阪野 貢 のすべての投稿

福祉の心と市民福祉教育

市民福祉教育に関するキーワードのひとつに、「福祉の心」「思いやりの心」がある。
谷川和昭(関西福祉大学)は、「福祉の心という言葉が使われるようになったのは1970年代に入ってからである」が、未だ「福祉の心とは何であるかが不明瞭であり、学問的には未確立」である。「福祉の心の構造」を明らかにする必要がある、という(谷川和昭「福祉人材養成と福祉の心」『社会事業研究』第48号、日本社会事業大学社会福祉学会、2009年、153~157ページ)。
谷川は、「福祉の心」について論述するなかで、辞典に書かれた「福祉の心」の定義として次の3点を挙げている。
阿部志郎:「社会的条件に恵まれないマイノリティの人々と、人格的にふれあい、自己も他者も、すなわち、相互に変革される温かい人間的態度と、福祉問題を生み出す社会に福祉の本質を問い、福祉社会を創造していく共同の社会的努力を育てる豊かな人間の意志と情念を指している。」(京極高宣監修『現代福祉学レキシコン』雄山閣出版、1993年、128ページ)。
京極高宣:「社会的条件に恵まれない人々(クライエント)やその周辺の人々と人格的にふれあい、思いやりの態度をもってそれらの人々と共に生きようという社会連帯の意志と情念をいう。」(京極高宣『社会福祉学小辞典』ミネルヴァ書房、2000年、144ページ)。
阪野貢:「個人の尊厳と人権の尊重を前提にした思いやり、優しさ、いたわり等の豊かな人間性のもとに培われた福祉意識。」(硯川眞旬監修『国民福祉辞典』金芳堂、2003年、355ページ)。
そして、谷川自身は、福祉臨床(対人援助の実践)との関わりで、「福祉の心」とは「他者の問題を冷たく他人事として見過ごさないで、自分の問題として捉える態度であり、しかも個人的な心情を抑えて、社会のあらゆる資源を活用しながら、危機状態にある人の人生の再建のために力を貸していこうとする姿勢である。」(秋山博介・ほか編『臨床に必要な社会福祉援助技術演習』弘文堂、2007年、188ページ)と定義づけている。
なお、「思いやり」という言葉について付言すれば、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)では、「自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。」と記されている。また、『大辞林』(第3版、三省堂、2006年)では「その人の身になって考えること。察して気遣うこと。同情。」、『大辞泉』(第1版、小学館、1995年)では「他人の身の上や心情に心を配ること。また、その気持ち。同情。」となっている。

さて、以下に、「『福祉の心』の育成と福祉教育」と題する筆者(阪野)のかつての拙稿に若干の加筆・訂正を施したものを記述する。基本的な考え方は、今日においても何ら変わってはいない(阪野貢『福祉教育の創造―視点と論点―』相川書房、1989年、32~34ページ)。

「福祉の心」という言葉が登場し、頻繁に使われるようになるのは、高度経済成長のひずみが露呈し、日本経済がいわゆる低成長時代に突入してからのことに属する。年代的には昭和50年前後以降のことである。しかも、その言葉は、実にいろいろな意味で使われる。例えば、社会福祉の改革を押し進めるための手段として、住民の福祉意識やボランタリズムをあらわすものとして、あるいは金(かね)や物(もの)の福祉に代わって心の福祉を説く際に、「福祉の心」という言葉が使われる。
福祉教育の領域においては、人間の倫理的・道徳的な生き方との関わりで「福祉の心」という言葉が使われることが多い。しかし、その際、「福祉の心」を精神主義的・道徳主義的に過度に強調することは、福祉教育についての考え方やその実践・運動を歪めることにもなる。福祉教育は、観念的な「福祉の心」教育でもなければ、第2の「道徳」教育でもない。必要かつ重要なのは、「福祉の心」そのものの構造的究明と、「福祉の心」が不足あるいは欠如し、いまその育成が強調される社会的・経済的・政治的・文化的背景についての理解、それに「福祉の心」の育成・高揚方策についての具体的検討である。
福祉教育は、「福祉の心」すなわち「自立」と「連帯」の精神を支える心を育成し、自立と連帯の地域づくりすなわち福祉の(による)まちづくりをめざす教育実践である。
ここでいう「自立」(自立心、自立行動)とは、一面では、(1)人間の成長発達・社会化の過程を意味する。他面では、(2)一人ひとりが、生活のあらゆる側面において生き生きと・快適に・充実感をもってその人らしく主体的・能動的・自律的に生きぬく努力をすること、すなわち“自分を生きぬく”努力をすることを意味する。前者の自立(1)の過程は、一般的には、身体的自立→生活身辺的自立→精神的自立→職業的自立→経済的自立→政治的自立→社会的自立という段階を経る。子どもの自立の発達にとっては、青年期の前期(中学生)から中期(高校生)にかけての時期が重要である。この時期、子どもは、自我を発見し、自己をみつめも、内省し、人生観や社会観を形成し、精神的自立を促すのである。後者の自立(2)は、自己を知り、自己を磨き、自己を育て、そして自己を創りあげていく努力をすることを意味する。すなわち“自己実現”“自己創造”“自己超越”に向けての自立である。それによって、他人に共感し、他人を思いやり、他人と助け合い、人と人との連帯を強めることになる。
福祉教育でいう自立は、前者(1)の個人の生涯にわたる自立、時系列的な垂直的次元(タテ)における自立と、後者(2)の個人の生活全体にわたる自立、日常生活領域での横の広がり・水平的次元(ヨコ)におけるそれとの統合としてとらえることが大切である。
「福祉の心」を支えるもうひとつの要素は「連帯」である。連帯の中核的・本質的部分をなすものは、「思いやり」(思いやりの心、思いやり行動)である。思いやりは、上述の『広辞苑』等が記すように、同情共感の行為であり、それは“愛”に通じるものである。また、人間の基本的で普遍的な感情であり、人間だけがもつ独特の感情的体験(「人間的体験」E.フロム、作田啓一・ほか訳『希望の革命』紀伊国屋書店、1969年)であるともいわれる。
思いやりの心とは、外的な物質的・社会的報酬を期待することなく、また自己の犠牲や損失をも顧みず、他人の利益や福祉のために自発的に行動する心をいう。思いやりの心を刺激・覚醒し、思いやり行動を喚起し、その方向や内容を規定する要因として、「認知」、「共感」、それに「受容」を考えることができる。認知とは、他人の思考や感情の状態を正しくとらえ、知ることである。共感とは、他人の気持ちをくみとること、つまり他人の喜びや悲しみといった感情の状態を自己のものとして経験することである。受容とは、他人の思考や態度・行動など、いいかえれば他人のあるがままの姿をそのままに認め、受け入れることである。
思いやり行動には、養護、協力、協同、奉仕、分与、寄付、援助、救助、犠牲など、さまざまなタイプの行動がある。また、車内で席を譲るといったものから血液や臓器の一部を寄付するといったものまで、いくつかのレベルがある。こうした思いやり行動は、学習されるものである。また、その行動を行う本人に満足感や充実感、快感を与え、それがさらに次の思いやり行動を動機づけ、方向づけることになる。
「自立」と「連帯」はともに、基本的人権や自他の人格を尊重することを基盤とする心情であり、態度・行動である。また、両者は、環境との相互作用のなかで学習されるものであり、「自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない」という関係にある。しかし、最近、連帯に比して自立が社会的に強要され、自立についての個人的責任が過度に強調される傾向にある。それは、個人主義的な考えを重視することになり、一面では他者への無関心を醸成するとともに、社会的責任をどこかに押しやることにもなる。自立は、権利意識や社会的連帯、公的責任に支えられたものでないと偏狭な個人主義へと陥ることになる。 要するに、自立のない連帯は、仲間同士の単なる「慰安」にとどまる。連帯のない自立は、仲間や地域からの「孤立」を産む。それはまた利己主義に繋がる。留意すべき点である。
福祉教育は、歴史的・社会的存在である地域の社会福祉問題を素材として体験的に学習する。福祉教育は、とりわけ社会福祉問題をその日常生活において個別具体的に抱える高齢者や障がい者などとの交流・援助活動などを通して、「福祉の心」の育成を図るところにひとつの特色をもつ教育実践である。最近、時として、福祉教育が内包する権利性や社会性、それに歴史性などが軽視あるいは無視されることがあり、精神主義への偏向が促進されてきている。すなわち、人間の生き方という道徳面に力点がおかれ、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりを推進する主体的・能動的・自律的な住民・市民の育成を図るのではなく、社会や国家に尽くす従順で御しやすい人間づくり(主体形成)が福祉教育の名のもとで進められてもいる。福祉教育の生活道徳化、社会道徳化、公民道徳化である。いま、福祉教育の空洞化を阻止するためにも、また筆者がいう市民福祉教育を構築し、その推進を図るためにも、福祉教育の原点を再確認するなかで「福祉の心の構造」(谷川)について科学的・理論的・実証的に考究することが強く求められよう。
なお、福祉教育実践における障害の疑似体験や高齢者などとの交流・援助活動は、その展開の仕方によっては「思いやりの心」の育成ではなく、上から下への一方向的な「思い上がりの心」を抱かせることにもなる。最後にあえて付記しておきたい。

福祉教育サポーターと市民福祉教育

学校における福祉教育実践のプログラムとしてしばしば採りあげられるものに、「障害」の疑似体験や「障がい者」との交流活動がある。
前者については、車椅子やアイマスクなどが使われる。その際、障害理解にとどまらず、障がい者理解や障がい者の生活理解、さらには障がい者もその構成員である地域社会についての理解をすすめる。そして、それを通して人間を全人的にとらえ、人間の尊厳すなわち個々の人間の「実存」(よりよく生きる存在)に価値を見いだす。こうしたプログラムが準備されることは必ずしも多くない。
後者のひとつに、「あきらかにその姿や言動が自分たちとは違う障がい害」「障害を乗り越えて、いきいきと暮らす障がい者」との交流がある。そもそも「違う」こと(異質)はいけないのか、また障害は「乗り越え」(克服)なければならないのか。乗り越えなければならないバリアフルな考え方をもち、そうした社会や文化をつくっているのは誰か。こうした点を追究するプログラムは必ずしも多くない。
また、交流に際して、いまなおWHO(世界保健機関)のICIDH(国際障害分類、1980年)の考え方に基づいて障害や障がい者を捉えがちである。機能障害(Impairment)→能力障害(Disability)→社会的不利(Handicap)、がそれである。それに変わって、ICF(国際生活機能分類、2001年)の考え方に基づいて、個々の障がい者の生活にかかわる環境因子(Environmental Factors)や個人因子(Personal Factors)を重視する。そして、「何ができないか」よりも「何ができるか」というポジティブな側面に注目して、障がい者がいかに「活動」(Activities)、「参加」(Participation)しているかを考える。こうした福祉教育実践プログラムは、いまだ十分に開発・実施されているとはいえない。
福祉教育に関するキーワードのひとつである「共生」は、異質と同一、挫折と克服、受動と能動、そしていわれるように依存と自立、他律と自律、分離と統合、排除と包摂など、それぞれの相互関連性において成立する、といってよい。
学校福祉教育、しかも筆者(阪野)がいう市民福祉教育の一環としてのそれを実践する際に、障がい者をその客体や教材として位置づけることは許されない。市民福祉教育のねらいを達成するためには、障がい者をいわゆる「福祉教育サポーター」として位置づけ、ときには障がい者自身がプランナーやコーディネーター、ファシリテーターとしての機能や役割を果たすことができるプログラムが求められる。本稿では、福祉教育サポーターとしての障がい者のあり方をめぐって、以下の諸点を指摘しておくことにする。

(1)学校における福祉教育の指導者はあくまでも教師である。福祉教育サポーターとしての障がい者(以下、「社会人講師」と同じようなニュアンスで「障がい者講師」という。)は、教師との連携・共働のもとに直接的・間接的に子どもを指導・助言・援助する。また、ときには子どもと教師の間にあって意思の疎通を図ったり、子どもの理解や関心の程度に応じて個別的に対応するなどして、教育効果を高める役割を果たすことが期待される。
(2)障がい者講師による福祉教育実践は、障害や障がい者に対する理解と関心を広め、深めることにとどまるものではない。子どもや教師が、それを通して地域社会に関する関心と愛着をもち、障がい者らとともに偏見や差別のない福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりのための実践や運動に参加するのを促すものでなければならない。
(3)障がい者講師が自己の経験や知識・能力などを活かして子どもの指導・助言・援助にあたることは、自己の経験や知識をさらに豊かなものにする。とともに、生きがいの創造や社会参加・地域貢献の促進を図ることになる。すなわち、障がい者講師による福祉教育実践活動は、それ自体がそのまま自己表現や自己実現、さらには社会還元の活動でもある。
(4)障がい者講師による福祉教育実践活動が、豊かなあるいは特異な「社会経験」や、得意分野のある意味では専門的で個別的な「知識や情報」を単に子どもに伝えるだけでは、福祉教育の進展にはつながらない。障がい者講師には、福祉教育の意義と必要性についての基礎的理解をはじめ、子どもの学習関心や意欲・能力などを発展させるための指導者としての資質や基礎能力などの育成・向上を図ることが必要不可欠となる。
(5)障がい者講師を、豊かな経験や個別専門的な知識・技能を有する特定の者に限定することは、指導の「地域性」(地域性を活かした指導)の定着を困難にする。とともに、ときには「障害」「障がい者」「障がい者の生活」理解を差別的・慈善的なものにし、障がい者に対する偏見や差別を助長することにもなる。特筆すべき個別的な経験も知識・技能ももたない、その地域に暮らすいわゆる一般の障がい者をも視野に入れ、指導者としての確保と養成・研修を図ることが肝要となる。それによって、地域に根づいた、その地域ならではの確かな福祉観を体得することができる福祉教育実践の展開が可能となる。
(6)福祉教育実践を計画的・組織的・継続的に展開するためには、障がい者講師の組織化を図ることが必要となる。障がい者講師集団の結成は、障がい者同士の仲間意識や連帯感を生み、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりへの連携・共働活動を促すことにもなる。また、障がい者講師の教育活動は、その障がい者講師が所属し、日頃活動する障がい者団体・グループの事業・活動との関連において展開されることが肝要となる。それによって、その教育活動がそれだけにとどまるのではなく、それを通して障がい者団体・グループの事業・活動の活性化を促すことが期待される。
(7)障がい者講師の指導者としての質・量の確保と有効活用を図るためには、人材の発掘、養成・研修、活用、そして評価という一連のプロセスが統一的・総合的に推進されなければならない。しかも、人材の発掘から活用を総合的に進めるためには、人材バンクの設置が必要かつ重要となる。また、評価を通して人材登録を行い、一定の研修を義務づけることによって、豊かな福祉教育実践の展開を促すことになる。そうした役割は、当面、社会福祉協議会や「市民活動センター」に期待されようか。

“確か”で“豊か”な市民福祉教育の推進を図るためには、本稿で採りあげた「福祉教育サポーター」の制度化が求められる。その際には、国や大学・民間団体等で取り組まれている「教育サポーター」制度がひとつの参考になろう。それに関する調査研究のひとつに、文部科学省の委託を受けて日本システム開発研究所が実施した「団塊世代等社会参加促進のための調査研究」がある。その『報告書』(2008年3月)では、教育サポーター制度を「学校や社会教育施設など教育関係機関において講師や指導者として、あるいは施設職員の補助として他者の教育活動を支援する人材を登録・派遣する制度」と定義づけている。また、神戸市では、2007〈平成19〉年度からユニバーサル社会の実現に向けて、「こうべUD大学」を開講し、「こうべUDサポーター」の養成を図っている。岐阜県可児市にあるNPO法人「NPOなんでもサポートセンター岐阜」では、2011〈平成23〉年5月に「岐阜コミュニティ創造大学」を設立し、「地域再生のため、新しい公共を担うリーダー」たり得る「コミュニティ創造士」(Community Creative Planner=CCP)の養成に取り組んでいる。これらも参考になろう。

社協の今後のあり方を問う―市社協の協業経営体化と地区社協のNPO法人化―

社協活動は「福祉教育に始まり福祉教育に終わる」といわれます。「市民福祉教育」の考え方に共感する者ですが、社協の今後のあり方についてどのように考えておられますか?

当研究所のブログ読者から上記のようなコメントをいただきました。
「社協の今後のあり方について」、とりわけ市町村社協が重点的に取り組むべきであろう点をめぐって、新味のないことですが、あえてスローガン風に述べてみました。説明不足の感は否めませんが、含意をおくみとりいただければ幸いです。

(1)公共性と実効性、透明性を担保する組織体制や経営・事業体制の改善・整備をすすめ、責任体制が明確化された、地域に開かれた社協へ
(2)行政の事業下請けや財政依存から脱却し、行政や市民活動団体等との対等なパートナーシップのもとに事業・活動を推進する自立・自律した社協へ
(3)地区社協のNPO法人化を促し、その地域の特産品や高級品としての事業・活動の推進を図る、小地域に根ざしたコンビニ型・専門店型の地区社協へ
(4)近隣の市町村社協との相互連携・協働体制を構築し、効率的かつ効果的に諸事業・活動を展開する協業経営体・広域連合体としての社協へ
(5)社協役職員の意識改革と資質・能力の向上を図り、明確な使命や経営理念のもとに新しい事業・活動を開拓・創造するコミュニティソーシャルワーカーへ

付記
京都市の社協は、市域(市社協)、区域(区社協)、学区(学区社協)の3層構造をもっています。上京区の「春日住民福祉協議会」は、1973年に設立され、全国的にも早い時期から住民主体の福祉のまちづくりに取り組んでいます。 2003年にはNPO法人化を図って、住民参加・協働による地域福祉活動の積極的・組織的展開を推し進め、近年では「自治・福祉・防災の三位一体」という新たな活動の視点を唱えています。

ご参考までに次の文献を紹介させていただきます。
(1)内山憲介・高橋信幸共編『総合支援型社協への挑戦―長崎県鹿町町社協の実践から―』中央法規出版、2000年。
(2)土橋善蔵・鎌田實・大橋謙策編集代表『福祉21ビーナスプランの挑戦―パートナーシップのまちづくりと茅野市地域福祉計画―』中央法規出版、2003年。
(3)上野谷加代子・杉崎千洋・松端克文編著『松江市の地域福祉計画―住民の主体形成とコミュニティソーシャルワークの展開―』ミネルヴァ書房、2006年。
(4)伊賀市社会福祉協議会編集『社協の底力―地域福祉実践を拓く社協の挑戦―』中央法規出版、2008年。

「協同実践」と市民福祉教育

「地域福祉は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれる。
その「福祉教育」について、2004〈平成16〉年9月に全社協に設けられた「社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会」(委員長・大橋謙策)の『報告書』(2005〈平成17〉年11月発行)は、「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動である」と定義している。この定義におけるキーワードのひとつは、「協同で学びあう」ことと「共生の文化」であろう。
『報告書』は、「協同で学びあう」とは、「一方的に誰かが誰かに教えるのではありません。さまざまな立場の住民が、お互いに議論し、研鑽しあうなかで、相互に気づきあうことが重要です。そのためにはフォーマルな学びの場だけではなく、たとえば日常の活動のなかにある学び(インフォーマルな側面)が大切にされる必要があります。つまり地域福祉を推進する福祉教育とは、地域のなかで教える場をつくることだけではなく、学ぶ活動を豊かにしていくことです。このことを意図した福祉教育の実践方法を『協同実践』といいます」(『報告書』、8ページ)。「共生の文化」とは、「一人ひとりのいのち(存在)が大切にされ、お互いがそれぞれの違いと存在を認めあい、何人も排除されることなく、豊かに共に生きていくことができる地域社会を創造することに価値をおき、重視する文化のこと」(『報告書』、9ページ)、と説いている。
ここで、『報告書』がいう「学びの場」に関して、P・H・クームス(P.H.Coombs)がWorld Educational Crisis,1968(『世界の教育危機』)において、教育の形態を大きく次の3つに分けていることを確認しておくことにする。①定型教育(formal):制度化された学校において、構造化されたカリキュラムに基づいて教師と生徒の関係によって展開される教育活動。学校型教育。②不定型教育(non-formal):定型教育(学校型教育=学校の教育課程として行われる教育活動)の外部において、一定の学習者に対して、ある学習目的を達成するために意図的・組織的に行われる教育活動。日本の「社会教育」に極めて類似した概念である。③非定型教育(informal):日常的な生活経験(体験)や環境によって、知識や技能などを習得する無意図的・非組織的な教育。家庭・職場・遊び場等での学びや、テレビの視聴による学びなどがそれである。福祉教育とりわけ筆者(阪野)がいう市民福祉教育は、この3つの形態の教育・学習のすべてを包摂する総合的、統一的な展開が図られなければならないことはいうまでもない。また、「共生の文化」について『報告書』は、「一人ひとりのいのち(存在)が大切にされ、お互いがそれぞれの違いと存在を認めあい、‥‥‥」(下線は阪野)と述べる。「共生の文化」は、そうした「存在」にとどまらず、一人ひとりが、そしてお互いが自分のいのちを、いま、“よりよく生きる”という「実存」を含意する、と理解したい。そうした実存を否定、排除しないのが「共生の文化」である。
さて、本稿では、福祉教育の推進方法のひとつとされる「協同実践」(cooperation)について考える。
そこで先ず、用語について述べることにする。『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)をみると、「協同」とは「ともに心と力をあわせ、助けあって仕事をすること。協心」とある。類似・関連する言葉に「共同」「協働」「共働」などがある。「共同」とは「二人以上の者が力を合わせること。『協同』と同義に用いることがある。二人以上の者が同一の資格でかかわること」、「協働」とは「協力して働くこと」、さらに「共働」については「相互作用に同じ」とし、「相互作用」とは「互いに働きかけること。二個または二個以上の事物・現象が相互に作用しあって原因となり結果となること。交互作用」と説明されている。いずれにしろ、協同は、2人以上の者が心をあわせ、助け合いながらことを行う場合に用いられる言葉であるといえよう。
ここで、「協働」という言葉について付言しておくことにする。「協働」は、アメリカのインディアナ大学の政治学者であるヴィンセント・オストロム(Vincent Ostrom)が1977年に刊行した著作―Comparing Urban Service Delivery Systems(『都市サービスの配達システムの比較』)のなかで、「地域住民と自治体職員とが共同して自治体政府の役割を果たすこと」を意味する言葉としてcoproduction(co「共に」、production「つくる」)という造語を用いたことを起源とする、といわれている。日本で最初にcoproduction理論が紹介されたのは、1985〈昭和60〉年12月の荒木昭次郎の論文(「公的サービスの協同生産理論モデル―その実際的適用への批判的分析と評価―」『季刊行政管理研究』第32号、行政管理研究センター、1985年、30~41ページ)においてである、といわれる。荒木は、そのなかで、「公と私のパートナーシップ」に関して「市民と市職員との協働的活動」という言葉を使っている。次いで、荒木は、1990〈平成2〉年10月、『参加と協働―新しい市民=行政関係の創造―』(ぎょうせい)を出版し、コプロダクション理論について論述する。
「協働」に関する英語は、こんにち、coproductionとは違ったcooperationやcollaboration、あるいはpartnershipなどといった言葉が用いられている。その訳語としてあてられる日本語もまちまちである。また、行政と市民の連携・「協働」が叫ばれるなかで、「行政活動を市民が補完・代替する」こと、「市民活動を行政が補完・代替する」ことが問われている。とともに、一面では「協働」という名のもとで行政の「下請け化」が進行しているともいわれる。留意しておきたい点である。
ところで、福祉教育に関して「協同実践」という言葉・概念を最初に使ったのは原田正樹である。原田は、最近の論稿で、協同実践について次のように解説している。「福祉教育に関する一連の実践を担当者個人が担うのではなく、プロセスそのものを、複数の人間が互いにかかわり合いながら進めていくという実践方法である。(中略)さまざまな立場のメンバーがかかわりながら実践をつくり上げていくのである。実は、この異なったスタッフ同士で企画をすることから、すでにスタッフ間の『学び』が始まる。この学び合いを大切にしながら進められるプログラムでは、参加者相互の学びが大切にされる。この双方向的な『学び合う関係性』を大切にした実践の方法が『協同実践』の特徴である」(岩間伸之・原田正樹『地域福祉援助をつかむ』有斐閣、2012年、199~200ページ)。
要するに、福祉教育でいう協同実践とは、複数の人間(住民、市民)が地域の社会福祉問題について共有化・共通認識し、それぞれの立場の違いを大切にしながら、問題解決に向けての、双方向的な「学び合う関係性」「学びの関係づくり」(原田)を大切にした実践方法である、と理解できよう。しかし、協同実践の構造や性質をはじめ協同実践が生みだす効果やそれを成功させるための方法や条件などについては、これまで必ずしも理論的かつ具体的に言及・議論されてきたとはいえない。協同実践の方法やその研究をめぐっては、たとえば次のような疑問や課題が残る。

(1)協同実践の展開によってグループのメンバー間により親密な人間関係が形成され、 より高いレベルの積極的・主体的な活動が新たに生みだされたことをもって協同実践に特有の効果とみなすのか。
(2)協同実践ではグループの大きさやメンバーの多様性はどの程度が効果的なのか。
(3)協同実践の効果は一時的なグループにおいては現れにくいであろうが、効果を生むためのグループの継続性や凝集性についてはどう考えるか。
(4)協同実践にはさまざまな協同のレベル(同調、協調など)が存在するであろうが、それぞれのレベルに対応した相互活動はどうあるべきか。
(5)協同実践では個々のメンバーが強い主体性をもつことを認めないのか。あるいはどの範囲や程度までメンバー個々人の主体的活動を認めるのか。
(6)協同実践の展開過程におけるメンバー間の相互作用のダイナ ミックスについてどう考えるか。
(7)協同実践において生起するであろう離合集散についてどう考え、対応するか。
(8)協同実践に必要な専門的技能(対人技能、集団技能など)とは何か。メンバーはその技能をどのように習得するか。
(9)協同実践には複数の人間がかかわり、またそれゆえに意見の調整などに多くの時間と労力を要する傾向にあることを考えると、必ずしも単独実践に比べて協同実践が効果的な実践方法であるとはいいきれない。問題の種類や内容によっては単独実践の方が効果的な場合もある。この点についてはどう考えるか。
(10)協同実践であっても、実践そのものは基本的には一人ひとりの人間のなかで営まれる。そこから、協同実践のあり方について検討する際には、一人ひとりの実践(個別性)といろいろな人たちとの実践(協同性、共同性)、そしていろいろな内容や方法の実践(多様性)という視点が必要かつ重要となる。実践の協同(共同)性を強調するあまり、その個別性とそれに基づく多様性を軽視することがあってはならない。この点についてはどう考えるか。

周知のように、教育界では、ノーマライゼーション理念の浸透を背景に、インクルーシブ教育の推進やそのためのシステムの構築の必要性が指摘され、「協同学習」という教授法・指導方法の理論や技法についての研究が重視されている。たとえば、アメリカでは19世紀から協同学習の活用が図られているが、日本では、2004〈平成16〉年5月に「日本協同教育学会」が設立され、「互恵的な信頼関係を基盤とした協同に基づく教育・学習環境の創造・実践・普及を通し、民主社会の健全な発展に寄与する」ための実践・研究が行われている。
協同実践に類似・関連する用語・概念である協同学習について、以下に2つの言説の一部を紹介する。
ひとつは、デイヴィッド・W・ジョンソン(D.W.Johnson)、ロジャー・T・ジョンソン(R.T.Johnson)、イデッス・ジョンソン・ホルベック(E.J.Holubec)の言説である。D・W・ジョンソンらによると、「協同学習とは、スモール・グループを活用した教育方法であり、そこでは生徒たちは一緒に取り組むことによって自分の学習と互いの学習を最大に高めようとする」ものである。「協同学習の場面では、生徒たちの目標達成のしかたは相互協力関係になっている。すなわち、生徒たちはグループの他の生徒も一緒に目標を達成した時だけ、自分たちの目標に到達できたと考えるようになっている」。「競争学習と個別学習は、それらが適切なものである限りは協同学習を補完してくれる」のであり、「3つの学習事態のうち協同学習がもっとも重要である」(D・W・ジョンソンほか、杉江修治ほか訳『学習の輪―アメリカの協同学習入門―』二瓶社、1998年、18~20ページ)。
そして、D・W・ジョンソンらは、「協同学習」と「旧来のグループ学習」のそれぞれがもつグループの特徴の違いを次のようにまとめている。協同学習グループは、①相互協力関係がある、②個人の責任がある、③メンバーは異質で編成、④リーダーシップの分担をする、⑤相互信頼関係あり、⑥課題と人間関係が強調される、⑦社会的技能が直接教えられる、⑧教師はグループを観察、調整する、⑨グループ改善手続きがとられる。旧来の学習グループは、①協力関係なし、②個人の責任なし、③メンバーは等質で編成、④リーダーは指名された一人だけ、⑤自己に対する信頼のみ、⑥課題のみ強調される、⑦社会的技能は軽く扱うか無視する、⑧教師はグループを無視する、⑨グループ改善手続きはない(32ページ)。すなわちこれである。
いまひとつは、関田一彦・安永悟の言説である。関田らは、「協同学習とは協力して学び合うことで、学ぶ内容の理解・習得を目指すと共に、協同の意義に気づき、協同の技能を磨き、協同の価値を学ぶ(内化する)ことが意図される教育活動」である、とする。そして、次の条件を満たす(または、満たそうと意図される)グループ学習を共同学習と定義したいとして、4項目(条件)を指摘する(関田一彦・安永悟「協同学習の定義と関連用語の整理」『協同と教育』第1号、日本協同教育学会、2005年、13~14ページ)。

(1)互恵的相互依存関係の成立
クラスやグループで学習に取り組む際、その構成員すべての成長(新たな知識の獲得や技能の伸長など)が目標とされ、その目標達成には構成員すべての相互協力が不可欠なことが了解されている。
(2)二重の個人責任の明確化
学習者個人の学習目標のみならず、グループ全体の学習目標を達成するために必要な条件(各自が負うべき責任)をすべての構成員が承知し、その取り組みの検証が可能になっている。
(3)促進的相互交流の保障と顕在化
学習目標を達成するために構成員相互の協力(役割分担や助け合い、学習資源や情報の共有、共感や受容など情緒的支援)が奨励され、実際に協力が行われている。
(4)「協同」の体験的理解の促進
協同の価値・効用の理解・内化を促進する教師からの意図的な働きかけがある。たとえば、グループ活動の終わりに、生徒たちにグループで取り組むメリットを確認させるような振り返りの機会を与えるのである。

ところで、筆者(阪野)はこれまで、原田がいう「協同実践」に替えて、「共働活動」(coaction)という用語を使ってきた。そして、それは、グループのメンバーによって共有化された目標のもとで、各メンバーが主体的・自律的に参加して行う協同(共同)活動を意味する。その本質は、メンバー間の対等で平等な人間関係と、一体的・組織的かつ柔軟な活動を展開するための相互依存・補完・協力の相互作用にある。要するに、共働活動とは、多様な個人や集団が共生関係を形成し、多面的な相互作用によって社会的統合や融合を達成していく過程で展開される協同(共同)活動をいう、と述べてきた。しかし、この説述は必ずしも、説得的で、明確であるとはいえない。前述の「協同実践」に関する疑問や課題、D・W・ジョンソンや関田一彦らの言説などについて考察するなかで、共働活動の内容や特徴について検討することが求められる。それは、市民福祉教育の理論と実践の展開と発展・深化を促すことになろう。

介護等体験と福祉教育―介護等体験は“古くて狭い”福祉観や教育観を再生産する―

現役の小学校の教員です。福祉教育に関心を持ち、地元の社会福祉協議会や老人福祉施設とも連携を取りながら、少しずつですがその活動に取り組んでいます。今年の8月には、東京で開催された全国福祉教育推進セミナーに参加し、「福祉教育で変わる、福祉教育が変わる~誰も排除しない地域づくりのために~」というテーマをめぐって多くを学んできました。サブタイトルの「地域づくりのために」というフレーズが、市民福祉教育研究所が発信されている「まちづくりと市民福祉教育」に関連すると思い、送信させていただきました。私は学生の時、介護等体験で老人福祉施設にお邪魔しましたが、正直なところモチベーションは決して高くなく、施設の方々に迷惑をかけるだけで、多くを学ぶことができませんでした。福祉教育の大切さを感じる今になっては、残念であり、また申し訳ないことをしたと思っています。そこで、介護等体験についてのいろんな考え方をお教えいただければ幸いです。

C県H市の小学校にお勤めの先生から上記のようなコメントをいただきました。
「介護等体験」に関して、取りあえず次のように整理し、またひとつの言説を紹介させていただきます。
周知のように、「介護等体験」は、1997〈平成9〉年6月18日に公布された「小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律」(以下、「介護等体験特例法」と略す。)、同年11月26日に公布された「小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律施行規則」(以下、「施行規則」と略す。)と「小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律等の施行について」の文部事務次官通達によって制度化され、1998〈平成10〉年4月1日から実施されています。
介護等体験の制度の「趣旨」については、介護等体験特例法の第1条で、「この法律は、義務教育に従事する教員が個人の尊厳及び社会連帯の理念に関する認識を深めることの重要性にかんがみ、教員としての資質の向上を図り、義務教育の一層の充実を期する観点から、小学校又は中学校の教諭の普通免許状の授与を受けようとする者に、障害者、高齢者等に対する介護、介助、これらの者との交流等の体験を行わせる措置を講ずるため、小学校及び中学校の教諭の普通免許状の授与について教育職員免許法の特例等を定めるものとする。」と明記されています。すなわち、介護等体験事業のねらいは、「障害者、高齢者に対する介護、介助、これらの者との交流等の体験」を通して、教員の「個人の尊厳及び社会連帯の理念に関する認識を深め」、「教員としての資質の向上を図り、義務教育の一層の充実を期する」ことにあります。
施行規則では、その第1条で、介護等体験の期間は原則として社会福祉施設等5日間、特別支援学校2日間の「7日間」とする。第4条で、小学校または中学校の教諭の普通免許状の授与申請を行うに当たっては、「介護等の体験を行った学校又は施設の長が発行する介護等の体験に関する証明書を提出するものとする。」、と規定されています。
また、文部事務次官通達では、介護等体験の内容について、「介護、介助のほか、障害者等の話相手、散歩の付添いなどの交流等の体験、あるいは掃除や洗濯といった、障害者等と直接接するわけではないが、受入施設の職員に必要とされる業務の補助など、介護等の体験を行う者の知識・技能の程度、受入施設の種類、業務の内容、業務の状況等に応じ、幅広い体験が想定されること。」と説明しています。
以上が介護等体験の制度の概要です。なお、この介護等体験特例法は、田中真紀子さんが父・田中角栄元首相を介護した経験を踏まえて、田中さんらの発議によって議員立法として成立したものです。
介護等体験制度・事業をめぐる研究は、既に15年近く積み重ねられてきていますが、これまでのところ教師教育(学校教育)や教職課程に関する研究者による研究が多いように思われます。そういうなかにあって、日本福祉教育・ボランティア学習学会が2003〈平成15〉年度から2005〈平成17〉年度にかけて取り組んだ「介護等体験の学びと支援システム」の課題別研究は注目されます。
その研究の総括論文にあたる「介護等体験の改革の必要性とその方策」(『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』№10、万葉舎、2005年、262~273ページ)で長沼豊さん(学習院大学)は、介護等体験の問題点と制度改革の具体的方策(私案)について概略次のように述べています。以下に紹介します。ただし、この課題別研究は、社会福祉施設における体験(5日間)に限定されていることを付記しておきます。それはこの研究のひとつの限界でもあります。

「介護等体験」制度の問題点
(1)対象を小・中学校の教員免許取得希望者に限定している問題
本制度は小・中学校の教員免許取得希望者が対象である。制度の趣旨を生かすと す れば、また中等教育学校(1998〈平成10〉年6月の学校教育法改正によって新設された中・高一貫教育を行う学校)の設立や、中・高の教育の連携強化という実態を考慮すれば、高校の教員免許取得希望者にも体験が必要なのではないか。
(2)特例法による実施という問題
免許取得の要件でありながら教育職員免許法の単位認定ではない。学生を送り出す大学等にしてみれば、単位化されたものでなく、学生が個々に体験して免許申請時に証明書を提出するという性質のものであるから、どこまで責任を持つのか曖昧なものとなっている。
(3)参加動機の問題
体験に参加する学生の一般的な実態は、免許取得のみで教員にならない学生の振る舞いが特に問題となっている。事前指導を強化したとしても、動機の弱い、中途半端な学生を体験に参加させることによって施設利用者などの生活の混乱や権利侵害を起こしかねず、こうしたことは制度上避けられない。
(4)体験場所の選定の問題
本制度では、一部例外を除いて、体験する学生が体験場所を選ぶことができない。現在は都道府県の社会福祉協議会が体験場所の割り振りを行っているが、学生からすれば体験場所が「あてがわれる」ものとなっている。また、体験する学生の多い都市部の地域では、きめ細かい場所の選定は無理である。
(5)体験内容の問題
介護等体験の内容は、「等」がついているとはいえその中心は「介護」であり、それも基本的には各社会福祉施設に任せること(「丸投げ」)になっている。大学の事前指導に差があるのと同様に、受け入れの施設によって、体験内容には教育的に質が高いものとそうでないものがあり、かなり差がある。

「介護等体験」制度の改革方策
(1)体験の対象者を教員採用試験合格者のみにする。
(2)教育職員免許法のなかの習得すべき単位として位置づける。
(3)体験の対象者を高校の免許取得希望者にも拡大する。
(4)体験内容や体験場所の幅を広げる。

介護等体験制度・事業は、関係者の努力によって継続的に実施され、一応の「定着」をみるに至っているといえます。しかし、それは、とりわけ体験活動の期間が短いがゆえに、中途半端な、単なる介護等「体験」(「実習」ではない)に留まりがちであり、「体験」を客観的に捉えてその意味を考え、それによって自己変革を促すという「経験」にまで高めるには無理がある、といえるのではないでしょうか。「活動あって学びなし」といった批判もされそうです。また、介護=高齢者・障がい者=社会福祉施設=福祉、障がい児=特別な子ども=分離教育=特殊教育、といった古くて、幅の狭い福祉観や教育観を再生産することに結果するのではないか、危惧されるところです。
市民福祉教育では、「体験学習」が重視されます。それは、ただ単に体験することではなく、その活動を通して「学び」、「気づき」、「ふりかえり」、そして「変わる」ことであり、さらにはあたらしく「動く」ことです。介護等体験の「体験」についてもこのように考え、そのための制度改革や体験内容の改善を図る必要があるのではないでしょうか。
市民福祉教育は、福祉の(による)まちづくりの主体形成を図るための教育活動です。しかもそれは、子どもから大人まで、すなわち家庭教育と学校教育、そして社会教育を含めた、ひとが生まれてから死ぬまでの一生涯にわたる教育・学習(生涯学習)として取り組むことが求められます。その意味からまた、市民福祉教育は、従来の福祉教育(学校福祉教育、地域福祉教育)のみならず、2003〈平成15〉年4月から福祉系高校を中心に新たな取り組みがなされている「福祉科教育」や、大学等における社会福祉従事者養成のための社会福祉専門教育などとの相互関連性や整合性も問われることになります。
介護等体験制度・事業は、学校福祉教育(市民福祉教育)の推進に資する教員を養成・確保するという視点を盛り込むことによって、小・中・高校で展開されている学校福祉教育をより“確か”で“豊か”なものにすることに繋がります。また、長沼さんが指摘するように、介護等体験の対象者を高校の免許取得希望者にまで拡大するとすれば、高校の福祉科教育などともかかわってきます。さらに、介護等体験事業によって、学生を送り出す立場の大学・短大と受け入れ側の社会福祉施設・特別支援学校、その調整窓口(中間支援組織・機関)としての役割を担う都道府県の社会福祉協議会と教育委員会、そして何よりも学習主体である学生と、ときには教育主体にもなり得る施設利用者や特別支援学校の幼児・児童・生徒、等々との総合的で効果的な連携・協働が進めば、学校福祉教育(市民福祉教育)の推進が図られます。介護等体験制度・事業をよりよいものにするためには、こうした点に留意した理論的・実証的研究と、それに基づく「介護等体験の学習支援システムの構築」(『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』№10、特集2)が求められるのではないでしょうか。その際、共生社会の形成に向けたノーマライゼーションやインクルーシブ教育(障がいの有無にかかわらず、すべての子どもが地域の学校の、通常の学級で学べる教育)の理念が基本に据えられなければならないことはいうまでもありません。

まちづくり学習と市民福祉教育

教育分野では、学校における環境教育の推進を図るために、文部省(現・文部科学省)によって教師向けの『環境教育指導資料』が、1991〈平成3〉年6月に中学校・高等学校編、1992〈平成4〉年7月に小学校編がそれぞれ作成・発行された。これによって、従来からの自然保護教育や公害教育が環境教育に転換することになった。1998〈平成10〉年12月に学習指導要領が改訂・告示され、2002〈平成14〉年4月から小・中学校に「総合的な学習の時間」が導入された(高等学校は2003〈平成15〉年度から導入)。そのなかで、横断的・総合的な課題としての「国際理解、情報、環境、福祉・健康」などに関連して、「まち」や「まちづくり」が教材として多く採りあげられることになった。
建築・都市計画や福祉分野では、1992〈平成4〉年6月に都市計画法が改正され、市民参加のもとに市町村が策定する「市町村の都市計画に関する基本的な方針」(「都市計画マスタープラン」)が制度化された。1998〈平成10〉年12月に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行され、それを契機に市民の社会貢献意識が高まり、市民参加・主体のまちづくりが促進された。2000〈平成12〉年6月には社会福祉事業法が社会福祉法に改称・改正され、住民参加による地域福祉計画の策定について規定された。
以上のような制度改革に加えて、とりわけ2000年代以降には、規制緩和や財政再建(財政削減)などの行財政構造改革が推進されるなかで、まちづくりにおける住民・市民参加の必要性や重要性がより一層強調されることになった。
こうしたなかで、いま、多くの住民がまちづくりに主体的・積極的に取り組む意識や意欲を喚起し、まちづくりに必要な知識や方法(技術)を獲得するための仕掛けや仕組みが求められている。ここにひとつの教育実践、教育分野・領域として存立するのが「まちづくり学習」である。
福祉の(による)まちづくりの実践・運動主体の形成を図る市民福祉教育にあっては、「まちづくり学習」の実践や研究と通ずる点が多く、その知見を援用したり、言説を分析し応用・活用することができよう。平易にいえば、「市民福祉教育」の研究を行う際には、固有の視点や一定の秩序による取捨選択が必要であることはいうまでもないが、「まちづくり学習」の理論や方法は「使える」のである。
「まちづくり学習」に関しては、ひとまず日本建築学会が2004〈平成16〉年4月から2007〈平成19〉年9月にかけて刊行した『まちづくり教科書』全10巻が参考になる。以下では、「まちづくりの定義と10の原則」(佐藤滋)についてのみ紹介する(日本建築学会編『まちづくりの方法』(まちづくり教科書 第1巻)丸善株式会社、2004年、3~4ページ)。

「まちづくりの定義」
まちづくりとは、地域社会に存在する資源を基礎として、多様な主 体が連携・協力して、身近な居住環境を漸進的に改善し、まちの活力と 魅力を高め、「生活の質の向上」 を 実現するための一連の持続的な活動である。
「まちづくりの10原則」
(1)公共の福祉の原則
居住環境や町並み景観、地域経済、教育・文化など、地域社会の 公共の福祉に関わる事項を維持向上させ、安全性、快適性、保健・衛生などの基礎的な生活の場の条件、文化的な生活のための条件を整え、公共の福祉を実現する。
(2)地域性の原則
それぞれの場に存在する多様な(社会的、物的、文化的、自然的、歴史的な)地域資源とその潜在力を生かし、固有の地域性に立脚して進められる。
(3)ボトムアップの原則
公権力の行使としての都市計画や巨大資本による都市開発とは異なり、地域社会の住民と市民の発想を元に、地域社会における下からの活動の積み上げにより、その資源を保全し、地域社会を持続的に改善し、発展向上させる。
(4)場所の文脈の原則
歴史・文化の集積としての「場所の文脈」に対する共通理解の元で、社会・空間をその延長としてデザインし維持運営する。ここで言う場所の文脈とは、歴史的に積み重ねられた行為がそれぞれの場所に集積され生活を支える基盤となっているもので、それぞれのまちの社会と空間を支える基本であるとの認識である。
(5)多主体による協働の原則
個人やそれぞれの組織が自立しつつ、補完し合い、連携・協働して、活動する。このことは、一つのまちづくり活動の内部においても、さまざまなまちづくりが連携する場面においても、共通である。
(6)持続可能性、地域内循環の原則
持続可能な社会と環境を目指して、一挙に特定の目的を達成するのではなく、時間をかけた漸進的な過程を経ながら地域社会を構成する多様な主体の参加を得て持続的に進められる。そして、資源や財産、そして人材が地域内に循環し、持続可能な地域社会を維持しながら運営される。
(7)相互編集の原則
目標とする将来像が事前確定的ではなく、個々のまちづくり活動の成果が相互作用の過程を経ながら整合的に組み立てられ、徐々に「まち」の全体を形づくる。このプロセスを相互編集、相互デザインと呼ぶ。地域の内から、そしてボトムアップで全体を編集するのであり、それを導くのが目標空間イメージの共有とその持続を支える仕組みと技術である。
(8)個の啓発と創発性の原則
住民一人一人、個々のまちづくり組織の個性と発想が生かされ、個の自立と創発性により、それぞれが高め合いながら地域が運営されまちづくりが進められる。
(9)環境共生の原則
自然、生態学的環境の仕組みに適合し、物的環境を維持発展させる。そして、個々のまちづくりの活動の集積が広域的な生活圏、例えば河川の流域圏などの都市と農山漁村の複合環境体を維持向上させ、さらにそれらの集積である地球環境システムの維持に貢献する。
(10)グローカルの原則
地域性に立脚しながらも、常に地球的な視野で構想し、さまざまなネットワークに自らを位置づけ、活動する。まちづくりも、地域という境界を越えボーダレスな情報や知恵の交換が進められ、まちづくりの境界を越えて相互編集される。21世紀のグローバル社会の中では、地域性の原則を維持し、しかし地域に閉じこもるのではなく、拓かれた活動としてのまちづくりが展開されている。グローバルで、かつローカルな視点と行動が求められているのである。

ところで、「まちづくり学習」の一環としての市民福祉教育、とりわけ学校教育におけるそれについて考える場合、竹内裕一(千葉大学教育学部)の論稿「まちづくり学習において地域問題を教材化することの意義」(『千葉大学教育学部研究紀要』第52巻、2004年2月、57~67ページ。)が参考になる。
竹内は、その論稿において、まちづくり学習を学校教育の場で実践する際には積極的に地域問題を教材化する必要があることを提唱する。そして、①地域問題を地域の人びとともに学ぶ、②地域問題を日常的・個別的問題と社会問題を媒介する教材として位置づける、③地域問題を一般化・相対化する視点を導入する、という3点にわたる教材化の視点を提示している(59~60ページ)。
竹内はまた、次のようにまちづくり学習を概念規定するとともに、体験学習の重要性を指摘する(57ページ)。

「まちづくり学習は、さまざまな体験を通して子どもたちが自分たちの生活する地域を知り、地域の良さや問題点を見いだし、地域の形成者の一人として主体的にまちづくりにかかわっていこうとする態度を培うことを目指す学習である。
まちづくり学習では、身近な環境との親交を深め、それへの愛情をふくらませ、自ら変容していくために、子どもたちが楽しみながらさまざまな「まち体験」を積み重ねていくことを重視する。そのため、学習過程が重要視され、「体験重視型」学習(AOL: Action Oriented Learning)の学習形態をとる。(中略)「体験重視型」学習とは、楽しさを基軸としながら、人ともの、参加者同士、参加者と地域住民、参加者と地域の「かかわり」を創出し、地域に生起する問題の構造と本質を明らかにし、変革していく態度を養うことができる仕掛けなのである。」

加えて竹内は、まちづくの学習が抱える問題点として、次の4点を指摘している。そして、子どもたちを中心にしたまちづくり学習を構想しようとする場合は、以下の第3と第4の問題点が重要である、という(57ページ)。

第1は、楽しく体験することを重視する余り、ゲーム的要素が強くなりすぎ、学習内容が浅薄なものになってしまう危険性がある。
第2は、学習過程をゲーム仕立てにするために、実際の現実を抽象化モデル化し過ぎてしまい、正確な事実認識に基づいた学習が展開されにくい。
第3は、「体験重視型」学習だけでは、地域に生起する厳しい意見対立を伴うような地域問題に対して、有効な解決策を導き出し得ない。
第4は、まちづくり学習の場が主に「学校外」であったため、どうしても参加者が限られてしまう。

市民福祉教育は、地域の社会福祉問題を学習素材とし、体験学習の学習形態を採ることにひとつの特色を見いだすことができる。したがって、学校における福祉教育に限っていえば、それは本来的に学校内で自己完結するものではない。教育・学習活動の軸足は、「20坪の教室」ではなく、学校が所在する地域に置くことが強く求められる。とともに、社会福祉問題については、現代社会の仕組みや運動法則などによって必然的に生ずる「社会問題」、その重要な一部である「生活問題」、また地域社会レベルの問題として捉えられる(捉える必要がある)「地域問題」等々の諸問題とのかかわりにおいて実証的に把握し、追究することが必要かつ重要となる。そこではじめて、地域で暮らす高齢者や障がい者などが抱える個別具体的な、厳しく深刻な生活問題や福祉問題の実態を認識、理解し、その本質に迫ることになる。福祉教育実践(論)においてはあいかわらず、その活動は理念なきハウツーに偏り、アイスブレイク的なゲーム仕立ての疑似体験が多い。学校の体育館で跳び箱やマットをバリアにして、アイマスクや車椅子などを使って行う単なる体験活動はその最たるものである。要するに、福祉教育実践の実際は、竹内の指摘と同じような限界や問題点、課題などを抱えているといわざるをえない。
「まちづくり学習」の一環としての市民福祉教育のあり方について考えるとき、以上のような現状認識とその問題点や課題を解決するための具体的方策について追究することが求められる。

呼び寄せ高齢者、孤立から共生への途―「男おいてけぼりのひとりぼっち」から「男それぞれの舞台の立役者」へ―

私の担当地区にお住まいのHさんは、娘さん夫婦の勧めに応じて長年住み慣れたふるさとを離れ、数年前に引っ越してこられました。Hさんはそれまでの一人暮らしの生活から、お孫さんもいる家族の一員として、以前とは違う“至れり尽くせり”の生活をすることになりました。「おじいちゃん、ご飯ですよ~!」「おじいちゃん、お風呂ですよ~!」という生活です。ところが、1年近くが過ぎたころから、Hさんは体調を悪くし、そのまま寝たきりになるのではないかと思われるほどの状態になられました。
ところが、何を思ったか、スープの冷めない距離ではありますが、娘さん夫婦の家を出てアパートを借り、一人暮らしを始められました。それからのHさんは、私の、何よりも娘さん夫婦の心配に反して、俄然元気になられました。図書館から借りた本を読んだり、なんとパソコンを独学で学び始められました。また、あまり外出することのなかったHさんですが、市内にある銭湯に通い始め、何人かの友達もでき、以前とは違った楽しい、生き甲斐のある生活を始められました。
こうしたHさんの様子を目の当たりにして、民生委員研修で学んだいわゆる「呼び寄せ高齢者」のことを思い出しております。ご家族のなかではうまくいっていても、「地域」とのかかわりが希薄になると、生きる力が弱くなったり、希望を失ったりするのではないかと思います。呼び寄せ高齢者に関していわれる「孤立から共生へ」という言葉とその意味するところ(内容)が本当に重要であり、民生委員としての活動もこういった点に留意する必要があるのではないか、と思っています。先生のお考えをお伝え願えれば幸いです。
S市の一民生委員より

「呼び寄せ高齢者」に関する上記のようなコメントをいただきました。
Hさんは、読書やパソコン学習による「自分づくり」、図書館や銭湯で出会った人たちとの「仲間づくり」、そしてそこここで知り合った人との「役割づくり」の“3つのづくり”を始められ、それが生き甲斐づくりにつながって元気になられたのではないでしょうか。民生委員活動や地域活動、福祉の(による)まちづくりや市民福祉教育の実践活動のあり方について考える際に、留意しておきたい点です。

ところで、上野千鶴子さん(東京大学名誉教授)は、「男おひとりさまに生きる道はあるか?」という問いに対して、「イエス」と答え、その処方箋(「ひとりで生きる智恵と工夫」)について『おひとりさまの老後』(法研、2007年)や『男おひとりさま道』(法研、2009年)などで説いています。

『おひとりさまの老後』では、「『さしむかいの孤独』ということばがあるが、(夫婦は)ふたりでいるから(家族以外の人たちから)孤立することだってある」(32ページ。括弧内は阪野)といい、「あとがき」では、「なに、男はどうすればいいか、ですって?/そんなこと、知ったこっちゃない。/せいぜい女に愛されるよう、かわいげのある男になることね。」(263ページ)と断じています。

前段の指摘は、さしずめ「夫婦おふたりさまのひとりぼっち」ということでしょうか。ここからさらに、男とりわけ定年退職後の夫については、その俗語である「粗大ゴミ」や「濡れ落ち葉」「ワシも族」が連想されます。家庭や職場ではない第三の居(要)場所づくりや地域社会へのソフトランディング、すなわち第二の人生の新たなライフスタイルをいかに創造するかが問われるところです。

後段に関しては、『男おひとりさま道』の「あとがき」で、「困ったときに困ったといえる『かわいげのある』男おひとりさまが増えるのは大歓迎。そして世の中のしくみをその助け合いができる方向に変えていけたら、と願っている」(271ページ)と述べています。「困ったときに困ったといえる『かわいげのある』男」とは、自立・自律した男、ということでしょう。いうまでもなく、時期や状況に応じて、自立には依存が、自律には他律が必要になります。そして、「世の中のしくみをその助け合いができる方向に変えていく」ためには、それにかかわる「人づくり」と、そのための「教育づくり」が必要かつ重要となります。市民福祉教育の存立するところです。

パターナリズムと福祉教育―“苦情”は制度等改善に関する“提案”である―

社会福祉実践者の中には、いまだに「~してあげる」というお節介を信条としている者も少なくないようです。社会福祉が内に抱えるこのようなパターナりズムから脱却していくための福祉教育が実践者にも求められています。社会福祉におけるパターナリズムの問題については、利用者が自らの問題について考える(自己決定)ことができるようにあらゆる情報を提供し、利用者の自己決定を尊重していくインフォームド・コンセントの理念に基づいて支援を行うことに加え、その際利用者の自己決定のリスクが高ければ、支援内容をよりサポーティブにしていけば、多少なりともディレンマは解消するだろうと思います。また、福祉サービスにおける苦情は、先生が述べられているように、苦情処理や苦情解決のためのシステムとして機能しているだけです。苦情が”貴重な情報”として扱われて、制度や政策の改善などにつなげていくためには、”問題解決を志向した批判的思考”を取り入れていくシステムに変えていくことが大切だと思います。その際、苦情は制度等改善に関する提案と呼称することにより福祉教育につながりませんか。
社会福祉実践にかかわる一市民

パターナリス゜ムと福祉教育をめぐって上記のようなコメントをいただきました。
福祉サービス利用者をめぐる(に対する)市民福祉教育のあり方について考える際の、重要な視点です。これまでありがちだった精神主義的な福祉教育論や、安易な実践活動のハウツー中心の福祉教育論などから脱却するためにも、留意すべき言説のひとつであると考えます。

付記
カテゴリー「まちづくりと市民福祉教育」に掲載されている「(10)パターナリズムと市民福祉教育」(2012年9月10日/本文)をご参照下さい。

阪野貢著『「市民福祉教育」の研究―総括と展望―』私家版、2011年。

本書は、既刊の3冊を合本したものである。『戦後初期福祉教育実践史の研究』(角川学芸出版、2006年)、『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』(みらい、2009年)、『市民福祉教育をめぐる断章―過去との対話―』(大学図書出版、2011年)がそれである。
なぜ、従来の「教育」ではなく、「福祉教育」を打ち出し、さらには「市民福祉教育」への展開を図る必要があるのか。その点について追究するとともに、科学的な体系を有し、客観化・普遍化された福祉教育や市民福祉教育の実践成果(証拠、エビデンス)を提示することが求められる。これは、福祉教育実践と研究に関わる者の原点であり、ミッション(社会的使命)であろう。私は、それには十分に応えることができず、未だに多くの限界と問題点や課題を抱えていることは承知している。
また、科学的で客観的な「証拠」と、筋道を立てた考え方(「論拠」)に基づいてひとつの「結論」(主張)を導き出す論理的思考を十分に採ってきたかといえば、未だにロジック(論理)とパッション(熱い想い)の狭間で自問自答を繰り返している。
さらには、自らの福祉教育実践と研究に関するレーゾンデートル(存在理由、存在価値)について厳しく追求してきたか。その実践と研究は、ディレッタンティズム(学問を趣味や道楽として愛好すること)に陥っていないか。これらに対する回答も、未だに必ずしも明確ではない。ただ、マックス・ヴェーバーの「ディレッタンティズムが学問の原理となっては、もはやおしまいであろう。『直観的に捉えること』を願う人びとは、映画館へでも行くがよい。」(『宗教社会学論選』(大塚久雄・ほか訳)みすず書房、1972年)という言葉(言説)は認識している。
そういうなかにあって、ひとまずこれまでの実践と研究を総括し、できれば今後を展望したいというのが、本書の刊行意図である。忌憚のないご批判やご叱正がいただければ望外の幸せである。
(『「市民福祉教育」の研究―総括と展望―』「はしがき」より)

阪野貢著『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい、2009年。

21世紀はガバナンスの時代と言われ、いかに自治体主導から住民主体のまちづくりへ転換していくかが問われている。そのような時代の中で、「市民福祉教育」を通して主体的・自律的・能動的な実践主体としての住民形成を図ることの必要性を説いたのが本書である。本書は、福祉教育の実践と研究に長年携わってきた著者が、学校福祉教育と地域福祉教育を融合する「市民福祉教育」について追究し、その構築を図りたいという想いのもとに編み上げた集大成とも言える書である。
著者は、「市民福祉教育」を追求するにあたって、「歴史」「理論」「実践」という3つの要素が相互に関係していることを重要視している。第1章から第3章では「歴史」、第4章から第9章では「理論」、第10章から第13章では「実践」についてそれぞれ論述されている。「歴史」については、明治40年代以降の「地方改良運動」の取り組みにまで遡り、その後の福祉改革や教育改革に着目しながら「日本福祉教育・ボランティア学習学会」設立までの福祉教育の形成・展開過程などをわかりやすく解説している。「理論」については、特に第4章の「市民福祉教育の理念と構造」において、「市民」の育成や「住民自治」の実現を目的とした「市民福祉教育」の概念の説明、基本的な考え方が提示されている。「実践」については、狛江市社会福祉協議会の“あいとぴあカレッジ”の取り組みや高岡市社会福祉協議会の「ジュニア福祉活動員」育成事業などを取り上げ、実践事例の検証を行っている。
本書は、「歴史」「理論」「実践」の3つの側面から「市民福祉教育」の意義や今後のあり方について必要な視点・視座を示唆しており、福祉教育に従事する人をはじめ、1人でも多くの方々に読んでいただきたい一冊である。
(「ブックガイド」『社会福祉研究』第108号、鉄道弘済会、2010年7月、48ページ)