「老爺心お節介情報」第82号
〇春めいてきたかと思うと“寒の戻り”があったりして安定しない天候ですが、皆様にはお変わりありませんでしょうか。
〇私は、3月4日~6日まで佐賀県へ出張しました。佐賀県社会福祉協議会が推進しようと取り組んできた「ALLさがふくしネットワーク事業」のキックオフセミナーでした。和田敏明先生と一緒で、久しぶりにいろいろな話が出来ました。また、翌日は(3月5日)には、佐賀県社会福祉協議会の社会福祉研修センターの2026年度研修計画を審議する委員会に出席しました。
〇思い起こせば、佐賀県社会福祉協議会から“社会福祉協議会は生き残れるか”というテーマの講演依頼を頂いてから、9年間佐賀県社会福祉協議会及び県内社協への支援に関わってきました。
〇第1は、佐賀県からの委託もあって、県内社協職員の力量を高める「パワーアップゼミ」を行ってきました。内容的には、富山県社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会、秋田県社会福祉協議会、岩手県社会福祉協議会等で行っているコミュニティソーシャルワーク研修と同じです。
〇第2には、大阪府社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会が10年前(大阪府は老人福祉施設協議会のレスキュー-事業からは20周年)から取り組んでいる社会福祉施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会とが連携する協議会を立ち上げ、制度の谷間に陥りがちな問題の解決を協働で取り組んできた事業に学び、佐賀県社会福祉協議会としても同様の「ALLさがふくしネットワーク事業」を立ち上げることに取り組んできました。佐賀県のこの組織には民生・児童委員協議会も参画しています。
〇第3には、1990年頃まで、都道府県社会福祉協議会は社会福祉従事者の研修センターなどを運営してきましたが、社会福祉行政の分権化が進み、かつ福祉サービス利用者との契約による介護保険サービス、障害者サービス提供体制の下で、都道府県社会福祉協議会の社会福祉職員研修機能が弱体化している状況があります。そのような中、佐賀県社会福祉協議会でも社会福祉従事者の研修を強化することが必要だと、その強化に取り組んできました。
〇今後、高齢化がますます進み、人口減少も進む中で、労働力は減少していきます。そのような中、介護現場にリフトやロボット、あるいはICT等の福祉機器を導入して、介護の科学化、介護の魅力アップ、介護者の腰痛予防、とりわけ、サービス利用者支援の質の向上を図るためにも、福祉機器の導入が必要であり、そのための研修が欠かせません。
〇第4には、県内市町社協の体質改善、経営力強化を進めるための「常務理事、事務局長セミナー」を泊りがけで行ってきました
〇筆者は、このようなことを念頭に、佐賀県社会福祉協議会に関わる「関係人口」の一人として9年間関わってきました。3月4日~5日にかけて、密度の濃い会議、セミナーが展開され、漸くここまで来たかという安ど感と充実感に浸りました。
〇そのような経緯の一端は、佐賀県社会福祉協議会の地域福祉部まちづくり課の小松美佳課長が、その活動の一端を雑誌『コミュニティソーシャルワーク』33巻で書いていますのでご参照ください。
〇筆者は、このような「関係人口」の一人として長期に亘り、その活動を支援してきた県社会福祉協議会として香川県社会福祉協議会がある。現在、日下直和事務局長が事務局次長に就任する際、相談を受け、それ以来15年間香川県の通っている。
〇佐賀県と同じように、「ニーズ対応型社会福祉協議会」への取組、社会福祉協議会職員の実践研究発表会、常務・事務局長セミナー、コミュニティソーシャルワーク研修、社会福祉施設経営の社会福祉法人、民生・児童委員協議会との協働事業として「香川思いやりネットワーク」の設立などを行ってきた。
〇社会福祉系大学で教育・研究をしている教員は、このような「関係人口」としての関わりを構築し、提案型のコンサルテーションを行う必要があるのではないだろうか。
(2026年3月13日記)
「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➅
Ⅰ 1990年代前半―大学院開設・イギリス在外研究・高校福祉科の創設
〇1990年代前半は、筆者にとって充実した教育・研究活動を展開出来た時期であった。
〇1990年に筆者の母親と妻の母親が相次いで亡くなるという悲しい出来事があったが、教育・研究者としては悲願だった大学院を設置でき、大学院で院生を研究指導できる喜びは非常に大きなものであった。
〇 “大橋の研究は社会福祉プロパーの研究でない”と言われ続けていたのが、この時期には、日本社会福祉学会の公選理事に選出され、筆者の研究、実践が一定の評価を得られたと自信が持てるようになった時期であった。
➀日本社会事業大学の清瀬開学と大学院開設
〇日本社会事業大学は、清瀬住民の緑を守れという住民の反対運動(その後は、日本社会事業大学は落ち葉の管理をしろという苦情が寄せられる)にも合いながら、1989年4月に移転開学が実現した。
〇と同時に、大学の悲願であった大学院を修士課程、博士課程とも設置が認められ、開設された。
〇しかしながら、筆者は修士課程の教授としては認められたが、〇合教授としては認められなかった。したがって、大学院の講義はできるが、研究指導教員として学位を授与することができない。
〇その理由が、後日聞かされ愕然とした。その理由が、“大橋謙策の研究は社会福祉プロパーの研究でない“ということであった。地域福祉、福祉教育でそれなりの単著、編著書があるにも関わらず、その領域が社会福祉プロパーの研究でないと言われて本当に驚くとともに、社会福祉研究のあり方が変わらなければならないと思った。その審査委員は、関西の著名な社会福祉方法論の先生であった。
〇修士課程の設置後、4年を経過して、1992年に博士課程の設置を申請したが、その時には、筆者は博士課程の講義のみならず、研究指導できる〇合教授として認可された。
〇恩師の小川利夫先生は、筆者の記憶に間違いがなければ、名古屋大学で博士の学位を16人の院生に授与し、教え子で大学教員になった人は24名に上ると言っていたので、筆者としては「出藍の誉」ではないが、小川利夫先生より多い院生を育てなければと当時誓ったものである。結果として、日本社会事業大学大学院、東北福祉大学大学院において、修士課程の学位授与者が110名、博士課程の学位授与者が24名、大学教員として就職した院生が35名ほどになった。
〇日本社会事業大学の清瀬開学に当たって、厚生省から求められている全国の社会福祉系大学のモデルになるような教育・研究を進めるためには、全国の社会福祉法人の拠り所になるような存在にならなければならないし、かつ現場から信頼される社会福祉研究を推進する必要があると考え、開学に際し、全国の社会福祉法人に呼び掛けて志を同じくする方々に賛同して頂いて「日本社会事業大学を支える社会福祉法人の会」や「日本社会事業大学の後援会」、「日本社会事業大学学生の教育後援会」を設立したいと提案したが、“そんなものは作る必要がない”、”何かあれば厚生省が考えてくれる“という意見の下に却下された。それも一度ならず、理事長が変わっても二度も却下された。
〇清瀬開学に際して、日本社会事業大学の経営も、教育・研究も新たなステージに立つべきだと思ったが、“厚生省頼みの日本社会事業大学の親方日の丸の考え方”を打破できなかった。この親方日の丸体質は、教員にも、事務職員にもしみ込んでいて、新たな企画、提案に対する拒絶反応は大きかった。
〇せめてということで、清瀬を基盤にした社会福祉実習施設の会の組織化は認めて貰えたが、それとて学校法人は積極的ではなかった。
➁高校福祉科の創設と「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」
〇高校福祉科の設置は、1985年に出された「理科教育及び産業教育審議会」答申で、急速な高齢化の進展に対応した人材確保のために「高校福祉科」の設置が打ち出され、その具現化を図る委員会の委員長に、厚生省老人福祉課長の経歴がある、当時日本社会事業大学社会事業研究所教授に赴任されていた古瀬徹先生に文部省から打診があった話が、私のところにお鉢が回ってきて、結果として私が文部省初等中等教育局に設置された「福祉科についてー産業教育の改善に関する調査研究」の委員長に就任する。その調査研究は、ⅰ)福祉サービスに従事する人財の育成の確保と資質の向上、ⅱ)高校福祉科の設置の基本的考え方、ⅲ)福祉科の目標と教育内容、ⅳ)生徒の進路、ⅴ)福祉科の条件整備などについて調査研究し、答申をした(『福祉教育資料集』一番ケ瀬康子・大橋謙策編、光生館、1990年刊参照)。
〇この答申は、急速な高齢化を踏まえての介護従事者の養成という課題と当時、生徒数が減少していた高校家庭科の見直しとの両側面からの調査研究であった。
〇筆者は、この高校福祉科の設置に関わる調査研究以降、(イ)全国各地に設置されていく高校福祉科の教員たちと多様な関わりを持つことになる。(ロ)他方、通信制高校を運営していたNHK学園が社会福祉士の養成を通信で行うと同時に、高校福祉科を設置するということで関わりを持つようになり、その後NHK学園の理事を約十年間務めることになる。
〇高校福祉科の教員たちとのつながりは、淑徳大学で松崎泰子先生のゼミ生で、当時岩手県の特別支援学校の経歴をもつ岩手県立一関第二高校の矢幅清司先生が、松崎先生に紹介されて会いに来た。それが縁で、函館大妻女子高校の池田延巳先生、静岡・三島高校の松本寿子先生、岡谷・中央高校の保住芳美先生などとの交流が始まった。
〇高校福祉科の設置は認められたものの、教科書もない、教育方法も分からないという状況の中で、先に挙げた先生方の高校で筆者が社会福祉概論、障害者福祉、高齢者福祉などのモデル授業を公開で行った。
〇また、筆者が当時出演していたNHKのテレビ番組「シルバーシート」やラジオ番組「社会福祉セミナー」のテキストを母胎にして、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」を高校福祉科の教科目毎に刊行した。
〇NHKのラジオ番組の「社会福祉セミナー」を担当していたのは、東京大学教育学部の宮原誠一研究室の卒業生たちで、山口武さんや石原さんを始め、大変お世話になった。東大の宮原誠一研究室の多くはNHKに就職し、NHK放送文化研究所や教育番組を担当する部署に多く配属されていた。
〇その先輩たちからは、ラジオ番組の「社会福祉セミナー」の内容は、中学卒業生が読んで、聞いて分かる内容でなくては駄目だと厳しく教えられた。
〇そんなこともあり、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」は大変好評で、短期大学や四年制の福祉系大学でもテキストとして使われた。高校福祉科のテキストとして使用されたこともあって、発行部数は大変多かった。
〇高校福祉科は、1998年の理科教育及び産業教育審議会答申、同じく教育課程審議会答申を受けて、1999年に改訂された学習指導要領で高校の専門教科「福祉」として位置づけられる。この位置づけで、高校福祉科のテキストは「教科書」にとってかわられることになる。筆者も、中央法規から高校福祉科の教科書「社会福祉」を刊行したが、出版社は採算が取れないということで、改訂の時に撤退してしまう。教科書としての制約は多く、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」のようにはいかず、筆者から言えば面白みのない内容になってしまった。高校福祉科の教科書が出版されて以降も「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」は売れていたが、制度には勝てず消えていくことになる。
〇他方、NHK学園の関係では、NHK学園高校の教員だった伊藤由紀子先生が日本社会事業大学大学院の修士課程に学びに来る一方、日本社会事業大学大学院の修了者がNHK学園の通信教育課程に採用されるなど交流が深まった。中には、ルーテル大学大学院の修士課程で和田敏明先生や市川一宏先生などに指導を受けた牧野まゆみ先生等多くの先生との出会いができた。中でも、高校福祉科の教頭をされていた山本正興先生は本当に熱心に高校福祉科の充実にご尽力された。
〇そんな縁もあってか、筆者はNHK学園の理事に推挙され務めたが、NHKで行われる理事会では、沖縄県副知事をされた尚弘子先生(琉球国王尚泰王の第4王子尚順の6男、尚詮の妻、琉球大学名誉教授)などとの出逢いもあった。
〇NHK学園の通信制教育の教材として、『社会福祉概論』、『地域福祉論』等の教材を出版した。この出版物も大変好評を博した。
➂社会福祉行政の計画化と提案するコンサルテーション
〇日本の社会福祉行政は、1990年の「社会福祉8法改正」により大きな転換点を迎える。
〇1980年代末からの地方分権化の流れの中で、戦後一貫して行われてきた厚生省の中央集権的機関委任事務体制は改正され、生活保護制度を除く他の社会福祉関係法制は基本的に市町村主権主義に変わった。
〇他方、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」(通称ゴールドプラン)に代表されるように、高齢化に伴う介護人材の養成・確保は喫緊の課題でもあった。
〇そのような背景も、1990年には老人福祉法、老人保健法に基づき、全国の各市町村は市町村ごとの老人福祉計画、老人保健福祉計画を策定することが求められた(両者を一体的に考えて、一般的には「老人保健福祉計画」と称している)。
〇筆者が市町村自治体の地域福祉計画策定づくりに本格的に関わるのは1989年の東京都狛江市社会福祉協議会が東京都社会福祉協議会のモデル事業として「地域福祉計画」づくりを実施するに際し、筆者が委員長を務めたことからである。それ以前にも、栃木県足利市の地域福祉計画づくりを行ったことがあるが、1984年の全社協の『地域福祉計画―理論と方法』が刊行されたからは初めてである。
〇地域福祉計画づくりに関しては、以前書いた「その時の出逢い」④でも書いているので、それと重複しないような事項を書いておきたい。
〇狛江市社会福祉協議会の地域福祉計画づくりを推進している時、東京都福祉局長の諮問委員会としての地域福祉計画に関する検討会が設置されていた。三浦文夫先生が委員長で、和田敏明先生が事実上の起草委員として取りまとめられた『東京都における地域福祉推進計画の基本的あり方について』と題する報告書が1989年度末に出された。
〇この報告書は、都道府県が策定する地域福祉計画を「地域福祉推進計画」都市、市町村行政が策定する地域福祉に関する計画を「地域福祉計画」と称し、市町村社会福祉協議会が策定する民間の地域福祉に関する計画を「地域福祉活動計画」とするという提案をした。
〇東京都の検討会に三浦文夫先生、全社協(当時)の和田敏明先生が参加してのとりまとめなので、“地域福祉計画”という用語を巡って、日本地域福祉学会の中で混乱が起きてはいけなにので、日本地域福祉学会としては、“地域福祉計画”を巡る用語の使い方を東京都の報告書に倣って使用することにした。
〇1990年6月に、清瀬に移転開学した日本社会事業大学で第4回日本地域福祉学会が開催された。その折、実行委員会の事務局を務めた筆者は「『地域福祉計画』の到達点と現状及び課題」と題する論文を書いた(『日本地域福祉学会第4回大会 地域福祉計画の視点と課題―地域福祉計画関係資料集』所収)。この資料集は、全国各地の地方自治体で策定された地域福祉計画、地域福祉計画に関する論文、地域福祉計画に関する国等の審議会答申を収録したものであるが、筆者は地域福祉計画と称されるものの歴史的展開を整理した上で、今日的に求められている地域福祉計画基礎的指標とサービス・ミニマム設定の必要性を提起した。
〇東京都狛江市では1990年に策定することが法定化された地域福祉計画より早く、東京都狛江市社会福祉協議会が地域福祉計画づくりを進めた。いずれ、行政も計画づくりをせざるを得ないので、狛江市社会福祉協議会が進めた地域福祉計画づくりの委員会には、狛江市福祉事務所の所長にも参加頂き、行政との協働による地域福祉の推進を意識した。
〇また、単年度予算主義の行政にあって、計画に盛られた事業の財政的裏付けを担保する複数年の予算見積もり等できないと思いつつ、筆者たちは計画に盛られた事業に係る予算を積算し、福祉事務所所長を通して、狛江市の財政部長に計画に係る財政フレームを確保できるか打診するための詳細な積算資料を作り提出して、無理のない、絵空事にならない計画づくりを考えた。
〇地域住民のニーズを把握する際に、長廊下でなく、プライバシーをできるだけ守るという趣旨のもとに建築されたつづら折り階段の4階建ての集合住宅の都営住宅で、4階に住んでいる方々の生活の深刻さを教えられた。足腰が弱って、階段を上り下りできず、買い物などにも難儀すると同時に、訪問入浴の風呂桶がつづら折りの階段を上げられないということや、亡くなった際の棺桶が運び上げられないなどという状況に愕然とした記憶がある。これらの深刻さは、翌年の1990年に東京都東大和市の地域福祉計画づくりの際に、4階建ての同じような集合住宅に内風呂がないという状況にも愕然とした思いがある。
〇筆者は「その時の出逢い」④でも書いたが、当時、狛江市の他に、遠野市、目黒区、豊島区、東大和市などでも計画づくりにアドバイザー、策定委員会委員長として取り組んだ。
〇それ以外では、設置された委員会の委員長として関わった自治体もあるが、多くがシンクタンクの“餌食”になった計画づくりである。ある大きな自治体では2000万円の予算で、某シンクタンクに計画づくりを委託するが、そのシンクタンクは殆ど地域福祉に関する知識、知恵、策定方法を知らず、どこにでも通用するような計画書を作り上げていた。まさに自治体がシンクタンクの儲け仕事の“餌食”になっている様を見せつけられた。
〇1990年代は、老人保健福祉計画の策定の法定化に始まり、障害者福祉計画、子育て支援計画等社会福祉行政の計画化が進められた時代であった。
〇策定された計画の評価をどうするかが大きな研究課題だと考え、1990年代半ばに老人保健福祉計画の評価研究プロジェクトを立ち上げ、厚生省から助成金ももらい、調査研究をしたけれど評価の方法、評価の指標など計画の評価研究として体系的な研究成果は打ち出せなかった。
〇ただ、地域福祉の視点を踏まえた地域福祉計画策定の視点方法は、狛江市、遠野市、目黒区等の計画策定の実践を踏まえて確立できたと思っている。
〇筆者は、この一連の計画づくりを通して、新しい社会福祉の考え方である地域福祉の理念、それを実現するシステムや運営管理のアドミニストレーション、あるいは理念、システムを具現化できる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク機能について確信が持てるようになった。
〇各自治体の地域福祉に関する提言的コンサルテーションの必要性、住民参加による計画の進行管理の必要性を実感でき、各自治体に条例による「地域保健福祉審議会」等を設置してもらい、策定した軽悪の進行管理、自治体へのコンサルテーション機能を発揮してきた。
➃日本福祉学院の社会福祉士養成の通信教育のスクーリング
〇北海道で、社会福祉法人ノテ福祉会を経営して、デンマークなどのケアのあり方を日本に紹介、普及させようとしていた対馬徳昭・輝美夫妻が、日本福祉学院を設立し通学制の養成とともに、通信制の養成も始めることになった。
〇その相談相手になったのが、明治学院大学の秋山智久先生で、秋山先生の紹介で、筆者もその講師陣に加わることになった。
〇講師陣はその当時の日本社会福祉学界を代表する先生方であった。明治学院大学の福田垂穂先生、日本女子大学の佐藤進先生、同志社大学の岡本民夫先生、北星学園大学の忍博次先生などで、毎年8月に行われる、札幌のアンデルセン村でのスクーリングはそれはそれはとても楽しい出逢いと語らいの時であった。
〇8月のスクーリングの際には、対馬夫妻による豪勢な晩餐会が行われ、美味しいお酒と美味しい北海道の食材で舌つづみを打ちながら懇談を楽しんだ。
〇福田垂穂先生や佐藤進先生とは、同じゲストハウスで宿泊をしたということもあり、社会福祉の道へ進んだ契機や背景、研究上の苦労、研究のあり方など多くの教えを頂いた。
〇現在、筆者が活用している「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」も、このスクーリングのゼミナールの中で作り上げたものである。
〇日本福祉学院の通信教育の教務事務を担当していた澤伊三男先生や山下先生も、その後大学院を修了し、福祉教育の教鞭をとられる立場になられたことも嬉しい出逢いであった。
➄デンマーク、スウエーデン調査研究から社会福祉行政の地方分権化と住民参加を学ぶ
〇1980年代前半から、日本大学木下総長夫妻、三浦文夫先生、設計事務所経営の吉田隆之さん、中央法規出版の荘村多加志社長さんなどと、ヨーロッパへの調査研究が毎年のように行われた。大熊由紀子先生の『寝たきり老人のいる国、いない國』という本は、三浦先生などとのデンマークへの調査研究の成果として刊行された。
〇社会福祉法人ノテ福祉会の対馬夫妻が学ばれ、自分の経営する社会福祉施設をアンデルセン村と名付けて経営していることに大きな影響を与えている千葉忠夫先生ともこの時の調査研究で、2度ほど千葉忠夫先生が経営されている学校を訪問した。
〇他方、東京都の事業で「多摩の100年」記念事業が展開され、その一環で「多摩の今後の社会福祉のあり方」に関わる調査研究チームが結成され、筆者はその委員会の委員長を命じられた。当時、慶応大学で労働経済学を専攻していた清家篤先生(現・日本赤十字社社長、前全国社会福祉協議会会長)ともその時の出逢いである。この調査研究チームは、デンマークを中心に調査を行った。
〇これらの海外、とりわけデンマーク、スウエーデン、イギリス等への調査研究を通じて、在宅福祉サービスの内容、提供システム提供、ケアマネジメントの手法を始め、社会福祉の分権化の考え方、システムについて多くの示唆を得た。
〇1987年に書いた論文では、いまだケアマネジメントという用語は使われておらず、筆者はサービスパッケージという用語で、ケアマネジメントの手法を表現したが、1990年代にはいってからはケアマネジメントという用語を使用している。
〇筆者が考えるケアマネジメントの内容は、要援護の人の個別支援方針の立案を本人の願い、希望、求めと専門職が必要と考え、判断した事項を相互に出し合い、両者の合意に基づき行い、それを基に必要なケアプランを作成する営みだけでなく、それらのケアマネジメントを展開できるシステムの構築までも視野に入れて考えている。ケアマネジメントの理念を具現化できるシステムの重要性についてはデンマークの調査研究で気づかされ、スウエーデンでそのシステムの実証性を確認できた。
〇後述するイギリス在外研究期間中に、鹿児島経済大学の郷地二三子先生(日本社会事業大学の先輩、全国社会福祉協議会職員からの転身)の紹介で、スウエーデンのストックホルム郊外の集合住宅に住んでいる馬場博・シャスティーン夫妻の家にホームステイさせて頂いた(馬場夫妻は翌年、日本に来日し、我が家で1週間ホームステイをして、いくつかの社会福祉施設などを訪問していった)。馬場夫妻はストックホルムの社会福祉職員として働きながら、日本からの視察団のお世話をしてくれている夫妻で、その家にホームステイしながらスウエーデンの社会福祉の分権化とケアマネジメントのシステムを勉強した。
〇1980年代からの数度に亘る調査研究で、ストックホルムやマルメといった都市部のシステムは学んでいたので、小さな村のシステムを学びたいと馬場さんに頼んで北極圏にあるビュルホルムコンミューンを視察できた。ストックホルムから特急列車で10時間、駅を降りてから高速道路を3時間走って着いたビュルホルムコンミューンは人口3000人の村であるが、広大な村域なので、それを3つの圏域に分けて、個別支援のケアマネジメントとそれが可能になるシステムを実現していた。
〇これらを参考にして、筆者は長野県茅野市の保健福祉サービスセンター(2006年に介護保険法で位置づけられた地域包括支援センターの原型)等の地域福祉のシステムのあり方を深めていった。
〇その際、1974年に制定されたデンマークの生活支援法や1982年に制定されたスウエーデンの社会サービス法に学ぶことは多かった。
➅イギリス在外研究と「行政の福祉化」による「福祉はまちづくり」への展開
〇日本社会事業大学には教員の在外研究制度、及びサバティカル制度がなかった。大学の清瀬移転整備計画の中で「在外研究制度」の創設を盛り込み、其の制度適用第1号として、1992年3月末に日本を発ち、イギリスに渡った。
〇イギリスでは、一般的な「在外研究制度」なら、どこかの大学に研究員としての席を置いて研究するのであろうが、筆者敢えてそれをしなかった。ロンドンのケンジントン&チェルシー区の長期滞在用ホテルを借り、下記のように自由に研究をさせて頂いた。
〇イギリス滞在中、何をしていたかの報告書はいずれ帰国後に「出張復命書」らしきものを出すのであろうが、それでは記憶も定かでないであろうし、イギリス滞在中の状況を大学に報告するのも“義務”だと思い、某作家にちなんだわけではないが、「ロンドン便り」を不定期だけれど発行することにした。そのためもあって、日本から印刷機能付き携帯用のワードプロセッセーを持参した。
〇イギリス在外研究では、以下のような項目を意識して調査研究を行った。
ⅰ)政府刊行物センターの訪問と各種法律改正の概要の研究
〇政府刊行物センターにはよく通い、イギリスの各法律の改正状況のウオッチングに努めた。
〇中でも、戦後分立していた児童福祉関係の法制度を一元化する1989年の「Children Act」の制定、1601年に制定され、1960年に新しく法律になった「Charities Act」の1990年の改正、1989年の「Housing Act」、1990年の「National Health Service & Community Care Act」については、その概要を翻訳した。この法律を通して、日本との違いをいろいろな点で実感させられた。
〇私は、在外研究期間中ではなかったが、イギリスの調査研究の際に、B&Bというイギリス特有の宿泊法を活用したが、これがピンからキリまでで、中に駅前にあるB&Bは、まるで兵隊の宿舎のようなところで、イギリステクドヤではないかと思われるところにも宿泊したが、これは「Housing Act」によれば「ホームレス」ということになる。
〇「Housing Act」によれば、狭隘な住宅、衛生上不潔な環境の住宅等が「ホームレス」に該当しており、イギリス的に言えば、日本の“ワンルームマンション”に住んでいる人は「ホームレス」に該当することになる。公園などで生活している人だけが「ホームレス」ではない。
〇「Children Act」では、児童虐待などを起こしている家庭の支援をする場合、親子分離をさせるのではなく、その親子をChildren Centerの近くのアパートに移住させ、頻繁に家庭訪問して親子関係の持ち方、家政管理能力や生活技術能力を高める支援の実践を見聞きさせて頂いた。
〇「National Health Service & Community Care Act」では、重い障害を有していても、かつ言語的意思表明ができない人でも、画や写真を活用して、これから行う活動、作業への理解を深め、それに関して本人の意思を確認する作業が丁寧にされていたのを見聞し、日本とのギャップに驚いたものである。
ⅱ)ケンジントン&チェルシー区の2か所スペシャルパッチの訪問
〇イギリス在外研究で調査したいと思った点の一つは、1982年に出された「バー
クレイ報告」で、なぜ多数派と少数派とに意見が分かれたことを調べたいとおもったことである。
〇バークレイを代表とする多数派の考え方はケンジントン&チェルシー区で調査研究することにし、ハドレイを代表とする考え方の実践はイズリントン区で行うことにした。
〇イズリントン区の区長は、労働党で、住民も均一的な中産所得階層が多く住んでいる地域である。筆者はイズリントン区(当時人口26万人で24地区(パッチ)に分けて、3か月に1回、夜開かれる“直接民主主義的な形態の住民集会”に2度参加した。そこには、多くの分野の行政の職員、警察官、生活保護担当の職員などの福祉行政職員が出席し、住民たちと活発な論議をしていた。このような直接民主主義的な住民集会が行えるのも、住民の生活がある意味、均質的だからできるのであろうと理解した。だからこそ、住民の行政との協働という考え方を強く打ち出した少数派の意見を取りまとめられたと思っている。
〇一方、多数派の拠点のケンジントン&チェルシー区の区長は保守党の区長で、区内の住民の貧富の格差は大変なものである。広大な式の中に、プライベートの、歩道つき、並木付きの自動車道路が通っているマンション(日本のマンションのイメージは貧弱すぎる)群などもあるかと思えば、イギリスにはほとんど見られない高層の集合住宅があるスペシャルパッチもある区である。
〇一つのスペシャルパッチは、病院を退院してきた精神障害者やHIV感染者等が多く住んでいる集合住宅、もう一つのスペシャルパッチは、海外からの移民が多く住んでいる地域で、小路を越えるとお店で売っている物、話をしている言語が全く違うといった具合に、多民族が密集している地域である。
〇前者のスペシャルパッチの中にロンドン・ライトハウスに、ケンジントン&チェルシー区ボランティアセンターの所長に連れられて行ったが、そこは視覚障碍者のセンターではなく、エイズ患者、HIV感染者支援の拠点施設であった。ランチをご馳走してくれるというので、ご馳走になったが、食後今食べたランチを造っているのは、HIV感染者たちだと言われ、正直驚いた。
〇このスペシャルパッチには、70名を超える行政職員のソーシャルワーカーが配属されていて、個別支援をしているという。
〇他方のスペシャルパッチには、コミュニティセンターがあり、そこでは英語の習得やイギリス的生活習慣、生活技術を学んだり、自分の生活の改善や手に職を得るためのミシンを使っての縫製の講習など、アメリカのシカゴのセツルメントハウス・ハルハウスもそうだったと言われる実践をしていた。そこでは、ソーシャルワーカーというよりもソーシャルエヂュケーターと言われる職員が頑張っていた。
〇ケンジントン&チェルシー区では、ホスピス病院にも時々訪ねていたが、入院患者は在院期間が2~3週間という患者たちなのに、私がいくと“イギリス生活をエンジョイしているか”と逆に励まされる文化に違いに驚いた。そのホスピスのお風呂には壁がカラフルな絵で飾られているし、ボランティアも人間だけでなく、犬も登録(大型犬、小型犬、雄、雌等30種類くらいの犬が登録されていた)されている等、日本の福祉文化、ボランティア活動との違いを痛感させられた。
〇また、ケンジントン&チェルシー区のボランティアセンターに、脊椎損傷で電動車いすを使用している障がいのある方が、自分の口にパソコンのキ-ボードを打つ棒をくわえ、センターの書類を作成するボランティア活動をしていることに、自分の社会福祉の捉え方が如何に狭いか、貧弱であることかと思い知らされた。
〇ロンドン滞在中に、「イギリス5000万人のボランティア」という本を購入し、目を通したが、イギリスでは8700万人の人口規模で5000万人の人がボランティア活動をしている。そのうち、一番多いのは金銭ボランティアで、中でも亡くなった方の遺贈が多いことを学んだ。のちに、京都大学の金沢周作先生が書いた『イギリス近代とチャリティ』という本を読んで、歴史的に作られた文化を再認識した。
〇筆者は、1900年に雨宮時枝先生が財政学の分野からの視点で書いた論文で、イギリスで1601年に「慈善信託法」が制定されていることを知り、自分の勉学、研究の狭隘さと学問の奥の深さを思い知らされたことがあった。のち、この「慈善信託法」については、東北大学から日本社会事業大学の大学院へ進学してきた松山毅さんに研究するように勧め、松山さんはそれを博士論文でまとめた(単著として刊行されていないのが残念ある。この論文の抄録が損保ジャパンの社会福祉文献賞の論文部門で受賞したのは嬉しかった)。
ⅲ)この他、ロンドンの西北部にある区(名前を失念、調べて分かれば後日修正)を訪問した際、区長直属の車いすの職員を紹介された。その方は、尊くの政策行政に対して、障害者の目線から「合理的配慮」がされているかをチェックし、されていなければ修正を求める権限を有しているという。
〇われわれは、意識して差別や偏見をすることはあまりなくなったが、自らの生活史の中で作られた生活文化はやはり“健常者の目線”であり、“合理的配慮”をしきれていない場合が多い。その点を障害者の立場からチェックする権限を持っているということに驚かされた。
〇この考え方を基に、帰国後行われた日本社会事業大学の講演の中で、筆者は「行政の福祉化」が必要であると述べた。
〇地域での自立生活ができるようにしていくためには、保健福祉行政の分野のみならず、建設行政においても、市民生活行政においても、清掃行政においてもあらゆる行政部門で、障害者や高齢者に対しての“合理的配慮”がなされなければ地域福祉の理念は具現化しないことを述べた。
➆[ふれあいの街づくり事業」――1990年委員会
〇1990年に、厚生省保護課の主管で「生活支援事業研究会」が設置された。その当時の保護課長は炭谷茂さんで、1980年代にイギリス大使館へ出向していた。筆者も、イギリスへの調査研究で訪ねた際にはロンドンでお会いしている。当時は、法政大学の大山博先生も法政大学の在外研究でイギリスに行っており、炭谷茂さんとも面識がある中であった。
〇その「生活支援事業研究会」の委員に大山博先生共々選ばれ、筆者が座長を務めることになった。
〇大山博先生とは、1960年代末から、小川政亮先生、東京都立大学の籾井常喜先生、早稲田大学の沼田先生等との社会保障法研究会のメンバーの若手として、金沢大学の井上英晴先生などと一緒に研究していた仲間だった。
〇「生活支援事業研究会」は、1990年8月に、中間報告として「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」を出す。
〇そこでは、生活支援地域福祉事業の必要性として、イ)社会構造の大きな変化、ロ)生活者としての個人や家族の自立能力、生活能力の弱体化、ハ)家族、地縁、地縁等の相互扶助や問題解決能力の減衰化あるとして、従来の制度だけでは解決できない課題として(ⅰ)社会的孤立の問題、(ⅱ)疾病問題への日常生活上のケアの必要性、(ⅲ)登校拒否児生活管理能力がない課程内での問題、(ⅳ)生活管理能力の問題、(ⅴ)外国人の問題等掲げ、それらの課題を解決するためには、(A)ニーズの積極的把握、(B)家族や地域社会全体を捉えたコミュニティソーシャルワークの必要性、(C)社会福祉各制度相互間等の連携・調整によるサービスの総合化の必要性を提起した。
〇これは、まさに今日の政策である地域共生社会政策、とりわけ重層的支援体制整備事業の先取りであり、今日の政策の前史ともいえ報告書の内容である。
〇この報告書に基づき、1990年度中にこの報告書の考え方をどう具現化するかということでモデル補助事業が行われた。福祉事務所、保健所、社会福祉協議会などでモデル事業が行われた。その際の研究補助者として宮城孝先生が参加してくれた。
〇モデル授業では、富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美事務局長が、多重債務者の支援において身を挺してローン関係者と交渉してくれたりといった実践が評価され、これらの事業を展開する組織、機関として市町村社会福祉協議会がふさわしいのではないかと判断され、1991年度から「ふれあいの街づくり事業」という大型補助金による事業が展開されることになる。
〇「ふれあいの街づくり事業」が全国で展開され、報告書の理念、目的が実現していけば社会福祉界は変わり、地域福祉の時代がくると思って期待していたが、残念ながら私にとっては期待外れであった。
〇社会福祉協議会関係者サイドから言えば、この補助金で社会福祉協議会は大きく変わったという評価をしているが、委員会の座長を務めた立場からは残念であった。
〇コミュニティソーシャルワークという機能の具現化には、改めて1990年代後半から取り組むか、福祉サービスの総合化という考え方は地域共生社会政策、重層的支援体制整備事業が出てくるまで進まなかった。
➇日本社会福祉学会の公選理事として会員800名の関東部会の運営
〇1990年の社会福祉学会理事選挙で、公選理事に当選した(2基連続選ばれ、1996年10月まで務める)。
〇恩師の小川利夫先生からは「社会福祉と社会教育の学際的研究」をするのなら、その各々の学会に置いて、会員による理事選挙で選出される公選理事にならなければ、あなたの研究が社会的評価を得たことにならないと常に戒められ、学際研究を口実にして逃げてはならないと言われてきた。
〇日本社会教育学会では30歳代から理事に選ばれ、1992年からは常任理事として2年間務めていたが、日本社会福祉学会では“大橋謙策の研究は、社会福祉プロパーの研究でない”と言われ続けていただけに嬉しかったし、漸く社会福祉学界でも大橋謙策の存在が認められたと安どしたことを覚えている。当時、珍しく、小川利夫先生から評価されたことが嬉しかった。
〇理事会では、関東部会の運営を仰せつかり、会員800名余の部会の運営、経理等一人で担当することになった。当時の日本理事会の会長は一番ケ瀬康子先生だった。
〇関東部会の担当理事の前任者(某有名な社会福祉研究者)に引継ぎをお願いしても一向に会計の決算書が出てこない。督促をしてもなしの礫で、やむを得ず、前年までの活動報告、決算書の公表はできないまま、新たな年度からの事業計画、会計を始めた。
〇私が最初に始めたのは、日本社会事業学校連盟の事務局長に就任した時と同じで、「日本社会福祉学会関東部会」の会報を出し、会員に情報提供を徹底化することであった。その当時、日本社会福祉学会自体、ニュースを発行できていなくて、それは私が日本社会福祉学会の2回目の公選理事(この時の会長は阿部志郎先生が選出され、私が事務局を担った)に選ばれ、事務局長に就任した1993年からである。
〇1991年の関東部会のシンポジュウムで、「ケースマネジメントとケアマネジメント」というタイトルで論議を行ったことが思い出される。
(2026年3月13日記)




