阪野 貢 のすべての投稿

尻に火が付く

一週間前 座談会の素稿のチェックを依頼した
先週末 期限までの提出を催促した
期日までに 戻ってきたのは半数だった
昨日メールの通知音を聞きながら 待っていた
なぜか 虚しさを感じていた

原稿の添削作業が 追いつかない
まだ 終章の原稿も未完成
追加のインタビューも これからだ
入稿まで一ヶ月 カウントダウンが始まった

時間はあるようでない
一週間デスクに張り付くのは 今週限り
来週は 大学のゲスト授業が2本と泊まりの出張
再来週は 羽幌・留萌・網走・月形と丸々留守をする
混み出すスケジュールに焦りを感じた

やるべきことをやるしかないか
一つひとつ丁寧に やり遂げてゆこう
締め切りまでには 仕事は終わる
いままでもそう暗示をかけて 仕事をこなした
問題は 心に余裕をなくした自分を見ることだ
ただ それすら楽しむ自分がいるから 始末に負えない
だから 尻に付いた火は消さずに突っ走ろう

〔2021年11月2日書き下ろし。頼まれると二つ返事で引き受ける。まだ大丈夫だと追加する。結果11月は超多忙となった〕

阪野 貢/「共生保障」としての「まちづくりと市民福祉教育」を考えるために ―宮本太郎著『共生保障』再読メモ―

〇筆者の手もとにいま、宮本太郎(みやもと・たろう。政治学・福祉政策論専攻)の本が2冊ある。『生活保障―排除しない社会へ―』(岩波新書、2009年11月。以下[1])と『共生保障―<支え合い>の戦略―』(岩波新書、2017年1月。以下[2])がそれである。[1]は、人々の生活は雇用と社会保障がうまくかみあってこそ成立するという前提に立つ。そして、雇用と社会保障を包括する「生活保障」という視点から、日本と各国の雇用と社会保障の連携を比較分析し、ベーシックインカムやアクティベーション(活性化)などの諸議論にも触れながら、日本で生活保障システムがどのように再構築されるべきかを論じる。その際、所得保障だけではなく、大多数の人が就労でき、あるいは社会に参加できる「排除しない社会」のかたちを問う。とともに、そうした社会を実現するために必要な「生きる場」(人々が誰かにその存在が「承認」されていることで、生きる意味と張り合いを見出すことができる場)が確保される生活保障のあり方について考える。なお、ベーシックインカムとは、就労や所得を考慮せずにすべての国民に一律に一定水準の現金給付を行なう考え方である。アクティベーションとは、雇用と社会保障の連携強化を図り、社会保障給付の条件として就労や積極的な求職活動を求める考え方である。
〇[2]は、[1]の延長に位置づけられ、生活保障の新しいビジョンとして「共生保障」を提示する。本稿は[2]の(限定的な)再読メモである。宮本はいう。旧来の日本型生活保障は、現役世代の「支える側」(「強い個人」)と高齢者・障がい者・困窮者などの「支えられる側」(「弱い個人」)を過度に峻別してきた。そして、双方の生活様式を固定化し、「支えられる側」を一定の基準によって絞り込みながら、 社会保障・社会福祉の支出を医療や介護などの人生後半に集中させてきた(「人生後半の社会保障」)。ところがいま、高齢世代や子育て世代、非正規や単身の現役世代を中心に、生活困窮・孤立・健康などの様々な問題を、しかもそれらを複合的に抱える事態・状況が拡大・深刻化している。そこで、「支える側」と「支えられる側」という二分法から脱却し、生活保障の新しいビジョンとして、(すべての人の福祉ニーズに応える)普遍主義的な「共生保障」の制度や政策を構築する必要がある(「補遺」参照)。これが[2]における宮本の問題意識であり、議論(提唱)である。その際宮本は、「共生保障」は、地域における人々の「支え合い」を可能にするよう、「地域からの問題提起を受けとめつつ、社会保障改革の新たな方向付けにつなげる枠組みである」(48ページ)という。
〇宮本は、「共生」について次のように述べる(抜き書きと要約)。

(日本社会では)人々が支え合いに加わる力そのものが損なわれ、共生それ自体が困難になっている。こうした現実に分け入ることなく、規範として共生を掲げ続けるならば、それは現実を覆い隠すばかりか、困難になった支え合いに責任をまる投げしてしまうことにもなりかねない。(ⅳページ)。

共生という言葉は、その意味がいささか漠然としているゆえに、誰も反論しがたく、だからこそ都合良く使われてしまうところがある。今、社会の紐帯が根本から揺らいでいることから、「共生社会」が盛んに提起されるが、人々がどのように関わり合い、誰が何に対して責任をもつ構想なのか、はっきりしないことが多い。(223ページ)

共生や支え合いは規範として押し付けられる筋合いのものではない。一見したところ利他的な行為であっても、共生は長期的に見ると自己に利益をもたらす(「手段としての共生」)。また、人々が互いに認め認められる相互承認の関係を取り結ぶことができれば、共生はそれ自体が価値となる(「目的としての共生」)。共生や支え合いは、人々にとって手段でもあり目的でもあり、したがって本来は自発的な営みなのである。(194ページ)。

〇こうした指摘は、国(厚生労働省)がその実現を図る「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」について考える際の重要なポイントとなる。「我が事・丸ごと」の政策は、社会保障や社会福祉の国家責任が地域社会に転嫁され、社会保障・社会福祉費の削減と自助・互助による支援体制の推進が図られている。それを一言で言えば、「他人事(ひとごと)・丸投げ」である。確かな「共生」には、政府主導による「上から」の規範としてではなく、地域・住民の、地域・住民による、地域・住民のための「下から」の支え合いの戦略と、それを踏まえた事業化や制度化が強く求められる。なお、国が説く「地域共生社会」は、「制度・分野ごとの『縦割り』や「支え手」「受け手」という関係を超えて、地域住民や地域の多様な主体が 『我が事』として参画し、 人と人、人と資源が世代や分野を超えて『丸ごと』つながることで、住民一人ひとりの暮らしと生きがい、地域をともに創っていく社会」(厚生労働省「『地域共生社会』の実現に向けて 」2017年2月)をいう。耳ざわりの良い(口当たりの良い)言葉が連なる、“美しく”まとめられた一文である。ここで筆者は、中身がスカスカ(浅薄皮相)な、「活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする」(なんと白々しいことか)という「美しい国、日本」(2006年9月に召集された第165回国会における安倍内閣総理大臣の所信表明演説)という言葉を思い出す。
〇宮本は、「共生保障」について次のように述べる(抜き書きと要約)。

共生や自立というテーマが政府から打ち出されるとき、そこには行政と政治の責任が曖昧にされ、人々の助け合いや自助にすりかえられる危険もある。共生保障とは、そのようなすりかえを回避し、人々の支え合いのために行政と政治が果たすべき条件を示す政策基準でもある。(219~220ページ)

共生保障は、年金や医療などを含めた生活保障のすべてに関わるものではない。それは、次のような制度や政策を指す。
第一に、「支える側」を支え直す制度や政策を指す。これまで男性稼ぎ主を中心とした「支える側」は、支援を受ける必要のない自立した存在とされてきたが、「支える側」と目される多くの人々は経済的に弱体化し孤立化し、力を発揮できなくなっている。
第二に、「支えられる側」に括(くく)られてきた人々の参加機会を広げ、社会につなげる制度と政策である。そのためにも、人々の就労や地域社会への参加を妨げてきた複合的困難を解決できる包括的サービスの実現が目指される。
第三に、就労や居住に関して、より多様な人々が参入できる新しい共生の場をつくりだす施策である。所得保障については、限定された働き方でもその勤労所得を補完したり、家賃や子育てコストの一部を給付する補完型所得保障を広げる。(47ページ)

人々を共生の場につなげ、共生の場自体を拡充していく共生保障の戦略は、それ自体が生成途上のものである。このような考え方をより具体化していくためにも、地域におけるさらなる創造的な取り組み、社会保障改革の新展開、そして両者をつなぐ共生保障の政治が必要である。生活保障の新しい理念は、そのような地域、行政、政治の連関のなかで活かされ、練磨されていくべきものであろう。(221~222ページ)

〇「支える側」を子育て支援や介護サービス、リカレント教育などによって支え直し、「支えられる側」に就労支援や地域包括ケア、生活支援サービス(見守り・外出支援・家事支援)などを通して社会への参加機会を提供する。それは、より多くの人々が共生や支え合いの「場」(居住・就労・活動の場や領域)に参入することを意味する。その「場」は、地域における居住(高齢者や現役世代などが支え合いながら一緒に暮らす、あるいは一人暮らしの高齢者が地域の生活支援を受けながら暮らす「地域型居住」)の場をはじめ、コミュニティ(共同体)や就労の場、共生型ケアの場など、人々が直接、間接に相互の必要を満たし合う場(フィールド)を指す(51、52、94ページ)。
〇宮本は、「共生保障」型の地域福祉や地域組織づくりについて、その実践事例を紹介する。「ひきこもりで町おこし」を進めた秋田県藤里町社会福祉協議会の取り組みや、「このゆびとーまれの共生型ケア」を進めた富山市の民間デイサービス事業所「このゆびとーまれ」の取り組み、「小規模多機能自治」と呼ばれる島根県雲南市の市民と行政による協働のまちづくりの取り組みなどがそれである。
〇藤里町社協の取り組みは、ひきこもりの若者の居場所や交流拠点、働き場所として、2010年に地域福祉の拠点「こみっと」を開設し、それを特産品づくりによる町おこしへとつなげた実践である。それは、「障害や生活困窮など、働きがたさを抱えていた人々が、支援を受けつつも多様なかたちで働くことができる新しい職場環境」(82ページ)を指す「ユニバーサル就労」の考え方による。「このゆびとーまれ」のそれは、高齢者だけでなく子どもや障がい者などの誰もが利用できるデイケアハウスを1993年に開所し、それを「地域密着・小規模・多機能」をコンセプトとした共生型福祉施設、そしてその後の「富山型デイサービス」へと発展させた実践である。それは、「福祉のなかから当事者同士の支え合いをつくりだし、部分的には支援付き就労にもつなげていく試み」(106ページ)である「共生型ケア」の考え方による。それらの詳細については次の文献を参照されたい。
・菊池まゆみ『「藤里方式」が止まらない― 弱小社協が始めたひきこもり支援が日本を変える可能性?』萌書房、2015年4月
・菊池まゆみ『地域福祉の弱みと強み―「藤里方式」が強みに変える―』全国社会福祉協議会、2016年10月
・惣万佳代子『笑顔の大家族このゆびとーまれ―「富山型」デイサービスの日々―』水書坊、2002年11月
〇雲南市では、「まちづくりの原点は、主役である市民が、自らの責任により、主体的に関わることです」(雲南市まちづくり基本条例前文)という基本理念のもとに、2010年に公民館を地域づくり・生涯学習・地域福祉を担う交流センター(公設民営・指定管理)に改組する。そして、そこに自治会(地縁型組織)や消防団(目的型組織)、PTA(属性型組織)などがつながり、地域の総力を結集して地域課題を自ら解決し、住民主体のまちづくりを進める地域自主組織(小規模多機能自治)を概ね小学校区に立ち上げた。そこでは、要援護者の安心生活見守り事業や高齢者の買い物支援事業などが展開されている。地域自主組織は、市の財政支援や人的支援などを受けながら、地域間の連携や行政との協議・協働を図り(「地域自主組織取組発表会」「地域円卓会議」「地域経営カレッジ」等)、さらには2015年に「小規模多機能自治推進ネットワーク会議」を設立して全国の他地域とのネットワークを構築している。特筆されるところである。
〇なお、こうした「好事例」について、宮本は次のようにもいう。「『好事例』は、既存制度を超える『技』(『裏技』『荒業』を含めて)を備えた突出したリーダーシップによる例外的事例に留まっている」(ⅴページ)。「新聞やメディアは、地域で広がるひとり親世帯や高齢世帯の困窮、孤立をクローズアップし、時に警鐘を乱打する。その一方で、地域における困窮者支援やまちづくりの『好事例』を積極的に取り上げ、これを持ち上げる。さらに、国の社会保障改革の停滞について伝える。だが、深刻な地域の現実と一部の『好事例』と停滞する社会保障改革が、時々のトピックスに伴って代わる代わる前面に出て、相互につながらない」(ⅵページ)。「地域では、人々の支え合いを支え、共生を可能にしようとする多様な試みが広がっている。しかし、こうした動きは、『好事例』に留まり大きな制度転換にはつながっていない」(218ページ)。留意しておきたい。
〇「共生保障」の観点から「まちづくりと市民福祉教育」について一言しておきたい。(「支えられる側」とされがちな)高齢者や障がい者、子どもなどが自律的・能動的な地域生活を営むためには、「支える側」による個別具体的な支援とともに、安全・安心な生活環境が整備され豊かな社会関係が構築されなければならない。しかも、生活上の困難や社会的課題を抱える高齢者や障がい者、子どもにはそれゆえに、地域社会を構成する一員であるとともにまちづくりの主体であることを認識し、その役割を果たすことが期待される。その際、(まちづくりの主体である)その地域に暮らす多様な人々との相互理解や相互承認、共働や支え合い、それを保障するための仕組みが必要かつ重要となる。それが、「まちづくりと市民福祉教育」の内容や方法を決める。
〇周知の通り、(1)1970年代以降の高齢化社会の進展を背景に、高齢者の学習活動の奨励や社会参加活動の促進が図られるなかで、高齢者の学習・教育プログラムが開発、提示されてきた。(2)1960年代にアメリカで生まれた身体障がい者の自立生活運動を契機に、日本では1980年代以降、障がい者が自律的に地域生活を営むための自立生活プログラムが組織化され、その普及が図られてきた。(3)学校教育においては1980年代から「地域学習」が取り組まれ、1980年代後半には「環境教育」が注目される。2002年度から小・中学校で(高等学校では2003年度から)全面実施された「総合的な学習の時間」では、「まちづくり学習」の取り組みが行なわれるようになった。こうしたなかでまちづくり学習プログラムの開発が進むことになる(「付記」参照)。(4)1990年代以降、社会の階層化・ 分裂化が指摘され、政治や社会に積極的・主体的に参加する「能動的市民」(民主主義社会の形成者)の育成が求められた。イギリスでは 2002 年に、公教育の中等教育段階でシティズンシップ教育が必修化された。日本では2006 年に、経済産業省によって「シティズンシップ教育宣言」が出された。それをきっかけに、東京都品川区の小中一貫教育のなかでの「市民科」の設置(2006年)、お茶の水女子大学附属小学校における「市民」科の授業の取り組み(2007年)などがクローズアップされた。以後、学校教育のみならず、生涯学習の一環としてシティズンシップ教育プログラムの開発と実践が展開されることになる。
〇これらは、「まちづくりと市民福祉教育」に含まれるべき学習・教育活動であるが、市民福祉教育実践として十分に取り上げられてこなかった。共生保障としての「まちづくりと市民福祉教育」の重要な要素であり、積極的な議論の展開が求められる。  

補遺
普遍主義的改革の「三重のジレンマ」
1990年代からの社会保障改革の基調は普遍主義的改革であったが、その改革は空転し、掲げた目標のように進んでいない。それは、3つの深刻なジレンマあるいは矛盾――(1)国と自治体の財政的困難、(2)自治体の縦割り行政の制度構造と機能不全、(3)「支える側」の中間層の解体と雇用の劣化のなかで進行してきたからである、と宮本はいう。留意しておきたい(抜き書きと要約)。

第一に、本来は大きな財源を必要とする普遍主義的改革が、(経済)成長が鈍化し財政的困難が広がるなかで(その打開のための消費税増税の理由づけとして)着手されたということである。高齢社会が到来するなかで、高齢者介護については社会保険化(介護保険)が可能だったが、障がい者福祉や保育のニーズは、介護に比べて誰しも不可避とはいえない面があり、社会保険化は困難であった。したがって、財政的困難のなかで税財源へ依拠するというジレンマがいっそう深まった。
第二に、自治体の制度構造は「支える側」「支えられる側」の二分法に依然として拘束されている面がある。にもかかわらず、普遍主義的改革においては、その自治体にサービスの実施責任が課された。
第三に、救貧的福祉からの脱却を掲げた普遍主義が、中間層の解体が始まり困窮への対処が不可避になるなかですすめられた、という逆説である。日本社会で救貧という課題が現実味を増すなかで、救貧的施策からの転換が模索されるという皮肉な展開となったのである。そして新たな目標であった自立支援は、雇用が劣化して多くの人々の就労自立が困難になるなかで取り組まれた。
すなわち、共生保障とも重なる普遍主義的改革は、財政危機、自治体制度の未対応、雇用の劣化による中間層の解体という三重のジレンマのなかで、進行したのである。この三重のジレンマこそが、普遍主義的改革の展開とその結果を方向づけた。(153~154ページ)

付記
子どもを対象とした「まちづくり学習」の経緯―素描―

投票所混んでました

11時前最寄りの中学校の体育館に
妻と連れだって出かけた
体育館の入口から投票の列があった
受付を済ましてその列に並ぶ

遅々として進まない列に喜ぶ
蜜の状態に不快な態度をする人もいる
小選挙区の投票を済ましてさらに長くなった列につく
50メートルほどの列が5重に折られて待つ
原因は投票用紙と交換する手続きを一人でこなしてること
比例区と最高裁判所裁判官国民審査の投票用紙を
配るところが追いつかない
こんな風景もなぜか嬉しい

子どもの手を引いた若い夫婦や高校生らしき若者
老若男女が体育館を埋めた風景は初めての経験だ
裁判官審査で×をつける人はメモを用意してきた
ようやく用紙が渡され投票を終えた

玄関に向かうと入口の外にまで列ができていた
所要時間20分十分楽しんだ
11時現在の全国の出足は振るわぬようだがここは違った
この動きが本物ならば変わるかも知れない
そんな期待を初めてもった投票所の空気だった

結果は与党293野党162
おちょくられても懲りない人たちに落胆した
票に取り込めなかった立憲への不信票だった

〔2021年11月1日書き下ろし。さてお手並み拝見といたしますか。立憲はトップを替えて出直すしかない〕

矍鑠と生きる

夫に先立たれシングルマザーで店を持った
いまも仕切る心配性の88歳
たくさんの薬を飲むという
塩っ気のあるのは御法度だ
黒ニンニクを作りおやつ代わりに食べる
これを食べてから風邪引かなくなった
そう豪語する声に押されて3個も食べた

かくありたい
ともかく人が寄ってきた
来るとなれば手作りのおやつが並ぶ
アメリカンを入れるカップも個別に用意する
コーヒーが薄いのは胃を守るための処方箋
話題には事欠かない情報通
人を楽しませるのが一番嬉しそう

そうはいかない
サ高住に入居させられたご近所さん
通院の帰りに寄り道する
昼飯が出ないからここで済ます
戻っても寂しいのだと知っている
戻ると認知が進みそうだとも知っている
毎月20万円も払って健康は担保できない
不安を抱えて会いに来る
帰りたくないとこぼし泊めてほしいと哀願する
同情では済まされぬ
だからキッパリ断る

やるもんだ
毎年1本の苗木から大ぶりの菊を丹精込めて育てる
その技ぶりは見事としか例えようがない
今夏の猛暑にも負けず毎日水をたっぷりやったという
店の横や裏に十数鉢が所狭しと並べられていた
毎年老人施設の晩秋を飾る花となる
今朝も車で取りに行くというので付いてきた
選んでいる間の講釈を聞くのも楽しい
我が家にも小ぶりでまだ蕾の多い一鉢をお借りした
部屋に飾るとなぜか嬉しい

そこなんだ
近くに来ればみんなが立ち寄る憩いの場
おしゃべり三昧で笑いこける賑わいの場
世話焼きに忙しい振る舞いの場
でもご近所さんがいなくなる
顔見知りもいなくなる
みんな先に旅立った
うまいもんをこさえても食べる人がいなくなる
田舎料理だといいながら手間隙かけて心を込めた
喜んでもらえたならいくらでもこさえた
いまじゃみんな鬼籍に入って叶わない
サロンのような集まりも閑古鳥が鳴いていた
だから時々お邪魔する気さくな人を歓待する

そこだった
88歳は人生を皺に刻んだ
昔気質の人情味をあったかく刻んでいた
男にはマネできない女の気くばりだった
時に厳しくマジに世話焼きだった祖母の姿を重ねた
矍鑠(かくしゃく)として生きた祖母の生き方に重ねた

〔2021年10月29日書き下ろし。懐かしいおもいは昔気質というにふさわしい人との出会いにあった。人とつながることの確かさを学んだ〕

無用の長物アベマスク

こんなことだと思ってた
こんなことしか残せなかった
血税はいまもボタボタ落ちてゆく

役人は不始末マスクで隠す
管轄違いと知らんぷり
血税はさらにドンドンつぎ込まれる

処分のしようのない大量マスク
使う気などさらさらない
血税は次々バカを見る

115億円相当の在庫と聞いた
保管料8ヶ月で約6億円
血税は無駄金と成り果てる

120億円もの金があったらどう使おうか
児童養護施設の子どもたち
貧困で食べることもままならない子どもたち
病弱で遊びにすら行けない子どもたち
本当に困っている子がどれだけいることか
そう使われてこそ生きた金となる

そもそもこのマスク
有効活用はかるならまだまだ使える
アフリカの感染は公表以上の惨状か
国際支援で生かす道なら救われる
国策で懸命に作った人も救われる

きみはこの事態を許せるか

〔2021年10月27日書き下ろし。腹立たしい安倍政権時の無策の上の無駄遣い。会計検査院は職員を増員して徹底的に調べるべきだ。東京五輪のチェックも厳しくして浪費を明らかにしてほしい。札幌五輪誘致に反対する〕

政府配布の布マスク、8200万枚・115億円分余剰 検査院
新型コロナウイルスの対策事業について会計検査院が検査し、介護施設などに配るため政府が調達した布マスク約1億4千万枚のうち、今年3月末時点で約8200万枚(約115億円相当)が倉庫に保管されていたことが26日、関係者への取材で分かった。昨年8月~今年3月の保管費用が約6億円に上ることも判明した。(日経2021年10月27日)

人を選ぼう

党で選ぶな 人を選ぼう
党の公約なんて バブル同然あてにはできぬ
党の公約なんて やりたいことの羅列だけ
当選しても 逃げ口上で信用できない
できない やらない きかないのは 当たり前
政権取れば 自由に勝手に決める
不都合なもんは ただ捨てるだけ

党で選ぶな 人を選ぼう
自分の選択を 信じよう
政治家選びを 賭け同然ではままならぬ
自分の価値観と違うのは まず捨てよう
新人は 直感を信じるのも面白い
当選回数で 選ぶのも面白い
既得権の有無は 回数がままならない世界です
古い順に 切っていくのも捨て方です

党で選ぶな 人を選ぼう
綺麗事の言葉を並べ ドロドロの本音と中身を隠す
党の言いなりに へいこらかしずくしかないか
党にへつらい 金と出世を願うしかないか
党を改革する志なんか すでに捨ててしまったか
そんな議員は山ほどいるから 原石を見つけたい

党で選ぶな 人を選ぼう
党が公認したならいいのかなって疑おう
党の一体誰が公認したんだ
党のお墨付きなどあってなきもの同然 
この際廃棄しましょう

党で選ぶな 人を選ぼう
ジバンも怪しい
カンバンすらない
カバンは空っぽ
だからホントになってほしい人材が出られない
二世三世家業を継ぐ血統主義のこの世界
まずは劣化した人たちから落としてみようか
少しは空気が変わる予感がする

そこで相談だが
きみはいままでと違う風景を見たくはないかな
さあ選挙に行こう!

〔2021年10月28日書き下ろし。31日は衆議院議員選挙。若者たちの投票率を上げたい〕

北海道に来るなら

人を見下した面(つら)は見たくもない
ダミ声なんて聞きたくもない
北海道に来るなら
ほっかぶりでもして来るがよい

言葉が軽く無知が際立つ
棘ある言葉で心をいたぶる
北海道に来るなら
黙って観て食って帰るがよい

人望少なく不遜になる
これ以上何も求めぬ何もするな
北海道に来るなら
ただのジイジイとして来るがよい

米づくりに必死に取り組んだ姿も知らぬ
温暖化のお陰だとバカ言ってるんじゃない
北海道に来るなら
田んぼに入って援農するのがよい

こんな輩が副総裁さまでお通りなさる
こんな輩が首相さま財務大臣さまでよく持った
北海道に来るなら
肩書きみんな取っ払って来るのがよい

人間長くやり過ぎた
タダの人が偉くなったと勘違いした
北海道に来るなら
恥の垢を拭って来るのがよい

人心をこれだけ不快にして粋がる
人心をこれだけ邪険にして偉がる
北海道で二度と語るな
不逞な言動で侮るな
農民を二度となめるな
知見のかけらすらない
地球の温暖化は漫画で学べ
正味期限が切れて無理かも知れない
それなら北海道にはもう来るな

〔2021年10月26日書き下ろし。どんどん失言しよう! 朝日新聞の選挙分析が狂うように祈りたい〕

付記 
北海道のコメ巡る麻生氏発言「断じて許されない」農民連盟が抗議
自民党の麻生太郎副総裁が衆院選の街頭演説で、北海道産米が地球温暖化の影響で品質が上がったかのような発言をしたことに対し、道農民連盟の大久保明義委員長が26日、「全道挙げて品種改良を重ね、『北海道ブランド米』としての地位を確立した結果であり、生産者の努力と技術をないがしろにするような発言は断じて許されない」とする抗議談話を発表した。
談話では、温室効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロとする政府の目標に触れ、「地球温暖化を肯定するような言葉を発することは、自民党副総裁の発言としてあるまじき由々しき事態」と批判。そのうえで「温暖化防止対策に取り組んでいる企業や国民にとっても耳を疑うような発言だ」と指摘した。
麻生氏は25日、道内で街頭演説し、道産米について「昔、北海道のコメは『やっかいどう米』と言うほどだったが、今はやたらうまいコメを作るようになった。農家のおかげか、違う。温度が上がったからだ。温暖化というと悪いことしか書いてないが、いいことがある」などと発言した。(毎日新聞2021年10月26日)

改悛の情なし

己の勢力を保持するためには
危ない子分と群衆に檄飛ばす

己の為にしか動かないさもしさは
子飼いの子分を捨て置けない

己の嘘と悪行を封じ込め
子分は捨て身で体当たり

己に刃向かえば口汚く攻めたてる
子分にも巣くう猜疑心

己の利己心を満たすだけ
子分は頭数を稼ぐだけ

己の為にだけに訴える
改悛の情など一片もなき強欲さ

落とそう
理念なき信義にも劣る者を
落とそう 落とそう
国益を損なう者たちを
落とそう 落とそう 落とそう
民主主義の元凶と群れる輩を

〔2021年10月25日書き下ろし。己の足下が心許なく精力的に動く全国行脚の応援演説の姿は難病を理由に辞任したとは到底思えない。卑劣さすら感じる〕

毒が回る

アレルギー体質ではない
何を食べても無事だった
22日の昼は新そばを仲間と味わった
いつもの鴨南蛮せいろ大盛り
香りも喉越しも最上だった

夕方発疹が出た
またかと思った
8月から月に一度お会いする厄介者
夏は確かに虫に刺されたが傷口がエグい
両腕の数カ所がうんで完治まで1週間を要した
9月はさらに進展して両足にまで及んだ
虫刺されではないと確信するが
かゆみがとんでもなく強くてしんどかった
かかりつけの医院も旗日の連休を挟んで休み
手元にあったかゆみ止めを塗布して1週間でようやく治まる

今回症状が違うのに気がついた
両肘がかゆいサインを発した
両手腹背中首と所構わず侵略する
今朝小さな水膨れまで出ていた
こりゃヤバいとかかりつけの医院を検索
またも職員研修で休院と出た
近隣の皮膚科を検索してすぐに走る
診察した医師は頭をひねり院長を呼ぶ
庭仕事しましたかと尋ねられた
この1週間は出張で庭に出ることもなかった
虫に刺された症状!?
ダニ? でもこの出方は?
中堅の医師もやってきて3人で協議
原因がつかめぬまま症状を見て診断が下された
飲み薬と塗り薬を処方された

もしかして虫に刺されたのかも知れない
刺された意識を感じることなくやられてしまった
鈍感になった皮膚の痛みのセンサーが診断を迷わせる
3ヶ月も皮膚炎にたかられるとは思いもしなかった
虫の毒の一針が全身を回り抗いきれずに発疹を生ずる
微量であっても苦しめるに十分な毒の効用は恐るべし

世間に毒を振りまいてきたブーメラン
そう苦笑いしながらかゆみに耐えるしかない
因果応報にしては可愛いほうだと笑うしかないか

〔2021年10月23日書き下ろし。痛みよりも痒みはいやらしい。一日も早い回復を待つしかない。25日夜現在まだ居座っている〕

自分を生きる

ハラハラドキドキする子だった
ただただ真っ直ぐに育っていった

変な子だった
おもろい人がさらにおもろい人を寄せてきた

明るい子だった
くじけそうになっても顔を上げ前を向いた

芯の強い子だった
叩かれてもいつか立ち上がっていた

情の深い子だった
弱い人は決してほっとけなかった

金には執着しない子だった
ただ転んでもタダでは起きなかった

不思議な子だった
ピンチには必ず誰かが手を貸した

子育てには苦労した子だった
山あり谷ありから生きる力のある子を育てた

世の流れを逆手に楽しむ子だった
これからも人生を愉快に生きるだろう

身一つで頑張る子だった
いつかきっとたくさんのご褒美をもらうだろう

誕生日おめでとう!
ありのままの自分を生きよ

〔2021年10月25日書き下ろし。長女への祝いのメッセージ、お許しを〕