阪野 貢 のすべての投稿

つながりを結び直す

1通の封書が届いた
20数年前出会った社協ウーマン
新人の頃セミナーで出会ったという

その後つながることはなかった
ボランティア研修会で再会した
当時を覚えていたことが嬉しかった

小さなマチで地域福祉の推進に悩んでいる
マチ特有のしがらみがやりにくさとなる
事業を支える人材はどんどん高齢化する

自分は何をしていけばよいのか
社協は何をしなければならないのか
日々悩みながら孤軍奮闘する

福祉のマンパワーも小さな社協
現状維持すら難しくなる社協
難問を抱えてたじろぐ社協

難しいことや大したことはできない
少しでも不安な方や困っている人に寄り添いたい
地域に必要とされる社協でありたい

小さなマチに福祉の人が生きる
求めてはじめて動き出す
つながりの結び直しが始まる

いまの取り組みに支援ができれば
いまのおもいに肉付けができれば
これからのあり方に道筋ができれば

手紙にはこう結ばれていた
「北海道にいらっしゃることがわかり心強いです」

〔2021年10月14日書き下ろし。道内でも同じような状況で小さな社協が孤軍奮闘する。再会がつながりの結び直しを促す〕

ONLINE授業の妙

ONLINEで初めて授業をした
ボランティアについて論じる
机上の大型モニターに映る学生
表情の変化が手に取るようにわかる

マンツーマンの質疑応答形式
回答にうなずく他の学生
同意の表情やサインを送ってくれる
教室でこれだけ至近距離での授業はできない

顔出しは個々の学生の裁量だ
黒い画面に向かって話すこともあるという
今日はみんな顔を出してくれた
画面の下に表記された名前を呼ぶ
親近感が増してゲストにはとても嬉しい

今日は顔見せで胸襟を開くことを目指した
さわりは小中高でのボランティア体験を発表する
さらに学生がボランティアをしない理由を問う
まとめは未熟なボランティア観のいまを考える

奉仕やボランティアの本質を学ぶことなく大人になった
ボランティアに興味を持つ学生たちは稀な存在
生涯きっとこの講座でしか学び得ない最後の機会となる
ふりかえりで一人ひとり課題を見つけたようだ
表情と声の張りからモチベーションが刺激される
画面越しにみんなで確かめ合った授業となった

2年ぶりの学生とのやりとりにワクワクした
次回は1ヶ月後首を長くして待つことにしよう
活動体験から学び得たエッセンスを楽しく聞き出そう
ONLINEでの授業は教室では味わえない妙を強く感じた

〔2021年10月12日書き下ろし。ゲストでも授業は楽しい。ONLINEで学生の表情が変わっていくのも楽しい。その一方でコミュニケーションのあり方を学んでいく〕

団塊の世代の動向に注視せよ

菅義偉内閣には期待も大きかった
団塊の世代は時代の匂いを嗅ぎ取った
しかし期待は裏切られ惨めに破られた
団塊の世代は支える力はあってもトップにはなれない
そのジンクスを覆すことはできなかった

岸田内閣への支持率も各種世論調査で分かれる
NHKの結果は興味をそそった
支持率49%を世代別に見ると50%前後でしかない
さらに60歳以上を見ると49%と管内閣よりも15%もダウンする
高齢者は自民党の盤石の支持層だった
選挙に足繁く通い保守政権を固守した
老人福祉の施しへの感謝に他ならない

団塊の世代が高齢層を形成する時代が来た
年金は現役の時に高齢者を支えた自負がある
介護保険も制度の導入時から徴収され続けている
だから期待よりも成果を強く要求する
消費者意識の高い世代が政治を左右する

果たして現役世代はそれでいいのかと問おう
若者は寝ていろという名言を吐いた政治家は正しい
彼らが投票しなければ老人たちで政治が決まる
これが今までの保守政治の選挙のからくりだった
団塊の世代に高齢者の席は譲ってもいい
国の命運は現役世代と子どもらの未来がかかる
次世代の君たちの1票で国を変えられるのだ

今日の所信表明演説に関わる代表質問も応答もつまらなかった
総裁選の演説からトーンダウンするのは必然だった
安倍・菅の継承はもってのほかと世論は警鐘を鳴らす
下手な言い訳せずに具現化できるか勝負するしか道はない
やれるんならやって見ろというだけのことでしかない
それだけの気概と矜持を見なければ民心は納得できずさらに離れる
団塊の世代もまだ終活には早すぎる
政治に翻弄された青春時代のケジメをいまこそつけよう

〔2021年10月11日書き下ろし。野党も支持率は劇的に上昇しないのは承知だろう。人気ではない。遠声なら団塊の世代の私にも出せる〕

付記
内閣支持49%、不支持24%(NHK世論調査・衆院選トレンド調査3週前)
NHKの世論調査によりますと、先週発足した岸田内閣を「支持する」と答えた人は49%「支持しない」と答えた人は24%でした。内閣発足時の支持率としては、去年9月の菅内閣の時に比べて10ポイントあまり低くなりました。岸田内閣発足時の支持率を去年9月に菅内閣が発足したときと支持政党別で比較してみます。
自民支持層の支持率は、菅内閣では85%だったのに対し、岸田内閣では73%でした。
また、支持なし層の支持率は、菅内閣では50%でしたが、岸田内閣では34%でいずれも岸田内閣が10ポイント以上下回っています。
年代別で見ますと、菅内閣の時はすべての年代で支持率が60%台でしたが、岸田内閣では、30代までが51%、40代・50代が53%、60歳以上が49%となっていていずれも50%前後となっています。

個人商店と掛け売り

個人商店が生き残りをかけて勝負する
個人商店でこそできるサービスを売り出そう
個人商店の強みは顧客の顔見て商いできる
個人商店も通りを埋めれば賑わいを呼ぶ
個人商店を若者が後継すれば息を吹き返す

呼び込みの声が寂びたシャッター街に響く
呼び込みの声はリップサービスだと見抜かれた
個人商店の持ち味はなぜか封じられてしまった
商店街を盛り上げる会合すらなくなった
古株の店主が虚勢を張って仕切っていた
後継者を育てぬゆえに誰も見向きもしなくなった

顧客に選ばれるには心にギフトを届けねばならない
顧客を惹きつける魅力がなければ店を畳むしかない
顧客に愛想を尽かされぬよう情感に訴えるしかない
顧客と対面販売は品物以上に信用しか売り物はない

商店街の再生は店主たちの沽券に関わる
このとき間違ってはならないただ一つ
掛け売りは顧客が店にすると心得るべし

〔2021年10月11日書き下ろし。立憲は勝ち目を自ら放棄する。縛りをかけて議員を牽制する。無党派はさらに距離を置く。今日午後国会で岸田首相の所信表明演説に対する代表質問が始まる〕

曖昧な空気が流れるいま

おかしな空気が流れている
コロナは原因もわからぬまま急速に感染力を低下させた
札幌は鈍化しながらも減少傾向にある
ただこの曖昧な空気の中で居づらさを感じている

おかしな空気に流れていく
岸田首相が物言えば言うほど焦点がボケる
支持率は高くなくとも党の支持率は上がる
何の期待も湧かぬ政権は動き始めた
なぜかこの曖昧な空気はどんよりと曇りだす

おかしな空気に汚されていく
マスク越しに息苦しさが強まった
善悪を判別できない世界に放り込まれた気分だ
声を上げるにもその矛先が鈍り出鼻をくじかれる
この曖昧な空気は放って置くしかないのか

おかしな空気は静かに心を浸す
考えることが面倒くさくなり投げ出す
動くことがしんどくなり怠け呆ける
為すべきことがどれもつまらなくなる
この曖昧な自分に腹を立てることすらない

いま曖昧な空気が世間に広がってゆく
判然としないつかみどころのない空気
コロナよりも恐ろしい不気味な空気
自己喪失を促す不穏な空気

何という無防備
拒むこともできぬ
逆らう気力すら無となる
漫然と受容するのみか

己の心に風穴を開けて
存在理由を見出すためには
あがきだけは手放してはならぬ

〔2021年10月10日書き下ろし。いま世間に流れるつかみどころのない曖昧な空気に不安をつのらす自分を見ている〕

阪野 貢/「連帯」再考―馬淵浩二著『連帯論』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)はかつて、「障がい者差別と生の思想」に関して、「自分の存在意義」(自分が存在している意味や価値。レーゾンデートル)について次のように述べた(本ブログ「雑感」(67)2018年11月3日投稿)。それは、「生の無条件の肯定」という思想のもとに、「自立と依存」や「自律(自由)と連帯」を問うものである。

「人がそれぞれ、他者とともに豊かに生きるということ」「人はそれぞれ、いま、ここに生きているというそのことに本源的な価値がある」(「ただ生きる」ことの保障)✖「人にはそれぞれ、やりたいこと・やれること・やらなければならないことがある」(「よく生きる」ことの実現)✖「人はそれぞれ、社会や歴史、自然・環境などとのつながりのなかに生きている」(「つながりのなかに生きる」ことの持続)

〇筆者の手もとに、馬淵浩二(まぶち・こうじ。倫理学・社会哲学専攻)の『連帯論―分かち合いの論理と倫理―』(筑摩書房、2021年7月。以下[1])という本がある。馬淵はまず、(1970年代以降の)新自由主義の影響のもとで消費主義をはじめ個人主義や能力主義が強化され、多元化や多様化が進み、格差や分断が拡大した現代社会にあって、「連帯」という言葉はすでに「賞味期限」が切れているのだろうか、と問う。その答えは「否」である。そのうえで馬淵は、「連帯(solidarity)」概念の類型化と最大公約数的な定義を試みる。具体的には、代表的な「社会的連帯(social solidarity)」「政治的連帯(political solidarity)」「市民的連帯(civic solidarity)」「人間的連帯(human solidarity)」についての主要な論者の連帯論を辿り、自身の「人間的連帯論」を構想する。その基底にあるのは、人間は連帯的存在であり、相互扶助的な関係のなかでしか生きられないという人間観である。すなわち、[1]の基調を成すのは「連帯は人間存在の基本構造である」(313ページ)というテーゼである。
〇馬淵は「連帯」を次のように定義する。

連帯とは、共通の性質・利益・目的を共有する複数の者たちが、あるいは他者の利益・目的の実現に関与する複数の者たちが、協働や扶助(の責任)を引き受けることで成立する結合のことである。この結合は、自然発生的であったり、目的意識的であったり、制度的であったりする。この結合には、一体感の感情が伴うことが少なくない。(50ページ)

〇連帯とは、人々が結合し、互いに協力し支え合うことであるが、それは様々な場面や文脈において成立する。この定義には上述した連帯の代表的な類型が包摂されている。「社会的連帯」は、「接着剤のように人々を繋ぎ止め、社会の成立に資する結合関係」「同じ社会の成員であるという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「政治的連帯」は、「政治的大義(共通の目標)の実現をめざす者たちのあいだに成立する協力関係」「同じ政治的大義に関与しているという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「市民的連帯」は、「福祉国家の制度を介して市民のあいだに成立する相互扶助関係」「同じ福祉制度を支えているという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「人間的連帯」は、「人類の一員である個人のあいだに成立する普遍的な道徳的関係」「人間であるという理由で成立する連帯」を意味する(42、280ページ)。
〇馬淵が構想する「人間的連帯」について加筆すれば、それは「国家、社会、政治集団といった特定の集団のなかで成立する連帯ではなく、人間あるいは人類という集団の内部で成立する連帯」(281ページ)である。それは、「全人類が結合している」ということを意味し、「人間は本来的に連帯的存在であるという人間の存在様式を表現するもの」(296ページ)である。別言すれば、「人間の存在構造」を指し示す・形容する言葉(302ページ)である。その意味において、馬淵にあっては、「人間的連帯」は他の様々な種類の連帯に通底する共通の「分母」(303ページ)であり、「母体」(312ページ)となる。
〇本稿では、馬淵の論点や言説のうちから、例によって市民福祉教育の実践・研究に「使える」あるいは「使いたい」次の5点に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。それは、上記の管見に新たな視点や思考を加味したいという思いによる。

人間は本来的に「連帯的存在」である―人間の生は相互扶助や連帯によって成立している―
新自由主義の過去数十年にわたる影響のもとで、自助努力や自己責任という発想が持て囃(はや)されてきた。自助努力や自己責任の主張は一面では正しい。しかし、この主張を不当に全面化することは避けなければならない。なぜなら、そのことによって、人間に関する一個の真理が覆い隠されてしまうからである。それは、他者たちに支えられなければ、人は生きられないという真理である。新自由主義は、この連帯の真理を抑圧し隠蔽(いんぺい)してきた。だが、自助努力や自己責任という発想が妥当する領域など高が知れている、それは、人間の生という氷山の一角にすぎず、その下には分厚い連帯の層が存在し、その山頂を支えているのである。新自由主義の狭隘(きょうあい)なイデオロギーに抗して、人間は連帯的存在として見出され、思考されなければならない。(15ページ)

連帯はそれ自体では「正当性」を保証しない―連帯は「共同性」以外の価値や尺度を必要とする―
連帯は、ある集団に属する者たちを結合させ、支え合いを実現する。だが、連帯はそれが働く集団の性格に応じて、「悪のための連帯」として実現される可能性も残される。その意味で、連帯が成立しているという事実だけで連帯の正当性や倫理的正しさが保証されるわけではない。(318ページ)
連帯論には人間の共同性や利他性を強調する傾向があるが、人間はいつも共同性や利他主義にもとづいて生きているわけではない。(211ページ)
個々の連帯が正当化されうるものであるためには、連帯が帯びる共同性の価値とは別の価値や別の尺度が必要になるだろう。たとえば正義という尺度が必要になるかもしれない。連帯する者たちの一部に犠牲が強いられ、一部が特権を享受する事態が生み出される場合、その連帯は正義に悖(もと)る可能性がある。あるいは、連帯がどのような目的を実現しているのか、どのような価値を促進しているのか、集団の外部に悪しき影響を及ぼしてはいないか――そうした事柄についての思考が連帯論には必要となる。そのような事柄を思考するためには、正義以外にも自由、平等、差異、人権といった他の価値や尺度が考慮されなければならないかもしれない。(318~319ページ)
しかし他方で、連帯が他の価値を支えているという一面を忘れてはならない。人々の自由や平等が毀損(きそん)された状況を変えようとするとき連帯が生起する。自由を行使すね人物の生存が危ういとき、それを支えるのも連帯である。(325ページ)

連帯は「排除の論理」を内包する―連帯は包摂と排除という両義性を持っている―
連帯が連帯であるがゆえに自身の内部に生み出してしまう負の要素のひとつとして、「排除」が挙げられる。(319ページ)
集団は、集団に属する者たちと、そうでない者たちとのあいだに境界線を引くことによって成り立つ。あるいは、境界線が引かれることによって、集団が立ち上がる。「彼ら」とは異なるものとして、「われわれ」集団が生み出されるのであ。その集団の連帯が機能するとき、それは一方で当該の集団の結合を強化するが、その結合の強化が他方で排除を生み出すことに貢献する。すなわち、集団の外部に敵を作り出してそれを攻撃したり、集団の内部から「不純」な分子を排除して外部に放逐(ほうちく)する。(319、320ページ)
そうであるなら、連帯をめぐって次のような論点が浮上する。誰が連帯によって結合するのか、誰がその結合から排除されるのか、包摂されたり排除されたりする場合の条件はどのようなものか。その線引きは正当なものか。これらの問いは、連帯の「正しさ」を判定するうえで、欠かすことのできない参照事項となるだろう。いずれにせよ、ある場面で連帯を主張するとき、かならずそこから排除される者たちが存在するという構造的事実に、連帯論は敏感でなければならない。(320、321ページ)

連帯は「感情」によって成立する―連帯は人間の感情の及ぶ範囲や程度に左右される―
連帯感という言葉が存在することからも分かるように、連帯の成立にとって感情は重要な要素である。集団の成員たちによってある種の感情が共有されていなければ、連帯が成立し持続することは困難だろう。連帯と親和的な感情は、共感や親近感や一体感といったものであろう。こうした感情が共有されず、成員たちが憎しみ合っていたり、利己主義が支配的であったりするような集団においては、連帯は成立し難いはずである。(321ページ)
だが、感情は、連帯にとって諸刃の剣である。ひとつには、感情が及ぶ範囲の問題がある。人間の感情の及ぶ範囲は狭い。規模が比較的小さな集団の内部でなら連帯は容易に成立するだろう。だが、感情が及ぶ領域を超えたところに存在する者たちとのあいだに連帯が成立することは困難になる。(321、322ページ)
人は、感情の及ぶ範囲にいる者たちだけと結び付いているわけではない。このような世界にあっては、見知らぬ者たちとの連帯がひとつの焦点となる。そのような連帯はいかにして可能になるのか。感情の広がりと関係の広がりが大きくずれてしまう世界にあって、感情の広がりの外部に存在する者たちとのあいだに、どのようにして連帯を立ち上げることができるのだろうか。連帯に刻まれた包摂と排除の問題、「われわれ」と「彼ら」を分かつ境界線の問題は、感情という問題の地平においても未決の問題なのである。(322ページ)

連帯には「水平的連帯」と「垂直的連帯」がある―連帯は権力性・階層性を排除できない―
連帯の現象形態として、水平的連帯と垂直的連帯がある。水平的連帯では、(相互依存関係にある)個人が横に連なる。これに対して、連帯する個人のあいだに、垂直的な位階秩序が生み出されることがあるかもしれない。そのような垂直的な権力関係によって規制されている連帯が、垂直的連帯である。たとえば、一国の指導者が危機を乗り越えるためだと称して、国民に団結や自己犠牲を訴えることがある。それは、権力者によって組織され、動員される連帯である。(323ページ)
連帯をひとつの理念として捉え、階層性が廃棄され平等性によって特徴づけられる結合だけを連帯と呼ぶこともできる。ただし、そこでは、階層性が廃棄され、あまねく平等性によって特徴づけられる連帯が現実にどれほど存在するかという疑問が生じる。また、連帯から階層性を完全に排除できるかという問題も存在する。(323、324ページ)
かりに垂直的権力が連帯に伴うことが避けがたいことなのだとすれば、その事態にどのように対処すべきかを考えなければならない。その場合、許容される権力とそうでない権力とを識別すること、つまり、垂直的権力の許容される範囲を確定することが、ひとつの論点となる。(324ページ)

〇人間は身体と不可分な「身体的存在」(297ページ)であり、人間はその生(生存や生活)を自足できない「非自足的存在」(299ページ)である。それゆえに人間は、外部の物質(とりわけ自然)や他者に依存せざるを得ない。すなわち、人間は本来的に、他者との相互扶助や連帯の関係のなかでしか生きられない存在である。これが、馬淵が説く人間観の核心のひとつである。そして、(社会福祉における)自助努力や自己責任を前提とした「自立生活支援」や「依存的自立」などの言説とは異なる評価を得るところである。自助努力も自己責任も社会的レベルの連帯を通じてなされ、果たされるのである。馬淵が[1]の「あとがき」で、「私が述べたかったのは、連帯によって私たちの生が成立しているという、その事実だけである」(376ページ)という意味はここにある。
〇「人間の存在構造」に刻まれた支え合いと「分かち合いの論理と倫理」(333ページ)は、人々が連帯するときに立ち上がる。その連帯は、私と他者との相互依存関係を重視する際、「自律」や「自由」の価値を不可欠とする。人間は自律し、自由であることによって「相互に排他的であるのではなく、むしろ相互に結び付き連帯する」(108ページ)。私だけの自律や自由は、他者を支配したり、他者からの信頼や承認が得られなくなったりする。すなわち、連帯は、単なる道徳的規範や国家などの介入(強制)によるのではなく、個々人の主体的・能動的な思考や行動による自律や自由によって支えられる。同時に連帯は、個々人の自律や自由を実質化し、その実現を図るのである。さらにそれを支えるのは「平等」という価値である。
〇例によって、唐突ではあるが、こういったところに市民福祉教育の重要な視点や内容を見出すことになる。また、誤解を恐れずに平易に言えば、「みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる」<小学生を対象にした福祉教育副読本>三重県社会福祉協議会、2004年3月)という関係(理念)を見出す。付記しておきたい。

〇筆者の手もとにもう一冊、齋藤純一(さいとう・じゅんいち。政治理論・政治思想史専攻)の『不平等を考える―政治理論入門―』(筑摩書房、2017年3月。以下[2])という本がある。[2]は、格差や分断、不平等が拡大・深化する現代社会にあって、人々の「平等な関係」とは何かを根底から問いなおし、その関係を再構築するための「制度」――市民の間に平等な関係を維持するための生活条件を保障する(広義の)社会保障制度と、市民を政治的に平等な者として尊重する(熟議)デモクラシーの制度のあり方等について考察する。その際、「不平等」とは、その人に「値しない」(「ふさわしくない」「不当である」)「有利-不利が社会の制度や慣行のもとで生じ、再生産されつづけている事態」(17ページ)をいう。「熟議デモクラシー」とは、「数の力」(「選挙デモクラシー」)ではなく、「理由の力」を重んじ、「質的に異なった意見や観点を、たとえそれがごく少数の者が示すにすぎないとしても、尊重すること」(75ページ)をいう。
〇齋藤にあっては、社会保障の目的は、「たんに貧困に対処し、すべての人が人間らしいまともな(decent)暮らしが送れるようにする(事後的な保護・救済:阪野)だけではなく、深刻な社会的・経済的不平等をも規制し、平等な自由を享受しうる条件をすべての市民に保障すること(事前の支援:阪野)にある」(134ページ)。こうした「社会保障の制度を支持し、それを介して互いの生活条件を保障しようとする市民間の連帯」が「社会的連帯」である(94ページ)。その社会的連帯は、次のような理由によって必要とされ、市民によって受容されなければならない。①国力(戦力・生産力等)を増強するための「生の動員」、②人生に起こりうる病気や事故などの「生のリスク」の回避、③生まれ持った能力や境遇の「生の偶然性」がもたらす不当な格差の改善、④生・育・老・病・死という「生の脆弱性」によって生まれる支配-被支配関係の阻止、⑤人々の多様な生き方を促す「生の複数性」の尊重、がそれである(98、99、101、103、104ページ)。
〇そして齋藤はいう。「生の動員」を除く4つの理由はいずれも、「生きていくために人々が他者の意思に依存せざるをえない状態に陥るのを避け、市民の間に平等な関係を保つことを重視している。他者に依存しながらも、その意思に服することを強いられない自律が可能となるのは、依存とそれへの対応が人々の間に支配-被支配を生みださないようにする制度化された保障が確立されているときである」(105ページ)。すなわち、齋藤にあっては、誰もが避けられない「他者に依存すること」と、「他者の意思に依存すること」を区別し、特定の他者の意思に依存せずに生きることすなわち「自律」を可能にするための制度が(「事前の支援」としての)社会保障である(107ページ)。「私たちの生において依存関係が避けられないからこそ、『自律』が価値をもつのである」(107~108ページ)。留意したい。

担当が交代する

問題を抱える人と向き合い汗する団体と人がいた
良かれと思うことにはポジティブに取り組んだ
行政の事務担当はネガティブに対応した

担当がようやく代わった
行政との1年越しの交渉だった
首長は重たい腰をようやく上げて決裁した

閑職ほどの扱いで人事が差配される
他のまちでも福祉に人材なしと嘆きを聞かぬことはない
笠に着た振る舞いで市民の心象を悪くする

動かない聞かない持ち込まないの仕事ぶり
福祉を担う意識なく市民を手足のように尊大に扱う
自己保身に走る身勝手さが目に余る

行政マンも市民のひとりである
地域に暮らし生きるひとりである
その目線が失われた時行政は高圧的になる

首長は市民の意向で選ばれる
福祉に踏ん張る市民のしっぺ返しは半端じゃない
大事な票田は簡単に離反し枯れていく

行政のなすべき3つのこと
人材育成と登用のあり方を見直すこと
福祉部署での適材適所を見出すこと
市民が主体的に活動する事業をサポートすること

〔2021年10月9日書き下ろし。市民が参画する地域福祉活動は、首長以下その福祉意識が変わることで、市民の希望と協働が生まれる〕

大丈夫というフィルター

自宅から高速道路に乗り2時間で旭川に入る
夕方市内の某団地の集会室に入る
地区の民生委員児童委員が15名ほどすでに着席していた
市の民生委員児童委員連絡協議会の事務局担当の社協3名
道民児連事務局1名と総勢20名が集まった

市町村民児連活性化事業テーマ特化型事業指定に関わる研修である
昨年研修に関するあり方検討委員会が協議を重ねた成果を
道民児連が具体的に事業化したモデル事業の一つだった

緊急事態宣言の解除でようやく例会が開かれる
その貴重な1時間をいただいた
前半道民児連担当者からモデル事業の概要について触れる
後を受けて40分ほど事業ではなく私の福祉の立ち位置を語る

「めだかのめぐ」の話を数年ぶりに取り出した
尻尾を切られて上手に泳ぐことのできないめぐ
みんなと姿形が違うことで偏見や排除の目にさらされるめぐ
それはめぐに対する世間の目であり差別の根っこでもあると

めぐを車いすユーザーに置き換えて話を進める
車いすユーザーの人を哀れに思うところから湧きでる憐憫の情は本物か
車いすというフィルターを通してその人を見てはいないだろうか
車いすを外してその人と対面しているのだろうか
障がいや老いや貧しさをフィルターにかけ
理解したつもりになってはいないだろうか

様々な問題を抱えた人と接する民生委員児童委員
大丈夫という言葉の裏にある語れない当事者の不安と本音
大丈夫と言わざるを得ない当事者や家族の深刻な事情
大丈夫と言われたときにふとわく委員の小さな疑念
大丈夫と判断した委員の曖昧な根拠

うちの地区にはこんな問題はないから大丈夫
大丈夫のフィルターを外すと地域の課題が見えてくるかもしれない
転ばぬ先の杖を地域に創り出す
まずは大丈夫というフィルターを確かめる時間となった
暮らしや心のほころびをまていに繕う民生委員児童委員
モデル事業を共に進めるパートナーとの顔合わせはこうして始まった

〔2021年10月8日書き下ろし。2カ年指定のモデル事業。単位民児協と民生委員児童委員活動における「福祉のあり方」を問う地域研究が始まった。参照資料「まちづくりと市民福祉教育:アーカイブ(31)鳥居一頼『ステレオタイプ化された貧しい福祉意識からの脱却~授業『めだかのめぐ』で覚醒した藤女子大の学生たち~」(掲載2019年8月9日)〕

父と生産性の向上

6日は21年目の父の命日だった
父は新日本製鐵の高炉マンだった
鉄鉱石を高炉(溶解炉)で製鉄にする仕事だ
高炉から吐き出される真っ赤に溶け出した鉄
噴火した火山の真っ赤な溶岩の流れとよく似てる
高く火花が上がる現場は猛烈に熱い
吹き出す汗に一仕事終えると岩塩をかじった
火傷が絶えない現場は怪我や事故が疎まれた

人の手が鉄を高炉から掻き出す
働き方や事故の防止そして業務の改善
そのことが直接良質の製鉄の生産量に直結する
現場はアイディアの宝庫だった
遺品に提案に対する何枚もの小さな賞状があった
金一封は仲間との飲み代に化けたことだろう
誇ることもなく厳しい三交代勤務をこなしていた

鉄は機械・自動車・情報通信機器など
日本の様々な産業の基盤となっている
鉄を取り出す最初の工程の現場に立つ人がいる
安全操業と鉄を取り出す業務の改善に力を尽くす
父の労働者としての意気地は仕事への責務だった
そこは人でしか為しえない鉄との語らいの現場だった

若い者をよく家に連れて来た
一つ間違えば大きな怪我につながる
危険な現場はチームワークがすべてだ
仕事を生半可に覚えてはならない
徹底的に鍛える父に若い者はついていく
現場の指導は信頼にたる技術と人柄しかない
父はおやじと慕われながら次の世代を育てる
目標と目的を明確に示しチームを束ねる
その上ではじめて生産性の向上が可視化されていく

父とそんな会話をした一日だった

〔2021年10月7日書き下ろし。長女が夜遅くお参りにきた。次女はまだ仕事をしている時間、土曜にやって来る。孫が来てさぞかし嬉しかったろう〕

黄門様お助けください

5日初めての甘利幹事長の記者会見
党内の信頼すらないことを自ら明かず
正直なのかアホなのか見識疑う

こんなコメント聞いたためしがない
党の内輪もめは総裁では収められない
副総裁にお出まし願うと牽制仕掛ける

そもそもポストはねだって手に入れた
幹事長の面子も権勢も派閥のドンのご意向次第
本音をポロッと漏らすドジをこく

トンズラこいた過去を持つ叩けば埃が出る男
こんな体たらくをさっそく披露した
5日毎日世論調査で男の起用を5割は拒否する

最初から頼りないような男に党の要を任す
焼きが回った岸田の内閣支持率
朝日も毎日も5割を超えずご祝儀振るわず

朝日世論調査は「生まれ変わった自民党」
54%が実現できないとできる24%を圧倒する
自民党支持者でも批判的かつ期待してないのがいい

黄門様より偉いお人が出番を待っていらっしゃる
自分の思う人事にならず地団駄踏んで切れたとか
岸田の功罪不協和音が生まれる土壌を整備した

岸田は生まれ変わる自民党を目指す
徹底的に膿を出さねば再生不能と判断する
党争を誘発し相殺するようボスと手下を叩く

捨て身で相手の骨を砕く覚悟する
総選挙で大敗すれば一気呵成に改革進む
過去の汚濁で負けたと大いに吹けばいい

すがってあいそうつかされあんべい悪くなるよりは
一世一代の勝負に賭けてみるも一計か
岸田は希代の宰相に大化けするかもしれない

〔2021年10月6日書き下ろし。聞き上手では変革不能。敵は内にあり。したたかにしなやかに戦略を練って図太く仕掛けるのがいい。政治はだまし合いが勝負だ〕

付記
麻生氏は水戸黄門? 甘利氏「ご老公さま、頼りない幹事長を助けて」
5日自民党の甘利明幹事長は、就任後、初めての単独記者会見に臨む。自民党は8日の総務会で、麻生太郎前副総理兼財務相の副総裁就任を正式決定する。甘利明幹事長は5日の記者会見で「党で不協和音があり、説得してもらいたいときにお出ましをいただく」などと述べた。副総裁は、2018年に高村正彦・党憲法改正推進本部最高顧問が退任した後は不在となっており、麻生氏が就任すれば3年ぶりとなる。甘利氏は「岸田(文雄)首相は自分の色で内閣を全部染めた」と指摘し、「内閣としてどうしても進めたいことに対し、(麻生氏に)党を説得して抑えてもらいたいという場面が出てくると思う」と期待感を示した。首相経験者でもある重鎮の麻生氏を「水戸黄門」になぞらえ、「ご老公さまにもたまには出ていただく」として、「頼りない幹事長を助けていただきたい」と語った。(朝日新聞社2021年10月5日)