「雑感」カテゴリーアーカイブ

市民自治とまちづくり―その立ち位置とプロセスを考える―

周知のように、1998(平成10)年12月に特定非営利活動促進法(NPО法)が施行された。2009(平成21)年9月には政権交代が実現し、民主党政権によって「新しい公共」政策の推進が図られた。これらを契機に、地方自治を取り巻く大きな潮流として「ガバメント(統治)からガバナンス(共治)へ」の転換が図られ、市民運動も「抵抗・告発型から参加・自治型へ」と変質する。それは、市民は統治客体意識から脱却し、政治や行政に主体的かつ自律的に参加することが要請されるようになったことを意味する。言い換えれば、市民は、市民自治によるまちづくりを実現するために、政治や行政と前向きな議論や納得できる調整を重ねて真の合意形成を図り、また相応の責任を引き受けることが求められることになる。
以上の点に関して、湯浅誠(社会活動家)がその論考「社会運動の立ち位置―議会制民主主義の危機において―」『世界』第828号、岩波書店、2012年3月、41~51ページで、次のように述べている。参考に供しておきたい。

「こっち側」(社会運動:阪野)の役割は課題を投込むまで、そこから先は「あっち側」(政治、行政:阪野)の仕事という役割区分を過度に固定化する思考は、自分は言いたいことを言うだけ、調整と妥協という汚れ仕事のコストは回避するという形で、「あっち側」への調整コストの押しつけ・丸投げに帰結する。当然ながら満足のいく結論は出てこず、それが結論への批判と「あっち側」への責任追及をもたらし、同度に「あっち側」の世界には関わらないほうがマシという調整の忌避に至る。(47ページ)

「主体的市民による社会運動」(中略)の内実および議会制民主主義との建設的緊張関係の中身については、永遠の課題として、これまでの研究および実践の蓄積に、これからも学び続けるしかない。少なくともそれは、「こっち側」と「あっち側」の役割区分を固定的に捉えるのではなく、政治的・社会的力関係の総体を視野に入れながら、社会的領域および政治的領域における調整過程に積極的に介入し、主権者として結果に対する責任を自覚し、何かを全否定したくなる衝動を抑えながら、地道に調整を積み重ねて相反する利害関係者との合意形成を図る市民だろう。(51ページ)

次の図は、「市民自治とまちづくり」の流れをまとめたものである。そこから、市民による「現状把握・分析」から政策・制度(「あっち側」)や実践・運動(「こっち側」)による「合意形成」、「課題解決」、そして「評価・見直し」に至る過程に積極的に介入し、市民自治によるまちづくりに主体的かつ自律的に取り組む市民をいかに育成・確保するかが当面の大きな課題となるといえよう。市民自治の実践は、それへの参加そのものが教育・訓練・啓発の要素や側面をもつのである。

見直し

以上のうち、「合意形成」(consensus building)とは、それぞれの“立場”や“利害”を超えて、多様な意見や考え方をまとめ、「納得」することをいう。そのためには、(1)信頼に基づく良好な人間関係を築く。(2)異質で多様な価値観の存在を認める。(3)公正で透明性の高い情報開示(共有)を行う。(4)社会科学的・批判的な思考力や論理的・合理的な判断力を養う。(5)適正な手続き(プロセス)を踏まえた協調的な「交渉」(negotiation)を重視する、ことなどが求められよう。また、対話や交渉を支援する方法としてファシリテーション(facilitation)やメディエーション(mediation:調停)の導入も必要となる。
いまひとつ、「責任の引き受け」(take responsibility)に関していえば、政治や行政において、選挙や議会に基づく権威主義的傾向や前例主義による保守的傾向があることは否定できない。それは、市民の、政治や行政への「依存」(無関心、無理解、非協力)を反映したものでもある。「まかせておけばいい」という依存は、「責任」を伴う対等・協働(共働)の関係ではない。市民自治の主体である市民には、そうであるがゆえに政治や行政に対して積極的かつ自律的に関わり、場合によって責任を追及することが求められる。併せて市民は、当然のことながら、相応の責任を引き受けることになる。「ガバナンス」のひとつの姿である。
付記しておきたい。


熱心なブログ読者から、「最近の政治状況に抗する“能力や覚悟”は十分に持ち合わせていないが、確かな市民自治と平和で安心なまちづくりを推進するためには、その主体である市民一人ひとりがコツコツと実践や運動を積み重ねていくことしかないのではないか」というメールをいただいた。本稿はそのご意見に対するものでもある。

「現実」と「生活綴方教育」の “いま” を問う―ある若い知人へのメモランダム―

第一次世界大戦後、社会的・経済的混乱や国民生活の疲弊が深刻化するなかで、1930年代に生活綴方教育実践や教育運動が興隆しました。その実践や運動のなかに、福祉教育実践のひとつの側面や要素を見出すことができるのではないか。そんな考え(仮説の設定)のもとに、「生活綴方教育」に少なからぬ関心をもっています。
先日、佐竹直子さんの『獄中メモは問う―作文教育が罪にされた時代―』を読み、北海道綴方教育連盟事件や「治安維持法と綴方教育」への関心を高め、理解を深めることの重大さを再認識しました。
特定秘密保護法の施行をはじめ集団的自衛権の拡大解釈と行使容認、地方自治の精神や原則を無視した国政の専断、そしてメディアへの強圧的な対応や報道への介入等々が進められるなかで、佐竹さんは、「国を挙げて戦争へと突き進み治安維持法に国民が弾圧された時代を、まるで現代が追いかけて再現しているように思えてならない」と述べています。強く同感するところです。北海道綴方教育連盟事件は、「遠い過去の出来事」といい切れず、「歴史は繰り返される」ようです。“不安”を超えて“恐怖”すら覚えます。
生活綴方は、子どもが「現実」の生活と向き合い、その生活について、またその生活を通して感じたり、思ったり、考えたりしたことをありのままに書くことから始まります。それは、子どもを概念的な見方や考え方から解放し、子どもが自分自身と自分を取り巻く地域・社会を見つめ、子どもの豊かな人間性や社会性を育むための教育営為です。そこでは、教師の専門性とそれを裏付ける人間性や価値観が厳しく問われることになります。
そう考えたとき、子どもが向き合う“ナマ”の生活の「現実」をどのように捉えるかが重要な問題として浮上します。
「現実」は、形成され与えられたものであると同時に、常に新しく作り出されていくものです。既成事実として認識されているからといって、その現実を無批判的・盲目的(盲従的)に是認し、受け入れることは避けるべきです。
「現実」は、多様な要因によって構成されており、その要因は複雑に絡み合っています。現実は多様性と多次元性(多層性)を有しており、現実のひとつの側面だけが強調されることがあってはなりません。
「現実」は、その時々の支配権力が選択する方向に沿って形成されます。それに対して、反対派が選択する方向は「観念的」「非現実的」と考えられがちですが、現実を変えるためには、科学的で批判的、自由で民主的な思考や態度・行動が不可欠です。
「現実」についてのこうした考えは、60年以上も前に政治学者の丸山眞男が説いたところによるものです(引用と援用)。詳細は原典に譲ります。いずれにしろ、こんにちの政治的・社会的状況は、極めて憂慮すべき“危機”事態にあるといわざるを得ません。そういうなかで生活綴方教育(作文教育)のあり方を問うとき、「現実」の概念やその特徴について十分に留意したいものです。それはまた、日常的で具体的な地域・社会生活の「現実」と“向かい合い”、地域づくりのための主体形成(成熟した市民の育成)を図る福祉教育(市民福祉教育)にも通じることです。
今回、書きとめたいことは、いま、地域・社会生活の「現実」と向かい合う生活綴方教育(すなわち市民福祉教育)のあり方を厳しく問い、「作文教育が罪にされた時代」を二度とつくらない決意をする必要がある、ということです。


(1) 「叩く。ける。座らせる。おどかす。そのうちに自分も妙な気持になり、『赤く』なっていた」/戦時下に、作文指導に励んだ北海道の教員が次々と治安維持法違反容疑で逮捕された「北海道綴方教育連盟事件」。2013年に見つかった元教員の「獄中メモ」を手がかりに、事件の実像に迫ったルポ。70年余りの時を経て現代に問いかけるものとは―。(佐竹直子『獄中メモは問う―作文教育が罪にされた時代―』北海道新聞社(道新選書47)、2014年12月、帯より)
(2) 北海道綴方教育連盟事件:1940年(昭和15年)11月~翌年4月に、日常生活をありのまま書く綴方教育に取り組んでいた道内の教員らが、「貧困などの課題を与えて児童に資本主義社会の矛盾を自覚させ、階級意識を醸成した」などとして逮捕された弾圧事件。逮捕者は旧内務省「特高月報」によると56人、旧文部省「思想情報」では75人。12人が起訴され、11人が起訴猶予付き懲役刑が確定(1人は公判前に死亡)。後に初代の民選札幌市長となる故高田冨与弁護士が弁護人を務めた。旭川市出身の作家、故三浦綾子さんの長編小説「銃口」の題材になった。/治安維持法:「国体」の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰するため1925年(大正14年)に制定。当初は共産党や革命的労働・農民運動の取り締まりを目的としたが、適用範囲は拡大され、思想・信条や言論の自由を弾圧し、国民生活の監視に猛威を振るった。45年10月に廃止。旧司法省のまとめでは逮捕者は計約7万5千人だが、実際にはこの数倍から数十倍に上ると指摘されている。(「北海道新聞」2013年11月17日朝刊)
(3) 丸山眞男「『現実』主義の陥穽―或る編輯者への手紙―」『世界』第77号、岩波書店、1952年5月、122~130ページ。(陥穽<かんせい>⇒落とし穴、策略。)

住民主体の内発的なまちづくりとコミュニティデザイン―持続可能な地域再生と住民の主体形成―

筆者(阪野)はこれまで、多くの地域で、いろいろな人たちとの「幸運な偶然」(山崎亮『まちの幸福論』119~122ページ。注(1))を手にすることができた。先月アップした拙稿「住民主導の『地域づくり』と『教育づくり』の可能性―資料紹介―」(2015年3月5日投稿)では、「地方消滅論」などをめぐって論述し、私事ながら実践的研究に求められる「善意と誠意」について“付記”した。後日、その一環として、山崎亮の本を読み返すことにした。以下がそれである。

(1) 山崎亮『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる―』学芸出版社、2011年5月。(以下、「1」と略す。)
(2) 山崎亮+NHK「東北発☆未来塾」制作班『まちの幸福論―コミュニティデザインから考える―』NHK出版、2012年5月。(以下、「2」と略す。)
(3) 山崎亮『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中央公論新社(中公新書)2012年9月。(以下、「3」と略す。)

周知の通り、山崎は、「日本でただひとりのコミュニティデザイナー」「地方再生の救世主」などと紹介されることもあるという、斯界の第一人者である。山崎によると、コミュニティデザイナーとは、「モノをつくらないデザイナー」「地域の課題を、地域の人たちが解決するための場をつくるデザイナー」(「2」9、16、122ページ)である。また、「コミュニティデザイナーは『救世主』ではない。この仕事は〝主〟になってはならない仕事だ。まちづくりの主体となるのは、その地域で暮らす住人である。(コミュニティデザイナー:筆者)がリーダーシップを発揮して、『みなさんでこういうまちをつくりましょう』と言ってしまったら、住民主体のまちづくりはできなくなる」(「2」122ページ)。要するに、住民主体の内発的な「まちづくり」すなわち「コミュニティデザイン」を進めるために、人と人を結びつけ、その関係性を深める“しくみ”を「デザイン」(注(2))することが、コミュニティデザイナーの仕事である。その際、上記の前稿との関連でいえば、「地方消滅」をただ不安がり嘆(なげ)くのではなく、いわゆる「活動する市民」(注(3))を如何に確保・育成するかのプロセスをデザインすることが肝要となる。山崎は次のよういう。

社会の課題を解決するためのデザインについて考えるとき、2つのアプローチがあるような気がする。ひとつは直接課題にアプローチする方法。困っていることをモノのデザインで解決しようとする方法である。(中略)
一方、課題を解決するためにコミュニティの力を高めるようなデザインを提供するというアプローチもある。(中略)
コミュニティデザインに携わる場合、後者のアプローチを取ることが多い。コミュニティの力を高めるためのデザインはどうあるべきか。無理なく人々が協働する機会をどう生み出すべきか。地域の人間関係を観察し、地域資源を見つけ出し、課題の構成を読み取り、何をどう組み合わせれば地域に住む人たち自身が課題を乗り越えるような力を発揮するようになるのか、それをどう持続させていけばいいのかを考える。(「1」246~247ページ)

コミュニティデザイナーは、コミュニティデザインという方法によって、そのまちに暮らす住民自らがまちの現状を把握し、問題を理解し、課題を解決していくプロセスをデザインする、地域支援(まちづくり支援)の専門家である。その方法は、山崎によると、基本的には次の4段階によって進められる。

第1段階:ヒアリング
ヒアリングの内容は大きく分けて、「どんな活動をしているのか」「その活動で困っていることは何か」「ほかに興味深い活動をしている人がいたら紹介してくれないか」の3点である。
地域の情報を調べ、人の話を聴き、地域の人間関係を把握し、現地を歩いて回るうちに、その地域でどんなことをすればいいのかが少しずつ見えてくる。
第2段階:ワークショップ
地域の特徴や課題を整理、共有し、取り組んでみたいプロジェクトやその実現の方法などについて話し合う。
その手法は、ブレーンストーミング、KJ法、ワールドカフェ(カフェのようなリラックスした空間で次々とテーブル=カフェを移動しながら、違う人とミーティングを重ねる手法)など、話し合う内容や集まったメンバーによって決める。
第3段階:チームビルディング
アイデアが出そろった段階で、「誰がどのプロジェクトを担当するのか」を決めることになる。その際、自分が取り組みたいプロジェクトを選んでもらいつつ、メンバーの調整を行いながら、担当チームをつくる。
チームごとに構成員の役割を決めて、本人たちが協力してプロジェクトが進められる体制を構築する(チームビルディング)。
第4段階:活動支援
できあがったチームの活動(特に初動期の活動)を支援する。チームが活動を進めるために相談に乗ったり、情報提供を行ったり、必要なスキルを得る機会を設けたりなどする。
初動期のサポートは、チームの活動内容を見ながら徐々に減らしていく。自分たちだけで活動できるようになるのが最終目標なので、チームにできることが増えたらコミュニティデザイナーは手伝いを減らす。(「3」180~195ページから抜き書き)

まちづくりには、地域の特性や課題に応じたクリエイティブな思考やオリジナルなアイデア、斬新なセンスなどが求められる。そこから、コミュニティデザイナーには、それらを生み出す知識や情報(事例)、態度や行動、そしてアイデアを“かたち”にしブラッシュアップする(磨き上げる)技能(スキル)などが必要となる。また、個々の住民(個人的実践主体)の主体形成のみならず、それを集団的実践主体や運動主体へと育成・向上させるためのメソッド(手法、やりかた)を身につけることも肝要となる。
なお、山崎においては、アメリカの心理学者ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)の「社会的知性」(SQ:Social Intelligence Quotient)に関する所説を引用し、コミュニティデザイナーには次のような能力が求められることになる。(1) “読み取り能力”(「社会的意識」:ゴールマン)、すなわち「他人の感情を読み取る能力」「人の話をしっかり聴く能力」「相手の意図や思考を理解する能力」「社会のしくみを知る能力」の4つの能力と、(2) “そのうえでどう行動するか”という能力(「社会的才覚」:ゴールマン)、すなわち「相手と同調する能力」「自分の意図を効果的に説明する能力」「他者に影響を与える能力」「人々の関心に応じて行動する能力」の4つの能力がそれである(「3」219~220ページ。ダニエル・ゴールマン 土屋京子訳『SQ 生きかたの知能指数―ほんとうの「頭の良さ」とは何か』日本経済新聞出版社、2007年1月、130~158ページ)。
いずれにしろ、まちづくりには、「まちの人たちが主体となれる方法論で(地域の:筆者)課題を解決していける人材」、つまり「ファシリテーター」が必要となる(「2」154ページ)。周知の通り、全国には、2009年度から実施されている国(総務省)の「集落支援員」や「地域おこし協力隊」の事業などを活用し、地域の課題解決やまちづくりに取り組む人材を積極的に導入している地方自治体がある。2014年度における(専任)集落支援員は221団体(5府県216市町村)、858人(自治会長などとの兼務の(兼任)集落支援員は3,850人)、地域おこし協力隊員は444団体(7府県437市町村)、1,511人を数える。その数は増加傾向にあるが、決して多くはない。また、受け入れ態勢の不備や地域(地元)住民との意識のズレなどによって、その制度が十分に機能しているとはいえない。
まちづくりのソフト事業である人材育成は、何よりも地域が取り組むべき課題である。そこでは、まちづくりをファシリテート(支援、促進)する人材の確保・育成とともに、「活動する市民」や一般住民へのまちづくに関する意識啓発・教育が必要かつ重要となる。 2014年度に東北芸術工科大学(山形市)に日本で最初の「コミュニティデザイン学科」(学科長・山崎亮)が開設された。学科の合言葉は、「ふるさとを元気にするデザインを学ぼう!」であるという。コミュニティデザイン(まちづくり)の本格的な人材育成は始まったばかりである。

例によって唐突であるが、フランスの経済学者トマ・ピケティ(Thomas Piketty)の『21世紀の資本』(山形浩生・他訳、みすず書房、2014年12月)がベストセラーになっている。そこでの言説のひとつは、先進国では経済的格差が拡大し、固定化する傾向にある。その原因は保有する資産の多寡にある。資産家は投資によってさらに資産を増やし、その一方で低所得者は、賃金が上がらない限り資産形成を行うことができない、というものである。同じような言い回しをすれば、地域では生活環境の格差が拡大し、固定化する傾向にある。その原因のひとつは、住民主体のまちづくり(コミュニティデザイン)とその啓発・教育の事業・活動の実施度にある。住民主体のまちづくりが活発な地域は、その実態(実情)や特性を活かした新たなまちづくりを推し進める。その取り組みが低調な地域では、地域の課題を発見し、それを解決するための「人のつながり」(山崎)が広がらない。筆者が本稿でいいたいことのひとつはここにある。それは、市民福祉教育に通底するものでもある。

(1) 「幸運な偶然」について、山崎は次のように述べている。「『偶然』と『幸運』はイコールではない。偶然を一時的な出来事で終わらせてしまうか、それとも自分の人生を豊かにする幸運に変えられるかは、本人次第である。(中略)偶然を幸運に導いてくれるのが、(肯定から入る:筆者)〝Yes,and〟のコミュニケーションでもある。(中略)『幸運』は天から与えられるものではなく、人が自分の意志で見つけていくもの」である(「2」121~122ページ)。「まちづくりで最も重要なことはコミュニケーション能力である」(「1」91ページ)。留意しておきたい言説である。
(2) 山崎にあっては、「デザイン」とは「社会的な課題を解決するために振りかざす美的な力」である。すなわち、多くの人たちに関係している課題を見つけ、それをたくさんの人が共感するような“美しい方法”で解決しようとする行為をいう(「3」233ページ)。
(3) 「活動する市民」とは、まちづくりについて主体的・自律的・能動的な態度・行動を有する住民をいう。拙稿「ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育」(2012年8月21日投稿)などを参照されたい。

補遺
山崎は、「コミュニティデザインとまちづくりは同じではない。(中略)横文字を組み合わせたコミュニティデザインよりはまちづくりのほうが理解してもらいやすい。(中略)まちづくりという言葉は馴染みがあるのだろう。それならそれでいい」(「3」213~214ページ)としながら、次のように述べている。

(地域のさまざまな:筆者)人の集まりが力を合わせて目の前の課題を乗り越え、さらに多くの仲間を増やしながら活動を展開することを支援するのが(中略)コミュニティデザインである。これは、コミュニティの力を増幅させるという意味で「コミュニティエンパワメント」や「コミュニティオーガニゼーション」と呼ばれる手法に近いのかもしれない。あるいは、社会福祉の分野でいわれる「コミュニティワーク」や、開発途上国支援の分野でいわれる「コミュニティディベロップメント」に近い方法なのかもしれない。いずれも「つくることを前提としないコミュニティづくり」であるから、今後はこうした分野の知見を活かしながら、コミュニティデザインの実践を続けたいと思う。(「3」123ページ)

前述の「コミュニティデザイン学科」の創設は、コミュニティデザインという学問領域の成立を前提にする。実践の単なる積み重ねによる実践知だけでなく、学問としての体系化を図るためには、先ずはコミュニティデザインの精緻な概念整理や「コミュニティの力」の構成要素の分析・考察、そしてコミュニティエンパワメント等との関連性の検討などが求められよう。
なお、筆者は、取り敢えず本稿ではまちづくりとコミュニティデザインをほぼ同義に捉え、記述している。

生きること・老いること・死ぬこと―デス・エデュケーションと市民福祉教育―

筆者(阪野)は、放送大学教養学部の学生(選科履修生)である。授業には放送授業と面接授業、それにインターネット配信によるオンライン授業の3通りがあるが、もっぱらオンライン授業を受講している。ただ、その態度は褒められたものではない。半日で5、6回分の授業を視聴したり、履修登録科目以外の人文系や自然系の科目や大学院授業科目も多く視聴している。その結果、気がつけば登録した2科目4単位が修得できず、2015年度継続入学の手続きを取ることになった。
先日、「死生学入門」の15回分を一気に聴取した。そのうち、8回目の井出訓(いで・さとし)先生による「老いと死」は、その目標にかなう授業であり、前期高齢者の筆者にとっては多少なりとも興味や関心を呼び起こすものであった。「老いとともに人は肉体的な衰えを自覚し、死に対する覚悟と準備を求められる。いっぽうで老いはエリクソンが指摘したとおり、発達の最終段階としての成熟と完成に至るプロセスであり、英知という肯定的な意味を獲得しうる段階でもある。こうした老年期を生きる人々が、目の前に迫る死とどのように向き合い、何を想い、いかなる最期を迎えているのか。超高齢社会を迎えた日本社会における老いの現状をふまえつつ、老いという生の成熟と、死という生の完成について考えてみたい」というのがシラバスに記された授業内容である。
講義は、深沢七郎の『楢山節考』の一節の紹介から始まった。辰平が年老いた母おりんを背板に乗せて真冬の楢山へ捨てに行く。その帰り道、雪が舞い始める。辰平は、おりんの運の良さを告げ、「『おっかあ、ふんとに雪が降ったなァ』と叫び終ると脱兎のように駆けて山を降(くだ)った」という場面である。こうした姥捨て(棄老)は、村という社会の権力構造によって高齢者が排除され、村という社会を維持するために「弱者」を犠牲にするという“排除と差別”にほかならない。
日本は、本格的な超少子高齢・人口減少・多死社会を迎える。そういうなかで、「2025年問題」が声高に叫ばれている。「老人漂流社会“老後破産”」が深刻な状況になっている。要介護者や認知症高齢者などへの対応も後手に回っている。これらは、筆者自身の老いにかかわる問題である。またこれらから、姥捨ては形を変えて社会的・制度的に進行しており、それは伝説や小説の世界だけの風習ではない、と思えてならない。経済の効率性や生産性の回復・向上を図り、社会の一員としての社会的責任や社会貢献を果たすことが強く求められる今日の日本社会において、である。ここで、労働力の態様という観点から、高齢者を「衰退した労働力」と規定した一番ヶ瀬康子(いちばんがせ・やすこ)先生の所説を思い起こす。
授業の後半部分では、井出先生の師でありメンター(指導者)であった、看護学を専門とする中島紀恵子(なかじま・きえこ)先生へのインタビューが紹介された。中島先生の、「高齢当事者」(後期高齢者)の目線から語られる「老いと死」から多くを学んだ。中島先生の、「老いについては、死の側から生きるプロセスをみる、死から生命(いのち)を照らすという感覚がつきまとう。」「高齢者には悲哀をともなって世話になる覚悟が必要であり、依存することも自立のうちである」等々の話は意味深い。
そして、井出先生の「老いと死」のまとめは、次のようであった。「自分らしく老い、自分らしく死ぬとはどのように生き抜くことであるのか。それは、今まで自分が生きてきたように生き、そして老い、死んでいくことでしかない。」「『死生学』という視点から老いと死とを考える時、死とは何かという問いよりも、いかに老いという最後の時間を生き抜くかという、生の在り方に対する問いに軸足が置かれているべき」である、というのがそれである。
授業内容の詳細についてはひとまず置くとして、井出先生の授業による筆者の気づきや学びはおおむね以上のようなものである。ここで、宗教学者の山折哲雄(やまおり・てつお)先生の一文を想起する。

「戦後の日本の教育の主軸は、まず第一に生きる力を養うことでした。死をネガティブなものとして正面から向き合うことをしなくなってしまった。それは教育界のみならず、経済界・産業界もそうですし、宗教界までもがそうでした。気がついてみれば、生きる力一本槍で、二言目には共生、共生と言って、死という問題を真っ向から取り上げなくなった。
生きる力イデオロギーと共生大合唱の二本立てによって、いつのまにか日本人は死と向かい合う態度を忘れてしまったと言えるでしょう。
しかし冷静に考えれば、死を知ることで生の意味が本当に理解できるのであって、生きることばかり強調しても、そもそもそのこと自体に説得力がない。生きる力を磨きたいのであれば、死ぬことの意味も知っておかなければならない。」(『「始末」ということ』角川学芸出版、2011年、78ページ)

「きちんと『死』について教えない限り本当の『生きる力』は身につかないと思います。(中略)『共に生きる』という口当たりのよい言葉だけ掲げて、『共に死ぬ』ということはほとんど言わない。死んでいくときは『ひとり』、ということもあいまいになっている。(中略)すべての人間がひとりで死ぬ運命の中に投げ出されている。だから『共に死ぬ』ということになります。『共に死ぬ』すなわち『共死』とはそういう意味なのです。共に生きる者たちは当然共に死ぬ者でもある。」(『わたしが死について語るなら』ポプラ社、2010年、53~54ページ)

要するに、子どもの生活や意識、学校教育などにおいて、抽象的・理念的に「生」が語られ、「死」が遠ざけられてきた。死を見つめることによってこそ生の意味を知ることができる、というのであろう。加筆すれば、死のとらえ方には、自分自身の死(「一人称の死」)と、自分自身と関係性をもつ人の死(「二人称の死」)、そして関係性をもたない人の死(「三人称の死」)の3つがあるといわれる。死すなわち生について議論する際には、客観的で冷静な三人称の死だけでなく、むしろ一人称や二人称の視点が必要かつ重要となる。それによって、より確かな死生観や人生観の育成を図ることができるのである。
ところで、学校における福祉教育ではこれまで、高齢の疑似体験や高齢者への思いやり、そして「共に生きる」ということが強調されてきた。その際、老いについての理解を十全に行ってきたか。死そのものに向き合い、また向かい合ってきたかというと、“否”と答えざるを得ないのではないか。場合によっては、意図的に避けてきたといえなくもない。
そこで、例によって唐突の感は免れないが、本稿で筆者がいいたいのは、「デス・エデュケーション」(death education)の一環としての市民福祉教育の推進を図る必要がある、ということである。しかも、それは、子どもに対する教育営為にとどまらず、一般成人を対象にした福祉教育としての展開がより一層求められる。さらに、上述の中島先生の様にとはいわない(いかない)までも、老いと死について自分の思いや考えなどをその人らしく、その人なりに具体的に言語化できる高齢者の主体形成を図ることが肝要となる、ということである。それは、福祉教育の客体としての高齢者を解放し、高齢者をその主体に位置づけることを意味する。そこに、自立性と自律性、そして個性をもつ高齢者の姿を見出すことになる。
市民福祉教育は、デス・エデュケーションと連携していく間口と奥行きをもっている。


(1)石丸昌彦編著『死生学入門』放送大学教育振興会、2014年。
(2)一番ヶ瀬康子『社会福祉事業概論』誠信書房、1964年。
(3)「デス・エデュケーションは単なる『死についての教育』にとどまるものではなく、『死の準備教育』あるいは『死を見すえて日常の生を生きるための教育』である」(竹田純郎・森秀樹編『<死生学>入門』ナカニシヤ出版、1997年、197ページ)。

付記
日本の政治はいま、「戦争のできる国」づくりを進め、翼賛体制の構築を促している。戦争は犯罪であり、生きることと老いることを許さない死そのものである。こんなことに思いを致しながら本稿を草したことを、敢えて付記しておきたい。

神田均先生とやっちゃんの詩

神田均(かんだ ひとし)先生からまた、ご高著『福祉の細い道~八十路を歩みながら~』(2015年1月1日刊)のご恵贈を賜った。先生は、2014年、7回目の年男(うま年・84歳)を迎えられたという。ご高著の「まえがき」に次のような一節がある。

私は、主に20世紀を生きて来た、まさに「昭和の男」である。しかし私自身が社会人となると同時に、「福祉の道」に入ってから今日まで、「日本の福祉の歩み」を地方の片隅から、眺め続けてきた65年間でもあった。
今、日本社会は内外共に大変に多くの課題を抱えている。併し、あの戦後の混乱期を生き抜いて来た人間としては、真正面からそれらの課題に向き合って、前に進んで行くしかないと思う。
私自身に残された時間は少ないが、これからも人生の最後までボランティア精神を忘れずに、歩み続けて行きたいと思う。

先生は現在も、福祉人材養成の専門学校に出講したり、ボランティア団体の運営に関係されている。東日本大震災に際しては、自らボランティアとして現地に赴いておられる。ただただ頭が下がるばかりである。
神田先生の「生涯、ソーシャルワーカー」の生きざまをご高著から学ぶとき、15歳のやっちゃんの「ごめんなさいね おかあさん」(1975年4月)という詩に出会う。先生の「いのちの尊厳」や「いのちのつながり」の思想と実践、先生の「福祉教育の原点」を読み解くことになる詩である。以下に、転載・紹介することにする。余計なコメントは無用である。

9時
9時10分

及ばずながら福祉教育を追究し、また教師の端くれとして生きてきた筆者(阪野)にとって、やっちゃんの同級生が詩に託す「さとみは さびしい/だから 先生/もっと さとみと話して/だから 先生/もっと さとみと遊んで/だから 先生/もっと さとみをよく見て/やっちゃんが してくれたように」という思いや願いは、心に刺さる。同様に、神田先生の「八十路を歩みながら」今なお「生涯、ソーシャルワーカー」の現役のみずみずしさは、肺腑を衝く。


(1) 神田均先生に関しては、次の文献を参照されたい。
神田均・種石進「『100の知識より1つの体験』を大切にする」(対談)
『ふくしと教育』通巻11号、大学図書出版、2011年9月、38~41ページ。
神田均・武居敏「福祉に関わった宿命 生涯ソーシャルワーカーとして」(対談)
『月刊福祉』2013年5月号、全国社会福祉協議会、2013年5月、52~57ページ。
(2) やっちゃんの詩に関しては、次の文献を参照されたい。
向野幾世『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』サンケイ出版、1978年12月。
向野幾世『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』(必読名作シリーズ)旺文社、1988年3月。
向野幾世『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』(改訂版)産経新聞ニュースサービス/扶桑社、2002年6月。
(3) 「やっちゃんの同級生」の詩の「まんまんさん」は「神様、仏様の幼児語」である。

“あっ!” と直覚すること

筆者(阪野)の、暮れから正月にかけての過ごし方は、ここ数年来、布団の温もりに包まれて分厚い本や別ジャンルの本、あるいは事典などを読むというものである。今年はなんと無謀にも、西田幾多郎の『善の研究』(1911〈明治44〉年1月)などのいわゆる西田哲学を読み返すことにした。「唯一の日本発の哲学」と評される西田哲学の本を読み返すといっても、文体も内容も難解極まりないことは痛感している。今回は、数冊の入門書や解説書も併せて読んでみたが、通読はしたものの、またもや大きな力で跳ね返されてしまった。そもそも、布団の温もりに包まれて読むという姿勢そのものが、不遜である。
周知の通り、西田の思想の根底・起点に「純粋経験」という概念がある。西田は、『善の研究』の第1編「純粋経験」第1章「純粋経験」の最初の段落で次のように述べている。

純粋経験は、「例えば、色を見、音を聞く刹那(せつな:極めて短い時間)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん:最も純粋なこと)なるものである。」(西田幾多郎/小坂国継 全注訳『善の研究』講談社、2006年9月、30ページ。( )内は筆者。)

この一節について、上記の小坂国継は、次のように解説している。

「主観と客観とが分離する以前の、統一的な意識状態を指して純粋経験というのである。それだから、純粋経験は『直接経験』と同義である。われわれがある対象を見たり聞いたりするその瞬間、われわれは対象と一体になっており、われわれと対象との間に間隔はない。
例えば、野山を逍遥(しょうよう)していて、思いがけなく野辺に咲く花が目に止まり、『あっ!』と驚きの言葉を発したその瞬間の状態が純粋経験である。その瞬間においては、私と花とは一体となっていて、そこには見る私もなければ、見られる花もない。ただ一つの事実があるだけである。」(『前掲書』476ページ)

要するに、純粋経験とは、主体と客体、主観と客観が対立する以前の経験であり、「知・情・意」(知性と感情と意志)がひとつになった経験である。それは、野辺に咲く花を見て、「私は花を見ている」「その花は野菊である」「その野菊は美しい」といった判断が生ずる以前の、「あっ!」と息をのんで直覚的に感じ取る瞬間、というのであろう。合理的かつ分析的な推理や思考によらない、それ以前の経験である。「あっ!」と息をのむ瞬間は、何も特別のものではなく、日常的に経験することでもある。
ところで、西田の大学での講義について、ひとつの面白いエピソードがある。西田は講義の途中でしばらく黙って考え込んだ後、急に「わからん!」といって講義をやめ、講義室を出て行った。学生たちも「わからん」ということに感動して教室を出た、というのがそれである。西田にとって講義は真剣な思索の場であり、学生にとってその講義は極めて難解であった、ということである(藤田正勝『西田幾多郎―生きることと哲学』岩波書店、2007年3月、82~83ページ)。
西田のそれと比ぶべくもなく、僭越至極であるが、筆者は、授業の際に学生には「緊張と集中」を求め、「関心と感動」を呼び起こす授業になるよう努めてきた。しかし、汗顔の至りであるが、学生に対して「あっ!」という純粋経験やそれらしき状態を生み出すことはなかった。筆者はしばしば、「伝わっていますか?」という“問い”を学生に投げかけた。学生に伝わっていなければ、伝え方に問題がある以上に、自分が真に「わかっていない」のである。赤面の日々であった。
そこで、筆者は、大学での授業では常に、次のような「自己点検・評価票」への記入を学生に求めた。その主要なねらいは、シラバス(授業計画)や実際の授業内容・方法などについて評価・反省し、改善することにあった。

16時

はがき大のこの自己点検・評価票を丹念に読んでいたとき、「あっ!」と息をのんだことはしばしばであった。それが純粋経験やそれに近い状態であったといえるかどうかは別にして、教師冥利に尽きるものであったことは確かである。

付記
本稿を草することにしたきっかけは、大韓民国の慶北科学大学社会福祉科の尹貞淑教授によって阪野貢・木下康彦編著『福祉科教育法の構築と展開』(角川学芸出版、2007年9月)が2014年12月末に翻訳刊行されたことにある。尹先生とのやり取りのなかで、手元にある「福祉教育」に関するフォルダに「自己点検・評価票」がファイルされていることを思い出した。一片の紙に過ぎないが、何故か捨てがたい。
ところで、これまでの「福祉教育」研究は、一面では、全国各地で取り組まれている実践事例を掘り起し、それを咀嚼し、紹介することに汲々としてきた、といえばいい過ぎであろうか。紹介される事例のほとんどは、その基準を曖昧にしたままでの「先駆的」「モデル的」と評される実践である。事例の掘り起しや咀嚼の仕方が独善的な場合もある。しかも、その実践事例は、機が熟するのを待たずに流行おくれとなり、過去のものとなっていく。最近では、新しく紹介される実践事例の数も少なくなってきているように思える。自己点検・評価をベースにした、息の長い「事例研究」(「実践的研究」)を期待したい。

福祉教育、その彷徨と回顧―ある社協ワーカーとの会話から―

福祉教育にかかわっておよそOO年が過ぎ去りました。昨今の厳しい環境変化によるのでしょうか、元気がでません。進むべき方向も見失いがちで、ときには後ろに追いやられそうです。

福祉教育の指定校制度のもとでは、学校の求めに応じて車椅子を貸し出したり、疑似体験のお手伝いをしたりと、それなりに忙しくしていました。
地域を基盤とした福祉教育の時代を迎え、学校指定から地域指定になりましたが、一面では学校とのかかわりが希薄になったような気がします。

そういうなかで、学校の先生に加えて、地域の誰を福祉教育の主要な担い手として位置づけ、その育成・確保を図ればいいのか。課題山積です。
学校に丸投げしていた福祉教育を、今度は地区社協や地元の関係組織・団体などに丸投げする、という訳にはいきません。それは、社協自らが機能不全を起こし、存在そのものを否定することに繋がるからです。

振り返れば、
1970年代は、全社協などが中心になって「福祉教育の啓発・普及」が図られました。「学童・生徒のボランティア活動普及事業」が始まったのは1977年でした。
1980年代は、福祉教育実践の全国的な展開を背景に、全社協や各地で「福祉教育の理論的整理」が行われました。福祉教育のひとつの羅針盤を得ることができました。
1990年代は、学校を中心にした「福祉教育実践の具体的推進」が図られました。その後は、学校外にも広がっていきました。
2000年代は、地域福祉の主流化の進展やICFの視点の導入などにより、「福祉教育実践の新しい展開と質の問い直し」が行われました。
2010年代は、社会的包摂の理念の普及や東日本大震災を契機に、コミュニティへの関心が高まり、「コミュニティ再生と福祉教育」のあり方が問われています。

福祉教育のこうした変遷を大胆にいえば、
「教育と福祉」→「学校教育と福祉教育」→「学校外教育と福祉教育」→「地域福祉と福祉教育」→「まちづくりと福祉教育」、ということになるでしょうか。

「教育と福祉」の時代には、多くの分野の専門知識や経験などを持ち寄って、「ヒトを育て、まちを創る」という大きな夢と熱い思いを語り合ったものです。そこには、みんな違う“強い香り”がありました。
「地域福祉と福祉教育」の時代になると、崇高な理念や思想が強調されるあまり、何かがこぼれ落ち、何かに矮小化されているようです。そこには、みんな同じ“程よい香り”しかありません。
全社協が1996年に纏めた『地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』を読み返したいと思うところです。画期をなす実践から、いま改めて学ぶべきです。

福祉教育に、口当たりのいい言葉はいりません。必要なのは、厳しい現実と闘っている地域や住民の「ありのままの姿」です。
福祉教育に、ゲーム感覚で楽しんでいるだけの体験活動はいりません。必要なのは、実態をえぐり出し、問題の「本質に迫る学習」です。
福祉教育は、住民自らが、自分らしく・したたかに・しなやかに「生き抜く力」を育むための営みです。
福祉教育は、住民による、住民のための、快適な生活環境や豊かな福祉文化の「まちづくり」を志向するものです。

市民主権や市民自治の確立が求められるいま、改めて福祉教育の重要性と難しさを痛感しています。

福祉教育の歴史研究と福祉教育実践の歴史性―第20回大会に参加して―

11月8日と9日に、日本福祉教育・ボランティア学習学会の第20回大会が日本社会事業大学(東京都清瀬市)で開催されました。
筆者(阪野)は、8日午前中の「特別課題研究(とうきょう企画)」の③「福祉教育・ボランティア学習の原理を探る」という分科会で、「福祉教育の歴史研究」に関して三ツ石行宏先生(神戸親和女子大学)と “対談” する機会を得ました。50名近くの参加者とともに、多くの「気づき」と「学び」のある、有意義なひと時を過ごすことができました。
三ツ石先生は、福祉教育の歴史研究に精力的に取り組まれており、既に複数の論稿を発表されています。今回は、三ツ石先生の玉稿「福祉教育史研究の現状と課題」(『日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要』第22号、2013年11月、68~76ページ)と筆者の拙稿「地方改良運動にみる福祉教育実践―福祉教育の遡及的原点を求めて―」(『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』第13号、2008年11月、120~129ページ)をベースに、互いにその考えや思いを語るものでした。
三ツ石先生からの質問や参加者との議論のうちから、先生が最初に提示された次の質問に対する筆者の回答の概要を以下に記すことにします。「福祉教育史の研究上の課題はどこにあると思うか?」、というのがそれです。

〇福祉教育研究が科学的な研究を志向し、福祉教育の理論化と体系化を図るに際しては、福祉教育の歴史研究はその基本的部分に据えられなければならない。しかし、『学会年報』(第13号)に、「福祉教育研究は、これまで、福祉教育の歴史に無関心であった」(120ページ)と書いたが、その状況は今日においても変わっていない。それは何故か?
〇福祉教育は、その実践が先行してきたが故に、その理論的な整理や研究が “後追い” しがちであった。そういうなかで、福祉教育の歴史研究は、取り残されてきたのではないか。それは、研究者の問題意識が希薄だったのか。研究者が怠慢だったのか。あるいはまた、日本福祉教育・ボランティア学習学会における研究活動の姿勢に問題や限界があったのか、等々いろいろと考えられる。
〇福祉教育研究における歴史研究の課題については、先ずは福祉教育史研究についての問題意識を高め、研究の振興を図ることが強く求められる。その際に、 “歴史研究は理論研究を無視しては成立しない” ということに十分留意することが肝要となる。それは、「実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される。実践のない理論は空虚であり、理論のない実践は盲目である」(120ページ)という言葉をもちだすまでもない。
〇一般に、「歴史に関心が集まるのは歴史の転換期においてである」といわれる。福祉教育はこれまで、子ども・青年の発達の歪みや、高齢者や障がい者が抱える生活問題や偏見・差別の実態などに焦点をあてて実践を積み上げ、また理論化の作業を進めてきたといってもよい。
〇その子どもは、6人に1人が貧困であり、3200万人の65歳以上の高齢者は10人に1人が老後破産をしている、といわれる。障がい者に関しては、ICFの視点や社会的包摂の理念が語られてはいるが、その内実化や実現を図るにはまだ多くの時間と努力を要する。
〇高齢者や障がい者、子ども、外国籍住民など多くの人々の人権が侵害され、平和と民主主義が危機的な状況にある。政治の世界では右傾化が進み、教育の世界では例えば「道徳の教科化」が推し進められている。こうした今日的状況は、いままさに「歴史の危機的転換期」にあるといわざるを得ない。歴史が “逆方向” に進もうとしているいまこそ、歴史研究が重視されなければならない。
〇福祉教育史研究の研究方法論上の課題についていえば、福祉教育に関する歴史的事象をどういう視点や視座で捉え、分析するか。その際の枠組みをどのように設定するか。また分析の手続きや手順をどのように踏むか、等々についての議論がこれまで十分に行われてこなかった。これは福祉教育史研究の “遅れ” の何ものでもないが、喫緊の重要課題として認識することが強く求められる。
〇「福祉教育史研究の意義と課題」については、筆者は、『学会年報』(第13号)で次のように書いている。
「福祉教育研究における歴史研究は、福祉教育の歴史的事実を実証的に解明することからはじまる。すなわち、それは、たんに福祉教育の変遷を押さえるだけでなく、その変遷の意味を明らかにすることである。その際、その史実を社会的・経済的・政治的・文化的諸条件との相互関連のなかで捉えることが肝要となる。それを通じて科学的・客観的に今日の福祉教育の到達点を押さえ、それが抱える問題点や課題を発見し、その本質を把握する。そして、それを解決し克服するための適切な方向を見定め、具体的な解決策を見出す。
ここに、福祉教育史研究の意義と課題があり、研究の重要性を指摘することができる。要するに、現在を読み解き、未来を拓くための有効な方法の一つに歴史があり、歴史研究があるのである。」(120ページ)
〇福祉教育研究における歴史研究について、研究者の “問題意識の希薄” や “怠慢” などといったが、その点をめぐって実践者に関して一言付け加えておきたい。
〇社会的事象は、常にその歴史的背景や状況のもとで生じるものである。当然のことながら、福祉教育実践も、歴史性をもって存在し、展開されてきた。今後も、展開されなければならない。つまり、福祉教育実践に取り組む際には、実践者はその歴史性について常に、また強く認識することが求められる。そうでないと、確かで、豊かな福祉教育実践の展開を期待することはできない。実践者も福祉教育実践の歴史性を強く認識すべきである。

参考文献
20周年記念リーディングス編集委員会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸―学際性と変革性―』大学図書出版、2014年10月。

生きざまを語り、まちづくりに取り組む―木本光宣さんとの往復メール―

9月27日と28日、「第23回全国ボランティアフェスティバルぎふ」が岐阜市で開催されました。筆者(阪野)は、28日の午前中は「ふくしのこころで地域を変える~福祉教育のめざすもの~」というテーマの分科会に参加し、多くの気づきと豊かな学びを得ることができました。感謝です。分科会の開催趣旨等は次の通りです。

福祉教育を進めるには、社協、学校だけでなく、自分から地域課題の解決に取り組んでいく人、すなわち、「ふくしのこころ」を持ち、地域にかかわる「市民」を育成することが必要になります。また、推進者が福祉についてどのように考えているのか、どのような目的で福祉教育を行っているのかが重要となります。この分科会では、改めてそれぞれの考える「福祉」を再確認し、福祉教育の目的を明らかにすることで、福祉教育の先にある、安心して暮らせるまちづくりをみなさんと考えます。
講師・コーディネーター
阪野 貢さん(市民福祉教育研究所 主宰/岐阜県)
シンポジスト
野田 智さん(富山県社会福祉協議会地域福祉・ボランティア振興課 課長/富山県)
木本 光宣さん(NPO 法人 ユートピア若宮 理事長/愛知県)

28日の夜、筆者は、木本光宣さんに次のようなメールを送信しました(要約)。

この度は、格別のご高配とご懇篤なるご指導を賜り、誠にありがとうございました。
木本さんの「子育て」と「まちづくり」の神髄に迫る意味深いレクチャーは、 “こころ” 揺さぶられるものでした。会場の皆さんもそうであったと思います。おかげさまで本当に有意義な分科会となりました。ありがとうございました。
木本さんにあっては、「福祉教育実践に際して『工夫』されていることは何ですか?」というフロワーからの質問について、福祉教育やそれに基づくまちづくりの科学的方法論(方法原理)が問われることになるのではないでしょうか。言い換えれば、木本さんの福祉教育実践が「脳性マヒ者であるご自身やご家族の生きざまだけを語る」ことにとどまっているとすれば、遅かれ早かれ限界が生じる(壁にぶち当たる)のではないかと案じます。
まちづくりに取り組む福祉教育実践者(運動家)としての、ますますのご活躍を祈念いたします。ご自愛専一に。

早速、木本さんから次のような返信が届きました。紹介させていただきます(要約)。

いろいろお疲れ様でした。本当にお役にたったかどうか分かりませんが、分科会に参加された皆さんの表情を見ている限り、まあまあうまくできたのではないかと思っております。
阪野さんがおっしゃるように、私の手法では限界があるのは承知しております。むしろ、早く終わりにしたいところです。しかし、良し悪しは別にして、未だにそれなりの評価を受けるということは、福祉教育の停滞?、迷走?を表しているのではないでしょうか。
何故そうなるのか? その点を私たち障害者や教育関係者、社協をはじめとする福祉関係者などが本気で議論しないと、福祉教育の終焉論や不要論が唱えられ、取り組みそのものがなくなってしまうのではないでしょうか。場合によっては、偏狭な〇〇教育に取り込まれてしまうかもしれません。
私の手法に限界が来る前に、まちづくりのための新たな福祉教育の必要性や重要性を認識・理解し、豊かな実践や運動に取り組む若い世代を育てていきたいと思います。これまでとは違う、しっかりとした思想や理念、原理に裏付けられた福祉教育実践・運動に若者とともにチャレンジしていきたいと考えています。
とりあえずは、私の手法の限界を見届けることができれば、それは幸いなことだと思っています。ありがとうございました。

木本さんのレクチャーは、「関心と感動」「緊張と集中」を促すものでした。“感動とはいっときの気持ちの揺れ” ともいえますが、木本さんの話は、障がい者としてのライフ(Life:生命・生活・人生)に関する思いや実践・運動に裏打ちされたものであり、それゆえに深い感動を覚え、強い確信が持てるものでした。木本さんがかつて筆者にいった次の言葉が思い出されます。「自分がCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)であることを誇りに思っています」。
木本さんは、“地元” で、まちづくりの実践や運動を推進するために、福祉教育に関する現状把握と問題理解そして課題形成に努められています。課題解決に向けての新たな、自主的・自律的な取り組みが期待されるところです。

“三原色” の思考と “仲間時間” の実践―住民懇談会報告―

今日は、平日の10時から12時の時間帯にもかかわらず、自治区の区長さんや役員の方をはじめ、コミュニティ会議福祉健康部会の皆さん、民生委員やボランティアの皆さん、老人クラブの会長さん、障がい者福祉施設の施設長さん、中学校の校長先生、市議会議員の先生など、40名ほどの方々にお集まりいただきました。前回の住民懇談会にも増して、有意義な懇談会となりました。また、私自身も多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。
感想めいたことになりますが、少しお話をさせていただきますと‥‥‥。
先ず、今日のグループワークはいかがだったでしょうか。赤・黄・青の付箋紙をうまく活用されてカードワークを行い、夢や希望について話し合い、意見などを出し合い、活発な議論がなされていたと思います。そして、この地区がめざすべき福祉のまちの姿・かたちや中身(内容)を、皆さんでイメージ化することができたのではないでしょうか。
社協が準備しましたワークシートも良くできており、活用しやすかったのではないでしょうか。70分ほどの短い時間ではありましたが、皆さんの議論が弾んでいたと思います。「色(色材)の三原色」といわれる色は、赤・黄・青と記憶しておりますが、信号機の色ではありませんが、「赤」(「こんな地域になったらいいな」)のところでは、しっかりと立ち止まって夢を語る。「黄」(「自分ができること」)のところでは、周りのことなどを気に留めながらも、まちづくりのために一歩踏み出す。「青」(「地域として、皆で取り組んでいくべきこと」)のところでは、まちづくりのために皆で力強く歩みを進める。社協は、こんなことを念頭に置いて、あえて赤・黄・青の三原色を使ったワークシートと付箋紙を用意したのではないか。多少深読みの感無きにしも非ずですが、社協の方、いかがですか。
赤・黄・青の三原色の心理的な作用や効果については、色彩心理学などでどのような所説があるか知りませんが、この三原色をうまく使うことによって、皆さん方の思いや考えをお互いに、豊かに引き出し合うことができたのではないでしょうか。
それぞれのグルーブでは、「光の三原色」の赤・緑・青のうちの、「緑」(「理想とする福祉の“まち”」)のところで、キャッチフレーズを考えていただきました。第1グループは「世代が継がり住民が力を発揮できる住み続けたい結(ゆい)の町」、第2グループは「ふれあいを大切に明るい声がひびくまち」、第3グループは、キーワードですが、「老若男女 ふれあい つどい やさしい 美しい 犯罪のないまち」、第4グループは「声かけと思いやりのあふれるまち」というものです。それぞれのフレーズには皆さん方の夢が、またこの地区ならではの「理想とするまち像」が表現されているのではないかと思います。
この4つのフレーズを、社協の職員(コミュニティソーシャルワーカー)が「みんなの力とみんなの声を感じながらふれあい豊かに住み続けられるまち」と、うまく纏めてくれました。先ほどの説明を伺っていて、「みんな」「力」「声」そして「住み続けられる」という文言には、誰もが腑に落ちる「確かさ」と「強さ」があると感じました。
先日、ある地区にお邪魔したときに、このキャッチフレーズについて、「こんなことを考えて何の意味があるのか。地域の問題をひとつひとつ“潰していくこと”が必要であり、そのことを考えるべきであって、抽象的な言葉遊びは無駄である」というお叱りを受けました。「問題を潰す」という言葉は気になりますが、それはひとまず置くとしても、私はキャッチフレーズの作成は不必要だとは思っておりません。それは、福祉のまちについて夢を語り、福祉のまちづくりについて思いをひとつにし、「軸」がブレない取り組みを皆で進めていくためにも必要なことだと思います。
夢は語るものですが、追い求めるものでもあり、また育むものです。夢を語った以上は、その夢の実現をめざして、皆で汗を流すことが求められます。真摯に夢と向き合い、積極的に夢を追い求める住民が増えれば、地域にとって、それぞれの地区にとってプラスになるのではないでしょうか。
皆さん方には、夢を実現するために、地域のリーダーとして主導的な役割を果たすことが求められると思います。ただし、ヒーローやヒロインのような唯一の強いリーダーとしてではなく、メンバーシップやフォロワーシップを兼ね備えた一人のリーダー、地域住民として活動することが期待されます。「この地域には強いリーダーがいないからダメだ」という嘆きの言葉を聞くことがありますが、そうでしょうか。強力なリーダーがいない地域は「ダメ」な地域ではなく、強力なリーダーを必要とする地域が実は「不幸」な地域であるかも知れません。
この地区は、高齢化率が約13%と市内で一番低く、若い人が多いまちです。子どもや若者たちと一緒になって、子どもや若者の夢を育むための活動にも頑張っていただければと思います。また、今日はお見えになっておりませんが、子どもたちや障害のある方々、外国籍住民の皆さん、さらには福祉サービスを利用されている方々、できる限り多くの方々にお声かけいただき、お出かけ願えるような懇談会を、皆さんの手で今後も計画的・継続的に開催していくことが必要であり重要であると思います。
2点目ですが、いささか蛇足めいたことになりますが‥‥‥。
今回初めて気づいたのですが、男性の皆様はそのほとんどの方が腕時計をはめておられます。しかし、ほとんどの女性の方ははめておられません。どうしてでしょうか。男性の方は、退職された方が多いと思いますが、いまはこの地元で、約1万人の地区住民のために活動されている方々だと思います。男性の方は、会社勤めのときには腕時計の時間で、会社の時間で仕事中心の生活をされていたのではないでしょうか。「時計時間」の生活が長く続きますと、そういう生活から、腕時計の時間に拘束された生活から抜け出すことが難しいのではないでしょうか。生活習慣といえばそれまでのことですが。
それに対して、女性の方々は、この地元を中心に、隣り近所の方々をはじめいろんな方々との関わり合いのなかで暮らしておられると思います。多くの友達や仲間がこの地元にいらっしゃる。そういう方々とご一緒に、明確な時間の流れというよりは自由でゆったりとした、融通の利いた時間、「仲間時間」あるいは「地元時間」といいますか、そんな時間のなかで生活をし、趣味活動や地域活動などに取り組んでおられる。だから、わざわざ腕時計をする必要もないのではないか。そんなことを思った次第です。
そして、地域活動へのはじめの一歩は、趣味や特技、あるいは経験や知識を活かした身近な活動に、できるときに、できるところで、気心の知れた仲間と一緒に取り組む。そんなことが重要であるともいわれますが、いかがでしょうか。
今回の地域福祉活動計画に基づく福祉のまちづくりは、時計時間と仲間時間(地元時間)がうまく織りなされるなかで、この地区ならではの、「私発」の、そして1万人の「住民総参加」の活動や運動として進められていかなければならないのではないか。男性の方も女性の方も、会社人間であった方も、この地元地域・社会の住民として皆で、豊かな知識と長年の経験に基づく知恵、そして「力」を出し合って、福祉のまちづくりにこれまで以上に関わり合っていくことが必要ではないか。そんな感想をもち、またそんな思いがしました。
雑駁ですが、以上です。ありがとうございました。
10時

【注】
(1)T市社協が主催したH地区における第2回住民懇談会は、(1)第1回の振り返り(20分)、(2)意見交換/グループワーク(70分)、(3)全体会/グループ報告・地区のキャッチフレーズの決定・まとめ(30分)の内容と時間で開催されました。本稿は、筆者(阪野)の役割であった最後の「まとめ」を記憶に基づいて整理したものです。
(2)T市社協が作成したワークシートでは、「赤」(「理想とするべきまち像」)、「黄」(「自分としてできること」)、「青」(「地域としておこなっていくべきこと」)、「緑」(「理想とするまち像」)となっています。当初、2回目の懇談会のテーマは「(3)私が住んでいる “まち” が、こんな “まち” になったらいいな」「(4)(3)を実現するために、私ができること、私たちがしなければならないこと」とされていました。本文中と上記のワークシートの文言は、筆者なりに加筆・修正したものであることをお断りしておきます。