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阪野 貢/Z世代と不安社会:近頃の若者とつながりと不安の格差社会 ―舟津昌平著『Z世代化する社会』等のワンポイントメモ―

本書の結論を、“ たとえ話 ” を用いて述べれば、次のようになる。
ある村で、若者だけに感染する病が発見された。若者が次々と病気にかかっていく。それを見て、お偉いさんや親族は「これだから若者は」「若者の生活がたるんでいるのでは」「昔はこんなことなかった」などと若者を責め、病の原因を若者の資質に求める。ところが、この病気は「若者であるほど早く感染する」というだけで、実はすべての年齢層に感染するものだった。かくして、村は老若男女、この病気に侵されていくのだった。(以下[1]4ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、舟津昌平著『Z世代化する社会―お客様になっていく若者たち―』(東洋経済新報社、2024年4月。以下[1])がある。[1]では、新進気鋭の経営学者である舟津(「ゆとり世代」)によって、企業組織やビジネスの視点からの実証的でユニークな若者論(現代大学生論)が展開される。舟津によるとそれは、「現実を無視した印象論」ではなく、「並の若者を論じた本よりよほど丁寧な取材を経て書かれている」(303ページ)。それゆえにか、そこではインターネットやSNS(Social Networking Service)の用語や若者言葉が多用され、「団塊の世代」(1947年から1949年にかけて生まれた世代)の筆者にとってはいささか読みづらい本ではある。とはいえ、「Z世代と呼ばれる若者たちを観察することで、われわれが生きる社会の在り方と変化を展望しよう」(5ページ)とする点で、興味深い。
〇「ゆとり世代」とは一般的には、2002年4月から始まる「ゆとり教育」(「完全学校週5日制」「総合的な学習の時間」等)を受けた世代で、1987年から2004年に生まれた世代の呼称である。「Z世代」とは概ね、1990年代半ばから2010年代前半に生れた世代(1990年代後半から2012年頃に生れた世代:67ページ)で、デジタル機器やインターネットが普及している環境で育った世代をいう。なお、こうした世代(cohort)論に関しては、多様性の時代や個人化社会が進行するなかで、その世代の実体や共通性(同質性)は流動的であり、若者の真の姿を描写することが困難になっている。すなわち、Z世代の共通性を前提として、固定的・集合的に若者論を説くことは難しい、とも言えよう。それは、根拠が脆弱な単なる印象論に陥ることにもなる。
〇[1]におけるキーワードのひとつは「不安」である。舟津はいう。Z世代の若者たちは、友達に依存して生きており、友達や友達候補がいないと不安を感じ、孤独は恐怖である。そこでまず、「 友達の共感」(44ページ)を求める 。そして、黙っていて静かな、目立たない「いい子」(51ページ)になる。また、若者たちは、インターネットやSNSの開かれたネットワーク(コミュニケーション)のなかに “ 閉じられたコミュニティ ” をつくり、そのなかで互いの行動を監視・管理し合っている。友達関係は必ずしも自由なものではなく、コミュニティからの疎外や排除、追放に不安を感じているのである。筆者はここで、2005、6年頃に話題になった大学生の「便所飯」を思い出す。ひとりで食事をする “ ぼっち飯 ” に恐怖を覚え、トイレの個室で食事をする、というのである。
〇このようにZ世代は、他人を警戒し、かなり慎重に周りを観察しながら、その一方でほどよく得(とく)できる、コストパフォーマンス(費用対効果)の良い「最適」をめざす。「周りをつぶさに見て、平均を推定して、そのちょっと上になる」ことを慎重にめざして、「最適の置き所を探っている」(61ページ)。
〇この点をめぐって舟津はいう(抜き書きと要約)。

Z世代は周囲への監視の目を絶やさず、他者評価に敏感である。そして、常に「横」を見る。(何処かに)みんな行ってるなら行く、なのだ。わざわざ断るほどの主体性はない。極端なことを言えば、Z世代は他人を信じていない。他者を警戒して監視して、損しないように立ち回って、平均ちょっと上で得することをめざしているから、同世代すら信じていない。/そうでもないと、あんなに手の込んだ友達作りをするわけがない。(220~221ページ)

〇また、いまの若者たちは、就職に不安を感じ、就活を早期から始める。就職後、職場での人間関係に不安を覚え、上司からの不快な非難はぜんぶ「アンチ」であり(88ページ)、説教や叱責に恐れを感じる。また、「自分は他社や他部署(ヨソ)で通用しない」のではないか、こんな「職場では自分は成長できない」のではないかと思い、不安を抱え、転職を考えるのである(246ページ)。
〇ことほどさように、Z世代の若者たちの悩みや不安のタネは尽きない。そしてそれは、社会の変化に敏感に反応し、社会の病理が具体化・体現化されたものである。若者たちは、大人の「映し鏡」(161ページ)である。その点において、上の世代にとっても無関係ではなく、確実に影響を受けている。冒頭に記した “ たとえ話 ” の一節が意味するところである。
〇この点をめぐって舟津はいう(抜き書きと要約)。

Z世代はわれわれの――Z世代以外を含む――社会の構造を写し取った存在であり、写像(しゃぞう)である。/若者は経験が浅く、雑味(ざつみ)がなく澄んでいて、だから外からの影響を受けやすい。社会の構造なるものが生まれる――たとえば不安を利用したビジネスが横行する――とき、社会に在るわれわれは、多かれ少なかれその影響を受ける。なかでも若者は感度が高く適応が早いので、いち早く構造を反映して言動に移す。/だから、異様に見える。でも異様に見えるZ世代は決して地球外から来たエリイリアン(異星人)ではなく、社会構造をより純粋に敏感に写し取った、先端を往く者なのだ。ビジネス化する社会も、不安を利用する社会も、(何の実態もなく、意味内容の存在しない唯(ただ)の言葉しかない)唯言(ゆいごん)的な社会も、若者の方が影響を受けやすいというだけで、確実にわれわれにも影響している。(264ページ)

〇以上を要するに、[1]の結論はこうである。それは、冒頭の “ たとえ話 ” の別言である。

Z世代と、それ以外の他者としてのわれわれをつなぐかすがいは、(中略)社会の中で、われわれのあいだに同じ構造が在ることを認識し、どうやってそこから生きていくのかを一緒に考えることにあるのではなかろうか。/現代社会とはいわばZ世代化する社会である。時代の最先端を走るトップランナー(top runner)でありアーリーアダプター(early adopter:最初期に適応する人)である若者を観察すれば、われわれが置かれた社会構造がより鮮明に見える。Z世代が、意識・無意識によらず感取し現前化させたものこそ、われわれの生きる社会を表したものなのだ。(264、265ページ)

〇なお、舟津は、Z世代に巣食う病理、すなわち現代社会が孕(はら)む社会病理について、その処方箋(アイデア)をいくつか提示する。「理由を探さないで、根拠のない自信を持って生きる」(信頼や不安にはもともと根拠はない)こと、「欠落していることを自覚し、満点人間をめざさない」こと、「したたかに、余裕を持って生きる」こと、などがそれである(285~300ページ)。
〇要するに、根拠がなくても自分や他人を信頼して、(根拠のない)不安を打ち消し、日々の生活(仕事)に向き合っていくことであろう。それは、一面では社会構造的な「解」を求めたい筆者にとっては、いささか手ごたえがないモノである。そう評価する理由のひとつは、若者の価値観やメンタリティ、行動特性(「若者文化」)に焦点を当てる[1]に対して、貧困や社会的孤立のなかで生きるいまの若者を「社会的弱者」として、歴史的・社会的文脈のなかで構造的に捉えることが必要かつ重要である、と考えるからでもある。
〇最後に、Z世代に関して一言。舟津によると、[1]を読んだある読者から「Z世代は “ 炭鉱のカナリア ” である」と評されたという(注①)。言い得て妙(いいえてみょう)である。前述した「黙っていて静かな、目立たない『いい子』」や授業中「黙って座っていれば、いい子だと思ってる」(52ページ)学生は、さしずめ “ 歌を忘れたカナリア ” であろうか。「全共闘世代」(1941年から1949年生まれ)に属するとも言われる「団塊の世代」の筆者から、若者にエールを送り、若者の奮起に期待したい。

①「舟津昌平 Z世代とは日本社会を映す『鏡』である」『日経BOOKプラス』(2024年7月19日掲載)
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/071100393/071100001/(最終閲覧日:2024年9月30日)

〇ここで、「不安社会」に関して一言したい。筆者(阪野)の手もとに、「不安社会」に関する本が2冊ある(しかない)。奥井智之著『恐怖と不安の社会学』(弘文堂、2014年12月。以下[2])と石田光規著『孤立不安社会―つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖―』(勁草書房、2018年12月。以下[3])がそれである。
〇先ず[2]で、奥井は、「ますますグローバル化し、個人化する社会は、わたしたちの恐怖と不安の温床である。――わたしたちは今日、そういう恐怖と不安にクールに向き合うことを求められている。しかしクールに向き合うだけで、恐怖と不安が解消するわけではない。他者との連帯にクールに向き合うことが、新しいクールな課題であろう」(156~157ページ)という。これが奥井の主張である。
〇すなわち、こうである。人間はコミュニティに帰属することで「安全」を確保する。しかしそれは、「自由」の喪失を意味する。そこで、「自由」を確保するためには、コミュニティから離脱しなければならない。しかしそれは、「安全」の喪失を意味する(73ページ)。こうして、「コミュニティに埋没すること」の「恐怖と不安」と、「コミュニティから乖離すること」の「恐怖と不安」は、非常に密接で切り離せない「相即不離」(そうそくふり)の関係(87~88ページ)にある。
〇現代社会は、グローバル化し、それに伴ってコミュティの喪失と個人化が進行するなかで、社会的結合が弱体化している(116ページ)。「グローバル化=個人化社会とは別名、非コミュニティ社会である」(165ページ)。そのコミュニティのつながりの希薄化やコミュニティからの解放や離脱、拒絶や排除、すなわち社会関係の喪失や社会的分断は、「自由に自己をデザインできる」(165ページ)こと、すなわち自己選択・自己決定と自己責任を意味する。それは、人間にとって「恐怖と不安に満ちた状況」(70ページ)でもある。そこで人々は、「社会の動向と切っても切れない関係」にある「恐怖と不安」に冷静に向き合い、新たな社会的連帯を求める。別言すれば、「恐怖と不安」は社会的連帯への契機になる可能性を持つのである(142ページ)。
〇なお、奥井は、「恐怖」と「不安」を個別に捉えるのではなく、「恐怖と不安」を並列的に位置づける。つまり、奥井にあっては、「恐怖と不安」は「複雑にからみ合って」(15ページ)おり、「十分に認識したり、制御したりできないもの」(16ページ)である。そこで例えば、「死の不可避性は、恐怖と不安の最大の源泉である」(25ページ)、「恐怖と不安の最大の源泉は社会関係にある」(28ページ)、「恐怖と不安の根源は、人間の知性の限界にある」(17、160ページ)などとなる。
〇とはいえ、“ ヒトはいつか必ず死ぬ ” ことについて「不安」を感じ、“ 死を間近に控えたヒト ” は死への「恐怖」を覚える。近い将来 “ 大地震が来る ” と言われることに「不安」を感じ、“ 地震でいま、家が揺れている ” ときに「恐怖」を覚える。このことだけを考えても、「恐怖と不安」は「恐怖」と「不安」に区別して、個別の概念として捉える必要があると言える。また、ヒトは、未確定あるいは不確実なことについて無知であり、あるいは漠然としか認識できず、さらには十分に制御できず「安心」が得られないときに、「不安」を感じる。その「不安」が広がり・深まる(「不安」が増幅する)なかで「危険」な状況に直面するとき、「恐怖」を覚えるであろう。そして、こうした個人の感情である「恐怖」と「不安」は、それに対処し得る資源をそのヒトがどれだけ持っているかによって、またそのヒトが属するコミュニティや人間関係のありようによって、その感じ方(強度)も異なるであろう(「恐怖」と「不安」の格差)。それはつまり、「恐怖」と「不安」は、個人的要因だけでなく、歴史的・社会的要因について構造的に把握する必要があることを意味する。
〇次に、[3]についてである。そこで石田は、「孤立にまつわる一連の問題を、個人の決定・選択を重視する社会(個人化社会)の産物と見なし、当該社会における人間関係の問題を、孤立を中心に」論じる。その際、個人化とは、「社会を構成するさまざまな単位が個人に分割される現象」をさす(3ページ)。
〇[3]におけるキーワードのひとつは「選択的関係」(「選択的関係」の主流化)である。石田は次のようにいう。

旧来的な農村のように、強固な役割構造を内包する集団に人びとが埋め込まれている社会では、そこに暮らす人が人間関係を選択・決定する自由はきわめて少ない。生命の維持と共同が結びついていた社会では、所属集団の拘束は絶大なものであった。人びとは血縁・地縁といった中間集団への埋没と引き替えに、自らの生命を維持していたのである。この時代の人間関係を、さしあたり、「共同体的関係」としておこう。/一方、現代社会のように、人びとの生活を消費および国の提供する社会保障サービスが補償するようになると、人びとが固有の人と付き合う必然性は低下する。それとともに、私たちを縛り付けていた血縁や地縁の拘束は揺らぎ、人間関係には感情の入る余地が増してゆく。私たちは今や「自らの好み」に応じて関係を形成・維持する自由を手に入れたのである。このようなつながりを「選択的関係」としておこう。「選択的関係」の主流化は現代社会における孤立不安と密接に関連する。(4ページ)

〇これが、石田の言説(立論)の基本的視点・視座である。それに基づいて石田は、現代社会の「選択的関係」の主流化による孤独・孤立に関する諸問題(婚活、孤立死、コミュニティ活動、育児・介護など)を、学説や量的データを用いて分析・検討し明らかにする。それらの結果は次のように “ まとめ ” られる((a)(b)(c)は筆者)。

(a)人間関係が選択化するなか、私たちのつながりを支える基盤は、社会的な役割から個人的な感情に変わってゆく。感情を仲立ちとした関係は、相手からの承認の獲得という課題を押しつけ、人びとの孤立への不安を拡大する。同時に、「選択的関係」の主流化は、他者から選ばれる人・選ばれない人を明確にし、つながり格差をもたらす。/(b)その一方で、個人の決定をとりわけ重視する社会は、選ばれないことによる孤立も、自らの選択の帰結として処理してゆく(自己責任:筆者)。しかし、その背後には、個々人の行動様式(自己への関心)、親の養育方針(面倒の見方)にまで浸透した排除が潜んでいる。/(c)孤立問題を解決する切り札として期待される地域のつながりは、高度経済成長がひと段落した1970年代に、すでに動揺が指摘されていた。私たちは、地域の人たちとつきあわなくても生きていけるように、社会の諸システムを整備してきたのである。こうしたなかで、地域での活動に携わる人びとは、いかにして地域住民の共同性を再編させるか頭を悩ませている。(209~210ページ)

〇この “ まとめ ” を別言すると、こうである(見出しは筆者)。

(a)他者から「必要とされる」資源の多寡(たか)が孤立に結びつく
「選択的関係」の主流化は、私たちの心に「選ばれない恐怖」を植え付け、つながり獲得の行動へと駆り立てる。その一方で、選択のなかに埋め込まれた〝 選別性 〟は、「選ばれる資源」(学歴や収入など、選ばれるために相手の欲求を満たす資源:筆者)をもたない人びとを振り落としてゆく。かくして恵まれない人ほど孤立の恐怖に取り込まれてゆくのである。(76ページ)

(b)自己への関心(自己理解)や親の養育態度が孤立に影響を及ぼす
自己への関心が高い人、親による面倒見の多かった人ほど、孤立していない傾向が見られる。(124~125ページ)/学歴の高い人、暮らし向きのよい人、親によく面倒を見てもらった人ほど、自己への関心(自己理解:筆者)が高い。(中略)そういう人ほど、関係形成に望ましい生活態度を身につけている。(126~127ページ)/親子の経済資本(経済力)、人的資本(学力)に加えて、文化資本(養育指針、生活態度)が相まって、社会経済的地位の低い人びとを孤立に貶(おとし)めてゆく。(130~131ページ)

(c)地域住民の共同性をいかに再編するかが問われている
高齢化の進展、単身世帯の急増、財政の逼迫により地域の互助に対する期待は年々高まっている。にもかかわらず、互助を期待しうる「濃密な関係」は、地域や近隣には見られない。つまり、孤立への打開策として、近隣に期待するのは難しいということだ。これが量的データで鳥瞰的にあぶれ出された地域の実情である。(166ページ)

〇「恐怖」と「不安」が個人化され、その格差が生じている。それがまた、「恐怖」と「不安」をいっそう増幅させている。そんななかで、社会的連帯の方途を見出すことは難しい。石田がいうように、「孤立不安社会としがらみ不満社会を超克(ちょうこく)しうる『第三の道』へは、そう簡単には到達し得ない」(232ページ)。(c)に関して石田は、新たなつながりを生み出す契機として、新たな互助関係としての「ボランティア」、目的集団としての「趣味縁」、所有よりも必要性に根ざした「シェア」、が期待されるとする(228~229ページ)。この提示に関しては、ここに至って、それまでの学説や量的データに基づく石田の論理展開は、影を潜(ひそ)める。指摘しておきたい。
〇例によって唐突であるが筆者は、構造的に生み出される社会的現象としての「恐怖」と「不安」に対処するための理論的根拠のひとつに「共生」論や「ソーシャル・キャピタル」論があり、社会的仕掛けのひとつに「まちづくりと市民福祉教育」がある、と考えている。
〇なお、「共生」論のひとつに、「共生」とは「二つ以上の異なる主体間でお互いに依存しあうなかに、『特定の利益』が共有される状態」をいう、という言説がある(金子勇『格差不安時代のコミュニティ社会学―ソーシャル・キャピタルからの処方箋―』ミネルヴァ書房、2007年11月、43ページ。本書で金子は、『格差不安社会』の典型は『少子化する高齢社会』であるという)。「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)論とは、知らない人を含む一般的な人々に対する「信頼」、“  お互いさま ” という想いから互いに支え合う互酬性の「規範」、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(社会的つながり)によって、コミュニティの諸問題が解決され、よりよい統治が進み、豊かなコミュニティが創り出される、という考え方をいう。付記しておきたい。

あなたは、日頃の生活の中で、悩みや不安を感じていますか。それはどのようなことについてですか。
日頃の生活の中で、悩みや不安を感じているか聞いたところ、「感じている」とする者の割合が75.9%(「感じている」の割合34.8%と「どちらかといえば感じている」の割合41.1%との合計)、「感じていない」とする者の割合が15.5%(「どちらかといえば感じていない」の割合12.4%と「感じていない」の割合3.2%との合計)となっている。
日頃の生活の中で、悩みや不安を「感じている」、「どちらかといえば感じている」と答えた者(2,335人)に、悩みや不安を感じているのはどのようなことか聞いたところ、「老後の生活設計について」を挙げた者の割合が63.6%、「今後の収入や資産の見通しについて」が59.8%、「自分の健康について」が59.2%と高く、以下、「家族の健康について」(50.7%)、「現在の収入や資産について」(47.0%)などの順となっている(注②)。

②「日常生活での悩みや不安」「悩みや不安の内容」内閣府『国民生活に関する世論調査(2023年11月調査)』(2024年3月19日掲載)
https://survey.gov-online.go.jp/r05/r05-life/2.html#midashi13(最終閲覧日:2024年9月30日)

阪野 貢/「社会的処方」再考―西智弘編著『みんなの社会的処方』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、西智弘編著『みんなの社会的処方―人のつながりで元気になれる地域をつくる―』(学芸出版社、2024年3月。以下[1])がある。『社会的処方―孤立という病を地域のつながりで治す方法―』(学芸出版社、2020年2月。以下[2])の続編である。[2]に関しては、本ブログの<雑感>(123)社会的処方とリンクワーカー:お医者さんが取り組む“オモロイ”はじめの一歩―西智弘編著『社会的処方』読後メモ―/2020年11月27日/本文、を参照されたい。
〇西(緩和ケア内科医)にあっては、「社会的処方」(Social Prescribing:ソーシャル・プリスクライビング)とは、「薬で人を健康にするのではなく、人とまちとのつながりで人が元気になる仕組み」(3ページ)、別言すれば「病気や障害があっても無くても、子どもから高齢者まで、誰しもが自分の『やりたい!』を自由に表現でき、それが実現できるような環境を平等に享受できるようにみんなで取り組んでいく」仕組み(5ページ)をいう。「社会的処方は、もっと自由でいい。多くの人たちが気ままに自然に『自分にできること』『自分がやりたいこと、好きなこと』を持ち寄って、お互いに『いいね、いいね!』とつながっていく先に、孤独・孤立の解消がある」(6ページ)。
〇そこで西は、[1]で、社会的な孤独・孤立の問題が深刻化するなかで、「日常生活の様々な場面に社会的処方があり、暮らしているだけで元気になれるまち」(カバーのそで)、「ごちゃまぜのまち」(246ページ)をどうつくるかについて、世界と日本における社会的処方の実践の「場」(生活の動線上で、人と人とが行き交う、ハブとなる「場」:53ページ)や具体的な取り組みに学びながら、これからを展望する。
〇また、西にあっては、社会的処方の基本的理念は、「人間中心性」「エンパワメント」「共創」の3つである。西はいう。「人間中心性」(person-centeredness)については、「その方(人)がこれまでどんな人生を歩んできて、何に興味があって、そしてこれからどう生きていきたいと思っているのか、『好奇心と思いやりをもって、目の前の個人を見ていく』姿勢が大切である」(16、18ページ)。「エンパワメント」(empowerment)については、それは「誰もが本来備えている能力を、発揮できる社会を目指す思想」であるが、「目の前にいる人を信じて、気長に、本人がもっているものを一緒に見つけていくプロセスを共に過ごすことが大事である」(19、21ページ)。「共創」(co-production)については、それは「一緒に作っていくこと」であるが、「自らの社会的処方を(リンクワーカーと一緒に)自ら生み出していく」(21ページ)ことが重要になる。
〇そして、「リンクワーカー」(link worker)は、「孤立している個人やその支援者と面会し、本人の特性や興味関心などを聴取しながら、孤立の解決のために地域活動などとつなげていく役割を担う」人をいう(16ページ)。そのリンクワーカーには、医療や保健・看護・介護・福祉などの専門職や行政職員としてのリンクワーカー(「職業リンクワーカー」)のほかに、ボランティアとしてリンクワーカー的に活動する地域住民=「市民リンクワーカー」がいる。この点について西は、日本で社会的処方を進めていくうえでは、「社会的処方を文化にする」ために「住民主体型の社会的処方モデルが好ましい」(17ページ)という。これらが「社会的処方」についての西の言説、そのポイントである。
〇ここでは[1]のなかから、「社会的処方」をめぐる論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によってそれは限定的(恣意的)であるとの謗(そし)りを免(まぬが)れないことは承知している。

社会的処方ではケアされる本人が主役になれるように支援することが肝要となる
「支援する」とは、「基本的には対等な二人の人間が、そこにある課題に対して、一緒に新しい価値を生み出していくこと」である。(24ページ)/ここで大切なキーワードは「本人が『主役』になれるように」である。あくまでも、主体は本人。支援者であるリンクワーカーが何かを施して、本人を受動態の形にするのではなく、かといって本人に全ての責任を押し付けるのでもなく、「一緒に決めたよね」「私たちはあなたのことを見ているよ」といった関係性で支えるという意識が大切なのである。本人が「主役」になる、ということはその主役に働きかける脇役だって必要だし、それを見続ける観客の役割だって必要なのだから。(25ページ)/「一緒に決める」「ずっと見ている」この2つをもって、自身を取り巻く社会の中での「主役」と信じられるようにしていくことが、ここで大切にしたい支援の形なのである。(25ページ)

社会的処方にとって「アート」は人と社会をつなぐ重要な社会的営みである
人々が思いを表現した絵や造形、音楽、ダンスなどをアートという。(148ページ)/アートは人類の歴史上ずっと存在しており、人にとって欠かせないものである理由のひとつは、人が社会的動物で高度な「つながり」が必須だからだ。それは単に他者との表面的な繋がりではなく、自己の内面とのつながりを含む。人は自己信頼ができなくなるとイキイキとしているのは難しく、また、心が通う他者がいない「望まない孤独や孤立」は死を近づける。心安らかに暮らすには自分とのつながり、他者とのつながり、心身ともに安心安全な居場所が必要だ。だから人は自己と自分を取り巻く世界をつなげようと表現し、他者とともに想像を共有し、つながりを形成する力をアートの形で発展させてきたのだろう。言語を超え表現するアートは高度に社会的である人間が生きることをつなぐ、切実なものとして生み出されてきた。アートは個人の創造性と深い繋がりを持ちつつ、同時に社会的な関係性をつくるソーシャルな機能を持つのが特徴だ。(148~149ページ)

社会的処方は人々がまちなかで「わずらわしいことをする権利」を行使することを求める
いつの頃からか、「公共空間で起きている問題は行政の管轄」「そこを管轄する専門家が管理するほうが面倒くさくなく、効率的」、さらには「私たちは『税金』ってかたちでお金を払っているんだから、それくらいの『サービス』はしてくれて当然だろう?」という「社会のお客様でありたい」考えに取りつかれつつある。(206ページ)/これから必要なのは「行政のダイエット」であり、できるところは自分たちの頭で考えて何とかして、行政に頼らないことで税金もかからないようにする方が、長い目で見れば結果的に僕ら自身にもお金が残っていく。もう少し見方を変えるなら、僕らは行政から「わずらわしいことをする権利」を取り戻すべきなんじゃないか、と言える。(中略)僕らは「自分が住むまちを自分できれいに整える権利」や「公園で自由に遊ぶ権利」をはじめとした、「自分たちの暮らしを自由に彩る権利」までも奪われてしまっていると言える。それら権利を全て取り戻して(すなわち、おせっかい住民をエンパワメントして:87ページ)いくことが結果的に、僕ら自身がまちなかで面白がれる生活につながっていくのだと思う。(207~208ページ)

〇2020年7月に閣議決定された政府の「骨太の方針」に、社会的な孤独・孤立対策として「社会的処方」が明示された。2023年6月に「孤独・孤立対策推進法」が公布され、翌2024年4月に施行された。筆者(阪野)は、社会的処方の言葉や理念がイギリスからの(旧態依然とした)直輸入であることに危うさを感じる(イギリスの一般市民レベルでは「社会的処方」は必ずしも十分に認知されている状況ではないとも言われている)。また、社会的「処方」に含意される医師主導に違和感を覚え、さらには慎重さに欠ける制度化に唐突感を禁じ得ない。介護保険制度が導入された2000年4月以降、「地域包括ケアシステム」(地域住民に対して住まい・医療・介護・予防・生活支援などのサービスを一体的・体系的に提供する体制)や地域共生社会づくりのための「多職種連携」の推進が図られ、最近では(2021年4月施行の改正社会福祉法で)属性を問わない相談支援・参加支援・地域づくりに向けた支援の3つの支援を一体的に実施する「重層的支援」体制の整備が図られるなかで、いま、なぜ、社会的処方なのか。また、同改正社会福祉法で「重層的支援体制整備事業を実施するに当たっては、社会福祉士や精神保健福祉士が活用されるよう努めること」と参議院で附帯決議されるが、そんななかで、なぜ、「リンクワーカー」なのか。


〇ただ、WHO(世界保健機関)がいう、社会的処方の基底にある「健康の社会的決定要因」(SDH:Social Determinants of Health、1998年)や「ICF(国際生活機能分類)」(International Classification of Functioning, Disability and Health、2001年)の「環境因子」(environmental factors)について重視すべきであることは言うまでもない。
〇西はいう。「社会的処方を(市民の)文化にする」(17ページ)こと、すなわち地域に暮らす一人ひとりの住民が孤独な人のつなぎ手となっていくことが必要である。とはいえ、「社会的処方の効果に関する科学的な検証はまだ十分とは言えない。過度の投資や熱狂、手放しでの賞賛をするのではなく、目の前にいる一人一人を見つめ、必要に応じて適切な社会的支援を行っていく、その中のひとつの選択肢として、社会的処方の考え方があるのだと理解しておいた方が、現時点では無難であろう」(129ページ)。付記しておきたい。

 


➀ WHO(世界保健機関)は、「SDH(健康の社会的決定要因)」を次の10項目に分類している。①社会格差、②ストレス、③幼少期、④社会的排除、⑤労働、⑥失業、⑦社会的支援、⑧薬物依存、⑨食品、 ⑩交通、がそれである( WHO健康都市研究協力センター・日本健康都市学会訳『健康の社会的決定要因―確かな事実の探求―』(第2版)特定非営利活動法人健康都市推進会議、2004年)。
② 「ICF(国際生活機能分類)」については、スライド(3)ICFの視点と福祉教育―ICFの構成要素間の相互作用/本文、を参照されたい。

補遺
社会的処方の名前や概念は少しずつ広まり、2020年の政府「骨太の方針」にも社会的孤立対策の切り札として明記された。そして2024年には「孤独・孤立対策推進法」が施行され、孤独や孤立の問題は国や自治体だけではなく「国民一人一人も」力を合わせてその対策につとめていくべきとされた。([1]3ページ)

阪野 貢/辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、辻浩(つじ・ゆたか)の本が7冊ある(しかない)。

(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習―福祉のまちづくりへの主体形成を求めて―』ミネルヴァ書房、2003年12月(以下[1])
(2)辻浩著『現代教育福祉論―子ども・若者の自立支援と地域づくり―』ミネルヴァ書房、2017年10月(以下[2])
(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育―教育福祉と地域づくりのポリフォニー』旬報社、2022年10月(以下[3])
(4)島田修一・辻浩編『自治体の自立と社会教育―住民と職員の学びが拓くもの―』ミネルヴァ書房、2008年8月
 本書では、自治体の自立には住民と職員の「学び」が不可欠であるという考えのもとに、住民と職員の協働による地域づくりの実践を取り上げ、自治の主体に育っていく姿を明らかにする。
(5)上田幸夫・辻浩編著『現代の貧困と社会教育―地域に根ざす生涯学習―』国土社、2009年8月
 本書では、「社会教育は社会問題教育である」(小川利夫)という考えのもとに、社会教育の本質を再認識し、今日の深刻な問題を解決するのに社会教育が有効であることを示す。
(6)辻浩・細山俊男・石井山竜平編『地方自治の未来をひらく社会教育』自治体研究社、2023年3月
 本書では、優れた実践の創造と職員の働き方は循環しながら発展していかなければならないという考えのもとに、社会教育職員の取り組みを紹介し、そのための適切な社会教育労働(公務労働)のあり方を論究する。
(7)辻浩編『高度経済成長と社会教育』大空社出版、2024年1月
 本書では、1950年代半ばから70年代初めにかけての高度経済成長期における社会教育の実践的・理論的課題をおさえながら、「地域社会教育実践史」を描く。

〇本稿では以上のうちから、辻の単著である3冊([1]から[3])を取り上げ、そこでの論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によってそれは、限定的で我田引水のものになることを断っておきたい。

(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習』
〇[1]のテーマは、生涯学習の視点から、「福祉のまちづくりを住民の主体的な参加ですすめるための視点や方法を明らかにする」(1ページ)ことにある。そこで辻は、住民参加による福祉のまちづくりの課題として、①批判精神と創造的情熱を統合すること、②困難を抱えている住民の参加を考えること、③住民参加を社会構造や社会規範のなかでとらえ実践的に解決すること、の3点を指摘する(1~3ページ)。そして、「当事者主体」「学習の自由の尊重」「住民と社会教育職員の学び」に焦点を当てて社会教育・生涯学習の歴史と理論と実践を提示する。その際辻は、これらの課題とめざすべき方向性について、抽象化・体系化された一般論として提起することよりも、実践者にその「苦悩や喜び」(4ページ)を語らせる(実践者の文章を引用する)というスタイルを取る。そこから、実践者とその実践に対して真摯に・誠実に向き合う辻の熱い姿勢が見て取れる。
〇併せて辻は「福祉のまちづくり」は、社会参加や自己実現を含むノーマライゼーションをめざして展開される必要がある。また、無償のボランティア活動に加えて非営利活動・市民活動も含めて住民の連帯に依拠して進められる必要がある。それはまた、住民によるインフォーマルサービスと自治体によるフォーマルサービスの関連を視野に入れて議論する必要がある。さらに、「福祉と教育」の共同性の追求とそこから生まれるその公共性のあり方を考える必要がある、という。こうしたことなどから辻は、「福祉のまちづくり」、その中心課題である「福祉に関する住民の理解を深め、誰もが社会に参加し豊かな交流がもてる地域社会をつくること」(18ページ)を、「社会参加を軸とした主体形成をめざす生涯学習」の視点(24ページ)から考察することになる。
〇その際辻は、「福祉と教育」(「教育福祉」と「福祉教育」)の関連(連携)をその歴史と実践から問い、住民の生活実態や人権問題に注目しながら追究する(論を進める)。

今日、違いが尊重される「共生」文化の育成と「協同」による地域社会経済発展に基づく地域づくりが求められる
今日、経済のグローバル化のなかで、一般労働者や「周辺地域」における貧困が深刻になってきている。構造的な失業に典型的に現れる「社会的排除」を克服するためには、地域社会経済発展の戦略が必要であり、そのための協同活動が求められている。/社会教育と社会福祉の関連を考える際、まずは社会教育の場面に参加していない人への機会の提供と、そこでの学習の内容や方法が問題となるであろう。しかし注意しなければならないのは、学習を通して住民の同質化を強要する結果になることであり、違いが尊重される共生の文化を育むことが大切である。また、経済的要因による社会的排除の問題が深刻になっているなかにあって、協同による地域社会経済発展という戦略のもとで人権問題を考えることが必要になってきている。(43ページ)

福祉教育プログラムが開発されればされるほど、「行為の中の省察」を行える「反省的実践家」が強調されなければならない
福祉教育のプログラム開発は、たんなる便利な教材づくりではなく、それを活用する視点を同時に提案してきた。しかし、プログラムが魅力的であればあるほど、福祉教育の実践者がそれに頼ってしまうという傾向も見られる。その意味で、福祉教育プログラムの活用と福祉教育の実践場面での実践者の主体的判断をどう組み合わせるかが課題となる。/そこで注目されるのが、ドナルド・ショーン(Donald Alan Schön)が提起する「行為の中の省察」(reflection-in-action)や「反省的実践家」(reflective practitioner)という視点である。(190ページ)/福祉教育プログラムが開発されればされるほど、実践者は実践を通じて「状況との対話」や「自己との対話」を行い、(自分の行為や考え方を振り返り、その改善を図りながら成長していく:阪野)「反省的実践家」が求められる。(191ページ)

困難を抱えた住民が社会参加するためにはまず、人と人が語り合い受け止め合える地域社会をつくることが必要である
現代社会は困難を抱えた人たちが社会から孤立し、存在証明を喪失するという現実を生み出している。また、そのような現実を生み出す装置として「世間」が機能し、困難を抱える人たちの異議申し立てを許さない精神的な構造がつくられている。さらに、そのような「世間」に向かって異議申し立てをした場合には、自分とは別の困難を抱えた人を差別する結果に陥ることが多いということも重要である。これらの議論から見えてくる現代社会の課題は、困難を抱えた人々が自分たちで語りあい、受けとめあえる関係をつくり、その関係を地域社会が認め、そこから何かを学ぶことではないだろうか。(217ページ)/福祉教育が主催者の意図に反して差別意識の助長につながる可能性があることは時に指摘されるが、その歯止めをどのようにかけるは難しい。住民誰もが自分らしく生きることのできる地域をつくるためには、一足飛びに人権や共生という価値やそれを実現する方法を提起するのではなく、困難を抱えた住民がまずは親密圏をつくり、そこでの話し合いや活動を地域が認めていくことが、遠回りに見えて意外に近道なのではないだろうか。(218ページ)

大人が地域の福祉に参加しながら共同意志を形成し、子どもとの関係をつくる教育改革が求められる
障害をもつ人への差別意識や偏見をなくすためにはできるだけ早い時期に障害をもつ子どもともたない子どもが触れ合うことが大切だといわれ、「総合的な学習の時間」の導入にともなって、子どもへの福祉教育の機会が増えてきている。(222ページ)/今日の教育改革に関する中央教育審議会の議論は、子どもを学校教育、社会教育、家庭教育でどのようにしていくかに議論が偏り、大人の学習や成長が子どもの発達や地域の教育力を高めるという文脈はほとんど見られない。しかも、子どもへの期待の核心は、経済のグローバル化のなかでますます激しくなる競争にうち勝つ「たくましい日本人」である。(223ページ)/このように、子どもの意見を聞かず、社会の退廃への有効な手立てを示さないまま、一部の大人が特定の価値にもとづいて、未来の国民像を議論しているところに、今日の教育改革に関する議論の欠陥がある。/まずは大人が地域の福祉に参加しながら、地球的な課題を考え、他者の声を「聴く」ことをはじめれば、そのことをもって、子どもとの対話が生まれ、大人と子どもの共同の関係が築けるのではないだろうか。(224ページ)

(2)辻浩著『現代教育福祉論』
〇[2]の課題は、「教育と福祉が連携して、すべての子ども・若者の豊かな人間発達を保障する道筋を明らかにすること」(ⅰページ)にある。その際、「子ども・若者の自立支援と地域づくり」というサブタイルが示すように、「困難をかかえた子ども・若者の自立支援の一環で、教育の機会均等を実現するための方策に思われがちな教育福祉から、人間発達にかかわる教育的価値と誰をも排除しない地域づくりにかかわる教育福祉にまで視野を広げて検討する」(ⅲページ)。そこで辻は、教育福祉を次のように定義する。「教育福祉とは、教育と福祉が連携して、子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす概念である。しかしそれは、静態的なものではなく、社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なものである。教育福祉は、困難をかかえる子どもにも等しく教育の機会を提供するためのものと見なされがちであるが、それだけではなく、教育全体のあり方を見直す視点であり、さらには、地域づくりの視点を提供するものでもある」(1ページ)。
〇そして辻は、この定義に基づいて教育福祉における4つの論点を提起する。①すべての子ども・若者にかかわる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題だけではなく、すべての子どもの幸せにつながる教育のあり方を全体的に検討することが必要である)。②「地域と教育」という視点からの教育福祉(教育福祉は学校内に限定されるものではなく、学校と地域が連携するなかで子ども・若者にかかわる多様な人々が共通に学ぶべきものであると考える必要がある)。③まちづくりにつながる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題解決のためにまちづくりと連動する必要があるが、それだけではなくまちづくりをすすめる契機としても考えることが必要である)。④社会教育・生涯学習の本質としての教育福祉(教育福祉は社会教育・生涯学習に内包されるが、その意義が大きくなるなかで教育改革と地域づくりに迫ることが必要である)、がそれである(4~9ページ)。こうした広く・新しい視野・枠組みのもとで辻は、これまでの教育福祉の歴史的・理論的な展開を丁寧かつ誠実に振り返り、そして今日的な課題に焦点を当てながら「現代」教育福祉論を展開する。

「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められる
教育福祉は便宜上、学校を中心に行われる「学校教育福祉」と地域を中心に行われる「地域教育福祉」に区分され、それぞれに個別領域の中で実践するタイプと領域横断的に実践するタイプがある。(34ページ)/「開かれた学校づくりにおける教育福祉」を追求する学校教育福祉と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」を追求する地域教育福祉は連携できることが多い。困難をかかえた子どもに対して社会的な制度や地域の力も活用して支援しようというスクールソーシャルワークと、住民やNPOが地域の現実を見つめ学習しながら子どもを支援する実践をつくってきていることが連携することで、今日の教育の全体を見直し、「学習権保障論としての教育福祉論」を大きく発展させることができる。/個別領域を重視した「学校・学級経営の中での教育福祉」や「成人教育の機会均等をめざす教育福祉」は課題が単純でわかりやすい。しかし、子ども・若者の生きづらさが問題となり、その解決が切実な社会の課題になっている中で、多機関連携重視の教育福祉論の発展がめざされている。すなわち、「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められているのである。(36ページ)

社会福祉のなかには具体的に問題を解決する「教育福祉」よりも、意識改革で問題を乗り切る「福祉教育」を重視する発想がないとは言い切れない
小川利夫の教育福祉論は、「教育福祉と福祉教育の関連」について、一つに、福祉教育が現実の教育福祉問題から切り離されてはならないこと(現実は切り離されていることが多いことへの批判を含む)、二つに、教育福祉と関連する福祉教育は、国家権力が支持するものと困難をかかえた民衆が支持するもののせめぎ合いの中で展開されていることを指摘した。(51ページ)/今日では学校教育と並んで車の両輪のように見られることが多い社会教育であるが、歴史的には学校教育を刺激し改革するものとして社会教育が存在した。それは社会の民主化と関連することであるが、必ずしもそうでないこともあった(近代日本の感化救済事業や社会事業は、生活支援のための「物質的救済」には消極的で、「精神的救済」に重要な位置が与えられた:53ページ)。このことは社会福祉が教育福祉を軽視して福祉教育に力を入れることを警戒しなければならないという指摘につながる。具体的に問題を解決する教育福祉よりも、意識改革で問題を乗り切る福祉教育を重視する発想が、今日の日本の社会福祉の中にないとはいいきれない状況の中で忘れてはならないことである。(53ページ)

今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている
今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている(図1:162ページ)。ここでは、一つに、教育運動を当事者が中心となって展開するようになってきていることが注目される(①の領域)。二つに、当事者が自らの権利を行使できるようになることを支援する地域での取り組みが見られることが注目される(②の領域)。三つに、ボランティア活動やNPOの力で、福祉のまちづくりとして子ども・若者の困難と教育にかかわる実践が展開されるようになってきていることが注目される(③の領域)。(そして)これらの根底に、自治の力による教育福祉のまちづくりがある(④の領域)。(161~163ページ)

図1 教育福祉をめぐる重層構造

教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりを進めることによって、真に自治的な地域づくりが可能になる
今日、高齢社会や生活困窮者の増加、過疎化、地域保全などに対応するために、政策として「行政と住民の協働(公私協働)」の必要が強く求められている。それは当初、財政的に厳しい中で地域課題を解決しなければならないという側面と、住民が自分たちのくらしを見つめかかわることの大切さという側面が融合したものであったが、今日、それに加えて、日本の国づくりの方向に積極的に協力する国民形成という色合いが強くなってきているように思われる。/このような福祉のまちづくりと「公私協働」の複雑な状況の中で、政策に振り回されない歯止めが求められている。そして<図1>のように、教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりをすすめることは、一つの歯止めになると考えられる。切実な課題をもった人のことを念頭におき、その人たちの発達を中心に地域づくりをすすめれば、国づくりの方向性に疑問が生じることもあり、真に自治的な地域づくりが可能になる。(163ページ)

(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育』
〇[3]の目的は、「すべての人が社会に参加して人間らしく生きることができる地域社会を、住民と職員(社会教育職員)の学びに依拠してつくるための実践的な課題を明らかにすること」(3ページ)にある。その際の視座は、「社会教育」をはじめ「共生」「自治」「教育福祉」「地域づくり」というキーワーで表される。辻はいう。「教育福祉と地域づくりの取り組みに含まれる学習を通して、人びとは<共生と自治>の力を身につけ、社会教育(「権利としての社会教育」)はそこで重要な役割を果たす」(5ページ)。「教育福祉」とは、「困難をかかえた人に対して、教育と福祉、すなわち豊かな人間発達の保障と生活基盤の安定をともに追求することである」(3ページ)。<共生と自治>は、「共生のために自治が必要であり、共生によって自治が高まる」(5ページ)という関係にある。こうした思考に基づいて辻は、<共生と自治>の視点から、戦後日本の社会教育論と社会教育実践を問題史的通史として跡づける。加えて、今日的な社会教育実践について、自らの理論的・実践的探究を丁寧かつ真摯に振り返りながら論究する(6ページ)。

「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められる
戦後日本の学習と教育の権利保障の動き(自己教育と条件整備を求める動き:阪野)は、1950年代後半から、その運動にかかわる住民と職員、研究者の間で「権利としての社会教育」と呼ばれるようになった。/「権利としての社会教育」は近代社会の中で確立した自由権と社会権を求めるものだったが、1970年代にユネスコで(自由権と社会権に続く:阪野)第三世代の人権(連帯の権利)が議論され、80年代に入って日本の社会教育でもそれに依拠した議論がはじまる。競争に苛(さいな)まれて人と人とがつながれなくなる一方で、障害のある人たちの社会参加が唱えられ、新たに定住する外国人が増えてくる中で、「連帯の権利」は社会教育を考える新しい視点となった。/しかし今日の状況を見ると、施設の貸し出しや講師の選定、展示内容、配架図書などをめぐって自由が侵害される事案が生じ、争いが起きないようにあらかじめ自己規制することも多くなっているように思われる。また、所得格差が他の要因とも絡(から)んで意欲格差にまで及んでいる中で、等しく教育機会を保障するとはどういうことかが問われている。したがって、社会教育研究は自由権と社会権の追求をないがしろにするわけにはいかない。「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められている。(30~31ページ)

住民参加による福祉のまちづくりはその実践が住民の統制や動員に転じないかを見極めることが重要である
福祉のまちづくりは、困難をかかえた人が地域とかかわりながら自己実現をめざすノーマライゼーションの理念にかなうものであるが、一方で、高齢化によって福祉予算の増額が必要であるにもかかわらず、財政構造を抜本的に改革できないことから、「自助」と「共助」で乗り切ろうとする側面がある。また、「地域包括ケアシステム」をつくるには住民への説明が必要であるが、はじめから政策的にゴールが設定され、そこに辿(たど)り着くことが求められる学習は主体的な学習ということはできない。福祉のまちづくりをめぐって、地域課題を学び実践することでかかわった人びとの人格や能力が豊かに形成されるのか、それとも地域課題への動員的な参加が恒常化し義務的な雰囲気にすらなっていくのか、それを見極めることが重要である。(73ページ)

「学習の自由」「教育の機会均等」の実現と「関係形成」「相互承認」を結びつけた社会教育論の展開が求められる
今日、多様な価値観を認めあってともに生きることができる社会をめざすことが求められ、仲間とともに主体的に課題に取り組むことも大切なことと考えられている。このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」への関心をもたず、(障害のある人とない人、高齢の人と若い人というように、立場の違う人が交流し、共感することができる:142ページ)「関係形成」や「相互承認」のみに注目する社会教育の考え方もある。(81ページ)/このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」という課題を捨象して「関係形成」や「相互承認」を追求する社会教育論は、一つに、今日起きている問題に目を閉ざしている点で、二つに、課題は残っているとはいえ今日の状況をつくってきた歴史的な努力に思いを馳(は)せない点で、三つに、これまで関係形成や相互承認ができなかったことが個人の責任にされてしまう点で、気づかないうちに今日的な新しい権力的統制に追随することにならないだろか。「学習の自由」と「教育の機会均等」を今日的な状況の中で実現することと「関係形成」「相互承認」を結びつけた自己教育運動に注目した社会教育論が求められる。(82ページ)

地域・自治体づくりには、学習をはじめ、住民のエネルギーとネットワーク、住民と職員の協働、一般住民の理解と合意などを生み出す仕組みや仕掛けが必要である
(「住民主体」で地域・自治体づくりをすすめる)長野県阿智村では、さまざまな課題をもつ住民が学習を通して共通認識をつくり、そこで出てきた課題を自治体職員もともに考える仕組みがある。地区の計画づくりや広報説明会、村の予算概要の配布を通して、住民が地域課題を自覚して、それを職員とともに考えることができ、公民館や社会教育研究集会で取り上げられることで、その課題を全村的に共有し、解決に取り組もうとする住民の出会いが生まれる。そして、具体的な活動は村づくり委員会や地域自治組織で取り組まれ、協働活動推進課がそれを後押しして、議会は政策をつくる。このようなことを通して、課題に取り組む住民のエネルギーが蓄積され、職員も住民とともに活動する意識をもち、そのことが労働組合で交流されている。(193~194ページ)/ここで注目すべきことは、このような学習と計画策定と情報発信を通して、地域の中で多くの住民から理解を得て合意をつくっていくということである。また、活動にかかわる住民のネットワークが形成され、そのことで当初の目的を達成した後も新しい展開があることも注目される。(194ページ)

アクション・リーチでは➀実践の流れを阻害しない、②実践者の執筆を支援する、③研究を受け止めてもらえる基盤をつくることが重要となる。
社会教育を研究する者の多くが、研究と実践のかかわりを求めて、フィールドをもって研究に取り組み、その方法論(アクション・リサーチ)をめぐる議論もなされている。(157ページ)/実践にかかわる研究者は、細かい事情を理解して鮮明な課題を提起するようになっていく実践者に対して、「負い目」を感じることもある。(161ページ)/実践の根幹にせまるアクション・リサーチのためには、(現在の取り組みだけに注目するのではなく)その実践が生まれる歴史的背景や社会的文脈を知らなければならないし、実践をつぶさに把握している実践者に学ばなければならない。(162、163ページ)/(研究者が実践者とアクション・リサーチを進めるためには、次のようなことが必要かつ重要となる:阪野)第一に、実践をリードする気持ちを抑えて、実践の流れを阻害しないようにするということである。研究者が実践の流れの中に身を置き、求められることに何とか応えていく中で、その先駆性や意義を察知して、それを住民や職員に伝えていくことは、研究者の認識の変容をともなう研究につながると考えられる。(210、211ページ)第二に、実践者が研究者に先立って論稿を書き、場合によっては実践者が執筆できる機会をつくったり、執筆を支援したりすることが大切であるということである。優れた実践を展開しそこに研究者を巻き込むのは力量の高い実践者であり、実践の経緯やその中で感じ取ったことを発信する力ももっている。実践をつぶさに知っている実践者や住民が先に執筆してこそ、研究者が書くべきことが見えてくる。(211ページ)第三に、アクション・リサーチを受け止めてもらえる基盤をつくりながら研究をすすめることが必要であるということである。研究の成果は本来、直接的であれ、間接的であれ、新しい政策の立案や優れた実践の広がりに貢献するものでなければならない。(そのためには)自分の研究を受け止めてもらえる状況を意識的につくることが必要になってきている。(212ページ)

〇以上の限定的なメモからではあるが、辻の言説は「生涯学習と社会教育と教育福祉」「社会教育と地域福祉と地域づくり」「学校教育と社会教育と地域づくり」「共生と自治と社会教育」「歴史と理論と実践」「研究者と実践者と住民」などの視点や枠組みのもとに、また「歴史研究と社会調査とアクション・リサーチ」の手法を用いた多面的・多角的な思考によって展開される、と言えよう。そこに通底するのは、「子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす」([2]1ページ)地域づくりについての熱い思いと真摯な姿勢である。
〇また、[1]から[3]を時系列に沿って見ると、辻の「生涯学習論」やそのひとつの側面である「地域づくり教育論」や「教育福祉論」の形成過程、すなわち社会教育や生涯学習の実践や研究の抽象化・体系化の方法と過程がわかる。それは、戦後日本の社会教育研究や生涯学習研究の到達点(成果)でもあり、次の新たな実践や研究への展望を開くものであると言えよう。辻は、研究者の立ち位置や方法について、地域住民や現場職員の「学習」による認識や行動を重視し、その「歴史と実践のなかから苦悩と喜びをともなって立ちのぼってくるような記述をめざしている」([14ページ])とする。強く意識したい。
〇辻の言説の特徴のひとつは、批判的精神と創造的情熱の統合と、困難を抱える住民の社会参加の重視(「当事者主体」)の姿勢にある。そしてその言説は、「社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なもの」([2]1ページ)である。そこでは、当事者が中心となって展開する「教育運動」が重視される。しかも辻は、「学習権保障としての教育福祉」 を主軸(前提)に、教育全体のあり方を見直す教育改革の視点とともに、主体的・自律的な住民(子ども・若者や成人)による「地域づくり」に視座を置いて「論」を展開する。例によって唐突ではあるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に課せられたものでもある。強く再認識したい。

追記
辻浩先生の「現代教育福祉論」理解を福祉教育の視点・視座から広げ深めるために、原田正樹先生の「福祉と教育の接近性」についての論稿を紹介しておきたい。『ふくしと教育』通巻34号、大学図書出版、2023年2月、2~3ページに収録されている。転載をご許可いただいた原田正樹先生に感謝申し上げます。

阪野 貢/自己決定と意思決定:“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)―大橋謙策「老爺心お節介情報」第59号の記事に寄せて― 

〇市民福祉教育研究所のブログ記事で人気の高いもののひとつに大橋謙策の「老爺心お節介情報」がある。その第59号(2024年7月6日)で大橋は、「情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換―『求めと必要と合意』に基づく支援」という見出しのもとで、イギリスの「意思決定能力法」(Mental Capacity Act 2005:MCA)について次のように論述する。本稿は、その点をめぐる一人の読者からの問い合わせに、限定的ではあるが、応えようとするものである(資料紹介)。

 イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
 日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
 「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
 日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には“快”の表情を示すし、気持ちが悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
 その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

〇以下では読者の求めに応じて、(1)イギリスの「意思決定能力法」と(2)「自己決定」と「意思決定」に関する4本の論稿を紹介し、そのポイントのいくつかをメモっておくことにする(抜き書き)。

(1)イギリスの「意思決定能力法」
2005年意思決定能力法は、2005年4月に成立し2007年10月から施行された、イギリスにおける成年後見制度に関する基本法である。それは、それまでのパターナリスティックな制約を課していた管理主義的な制度から、本人(成年被後見人)の意思決定を尊重し支援する本人中心主義の制度への転換を図ったものである。なお、「パターナリズム」(paternalism)については、本ブログの<まちづくりと市民福祉教育>(10)パターナリズムと市民福祉教育/2012年9月10日/本文、を参照されたい。

① 菅冨美枝「自己決定を支援する法制度、支援者を支援する法制度―イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」『大原社会問題研究所雑誌』No. 622、法政大学大原社会問題研究所、2010年8月、33~49ページ。
2005年意思決定能力法の最大の特徴は、①弱い(vulnerable=傷つきやすい)立場にある人々をエンパワーし保護するための、統一的な法的枠組みを与え、②「誰が」「どのような状況に限って」本人に代わって意思決定をなす権限を与えられるのか、またその際には、 ③どのような他者関与が行われるべきであり、どのような関与が禁じられるべきか、を明らかにした最初の制定法であるという点にある。(33ページ)

2005年意思決定能力法は、知的障害者、精神的障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発点とし、判断能力が不十分な状態にあってもできる限り自己決定を実行できるような法的枠組みの構築を目指している。特に、契約法との関係では、契約する自由を守り、成年後見が開始されても契約能力は影響を受けない点が、わが国の制限行為能力制度にみられる法態勢(わが国の成年後見制度においては、成年後見開始の審判がなされると、本人は行為能力を制限され、民法上契約など「法律行為」をなすことができなくなる。)とは大きく異なる。(33ページ)

2005年意思決定能力法は、意思決定能力に困難を抱える人々が直面するあらゆる「決定」問題が主体的に解決されることを目的として制定された法律である。別の言い方をすれば、 2005年意思決定能力法は、他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律(後見人を中心とする成年後見法)ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされかたについて定める法律(本人を中心とする成年後見法)である。(34ページ)

2005年意思決定能力法において、「意思決定(decision-making)」とは、①自分の置かれた状況を客観的に認識して、意思決定を行う必要性を理解し、②そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して、③何をしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味している。結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目されている点が特徴的である。また、意思決定過程(decision-making process)に焦点が当てられることによって(前述,①②③の流れ)、意思決定を他者の支援を借りながら行う「支援された意思決定(assisted decision-making)」の概念が取り入れられうるという利点がある。(34ページ)

イギリスの成年後見法態勢は、人が「自律的存在」であることを出発点とし、自分の事柄について自分で決定することが困難な状況になっても、他者の介入(お節介)を排除しながらいかにして自己決定を貫けるかを問い、自己決定を持続できるための道を開くことに焦点を当てている。一方、一般的に言って、日本社会においては、「家族共同体型」福祉観が強く(例 臓器移植について、本人の同意と独立して、家族の同意が置かれている)、また、他人に対する依存心(自ら決定を行うより、行ってもらうことを好む「甘え」の姿勢)が強いという文化的特徴があるように思われる。自己決定を支援されることよりむしろ、決断自体を他人に任せることを好む文化、あるいは、他人からの働きかけを押し付けとは受け止めず、むしろ引き入れる文化において、成年後見制度という、本質的に他者関与を前提とした制度ゆえの「内在的権利侵害性」に対して、あまり危険意識は共有されていないようにも思われる。(35ページ)

② 田中美穂・児玉聡「英国の終末期医療における意思能力法2005の現状と課題―任意後見である永続的代理権と独立意思能力代弁人の意義をめぐって―」『生命倫理』日本生命倫理学会、Vol.24 No.1(通巻25号)、2014年9月、96~106ページ。
MCA2005は、意思能力が無く、自分で意思決定できない人について、その人に代わって何かを行ったり、決定したりする方法、いわゆる成年後見制度について取り決めた法律である。次の5項目を原則としている(MCA2005の原則)(97ページ)。
1.能力を失っていると証明されない限り、人は能力を有しているとみなされなければならない。
2.当人が自ら意思決定するのを支援する実践可能な措置がすべて失敗に終わったのではない限り、その人は意思決定できないものとして取り扱われてはならない。
3.単に愚かな決定をするという理由だけで、その人は決定することができないものとして取り扱われてはならない。
4.能力を失った人のために、あるいはその人の代わりに本法に基づいて行われる行為および決定は、当人の最善の利益(ベスト・インタレスト)に基づいてなされなければならない。
5.行為や決定が行われる前に、それらの行為や決定が必要とされる目的が、本人の権利や行動の自由をより制約しない別の方法で同程度に効果的に達成できるかどうかについて、検討されなければならない。(98ページ)

(2)「自己決定」と「意思決定」
人はさまざまな事柄について「自己決定」し、自分の生活と人生を自律的に生きる権利を有している。これは自己決定権あるいは人格的自律権として、憲法第13条に規定されている幸福追求権の一部に位置づけられている。「意思決定」については、2006年12月に国連総会で採択された「障害者権利条約」(日本は2014年1月に批准、同年2月に発効)のなかで“supported decision making”(支援を受けた意思決定、支援付き意思決定、意思決定支援)という用語が用いられ、日本では2011年8月公布・施行の「改正障害者基本法」(第23条)や2012年6月公布、翌2013年4月施行の「障害者総合支援法」(第42条)に「意思決定の支援」という文言が法文化されている。なお、「自己決定」については、本ブログの雑感(85)「自己決定」と「自己責任」:いま改めてその虚飾と欺瞞について考える―小松美彦著『「自己決定権」という罠』と吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる』の読後メモ―/2019年6月22日/本文、を参照されたい。

③ 遠藤美貴「『自己決定』と『支援を受けた意思決定』」『立教女学院短期大学紀要』第48号、立教女学院短期大学、2017年2月、81~94ページ。
もし自己決定を自分ひとりの意思と判断で選択・決定することであると捉えるならば、抽象的な概念の理解が難しいとされ、ことばで意思を表現することやことばで意味を受け止めることが難しいとされている知的障害当事者の自己決定は困難であるかもしれない。/ しかし、自己決定の困難さは知的障害当事者に限ったことではない。人はたくさんの選択肢の中から何かを選び、決定する時に周囲からの助言や支援を受け、判断しながら決定している。また、自分の意思というものは、自分ひとりで決めていくものではなく、周囲の人とのかかわりの中で決めていくものでもある。ただ、知的障害当事者の自己決定を考える時、これまで過小評価されてきたことや自己決定する経験が少なかったことなど、彼らが置かれてきた環境を考慮すると、 自己決定を保障するためにその経験を増やし、そのための環境を整え、社会的な認識を変え、過小評価されないようにするための社会変革が必要となる。(82ページ)

自己決定と意思決定、両者の用語の違いについて柳原清子は、「決意すること」という意味において大差はないが、原語は異なるとし、“self-determination”である自己決定とは、理解力・判断力を前提として、自己の決定に対する「主体性」「責任性」「自律性」を含む概念であり、人権・尊厳という捉えと意識が大きく関与するものであると述べている。一方、意思決定については、原語である“decision making”の“making”という語が“make”(つくる)の進行形の“~ing”であり、それは“decision”(結論・決定事項・決定)を“making”(つくり上げる)ということであることから、複数の要素とプロセスがからんでいる用語であること、ビジネスや政治など社会的に広く使われており、先の見通しを立て決断していくことを表した概念となっていると区別したうえで、自己か他者かを明確にしたい時は自己決定の語を、先のことを決めることは意思決定 の語を使うことが正しいと述べている。前者は「主体」を、後者は「対象」を指していると言える。(84ページ)

一方、知的障害当事者が自己決定の主体となった場合、その「主体」の能力・基準・条件によって自己決定か意思決定かを分ける考え方もある。例えば、柴田洋弥は「必要な判断能力に対して、本人の判断能力が十分であれば、自己決定によりその行為を行なうが、判断能力が不充分なときには、意思決定支援が必要となる」と述べている。木口恵美子もまた、「障害者の権利条約は、自分で自分の意思決定を行なう権利(自己決定権)を認めており、意思決定支援は自己決定が困難な人が意思決定を行なうための支援である」と述べており、当該当事者の判断能力が二つの用語を使い分ける基準となっている。このような判断能力に拠る分け方は個人モデルの視点であるとも言える。(84ページ)

④ 安西美咲「ソーシャルワークにおける『自己決定』と『意思決定』の理論構造の検討―日本における意思決定の支援に関するガイドラインの2つの類型―」『社会福祉学評論』第23号、日本社会福祉学会関東部会、2023年2月、31~45ページ。
最近は「自己決定」という言葉とともに「意思決定」という言葉が頻繁に使われるようになってきた。この「自己決定」と「意思決定」は同じ意味のように、または混同して使われることが多い。(34ページ)/「意思決定」という言葉の登場を整理していくと、ソーシャルワークの価値としてある「自己決定」は「意思決定」という言葉を使い分ける必要性に気づかされる。つまり、この2つの用語の理論構造を理解することが必要となる。/ここで整理をするとすれば、「自己決定」は“人権として尊重”するものであり、「意思決定」はその手段、すなわち、“能力として支援”するものとして考えるのが自然である。それぞれを独立した理論・価値として捉えることが重要である。(35~36ページ)

自己決定の権利を阻害され得る人たちは、意思決定の機会を奪われている状態だけでなく、意思決定をするための選択肢が少ない、すなわち意思形成をすることに難しさを抱えている可能性がある。そしてそれは本人の能力の問題だけでなく、経験不足によるものであったり、情報不足によるものであったりと、要因はさまざまあり得るのである。そう考えればソーシャルワーカーが行うべき意思決定の支援は、意思決定できる環境を整えていくことであり、それが「自己決定を尊重する」という価値と倫理に繋がってくるのではないだろうか。なお、そのことはただ選択肢を与え、そこから選択するということが意思決定の支援なのではなく、その選択肢をどのように持つのかという本人の価値観に寄り添った支援が必要となり、本人が選択・決定することを促し、見守るだけが意思決定の支援ではないということを示しているとも言える。(36ページ)

〇「自己決定」と「意思決定」について一言すると、自己決定についてはまず、クライエントには自分のことは自分で決定するというニーズや、自由や尊厳の基本的権利があるというバイステック(Felix P. Biestek)の「ケースワークの7原則」を思い出す。また、自己決定とは自分の考えに基づいて自由に自分らしく決定し生きることであるが(自律性)、その際の自分の考えや結論は、周囲の人や社会との関わりのなかで決めていく・決められるものである(関係性)。すなわち、自己決定は少なくとも、自律性と関係性を構成要素とする。
〇意思決定(力)は、①理解(意思決定のために必要な事柄を理解していること)、②認識(意思決定を自分自身の問題として認識していること)、③論理的思考(意思決定の内容について論理的に判断できること)、④表明(自分の意思(考えや結論)を表明できること)の4つの要素から構成されるといわれる(厚生労働省「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」2018年6月、4ページ)。
〇こうした自己決定や意思決定への支援は、自己決定や意思決定を可能にするひとつの手段・方法であり、自己実現を促す行為やシステムである、と言ってよい。しかも、自己決定支援や意思決定支援は、障がい者などの判断能力や決定能力は不十分であるということが暗黙に了解されており、それを如何に覆すか、そのための環境醸成や社会改革を如何に図るかが問われることになる。
〇なお、本稿のタイトルの“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)は、アメリカにおける自立生活運動のスローガンとして1980年代から使われてきたものである。上述の「障害者権利条約」の策定過程においても、すべての障がい者の共通の「思い」を示すものとして使用された。胸に刻むとともに、その思いをしっかりと行動に表すべき言葉である。そしてまた、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に通底する理念でもある。

阪野 貢/「教育の公共性」を考える:「まちづくりと市民福祉教育」は政治の課題である ―宮寺晃夫著『教育の正議論』再読メモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、宮寺晃夫著『教育の正議論―平等・公共性・統合―』(勁草書房、2014年5月。以下[1])がある。[1]では、経済・社会システムの自由化と市場化が促され、自助の強要と共助や公助の機能低下が進むなかで、教育の格差や不平等が深刻化している。そういう現状認識のもとで、「教育の正義」を問うのではなく、「正義」の名のもとで教育のなされ方を問い質(ただ)す。宮寺はいう。「『正義』の名で取り戻さなければならないものがあるとすれば、それは、『平等と教育』、『公共性と教育』、『統合と教育』をめぐる討議に、さまざまな考え方、さまざまな立場からの参加を人びとに保障する公論の場である。(中略)『行政の効率化』と、『住民に対する直接的な責任』の名のもとで、教育に関する公論の場を不必要とし、成り立たなくしている状況が、教育のイッシュー(課題、問題)を教育のプロフェッショナルだけで解決しようとする閉鎖的な状況とともに、不正義なのである」(ⅲページ)。
〇すなわち、[1]は、「教育に関して公論の場を維持するのが危うくなってきている」なかで、「平等・公共性・統合」という「議事項目」から一連の教育政策を分析し、それによって「公論の場」の復興を求める。そして、教育をめぐって「自由」と「平等」のあり方が問われる時代にあって、「自由のなかでの平等」をいかに実現するかを探るのである。なお、[1]は、2006年から2013年の間に書かれた論稿を編んだものであり、しかも「時論」としての性格をおびたものであると宮寺はいう。
〇ここでは[1]のなかから、「教育の公共性」をめぐる論点や言説に限って、そのいくつか(以下の②から⑤)をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

①「教育への希望」は、潜在的な能力や、生れや境遇などの個人的なものではなく、人びとの互恵的関係のもとで連帯意識を育む社会的課題である
貧困が、子どもの希望をいかに限られた範囲に押しとどめているか。それをもっともよく示しているのは、児童養護施設で生活する子どもたちの事例である。養護施設の子どもの多くは、みずからの意思で、大学進学を希望しない。成就できない希望は、はじめから選択肢に入っていない。だからこそ、希望の抱き方を広げ、いままで選択肢に入ってこなかった項目にも可能性を開いていくこと、つまり「希望への教育」がなされなければならない。それは、財政の裏づけを通して人びとの「社会的」連帯意識なしには実現しない。(48ページ)/どのような境遇の子どもも、進路の選択のさい、生れと境遇の不平等のために、はじめから視野に入ってこないような選択肢がないようにしていく責任が、政策立案者にはある。選択を可能にする財政的な基盤の整備をふくめて、人びとに、負担を共有させていく責任もある。「教育への希望」は、人びとの互恵的関係なしには実現しない。子どもの教育は、親個人の責任というより、人びとの連帯意識をはぐくむ「社会的」課題なのである。(49~50ページ)

② 教育の公共性には「公共的な理由」を添え、他者の立場からも受け入れ可能な自己利益をお互いに示し合うことが必要である
自己利益を考慮に入れない個人としての市民、その市民がつくりだす公共性。そうした市民的公共性が成り立っていると想定される公共圏(国家権力や市場経済システムから独立し、誰もが参加できて、人々の共通の関心事について語り合える空間:阪野)(108ページ)の内部でさえ、個人としての市民が特定の信条や宗派の教義など、要するにそれぞれの文化的背景に従った生き方をしており、それが個々の選択の準拠となっている。政治的な決定は、そうした多様な善き生を認め合ったうえでなされるのであって、公共圏の構成員としての市民は、背景的文化をいっさい洗い流した抽象的な個人でなければならないということはない。(109~110ページ)/市民は、自分の子どもの教育にかかわる決定については、さまざまな方針を有し、たがいに自己利益に突き動かされている。そうした多様な期待が重なり合うなかで、市民の間で合意形成を図るためには、人びとが主張を述べ合うとき、裏づけとなる理由、しかもその理由が、他の人、いや反対者の側に立っても受け入れられる理由(「公共的な理由」:ジョン・ロールズ)を添え、他者の立場からも受け入れ可能な自己利益をおたがいに示し合うことを通して、公共財としての教育の分配に、責任を分け合っていくことが必要である。(110~111ページ)

③ 教育の公共性は、外部に排除された/退出した人びとの批判にも開かれた自己批評的なものでなくてはならない
私的領域で享受される自由、とくに思想・信条・信念の自由、幸福感の自由、将来の見通しの自由など、個人の生き方に関わる多様な自由がそのまま公共領域に持ち込まれると、途端に多元的な状況が現出する。その公共領域に多元的な状況が現出すると、各自の自由な主張とその根拠はたがいに共約項を持たないまま文字どおり行き交うことになる。しかし、この多元的状況の現実から目を逸(そ)らすべきではない。この現実から新たな可能性が生まれてくることがありうるからである。その可能性は、なによりも共約項を持たない他者との討議を続けるなかから開けてくる。教育の公共性は、囲い込まれた市民的公共性を超えて、外部に排除された/退出した人びとの批判に開かれた自己批評的な公共性でなければはならないであろう。(154ページ)

④ 教育の公共性には、教育の私事化の流れが強まるなかで、教育機会の実質的な平等を確保するための公論の場を確保することが求められる
教育は「生存を維持する」ために必要とされる基本財であり、その限り共通に供給されなければならない面もある。「教育機会の均等」はその最たるものである。しかし、それ以上に教育は、「才能を開花させる」ための必要に根差しており、才能がさまざまであるように、必要の中身はさまざまで、公的支援で一律に満たされることはない。それゆえ「教育の公共性」は、単に統一性、平等性を指標にして語りつくされる主題ではない。それは、わたしたち一人ひとりの個別の必要と決定を、わたしたち全体がどこまで認めることができるかという問題ともかかわっている。(157ページ)/親の責任でなされる教育に重みが掛けられるなど、教育の私事化の流れが強まる一方で、社会全体で子育てに責任を果たすことを示すため、巨額の公費主出がなされようとしている。そうした逆巻く潮流がつくりだす渦のなかで、公共領域の教育に子どもを留める人と、私的領域の教育に委ねる人が、それぞれ立場(を)入れ換えて、たがいの教育意思の「正当化」(個人が自分の要求を相対化し、それが差し向けられる相手側(場合によれば反対者)からみても「正当だ」と認められる理由を示すこと。:157ページ)を図るフォーラム(公開討論)が必要になる。それを築くことが「教育の公共性」論の使命である。(160ページ)/(すなわち)すべての親が、“自分の子どもだけは‥‥‥”といい出しかねない個人化の時代だからこそ、自由のなかで平等性を確保する議論が求められる。その議論がなされていくには、なによりも、当事者が対等な立場で参加できる公論の場を、「正義」の名で確保していかなければならない。(187ページ)

⑤ 教育の公共性は、教育の多様性がもたらす諸問題(共生の強制は個人の自由と両立するか)について政治的解決が求められる課題である
(白人と黒人の生徒などを同じ学校で平等に教育する)統合教育は、良い効果が得られるからといって、正当化されるわけではない。問われなければならないのは、自由、すなわち、個人の幸福追求の自由とアソシエーションの自由を前提にしたうえで、なおかつ相反する生き方の人と暮しを共にさせることがどこまで正当か、という憲法的枠組みにかかわる根本的な問題である。要するに、共生の強制は個人の自由と両立するか、という問題である。(205ページ)/大人は、学校に対しても、親として、地域社会の一員として、国家(の憲法的枠組み)の担い手として、それぞれ異なる役割を同時に演じ、異なる責任を同時に負っている。/大人はわが子の親であるとともに、国家のすべての子どもの保護者でもある。このとき学校は、個人的領域でも、社会的領域でもなく、まさに政治的領域(ハンナ・アーレントの学校の3領域論)に属する公共の機関となる。教育の公共性とは、教育が多様性に対して開かれており、多様性を受け入れる準備ができているという「開放性」と「準備性」を意味するが、多様性がもたらす諸問題の解決は個人間の利害調整を超えて、全体的な公正性の観点から図られなければならず、それは政治の課題である。(206~207ページ)

⑥ 時代と社会によって変化する教育の価値規準は、社会的に複合化されたものであり、その単一化を急ぐべきではない
いま求められるのは、手品のようにハンカチのなかから教育の価値規準を取り出してみせることではないであろう。教育という財は社会の所産であり、社会の他の財を分配していく財でもある。何を「教育」と呼ぶかも時代と社会により変化していく。それゆえ教育の場合、価値規準自体が社会的な複合物であることを避けられない。そこで、価値規準の単一化をあえて急がずに、他の分野の価値規準との関連、競合、接続などを経たうえで、それらを統合する端的な規準を手探りでみつけていく努力が、まだまだ必要とされるのではないか。(255ページ)

〇以上の論点や言説は、「まちづくりと市民福祉教育」の実践や研究に通底するものでもある。⑤に関連して一言すれば、「まちづくりと市民福祉教育」はこれまで、政治的領域に位置づけて論じることに必ずしも積極的であったとはいえない。まちづくりは、公共性をはじめ地域性や多様性、自律性や共働性などが厳しく問われる活動であり運動である。教育や学校は、国家による巨大な政治システムであり、そのもとでの教育行政の重層構造に組み込まれている。そうであるがゆえに、「まちづくりと市民福祉教育」には、多くの市民一人ひとりに、また地域の多様な主体に改善や改革についての確かな決意や覚悟、そして行動が求められる。
〇そして、「いま」の政治へのアプローチなくして、「いま」の、また「新しい」「まちづくりと市民福祉教育」の推進を図ることは難しい。その点で、「まちづくりと市民福祉教育」は政治的な課題であり、政治的設定を必要とする。また、それが展開される場は、参加する市民に対して、「まちづくりと市民福祉教育」の意義をいかに受け止めるかが問われ、異なる価値観をもつ多様な人々が共に生きる 「開かれた共生社会」をいかに探求するか(⑥)が問われる「政治的実験場」(207ページ)となる。そこにおいて、多くの市民一人ひとりに、「希望」をつなぐ(①)「まちづくりと市民福祉教育」の推進か図られるのである。留意したい。

阪野 貢/「政治リテラシー」考:啓蒙主義的主権者教育と保守主義的主権者教育、市民性教育と国民性教育―関口正司編『政治リテラシーを考える』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、関口正司編『政治リテラシーを考える―市民教育の政治思想―』(風行社、2019年2月。以下[1])がある。[1]では、「政治リテラシ―」について原理、思想史、実際の取り組みという3つの観点から検討する。政治リテラシ―とは、政治に関する基本的な知識、政治に関与する際に求められる基本的な技能、そしてその知識や技能を積極的に用いる意欲や態度、それらの総体(15ページ)を意味する。すなわち、政治の営みに関する知識・技能・態度の複合体をいう(8ページ)。そして、関口らはこれまでの「主権者教育」に対して、「政治リテラシー教育」の必要性を説く。
〇主権者教育とは、主権者としての、「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の育成を図るための教育をいう。日本国憲法の下では、主権(国を統治する権力)を有する者は国民である。(付記参照)
〇[1]には、施光恒(せ・てるひさ)の論稿「主権者教育における責任や義務―よりバランスのとれた理想的主体像の必要性―」([1]61~89ページ)が収録されている。そこでは、学校における主権者教育がめざす主体像について、その「啓蒙主義的側面」と「保守主義的側面」のバランスの取れた理想的主体像として「相互作用的主体像」を設定すべきであるという。この点をめぐって、言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

現在の主権者教育における主体像―社会の合理的選択者・変革者としての主体像―
現在の主権者教育の目標とされている(理想的)主体像とは、社会の合理的選択者ないし変革者としての性格を色濃く持ち、積極的に社会に影響を及ぼしていく主体だといってよいであろう。つまり、政治に関する知識と関心を持ち、自分たちの権利や利害に自覚的であり、他者と議論を交わし協働し、積極的に政治参加し、政権や政策を選択し、社会を合理的に変革していく人々だと言えるであろう。(68ページ)

啓蒙主義的主体像と保守主義的主体像―その相互作用的な関係性―
現行の主権者教育における理想的主体像とは、政治思想的に見れば、啓蒙主義の影響を強く受けたものだといえる。自分の権利や利害について自覚的であり、それを守るために、他者と協力・結託し、社会や国家を意識的に構築し、変革していく主体である。しかし人間は、社会や国家を意識的に構築する主体というだけではない。逆に、ある社会や国家に生まれ落ち、その文化や伝統から学び、それによって一人前の知的思考や各種の活動が可能になるという側面もまた有している。/政治思想史的に述べれば、伝統や文化から影響を受け、自己が形成されるという側面を強調してきたのは保守主義の考え方である。保守主義を簡潔に規定するとすれば、人間の理性や知性の限界を強く意識し、国や地域の文化や伝統、慣習などを重視する立場だと言えるであろう。/人間と社会との関係は、啓蒙主義が強調するように、人間が社会を作り出し、また変革を加えるという側面ももちろんある。しかし同時に、保守主義が重視するように、人間の理性や知性が社会の文化や伝統を通じて形作られるという側面もある。(72~73ページ)

今後の主権者教育がめざすべき主体像―バランスの取れた相互作用的主体像―
主権者教育の目指すべき主体とは、「啓蒙主義的側面」と同時に「保守主義的側面」にも目配りし、どちらの育成も目指すものとして、つまり「相互作用的主体」として設定されるべきである。すなわち、政権や政策を選択し、社会や国を変革しようとする積極的意思を備えた存在であると同時に、社会や国の伝統や文化から恩恵を受けてきたことを認識し、その恩恵を将来も享受できるように、よりよき形で社会や国を次世代に手渡していく責任や義務が我々にはあるという自覚を有する主体こそ、今後の日本の主権者教育が目指すべき主体像だと言えるのではないだろうか。/こうした主体像からは、自己の権利や利益に自覚的であり、社会や国に積極的に働きかけていく能動性とともに、社会や国に対する責任や義務の意識も円滑に導くことが可能である。(79ページ)

〇筆者の手もとに、石田雅樹の論稿「『市民性』を陶冶する教育、『国民性』を育む教育―ジョン・デューイにおけるナショナリズムと教育」(『年報政治学』第71巻第2号、日本政治学会、2020年12月、237~255ページ。以下[2])がある。[2]では、第一次大戦期(1914~1918年)におけるジョン・デューイのテクストを主な対象として、能動的な市民を育成する「市民性教育」(citizenship education)と国民性(国民としての資質・能力)を育む「国民性教育」(national education)の言説を比較検証し、その教育論におけるナショナリズム(国家や民族の利益を強調する思想や運動)の位置づけを明らかにする。
〇[2]のうちから、石田の言説(デューイの教育論の理解・考察)のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

市民性教育は、デモクラシーを絶えずリニューアルし深化させる「市民」の育成を図る
デューイにおいて「市民性教育」とは、単に統治者にとって従順な市民を再生産することではなく、デモクラシーを構成する一員として社会に参入する手助けとなるものであった。/(すなわち)デューイにあって「市民」になるということは、単に有権者としてのみならず、家族・労働者・コミュニティの一員として社会に関わることであり、自分と異なる多様な他者と共に包括的に社会に参与し続けることで、デモクラシーを絶えずリニューアルする存在になることに他ならなかった。/(この点を踏まえると)デューイが「市民性」を涵養する「市民性教育」と、生活の糧を得る「職業教育」とを一体的に捉えることも(は)必然であった。(240ページ)

国民性教育には、国の歴史を学び直し、自らのアイデンティティを問い直し、建設的な愛国主義を涵養することが必要となる
デューイは、第一次大戦期の軍事教練や国民兵役などに言及するなかで、「国民性教育」は国民的統合や公共心(public mindness)の涵養を促すものであり、そのためには真のナショナルな社会理念が必要であると説く。また、その具体的プラン(国民性教育の構成内容)については、アメリカの歴史を学び直すこと、自らのアイデンティティを問い直すこと、建設的な愛国主義を涵養することなどの必要性や重要性を指摘する。(247~249ページ)

「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある
「市民性教育」は、形式的な法遵守や空疎な知識の獲得ではなく、「職業教育」と一体化することで、社会生活における「デモクラシー」を実践する技能を涵養するものであり、他方で「国民性教育」は、アメリカ国民のアイデンティティそれ自体を「デモクラシー」として再定義することで、デモクラシーとナショナリズムとの接合を行うものであった。両者は共に、自由で平等な「市民/国民」から成る社会こそが、アメリカであることを再認識させるプロジェクトを共有している。そうした点で、デューイによる「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある。(250ページ)

〇筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「まちづくり―みんなが主役のまちづくり―」や「まちづくり―みんなであるもの探しのまちづくり―」というキャッチコピー(スローガン)を使用してきた。一面的あるいは部分的には、「みんなが主役のまちづくり」は上述の「啓蒙主義的主権者教育」と「市民性教育」、「みんなであるもの探しのまちづくり」(ないものねだり、ではない)は上述の「保守主義的主権者教育」と「国民性教育」に通底するものであろう。なお、「まちづくり」に関して大橋謙策は、1970年代からスローガンのようにいわれていた「福祉のまちづくり」が90年代から「福祉でまちづくり」へと変わり、さらに2010年代には「福祉はまちづくり」といわれる時代へと移行した、という(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月、331、335ページ)。付記しておきたい。
〇本稿に関連する拙稿(記事)に次のようなものがある。併せてご参照いただければ幸いである。

①<雑感>(151)阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日/本文
②<雑感>(187)阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―/2023年9月16日/本文
③<雑感>(96)戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―/2019年10月8日/本文
④<雑感>(97)いじめ・愛国心・道徳教育:「道徳的価値ありきの、国家のための道徳教育」を問う―大森直樹著『道徳教育と愛国心』読後メモ―/2019年11月5日/本文

付記
主権者に求められる資質・能力(主権者教育の内容)については、上記の①<雑感>(151)の拙稿と併せて、例えば次の資料を参照されたい。

 

阪野 貢/「他者」考:「差別はいけない」と断じて終えるのではなく「差別を考える」文化の醸成が肝要である ―好井裕明著『他者を感じる社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、好井裕明著『他者を感じる社会学―差別から考える―』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房、2020年11月。以下[1])がある。[1]における言説を理解するに際しては例えば、好井自身による「他者性」についての次の一節が役立つ。

社会学とは「他者の学」だ。私たちが社会を構成するメンバーとして生きるとき、他者といかに交信でき、繋がれるのかが “ 解くべき重要な問題 ” となるだろう。ただ私たちは他者を本当に理解しきることなどできるのだろうか。他者理解がいかにして可能かと問うことは、翻って他者を理解することがいかに困難であるのかを確認することとなる。さまざまな「ちがい」をもつ他者が出会い、せめぎあう。この出会いやせめぎあいの様相を克明に見つめていけば、他者理解を邪魔しているさまざまなものが見えてくる。そしてさまざまなものをさらに考えていくとき、道徳や倫理の次元で差別や排除を否定するのではなく、世の中で起きてしまう必然として、社会学的考察の対象として、差別や排除を考えることができるようになる。/「他者理解の学」というよりむしろ「いかに他者理解が困難であるのかを考える学」としての社会学の「面白さ」。差別を考える社会学の魅力。『他者を感じる社会学』(2020年)で私が伝えたかったことの一つだ。(好井裕明「社会学的想像力をいかにしたら伝え得るのか―私が新書を書き続ける理由(わけ)―」『フォーラム現代社会学』第21号、関西社会学会、2022年5月、76ページ)

〇この記述をより広く深く理解するために、[1]のなかから次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

・差別は、他者理解――あるいは他者理解の難しさ――という深遠なコミュニケーションの過程で生じてしまう “ 必然 ” であり、私たちが他者を理解しようとし、他者と何かを共有し、伝え合おうとするときに(すなわち、他者とつながろうとする過程で)生じてしまう “ 摩擦熱 ” のようなものである。(20ページ)

・私たちは普段、人間として「素晴らしい」「豊かな」存在がいるし「つまらない」「貧しい」存在もいると考えるが、それはあくまで、そのような評価の対象となる人間の営みやその人が表明する価値観や思想に由来するものであり、その人の存在自体に張り付いている属性ではない。(81ページ)/また、「貴(とうと)い―賤(いや)しい」「浄(きよ)い―穢(けが)れている」という伝統的で因習的な人間の見方があるが、廃棄すべきである。(82ページ)

・(性別や年齢、人種や民族、障害、被差別地域など)ある人々や集団、地域や状況を「きめつける」さまざまなカテゴリー化が「あたりまえ」のこととして、その時々の支配的社会や文化に息づいている。(70ページ)/文化や社会の「あたりまえ」や「普通」に息づいているものの見方や価値観こそが差別や排除をうみだす原因なのである。(208ページ)

・多様なセクシュアリティを生きる人々が性的少数者という「カテゴリー」を生き、独自に歴史を創造していく主体であるという事実を見失うことなく、私たちは、常に支配的文化や価値を相対化する「くせ」を身につけていくべきである。(128ページ)

・部落差別は、身分差別や職業賤視(せんし)、地域への偏見が密接に絡み合っており、日本の中世以前からの歴史や文化に根ざした奥の深い問題である。(88ページ)/部落差別は、本当に「不条理で」「理屈にあわない」営みである。それを背後から支えているのが、「貴(き)―賤(せん)」という人間を “ 分け隔てていく ”  見方であり考え方なのである。(90ページ)

・「差別を考える」とは、「あたりまえ」や「普通」のことと見逃している「決めつけ」や「思い込み」をあらためて洗い出し、自分自身がより優しい気持ちで他者と出会い、つながり、気持ちよく生きていくために自分の「あたりまえ」や「普通」をつくりかえていく、ということである。(246ページ)

・日常生活に生起する偏見や差別をなくすためには、まずは自分自身で「差別を考える」 “ くせ ” を身につけることが必要であり、それによって “ 差別などしない自分らしさ ” を身につけることになる。さらに「みんな」で「差別を考える」ことを模索し、そうした営みの延長に、しなやかでタフな「差別を考える」文化が息づく日常が私たちの前に立ち現れてくる。(252ページ)

・差別を受ける人々の「リアル」に対する想像力の圧倒的な欠如、貧困がある。/他者への想像力が枯渇するとき、差別は繁殖する。今、まさに「他者へのより深く豊かで、しなやかでタフな想像力」が必要とされている。(255ページ)

〇こんにち、ネット時代におけるコミュニケーションの変化や社会の分断化・個別化が指摘されるなかで、多様な存在としての「他者」と向き合う対面の人間関係(つながり)が希薄化している。そんななかでまた、自分と向き合う機会も少なくなっている。それは好井にあっては、他者を尊厳あるひとりの「人間として感じない」ゆゆしき事態であり、そこから日常生活における差別や排除が生起する。その改善や改革を図るためには、「他者を感じる」「差別を考える」ことが必要不可欠となる(11ページ)。また、「差別はいけない」と断じて終えるのではなく、「今、ここ」(現在進行形)で「差別を考える」ことによって私が「かわり」、「みんな」が「かわる」のである(252ページ)。好井からのメッセージである。
〇この点を福祉教育の実践や研究に引き寄せて言えば、例えば障がい者差別についてその歴史や現状(実態)、原因や背景などをしっかりと押さえてきたか。障がい者は憐憫(れんびん)や同情の対象ではないとしても(いまだにそうであることが多い)、「あたりまえ」のように「思いやり」の対象として直截的に認識させてきたのではないか。障がい者差別はよくないこととして、反省すべき問題であり、反省すれば「それはそれでよし」としてこなかったか。
〇また、福祉教育実践や研究は、上述の「貴―賤」に関する部落問題(さらには天皇制)について、「家柄」や「血筋」といった人間の地位や場所、属性だけで評価するという “ 偏った ” 他者理解の仕方に言及してきたか。間違っても「寝た子を起こすな」という考えはないと思うが、どうだろうか。「浄(じょう)―穢(え)」に関して言えば、伝統的で因習的なジェンダーをめぐる知識や規範、性的少数者( LGBTQ)というカテゴリーを生きる人たちの理解について関心を持ってきたか(持っているか)。福祉教育実践や研究において、「他者を感じる」「差別を考える」問題は山積している。

 

阪野 貢/「他者」考:他者と共に生きることによって自分らしく生きる ―磯野真穂著『他者と生きる』のワンポイントメモ―

〇人は、2020年1月に始まるコロナ禍において、疫学理論や統計解析手法などを用いた新型コロナウイルスの感染予測(流行予測)に一喜一憂し、罹患のリスクを避けようとした。そんななかで、普段の暮らしにおいて如何に「自分らしく」生きるかを問い、それができる社会システムを求めたのは、昨日のことのようである。筆者(阪野)の手もとに、磯野真穂著『他者と生きる』(講談社新書、2022年1月。以下[1])がある。[1]において磯野は、前者の概念を「統計学的人間観」、後者のそれを「個人主義的人間観」と呼び、また「生の手ざわり」(生きていることの実感や経験)を求めて、前者に関して「“正しさ”は病を治せるか?」、後者に関して「“自分らしさ”はあなたを救うか?」([1]帯)と問う。
〇磯野は、現代社会における人間観、すなわち「人とは何か」「人とはどのような存在であるか」という問いに対して、3種類の人間観を措定する。統計学的人間観、個人主義的人間観、そして「関係論的人間観」がそれである。[1]におけるひとつのキーワードである。本稿では限定的になるが、それに関する一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
〇磯野はいう。「人間の病いと生き死に、及びそれをいかに避けるか、引き受けるかをめぐる問題の諸相の根底には、この3つの人間観の錯綜(さくそう)があると捉えるべきである。つまりあるひとりの人間の病気や死をめぐって、本人とその人を取り巻く人々の間で行き違いが起こる時、その問題に関わる人それぞれが、思考の根底で異なる人間観を前提としながら、同じ人、同じ問題について語っている可能性がある。ある問題に複数の関係者が存在する時、関係者それぞれがどのような人間観を持っているかで、立ち上がる価値と倫理は異なる。したがって、そこのすり合わせが意識的にも、無意識的にも起こらない話し合いは、どこまでも平行線を辿るだろう」(180~181ページ)。

統計学的人間観――病気の事前予測や予防的介入に価値を与える人間観
統計学的人間観は、主に疫学の文脈で提示されるが、例えば50代以上の男性は高血圧だと脳梗塞に罹患する確率が高いというように、統計学的にある集団を数量化することによって導かれた、社会のなかの平均的な人間像(「平均人」:アドルフ・ケトレ)に基づく人間観をいう(150ページ)。その「平均人」は、ある集団の特徴を客観的に表すとみなされながらも、実体としてそれはどこにも存在しない。複雑な計算式を通して現れる架空の物言わぬ人である。それはどこにでもいることにされているが、どこにもいない。誰でもあるが、誰でもない(153ページ)。統計学的人間観は、計算式の上に成り立つ極めて抽象度の高い人間観であり、その最大の特徴は、ある集団の行く末を予想することが可能になるという点にある(184ページ)。

個人主義的人間観――「自分らしさ」(=「私たちらしさ」)を礼賛する素地となる人間観
個人主義的人間観は、自分の内発的な選択や動機によって、社会規範や世間の当たり前に逆らって自分の望みを実現する・表明するといった意味の「自分らしさ」や個性という価値によって支えられる人間観をいう(162、163ページ)。しかし、その「自分らしさ」は、ある選択や行動が「自分らしい」と認められるためには、その選択や行動に社会的承認が伴う必要がある(165ページ)。すなわち、「自分らしさ」が達成されたと思われる時、実際そこで起こっているのは「私たちらしさ」の発現であり(212ページ)、「自分らしさ」はその響きとは裏腹に、合意の形成に他ならない。その点を捉え損ねると、「自分らしさ」は、「それはあなたが決めたこと」という過度の自己責任論や責任回避の機能を生み出したり、「異なる他者といかに生きるか」という共生への省察を欠くことになる(176ページ)。

統計学的人間観と個人主義的人間観の協働と相互支援
統計学的人間観は個々人の価値を棄却する冷たい人間観であり、個人主義的人間観は個々人の価値を大切にする温かい人間観であるように思える。しかし、このふたつの人間観は、一見相反するように見えながら、実は背後(裏)で手を結び協働しあいながら、互いの存在を支え合っている(186ページ)。それはそこに、「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対性を帯びた倫理が存在することによる(226ページ)。すなわち、統計学的人間観は、個人のかけがえのなさに絶対的な価値を置く個人主義的人間観に基づいて立ち上がっている(支えられている)のである(193ページ)。

関係論的人間観――自分と他者との「関係性」の生成や変化に価値を見出す人間観
関係論的人間観は、個人主義的人間観の特殊性を浮き立たせるために措定されたカテゴリであるが、他者との関わりのなかではじめて生まれる者として「自分」(個人)を捉える人間観をいう(212ページ)。そこにおいて、この人間観は、自分と他者との関係性の生成や変化に注目することになり、「他者とは何か」「出会いとは何か」「他者と生きるとはどういうことか」などを問うことになる。「他者」とは、分かり合えるかもしれないという存在であり、同時に分かり合えないかもしれないという両義的な存在である(232ページ)。そういう他者との関わり(つまり出会い)は、不安や恐れなどをもたらすが、他者との言動の相互行為を通してどのように他者と共に在るか、共に在り続けるかについて互いの間に規則性が生成される。この相互行為の場や規則(「共在の枠」:磯野)を前提に出会いは進展するが、未来に向かって共に在り続けるためにはその「共在の枠」を変化させていく身構えと身振り(「投射」:磯野)が必要となる(238~241ページ)。その意味において、「他者と生きる」とは、「共在の枠」を共有する自分と他者が、「投射」(相互行為の姿勢や態度)によってその関係性を維持し、新たな関係性を生み出すことによって、出会った他者と共に生きていく「私」/「あなた」が存在することをいう(251ページ)。

〇要するに、一見相反するかのように見える統計学的人間観と個人主義的人間観は実は、一緒になって「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対的な倫理観や価値観を創り出す。そしてそれは、絶対性を帯びているがゆえに、人々の営みを制約する。そこにおいて磯野は、両者の人間観を二項対立的な図式で措定するのではなく、両者は協働関係にあるという。そして(そのうえで)、3つ目の人間観として、自分と他者との関係性の生成や変化に注目する関係論的人間観を考えるべきである、という。それが、「他者とともに生きる」すなわち「自分らしく生きる」ことに繋がる。これが磯野の言説であり、視座である。
〇磯野は[1]の最後でいう。「ひとつの尺度で他者の生の長さ(人生の長さ:阪野)を測り、それを価値付け、生き方に介入する際には、唯一の生への畏怖(いふ)を宿した慎み深さが求められる」(269ページ)。留意したい。
〇この指摘から、例によって唐突であるが、これまでの福祉教育の実践や研究は真に「唯一の生への畏怖を宿した慎み深さ」をもってきたか。さまざまな人間観をすり合わせる地道な・丁寧な作業を行ってきたか。特定の人間観を強要し(押し付け)てはこなかったか。そんな疑問が頭をよぎる。

阪野 貢/「他者」考:完全には理解できないからこそ他者と共に生きていける ―奥村隆著『他者といる技法』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、奥村隆著『他者といる技法―コミュニケーションの社会学―』(筑摩書房、2024年2月。以下[1])がある。人は、多くの他者といっしょにいながら(その場を「社会」と呼ぶ)、そのためのさまざまな「技法」を用いて暮らしている。[1]は、そのさまざまな技法(「他者といる技法」)について体系的に論じたものである。ここでは、それらのうちから、「理解」できない(わかりあえない)「他者」とともにいるための技法の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。なお、[1]は、単行本(日本評論社、1998年3月)を文庫化したものである。
〇その点に関する奥村のひとつのメッセージはこうである。「私たちは、『わからない他者』と『いっしょにいる』技法を、ていねいに考えていかなければならない」。「そこにはたくさんの居心地が悪い世界があるかもしれないが、どうやらそもそも他者といるということはそういうことなのだ。そして、それができることは、他者といるということを、もっとずっとゆたかなものにしてくれるように、私は思う」(298ページ)。

①「わかってくれない」ことと「わからないこと」は、他者といるときによく起こる問題である
「理解」は、他者と共存するためのひとつの有力な「技法」である。私たちは、これをよく知っており、じっさいにいつも行っている。また、それと関係するある苦しさも知っている。私たちは、よく「私のことを理解してくれない!」と嘆いたり、「私はあの人を理解できない!」と叫んだりする。わかってくれないこととわからないこと、このふたつは、他者といるときによく起こる問題である。そして、わかられたいこと、わかりたいことが、私たちがしばしば望むことである。(254ページ)

② 他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこに「自由」や「私」が存在する
これはありえない想定であるが、完全に他者の「こころ」(思いや考え:阪野)が「理解」できたとしたら、どうなるだろう。完全に私の「こころ」が他者によって「理解」されたとしたら、なにが起きるのだろう。(272ページ)/なにもかも「理解」されてしまうとき、私たちは「こころ」を自由に働かせることはできないだろう。むしろ、私たちの「自由」は、他者に「理解」されないことを条件にするようだ。もちろん、他者に「理解」されることと両立する「自由」もある。しかし、両立しない「自由」もたくさんある。たとえば、「まちがえる自由」。他者に「こころ」をすべて「理解」されるとき、私たちは決して「まちがえる」ことはできない。しかし、「理解」されない領域があるとき、私たちは「こころのなか」でいくらも「まちがえる」ことができる。「まちがえる」ことが、私たちにたくさんの「自由」を、可能性を与えてくれる。完全に理解されてしまうとき、私たちはその可能性をもちえない。/また、完全に理解されてしまうとき、「私」など存在しない。「私」のこころのすみずみまで他者によって「理解」されるとき、「私」のなかに「私だけ」の場所などどこにもないことになる。(中略)私は、他者の理解によって、どんどん蒸発していってしまう。逆にいえば、他者に「理解」されない場所をもつことによって、「私」は「私」でありはじめる。(274ページ)

③「理解」の素晴らしさ(「理解の過少」)には敏感であるが、「理解」の苦しさ(「理解の過剰」)には鈍感である
私たちは「理解」のすばらしさはよく知っているが、「理解」が生む苦しみは(感じていても)あまり論じないのではないか。「理解の過少」という事態には敏感だが、「理解の過剰」という事態にはひどく鈍感なのではないか。人がわかりすぎてしまったり、わかられすぎて苦しんでいるときにも(他者の「こころ」が全てわかってしまったと感じたり、他者に自分の「こころ」が全てわかってしまったと感じたりして苦しんでいるときにも:阪野)、もっとわからなければ、もっとわかられなければと思い込み、かえって「理解の過剰」の苦しみを増幅するということが頻繁にあるのではないか。そして、「理解」を断ち切って別の技法を探すことをあまりせず、「理解」の技法が有効でない場面においてもこの技法を使用しているのではないだろうか。(284~285ページ)

④「理解の過少」と「理解の過剰」の苦しみと、「完全な理解」と「適切な理解」の基準はそれぞれ異なる
「理解」にはふたつの異なる基準がある。ひとつは、「完全な理解」という、原理的な基準である。ここから見れば現実に存在するすべての「理解」は「過少」である。もうひとつは、それよりも「理解」が「過少」でも「過剰」でも苦しみを感じる、ある実践的な基準――「適切な理解」とでも呼ぼう――である。そして、このふたつの基準はまったく異なる。(中略)私たちはときに、「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違える。「完全な理解」が達成されたら(それは原理的に絶対に経験できないから確かめようがないのだが)どれだけすばらしいだろう、と思い込む。しかし、これはと取り違えである。原理的な「完全な理解」を誤って実践的な「適切な理解」とするとき、私たちはいつも「理解の過少」だけを発見し、「理解の過剰」は絶対に発見できないことになる。/私は、「理解の過少」の苦しみと「理解の過剰」のそれをしっかりと区別しなければならないと考える。また、「完全な理解」という基準と「適切な理解」という基準が異なることを明確に自覚しなければならないと考える。これができないとき、私たちは、それでは解決できなかったりかえって苦しみを増す問題までも「より多くの理解」という技法で解決できると思い込み、それを使用してしまう。(286~287ページ)

⑤「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、すなわち「理解」とは異なるかたちで他者と「共存」するための技法が必要である
私たちがよく知っているのは、「わかりあう」から「いっしょにいられる」という状態だ。だから、「わかりあえない」とき、「いっしょにいる」ために「もっとわかりあおう」とする。それは、おそらく「社会」という領域のある部分では、必要なことだし大切な成果を生むだろう。しかし、この技法しかもたないとき、「わかりあえない」と私たちは「いっしょにいられなく」なってしまう。おそらくもうひとつの技法があるのだ。「わかりあえない」とき「もっとわかりあおう」とするのではなく、「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、「わかりあえない」ままでひとつの「社会」を作っていく技法。私は、「他者」といること、「社会」を形成することの少なくともある領域において、このような技法を探すことが必要だと思う。「わかりあわない」と「いっしょにいられない」、「社会」がつくれない、という技法は、私たちの「社会」の可能性を大きく限定する。「理解」は「他者」との「共存」のためのひとつの技法でしかなく、このふたつは別のことなのだ。私たちはときに、他者との「共存」よりも「理解」のほうを目的として設定してしまう。しかし、「理解」できない他者と「社会」を作る場面はあり、そのとき「理解」に囚われることは、私たちを「共存」できなくさせてしまう。私たちは「理解」を断ち切り、それ以外の「共存」のための技法を開発し始めなければならない。(290~291ページ)

⑥「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる
「他者はわからない」という想定を出発点として、他者といることを模索する技法、そのひとつは、ごく素朴でありふれているが、「話しあう」ということである。/「話しあう」ということは、次のふたつからなりたつ。ひとつは、「尋ねる」「質問する」ということ。これは、いうまでもなく、「わからない」とき、その「わからなさ」につきあっていこうとするときにのみ、開かれる。もうひとつは、「答える」「説明する」ということ。これも、相手が私を「わかっていない」と感じるときにしか、始まらないことだ。(294ページ)/「話しあう」こと。「質問しあい」「説明しあう」こと。――これは、じつに居心地の悪い時間を私たちに開いてしまう。(中略)このことは「わからない!」と相手にはっきり伝えることからしか始まらず、ひとつひとつ「質問し」「声明する」ことは双方にこころの負担をかけることだし、「わかりあっていない」ことを自覚しながらいっしょにいる時間をずいぶん長く共有することになる。しかし、この「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる。(294~295ページ)

⑦ 早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である
私たちは、「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき少し急ぎすぎてしまう。しかし、「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。その間に、「わかりあう」ことが自然に開かれる場合も、「話しあう」ことを意識的に開く場合も、「わかりあわないまま」ただいっしょにいるだけという場合もあるだろう。しかし、「わかる」ことを急ぎすぎ、その時間を稼げないと、私たちは多くの可能性を閉ざしてしまう。私たちは「わかる」ことにすぐに着地したがる。しかし、より困難で大切なのは、「わかる」ための技法よりも、「わからないでいられる」ようにする技法であるように私は思う。(中略)これをもたないとき、「わからない」とすぐに「なぐりあう」=「暴力」を振るうことをしてしまったり、すぐに「わかろう」として乱暴な「類型」に他者をひきつけるような「理解」に着地する=「差別」することをしてしまったりする(すぐに「わかろう」として高齢者や障がい者、女性などの「類型」によって他者を理解することは、独自性を欠いた部分的な理解にとどまり、差別することになる:阪野、259ページ)。しかし、「わからないでいる」のが常態であり、そこにゆっくりといられるのなら、私たちは「なぐりあう」ことも「差別」することもずっとしなくてすむだろう。(296ページ)

〇人は、他者を理解したい・わかりたい、他者から理解されたい・わかってもらいたいと望む。しかし、他者を完全に理解すること・わかること、他者から完全に理解されること・わかってもらうことは、原理的には不可能である。そこで人は、他者を「ああいう人」「こういう人」や「高齢者」「障がい者」などの「類型」(常識的な思考の構成概念:259ページ)にはめ込むことによって、他者を理解しようとする。しかし、それも部分的・表層的なものにとどまり、他者を完全に理解すること・わかることにはつながらない。むしろ「類型」を利用することによって、他者から離れたり、他者を排除したりする。あるいは、苦しい思いをしながらも他者と共にいることによって、他者への偏見や差別を引き起こすことにもなる。
〇しかし人は、他者と共にいることによって、「生」(生命、生活、人生)の営みを続けることができる。それによってしか、できない。そこで奥村は、理解できない・わからない他者といっしょにいるための技法について考える。理解できなくても・わからなくても、異なるかたちで他者とともにいっしょにいるための技法について言及するのである。
〇上記の見出しを再掲する。

①「わかってくれない」ことと「わからないこと」は、他者といるときによく起こる問題である。
②  他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこに「自由」や「私」が存在する。
③「理解」の素晴らしさ(「理解の過少」)には敏感であるが、「理解」の苦しさ(「理解の過剰」)には鈍感である。
④「理解の過少」と「理解の過剰」の苦しみと、「完全な理解」と「適切な理解」の基準はそれぞれ異なる。
⑤「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法、すなわち「理解」とは異なるかたちで他者と「共存」するための技法が必要である。
⑥「話しあう」技法を身につけているとき、人は「わかりあわない」ときにも「いっしょにいる」ことができる。
⑦  早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である。

〇以上のうちとりわけ、②の、他者に「理解」されない「私だけ」の領域があるとき、そこにたくさんの「自由」や可能性があり、「私は(が)私である」ことの自己理解(認知)がすすむ。⑤の、「わかりあわない」と「いっしょにいられない」、「社会」がつくれないという技法は、私たちの「社会」の可能性を大きく限定する。「理解」は「他者」との「共存」のためのひとつの技法でしかない。そして⑦の、早く「わかる」ための技法よりも、「わからない」でもゆっくりとしていられる技法が大切である、という指摘に注目したい。それが、他者といるということを、もっと、ずっと、きっと豊かなものにしてくれるのであろう。
〇福祉教育実践における高齢や障害の疑似体験は、高齢・障害理解や高齢者・障がい者理解を通して、共存や共生、共存社会や共生社会のあり方を問う。その際の高齢・障害「理解」や高齢者・障がい者「理解」に関して、奥村の議論に留意したい。例によって唐突であるが、付記しておく。

阪野 貢/障害疑似体験の落とし穴―村田観弥「障害疑似体験を『身体』から再考する」のワンポイントメモ―

〇福祉教育実践ではこれまで、「訪問・交流活動」「収集・募金活動」「清掃・美化活動」の“3大活動”や「疑似体験」「技術・技能の習得」「施設訪問(慰問)」の“3大プログラム”を中心にした体験活動が実施・展開されてきた(されている)。圧倒的に多いのは、障害や高齢の疑似体験、なかでも車いす体験やアイマスク体験、インスタントシニア体験である。相変わらず「慰問」という施設訪問も多い。これらの体験活動は場合によっては、誤解や思い込み、偏見を助長し、「貧困的な福祉観の再生産」(原田正樹)を促すことになる。
〇ここで、障害疑似体験の陥穽(かんせい。落とし穴)について、村田観弥の論考――「障害疑似体験を『身体』から再考する」佐藤貴宣・栗田季佳編『障害理解のリフレクション―行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界―』ちとせプレス、2023年3月、123~153ページ。――から先行研究と村田の言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。
〇なお、本稿は、 新訂「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―その哲学的思考に関する研究メモ―(2024年5月10日/本文)のなかの 06「しょうがい」と疑似体験の陥穽 に追記されている。

西舘有沙らは、できないことに目が行き過ぎて事実誤認やミスリードを引き起こし、障害者へのネガティブな態度を植えつける点、障害者の能力を特別視する傾向が強まる点など、障害者の姿を誤って捉え、障害に対する認識のゆがみを強固にする側面を挙げ、この検討をせずに教育方法としての疑似体験を採用すべきでないと指摘する。そして改善策として、➀体験の目的を具体的かつ明確に定める、②できないことばかりを体験させない、④事後指導の時間を設ける、④指導者の指導技術を高める、を提案する。(124ページ)

松原崇と佐藤貴宣は、障害学や障害当事者からの視点として、➀政治・社会的構造の要因の看過(個人にばかり焦点を当てる)、②差別的な見方の強化(障害者の無力さが強調され、障害者や障害にネガティブな価値づけが生じる)、③体験の精度の低さ(疑似体験できるのは、個人が突然身体機能の障害を負ったときの状態やそのときの感情のみで、症状の不安定さや症状の進行などの可変的状態がシミュレートできない)、④障害者への倫理的問題(試しにちょっとやってみる程度に扱われ、しばしば楽しい遊びやゲームのように行われる)、を批判として挙げる。そこで対策として、障害者自身がファシリテーターとなる手法や、注意深くブログムムをデザインすることでネガティブな効果を回避する事例など、学習を始める参加者が「現実」を対象化するきっかけとして、プログラムの一部や出発点として位置づけることを提案する。そして、社会構成主義的な協働体験として再構成し(体験は人々の間のコミュニケーションを通じて協働的に構成されると考える社会構成主義の観点に依拠し)、①問題を障害者個人でなく、外部環境へと問題帰属する文脈を用意する、②障害者が企画者として参加する、③障害者を含む参加者間での対話を喚起する、の3点の「仕掛け」を挙げている。(124~125ページ)

障害当事者である鈴木治郎は、体験し経験して知ることはけっして無駄ではないとしながらも、「その場限りの経験」になることや、企画者が「役に立つことだから善いこと」だと押しつける点を指摘する。そして、誰もが「当たり前」を共有化できる場づくりのための「互いの差異を認め共に出会う教育」が必要だと述べる。それを受け谷内孝行は、障害理解プログラムは、障害を理解することに重きを置くのではなく、障害から個性の尊重、共生の重要性、社会変革などを学び、新たな価値を創造する場であるとする。(128ページ)

細馬宏通は、アイマスク体験の主役は、アイマスクをつくる人ではなく、ナビゲーター(ガイドヘルパー)側だと述べている。(148ページ)

村田観弥はいう。
● 操作的に経験された疑似体験は、障害者への偏見をもってはいけないとする常識的な規範意識に囚われ、障害/健康の枠組みを強固にし、特別な存在とする見方を先鋭化することにもなりうる。また場合によっては、その経験は個々に異なるにもかかわらず、障害当事者の発言があたかも正解のように伝わることもある。(126~127ページ)
● 障害を疑似的に体験する活動をたんに問題とするよりも、その経験を自分自身の「日常」や「身体」について考えるきっかけとしての「学びの契機」(「障害者理解」でなく「自己理解」の体験)とする論を試みる。(130ページ)
● 他人の経験を生きるという試みは困難である。であるならば、体験が疑似(似て非なるもの)であることを問題にするよりも、疑似であることの可能性(誰かの立場になって考えたことによる意味の変化や視野の広がり等)に視点をずらすことで、思い込みや誤解が生じるプロセスに気づき、みずからの問題として考える教育的契機にできるのではないか。(144ページ)
● 体験活動は、「意図的に制限した身体を生きる」という体験を、「まずは実践してみる」ことに重点を置く。特定の障壁を感じることなく生きてきた同質性の高い日常から外へ出て、そうでない世界に身を投じる。「健常者」として規格化された身体を崩すことで、「差異化」の体験過程が言語化され、新たな「私」が再構成される。体験は「他人の身体を生きる」ということとは程遠いけれど、何かが生まれるきっかけにはなる。疑似体験では誤解や思い込み、偏見が生起しやすい。あえて誤解や偏見が顕在化する「場」として提示することで、それが我々の日常に遍在し、気づきにくく、見えない壁をつくっており、そこへ意識を向けることで壁を動かすことには有効かもしれないと考える。(151ページ)
● まず己の身体を通した困惑や不安、違和感といった感覚に向き合ってみる経験こそが、「私も同情や特別視をしているのではないか」との気づきにつながり、誤解や偏見と生きる自分自身に向き合うことになるのではないだろうか。(152ページ)

〇疑似体験には「有効論」と「有害論」がある(杉野昭博)。前者は、疑似体験は障がい者への配慮や支援の仕方について理解することを通して、障がい者への共感性を高めることになる、というものである。後者は、疑似体験は障がい者個人の機能障害(インペアメント)が強調され、社会の偏見や差別についての理解が進まず、障害や障がい者に対するネガティブな価値づけがなされてしまう、といものである。いずれもそこでは、一面的なあるいは一時(いっとき)の障害理解や障がい者体験にとどまり、計画的・継続的なまちづくりや社会変革への視点が弱いと言わざるをえない。再認識したい。