阪野 貢 のすべての投稿

おこぼれ

三億円余もの おこぼれ
世の中に にぎわいをもたらした
おこぼれにあずかった 人たちは
バレなければ それはそれですまそうと もくろんだ
税務署のお手柄で 白日の下にさらされた

菓子折の下にも 大枚のおこぼれあった
会社に おこぼれを置いとけないから
家に持ち帰って いつか返そうと保管した

言い訳三昧
もらったのではなく あずかった
もらったのではなく 強引に手渡された
おこぼれは 社会通念上許される 儀礼の範疇
おこぼれは 誰でももらっているではないか
悪いことしたなんて これぽっちも思っていない
おこぼれは 心付け
おこぼれは おすそわけ
おこぼれは 賄賂ではない
渡した奴のせいで こんなことになってしまったと
死人に口なし 責任おっかぶせて 一件落着を試みる
関西電力トップの記者会見
詭弁を弄した会見原稿 書いた裏方 すごいの一言 
そのせこさ 見事です

おこぼれに群がる 
利権をあさる人たちは
私利私欲の 権化たち
恥も外聞もなく 公然と正当性を主張する
おこぼれは 発覚しだいに返却すれば なかったことに
政界ルールが適用されて 問題なし
   
政界も経済界も おこぼれもらいに 日常茶飯事 列をなす
社会のルール遵守はあってない 横入りも許される
無法地帯化する一方の 国を挙げての おこぼれ争奪戦
民は 安いビール片手に 観戦するが
この勝負 ノーサイドの笛は 決して吹かれない 
かくある世界は 閻魔様でも裁けない ジャッジ不要の黄泉国

開催中のラグビーワールドカップ
ノーサイドの清々しさに 国民こぞって感動する
耳を掩(おお)い手鈴を盗んで おられる方々
そのおこぼれこそ 是非いただいてください
世界のラガーマンからの 慎ましいメッセージです

いま 届きました! 
関電トップ総辞任です
政界も 政府も 他人事にしてはなりません
お金だけの問題では ありません
未来を担う子らに恥じぬ 生き方を示してください
それが 宇宙一点に 今を生きる
私たちの一人ひとりの 
いのちを輝かす 真摯な生き様となるのです
 
※耳を掩い手鈴を盗む:自分の罪悪が人に知られないようにと思っても、すぐに知られてしまうことのたとえ。良心に背くことを知りつつあえてすることのたとえ。

〔2019年10月6日書き下ろすが、9日夕方の一報で追記。スポーツの嘘偽りのない真剣勝負は、深い感動をもたらす。私利私欲に憑かれた人間たちの臭気に満ちた世界に、爽快な風がいま吹いた!次は誰だ!〕

付記
関電、会長・社長ら幹部大量辞任へ 政府や株主の批判で
関西電力は9日、八木誠会長と岩根茂樹社長が辞任すると発表した。トップ2人を含む役員ら20人が、高浜原発がある福井県高浜町の元助役(故人)から多額の金品を受け取っていた問題の責任をとる。八木氏は同日付で辞任し、岩根氏は今回の問題に関する第三者委員会が年内に再調査の結果をまとめた段階で辞任する。
八木氏は同日午後に大阪市内で開いた記者会見の冒頭で「立地地域や社会の皆さまからの信頼を失墜し、誠に申し訳ない。経営責任を明確にするために辞任する」とおわびした。八木氏は関西経済連合会の副会長も辞任する意向。岩根氏は大手10社でつくる電気事業連合会の会長を同日付で辞任した。電事連会長の後任は、中部電力の勝野哲社長を軸に調整するとみられる。
トップ2人のほかに、約4千万円分を受け取っていた関電の原子力部門トップの森中郁雄副社長をはじめ、常務執行役員の右城望氏、鈴木聡氏、大塚茂樹氏も9日付で退く。豊松秀己元副社長は同日付で非常勤嘱託になる。
八木氏らは当初、続投に意欲を示していたが、政府や筆頭株主の大阪市などからの批判を受けて決断した。(朝日新聞デジタル版 2019年10月9日15時54分)

菓子箱から小判…なんの問題もない/政界地獄耳
▼ 関西電力の原発関連の役員らが福井県高浜町の元助役らから多額の金品を受け取っていた問題は、関電の中でも原発事業とは別の部門の幹部も受領していたことが分かった。また福井選出の自民党幹事長代理・稲田朋美や県警幹部などにも元助役はまんべんなく原発マネーを振る舞っていたことになる。慌てた東京電力など全国の電力各社は自社でも同様な案件はないか点検したといい、東京電力は役員らを対象に聞き取り調査をし、全員が「儀礼の範囲を超える金品は受け取っていない」と回答したという。
▼ おかしな話だ。関西電力も儀礼の範囲といい、菓子箱の下から小判が出て来たり、スーツのお仕立券50万円は受け取っている。関電の監査役会は「(金品受領に)不適切な部分はあるが、違法でないので、報告書はおおむね妥当」と結論づけ、取締役会に議題として諮ることはしなかったという。つまり不適切だが違法ではないという妙な理屈が電力会社全体を覆っているのか、原発マネーは儀礼の範囲内の金品どころではない。このくらいは儀礼として受け取ってもいいというコンプライアンスのなさは国策を推進しているのだから、いいことをしているのだから問題ないという理屈につながる。社会の常識や儀礼の意味をすでにはき違えているのではないか。
▼ 稲田は元助役が筆頭株主とされ取締役を務めていた警備会社「オーイング」と、その関連会社の「アイビックス」から献金を受けていた。政界関係者が言う。「『稲田の面倒を見てやってほしい』と同社側に頼んだのは福井選出の元参議院議長・山崎正昭だ」。稲田出馬に自民党全体が動いた結果だ。政治資金として適切に処理しているというのなら返金する必要はない。ところが自民党の最近のルールは「返せば問題ない」と、なかったことにできるというもの。稲田は前のめりに勇み足になって返金を口走り自爆した格好だ。「会ったこともない」「面識はない」は森友学園の時の逃げ口上と同じだ。でも安心してほしい。野党、ことに電力労組の支援を受ける国民民主党などは本気で追及などしない。やってる感は見せるが、自民党と組んでうまくうやむやにするし、野党共闘にも否定的なはずだ。「なんの問題もない」。(K)※敬称略(日刊スポーツ電子版 2019年10月7日)

人間ではない

新任で赴任したのは
洞爺湖畔の 壮瞥町仲洞爺小学校だった
秋 町内の先生方数人と 函館まで視察研修に参加した
学校視察を終えて 夕食は市内の居酒屋で呑んだ
新米はカウンターの隅に座り 先輩諸氏の話を聞いていた
酒の酔いもまわらぬうちに 初対面だった隣の教員が突然
「お前は教師でもない 人間でもない」
と 猛烈に非難し始めた
そばにいた 他校の校長も教員も
その暴言を止めることなく なすがままに放置した
さらに 追い打ちをかける 
「校長になりたいのか お前がなれるわけはない」

大学闘争も経験してきた 血気盛んな新米は 
卑劣な口撃に はらわたが煮えくり返り 怒り心頭に発した
しかし じっと我慢した
義憤を感じたこの瞬間 これからの我が道を 悟った
教員人生を 決定づけた場となった
だから 感謝しよう

朝 酔いが覚めた当の教員は 悪びれる様子はない 
謝罪する気はさらさらなく 平然としていた
酔ったが先の無礼講と 怒りをぶつけたことは明確だ
弁解無用 酩酊などしてはいなかった

なぜ そこまで罵倒されたのか
昭和40年代後半 待遇改善をスローガンに
北海道教職員組合は 全道で公然とストライキを打った
壮瞥町のスト参加率は 100%
一般教員のすべてが 参加していた
新卒ひとりが 組合に加入しなかったために
スト参加率は 落ちた
非組合員の存在そのものが 許せなかった
組合運動への 否定的な存在は 排除以外何ものでもなかった
北海道教職員組合の運動は 全国的にも過激だった
「3年で立派な組合員を育てる」
と豪語する先輩諸氏
「管理職は組合推薦がなければなれない」
圧倒的に非組合員が少ない時代 組合への誘い文句だった 
だから 加入しなかった

組織は 個人を統括する
教条主義的な運動論も 全体主義的な思想統制も
決して受け入れることは できなかった
学生運動で唯一学んだことは 個人の自己決定を尊重する生き方だった
集団の色に染められることへの 拒絶と回避
同質の考え方や団体行動を強要されることへの 徹底抗戦
仲間内の仲良しごっこ的不気味さからの 完全逃避
実力もなく寄らば大樹の陰的な生き方の 全面否定
空気を読み世渡りする卑屈さは 断固拒否

闘いは 峻烈だった
黙らせるには 実践を積み上げるしかなかった
1年目の成果は 結実する
翌年3月末 胆振教育局が 新規採用した教員へのレセプションに
一年先輩として挨拶するよう 招聘した
「子どもに好かれたいという 受け身の教師ではなく 
子どもを 積極的に愛する教師に なってほしい」
いまもそのおもいは 変わらない

「お前は教師でもない 人間でもない」
ここが 教師のスタートラインだった
いつの日か 敵愾心は自戒心へと 上書きされていった

〔2019年10月6日書き下ろし。この日は父の19回忌。一介の肉体労働者だった父の一途さは、DNAとして確かに引き継がれていた。それが素直に嬉しい〕

戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―

最近、戦争が始まる “臭い” がする / あんた、戦争を知ってるか / 気をつけなよ / もうこりごりだからな

〇筆者(阪野)が、「愛国」や「愛国心」についていま改めて考えなければならないと思ったきっかけは、要介護高齢者(女性)の、痛みに耐えるようなこの“うめき声”である。そして、彼女はいつも、自分が生まれ育った「里」のことを心配している。
〇筆者の手もとに、将基面貴巳(しょうぎめん たかし/ニュージーランド・オタゴ大学教授/政治思想史専攻)の処女作である『反「暴君」の思想史』(平凡社、2002年3月。以下[1])と、新刊本である『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房、2019年8月。以下[2])と『愛国の構造』(岩波書店、2019年7月。以下[3])の3冊がある。
〇[1]は、「現代日本は『暴政』への道を歩んでいるのではないか。そんな想念がこのごろしきりに脳裏をよぎる」(10ページ)という書き出しで始まる。「このごろ」とは、バブル崩壊(1991年3月~1993年10月)後10年余が経過し、小泉純一郎内閣(2001年4月~2006年9月)によって「規制緩和」や「構造改革」という名の新自由主義的政策が推進された時代であろう。
〇[1]は、「危機的様相を日ごとに深める祖国(日本)を念頭におきつつ、政治をいかに監視すべきか。不正な権力にはどのように抵抗すべきか」(232ページ)について真正面からとり上げたものである。そこにおいて、将基面は、「共通善」思想に立脚する「国民社会」の建設の必要性を説く。「共通善」(common good)とは、「社会や国家など政治共同体全体にとっての善のことを指し、ある特定の個人や集団にとっての善とは明確に区別されるものである」(10ページ)。その「共通善」の実現に国民は、直接的な責任を持たない。「それは権力担当者が引き受けるべき責務である」(35ページ)。「暴政」とは、「ある一部の権力者や権力がひいきにする特定の集団が利益を享受することを目的とする政治のことである」(10ページ)。
〇将基面は言う。「共通善思想が浸透した社会では、国民一人ひとりが、国民全体の理想と利益に対して責任を負っていることを自覚し、そうした共通の理想と利益を一人ひとりがおのおのの立場から不断に探求する。また、権力が不正を働いていることを知るならば、これを公の場ではっきりと批判し、たとえ一人であっても不正権力に立ち向かう個人がいれば、その人を『社会』」(特に社会の木鐸〈ぼくたく。指導者〉たるジャーナリズム)が援護する。権力に擦(す)り寄り、既得権益にしがみ付いてはなれようとしない者や、反社会的なビジネスを行う者や組織を公の場で批判し、たとえそうした行為が自ら目的にかない、自分の利益になるとしても、自らは手を出さないよう、自身をコントロールする」(232~233ページ)。このような倫理的感覚・態度をもつ人々が、日本という国家権力に対峙する存在としての「国民社会」を探求し創出することが、現代日本に求められる。将基面の主張のひとつである。
〇国家権力は、被治者を統制・強制する。「いざとなれば、自国民に対してさえ銃口を向け、私有財産を没収し、個人のあらゆる権利と自由を侵害しうる存在である」(39ページ)。国民はこのことを十分に認識し、国民社会の理想像の創出を権力担当者に一切任せてはならない。国民は、一人ひとりが「共通善」を不断に追求し、政治に対する関心を強め、権力を厳重に監視する。そして、正当性や妥当性を欠く場合には、権力に抵抗の意思を明示しなければならない。それは、「国民各自が自分の良心の問題として、悩み、決断すべき問題」(39ページ)であり、国民の倫理的義務である、と将基面は言う。
〇こうした将基面の言説は、「反時代的」(234ページ)なものであり、その底流に流れるのは以下に述べる「共和主義的パトリオティズム」の思想である。
〇[2]は、「日本人なら日本を愛するのは当然であり、自然である」という単純な社会通念に対して歴史的・哲学的に批判する、中学生でも理解できる平易な「教科書」である。内容的には、通俗的な「愛国心」や「愛国心教育」に関する言説への「解毒剤」(将基面)としての効能が期待される。別言すれば、日本の長所ばかりを見て欠点を見ようとしない「日本バカ」(65ページ)にならないための、日本の若者へのエールである。なお、[2]は[3]の「副産物」(将基面)でもある。
〇[2]における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

批判的愛国者のすすめ
日本語の「愛国」「愛国心」は、英語で言うとパトリオティズム(patriotism)である。ナショナリズム(nationalism)も日本語では「愛国」と訳される。(33ページ)
現代の日本では、「愛国」「愛国心」=ナショナリズムという理解が一般的である。日本語の「愛国」は、「ナショナリズム的パトリオティズム」の意味で理解されている。しかし、ヨーロッパで「愛国」という場合、「共和主義的パトリオティズム」を指す。この考え方が世界的・歴史的には本来のものである。(44、51ページ)
ナショナリズムとは、自らのネイション(nation.国民、民族)の独自性にこだわり、それに忠実であることを求める思想である。(42ページ)
共和主義とは、市民の自治を通じて、市民にとっての共通善(特に自由や平等、そしてそうした価値の実現を保証する政治制度)を守ることを重視する思想である。(35ページ)
「ナショナリズム的パトリオティズム」は、自国を盲目的に溺愛し、自国の失敗や過ちの経験から学ぶことなく、ひたすら自国の歴史や文化を誇りに思う自画自賛(自国礼賛)である。(116、117ページ)
政治的・経済的に権力を持つ人たちは、批判の対象とならざるを得ない。なぜなら、権力を持たない人々にはできないことをその政治的・経済的権限で可能にできる人々は、大きな責任を背負っているからである。(120ページ)
本来の「愛国」「愛国心」とは、常に政治権力に対して批判的なまなざしを注ぎ、市民の自由や平等を守る「共和主義的パトリオティズム」である。権力に対して批判的な態度をとることが愛国的(patriotic)なのである。(123ページ)

「報道の中立性」という犯罪
報道機関の重要な役目は、強制力や影響力を持っている人たちを監視することである。
ところが、昨今ではマスメディアが「報道の中立性」という名目で権力批判をしないことが当たり前になっている。これほど甚(はなは)だしい勘違いはない。勘違いどころかほとんど犯罪的な過ちである。
報道機関は、権力を持たない人々を代弁するためにあるのである。事実を客観的に報道するだけではなく、権力を持つ人々の仕事内容を、権力を持たない人々の立場から批判するためにあるのである。それをして初めて、報道機関は仕事を立派に成し遂げたということができるのである。(121~122ページ)

〇「現代世界で静かに進行する変化の一つは、『愛国』が政治を語る言葉として復活していることである」([3]2ページ)。「愛国という問題が今日ますます徹底的な思考を要する課題として急浮上している」([3]322ページ)。そういうなかで、[3]は、欧米と日本の多様な現代パトリオティズム論を歴史的観点から批判的に検討し、その固有の性格をあぶり出し、その問題性の一端を明らかにする。約言すれば、愛国=パトリオティズムについての歴史的・哲学的な構造の解明が[3]の目的である(12ページ)。
〇[3]における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「愛のまなざし」と愛国
愛国的であることを「祖国への愛」と読み換えるならば、その「愛」は盲目なものであってはならず「愛のまなざし」という観点が重要である。自国に「愛のまなざし」を注ぐということは、「私の国」に対してあらゆる規範的な判断を停止することではない。誇るべ長所だけでなく、恥ずべき欠点も含めて正確に「私の国」を理解することが、「愛のまなざし」に含まれる。一方で、愛する自国に長所を見出すことを喜ぶが、他方で、様々な過失や過誤を見出して、そのことに悩み苦しみ、欠点を改めようと努力するのである。このような「愛のまなざし」に基礎づけられた愛国的態度であってはじめて、それは道徳的義務ではないにせよ、望ましいものでありうると結論づけられるであろう。(222ページ)
「愛のまなざし」(loving attention,loving gaze)において重要なのは、愛の対象を可能な限り明瞭に理解しようとする点である。「愛のまなざし」の下にある対象は、「あばたもえくぼ」ではなく、「あばた」は「あばた」として認識される。「愛のまなざし」は、まなざしの対象に、良いところを見ようと心がけつつも、長所も短所も同様に、正確に理解する。すなわち、そのまなざしが「愛」に発するために、対象に好意的に接するが、しかし、その対象を正確に理解するという意味で、対象を分析し評価することも怠らないのである。共和主義的パトリオティズムを胸に抱く市民は、祖国に対してこのような「愛のまなざし」を持っている。祖国への愛は盲目ではなく、むしろ「祖国を鋭く見つめることを要求する」のである。(170ページ)

愛国と排除の論理
愛国的であるということは、無条件に道徳的正当性を主張できるものではない。にもかかわらず、愛国的であることが国民としての当然の義務であるかのような主張を巷間(こうかん。世間)で目にすることも少なくない。愛国的であることが義務であるとする認識が広く共有されるならば、それはどのような帰結をもたらすのか。(222~223ページ)
自国のアイデンティティに基礎づけられた愛国は、極端な場合、排外的で外国人を忌み嫌ったり見下(みくだ)したりする態度に結びつきやすい。他方、自国民であっても、愛国的ではないと判定される人々は、愛国者たちによって公的な避難や攻撃にさらされることが少なくない。
愛国が熱狂化すればするほど、文化や人種、宗教的背景を共有する同一国民の間においてさえ、思想信条を異にする一部の人々を「非国民」「売国奴」であると排撃する傾向が増大することは広く認識されている。(226ページ)

国家の聖性と愛国
国家は、正統な義務を独占する「聖なる」存在である(国家は国民に様々なサービスを提供する組織、神社のように国民にとってありがたい・尊いもの、正当な暴力を独占・行使する存在である)。愛国的であることを義務として承認することは、国家という「聖なる」存在の忠実な信徒であることを意味する。
国家の聖性への信仰は、当然、国家を尊崇(そんすう)することを必要とし、国家のための犠牲を要求する。国家のために死ぬことを拒否するのは、国家の聖性を認める限り、極めて難しい。(282ページ)
現代という歴史的地点において愛国的であるということが道徳的義務であると主張しうるとすれば、それは国家の聖性を認める限りにおいてにすぎない。「国家の聖性を認める限りにおいて」という限定条件は極めて重要である。(283ページ)
現代において当然視されているが必ずしも自覚されていない国家信仰を掘り崩(くず)すには、政府(さらには国家)を批判する市民たちが、非国民や国賊などと罵(ののし)られても動じないことが必要である。現代日本の文脈では、「反日」などと非難罵倒(ひなんばとう)されても、これに対して、自分たちこそが愛国的なのだと応答すべきではない。なぜなら、そうした自己弁護は、すなわち「お前は反日だ」という非難を支える国家への崇拝感情を裏書きする(実証する)ことになるからである。(283~284ページ)

〇筆者の手もとには[1][2][3]のほかに、姜尚中(カン サンジユン/東京大学名誉教授/政治学・政治思想史専攻)の『愛国の作法』(朝日新聞社、2006年10月。以下[4])や佐伯啓思(さえき けいし/京都大学名誉教授/現代社会論・社会思想史専攻)の『日本の愛国心―序説的考察』(NTT出版、2008年3月。以下[5])がある。姜にあっては、愛国とは、自然な感情の発露としての妄信などではなく、「理にかなった信念」「自分自身の思考や感情の経験に基づいた確信」(54ページ)による行為である。愛郷は、自分が生まれ育った故郷への愛、情緒や感情によるものである。佐伯にあっては、「戦後日本の愛国心をめぐる感情は、(「あの戦争」によって)ある『負い目』を背負い、その『負い目』をめぐって展開している」(中公文庫版、2015年6月。255ページ)。そういった認識に立って「日本的精神の行方」を探求するなかで、「もうひとつの愛国心」(388ページ)を描き出そうとする。
〇将基面は、[4][5]について、「平成時代を代表する日本の愛国心論」である。しかし、いずれも「基本的には啓蒙書」であり、「愛国=パタリオティズムの包括的・体系的議論を必ずしも指向するものではない」([3]9ページ)と評している。
〇ここでは、[4][5]で言及している「愛郷と愛国」「愛国心と愛郷心」について、その一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

姜尚中――「愛郷と愛国」、その微妙な共棲関係
「愛郷」と「愛国」の関係は、「微妙な共棲(きょうせい)関係」にある。
つまり、一方では、「愛郷」は、ナショナリズムという特定の歴史的段階において形成された一定の教義によって利用され、時として排斥される関係にある。
例えば、上からの「郷土教育」が説かれるのは、画一的な「愛国心」などを強制する場合に、空洞化した実感的な部分を補完する必要があるためである。『美しい国へ』の著者(安倍晋三)が「国を自然に愛する気持ちをもつ」ために、「郷土愛をはぐくむことが必要だ」と述べているのは、そうした「郷土教育」の効用を意識しているからであろう。つまり、「愛郷」は「愛国」に「自然な」感情の装いをほどこす補完的な役割を果たしていることになるのである。(154~155ページ)

佐伯啓思――愛郷心は愛国心の換喩的表現
「愛郷心」とは「愛国心」のいわば換喩(かんゆ。比喩)的表現にすぎない。「郷」は「国」の象徴的な代理になっており、換喩的に「国」を表現している。この二つの概念を変換すれば「パトリオティズム」が二重性を帯びていることは別に不思議ではなかろう。「愛郷心」は結構だが「愛国心」は危険だ、という議論は説得力がない。
そして、「愛郷心」と「愛国心」が重なり合うという意味での「パトリオティズム」にある種の強い情緒が伴うのは、「郷」にせよ「国」にせよ、その何か大事なものが失われつつあるからではなかろうか。そこにはあの種の喪失感が付着するのではないだろうか。繰り返すが、ある国の歴史的な伝統や文化や風土がそのままそこにあり、それらに自明のものとして囲まれているとき、人は、わざわざ「愛郷心」や「愛国心」を感じる必要もないであろう。ほとんど無自覚にそれらに囲まれて生活しているだけである。それらが失われつつあるという喪失感に囚(とら)われたとき、もしくは、たとえば外地にあってそこにどうしようもない距離感をもったときにこそ、「愛郷心」や「愛国心」を感じるというべきなのであろう。(132~133ページ)
近代社会は、人々の流動性を高め、急激に都市化を行い、なつかしい風景を破壊していった。このことが近代の人々にパトリオティズムを抱(いだ)かせるのである。(133ページ)

〇もう2冊ある。市川昭午(いちかわ しょうご/国立大学財務・経営センター名誉教授/教育行政学専攻)の『愛国心―国家・国民・教育をめぐって―』(学術出版会、2011年9月。以下[6])と鈴木邦男(すずき くにお/政治活動家/50年以上も愛国運動をリードしてきた人物)の『〈愛国心〉に気をつけろ!』(岩波書店、2016年6月、以下[7])である。将基面は、[6]について、「戦後の愛国心論では『忠誠問題が無視されてきた』と指摘し、そこに戦後日本における愛国心論の一つの特徴を見ている」([3]121ページ)。[7]については、「72ページの小冊子(岩波ブックレット)ながら、充実した作品である。愛国心の旗印のもと現代日本で広がりつつある排外主義を的確に批判している」([2]193ページ)と評している。それぞれの一節を紹介しておくことにする。

愛国は究極的には殉国を求める
愛国心や愛国心教育の問題が敬遠されたり嫌われたりするのは、それが究極において国家に対する忠誠の問題となるからであろう。
国民国家は国民を保護し、その権利を保障する代わりに、国民に法律を守らせ、国民の自由を制約する。国家が国民の安全と国の独立を守るための共同防衛装置である以上、国民の側も国を大切に思うだけでは足りず、国防の義務に従うことが要求される。それは一旦緩急(かんきゅう。危急)ある場合には愛国だけでは不十分であり、究極的には殉国(じゅんこく。国のために命をなげだすこと)が求められるということである。([6]87ページ)

〈愛国心〉を汚れた義務にしてはならない
「同じ日本人なんだから」「日本を愛する愛国心をもっているのだから」という視野の狭い仲間意識のもと、排他的な傾向が強まっている。政権を批判したり、日本の問題点などを指摘したりすると「反日!」とののしられる。「他国に学んで、日本のここを良くしよう」などと言っても、「お前は外国の肩をもつのか」と怒鳴られる。その結果、「日本はすばらしい」「日本人は最高」といった自画自賛の言葉が氾濫し、そしてその足下で排外主義が跋扈(ばっこ。強くわがままに振る舞うこと)しているのが現状ではないのか。([7]52ページ)

最近、“里” の夢をよく見る / 人っ子一人いない / おかしな空模様だ / なぜか、いつもそこで夢は終わる


付記
本稿でとり上げた本の一覧である。
(1)将基面貴巳『反「暴君」の思想史』(平凡社新書)平凡社、2002年3月
(2)将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房、2019年8月
(3)将基面貴巳『愛国の構造』岩波書店、2019年7月
(4)姜尚中『愛国の作法』(朝日新書)朝日新聞社、2006年10月
(5)佐伯啓思『日本の愛国心―序説的考察』(中公文庫)中央公論新社、2015年6月
(6)市川昭午『愛国心―国家・国民・教育をめぐって―』学術出版会、2011年9月
(7)鈴木邦男『〈愛国心〉に気をつけろ!』(岩波ブックレット)岩波書店、2016年6月

教員の劣化

世間で 子どものいじめが 後を絶たない
マスコミ報道 敏感にキャッチし
その対策に 目を光らせる
頑張って 
世間の応援 背に受けて
超勤めげずに 日々精進

頑張る教師を 尻目に懸けて
善悪の判断力を 崩壊した者たちが
年下の若い同僚に 矛先向けて
溜まり積もった ストレス解消
複数がいじめをしていた その事実に
愕然(がくぜん)とした
これから先は 何でもありの学校教育
居直る 開き直るしか 平常心は保てない 

子どもファースト こころに決めて
いじめのサインは 見逃さない
学習指導の教材研究 手抜きせず
生徒指導のグループ観察 注視する
緊張感 子どもが帰っても持続する
保護者の電話 時には恐怖 受信拒否は却下され
それでも 仲間と乗り切る毎日です

子どもファースト こころに決めて  
今日も いじめに耐え抜こう
彼らのストレス解消が 
子どもに スクハラしないよう
ただただ いじめに耐え抜こう
彼らも いつかは気づくだろう
やってることの 非情さを
無駄な希望と わかっていても すがりたい

子どもファースト こころに決めて
彼らのやり口 エスカレートする一方
30代40代の いい年こいて 
自律心は 未熟のままの形成不全
徒党を組んで 人格無視の 言いたい放題 やりたい放題
堪え忍んだが もう限界で 訴えた
多勢に無勢 隠蔽にはかるのは 学校の常套手段
薄ら笑いしながら ないことにして とはいかない話 
いのちとこころのダメージ 半端ない

子どもファースト こころに決めて
(そんな嘘 バレバレ)
彼らも 教壇に立っていた 
(だから 深刻なんだ)
歪なこころで 子どもに向き合う
(だと思う)
まともな仕事は そっちのけ
(まじめに やってるわけはない)
でも かばうしかない
(そこまでいうなら こうしよう)
真摯な教育者を 冒涜し続ける教員へのお願い 
強い口調で「やめなさい」
やさしく諭すように「やめてください」

へりくだって「どうぞおやめになってください」
(こんなやわな指導に 従うわけはないから)
教員ではありえない すごい人たち 奨励します
教員ではきっとできない すごい人たち 褒め称えます
教員では考えられない すごい人たち 称賛します

(こんなもんで いかがです)

こころある 教師たちよ 
子どもに恥じることなく 平然と身も心も汚し続ける者たちの
愚行を 決して軽視してはならない
非道を 決して見過ごしてはならない 
犯罪を 決して許してはならない
氷山の一角を いつまでも一角にしてきたことが 暴露されたのだ
これからは 隠そうとする悪しき慣習から 目を背けてはならない
そこで働く者たちの 無関心・無干渉から生まれた空気を
もう吸うのは やめにしよう

こころ痛めた 教師たちよ
またも 学校不信 教師不信という 心的負担を 背負わせてしまった
その不信を 払拭するには
自戒し 信頼に足る“ひと”であることを
全国の学校で 毅然として示すしか 道はない
決して対岸の火事ではないと こころしてほしい
こころ熱き 教師たちよ

こころ強き 校長よ
学校経営の責任を全うするには
子どもを 粗末にしない してはならない共育を 
職を辞す覚悟で 教職員共々 実践するしかない
信託に応えるには いま 何をなすべきか 
喫緊の経営課題が 一人ひとりに提起されたと こころしてほしい
こころ熱き 校長よ
     
〔2019年10月5日書き下ろし。兵庫県神戸市須磨区で発覚した教員の集団いじめ問題に触発され、そのイメージを描く。心ある先生への応援でもあってほしい〕

校長室の風景(その7) 「きずな夜学校」

社協に肩入れしてもらって 
子どもたちの福祉の学習も 楽しく様変わり
お返しするのが 世間の義理
それは社協の事業に 加担すること
校長室は 作戦会議室に 早変わりした

地域福祉を進める事業を 企画した
地域の人財を活用した 生涯学習
教育委員会の お株を奪って 
社協が主催の 生涯学習はいかにあるべきか
簡単明瞭 そこで暮らすことの豊かさは 文化にあり
人と関わり合うことから生まれる 福祉文化を発信しよう

事業名は「きずな夜学校」
無機質な公民館の研修室は そぐわない
会場は 六年生の教室をあてた
地域の方々は 子どもの教室で学べることに興味津々
習字や図画の作品やら お道具類やらであふれ
懐かしい机と椅子の感触
35人定員で 45人が応募した
急遽 隣の教室から 補填する会場づくり

夜学校は3日間 一日二時間
科目は 六科目
故郷の風景写真を撮る 地域在住の写真家の作品鑑賞と解説
近くの精神科の病院長には 認知症の講義
障がい者と花樹栽培をしている造園家には 鉢植え花の育て方
町内会の運営で 全国的に評価された実践紹介を 会長さんに
地域の助け合い活動は 社協のスタッフから レクチャーとお願いを
子どもと福祉の学習は 校長の得意分野です
  
夜7時から9時まで
2階の教室と玄関をつなぐ動線は 夜のしじまに光がもれる
福祉は 特定の人の問題だけではない 
日常の暮らしにある 当たり前の人とのつながりであることを再発見した
福祉文化と気取らずに 地域を豊かに耕している人に注目した
会場の教室は 夜学校を演出する最高の舞台となった
子どものいない教室は 子どもの文化であふれていた

講師は 校長室で講義を終えて一休み
会話は 初体験の楽しさで盛り上がる
社協スタッフが おずおずと薄謝を差し出す
中身は 図書券
講師はそのまま校長に手渡し 使ってほしいと申し出る
ありがたく 手を出し頂戴する

後日 学校図書館の運営を一手に担う 
図書ボランティアに 図書券を手渡す
子どもたちに読んでほしい児童図書を 一番承知しているボランティア
ボランティアが 主体的に本を選ぶ
それが 活動を継続させる重要なポイント
だからいつも生き生きしている うちの図書館ボランティア 
もう一つの 文化活動支援のあり方

校長室は 地域の文化振興の推進室にも様変わる
そこに 社協が絡むと もっと面白く市民と福祉を考える
福祉教育推進室にも 変幻自在
そのことを 校長が知るか知らぬかで 
市民や子どもの福祉の学習に 雲泥の差がつく

〔2019年10月4日書き下ろし。登別市社協とのコラボ企画した事業の一つ。校長室は様々な推進室になると面白い。面倒くさい、わずらわしいと思った瞬間、校長室は閉鎖される〕

校長室の風景(その6) 「押しかけた子どもたち」

中学校で 全校生とボランティアについて学習した
質問すると 一人が答えた後
「同じです」「同じです」「同じです」
失笑がもれる
「同じです」「同じです」 繰り返される「同じです」
百人ほどの子が答えた後に
「私はこう思う」と 一人の女の子が答えた

校長室に入りかけたそのとき 
数人の子どもたちが 話をしたいと押しかけた
校長は 子どもたちの勢いに押され 許可した 
子どもたちと校長室で さっきの顛末について話し合った
子どもらの顔も言葉も 真剣そのものだった
全校生に出した質問は 決して難しい問いではなかった
彼らは 調子に乗って からかい嘲笑したのだ
いかに その態度が不謹慎だったのかを 詫びながら
私たちに何を伝えたかったのかを 聴きたい
それが 押しかけた理由だった

自分の考えを言葉にするときに その言葉は同じでも
実は考え方や感じ方は 全く同じではない
まわりに流されることなく 自分の考えを表す言葉を大事にしてほしい
「同じ」という回答は 考えを他人に委ねて 思考停止していることと同じ
ボランティアは 自分の意志や考え方を 確かめながら活動すること
そのことを他人に委ねてしまっては そこからは何も学ぶことはできない
ボランティアという学びへの 大事な心構え
彼らには その愚弄さに気づいてほしいと 伝えた
空気に流されて まわりに合わせる 情けない態度に憤り
おかしい ちがうよという 心の声に押されて 
君たちは ここに来た
だから 正直私は君たちに救われたと 感謝した
三十分の時間が あっという間に過ぎた
校長は 不機嫌そうな顔をずっと崩さず 子どもたちを学級に戻した
校長との別れの際には 謝辞はなかった

翌日 臨時の全校朝会がもたれた
校長は 生徒の態度について 君たちは決して悪くないと弁護した
講師をこき下ろすのは 構わない
ただ 校長の憤りは 直接講師にぶつけてほしかった
しかも 校長室に押しかけた 子どもたちの真摯な行動を 見事にないがしろにした
彼らこそ この学校で誇れる生徒であり 教育の成果でもあるはずなのに
校長自ら 生徒のとった自発的な行動を否定し 無視した
子どもに 卑屈さを教えることは 決してしてはいけない 
校長として あるまじき態度だったと
校長室にいた子の一人が 親に泣いて訴えた

校長室 選ばれし者の指定席と 勘違いしてはならないところ
校長室 子どもたちの声を素直に聴く人がいて はじめて存在するところ
校長室 あたったかい空気が流れる 教育的空間そのもの

そう願いたい

〔2019年10月3日書き下ろし。一部の子どもたちの行動こそ全校生に訴える価値ある行動であり、教育の成果を共有する機会だった。怒りの感情は理性的判断を狂わせる〕

校長室の風景(その5) 「ヒヤリング」

学校経営計画は 各校務分掌の年間計画と
すでに 前年度末に出来上がっているのが 普通である
着任した校長は 前任者の経営計画を継承して 新年度を運営していくのは 
長い間の慣習であり 異論なく踏襲されてきた
だから 教員も 3月に概ね新年度体制ができているから
4月異動してきた新メンバーには 出来上がった計画のまま 
校務分掌計画を進めていくことに 何の異存もなかった

新しい校長は 従来の慣習をよしとせず 改革を断行した
前任者の経営に 迎合できないことへの 自己表明でもあった
自分の経営が 1年先送りになることの悔恨を 抱きたくなかった
校長室に運び込んだパソコンの荷を解き 
その前に座り 経営計画の策定に取りかかった
学校教育の全体構造の見直しから始まった
道徳教育 生徒指導 特別活動 ボランティア学習 情報教育 総合的な学習の時間
それらを構造化することで 学校教育が俯瞰される
年度初めの職員会議の朝まで たった3日間 
勝負に出た

学校経営の基本方針は
「“むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく” 
豊かな学校教育の創造をめざす」と 井上ひさしの言葉を引用した
さらに 全ての教育実践は
「子どもを粗末にしない共育」に 結びつくことを明記した
ボランティア学習の重点教育目標は この学校で初めて提起された
「様々な人たちとの出会いやふれあい活動を通して 誰もが人として当たり前に生きる
ことの大切さを“まごころ”として体験的に学び 個々の共感性と共生観を高める」

職員会議に 提案された
3月末に用意された計画の全面的な見直しを 余儀なくされた
それをベースに 各学年学級の経営計画が立てられていく
それも 従来の飾り物のような形式的な内容に陥らぬよう 
領域別かつ学期毎に区分された様式を 具体的に提示した
すべての取り組みには 評価が付帯されることも 補足した
さらに 学期末にはオープンで経営評価を行うことを 通告した
ぬるま湯に浸かってきた教員集団は 大いに戸惑った
4月は 学級経営も校務分掌も かなり煩雑になる時期であり
厳しい仕事を強いることは承知の上で 取り組ませた
それが出来なければ 1年間の実践は 
その場しのぎと批判されても 返す言葉はない
あだ花となるだけの 今までと変わらぬ仕事となる
教育に携わるのは その一つひとつの仕事が 
どのように深く 学校全体の活動とリンクしていくのか 
その中で 一人ひとりがどのような役割を担い責任を果たしていくのか
自分のポジションを確かめ その覚悟を示すのが 4月であり 
具体的な自己表明のカタチが 学年学級経営計画なのである

若い教員が 緊張した面持ちで
学年主任と共に 応接セットのソファーに座る
対面するのは 校長と教頭 教務主任
これから経営ヒヤリングが 始まる
学年経営計画を 学年主任が説明する
学年の各領域の指導計画から始まって 
学級計画に どのように反映されていくのかを
系統だって 論じなければならない
書かれた文言の 行間にあるおもいを 語ってもらうのが
このヒヤリングの場であり 目的である

校長室は 教員たちの熱いおもいを語る 空気に満ちた
若い教員は 大きく息を吐いた
初めての体験で 昨夜は何を質問されるのか 不安で寝付けなかったという
そばにいた主任も 長い間教員をしてきたが 初めての体験
同じように 内心ビクビクしていたと 実直に語った
ヒヤリングは これから1年の実践への道標を 自ら語ることでしかない
校長や教頭に伝えることで はじめて共感と共有という経営のベースが確立する
文言を書き連ねただけの 学年学級経営計画
忙しいと置き去りにされてきた 確認の時間
それをヒヤリングという場で 語り合うことの大切さを 優先した
校長室は 経営を語り合い おもいを共有する場なのだ

語り合うことで 覚悟が見える 覚悟が決まる 
そして 覚悟が 実践の目的となる 

〔2019年10月2日書き下ろし。学校教員が多忙であり、超勤など働き方が問題視されている。そこで、果たして学級経営に対して共通理解はなされているのだろうか。個々の教員のおもいを確認するヒヤリングの効果を提案したい〕

校長室の風景(その4) 「助けて!」

昼休みの清掃時間 
静寂な校長室に 突然起こった悲痛な叫び声
「こっちょ 助けて!」

三年生の男の子は 1階の会議室を友だちと掃除していた
会議用の長机が 窓際にいくつも積まれていた
なにかのはずみで その机が 倒れた子どもの頭の上に かぶさったという
机の角か脚の部分がぶつかり 下の長机と板挟みになってしまった
当たり所が悪く 出血した
周りの友だちも 本人もビックリした
血が顔に流れてきたから 余計にあせった

廊下に飛び出して 真っ直ぐ走って 左のドアが保健室
怪我をしたら保健の先生 当たり前に指導されていること
でも 子どもは右にまわって 校長室のドアを 泣き叫びながら開けた
「こっちょ 助けて!」
見ると 額の上と頭の後ろが出血していた

養護教員に すぐ応急手当を指示し 
教頭に 救急車を手配するよう連絡 脳外科に搬送を依頼した
母親に連絡し 担任の車で病院まで同行させる
子どもは 傷口を縫う代わりにテープで塞がれ 脳にも異常はなかった
子どもが戻って 大事に至らなかったことを確認して 安堵した

どうして校長室に飛び込んできたのかを 聞いた
「こっちょのこと 一番先に思いついたから」
「こっちょは すぐに助けてくれると思ったから」

校長室は いつも子どもで あふれていた
子どもが 危機的な事態に遭遇したときに 
とっさの判断で 校長室に向かったという事実に
彼らとの 日常的なふれあいの結果として 
この事態を 収拾できたことが 幸いだった
それ以上に あの切迫した子どもの叫び声が いまも鮮烈に心に残る
「こっちょ 助けて!」

悩んでいる子が 心の叫び声を 素直に声に出すには
その声を受けとめ 真剣に聴くことしかない
それが いま子どもたちが求めている 人間教師である
校長も 人間教師への道程を歩む 一人の教師にすぎない
校長室は その共育の場であることに 心したい 

〔2019年10月2日書き下し。校長室に飛び込んできた子の思いは、校長との信頼関係に他ならない。人間教師への過程は、いまも続く生涯のテーマである。なお校内の子どもの事故は、未然に防止する対策を確認、リスク管理を徹底したことは必然であった〕

校長室の風景(その3) 「オープンザドア」

来客は 学校の玄関口のインタホンを押し用向きを伝え 解錠を待つ
あるいは 職員室の小さな小窓で 来客であることを伝える
さらに 玄関口に置かれた小机の来客名簿に
氏名・所属・連絡先・訪問目的・時間を記入する
入校手続き完了し 校長室へと向かう
どこの学校でも これくらいのレベルで 不審者対策
犯罪予防は 地域の人が出入りしにくい 
まるで 塀の中の学校にしてしまった 

一切の手続きがない 学校があった
職員室の小窓に顔を出して挨拶し 校長室に直行
アポがあってもなくても
校長が在室であれば いつでもウエルカム
誰が来ても 時間があればいつでも対応した
町内会役員 老人クラブ役員 PTA役員 保護者 民生委員・児童委員 
校長室の扉は いつも地域に開いていた
なかでも社協のスタッフは 子どもと福祉をつなぐ キーパーソン

地域の要望は 直接校長に伝わる
学校の要望も 直接地域に伝わる
地域の行事に 学校も参加する
学校の行事に 地域は支援する
教員が校務で地域へ出るときには 依頼毎が多い
学校を代表していくのだから 
失礼のないよう服装言葉遣いには 気を配る
ロッカーに着替えを用意してあるのは マナーのひとつ
地域や保護者の 教員の評判もいい

問題のある子について 児童委員と情報交換
地域での見守り活動 町内会や老人クラブと情報交換
地域行事への参加要請 文化祭への子どもの作品の提供や参観のアピール
学校行事への参加要請 老人クラブと新一年生で桜の苗木の共同植樹
事あるごとに 関係者が誘い合わせて集まってくる校長室

そこが 学校教育への信頼づくりの場となった
そして 教職員への信頼へとつながった
だから 地域は 学校が自分たちの学校だと 愛着をもって関わる
それは 子どもの社会的な育ちを サポートすることにほかならない 
さらに 子どもを地域と共に教育するという 地域連携のカタチとなる

〔2019年10月1日書き下ろし。校長室を舞台に様々な地域との連携が生まれていった。開かれた学校は、校長室から始まる〕

校長室の風景(その2) 「待遇」

地域との連携強化の旗印の下
福祉の授業で 市民がゲストで呼ばれ ある学校に行った
廊下ですれ違う教員たちは 怪訝(けげん)そうな目線を送って
立ち止まることなく 挨拶もそこそこに 通り過ぎる
時には 声も出さず黙礼もせず すれ違う
先に挨拶の声がけをするのは 
いつも ボランティアのゲストたち

授業がはじまるまで 職員室の隅のソファーで待機する
担任が迎えに来て 教室に出向いた
ただそれだけのことだった
校長からの ねぎらいのことばはなかった
そもそも 授業に顔を出すことも しなかった

校長室に通されるのは 学習支援の市民ではなかった
校長室に通されるのは 地域の有力者や 社会的地位のある人だった
そこで 茶菓子の接待を受け 歓談する
もちろん 校長は授業も参観
終わると 校長は謝辞を述べ見送る

市民ゲストは 後でそっと聞かされた
同じ待遇をしてほしいと 願っているのではない
ただ 学習支援の訪問活動している市内の学校で
教員の挨拶の違いが こうもあるのかと驚いた
その違いは 校長のゲストへの待遇のあり方を範として
訪問客に 差別化を促しているだけのことだった

市民ゲストは この学校が なぜ評判が悪いのかを知った
福祉の授業をしても 教員が後ろから監視の目を光らせる
質問に挙手することもなく 指名すると自信なげに答える
校内の空気は 殺伐とし 息苦しさを覚えた
この学校に閉じ込められている子どもたちの 苦痛を感じた

だからこそ この学校には市民の目が必要だ
ボランティア仲間にも この学校への学習支援を頼もう
いま学校と地域が求める 地域連携というならば
この学校こそ 連携強化の対象だと 仲間に伝えよう
一人でも多くの市民が 関わることで 
学校の体質が改善され 子どもたちが学びやすくなるだろう
そう信じて 一市民(いちしみん)として動きだそう
それが ボランティアの「心・意気」だと 合点が行った
  
〔2019年9月30日書き下ろし。学校に特定の市民が参画する制度を進めているが、日常的に市民が学校に関わることで、子どもたちが守られる。閉鎖的な体質が改善されないのは、市民の受け入れを拒むことにある〕