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阪野 貢/「コミュニティ・オーガナイジング」考―そのプロセスとステップ―

〇筆者(阪野)の手もとに、「コミュニティ・オーガナイジング」に関する本が2冊ある。マシュー・ボルトン著/藤井敦史(ふじい・あつし)ほか訳『社会はこうやって変える!―コミュニティ・オーガナイジング入門』(法律文化社、2020年9月。以下[1])と鎌田華乃子(かまた・かのこ)著『コミュニティ・オーガナイジング―ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』(英治出版、2020年11月。以下[2])がそれである。
〇[1]は、「現状に怒りを覚え、それに対して何かをしたいと考えている人、社会システムに不満を抱いている人、国の行く末に不安を覚えている人のためのもの」であり、「自分の信じていることに対してどのように変化を生み出していくことができるかについて書かれている」(1ページ)。[2]は、「世の中のできごとに『何かがおかしい』と思ったり、暮らしている地域の問題に気づいたり、今の日本社会や政治の状況にもやもやしたものを感じたりしている人に、少しでも、その状況を変えられるかもしれない、と思ってもらうために」(1ページ)書かれたものである。[1]と[2]はともに、「コミュニティ・オーガナイジング」の手法や本質について具体例を交えながら解説(説述)し、それを通して「社会を変える」「ほしい未来をみんなで創る」プロセスや方法を解き明かす。
〇[1]における基本的な概念のひとつは、「パワー」と「自己利益」である。「パワー」についてボルトンはいう。社会の変革と民主主義の刷新を図るためには、日常的な生活における「パワー」(課題を解決する能力、影響力を発揮する能力)が必要不可欠である。市民は誰もが、何らかのパワーを持っている。市民は、正義や道徳的正しさを振りかざして政治や社会に対する批判や糾弾に終始したり、限定的で象徴的な抗議活動や政治運動を展開したりするのではなく、自らのパワーの形成・向上に努めなければならない。その際、権威や権力、組織や資金などを持たない多くの市民にとっては、異質な人々や団体・組織などとの関係性(信頼関係、協働関係)を構築・拡大することが肝要となる。そこにパワーが生み出される。そして、社会変革は、「小文字の政治」(政府レベルでの意思決定をめぐる『大文字の政治』ではなく、ローカルな領域で共通の課題をめぐってなされる市民間の協議や意思決定)によって可能となる(27ページ)。
〇「自己利益」についてボルトンはいう。社会変革への市民参加は、自分の利益を度外視したものではなく、先ずは個人的で具体的なニーズや動機による「自己利益」に基づく。その個人的な利益は他の人々との個人的な利益と結びついており、そこから自己利益の共通部分すなわち公共的な利益が見出されることになる。そして共有された自己利益が他者や団体・組織などとの関係性と、それに基づくパワーを創り出す。共通の自己利益によって、「人々は、偏見のバリアを越えて、連携することができ」、それが「健全な民主政治のために必要とされる幅広い連帯感情の基盤」となるのである(41ページ)。要するに(平易に言えば)、社会を変えるためには関係性に基づく市民の力(パワー)が必要であり、自己利益につながっている課題こそが市民の行動やアクションを促す。これがコミュニティ・オーガナイジングの起点となる考え方である。
〇ボルトンは、コミュニティ・オーガナイジングのプロセスについて次のように述べる。図1は、「コミュニティ・オーガナイジングのプロセス」を表示したものである。

もし変化を望むのならば、パワーが必要だ。共通の利益をめぐって、他の人々との関係を通してパワーを構築するのだ。そして、共通に直面している大きな(抽象的な)問題を(解決可能な)具体的課題に分解し、必要な変化を作り出せるパワー(権力、影響力)を持っている意思決定者が誰なのかを特定することが重要である。それから、意思決定者の反応(リアクション)を引き出すアクションを起こして、彼らとの関係を構築する必要がある。もし、彼らが変化を実行することに同意しないのであれば、アクションのレベルを上げるか、より創造的な戦術を駆使することになる。そして、実践しながら学び、徐々に小さな成功体験を積み重ねながら、より大きな課題に対する準備を進めていく。こうした戦略を可能にするために、コミュニティ・オーガナイジングと呼ばれるアプローチを構成する一連のスキルやツールが存在している。(3~4ページ。丸括弧内は筆者)

〇以上が、[1]におけるボルトンのコミュニティ・オーガナイジング論から筆者が押さえておきたい論点や言説である(パワーとアクションに関する実用的なスキルやツールについては省略)。社会変革を生み出すためのコミュニティ・オーガナイジングの方法、その原則についてボルトンはいう。「正義は、それを実現するパワーがある時だけ手にすることができる」(24ページ)、「自分でできることをしてあげてはならない」(120ページ)。別言すれば、「正義を追求・実現するためにはパワーが必要である」、「他の人の能力を高める・自分でできることは自分でする」、それが社会を変えるのである。そしてボルトンは、「コミュニティ・オーガナイジングの文化は個人の絶望や挫折を集団的な怒りや変化へのパワーへと変えることを目的としている」(132ページ)と述べる。核心の一言である。
〇[2]は、世の中の出来事について「仕方がない」と諦めてしまうのではなく、「仕方がある」ことを知って社会を変えていく方法論、すなわちコミュニティ・オーガナイジングについて解説する。それは、鎌田にあっては、「仲間を集め、その輪を広げ、多くの人々が共に行動することで社会変化を起こすこと」(1~2ページ)と定義づけられる。
〇[2]で注目すべきは、コミュニティ・オーガナイジングの「5つのステップ」である。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。ページ表記省略)。図2は、「コミュニティ・オーガナイジングのステップ」を表示したものである。

(1)共に行動を起こすためのストーリーを語るパブリック・ナラティブ
まず自分自身のナラティブ(物語)を語ることによって自分の想い(私のストーリー)を他者に伝え、それを他者と共有して一体感(私たちのストーリー)を作り出し、共有した価値観のもとで、いま共に行動する必要性や理由(行動のストーリー)について語る。
(2)活動の基礎となる人との強い関係を作る関係構築
ひとつひとつのアクションを振り返り(すなわち学びながら行動し)、それぞれが持つ関心や資源を交換し、そのためにも一対一(フェイス・トゥ・フェイス)の対話を重視することによって価値観を共有し、人との強いつながりを作る。
(3)みんなの力が発揮できるようにするチーム構築
多様性に富んだメンバーで共有する目的を作り、みんなの約束事(合意事項)を設定し、相互依存に基づく役割を明確にすることによって計画したゴールが達成され、チームワークが向上し、活動に参加しているメンバー個人が成長するチームを作る。
(4)人々の持つものを創造的に生かして変化を起こす戦略作り
①一緒に立ち上がる人(同志)は誰か、②ほしい変化(戦略的ゴール)は何か、③どうしたら持っているものを必要な力(問題解決能力)に変えられるか、④戦術(戦略を具体的に実行する手段)は何か、⑤(時間枠のある)行動計画は何か、に応える効果的な戦略(方向性・シナリオ)を立てる。
(5)たくさんの人と行動し、効果を測定するアクション
小さなことから安心して・安全にチャレンジできる場を用意したり、多様な視点や意見を出し合って自由闊達に議論できる場を設定したりしてリーダーシップ(他者と関係を作り、他者の力を引き出し、他者を動かす能力)を育み、よりたくさんの人をアクションに誘うとともに、一連の行動やプロセスを振り返る。

〇こうした「5つのステップ」(実践)を支えるのは、「コーチング」である。鎌田はいう。コーチングは、①より前向きに仕事に取り組むために行う。②成果を達成するための資源の使い方を分析・評価できるようにする。③知識やスキルを強化するために行う、のである。そして、コーチングを受けることによって、またチームメンバー同士がコーチングすることによって、主体的に動けるリーダーや自分で考えて行動できる人が育っていく(231ページ)。
〇以上が、[2]における鎌田のコミュニティ・オーガナイジング論の骨子である(具体的な方法や手法については省略)。その基本的な考え方は至ってシンプルである。自分たちが暮らす地域・社会を自分たちの選択と行動によって創造あるいは変革する(より健全な市民社会を創る)ためには、人々の間に関係性を作り、草の根のリーダーシップを育て、共に行動する(コミュニティを作る)ことが肝要となる。そしてそこでは、解決や変化を求めて「行動する人」(コミュニティ・オーガナイザー)の育成・確保が問われる。その際のコミュニティ・オーガナイザーとは、「困難に直面している人たちをオーガナイズ(組織化)して、その人たちの持っているものを使って、パワーを作り出し、問題の解決を促す人のこと」(63~64ページ)をいう。
〇「困難を抱える人々が変化の源」(63ページ)である。一般市民がアクション(活動や運動)を起こして社会変革を促す。そのための方法や行動である「コミュニティ・オーガナイジングを日本社会にも広めていかなければならない」(4ページ)。これが鎌田の考えや願いである。「まちづくりと市民福祉教育」について探究する筆者のそれと通底するところでもある。
〇改めて強調しておきたい。「コミュニティ・オーガナイジングは、いつも次の質問から始まる。あなたは何に怒りを覚えるのか」([1]18ページ)。「人を行動(コミュニティ・オーガナイジング)に動かす原動力は『怒り』である」([2]92ページ)。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」再考―新たな福祉教育の理論研究を求めて―

〇筆者(阪野)は、『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』、『ワンポイントメモ23+3 日本社会・まちづくり・教育づくり―視点と論点―』、『ワンポイントメモ13+3 まちづくりと教育づくり、周辺領域からのアプローチ―視点と論点―』(市民福祉教育研究所、2022年6月、追補版 2022年7月)をブログにアップした。過去の244本の記事(拙稿)から80本を選択し、3分冊に集成したもの(電子書籍?)である。
〇早速、海外の読者を含め、熱心なブログ読者から複数のメールが届いた。ひとりの盟友からはありがたい、また厳しい内容のものをいただいた。感謝である。あえてその一部(総評的な一文)を記しておくことにする。

●読破された本とそれに基づくテーマのボリュームに圧倒されました(本の紹介とテーマの表示が狙いなのでは?)。貴兄の10年余にわたるこうした努力に敬服します。10年間は当然必要とする内容だと思いました。貴兄の知識や経験から語られる啓発的で、議論の呼び水的な内容は、ブログを読む若い人には魅力的で刺激的だと思います。ますますの健筆を期待します。
●相変わらず、難しい論考です。「当事者論」に関連して言えば、貴兄の文章は、完全に男性による福祉教育論ですね。今日的に言えば、なぜジェンダーやセクシャリティ、ダイバーシティの問題が取り上げられないのか。不思議に思います。フロイドをはじめとした男性心理学者が今日的に手厳しく批判されているのをもちろんご存じだと思います。心理学だけでなく、歴史学、医学、社会学、そして貴兄の福祉教育論も男性史観ですね。
●「障碍者論」に関連して言えば、「青い芝の会」のことが詳しく出ていますが、当時あの運動(川崎バス闘争:1977年~1978年)の発端となった川崎市営バスを通学等で利用していたものとして懐かしく読ませていただきました。横田弘が「闘争」という言葉に「ふれあい」というルビを振ったことを思い出しながら、一人の人間の疑問や私憤によって世の中を変えることができた例が少なくないことを改めて認識しています。貴兄が福祉教育に期待するところでしょうか。
●貴兄は「まちづくり」に関して批判的思考と社会変革を強調されますが、批判力と変革力はつながるものなのか、延長線上なのか、よくわかりません。また、教育概念でくくられた「福祉教育」と主体形成論の「福祉教育」が私のなかでは結びつきません。さらに、貴兄が多用される「市民」はひとつの理念であり、理想的な目的概念ですから、実在するヒトではありません。そう考えると、貴兄の福祉教育論のキー概念である「市民福祉教育」を「市民・福祉教育」として捉えれば、私のなかでは一つひとつの論考への違和感が少なかったかな、という感じです。

〇福祉教育学界では、教育方法・技術論的な観点からの研究は盛んであるが、福祉教育の本質に迫る理論的・歴史的かつ哲学的論考はいまだに少ない。そうした福祉教育研究の現状と課題、その背景(要因)を明らかにするとともに、福祉教育実践・研究の新たな展開の方向性と可能性を探ることが、いま、改めて求められている。それに応えるためには、多面的・多角的な視座に基づく福祉教育理論の構築や刷新に関する総合的な研究が肝要となる。それは、歴史的視点や哲学的思考を大事にしながら、如何にして理論と実践の往還・融合の具現化を図るかを探究するものでなければならない。
〇福祉教育の理論研究に関して一言しておきたい。理論研究に関してまず押さえておくべきは、大橋謙策と原田正樹のそれである。大橋の『地域福祉の展開と福祉教育』(全国社会福祉協議会、1986年9月。以下[1])と『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク―』(中央法規出版、2022年4月。以下[2])、原田の『共に生きること 共に学びあうこと―福祉教育が大切にしてきたメッセージ―』(大学図書出版、2009年11月。以下[3])と『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』(中央法規出版、2014年10月。以下[4])に注目すべきである。衆目の一致するところであろう。
〇大橋は[1]で、「本書は学術論文というよりも実践的研究書である」(ⅳページ)、「筆者の問題関心は、教育と福祉における“問題としての事実”に学びつつ、問題、課題をどう実践的に解決するのかという点にある」(ⅳページ)、「『地域福祉を推進する住民の主体形成』を意図的に行う営みが福祉教育である」(ⅲページ)という。「実践的研究書」という一言が、筆者の福祉教育実践・研究の起点となっている。具体的には、1990年4月からの狛江市社会福祉協議会における福祉教育実践(あいとぴあカレッジ、福祉えほん・幼児のあいとぴあ)を嚆矢とする。それは、拙稿「地域における福祉教育の計画と学習プログラム」(『日本の地域福祉』第5巻、日本地域福祉学会、1992年3月)として纏められている。
〇原田は[3]で、「福祉教育を通して育みたい力は『共に生きる力』である。個人のなかで完結する生きる力だけではなく、他者と共に生きることができる力を大切にする。そのために、私たちはいのちや他者、そしてその生活基盤である地域について考えてみることが、まず福祉教育をとらえるスタートである」(11ページ、語尾変換)という。障がい者施設で介護職員として働いたことに基づく原田の、地域共生教育としての福祉教育論の出発点である。筆者が原田の理論研究について、感性的・理性的・主体的認識(一番ヶ瀬康子)の確かさと豊かさを痛感することにつながる点でもある。
〇大橋の[2]は、「50年間の実践的研究を振り返りながら、地域福祉の考え方をまとめたもの、地域福祉についての集大成」である。そこには「補論」として、「戦前社会事業における『教育』の位置」と「福祉教育の理念と実践的視座」と題する論考が収録されている。それはともに、36年前の[1]に収録されているものでもある。とりわけ「福祉教育の理念と実践的視座」は、その歴史的・社会的背景に留意しながら、今後の福祉教育の理論研究において立ち返るべきひとつの原点である。
〇原田の[4]は、「地域福祉計画づくりを中心とした地域福祉実践の分析であり、地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究法に関する著書」(大橋謙策「推薦の辞」)である。原田は、「大橋先生が『地域福祉の展開と福祉教育』を上梓されたのが1986年である。本書の内容(構想)は、その今日的な続編でありたいと考えた」(231ページ)という。そこに、大橋-原田の師弟関係を超えた、研究者としての真摯な姿勢を見る。
〇[1]と[4]の次に求められるのは、大橋と原田の理論研究に批判的検討を加えながら、その特徴、有効性と限界、歴史的・現代的意義などを明らかにする。そして、それを通して福祉教育の原理や哲学、理念、歴史、対象、機能、展開方法、存在意義などの根源的な課題を解く、新たな理論研究であろう。その際、科学一般に求められる特性と、福祉教育研究に固有の研究方法すなわち固有の分析視点や枠組み、手順と手続き、言語体系、そして記述の方法(古川孝順)などが問われることになる。そこではじめて、実践の学・課題解決の学としての「福祉教育学」の構築の方向性が見えてくる。若い実践者や研究者に期待するところである。

阪野 貢/村田紗耶香が述懐する「個性」と「多様性」―その言葉の暴力性―

〇芥川賞作家の村田紗耶香(むらた・さやか)の最新刊『信仰』(文藝春秋、2022年6月)を読んだ。6編の短編小説と2編のエッセイが収録されている。エッセイのひとつ「気持ちよさという罪」では、「個性」と「多様性」という言葉との出会いや、そのときの率直な思いが述懐され、その言葉の暴力性が述べられる。メモっておくことにする(抜き書き)。

●確か中学生くらいのころ、急に学校の先生が一斉に「個性」という言葉を使い始めたという記憶がある。今まで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ? という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちのよさそうな様子がとても薄気味悪かった。(中略)「さあ、怖がらないで、みんなももっと個性を出しなさい!」と言わんばかりだった。そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、今まで通り静かに排除されていた。(110ページ)
●当時の私は、「個性」とは、「大人たちにとって気持ちがいい、想像がつく範囲の、ちょうどいい、素敵な特徴を見せてください!」という意味の言葉なのだな、と思った。(中略)「個性」という言葉のなんだか恐ろしい、薄気味の悪い印象は、大人になった今も残っている。(111ページ)
●大人になってしばらくして、「多様性」という言葉を最初に聞いたとき、感じたのは、心地よさと理想的な光景だった。例えば、(中略)仲間同士の集まりで、それぞれいろいろな意味でのマジョリティー、マイノリティーの人たちが、互いの考え方を理解しあって、そこにいるすべての人の価値観がすべてナチュラルに受け入れられている空間。発想が貧困な私が思い浮かべるのは、それくらいだった。(111~112ページ)
●私はとても愚かなので、そういう、なんとなく良さそうで気持ちがいいものに、すぐに呑み込まれてしまう。だから、「自分にとって気持ちがいい多様性」が怖い。「自分にとって気持ちが悪い多様性」が何なのか、ちゃんと自分の中で克明に言語化されて辿り着くまで、その言葉を使って快楽に浸るのが怖い。そして、自分にとって都合が悪く、絶望的に気持ちが悪い「多様性」のこともきちんと考えられるようになるまで、その言葉を使う権利は自分にはない、とどこかで思っている。(112ページ)
●私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。(117ページ)

〇以上の文章から筆者(阪野)は、例えばいまだに主要な福祉教育実践(プログラム)とされる「車椅子体験と障がい者との交流」について、「障害と個性」や「分離と統合」「排除と共生」「多様性と包摂」などの言葉とともに、その “ ぎこちなさ ” や “ 危うさ ” に思い至る。また、これまでの福祉教育プログラムは、子どもたちやマジョリティ(多数派)に属していると思っている(思わされている)人たちに、「気持ちよさという罪」を負わせてきたのではないか、と疑心暗鬼になる(自責の念に駆られる)。付記しておきたい。

阪野 貢/排除と包摂:主体的営為としての「包摂」を考える ―倉石一郎著『教育福祉の社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、倉石一郎(くらいし・いちろう、教育社会学専攻)の本が2冊ある。『包摂と排除の教育学―戦後日本社会とマイノリティへの視座―』(生活書院、2009年11月。以下[1])と『教育福祉の社会学―〈包摂と排除〉を超えるメタ理論―』(明石書店、2021年6月。以下[2])がそれである。[1]で倉石は、「包摂」を「それまで教育が関心の埒外(らちがい)においやっていた存在に『今さらながら』関心のまなざしを向け、それに対して何らかのはたらきかけを開始すること」(9ページ)と定義づける。そして、在日朝鮮人教育や高知県の「福祉教員」制度(同和教育)をめぐる言説や実践を実証的に明らかに、「包摂」を探求する。[2] で倉石は、「教育福祉」の「メタ理論」を探究する。その際の「教育福祉」は、「貧困や排除の克服を目的に立ち上げられた教育政策や制度、あるいは官民両方におよぶ社会事業的改善策の展開」を総称する。その第一義的な目的は、「学校からの排除に直面している子どもや家族等が被(こうむ)っている種々の不利益や剥奪(はくだつ)が軽減されるような支援を、主として教育の場でおこなうこと」にある。「メタ理論」(ある理論の前提となる理論:筆者)とは、「教育福祉をめぐる個別の経験的研究が参照すべき道しるべ」となる事例横断的な「理論軸」をいう(9ページ)。
〇本稿では、[2]における「包摂と排除」に関する論点や言説を取りあげる。倉石はまず、包摂と排除をめぐる「同心円モデル」という思考図式について説き、その問題性を指摘する(以下のページ表記はすべて[2]のそれである)。
〇「包摂と排除の同心円モデル」において「排除」とは、「中心に経済システムが位置し、周辺に政治、法、教育、福祉システム等が配置されている」現行の社会システムに、「十全に参加しえず、恩恵をこうむることができない立場(状態)」にあることをいう(10ページ)。「包摂」はその逆で、居ながらにして(そのままの状態で)、そのシステムの恩恵をこうむることができる立場(状態)にあることをいう。この「包摂と排除の同心円モデル」においては、排除の状態が先にあり、それへの対処策として事後的に包摂がなされる(排除が先で、包摂が後にくる)という「時間的序列」を考える。とともに、排除が悪で、包摂が善であるという「価値序列」を考える(20ページ)。倉石にあっては、この「時間的序列」と「価値序列」は、素朴で日常知に近い単線思考であり、包摂に潜むパターナリズム(「あなたのため」という根拠・理由によって介入・干渉あるいは支配すること:筆者)の問題などが見過ごされたりする。そしてなによりも、「包摂と排除の同心円モデル」には、包摂「される」側の主体性が看過されているという致命的な欠陥がある(103ページ)。
〇次いで倉石は、「包摂と排除の同心円モデル」思考に対して、より適切なものとして「包摂と排除の入れ子構造」論を対置(提起)する。それは、「包摂のなかに排除が、また逆に排除のなかに包摂が宿されているという認識を骨子とする議論」である。すなわち、「包摂と排除はそれ単独では成立せず、互いに他をともなうことでようやく完結をみる」、「排除と包摂は互いに他を必要とする」(20ページ)という考え方である。そこでは、包摂の進展が排除を促進・高度化し、逆に排除の進展が包摂を促進・完全化する、という図式がみられる。要するに、包摂と排除は、「対立しあう相克的関係」(30ページ)にあるのではなく、「相互参照的なもの」(45ページ)である。
〇さらに倉石にあっては、「入れ子構造」論にも問題がある。排除の通俗的なイメージには最初から、社会の周辺部や外部に追いやられていることが含意されている、というのがそれである。こうした思考から解放されるためには、「創発的包摂」概念が肝要となる。「創発的包摂」について倉石はいう。「創発的包摂」とは、「既存の秩序により多数の他者を取り込むのでなく秩序を『中断』させ変形させるものとしての包摂」(105ページ)を意味する。別言すれば、ソーシャル・マイノリティの人びとが、現存する秩序に単に包摂されたいと願うのではなく、共生社会の形成者として、新しい行動や生活の仕方が可能になような方法でその秩序を作り直すことが肝要である、ということである。その点において、「創発的包摂」は、専門家・専門職との調和的関係を前提とするが、当事者の意向が最優先される「主体的営為としての包摂」(103ページ)である。
〇およそ以上が筆者が読み取った、[2]における倉石の言説、そのワンポイントメモである。その点から福祉教育に関して一言すれば、福祉教育はこれまで往々にして、高齢者や障がい児・者などに関する「排除と包摂」の観点から福祉教育の理念や実践・研究のあり方を問いがちであった。例えば、排除(悪)への対処策として包摂(善)が位置づけられ、「社会的包摂に向けた福祉教育」「共生社会をめざした排除のない地域づくりと福祉教育」といったことが理念的・総論的、あるいは二項対立的に語られてきた。この発想は、倉石の言説に依れば再検討が要請される。また、福祉教育では、マイノリティの包摂が「多様性」についての理解に留まったり、包摂の進展を図るマイノリティ側の主体性・自律性、あるいは主導性に十分に関心を払ってこなかった。場合によっては意図的に「無頓着」でもあった、といえば言い過ぎであろうか。包摂という営為は誰かによってなされる(受動的な)ものではなく、排除されている当事者本人が主体的・自律的に、そしてまた共働的になす(能動的な)ものである。またそれは、形式的なものではなく、確かに・豊かに「生きる」ことの内実が伴うものでなければ意味をなさない。そうした前提に立てば、そこにこそ福祉教育のあり方が厳しく問われることになる。
〇周知のように、戦後の学校教育法体制(1947年4月施行)の最大の特徴は、「障がい児をひとまず他の一般の子どもと同様、就学義務制度の対象として位置づけたこと」(29ページ)にある。障がい児の公教育への「包摂」である。しかし、その体制整備は先送りされ、就学に困難をきたす子どもには就学猶予・免除制度が適用されることになる。障がい児の普通教育からの「排除」である。その後、遅ればせながら1979年4月に「養護学校」が義務化され、形式的には障がい児の教育機会が保障されることになる(包摂)。また、2007年4月には「特殊教育」が「特別支援教育」、「特殊教育諸学校」(盲学校、聾学校、養護学校)が「特別支援学校」に名称変更される。さらに、2012年7月の中央教育審議会報告を受けて、共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システムの構築とそのための特別支援教育の推進が図られることになる。これらは、「分離教育」から「統合教育」、そして「インクルーシブ教育」への変遷(過程)として捉えることができる。しかし、基本的には能力主義教育政策に基づく分離・別学体制が堅持されている(排除)。
〇こうした障がい児教育政策に対して、特別支援学校に在籍する子どもの数が増加傾向にあるなかで(特別支援学校在籍者数:2010年12万1,815人、2015年13万7,894人、2020年14万4,823人)、福祉教育はどのような立ち位置から、どのように(理論的・実践的に)振る舞ってきたのか。いま改めて根本的な科学的理解と検証をおこない、それに基づいて理論と実践の見直しと再構築を図ることが求められる。相変わらず分離・別学体制を所与のものとして受け容れ、障がい児・者に対する「思いやり教育」「共生教育」としての福祉教育の実践・研究が展開されるなかで、そのあり方が厳しく問われている。
〇唐突ながら、いま、「福祉教育・ボランティア学習を軸とした福祉でまちづくり」に熱心に取り組んできた(いる)社協のコミュニティソーシャルワーカー(坂本大輔)の言葉を思い出す。その言葉が胸に突き刺さる。「福祉教育に関して研究者や実践者の意識は薄れてきているのではないか」。それに関して、福祉教育実践・研究者(鳥居一頼)はいう。「貧しいとか、苦しいとか、障がいがあるとかという以前に、この世に生まれ育ち、『生きる』(二重かぎ括弧は筆者)ということに対して、子どもに対してのまなざしを私たちはどれだけ熱くしていけるのか」が問われる。胸に刻んでおきたい(『ふくしと教育』第33号、大学図書出版、2022年8月、34、41ページ)。

阪野 貢/経済学者が説く「コミュニティの再生」:警鐘と提言 ―ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱』のワンポイントメモ―

〇筆者の手もとに、ラグラム・ラジャン著、月谷真紀訳『第三の支柱―コミュニティ再生の経済学―』(みすず書房、2021年7月。以下[1])がある。ラジャンは、インド出身の経済学者で、シカゴ大学教授である。[1]でラジャンはまず、社会を支える三本の支柱である国家(state)と市場(market)とコミュニティ(community)について、「ざっくり」と定義づける。国家は「一国の政治統治構造」であり、市場は「経済において生産と交換を促進する民間経済構造(の)すべて」をいう。そしてコミュニティは「規模を問わず、メンバーが特定の地域に住み、統治を共有し、共通の文化的および歴史的遺産を有することが多い社会集団」である、とする(xivページ)。
〇そのうえでラジャンは説く。社会の繁栄にとって、国家と市場とコミュニティはその均衡を保つことが重要である。近代以降、国家と市場がコミュニティの権限や機能を侵食し、コミュニティが縮小・衰退するなかで、三本の支柱のバランスが崩れてきた。とりわけ1970年代前半以降、ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)革命や経済のグローバル化(globalization、地球規模化)なとが進展するなかでその不均衡が深刻化し、今日、社会は危機的状況にある。これがラジャンの主張である。
〇危機的状況を平易・簡潔に言えば、技術革命によって能力の高い者は、新技術に適応して高所得を得、より裕福で健全なコミュニティに移住する。その一方で、適応能力の低い者は失業や家庭・生活環境の悪化に見舞われ、衰退するコミュニティに取り残される。また、グローバル化は、地域産業を衰退させ、それに依存していたコミュニティは縮小スパイラルに陥る(xxページ)。そういうなかでラジャンにあっては、[1]における中心課題は、「三本の支柱の均衡をいかに回復し、進行中の破壊的技術変化と社会変化に対峙するか」(xiiiページ)である。また、「貧しいコミュニティは優秀な人材を(いかに)つなぎとめつつ、その場所で発展する方法を探す」(xviiページ)かが重要な課題となる。
〇こうしたコミュニティの衰退(機能不全)は、所得分配の二極化を促し、社会階層の格差の拡大と固定化をもたらす。とともに、疎外された個々人は孤立し、帰属欲求の捌け口(はけぐち)を政治的ポピュリズム(特権的なエリート層に対抗する「大衆迎合」的な政治思想・運動)に求める(xxページ)。その結果、社会に格差と分断が生み出されることになる。ラジャンが警鐘を鳴らすところである。
〇そしてラジャンは、国家・市場・コミュニティの不均衡を取り戻すための方策を「コミュニティの再生」に見出し、「包摂的ローカリズム」(localism、地域主義)を提案する。コミュニティを再生する鍵は、優れたリーダーの存在、人的・物的資産の発見・再生・誘致、住民のコミュニティ参加、それに国家による税制・財政支援である(395~410ページ)。包摂的ローカリズムは、「地域のインフラ、能力育成の手段、コミュニティレベルのセーフティネットを強化することによって、機会を広げ平等化する試みである」(466~467ページ)。別言すればそれは、(地域住民の)「アクセスを広げこと」を狙いとする。すなわち「市場、雇用、能力、そしてセーフティネットに誰もがアクセスできるようにしつつ、コミュニティに分権化し、人びとに権利感覚を与えること」(383ページ)である。ラジャンはいう。国家・市場・コミュニティの三本の支柱のどれひとつ、なくてもいいとする考えには与(くみ)しない。国家と市場は必要である。コミュニティは私たちの人間性の表現になくてはならないものである。ただし国家は力をコミュニティに移譲すべきである。国家と市場からコミュニティの領域を削り取る必要がある(467ページ要約)。
〇以上がラジャンの議論・主張の概要である。その理解を多少とも深めるために、次の一文をメモっておくことにする(見出しは筆者)。

国家・市場・コミュニティの不均衡
社会が病むのは、三本の支柱のどれか一つが他に比べて過度に弱まったり強まったりした時だ。市場が弱くなりすぎれば社会の生産性は落ち、コミュニティが弱くなりすぎれば社会は縁故資本主義( crony capitalism、縁故・仲間が優遇される資本主義:筆者)に傾き、国家が弱くなりすぎれば社会には恐怖と無関心が蔓延する。逆に市場が強くなりすぎれば社会は不公平になり、コミュニティが強くなりすぎれば社会は停滞し、国家が強くなりすぎれば社会は権威主義的になる。バランスが肝心なのだ。(xixページ)。

コミュニティの重要性
コミュニティは今でも社会で重要な役割を多数果たしている。個人を現実の人間のネットワークに定着させ、アイデンティティの感覚を与えるのはコミュニティだ。自分が世の中に存在している実感を持てるのは、自分が周囲の人々に影響を及ぼせるからだ。コミュニティを通して、私たちはPTA、教育委員会、(中略)地元の市長選挙や市議選挙といった地域の行政組織に参加して、自己決定の意識、つまり自分の生活を直接コントロールしている感覚を得ると同時に、地域の公共サービスを向上させようとする。重要なのは、公教育、政府によるセーフティネット、民間保険など、正規の制度が存在していても、今でも隣人の善意が不足を補っていることだ。(中略)現代でもコミュニティが健全に機能していれば、懇親会や自治会のような絆を強める活動を行い、市場と国家の侵食に対抗しようとしている。(xviページ)

コミュニティの価値
コミュニティが好ましい理由は容易にわかる。まず自分が何者であるかという意識を作ってくれる。そしてコミュニティ内では多彩な取引が可能だ。これは、すべてについて契約を結び、法によって厳正な履行を強制されなければならない場合の比ではない。コミュニティのためにしたことの記録はコミュニティ内で可視化され続け、匿名の市場に消え失せはしない。それが自尊心、当事者意識、責任感を高める。コミュニティは協力して子育てや弱者、高齢者、不運な者の支援にあたる。近さと受ける情報の深さのおかげで、コミュニティは状況ごとの具体的なニーズに支援内容を合わせることができる。また遠方の政府よりもはるかにタダ乗り屋に気づきやすく、給付を停止できる。結果として、利用できる資源は少ないにもかかわらず、本当に困っている人に、政府よりはるかに高度な給付を提供できる。コミュニティはこのように個人を助ける。教育や支援や拠りどころのない浮草人生の根になるのだ。(15ページ)

コミュニティ再生の方途
コミュニティ再生に成功した事例には次のテーマが共通しているようだ。すなわち、小さな熱意あるチームが取り組みを主導していること。コミュニティ内の異なるさまざまな関係者が結集していること。人的資本を含むコミュニティの主要な資産を発見し、活用、向上させていること。重大な弱点を克服してコミュニティのイメージを変えることに集中していること。そして重要なのは、成功の兆しが見えてそれに誇りを持つようになったところで、住民をコミュニティに参加させることだ。(399ページ)

小林亮平/資産運用と障がい者 ―投資で人生をより豊かにしてみませんか?―

〇僕は日頃、リハビリや生活介護の合間に講師活動や資産運用をしています。そんななかで、「障がい者などももっと投資をしたらいいのに」と思うことが時々あります。
〇そう思う一番の理由は、納税です。社会的弱者は納税の義務を免除されますが、投資をすれば所得税と地方税は徴収されます。
岸田総理は今年の参議院予算委員会で、物価高騰に対する予算案(2兆7000億円)の財源を野党に追究されるなかで、税率を上げるのではなく経済の成長を促すことにより財源を賄えるというような趣旨を述べていました。国民に投資を促せば税収増加につながるとの考えでしょうか。今年から、高校で金融教育が始まったのもそのためじゃないでしょうか。
障害のある方もこの考えに賛同して、目に見える形で社会に貢献できるというメリットは大きいと思います。通常、福祉のサービスを使うだけの存在と思われがちな障がい者も、目に見えて貢献できるという訳です。障害がある・ないにかかわらず、陰では社会貢献していてもそのことが周囲に伝わらず、時にはバッシングされるのは空しいことです。
〇二つ目の理由に、スマホもしくはパソコンが使えれば場所を選ばないということです。取引事態は市場が開いている平日の日中でなければ無理ですが、注文を出したり情報を分析したりするのはそれ以外の時間帯でもできます。つまり、寝たきりの方や病院通いの方、ひきこもりの方や外出が困難な方にも有効ではないかと思います。
〇収入は二種類に分けることができます。労働収入と金融収入です。労働収入とは、文字通り労働をして給料をもらうことです。一方金融収入とは、お金を使ってお金を増やすことで、銀行の預金や年金、そして投資もこれにあたります。
僕は18歳で入院して20歳で退院しましたが、重度の身体障がい者となっていて、定時に出社などの理由から労働収入を得ることは無理に近いと思っていました。それで投資を始めるに至ったのですが、投資とはまとまった資金でもない限り何の経験もない若造がいきなり始めて利益を上げられるものではありません。ですが障がい者には障害基礎年金という、言わばベーシックインカムのようなものがあります。これが三つ目の理由です。
〇僕は、最初の頃は安定した収益があげられず、儲かるときもあれば損をするときもあるといった具合で、結構苦労しました。でも時間が経過して経験を積み重ねた今では、少ないですがささやかな資産を築いています。
〇この15年以上の経験で学んだことはいろいろあります。一番大事な考えは、リスクは排除すべきものではなく必要経費であるという考え方です。リターンを得たければ、リスクは(大なり小なり)とらなければなりません。リスクとリターンは比例します。ローリスク・ローリターンか、ハイリスク・ハイリターンか。ローリスク・ハイリターンなんて商品はありません。あるとすれば、それはギャンブルか詐欺の類いでしょう。
そして、リスクを必要経費と捉えるには、リスク管理(リスクマネジメント)が必要です。リスク管理とはリスクを自分で引き受けコントロールすることですが、なにもすべてのリスクを自分で引き受けることではありません。そもそもリスクとは、「将来のいずれかの時において何か悪い事象が起こる可能性」(Wikipediaより)といった意味です。この商品には、どういったリスクがあるか把握し自分ならどれだけのリスクまで許容することができるのか(どこまでのリスクをとれるのか)を把握することです。
〇投資をする上での心構えとして僕は、次のように考えています。
・投資は余力資金(なくなってもいいようなお金)ですること。投資の目的は、生活をより豊かにするためであって、生活そのものの目的にはしない方が良い。生活が掛かっている投資だと、プレッシャーに負けてしまいます。
・分散投資を心掛けること。例えば災害などである国の通貨や株が暴落したとします。もしもその国に資産が集中していたら、すべてを失うことになります。リスクは分散させることが大切です。とはいえ、
・少ない元手を増やしたければ、資金を集中されることも必要であること。投資とは確率論の勝負とも言えるので、勝てる確率が高い局面を見極めてそこに資金を集中させることも時には必要かと思います。そして、
・早くから始めること。投資での利益は元手の量にも比例します。同じく、経験値にも比例します。つまり、早くから始めたほうが有利です。
〇僕たちも、障害がある・ないにかかわらず、投資で人生をより豊かにしてみませんか?

阪野 貢/追記/「あるがままの君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある」ということ ―内田樹著『複雑化の教育論』のワンポイントメモ―

〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(155)「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―/2022年7月18日投稿 の追記である。
〇内田樹(うちだ・たつる)の近刊、『複雑化の教育論』(東洋館出版社、2022年1月。以下[1])を読んだ。[1]のキーワードは「複雑化」である。内田にあっては、教育とは子どもの「成熟」を支援する営みである。成熟とは量的増大ではなく、できあいの「定型」に収まることでもない。それは、漸進的に変化し、「複雑化」すること、昨日とは違う人間になることである(36、40ページ)。複雑化とは、繰り返し脱皮して変化していくことである。そこで教師や大人は、子どもが殻(から)を脱いで剝(む)き出しの裸になっている時に、「決して傷つけない」という保証をすることが肝要となる(51ページ)。学校は、査定や格付けの機関ではなく、子どもたちの成熟すなわちより複雑なものに成長してゆくプロセスを支援する場でなければならない(35、51ページ)。
〇これが[1]のひとつの要点である。その基底には、「複雑化するのは生命の自然である」(164ページ)、「複雑化することは進化することである」、「複雑なシステムの方が複雑な現実に適切に対処できる」(165ページ)、「システムを単純化すればするほど、システムは機能不全になり、脆弱になる」(163ページ)という内田の命題がある。
〇[1]のなかで内田は、「存在承認」に関して次のように説述する。それをメモっておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。本稿を草したねらいのひとつはここにある。

子どもたちを歓待し承認すること
学校教育で一番大事なことは、まずは子どもたちを歓待し、子どもたちを承認することです。君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある。君がここにいることを私たちは願っている。そう伝えることができたら、学校教育としてはもう上等だと僕は思います。(221ページ)

「あなたはそこにいる」と認められること
人間は「救援の要請」(「ちょっと手を貸して」というタイプの要請)を断ることができない。これは人類学的真理なんです。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取った者である」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまった者が「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。
「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。(204、205ページ)

「ありがとう」は承認と祝福を与える言葉
「ありがとう」と言われるのは、生きる上で必須なんです。それなしでは生きられない。「ありがとう」は「あなたはここにいてよい。あなたはここにいる権利がある。私はあなたがここにい続けることを願う」という社会的承認と祝福を与える言葉ですからね。(88ページ)

続「蛇足」
「お母さん、町屋のみっちゃんが来てくれたよ」「‥‥‥」「どちらさんですか?」「町屋のみっちゃんやがな」「‥‥‥」「町屋?‥‥‥それはどこや?」「町屋に行ったかどうか、わからんなあ」「‥‥‥」「そういうたら、頭が大きい子がいたなあ」「‥‥‥」「あの子はどうしてんのかなあ?」「‥‥‥」「ええ年齢やったからな、もう亡くなってるんやろうなあ」「‥‥‥」

筆者は、<雑感>(83)“死”とどう向き合うか、「生死の教育」を考えるために/2019年6月1日投稿、の記事の「蛇足」で、50年数ぶりに、壮絶な人生を送ってきた従姉に再会したことを記した。その時の、筆者(町屋のみっちゃん)らとの会話である。
彼女には再婚後、夫の連れ子との確執、夫の服役、加えて実子の自殺などの想像を絶する・耐え難いことが矢継ぎ早に起こった。そしてそこには、絶対的な貧困があった。周りの人はみな、見て見ぬふりをし、見ぬふりをして見ていた。そんななかで彼女は、「土方(どかた)」に出て生命(生活)の糧を得、一つひとつの困難に向き合い、同時並行的にそれらに対処した(そうせざるを得なかった)。そうして彼女は、がむしゃらに生きてきた。そしていま彼女は、80歳代後半の認知症患者として「存在」する。その存在(生命の主体)を娘たちは、しっかりと承認している。だからこそ彼女はいう、「私はいまが一番幸せやなあ!」。娘たちもいう、「ありがとうなあ!」
[1]で内田は、何を、どれだけ知っているかによる「頭がいい」ことについてではない。複数の仮説を並列処理できるだけの「頭の中のスペースの大きさ」、「未決状態に耐える能力」によって、じっくりと状況を観察し、時間をかけて確かに対処することの重要性について説く(54、55ページ)。
そんなことを思い出し、また思いを巡らしながら筆者はいま、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」(1965年)や岡林信康の「山谷ブルース」(1968年)を聴いている。涙がとまらない。

阪野 貢/「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―

〇小気味よい本に出会うと楽しいものである。筆者の手もとにある、桜井智恵子(さくらい・ちえこ、教育社会学)の『教育は社会をどう変えたのか―個人化がもたらすリベラリズムの暴力―』(明石書店、2021年9月。以下[1])もその一冊である。タイトルからも興味をそそられる。(小気味よさはしばしば、一元論的な思考やそれに基づく思考停止状態のなかにあることに留意しておきたい。)
〇生存のための「自立」を必要条件とする資本主義社会は、能力と所有の論理に基づいている。現代社会のルールであるリベラリズム(自由主義)は、個人の尊厳や自由、多様性、自己決定(自己責任)などを最も重要な価値とみなしている。そういう社会の政治経済的構造が生み出す排除や差別などの諸困難に対する桜井の主張は、明快である。能力主義の価値観を是認し、それを国家や社会の支配層と共有している限り、排除や差別は助長され正当化される。すなわち、個人が「自立」能力で生き延びるために自己中心的に生きることは、排除や差別する社会を自分自身が支えていることになる。そこで考えるべきは、現代社会の根底にある能力主義=業績承認の解体、である。
〇[1]におけるキーワードは、「個人化」、「能力の共同性」、「存在承認」である。それぞれの定義とそれに関する言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部語尾変換)。

個人化
私たちは、個人で稼いで個人で満たすという「勤労」概念に基づく個人化社会をつくった。生きていくためのニーズを満たすために、がんばって働き自分で稼ぐスタイルが前提となり、皆で分かち合う共同性は縮減した。環境や状況の劣悪は横に置き、「生きる上での困難」を乗り越えられないことを個人の問題に矮小化する傾向を「個人化」と呼ぶ(16ページ)。

能力の共同性
能力は個人が有する固有(単独)のものではない(私的所有物ではない:阪野)。能力は、他者や社会・文化によって、個のなかに共同的に培われているものであり、他者や環境とのかかわりという相互関係自体(能力の共同性)である(188ページ)。すなわち、能力とは、分かちもたれて現れたもの(互いに分かち合って共有するもの:阪野)であり、それゆえその力は関係的であり共同のものである。能力は個に還元できない(190ページ)。「共同」とは、個が「力を合わせる」「互いに助け合う」というものではなく、「いっしょにある」という意味合いであり、「私のなかにみんながいる」(189ページ)のである。

存在承認
現代社会を覆う能力主義は、「できること」(成果や業績)を承認する「業績承認」を意味する。それに対していま必要とされるのは、「在ること」(ありのまま)を承認する「存在承認」である。それは、自分自身を自分で承認し得る、「社会的状態」の構想である(187ページ)。すなわち、存在承認とは、「共同的なものを基底に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状態」(251ページ)をいう。

●現代の学校現場で、子どもは批判的に物事を考える機会を奪われている。必要なときに他者を頼ることは「依存」と見なされ、自助努力で生きることが大事だという価値観が教え込まれる。教育現場は、学力やコミュニケーション能力で人の価値が計られる能力主義によって貫かれ、自己責任という考え方を刷り込む場となっている。そこには、共に生きる社会や国の在り方を考えたり、能力主義によって正当化される経済格差をもたらす資本主義に疑問を持ったりする余地はない(12~13ページ)。

●学校や社会には「能力の高い人ほど優秀」というソフトな優生思想が浸透している(15ページ)。それによって生きづらさが生じ、社会的弱者がつくられ、自責他害が強まっている(206ページ)。また、凄惨(せいさん)な相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)を受けてもなお、自己責任や排除を生み出す能力主義に基づく教育を問い直す機運は高まらず、グローバル人材の育成という形でむしろ強化されている。他方で、子どもの状況に応じた多様な教育機会を確保するとして個別支援の流れが強まっている。それは、学校のありようを問い直さずに子どもの分断を正当化する(15ページ)。

●個別救済は、トラブルが起きてからの救済システムであり、それらを生み出す社会的なあり方をこそ、問う必要がある。個別救済だけでは、逆に現在の排除的な社会の原理や個人化を補完することになる(19ページ)。

●資本主義経済を基調とする日本の公教育制度は、教育を受けることを権利として保障し、その保障を通して教育における国家支配を実現していくような体制である。いいかえれば、「保障」を通して「支配」を実現し、「支配」を実現するために「保障」を行う教育体制である(岡村達雄)(111ページ)。

●リベラリズムは近代個人の自由や多様性を尊重するために、政治権力や世間から干渉されない個人の自由を重視した。すなわち、個人の自由が、個人化された自由に矮小化されてしまった。個人の自由にとって大切なのは、個人化されない自由である(20、21ページ)。

●能力主義が導く自己責任論は、本人の能力や努力に問題を矮小化し、社会が協働する意味や契機を奪っている。すなわち、能力が個に分断されることで、人々には共同性が見えにくくなっている。「地域との連携」がお題目のように叫ばれているが、連携をすればよいというわけではない。自己責任論を広げるような連携ならしない方がずっとましだ。また、自己責任論は、「自立支援」という名の下に「自立するなら支援する」という脅迫めいたメッセージを発している(60~63ページ)。「支援」は支配的要素を含む言葉でもある(59ページ)。

●「能力の共同性」は、多様な人々が力を合わせるという意味合いとは異なり、個に還元できない能力論である。「依存先を増やす」というような個人化された共同性は、いともたやすくネオリベラリズム(新自由主義。個人の選択や市場原理の重視)に利用される。「存在承認」は、あなたの存在を認めるよといった承認論ではない(261ページ)。共同的なものでしかありえない、個人化されていない存在のあり方である(251ページ。)

〇繰り返しになるが、桜井の主張は脱個人化と能力主義の解体である。それによって、「自由で平等な社会への書き換え」(257ページ)が可能となる。その際、桜井にあっては、新しいしくみを構築するのではなく、現在の社会を覆う個人化や能力主義に基づく仕組みや制度を「脱構築」(既存のものを問い直して一度解体し、新たなものに再構成)し、非資本主義的な生活様式による社会を構想することが肝要となる。そこに求められるのは、「能力が個人のものではなく、いつも共同ではたらいていて、競争をしなくても必要に応じて分かち合う論理」(252ページ)である。それは、「(存在承認の基で)生きていくための所得分配がフェアで、それぞれが自由に生き合うという世界」(262ページ)、「アナキズム(国家や市場の支配権力に向き合いながら、自分たちの問題を自分たちで解決す知恵・思想:阪野)のようなもので教育や福祉の世界を包囲する」(252ページ)社会をめざす。要するに、個々人の「能力に応じて」から「必要に応じて」への転換である。
〇なお、[1]のタイトルを「市民福祉教育は地域・社会をどう変えたのか」と読み替えると、汗顔の至りである。福祉教育は、子どもが自主的に、そして自由かつ平等に学ぶ場としての学校や学校教育の根源的・社会構造的な問題状況やその要因を厳しく問うてきたか。支配的な価値観のままに物事を承認し提案することは現状肯定につながるが、人間・社会の現実を主導する価値観やその枠組みにあてはめることに終始し、枠組みそのものを問うてこなかったのではないか。仮に桜井の言説に依拠するとすれば、個人化や能力主義、業績承認や存在承認などについて深く問うことなく、自立(自律)や連帯(共生)、まちづくりなどについて理念的・表層的に言及するだけではなかったか。それらを問うてこなかった「成果」は、資本主義システムにおける教育や福祉を下支えし、補完することにある。個人化や能力主義に基づく教育や福祉の拡大再生産(個人の自由と分断と多様化による管理・統治)である。
〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そのタイトルの意味するところは、「よりよくある」ための人間の「自立と連帯」「自律と共生」である。それは、桜井の言説によると、個人化に基づくものであり、個人モデルのそれであることになる。そこで筆者には、「自立と連帯」「自律と共生」を「個のもの」のままではなく、「共同のもの」「分かち合うもの」としていかに展望するかが問われることになる。その意味で、「私のなかにみんながいる」という桜井の言葉は重い。
〇「私のなかにみんながいる」は、「みんなのなかに私がいる みんなとともに私がいる」の基底あるいは前提に位置づくのであろうか。そう考える場合、それは、(必ずしも力を合わせるという要素はない)一緒に行う「共同」と相互作用の「共働」を含意する(分かち合う)ことになる。「共同と共働」に基づく「自立と連帯」「自律と共生」である。そしてそこには、アナキズムやコミュニズム(共同体主義)に基礎をおく社会像が構想される。

鳥居一頼/市民福祉教育研究所開設十周年を祝して

市民福祉教育研究所開設十周年を祝して

ひとりの男の ささやかなおもいは
十年の時を経て 6月25日メモリアルの日を迎える

福祉と教育への志を抱く者たちのおもいと重なり合い
いつか日本の福祉教育を支える研究所となった

ひとりの男の小さなつぶやきは
十年の時を隔てて 大きなつぶやきとなった

若き者たちが慕いつつ学ぶ場と機会となり
いつか福祉と教育を考え推し進める研究所となった

ひとりの男のちっぽけな願いは
十年の歳月を実現の道へと誘った

若き者たちの研究と実践への気運を高め
いつか福祉と教育を統合する研究所となる

ひとりの男の歩いた足跡は
十年の軌跡を鮮やかに残し続けた
ひとりの男から投げかけられた課題は
十年の重みとともに常に突きつけられる

若き者たちがその礎に新しき道標を立てる
いつか日本の福祉教育を熟成させる研究所にする

福祉教育に生きるひとりの男に導かれて
若き者たちよ
ひるまず果敢に時代を豊かに拓け
若き者たちよ
研究と実践を糧に次の時代を自由に語れ

それこそが男が求め続けた福祉教育への道なのだ

共同研究者/鳥居一頼

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」はアートであり、デザインである―東京藝大で “福祉”を学び、東大で “デザイン” を学ぶ―

〇筆者(阪野)の手もとに、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめた本がある。東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』(左右社、2022年1月。以下[1])と山中俊治著『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』(朝日出版社、2021年11月。以下[2] )がそれである。
〇[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート Χ 福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くのひとたちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。

アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)

被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)

アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)

ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)

対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)

〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、ひとびとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)

デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)

スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)

デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)

〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。

アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。

ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)

〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓くところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、そのひとがそのひとらしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。