葉を使うと、関係者はその用語は初めて聞いたとか、「実践仮説」とはどういうことですかとか、用語の使用が共有化できないことに驚いた記憶がある。ある意味、社会福祉分野は“制度の枠”の中で、“制度に基づくサービスを提供”していたので、「実践仮説」という考え方を持たなくても通用してきたのかなと思ったことがある。

しかしながら、これからは制度が十分でなければ、ニーズに対応する新しいサービスを開発する必要があるし、生活のしづらさを抱えている人への伴走的支援によるソーシャルワーク実践が求められてきている。そこでは、実践者の「実践仮説」が大いに問われるはずである。

――「老爺心お節介情報」第21号/2021年1月18日(一部削除・修正)

 

(5)実践・研究における問題構造の把握と分析視角

私は、恩師の小川利夫先生から研究指導を受ける際、“おまえの分析視角は何か、そのナイフは先行研究を踏まえた理論課題を明らかにできる研ぎ澄まされているナイフなのか、それともなまくらなのかどうか?”、“事象に流されて、紹介するだけのものは論文とは言わない”等と常に戒められてきた。

そんなこともあり、私は論文を書くときに、あるいは講演をする際にとても十分とはいえないにしても、常に以下のようなことを考えて研究生活を送ってきた。

➀ 何故、その社会問題、事象を取り上げるのか、それを取り上げる意義は何か?
② 取り上げた社会問題、事象をどう分析するのか、その分析の視角は何か?
③ 分析したここの要因間の関係の構造を考え、何が幹で、何が枝で、何が葉なのか、枝葉末節を考えて、構造的に分析を行い、考えているか?
④ 分析をした社会問題、事象を通して、社会福祉学界に対してどのような理論課題を提起し、論述しようとしているのか、その理論課題に即した先行研究も十分ふまえて論述しているのか?

上記のことを私が意識して問題構造、分析視角という用語を使って書いた最初の論文が「現代児童の問題構造と分析視角」(『ジュリスト』572号、有斐閣、1974年10月)である。

自分のことを棚に上げておこがましいことを言うようであるが、最近の実践や研究において、上記のことがほとんど触れられずに、“犬が歩けば棒に当たる”類の研究姿勢が多いことはなぜなのだろうか?それは私達の世代の“大学院”での研究指導が不十分であったからであろうか。

――「老爺心お節介情報」第36号/2022年6月13日(一部削除・修正)

原田正樹/福祉教育実践の基礎―ICFの視点とサービスラーニング―


 

Ⅰ ICFの視点に基づく福祉教育実践

出所:原田正樹/ICF視点での福祉教育実践を展開していくために―福祉教育実践講座―/京都府社会福祉協議会、2014年3月5日。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と京都府社会福祉協議会に衷心より厚くお礼申し上げます。京都府社会福祉協議会の渡邊一真さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

 Ⅱ サービスラーニングと福祉教育実践

 

ご紹介をいただきました日本福祉大学の原田と申します。よろしくお願いいたします。今日は、「サービスラーニング」についてお話をさせていただくという機会を頂戴しました。サービスラーニングの考え方や歴史、また今どんな実践が行なわれているかなどを紹介したいと思います。

サービスラーニングとの出会い
私がサービスラーニングに初めて出合ったのは、今日のこの会の後援をさせていただいている日本福祉教育・ボランティア学習学会でサービスラーニングについて研究しようということで、1997年にアメリカへ視察に行った時のことです。

当時、アメリカのオハイオ州立大学のジャック先生という方が、特にアメリカの小学校・中学校のサービスラーニングにおいて非常にリーダー的な役割を果たしていました。そこで、90 年代の後半には毎年何回かオハイオ州立大学にお邪魔し、日本の福祉教育やアメリカで始まっているサービスラーニングはボランティア活動とどこが同じでどこが違うのかを勉強するために、実際の小学校や中学校の授業を拝見させていただきました。

アメリカのサービスラーニングの授業風景
ちょうどこれからサービスラーニングを始める小学校3年生の、最初の授業を拝見する機会がありました。州立の小学校で担任は女性の先生、クラスは当時20 名ぐらいで、子どもたちを前に先生がこのような問いかけをしました。「みんなが安心して毎日学校に通って来られるのは誰のおかげ?」。

子どもたちはみんないろいろ考えながら言い出します。最初に出てくるのは「お父さん、お母さん、家族のおかげだ」。その先生は、「そうねえ、お父さんがいてくれるからね」、「お母さんがいてくれるからね」と、子どもたちの意見を引き出していきます。「でも、それだけ?ご両親だけ?」との先生の投げかけに、また子どもたちは考えていろいろなことを言い始めます。

やりとりをしている中で、だんだんと子どもたちの中から「地域のおじさんやおばさんのおかげ」というような声が出てくるのです。「地域のおじさんやおばさんは何をしてくれるの」と先生がまた尋ねます。アメリカではスクールパトロールが非常にしっかりしています。日本でも最近、登下校のときに地域の方たちが見守りをしている所がありますが、アメリカでは当時からそれがしっかり仕組みとして地域の役割としてありましたから、「スクールのパトロールの人たち、おじさん、おばさんたちがいてくれるから私たちは安心して学校に通って来られる」と子どもたち。「そうね、あのおじさんやおばさんがいてくれるから、みんなが来られるのよね。他には?」と先生がどんどん広げて聞いていきます。そうすると、小学校3年生が「その地域のおじさん、おばさんたちがお金を出してくれているから、僕たちは学校に来られるのだ」と言うのです。そんな答えまでが出てくるのです。

もちろん州立の学校ですから税金で学校が運営されています。税金という概念がどこまでその小学校3年生でわかっているかどうかわかりませんが、いずれにしましても「地域のたくさんの人たちのおかげで学校が成り立っていて、私たちが安心して安全に学校に通って来られるのは地域のおじさんやおばさんのおかげなのだ」という話を先生が深めていくのです。

そういう話をある程度してから、今度は先生が質問を変えます。「では、みんなは地域のおじさんやおばさんのために何ができるの?」。その地域の人たちのおかげで自分たちは学校に来られているのだということを十分子どもたちが認識した上で、今度は「では、地域のその人たちのためにみんなは何ができるの」と切り返した質問をするのです。

そうすると、子どもたちが悩みながら「地域のお掃除ができる」「このようなことができる」ということをどんどん言い始めるのです。それを先生が一つひとつ受け止めていきながら、「みんなは地域のおじさんやおばさんたちのおかげで学校に来られているのだから、みんなが今度は地域に何をしようか」という話をしながら地域貢献のプログラムづくりに入っていくのです。最初の授業はそこまでです。その後、彼らが考えたプログラムを実際に実践してサービスラーニングが展開されていきます。

福祉観やボランティア観の違い
本学は福祉系の大学ですが、学生たちに「なぜ福祉の大学に来たのか」、あるいは「将来、福祉の仕事に就きたいと思ったのはどうして」と1・2年生に聞くと、その多くの学生たちは小・中学校のときに福祉教育でとてもいい経験をしているのです。

老人ホームに行って、すごく素敵な職員の方と出会っている。あるいはお年寄りや障害のある方と出会って、小・中学校のときにとてもいい福祉の原体験をしたことが、将来、福祉を学びたい、福祉の専門職になりたいというモチベーションにつながってきているということが学生たちにアンケートを取るとすごくはっきりしてくるのです。

20年前はこんな感じではありませんでした。福祉教育などは小・中学校や高校で行われなかったので、あまりそういうモチベーションの学生たちはいませんでした。むしろ家族や親戚に認知症や障害のある方がいる、そういう自分の家族のモチベーションによって福祉を志すというのが20 年ぐらい前の中心だったのです。

ところが、今は全くそういう家族がいるというわけではなくても、小・中学校のときの福祉体験が将来の職業選択につながってくるという子たちがすごく増えてきています。これはある面、小・ 中学校や高校で福祉教育の体験が非常に広がってきた一つの成果だと思うのです。

一方で、私は福祉系の大学で教えていますが、他の大学や学部でもボランティア論を担当することがあります。他の大学の経済学部や法学部の学生にボランティア論を教えると、人数は多いのですが、どう見てもボランティアに対して好意的ではない雰囲気があるのです。端的にいえば、「ボ ランティア論だったらそんなに難しくないだろう、単位が取りやすいから履修した」という雰囲気の学生たちが最初のときはたくさんいます。

彼らに最初の授業のときに「なぜボランティア論を履修したのか」、「大学に入るまでのボランティアの経験の有無」、「ボランティアの印象」などについてアンケートを取ります。7~8割方の学生たちは「ボランティアは強制労働だ。自分たちは小・中学校、高校のときに強制労働させられた。そのようなものをボランティアなどというのはおかしい」と、すごく批判的なイメージでボランティアを受け止めていることに愕然とします。福祉系の大学に来る、小・中学校・高校時代の福祉体験に対して肯定的な学生たちとでは180度ボランティア観が違うのです。

その否定的な学生たちの話を聞くと、「掃除など様々なことを学校の先生から強制的にやらされた。自主性だ、主体性だ、責任性だ、いろいろなボランティアについての言説は所詮建前であって、大人の偽善だ。我々はそのようなボランティアなどというものにはだまされない」と言うように、 ボランティアに対して厳しい意識を持ってボランティア論を履修してくるのですね。

「そんなことならボランティア論など履修しなくていい」とこちらは思うのですが、そうは言えないので、15回の授業の中でどうやって彼らのボランティア観を変えられるかというのが私にとっては一つのミッションになっています。

ボランティアとコミュニティサービスの明確化
その違いの根源を探していくと、どうも日本の福祉教育の関係者や学校関係者がボランティアを非常に歪曲して伝えてしまっているのではないかという疑問もあります。

アメリカでは、日本よりももっとボランティアは厳格に使われます。自主性、主体性ということをすごく重んじたボランティア文化をアメリカはつくってきました。コミュニティサービスというのは、今言いましたある一定のノルマや枠組み、もっと言えば教育活動そのもので、評価が伴う枠組みの中で行なうわけですから、=(イコール)ボランティアではなく、これはコミュニティサービスであるということをはっきり生徒たちに伝えるわけです。

コミュニティサービスというのは、先ほどの小学校3年生の先生の授業の導入でもありました 「あなたたちはたとえ小学生であっても地域社会の一人として責任があるのだ。地域の一員として果たすべき役割と義務があるのだ」と「市民性」をしっかり伝える。それは“自発的な”とか“主体的な”ではなくて、子どもたちの間に教育として伝えるというノルマの一つとしてコミュニティサービスをしっかり伝えるのです。

コミュニティサービスをやりながら、例えばオハイオ州では高校生には「年間320時間のコミュ ニティサービスをしなければならない」という時間の制約があります。年間320時間、何をやってもいいが、地域貢献の活動をしなければならない。それを証明してもらって320時間を果たしたというのはノルマなのです。

ところが320 時間終わった後にもその活動を継続する子たちが出てくるわけです。ノルマ終わっていても「継続して卒業までずっとこの活動を続けたい」というのはボランティアです。そこをはっきりと使い分けているのです。アメリカはこの地域貢献、コミュニティサービスを通して学ぶということを非常に大事にしています。

このボランティアとコミュニティサービスの違い、これをもっと意識的に日本では使い分けないといけないということを感じました。社会奉仕というのもそうですが、それをボランティアと置き換えて生徒たちに伝えると、生徒たちのボランティアの受け止め方は、すごくいい体験になる生徒群もいる一方で、強制労働と捉える生徒たちも出てくるわけです。それがボランティアの曖昧性、ボランティアのゆらぎをつくってしまった。

そういう意味でボランティアとコミュニティサービスはしっかりと使い分けることが大事です。今日お話するサービスラーニングはコミュニティサービスをしっかりと使った授業なのです。ボランティアを使ったものではないのです。コミュニティサービスという意図的・計画的につくられた 地域貢献の体験を使いながら授業をしていく。ここの違いがまず前提としてしっかりないといけない。サービスラーニングは決してボランティアを使った学習ではない、コミュニティサービスを使った学習なのです。“サービス”という概念がサービスラーニングの大事なところだと思っています。

大学教育におけるサービスラーニング
少し前提のお話をしましたが、実はこの間の中央教育審議会(中教審)でもサービスラーニングが必要だということがしきりに言われ、昨年、大学教育の中でもサービスラーニングを積極的に取り入れるよう、答申が出ました。

今日も大学関係者の方も参加していただいていますが、中央教育審議会から 2012 年の8月に「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」という答申が出ています。答申の中の質的転換の中で、「学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続け、主体的に考える力を修得する。そのためには質を伴った学修時間が必要である」と書いてあります。(資料➀)

大学教育の改革について矢継ぎ早にいろいろな答申が出て、各大学は「従来のような大学ではいけない、大学の教育内容をどう改革していくか」という教育改革に必死に取り組んでいるところです。

最近、文科省から出てくる“ガクシュウ”というのは、学び修める「学修」という字がよく使われるようになってきています。高校の先生方もご存じのとおりですが、“学び習う”ではなくて、“学び修める”「学修」という言葉を文科省は最近よく使います。

では、そのためにどうしたらいいか。答申には、「そのような『学士力』を育むためには、ディスカッションやディベートといった双方向の授業(アクティブ・ラーニング)への転換と、教室の中で講義を聞いているだけではなく、地域に足を運ぶ、サービスラーニングやインターンシップ等の教室外学修プログラムをしっかり教育課程の中に入れていかなければならないと書いてあります。

アクティブ・ラーニングとサービスラーニングの違い
アクティブ・ラーニングとサービスラーニングの違いは何か。概念だけ整理をしておきたいのですが、講義・講演のような方法は一方通行の授業なので、アクティブ・ラーニングとは言いません。 小・中学校の授業などでよくある、生徒・児童とのやりとりの中で問いかけをしたり、生徒が一緒に考えたりという双方向の授業をアクティブ・ラーニングと言います。

NHKがハーバード大学の「白熱教室」などを放映しています。かつて大学は、私たちもそうなのですが、「40 人のクラスだったら生徒とやりとりはできるが、200 人、300 人の大講義などはとてもアクティブ・ラーニング、双方向の授業などできない」と、できないことを前提に一方的な講義をし続けてきたわけです。

学生たちがわかる・わからないに係わらずに大学の講義は一方的に行われていたのですが、「たとえ 200 人、300 人の授業でも双方向の授業をしていかなければいけない」ということが、今、しきりに言われています。それはそれで我々大学教員としては本当に難しいです。15 人、10 人ぐらいのゼ ミであれば当たり前のことですが、300 人の講義の中でアクティブ・ラーニングをするというのは結構大変です。

もちろんオーソドックスに生徒たちに発言させてやりとりをするという方法もあります。若い先生方などは、最近はスマートフォンで生徒たちに発題をして回答をさせ、すぐに集計して、その割合がグラフになって出てくるといった、ITを活用した双方向の授業などもしています。

様々な方法をとりながら、とにかく生徒と教師が双方向でやりとりしながらアクティブに能動的に授業をしていくということがすごく言われるようになっています。

しかしアクティブ・ラーニングの中にサービスラーニングがあるわけではないのです。アクティ ブ・ラーニングというのはあくまでも学内での講義をどう能動的にしていくかということです。それに対してサービスラーニングやインターンシップというのは大学の中だけではない教室外学修で、フィールドに出て学ぶということがまず前提として出てきました。「学士課程教育はキャンパ スの中だけで完結するものではなく、サービスラーニング、社会体験活動や留学経験等は、学生の学修への動機付けを強め、成熟社会における社会的自立や職業生活に必要な能力の育成に大きな効果を持つ」とサービスラーニングの必要性について整理がされています。

ポイントは、「社会的自立を促す」ということです。サービスラーニングの側からすれば、まさに市民社会を担う市民の育成が「社会的自立」につながるということ。と同時に「職業生活」に必要な「キャリア教育」として外に出て学ぶということはとても意味があるのだということの二つが大きく強調されるようになりました。

したがって、「地域社会や企業等と大学は、プログラムとしての学士課程教育の質的向上のための、地域・企業参画型の新たな連携・協力に取り組むことが重要である。あわせて、学生に対する経済的支援の充実のための連携協力を進めることを望みたい」と書かれています。

COC(センター・オブ・コミュニティ)
今年度から文部科学省は全国から50の地域に貢献する大学をCOC(センター・オブ・コミュニ ティ)として選出して、そこに大型の補助金を付けて、まさにこの教育を中心的に担っていくというモデル事業を始めているところです。

その50大学は8月の上旬に発表されるので、まだどこかはわかりません。その発表がされますと、全国の50 大学(平成25 年度地(知)の拠点整備事業単独 48、共同4の合計 52が採択された)がこういう取り組みのモデルということでこれから5年間進めていくことになるのですが、文科省としてもそこに集中的にお金を付けて、これが実現するような仕組を全国で広げていこうと、いま政策としても具体的に動き始めているというところです。

サービスラーニングの定義
ただ大事なのは、サービスラーニングというのは先ほど言いました社会的自立やキャリア教育にもつながるということですが、実学、プラグマティズムの考え方が非常に強いのです。そのプラグマティズムの考え方がどういうようになってきたかというのをもう少し整理をしたのがサービスラーニングの定義でもあります。文科省の答申の中では「教育活動の一環として、一定の期間、地域のニーズ等を踏まえた社会奉仕活動を体験することによって、それまで知識として学んできたことを実際のサービス体験に活かし、また実際のサービス体験から自分の学問的取組や進路について 新たな視野を得る教育プログラム」と整理されています。

日本福祉教育・ボランティア学会としても、この定義は必要な要件がすべて入っていて、非常によく整理されているという解釈をしております。ポイントは三つあります。

〇「一定の期間、地域ニーズをふまえる」
イベントで1回だけやるようなものはサービスラーニングとは言わないということです。ただ、 一定の期間というのが2カ月なのか3カ月なのか1年なのか、これは解釈や状況がいろいろ違うかと思いますが、少なくとも1回のイベントだけではない一定の期間において、かつ地域のニーズに基づいているということ。つまり学校側がやりたい、生徒たちがやりたいということだけではなくて、地域が求めていることに対してしっかりとそれに応えていくということです。

〇「それまで知識として学んできたことをサービス体験に活かす」
ここがサービスラーニングの一つの特徴なのですが、教科教育があって、それ以外に何か体験をさせるということではないのです。教科教育とサービスラーニングや地域貢献したことをどうつなげて考えられるようにするかということですが、これは言うは易く、すごく難しいことです。ボラ ンティア体験、あるいはボランティア活動は課外活動で、好きな生徒だけが一生懸命やればいいのだという従来の日本でのサークル的なとらえ方とサービスラーニングとは違います。サービスラー ニングという地域貢献をすることによって、いままで学んできたこととそれが関連してくるという、ここが大きな特徴なのです。

このあたりは今日も来ていただいている、小平市の総合的な学習の時間で、クロスカリキュラム として山下先生たちがこのことをずっとやってこられました。小学校で学ぶ国語・算数・理科・社会と、いろいろな地域活動を総合的な学習の時間の中でどう結び付けるか、つまり何を総合化させるかというのは、まさにサービスラーニングの考え方と当てはまることになるわけです。

〇「実際のサービス体験から自分の学問的取組や進路について新たな視野を得る」
新たな視野というのは気づきを大事にするということです。体験と知識をつなぎ合わせることで、 新しい気づきを子どもたちの中にどうつくり出していくか。そういう意味では明らかにこれは学習活動です。ボランティアと大きく違うのは、学習活動としてこのサービスラーニングがしっかりと位置づいているということです。

サービスラーニングの導入
〇「専門教育を通して獲得した専門的な知識・技能を現実社会で実際に活用できる知識・技能へ の変化」
まさに実学です。大学の授業や講義でやったことは役に立たないということではなく、それを通じてどう社会貢献できるかということをしっかりとサービスラーニングを通して意識的に学び直すということです。

〇「将来の職業について考える機会の付与」
〇「自らの社会的役割を意識することによる、市民として必要な資質・能力の向上」
このようなことを通して、市民としての必要な資質・能力の向上が期待できる学修活動がサービスラーニングであるという整理を文科省が出しているわけです。

50 大学がCOCのモデルになると言いましたが、サービスラーニングをしている大学同士のネット1 1 ワークに加盟しているところはまだ30大学ぐらいしかありません。そういう意味ではまだまだこれからの状況です。サービスラーニングを意識せずに、地域に出て似たようなフィールドワークやっている大学はもっとたくさんありますので 30 大学しかしていないということではないのですが、意識的にこのサービスラーニングという授業モデルをカリキュラムの中に入れて、いろいろな大学とつながろうとしているところはまだ 30 大学ぐらいということです。これがこれから広がっていくだろうし、広げていかなければならないと思っているところです。

新学習指導要領
ここまでは大学教育の話をしましたが、これから始まります「新学習指導要領」の中でも幾つも大事なところが出てきています。今回の新しい学習指導要領は従来のものと少し変わってきまして、知識基盤社会を前提に「確かな学力」をどう育んでいくか。マスコミなどでは「ゆとり教育からの転換」などと言っていますが、そんな簡単な話ではないことはもうみなさんご案内のとおりです。

「『競争』と『共生』知・徳・体の調和」という中で、とりわけ奉仕の分野で言えば、「道徳教育、特別活動における奉仕体験の重視」が打ち出されていますし、「他者、社会、自然・環境と共生できる自分。→『開かれた個』の育成  生きる力」、このようなものをどう育んでいくのか。個人的には、コミュニティサービスを活かしたサービスラーニングが非常に重要であると考えていま す。(資料②)

いま東京都の先生方が取り組んでいらっしゃる奉仕の時間はすごく大事な役割を果たしていると思っていますが、それを学校だけで行なわずに、地域の教育力とどう連携するか、あるいは地域の教育力とどう協力して進めていくかということも同時に大切になってきます。これを学校だけでやるのはすごく負担感が強くなりますから、地域の仕組みにしていくということがこれからの大事な課題になるのではないかと思っております。

サービスラーニングの原型はジョン・デューイにある
サービスラーニングがどのように展開されてきたのか、少し歴史を見ておきたいと思います。アメリカにおける様々な研究の中では、サービスラーニングの原型はジョン・デューイが始め、そこに一つ大きな流れがあると言われています。

ジョン・デューイは言うまでもなく日本の社会科教育の最初のところを作った先生ですが、彼がこのサービスラーニングでも非常に重要な役割を果たしてきました。サービスラーニングや体験学習を重視し、従来の系統的教科学習を改革しようとしたジョン・デューイの一つの大きな功績があるわけですが、サービスラーニングの原型はそこから始まったと言われております。

ただ、ジョン・デューイが活躍したのは 1920 年代から30 年代の頃ですから、必ずしもそれが即サービスラーニングになったわけではなく、原型としてジョン・デューイの活動が一つのモデルになり、アメリカでサービスラーニングが広がったのは1980年代なのです。なぜこの年代に市民教育やサービスラーニングが始まり、広がったのか。

アメリカでも諸説がありますが、社会的な不安というのが一番大きかったと言います。80 年代は まさにレーガン政権の頃と重なってくるわけですが、新自由主義が始まって格差社会が広がりました。強い者・弱い者がいて弱肉強食のような中で「本当にそれでいいのだろうか」という人間のあり方、市民社会のあり方という問い直しが起こり、サービスラーニングを取り入れていこうという機運が 80 年代に現場の先生たちの中で非常に急速に広がっていったというのです。

これを聞くと少し日本にも似ている気がします。社会的な流れとしてなぜ、あえて奉仕体験が子どもたちに必要かというのを強く思う社会的な文脈と、80 年代のアメリカの文脈というのが、まだ検証しきれているわけではありませんが似ている背景があるように思うのです。

そういう中から90 年に、「国家及びコミュニティ・サービス法」という法律ができて、サービスラーニングが教育の中に義務化され、90 年以降は一気にサービスラーニングが小・中・高・大学の教育の中に入ってきます。

ただしアメリカの場合は、国がこの法律を決めたといっても州によって積極的に取り入れている州と、ほとんど取り入れていない州もありますから、必ずしも全国一律ということではありません。 これがアメリカの面白いところですが、こういう法律の中で 90 年代に広がっていきました。

アメリカのサービスラーニングの特徴も文科省の答申と構成は一緒
アメリカのサービスラーニングの特徴も文科省の答申と構成は一緒です。二つ大事な点として、コミュニティサービスをしっかりと位置づけ社会的課題の解決につなげるということと、学習者の変革や成長を意図することです。ボランティア活動ではなく学習と位置づけ、学習者が成長しなければいけない教育プログラムなのです。

「地域のニーズに応えること」「学習者の成長に寄与すること」を統合した形で、課外活動ではなく正課カリキュラムに計画的に問題解決型コミュニティサービスを組み込むというのが特徴です。

生徒たちが社会的ニーズに応えていきながら自己意識や価値観の問い直し、問題解決のための実践的知識やスキルの習得ができるよう、授業の中にしっかりと組み込んでいく。そのために「リフ レクション」という方法を非常に重視しながら、このことがつながるような教育プログラムをつくっています。

ジョン・デューイのセツルメント
ジョン・デューイ先生については、教育界では非常に有名な方です。なかでも体験学習の理論を生み出したというところに着目される方が多いのですが、彼自身は教育哲学者、とりわけプラグマティズムという実用主義に基づく教育哲学を生み出します。シカゴ大学で教鞭を取られたのですが、実はジョン・デューイは福祉の分野からも非常に注目されています。教育学者だけではなくて、とりわけ地域福祉の分野で非常にこのジョン・デューイは注目されています。

セツルメントは今の日本の地域福祉の源流ともされていますが、ジョン・デューイはハルハウスというアメリカでできたセツルメントの大きな拠点の理事を務めていたのです。セツルメントをする人を「セツラー」と言いますが、ジョン・デューイはセツラーとしても活動していたのです。

スラム街などの貧困層の地域に知識者が一緒に生活を共にしながら、彼らの生活改善をする活動をセツルメントと言います。1980年代の後半にイギリスで生まれ、1900 年前後にアメリカで広がっていくのですが、スラム街に知識者が一緒に寝泊まりしたり、居をそこに構えて貧困層の人たちと生活をしながら生活改善に取り組む活動があったのです。

「貧困の連鎖を断ち切るのは教育である」という立場をセツルメントはとりました。セツルメントが始まる以前はチャリティーが中心だったのです。「世の中で困った人たちがこんなにも増えてきた。その人たちに対して教会を中心にいろいろなものやお金、食糧を集めて分け与えていくチャリティーを中心に支援をしましょう」という活動が広がっていったわけですが、実はその資本主義社会がイギリスで広がっていく中で格差社会が出てくる。そうすると、「チャリティーだけではどうも解決しないのではないか。とりわけスラムという最貧困の人たちが暮らしている地域の貧困の連鎖を断ち切るためには、ものを分け与えているだけでは抜本的な解決にならない」ということになったのです。

「大人たちの貧困の社会の中で育った子どもたちはチャリティーで食べ物を与えてもすぐに食べてしまい、大人もお金を与えたらすぐにギャンブルで使ってしまう、そういう生活習慣を見て育った子どもたちは同じような生活をする。どこかでそれを断ち切っていくためには教育の力が必要だ、教育の力によって貧困を断ち切らないといけない」。そういうことに志をもった方たちがそこにセツルメントという拠点をつくりながら、生活改善を教育の力でしようという動きを1900 年代の初頭には、既に行なっていたのです。

21 世紀の今、日本でも貧困の連鎖が問題となり、生活保護世帯の子どもたちに学習支援が必要だということがしきりに言われるようになりましたが、100年前のセツルメントはもっと大々的にそういうことをやっていたのです。

ジョン・デューイの教育哲学
ハルハウスでも、ジョン・デューイは言葉が伝わらない特にスパニッシュの子どもたちの教育をどうしたらいいかということに悩みました。系統的な科学学習というのは言語を前提に教科教育がつくられてきている。でも、言語が伝わらない子どもたちにその科学的な系統学習はできません。 そこでジョン・デューイは体験を通して生き方を学ぶという、体験学習というものをセツルメントの活動の中から導き出していきました。

そのことが彼の教育学、教育哲学として体験学習の基礎的なものになり、彼は「教育は子どもの生活経験に基づかなければならない」と主張しました。この理論が非常に認められる時期もあれば、それが経験主義だということで軽視された時期もありましたが、2002 年に始まった総合的な学習の時間は、ある面、このジョン・デューイの再評価ということが言われました。東京大学の佐藤学先生たちなどがこのジョン・デューイと総合的な学習の時間の理論枠組みの整理をして、「学びの共同体」や「協同学習のすすめ」などの提起をされています。それが、サービスラーニングの理屈につながってくるのです。私も総合的な学習の時間というのは、ジョン・デューイが本当にシンプルに昔、言っていたことと同じだという捉え方をしています。

また、ジョン・デューイは「知識を知恵に変えるためには体験が必要だ」とも言いました。30 年前の子どもと今の子どもと知識の量だけ見たら、決して今の子どもたちが劣っているわけではありません。30年前の子どもより今の子どもたちのほうがはるかに知識や情報量はたくさん持っている。 それにもかかわらずいろいろな問題が起きてくる。

つまり、ジョン・デューイの言葉に置き換えれば、生きていく「知恵」となっていないのです。 知識や情報をたくさん持っていても、それが縦割りのまま子どもの中で総合化されていないわけです。国語・算数・理科・社会、いろんな形で学ぶわけですから、知識や情報はたくさん頭の中に入っていても、そのことが自分自身の中で総合化されていないから、いざというとき生きる知恵そのものになかなかなり得ない。

では、どうしたら知恵に還元できるか。ジョン・デューイは「体験を通して、経験に基づいて初めて知恵になるのだ」と言います。ジョン・デューイも「仕事」という言葉を使うわけですが、子どもにとっての仕事は何かといったら、「遊ぶこと」だというのです。子どもたちが、学校が終わった後、徹底的に遊ぶ。遊ぶ中で無意識ではあるけれど、国語や算数や理科や社会で教わったことを社会体験の中で、「あっ、これはこのようなことなのかも知れない」と当てはめていく。

学校で教わった知識の点と点が、子どもたちは遊びという一つの経験を通して、少しずつ繋がり合っていく。いろいろな人たちと出会ったり、社会体験をすることで子どもたちの中に総合化が進み、結果としてそれが知恵になっていく。知識を知恵にしていく。これはもう繰り返しですが、 ジョン・デューイがもう100 年も前に言っていた話なのです。

日本は総合的な学習の時間に何を総合化するのか
日本は総合的な学習の時間に何を総合化するのか。「総合学習」と言わずに、あえて「総合的な学習」と言ったのは、私は非常に含蓄のある言葉だと思っています。略して「総合学習」としてしまったがゆえに、何か新しい縦割りの一つの授業ができたような感じを与えてしまったのではないかと、個人的には思っております。その理屈というのは繰り返しですが、まさにこのジョン・ デューイの考え方、これは佐藤学先生の受け売りですが、こういうロジックになってくる。

つまり、サービスラーニングも、あえて総合的な学習の時間とは言わないまでも、まさにコミュニティサービスを通してこういうことをしていくというのは、そこに合致する理論枠組みがあるということと同時に、教育の面だけではなくて、まさに地域福祉や社会福祉の文脈からも、ジョン・ デューイの功績というのは、100 年後の今に投げかけてくるものがたくさんあり、彼の福祉の側面、 教育の側面をつなぎ合わせたものが、私は福祉教育そのものだと思っているのです。

福祉教育というのは、何も福祉の知識や技術を教えるのが福祉教育なのではなくて、人の生き方を伝えるのが福祉教育だと思っています。

サービスラーニングとボランティアの概念
コミュニティ・サービスというのは辞書で引いていただきますと、「地域社会の一員としての義務」と出てきます。「義務」という言葉が少し強ければ「役割」と言ってもいいのかも知れません。

もう一方、ボランティアというのは本人の主体性、自発性を重んじるもので、評価されたり、義務でやらされたりするものではありません。ボランティアを評価するのかしないのかという議論や、 ボランティアの有償性の議論があったり、ボランティアを取り巻くいろいろな議論がされていますが、私はこの主体性・自発性があるからこそ、ボランティアが浮かび上がってくると思うのです。

逆説的に言えば、ボランティアの自発性、主体性を大事にする以上、「ボランティアをしない自由」も認めていかないといけないと思うのです。「ボランティア(をする人)はいい人で、みんながボランティアをやるべきだ」とか、「県民総ボランティア」みたいなことを行政のトップが言いだすこともあります。

「国民総ボランティア」などという怖いことまではまだ言いませんが、でも、「ボランティアはいいことだから、ボランティアは全員がやるべきだ」というロジックに立ってしまったら、もうボランティアはボランティアでなくなってしまうわけです。そういう意味では、ボランティアを大事にするということをすればするほど、実はボランティアをしない自由ももう一方でしっかり認めていかなければ、ボランティアの本質が搖らいでしまいます。

それに対して、コミュニティ・サービスは違うのです。「地域社会の一員として役割を果たしていこう、地域社会の一員としてこんなことをしていくのが責任じゃないか」という問いかけをしますから、似たような活動ですが全く趣旨が違うものなのです。少し広がり過ぎる考え方かも知れませ んが、日本の今の社会がどうも戦後、地域貢献とかコミュニティ・サービスということをしっかりと教え切れてこなかったのではないかと思うのです。

民生委員にみる地縁組織の崩壊
今、地域の中でも3年に一度、民生委員が改選されるのですが、そのなり手がなかなかないのでどうするかということが大きな課題になっているのです。民生委員のなり手がないというのは、地域の役員のなり手がないとも言えるわけです。もう地縁組織が壊れ始めてきているわけです。「地縁組織が崩れていくのは時代のせいだ、そんなものは関係ない」と言い切ってしまっていいのか、地域というコミュニティの持つ役割というものを日本社会は戦後、重視してこなかったわけですが、 そこをどう考えていったらいいのか。

ただし、戦前や戦中の隣組という仕組みがあまりにも戦争の中に巻き込まれてファシズム化していった、という反省ももう一方ではあるわけです。そこの部分の総括と転換が戦後うまくできないまま、なし崩し的に「それはけしからん。いいものではない。地縁組織は封建的でよろしくない」 となった。高度経済成長のときにはむしろコミュニティを否定するような流れで、「自分が幸せならそれでいいのだ」という価値の中でこの地縁組織が崩れてきたのです。

誰が地域を支えるのか
今、地域を支えているのは 60 代、70 代の方たちです。この60 代、70 代の方たちがあと10 年後どうなっていくか。そのときに今の 40 代、50 代は本当に地域のことをやれるのか。よく60 代、70代の方に「どうしてこんなに地域のボランティアを一生懸命なさっているのですか。こんな忙しいのに。」と聞くと、皆さん異口同音に「昔、地域に世話になったから。小さい頃、地域のおじさんやおばさんに世話になったから。今それ相応の年になったときに、自分は地域に恩返しをしなければいけない。 地域の役に立つことをしたい」と言います。そういう層の人たちが地域活動を支えているわけです。

ところが、子どもの頃から地域の原体験がない子たち、あるいは、もうその世代が親世代になってきたときに、「なんで地域のことをやらなければいけないのだ」と、理屈がわからないのです。 地域のことが大事だと言っても、そういう原体験がなければ、「どうしてこんな地域のことを、ボ ランティアでしなければいけないのだ。だったらお金でなんとか解決しよう。」という話になっていくわけです。

まだ日本は、70 代、60 代の彼らが、日本の地域社会を今ぎりぎりのところで支えている。20年後、30年後、日本の地域が明らかに崩壊していくときに、それに代わる仕組みをどうつくっていくのかということも課題です。

ボランタリーな気持ちを育むサービスを教育の中につくり出す
このサービスラーニングのサービスというのは、まさに地域貢献なのですが、地域の方たちが本当になにかと手のかかる子どもたちを受け止めてくれるわけです。大学生でも全く一緒なのです。挨拶ができない、支度がだらしない、遅刻してくる、そのようなことばかりで地域の方たちに怒られるのです。

でも、それは彼らが社会に出ていくときにすごく大事な経験なのです。大学の講義の中で「社会福祉概論は」「社会福祉の法律は」などと教えるだけでなく、「そんな支度じゃだめだ」とか、 「なぜシャツを外へ出しているのだ」から始まるようなやりとりを地域の方たちからしていただくわけです。言葉づかいひとつ、挨拶ひとつ。そういう経験をしながら社会でどう生きていくかを学んでいくのです。

そういう原体験をしていく子どもたちや学生たちが増えていかなければいけないという意味では、 このサービスという捉え方を意識しなければなりません。だからといってサービスだけではだめなのです。一方ではボランタリーな気持ちを育くめるようなサービスをどう教育の中でつくり出していくかが大事になっていくのではないかと思います。

サービスラーニングプログラム作成のポイント
実際にサービスラーニングのプログラムをつくっていくときのポイントを、事例を通してお伝えしたいと思います。

<老人ホームの事例>
あるとき老人ホームを訪問しましたら、寝たきりの78 歳の男性が「来週、後輩が訪ねてきてくれる」と言うのです。どんな後輩なのか聞きましたら、「卒業した母校の小学校5年生が来週来てくれるのだ」と言うのです。その小学校は創立百何年という学校ですからまさにそうなのですが、その「後輩が来てくれる」という言い方が何かとてもいいなと感じました。

また2カ月ぐらいして訪問したときに、その男性に当日の話を聞いてみました。彼の母校の小学校5年生の子たちが来て、老人ホームの広いホールに利用者の方たちも集まった。ホールの前のステージに並んで、最初は「僕たちは○○小学校の5年1組です。今学校はこんなことをやっています」と少し学校の紹介をして、その後、歌を三曲歌ってくれたそうです。子どもたちが一生懸命歌ってくれれば、もうそれだけでお年寄りは感動したり、涙を流される方がたくさんいるわけです。

その後、代表の子どもが「今日は皆さんのためにプレゼントをつくってきました。もし良かったら、どうぞ使ってください」と言います。栞を作ってきていたのです。その栞を配る段階になると、 ステージにいた子どもたちが2~3人の少人数になってお一人お一人のお年寄りのところに栞を届け、自己紹介をしました。話を聞いた男性も枕元の壁にその日もらった栞を大事に張り付けていました。

お年寄りの側からすれば、もう何日も前から楽しみにしていて、歌を聴かせてもらって、栞ももらって、子どもたちの自己紹介も聞いて、だんだん気持ちが高まってきたのでしょう。彼もそうですが、「子どもたちがそばに来たら、あのようなことをしてやりたい、このような話をしてやりたい」という、いろいろな思いがお年寄りの中にはあったと思うのです。

ところが、その気持ちが高まった頃、引率されてこられた先生が「そろそろ時間ですよ」と声をかけたのです。すると子どもたちはまたステージにきれいに並んで、代表の子が「今日はとってもいい勉強ができました。ありがとうございました」と言うとまた学校へ戻っていってしまいました。 しばし、そのホールのところではお年寄りたちが呆然としていたそうです。

これは子どもたちにとってはよくできているプログラムなのです。学校の先生からすれば、事前準備は大変だったと思うのです。歌の練習もして、栞もつくって、お年寄りとどうやってコミュニケーションするかということも含めて、学校の中の事前学習でご苦労されて当日を迎えているわけですから、子どもたちから見るとすごくいいプログラムであるという思いがあったのだろうと思うのです。

ところが施設のお年寄りが何を望んでいたのか、そちら側のニーズは全く配慮されていないわけです。少し厳しい言い方をすれば、一方通行の関わりで、双方向の関わりになっていないのです。 得てしてこういうことがプログラムの中では起こりがちです。一方的に子どもたちがしたいこと、 学校の教師がさせたいことをさせてしまって、相手側、地域の側が本当にそれを望んでいるのかというところをうまく汲み取れないままの一方的なプログラムになってしまうのです。

サービスラーニングの要素
はじめは、「地域のニーズを探す」、そして「地域のニーズの解決に向けて企画をする」ということです。

しかし、これが悩みどころでもあります。生徒がやりたいことをやるのがサービスラーニングではないのです。地域の求めというものがあって、地域の求めに対してどう応えていくか。サービスラーニングの企画者としてはとても大事なことになってきます。この地域ニーズを実際はどうやって掴めばいいのか。学校の先生だけでやるのは負担が大きいと思うのです。地域ニーズを掴むのであれば、その地域の関係者とつながって、関係者を通して地域ニーズを探るというのが一番具体的です。つながるまでは大変かも知れませんが、つながってしまえば、あとはいろんな情報が入ってくるのです。ここの最初の段階が独善的になってしまうと、先ほどの事例のように最後まで噛み合わないものになってしまいます。

次に、「企画をしたことを形にするための準備」です。

しかし、これは全く新しいことをして地域に出ていく準備をするのではなく、今まで学習してきたことや力を活かすことなのです。先ほどの事例では先生は音楽の授業を通して合唱の練習をし、図工や国語の時間なども使いながら栞作りや学習をされていたのだろうと思うのです。「クロスカリキュラム」みたいな言い方もしますが、今まで学習してきたこと、あるいはその子の得意なことや強みをこのプログラムの中にどう活かしていくかというのが企画を形にするということです。

さらに、一定期間の「地域貢献活動」と「リフレクション」・「評価」です。

地域貢献活動を1回だけのイベントではなくて、一定期間行なう。その活動の後に、あとで触れますが、「リフレクション」を丁寧に行なう。このリフレクションはサービスラーニングの仕掛けとしては非常に重要になってきます。

最後に、サービスラーニングはボランティアではありませんから、必ず評価があります。評価をしっかりするということが必要です。

本学はサービスラーニングに取り組んで6年目になりますが、こういう一連の要素をとり入れて、実施している1年間のプログラムの流れを紹介します。本学の場合は、2年次でサービスラーニングを導入しています。大学では「初年次教育」という言い方をします。1年次の段階で大学の教育活動にどうソフトランディングさせていくか、どこの大学も1年次の教育をうまくやらないと、あとの4年間だめになってしまうということがあって、1年次の教育をすごく重視します。

3・4年次になりますと、どこの大学もゼミや専門教育に入っていきますから、2年次が中だるみになりがちなのです。1年次は初年次教育でリテラシーに満ちていますし、3・4年次になると、専門教育ということで、うちであれば社会福祉士や精神保健福祉士という資格教育に入っていきますから、この2年次のときに社会とつないでおきたいということで、本学の場合は2年次で1年間かけてサービスラーニングをしています。一番オーソドックスなものですが、4月の段階で「導入と意識づくり」、モチベーションを高めるという仕掛けから入っていきます。

「企画・計画」というのは、学生たち自身が地域に出ていって、地域で何が求められているか。 それをもとにしながら自分たちは何ができるかということで、前期、そのような企画をつくることをしていきます。この企画をつくる段階で、学生たちだけが独善的にしてもいけませんから、何度も地域に足を運んで関係者と話し合いをしながら、「自分たちができることは何だろうか」という企画をつくっていき、8・9月の間の2カ月間、「貢献活動」をいろいろさせていただきます。

後期からはリフレクションをしていくわけですが、このふりかえりを丁寧にしていって、最終的にはレポートやプレゼンテーション、報告会をしていくという、流れとしては非常にオーソドックスな流れで1年間つくっていくわけです。

トライアングルリフレクションの導入
そのリフレクションのときに学生自身のリフレクション、ふりかえりと、活動先からの評価と、それから教育活動ですから教員が一人ひとりの学生の評価をしていく。ただし、それだけだと学生の評価だけで終わってしまうので、学生自身も活動先の評価や担当教員や今回の教育プログラムの評価をします。ですから学生と活動先と教員が三者で、学生の評価をするだけではなくて、学生も活動や教育プログラム、あるいは自分の担当の教員に対しての評価をしますし、教員もNPOや活動先の評価をしますし、その逆に活動先も学生の評価だけではなくて、教員や大学のほうの評価もする。

これを図に描くと三角形の関係になりますが、実際にやると結構つらいのです。我々の教育プログラムそのものも学生からの評価と活動先からの評価というのをいただきます。特に活動先からは、 何年間かは本当に厳しい評価をいただきました。「挨拶からマナーまで、そこまで活動先の私たちがやらなければいけないのか」というようなことから、「我々が提供したことが将来どうなってくるのかが見えにくい。自分たちは忙しい中、学生たちをこれだけしっかり受け入れているのだから、その学生たちの成長やその効果をしっかりと報告してほしい」というご意見をいただく。

そうなると、2年次にやっただけではなくて、その体験した学生たちが3年次、4年次、あるいは卒業後どこに就職したかも活動先の方たちがすごく気にしてくださいます。そういう意味では、継続してつながりをしっかりつくっていかなければいけないというのがこのトライアングルのリフレクションということになります。

リフレクションの発展
リフレクションというのはサービスラーニングの中で言われてきましたが、リフレクションを最初に言ったのもジョン・デューイで、「リフレクティブ(反省的思考)が大事だ」と言いました。 その後、サービスラーニングの研究者の中で発展してきていて、「行為の中の省察」、クリティカル・リフレクションという「批判的自己省察」、あるいは最近では自分だけを評価するのではなくて、社会や活動そのものもしっかりと評価していかなければいけない、それもクリティカルに、批判的に捉えていかなければいけないという「批判的省察」というようなリフレクションの発展が出てきています。

日本のサービスラーニングや福祉教育では感想文を書かせることが非常に多いです。何か活動すると、生徒たちに感想文を書かせる。ところが、感想文を書いて終わってしまっているのです。このリフレクション、あるいはクリティカル・リフレクションという手法は、子どもたちが書いた感想文を素材にしながら、もっとそれを深めていくことなのです。

例えば老人ホームや障害者の施設に行った子どもたちの感想文は「またおじいちゃん、おばあちゃんのところに行ってみたい」というものもあれば、「もうあの施設には行きたくない」という感想を書く子もいるわけです。では、「行きたい」と言った生徒と「もう施設には行きたくない」と言った生徒、「どうして行きたくないのだろうね」「なんで、また行ってみたいの」と掘り下げていけば、もっともっとそこから深めていくことはたくさんあります。

小学校6年生が障害者の施設に行って「臭い」と言ったことに対して先生は「そんな失礼なことを言っちゃいけない」と怒るのですが、やはり施設は臭いのです。施設は生活の臭いがするところなのです。その生活の臭いに気づいた子どもの「臭い」という表現を、「何が臭いのだろう。家と施設は何が違うのだろう」と中身を掘り下げていけば、施設というものが持つ役割や機能を理解するというように、本当は広がるはずなのです。

「臭い」と書いて「それを書いてはだめだ」と言って叱って終わってしまったらリフレクションにならないのです。リフレクションをもっと仕組みとしてもうまくやっていかないと、日本のサービスラーニングは、感想文至上主義といいますか、感想文で終わっているのはもったいないと思うのです。

「ふりかえる」という語感が、自分のやってきたことをふりかえるという内省的なイメージを与えてしまうのです。リフレクションというのは、必ずしも自分がやったことだけをふりかえるわけではなくて、今までいろんな経験をしてきて、これからどうするかという、近未来に向けてつくり出していく力をどう養成していくかということがむしろこれからは大事になってきます。

最近は、クリティカル・リフレクションからさらに発展して「クリエイティブ・リフレクション」というところを考えていこうという動きが出てきています。一言で言えば、子どもたちが地域貢献をしてサービスラーニングをした結果、更に社会に提案をする力を身につけていくということです。

モデル―愛知県東浦町立片葩小学校の事例
具体的には愛知県の東浦町立片葩(かたは)小学校のサービスラーニングの事例がそのモデルになるのではないかと思っています。

全校 600人の小学校ですが、1年生から6年生までで「福祉」をひらがなで「ふくし」としてサービスラーニングに取り組み、「ふだんのくらしのしあわせ」を考えていこうと授業を展開してきました。子ども自身の有用感や学ぶ意欲を育みながら、もう一方で共に生きるという力を育んでいかなければいけない。共に生きるための関わりやコミュニケーションという力をこのサービスラーニングを通してしっかりと子どもたちに育みたい。そのために課題の設定をして情報を集めて 整理・分析してまとめ、それをプレゼンテーションする。この学びのプロセス、リフレクションを介した螺旋を重ねていくことで子どもたちの力を育んでいこうという課題設定で先生方が取り組まれたのです。

一つだけ事例を紹介しておきますと、交通事故で足を切断したAさんと出会い、子どもたちは1年間かけてAさんと交流してAさん自身の生き方や考え方を学んでいきます。Aさんが交通事故で片足を切断して今どのような暮らしにくさがあるか、今、社会の中でどんな困り事があるか、また同時に彼には子どもがいるのですがこれからどのような生活をしていきたいと思っているかを知る。

そのようなことを丁寧に小学生たちはいろいろと地域をまわりながら、インタビューや調べ学習をしていくのですね。その中から自分たちにできることは何かという提案型のプレゼンテーションを行う。クリエイティブ・リフレクションというのは、ただ自分がAさんと出会ってAさんから学んだだけではなくて、Aさんとともにこの東浦町で生きていくために自分たちは何をすることが必要なのかという、提案型の学習なのです。

みんなにとって暮らしやすい町ということで、Aさんにとってどんな町になったら幸せかを考えていく。これはAさんという当事者との信頼関係がないとできないわけです。Aさんにとって暮らしやすい町にしていくためには具体的な働きかけが必要である。それには自分たちは何ができるかということを表現していくという授業をされています。

最後の授業である報告会のときには地域の関係者の方たちに集まっていただいて、子どもたちが学んできた1年間の学びをプレゼンテーションしました。義足というのは、行政から支給される義足は重たくて非常に使いにくいそうなのです。接地面のところがざらざらしていて、すごく痛い。 実際に義足を使っている方たちは、行政から支給される義足ではとても生活ができないので自費で義足を購入している。その義足が200万円するそうなのです。その200万円するということを知った子どもたちは行政に対してもっと何か支援ができないかと提案した。

あるいは、このAさんが市営プールに行って義足を外したときに市民がすごくいやな顔をする。そういうことに対して子どもたちは、やはりおかしい、何か自分たちができることはないだろうかと考えます。単に町に要望するとか地域がおかしいというのではなくて、自分のこととして小学校6年生の子たちが「では、僕たちはAさんとこれからどういうおつきあいができるか」、そこまで深めながら子どもたちが学びをしていくのです。こういう提案型のリフレクションをサービスラーニングの中では考えていく必要があるだろうと思っております。

サービスラーニングにおける評価のあり方
このサービスラーニングをすることによって、どのような効果があるか、この評価の指針や評価測定の部分はこれからの研究課題だと思っております。多面的評価、あるいは総合的評価。これはもう高校の先生方もいろいろ悩まれてやっていらっしゃるところかと思います。もっと端的に言えば、道徳がもし教科になったときに、道徳をどう評価するかという大きな問題が突きつけられておりますが、それと同じようにサービスラーニングの評価というのもすごく課題があります。

一面だけで捉えてはならないので、多面的に総合的にサービスラーニングの評価をしなければいけないということはアメリカでも言われているのですが、では、何をどういうスケールでサービスラーニングの評価尺度をつくっていけばいいかというのは、これはまだ確定されたものがアメリカでもあるわけではないのです。生徒や子どもたちが地域貢献活動をして、枠組みの中でプログラムをつくってリフレクションをしていく。プログラムまではどうにかそういう形ができて広がってきていますが、残された課題はこの評価をどのようにしていくかということを考えていく必要があるだろうと思っています。

出所:原田正樹/地域の課題に取り組む―サービスラーニングを理解する―/スクールボランティアサミット 2013/認定NPO法人さわやか青少年センター、2013年8月2日。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と認定NPO法人さわやか青少年センターに衷心より厚くお礼申し上げます。さわやか青少年センターの有馬正史さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。/市民福祉教育研究所


寺谷篤志/過疎化 SDGs・社会システム(仕組み)の力:〔解説用ダイジェスト版〕


目  次

NO.1 社会システム(仕組み)創造は起爆装置
NO.2 なぜ、地域づくりに挑戦したのか ⇒ 誇りの創造
NO.3 小磁極は智頭杉/一貫した価値観 ⇒ 決然と実践
NO.4 智頭町地域づくりのステップ
NO.5 Ⅰ. 胎動胎動・内発期【1984~1994】⇒ 杉をテーマに挑戦
NO.6 1984年「杉板はがき」発案 ⇒ 自らの一歩
NO.7 1986・7年 鳥取県イメージアップ懇話会答申とっとりingsマン = 積極人間
NO.8 1988年 住民有志でCCPT設立 ⇒ 集団で起こす
NO.9 1988年 CCPT社会科学の学びの場
NO.10 <1986年 杉の木村(都市との交流)開村)>
NO.11 1989年 杉下(さんか)村塾開講 ⇒ 学習と実践
NO.12 講義-1.  1993年かや(規範)の理論 ⇒ 役場と連携ヒント
NO.13 Ⅱ. 連携・融合期:【1994~1997年】⇒ 連携10策
NO.14 ひまわりシステム(買い物代行)発案
NO.15 1995年グランドデザイン策定プロジェクト
NO.16 論文-1.  1995年 過疎地活性化のグループ・ダイナミックス
NO.17 1996年  ゼロイチ運動企画コンセプト
NO.18 1997年 ゼロイチ運動に7集落導入 ⇒ 住民が起こす
NO.19 ゼロイチ運動規約第2条基本方針 ⇒  落は活性化計画を実行
No.20 地域運営から地域経営へ
NO.21 Ⅲ.行政・参加期【1997年~2008年】⇒ 単独と合併論争
NO.22 中原集落の導入効果
NO.23 早瀬集落の導入時
NO.24 早瀬集落の10年後
NO.25 論文-3.  2013年 住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年
NO.26 地区振興協議会構想 ⇒ 集落振興協議会がヒント
NO.27 2008年 地区振興協議会設立⇒ 過疎化の起爆装置
NO.28 地区振興協議会6地区の内、5地区で設置
NO.29 論文-5.  2013年 旧村を住民自治の舞台に
NO.30 論文  旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ
NO.31 論文-6.  2008年 百人委員会スタート
NO.32 Ⅳ. 起業 ・発展期【2008~現在】⇒ 移住者・若者活躍
NO.33 智頭町もりのようちえん

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NO.1 社会システム(仕組み)創造は起爆装置

1980年代、過疎化・高齢化・少子化が現実となって押し迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外になく、他に存在はない。住民は時代の波に抗うことができない。ただ流れに身を任せている。このままでは地域はなるべくして疲弊する。1984年、決然と一歩を起こした。

1989年に改選が行われ、議長候補が多数派工作をして議員に金を配り、議員の半数が逮捕された。町会議長は2年交代が慣例化していた。町会議員の選挙違反が発覚した。そして、その議員が執行猶予にも係わらず1993年に町長選挙に立候補して当選した。また、元町長が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕された。町の封建的な体質に問題がある。智頭町に住んでいることが屈辱であった。

智頭町の活性化は、役場職員の覚醒化と住民の依存体質にある。どうすれば役場職員を覚醒化できるか、また、住民の規範を革新することができるのか、苦悶した。そして、英知を結集し秘策を練った。1997年にゼロイチ運動(仕組み)がスタート、起爆装置となって創発規範を醸し、智頭町は変わった。杉しかない町から誇りある町へと転身した。

秘訣は、社会システム(仕組み)の創造と、社会科学による調査・検証による。それらは住民にとって学習機会となった。

 

NO.2 なぜ、地域づくりに挑戦したのか ⇒ 誇りの創造

1.  封建的依存体質~規範の革新
2.  社会科学・行動科学の実践
 1969年 ピーターの法則(著)ローレンス・J・ピーター他
 《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》
 1979年 リーダーシップ論(著)松本順⇒次P4掲載
 1983年 帰郷、一匹のメダカの理論に挑戦、よき理論はより実践的である。小集団         活動、孫氏の兵法、経営管理(マズローの欲求概念等)
 1993年 かや(規範)の理論の講義、吸着誘導法
3.  社会システム(仕組み)の力
 1991年 四面会議システムを考案~参加型集団企画技法
 1994年 ひまわりシステムを発案~高齢者買い物代行
 1995年 グランドデザインを策定~ゼロ(0)からイチ(1)、無から有
 1996年 村おこしコーディネーター会議発足~計画実行システム策定
 1997年 日本・ゼロ分のイチ村おこし運動~集落振興協議会の設立
 2008年 領域自治システム~地区振興協議会の設立
4.  政策提案システム~2008年 住民と役場職員で協働

 

NO.3 小磁極は智頭杉/一貫した価値観 ⇒ 決然と実践

リーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」

 《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験 をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。

私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。

この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》

 

NO.4 智頭町地域づくりのステップ

1. 胎動・内発期:住民による突破型プロジェクト【1984~1994年】
 1984年  一歩を起こす
 1988年  CCPTを設立
2. 連携・融合期:CCPTと役場の協働プロジェクト【1994~1997年】
 1994年  小集団による10策のプロジェクト
3. 行政・参加期:ゼロイチ運動により行政参加【1997年~2008年】
 1997年  ゼロイチ運動スタート
4.  起業・発展期:移住者・若者による起業【2008年~現在】
 2008年  地区振興協議会(旧村単位)スタート
 2008年  智頭町百人委員会スタート
 2009年  もりのようちえん開園

 

NO.5 Ⅰ. 胎動胎動・内発期【1984~1994】⇒ 杉をテーマに挑戦

1984年 杉板はがき発案
1985年 杉名刺開発
1986年 鳥取県イメージアップ懇話会委員、とっとりingsマン=積極人間
1987年 木づくり遊便コンテスト
1988年 智頭町活性化プロジェクト集団(CCPT)設立
1988年 智頭杉日本の家設計コンテスト
1988年 智頭町活性化基金設立
1988年 社会システム思考講義 鳥取大学工学部教授 岡田憲夫先生
1988年 八河谷集落、住民と離村者実態調査(鳥取大学工学部)
1989年 智頭杉ログハウス建築事業
1989年 杉下村塾開講
1990年 世代別住民意識調査(環文研=近鉄)
1990年 大学生との交流“鳥になって智頭の空を飛ぼう“
1991年 四面会議システム考案、土木学会発表
1993年 講義「かや(規範)の理論」 京都大学助教授 杉万俊夫先生

 

NO.6 1984年「杉板はがき」発案 ⇒ 自らの一歩

 

NO.7 19867年 鳥取県イメージアップ懇話会答申とっとりingsマン = 積極人間

 鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだと思った。懇話会での出会いが人財ネットワークとなった。一寸の虫も五分の魂である。地域戦略ソフト機関をイメージした。

1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に、決意を寄稿している。
《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》

 

NO.8 1988年 住民有志でCCPT設立 集団で起こす

 智頭町活性化プロジェクト集団を設立
   (Chizu Creative Project Team略称CCPT)
 木材加工グループ等の集合体としてスタート
 学習・企画・実践集団を目指す

厳しいバッシング
 故前橋代表 「谷川の一滴の水も、掬う手を乗り越え、大河に通じる」
 メンバーは30人、あえて非公開とした
 活動はフクロウ(夜)集団
 リーダーシップはエディターシップ(水平型ネットワーク)
 臨機応変、変幻自在に展開する
 役場や助成団体の下請けはしない

 

NO.9 1988年 CCPT社会科学の学びの場

岡田憲夫先生指導<鳥取大学工学部社会開発システム工学科>

1) ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
 最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。

2)活性化プロセス
 ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。
 覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。
 次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。

 

NO.10 <1986年 杉の木村(都市との交流)開村)>

1988年 八河谷集落住民実態調査/可能性ゼロ
1989年 ログハウス建築事業

 

NO.11 1989年 杉下(さんか)村塾開講 ⇒ 学習と実践

鳥取県イメージアップ懇話会と社会科学の学び

テーマは「地域経営」 1989年~1998年(10年×10回)
 2泊3日 場所:最奥部八河谷集落 「杉の木村」
 地域リーダー、行政職員、科学者、研究者約40人
 講師無料 受講生の受講料3万円
 座学と議論、模造紙会議から四面会議システムの演習

 《智頭町で実現のため、塾後CCPTで検討し関係機関等と連携してプロジェクトを        立ち上げた》

 智頭町・地域戦略ソフト機関を目指す

 

NO.12 講義-1.  1993年かや(規範)の理論 ⇒ 役場と連携ヒント

京都大学助教授 杉万俊夫先生

1993年4月4日 講義から学ぶ(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)

 《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》

《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》

《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろ んなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をす る。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残 りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》

 

NO.13 Ⅱ. 連携・融合期:【1994~1997年】 連携10策

1994年8月   親水公園連絡協議会設立
1994年8月   郵便局と役場の連携プロジェクト
1995年1月   グランドデザイン策定プロジェクト
1995年5月   はくと・はるか・関空シンポジウム
1995年4月   さわやかサービス職員接遇研修
1995年12月 地域と科学の出会い館建設
1996年4月   村おこしコーディネーター会議
1997年4月   ゼロイチ運動担当者会議
1997年9月   ゼロイチ運動集落振興協議会連絡会
1997年12月 千代川流域圏会議

 

NO.14 ひまわりシステム(買い物代行)発案

役場と郵便局で連携プロジェクト

 

NO.15 1995年グランドデザイン策定プロジェクト

1995.1.14~智頭町グランドデザイン策定プロジェクトスタート
 第6回杉下村塾(1994.10)「智頭町のグランドデザインとは何か?」
 報告書:杉トピア(杉源境)ちづ構想⇒ゼロイチ運動を発案
 マイステージは「住民自治」・ユアステージは「交流情報」・
 フォレストステージは「地域経営」と意訳、ゼロイチ運動に3本の柱

チームリーダー役場助役  故前橋伍一氏
 各課横断的に職員            7人
 アドバイザー等
 京都大学教授              岡田憲夫先生
 企業コンサルタント  福田征四郎氏
 地域コンサルタント  平山京子氏
 コーディネーター   寺谷篤志

1996.4.12~村おこしコーディネーター会議スタート
 ゼロイチ運動企画書等住民5人と役場職員で策定

 

NO.16 論文-1.  1995年 過疎地活性化のグループ・ダイナミックス

智頭町の活性化運動10年について
京都大学助教授杉万俊夫

 「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」
(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)から抜粋⇒集落が経営感覚を持ち、創出された新しい総事

《・・・「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘めされていると考えることはできないだろうか。・・・》

 

NO.17 1996年 ゼロイチ運動企画コンセプト

1. 集落が手を上げ、住民と各種団体を包摂する集落振興協議会を組織し、地域計画         を策定して、10年間実行する。
2. 従来の集落運営方式は残しつつ、個人の資格でだれでも参加できる新しいボラン         ティア方式を採用した。
3. 集落振興協議会を智頭町の認定法人(みなし法人)とした。
4 .助成金は初年度と2年度は各50万円、3~10年は各25万円=合計300万円とした。
5. 計画のステップは、早瀬集落をモデルとし、四面会議システムで策定した。

【企画書の趣旨】⇒村おこしは、無(0)から有(1)への挑戦
その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。

 

NO.18 1997年 ゼロイチ運動に7集落導入 ⇒ 住民が起こす 

 

NO.19 ゼロイチ運動規約第2条基本方針 ⇒  落は活性化計画を実行

1. 村の誇り(宝)を創造する。(村の誇り(宝)づくり)
2. 住民自らの一歩による村づくりと絆づくりを行う。(住民自治)
3. 村の将来を見据えた計画をつくる。(計画策定)
4. 外の社会(海外や都市)との交流を図る。(国内外交流)
5. 村の生活・地域文化の再評価を行い、付加価値を図る。(地域経営)

【導入集落】 16集落
市 瀬 …市瀬自慢の田舎料理、しめなわづくり他
本 折 …花見会、ミニ傘作り、壁画作成他
中 田 …蛇の輪の復元、スイートコーン作り他
波 多 …集落大運動会、ギボウシ作り他
中 原 …そば作り、かずら細工、花作り他
白 坪 …みそ、福神漬け、吟醸付け作り他
新 田 …集落NPO化、カルチャー講座他
早 瀬 …竹炭、竹酢、みそ製造、東屋作り他
五月田 …考え地蔵まつり、椎茸原木作り他
上 町…智頭宿イベント、ふれあい広場づくり他
中 島…城跡遊歩道整備、紅梅管理他
岩 神…休耕田開放による野菜づくり、城跡整備他
早 野…高齢者給食サービス、草木染め他
奥 西…紅茶づくり、ヤーコン作り、視察他
浅 見…ログハウス作り、ほたるの復活事業他
芦 津…麒麟獅子舞伝承、地酒作り他

 

No.20 地域運営から地域経営へ

住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごと価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営で捉えられてきた。発想の転換である。

つまり、地域経営とは、その地に住む全ての人々(住民も行政マンも、また地域外の賛同者も)が、主体的に住民自治を行い。地域を経営する視点に立って、内在する、人、モノ、コト、技術、文化、社会システム など。あらゆる資源の価値を引き出し、持続可能な社会の実現に向け、地域の誇りの創造を目指す、ゼロ(無)イチ(有)運動である。

企業経営は、社会的使命と利潤の追求にある。ところが地域経営は、コミュニティの復興、地域経済の創造、主体(人財)形成など、一体的に地域実現を図る豊かさの営みによって、ウェルビーイング(幸せ・誇り) を手繰り寄せた。

 

NO.21 Ⅲ.行政・参加期【1997年~2008年】⇒ 単独と合併論争

1997年 ゼロイチ運動スタート(集落)
    (導入16集落/達成15集落) 2011年助成期間終了
1997年 元寺谷町長就任
2004年 元寺谷町長辞職
2004年 議会が単独決議
2005年 中国社会科学院羅紅光先生要請、ゼロイチ運動集落代表北京訪問
2007年 北京外国語大学「智頭の杜果樹基金」設立10年
2008年 山形地区・山郷地区振興協議会設立
2008年 元寺谷町長再選
2008年 智頭町百人委員会スタート

 

NO.22 中原集落の導入効果

創発的営み第2章「地区振興協議会で「創造的昔帰り」
中澤皓次氏

《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》

《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》

《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取 り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにし ても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活 力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けと なった。》

 

NO.23 早瀬集落の導入時

1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
会長 長石昭太郎氏

 《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者 不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣 根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集 落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》

 

NO.24 早瀬集落の10年後

2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代会長 長石昭太郎氏

《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》

 

NO.25 論文-3.  2013年 住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年

鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」
京都大学教授 杉万俊夫

(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)要約抜粋 ⇒ 活動による知恵

《・・・1987年から、最小コミュニティ単位である集落ごとに、長らく根づいた保守性、閉鎖性、有力者支配を打破し、地域を経営の視点で見直し、集落外と積極的に交流しつつ、住民自治を育む運動が開始された。智頭町における89集落のうち15集落が、この運動に参加した。・・・》

《・・・その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使いわけていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言が増したことが見出された。同時に、10年間エネルギーを発揮し続けた裏返しとして。「この辺りで一服」という正直な気持ちもあること。・・・》

論文-3 考察から抜粋⇒人口減少を衰退指標にしない

《・・・このような10年間に、2-3割の人は、ゼロイチ運動によって新しい自己実現の場を手にした。それとともに、明るい将来展望も芽生えつつある。女性たちも徐々に発言力を増しつつある。別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。
もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、 2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減 少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。・・・》

 

NO.26 地区振興協議会構想 ⇒ 集落振興協議会がヒント

2006年末には早瀬集落振興協議会の総括資料と、また、杉万先生からアンケート調査結果の事前説明を受けた。そこから、本命である地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。

地区版の構想ポイントは、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点を目指す。⑧運営要領等(企画書と規約以外)の仕組みづくりを委ねる。コンセプトの要点を整理した。

 

NO.27 2008地区振興協議会設立過疎化の起爆装置

企画書「2.運動の意義(次代の要請)」~「創造的昔帰り」「偉大な創造」
《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》

規約案の第1条(目的)~「ゼロに帰するか、イチを守るか」
《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》

地区振興協議会の規約第2条基本方針
1.地区の将来を見越した計画をつくる。(計画の策定)
2.地区経営ビジネスモデルをつくる。(地産地消の実現)
3.地域資源として人財バンクをつくる。(地域内外とのネットワーク)
4.地区統治モデルをつくる。(旧村の自治復興)>

 

NO.28 地区振興協議会6地区の内、5地区で設置

領域自治の拠点

NO.29 論文-5.  2013年 旧村を住民自治の舞台に

鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例
京都大学教授 杉万俊夫

(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)5考察から抜粋 ⇒ 社会システム(仕組み)創造の企図

《・・・本論文で紹介した3つの地区振興協議会の事例、また、山田・樂木・杉万(2013)が報告した山形地区の事例、さらには、地区ゼロイチ運動に先立つ集落ゼロイチ運動の事例は、「自分の地域を何とかする」ことが可能であることを教えてくれる。同時に、それらの事例は、「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。・・・》

 

NO.30 論文  旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ

集団力学研究所、2021年第38巻 pp.20-34
樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部准教授)

 《論文要約から~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。

本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》

 

NO.31 論文-6.  2008年 百人委員会スタート
 
政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)要約から抜粋、京都大学教授杉万俊夫 ⇒ 政策提案システム

《地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。

①百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。

②商工・観光・生活・環境・保健・福祉・医療・農林業・ 教育・文化な ど。③百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政 策の実行・実現にも当たる。》

 

NO.32 Ⅳ. 起業 ・発展期【2008~現在】⇒ 移住者・若者活躍

2009年 もりのようちえん開園
2010年 自伐型林業「皐月屋」創業
2011年 那岐地区振興協議会設立
2012年 小学校統合
2012年 土師地区・富沢地区振興協議会設立
2015年 田舎のパン屋タルマーリ―開業
2015年 智頭ノ森ノ学ビ舎林業技術習得塾開講
2015年 おせっかいまちづくり宣言スタート
2016年 山林バンク/北京の杜10年達成
2017年 中国厦門市院前社と山形地区振興協議会交流
2019年 内閣府「SDGs未来都市」認定
2019年 『創発的営み』出版
2020年 おせっかい奨学金スタート
2021年 『ゼロイチ運動と「かやの理論」』出版、ゼロイチ教室開講
2021年 横浜市立大学吉永ゼミ等と交流 2022年 『ギブ&ギブ』出版
2022年 智頭町まちづくりレガシー館開設
2022年 北京外国語大学主催、東アジア「農村地域の過疎化の発見と復興の可能性」シンポ
2023年 「過疎化SDGs・社会システム(仕組み)の力」執筆
2023年 「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店、春オープン(旧那岐小学校「那岐の風」)

 

NO.33 智頭町もりのようちえん

百人委員会から生まれた!

寺谷篤志/過疎化 SDGs・社会システム(仕組み)の力: 〔本編〕―地域経営組織をつくる 杉しかない町から誇りある智頭町へ―

追補
(1)寺谷篤志/社会システム(仕組み)の力―鳥取県智頭町と京都市のマンション自治会―/2024年12月16日/本文
(2)「三田活性化隊Ⅹ京大永田研究室」代表畑井克彦/鳥取県智頭町フィールドワーク―命を見つめなおす―/2024年12月17日/本文

 


 

目  次

はじめに―集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ
1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ
2. 社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた
3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間
4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講
5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見
6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける
7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート
8. 気づき、小集団が合流して群衆流へ
 
第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図
1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける
2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業
3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた
4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ
5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)
6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか
7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」
8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み
9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置
10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業
11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む
1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む
2. 創発規範の連鎖の拡大を検証
3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策
4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流
5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現
6. 域規範の「定点観察」、記録はメモから
7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング
9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味
10. 持続可能社会とコミュニティライフ
11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経
《引用文献》
 
第4章 身近に人生の師あり、独立自尊
1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく
2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る
3. 志を立て、国境(県境)を出奔する
4. 会いは神の計画、職場は人間形成の場
5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い
6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念
7. 希望の希求から新たな光が見えた
8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)
9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ
10. 無意識の力に突き動かされた
11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る
 
参考資料
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じめに― 集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

 秋田読書クラブの例会が、2022年4月24日㈰午後8時からZOOMで行われた。題本は『多様性の科学』(2021.6.25.第1刷)(著者:マシュ―・サンド)で、第6章の「平均値の落とし穴」を、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生が解かれた。明快な解説に得心した。草郷先生とは初めての出会いであった。解説をお伺いして社会システム(仕組み)の重要性を認識した。次回は7月24日、拙著『ギブ&ギブ、おせっかいのすすめ(以下『ギブ&ギブ』)』(今井出版発行)第3章を、私が紹介することになっていた。是非とも、草郷先生から拙著についての解説をお聞きしたいと思った。そこで『ギブ&ギブ』を出版後、即、智頭町づくり三部作をお贈りした。

7月24日㈰の読書会、最後の1分にコメントをいただいた。《実は三冊の本を送っていただいていたのです。(省略)ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみることで空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》(第3章9)と解析された。そして、間髪を入れず27日に、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店2022.7.15)が届いた。感謝、感激である。ご著書と解析に触れ、地域づくりの行動目的がはっきりした。つまり、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動(以下ゼロイチ運動)』(第2章)で、誇りの創造をテーマに地域づくりに取り組んだ。それはウェルビーイングを手繰り寄せるためであった。具体的手段が社会システム(仕組み)の創造である。草郷先生の解析によって1984年からの智頭町づくりと、2011年からの京都市マンション自治会の立ち上げの核心をつかんだ。

智頭町づくり三部作を夢中で編集したから導かれた。腎臓癌で命を救ってもらい、長年かかってやっと辿り着いた。応援してもらった方々の顔が浮かんだ。この納得感を、私一人の知識としてあの世に持って行くわけにはいかない、ムラムラと使命感が湧いた。今やらねば何時できる、わしがやらねば誰が書くとの心境であった。ところが、2022年の酷暑は凄まじかった。7月末から毎日パソコンにフラフラしながら向かった。構成は踏み込んで、また踏み込んで次が見えた、腐心しながら社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。やっと9月に入って推敲案を仕上げた。総括すると、社会システムが集落で奇跡を起こしていた。(第2章)

早速、PPと合わせ草郷先生にお送りした。「草郷です。修正資料を拝読させていただきました。セットで学生への貴重な資料になります。それから、差し支えなければ、関心のある知り合いに共有させていただきます。」といただいた。また、北京外語大学教授宋金文先生からは、「ゼロ分のイチ運動を社会システムの視点で整理して、いろいろ考えさせられることがあって、腑に落ちるものがあります。私も社会システム論の応用による境界突破という視点と、「制度創生と越境—過疎地域づくりの事例を通して」のテーマで社会システムの立場から、この事例の意味を総括しているところです。」といただいた。

本書は、二つのコミュニティにおける社会システム(仕組み)創造の実践記録である。編集から見えたことは、まさに結縁の連珠である。偶然の出会いが必然となり、出会いに意味が生まれ、まるで神の計画だったかのように人々との出会いが物語となった。生命があったからまとめられた。まず、出会った方々に心から感謝です!  2023(令和5)年2月—

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ                       

 1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ

智頭町への帰郷の話が突然舞い込んだ。1983 年 2 月、中国郵政局(広島市)でコンピューターの導入会議をしているところへ、那岐郵便局長の故長石公男氏が訪ねて来られ、喫茶店でお会いした。「寺谷君、地域に貢献する郵便局長になってほしい。」と諭された。10年前に智頭町内の郵便局の職員だったころ、青年団活動や総理府の第6回青年の船の団員として、オセアニアを訪問したことを知っておられて、是非とも決断してほしいと言われた。しかし、町の封建的で閉鎖的な体質に躊躇し即答できなかった。でも、いずれは故郷に役立ちたいと思っていた。妻から「あつしさんが必要とされている、智頭に帰ろう。」との一言と、一時、身体を壊していたので体調を考えて帰郷を決断し、二人の子どもを育てようと思った。

そうして50世帯ばかりの集落に住んでみると、過疎化・高齢化・少子化が迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外にない。しかし、役場職員は長年の封建体質で無気力となっていた。住民は時代の波に抗うこともできない、断腸の思いだった。その翌年、何とか一歩をと「杉板はがき」を発案した。鳥取国体の前年ということもあって全国から注文が殺到した。これを幸いに木工集団を組織して対応することにした。そうしたところ1986年に鳥取県知事からイメージアップ懇話会の委員の委嘱を受け、鳥取県のイメージアップ戦略に向けて議論を一年間行い、1987年春、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。早速、一人の積極人間として智頭町から発信した。夏休み、智頭杉にこだわって子どもたちに杉板を加工し応募してもらう、「木づくり遊便コンテスト」を開催した。全国から300点を超える作品の応募があった。地域を何とかしたいと一歩を起こし挑戦した。新しい出会いが夢を叶えるきっかけとなった。

1988年3月、智頭杉日本の家設計コンテストの開催に向けてコンサルタントに相談するため、故前橋登志行氏(後日、CCPT代表)と東京に向かった。早々に要件を済ませ、笹川平和財団に主任研究員の長尾眞文氏を訪ねたところ、長尾氏から地域の国際化に取り組む団体を支援し、社会人1名分の海外研修経費を助成すると伝えられた。帰途、新幹線の中で活性化策を相談した。その一つに、この際に社会人2名を派遣したい。二つ目は地域づくりの学習・実践集団を設立したい、と話し合った。善は急げと翌月、住民有志30人に呼び掛け、「智頭町活性化プロジェクト集団」(Chizu Creative Project Team:略 CCPT)を設立した。合わせて、鳥取大学の留学生を智頭町に招待しようと、長尾氏にお願いして鳥取大学工学部教授の岡田憲夫先生(現:京都大学名誉教授)を紹介してもらった。合わせて、「智頭杉日本の家設計コンテスト」は実行委員会を組織し、鳥取県職員の澤田廉路氏(現(一社)鳥取県建築士会専務理事)の協力を得て、賞金150万円2本(都市型と農村型)を役場に助成してもらい公募したところ、148件の応募があった。その年の12月1日、杉の御霊を祀った杉神社で厳かに表彰式を行った。

次に1989年には、八河谷集落で杉の木村(1986年に都市との交流に開村)を会場に、カナダのログビルダーを招聘して、智頭杉でログハウス5棟を建築する「智頭杉ログハウス建築イベント」を2ヶ月間にわたって開催した。そして、完成施設を集落に無償譲渡し、8月末、念願の社会科学を学ぶ場の「杉下村塾」(さんかそんじゅく)を開講した。そして、講師の一人である長尾氏からスイス山岳地調査に誘われ、9月末、スイスのシャンドラン(1,936メートル)の麓で、住民が検討委員会を組織して地域計画を実行しているコミュニティを視察した。そこで住民自治の種を見つけた。

その直後、町会議員の選挙違反が発覚した。議長候補者が金を配り議員の半数が逮捕された。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の変革にある。さて、どうすれば地域活性化ができるのかと悶々としていた。そうしていたころへ、岡田先生から「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と話され、第4回杉下村塾(1992年)に京都大学総合人間学部の杉万俊夫先生(現:九州産業大学教授、京都大学名誉教授)を紹介いただき、翌年の4月4日、第9回耕読会に『かや(規範)の理論』の講義-1を受けた。(第4章3)要旨。

《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』-講義1)

かやの理論は一匹のメダカの理論(第4章3)の補填となった。一年かけて地域戦略を練った。そして、意を決し翌年4月29日にCCPTの総会を開き、役場との連携(融合)を提案した。まず、第1弾として8月4日、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタートした。早速、買い物代行システムが発案された。まさに連想ゲームのようであった。そして、10月28日~30日に第6回杉下村塾を開催したところ、グランドデザインの策定と智頭急行シンポジウムの企画提案があった。こうなればトップマネジメントである。役場助役の故前橋伍一氏に一か八か相談した。快諾があった。そこで中国郵政局の協賛を得て、1995年1月14日、役場職員と研究者等で、「グランドデザイン(智軸づくり)策定」プロジェクトチームが発足した。7月、報告書の「杉(サン)トピア(杉源境)ちづ構想」がまとまり、その翌年の1996年4月、住民が地域計画を立て実行する仕組みづくりのため、「村おこしコーディネーター会議」が発足し、住民5名が委員の委嘱を受けて企画して、町長に計画案を答申した。そして、議会で決議され、1997年4月、起死回生策の『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』がスタートした。

2.  社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた

2006年に智頭町に移住し、2009年に「もりのようちえん」を開園した西村早栄子さんに、2016年に『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み(以下創発的営み)』を編集するためヒアリングを行った。そうしたところ、役場職員の積極的な姿勢と、「この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになる」と発言があった。地域づくりが、臨界値を超えて相転移を起こしていた。

《私は、鳥取県の職員として八頭総合事務所(当時)という、智頭町を管轄する機関に所属していた。智頭町では新しい事業がもたらされると、ほかの町村とは反応がまったく逆だった。智頭町以外のところはだいたいできない理由を必ず探すが、智頭町に持っていくと「やりましょう、やりましょう!すぐやりましょう。明日からでもやりましょう。」となる。新しいものに対して積極的で、他町村と比べると全然違う。(省略)それはやはり町長の影響も大きいが、長年に渡って住民がやってきた民意というか、住民自治での地域づくり、いわばゼロイチ運動とかの実績があるたらだと思う。十年前に始まった「百人委員会」では、住民が意見を出して住民自身が汗をかいて、それを行政が支援するという住民自治のスタイルがある。民間に対する信頼というか、住民が主役で行政を乗せていくというような雰囲気を感じる。行政に対しておんぶに抱っこを求めない住民をつくってきた、自立の地域の風土を感じる。》(『創発的営み』第 4 章 2)

《私たちがなぜ智頭町を選んだのかといったら、やっぱり「ゼロイチ運動」で住民が自立して、まちづくりに挑戦する精神が浸透していて、町に活気があることだ。ほかの町村と比べてもやっぱり智頭町ははっきり違っていた。この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになるのではないか。私たちも参加してお手伝いができるのではないかという雰囲気を感じた。この町のムードは、私たちが移住を決断する大きな誘因となった。》(『創発的営み』第 4 章 6)

西村さんは、住むなら智頭町へと決断された。もう一方、2015年に移住した「田舎のパン屋さんタルマーリー」の渡邉格氏ご夫婦は、役場職員の対応と地域体制を語っている。

《智頭町へ来る直接のきっかけは「森のようちえん」に息子を通わせるためだった。最初は岡山県美作市に住みながら智頭町に通わせよとしていた。それがなぜ智頭町に店も住まいも移ることになったのか。それは確実に役場の対応にあった。智頭町役場企画課のスピードと丁寧で確実な対応は驚くものがあった。》(『創発的営み』第5章4)

《例えば、旧小学校の駐車場にタルマーリーのお客様が車を停めることに対して苦情が出たことがある。最初に役場が使っていいと言ってくれたから大丈夫かと思っていたのだが、地域の方からそこには置かないようにと言われて戸惑った。そこで役場企画課に相談したら、企画課と地区振興協議会が相談してくださって、結果的には使ってよいとのことで落ち着いた。だから、いろいろな意見があっても、調整して治めてくれる体制があることは本当に助かる。》(第5章1)

お二人は外から見ていた智頭町と、住んで地域社会の評価を行い、確信を持って智頭町で輝き、内外に影響を与えている。つまり、社会システム(仕組み)が奇跡を起こしていた。

2006年に西村早栄子さんが移住するまでの間、智頭町で何が起こったのか。本書ではその取り組みを時系列で記述した。果たして社会システム(仕組み)は、コミュニティの持続可能にどのような影響を与えたのか、形成された創発規範はどのように連鎖したのか。それらを杉万先生が調査・検証されている。ところが、2010年3月にわが身に一大事が起こった。腎臓癌を発症し右腎臓を摘出した。さて、どう生きるか、2011年10月18日に京都市に移住した。たまたまマンション管理組合の理事に就任し、理事会に自治会設立を提案して臨時総会が開催され、2014年2月に自治会が設立された。本書事例は、二つのコミュニティで社会システム(仕組み)創造によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。その記録である。                                             

3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間

 帰郷した翌年の春、智頭町産のドウダンツツジを郵便小包で届けますと報道したところ、新聞・テレビで取り上げられ注文が舞い込んだ。そして、「智頭町どうだんつつじ祭り」が役場前で開催され、赤いバイクの後部座席にドウダンツツジが入ったケースを載せ、郵便配達をする様子がテレビ放映された。郵便小包のイメージからすれば意外性を演出した。この取り組みから地場産品を地域づくりのテーマにすれば、報道機関が取り上げられることを経験した。そして、7月に鳥取国体前年のミニ国体が開かれる。智頭町は空手会場である。その場に郵便局も臨時出張所を出店するが、記念切手を販売することになっていた。妻とお茶をしながら、郵便局なりの智頭町のオリジナル商品ができないかと話した。そこで「杉板はがき」のアイデアが浮かんだ。

早速、近くの製材所で建築用材の柱の端材を購入し、智頭農林高等高校の木材加工科で葉書版の厚さ1センチ程度の杉板を作ってもらった。枚数を揃えて地元紙に発表したところ大反響を呼んだ。智頭町に帰郷して僅かな期間だったが、アイデア郵便局長としてマスコミに取り上げられ、その宣伝効果もあってか、鳥取国体の翌年、1986年に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年後、鳥取県民の在り方を答申することになっていた。

1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に決意を寄稿していた。

《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》

鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだとはっきりと自覚した。一寸の虫も五分の魂の覚悟だった。

1986年、デザイサーの白岡彪氏、「杉の絵本・しんいなばものがたり」の製作機会をいただいた。
1987年、日本海テレビ副報道部長の須崎俊雄氏、「地平線」の執筆機会をいただいた。
1988年、コンサルタントの吉田幹男氏の鳥取交流サロンで長尾眞文氏と出会った。
1989年、写真家の池本喜巳氏、智頭杉「日本の家」設計コンテストの作品の撮影を依頼した。
1991年、鳥取大学の佐分利育代先生、智頭杉棒体操を考案してもらった。
2019年、今井印刷相談役の永井伸和氏、2022年に智頭町づくり三部作を刊行した。

イメージアップ懇話会で出会った方々は、鳥取県の積極人間を共有した人たちである。帰郷して3年で委員に選ばれグットタイミングで地域を学ぶ機会となり、各委員との出会いが人財ネットワークとなった。また、将来智頭町に地域戦略のソフト機関を実現したいと思っていたので、委員会での審議の経験は有意義だった。そして、1987年から「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」の三つをテーマに、とっとりingsマン=積極人間に挑戦した。

4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講

1988年4月、CCPTの設立と同時期に岡田先生に初めてお会いした。その時、何を研究されているのですかと訊ねた。そうしたところ「島根県の匹見町に行って、過疎の研究をしています。」と答えられた。それならば智頭町に来てくださいとお願いして、出会いをきっかけに手弁当でCCPTに社会システム思考の講義をしていただいた。当初、果たして地域に社会科学の学習の場を設けて人が集まるかと心配したが、講義を受けるためCCPTのメンバーが智頭町総合センターの会議室に集まった。郵便局の職員、役場の職員、製材所の経営者、農業・林業従事者、大工さんなど。そして、講義を受けて議論が始まった。ディベート訓練では年齢に関係なく、60歳を超えた人たちが熱くなって議論をした。予想を超えた。

1). ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。

2). 活性化プロセス
ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。

思いがけない学習の場であった。講義や議論の様子をみていると、地域に社会科学を戦略的に入れることは有効であると考えた。早速、身近な人たちに声をかけてみた。しかし、杉の木村は智頭町の最奥部で交通の便が悪い。誰が講習会に3万円も払って参加するものがあるか。地域は運営であって地域経営の概念はない、経営は企業である。と反対意見があったが、思い切って杉下村塾を開講した。当初は講義方式だったが、参加型集団企画技法の四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)を開発し、受講生と講師がほぼ同数で、地域テーマを設定して知的生産の場となった。開講趣旨は、明治維新は吉田松陰の松下村塾に始まったが、平成の維新は杉の下の智頭町から起こそうと気概を持った。1989年8月25日から27日の2泊3日、建築間もない杉のログハウスに合宿形式で参集した。開講テーマは1984年に一歩を起こしたCCPTの活動から、「地域経営」(2章2)とした。1998年まで10年(回)開催した。(『ギブ&ギブ』第1章5)

新しい価値の創造に向けての挑戦だった。現状は、他力本願、行政依存によって住民自治の意識は低い、実はそこに問題がある。例えば、住民一人ひとりが地域を治める意識を持ち、地域資源に唯一無二の価値を認め、住民が地域の主宰者として計画を立て地域を経営すれば、地域が変わるかもしれない。この視点を持てば、萎縮した地域社会から脱出することが可能ではないかと考えた。つまり、過疎化を真正面から捉えたとき、住民の一人ひとりが住民自治の自覚と地域経営の概念により、地域が変わると予測した。実証実験に向けて一歩を起こした。

5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見

第1回杉下村塾の開講直後、9月20~28日の9日間、スイス山岳地調査に長尾主任研究員と、岡田先生に同行して、アルプスの少女ハイジのモデルの町となったシャトーディを訪問した。街を取り囲むロケーションは山岳地から丘陵地へとなだらかに続き、スイスの絵ハガキの情景であった。その地にあるチューリッヒ工科大学の研究所で、スイスにおけるスリム化された行政と、住民と大学機関との連携等について説明を受けた。翌日、ヴァレー州にあるシャンドラン(1,936メートル)のホテルに到着した。ホテルに着いた途端に胸が息苦しくなり、頭がズキンズキンと痛んだ、高山病である。とうとう食事も取らずに寝床に倒れ込んだ。これまで経験したことのない苦しみと頭痛だった。(『ギブ&ギブ』』第1章6)

その翌日、さらに登って小さな集落を訪ねた。天気は快晴、せっかくのアルプスの景観だったが体調が悪い。山々を眺めると山岳部の中腹に点々と家が見えた。まさに天(点)村である。そして、峰の一軒のホテルに着いた。高山病で苦しいと通訳してもらったところ、早速、オーナーが大きな皿にトマトやキュウリをスライスして、着いて来いと言われた。そこはコミュニティハウスの地下蔵だった。並べられたワイン樽から赤いワインをコップに注ぎ、高山病の薬だと言って差し出され一気に飲んだ。赤ワインは妙薬だった酔ってくると頭痛から解放された。ところが、アルコールが切れると高山病がぶり返した。その様子を一生忘れることができない。

そのホテルのオーナーから、ご自身の半生と集落の盛衰が語られた。「今は避暑地として栄えているが、過去には村が存亡の危機にあった。その時、全財産を投げ打ってホテルを建てた。教訓として、まず自分の村に誇りを持つことだ。スイスは山岳地から始まった。自然との共生の中で生活してこそ価値がある。今朝も鹿を一頭獲ってきた、ホテルで提供する。子どもたちは海外から帰ってきて一緒に仕事をし、この村が好きだと言っている。」と、地域の存亡危機脱出の秘訣を聞いた。高山病と赤ワインとオーナーの話は、スペシャルメニューだった。そして、山を下りて麓のコミュニティ調査で、住民が検討委員会を組織し、主体性を持って予算を獲得して行政やコンサルタントの知恵を引き出し、地域計画を立て実行していた。住民自治の種を見つけた。

スイス山岳地調査の直前に智頭町の町会議員の選挙違反が発覚した。1989年に改選が行われ、議長候補者が多数派工作で有力議員に金を配り議員の半数が逮捕された。この時の屈辱感は、智頭町に住んでいることが恥ずかしかった。長年にわたる山林を持つ者と持たざる者の構図が、地域の独特の価値観をつくっていた。封建体質にこそ問題がある。

スイスから帰国後、CCPTでは世代別の住民意識調査(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第2章1)を実施した。住民の意識を冷静に分析しみると、高齢世帯(60代から70代)では、「CCPTと行政が連携すれば町は発展する」の項目の回答が63%みられた。これは依存体質の裏返しだと読んだ。その当時、岡田先生が「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と言われ、第4回杉下村塾(1992年11月6日から8日)に杉万先生を紹介された。11月7日㈯の夕方、杉万先生は杉の木村に入られた。外はみぞれが降って暗かった。初対面で研究の紹介があった。直感的に人間科学ですかとお伺いし、さらに、先生が書かれた本はありませんかと訊ねた。そして、翌年春の第9回耕読会(読書)の講師をお願いした。

6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける

1993年4月4日㈰午前10時、杉の木村には積雪が胸の高さまで掻き揚げられていた。山峡の地である。掻き揚げられた積雪に光が当たって眩しかった。そこで杉万先生から「かや(規範)の理論」の講義-1を受けた。人間科学を予想してテープレコーダーを用意していた。講義のポイントを紹介する。(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)

➀ ささやきかける、手を取る、肩を押しながら逃げる
《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》

② 「かや(規範)」は常に変化し、個人をしばる
《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろんなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をする。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》

かや(規範)の理論の吸着誘導法は、小集団活動の核心と受け止めた。テープ起こしをしながら、役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の革新が一度にできないかと考えた。ただ、この理論を実行するには、地域にある慣習的な良い人を捨てる覚悟が要った。それまで周囲からかなり批判を受けていた。地域では出る杭は打たれる。二人の子どもへの影響を考えた。しかし、自分には財産は何もない、そこで生き様を示すことだと覚悟した。それからもう一つ、地域社会では物事をすべて損得でみるが、それは軸受け(ベクトルの支点のリスク)を避けていることだと気づいた。なんであれリスクを取る覚悟である。どこまでやれるか挑戦だった。

そして、1989年に選挙違反した議員が執行猶予にも係わらず、1993年の町長選挙に立候補して当選した。また、それまで町長をしていた者が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕となった。そんな状況に発奮した。一年後の1994年4月29日にCCPTの総会を開き、役場とは対峙でなく、連携(融合)を提案し、智頭町の活性化は役場職員の覚醒化だと訴えた。

7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート

なぜ役場職員の覚醒化にターゲットに絞ったのか、それは職員が覚醒化することによって、住民規範が変わると予測した。まさに「かやの理論」の実践である。次の理由が考えられた。

➀地域で一番大きな事業体であり、雇用の場である。また、人材集積の場である。
②住民生活に影響を与える施策を実施している。施策に責任を持つ組織とする。
③国の過疎対策は的が外れている。声高に言っても仕方がない、この地に事実をつくる。
④地域を方向づける機関は他に無い。過疎化・高齢化・少子化、広域合併に備える組織とする。
➄住民規範は行政への依存体質である。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化が課題であり、住民のニーズに応えられる組織とする。
⑥職員に地域哲学(アイデンティティ)が無い。

1993年までの10年間にわたり役場職員を観察してきた。地域における公的機関の職員として意識が低く、長い間の封建的で保守的な体質は職員を無気力にしていた。つまり、職員訓練がほとんどできていない。1985年に就任したF町長は一期、1989年のO町長も一期、1993年のH町長も一期の町政が続いていた。そして、二度の町会議員の選挙違反による大量逮捕である。町政トップがぐらついていた。ここに連携(融合)を図る主因があると考えた。

まず、1994年8月4日、智頭郵便局と役場でまちづくりプロジェクトチームが発足した。当時、郵便局の社会貢献が課題となっていた。役場も他機関と交流することで活性化を考えており、お互いに思惑が一致して、連携プロジェクトをやってみようとなった。役場のメンバーは各課横断的に5名が選ばれた。郵便局の職員は意図的に町外から通勤する者を登用していこうと、内務職員2名と外務職員2名の4名とし、プロジェクトチームは計9名でスタートした。

会議は月1回、午後2時から4時までの2時間、会議の方法は司会と議事録係を交互に担当し、前回の課題に対する経過報告と、議事テーマを絞って討議に入った。討議方法はCCPTが開発した模造紙会議方式を使った。最初のブレーンストーミングで約30項目が出た。中でも高齢者と郵便配達を掛けて、「買い物代行(ひまわり)システム」が発案された。

〇国際ボランティア貯金、智頭町長フィリピン視察報告会の開催(1994.12)
〇国際ボランティア貯金、海外視察グラビア発行(1995.4)
〇税金自動引き落とし導入(1995.4)
〇水道料金自動引き落とし導入(1995.4)
〇役場前にポストを設置(1995.5)
〇綾木杯マラソン支援(1995.9)
〇智頭急行開業一周年記念事業、阪神・淡路大震災まちづくりリーダー会議(1995.12)

1995年4月、一部地区の試行で「ひまわりシステム」がスタートした。新聞、テレビ、ラジオで報道され大きな反響を呼んだ。何よりも嬉々として働く郵便局の職員に注目が集まった。その影響は役場職員にも伝搬した。1996年には智頭町全域でサービスが開始され、第一弾の連携策としては大成功であった。次の施策に向けて追い風となった。

 8.  気づき、小集団が合流して群衆流へ

第6回杉下村塾 (1994年10月28日から30日) を開催した。中日の29日、模造紙を囲み四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)の演習で、テーマごとに4時間にわたって議論を行った。テーマの一つに「はくと・はるか・関空」シンポジウムの開催を設けた。12月3日、鳥取県民の悲願である第三セクターの「智頭急行」が開通する。特急「スーパーはくと」に乗れば、京阪神に2時間でアクセスできる。さらに特急「はるか」に乗り継ぎ、関西国際空港まで所要時間は約3時間である。地域活性化の起爆剤にならないかと、シンポジウムの開催をテーマにした。このチームから、「智頭町のグランドデザインは何か?」と質疑が上がった。

智頭急行のシンポジウムの素案と智頭町のグランドデザインの策定構想を、助役の前橋伍一氏に提案した。実現に向けて取り組むと快諾された。早速、中国郵政局に協賛を要請するため、12月26日、前橋助役に小林総務課長と同行した。企画課長と助役の会談で協賛の内諾があり、地域づくりの本質論でグランドデザインの策定が話題となった。そこで、全体の事業費から100万円を充てることが約束された。翌朝、プロジェクトチームの陣容を説明して確認をとった。早速、電話で岡田先生と、杉下村塾で「はくと・はるか・関空」チームだった経営コンサルタントの福田征四郎氏、地域コンサルタントの平山京子さんにアドバイザーを要請した。

帰郷した翌日、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村の総務・企画担当者会議が開催された。大呂課長補佐の根回しで、議題に「はくと・はるか・関空」シンポが取り上げられ、3ヶ町村と郵便局(6局)でふるさとづくり実行委員会が設立されることになった。一度に、シンポジウムの開催とグランドデザインの策定と、二つのプロジェクトが動き出した。そうしていたところ、前橋助役が「CCPTの思いを五感で感じる。」と、身近な人に発言されたと伝わってきた。

1995年1月14日㈯、鳥取市内は豪雪だった。JR鳥取駅近くのホテルの会議室で、第1回グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクト会議が開催された。助役をチームリーダーに職員7名が指名され、アドバイザーは岡田先生と、福田征四郎氏、平山京子さんの3名である。コーディネーターは私が務めた。その後は、土・日曜日に会議が開かれた。そして、議論の上「杉」は智頭町民の精神的支柱であり、杉を「サン」と読み「杉(サン)トピア」「杉源境(さんげんきょう)」と、表記することに一決した。

2月5日、多くの住民が参加し、「どう生かすか、智頭急行シンポジウム」が開催された。

4月12日、役場職員の「さわやかサービス」の接遇研修が、経営コンサルタントの福田征四郎氏の指導の基、全職員を対象に開始された。当初、郵便局の9局でスタートし、民間企業も参加していた。そして、3ヶ町村の役場に導入された。

14日、「ひまわり (買い物代行) システム」の出発式が行われた。テレビ・ラジオ・新聞で大々的に報道された。町が一気に輝き、スタッフは自信を持った。次には全町でサービスの開始である。(『ギブ&ギブ』第2章1)

6月3日、「はくと・はるか・関空」シンポジウムの企画は、3ヶ町村の役場職員が当たった。大阪南港の太平洋トレードセンターで3ヶ町村の住民100名と、3ヶ町村出身の関西在住の知人100名を招待して開催された。一つひとつの施策が実施され、まさに群集流となった。

7月8日、岡田先生がカナダウオータールー大学から名誉博士号を授与となり、記念講演会を智頭町総合センターで開催した。テーマは「ゼロ分のイチ」であった。(『ギブ&ギブ』第2章4)

7月、グランドデザイン策定の詰めは、小林総務課長・大呂課長補佐と三人で、竹輪を齧りながら「杉トピア(杉源境)構想」の図表を、マイステージ(生活・自治)・ユアステージ(交流・情報)・フォレストステージ(森林・自然)と、3つのステージに整理した。報告書は平山京子さんの主筆によってまとめられた。関係者の手持ち資料としたが、経ってみると秘策はしっかりと根づいていた。1995年版CCPT活動提言書(P87-97)に収録している。

9月2~3日、CCPTと関係者とで先進地の広島県旧高宮町を21名で訪問し、地区振興協議会の活動の実態を聞いた。そこで智頭町では振興協議会を、利益要求団体や行政の下請団体等にしないため、時間はかかるが集落単位から地区単位へと展開することにした。そして、翌年4月12日、村おこしコーディネーター会議の委員の委嘱を住民5名が受けた。

1995年秋、杉万先生から論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)と、論文-2、「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫、2本の論文が届いた。1984年から取り組んだ地域づくりが調査・検証されていた。手元には、(ゼロイチ運動と「かやの理論」)講義-1と2、「杉トピア報告書‐ちづ構想」と、論文-1と2の三点が揃った。次の課題は実行案の策定である。これら三点をどう読み解くか大きなプレッシャーを感じた。ほぼ半年をかけた。

10月27~29日、第7回杉下村塾で「智頭未来色」をテーマに討論会を林新館で開催した。

これら紹介した施策は、CCPTと役場職員の連携施策である。手づくり施策の効果は計り知れない、地域に対して当事者に愛着が起こった。例えば、故藤原孝係長はひまわりシステムのリーダーとして、またグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動の企画に携わった。彼は、鳥取市との合併協議会の席上、「例え合併してもゼロイチ運動は譲れない。」と主張したと聞く。まさに智頭町づくりの自負心が言わしめたのだ。主体を持つことの大切さを学んだ。

 第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図

1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける

1996年2月、グランドデザインの具体案づくりに向けて、意を決しH町長に直接申し出た。プロジェクトチームを編成してほしいと直言したところ、返ってきた言葉は住民5名を選んでもらいたいとあった。1996年4月12日、町長の指名により委員の委嘱を受け、「村おこしコーディネーター会議」が発足した。私はコーディネーターの役割を務めた。その企画会議では論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)の「結語」が役立った。紹介する。

《あくまでも一つの可能性に過ぎないが、CCPT集合体が、一つの可視的「集団」としての様態から、より境界があいまいな、より緩やかな連結によって維持される様態へと変化するかもしれない。しかし、仮に、「集団」としての可視性を減じたとしても、あたかも変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう、もし、そうなれば、それは一山間の過疎地の現象と言うにとどまらず、現在の日本社会が直面している大きな課題の一つ、すなわち、新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言えるのではないか。》

杉万論文の「結語」に武者震いした。この「・・・新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言える・・・」に刺激を受けた。大体、行政機関ではグランドデザインの報告書があれば一段落である。しかし、文中「・・・変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう・・・」と、新しい社会システムの構築に向けて自負心がくすぐられ、さてどんな仕組みをつくるか、山間の智頭町から社会革新を起こす覚悟をした。その時のわくわくドキドキ感を今でも思い出す。時をかける思いだった。

そこでまず、地域づくりを「運動」とするか、一つの「事業」とするか議論を行った。やはり、子どもからお年寄りまで、自分たちが住んでいる地域を活性化するための計画づくりにしたいと考え、「運動」とした。では、運動のタイトルをどうするか、岡田先生の記念講演のテーマであった「ゼロ分のイチ」と、「杉トピア(杉源境)ちづ構想」の報告書から、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』と命名した。ゼロイチ運動で、集落振興協議会を設立した場合を想定した。計画された事業は各事業とも主体的に実施され、いずれ価値あるものは定着する。その一つひとつの事業が新たな規範を形成し、それらが群衆流となると予想した。それら施策について住民同士で「コミュニケーション」が図られ、「集合的行動パターン」が起こり、それが「暗黙自明の前提」となって集落の特色をつくり、共有規範が生まれ、集落の規範がいずれ「環境」となると読んだ。ゼロイチ運動の実行案づくりはプロジェクトチームの最大の課題である。つまり、集落には総寄合があって意思決定権を持つ、そして、どの集落にも既存団体がある。公民館活動、老人クラブ、婦人会、消防団、青年団など、個々別々に存在する。それらを包摂する新しい組織づくりを考えた。これこそ地域革新である。そこで集落全体を包む大傘をイメージした。

振興協議会の構想には、杉万先生の講義-1の『かやの理論』と、講義-2の『こころと意味・「かや」』 (『ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-1.と2.) の4点セットが役立った。早瀬集落で生活し、1986年から杉の木村の建設を体験したことが社会システムづくりに役立った。つまり、論文の「新しい総事」(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)を創出する組織にするため、集落振興協議会の構想を村おこしコーディネーター会議で議論を重ねた。そして、1996年5月21日㈮~23日㈰の3日3晩、不眠不休でゼロイチ運動の企画書等①から⑥ (『ギブ&ギブ』第2章4) をまとめた。私の思いを、大呂課長補佐へ人生のプレゼントと手紙を書いた。

企画書(1)趣旨《・・・その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。》

企画書の趣旨と、②集落振興協議会規約、③運営要領、④組織概念図、⑤地域プランナーの手引き、⑥計画策定ステップの6策(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)を町長へ答申し、7月の議会に諮られ議決された。企画書等は役場から各集落に周知された。

 2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業

1996年度中に、ゼロイチ運動で10年間目指す行動計画書を作成した集落が、翌年度から導入することになった。ところが集落の長老支配は厳然と続いていた、保守的な体質である。果たして集落で地域計画が策定できるか、心配しながら見守った。ところがプロジェクトで発案のあった智頭町認定法人の指定が役立った。ゼロイチ運動は新鮮な学習の場となった。計画づくりに住民が参加することで、ゼロイチ運動の本質や隠し味に気づき、集落の体質改善につながると新鮮な空気が生まれた。そして、自ら暮らす集落をデザインする画期的な取り組みとなった。住民は積極的に参加し、計画づくりが集落運営に大きく影響を与えた。

早瀬集落では、1996年8月に入って総寄合が持たれ、ゼロイチ運動を導入するかどうか協議された。多数決を持って導入が決まった。9月から住民アンケート調査が実施され、さらにヒアリングを行い、ブレーンストーミングで洗い出し、語彙を短冊に書き出した。四面会議システムのディベートでは年齢に関係なく、人々は熱くなって計画づくりを行った。杉万先生はその場に立会されていた。(杉万俊夫編箸『よみがえるコミュニティ』P123)

《杉万~すごく印象的だったのが、早瀬集落のゼロ分のイチ運動が始まった頃、まだ、雰囲気がすごく静かなときに、横でみせてもらったんですが、時計が夜11時を回った頃、80歳ぐらいのお年寄りが、ぱっと立ち上がって、「俺たちがやらなきゃだめだ」ってね、こう宙をにらんで大声で演説をされるわけですね。あれだけの宙をにらんでの決意表明、80歳まで生きた人の力強い訴えというか。見えない壁、敵、受け身であり過ぎた過去、そういうものに対する挑戦ですよね。》

お年寄りの顔が輝いていた。そして、他の集落の計画づくりをどう導くか、新たに発足した「ゼロイチ運動担当者会議」のプロジェクトチームで作戦を練った。集落の計画書の作成方法を議論し、早瀬集落が先行し事例を示す戦略をとった。そして、各集落には担当者が、具体例として計画ステップや行動計画書と行動計画表等の書式を紹介した。この作戦は的中した。役場の担当者とコンサルタント2名は、住民の計画づくりを見守った。村の開闢以来の大作業は住民主体で展開した。(『よみがえるコミュニティ』P93)その様子を杉万先生が記録されていた。

《「ゼロ分のイチ村おこし運動」への助走が始まって半年くらいたった1996年12月8日、前橋氏(CCPT代表)の還暦祝いの会が、地域と科学の出会い館で開かれた。会もたけなわになったころ、今後の抱負を語る中で、前橋氏が言った―「ゼロ分のイチは、CCPTの第2幕だ」。智頭という町を舞台に、CCPTという小集団が、猪突猛進、身を持って能動的な地域づくりを実践して見せた最初の10年が、第1部。そして、第2幕では、最小コミュニティ単位の集落に、その能動的姿勢が移植され、住民自治の根を張りつつある。》

杉万先生は智頭町の変革を常に観察された。それでは集落では何が起こっていたのか、早瀬集落の情報紙「夢ステージ早瀬」と「村づくり情報」を紹介する。

(1). 1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》

(2). 1997年12月20日発行:村づくり情報18の「動かなければ出会えない」から抜粋
《なんと「1,892人!」・・・この数字は、早瀬の村づくりのために動いた延べ人数です。その説明をしますと、平成8年8月29日に村の総寄合から委任された「ゼロイチ村おこし運動」について第1回検討委員会に参加した人から、平成9年12月14日の「ふるさと便り」の発送事務をした人数です。内訳は、役員会231人、委員会活動や部会活動・イベントなどに参加した人が1,093人、ボランティア活動に参加した人が568人となっています。この数字は事務局が記録している「活動記録票」から拾い出したので、かなり正確なものです。なお、早瀬集落以外から参加した人も数えられています。「在所(住むところ)に幸せを求めて喜びを創り出す」のがもっとも堅実な生き方です。メーテルリンクの「青い鳥」のお話でも、チルチルとミチルのきょうだいは、方々を探し回った挙句、自分の家に「幸せの青い鳥」を見つけて「ハッピーエンド」でした。私たちの村を幸せな村にしょう・・・これが村づくりの活動です。それにしてもたくさんの人が動いたものですね。》

(3). 次のステップに向けて、地域計画づくりにおける「地域経営」の概念
過疎化への起爆装置は、「集落振興協議会」と「地区振興協議会」の設立にあると考えた。地域の起死回生策として社会的紐帯の機能を模索していた。そして、CCPTの活動から、住民が地域を主体的に経営する概念を培った。そこで地域計画として、①は、住民自らの一歩による「住民自治」である。②は、地域資源を活かす「地域経営」である。③は、意図的に情報発信を行う「交流情報」の三本を、地域計画の要諦として提案した。つまり、1989年の第1回の杉下村塾の開講テーマに「地域経営」を掲げ、地域の課題を希求すれば必ず起死回生策が起こると期待していた。そして、いよいよゼロイチ運動によって地域理念(アイデンティティ)が復興する。

地域には、例えば農業経営はJAが、山林経営は森林組合が、商店経営は商工会が、企業経営は銀行によって経済循環している。地域福祉は社会福祉協議会、運動部門は体育協会、芸術文化部門は公民館である。財産区議会は山林等の管理である。すべてに社会形成されていると思っていた。ところが地域を主体的に見守っているのは一体誰なのか、町会議員なのか、役場職員かと、地域の主体を誰が持っているのか、地域の主体者(主宰者)は誰かととことん考えてみると、それは住民ではないかと思い至った。

住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごとで価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営の視点で捉えられてきた。地域の「運営」と地域の「経営」では異なる。例えば、住民が主体を持ち地域の経営者として仮定すれば、当然、地域の資源の価値を問う運動が必要である。つまり、地域経営とは地域に内在するあらゆる資源であるヒト、モノ、コト、技術、文化、社会システム等の価値を引き出す概念である。地域経営の観点を持つことによって、人財や資源や経済が循環し持続可能な社会が創造されると考えた。実験的であったが、ゼロイチ運動の計画づくりの必須要件として、「住民自治」「地域経営」「交流情報」を設定した。

3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた

ゼロイチ運動は1997年4月に7集落が、「〇〇集落振興協議会を智頭町の認定法人とする」(みなし法人)と指定を受けてスタートし、2011年まで(14年間)役場の助成が行われた。本運動を導入した集落は88集落の内16集落である。その内1集落は途中でリタイアしたが、15集落は堰を切ったように事業を展開し、報道発信を行った。集落ではゼロイチ運動をどのように受け取っていたのか、中原集落の中澤皓次氏が長老支配から脱却した様子を語っている。

(1). 中原集落の場合
《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》(『創発的営み』第2章6)

《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》(『創発的営み』第2章7)

 そして、中原集落では財産(山林)の配分ルールが変更されていた、長老支配を脱却した証拠である。ゼロイチ運動が集落運営に大きく影響していた。水戸黄門の印籠をつくる戦略は的を射ていた。ヒアリングによって中澤氏の証言に驚嘆した。まさに革命であった。

《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにしても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けとなった。》(『創発的営み』第2章5)

《親水公園のキャンプ場の目玉事業であるログハウス建築の第1期工事は、2005年秋から2007年7月で、間伐材150本を山から切り出し、手造りで建てた。作業人員は延べ460人、日数は28日間にも及んだ。この作業は危険を伴う重労働であったので印象深く思い出すことができる。何に一番腐心したかと言えば、怪我人を出さないことであった。そのため、酒を飲んでいる者、トロトロしている者、足手まといになる者は作業をさせなかった。怪我をしないように、場合によっては「もう帰れ」と厳しく言った。もし怪我人がでれば、「それみろ、怪我人がでた」と言われ事業がストップする。怪我人を出さないように細心の注意を払い、緊張感をもってやった。この事業は、この作業に携わった人々の汗と涙と、集落への思いと、誇りの結晶だと思っている。殆どの人は憎まれないようにやっているが、特に危険を伴う作業はいろんなことを想定して、自分が憎まれっ子を買って出た。一人の怪我人も出さなかった。ログハウスを建築するころから集落の女性の協力が得られ始めた。間伐材を切り出して中原神社の前まで運び、そこで一度組み立ててまた解体し、横瀬の谷の親水公園まで運んでいた。昼食はそれぞれ自宅に帰って食べていたが、その内、村の女性の有志は一生懸命に頑張っている姿を見て、自分たちができることをやろうと、カレーライスや丼物などを作ってくれた。自然発生的に始まった昼食の賄いの支援は、中原集落のゼロイチ運動の求心力を高め、結果的に集落のまとまりを一段と強くしていくことに一役買った。ログハウス建築の総工費は、175万円だった。内訳は寄付金96人で73万円、緑化推進委員会から10万円、キャンプ場収入5万円、自己財源87万円で、竣工式は2007年7月21日。初夏のまぶしいばかりの太陽の下、親水公園に歓声が上がった。》(『創発的営み』第2章7)

(2). 早瀬集落の場合
〇2012年8月発行:「ゼロイチ運動早瀬ものがたり」から抜粋
村おこし運動の年譜「10年間における人の動きのトータル」
《役員会114回延べ1,162名、部会27回延べ204名、委員会57回延べ609名、ボランティア延べ8,750名の参加者を数える。10年間のゼロイチ運動期間中には、外部からの視察79件、講演11回、大学生の卒業論文への資料提供など、わが村を説明する機会があった。夢ステージを語るに当たっては、計画した目標値を素材にすることが多く、実態との差を意識させられた。その意味において却ってこちらが足らざるを反省したり、新しい意欲(勇気)を湧かす機会としたと思う。》とあった。

〇2006年11月から12月:役員会によるゼロイチ運動総括[ゼロイチ村おこしで良かったこと]
➀ 理念として
・アンケートによる計画の策定は村始まって以来の事であった。
・ハードづくりに力を結集することで村のシンボルができ、村の意欲が揚がった。そして、ハードはソフトづくりから始まることがわかった。
・村おこしは経済面で計り知れない価値がある。
・ゼロイチ運動は終わるが、その過程で始まっているものも数多い。
② 自治会活動として
・「太陽の館(公民館)」の建築省エネ・自然エネルギー利用であり、若い人の力である。
・「東屋・竹炭窯・焼肉ハウス・いきいきサロン」の建設を成功させた。
・シンボル的なもの(交民の館・バス停・東屋など)に係わって沢山の動きが出てきた。
・自治会を発足させることで、土地の名義変更や税金対策ができた。
・葬儀の運営が合理化できた。・歳を忘れて皆よく頑張った。
・アンケートを半数以上の者が書いてくれたこと自体が素晴らしい。自分の村だからできた。
・盆典にたくさんの若い人が参加してくれるようになった。
・各土居が共同して動くことができるようになった。
・青年層の活動(公民館活動・盆典・消防団など)が盛んになった。
・村の歴史(古文書の保管で過去、村づくり情報で現在)を記録として残せた。
・ふるさと便り・村づくり情報は村の歴史となり、素晴らしい記録となった。評価すべきことだ。
・村づくり情報は「時の証言者」だ。後世にも大層な価値を持つことになる。
③ 交流活動について
・集落放送や村づくり情報などによって、情報公開ができた。
・人々の和(絆)が広がった。
・大阪自然教室と集落内で交流できるようになり、また収入も確保することができた。ゼロイチだからできた。
・外からの視察で、村の足りないところを意識することができ「自分を知る」ことに繋がった。
④ 集落運営について
・「太陽の館」の掃除が皆の協力により順調に行われるようになった。
・竹炭・味噌・給食等、自立したグループの結成と活動が良くできた。
➄ 組織運営について
・会長が辞めた後、事務局に入る人事の流れは良かった。
・ゼロイチ・うるおい事業の会計が詳細に記帳されており、担当された方に感謝したい。

〇2006年末:「活性化策5項目」を総寄合に提案
役員会のアンケート集約から、早瀬集落のゼロイチ運動10年を整理し、5項目を提案した。
①村の運営を早瀬自治会で行う。②自治会規約を制定する。③地方自治法260条の2項の地縁団体とする。④公民館(太陽の館)と、東屋(除雪機格納庫)の土地を法人登記する。⑤自治会長は自主的に立候補する。5項目が承認され翌1月から実行された。

〇2007年2月発行:「ふるさと情報・ふるさとだより」第40号から
「早瀬のゼロイチ運動に寄せて」から抜粋 杉万俊夫(当時:京都大学総合人間学部教授)
《・・・ゼロイチ運動の成果として新しい公民館(太陽の館)が誕生し、その「太陽の館」を管理するために自治会(地方自治法260条による法人)が結成された。そして、昨年末、その自治会に、ゼロイチ運動の組織である集落振興協議会のみならず、旧来からの寄り合いも包摂されることになりました。これら一連の動きは、昔からの伝統的な集落運営とは明らかに違う「もう一つの道」を早瀬集落が生み出したことを示しています。もちろん「もう一つの道」をいかなる道にすべきなのか、それを完全に見通せる人間など、この世には存在しません。それこそ早瀬の住民自身が試行錯誤を重ねながら、探し当てていくべき課題でしょう。「早瀬はこのままではだめだ。自分たちで動かんといかん」—―10年間のゼロイチ運動は、今は亡き老人の言葉を10年前よりも高い次元で受け止めさせてくれたように思います。》

〇2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代早瀬集落振興協議会長 長石昭太郎氏

《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》

早瀬集落の記録の編集は、全て初代会長の長石昭太郎氏による。「早瀬村づくり情報」は計第265号(第平成9年2月7日から平成19年3月26日まで)と、「早瀬自治会だより」は計第135号(平成19年4月23日から平成30年4月23日まで)が発刊され、更に冊子として編集された。50世帯の小さな集落の村おこし物語は、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈された。これらの記録を地域経営で評価すればいくらの値になるか、とんでもない価値である。長石会長曰く、「わしの70代はゼロイチ運動だった。」と語られた。

(3). 二つの集落から見えたこと
地域への思いが、地域理念(アイデンティティ)を復興させた。過疎問題が論議されるが、どうしても過疎化や人口減少に関心が持たれがちである。しかし、いくら過疎化・高齢化・少子化を負の面から論じても意味はない。何歳になろうとも常に目標を掲げて挑戦することである。杉万先生は早瀬集落で80歳の古老との出会いを紹介され、目標を持って挑戦することが大切であると説かれた。また、中原集落では財産の配分ルールが変更されていた。その分母となる定住期間を、意欲論で昇格させる方法を集落(長老たち)は認め、まさに革新を起こした。一つひとつ事業を起こすことによって人々が引き寄せられ、集合流が生まれ、集落がコンセンサスを得ていく、そのプロセスが繰り返えされた。ゼロイチ運動という過疎化の起爆装置は、住民が発信した創発規範に互いが共振し、集落丸ごとで覚醒化、葛藤化、攪拌化を体験した。まさにエマージング(創発)が起こったと言える。

4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ

2002年から2004年まで、合併か単独かと揺れた。智頭町の単独合併論争は寺谷元町長の信任闘争であった。町会議員の一人ひとりに自治権が委ねられた。町は異様な空気に包まれた。ここに合併に関する分析論文がある。(『アクションリサーチにおける質的心理学の方法によるセンスメーキング―町村合併で翻弄された過疎地活性化運動の再定位』―東村知子【心理学評論2006.Vol.49,No.3,530-545から】)

《第一の町長批判については、合併論者であった町長が、住民に何の説明もなく突然単独を表明したこと、すなわち合併問題が一部の人間だけで決められていることを徹底的に非難する。そしてその訴えを、第1ラウンドと同様住民の声を通して行う。》

《「住民のこえ、声、こえ、声・・・」あれだけ「合併、合併」と大合唱していたのに、急に「単独」と訳が分からん。・・・合併の相手が鳥取市だろうと八頭郡であろうと住民は一緒だ。「八頭郡、八頭郡」と言っていたのは町長、その時から住民の意見はもう入っていない。》

《・・・「我々に残された選択肢は、『より大きな不幸をとるのか、より小さな不幸をとるのか』しかないのです。合併は、より小さな不幸を選択するものであります」と述べる。このように合併派は、合併がいいとは決して語らず、自分たちは好んで選ぶわけではないこと、また、合併は自分たちのためではなく「子や孫のため」の苦渋の選択であることを強調する。一方、単独派は「お金で私たちの街を放棄したくありません」(議員の声)と主張し、財政問題を強調する合併派に対抗して、それが重要問題ではないことを訴える。ただし、チラシの大半は合併への反論となっている。単独派「創る会(語る会)」は、合併派「生かす会」の代表であるY氏にチラシ上で公開質問状を出し、名指しで批判する。特に、「合併のメリットを示さず、合併協議会にみちびくのは邪道」、「協議会で合併の是非を決めるかのような署名集めは方便」のように、上で見た合併の「手段」を攻撃する。・・・》

合併協議会の設置について、「賛成か」、「反対か」、を問うた。住民投票の結果は賛成3,134票で反対は3,027票とわずか「賛成」が107票上回った。合併の是非を問う住民投票では「合併する」が3,143票、「合併しない」が2,953票と「合併する」が190票上回った。そして、2004年5月に寺谷町長は辞職した。鳥取県東部10市町村合併協定調印式で調印されたが、町議会は合併関連議案を2度否決する。2004年6月20日に町長選挙で合併派の織田洋氏が当選した。ところが、町議会は単独派が多数を占め、再び合併関連議案を7月8日に否決して単独となった。これで合併単独論争は終結した。2008年6月、再選に向けて寺谷誠一郎氏が第一声を上げた。傍から見ていると進も地獄、引くも地獄、絶体絶命の覚悟を感じた。論文-6、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)に当時の状況が記述されている。

《・・・選挙運動の期間から、「もう俺についてこいという時代は終わった。これからは、あなたたち住民が主役となり、住民と行政が一体となって町の未来を切り開くしかない」と繰り返し訴え、百人委員会の実現を公約に掲げていた。寺谷町長が就任してすぐに、百人委員会の募集が始まった。一般公募である。寺谷町長に未来を託した住民が次々と応募してきた。予想を大きく上回る142名の応募があったが、これは住民の町政に対する危機感と希望が入り交じった結果であろう。また「優れた企画に対して町が予算を付けます」というのは全国的に珍しい試みであり、インセンティブとなった。》

いよいよ首長の姿勢が問われた。創発規範がCCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へと伝搬した。智頭町議会の単独決議によって町は水を打ったように静かになった。それから4年、満を持して「あなたたち住民が主役」と第一声が聞こえてきた。

5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)

2010年に、論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)が公表された。杉万先生はゼロイチ運動の追跡調査を実施し、運動に参加する15集落の全住民を対象に、集落振興協議会の発足初期の2000年と、9~10年目に2回のアンケート調査を実施し、10年間のゼロイチ運動が分析・解析されている。

《10年間という期間設定は重要だったし、10年間という区切りは適切でもあったようだ。この期間設定がなかったら、あれほどのエネルギーを動員することなど不可能だっただろう。われわれ筆者は、ゼロイチ運動という舞台が設営されたことによって多くの役者が登場するのを目の当たりにしてきた。よく人材不足を嘆く声を聞くが、「よい舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」というのが、われわれの実感である。》

運動期間を10年間に区切ったことによって爆発的なエネルギーとなり、集落は創発規範を発信した。もしも、「事業」としていたら単年度で終わっていただろう。期間を10年間としたことによって大きな成果があった。つまり、集落に地域計画を通じて主体が生まれ、人材が人財として育っていた。このことは集落に限らず他の組織づくりにも応用できる。つまり、旧村単位の地区振興協議会の設立に向けて試案となった。論文-3の「要約」に成果が分析されている。

《その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使い分けていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動等によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言力が増したことが見出された。》

これこそゼロイチ運動の成果と、論文-3の「3.考察」に示唆があった。

《別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

ゼロイチ運動を10年間継続したからこそ確認できた。つまり、集落に新しい自己実現の場を得たことは人生の価値である。想定を超えた成果となった。そして、2006年末には文章化された早瀬集落振興協議会の運動総括(前記3. 「ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた」)と、合わせて、杉万先生からアンケート調査結果の途中説明を受けた。そこから、本命の地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。すべての価値が手元にあった。

地区振興協議会の構想は、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間とし、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点とする。⑧運営要領等の仕組みづくりを委ねる。と要点を整理した。

6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか

論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)、1(3)b「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」から要点を抜粋した。

➀ 地域経営-P44
《地域を経営の視点で見直すと、地域には結構な資源を見直すことができる。ある集落では、かつて集落で栽培されていたギボシという山菜の栽培を復活させた。「20-40歳代の女性を中心に」ということにはなったものの、いかんせん、ギボシ栽培などやったことがない。そこに登場したのが、70歳以上の女性たち。昔とった杵柄(きねづか)が発揮されるとともに、それまであまり接点がなかった高齢女性と若年女性の間に交流が始まり、高齢女性もゼロイチ運動に参加しだした。この集落以外でも、竹炭、餅、地酒など、それぞれの集落の資源を活かした特産品づくりが行われた。》

《集落で古くから行われてきた伝統行事も、集落の貴重な資源になる。ある集落では、集落の寺にある地蔵(何か考え込んでいる風情の地蔵)の祭り「考え地蔵祭り」を地域経営の起爆剤に選んだ。集落内部の祭りを集落外にも開放し、積極的に集落外・町外からの参加を呼びかけた。今では、よその集落も出店を出すなど、当初は考えられなかった人数が祭りを訪れるようになった。祭りの最後には、盛大な打ち上げ花火も行われるようになった。》

《その葬儀のやり方に対して、ゼロイチ運動が問題提起を行った。葬儀のやり方について、真剣な議論がなされ、何をどう守っていくか、どこをどう簡素化するかが決定された。用意する小道具も、一つ一つについて図解入りで、簡素化の詳細が定められた。また、参列者に振舞う料理についても、喪主が気兼ねをしなくてよいように、品目と量の目安が定められた。こうして、数ある伝統の中でも、まさにアンタッチャブルと信じられてきた葬儀さえ、ゼロイチ運動によって再創造された。再創造されることで、葬儀屋に依存することなく、「集落住民の手によって葬る」という伝統が守られたのだ。》

② 交流交流情報-P45
《集落外との交流には、積極的に情報発信していくことが必要だ。ある集落では、集落のゼロイチ運動をインターネットで発信するために、ホームページを作ろうということになった(当時ホームページ作成は一般のパソコンユーザに普及していなかった)。そこで一躍中心になったのが、電気関係の会社に勤めている一人の人物だった。その人物は、集落にもゼロイチ運動にも、さしたる関心をもっていなかった。しかし、ホームページ作りという舞台が用意され、その舞台の上で自らの持ち味を活かしたすばらしいパフォーマンスを発揮した。その人物は、後に集落振興協議会の会長にもなっている。》

《集落を越えた交流は、集落間の協同にもつながった。ある地区(旧村の一つ)では、4つの集落がゼロイチ運動に参加していた。ゼロイチ運動を開始して数年が経過した頃から、これら4集落が互いに連携し、ネットワーク組織を形成した。互いに集落のイベントを手伝い合う、毎月一度、隣接する岡山県との県境にある峠のドライブインで各集落の特産品を持ち寄って朝市を開催するなど、ネットワークの強みを遺憾なく発揮した。またそれによって、高齢者が多い集落は、他の集落の中堅層のサポートを得ることができる、各集落独自の持ち味を組み合わせてイベントを開催できるといったメリットが生まれ、単一の集落では見られなかった相乗効果が発揮された。自らの集落を考える上で、他の地域の取り組みは参考になる。ほとんどの集落では、おもしろい取り組みを行っている地域を訪問し、自らの糧とする視察旅行が行われた。また、都市部の住民との交流、近郊都市の大学生との交流、あるいは、外国人との交流も行われた。》

③ 住民自治-P46
《当初のリーダーグループの範囲を超えて(リーダーとなりうる)人材の裾野が広がるか否かは、運動開始から数年間の大きな課題であった。リーダーは集落に登場するのでなく、集落が育むものである。大きくても数10世帯という集落は、いわば固定メンツの世界である。その固定メンツの中から一人でもリーダー候補者を育むことができるかどうかは、運動の推移を大きく左右する。まず、ゼロイチ運動以前から集落活性化を模索していた団塊世代グループは、同運動を追い風にしつつ、リーダーとして成長していった。ここ数年、それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

《一方、従来からの男性優位の集落運営に対して、ゼロイチ運動によって女性たちも集落の活動に参加し始めた。その中からは、女性グループで行う活動のリーダーが生まれ、彼女たちの中からは、男性とともにゼロイチ運動のリーダー的役割を担う人も登場した。・・・2つの集落では、ゼロイチ運動が開始されてほどなく、婦人会が消滅した。婦人会は、全国組織として、都道府県単位、市町村単位に設けられ、集落婦人会はその末端に位置している。その運営は、基本的に、上位機関からのトップダウンによって行われ、イベントごとに動員がかけられる。上からの動員には辟易させられつつも、やはり女性が活動できる数少ない場として、婦人会活動は継続してきた。・・・少なくとも、脱退を考えるなど皆無であった。そこにゼロイチ運動。女性も、男性と平等に、しかも個人の資格でやりたいことを仲間と考え、実行に移せる。そこには、上位機関から動員されて、たまたま時間をともにする活動では得られないおもしろさがある。もちろん、意見が対立する場合もあるが、それでも一方的な動員による活動とは比べようのない魅力がある。なぜ、婦人会などに加入し続けねばならないのか・・・そんな疑問が生じても無理からぬことであった。ゼロイチ運動で育まれた積極性は、長いものに巻かれるのではなく、「いやなものはいや」という意思表明をも可能にした。》

《ゼロイチ運動では、「既存の伝統的集落組織を捨てて、ゼロイチ運動組織(集落振興協議会)に移行する」という発想ではなく、「あえて新旧両方のわらじを同時に掃いてもらう」という戦略が取られている。すなわち、新システムの集落振興協議会は、決して伝統的システムを排斥することなく、伝統的組織(公民館、婦人会、青年団、老人クラブなど)をも包摂する形をとっている。住民が、新旧両方のわらじを経験した上で、自らがはきたいわらじを選んでもらう(場合によっては、新旧両方わらじの経験から第三のわらじを作ってもらう)という意図がこめられていた。》

《ある集落では、ゼロイチ運動によって、寄り合いに劇的な変化が生じた。その集落では、ゼロイチ運動への取り組みが評価され、県の補助事業をうけることができた。その補助事業によってボロボロだった公民館を新築し、ソーラーシステム完備の公民館を建築することができた。この新しい公民館を維持管理していくために、地方自治法第260条(地縁団体による集会施設等の不動産保有に関する権利と義務を規定した法律)に基づく自治会が結成された。そして、ゼロイチ運動10年目を迎えた2006年、同集落は、集落振興協議会と寄り合いを合体させ、自治会に一本化することを決定した。ゼロイチ運動の成果である公民館を維持管理するために設立された自治会が、集落を代表する組織となったことは、ゼロイチ運動が寄り合いを換骨奪胎し、自治会として発展してきたことを物語っている。》

《1997年、ゼロイチ運動がスタートして以来、同運動に参加する各集落で住民主導の姿勢が貫かれた。確かに、町役場には、ゼロイチ運動をサポートする部署が設けられ、1-2名の職員が配置されたが、そのサポートが軽微の域を出ることはなかった。》

その通り、ゼロイチ運動の価値が真に理解されているとは思えなかった。しかし、毎年3月、「ゼロイチ運動活動発表会」で、住民が発表する内容に圧倒された。ゼロイチ運動はきっと成果があると確信していた。仮にトップが代わろうともゼロイチ運動を止めることはできない。必ず人財は生まれる。その通りとなった。

《それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

2004年、智頭町は議会の単独決議によって死守された。ゼロイチ運動の企画前の集落の状況を一言で言うと、集落は自閉していた。住民は無関心で他力本願、集落運営は無計画であった。共有する地域に住んでいながら、個々ばらばらである。そして、旧態依然の規範に縛られていた。これらの現状を打破するため、自ら立てた計画に基づき実行する集落活性化運動を考案したのである。つまり、ゼロイチ運動は無責任な集落の運営を、責任ある集落経営に切り換える運動である。住民はゼロイチ運動の10年間、集落という舞台で知恵と行動力を発揮し創発規範が生まれた。そして、社会システム(仕組み)が集落に奇跡を起こした。

杉万論文は、ゼロイチ運動の発足初期と、9-10年目に実施された2回のアンケート調査によって考察されている。この論文-3から集落活性化の方策が読み取れる。ゼロイチ運動の最大の成果として、2-3割の人が、新しい自己実現の場を得た。また、少子高齢化が進む集落にあって明るい将来展望となったこと、女性の発言力が増したことが見出された、とある。住民が自己実現や明るい将来展望を持ったことが、運動の特色として上げられる。

7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」

ゼロイチ運動の本命は、地区振興協議会の設立にある。2007年秋、山郷地区の住民に打診して、事前の打ち合わせ会を持った。ところがいくら説明しても、有力者からできない理由の発言があった。住民感情の中に単独合併論争が根強く残っていた。それらを乗り越える企画がいる。年末、大呂企画課長の尽力によって、企画書と規約の二点が町議会に諮られ、議決された。企画書の「2運動の意義(次代の要請)」に、「偉大な創造」が提案されていた。

《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》

「偉大な創造」の一文は杉万先生が加筆された。そして、規約案の第1条(目的)に「ゼロに帰するか、イチを守るか」は、岡田先生の加筆による。住民に決起を投げかけた。

《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》

地区振興協議会の企画書と規約で、領域自治システムの発足が宣言された。企画書の策定に当たった大呂企画課長は、役場内の企画書の調整と議会対策を担った。悲壮な決意が表情に表れていた。私は「貴君の将来のポジションづくりだ。」と励ました。1989年にスイス山岳地調査から満18年が経っていた。おそらく、地区振興協議会の設立は、過疎化に向けて拠り所となるだろう。草莽決起の檄文である。企画書と規約で住民に覚悟を促した。

2008年4月、地区振興協議会(住民の自主選択)は、まず、事前対話を図った山形地区と山郷地区で設立された。次に2011年に那岐地区が、2012年に富沢地区と土師地区に設立され、町内6地区の内5地区で設立された。どの地区もよちよち歩きである。しかし、確実に一歩を踏み出した。そして、5年後の2013年12月に、論文-5、「旧村を住民自治の舞台にー鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例」伊村優里・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)の「5.考察」に、社会システム(仕組み)づくりの企図が解析されている。

《・・・「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。》

地区の人々に社会システム(仕組み)の運営要領等を委ねたことは、賢明な判断であった。住民が主体的に地区振興協議会を立ち上げ、地域理念(アイデンティティ)とウェルビーイングを手繰り寄せた。社会システム(仕組み)が人々を「偉大な創造」へと導いた。

8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み

地域活性化は、意欲論や感情論で持続性や継続性は起こらない。ましてや経済オンリーの価値観で覚醒化などない。地域の持続性を考え社会システム(仕組み)創造に、地域づくりを特化した。ところが、飯が食えん者が余分なことをするな、何にもならんことをするなと揶揄され続けた。私から言えば大きな家に住み、美味しい物を食べ、何時になれば豊かさをつかむのかと聞きたい。つまり、地域への無関心はだんだんと地域の誇りや地域理念(アイデンティティ)を欠落させた。その誘因は実は一人ひとりの生き方にあるとみた。アンチ経済論である。

1997年に集落振興協議会を設立し、次に2008年に地区振興協議会が設立された。これら住民自治システムに影響を受け2008年には行政主導により、住民の発想を活かす「百人委員会」が起動(委員は自主的参加)した。百人委員会では住民の企画提案が通れば、役場職員と協働で事業が実施され、「智頭町もりのようちえん」など数多くの施策が生まれた。

(1). 集落振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)
企画書の「3 各振興協議会のメリット」
➀智頭町の認定法人~智頭町役場と村おこし事業の窓口を務める。
②活動経費の支援~活動の2年間は地区100万円、集落50万円のソフト事業費(運営費)を助成する。
③リーダーの民主的選出~住民の総意によって3年間の任期でリーダーを選出する。
④村おこしのための運営団体の組成~各種団体を包含した組織とする。
➄アドバイザーの派遣~村おこしのためのアドバイザーと町職員を派遣する。

(2). 地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第5章)
企画書の「3 事業概要」
➀実施内容:地区(小学校区)単位で、ゼロイチ運動を推進する住民組織として「地区振興協議会」を設置し、自ら描いた「地区活性化計画」に基づき行政と協働しながら、住民自治や地域経営力向上に資する事業を幅広く戦略的に実施する。
②事業主体:地区振興協議会
③助成期間:10ヶ年(初年度に「地区活性化計画」を策定・認定する。) なお、計画は3年ごとに見直しを行う。

(3). 智頭町百人委員会
論文-6要約、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)

地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。
➀百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。
②百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政策の実行・実現にも当たる。

9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置

地域を地理的な視点で見ると、旧小学校区単位に地区振興協議会を設立する意図が分かる。智頭町は、戦前から終戦直後の「昭和の大合併」(1953-61年)で、当時の6つの村が合併して形成された。それら旧村は、現在、地区と呼ばれ、維持されている。渓谷の川筋添いに集落が点在し、一つの地区は、10から25の集落がまとまり、風景が共有できる空間である。旧村に小学校が置かれていたが、2012年1校(智頭地区)に統合された。

智頭町は93%が山林である。鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の最上流部の「山郷地区」は、岡山県の西粟倉村に隣接している。支流の北股川に「山形地区」があり、鳥取県八頭町と若桜町に隣接している。千代川は町の中心部で合流し「智頭地区」を形成するが、南東から土師川が注ぎ、「土師地区」とその上流部の「那岐地区」は、岡山県の奈義町に隣接している。また、西側には新見川が流れ込み、「富沢地区」が位置し、隣接するのは岡山県の津山市である。まさに杉源境である。地区によって、隣接する県境地域の言葉や生活習慣に影響を受け、それぞれの地区が特色を持っている。私達が小学生のころは年に一度、六部会という一堂に会する運動会が開催されていた。地区振興協議会の企画時点(2007年)に、六部会を復興させようと話し合った。

地区住民は、企画書の「偉大な創造」「創造的昔帰り」と、規約案の「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて・・・の檄文をどう受け取ったのか、草莽決起を期待した。2012年までに5地区で地区振興協議会が設立され、創発拠点を獲得した。地域計画の柱とした住民自治、地域経営、交流情報は、過疎化の起爆材となった。

論文、「旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ」(集団力学研究所、 2021年 第38巻 pp.20-34)樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部, 准教授)

《要約~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。

本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》

10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業

特に2015年から智頭中学校生と智頭農林高校生が、2017年には鳥取大学が参画している。
【平成21年度】(2009)
〇智頭町に森のようちえんを作ろう!~ 森のようちえんを運営する。
〇智頭米を活かした国際貢献~国際交流を通して、子どもの奉仕の心を育み、道徳心の向上を図る。
〇智頭農林業活性化プロジェクト~特産物の発掘、間伐材の有効利用、森林セラピーの推進を図るための先進地視察を行う。
【22年度】(2010)
〇郷土由縁の作家「米原万里展」の開催~智頭町由縁の作家故米原万里氏を町民に広く知ってもらう機会として展示会等を開催する。
【23年度】(2011)
〇木の宿場「第2段階」への林地残材活用のための先進地視察~ステップアップに向けた調査検討する。
【25年度】(2013)
〇智頭宿ハイカラ・プロジェクト~智頭宿ハイカラ市を開催し、レトロカーを集め誘客促進を図った。
【26年度】(2014)
〇自分を生きる学校の設立!~まるたんぼう付属小学校~智頭町の資源を活用した特色ある週末型フリースクールの運営をする。
【27年度】(2015)
〇Wonderful People ☆in Chizu!!!~智頭町の達人100人を図鑑で紹介する。伝統継承や智頭町の魅力UPを狙う。(智頭中学校)
〇智頭宿の魅力アップ-格子製作及び藍染のれん製作-智頭町の職人の技を継承し、見直すことで魅力アップにつなげる。(智頭農林高校)
〇「ちのりんショップ」の取組から見えてきたもの、平成26年度に開店した「ちのりんショップ」の拡大を図る~開店1時間後くらいからオープンカフェを実施し、住民の憩いの場、高校生との会話の場を設け、商店街に人を呼び込みたい。商店街各店舗の「わが店の自慢の逸品」を各店舗と高校生とが共同で見いだし、ちのりんショップで紹介する。商店街の人の往来を活発にしたい。(智頭農林高校)
【28年度】(2016)
〇「杉のまち智頭」独自の薪ストーブ等購入助成制度の導入~智頭町の山をきれいにする重要な3点 ①林業環境整備、残材、担い手育成、②の残材・間伐流通について、搬出された材を「薪」として町内に流通させることにより、智頭材の地産池消と環境貢献に寄与するため、薪ストーブの導入に補助金継続する。
〇学びにも選択肢を!「新しい学校」を智頭町に定着させたい!サドベリースクールの支援。
【29年度】(2017)
〇智頭宿まちかどプラットフォーム構想~空き家のリノベーションとIT技術の活用~智頭宿全体を「生きた博物館」として環境整備するために、平野家の利活用を検討する。鳥取大学建築環境工学研究室のメンバーを中心に、それをサポートする職能者(鳥取大学教職員・建築士会等)で「ForestValley(フォレスト・バレー:FV)」を設立する。平野家利用に向け、清掃活動WS、もの作りWS(裏庭整備・杉玉作り・風鈴作り・木製看板等)等を開催。Code for Tottoriと協力して「オープンデータ・ハッカソンin智頭宿」を実施する。(鳥取大学)
〇きて・みて・とまって・またきんさい~民泊マラソンを通じて民泊の魅力を伝える。智頭町産の杉板を使用した距離表示、方向指示表示、給水所表示作りをする。マラソンパンフレットに高低差の断面をつけたマップを作る。民泊先にインタビューし、各民泊先の良さをパンフレットにする。中学生もチームを作って参加し大会を盛り上げる。給水所、エイド、ゴール関係では、給水所の増設をし、ゴールで消化の早い食べものをふるまう。(智頭中学校)
【30年度】(2018)
〇智頭町百人委員会『10年のキセキ』~10周年記念広報誌として、これまでの各部会の活動の軌跡をまとめあげ、全戸配布、主要公共施設に配置する。上記広報活動を通じて、町民にまちづくりへの関心を高めてもらい、百人委員会活動のPR、新たなまちづくりを実践する。百人委員会活動の存在と事業・活動などをより多くの人に知ってもらい、これまでの支援に対する感謝の意を伝え、これからの活動への参加のきっかけ・機会を作る。
〇“智頭は今日も元気です”計画[CKGK](シーケージーケー)~智頭オリジナルカレンダーを作成し、県内外への配布活動を通じて町の魅力を伝え、活性化を図る。カレンダーの上半分のデザイン(12ヶ月分)については、写真や絵、デザイン、文字などを組み合わせて作成する。毎月のカレンダー部分の下に智頭町HPなどのアドレスやQRコード、検索を誘うような名称を記載。 (智頭中学校)
【令和元年度】(2019)
〇「智頭歴史トランプ」を学校教育に!~子供向けの智頭の歴史を知るツールとして、遊ぶだけで分かる「智頭歴史トランプ」を作成し、智頭の小中学校を始めとする教育関連施設に配布し、智頭の歴史を知ってもらい、智頭に愛着を持ってもらう。小・中・学童等に80セット配布する。
〇”新智頭図書館プロジェクト「智頭町にこんな図書館があったらいいな」~新図書館開館に合わせ、智頭らしさを滲ませた杉しおり3,000枚を製作し、ノベルティとして配布する。(智頭中学校)
【2年度】(2020)
〇森のやっかいものを地域の資源に!!~狩猟者が捕獲したシカを解体施設に搬入、1頭あたり1,000円の謝礼を狩猟者に支払う。消費拡大に向けたPR、捕獲頭数の増加、革製品の商品化、獣肉解体処理施設を整備する。
【3年度】(2021)
〇智頭町宿まちかどプラットフォーム構想~アプリを使った「智頭宿魅力発信マップ」作り~
7事業実施、3,910千円

11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

私にとって地域は唯一無二である。時代のうねりの中で過疎化、高齢化、少子化が進行している。杉万先生は論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)の「考察」で、地域力のメルクマール(指標)について記述されている。

《そもそも2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じ、今世紀末には人口はほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繫栄のメルクマール、人口減少の衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとするべきなのか、ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

何を持って地域力のメルクマール(指標)とすべきか、提案されている。実はこの提案を考え紐解くヒントが身近にある。毎週日曜日、我が家で楽しみにしている番組がある。朝日放送テレビの「日本全国大捜索!ポツンの数だけドラマがある。」の『ポツンと一軒家』である。

《日本各地の人里離れた場所に、なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには、どんな人物が、どんな理由で暮らしているのか!?衛星写真だけを手がかりに、その地へと赴き、地元の方々からの情報を元に、一軒家の実態を徹底調査しながら、人里離れた場所にいる人物の人生にも迫っていく。1枚の衛星写真から、どのような人がどんな暮らしをしているのかに思いを巡らせるのは、MCの所ジョージとパネラーの林修。》

人里離れた場所になぜだかポツンと存在する一軒家がある。見ていると過去には数軒あったが、その後に燐家は山を下りて、ほとんど最初から一軒家ではない。ポツンと一軒家に住んで、山峡の地にあっても、生き生きと暮らし、豊かな人生が送られている。新しいメルクマール(指標)はポツンと一軒家にあるのではないか。どんな地域活性化論よりも説得力がある。それでは、地域で生き生きと豊かな人生とするためには、創発的な舞台がいる。それが提案する社会システム(仕組み)の創造である。1984年に一歩を起こし、身に着いた知識がある。持続可能な地域づくりに向けて6つの戦略に整理した。

(1) 企画力
企画力は、模造紙会議から「四面会議システム」(『ギブ&ギブ』第1章10、2章6)を考案した。企画は人々の知恵を集めることにあり、事業計画を立てる方法を工夫した。壁面に模造紙を張って半円形に座り、ペンも資料も持たない、前頭葉を上に向け、ブレーンストーミングで思いついたことを発言してもらい、模造紙に殴り書きした。1990年に智頭町出身大学生との交流事業で、参画型集団企画技法に体系化を考え、岡田先生の助言を得て四つの部門(総合管理・広報情報・人的支援・物的支援)に整理し、ディベートを取り入れ策定ステップを示し、四面会議システムを考案した。誰でも使える企画法を目指した。1996年にゼロイチ運動で早瀬集落振興協議会と、2008年に山郷地区振興協議会の計画づくりに活用した。

(2) 物事の本質をつかむ概念の共有
本書ではひまわりシステムと、ゼロイチ運動の概念図等である。事業の目的や趣旨を明確にする必要がある。図式化は主催者の思いを伝える法として有効である。物事の本質を図式化するヒントは、広島市の職場でミニ情報紙を発行しその価値を実感した。CCPTの事業でも積極的に概念図やイラストを活用した。それと耕読会で南方熊楠の因果律に出会い、日常会話で「因果」の語彙で会話するが、因果律として偶然は「曲線」で、必然は「直線」で描かれ、それらの交点が「結縁」である。起点は「因」で終点は「果」と表記されていた。(鶴見和子著『南方熊楠・萃点の思想—未来のパラダイム転換に向けて』)図式表現にこだわった。2015年に『まちづくりに求められる思考のデザイン』(『「地方創生」から「地域経営』へ)概念図81を編集した。

(3) 社会科学による住民意識調査の実施
住民の意識調査を実施した。企画や活動を持続するためには地域の実態を踏まえることが重要である。〇1988年に八河谷集落の住民意識調査を実施した。また、スイス山岳地調査後、〇智頭町の世代別の住民意識調査を1990年から1991年の間に行った。そして、杉万先生は〇1995年秋、CCPTの活動10年を解析し、〇2010年にゼロイチ運動10年を考察された。住民意識調査はCCPTの方向づけと、地域づくりの戦略構築に役立った。

(4) 資金の裏付け
事業の実施には必ず資金がいる。(1)から(3)を踏まえ、必要経費の概算見積もりを洗い出すことができる。スタッフはボランティアに徹することである。しかし、地域経営の視点から人件費の計上によって、事業価値の目安が把握できる。CCPTの活動では、青少年の海外研修派遣事業は住民から寄付を募った。木づくり遊便コンテストは中国郵政局と智頭町商工会(樹齢100年の智頭杉の寄付)の支援で、智頭杉日本の家設計コンテストの事業資金は智頭町役場の助成である。また、杉の木村ログハウス建築事業イベントは、智頭町役場と笹川平和財団にお願いした。「はくと・はるか・関空」シンポジウムは、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村と中国郵政局の協賛によって開催した。杉下村塾は一人3万円の参加費で、CCPT活動実践提言書の発刊は一部3,000円で300部を販売し活動資金に充てた。

ゼロイチ運動の見積もりは、集落版で1年と2年は50万円、3年から10年は200万円の計300万円で、導入予定集落は20集落で6,000千万円とした。地区版は1年と2年は100万円、3年から10年は400万円の計600万円で、導入予定地区は6地区で3,600万円とした。総計9,600万円を見積もった。年500万円の経費である。実質経費は、集落版4,500万円と地区版3,000万円の合計7,500万円であった。行政は単年度予算である。企画者の思いが10年間の補助事業を実現させた。また、集落振興協議会と地区振興協議会への予算付けは、「先渡し方式」を選択した。これは郵便局の民営化前の渡切経費システムを応用した。そして、グランドデザインの策定は、係わる人々と人生を賭けた一大プロジェクトであった。仮にマネジメントすれば、数千万円、数億円が見込まれる。僅か100万円である。

(5) 人材養成
人材養成は、1984年に一歩を起こし1988年にCCPTを設立、青少年の海外研修派遣のため「智頭町活性化基金」を設立して、5年間で34人を支援した。1989年から1998年の10年間に杉下村塾を開講し、1997年にゼロイチ運動による集落振興協議会の15集落の設立は、論文-3で、《よく人材不足を嘆く声を聞くが、「良い舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」》と、人財養成が起こった。そして、2008年に地区振興協議会がスタートし5地区が設立している。人財養成の舞台ができた。合わせて、百人委員会の企画実践が地域づくりの核心にある。つまり、これら社会システム(仕組み)は過疎化における起爆装置である。当初、地域の持続性を考える機関は役場以外にないと吐露したが、住民の地域への思いが、社会システム(仕組み)の地区振興協議会を実現させた。

(6) 広報戦略
広報戦略は地域づくりに大きく影響する。農山村社会では出る杭は打たれる。批判や中傷が村の噂となる。本人が居ないときを狙って無言電話がかかってきた。新聞に掲載されただけで新聞社に抗議の声が届いていた。これには人権意識を持って闘おうと思った。地元紙の報道課長は鳥取県に必要な動きだと応援を約束し、今日まで支援がある。心強かった。こんな声に負けないためにも広報戦略を考える必要がある。どんな小さな事業でも地元紙に投げかけ、その継続発信によって無責任な批判者は口を閉ざす。つまり、徹底的に情報の発信を行い、ルーティンすることだ。負の規範の粉砕である。2011年に京都市へ移住したが、一人の関係人口として―智頭町の集合体の自伝―をささやかに編んでいる。

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む

 1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む

そうしていたところ2010年3月19日、主治医の木村文昭先生(玉野市民病院)から電話があり、翌日、受診を受けることになった。右腎臓癌の告知だった。4月27日、岡山大学病院で摘出術を受け、命を救ってもらった。そして、妻の「京都に行こう!」に触発され、2011年3月末に郵便局を退職し、10月18日に京都市に移住した。

京都市内の新築マンションに入居した。戸数は48戸である。翌年の7月、たまたま管理組合の理事に就任した。京都市内のマンションでは自治会を設立することは難しいと言われていた。そこで、この機会にマンション自治会を立ち上げてみようと思った。きっと、「かやの理論」が応用できる。そこで管理組合の理事会が主体性を持たせるため、理事の任期の半数を一年延長し2年交代を提案した。全理事が賛同して仕組みができた。次に、自治会を提案しようと規約案を協議して、2014年2月14日に臨時総会を開き、自治会が設立された。

《ホップ》2012年~[できることから]
理事会に防火責任者の設置提案する⇒手を上げる。
東階段と歩道の交差の危険性を理事会に提案する。
防火責任者研修受講⇒翌年度消防訓練計画策定する。
植木の剪定の承認あり⇒剪定作業をする。
節電のために照明センサーと時間設定の変更等を調整する。
照明センサーの移設工事、承認される。

《ステップ》2013年7月[社会システムを少しだけ変える]
管理組合の役員任期を2年に変更、半数入れ替える。
臨時総会~2014年2月
変更、2022.7.31.第11期通常総会~管理組合役員1名が自治会役員を兼務する。
駐車スペース1台分を賃貸にすることを決議する。
変更、2022.7.31.第11期通常総会で管理組合と自治会~別々に開催することを決議する。
消防訓練の実施~2014年4月⇒家族状況調査を実施する。
総会で予算5万円自治会助成を承認する。~2014年7月

《ジャンプ》2014年8月~[具体的に実施する]
地蔵盆・クリスマス会を実施する。
ハロウィン実施する。~2015年10月
出水学区の防災訓練に自治会が参加する。~2015年12月
剪定作業を返上~2020年9月、作業を関さん家族が手を挙げる
管理組合が居住者調書を作成予定~2022.7.31.第11期通常総会に提案する。
大規模修繕工事⇒2023年3月~6月末
社会システム(仕組み)は大きく変える必要はない、少し変えることを心掛けた。ところが、コロナ禍で新たな課題が起きた、仕切り直しである。

 2. 創発規範の連鎖の拡大を検証

地域に規範の定点観察の視点がない。つまり、その後智頭町はどうなったのか、CCPTの創発規範は伝搬(『ギブ&ギブ』第2章7)したのか、ゼロイチ運動は地域にどのような影響を与えていたのか、創発規範の「贈与と略奪」の行方を知りたいと思った。2015年夏、田舎のパン屋さんタル―マーリーの渡邉格氏ご夫妻にお会いして、出会い館で「腐る経済」の話を聞いた。そのころ智頭町では「おせっかいのまちづくり宣言」が行われ、百人委員会に智頭中学校生、智頭農林高校生が参画していた。そして、2016年7月、地域経営まちづくり塾の参加者から松岡正剛氏の「QON DAY 2016」の講演を紹介してもらった。

《「エマージング」です。つまり、「創発」ですね。物質現象は水が氷になったり水蒸気になったりするように、液体が個体になる、液体が気体になるなど、状態のフェーズを変えます。ことを「相転移」といいますが、この時に起こっているのがエマージングプロセスです。》

地域づくりをエマージング(創発)と認識してから、明治大学教授の小田切徳美先生に連絡して、同年11月、京都駅の喫茶店で面談し、書評の快諾をいただいた。書名は「創発的営み」とアドバイスをもらった。翌年の2月にかけて共著者の澤田廉路氏にヒアリングをしてもらった。ゼロイチ運動が大きく影響していた。そうしていたところ、2019年7月、智頭町が内閣府のSDGsの未来都市に認定された。勇気を得た。地域の持続可能に向けて地域づくりに挑戦してきた。10月、『創発的営み』を出版した。早速、杉万先生から手紙をいただいた。

《1992年11月、みぞれまじりの中を初めて智頭を訪れてから今までのことが、走馬灯のように駆け抜けましたというか、もっと正確には、走馬灯の中で私の知ることのなかったことも含めて、大作の映画を見るような感じでした。岩波ブックレット(『地域からの挑戦』2000年発行)と今回の本を比べると、インターローカルへの贈与-略奪の連鎖の拡大が明らかですね。岩波ブックレットでは、CCPT時代から集落ゼロイチの最初の2~3年を書きました。それはそれで壮絶ともいえるスタートだったわけですが、今回の本では、それが軽やかに拡大していった成果が如実に表現されています。(1)岩波ブックレット、(2)集落ゼロイチの総括をした高尾・杉万論文、(3)地区ゼロイチの端緒を書いた樂木・山田・杉万論文、(4)地区ゼロイチの経緯を追った伊村・樂木・杉万論文、(5)今回(『創発的営み』)の本、というように並べると、壮大な絵巻物になりますね。(2)-(4)は集団力学研究所のホームページにあります。大学の講義には、格好の予習・復習の課題になるかもしれません。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第8章6)

杉万先生の提案を重く受け止めた、何とか実現したい。グランドデザインの報告書の編集で、主筆を務められた平山京子さんに協力をお願いした。翌年、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』で実践編・資料編・論文編を発刊した、大作業だった。2020年、智頭町「おせっかい奨学金」制度が発足し、高校や大学等への進学者に向けて創設された。通常より有利な金利で、ローン返済の利子については全員、元金は10年以内に町に帰ってきた場合には補助対象となる仕組みである。2022年6月、横浜市立大学国際商学部の吉永ゼミ等との交流を『ギブ&ギブ』に編集し、発刊した。「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店(旧那岐小学校「一般社団法人 那岐の風」)が、2023年春オープンに向け、マネージャーを公募した。地域は動いている。

3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策

(1). おせっかいのまちづくり宣言(広報ちづNo766から)
(平成27(2015)年12月1日「おせっかいのまちづくり」推進懇談会)
《私たちは、家族や親せき、隣近所、地域、学校、職場など様々な社会の中で、支え、支えられて暮らしています。近年、この支えあいの力が弱くなっており、また「向こう三軒両隣」の助け合いの精神も、忘れ去られているのではないでしょうか。私たちが幸せに暮らしていくために、これからは、少しの「おせっかい」が大事な要素になってくるのではないでしょうか。そこで、地方創生元年の今、町民が肩を寄せ合い、共に支え合いながら地域の人々が、心も暮らしも豊かに「智頭らしく生きていく」そして、訪れた人が町を好きになり「ホッと癒され」また訪れていただく、そんなまちを目指して「おせっかいのまちづくり」をここに宣言します。今日から、押しつけにならないように気をつけながら、少しのおせっかいを始めることで、「安全で安心な住み良いまち」をめざし、本日、ご参会の皆様をはじめ、全町民の方が積極的に行動していきましよう。》

【本町が推進する「おせっかい」】(広報ちづ 2020年9月)
『目配り・気配り・心配りのあるやさしさ『おせっかい』⇒「心が温かくなる」「優しい心を育む」』
【毎月1日「おせっかいの日」】
【おせっかい標語2020】『大賞~あいさつと、笑顔でひとこと“おせっかい”』

(2). 「おせっかい奨学金」スタート(智頭町ホームページから2021年6月4日)
本町は年間25人(2019年)の子どもが生まれています。しかし、高校や大学進学などで自宅から通えない学校に通う場合は、町を離れていきます。子どもたちが町に帰ってきたいという気持ち、大人たちの町に帰ってほしいという願いを叶えたい思いで、このパッケージができました。
〇10年以内にUターンしたら奨学ローン返済額が補助対象
町外の学校に通う場合、自宅から通う人より生活費が平均で月に4万5千円多くかかります。鳥取信用金庫(連携金融機関)の「おせっかい奨学ローン」を借りていただき、生活費を補填いただくことで、中山間地特有の条件不利な環境の改善を図ります。また、その利子については全員が補助の対象、元金については10年以内にUターンした場合は補助の対象となります。
〇おせっかい奨学ローン借入額
高等学校/毎月3万円
大学、大学院、専門学校等/毎月4万5千円
〇おせっかい奨学金をまちぐるみで積み立て
「おせっかい奨学ローン」返済額を補助の対象とするために、「おせっかい奨学基金」を創設しています。町の予算だけでなく、子どもたちのUターンを支えるために、寄附を募り、それを基金に積み立てます。
〇実施時期
2020年4月からスタート

4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流

2021年3月、横浜市立大学国際商学部の吉永崇史先生の吉永ゼミ等の皆さんが、智頭フィールド調査をされていることを知った。それではと関係書籍をお贈りしたところ、4月11日、吉永先生のメールに論文が添付されていた。

《筆者は、横浜に戻った後で、智頭町をフィールドとして研究してみたいと考えるようになった。具体的な研究テーマが思い浮かんだわけでもないが、直感的に、この“コミュニティ”に研究者としての魅力を感じたのだ。あえて言語化するならば、智頭町の人が、雰囲気が、洗練されている。その“ 洗練さ” は何によってもたらされているのであろうか。経営組織論を専攻し、とりわけ組織開発に関心を持つ筆者にとって、このコミュニティに感じるものが何なのかを知りたい、そのように思うようになった。》(横浜市立大学論叢社会科学系列2020.03.31:vol.71No.03)

これは凄い評価だと思った。是非とも吉永ゼミ等の胸をお借りして、智頭町の魅力と洗練さを探ってみたい、そこで地域づくりのダイジェスト版を編集して送った。学生諸氏はどう受け取ったのか、「かや(規範)」「贈与と略奪」「ギブ&ギブ」「おせっかい」「提案マネジメント」など、新しい語彙が感度高く受け止められていた。実は、インターローカル論で、実践の知恵は地域を越える。そして、吉永先生から智頭町住民との“対話”を重ねた筆者にある洗練さのイメージは、①歴史と伝統に裏打ちされた本物の暮らし、②暮らし(ライフスタイル)と仕事(ワーク)両面での専門家、③自然との共生、④他者への温かさと受容、⑤他者との関係性構築としてのおせっかい能力。と解析された。やり取りを編集して『ギブ&ギブ』を出版した。学生から感想文が届いた。

〇智頭町の「おせっかい」が訪問者を魅了して、再訪を促す重要な要素になると再認識した。
〇まず、ギブ&ギブの精神は、相手の反応を予期せず、捨てるがごとく行うべきである。相手の反応を期待するのではなく、自分がしたいからする。これは非常に大切なことであると考えた。
〇自分で1から作ることは簡単なことではない。しかし、行動を起こしたからこそ、智頭町が変わっていったように、自分や周りを変えたいのであれば行動すべきである。
〇ギブ&ギブの利他思想の背景には、エディターシップの実践があることを改めて強く実感した。
〇地域づくりの根本にある精神的支柱は「ギブ&ギブ」の利他主義にあるということを実感した。
〇本書を通じて、「エディターシップ」「四面会議システム」等からトップダウン的な一方通行ではなく、普段からは汲み取ることのできない動機を洗い出し、能動的なコミュニケーションから生まれる案や考え方の重要性を再確認した。
〇初めて智頭町を知った時に感じた智頭町のエネルギーや時代に対応する柔軟さは、過去にCCPTのような智頭に対する熱い思いが、今も受け継がれていると思うと地域活性化とは、単に経済的な成功のみではなく、志や信念があってこそ活性しうるものだと実感することができた。

感想文は一部の紹介である。なぜ『ギブ&ギブ』を編集したのか、それは学生諸氏が、積極的に地域と向き合ってほしいと考えたからだ。例えば、知恵や考え方がどうであれ、自分たちの姿勢によって地域は掘れば掘るほど価値が生まれる。それをつかむため智頭町と向き合ってもらいたかった。そして、『ギブ&ギブ』の出版で、改めて智頭町の魅力と洗練さは日々の暮らしや、隣人との関係にあると発信した。

5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現

私は、夢を実現するという目標を持っていた。精神的に良く持ったものである。こうしたい、ああしたいと夢見る、次にそれを実現するためにどうすれば良いかを考える。ちょっと踏み出してみる。また考えて一歩踏み出す、この繰り返しでやってきた。目標を達成するためにはあらゆる手段を考え、そこにやりがいを見出した。心の中に分け入ってみると、批判や中傷を受けてもなぜ持ったのか、それは物事の本質を知りたいと強く願ったからである。例えば、なぜ過疎化が起こるのかを問うた。導きだした対案は、一つは「誇りの創造」をテーマにしたゼロイチ運動である。そして、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の「おわりに、ウィズコロナと創発的営み」に経済の尺度とは異なり、地域には唯一無二の価値があると提案した。

《これから地球規模で人類の大移動が起こるだろう。その際に、本書で確認したことが活きる。つまり、どの地にあっても思いがあれば創発(エマージング)的な生活により、小さな小循環が生まれる。先人はそのことを体現してきた。地域は誇りありきではない、また、経済ありきでもない。私の先祖も貧しいから山の中で暮らしてきたのではない、逆に豊かな地だから何世代にもわたって営み続けてきた。それは、便利とか、不便とか、お金や時間の尺度ではない。家族、風景、環境など、他では得られない唯一無二の桃源郷の価値を、その地に見出していたからだ。つまり、農山村には人々が生活していく確かな安全・安心がある。おそらく、これから人々は真に豊かな地を目指す。》

地域は唯一無二の地である、人々にとって掛け替えのない価値がある。一歩、一歩、踏み出しながら確信を得て取り組んだ。私はすごく慎重(臆病)な性格である。勝算が立たなければ事は起こさない。①事前に、企てを緻密に図る。そして、②大胆に実行する。③物事の事後は、繊細に情報を収集する。この思考でルーティンを掛けてきた。そして、実現すれば達成感を共に味わい、人々と美酒に酔った。極限の中で「一隅を照らすは 国宝なり」と、1200 年前の思想に拠り所を見つけた。そして、山間の地での生き方に落とし込んだ。青年時代から行動規範とした「我在存宇宙」、我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス、つまり、命が亡くなればすべてなし。人々と向き合い、一文字、一文章、一つの仕組みに精魂を込めた。政府の過疎対策に疑問を持った。単に批判ではなく、この地に事実を作ることだと覚悟した。社会科学の学びの場から、役場と研究者等のプロジェクトからゼロイチ運動を発案した。社会システム(仕組み)の創造はウェルビーイングを手繰り寄せた。

知人で彫刻家の近藤哲夫先生は、2012年4月京都に来て半年経った頃、岡田先生の退官祝賀会に出席のため我が家に一泊された。その際、「この文字がすっと頭に浮かんだ。」と言って7枚の色紙をいただいた。『やっと一息』『ほっ』『礎』『きょうもよかった』『生』『道』『魁』と、薄い墨と金色の太い文字で書かれていた。京都に来て心情が定まらないことを見透かし、最高のプレゼントであった。後日、畳一枚の『魁』(さきがけ)の扁額が届いた。

私は帰郷後間もない時期に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年かけて議論し、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。その後、自分自身の行動指針とした。世の中で二兎を追う者は一兎を得ずと言われる、ところが「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」と三兎を追い夢中で走った。納得である。

 6. 地域の規範の「定点観察」、記録はメモから

第3回杉下村塾で、岡田先生はベクトル思考で問題解決の種子は水平思考にある。つまり、水平型ネットワークのエディターシップ(編集)で、全体と部分を考えることが大切である。(『ギブ&ギブ』第1章8資料-1と2)そして、地域活性化は(熱)(執)(冷)の視点がいると説かれた。

《CCPTは、間口を広げる水平思考をしながら、プロジェクトにより問題解決し、目標を達成している。つまり、ベクトル思考を持った集団と言える。地域を活性化するためには、ベクトル思考を持たないと問題は解決しない。ベクトル思考とは二つ以上の軸を持って考えることが、備わっているかどうかである。そして、ベクトル思考は「地域経営プロジェクト方式」であり、障害を乗り越え問題解決し、目標達成する力である。》

《地域を活性化するためには、(熱)(執)(冷)が必要である。(熱)とは情熱的なひたむきな心で、(執)とは目的を達成するための執念であるが、だいたい活動家と言われる人々には、この二つは備わっている。しかし、あと一つ(冷)、冷ややかに見る目をもっているリーダーは少ない。(冷)とは科学での分析、検証、評価である。いくら個人的な感情面で地域をとらえても真の活性化は起こりえない。》

(熱)(執)は知的好奇心を持つことである。私は物事の頭に「なんで・・・」「どうして・・・」と、言葉を置くことによって物事に強く関心を持った。関心を持つことが熱意につながり、解き明かそうとするところに執念が生まれた。大切にしたことは、熱い思い(感性)である。そして、夢見る(希望)ことである。次にこうありたいとビジョンを持つことによって、行動規範となった。つまり、実現へのステップは、 1.気づき、2.企画し、3.実践し、4.記録し、5.編集する、と5段階のステップを常に心掛けた。私にとって一番できないことは(冷)である。地域で(冷)を持つためにはどうすればよいのか、岡田先生は科学での分析、検証、評価であると言われた。それでは住民が(冷)思考を持つには工夫が要る。私の解決策は観察と記録である。兎に角、観察して記録した。今、このように本書をまとめることができるのも、行事予定表に30年分を記録しているからだ。メモのきっかけは1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。気づいたことをメモにとる。積み重ねたメモは定点観察となった。

そして、CCPT活動実践提言書は1989年から1998年まで編集した。年に一冊200ページ、10年間で2000ページである。資料は、一つの証拠でメモも積もれば力となる。これら提言書は智頭杉の木箱に入れ、山形地区振興協議会、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈した。智頭町づくりの自伝の記録となった。

もう一つ、講義で要旨が語られる。鵜呑みにするのでなく、テープ起こしをすると講義の本旨をつかむことができる。大変な作業だが、言葉を受け止めるから知識を得る。本書はその事例である。そして、関係論文や報告書から何を引き出せるか、特に要約と結語を読み込んだ。報告書では文章末の結語である。それでは論文等を私一人で解釈ができたのか、秘訣は、翻訳プロジェクトチームの編成である。小集団を組織して課題を共有しながら、議論を行い、素案をつくり、議論を重ね、素案を作成してコンセンサスを得た。行政施策は最終的に議決が要る。手数がかかる分、その施策に思いを込め地域理念(アイデンティティ)が醸成された。

7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング

1984年からCCPTが取り組んだ地域づくりの資料は、山形地区振興協議会 (電話0858-75-0343:旧山形小学校:)の『智頭町まちづくりレガシー館』に保存してある。新聞記事はアルバム20冊、企画に伴う書類ファイル、CCPT活動実践提言書(1989年版-1998年版)、書籍関係、また、拙著『ギブ&ギブ』の校正原稿の編集ステップも保管されている。そこで、大呂佳巳氏が地域づくりの語り部を務めている。(1988年、地域づくりの目標を「親の世代から夢は与えてもらわなかったが、せめて子どもたちに語れる町にしよう」と話し合った。)

読者に分かり易く伝えたいと思い大呂氏にインタビューした。その中で「智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。」と回答があった。感動したまさに結縁である。

(1). 地域づくり、大呂佳巳氏にインタビュー(2022.07.20.)
《私は現在、山形地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-4)の会長をボランティアで務めている。地区振興協議会は2008年にスタートした。2012年に旧山形小学校の校舎の管理を智頭町から受託して、旧校舎の活用を地区振興協議会の独自事業と、テナントで民間企業が展開している。自分が卒業した小学校の校舎で、時代の流れとは言え、まさかのまさか、地区における創発拠点として「山形共育空間」構想の実現のため、本当に、日々忙しく、楽しく遊び、学び、人生実現に向けて取り組んでいる、とても不思議な世界にいる。

翻って、1980年代の役場の雰囲気は、トップが「烏が白いと言えば白い、黒いと言えば黒い。」がまかり通っていた。どうあがいても封建体質に従うしかなかった。そんな中で、寺谷局長からまちづくりをしようと声をかけられたが、「智頭町ではまちづくりはできない。」と答えたのは、そんな空気を感じてのことであった。しかし、CCPTは1988年に、智頭杉「日本の家」設計コンテストを実施した。これまでの智頭町の体質とは全く違う、外の世界を巻き込んだ仕掛けだった。そして、役場の中に事務局を置くということで、総務課の一員として事業に当たった。次に1989年に杉下村塾が開かれ、研究者や科学者の方と議論をする機会を得て、将来に可能性を感じた。ところが、町会議員の選挙違反が発覚した。4年後に選挙違反をした本人が町長に立候補して当選し、その直後に元町長が県会議員に立候補して金を配り、再び町会議員が大量に逮捕されるという事件が起きた。

そんな時、第6回杉下村塾での提案をきっかけに助役が中心となって、1995年1月14日に智頭町グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクトが発足した。例え、トップが揺れようとも自分たちが地域プランナーとして、確固たるまちづくり理念を持っていれば振られることはない。本プロジェクトを役場職員は真剣に受け止めた。そして、智軸づくりプロジェクトから、杉トピア(杉源境)ちづ構想へと、次にゼロイチ運動の企画へと進展したが、その取り組みによって救われた。まさに、智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。1998年のCCPT活動実践提言書の表題に、「居合わせた者よ、いきさつの語り部となれ」とあるが、その示唆もあって母校を舞台に、今、『智頭町まちづくりレガシー館』の語り部を務めている。まずもって感謝である。自分たちが歩んできた智頭町の地域づくりの軌跡を、自分の言葉で語っている。こんな幸せを、地域づくりからつかむことができた。幸せは豊かな「かや」から生まれると、次の世代に是非とも伝えたい。》

(2). マンション自治、関さんにインタビュー(2022.07.20.)
《マンションに入居したのは2011年秋のオープンと同時だった。それまで京都市内に住んでいたが、近所の方に子どもを可愛がってもらい、大変親しくしていただいていたので、新しいところへ移ることに少し躊躇していたら、一番親しくしていた方から、「新しいところに行ったら、きっと新しい出会いがある。また訪ねてきたらいいよ。」と言ってもらった。その時、上の子は2歳だった。

そして、2014年に自治会ができて、8月の盆過ぎの日曜日、京都ではどの町内会でもやられている「地蔵盆」が催された。地蔵盆では親子で参加した。子どもたちは学校や幼稚園の関係ではなく、同じマンションでエントランスを走り回り、ペットボトルをピンに見立ててボーリングやゲームをして楽しんだ。あるお父さんは図書館から紙芝居セットを借りてきて物語を話して聞かせた。そして、終わりにはビンゴゲームで商品が当たるというおまけつき、我が家の子は、特賞5キロのお米を当てて喜んで帰ってきた。僅か2時間ばかりの地蔵盆だが、参加した親子は本当に打ち解けた。その次にクリスマス会である。クリスマスツリーの飾りつけから後始末まで、できる者が参加して手作りで会をやってきた。

そして、2020年にコロナ禍で全て中止になった。そんな時、当初は寺谷さんが植木の剪定作業をされていたが、家族で話し合ってみんなでやってみようということにした。まず、ツツジの花を咲かせるため剪定時期を考えなければいけない。家族総出で剪定後の後始末をする。上の子は小学校六年生、下の子は6歳だ。行き交う通行人に気をつけながら作業をしていると、マンションの大人や子どもさんから「ありがとう」と声が届いた。それから今春、剪定をしようとした日に上の子の陸上競技会があって、剪定する間、下の子を寺谷さん家に預けた。本人は何の違和感もなく遊んでいて、成長を見ることができた。このマンションに同じように住んで、少しみんなのためになることをすれば、感謝の言葉が返ってきた。そして、子どもたちもツツジや植木に関心を持って、他所の剪定の様子など親子の会話の話題にもなった。こんなマンションはどこにもないなあと言って、親子で年に2~3回、一緒に汗を流している。コロナ禍で自治会の行事は中止されたが、みんなと遊んだ思い出はきっと大人になっても覚えている、このマンションがふるさとになった。素晴らしい出会いに感謝している。》

智頭町では地域の自伝を書く人は貴重だと聞く。また、マンションでは寺谷さんのようなお年寄りから子どもたちに声を掛けてもらうと助かる。と、ささやかな利他精神の実践である。先に出版した『ギブ&ギブ』を、マンションの子どもたち10人にプレゼントした。入居から10年が経って、みんな10歳大きくなった。「かやの理論」や「こころと意味」や「エディターシップ論」は、何かに役立つだろう。隣の阪本ゆうき君は小学校5年生、『ギブ&ギブ』の感想を聞いた。どんな言葉を覚えているかな、「ベクトル、マズロー、おせっかい」とあった。「おせっかいは、ゆうき君を赤ちゃんの時から知っているので、本を読んでねと言ったことが良い意味のおせっかいだよ。ゆうき君に感想をもらうことでおじいちゃんも元気になった、ベクトル、マズローに関心を持ったことは良いことだ。それではもう一冊、『「地方創生」から「地域経営」へ』をプレゼントするよ、右から読むと「思考のデザイン」が書いてある、絵をみたら面白いよ。」と話した。こんなやり取りができるようになった。私にとって大切な交流である。

9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味

本書の編集に当たって佳境に入ったとき、まさに天啓が起こった。私の思いで一度は袂を分かったが大きな心で受け止めてもらった長尾眞文氏(元笹川平和財団主任研究員)に、2021年の出版時に、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』をサプライズ謹呈した。合わせて、先般出版した『ギブ&ギブ』を献本した。主宰されている秋田読書クラブの題本(2022.07.24.ZOOMで読書会開催)に、『ギブ&ギブ』を推薦いただいた。1988年の出会いから34年の時を経て、新たなご縁へと導いていただいた。それは、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との出会いである。そして、珠玉のコメントをいただいた。特記すべきことは、《それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、解析いただいた。智頭町での地域づくりと、京都市マンション自治の取り組みの本質が喝破された。その直後、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)を贈呈いただき、神の啓示と受け止めた。

《実は三冊(智頭町づくり三部作)の本を送っていただいていたのです。全部読ませてもらって、そうなのだとつながりにたまたま昔からの同僚も沢山絡んでいて、大阪大学の研究室の三隅先生、杉万先生のラインの方々だと分かりました。今日話を伺って確信に変わったのは、寺谷さんはやっぱり革命家なのです。つまり、社会の中をいい意味で変えていく、社会は醗酵するという考え方を持っていますが、まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。凄く感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか、どこに原点があったのか、小さいときと言われたが、智頭町での遊びとか、智頭農林高校とか、謎だけど興味津々です。

杜氏はどうやったらできるか関心があります。寺谷さんのような人をいろんなところで発掘できないか、私的には同じような局面でどうやったらみんなが考えていない所に引っ張っていけるかを考えているけれど。例えば、大きな四角があったら端っこに誰も考えていないところに、それについて寺谷さんと共感する点がある。マインドセットを変える。考え方の枠組みを変えていけば、お金を作ることは結論で資源を使えないのかと、寺谷さんはやっていかれたのは凄く見事にやってこられた。杉の名刺、杉があるよねとあるモノを活かしていく、普通の人はお金に替えれば終わりだけれど、寺谷さんは止まらずに行く。かやの理論に寺谷さんは出会っただけであって、かやの理論的なところに踏み込みたいと思われていて、後押しする確信を持てるような要素を杉万先生の話から受け止めたからだと理解しました。それと、水平思考と訳されますが、エドワード・デボノのラテラルシンキングの考え方に通じる、「ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみること」で空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》

目の前の霧が一気に晴れた、長年の夢から覚めたような感じだった。草郷先生の社会が醗酵するとは、エマージングであり、場立ちである。これまで何を求めてきたのかがはっきりした。コミュニティにおけるウェルビーイング(幸せ・誇り)である。そのために社会システム(仕組み)の創造に関心を持ち、実現に向けて挑戦したのだ。

 10. 持続可能社会とコミュニティライフ

地域社会で無いモノをいくら嘆いても、地域は変わらない。私たちが智頭町で一歩を起こした時、住民は温泉がない、観光資源がない、見せる物は何もない、杉しかないと言っていた。ところがその杉にこだわった。そして、スイス山岳地調査で住民自治の種を見つけ、新しい住民自治システムの実現に向けて挑戦した。ベクトル思考を持ったことによって可能性が広がった。世界に目を向ければヒントがある。それでは京都市のマンションではどうか、周りの町内会では毎年地蔵盆の祭りが催されていた。そこで地蔵盆をやろうと声を掛けた。地蔵盆は400年前に豊臣秀吉の街づくり政策だったとの説もある。ところがお地蔵さんが無いとなった。そこで考えた、お地蔵さんは大地が蔵ですべての生命が芽吹くところと解釈した。石仏が無くてもよい、私たちは大地に見守られていると話した。皆さん納得された。地域づくりは地域文化に根差し、百果競甘である。その地の方言や生活文化を大切にすることが、地域理念(アイデンティティ)を育む。地域はそれぞれに違って価値がある。

実は、地域社会に無いのはモノではなく感性である。人々は日々周りに気遣いし、角を立てないよう生活を送っている。つまり、地域に無いのは実は創意工夫である。そのことに気づくことによってすべてが始まる。社会科学の学びから気づきを得て、感情論に捕らわれず、そこから社会システム(仕組み)をつくった。人々の規範がどのように変化するかを考え、企画、実践、検証、見直しを心掛けた。地域づくりは創作の場である。コミュニティを35歳で意識してほぼ40年になる。私にとって人間修養(啓発)の場であり“利他”(ギブ&ギブ)精神に導かれた。それは身近な生活環境にウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せることであった。

ところが、生活の場であるコミュニティに無関心の人が多い、コミュニティは何もしなくてもある。しかし、極論だが、無関心はある意味でコミュニティの崩壊につながる。私達はコミュニティで生活している。その生活の場をいかに豊かにするかが、結局、地域の持続可能につながる。人生100年時代になった。多くの人々が例えば70歳まで働いたとしても、それからどうするのだろうか。退職したら家庭のお荷物になる、そんな人生はおかしい。若い内からコミュニティに参画(協働)したが良い、私は、人々がコミュニティの価値に気づき、ライフスタイルとしてコミュニティに関係することは豊かな人生をつくると考える。

これまでの価値観は会社(組織)を中心に形成されてきた。一生懸命に勉強して良い大学に入り、一部上場の企業に就職し、立身出世をする。多くの人の目標であった。ところが頑張ってきたが幸せは一体どこにあるのか、皆さん、人生を問い質した。先日退職された知人に地域社会に関心を持って積極的に顔を出してくださいと提案した。そうしたところ年賀状をいただいた。『「何でも見てやろう、やってみよう」の精神で、地域の朗読会、ダンディイングリッシュなどにせっせと顔を出しながら、これまでと全く違う世界を楽しんでいます。』とあった。コミュニティライフ万歳! そして、三つの磁波(サイクル)がリンクすれば自己実現のイメージである。

11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経

草郷先生から《空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか・・・・・空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、私の思考について問いを発していただいた。本書の構成では社会システム(仕組み)をキーワードに、改めて筆を起こした。しかし、草郷先生の問いに答えていない、考え続けた。

社会システムの概念に出会ったのは、1988年に鳥取大学工学部の岡田先生を訪ねた時のことである。教室の表札に「社会開発システム工学科」と表記されおり、岡田先生に社会システムとはなんですかと質問した。問に対して「向こう岸とこっち側に橋を架ける場合、どこに橋を架けたらよいのかを考えるのが社会システムだ。」と説明をされた。この出会いから手弁当で智頭町を訪問していただき、CCPTのメンバーに対して社会システム思考について講義をされた。一部講義の内容は1章4「社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講」と、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の第2章2「課外授業、社会システム思考」、もう一冊は、『ギブ&ギブ』の第1章に収録している。1984年に一歩を起こし、1989年に杉下村塾を10年間にわたって開講した。その学習プロセスの記録はCCPT活動実践提言書に収録している。

それからもう一方に実践による体験がある。1989年の7月から8月の二か月間に杉の木村で智頭杉ログハウス建築イベントを開催した。現地スタッフは3名、全国からログハウスの建築のためボランティアを募集した。代表の前橋氏も私も現地で指揮をとることはできない。どうすればよいのか考えた。そこで、受付、保険加入、作業システム、炊事システム、宿泊システム、朝礼、安全点検、夕礼、五右衛門風呂で入浴など、ベニヤ板に書き、現場スタッフが説明した。一人5日間の作業を行えば向こう5年間、年3日無料でログハウスが使用できる。智頭杉の丸太を加工してログハウスを建築する大作業を展開した。事故が起きたらイベントは中止という条件、全体を動かすために、社会システム(仕組み)を具体的に示した。ボランティアは計68名、事故もなく5棟を建築し無事事業を終えた。(1989年版CCPT活動実践提言書収録)

私が考える社会システムとは、人間で言えば毛細血管や自律神経である。生身の身体を維持している交感神経や副交感神経に例えられる。表面的には分からないので観察や状況の分析によって浮き出てくる生活実体である。つまり、社会システムとは地域社会を維持する神経経脈で、それらは丸ごとで見る必要がある。そして、社会システムは地域を一歩進める仕組みづくりで、一気に百歩進めるものではない。社会システムはデザインによって規範が変わる。人々によって充実する社会システム(仕組み)の創造が理想である。 (ISディジタル辞典=社会システム概要「人間社会を機能させるための公共性の高いシステム。」)

もう一つ、地域活性化は「啐啄(そったく)」 (goo辞書=「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音) で起こる。例えば、地域づくりではいつも相手を説得し、集団を方向づけてきたと思われるかもしれない。しかし、説得工作は一切やっていない。当然、社会システムが成就した場合を想定し提案したが、後は当事者の選択に委ねた。例えば、青少年の海外研修支援事業しかり、本人が手を上げその人を支援する。また、ゼロイチ運動についても1997年のスタート時点、CCPTメンバーや役場スタッフの集落から参加はなかった。企画は欲しい人に提供するのが自然である。例えば、説得し説諭しても物事は成就しない。つまり、必然的に企画力が闘いである。「贈与と略奪」の理論(『ギブ&ギブ』第2章7)に物事の本質がある。早瀬集落ではゼロイチ運動の導入を総寄合にかけて多数決で決めた。一人の住民の意思を動かすことは至難の業である。民主的な一人ひとりの選択が成果につながった。だからこそ自主性を前提に社会システム(仕組み)の創造に全精力を入れた。

地域社会で社会科学を学ぶ場を意図的につくってきた、全ては実践による一歩と学びから始まった。岡田先生の説かれる社会システム論と杉万先生の「かやの理論」に喰らいついた。地域に具体的にどう落とし込み実現するかを考え続けた。そして、1995年1月、役場職員と研究者によるグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動が発案された。社会システム(仕組み)の創造によって、杉しかないと言われた智頭町に誇りが生まれた。小さな力で大きな成果となったが、もう一歩、社会システム創造の価値を過疎地域に紹介したい。

《引用文献》
論文-1 杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」【土木学会論文集NO.562/Ⅳ-35,27-36,1997.4】特集論文(土木計画学におけるリスク分析と応用)
論文-2 森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」【第43回日本グループ・ダイナミックス学会大会発表論文集(1995)】
論文-3 高尾知憲・杉万俊夫「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町
「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」【集団力学2010年第27巻pp.76-101集団力学研究所2010年掲載】
論文-4 樂木章子・山田奈々・杉万俊夫「「風景を共有できる空間」の住民自治—鳥取県智頭町
山形地区の事例―」【集団力学2013第30巻pp.2-35集団力学研究所2013年掲載】
論文-5伊村優里・樂木章子・杉万俊夫「旧村を住民自治の舞台に―鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例―」【集団力学2013第30巻pp.409-435集団力学研究所2013年掲載】
論文-6 叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み
―鳥取県智頭町「百人委員会」—」【集団力学2018年第35巻pp.3-83集団力学研究所
2018年掲載】
講義-1 『かやの理論』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
講義-2 『こころと意味・「かや」』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)

 第4章 身近に人生の師あり、独立自尊

 1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく

1948 年、鳥取県智頭町芦津に生まれた。芦津集落は、鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の上流、鳥取県と岡山県と兵庫県をまたぐ山岳地帯、渓谷と名瀑の宝庫とされる那岐山/氷ノ山/後山国定公園の芦津渓谷の登山口にある。下流の集落から断崖絶壁に沿って上ること約 2 キロメートル、これから上流に人家があるのかと思われるような山間の地で育った。本家の墓石を見ると、江戸時代から林業と少ない耕地面積の農業でほそぼそと生活してきた。四季が織りなすパノラマに80 世帯ばかりが暮らしている。集落は智頭杉の天然林を含めた共有林1,500 ヘクタールを所有し、その入会権は村人のみが相続する。村を出た者の権利は消滅する。集落では、寺谷・武田・綾木姓がそれぞれ氏神の祭祀を行い、同族意識が強く、血縁が結束の元にある。妻と二人の愚息のお嫁さん(各務原市と浜松市)も、先祖さんはよく命を繋いできたものだとびっくりしている。集落内の男は国有林(営林署)の作業員か、私有林の山林労務を行っていた。父は山林労務をしていた。時々、「この村に居ても飯は食えん」と言っていた。その言葉は子供心に残っている。父母は沖の山杉の赤差し苗の栽培や、なめこ茸の栽培をして三人の子供を育てた。働く後ろ姿から山里の生活は創意工夫することだと学んだ。

春まだ水が冷たい頃から渓流に入ってイワナを突いた。祖父母が囲炉裏で魚を焼いてくれた。裏山に登っては探検をし、台風が来ると近くの山で芝栗を拾った。大人は栃の実を拾いに深山に入った。祖父は入り婿だった。尋常高等小学校に上がらず、屋根(茅葺職人)屋の丁稚に入ったという。その時の切なさを話していた。家屋のみの分家で田畑はなかったが、木材の売買をして少しの山林と畑があった。なぜ本家の隣に家があるのかと聞いたところ、祖母の兄が分家を希望したからだと聞いた(おそらく、兄夫婦に子供がなかったため、叔父が5歳で養子になった。)。祖父は3キロメートル下った浅見集落で生まれ、20世帯ばかりの中に縁者が4軒あった。子どものころ連れられて祖父の生家の墓参りをした。背丈ほどもある自然石に「梅花山人」と彫られた墓石があった。裏側に回ると「思い煩うことなかれ なるようにしかならぬ 市蔵」と刻まれていた。峡谷の老梅を愛でた銘文に強く影響を受けた。

1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風は、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした。この台風で集落までの県道はズタズタに流されたが、翌年春、智頭町の中心部までの中間点にある旧山形郷中学校に入学した。道路が復興するまで毎日片道4キロメートルを歩いて通った。芦津集落の出身者は全員バスケットボール部に入った、中学、高校とバスケットボールをした。身長140センチながら走り回っていた。そして、三年生からは統合によって智頭中学校に通学となり、学年は一気に400人となった。1クラス50人のぎりぎりの教室で混ぜ飯状態であった。喧嘩に巻き込まれないために戦々恐々とした。

そして、バスケットボール部は大所帯となり、監督から身長の低い者は要らないと言われた。その一言で山形郷中学の同級生は皆辞めた。しかし、私は身長で区別されることに納得がいかなかった、くそったれと思って最後まで続けた。(この監督とは小学校六年生の時に出会っていた。無理強いする先輩を注意してほしいと約束したにも関わらず対応してくれなかったので、先生はおかしいと抗議したところ、いきなり平手打ちを喰らった。その理不尽さに遺恨があったので、退部しなかった。)秋の県大会で正選手に選ばれ、監督にリベンジした気持ちで納得した。

そして、地元の智頭農林高等学校の林業科に入った。恩師の言葉に勇気づけられた。国田隆広校長からは「君たちはメノウの原石だ、これから自分自身を磨いて宝石となれ!」と。肺結核で入院していて、病室の窓から燕が入って額に糞をしたそこで糞を運が着いたと希望を持ち、病状が回復したと話された。物事は受け止め様で生死の分かれ道になると語られた。小谷先生の「美しいバラの花は野茨の根の上に咲く」は、後日ジャーナリスト大宅壮一の言葉と知ったが、植物の本質と野茨の生命力を感じた。松永能典先生は「親になることは易いが、親たる親になることは難しい、人糞泌尿器になるな!」と説かれた。智頭農林高校に行かなければ出会えなかった。

智頭農林高校では森林の再生に関心を持った。例えば、森林の更新には5通りがある。挿し木、接ぎ木、取り木、実生、萌芽更新である。農業や林業を学んだことは、地域が拠って立つ基本を知った。そして、樹木の移植から根回しの語源を実感し、森林の下草狩りや枝打ちなど、優良材の生産にかかせない作業を実習した。そして林業は、なによりも祖父母の代に植林した杉・ヒノキを、30年50年後に伐採するというサイクルに畏敬の念を持った。目の前の森林は私有林であっても、周囲の緑の山々は共有林のように思えた。しかし、過疎化によって森林に手を入れなくなった。

見ていると地域の後継者に一つの現象があった。普通高校に行った者は大学進学や京阪神に就職して町を出た。実は地域の後継者は、実業高校の卒業生ではないかと自負を持った。高校を卒業して電気工事会社に就職したが、タンパク尿が出て会社を辞めた。社会に一歩出て挫折した。ところで我が家には一冊の本もなかったので、本家の本を借りて乱読をした。中でも「葉隠(はがくれ)」は「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」と、その崇高な精神に触発され、日々、覚悟を持って生きる姿勢を知った。志賀直哉の暗夜行路では鳥取の大山の宿坊で、ウドのカス漬けを食べたとあった。ウドのカス漬けを試作したが美味だった。また、吉川英治の「宮本武蔵」で、沢庵和尚は武蔵を池田輝政に預け、姫路城天守閣の開かずの間で「孫子の地形篇」を学ばせた顛末に、人生の師は身近にあると考え、祖父の薦めで地元の郵便局に再就職した。

2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る

21 歳の初冬の夜、地元小学校の宿直室に故小林義男先生を訪ねた。先生とは6 歳違いで年齢も近く、石炭ストーブに手をかざしながら自分の境遇を語った。次の夜、先生は一冊の本を手渡し、「自分が自分自身を諦めたらいけん、勉強しよう。」と、独立自尊を諭された。それは「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」だった。内容は、《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》とあった。そうか、誰にも能力の限界があるのだ、無能の限界を超えるには学び続けることだと気づいた。そして、1 対 1 の読書会が始まった。そこで実践が必要と考えるようになった。青年団活動に創作演劇を取り入れ、一作目は、山村の若者の都市へのあこがれを創作し、「芦津の田螺(たにし)」の脚本を書いて演出した。二作目は、地元小学校の統合問題を、児童と地域住民の立場に立ち、果たして統合が必要かと訴えた。いずれも仕事を終えて練習を行い、地域で公演をした。それまで黙って見ていた村の人たちが観に来てくれた。声援とともに御花(金一封)がびっくりするほど集まった。地域テーマを題材とすることの大切さを知った。振り返えってみると、1984 年からの地域づくりは、まさに故郷版地域シナリオの実践であった。

そのころ、曹洞宗興雲寺住職(当時智頭町農協組合長)の吉田冥莫(めいばく)和尚と、禅問答をして薫陶を受けた。死とは何か、生きるとは何か、面と向かって質問した。死とは何も無くなることだと返ってきた。その問答から自己の存在を強く意識するようになった。ある時、「今の職場の上司の下では寺谷の成長は無い、郵便局を辞めて農協に来い。そして農民のために働け!」と、強く転職を勧められた。冥莫和尚の言葉にショックを受け、どう生きるか悶絶した。合わせて青年団活動で新聞づくりをガリ版刷りで行っていたら、「戦前のような刷り物をするな、農協に持ってこい。」と、タイプライターを打ってもらい毎月発行した。

この時期、海外を見たいと強く思った。それは鳥取県選出の衆議院議員、故古井喜実先生の国会報告会で、日中国交正常化交渉について話を聞いた。私は勇気を出して手を挙げて質問した。「先の戦争で中国に甚大な被害を与えている。はたして国交正常化がはたせるのか?」と問うた。古井先生は満面の笑みで、「中国は偉大な国だ、心配ない。」と答えられた。1972 年秋、田中角栄首相が訪中して中国側の小異を捨てて大同(だいどう)に就くとの大英断によって、日中国交正常化が図られた。古井先生のご尽力と偉業に驚嘆した、身近で世界が動いていた。

古井先生の話を聞いて素直にぜひとも海外を見たい、世界を知りたいと思った。ところがお金がない、海外に行く方法を探した。そうして総理府の「第 6 回青年の船」に応募した。休暇申請について中国郵政局に問い合わせたところ休職扱いで乗船しろとあった。当時、智頭町の大原教育長から休職は履歴に傷がつくので乗船を辞めるようにとアドバイスがあった。しかし、なんであろうと乗船しようと思い、御殿場で開催された事前研修に参加した。そうしたところ、出航間際に公用パスポートが交付され、特別休暇で乗船することとなった。1972年10月、にっぽん丸は晴海埠頭を出航した。最初の訪問国のフィリッピンまで太平洋の荒波に揉まれた。そして、セブ島に上陸した。インドネシアのジャカルタ、オーストラリアのメルボルン・シドニー、ニュージーランドのウェリントン・オークランド、最後にラバウルに寄港し60 日間かけて訪問した。インド洋のど真ん中、海原を見回しても何もないが、クジラが潮を吹きイルカが群れて泳いでいた。生命を感じた。意を決し渡航した60日間、給料は支給された。仮に周りの人たちの声を聞いていたら、あの感動はなかった。初心貫徹であった。

3. 志を立て、国境(県境)を出奔する

冥莫和尚の薫陶を受けチャンスがあれば必ず活かそうと思った。考えた末、やっぱり郵便局で人生をつくろうと思い、勇気を出して故郷を出奔する覚悟をした。帰国して 2ケ月、郵便局の公報で中国郵政局(広島市)の職員募集を知った。チャンスをつかもうと受験した。二次試験で、数年後に直属の上司となる稲田人事課長の面接を受け、青年の船の体験を語った。そして合格した。周りの人たちはなぜ長男が家を出るのかと止めた。ところが冥莫和尚は「寺谷は広島に出て来い。」と明快だった。そして、餞(はなむけ)の言葉として“我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス”「我在存宇宙」と励ましの言葉をもらった。意を決し独立自尊を覚悟した。

将来、智頭町を何とかしたいと思っていた。僅か80世帯ばかりの芦津集落で、山林を持つ者と持たざる者の貧富の差を見てきた。同じ集落で祖父の従兄は山持の婿養子となっていた。その方は集落の顧問と称えられ、同じ婿なのにとポッと祖父の愚痴を聞いたことがある。格差に屈辱感を持った。1973 年7月、広島市で武者修行する思いで故郷を出奔した。私には何もなかったので行動目標がいると考えた。そこで一つ目は、是非とも労務管理能力を身に着けたい。当時、郵便局の職場では労働紛争があって自殺者が出ていた。二つ目は、自分自身の持ち味は企画だと思っていたので企画力を磨きたい。三つ目は、なんであっても信用・信頼される人間になりたいと、目標を持った。まさに一身独立の気概であった。転勤によって、法律や通達、文書を読んで仕事をするようになった。ところが読解力がない。そこで身近な人たちに声をかけて、土曜日の朝に自主参加で、経営管理・労基法・勤務時間管理規程、経済白書などを題材に輪読会を開いた。なぜ寺谷が主宰するのかと批判や中傷があったが、意に介さなかった。この自発的な勉強会によって理論を得た。その中に郵政省の教養の書のリーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」があった。

《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。

この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》

一匹のメダカと人間関係の原理に関心を持った。おそらく、体験的に社会規範は職場にあっても地域にあっても一点と全体から起こると考えた。一冊の小本によって小集団の本質と行動スタンスを学んだ。そして、帰郷後の1984年春、「決然」と一歩を起こした。木材加工による小集団を立ち上げながらCCPTを組織していった、一匹のメダカのリーダーシップ論は的を射ていた。中でも「小磁極」は地域理念(アイデンティティ)と解釈し、人々の精神的支柱である「智頭杉」をテーマに徹底して、「杉」にこだわり、施策の企画にわくわくドキドキしながら取り組んだ。

当初のやり取りを紹介したい。1988年に岡田先生に智頭町に入ってもらうようお願いした。その際、懇親の場で「なぜ、地域づくりをしているのか?」と質問された。私は即座に「自負心です。」と答えた。そして、帰郷後5年経ったころ地域で祝賀会が開かれた。上座の長老(元県会議員)から手招きが受け、こう切り出された。「良い声でなく鶏は枝ぶりを見て止まるが、見ているとあんたはどの枝にも止まらんが?」と、詰問された。私は即座に「小さくとも一本の木(気)になろうとしています。」と応えた。数年後、杖を突いて郵便局を訪ねられ、「どうか、地区の行く末を頼む。」と頭を下げられた。つまり、物事を成就させるためには日和見でいけない、私は一貫して決然とした態度で、まさに独立自尊の姿勢を貫いた。

合わせて、役場や助成団体の下請けはしないと決めていた。下請けは妥協と考えていた。例え、そのことでマイナスになろうとも貫いた。自分の心に忠実でなければリーダーは失格である。私の一挙手一投足を自覚した。それともう一つスタッフの悪口は絶対言ってはいけない、そんな評価(マネジメント)はない。人生を賭けた地域づくりである。一寸の虫も五分の魂、物事を成就させるには覚悟がいった。つまり、頼みとするCCPTメンバーや住民は常に私の姿勢を見ている、この自覚が大事だと思った。ところが、地域社会では小さい者や弱い者に対しては、強い者になびけと身近な人が善意でささやく。しかし、私は意を持って決然としていた。

そして、闘いを終えた感慨は、(箸)松本順のリーダーシップ論に出会えて本当によかった。どの理論よりもより実践的で、CCPT・ゼロイチ運動・地区振興協議会の思想性を作った。どんな本に出合うか、それこそ運であり万に一つの偶然である。まず文学全集を乱読した、小林先生から「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」で無能の限界を知った。広島の職場の輪読会で出会った「リーダーシップ論」と「孫氏の兵法」を愛読した。1991年から10年間にわたり開催された耕読会では、(箸)木村尚三郎の『「耕す文化」の時代—セカンド・ルネサンスの道』と39冊と出会った。本と出会い、人と出会い、物事と出会い、知識は増えた。しかし、実践者にとっては論より証拠、事実は小説より奇なり、社会システム(仕組み)を実現することが全ての回答である。

私の行動規範の起点は一匹のメダカの理論である。地域実現は日和見では起こり得ない。秘訣は「決然」、「智頭杉」をテーマに「一貫した価値観」と、「人財」にある。例えば、早瀬集落の革新は長石昭太郎氏から始まった。私は「長石先生は智頭町の文化振興に貢献されたが、早瀬集落には尽力されていない。このままで早瀬はいいのですか?」と問い、余人を持って代えがたいと貢献を嘆願した。氏は住民の英知を結集し、奇跡の集落づくりを実現された。(第2章2)

4. 出会いは神の計画、職場は人間形成の場

1). その人の本質をつかむ
「おーい、寺ちゃん、郵政記念日(4月20日)の宿泊担当をやってくれ―。」と、係長から命じられた。聞いてみると夫婦同伴で1,000人の宿泊のお世話である。中国郵政局に転勤後の1年間は貯金部調査課で、郵便局から上がってくる証拠書に算盤を入れた。次の2年間は給与担当である。その次の2年間は、広島郵便貯金会館(メルパーク)の経営管理と岡山郵便貯金会館の施設構想を担当した。その後、中国管内の為替貯金担当職員の訓練を5年間担当し、貯金部管理課に10年間在籍したが、凄く勉強になった。

先ほどの宿舎の職務は給与担当2年目のことである。なぜ、そうなったかというとおそらく背景に、大事な仕事をしたからだ。それは上司のA部長が退職されることになり、退職金計算をすることになった。ところが部長に兵役期間があったので人事部の要員給与課と何度も協議した。そこで、兵役後に無職であったことが証明されれば通算できると判断された。係長から「部長はきれいに退職されたいのだから・・・。」と、釘をさされた。しかし、私はそのことと退職金とは違う、是非ともご本人に確認してくださいとお願いした。その結果、兵役期間が通算され満額の退職金が支給となった。そんな経緯があった後、宿舎担当の指名である。広島市内のホテルを何か所か抑え、宿泊者を割り当て事前作業は終えていた。ところが、国鉄のストライキで全ての作業が無駄となり、5月に入ってから改めて同じ作業をやれとなった。そこで一計を案じた。一つは、トラブルが無いように宿舎担当を通して変更することにした。つまり、寺谷の印がないものは責任を持たないということにした。もう一つは、変更があった所属局に確認電話を入れた。そして、当日を迎えたのだが、トラブルは0件と納得のいく事務作業となった。後日、総括担当の秘書課課長補佐から良くやったと御馳走になった。

ある日、係長に今晩はついてこいと言われた。郵政局の玄関を出る際には大きな鍋と、麻袋に入ったワサビの葉を持って、歓楽街の流川へとタクシーに乗った。聞いてみると、今夜はバーを訪ねてワサビの葉漬けをして回るということだった。とにかく後ろについていった。訪問するとお湯を沸騰させてもらい、その鍋にワサビの葉を手で切って入れ、熱湯をかけて蓋をして力一杯振った。そして、水分を切って瓶に詰め、醤油をかけてワサビの葉漬けをした。とてもユニークな係長だった。気心が知れてくると人間関係の絶妙な機微に感嘆した。そこでワサビの葉漬けのことを聞いてみた。どうして私に声をかけられたのですかと聞いたところ、郵政局に職員が700人いるが、ワサビの葉漬けができるのは先輩のK氏と寺谷だと答えられた。何となく、ふーんと、頷いた。そして、庶務担当として毎週土曜日に各課対抗のバレーボールや軟式野球など、レクリエーションを開催した。どうしても参加されない方があるがと係長に聞いたところ、心配するな、この指さばれ方式だと意に介されなかった。職場が明るい空気に包まれた。

それから、広島郵便貯金会館の施設の増築が浮かんだ。収益を上げるためにどのように施設を増築するか、披露宴会場やレストランの稼働率など実態調査をして、シュミレーションしながら増築計画を立てた。そして、岡山郵便貯金会館の施設構想に入った。用地交渉から施設内容を本省と連携して取り組んだ。広島会館の反省から、岡山会館は会議室と披露宴会場のサービス動線と、客動線を切り離す方式を提案した。これは好評だった。広島会館の増築構想に携わったことが役立った。それと、玄関からコンベンションホールへの吹き抜けが実現した。

2). 部長朝礼とミニ情報紙の作成
月2回、N部長の朝礼が行われた。丁度、土光臨調の真っ只中のころである。貯金部100人あてにミニ情報紙が発行されていた。内容的には貯金部の事業等が編集されていた。そのころ、郵便貯金事業はどんどん改善され、公共料金の引き落とし、給与の振り込み、財形貯蓄など、新しいサービスが追加されていた。そこで新サービスの内容を分かり易く概念図で表すことにした。これがなかなか好評だった。私は法律や規則、規程を読んで図式に示した。そうしたところ、ミニ情報に収録された概念図の方が説明しやすいと、郵便局職員の講習会資料となった。そんな経験から地域づくりに概念図を多用してコンセンサスを得た。

そして、N部長による月2回(1回15分)の朝礼をカセットテープに取り、テープ起こしをして要点をまとめミニ情報に掲載した。情報は価値である。そのミニ情報を貯金部出身の普通郵便局の管理者に郵送を始めた。そうして1年経ったころ、目の前にN部長が立たれ、「管内の郵便局に臨局してみると、みんなが朝礼内容を知っているが?」、と訊ねられた。そこで、私は無断で送っていたことを白状した。そうしたところ、それならば心して朝礼をしなければいけないと、次の回から熱が入った。テープレコーダーに録って、文字に起こし、文章に編集して、要点をミニ情報で周知することにした。それから1年経って、文章を万年筆で浄書し一冊に製本して、N部長に表紙のタイトルを命名してもらった。部長朝礼「自戒」の編集を終えた。2年間、48回のテープ起こしによる文章化と、要点編集は、朝礼の本旨を読み取る貴重な訓練となった。単なる100人に配布の部内紙(B4版1枚)を、最先端の情報に切り替えた。どこに居ても創意工夫、我在存宇宙に導かれた。その思い入れのミニ情報紙一年分を、小冊子に編集し自費出版した。中国郵政局での仕事と知己は人生の財産となった。1973年に鳥取県境の因美線の物見トンネルを武者震いしながら越え、10年後の1983年初夏、一匹のメダカのリーダーシップ論と丸くしたマズローの欲求概念(『ギブ&ギブ』第3章1)、孫氏の兵法を秘め帰郷した。(第1章1)

3). 50年間、友人はどう見ていたか
2022年10月7日に郵政局からの友人である石田素風氏から、第37回国民文化祭の川柳の部で準特選に入ったと、作品の紹介とともに吉報メールが届いた。

課題は「フルーツ」/準特選作品「天と地と汗で実ったAランク」である。

《寺谷さんの生きざまを世に知らしめられたことに大きな拍手を送らせていただきます。ゼロからイチを生む、格闘の日々、芽を育て上げたプロセスが、奇跡を起こしドラマになり、共感を呼んでいるのですね。学者、評論家の皆様は机上論で生きている方も多いのでしょうが、実践論には勝てない。事実は小説より奇なり。オブラードで包んで、化粧しても、真の美学にはかなわない、と同じことでしょう。このほど発刊された書籍類が、これからも輝きを増してゆくことでしょうね。寺谷さんは大病との闘いもあったし、挫折もあったことと思いますが、流川の酒に溺れる(どなたかな?)こともなく、「今に見ていろ」を追い続けた勝利者です。これからも、「おしまいのページに好きな色を塗」(素風)って、行かれることでしょう。第37回国民文化祭/美ら島おきなわ文化祭2022 の 「川柳の祭典」の部に投句していたら素風の句が準特選になり、大会で読み上げるとの知らせ(本日)が来ました。沖縄旅でコロナのうっぷん晴らしをしてこようかな、と思っています。素風より》

友人とは中国郵政局で一緒に仕事をした。挑戦しているときも、病んでいるときも、挫折を経験したときも、ほぼ50年にわたって静かに見守っていただいた。最近の発句に「幸せの分母に蒔いた趣味の種」がある。私は視点に社会システムの目を感じると返信したところ、重ねてメールが届いた。《ありがとうございます。魂を込めて、これからも、句作りに挑みます。寺谷さんの生きざまこそ、句づくりのお手本です。》と、エールを交換した。天と地と友に見守られ、それぞれに実った人生である。お互いに後期高齢者となり新たな世界に入った。

 5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い

私には資産も財産もない。智頭町の規範の本質は、山林を持つ者と持たない者の長い歴史的関係にある。まず、地域の規範の本質を知らなければ活性化はない。山林が無い者がいかに正論を言おうと相手にされない。屈辱の社会構造であった。青年団活動をしていた時も、いつもあんたの父親は、祖父はと聞かれた。私にとってこの問いは常に序列かを意識した。家柄の意識が強く、町会議員になるのはその集落の有力者とほぼ決まっていた。

例えば、集落の総寄合で物事を決める。その翌日には反故になる。強いて言えば長老支配が続いていた。なぜそれが起こったのか、それは自分たちの祖父母の世代までは、中山間地域は耕地面積が少ないため、山林と田畑がない者は山持の家に労働等を提供して人夫賃や米などの糧を得ていた。つまり、家と家の主従関係があった。戦後、農地解放はあったが、山林開放はなかった。冬場の米一升が夏場の一人役とも言われていた。例え、集落の総寄合で決められたことであっても、山持(旦那さん)が頭を縦に振らなければ合意にならない、暗黙のルールがあった。江戸時代の家と家の関係がそのまま続いているように思えた。

私が広島市から帰郷したころ、友人に何かをやろうと言っても、智頭ではできない、周りがその雰囲気でない。突き詰めると町長が悪い、町会議員が悪い、組合長が悪い、と他人批判に終始していた。つまり、身を切らないと暗に言っていた。知人の役場の職員にまちづくりをしようと投げかけた。返ってきた答えは、「智頭町ではまちづくりなどやれない。」とにべもなかった(その知人とは大呂佳巳氏で、山形地区振興協議会長である。第3章7)。この状況に、それではどう生きるか自分自身に問うた。智頭町の活性化とは規範の切り変えである。ある種の秩序の中で静かに生活しているので、生半可な姿勢では達成できない。つまり、「人気」の生き方では地域の規範を革新することはできないと考えた。熟考に熟考を重ねた。結論として「本気」で生きることを覚悟した。二人の息子たちに生き様を示そうと腹を括った。想到な決意だった。

地域づくりは、山の向こうの人々に説得を試みても味方を得ることはできない。つまり、集まった人たちによって挑戦するしかない。そして、身近な人たちの価値を発見することにある。とにかく、この考え方を一貫して持った。私は知らぬ間に、社会の核心をつかんでいた。そして、何か事業を実施すれば必ず新しい人が現れた。知人がその様子を見ていて、どうしてあんな人たちと付き合うのかと忠告したが、帰郷後意図的に地域で変わっている人たちを訪ねた。正面から向き合ってみると、個性的で独特の持ち味があり、その方の長所もあれば短所もある、つくづく人とは面白いと思った。智頭町の規範はまるで平安京の鵺(ぬえ)のようであった。地域の規範を革新するという大望がある。変わった人たちを訪ね、懐に入ってその人に寄ってみると、常識人よりも個性的でユニークな個性であった。世の風評で人を見るようでは強力な組織はつくれない。組織化するならば個性的な人たちを方向づければダイナミックな集団になると考えた。まずは、相手の良いところを見つけてフォローする、一人ひとりが持つ得手をマネジメントする必要があった。そこで地域革新の志を持って組織したのがCCPTである。つまり、組織を維持するための集団はつくらない。テーマによって人々が集まり、テーマを達成すれば自然解散する臨機応変な組織づくりである。常に人間力が問われ、自分自身との闘いであった。

 6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念

1986 年 8 月 14 日、盆の14日に祖母が亡くなった。隣家の本家の仏様を拝み、お茶を一服いただいて、バナナを懐に入れたまま逝った、92 才の大往生だった。通夜の夜、本家の叔父から「杉の木村は、親族の恥さらしだ。」と叱責された。私は覚悟して取り組んでいたので、「いや、今、必要なのだ。」と言って口答えはしなかった。何百年にもわたる地域の規範からすれば、まさに私の行為は異端であり、大人の常識を親切心で諭す言葉であったが、思いを持って突っ走った。それから9年経って、1995年秋、杉万先生の論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1) の解析、4.「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」によって、杉の木村の建設から「新しい総事」の概念をつかみ、1996年にゼロイチ運動の企画書の要諦とした。抜粋して紹介する。

《しかし、忘れてはならないのは、「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘められていると考えることはできないだろうか。》

論文考察から集落活性化のヒントを見つけた。集落を能動的な経営感覚を持ち、「新しい総事」に挑戦する集合体に切り替えることである。そのためには八河谷集落で組織した「杉の木村産業組合」のように、各集落でも新たに「集落振興協議会」を設立すればよいと考えた。その協議会が集落の活性化計画を立て実行するのだ。そして、活性化計画の柱に「地域経営」を設ければ、必然的に能動的な組織となる。杉万論文を読み解くことによって、住民自治システムを具体的に構想することができた。私にとって論文によるヒントはまさに天恵となった。新しい総事をキーワードに「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」の具体策を1996年に企画した。

親族に理解されないことは苦痛だったが、杉の木村の建設は決して無駄ではなかった。過疎化の本質を知りたいと杉の木村の建設に執念を持って取り組んだ。言わば叔父の忠告を聞き入れなかったから、智頭町が茹でカエルにならなくてすんだ。ただ、心の支えとなったのは、祖母が生前だれに聞いたのか、「あつしは夢を実現する子だ。」と言っていた。通夜の夜の勝負感はなにからきたのか、それはきっと、祖母の慈愛に応えられると確信を持っていたからだ。杉万論文-1を手にしたとき、杉の木村の建設にこだわって良かったと心の底から思った。これで理論的な裏づけはできた。次の段階に向けてステップをどう踏み出すか、そこが勝負である。

実現に向けてアプローチをどうするか思案した。1996年2月、意を決しH町長に「村おこしコーディネーター会議」の設置を進言した。(第2章1)

 7. 希望の希求から新たな光が見えた

義父等から戦争体験で極限状態の話を聞いて息を飲んだ。生死の臨場感から人の在り様を見た。そこに過疎化のヒントがあった。つまり、死線を越えた体験談はどんな書物よりも得難い、希望の希求から生命の光を見つけていた。もうお二人とは二度とお会いすることはできない、身近な人たちから自然な言葉で聞き取った。静かに語られた戦争体験に心を打たれた。人間が生きようとした時、何を思いどんな考えを支えとするのか。ふっと1989年にスイス山岳地調査で出会ったシャンドランのホテルのオーナーの言葉がオーバーラップした。(第1章5)

義父は、第二次世界大戦中インドネシアに従軍し、飛行場を造っていた。明日は投降する前夜、戦友と枕に入れていた小豆をぜんざいにして食べて、美味しかったと語っていた。義父は、飛行場造成のため現地の人たちと働いていた。そして、戦争が終わって日本軍の兵隊は整列させられ、連合軍の前で首実検が行われたという。現地の人が悪い人と証言したら即銃殺刑となり、義父は「良い人」と言われて助かったと話した。重たい言葉だった。おそらく、義父は日本軍であるとき、虎の威を借りずに現地の人たちに接していたのだろう。もしかして、逆転を想定していたのかも知れない。生前中、酒に酔ってはインドネシア語で「テレマカシー(ありがとう)」と言っていた。

義祖母の弟は、ニューギニア戦線で撤退命令が出たという。頭を海面に出すと機銃掃射を受けるので、マングローブの下で一昼夜にわたって鼻だけ出して生き延びたと語った。話を聞いて私なら焦燥感と不安感で発狂していたかもしれないと思った。どうして生き残ることができたのか訊ねた。そうしたところ、夜になったら必ず沖合に友船が来て合図の点滅をしてくれる、その船に暗がりに紛れて泳ぎ、助かったと話した。戦争の友船は不確かなものであるが、友船を待つことで生き残ころうと耐えていた。極限の中、希望を持ったことで生き残ったのだ。お二人の話に引き込まれた。翻って過疎もしかり、誇りの前に希望を持つことである。希望は人々の英知によって創造することだ。希望の希求から新たな光が見え、その光を手繰り寄せることによって誇りが生まれる。

2021年5月、義母は 満99才で逝去した。私は妻と一緒になって満 45 年、いつも、「あつしさんが智頭に帰ってから智頭町は変わった。」「みんなは人の顔色を見ている、信じる道を歩きなさい。」「わしは信じている。」と、声をかけ続けてくれた。周りの誰の言葉よりも確かな評価である。義母の信頼に応えようと思った。振り返ってみると、私は常に人々の信用・信頼の輪の中にいた。まさに萃点(すいてん)(goo辞書=「萃」は、あつまるの意、さまざまな物や事柄があつまる場所。南方熊楠の造語。)の世界である。ところが残念なことにコロナ禍で葬儀に帰郷することができなかった。亡くなった義母に手紙を書いた「お義母さん、いつも勇気を与えてくれてありがとう。」と、一人の理解者を得ることは万人の力を得たと同じである。

まず目の前の方(人)と向き合うことである。小集団活動はイコールチーム人数ではない。そこに新しい発見がある。地域づくりは人の力による、大願成就するためには人徳貯金を心掛けることだ。人間関係は1対1の自他の概念(1章4)に秘訣がある。つまり、誰にも自他は存在する。他者にも自他がある。濃密な人間関係は一瞬にして自と他×2、自と自・他と他、とタスキ掛けで自と他の6通りが成立する。(「ギブ&ギブ」第3章2)次に三角形(トライアングル)のコミュニケ―ションによって小集団は輝き、希望を希求することによって光が見えた。

 8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)

地域づくりは無血クーデターだと言っていた。その意味するところは幸福革命である。当時、住民は智頭町には杉しかないと嘆いていた。そんなことはない、視点を変えれば大きな価値があると、一枚の杉の板切れを郵便はがきに応用すれば海外に届くと提案した。智頭杉日本の家と銘打ってアピールすれば地場の杉が使われて新築住宅や腰板が張られ、智頭杉で小学校校舎が2校建築された。そして、生木のまま活用する建築材の縁桁(えんげた)に価値があると、木材市場から智頭杉の生木を購入してログハウス村を建設した。その根底にあったのは、人も物も視点を変えれば最高に価値がある。まず、地域の特色に気づき、違いを認めることからはじめようと、青少年や社会人海外派遣事業や国際交流は、当初欧米の人たちと、そして軸足を東アジア(中国・韓国・台湾)へと展開してきた。それらの活動から地域の活性化は役場を覚醒化することだとターゲットを絞った。例えば、住民が役場の職員を説教しても効果はない、そこで経営コンサルタントの指導による接遇訓練の場を設け、全職員による研修システムが起動した。そして、町のグランドデザインを策定し、集落住民が地域計画を立て実行する日本・ゼロ分のイチ村おこし運動に15集落が10年間取り組んだ。この運動によって住民自治と地域経営の概念が地域に根づいた。次に領域(地区)自治を想定して旧村単位で地区振興協議会を設立したところ、行政(役場)による百人委員会が稼働した。

これら地域づくりは、どのような考え方を持って取り組んだのか。それは地域で生きることを誇りに思い、生き方や住まい方を発信した。こだわったのは「直感力」である。それらの取り組みは義務感でなく、未知との遭遇、わくわくドキドキ感で意外性の演出を心掛けた。兎に角、この地で面白く生きようと思っていた。そして、困難や壁に当たったとき、伝教太師の「一隅を照らすこれ則ち 国宝なり」と、平櫛田中の「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」の格言を唱えた。つまり、どこにあってもその環境に感謝し「足る を知る」と挑戦した。この姿勢によって、目の前の人が最高に輝き、自分自身も最善に活かされた。

1984年、杉板はがきや杉名刺を開発したころ、「寺谷のアイデアも一時のことだ、そう長くは続かない。」と、周りの人たちの嘲笑が聞こえてきた。面と向かって皮肉を言う人もいた。当初は閃きによるアイデアであったが、思いつきは限界があると考えた。そこで創作する場を設けた。その会議は前頭葉を上にして浮かんできたことを言葉にした。合わせて、周りの人たちも意見に乗って連想した。語彙を模造紙に殴り書きして、“つぶやき”や“ささやき”を企画に組み込んだ。創発規範の発酵の場は、まさに豊かな人生時間となった。

1994年8月24日、杉万先生から『こころと意味・「かや」』(「ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-2) の講義を受けた。要約すると、「環境」「集合的行動パターン」「コミュニケーション」「暗黙の自明の前提」の4点がワンセットで、「かや(規範)」と説かれた。つまり、コミュニケーションが通じる範囲の人々が世間を作り、コミュニケーションを張っている人たちの中で、暗黙自明の前提ができる、そこから意味が出てくる。その意味が暗黙自明の前提から取り出され、私たちの心の世界が出来上がるというのだ。究極、人々とのコミュニケーション(エディターシップ「ギブ&ギブ」第1章8)と、創発規範のわくわくドキドキ感によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。

9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ

自然災害は予測できない。2011年3月11日、テレビで衝撃の映像が飛び込んできた。東日本震災である。真っ黒な濁流が逆流し、自動車を飲み込んだ。「逃げろう―」と声を上げた。街をみれば津波に飲み込まれていく。その悲惨な映像は今でも目に焼き付いている。大きな衝撃を受けた。62歳で腎臓癌を発症し3月末をもって退職しようと決めていた。つまり、腎臓機能の低下は冬季間の除雪や、これまでのように公園の草刈りなどボランティアはできない。何分にも悪性癌の再発の可能性とeGFR値35にショックを受けた。自分自身の命の限りを自覚し、退職後は意を決し京都市への移住を決断していた。それこそ環境を変えることが生きることになる。妻の「京都に行こう」の一言によって、命がある内に妻の老後と二人の子どものフォローを第一義に考えていた。そこに東日本震災である。

予測がつかない、飛んでもない災害が起こることを改めて認識した。私に何ができるのか、満身創痍で汗をかくこともできない。そんな時、地震学者の今村明恒(1870年(明治3年)~ 1948年(昭和23年))の生き方を知った。《1899年に当時としては異端説とされた「津波の原因は海底の地殻変動とする」説を提唱。1905年に投稿記事の中で今村は「将来起こりうる関東地方での地震への対策を訴える」と猶予はないと警告し、今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されるが、’23(T12)年に関東大震災によって現実のものとなった。1923年に東京大学地震学講座の教授として、地震博士として幅広い震災対策を呼びかける一方、地震発生が予想される南海道地方に私設観測所を設置、’29(S4)年に日本地震学会を再設立して会長に就任。地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に業績を残した。’31年に定年退官。その後も私財を投じて地震研究を続けた。’33年に三陸沖地震発生後の復興の際に津波被害防止のため高所移転の提案をした。また、「稲むらの火」を教科書への収載を訴え、小学生から津波被害に関する教育の重要性の認知にも取り組んだ。(Wikipediaから抜粋)》

凄い地震学者がいた。自分自身も何にもならんことをするなと揶揄されてきた。ところが、今村は現職中に私設観測所を設置し、1931年に定年退官後も私財を投じて地震研究を続け、防災教育に「稲むらの火」と高所移転を提案した。その結果、高所移転を実現した岩手県大船渡市三陸町綾里(りょうり)地区では、東日本震災で住民の99パーセントが助かっていた。そんな生き方を知った。そうだ、地域づくりに定年はない。どこまで地域に関わることができるのか、それは自分自身の人生姿勢にあると思った。

そして、2011年に京都市に移住し、何から手をつけたらよいのか模索した。そうしていたところ2014年12月、明治大学農学部教授の小田切徳美先生が、『農山村は消滅しない』(岩波書店)を出版された。その一節に智頭町の地域づくりが紹介(P60)されていた。「1996年には、住民で組織する「智頭町活性化プロジェクト集団」(約30名)と行政職員が、約2年間にわたり積み重ねた議論を集約し、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』の企画書を作成した。これは、やや大げさに言えば、我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える。その全文を掲げておきたい。」とあった。運動の趣旨が丸ごと掲載されていた。“我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える”と最高の評価をいただいた。感動した。1996年に三日三晩で起草した文章だ。

小田切先生の書評に刺激を受け、ゼロイチ運動が住民にどのような影響を与えたのか、調べてみようと思った。2016年11月、京都駅の喫茶店で小田切先生にお会いし智頭町の動きを編集することを約束した。関係者にヒアリング(第1章2)をしてみるとゼロイチ運動が大きく影響していた。そして、2019年7月、智頭町が内閣府の「SDGs未来都市」に認定され、一気にまとめ10月に『創発的営み』を出版した。小田切先生は解題で“にぎやかな過疎”を提案されている。そして、創発規範の連鎖の拡大は、2021年に『ゼロイチ運動と「かやの理論」』と、2022年に『ギブ&ギブ』の出版によって検証した。敢えて言うならば、地域づくりに定年はない。

10. 無意識の力に突き動かされた

『ギブ&ギブ』の監修をしていただいた立命館大学教授山口洋典先生の「生き方・働き方の哲学への挑戦」の最終葉に、《寺谷さんの連作は、とりわけ全員が実名で登場する本作は、学問の枠に収まるものではなく、日常生活の科学を言語化する挑戦であったのだと確信しています。》と、解説いただいた。わが意を得た。つまり、「日常生活の科学を言語化する」との表現に出会い、日常における思考の在り様を知ってもらうことができたと思った。そのことを自覚するか無自覚かは知らないが、その人の内面の世界があって行動や思考が起こる。つまり、「日常生活の科学を言語化する」に反応した。そして、草郷先生から名指しがあった「まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。」と看過されたが、それらは特別に意識したものではなく、当然の感覚であった。その無意識で当然の感覚を問うてみた。

そうかと思いついたのは、私は肝臓疾患の患者であった。話せば長い。肝臓病を医師から診断されたのは30歳の年末だった。その夏、身体がだるかったので病院で血液検査を受けたところ、γ-CTPが異常値を示し、脂肪肝の病名がついた。今から考えれば疲れていたのだと思う。肝機能の数値に振り回され、組織検査を受けた。当時は、肝臓は再生しないと言われていた。ショックであった。治療薬が無いので漢方薬を服用した。そして、血液検査でC型肝炎が判明したので、インターフェロン治療を受けたが逆効果となった。そして、2005年に玉野市民病院の木村文昭先生の瀉血治療を受け、2010年に腎臓癌を発見してもらった。C型肝炎の治療薬 (エレルサ・グラジナ錠) が開発され、木村先生の薦めにより2020年2月に肝機能は完治した。この間、常に病気があった。まさに死刑囚のように時間を凝縮して生きてきた。そんな様子を見ていた関西医科大学看護学部教授鮫島輝美先生に、病気と地域づくりの関係について指摘を受けた。

《寺谷さん:いつもありがとうございます。自伝のところを読ませていただきました。人に生かされ、人を生かしてきたんだな、と思いました。確かに、病との関係性が「時間を凝縮した」といえるし、同時に終わりとの関係性がいつも切実にあるので、火事場のくそ力と言いますか、アドレナリンがどっと出る出会いが、ずっと続いているんだな、とも思いました。病と共にあることが、すでに寺谷さんのアイデンティティの一部になっている、そう感じられました。もちろん、病気になりたい人などいませんが、病があったからこその人生もあるな、そういう意味での「病の語り」を読ませていただいた気がしました。鮫島》

私が無自覚か自覚かに関わらず、肝臓病と腎臓癌は自身の個性となっていた。当然、病気になると限りある命を意識するので、火事場のくそ力を発揮したのだろう。病気が自分自身の思考や行動の深層心理の一端を担っていたことは確かである。鮫島さん曰く、「病があったからこその人生もあるな」と語られ、その通りである。しかし、病気は時間を凝縮したかも知れないが、どんな影響を与えたのかと問われると不確かである。ただ、出会いによる一期一会の意識は強く、言葉や語彙、その情景は映像の如く刻まれた。つまり、日常生活の科学を言語化する挑戦やマインドセットを変えたのは、好奇心と実は無意識の力によるかも知れない。

 11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る

2022年の夏、『ギブ&ギブ』を出版した。山形郷中学校の恩師の葉狩守先生に謹呈したところ、感想をいただいた。何分にも60年ぶりの通信簿である。

《貴重な労作をいただき恐縮しています。時間を無駄にせず、生命がけで郷土を想い描いておいでですね。一人で書き、考え、発想してまとめて、素晴らしい書物です。学生やこれに続く人たちの教えになります。自分の利益中心の考え方でなく、郷土の創生のために一銭にもならないことに生命を賭ける。そんな人が芦津から生じたこと、まことにうれしい限りである。小生、目の病で十二分の読破ができませんが、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』など骨が通じている。吉永先生をはじめ、大学の専門の方々の知恵、頭脳を参考にまとめてある。ひとりでできないことが、故前橋登志行様など地元の関心のある方々も寄り添って応援された。寺谷さん自身が動き、仲間を動かし、勉強の場を作られた。八河谷のログハウス、那岐地区の出会い館、アジサイの苗と花の園、魚の掴み取りやウグイのジャブなど、口先にとどまらず、手足、口、心が動いた。ゼロイチ村の振興協議会が動き、寺谷氏の心が村の自治に入り込んだ。郷土の古い物語を掘り起こし、英語の文に訳してスピーチを試みたり(省略)単なるギブ&ギブの本ではありません。》

葉狩先生には62年にわたって見守っていただいていた。すべて見通しておられた、有難いことである。また、日本海新聞社の元記者富長一郎氏から貴重なコメントが届いた。

《「ギブ&ギブおせっかいのすすめ」をご恵送いただき、ありがとうございました。もっと早く到着のお礼を差し上げなければならなかったのですが、生半可な返事は失礼かと思い、熟読しておりました。が、申し訳ありません。ギブギブとはあまりに大きなお題であり、体系的に消化できませんでした。断片的な感想です。大きく思ったのは、寺谷さんの「喜びや楽しみの壮大な回収」がいま始まっているということです。ギブギブとは文字だけ見ると捧げて捧げて略奪されまくったようですが、その一方で、この本からは広島から智頭に帰った時の思いを可視化できた寺谷さんの今の喜びがひしひしと伝わってきます。ギブギブとは地域を、集団を変化させる何よりの手段です。そして、その手段で願いをかなえた喜びを報酬として今、回収している。さらにはこの書を次代に残すことによって、地域づくりの実践を次代の若者に残すことができた喜びも回収されておられるのだと思います。いま、壮大な回収で全身が満たされているのではないでしょうか。断片的な感想ですので話題が飛びます。吉永先生が「関係人口」という概念にふれておられました。ふっと思ったのですが、これはカナダ・ペトロリアへ行く前夜の智頭町とペトロリアの人々の間柄もそうだったのではないでしょうか。カナダと智頭の間には絶対的な距離があったのですが、互いに交流する中で関係人口が創出されていった。いまとなってはその創出も寺谷流「ギブギブ」の産物ですね。そして関係人口が実際に交流すれば、どんな素晴らしい瞬間が待っているのかをだれもが体験した。それ以降、いくつもの多様なパターンの関係人口を創出してきたと思いますが、今回は学生たちという年代も居住地も距離がある人々との関係人口ができた。これは未来の関係人口です。本来は同じ時代の物理的な距離がある人々の間柄を関係人口と呼ぶのでしょうが、本書に収納されている関係人口は今と未来という3次元的な時間距離を隔てた関係人口です。次代への「時空を超えたギブギブ」という何よりの実践例ではないでしょうか。岡山にて》

広島時代の友人から一編の感想が届いた。出会ってから50年、地域づくりは人も物も本物が試され、人間力が根本から鍛えられた。

《今般は貴殿の大作を恵送いただき有難く拝読しました。約40年間にわたり智頭への思いがよく伝わりました。打たれても、打たれても進まれ、沢山の著作本当に素晴らしいことです。①エディターシップ、②ギブ&ギブ、③利他、この三つで頑張れたのだと思います。本著が集大成かと存じますが、益々のご活躍をお祈りします。浦部哲夫》

そして、本書の編集に当たって珠玉のコメントがあった。氏から「1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。」(3章6)、以来40年、塵も積もれば宝となれとメモ(記録)を実践した。

《感想 酒樽をかき混ぜるように、書き直すたびに、寺谷物語の豊穣な香りが立ち昇ります。しかも、ついには素風川柳まで添加された、大吟醸に仕上がってきたようです。見事な一代記です。極めてアナログ的な、地域おこしの集大成を、デジタルの手法を駆使してまとめ上げた、貴重な記録であることを、応援団の一人として、高く評価してやまない次第です。ご苦労様でした。山下宅夫》

地域づくりは世のため人のためと思っていた。情けは人のためならず、自分自身に返ってきた。ギブ&ギブの利他思想を持って邁進した。多くの人々の支援と協力を得て社会システム(仕組み)による地域づくりを実現し、誇りを創造した。まさに1983年に智頭町へ帰郷した時点から見ると雲外蒼天(うんがいそうてん)、想定外も想定外、遥かに予想を超えた地域づくりとなった。智頭町に賭けてよかった。そして「ギブ&ギブ」を出版後、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との面談(第3章9)をきっかけに、社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。

昨秋、北京外国語大学教授の宋金文先生が主宰された東アジアシンポ(横浜市立大学教授吉永崇史先生/韓国・全国災害安全研究所副所長羅貞一氏/鳥取県建築士会事務局長澤田廉路氏)の議論の中で、智頭町の住民は長年にわたって学習してきたと所見があった。まさに地域内外の人々との交流によって新しい知識に触れ心をときめかせた。それが刺激となって誇りを引き寄せたのだ。つまり、社会システム(仕組み)は、智頭町の人々の起爆装置となった。

1973年に一念発起し故郷を出奔してから半世紀の50年になる。奇跡的に命がある、まず感謝である。夢見たことを実現するため挑戦した。本書の第1章から第3章は、ゼロイチ運動による社会システム(仕組み)が、集落に奇跡を起こした事実を検証した。そして、本章は草郷先生の問いである思考の背景を書いた。文章の編集は孤独な闘いであった。できるだけ素直に一語一語を絞り出し、記録と記憶の取捨選択によって構成した。そして、京都市へ移住して11年になる5冊の出版と本書を編集した。地域に気泡のように萃点が生まれ、人々と事と心を紡いだ。実践者の学びと、社会システム(仕組み)創造の記録である。

参考資料
『ひまわりシステムのまちづくり』(共著:地域と科学出会い館、はる書房 1997)
『CCPT活動実践提言書』(編集:智頭町活性化プロジェクト集団 1989から1998)
『地域からの挑戦』(著者:岡田憲夫、杉万俊夫、平塚伸治、河原利和、岩波書店 2000)
『よみがえるコミュニティ』(編著:杉万俊夫、ミネルヴァ書房 2000)
『「地方創生」から「地域経営」へ』(共著:寺谷篤志・平塚伸治、編著:鹿野和彦、仕事暮らしの研究所 2015)(中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2017)
『定年後、京都で始めた第二の人生』(著者:寺谷篤志、岩波書店 2016)
『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み』(編著:寺谷篤志、澤田廉路、平塚伸治、今井出版 2019) (中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2021)
『ゼロイチ運動と「かやの理論」』(編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
『ギブ&ギブ、やせっかいのすすめ』(編著:寺谷篤志、今井出版 2022)

著者紹介
1948年鳥取県智頭町芦津に生まれ、1973年から1983年中国郵政局勤務。1983年那岐郵便局長、1984年杉板はがき発案、1988年CCPT設立、1989年地域経営をテーマに杉下村塾を開講する。1995年智頭町グランドデザインプロジェクト、1996年ゼロイチ運動の具体策を考案、1997年ゼロイチ運動スタート、2008年地区振興協議会スタート。2011年退職し京都市に移住、コミュニティにおける創発規範の連鎖を検証、執筆する。自称、地域経営実践士。
好きな言葉は、一隅を照らすこれ則ち国宝なり。いまやらねばいつできるわしがやらねばたれがやる。一寸の虫も五分の魂。我在存宇宙。独立自尊。


 

過疎化  SDGs・社会システム(仕組み)の力
―地域経営組織をつくる / 杉しかない町から誇りある智頭町へ―

発 行:2024年12月16日
著 者:寺谷篤志
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所