本書の結論を、“ たとえ話 ” を用いて述べれば、次のようになる。
ある村で、若者だけに感染する病が発見された。若者が次々と病気にかかっていく。それを見て、お偉いさんや親族は「これだから若者は」「若者の生活がたるんでいるのでは」「昔はこんなことなかった」などと若者を責め、病の原因を若者の資質に求める。ところが、この病気は「若者であるほど早く感染する」というだけで、実はすべての年齢層に感染するものだった。かくして、村は老若男女、この病気に侵されていくのだった。(以下[1]4ページ)
〇筆者(阪野)の手もとに、舟津昌平著『Z世代化する社会―お客様になっていく若者たち―』(東洋経済新報社、2024年4月。以下[1])がある。[1]では、新進気鋭の経営学者である舟津(「ゆとり世代」)によって、企業組織やビジネスの視点からの実証的でユニークな若者論(現代大学生論)が展開される。舟津によるとそれは、「現実を無視した印象論」ではなく、「並の若者を論じた本よりよほど丁寧な取材を経て書かれている」(303ページ)。それゆえにか、そこではインターネットやSNS(Social Networking Service)の用語や若者言葉が多用され、「団塊の世代」(1947年から1949年にかけて生まれた世代)の筆者にとってはいささか読みづらい本ではある。とはいえ、「Z世代と呼ばれる若者たちを観察することで、われわれが生きる社会の在り方と変化を展望しよう」(5ページ)とする点で、興味深い。
〇「ゆとり世代」とは一般的には、2002年4月から始まる「ゆとり教育」(「完全学校週5日制」「総合的な学習の時間」等)を受けた世代で、1987年から2004年に生まれた世代の呼称である。「Z世代」とは概ね、1990年代半ばから2010年代前半に生れた世代(1990年代後半から2012年頃に生れた世代:67ページ)で、デジタル機器やインターネットが普及している環境で育った世代をいう。なお、こうした世代(cohort)論に関しては、多様性の時代や個人化社会が進行するなかで、その世代の実体や共通性(同質性)は流動的であり、若者の真の姿を描写することが困難になっている。すなわち、Z世代の共通性を前提として、固定的・集合的に若者論を説くことは難しい、とも言えよう。それは、根拠が脆弱な単なる印象論に陥ることにもなる。
〇[1]におけるキーワードのひとつは「不安」である。舟津はいう。Z世代の若者たちは、友達に依存して生きており、友達や友達候補がいないと不安を感じ、孤独は恐怖である。そこでまず、「 友達の共感」(44ページ)を求める 。そして、黙っていて静かな、目立たない「いい子」(51ページ)になる。また、若者たちは、インターネットやSNSの開かれたネットワーク(コミュニケーション)のなかに “ 閉じられたコミュニティ ” をつくり、そのなかで互いの行動を監視・管理し合っている。友達関係は必ずしも自由なものではなく、コミュニティからの疎外や排除、追放に不安を感じているのである。筆者はここで、2005、6年頃に話題になった大学生の「便所飯」を思い出す。ひとりで食事をする “ ぼっち飯 ” に恐怖を覚え、トイレの個室で食事をする、というのである。
〇このようにZ世代は、他人を警戒し、かなり慎重に周りを観察しながら、その一方でほどよく得(とく)できる、コストパフォーマンス(費用対効果)の良い「最適」をめざす。「周りをつぶさに見て、平均を推定して、そのちょっと上になる」ことを慎重にめざして、「最適の置き所を探っている」(61ページ)。
〇この点をめぐって舟津はいう(抜き書きと要約)。
Z世代は周囲への監視の目を絶やさず、他者評価に敏感である。そして、常に「横」を見る。(何処かに)みんな行ってるなら行く、なのだ。わざわざ断るほどの主体性はない。極端なことを言えば、Z世代は他人を信じていない。他者を警戒して監視して、損しないように立ち回って、平均ちょっと上で得することをめざしているから、同世代すら信じていない。/そうでもないと、あんなに手の込んだ友達作りをするわけがない。(220~221ページ)
〇また、いまの若者たちは、就職に不安を感じ、就活を早期から始める。就職後、職場での人間関係に不安を覚え、上司からの不快な非難はぜんぶ「アンチ」であり(88ページ)、説教や叱責に恐れを感じる。また、「自分は他社や他部署(ヨソ)で通用しない」のではないか、こんな「職場では自分は成長できない」のではないかと思い、不安を抱え、転職を考えるのである(246ページ)。
〇ことほどさように、Z世代の若者たちの悩みや不安のタネは尽きない。そしてそれは、社会の変化に敏感に反応し、社会の病理が具体化・体現化されたものである。若者たちは、大人の「映し鏡」(161ページ)である。その点において、上の世代にとっても無関係ではなく、確実に影響を受けている。冒頭に記した “ たとえ話 ” の一節が意味するところである。
〇この点をめぐって舟津はいう(抜き書きと要約)。
Z世代はわれわれの――Z世代以外を含む――社会の構造を写し取った存在であり、写像(しゃぞう)である。/若者は経験が浅く、雑味(ざつみ)がなく澄んでいて、だから外からの影響を受けやすい。社会の構造なるものが生まれる――たとえば不安を利用したビジネスが横行する――とき、社会に在るわれわれは、多かれ少なかれその影響を受ける。なかでも若者は感度が高く適応が早いので、いち早く構造を反映して言動に移す。/だから、異様に見える。でも異様に見えるZ世代は決して地球外から来たエリイリアン(異星人)ではなく、社会構造をより純粋に敏感に写し取った、先端を往く者なのだ。ビジネス化する社会も、不安を利用する社会も、(何の実態もなく、意味内容の存在しない唯(ただ)の言葉しかない)唯言(ゆいごん)的な社会も、若者の方が影響を受けやすいというだけで、確実にわれわれにも影響している。(264ページ)
〇以上を要するに、[1]の結論はこうである。それは、冒頭の “ たとえ話 ” の別言である。
Z世代と、それ以外の他者としてのわれわれをつなぐかすがいは、(中略)社会の中で、われわれのあいだに同じ構造が在ることを認識し、どうやってそこから生きていくのかを一緒に考えることにあるのではなかろうか。/現代社会とはいわばZ世代化する社会である。時代の最先端を走るトップランナー(top runner)でありアーリーアダプター(early adopter:最初期に適応する人)である若者を観察すれば、われわれが置かれた社会構造がより鮮明に見える。Z世代が、意識・無意識によらず感取し現前化させたものこそ、われわれの生きる社会を表したものなのだ。(264、265ページ)
〇なお、舟津は、Z世代に巣食う病理、すなわち現代社会が孕(はら)む社会病理について、その処方箋(アイデア)をいくつか提示する。「理由を探さないで、根拠のない自信を持って生きる」(信頼や不安にはもともと根拠はない)こと、「欠落していることを自覚し、満点人間をめざさない」こと、「したたかに、余裕を持って生きる」こと、などがそれである(285~300ページ)。
〇要するに、根拠がなくても自分や他人を信頼して、(根拠のない)不安を打ち消し、日々の生活(仕事)に向き合っていくことであろう。それは、一面では社会構造的な「解」を求めたい筆者にとっては、いささか手ごたえがないモノである。そう評価する理由のひとつは、若者の価値観やメンタリティ、行動特性(「若者文化」)に焦点を当てる[1]に対して、貧困や社会的孤立のなかで生きるいまの若者を「社会的弱者」として、歴史的・社会的文脈のなかで構造的に捉えることが必要かつ重要である、と考えるからでもある。
〇最後に、Z世代に関して一言。舟津によると、[1]を読んだある読者から「Z世代は “ 炭鉱のカナリア ” である」と評されたという(注①)。言い得て妙(いいえてみょう)である。前述した「黙っていて静かな、目立たない『いい子』」や授業中「黙って座っていれば、いい子だと思ってる」(52ページ)学生は、さしずめ “ 歌を忘れたカナリア ” であろうか。「全共闘世代」(1941年から1949年生まれ)に属するとも言われる「団塊の世代」の筆者から、若者にエールを送り、若者の奮起に期待したい。
注①「舟津昌平 Z世代とは日本社会を映す『鏡』である」『日経BOOKプラス』(2024年7月19日掲載)
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/071100393/071100001/(最終閲覧日:2024年9月30日)
〇ここで、「不安社会」に関して一言したい。筆者(阪野)の手もとに、「不安社会」に関する本が2冊ある(しかない)。奥井智之著『恐怖と不安の社会学』(弘文堂、2014年12月。以下[2])と石田光規著『孤立不安社会―つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖―』(勁草書房、2018年12月。以下[3])がそれである。
〇先ず[2]で、奥井は、「ますますグローバル化し、個人化する社会は、わたしたちの恐怖と不安の温床である。――わたしたちは今日、そういう恐怖と不安にクールに向き合うことを求められている。しかしクールに向き合うだけで、恐怖と不安が解消するわけではない。他者との連帯にクールに向き合うことが、新しいクールな課題であろう」(156~157ページ)という。これが奥井の主張である。
〇すなわち、こうである。人間はコミュニティに帰属することで「安全」を確保する。しかしそれは、「自由」の喪失を意味する。そこで、「自由」を確保するためには、コミュニティから離脱しなければならない。しかしそれは、「安全」の喪失を意味する(73ページ)。こうして、「コミュニティに埋没すること」の「恐怖と不安」と、「コミュニティから乖離すること」の「恐怖と不安」は、非常に密接で切り離せない「相即不離」(そうそくふり)の関係(87~88ページ)にある。
〇現代社会は、グローバル化し、それに伴ってコミュティの喪失と個人化が進行するなかで、社会的結合が弱体化している(116ページ)。「グローバル化=個人化社会とは別名、非コミュニティ社会である」(165ページ)。そのコミュニティのつながりの希薄化やコミュニティからの解放や離脱、拒絶や排除、すなわち社会関係の喪失や社会的分断は、「自由に自己をデザインできる」(165ページ)こと、すなわち自己選択・自己決定と自己責任を意味する。それは、人間にとって「恐怖と不安に満ちた状況」(70ページ)でもある。そこで人々は、「社会の動向と切っても切れない関係」にある「恐怖と不安」に冷静に向き合い、新たな社会的連帯を求める。別言すれば、「恐怖と不安」は社会的連帯への契機になる可能性を持つのである(142ページ)。
〇なお、奥井は、「恐怖」と「不安」を個別に捉えるのではなく、「恐怖と不安」を並列的に位置づける。つまり、奥井にあっては、「恐怖と不安」は「複雑にからみ合って」(15ページ)おり、「十分に認識したり、制御したりできないもの」(16ページ)である。そこで例えば、「死の不可避性は、恐怖と不安の最大の源泉である」(25ページ)、「恐怖と不安の最大の源泉は社会関係にある」(28ページ)、「恐怖と不安の根源は、人間の知性の限界にある」(17、160ページ)などとなる。
〇とはいえ、“ ヒトはいつか必ず死ぬ ” ことについて「不安」を感じ、“ 死を間近に控えたヒト ” は死への「恐怖」を覚える。近い将来 “ 大地震が来る ” と言われることに「不安」を感じ、“ 地震でいま、家が揺れている ” ときに「恐怖」を覚える。このことだけを考えても、「恐怖と不安」は「恐怖」と「不安」に区別して、個別の概念として捉える必要があると言える。また、ヒトは、未確定あるいは不確実なことについて無知であり、あるいは漠然としか認識できず、さらには十分に制御できず「安心」が得られないときに、「不安」を感じる。その「不安」が広がり・深まる(「不安」が増幅する)なかで「危険」な状況に直面するとき、「恐怖」を覚えるであろう。そして、こうした個人の感情である「恐怖」と「不安」は、それに対処し得る資源をそのヒトがどれだけ持っているかによって、またそのヒトが属するコミュニティや人間関係のありようによって、その感じ方(強度)も異なるであろう(「恐怖」と「不安」の格差)。それはつまり、「恐怖」と「不安」は、個人的要因だけでなく、歴史的・社会的要因について構造的に把握する必要があることを意味する。
〇次に、[3]についてである。そこで石田は、「孤立にまつわる一連の問題を、個人の決定・選択を重視する社会(個人化社会)の産物と見なし、当該社会における人間関係の問題を、孤立を中心に」論じる。その際、個人化とは、「社会を構成するさまざまな単位が個人に分割される現象」をさす(3ページ)。
〇[3]におけるキーワードのひとつは「選択的関係」(「選択的関係」の主流化)である。石田は次のようにいう。
旧来的な農村のように、強固な役割構造を内包する集団に人びとが埋め込まれている社会では、そこに暮らす人が人間関係を選択・決定する自由はきわめて少ない。生命の維持と共同が結びついていた社会では、所属集団の拘束は絶大なものであった。人びとは血縁・地縁といった中間集団への埋没と引き替えに、自らの生命を維持していたのである。この時代の人間関係を、さしあたり、「共同体的関係」としておこう。/一方、現代社会のように、人びとの生活を消費および国の提供する社会保障サービスが補償するようになると、人びとが固有の人と付き合う必然性は低下する。それとともに、私たちを縛り付けていた血縁や地縁の拘束は揺らぎ、人間関係には感情の入る余地が増してゆく。私たちは今や「自らの好み」に応じて関係を形成・維持する自由を手に入れたのである。このようなつながりを「選択的関係」としておこう。「選択的関係」の主流化は現代社会における孤立不安と密接に関連する。(4ページ)
〇これが、石田の言説(立論)の基本的視点・視座である。それに基づいて石田は、現代社会の「選択的関係」の主流化による孤独・孤立に関する諸問題(婚活、孤立死、コミュニティ活動、育児・介護など)を、学説や量的データを用いて分析・検討し明らかにする。それらの結果は次のように “ まとめ ” られる((a)(b)(c)は筆者)。
(a)人間関係が選択化するなか、私たちのつながりを支える基盤は、社会的な役割から個人的な感情に変わってゆく。感情を仲立ちとした関係は、相手からの承認の獲得という課題を押しつけ、人びとの孤立への不安を拡大する。同時に、「選択的関係」の主流化は、他者から選ばれる人・選ばれない人を明確にし、つながり格差をもたらす。/(b)その一方で、個人の決定をとりわけ重視する社会は、選ばれないことによる孤立も、自らの選択の帰結として処理してゆく(自己責任:筆者)。しかし、その背後には、個々人の行動様式(自己への関心)、親の養育方針(面倒の見方)にまで浸透した排除が潜んでいる。/(c)孤立問題を解決する切り札として期待される地域のつながりは、高度経済成長がひと段落した1970年代に、すでに動揺が指摘されていた。私たちは、地域の人たちとつきあわなくても生きていけるように、社会の諸システムを整備してきたのである。こうしたなかで、地域での活動に携わる人びとは、いかにして地域住民の共同性を再編させるか頭を悩ませている。(209~210ページ)
〇この “ まとめ ” を別言すると、こうである(見出しは筆者)。
(a)他者から「必要とされる」資源の多寡(たか)が孤立に結びつく
「選択的関係」の主流化は、私たちの心に「選ばれない恐怖」を植え付け、つながり獲得の行動へと駆り立てる。その一方で、選択のなかに埋め込まれた〝 選別性 〟は、「選ばれる資源」(学歴や収入など、選ばれるために相手の欲求を満たす資源:筆者)をもたない人びとを振り落としてゆく。かくして恵まれない人ほど孤立の恐怖に取り込まれてゆくのである。(76ページ)
(b)自己への関心(自己理解)や親の養育態度が孤立に影響を及ぼす
自己への関心が高い人、親による面倒見の多かった人ほど、孤立していない傾向が見られる。(124~125ページ)/学歴の高い人、暮らし向きのよい人、親によく面倒を見てもらった人ほど、自己への関心(自己理解:筆者)が高い。(中略)そういう人ほど、関係形成に望ましい生活態度を身につけている。(126~127ページ)/親子の経済資本(経済力)、人的資本(学力)に加えて、文化資本(養育指針、生活態度)が相まって、社会経済的地位の低い人びとを孤立に貶(おとし)めてゆく。(130~131ページ)
(c)地域住民の共同性をいかに再編するかが問われている
高齢化の進展、単身世帯の急増、財政の逼迫により地域の互助に対する期待は年々高まっている。にもかかわらず、互助を期待しうる「濃密な関係」は、地域や近隣には見られない。つまり、孤立への打開策として、近隣に期待するのは難しいということだ。これが量的データで鳥瞰的にあぶれ出された地域の実情である。(166ページ)
〇「恐怖」と「不安」が個人化され、その格差が生じている。それがまた、「恐怖」と「不安」をいっそう増幅させている。そんななかで、社会的連帯の方途を見出すことは難しい。石田がいうように、「孤立不安社会としがらみ不満社会を超克(ちょうこく)しうる『第三の道』へは、そう簡単には到達し得ない」(232ページ)。(c)に関して石田は、新たなつながりを生み出す契機として、新たな互助関係としての「ボランティア」、目的集団としての「趣味縁」、所有よりも必要性に根ざした「シェア」、が期待されるとする(228~229ページ)。この提示に関しては、ここに至って、それまでの学説や量的データに基づく石田の論理展開は、影を潜(ひそ)める。指摘しておきたい。
〇例によって唐突であるが筆者は、構造的に生み出される社会的現象としての「恐怖」と「不安」に対処するための理論的根拠のひとつに「共生」論や「ソーシャル・キャピタル」論があり、社会的仕掛けのひとつに「まちづくりと市民福祉教育」がある、と考えている。
〇なお、「共生」論のひとつに、「共生」とは「二つ以上の異なる主体間でお互いに依存しあうなかに、『特定の利益』が共有される状態」をいう、という言説がある(金子勇『格差不安時代のコミュニティ社会学―ソーシャル・キャピタルからの処方箋―』ミネルヴァ書房、2007年11月、43ページ。本書で金子は、『格差不安社会』の典型は『少子化する高齢社会』であるという)。「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)論とは、知らない人を含む一般的な人々に対する「信頼」、“ お互いさま ” という想いから互いに支え合う互酬性の「規範」、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(社会的つながり)によって、コミュニティの諸問題が解決され、よりよい統治が進み、豊かなコミュニティが創り出される、という考え方をいう。付記しておきたい。
あなたは、日頃の生活の中で、悩みや不安を感じていますか。それはどのようなことについてですか。
日頃の生活の中で、悩みや不安を感じているか聞いたところ、「感じている」とする者の割合が75.9%(「感じている」の割合34.8%と「どちらかといえば感じている」の割合41.1%との合計)、「感じていない」とする者の割合が15.5%(「どちらかといえば感じていない」の割合12.4%と「感じていない」の割合3.2%との合計)となっている。
日頃の生活の中で、悩みや不安を「感じている」、「どちらかといえば感じている」と答えた者(2,335人)に、悩みや不安を感じているのはどのようなことか聞いたところ、「老後の生活設計について」を挙げた者の割合が63.6%、「今後の収入や資産の見通しについて」が59.8%、「自分の健康について」が59.2%と高く、以下、「家族の健康について」(50.7%)、「現在の収入や資産について」(47.0%)などの順となっている(注②)。
注②「日常生活での悩みや不安」「悩みや不安の内容」内閣府『国民生活に関する世論調査(2023年11月調査)』(2024年3月19日掲載)
https://survey.gov-online.go.jp/r05/r05-life/2.html#midashi13(最終閲覧日:2024年9月30日)