「雑感」カテゴリーアーカイブ

阪野 貢/追補/「聞くこと」「話すこと」を考える:「ただ聞く」ことをめぐって ―尹雄大著『聞くこと、話すこと。』のワンポイントメモ―

言葉が信じられない時代であるのは間違いない。それでも私とあなたのあいだにある言葉を愛(いとお)しく思う。わかり合うためではなく、わかりあえなさが明らかになるとき、かけがえのない存在としてここにいることがわかるからだ。(下記[1]258ページ)

〇本稿は、<雑感>(183)「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―/2023年8月8日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、インタビュアー・作家の尹雄大(ユン・ウンデ)の『聞くこと、話すこと。―人が本当のことを口にするとき―』(大和書房、2023年5月。以下[1])という本がある。[1]は、濱口竜介(映画監督)や上間陽子(琉球大学教授)、坂口恭平(建築家)、そして「ユマニチュード」という認知症高齢者のためのケアの技法を開発したイヴ・ジネストらとの対話を通して、「聞くこと」、「話すこと」とはどういう体験なのか、人間にとって「言葉」とは何か、といったことをめぐる評論である。
〇ユマニチュード(Humanitude)とは、相手のことを大切に思っていることを伝えるための「見る・話す・触れる・立つ」(「ケアの4つの柱」)の技術を通して、人間らしさ(ユマニチュード)を尊重するケアの技法をいう。
〇[1]のキーワードのひとつに、「ただ聞く」がある。それは、上記の本ブログ<雑感>(183)で述べた、相手の話を聞きそれを「受け止める」ことが大切である、という指摘にも通じる。その点をめぐって、[1]における尹の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

余計な聞き方をせず「ただ聞く」という態度によってこそ信頼関係が生まれる
互いが「あなたを知りたい」というあまりの率直さに触れたとき、私が私であることを許される、認められる。そこに「私自身であっていいのだ」という安心を覚える。確実な約束を与えられるからそれが信じられるのではなく、ただ許され、認められることに自らを懸けようとする。それが信頼ではないか。/そうなると「あなたを知りたい」という問いかけで重要なのは「何を聞くか」でも、それによって話された言葉の理解でもない。この場にいる互いのあり方にただ注視する態度だけが必要だ。/そのとき聞くことは意味の理解につながらないだろう。というより、つなげる必要がない。日常においては、聞くことを理解にすぐさま結びつけてしまう。ともかくわかろうとするのもまた意識的な行為のなせる業(わざ)だ。そこからは信頼して言葉を紡げる関係性は生まれにくい。(27~28ページ)

「ただ聞く」とはその人の「今ここ」の感情を分かろうとする試みである
たいていの場合、人は相手の話を「その人の話」としてではなく、「自分の話」として聞きがちだ。自分の理解できる範囲の出来事を相手に見出しては「わかる」と言い、共感できないことはただちに「わからない」と判断する。わからなさを前にした途端、実際には口にしなくても、心の中で相手の話に対して「つまり・結局・要するに」を持ち出して解釈することに忙しい。その後に続くのは「だから良い・悪い」のジャッジだ。(43ページ)/「完全に聞く」(「ただ聞く」)とは相手を完璧に理解することではない。わかろうと試みる状態のことだ。/そういう時間と空間であるためには、互いの協力が必要になる。どのような関係性がそれを可能にするかといえば、少なくとも話し手がその人のすべてで「今ここ」において話すという態度が必要になる。(45ページ)

相手の話を「ただ聞く」ためには自分の判断基準や価値観を手放す必要がある
相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジ(判断)している。/私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。相手が良いことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。そうではない。自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。(233ページ)/私たちのジャッジの基準は、生まれ育った環境、時代、社会の中で選ばざるを得なかったというような、極めて個人的な事情に基づいている。生き延びるためにそれを身につけてきた経緯がある。(235ページ)/他人の話を聞く前に、自身のジャッジを形成するに至ったストーリーを知り、その顛末を最後まで聞きとり、それを手放さない限り、私たちは相手の話を聞くことができない。本当に尊重することができない。(237ページ)

生きている事実について「ただ聞く」ことによって「聞き取られない声」を聞かないといけない
(ドメスティック・バイオレンス(DV)や性暴力などの過酷な境遇を生きている少女など)「本当に話せない」という我が身を引き裂くような、晴れることのない思いが胸奥(きょうおう)に腹に全身にわだかまったまま生きている人が現にいる。そんな切迫した思いが、コミュニケーションにおいて推奨されている通りの共感や肯定を示すことで太刀打(たちう)ちできるはずもない。(93ページ)/「本当にのたうち回るような経験というのをした人は自分の体験を表す言葉を持たない」(上間陽子)。(94ページ)/身に刻まれた痛みや悲しみを抑えることも晴らすこともかなわない。引き裂かれた感情を抱え、それでも正気を保たないことには生きていけない。摩滅しそうになりながら生きてきた人の言葉が、穏当に理解できるようなものになるわけがない。身が軋(きし)むような生き方を強いられてきたのであれば、ほつれた語り口(まとまりを欠いた話し方:筆者)で言わざるを得ない必然性がある。(106ページ)/聞き取られない声がある。だから聞かないといけない。何を聞くのかではなく、ただ聞く。子供らにより良い生き方を諭す前にすべきなのは、すでに生きている事実について耳を傾けることではないか。(111ページ)

〇ここで、2つの文章を引いておきたい。ひとつは、「話をしている最中に概念的な理解をしようとして頭で考えてしまうということは、相手の話から常に遅れている。(中略)そのときその場にいながらそこにおらず、想定の中にまどろむことを自分に許している。端的に言えば、話を聞いていない」(21ページ)というそれである。意識的に集中して相手の話を聞き、いろいろ考えようとするとき、相手の「話を聞いていない」のである。対話における「聞くこと」「話すこと」と「考えること」(自分が設定した「問い」に自分なりに「答え」る営み)の難しさがここにある。体験的に納得できるところでもあり、留意しておきたい。
〇いまひとつは、「共感は理解への唯一の道ではない」(226ページ)。「共感は、相手の話を自分の話として聞いている。けれども本当に話を聞こうと思うのならば、他者の声を尊重するならば、相手の話を相手の話として聞かなくてはならない。あなたという存在は私の共感の及ばないところで生きている」(228ページ)というそれである。「ただ聞く」のは難しい。それは、対話の知恵や技法を問うものではなく、「今ここ」にいる相手を、かけがえのない存在・尊厳ある存在として真に「受け止める」ことによって可能になるのである。

(人の話を聞くにあたり)聞き慣れない表現に戸惑ったときに求めるべきは、戸惑いをちゃんと味わうことではないか。それもせずに正当性という正解に向かう道筋を選ぶ発想こそが、相手の話の聞けなさにつながっている気がする。(上記[1]194ページ)

 

阪野 貢/「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって ―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―

意見とは、自分が考えてきた「問い」に対して、自分が出した「答え」である(山田ズーニー『伝わる・揺さぶる! 文章を書く 』(PHP新書、2001年11月、41ページ)。

〇筆者(阪野)の手もとに、哲学者の梶谷真司(かじたに・しんじ)の『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』(幻冬舎新書、2018年9月。以下[1])という本がある。梶谷にあっては、哲学とは、「考える」営みそのものであり、「問い、考え、語ること」である(32ページ)。
〇梶谷はいう。「考える」という営為は本来、自分自身に問いかけ、自分なりの答えを出すことであり、自分自身との「対話」を意味する。しかし、ひとりで悶々(もんもん)と考えることには限界がある。また、現実の家庭や学校、社会(会社、地域等)における「考える」という営為は、既に決められている「正しいこと」「よいこと」「他者の意に沿うこと」の「正解」を探し求めるそれであり、そう考えさせられている。とりわけ学校では、生徒は教師や教科書によって提示された問いについて、強制的に考えさせられ、ひとつの正解を見出し、統制・画一化されている。また、特定の基準に即して選別され、序列化され、場合によっては周縁化され、排除される(12~13、52~53ページ)。
〇そこで、より広く、深く考えるためには、多様な立場の人が集まり、自由に「共に問い、考え、語り、聞くこと」が肝要になる。別言すれば、複数の人がいっしょに問い、その答えを探して考え、言葉にして語り、それを聞き、それを受け止める(「受け入れる」ではない)ことが、「共に考える」ということである。その際、とりわけ大事なのは、分からないことを「問う」ことである。それによって、はじめて「考える」ことができる。分からないことが増えれば、それだけ問うこと、考えることが増えるのである。そして、その過程を通して、自分を縛りつけるさまざまな制約(息苦しい世間の常識や慣習、人間関係、自分自身の思い込みや不安・恐怖、こだわり等)から解き放たれ、他の人といっしょに「自由になること」ができる。それは、人と人が「共に生きること」を意味する。こうした「共に問い、考え、語り、聞くこと」の具体的な方法(method)と方法論(methodology、方法の体系・システム)が、知識として学ぶ哲学(philosophy)ではなく、梶谷のいう「共に考える営み」としての哲学(philosophize)、すなわち「哲学対話」である(12~17ページ)。
〇「哲学対話」では、多様な立場の人が参加することが重要となる。適正な参加人数は10~15人前後とされる。また参加者は、対等であることを明確にするために、輪になって座る。そして、進行役(ファシリテーター)の支援のもとに、「共に考える体験」(共に問い、考え、語り、聞くこと)を通して個人的・主観的な感覚を覚え、それが「共感」を呼び起こし、思考を深化・拡大させる。こうした「哲学対話」について、[1]における梶谷の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話のルールと特徴―「他者へ」と「世界へ」と自らを開く
①何を言ってもいい
哲学対話においてもっとも大切なのは、「自由に考えること」であり、「問う」と「語る」からいかにして制約を取り払うかである。自由に問い、自由に語ることによって、はじめて自由に考えられるようになる。(47、48ページ)
②人の言うことに対して否定的な態度をとらない
自分の言うことが同意されなくても、決して否定されないと分かっていることが重要である。自分の言うことをそのまま受け止めてもらえると思えてはじめて、何でも言えるようになる。(55~56ページ)
③発言せず、ただ聞いているだけでもいい
話したくなければ黙っていていい。その自由がなければ、話したいことを話す自由もないことになる。「聞く」というのは、対話への立派な参加である。聞いていることじたいが、対話にとって決定的に重要である。(58ページ)
④お互いに問いかけるようにする
「問い」かけができなければ、対話で思考を深めたり広げたりすることはできない。問うことを学ばないところでは、考えることも学べるはずがない。考えるとは、「分からないことを増やすこと」であり、何を質問してもいい、ということである。(60、64、66ページ)
⑤知識でなく、自分の経験にそくして話す
知識に基づいて話したり、人の言葉や何かの用語を引き合いに出すのは、権威づけをし、それによって自分の優位を示そうとしていることが多い。「共に考える」ためには、
自分の言葉で、自分の経験や思いと結びつけたり、身近な例を出したりして話せばいいのである。(71ページ)
⑥話がまとまらなくてもいい
話し合いの答えを安易に先送りすることがあってはならないが、お互いに問い、考えた結果、結論が出るのであれば、それでいい。大切なのは、言いたいことを言い、問いたいことを問い、考えるべきことを考えたかどうかなのである。(75ページ)
⑦意見が変わってもいい
哲学対話では、みんなで考えているのだから、考えを深めたり広げたりするのであれば、個々人の意見は変わってもいい。意見が変わるということは、思考が深まった、広まった、違う角度から考えた、前提が問い直されたということであり、望ましいことである。(76ページ)
⑧分からなくなってもいい
分からなくなるというのは、問いが増える、考えることが増えることである。対話で分からなくなるのは、望ましいことであり、他者へと、世界へと自らを開いていくことである。(76、77ページ)

哲学対話の意義―「自由」と「責任」と「自分」のための哲学
哲学対話は「自由」を実感し理解する格好の機会である
哲学対話で自分とは違う考え方、ものの見方を他の人から聞いた時、自分自身から、そして自分の置かれた状況、自分のもっている知識やものの見方から距離をとる。その時私たちは、それまでの自分自身から解き放たれる。自分を縛っているもの――役割、立場、境遇、常識、固定観念など――がゆるみ、身動きがとりやすくなる。/また、哲学対話で今まで分かっていたことが分からなくなると、いわゆるモヤモヤした感覚、それこそ靄(もや)の中に迷い込んだ感じがする。/この自分を縛りつけていたものからの解放感と、自分を支えていたものを失う不安定感――この両義的感覚は、まさしく自由の感覚であろう。(93、94ページ)
哲学対話において感じるこの自由は、感覚じたいが個人的であり、主体的であるとしても、だからといって、他者と共有できないわけではない。そこで自分が感じる自由は、まさにその場で他の人と共に問い、考え、語り、聞くことではじめて得られるものである。だからそれは、他者と共に感じる自由なのだ。/こうして私たちは考えることで自由になり、また他の人といっしょに考えることで、お互いが自由になる――哲学対話は、このような固有の、そしておそらくは、より深いところにある自由を実感し理解する格好の機会なのである。(96~97ページ)

哲学対話を通して生まれる「責任」は他者と共に享受する権利である
哲学対話を通して自ら考え、決めた時に生じる責任の問題は、ポジティブな意味での責任である。それは、自由と引き換えにしぶしぶ負う義務ではなく、むしろ自由と共に手に入れるべき権利のようなものではないか。(98ページ)
私たちは、自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。(100ページ)
哲学対話で選んだこと、決めたことは、結果がどうであれ、責任をとることができる。そうして私たちは、ただ自由だけを求めるのでも、責任だけを甘受するのでもなく、その間で妥協するのでもなく、自由と責任をいっしょに取り戻す。それは他でもない、自分自身の人生を生きることなのだ。/しかもそれは、対話を通して生まれた他者との共同的な関係に根差している。だからそこで引き受ける責任は、一人で負わなければならない責めでも、できれば避けたい負担でもない。他者と共に享受する権利となるのだ。(104ページ)

哲学対話は人生を「自分」のものにする営みである
哲学対話は、“恋愛”と同じである。/恋愛も人生も、自分で身をもってやってみるしかない。一から始めなければならない。うまくいかなくても、時に嫌気がさしても、臆病になっても、手放してしまうわけにはいかない。(110ページ)
哲学対話=「考えること」もそれと同じだ。レベルの高さ、厳密さ、深さ、一貫性を求める必要はかならずしもない。誰のためでもない。自分のために考えるのだ。どんなにつたなくても、自分でつまずいて自分で考えたことしか、その人のものにはならない。/だから、とにかくやってみればいい。そうして自由と思考を自分のものにし、人生を自分のものにするのだ。その時、いっしょに考えてくれる人がいたら続けられる。だから哲学は対話でするのがいいのだ。(110~111ページ)

哲学対話の核心―自分自身の「問い」をもつことと「考えること」の関連性
「問い、考え、語り、聞くこと」としての哲学(哲学対話)において、もっとも重要なのは「問うこと」である。「問い」こそが、思考を哲学的にする。/「考える」というのは、自発的で主体的な活動を指す。それは「問い」があってはじめて動き出す。問い、答え、さらに問い、答える――この繰り返し、積み重ねが思考である。それを複数の人で行えば、対話となる。(115ページ)
考えるには、考える動機と力がいる。自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。考えずにはいられない。こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自分を問うことである。/自ら問いたいことを問い、そこから考えることは、「問題を解くために考える」=「考えさせられる」のとは、まったく違うのである。(118~119、120ページ)
知識だけ学んで問うことがなければ、思考はどこにも行かず、育つこともない。知識もなしに問うばかりでは、思考は方向を見失う。知識はそこからさらに問うてこそ意味があり、問いは知識によってさらに発展する。だから哲学的に考えるためには、答えのある問いとない問い、閉じた問い(簡潔に答えられてそれ以上の説明を要しない問い)と開いた問い(答えに説明を要する問い)の両方が必要なのである。(141、144ページ)

〇およそ以上が、筆者の関心に基づいて捉えた、[1]が説く「哲学対話」や「考えること」の理念や意義、方法についての要点である(哲学対話の具体的な実践法については省略する)。そこには、「共に考える」ことを拡大・深化させるに際して、例えば、「論理的思考と批判的思考」、「具体的思考と抽象的思考」、「課題解決型思考と価値創造型思考」、「帰納的思考と演繹的思考」(複数の個別事例から一般原則・理論(結論)を導き出す思考と、一般原則・理論(一般論)を前提に個別の結論を導き出す思考)、あるいは他の人の考えの「容認と受容」などをめぐる疑問なしとしない。その点についての検討は別稿に譲ることにして、ここでは、再認識する意味で次の一文を引いておくことにする。それは、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に求められるひとつの理念や思想に通底するものでもある。地域コミュニティにおいて「共に考える」ことを通して自分の生きる現実を問い、考え、それを変え、自由と責任を取り戻してだれもが「よく生きる」、という理念や思想(地域共創のための自己責任と自己実現、相互責任と相互実現)である。

地域コミュニティにおいて、地元住民が当事者として地域をどうするかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。/何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生ではないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果を引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。(102~103ページ)

私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。/しかもそのさい、一人で考えるのではなく、他者と共に考えることが重要なのだ。(103ページ)

哲学は夢を追いかけるユートピア思想ではないし、社会全体を変えようとする革命思想でもない。それは「考える」ということを通して、誰もが自分の生きる現実をほんの少しでも変え、自由と責任を取り戻して生きるための小さな挑戦である。そこで必要なのは、高邁(こうまい)な理想よりも徹底的なリアリズルなのだ。(259ページ)

〇筆者の手もとにもう1冊、「哲学対話」に関する本がある(2冊しかない)。哲学者の河野哲也(こうの・てつや)が編集する『ゼロからはじめる哲学対話―哲学プラクティス・ハンドブック―』(ひつじ書房、2020年10月。以下[2])がそれである。[2]は、哲学対話=哲学プラクティスに関する論点や言説が網羅的に記されているハンドブック(マニュアル)である。そこでは、「哲学対話とは、人が生きるなかで出会うさまざまな問いを、人々と言葉を交わしながら、ゆっくり、じっくり考えることによって、自己と世界の見方を深く豊かにしていくこと」(寺田俊郎:3ページ)をいう。
〇そして、哲学対話の特徴と実際的な意義・効用のポイントについて次の諸点を指摘する。[1]における説述と重複するが、参考に供しておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話の特徴―「自由」によって自分と世界の見方を深く豊かにする
(1)哲学対話には問いがある
● 哲学的な問いは対話を必要とし、哲学的な問いを考える唯一の方法は対話である。
● 哲学的な問いの最終的な答えは誰も知らないのだから、対話に参加する人々の関係は平等・対等になる。
(2)哲学対話は答えを急がない
● 哲学対話は、速やかに答えを出さなければならないという圧力から自由である。
● 自分の意見を他の人々の意見に照らして吟味することによって、自分の意見の根底にある暗黙の前提に気づくことができる。
● その前提を明らかにすることは、自分の意見を明らかに、深く、豊かにしていくために必要であると同時に、互いに意見を理解するためにも必要なことである。
● 哲学対話が成功するということは、新たに問いが見出されるということであり、哲学対話を重ねれば重ねるほど問いが生まれ、さらに哲学対話が続いていく。
(3)哲学対話は自他の考えが変わっていくことを大切にする
● 自分で考え、他の人々と共に考えることによって、自他の考えが変わっていくことを自覚し認めあうことができる。
これらの特徴から、哲学対話を成立させるためにもっとも大切な条件は「自由」――問いを立てる自由、意見を表明する自由、意見に対する問いを立てる自由、答えを出す圧力からの自由、そして自分の考えを変える自由、である。(寺田俊郎:3~9ページ)

哲学対話の意義・効用―共生社会・成熟社会の構築と集団的意思決定に貢献する
(1)哲学対話は、多様な人々が、人が生きるうえで大切な問いを、互いの意見を尊重しあいつつ考えることによって対話の文化を醸成し、共生する社会を築くことに役立つ。
(2)哲学対話は、共生社会の別言であるが、風通しがよく、居心地がよく、生きやすい成熟した社会を築くことに貢献する。
(3)哲学対話は、重大な根本的な問題について問い、熟議し、まともな集団的意思決定を行うことに貢献する。それは民主主義に貢献するということである。(寺田俊郎:17~22ページ)。

自分の「考え」を持っていないということは、この考えを作りあげるための「考え方」を持っていないということである。(中略)何かの思想を持つことは、そうむつかしいことではない。それには出来合いのいろいろの思想があるからである。日本は今日まで、いつもそういう出来合いの西洋の思想を貰(もら)ってきて、サシ根して育てようとした。(中略)しかしほんとうに自分の考えを持つためには、それを持つ手段としての自分の「考え方」がなくてはならない。その考え方が我々にないならば、新たに学ぶほかはないのである(笠信太郎『ものの見方について』(改訂新版)角川ソフィア文庫、1966年7月、6ページ)。

追記
梶谷真司の次の文献も参照されたい。
・『人生を変える文章教室 書くとはどういうことか』飛鳥新社、2022年12月。
・『問うとはどういうことか―人間的に生きるための思考のレッスン―』大和書房、2023年8月。

阪野 貢/追補/「キャリア」再考:計画的偶発性理論をめぐって―J.D.クランボルツ・A. S.レヴィン著『その幸運は偶然ではないんです!』のワンポイントメモ―

キャリア研究では、明確な目標を立て、そこに到達するために「逆算」して、計画化に努力していくという考え方(「キャリア・プランニング」論)ではなく、偶然のチャンスを生かして、上手に転換を図りながら自分のキャリアを歩んでいくという考え方(「計画的な偶発性(プランド・ハプンスタンス)」の理論)が主流となっている(児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』KKベストセラーズ、2016年4月、136~137ページ)。

〇本稿は、<雑感>(177)夢の正体とキャリア教育の功罪―児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』のワンポイントメモ―/2023年6月4日投稿、そのなかの上記の一節に関する追補である。
〇いま、いわゆるVUCA(ブーカ)――Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の時代にあって、自分の「経歴」や「職歴」、すなわち「キャリア」(career)を他人まかせや組織まかせではなく、自らどのように構想し形成・開発していくかが問われている。
〇まず、「キャリア」という言葉・概念について簡単に押さえておきたい。ひとつは、厚生労働省の「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会」報告書(2002年7月)がいう「キャリア」と「キャリア形成」についてである。いまひとつは、中央教育審議会の「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申(2011年1月)がいう「キャリア」と「キャリア発達」についてである。

「キャリア」と「キャリア形成」
―厚生労働省「キャリア形成を支援する労働市場政策研究会」報告書(2002年7月)―
近年、労働市場の変化や労働者等の職業意識の変化に伴い、「キャリア」や「キャリア形成」等の言葉が個人の職業生活を論ずる場合のキーワードの一つとなっている。(中略)
「キャリア」とは、一般に「経歴」、「経験」、「発展」さらには、「関連した職務の連鎖」等と表現され、時間的持続性ないし継続性を持った概念として捉えられる。
「職業能力」との関連で考えると、「職業能力」は「キャリア」を積んだ結果として蓄積されたものであるのに対し、「キャリア」は職業経験を通して、「職業能力」を蓄積していく過程の概念であるとも言える。
「キャリア形成」とは、このような「キャリア」の概念を前提として、個人が職業能力を作り上げていくこと、すなわち、「関連した職務経験の連鎖を通して職業能力を形成していくこと」と捉えることが適当と考えられる。
また、こうした「キャリア形成」のプロセスを、個人の側から観ると、動機、価値観、能力を自ら問いながら、職業を通して自己実現を図っていくプロセスとして考えられる。

「キャリア」と「キャリア発達」
―中央教育審議会「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」答申(2011年1月)―

人は,他者や社会とのかかわりの中で、職業人、家庭人、地域社会の一員等、様々な役割を担いながら生きている。これらの役割は、生涯という時間的な流れの中で変化しつつ積み重なり、つながっていくものである。また、このような役割の中には、所属する集団や組織から与えられたものや日常生活の中で特に意識せず習慣的に行っているものもあるが、人はこれらを含めた様々な役割の関係や価値を自ら判断し、取捨選択や創造を重ねながら取り組んでいる。
人は、このような自分の役割を果たして活動すること、つまり「働くこと」を通して、人や社会にかかわることになり、そのかかわり方の違いが「自分らしい生き方」となっていくものである。
このように、人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ねが、「キャリア」の意味するところである。このキャリアは、ある年齢に達すると自然に獲得されるものではなく、子ども・若者の発達の段階や発達課題の達成と深くかかわりながら段階を追って発達していくものである。(中略)
このような、社会の中で自分の役割を果たしながら、自分らしい生き方を実現していく過程を「キャリア発達」という。

〇要するに、厚生労働省報告では「キャリア」とは、単なる「職歴」ではなく、職業経験を通してあらゆる経験が持続的・継続的に蓄積・連鎖して構築されていくこと(またその過程やさま)をいう。中央教育審議会答申では「キャリア」とは、「人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ね」の総体を意味する。この点に関して文部科学省は、「『働くこと』については、職業生活以外にも家事や学校での係活動、あるいは、ボランティア活動などの多様な活動があることなどから、個人がその学校生活、職業生活、家庭生活、市民生活等の生活の中で経験する様々な立場や役割を遂行する活動として、幅広くとらえる必要がある」(文部科学省『中学校キャリア教育の手引き』2011年5月、16ページ)とする。留意しておきたい。
〇筆者(阪野)の手もとに、J.D.クランボルツ・A.S.レヴィン著、 花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳『その幸運は偶然ではないんです!―夢の仕事をつかむ心の練習問題―』(ダイヤモンド社、みすず書房、2005年11月。2022年2月・第18刷。以下[1])という本がある。クランボルツ(1928年~2019年)は、代表的なキャリア理論のひとつである「計画的偶発性理論/計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)の提唱者として著名である。
〇計画的偶発性理論の骨子は、① 人生やキャリアは、(その8割が)想定外の出来事や「偶然の出来事」(happenstance)によって影響を受ける。② 偶然の出来事に対して積極的に行動・努力することによって、キャリアを発展させることができる。③ 偶然の出来事をただ待つだけでなく、それを引き寄せる・創り出すために積極的に行動し、変化する状況に注意を向けることによってチャンスが生まれる。また、チャンスが来たときにそれを掴(つか)める準備をしておくことによってキャリア形成を図ることができる、というものである。
〇[1]はこういう。「人生には、予測不可能なことのほうが多いし、あなたは遭遇する人々や出来事の影響を受け続ける。結果がわからないときでも、行動を起こして新しいチャンスを切り開くこと、偶然の出来事を最大限に活用することが大事」である(1ページ)。「この本を通してあなたに伝えたいのは、結果がわからないときでも、行動を起こして新しいチャンスを切り開くこと、偶然の出来事を活用すること、選択肢を常にオープンにしておくこと、そして人生に起きることを最大限に活用すること。(中略)うまくいっていない計画に固執するべきではない」ことである(2ページ)。「この本で伝えたい基本的なことは、積極的に行動してチャンスをつかみ、新しい経験を最大限に活かそうとすることで満足のいくキャリア、満足のいく人生を見つけることができ」ということである(206ページ)。
〇そして、偶然の出来事をキャリア形成に繋げるためには、次のような行動(「行動原則」)が求められるという。① 好奇心(curiosity)/興味や関心をそそる活動に積極的に関わり、それを学びの経験にする(206ページ)。② 持続性(persistence)/失敗してもキャリアの夢を見続け、それが実現するための行動を起こし努力する(52ページ)。③ 楽観性(optimism)/失敗に対して悲観的にならず、建設的な行動を助けるような前向き(ポジティブ)な考え方を持つ(209ページ)。④ 柔軟性(flexibility)/ひとつの目標や計画に固執せず、他の選択肢にもオープンになる(82ページ)。⑤ 冒険心(risk taking)/結果が不確かであっても、新しい活動に挑戦し、行動を起こしてチャンスを切り開く(1ページ)、がそれである(「訳者あとがきにかえて」225ページ参照)。
〇およそ以上が、筆者の偏狭な関心事にもとつぐ[1]の議論の抜き書き・要約であり、<雑感>(177)の追補である。
〇なお、本稿を草することにした意図にいまひとつ、私事にわたるがT氏のキャリアをめぐる筆者の思いや願いがある。氏は今年度から、厳しい条件を承知のうえで所属機関を移籍し、研究・教育のステージを変えることになった。それに関して[1]のなかから、クランボルツとレヴィンの次の言葉を借りたい。T氏への敬意とエールでもある。いつも好奇心を持ち、いつも学び、いつも挑戦してほしいのである(223ページ)。

想定外の出来事は常に起こります。その中のいくつかは、あなた自身の行動の結果として起きています。そしてその中のいくつかは、あなたのキャリアに大きな影響を与える可能性があるのです。(27ページ)

あなたが夢を追求する道中では、よく目を開き耳をすませておくことをお勧めします。チャンスがやってきたときにそれをつかむ準備ができていれば、想定外の出来事があなたをさらによい結果へと導く可能性があります。(53ページ)

付記
〇筆者の手もとに、雇用ジャーナリストの海老原嗣生(えびはら・つぐお)が書いた『クラウンボルツに学ぶ夢のあきらめ方』(星海社新書、2017年4月。以下[2])という本がある。[2]では、キャリア論の「基礎中の基礎(バイブル)」(8ページ)と評するクランボルツの計画的偶発性理論を平易に、小気味よく解説している。図1は、計画的偶発性理論のポイントを整理したものである。参考に引いておくことにする。海老原はいう。「夢はときにあきらめる(消化する)べきものであり、ときに新たに見つける(代謝する)べきものである」。そのため(代謝するため)にはまず「踏み出すこと(好奇心、楽観性、冒険心)」、もう一度「いちから始めること(柔軟性)」、そして「続けること(持続性)」が重要となる。

 

 

 

阪野 貢/「利他」再考の3冊:利他は事後的であり、利他的になろうとする作為は利他を遠ざける ―中島岳志著『思いがけず利他』等のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、伊藤亜紗(編)・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』(集英社新書、2021年3月。以下[1])という本がある。伊藤は美学者、中島は政治学者、若松は批評家・随筆家、國分は哲学者、そして磯崎は小説家である。分野も背景も異なるこの5名の研究者が、東京工業大学の「未来の人類研究センター」(2020年2月設立)のメンバーとして取り組んでいるのが、「利他」をめぐる問題である。[1]は、「全員ではぐくんできた利他をめぐる思考の、5通りの変奏」であり、いまだその「出発点であり、思考の『種』にすぎない」という(8ページ)。
〇[1]におけるひとつのキーワードは、「うつわ」――「うつわになること」「『うつわ』的利他」である。伊藤は次のようにいう。

利他とは「うつわ」のようなものではないか。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようである。(58ページ。語尾変換)

〇人間は「うつわ」のような存在として生きることによって、「利他」が宿る。こうした人間観を生み出す伊藤の言説は、こうである。利他的な行動には本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。その「私の思い」は私の思い込みでしかなく、「自分の(利他的な)行為の結果はコントロールできない」、すなわち見返りは期待できない(「利他の不確実性」)。自分の利他的な行為は、相手は「喜ぶはずだ」「喜ぶべきだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲と捉えており、その見返りを相手に求めていることになる。その点において、利他的な「思い」や「行為」は、相手をコントロールしたり、支配することにつながる危険をはらんでいる。そうならないためには、相手を「信頼」してその自律性を尊重し、相手の言葉や反応を「聞く」ことを通じて相手の潜在的な可能性を引き出すこと、すなわち相手の力を信じることが必要不可欠となる。それは、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って、相手を気づかうこと(「ケア」)である。この他者への気づかい、すなわち「ケアとしての利他」は、相手の隠れた可能性を引き出すこと(「他者の発見」)になり、それは同時に自分が変わること(「自分の変化」)になる。そのためには、こちらから善意を押しつけるのではなく、相手を信頼し、利他の結果の可能性や意外性を受け入れる、うつわのような「余白」を持つことが必要となる。この自由な余白、スペースは、とくに複数の人が「ともにいる」ことをかなえる場面で重要な意味を持つ(50~56、59ページ)。
〇筆者の手もとに、中島岳志著『思いがけず利他』(ミシマ社、2021年10月。以下[2])という本がある。中島は[1]の著者のひとりである。[2]において中島は、「利他の本質に『思いがけなさ』ということがある。利他は人間の意思を超えたものとして存在している」(6ページ)と説く。具体的にはこうである。「利他は自己を超えた力の働きによって動き出す(「縁起による業」:私はさまざまな縁によって(縁起的現象として)存在している)。利他はオートマティカルなもの(意思を超えたもの)。利他はやって来るもの(利他の与格性)。利他は受け手によって起動する(利他は事後的)。そして、利他の根底には偶然性の問題がある(利他の偶然性)」(174ページ。括弧内は筆者)。
〇[2]のうちから、中島の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「共感」が利他的行為の条件となったとき、「別の規範」が起動し「共感される人間」になることが求められる
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている。/他者への共感、そして贈与(利他)。この両者のつながりは非常に重要である。(21ページ)/しかし、共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」といった思いに駆(か)られる。/他者に自分の苦境を伝えることが苦手な人、笑顔を作ることが苦手な人、人付き合いが苦手な人。人間は多様で、複雑である。だから「共感」を得るための言動を強(し)いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いる。/そもそも「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てくる。(22ページ)/「共感」されるために我慢を続ける。自分の思いを押し殺し続ける。むりやり笑顔を作る。そうしないと助けてもらえない。そんな状況に追い込むことが「利他」の影で起きているとすれば、問題は深刻である。(23ページ)/さらに、「より深い共感」を利他の条件にしてしまうと、今度は自分の思っていることや感情を露わにしなければならないという「別の規範」が起動してしまう。そうすると、「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」という新たな恐怖が湧き起こってくる。(24ページ)

利他の主体はどこまでも受け手側にあり、その意味において私たちは利他的なことを行うことはできないのである
特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからない。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわからない。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えない。むしろ、暴力的なことになる可能性もある。いわゆる「ありがた迷惑」というものである。/つまり、「利他」は与えられたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのである。自分の行為の結果は、所有できない。あらゆる未来は不確実である。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができない。あくまでも、その行為が「利他的なもの」として受け取られたときにこそ、「利他」が生まれるのである。(122ページ)/受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉(や行為など)のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがある。(128ページ)/つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものである。また、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということである。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができないのである。/発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、「あのときの一言」(や「あのときの行為」)のように、過去からやって来るもの。これが利他の時制である。(132ページ)

利他的になるためには「偶然の自覚」に基づいて器(うつわ)のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要である
私という存在は、突然、根拠なく与えられたものである。あらゆる存在は、自己の意志によって誕生したのではなく、意志の外部の力によってもたらされたものである(与格的な存在)。ここに存在の被贈与性という原理がある。/そして、誕生以降も私という存在の奇跡は続く。今の私は、様々な偶然性の奇跡的な組み合わせによって成立している。私という個性は、単純な因果関係では説明できない天文学的な縁起によって構成されている。(150ページ)/この「私が私であることの偶然性」についての自覚が、「自分が現在の自分ではなかった可能性」「私がその人であった可能性」へと自己を開くことになる。(143ページ)/この「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながり、連帯意識を醸成し、「利他」が共有される土台を築くことになる。(143、145ページ)/ここで重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器(うつわ)になることである。偶然そのものをコントロールすることはできない。しかし、偶然が宿る器になることは可能である。(176ページ)/そして、この器にやって来るものが「利他」である。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られる。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始める。/このような世界観のなかに生きることが、「利他」なのである。/だから、利他的であろうとして、特別のことを行う必要はない。毎日を精一杯生きることである。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為(な)すべきことを為す。能力の過信を諫(いさ)め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのである。(177ページ)

〇筆者の手もとに、若松英輔著『はじめての利他学』(NHK出版、2022年5月。以下[3])という本がある。若松も[1]の著者のひとりである。若松はいう。人と人との「つながり」が問われている今日、「私たちがもう一度、他者とともに生きるために『つながり』を持続的に深めるには何が必要か。この問題を解く鍵語(キーワード)として考えてみたいのが『利他』である」(6ページ)。そして若松は、[3]において、日本仏教の視座から最澄や空海、儒教のそれから孔子や孟子、西洋哲学からフランスのオーギュスト・コント(1798年~1857年)やアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ、1868年~1951年)らの「利他」の思想を取りあげる。とともに、「利他を生きた人たち」として吉田松陰や西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹らの「利他」の哲学を紹介し、論述する。そのうえで若松は、ドイツの心理学者・哲学者であったエーリッヒ・フロム(1900年~1980年)の『愛するということ』(1956年)を読み解き、「自分を愛すること」、すなわち「自分を深く信頼すること」が「利他」につながる、と主張する。次の一節が若松の結論である。

自分で自分のことを愛することができれば、その人は自分を固有なものにできる。そして、そのうえで誰かのことを愛することができれば、その人は他人のことを固有な存在として認めることができる。自分自身が固有であると知ることは、他者が固有であると知ることである。それはすなわち自他ともに等しい存在であることを経験するということでもある。/愛を通して利他を考えるとき、私たちは愛の前で等しくなければならない。Aさんのことは愛せて、Bさんのことは愛せないのであれば、それは利他がうまく働いている状態とはいえないのである。/利他には等しさが必要である。そして、そのためにはまず、他者を愛するように、自分を愛し、信じることが大切なのである。/(人は唯一無二の存在であることを認め、自他を愛するという)真の意味の「愛」があるとき、そこに在るものはすべて等しくなる。ただ人間であるというそのことにおいて、等しく貴い存在になる、のである。(118~119ページ。語尾変換)

〇前述の[1]で伊藤は、障がい者へのインタビューを通じて、こう語る。晴眼者が視覚障がい者に先回りしてことこまかに道案内をするとき、それはしばしば「善意の押しつけ」になってしまう。それは、視覚障がい者にとっては、「障がい者を演じること」が求められることになり、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまう。それはまた、障がい者が「健常者の思う『正義』を実行するための道具にさせられてしまう」(47ページ)ことになる。さらに伊藤は、認知症当事者の言として、こういう。認知症の当事者がイライラし怒りっぽいのは、支援や援助を求めていないのに周りの人が助けすぎるからではないか(46~48ページ)。福祉教育の実践・研究において、深く留意したい点である。
〇なお、筆者はしばしば、とりわけ福祉教育実践をめぐって「思いやり」と「思い違い」「思い上がり」はときとして紙一重(かみひとえ)であり表裏一体である、と語ってきた。ここで改めて強く認識したい。
〇加えて、次のことを付言しておきたい。人間は日常生活や社会生活を営むうえで何らかの支援や援助を受けるに際して、「たすけられ上手・たすけ上手に生きる」ことが問われることがある。その際の「たすけられ上手」とは、  甘え上手や集(たか)り上手ではないのは当然のことながら、社会(世間、財界)や支援者・援助者が期待し求める「たすけられ上手を演じる(あるいは演じさせられる)こと」(演じるさまや人)であってもならない。

阪野 貢/「社会関係資本」と「関係基盤」:主体形成は地域社会の関係と構造のなかでなされる―荻野亮吾著『地域社会のつくり方』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、荻野亮吾著『地域社会のつくり方―社会関係資本の醸成に向けた教育学からのアプローチ―』(勁草書房、2022年1月。以下[1])という本がある。[1]において荻野はいう。「社会教育は、地域での様々な活動に住民を導く環境を創出することで、地域社会における社会関係を組み替え、この過程で市民の地域社会への意識を醸成するインフォーマルな学習を促す。つまり、社会教育とは、社会関係と市民意識の醸成を通じて、地域社会を常に新たな形に創造し続ける営為である。社会教育が十全に機能することで、地域社会は、その構成員が緩やかに入れ替わりながらも、持続的に地域の課題解決に取り組む共同体として維持される」(6ページ)。この結論を導くために[1]では、社会教育と地域社会の関係をめぐる問題を理論的かつ実証的に考察する([1]は「地域社会のつくり方」のハウツー本ではない)。具体的には例えば、社会教育が社会関係資本の醸成に寄与する実態や、住民の主体形成が、必ずしも住民の「主体性」や「自発性」に基づくものではなく、地域社会の関係のなかでなされていくその過程、あるいは社会教育と地域福祉やまちづくりなどの「隣接領域との対話や交流の可能性」(260ページ、)などを明らかにする。
〇ここでは、[1]のうちから、例によって「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に留意しながら、荻野の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

市民の能力形成に関する視点なくして地域社会に関する政策を機能させることは難しい
2000年代以降の社会教育・生涯学習に関する政策をめぐっては、「コミュニティ政策への社会教育・生涯学習の包摂」と、「学校教育の補完へのシフト」という二つの動きがある。(10ページ)/前者は、社会教育や生涯学習が担ってきた地域社会の形成や人材育成の機能に期待をかけ、まちづくりや地域社会に関する政策のなかに、その機能を包摂しようとする動きを指す。(10ページ)/後者は、学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)や学校支援地域本部事業など、学校・家庭・地域の連携・協力の焦点が「地域教育」から「学校支援」に定まってきたことを指す。(28ページ)/これらの政策では、地域社会への過度の期待があり、保護者や地域住民が「責任主体」として組み込まれる。(42ページ)そして、保護者や地域住民は、地域社会の活動や学校の支援の活動に参加する能力や意思を十分に有しているという「市民社会論的前提」(仁平典宏)が置かれている。(7ページ)/また、学校と地域の連携を推進する政策も、「参加」だけでなく「協働」を明確に打ち出すものであり、近年の地域社会には、「参加」よりも「協働」の役割が強く期待されるようになっていると言える。(45ページ)/これらの政策では、参加の背景(家庭や地域のつながりの希薄化や教育力の低下など)や、市民の能力が考慮されないまま、保護者や地域住民への期待が際限なく高まっている点に問題がある。(52ページ)/市民が地域社会に関わるための能力を育むという視点なくして、地域社会に関する政策を機能させることは難しい。(53ページ)

市民の主体形成に関する研究方法を「個体論」的アプローチから「関係論」的アプローチへと切り替える必要がある
社会教育の役割は、「自発性」や「主体性」を育むことで、身近な地域社会や、より大きな社会の変革に向けた市民の「参加」を促すことにある。すなわち、市民の「自発性」や「主体性」が、既存の社会の秩序を組み替えていくうえで重要な役割を果たす。自治の担い手である市民の育成こそが、社会教育における最重要の目標である。市民の参加が、行政の公共サービスの質や量を向上させ、ひいては社会全体をより良くしていく可能性を有している。/しかし、近年では、市民の「自発性」「主体性」を利用することで、地域社会や学校への関わりを促す政策が進められている。ここに暗黙のうちに、「市民社会論的前提」が導入され、市民の主体性の形成の過程が見えにくくなっている。同時に行政組織の再編と地域社会の再編とが、相互に影響を及ぼし合いながら進められることで、市民のノンフォーマル(社会教育等の不定型)な学習や、インフォーマル(家庭教育等の非定型)な学習環境にも大きな変化が生じている。/こうした地域社会をめぐる変化を的確に捉えるには、人々が社会的な活動に関わりを持つきっかけとなる社会関係に注目し、その社会関係が埋め込まれている地域社会の構造に焦点を合わせる必要がある。(79ページ)/すなわち、主体の見方を、内発的な主体性の形成(個人の心理的な変容)を議論の中核に据え、主体を中心に置いて客体との相互作用を描き出す「個体論」的アプローチから、先に社会関係があり、社会関係のなかで事後的に主体と客体が構成されるという「関係論」的アプローチへと切り替える必要がある。(77~78ページ)/つまり、人々がどのような相互関係のなかに埋め込まれ、その関係性からどう影響を受けているのかという関係論的な視点と、その関係性自体がどのように構成されているのかという構造論的な視点によって、理論的枠組みを構築することが重要になる。(79ページ)

個人の社会的ネットワークや地域活動への参加は中間集団という地域の「関係基盤」によって影響を受ける
「関係論」的アプローチすなわち、地域社会の構成を読み解き、社会教育を通じて形成される社会関係の重要性を理解し、社会教育や生涯学習に関する政策が地域の様々な実践を通じて住民の生活にどのような影響を与えてきたかを実証的に明らかにするためには、「社会関係資本」(Social Capital)という視点や概念が有効である。(91ページ)/ここでいう社会関係資本とは、「地域社会における協調行動を可能にする、社会的ネットワークと、そのネットワークに埋め込まれた互酬性の規範や信頼」を指す。(113ページ)また、社会的ネットワークとは、「地域の日常生活のなかで築かれるインフォーマルな個人間あるいは集団間のつながり」を意味する。(114ページ)/そして、社会的ネットワークの基礎をなす考え方やそれを把握するための手段として、(地域の社会関係資本の基礎単位となる)「関係基盤」(97ページ)という概念を援用する。その「関係基盤」の主なものは、地域のさまざまな中間集団(国家・社会と個人の中間に位置する集団)である町内会・自治会などの住民自治組織や地縁組織、協同組合や公益法人、NPO法人などの市民活動団体、趣味やスポーツ、学習のためのサークル・グループなどを想定することができる。(106~108ページ)/こうした「関係基盤」、つまり地域における中間集団の布置は、それぞれの地域で異なる。ここから、各地域社会において「関係基盤」がどのような関係(「重層性」「連結性」)にあり、この「関係基盤」が社会的ネットワークの構成(形成)を経て、住民の地域活動への参加をどのように促しているのかという、社会関係資本の構造的側面を詳細に見ることが、地域社会のつくり方を考えるうえで重要な作業になる。(117ページ)/そしてこれは、地域活動への関わりの過程で形成される、相互の信頼や互酬性の規範の形成といった認知的側面における変化を、インフォーマルな学習の過程として捉えることになる。さらに、社会関係資本の蓄積過程において、行政とりわけ社会教育行政がどのような関わりを持っているかを追究することになる。(115、116ページ)/図1は、こうした地域における社会関係資本(構造的側面と認知的側面)の「実証研究の枠組み」を示したものである。(115ページ)

図1 実証研究の枠組み

公共性のないサークル・グループであってもその活動を通じて社会的ネットワークを形成し社会関係資本の醸成に寄与する
中間集団は、その集団が目的として掲げる活動を行うに留まらず、社会的ネットワークを広げることで、地域での協調行動を促す公共的な役割を担っている。特に、趣味や教養、楽しみとの関連が深いと考えられるサークル・グループへの所属は、地域での話し合いや地域の活動への参加を促し、所属する集団の種類にかかわらず、ネットワークの多様性を増加させる。(136~137ページ)/しかも、中間集団の性質と、形成されるネットワークの性質や地域活動の性格との間に明確な対応関係はない。つまり、明確に公共的な目的を掲げないサークル・グループであっても、その活動を通じて水平的・垂直的な社会的ネットワークを形成し、地域の社会関係資本の形成に寄与することで、公共的な性格を持ち得る。あるいは、団体が掲げている目的と異なる活動があっても、社会的ネットワークが広がるなかで、異なる活動への参加が促される可能性もある。(137ページ)

〇以上のような議論を踏まえて荻野は、2つの事例研究を通して、地域における社会関係資本の醸成過程を明らかにする。長野県飯田市の公民館・分館活動の事例研究と、「学校支援」の枠組みのもとで社会的ネットワークの再構築を果たした大分県佐伯市の事例研究がそれである。そして、それらから得られた知見を踏まえて、「地域社会のつくり方」のポイントを次の4点にまとめる(抜き書きと要約)。

(1)地域社会における人間関係づくりの基礎として「関係基盤」(中間集団)の創出を進めること
住民は、顔の見える距離感で継続的に活動するなかで、相互の関係を紡ぎ、自分たちの活動目的や意義に関する理解を深めている。この意味で、中間集団は、地域のために自発的な協調行動をとれる「良き市民」を徐々に育む基盤になっている。
地域社会をつくるうえで重要なのは、同じ目的を持って中長期的に活動できるような準拠集団が、私たちの身近な場にどの程度存在するかである。各地域社会の状況に応じて、どのような中間集団が必要かを判断する必要がある。(254ページ)
(2)「関係基盤」同士のつながりを紡ぐこと
「関係基盤」の相互連関や布置によって、住民の地域活動への関わりは変化する。社会関係資本論に基づき、関係の基礎にある構造的要素(中間集団への所属、社会的ネットワークの形成、地域活動への関わり)に目を向けることは、「地域社会のつくり方」を考えるうえで重要な視角になる。(254ページ)
同じ集団や異なる集団同士をどうつなぎ合わせていくかということとともに、小さく同質的な集団を、より大きな集団へとつなげていく仕組みや戦略を、地域社会の状況に合わせて立案することも必要になる。(255ページ)
(3)社会関係資本の醸成に向けて時間軸を意識したアプローチを行うこと
社会関係資本の醸成には長期間の投資や関係の蓄積が必要になることを意識し、地域の社会関係資本が摩耗し消滅する前の段階から、中長期的な戦略によって対応することが重要になる。(255ページ)
また、社会関係資本の醸成に向けた戦略を立てる際には、公民館等の社会教育施設を拠点として位置づけることに留まらず、地域社会に存在する様々な資源や社会関係資本の総合的な点検を行い、行政の所管や、研究領域にとらわれない横断的な視点を持って戦略を立案することも重要になる。(256ページ)
(4)社会教育が地域関係資本の醸成に果たす役割を有効に活用すること
地域のネットワークの「結節点」である公民館に職員を配置するとともに、「関係基盤」の創出や組み替えを通じて住民の認知的価値観の変容を間接的に促すことによって、地域社会を動態的に再構成していくことが重要である。
職員には、住民同士の水平的な関係を紡ぐだけでなく、地域社会に変化をもたらす外部の視点を持った関わりや、行政各部署との垂直的な関係を紡ぐことにもその役割を広げていくことが期待される。要するに、地域社会づくりにおける社会教育のアプローチは、各地域社会の状況に応じて「関係基盤」を創出し、「関係基盤」の「結節点」に職員や拠点となる施設をいかに位置づけるかが重要なポイントになる。(256ページ)

〇筆者はかつて、東京都狛江市社協と岐阜県八幡町社協(現・郡上市)の地域福祉活動計画の策定(狛江市社協「あいとぴあ推進計画」1990年3月、八幡町社協「みんなでやらまいか 八まん福祉文化プラン21」2001年3月)と、その計画に基づく福祉教育事業・活動の立案・実施(狛江市社協「あいとぴあカレッジ」1991年5月開講、八幡町社協「福祉文化カレッジ」2003年5月開講」)に関わった。カレッジ開講のねらいはいずれも、まちづくりの担い手を育成することにあり、住民に対してまちづくりのための実践や運動を動機づけるものであった。そして、その学習をひとつの契機に、またその過程を通して社会的ネットワークを広げ、地域福祉活動やボランティア活動へ参加・共働することが期待された。
〇また筆者は、2016年4月から5年間という短い期間ではあったが、地元の老人クラブの運営に関わった。そのうちの1年は、年間を通して「認知症」について学習することを主軸に据え、地域でより豊かに暮らすための「学習」活動に取り組んだ。それは、意図的・目的的にまちづくりの主体形成を図ろうとするものではなかったが、結果的にはいわゆる「事業としての福祉教育」(福祉教育事業)ではなく、「機能としての福祉教育」(福祉教育機能)の取り組みになったと、手前味噌ながら評価している(我田引水的な自己満足でないことを願っている)。荻野がいう「関係論」的アプローチによるものであろうか。そしてまた、老人クラブ活動を通して、「地域参加や地域活動で重要なのは『楽しさ』と『自由』、そして『仲間』である」という教訓を得ている。
〇それらのことを思い出しながら筆者はいま、[1]の議論から、老人クラブはそのあり様によって、具体的には活動プログラムのねらいや内容・方法などによって地域のネットワークの結節点となり、社会関係資本の醸成を支える「関係基盤」(中間集団)として一定の機能を果たすことが期待されると思っている。しかしその現実は厳しいものがある。全国的に老人クラブの数や会員数が減少の一途をたどっている現状とその背景や要因を考えると、また荻野が指摘するように個人の行動の「自由」を制限する各地域の「しがらみ」(社会関係資本の「負の側面」、177~178ページ)や、「付き合い」や「お互い様」という感覚によって維持される積極的ではない地域活動(「遠慮がちな社会関係資本」、180ページ)を考えると、なおさらのことである。同じようなことが、市町村社協の事業・活動に参加する住民の意識や行動に見出される。それが、「社協の位置が絶対的に地盤沈下している」と評される、いまの社協の姿でもある。誤解を恐れずに、[1]の読後感のひとつとして付記しておくことにする。
〇厚生省と全社協が1977年度より「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会協力校」事業)を始め、都道府県や市町村による単独指定事業も加わり、学校を中心にした福祉教育実践は全国各地に拡大、定着していった。宮城県(1980年)や秋田県(1981年)、長野県(1983年)では、福祉教育の地域住民への広がりを求めて公民館を福祉教育推進施設として指定し、社協と学校と公民館との連携のもとに地域福祉教育の推進が図られた。時代が変わり・世代が代わり、今は昔‥‥‥なのであろうか。

阪野 貢/「自己責任論」を問う:責任は肯定的なものであり、個人の主体性を取り戻す ―ヤシャ・モンク著『自己責任の時代』のワンポイントメモ―

〇吉田竜平(北星学園大学)によると、社会福祉研究領域において自己責任論を問いなおすための課題には次のようなものがある。①自己責任とそうでないとされる境界の設定、②自己責任でなく不運な状況にある人々がスティグマを感じることなく福祉サービスを利用するための方法の模索、③責任概念自体の捉えなおしと公的責任の拡大、④他者の共感の広がりと全ての「個」が他者から承認される社会についての議論の深化、がそれである(参考文献 ①)。
〇筆者(阪野)の手もとに、ヤシャ・モンク著、那須耕介・栗村亜寿香訳『自己責任の時代―その先に構想する、支えあう福祉国家―』(みすず書房、2019年11月。以下[1])という本がある。[1]においてモンクは「まず、政治における自己責任論の興隆を跡づけ、それが社会保障制度に弱者のあら探しを強いてきた過程を検討する。次に、被害者に鞭打つ行為をやめさせたい善意の責任否定論が、皮肉にも自己責任論と同じ論理を前提にしていると指摘する。そしてどちらの議論も的を外していることを明らかにし、責任とは懲罰的なものではなく、肯定的なものでありうる」(カバーそで)と説く。
〇別言すればこうである。かつて「責任」という言葉は、他者を助ける個人の義務を意味するものとして使われてきた。現在ではそれが変容し、「責任」という概念を議論する際、人びとの選択の結果(「自己選択」「自己決定」)に対して責任を負う「結果責任」(「懲罰的自己責任論」)が強調されている。それに対して、先天的あるいは構造的な要因などを除いて、純粋な結果責任のみを追求すべきであるという「責任否定論」がある。それらの主張は、結局のところ、自己選択の結果に関しては程度の差はあれ、責任を取らなければならないという前提から脱してはいない。そこで、責任の肯定的な部分を再発見し、肯定的な責任概念(「肯定的責任像」)を再興すること、すなわち「多くの人が責任を果たそうとしている理由を認め、かれらの引き受けた責任の達成を実際に援助するような責任観」(148ページ)が必要となる。それは、人びとに、「主体性」を取り戻すことでもある(参考文献 ②)。
〇上述の吉田の指摘に留意しながら、[1]におけるモンクの「自己責任論」の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

責任像の変容―「他者への責任」から「自己責任」へ―
かつて責任という言葉は他者を助ける個人の義務のことを思い起こさせたものだが、今日では、自分で自分の面倒をみる責任――そしてそれを怠ったときにはその結果を引き受ける責任――のことが真っ先に思い浮かぶ。(中略)我々は「義務としての責任 responsibility-as-duty」〔他者への責任〕というとらえ方が優勢だった世界から、「結果責任としての責任 responsibility-as-accountability」〔自己責任〕という新たなとらえ方が舞台を支配する世界に移ったのである。責任そのものが人目を引くようになったことではなく、この変容した責任像が優位を占めていることこそが、責任の枠組みと責任の時代の両方をまとめて特徴づけているのである。(29~30ページ)

懲罰的責任論と責任否定論の論理
一見、懲罰的責任像と責任否定論とは正反対の立場のように思える。しかし、特定の問題について見解を対立させつつ、より深層の知的勢力図の分布を共有している者たちにはよくあることだが、その表面下にはおびただしい類似点が潜んでいる。適切な帰責条件については動かしがたい不一致が残るものの、責任の規範的重要性については、両者は驚くほど見方を一致させているのである。相違を声高に言いつのっておきながら、両派は次の点についてひそかに合意を交わしている。ある人の取り分が他の同胞市民よりも少ないこと、あるいは現に援助を要する状況にあることに関しては、当人がみずから招いたことかどうかによって、当人がどの程度補償を正当に要求できるのかが決まる、という点である(懲罰的責任論は、外的な環境や要因などによる、本人の責任ではないものについて懲罰的な責任を負わせることには反対するが、当人が制御することができたにもかかわらず自分が招いた結果については責任を負うべきであるとする。:筆者)。(18~19ページ)

肯定的な責任観の再興
責任の時代は、我々の政治的想像力を狭め、公共政策と現代哲学のどちらにも深刻な盲点を作ってきた。これへの主たる反発――筆者が責任否定論と呼んできたもの――も、ほぼ空振りに終わった。それは抗(あらが)うべき相手と同じ知的潮流に属しており、結局のところ理論的説得力も実践的効果もなかったのである。したがって、政治的にも哲学的にも、いまこそ肯定的な責任観を発展させるべき時だ。多くの人が責任を果たそうとしている理由を認め、かれらの引き受けた責任の達成を実際に援助するような責任観が必要なのである。(148ページ)/今日では、(中略)責任は結果責任の問題に置き換えられ、たえず懲罰的な仕打ちをちらつかせるようになった。/したがって、肯定的な責任観――個人が遂行し、社会が促進すべきものとしての責任のとらえ方――の再興をはかるには、我々の責任理解を広げる必要があるだろう。(149ページ)

肯定的な責任観の重要性
(肯定的な責任観が重要なのは)①自己への責任、自己志向的理由/自己への責任を負うことを通して、自分自身の生活に対して真の主体性の感覚をもつことができることによる(28、150ページ)。②他者への責任、他者志向的理由/他者への責任を果たすことを通して、一定の社会的役割や役目を引き受けることができ、その役割に伴う責任が自分にとってたいへん有意義だという思い(アイデンティティ)を形成することができることによる(28、159ページ)。③他者を責任ある存在と考えること、社会的理由/他者を、自分の行動への責任を負いうる存在とみなすことを通して、他者との有意義な関係を築くことができることによる(28、163ページ)。

自己志向的責任と主体性の獲得(上記①)
自分の生活を制御している感覚、すなわち主体性の感覚を求める願望は、少なくとも三つの形をとりうる。第一に、我々は一定の範囲で自分の生を実際に制御することを望んでいるはずである。第二に、我々は自分が自己への責任を果たしていると感じることを必要としているはずである。そして第三に、我々は自己への責任を果たしていると周囲からみなされることを必要としているはずである。(150~151ページ)/これと関連して、人が自己への責任を重んじる理由として、人は、自分の主体性を通じて最も基本的な欲求と欲望にかなう未来をわずかなりとも手にできる、という確信を必要としていることがあげられる。(157ページ)

他者志向的責任とアイデンティティの構成(上記②)
他者への責任を果たすことは、多くの人の生活のなかで役割を果たしていることである。他者への責任を果たすには多種多様なやり方がある。友人や家族に思いやりをもって接するという単純な行為から深い満足を得る人もいる。一定の社会的役割、配偶者や親、ペットの飼主としての役目を引き受けようとする決意する人もいるが、そこにはこれらの役割に伴う責任が自分にとってたいへん有意義だという思いがはたらいている。(159ページ)/個別の「企て project」に向けられた責任もまた、我々が他者に負う責任としては大切である。(162ページ)/(これらの)他者に対する責務、自分の家族への責務やみずから引き受けた企てへの責務は、人びとのアイデンティティを構成する。(172ページ)

社会的理由と関係性の構築(上記③)
他者を責任ある存在と考えることが重要である理由は、一つは、他者と有意義な関係を築くには、相手のことを自分の行動に責任を負える存在だと考える必要があるからである。第二の理由は、責任主体性の相互承認は、あらゆる平等主義的社会の成立条件でもあるからである。真に平等主義的な社会のねらいは、単に人びとに同程度の物質的資産を所有させることだけではなく、完全な市民としての対等な地位を互いに認めさせることでもある。この地位が致命的に損なわれるのは、一部の市民には完全な責任主体性が認められ、他方には認められない、という事態が生じた場合のことである。(164ページ)

肯定的責任像の概念
懲罰的責任像および責任否定論とは対照的に、肯定的責任像はこう主張する。(183ページ)/(1)一般に、特定の行動に責任が生じるのは、その行動が犯意mens reaという伝統的な要件を満たしている場合である。特定の行為について責任を負うには、自分自身の行動を一定範囲で制御できなければならず、たとえば条件反射的な行動であってはならない。(183ページ)/(2)特定の帰結の発生を促した行動に責任があるという事実があるからといって、その人にその帰結全体への責任があることにはならない。また、その帰結への責任の範囲は、どんなに単純化しても、その人の行動がその帰結の原因だったか否かに関する実証主義的説明に左右されることはない。(184ページ)/(3)誰かが特定の帰結について責任があるということを確定した後も、引き続き、そのことについてその人に結果責任をも負わせるべきかという問題が残る。特に、困窮状態にある人が自業自得でそのような状態に陥ったという事実があったからといって、即座にこの人への援助を否定すべきだということにはならない。(184ページ)

公共政策における肯定的責任像
責任像を懲罰的で前制度的なものから肯定的で制度的なものに切り替えると、公共政策の中心課題に関する理解を少なくとも次の三点で更新することになる。いくらか逆説的だが、そうすれば実際に意味ある仕方で責任を論じる方法を詳述できるようになるのである。非理想的な状況では、責任を負うことの意義を強調すること――そして各人の選んだ責任によって意味づけられた多くの生きがいをめぐる言説を流布させること――は、一般の市民の主体性を強化するプラグマテックな方法でありうる。同時にそれは、人に自分の責任遂行への誘因を与える鞭(むち)にばかり目を向ける傾向を克服し、人が望む責任を果たせるようになるための物質的、教育上の前提条件を整える政策設計を支える。そして最後に、それは福祉国家の官僚たちの努力を喚起して、かれらを、(片方が得点・利益するともう一方が失点・損失し、プラスマイナスゼロになる:阪野)ゼロサム・ゲームをとり仕切る懲罰的裁定者から協働的企てに関与する建設的パートナーへと変貌させうるのである。(202ページ)

「自己責任の時代」の克服
我々の選択次第で、我々は自己責任の時代を乗り越えることができる。(210ページ)/自己責任の時代の克服に必須の要素の一つは、責任の観念が求められている理由と、この概念にもっと前向きの色彩をもたせる方法とについて再考することである。(211ページ)/自己責任の時代を乗り越えるために必要なもう一つの作業は、我々の道徳的、政治的生活を別の長く忘れられてきた価値の言葉でとらえなおすことである。(211ページ)

〇限定的であるが、以上を要すると、①責任は懲罰的なものではなく、肯定的な意味を持つ(責任は、個人がそれを負い、それを社会が促進・支援すべきものである)。②懲罰的責任論と責任否定論は、結果責任について同じ論理(責任の規範的重要性)を前提にしている。③人は責任を負うことによって主体性を取り戻す(確保する)ことができ、自己責任の否定は個人の主体性を否定することに通じる。④他者への責任を果たすことは、一定の社会的役割や役目を果たすことになり、アイデンティティを育む。⑤他者を責任ある存在として認めること(責任主体の相互承認)は、他者と有意義な協働的な関係を築き、平等主義的社会の成立を促す。⑥責任を肯定的に展望するためには、責任を引き受けることを促すのではなく、責任を負う能力を養う物質的・教育的基盤を整備することが肝要となる。⑦こうした新しい責任について、その概念を社会的に周知させる方法について考えるとともに、新しい価値観に基づいて再考することが必要である、となろう。
〇価値観や社会課題が多様化・複雑化している現代社会にあって、ある結果の原因を一義的に個人に帰したり、本人の能力や努力の不足あるいは選択の失敗によって生じた結果を自業自得としてその責任を個人に押し付けることは、ほぼ不可能である。そこに求められるのは、自己責任の限界についての理解と認識である。とともに、自己責任ではなく、相互信頼と相互責任(社会的責任)を生み出す社会の構築であり、そのための物質的・教育的基盤の整備である。さらに付言すれば、自己責任を強いる自己決定ではなく、相互責任に繋がる相互決定の尊重であろう。しかもそれは、理性的・民主主義的な討議に依ることは言うまでもない。例によって唐突であるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究にも通底する。

参考文献
① 吉田竜平「自己責任論を問い直す―運の平等主義の視点から―」『北星学園大学社会福祉学部 北星論集』第59号、北星学園大学、2022年3月、61~73ページ。
② 有吉永介「ヤシャ・モンク『自己責任の時代』再考」『立教大学大学院教育学研究集録』第20号、立教大学大学院文学研究科教育学専攻、2023年3月、31~38ページ。

阪野 貢/夢の正体とキャリア教育の功罪 ―児美川孝一郎著『夢があふれる社会に希望はあるか』のワンポイントメモ―

「夢」に取扱説明書を付けることはできない(下記[1]169ページ)。/「夢」とは、個人の生き方、理想や価値観に深くかかわることがらである。だから、安易なマニュアルはない。同時に、「夢」は、それぞれの個人が、自分なりの方針や考え方、大切にしたいことを携えて、付き合っていくものである。(同、169~170ページ)

日本社会は、キャリア教育のような営みも含めて、子どもや若者が「夢を持つ」ことに過剰な価値を置き、それをあおり、称揚する社会である(下記[1]178ページ)。/「夢追い型」キャリア教育には、夢とは「見つけるもの」であり、努力すれば「見つかるもの」でもあるという(実際には根拠のない)前提がある。夢は時間の経過とともに変わるものであり、いろいろと挑戦しながら「育てるもの」でもある(同、86ページ抜き書き)

〇筆者(阪野)の手もとに、「キャリア教育」研究で著名な児美川孝一郎(こみかわ・こういちろう)が上梓した『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書、KKベストセラーズ、2016年4月。以下[1])という本がある。
〇キャリア教育という言葉が明確に使われたのは、1999年12月の中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」であるとされる。そこでは、「学校と社会及び学校間の円滑な接続を図るためのキャリア教育(望ましい職業観・勤労観及び職業に関する知識や技能を身に付けさせるとともに、自己の個性を理解し、主体的に進路を選択する能力・態度を育てる教育)を小学校段階から発達段階に応じて実施する必要がある」とされた。2004年1月には、文部科学省から「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書~児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てるために~の骨子」が出され、それに基づいてキャリア教育が本格的に始動することになる。2004年が「キャリア教育元年」といわれる所以である。その報告書では、キャリアを「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」として捉えている。そして、キャリア教育を「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し,それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育」、端的にいえば「児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てる教育」と定義づけている。
〇この時期、キャリア教育で育成すべき能力に関して、例えば国立教育政策研究所生徒指導研究センターが「職業的(進路)発達にかかわる諸能力」(「4領域8能力」)について、2002年11月に公表した(「児童生徒の職業観・勤労観を育む教育の推進について(調査研究報告書)」)。その後、中央教育審議会が「基礎的・汎用的能力」について、2011年1月に提示した(「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(答申)」)。「基礎的・汎用的能力」は、「4領域8能力」を補強・再構成し、より一層現実に即した、社会的・職業的自立に必要な能力の育成を図ろうとしたものである。前者(「4領域8能力」)は、①人間関係形成能力(自他の理解能力、コミュニケーション能力)、②情報活用能力(情報収集・探索能力、職業理解能力)、③将来設計能力(役割把握・認識能力、計画実行能力)、④意思決定能力(選択能力、課題解決能力)で構成されている。後者(「基礎的・汎用的能力」)は、①人間関係形成・社会形成能力、②自己理解・自己管理能力、③課題対応能力、④キャリアプランニング能力によって構成されている。
〇キャリア教育の経緯について児美川は、概略次のようにいう。高度経済成長期(1955年~1973年頃)における画一主義的な日本の教育は1980年代に、「個性」重視の教育に急転換した。それによって、子どもや若者が自分を軸にして自分の「夢(やりたいこと)」を探す、「自分さがし」という考え方や価値観が普及する。1990年代になると、バブル景気(1981年~1991年頃)の崩壊(1991年~1993年頃)と経済不況が長期化する(「失われた30年」の)なかで、若者の就職難や非正規雇用が拡大した。「就職氷河期」(1993年~2005年頃)の到来である。2000年代に入ると競争原理と自己責任を基本とする新自由主義の推進と徹底が(小泉・安倍・菅政権によって)図られ、格差と分断の社会が若者の就労問題を深刻化させる。しかも、その原因が若者の意識や意欲、能力の問題にすり替えられ、「若者バッシング」の風潮が強化される。そこに政策化されたのが財界の求めに応じたキャリア教育の推進である。こうして、「1980年代の『夢』を賞賛する社会的風潮は、90年代以降における『夢を持て』という政治家や企業経営者たちのメッセージを経て、子どもや若者に『夢』を持たせることを教育の目的とする段階にまで到達する」(74ページ)。
〇そしていま、人口減少や少子高齢化、経済のグローバル化やデジタル化などを背景に、「国際競争に打ち勝つ」ための社会経済システムの構築が求められている。そういうなかで、政府・財界にあっては、個性や創造性豊かな質の高い、前向きでチャレンジ精神旺盛な、グローバル人材の育成(エリート教育)が喫緊の課題とされる。そこで、財界の教育要求に基づいたキャリア教育が重視され、キャリア教育政策の推進(小・中・高等学校を見通した、かつ学校の教育活動全体を通じたキャリア教育の充実)が図られることになる。〔補遺(1)参照〕
〇児美川にあっては、キャリア教育は子どもや若者に夢を持たせること、夢を追わせることを教育の目的とする政策である。児美川がいうこの「夢追い型」(80ページ)のキャリア教育が、「夢を強迫する社会」(61ページ)の基盤を整備することになる。ここで、[1]のなかから、「夢の正体とキャリア教育の功罪」に関するフレーズのいくつかを、限定的・恣意的であることを承知のうえで、メモっておくことにする(抜き書きと要約)。

● 夢は、人を前向きにさせる破壊的な威力があると同時に、時には人の人生を狂わせてしまうかもしれないようなやっかいさを持がゆえに、「怪物くん」である。(13ページ)
● 夢は「出会い頭の恋」のようなものなのではないか。その恋心をじっくり温めて、ふくらませていくこともできるが、逆に、いつのまにか忘れてしまうこともできる。(18ページ)
● 夢は、人を熱中させ、前のめりにさせることができるが、反面、その人にとって、ありえたかもしれない他の可能性に対して盲目にさせ、選択肢を狭めてしまう力も持っている。(22~23ページ)
● 日本における雇用の仕組みは、「就職(=職に就く)」ではなくて「就社(=会社に入る)」という仕組みになっている。「就社」社会の現実と、現実のキャリア教育のあいだには、抜き差しならないズレ(齟齬)がある。(44、89ページ)
● 「就きたい職業」「やりたい仕事」という意味での夢を持っている子どもや若者は、実際には年齢が上がるにつれて少なくなり、同世代の半数程度にとどまる。(45ページ)
● 夢は固定的で動かないものではなく、育ったり、育てたりできるものであり、夢と現実が交差する地点でどう振る舞うかが大事になる。(55、56ページ)
● キャリア教育は、概ね①自己理解、②職業理解、③キャリアプランの作成の3つのジャンルから構成されていた。キャリア教育の主要なジャンルに、「夢(やりたいこと)」が登場していることが注目される(77、80ページ)
● 夢には、①「実現したいこと」、②「将来やりたい仕事」「自分が就きたい仕事」、③「仕事を通じて達成したいこと」、④「なりたい自分」など、多様な意味がある。(107~109ページ)
● 夢の正体をつかむためには、夢の側を掘り下げる(=夢の世界の現実や周辺を知る)ことと、自分の側を掘り下げる(=自分の夢の根っこ・根拠を探る)ことが必要になる。(128ページ)
● 夢を考えていく際の「軸」には、自分本位の基準で夢を抱く「自分軸」と、社会参加・社会貢献の側面から夢を発想する「社会軸」の2つがある。(128~129ページ)
● キャリア教育は、「やりたいこと(希望、願望)」「やれること(能力、適性)」「やるべきこと(社会参加、社会貢献)」の3つの視点から考えることが肝要である。(132~134ページ)
● キャリア研究では、明確な目標を立て、そこに到達するために「逆算」して、計画化に努力していくという考え方(「キャリア・プランニング」論)ではなく、偶然のチャンスを生かして、上手に転換を図りながら自分のキャリアを歩んでいくという考え方(「計画的な偶発性(プランド・ハプンスタンス)」の理論)が主流となっている。(136~137ページ)
●「夢と向き合う」ということは、自分自身の「願望」や「理想」と、「現実」をどう擦り合わせ、どのように折り合いを付けるかという問題である。(145~146ページ)
● 夢が見つからないときには、意識的に「自分の枠」(興味や関心、能力や資質)を広げることが肝要となる。(149~150ページ)
● キャリア研究の世界では、近年、職業や仕事というキャリア(人生、生き方)に限らず、それと並行して別のキャリアを持つという「パラレル・キャリア」の考え方が注目されている。(167ページ)

〇[1]のタイトルは、「夢をあおる」現在の日本社会に抗するものであり、刺激的で挑発的である。児美川の主張(メッセージ)は要するにこうである。夢(希望、願望、理想)は育てるものである。夢は、その持ち主である自分自身が上手く付き合い、マネジメントし、現実と折り合いをつけていくしかないものである(自己実現)。その一方で夢は、「その社会を映し出す鏡にほかならない」(178ページ)。そこで、求められる社会は、「夢を強迫する社会」ではなく、「等身大の、ありのままの自分が認められ、でも、少し背伸びすることを求め、励ます社会」(182ページ)である。すなわち夢は、独(ひと)りよがりのものではなく、市民社会や共生社会のなかで育まれるものであり、その社会への参加・貢献を軸にして考える必要がある。キャリア教育の本来の役割は、子どや若者が社会参加・社会貢献するための力量形成を図ることにある(93ページ)。キャリア形成やキャリア教育の意義はここにある。さらに、筆者なりにあえて言えば、キャリア教育はシティズンシップ教育としてのそのあり方が問われることになる。
〇最後に参考までに、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年、ドイツ出身の政治哲学者)の、人間の生活(「活動的生活(vita activa)」を規定する3つの条件(「活動力」)――「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」に関する言説を引いておく(ハンナ・アレント、 志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年10月)。アーレントがいう「労働」は「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」(19ページ)、すなわち生命を維持するための生物学的な行為、「仕事」は「人間存在の非自然性に対応する活動力」(19ページ)、すなわち工作物を製作する職人的な行為、「活動」は「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力」(20ページ)、すなわち多くの他者に働きかける公共的(政治的)な行為、である。さらに筆者なりに別言すれば、労働=カネを得るための生産的な活動力、仕事=モノ(作品)を生み出す創造的な活動力、活動=ヒトと関わる公共的(政治的)な活動力、である。
〇アーレントにあっては、近代社会はキリスト教に依って「労働」が優位な社会となり、「仕事」と「活動」の領域が狭められ、それが最終的には全体主義を生み出した。その全体主義に対抗するためには、公共的な問題について議論する公共空間を創り出すこと(多様な個性を持つ多数の他者と積極的に関わる「活動」の領域)が重要となる。それはすなわち、マルクス主義が「仕事」を含んだ「労働」のなかに人間性の本質を見出そうとしたのに対して、アーレントは「活動」に最も重要な「人間の条件」を見出したのである。今日、社会や世論などに影響を及ぼすソーシャルメディアや検索エンジンなどによってもたらされる、20世紀の全体主義とは異なるいわゆる「デジタル全体主義」の台頭が指摘されている。そんななかで、アーレントの「公共性」をめぐる言説が、市民社会や参加民主主義、地域活動などについて議論する際にもしばしば引用される所以でもある。
 
 
補遺
現行の「小・中・高等学校学習指導要領」では、「キャリア教育」に関して次のように記載されている。

小学校学習指導要領(2017年3月告示、2020年4月から全面実施)
第1章 総則/第4 児童の発達の支援/1 児童の発達を支える指導の充実
(3) 児童が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。

中学校学習指導要領(2017年3月告、2021年4月から全面実施)
第1章 総則/第4 生徒の発達の支援/1 生徒の発達を支える指導の充実
(3) 生徒が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。その中で、生徒が自らの生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、組織的かつ計画的な進路指導を行うこと。

高等学校学習指導要領(2018年3月告示、2022年4月から年次進行で実施)
第1章 総則/第1款 高等学校教育の基本と教育課程の役割
4    学校においては、地域や学校の実態等に応じて、就業やボランティアに関わる体験的な学習の指導を適切に行うようにし、勤労の尊さや創造することの喜びを体得させ、望ましい勤労観、職業観の育成や社会奉仕の精神の涵養に資するものとする。
第2款 教育課程の編成/3 教育課程の編成における共通的事項/(7)キャリア教育及び職業教育に関して配慮すべき事項
ア 学校においては、第5款の1に示すキャリア教育及び職業教育を推進するために、生徒の特性や進路、学校や地域の実態等を考慮し、地域や産業界等との連携を図り、産業現場等における長期間の実習を取り入れるなどの就業体験活動の機会を積極的に設けるとともに、地域や産業界等の人々の協力を積極的に得るよう配慮するものとする。
第5款 生徒の発達の支援/1 生徒の発達を支える指導の充実
(3) 生徒が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科・科目等の特質 に応じて、キャリア教育の充実を図ること。その中で、生徒が自己の在り方生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、組織的かつ計画的な進路指導を行うこと。

阪野 貢/3.5%(?)の「市民的抵抗」:新しい形の政治参加と社会変革 ―エリカ・チェノウェス著『市民的抵抗』のワンポイントメモ―

ここに「3.5%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。(斎藤幸平『人新生の「資本論」』集英社新書、2020年9月、362ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、エリカ・チェノウェス著、小林綾子訳『市民的抵抗―非暴力が社会を変える―』(白水社、2023年1月。以下[1])という本がある。「非暴力行動は弱い、受け身の行動である。もつとも速く解放に至るのにもっとも頼りになるのは暴力だ。非暴力抵抗は行き過ぎた不正義に対しては無理があり効果もない」などといった、「非暴力に対する迷信や批判」がある(22~23ページ)。そんななかで[1]は、「非暴力が社会を変える」と説く。
〇[1]は、非暴力による「市民的抵抗」の基礎的・基本的な事項について事例に基づいて紹介する。その際、「歴史や理論から最新情報まで網羅し、市民的抵抗を多角的に考察し」(354ページ)、その可能性を展望する。そこでは、「市民的抵抗」とは、「非武装の民衆がさまざまな活動を組み合わせながらおこなう闘争の形態である」(61ページ)と定義する。そして、ある国のすべての人口の「3.5%」が非暴力で立ち上がれば社会は変わる、という「3.5%ルール」(仮説)を提唱する。チェノウェスはいう。「1900年から2019年の間に、非暴力革命は50パーセント以上が成功した一方で、暴力革命の成功率は26パーセントにとどまる。/これは驚くべき数字である。なぜなら、この数字は、非暴力は弱々しく効果も乏しいが、暴力行為は強力で効果的だという、一般的な見方をひっくり返す数字だからだ」(43~44ページ)。
〇その一方で、チェノウェスは、市民的抵抗の成功率は、2010年以降低下している、としてこういう。「市民的抵抗キャンペーンは、1940年代の低いところから、2010年まで、10年ごとに安定して効果を高めていた。それ以降、すべての革命の成功率は、低下している」(316ページ)。その原因や背景については、現代の政府が「下からの非暴力的挑戦について学習し、適応している」ことがあげられる。すなわち、国家が「運動の中に入り込み、運動を内部から分裂させ」(「スマートな抑圧」)たり、そうすることによって、政府側が「非暴力運動が暴力などもっと軍事的戦術を使うよう仕向ける(運動を過激な方向に進める)」(318ページ)のである。留意すべき点(指摘)である。
〇[1]におけるチェノウェスの主張は、次の5点に要約される。(1)市民的抵抗は、多くの場合、暴力的抵抗よりも現実的・効果的な方法である。(2)市民的抵抗がうまくいくのは、敵方の支持基盤から離反を生み出すことによってである。(3)市民的抵抗は、ストライキや代替機構の構築など、単なる抗議以上のものを含む。(4)市民的抵抗は、過去百年にわたって、武装抵抗よりもはるかに効果的であった。(5)非暴力抵抗は常に成功するわけではないが、市民的抵抗を非難する者たちが考えるよりも、はるかにうまくいく(347ページ)。すなわちこれである。
〇ここでは、[1]のうちから、「市民的抵抗とは何か」と「市民的抵抗キャンペーンを効果的にする要素(条件)」(「市民的抵抗が成功する条件」)の2つの事項について、チェノウェスの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部見出しは筆者)。

市民的抵抗とは何か
● 市民的抵抗とは、政治的、社会的、経済的な現状を打破しようとする目的で、暴力を用いる、あるいはちらつかせる者に対して、暴力を用いずに、暴力をちらつかせたりせずにおこなう集団行動様式である。市民的抵抗は、手段と目的において、組織立っており、民衆によるものであり、明確に非暴力である。(27ページ)
● 市民的抵抗は、動的な紛争の方法であり、非武装の人びとが、さまざまに調整された、非制度的な方法――ストライキ、抗議、デモ、ボイコット、代替機構構築、その他たくさんの戦術――を用いて、敵に危害を加えたり、危害を加えるぞと脅したりせずに、変化を促すことを目的とする。(28ページ)
● (市民的抵抗は、次のような要素を含むアプローチ・行動である。)
第1に、市民的抵抗は紛争の方法である――人びとあるいは運動が、政治的、社会的、経済的あるいは道徳的な主張をおこなうために、動的に立ち向かう技術である。市民的抵抗は、積極的に紛争を惹起するもので、混乱を招いたり、現状を打破したり、別のものと替えたり、変革したりするために、力を集結させる。(29ページ)
第2に、市民的抵抗を仕掛けるのは、敵に直接危害を加えることがない非武装の市民である。変化をもたらそうとする人びとは、自分たちの創造性や独創性を武器に戦う一般市民であり――さまざまな社会的、経済的、文化的、政治的な梃子(てこ)の力を働かせて――自分たちのコミュニティや社会に影響を及ぼそうという目的を持っている。(29ページ)
第3に、市民的抵抗は多様な一連の方法を組み合わせることを含む。この戦いのアプローチでは、意図的に、事前の話し合いをもとに、目的を持ってさまざまな方法が駆使される――たとえば、ストライキ、抗議、怠業、欠勤、占拠、非協力、それから経済、政治、社会の代替機構の開発などをつうじて下からの力や下からの梃子を構築するのである。人びとが道路上で抗議をしているからというだけでは、市民的抵抗をおこなっているとはいえない。(30ページ)
最後に、市民的抵抗の目標は、現状に影響を及ぼすことである。市民的抵抗は、広い社会の中での変化――しばしば革命的な変化――を求める傾向がある。市民的抵抗は、民衆やそこに住む市民といった属性を兼ね備えている傾向があり、複数の集団や連合が手を取り合って活動し、政治、経済、社会、宗教、または道徳的慣行や懸念事項についてまとまった声を上げる――より大きな集団を代表して。(31~32ページ)
● 市民的抵抗とは何かを確認する上で、市民的抵抗ではないことは何かを理解することは有益だろう。
第1に、市民的抵抗は、抗議のような、たったひとつの技術を用いることではない。市民的抵抗は、多数の異なる非暴力の技術(中略)を含むもので、これらを意図的に相次いで発生させ、長期政権を追放しようとする。こうした技術には組織と調整が必要であることが暗に示されている。(32ページ)
第2に、市民的抵抗は必ずしも平和的な紛争解決の話ではない。本来的な意味では、市民的抵抗は建設的に紛争を促進する。(33ページ)
第3に、市民的抵抗は、非暴力的アプローチを用いるが、必ずしも非暴力とイコールではない。(中略)規律立った非暴力は、道徳的理由から暴力の行使を禁止する。同じように、穏健主義(反戦・反暴力主義)は、暴力の行使を無条件に拒むという規律的立場を取り、暴力を道徳に欠けた行為だとみる。(34ページ)

市民的抵抗キャンペーンを効果的にする要素(条件)
キャンペーン(闘争、運動)は、限定的な期間、人びとを動員し、一連の調整された方法を用いて個別の目的を達成しようとする。(中略)これらはたとえばストライキ、抗議、座り込み、ボイコット、その他の非協力の形態を取る混乱をもたらす方法である――これらは党への参加、選挙への立候補、請願といった、政治的あるいは経済的関与をおこなうための制度内にある通常の方法の枠外にある。(116ページ)
(市民的抵抗キャンペーンを成功させる要素(条件)として、次の4つをあげることができる。)
(1)あらゆる社会的地位から集まる大衆の参加(大規模な参加)
市民的抵抗キャンペーンの成功を決定的に左右するもっとも重要な要素は、参加する人びとの規模と範囲である。キャンペーン参加者の基盤が大きく多様なほど、より成功する傾向にある。大衆の参加によって、真の意味で現状を打破でき、続いてきた抑圧を維持することができないように変化させ、敵の組織やしばしば治安部隊も含む支持者の離反を促し、権力保持者の選択肢を狭める。大規模キャンペーンを無視することは政治的に不可能になる。(134~135ページ)
(2)政権支持者の忠誠心を変化させること(忠誠心の変容)
市民的抵抗がうまくいくのは、下からの十分な力を誘発すること、つまり、草の根の市民社会が権力保持者の計画や政策を実行・施行する責任者たちを本質的に分裂させたり、抱き込むことによってである。(中略)この要素は、敵側の支柱にいる人びとに忠誠心の変化を促す抵抗運動の能力である。/この能力を獲得するためには、抵抗キャンペーンが多くの異なるコミュニティから支持を得ている必要がある。(中略)支持者の幅が広くなるほど、その運動は社会のあらゆる立場を代表し、多様な場に影響を及ぼすようになる。(137ページ)
(3)デモに限らず幅広い戦術を用いること(多様な戦術)
さまざまな戦術を駆使する運動は、抗議活動やデモなど、ひとつの方法に頼りすぎる運動よりも成功する傾向にある。新しく、予想もしない戦術を生み出す上で、多くの人的資本をうまく活用できる非暴力キャンペーンは、予想可能で戦術的に面白みがない運動よりも、活動の勢いを維持することに長けている。抵抗運動の規模がとりわけ大きな場合には、他の方法で圧力をかけられる限り、路上での活動から退くことも可能なのだ。(140ページ)
(4)抑圧を前にしても規律と強靭さを保つこと(規律と強靭さ)
運動は、とどまる力を培うと成功する傾向にある。つまり、強靭(きょうじん)さを養い、規律を保ち、政府が暴力的に壊しにかかってきても大衆の参加を保持できることを意味する。もっとも重要な点は、組織性を維持することである。政権側が何をぶつけてきても――暴力で仕返しをするのでも、暴力に反応し退こうと散り散りになるのでもなく。これを達成できる運動は、たいていはっきりとした組織構造を有する。(141ページ)なお、「抑圧」とは、政府や政府関係機関が、強制力を使って相手の行動に影響を及ぼす場合を指す。(262ページ)

〇チェノウェスの「3.5%ルール」は、世界中の耳目を集めた言葉(仮説)である。チェノウェスがいう「3.5%ルール」とは、「運動の観察可能な出来事の絶頂期に全人口の3.5パーセントが積極的に参加している場合、革命運動は失敗しないという仮説」(174ページ)である。ただし、この仮説にはいろいろな点に留意する必要がある。「絶頂期」とは、「ある出来事が一番盛り上がった」時点をいい、「参加者数が時間の経過によって増えていく流れ」を説明するものではない(175ページ)。「人口」とは、ある国の全ての人口であり、自治体や地域、あるいは特定の組織・集団の人口ではない。「革命運動」とは、「指導者の退陣や独立を達成するといった大きな変化を目的とする運動」(180ページ)であり、その「成功」(「失敗しない」)とは、その運動が「いちばんの盛り上がりをみせてから1年以内」(43ページ)に目的が達成されたことをいう。革命運動は、すなわち「政権転覆」をめざす運動であり、政治的譲歩(政策・制度の改善・廃止等)を促すものではない。したがってまた、「3.5%ルール」は、「気候変動運動や、地方政府、企業や学校に対する運動」(180ページ)に適応できるものではない。そしてチェノウェスはいう。「この数字の裏にあるデータは、過去に何が起こったかを語るもので、将来も同じことが必ず起こるとはいっていない。この歴史的傾向は、だれかが意識する前から存在した。人びとがこの閾値(いきち。境界となる値)を意識的に達成しようとするようになってもこのルールがあてはまるかはだれにもわからない」(175ページ)。「1945年から2014年までの間に、3.5パーセントというハードルを超えたのは、389の抵抗運動のうちたった18事例だけである。これは対象期間中に起きた抵抗運動全体の5パーセント未満である」(175~176ページ)。本稿のタイトルを「3.5%(?)の『市民的抵抗』」とし、(?)を付した意味はここにある。本稿の冒頭に記した斎藤幸平の一文にも注意したい。
〇「市民的抵抗」の言葉から思い出すものに、「抗議」「市民的不服従」「社会運動」などがある。その違いについて、チェノウェスの言説を引いておくことにする(抜き書きと要約)。

「抗議」は、市民的抵抗のひとつの方法である。抗議は、典型的には象徴的行動であり、ある問題に対して人びとの関心を集め、変化を要求することをめざす。多くの人びとが抗議と市民的抵抗を同一視する。だが、効果的な市民的抵抗は、通常、抗議にとどまらず、たくさんの非暴力的方法を用いる。(75~76ページ)

「市民的不服従」では、自分たちが不当とみなすものに対して公然と抗議しておこなうものである。法を犯して逃亡することはカウントしない。法を犯す人物は、刑に処せられることを完全に受け入れていなければならず、要求されれば服役する。(104~105ページ)

市民的抵抗は、ストライキ、抗議、座り込み、ボイコットなど、限定的な期間、人びとを動員し、一連の調整された方法を用いて個別の目的を達成しようとする。「社会運動」は市民的抵抗と異なり、長期間にわたって継続するような現象を意味している。社会運動は、社会を変化させるために、組織化、政策提言、その他の政治的活動を組み合わせる傾向にある。社会運動は必ずしも市民的抵抗を用いない。(116~117ページ)

阪野 貢/階級論的視点に基づく貧困研究―志賀信夫著『貧困理論入門』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、志賀信夫著『貧困理論入門―連帯による自由の平等―』(堀之内出版、2022年5月。以下[1])という本がある。志賀にあっては、貧困とは「人間生活において何かが剥奪(はくだつ)されている状態」であり、「あってはならない生活状態」(8ページ)のことをいう。その貧困を論じることと、貧困問題を論じることとは異なる。前者は、「貧困とは何か」や「貧困対策の理論的核となる原理」について論じることであり、後者は、「現象した貧困」を論じることである。志賀は前者に焦点化したものを「貧困理論」と呼び、[1]のテーマとする(7ページ)。
〇[1]ではまず、「貧困」や「階級」などの諸概念について整理する。次いで、貧困理論の歴史的変遷について整理・検討する。そのうえで、現代日本の貧困問題の検討・考察を通じて、「階級論的貧困理論」を練り上げる。
〇志賀によると、貧困を理解する方法には「階層論」的な視点と「階級論」的な視点の2つがある。その際の「階層」とは、「なんらかの特徴にそくして人びとを区分し層化したもの」(27ページ)である。この立場においては、「貧困を余儀なくされている階層の人びとを事後的にどのように階層移動させるか」(28ページ)ということが課題となる。それに対して「階級」とは、「何らかの地位身分の違いを指示する概念」(28ページ)である。それは、資本主義社会においては「資本-賃労働」という地位身分、すなわち「資本家-労働者」という階級を問うことになる。この立場においては、「貧困をそもそも生じさせる社会関係、つまり『資本-賃労働関係』そのものの変革や資本の振る舞いに対する規制」(28ページ)が課題となる。そして志賀はいう。「前者は、いま現在起きている現実問題への対応であり、後者は、根本原因への介入である。この両者はどちらか一方だけが重要であるというのではなく、その両方が重要である」(28~29ページ)。
〇志賀によると、貧困と非貧困を区別する境界は歴史的に変化し、貧困の概念は歴史的に拡大してきた。それにともなって貧困理論は、19世紀末から20世紀初頭の「絶対的貧困理論」(チャールズ・ブース、シーボーム・ラウントリー)から、20世紀半ばの「相対的貧困理論」(ピーター・タウンゼント)、そしてEUにおける現代(1980年代以降)の「社会的排除理論」へと発展してきた。絶対的貧困理論においては、貧困は「『動物的生存の維持』さえもできないような生活状態」を指す。相対的貧困理論においては、貧困は「『一般的な生活様式(style of living)の維持』ができないような生活状態」を指す。それは、時代と社会によって変化する。現代の貧困論の社会的排除理論においては、貧困を「『幸福(=well-being)を追求できないような自由の欠如、権利の不全』という視点」から理解しようとする(32ページ)。すなわち、そこでは、幸福を追求するための「自由の平等」が社会的目標とされ、それを如何に拡大するかが重要となる。また、「社会的排除」(Social Exclusion)の対概念は「社会的包摂」(Social Inclusion)であるが、それは、「自由」と「権利」が実質的に保障されている状態をいう。それを可能にするのは「自己決定」に基づく「社会参加」である(118ページ)。
〇要するに、志賀にあっては、現代の貧困(「新しい貧困」)は、「自由・権利」に基づく「自己決定型社会参加」の阻害の問題を含んでいる。従って、現在の貧困対策は、個人の「自由・権利」が実質的に保障されているか否かが問われることになる。ただし、こうした貧困概念の拡大は、従来の絶対的貧困や相対的貧困が一掃されたことを意味するものではない。日本においては、「いまだに餓死事件が後を絶たないし、低所得や所得の喪失は貧困問題の中心であり続けている」ことに留意する必要がある(119ページ)。
〇志賀は、以上のような現代の貧困に関する「社会的排除理論」を提示したうえで、貧困を解消するための戦略について論じる。その中心は、「相対的過剰人口対策」と「脱商品化」である。
〇「相対的過剰人口」は、「資本-賃労働関係」のなかで、生産技術の進歩・向上等によって構造的・必然的に生み出される労働者人口(失業者)をいう。それは、景気循環によって排出される労働者(流動的過剰人口)や、都市労働者の供給源である農村に潜在している過剰人口(潜在的過剰人口)、就業が不安定な日雇い労働者(停滞的過剰人口)などの形態をとって現れる。この「相対的過剰人口」は、「失業者個人のあり方に注目し、行動変容や認識の変容によって就労を促す『失業者』対策」(200ページ)によって解消することはできない。そこで必要とされるのは、「資本の振る舞いの規制や『資本-賃労働』という社会関係への介入・変革を促す『相対的過剰人口』対策」である。そして志賀はいう。社会変革をめざす「相対的過剰人口」対策と、個人の変化をめざす「失業者」対策はいずれも重要である。「前者だけに終始するならば、社会変革が実現されるまで多くの人びとが貧困状態を脱することができないし、後者だけに終始するならば、貧困は自己責任の証左であるという主張を裏付けるものとして機能してしまう」(200ページ)。
〇「脱商品化」は、保育、教育、医療、介護、住宅などを低額化、無償化、普遍化することをいう。さらに「社会環境の整備に努め、個人の自己決定に基づく要求があれば、能力に対する支援や特性への配慮をおこなっていくというものである」(174ページ)。これを志賀は「ベーシックサービス(BS)」と呼ぶ(207ページ)。そしてこれは、「自由の平等」の具体化と権利の実質的保障の実現を促すことになる(175ページ)。こうした脱商品化は、貨幣がなくてもそれらの商品(BS化された共同所有物)を利用できるようになり、「労働力商品を常に売らなければ生きていけないという状態から徐々に抜け出し、労働力の脱商品化」を可能にする(208ページ)。そして志賀はいう。「BS化されていく領域を増やしていくことができれば、その過程で資本主義的生産様式や『資本-賃労働関係』は廃絶されていき、貧困根絶の道の先に、資本主義社会とは異なる包摂型社会が実現するかも知れない」(212ページ約)。
〇以上が、「資本-賃労働関係」の廃絶の必要性を説く「階級論」的視点に立って、「社会的排除理論」を手掛かりに立論する志賀の「貧困理論」、その概要である。ここで、いささか長い引用であり、重複するところもあるが、志賀の言説の理解を深めるために、その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「社会的排除」とは「市民的生存」が否定されたり「自己決定型社会参加」が阻害されている状態をいう
「自己決定」できるためには、選択可能な選択肢の束が必要である。この選択肢の束とは、「自由」の広さのことである。社会全体で保障しようと約束し、法としてルール化した「自由」の範囲が「権利」であり、この「権利」を持つ人びとのことを(「市民(citizen)」と呼ぶ。(116ページ)/貧困概念と自己決定概念が関連付けられながら議論され始めているということは、貧困概念に「自由」と「権利」の要素が付加されつつあるということである。つまり、人びとに保障されるべき生存のあり方の歴史的変遷は、「動物的生存」(絶対的貧困理論)⇒「共同体的生存」(相対的貧困理論)⇒「市民的生存」(社会的排除理論)と整理できる。また、貧困対策のなかで保障されるべき社会参加のありかたは、(家父長制的共同体のメンバーシップに基づく(105~106ページ))「役割遂行型社会参加」⇒(シティズンシップの諸権利に基づく(106ページ))「自己決定型社会参加」と変化してきていると整理できる。1980年代以降、何らかの事情により「市民的生存」が否定されていたり、「自己決定型社会参加」が阻害されている場合、これを「社会的排除(Social Exclusion)」の状態にあると表現するようになってきている。(116~117ページ)

現代の貧困理論や貧困対策には労働者階級の「階級意識」や「連帯」に基づく「階級的視点」が必要である
「階級はなくなった」「階級など古い」という言説は、連帯の不可能性を大きくする。日本では、社会の人びとが総中流化したという言説が人口に膾炙(かいしゃ。広く知れ渡ること)し、彼ら・彼女らに内面化させられ、労働者階級としての連帯の意義が不透明化させられている。そのため、労働生活を含む生活の保障が弱体化し、代わって分断による生活と労働の管理が前面化傾向にある。階級的な緊張関係ではなく、「国民一丸となって」というスローガンは日本でなじみのものとなっている。(194ページ)/当然のことだが、階級的視点を持った貧困研究や反貧困の社会運動は、拙速に「資本-賃労働関係」の廃絶を強調するものではない。「資本-賃労働関係」が継続していても、シティズンシップの諸権利の実質化は併存することが可能である。また、これまでの歴史的過程のなかで人びとの自由と権利の拡大は達成されてきており、その連続性を無視するなどということもありえない。逆に、「資本-賃労働関係」と自由と権利の併存があるからといって、それが階級的視点の不必要性を意味するものでもない。ここでは、貧困を根絶する連帯のための必要条件が階級的視点であるといっているのである。(195ページ)

貧困・差別を根絶するためには「脱商品化」と「資本-賃労働関係」の廃絶を進めることが必要となる
保育、教育等をはじめとするBS化は、権利の実質的保障にもつながる。BS化されれば、貨幣がない場合でも、保育サービスや教育をうけることができる可能性が高まるからである。教育が脱商品化されれば、教育への権利が実質的に保障される道がひらかれる。食への権利も食料が脱商品化されれば実質的に保障される可能性が高まるだろう。(210ページ)/ただ、課題もある。BSのような共同所有は、社会の人びとの共同的な経営を原則としなければならない。そしてその共同的な経営は、差別がある場合、うまくいかないことが予測されるのだ。経営の場に差別が持ち込まれ、権力勾配(こうばい)が生じてしまうと私的所有に傾いたり汚職につながるからである。汚職は共同経営に対する信頼を動揺させ、私的所有の台頭は共同経営を突き崩す直接の原因となる。私的所有は、差別と貧困の上でこそ花開く。別の見方をすれば、資本主義的生産様式や「資本-賃労働関係」を維持したままで貧困・差別の完全な根絶は不可能だということである。(210~211ページ)

〇筆者の手もとに、白井聡著『今を生きる思想 マルクス―生を呑み込む資本主義帯―』(講談社現代新書、2023年2月。以下[2])という本がある。[2]において白井は、「われわれの意識や感性、感覚、価値観、思考といった、普通われわれ一人一人が『自分のもの』であると信じて疑わないもののなかに、資本主義のロジックがどのように入り込んでいるのか、(中略)われわれ自身のなかで資本主義がどのように深化しているのか、それをマルクスの理論を通じて検証する」(6~7ページ)。
〇先の[1]で志賀は、「社会参加」の概念や論理に基づいて、「社会的排除」の対概念である「社会的包摂」について論じる。しかしそれは、「社会的排除」の議論に比して必ずしも十分なものではない。そこでここでは、きわめて恣意的であることを承知のうえで、[2]で白井が説く「社会的包摂」についてみておくことにする(抜き書きと要約)。
〇白井はいう。「マルクスの言う『包摂』は、社会学などでよく使われる『包摂』とは、ニュアンスがまったく異なる。後者の『包摂』は、『社会的包摂』などといった言い回しで使われ、どちらかと言うと肯定的な意味合いで使われる。社会的に周縁化された存在や、逸脱したあるいは逸脱しかかった存在を、社会がその一員として受け入れ、適切な居場所を与えることを、社会学的な意味での『包摂』というのである。/これに対して、マルクスの言う『包摂』には、何かを包み込み、徐々に圧迫し、ついには窒息させるという意味合いを読み込むことができる。つまり、否定的なイメージを喚起する。/では、何が何を包み込むのか。端的に言って、資本主義のシステムがわれわれ人間の全存在を含むすべて、自然環境を含む全地球を包み込む」(100ページ)のである。
〇資本主義的生産様式において労働者は、生産手段(物を生産するための原料や工場・機械など)を持っていないために、自らの労働力(物を生産するための人間の精神的・肉体的能力)を商品として資本家に売り、資本家の指揮・監督のもとで労働することになる。これは、資本が労働を「形式的に包摂」(形式的包摂)することを意味する。しかもその資本は、剰余価値(労働者の労働力の価値(賃金)を超えて生み出される価値。利潤)を生産するために、生産力の向上を常に追求する。そこで、労働者はそのプロセスに巻き込まれ、生産様式の絶えざる変化に適応することを強いられる。これは、資本による労働の「実質的包摂」を意味する(103、104ページ)。
〇そして白井はいう。本来、「仲間」や「協働」「共感」「連帯」「団結」といったものは自主的につくり出すべきものであり、仕事の「やりがい」も自ら発見すべきものである(119ページ)。しかし、新自由主義の現代において、「19世紀的な蓄積様式に回帰した資本」(116ページ)は、「実質的包摂」を高度化し、労働者を純然たる「労働力商品の所有者」へと還元させている。そういうなかで資本は、労働者のあいだで自然発生しない「協働」「共感」「連帯」「団結」や「やりがい」などの情動を商品として売るに至る。これらの情動商品の代金は、労働者の賃金から天引きされており、低賃金はその結果である(118~119ページ)。こうして、「われわれの情動、感情生活までもが商品化され、買うべき対象となった後、まだ包摂されていないものとして残っているものは何もない」(120ページ)。これが白井がいう「新自由主義段階の包摂」である。留意しておきたい。
〇ここで、「資本が人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており、それによって運動している。その意味で、人類にとって資本は他者である」(96ページ)というマルクスの「資本の他者性」の概念が思い出される。併せて筆者は、(1)労働の生産物からの疎外、(2)労働行為における疎外、(3)類的存在(人間は生産共同体において他者とともに共同生活を営む社会的存在である)からの疎外、そして(4)人間からの人間疎外(自己疎外)、というマルクスの「疎外論」を思い出す(マルクス著、城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年3月)。
〇雇用破壊が進む現代社会について「格差社会」「分断社会」「無縁社会」「管理社会」、あるいは「貧困強制社会」( ※)などと言われ、「資本主義の危機」が叫ばれる。その基底をなすのは紛(まぎ)れもなく「階級社会」である。そこから、それらの言葉が表す諸現象について議論したり、「共生社会」を展望する際には、「階級論的視点」が必要かつ重要となる。本稿で言いたいことのひとつである。例によって唐突ながら、それは「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究にも通底する。

※藤田和恵著『不寛容の時代 ボクらは「貧困強制社会」を生きている』 くんぷる、2021年8月。

補遺
図1は、「資本-賃労働関係」に関し、賃労働の再生産過程の範式を示したものである。参考に供しておくことにする。

資本の循環過程におけるGは貨幣、Wは商品、Pmは生産手段、Aは労働力、Pは生産過程、W´は剰余価値によって増加した商品、G´は剰余価値によって増加した貨幣、をそれぞれ表す。賃労働の再生産過程におけるA(W)は労働力商品、APは労働過程、(G)‥‥AP‥‥Gは賃金の後払い、をそれぞれ表す。――は資本および労働力の流通過程、‥‥は商品および労働力の移動、==は資本の下での労働者の労働、をそれぞれ表す。
労働者は労働市場において、労働力を商品として販売するが、その販売に失敗すると失業という労働問題を抱える。労働過程(資本にとっては生産過程)においては、低賃金、長時間労働、劣悪な労働環境などの労働問題が生じる。消費生活過程では、資本から独立し、労働者の消費生活が世帯内で私的・個別に営まれる。そこでは、労働問題の具体的結果として、また労働者やその世帯内の個人的な理由によって生活上の諸困難(生活問題)が生じる。未来の労働力である子どもの生育にも支障をきたすことになる。一方、資本は、労働力の再生産の必要から、あらゆる手段を駆使して労働者の消費生活に介入する。
なお、高齢者や障がい者は、資本にとって衰退した労働力あるいは欠損した労働力であるがゆえに、労働市場・労働過程・消費生活過程において、健常な労働者に比してより厳しい状況に置かれることになる。

阪野 貢/災害ボランティア、その「絆」や「感動」にみる「闇」―丸山千夏著『ボランティアという病』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、丸山千夏著『ボランティアという病』(宝島社新書、2016年8月。以下[1])という本がある。[1]は、東日本大震災(2011年3月)や熊本地震(2016年4月)の被災地で展開されたボランティアを取材し、その闇(深淵)の部分を炙(あぶ)り出したジャーナリストのルポルタージュである(伝聞調の文章が散見されることに留意したい)。
〇[1]のカバーの紹介文にはこう記されている。「熊本地震にも多く集まったボランティアの人々。多くのマスコミは、ボランティアの人々を持ち上げ、毎日のように報道している。だが、その裏側では、ボランティアの範囲を超えた越権行為、必要のない物資の援助、野放しにされている巨額の寄付金、そしてこれからはじまる復興利権など、多くの問題を抱えている。しかし、それらを批判することはタブーとされてきた。すべて善意のもとに正当化されてきたからだ。本書では、善意のもとに、ボランティアのすべてを受け入れてしまう日本人の病を抉(えぐ)り出す。はたして、あなたの善意は、本当に必要とされているのか。本当に正しいのか。検証する。」
〇[1](すなわち被災地)には、ジャーナリスティックな名称であるが、いろいろなボランティアが登場する。「素人ボランティア」、「プロ・ボランティア」、「人生迷子型ボランティア」、「野良ボランティア」、「テクニカル・ボランティア」などがそれである。「素人ボランティア」は、善意に基づいて被災地に駆けつけるが、ときに足手まといになるボランティアである(101ページ)。「プロ・ボランティア」は、あくまでも独自の活動にこだわり、支援活動一本で生活を営むボランティアである(103ページ)。「人生迷子型ボランティア」は、都会での生活に行き詰まり、行き場をなくした人が被災地に居場所を見つけるボランティアである(88ページ)。「野良ボランティア」は、災害の現場で社協や他の団体と連携・協力しながら役割を分担して動くという発想を持たないボランティアである(38ページ)。「テクニカル・ボランティア」は、プロフェッショナルな技術力を持つ高度な専門家が作業を請け負うボランティアである(103ページ)。
〇丸山によると、こうしたボランティア活動はときにやっかいな問題を生じさせる。たとえばそのひとつは、古着や食料品などの大量の支援物資の後処理や、大量の千羽鶴や寄せ書き・メッセージなどへの対処(対応)が、被災地を襲う「第二の災害」(134ページ)となっている。いまひとつは、支援が長期化するなかで支援者(よそ者)と地元住民との間に主従関係が生じたり、濃密な人間関係を築いてきた地方のコミュニティではその人間関係に亀裂が生じたりするケースがある(169ページ)。もうひとつは、取材に来るマスコミをはじめ、物見遊山で被災地観光に来る若者、視察に来る政治家や投資家、慰問に訪れる芸能人や有名人、あるいはフィールドワーク(現場での情報収集)に来る専門家や研究者等々、実に多種多様な人々が被災地現場に出入りし(そのなかには「危ない人々」も存在する)、地域・社会がかきまわされる(167、179ページ)。
〇災害ボランティアは、いまだに「善意」頼りであり、いま国策的な「動員」が促進されている。そこでは、「絆」「笑顔」「感動」などの美辞麗句が並べたてられ、「がんばろう!」と激励される。それらに違和感を覚える人がいる。また、災害ボランティアに参加しない・できないことに「後ろめたさ」を感じている人もいる。一方、被災者の側には「善意は断ることができない」という前提がある(184ページ)。「あつかましいお願いなのですが、被災地のことを気にかけていてもらいたいし、支援が終わったらさっさと帰って欲しい。そんなこと、思っても普通は言えないですよね」(181ページ)。災害ボランティアの問題(「病」)の核心を突く、被災地の一人の住民の声である。
〇例によって唐突で我田引水的であるが、この住民の言葉から、学校福祉教育の一環としてしばしば取り組まれる訪問・交流活動での施設利用者(高齢者、障がい者など)の声を思い出す。「ここは私たちの生活の場ですから、勉強が終わったらさっさと帰って欲しい。そんなこと、思っても普通は言えないですよね」。
〇災害ボランティアには、被災地の現場で「善意」が闊歩(かっぽ)あるいは暴走することもあるなかで、組織的・体系的な災害支援の知識やノウハウが求められる。そこでは、被災者中心、地元主体、そして共働の取り組みが重要となる。またそこでは、情緒的な「絆」や全体主義的な「がんばれ!ニッポン」といった言葉やスローガンは不要である。被災者とボランティアによって共創される「愛」と「信頼」、そして「希望」が肝要となる。これが筆者の読後感である。
〇「絆」(きずな)とは、人(被災者)と人(ボランティア)を繋ぎとめる「綱」(つな)であり、それは「愛」と「信頼」と「希望」を意味する。付記しておきたい。