もうひとつの「共生」:一人ひとりが大切にされ、「もろとも」の関係性で生きるということ―折戸えとな著『贈与と共生の経済倫理学』読後メモ―

有機農業によって自然と和解し、価格をつけない流通を成立させることによって貨幣の呪縛(じゅばく)から自由になる。それを実現させた一人の農民の営みを見ながら、本書は人間が自由に生きるための根源的な課題を提示している。(内山節:本書「帯」)

〇筆者(阪野)はいま、畑に作付けした夏野菜を収穫している。トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、トウモロコシ、オクラ、サヤインゲンなどである。夕食の食卓が賑(にぎ)わしい。有機栽培には程遠いが、土作りや肥料は牛糞堆肥と生ごみ発酵肥料、少しばかりの化学肥料、農薬は一切使っていない。そのせいか美味しい、そう思っている。ただ、トマトの元気が突然なくなったり(今年はとくに色づかない)、キュウリがびっくりするほど大きくなったり、トウモロコシを虫にご馳走したり、ナスのお礼肥(おれいごえ)を忘れたりと、いろいろである。別の畑では20輪ほどのヒマワリが、日照時間が少ない日々が続くなかでも、太陽に向かって伸びている(頑張っている)。
〇筆者(阪野)の手もとに、積読(つんどく)本の一冊であった、折戸えとな著『贈与と共生の経済倫理学―ポランニーで読み解く金子美登の実践と「お礼制」―』(ヘウレーカ、2019年1月。「本書」)がある。「贈与と共生」「お礼制」という言葉に興味・関心をもって購読したものである。
〇本書が事例として取り上げるのは有機農業運動である。有機農業運動は、「食と農を切り口として近代化、産業化、さらに国家主導の市場経済が牽引する経済合理性」(21ページ)へのひとつの抵抗運動である。この有機農業のモデル地域として注目されている“まち”に、埼玉県比企郡小川町(ひきぐんおがわまち)の下里(しもざと)地区がある。小川町は埼玉県中部に位置し、「和紙のふるさと」(「小川和紙」)としても有名な、人口約3万弱の町である。その下里地区における有機農業の取り組みに先進的・主導的な役割を果たしたのは、1971年に就農し、いま有機農業の第一人者と評される金子美登(かねこ よしのり)である。金子は、多くの消費者や地元の(農薬・化学肥料を使用する)慣行農家、企業経営者などとの「もろとも」(相共にすること)の関係性を重視しながら、「有機の里」霜里(しもさと)農場を営んでいる。
〇日本の有機農業運動では、生産者と消費者が直接農産物を流通させる方法を「提携」と呼ぶ。その「提携」のひとつの形態・手法として霜里農場で導入されたシステムに、「お礼制」と呼ばれるものがある。特筆される取り組みである。
〇「お礼制」は、「生産者と消費者が直接に関係を取り結び、両者が農産物の授受を行う仕組みのことをいう。基本的には農産物を『売買』するのではなく、生産者は農産物を消費者に贈与し、消費者側は各々の『こころざし』に基づいて農産物への『お礼』をする(おのおのがお礼の金額を考えて渡す)、ということから『お礼制』という名前がついている」(21ページ)。この方法は一般的な「提携」の方法ではなく、特異なものである。
〇「お礼制」とそのなかに埋め込まれている「もろとも」の関係性に関する重要な言葉が二つある。ひとつは、農場主の金子が折戸のインタビューに応えた言葉である。「『お礼制』に切り替えたことで精神的に安定し、百姓として人間的に開放されたみたい」(22ページ)。いまひとつは、福島第一原発事故に起因する放射能汚染問題が取り沙汰されるなかで、「お礼制」の消費者であった尾崎史苗が折戸のインタビューの際に語った言葉である。「心配は心配なんですけどね、金子さんのはね、“もろとも”と思いますよ」(24ページ)。金子に「人間的に開放された」と言わせた「お礼制」を解明し、尾崎に「もろとも」と言わせたその「関係性」の理論化を試みたのが本書である。
〇折戸は言う。市場原理主義の思想が「社会の非倫理化、社会的紐帯の解体、文化の俗悪化、そして人間関係自体の崩壊」(18ページ)などをもたらしている。その波は、近年「儲かる農業」「強い農業」などと喧伝(けんでん)される農業分野のみならず、「教育、医療など生活世界全体を覆う勢いで影響を及ぼし続けている」(18ページ)。「今人びとが生きる世界の中で『倫理』という言葉が盛んに使われるようになった」。それは、「他者をいたわり、自然への配慮を忘れずに、自分が属する社会のすべての構成員の幸福のために、責任を果たしつつ生きていくこと」を可能にするための規範として、「倫理」(「いかに生きるのか」「より善く生きるとは」)が模索されているからである(19ページ)。
〇このように説く折戸は、「お礼制」に内包されている「もろとも」の関係性の「倫理」的意味を考察する鍵概念として、「贈与」(互酬)と「共生」を用いる。「贈与」は「他者との関係性を豊かにすること」である。その際の「他者」とは、「私」以外の“人”と“自然”、「今」を生きるなかでの“過去”と“未来”などである。「共生」とは「もろとも」の関係性のなかで生きることである。その「もろとも」の関係性には、「自由・責任・信頼」が不可分に埋め込まれている。「自由」は能動的で自律的なそれ(別言すれば、消極的な「~からの自由」ではなく積極的な「~への自由」)であり、「責任」を担うことによってもたらされる。「責任」は「信頼」に報いることであり、「信頼」は「責任」を果たすための根本的な条件である。こうした「贈与」と「共生」には「覚悟」が必要である、と折戸は言う。
〇ここで、筆者が留意したい折戸の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(一部抜き書き。見出しは筆者)。

抵抗運動と「もろとも」の関係性
世界各地で大小多様な抵抗運動もまた活発化している。(中略)これらの人びとの動きは、多種多様に見えるが、その根底にある問題意識には共通点が見られる。人間の管理社会の広がりに対して自由、貧富の格差に対する平等、管理主義や全体主義に対して民主主義、恐怖や憎しみに対する相互扶助やケアといった生の根源に関わるテーマがその運動が問うている問題群である。(18ページ)
巨大システムの中で個が一括管理されていくような世界で、自然と不可分につながっている人間たちの尊厳をかけた(抵抗)運動は、私たちの生存と生きがい、生産と再生産、自由、責任、信頼にとってなくてはならない不可欠な要素なのである。その意味において、たとえすべての人が、生活全体を「もろとも」の関係性で構築することは不可能であったとしても、このような関係性のない世界では、私たちは生きることができないといっても過言ではないだろう。(335ページ)

「もろとも」の特性と「他者」
「もろとも」とは、端的にいえば「不可分性」を表する言葉である。不可分であるということは、あるものとあるものがつながっている状態を表しているが、「もろとも」とは、一体化、統一、統合ではなく、それぞれのかけがえのない唯一無二の「個」がまず存在し、それらは決して同質なものになることではないということを前提にしている。それゆえ、この「もろとも」の前提には、そもそも、一体化しえない、絶対的な外部、他者の存在が認識されなければならない。「もろとも」とは、言いかえれば別個のものが「つながりあい」、「重なりあう」状態を示しており、異なるものが融解し一つの物質のようになっている状態を表しているのではない。むしろ、決して混じりあうことのないもの同士が、その混じりあわない状態のまま、しかし、必要とされる者同士が「いかに共存するのか」ということを意味している。その意味において、「もろとも」とは「不可分性と相互補完性」の両方を併せもつ概念である。(300ページ)
他者という絶対に交わらない相手、理解できない相手を前提にしながら、相手をどう認識し、受け入れながら生きるのか。絶対的な他者の存在、その他者といかなる関係性を構築するのか、そのような関係性の構築のあり方が、(中略)「もろともの関係性」なのである。(301ページ)
時間においても、存在においても、他者とは絶対に内部化されない何か、もっと言えば決して内部化されてはならず、また私たちが容易に抹殺したり、消し去ったりすることができないなにものかとして、そこに「ある」。そして、その他者が「ある」こと(存在すること)によってのみ、自己は初めて成立できるという相互補完関係性が「もろとも」であり、その分かちがたい関係性は「もろとも」の不可分性である。この関係においては、他者は自己の存在の理由であり、条件となる。(301ページ)

「覚悟して受け入れること」と希望
(ポランニーの)resignation(覚悟して受け入れる)ということは、いかんともしがたいこの世の悲惨や社会の状況、例えば放射能汚染を単に受け身で受け入れて諦(あきら)めてしまうことでもなければ、それに順応し、何ごともなかったかのように思考停止して生きる道でもない。そのように私たち自身が何かを放棄してしまうこととは異なるのだ。その社会の現実を認識したうえで、受け入れなくてはいけないと一旦あきらめにも似た境地を通りながらも、なおかつ悪に対しては、否と言い続ける力をもち続け、より善き生き方を模索する人間の姿勢をいうのだろう。そこには、絶望ではなく、希望がなくてはいけない。ポランニーが「希望の源泉」という言葉を使ったのは、希望なきところには、そのような方向へ舵を切り、一歩を踏み出すことができないことを自らの第一次世界大戦の苦悩、そして第二次世界大戦の悲劇の中から学び取ったからであろう。覚悟して受け入れるとは、決して飼いならされて長いものに巻かれることではなく、絶望的な現実を認識しつつ、にもかかわらず、かすかであっても希望を捨てずに前進するという積極的な力の源泉となるのである。(328~329ページ)

〇本書は要するに、人間が「共に生きるとは何か」を問い、人間の「生の全体性を回復する」ためのひとつの「解」を有機農業の現場実践から提起したものである。その解は、市場原理主義が席巻(せっけん)する現代社会において、人びとに“希望”を与え、人びとを“元気”にする。
〇福祉(福祉教育)の世界ではいま、「地域共生社会」を実現するための「我が事・丸ごと」に関する実践や研究が流行(はや)りである。しかしそれらは、確固たる思想的・倫理的なバックボーンを持ち得ていない。それゆえに、社会保障費を抑制・削減するために国家責任を曖昧にしたまま、「地域生活課題」の解決に向けて自助・共助を強調し、地域社会や個人にその責任を負わせ、その「丸投げ」に加担することにもなる、といえば言い過ぎであろうか。「我が事・丸ごと」は、「もろとも」(自由・責任・信頼と共生)の視点・視座や考え方とは異なる。

補遺
「経済は社会のなかに埋め込まれている」(「埋め込み」概念)と説いたカール・ポランニー(Karl Polanyi、1886年~1964年)とその言説のごく一部を、若森みどり著『カール・ポランニーの経済学入門―ポスト新自由主義時代の思想―』(平凡社新書)平凡社、2015年8月、から紹介しておくことにする。

ポランニーは、19世紀的市場経済の行き詰まりから20世紀の激動の時代を生きた、ハンガリー出身の社会科学者(経済学・政治学・社会哲学。イギリスやアメリカで活躍:阪野)である。(中略)「社会における経済の位置」という視点から、市場社会の危機とファシズム台頭との関連や市場社会と人間の自由との関係を議論し、自由を効率の犠牲にしない産業社会の可能性を追究する著作を残している。(12ページ)

ポランニーは、歴史的、経済的、政治的、社会哲学的な深い洞察に基づく類例のない市場社会論を構築した。本書(若森)で詳しく取り上げる市場社会に関するポランニーの命題は、次の六つから構成される。
(1) 市場経済の拡大は人間の福祉と共同社会への脅威である。
(2) 市場経済の拡大がもたらす脅威に対して、さまざまな社会の自己防衛運動が動き出す。
(3) 市場経済は自然の産物ではなく政府の干渉によって構築された。
(4) 市場社会の許容する民主主義は制限されている。
(5) 市場社会が保障する平和は脆(もろ)い。
(6) 市場社会の自由は制限されている。(13ページ)

ポランニーは、経済を(1)人間と自然との相互作用の過程と(2)相互作用の制度化という二つの次元から把握する。「互酬・再分配・交換」は、人間と自然の相互作用の制度化の次元での分析概念として位置づけられており、この三つの分析概念は経済過程に安定性と統一性を与える「統合パターン」として定義される(互酬=集団や共同体における財・サービスの贈与、再分配=国家(中央)による財・サービスの取得と分配、交換=市場における自由な競争:阪野)。(207ページ)

ポランニーにとって真の自由とは、社会的自由である。それは、社会的存在としての人間は、自分と選択と行動が不可避的に引き起こす他者に対する影響の責任を引き受けることを通して自由でありうる、というもので、責任からの自由(逃走!)を支持することに無自覚な経済自由主義的な個人的自由の概念とは真っ向から対立する。(243~244ページ)