阪野 貢 のすべての投稿

オリンピック愛ランド

東京五輪は 国民の中止の声を振り切った
IOCは 批判をよそに 緊急事態宣言の最中に強行した
競技場では トップアスリートたちが熱く競い合う
まん延するコロナウイルスを遮断(しゃだん)した貴賓席
権力と富が偏在する階級社会の象徴の座
五輪貴族ファミリーは かしづく東京人を尻目に 
コロセウムで死闘を観戦するが如く
優雅にワイングラスを傾ける
おもてなしの43億円は 飲み干されて消えてゆく

至極の刻は 流れていった  
IOCは アルマゲドンは起こらなかったと
世界に 開催の正当性を主張した
IOCに支配された 五輪後の惨(みじ)めな姿を
世界は 冷笑をもって報道した
IOCの面々が いくら儲けたのかは
世界に 驚きをもって知らされた
IOCが 五輪後の惨禍(さんか)に責任を負うことなど
世界は 誰もが即座に否定した

オリンピック愛ランド
All Japanの衰退は 目を覆うほど痛ましかった
All Japanを掲げて 血税は桜の如く見事に散った
All Japanが残した遺産は 命を賭けた大罪だった

オリンピック愛ランド
東アジアの黄金の国Japanは 
来日者の封じ込み作戦が失敗し 国力の衰退を一気に進めた
東アジアの黄金の国Japanは
IOCから国権を奪われた世界で唯一の民主国家となった

世界は オリンピックを誘致しようとは
おくびにも出さなくなった
オリンピックの価値を貶(おとし)めた
IOCの特権意識と強欲な組織の衰退に
All Japanが貢献した そのことだけが
多くの尊い犠牲と併せて 歴史にしるされた
「IOCの横暴を許し搾取された無抵抗で我慢強いおもてなしの国Japan」

〔2021年5月28日書き下ろし。緊急事態宣言延長の記者会見。開催のエビデンスも示せずはぐらかすいつもの問答に苛立ちながら、開催後の日本の国の最悪の事態を想い憂う〕

虎からき狐に

タレントもどきの 甘いマスクと若さが魅力だった
タレントみたいで オバさまには人気を博した
タレントにはない別世界で 力を誇示した

コロナと戦う勇猛果敢な虎だと 周りに思わせた
優しく甘い声を聞くだけで フアンはとろけた
でも虎の威を借る狐の正体を いつかさらした

GW前後から感染者が急増し 手の施しようがなくなった
巷(ちまた)では 見かけ倒しだとバレてしまった
若い世代には 見事にそっぽを向かれてしまった

フアンは 引いた
淡い期待は 急激にしぼんでいく
好感度は 不信感に比例して低下していく 

説得力を欠いた言動は 凋落への道筋となる
寛容だった道産子も 忍耐の限界を感じてきた
トライアンドエラーは 許せなくなっていく

威風堂々としたベンガル虎が好きだ
鋭く異彩を放つ眼光は 未来を見すえる
苦海に生きる者たちへ 勇気と光明を与える
虎もどきを装う者たちは 精彩を欠き私欲にまみれる
我慢を強いられた者たちが 私憤を増幅させる

〔2021年5月27日書き下ろし。未来(希望)を見せることが政治家に与えられたミッションである。IOCも国も五輪開催だけが目的の金と権力の亡者たちで、地方の希望の光を遮断する〕

付記
知事のコロナ対応、評価下落 本紙5月ネット調査 感染拡大影響か
北海道新聞社が19~23日に行った全道のインターネットモニターを対象にした新型コロナウイルスなどに関する意向調査で、鈴木直道知事の対応について「大変良い」「まあ良い」と答えた肯定派が48・1%と、4月の前回調査から27・6ポイント下落した。1年前の調査開始以来初めて50%を切り、過去最低となった。大型連休やその後の感染拡大を防げず、緊急事態宣言が発令されたことなどが影響したとみられる。
調査は9回目。肯定派の減少に対し、「あまり良くない」「全く良くない」の否定派は43・4%と前回から27・5ポイント増えた。否定派は全年代で増え、29歳以下が37・6ポイント増、30代が31・2ポイント増など若い世代の増加が目立った。
(北海道新聞2021年5月25日)

禍福はあざなえる縄のごとし

五輪の開催は IOCの至上命令である
五輪を開催しなければ IOCの恫喝(どうかつ)が続く
五輪で私腹を肥やすIOCに 狩り場を潔く提供しよう

五輪が終わるまで 声をひそめていよう
五輪を終わらせなければ IOCの呪縛から逃れられない
五輪が終われば きっと世の中は好転する

五輪の受け入れ準備は 知らされずに着々と進む
五輪で失敗しても 誰も責任は〈絶対〉負わない 負えない
五輪が頓挫することは アルマゲドンでも起こらぬ限りありえない

五輪のおもてなしに 43億円と赤い絨毯も準備した
五輪の選手のために コンドーム15万個も周到に用意した
五輪の組織委員会は 世論よりIOCにおもねて忖度を続ける

五輪開催で代々木公園の樹木が 悲鳴を上げる
五輪開催のあおりで マチは厳戒体制が敷かれる
五輪開催の余波は 青息吐息の者たちへトドメを刺す

五輪まで 力なき貧しき者たちは寡黙でいよう
五輪が終わっても ワクチン打つまでは寡黙でいよう
総選挙まで 息を殺して静かに生息していよう

禍福はあざなえる縄のごとし
次に福が来るとは 限らない
禍が来る準備だけは しておこう
総選挙で福を呼んだら 思いっきり叫ぼう
「人権回復の時が来た!」

※禍福(かふく)はあざなえる縄(なわ)のごとし:災いと福とは,縄をより合わせたように入れかわり変転する。

〔2021年5月27日書き下ろし。IOCディック・パウンド委員「私たちが予測することもできない〝アルマゲドン〟を除けば、大会は成功する」。アルマゲドンとは最終戦争や人類滅亡を意味する言葉。どんなに日本で感染状況が悪化しようとも、人類が滅亡しないかぎり東京五輪の開催は強行するという意味か。仮に菅首相が「中止」を求めたとしても、「それはあくまで個人的な意見に過ぎず、大会は開催される」とまで言われて、菅首相はきっと「コメントする立場にはありません」と答えるだけだろう。一国の代表のガキの使いを見せつけられた」

今朝は快晴なり

今朝は1行も書いていない
早くにプラゴミを出しに行く
昨日とうって変わって 
爽やかな風を顔にまとった
透けるような青空に深呼吸した

庭に出た
1週間前に蒔いた枝豆の芽が4つ
土を押しのけ芽を出していた
ホッとするのとなんか嬉しかった
ビニールでぶざまに囲われたゴーヤーは
新芽の横からか弱そうな蔓(つる)を巻いていた
ボッコを立てネットを張る準備をするか
トマトもそろそろボッコにくくらねばならない
2坪農民の畠は 心地よい朝に吉報をもたらす

ブルーベリーは小さな釣り鐘のような白い花を
いまを盛りに鈴なりに咲かせている
シャクナゲはその枝先に幾多の葉を開いて
空のエリアを開拓するのに忙しい
5種類の紫陽花はまだ葉を競って育てる
でもその1本にはもう花の芽を葉に包んでいた

名を忘れた芝代わりのハーブも
ピンクの花をいっぱいに咲かせる
芝草を根こそぎ剥いで 占領地の拡充を図る
これから咲くラベンダーは 古株の枯れかかった枝から
縦横無尽に柔らかな新緑を吹き出す

何かいいことがありそうな穏やかな一日の始まり
そう思うだけで 何か得したような気分だった
書けずに悶々としていた目覚めから いま解放された

〔2021年5月26日書き下ろし。昨夜からテーマが浮かばず、今朝の目覚めも悪かった。昨日の不愉快な世情が原因だった。澄んだ天気と爽やかな風に救われた朝となった〕

粛々と待つだけ

24日札幌でも 75歳以上の高齢者のワクチン接種が始まった
18日377人(532) 19日381人(603) 20日394人(681) 
21日426人(726) 道内の感染最多を更新
22日408人(657) 3日連続で全国最多
23日401人(605) この日道内の死者は千人を超える
24日194人(366) 道内の使用病床数が1012床で過去最多更新
札幌はヤバいです 使用病床が実質満床の状態 ※括弧内は全道の感染者数
道知事は 聖火リレーはやるという 

21日IOC副会長コーツ
「開催期間中に緊急事態宣言が発令された場合大会は開催されるのか」
「答えはイエスだ」
23日IOC会長バッハ
「われわれは犠牲を払わなければならない」
批判されれば どんな言い訳も許される
誰が「犠牲」になるのか 高みの見物をするのは誰だ!

この国の生命・財産保護決定権をIOCに明け渡し 五輪開催が強要される
アジアの一国が発出している緊急事態宣言の重みなど あろうはずもない
アジアの一国の国民の生命を危険にさらしても その責任など取るはずはない
IOCの支配者は 常に万全なセキュリティーで保護され身を守る
欧州の傲慢強欲な覇権主義の歴史は いまも地下水脈として流れる
物言えぬこの国の権力者たちは 周章狼狽しながら姑息に走る

米疾病対策センター(CDC)が粛々と日本への渡航禁止を勧告した
「(新型コロナの)ワクチン接種を完了した旅行者でも変異株に感染し、拡散するリスクがあるかもしれず、日本への全ての旅行を避けるべきだ」
安心安全な五輪の開催を信奉する者たちは
世界を納得させるだけの科学的裏付けを何も示せず
勧告にどう対応するのか 粛々と見ることにする

いまはただ 羊の如く従順な者たちが 粛々と列に並ぶ
私憤を捨てて 粛々と接種を受ける
IOCやら政府やら道やら市やら その失政どうでもいい
混乱なく粛々と済ますことしか 脳裏にない
犠牲にならぬよう 自己防御できれば御の字である 

受けてしまえば 東京五輪 我関知せず 好きにして
それとも盛り上げ役に 接種の恩を返しましょうか
それとも総選挙には しっかり恩を返しましょうか
その時には 皆さん同様粛々と小心に従います

〔2021年5月24日書き下ろし。接種の通知が来るまでは羊の如く粛々と文句もたれず待つしかない。緊急事態宣言の延期と五輪中止の判断も迫ってきている〕

追記
米、日本への渡航中止を勧告 コロナ状況理由に、五輪に影響か
米国務省は24日、日本での新型コロナウイルスの感染状況を理由に、日本に対する渡航警戒レベルを4段階のうち最も厳しい「渡航中止・退避勧告」(レベル4)に引き上げた。これまでは「渡航を再検討」(レベル3)だった。
7月開幕予定の東京五輪に米国選手団を派遣するかどうかの判断に影響する可能性もある。今回の渡航警戒レベル引き上げは、米疾病対策センター(CDC)の疫学的分析を反映。CDCはホームページで「(新型コロナの)ワクチン接種を完了した旅行者でも変異株に感染し、拡散するリスクがあるかもしれず、日本への全ての旅行を避けるべきだ」と警告した。
(共同通信社2021年5月25日)

ホラーの再演か

死人が甦(よみがえ)る
おどろおどろしい舞台が用意された

主役は 嘘つきが病因の奇病を発し病死した
その怨念が怨霊と化し 黄泉の国から逃げ出す

現世を支配し者は その言動を信ずるに値しなかった
コロナ禍で苦しむ者たちよりも 五輪開催に血眼になっていた

やる事なす事みな外れ その間隙をぬって
いたこに口寄せされた死人が甦る
魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界が再生された

現世は嘘偽りだけの 虚構な世界へと再び戻る
意気揚々と支配への階段を登り カムバックの舞台に立つ
未来は 破壊と破滅しかない地獄への扉が不気味に開かれる

〔2021年5月23日書き下ろし。毎日新聞世論調査で管内閣は31%の支持率と不支持率59%。五輪開催反対40%、延期23%だった。なぜ開催に頑ななのか理由がわからない。コロナ対策を優先してこその政治である。ひたひたと自然の魔手が伸び万全はなりえない〕

付記
中国、クロカンで20人死亡 天候急変、1人不明
中国甘粛省白銀市で22日開かれた100キロクロスカントリー大会の最中、天候の急変で気温が急降下するなどし参加者20人が死亡、1人が行方不明となった。8人が軽傷を負った。中国メディアが23日報じた。
クロスカントリーは22日午前に開始。午後から天候が極端に変わってひょうが降り、強風が吹き気温が急降下した。参加者は低体温など体の不調を訴え、一部は連絡が取れなくなったため大会を中止した。当局は一時、700人態勢で行方不明者の捜索に当たった。
大会は白銀市政府などが主催し、172人が参加した。(共同通信社 2021年5月23日)

ルビをふった礼状

教頭「あら、鳥居先生漢字読めないと思ったのかしら?」
担任「この間、低学年の子も読めるね、優しいねと褒めたことがあり、それからルビを打つ子が増えました。内容は読み手のことを意識しているのですが、応用を利かすことはこれからです」

自発的に書いてきた4年生の手紙
「本当(ほんとう)に今日(きょう)は、とても勉強(べんきょう)になって、とても“親切(しんせつ)にしなさい”という意味(いみ)や“ボランティアなのか?”不自由(ふじゆう)な人に人助(ひとだす)けする心(こころ)を大事(だいじ)にしなさい!と言(い)われ、そういう人(ひと)を見(み)たら人助(ひとだす)けしようと思(おも)います!」

3年生の手紙について校長先生はこう書き添えた
「心からの飾らない手紙です。3年生はもっと語りたかったようです。語り足りないところを熱く語っています。先生の後ろにいたロボット役の子は、ロボットの向こうに人のハートを見ています。彼がもし大きくなってロボットを作るなら、全ての人やもの、自然にも心くばりした製品をつくることでしょう」

3・4年生とは『ドラえもんはボランティア?』の勉強をした
「ロボットがいても、自分で出来ることは自分でやらなければならないと思います。困っている人がいても知らん顔せず、みんながやさしい心を持って助け合える世の中になるよう、わたしもがんばりたいです」

5・6年生との『めだかのめぐ』を参観した母親からの感想文
「すごい、あ~って感じがした。小1からすでにそういう感覚でいたっていたこと。自分じゃそんなこと気づいていなかったから、びっくりした。そういう感覚を早く自分の中から消し去って、自分の子にはそんなことを思わせないようにしたいです」
「ボランティアって全部同じ事で片方が何かをしてあげて片方が何かをされる側だと思っていたけど、両方で問題を片付けていく事がボランティアだと言われたときに、いままでやってきたことは何だったのかなと思いました!」

「子どもたちはもっともっと多くのことを語りたかったようです。読んでやってください。児童のこの気持ちを大事に育てていくことが、私たちに託された仕事と、決意を新たにしています。先生におかれましてはお忙しい数日間でしたが、島根の子どもたちにとっては、先生と語り合い、お考えに触れ、これからの自分たちの生き方を考えられた日々でした。また子どもたちの“おじさん”としてぜひいらしてください」

学校の空気が あたたかくゆったりと流れていた
先生たちには 子どもと向き合う心のゆとりを感じた
校長先生のおもいに 子どもを真ん中にした共育を見た

〔2021年5月23日書き下ろし。20年余も昔、共同研究者で福祉教育の牽引者である松江の山本寿子先生の導きで、市内、島根県内の小・中・高の学校で「福祉の公開授業」をさせていただいた。保護者からの貴重な感想文も手元に残っていた〕

響き合う授業

小学3年生との ボランティアをテーマにした授業だった

初めて出会う子どもたちのこころを 
あっという間に惹きつけてしまう話術
子どもたちに身近な話題を振って考えさせて
誰もが自分の答えをもって参加する面白い展開
子どもたち一人ひとりと簡単な受け答えをしながら
その子の特徴をつかみ取っていく洞察力
子どもたちの考えを抵抗なく引き出して
その気づきを生かして核心へと迫りまとめていく構想力
ボランティアという考え方を一元的に捉えるのではなく
子どもの「いまの考え」を尊重して認める包容力
子どもが生き生きと意欲的に参加する授業は
教材を通して教師と子どもが響き合っていた
参観した教師と保護者が その授業を楽しみ評価した

まとめに 子どもたちにこう訴えた
困っている人に 何かをしてあげることも大事だね
でももっと大事なことは きみの隣の人をよく知ることなんだ
いろんな人と仲良くするには お互いをよく知ることが一番かな
相手の人をよく知ることが ボランティアの勉強
友だちや先生のことをよく知ることが 学校での大事な勉強 
だから 隣の子のことをよく知ることからボランティアを始めよう

〔2021年5月21日書き下ろし。保護者も参観していただいた。ボランティア学習は人間理解学習であることを伝えた授業だった。北海道は今日東京よりも多い感染最多の727人のコロナ感染者を出す〕

授業がしたい

教員の超多忙な状況が 続いている
毎日の感染予防対策に 手は抜けない
ONLINE学習の準備だけでも
不慣れな者には 苦痛以外何ものでもない
これで学習が公平に提供されていると
思い込んでいる世間の認識が プレッシャーとなる
やっぱり対面で授業するのが 一番良い

タブレットの画面に一日中集中するなんて 可哀想
教室では 子どもも教師も気を抜くつぼを心得ている
冗談でも一つ二つ挟まないと 子どももやってられない
子どもたちの笑いに満ちた教室はいいな
子どもたちが真剣に聞き入る授業もいいな
子どもたちが課題に取り組む顔つきはもっといいな
子どもたちから吐き出される言葉はほんと生きてるな

授業がしたい
コロナ禍で干されてしまった
授業がしたい
教員を辞めても30年間 どっかこっかで続けてた
授業がしたい
一期一会の授業に 一身を注いだ
授業がしたい
子どもたちの食らいつき方が 半端ない
授業がしたい
担任は 子どもを見つめ直して見方が変わる

「当たり前のことを 当たり前にできる大人になりたい」
「いままで言い訳をすることが多かったけど これからはしないようにする」
「自分の気持ちに嘘をつかないように 生きていきたい」
授業の後に打ちのめされるのは いつも自分だと知りつつも
やっぱり 子どもと真剣勝負の授業をしたい

〔2021年5月20日書き下ろし。教師に見せる授業でもあった。子どもたちがどれだけ感性を研ぎ澄ますのか、どれほどのおもいをもっているか。それを引き出すのはテクニックではない。子どものおもいにただ添うだけで、子どもは持てる力を素直にぶつけてくる〕

阪野 貢/追記/「まちづくりの思想としての地域主義」を考える ―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―

地域というのは、人が生き、働き、思考する場であり、従って拡大し、重層する性質をもっている。地域主義というのは、その場から、その存続の可能性を信じながら、関連する全体を見通すことである。(古島敏雄。下記[4]カバー・前そで)
私たちが価値の基準を常に大都会や中央や外国において、私たち自身の生活や地域環境を軽視しつづけたこと、そのことを厳しく問い直すことがなければ、地域主義は育たないだろう。(河野健二。下記[4]カバー・後ろそで)

〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(134)「『贈与』再考メモ―コミュニズムとアナキズム―」(2021年4月28日投稿)の「追記」「補遺」である。内容的には、玉野井芳郎の「地域主義」論の抜き書きである。そのひとつのねらいは、それによって「まちづくりの思想としての地域主義」についての理解や思考が促され、真に豊かな地域社会を再生・創造する視点・視座や方向性、そのための枠組みなどを見出すことができれば、というところにある。
〇いま筆者(阪野)の手もとにある玉野井の本は、(1)『地域分権の思想』(東洋経済新報社、1977年4月。以下[1])と(2)『エコノミーとエコロジー』(みすず書房、1978年3月。以下[2])、(3)『地域主義の思想』(農山漁村文化協会、1979年12月。以下[3])、それに清成忠男・中村尚司との共編著(4)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』(学陽書房、1978年3月。以下[4])、この4冊である(それしかない)。
〇周知の通り、玉野井芳郎(たまのい・よしろう。1918年~1985年)は、経済学者であり、思想家、社会運動家であった。なによりも1970年代における「地域主義」「地域主義経済学」の提唱者・主唱者として著名である。1970年代は、高度経済成長(1955年~1973年)のひずみが露呈し、公害の続発や過疎・過密現象の激化をはじめ、自然環境の破壊や生活環境の悪化、住民の地域帰属意識の希薄化や連帯感の喪失などが進んだ時代であった。そんななかで地方分権や市民自治を重視する「地方の時代」や、自然・生態系や環境の保護を説くエコロジー思想などに基づく「住民運動」が注目された。
〇玉野井はいう。「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟(regionalism)を導入することにひとしいのである」([2]60ページ)。「60年代から70年代にかけて全国各地でまき起った激しい住民運動がなかったなら、地域主義の思想がこれほど広汎な社会的支持を得ることはなかったであろう」([3]18ページ)。「地域主義とは、<非政治的な市民文化の勃興>をこそ目指すべきものであって、そこには、市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平(社会)に登場するであろう新たな『市民』(ビュルガー Bürger:ドイツ語)の再生が期待されている」([1]ⅲページ)。すなわち、玉野井の「地域主義」の背景には「エコロジー」や「住民運動」があり、新たな市民を再生する「社会変革」の方向が打ち出されていた。そして、玉野井の「地域主義の思想」は、「下から」の「内発的地域主義」によって、実践的に「地域共同体の構築」をめざしたのである。その理念的方向については、「地域的個性を背景としながら、独自の経済・伝統・文化の多様性を生かした地域分権的自治の自主的自発的確立」と要約される(杉野圀明「『地域主義』に対する批判(上)」『立命館経済学』第28巻第2号、立命館大学経済学会、1979年6月、22(190)ページ)。
〇本稿では、[3]を中心に、玉野井の「地域主義の思想」について個人的に留意したい議論や論点の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」を意味する
「中央」そのものが地方分権、いや正しくは地域分権の確立を中央集権的に達成するというのは、もともと論理的矛盾ではないだろうか。すなわち、国が権力とカネをもって地域分権を達成するという道筋には、ほんらい大きい限界が横たわっているものとみなければならない。しかもその道筋には、国からのカネとモノの画一的な大量投入にともなう地域の混乱と荒廃が、いつものことながら待ち受けているはずである。([3]14ページ)
各自治体は、地域住民の総意を体現して、「地方の時代」にふさわしい自主・自立の姿勢を国にたいして表明しなければならないように思われる。最近、「国と地方は上下の関係でなく、対等の立場でそれぞれの機能を生かした協力関係でなければならない」と適切に提言されている。(それは)「地方」といわれるものが、単数の「国」と同一平面上にある単数の「地方」ではなく、「国」とは次元を異にして、歴史と伝統を誇る複数的個性の諸地域――そこには人間の生き生きとした生活感情がある――からなっていることを是認することにほかならない。「地方の時代」とは、正しくは「諸地域の時代」を意味するのである。([3]14~15ページ)

「地域主義」は実践的に地域共同体を構築することをめざす
国が「上から」提唱し組織する「官製地域主義」と区別して、「内発的地域主義」の私なりの定義を掲げておこう。――それは、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう。」
この定義をめぐって、まず経済的自立というのは、閉鎖的な経済自給を指しているのではなく、とりわけ土地と水と労働について地域単位での共同性と自立性をなるべく確保し、そのかぎりで市場の制御を企図しようとしている。次に政治と行政については「自律」という表現を用いているように、地域住民の自治が強調されている。最後に、地域に生きる人びとがその地域――自然、風土、歴史をふまえたトータルな人間活動の場――と「一体感」をもつという重要な思想が語られていることに注意してほしい。([3]19ページ)
地域主義はもはや論理的構築というよりも実践的・歴史的構築の対象といってよい。([2]60ページ、[3]181ページ)

「地域主義」は地域生活者による「生活づくり」を最大の課題とする
地域主義のエコロジー基礎は、当然のことながら大気系と水系と土壌生態系より構成される。だからその地域性は、同時に季節性を含むことになる。地域主義における〝地域〟とは、このようなに空間的地域と時間的季節性によって特徴づけられる人間の生活=生産の場所と考えなければならない。([3]10ページ)
「地域主義」はなによりもまず地域共同体の構築をめざすことを提唱する。この提唱にたいして、「地域主義」とはかつての農村共同体の復活をはかる封建的反動だなどと非難するなら、それは見当違いもはなはだしいといわなければならない。こんにち求められている町づくりや村づくりはこれまでのような「ものづくり」ではない。町や村に棲む人びとの「生活づくり」こそが最大の課題なのだ。地域共同体の構築という「地域主義」の課題は、「ものづくり」から「生活づくり」への転換という時代の展望を含意するものであることが知られなければならない。([4]9ページ上・下段)
人間生活の日常性にかかわる諸問題については、その決定の主体は、国や社会のレベルにおける抽象的個人ではなくて、諸地域のレベルに位置する地方自治体であり、正しくはそれを構成する地域住民=地域に生きる生活者でなければならない。([3]22ページ)

「諸地域の時代」とは諸自治体が「憲法」や憲章などを制定する時代のことである
地域に生きる人々の文化・生活権は国レベルの法律ではなくて、地方の各自治体においてこそ確立されるべきものである。地方の時代とは諸地域の時代のことであり、諸地域の時代とは諸自治体がそれぞれの本格的な「憲法」、憲章、または条例を制定する時代のことであるといってよいのではなかろうか。なるほどこれらは、いずれも法律の下位規範であるかもしれない。しかし、何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない「よきしきたり」をうちたてることを意味する。これが自治体の自己革新でなくて何であろう。([3]38~39ページ)

「地域主義」がめざす地域共同体は市町村レベルにおける「開かれた共同体」である
私たちの生活の小宇宙は、中央からの権力や金(かね)の支配から独立した、なによりも自立的な共同体でなければならない。これが第一の眼目と思われるが、それにとどまるものではない。第二には、この共同体は外にたいして開かれたものでなければならない。行政単位の面からすると、「わたしのまち」「わたしのむら」を代表する市町村は、都道府県の自治体レベルにたいして、「下から上へ」の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきものであろう。([3]124ページ)
地域主義がめざす地域共同体は開かれた共同体でなければならない。開かれたという意味は、上からの決定をうけいれるというより、下から上への情報の流れをつくりだしてゆく。そればかりか地域と地域との横の流れを広くつくりだしてゆくことをも意味する。([4]9ページ下段)
それは、「中央」を否定して無政府の混乱した体制をつくりだすというのではない。それは「中央」を、個性的諸地域の自立にもとづく地域分権に照応する、あるべき「中央」へと復位させるものといってよい。([3]17ページ)

「内発的地域主義」は「行政への住民参加」ではなく「住民への行政参加」をめざす
地域主義とは、金(かね)や政治権力の優位するMacht(権力:ドイツ語)の世界から、あらためて真のRecht(法と正義:ドイツ語)の世界を復位させてゆく努力を開始しなければならない時代と考えられる。([1]ⅲページ、[3]118~119ページ)
地域主義とは、単なる地方主義の域をこえて、内発的地域主義であるということを確認しなければならない。となると、自治体行政と住民との関係も、まさしく主客を転倒させなければならない。行政への住民参加ではなく、住民への行政参加ということとなり、ここに自立的主体による内発的地域主義の主張があらわれる。([3]119ページ)

〇地方分権改革は、1993年6月に衆参両院で「地方分権の推進に関する決議」がなされたことから始まる(それを起点とする)。1999年7月にはいわゆる「地方分権一括法」(2000年4月施行)が成立し、国と地方の関係が上下・主従の関係から対等・協力の関係に変わり、機関委任事務制度が廃止され、国の関与の新しいルール化が図られた。2021年3月、「第11次地方分権一括法案」が閣議決定されている。
〇「自治基本条例」が全国で最初に施行されたのは、2001年4月、北海道ニセコ町の「ニセコまちづくり基本条例」である。自治基本条例は、他の条例や施策の指針となる、自治体の自治(まちづくり)の方針と基本的なルールを定める条例であり、「自治体の憲法」と言われる。2021年4月現在、全国397自治体(全国1718市町村)で制定されている。
〇玉野井の「地域主義」は、一面では、これらの動きを生み出すものでもあった。しかし、「地域主義」は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その原因は奈辺にあるのか。その点をめぐって例えば、①自然環境や生態系と人間との関係性(破壊と脅威)や、巨大な独占資本による経済とそれに支配される地域経済(第一次産業や地方小工業など)との関連性(競争と収奪)などについての実証的分析なしに、規範的議論や主張(べき論)がなされている。②市場経済や政治・官僚・産業機構(癒着体制)がもたらす現実の地域社会の構造的矛盾について、科学的分析が不十分なまま、抽象的な議論にとどまっている。③「地方分権」(「地域分権」)という政治や行政に関わる議論でありながら、現実の政治・権力構造や政治・行政過程の分析を欠いている。④地域共同体が消滅しているなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、如何にして「地域主義」の実現を図るかという方法論が不明確である。⑤「まちづくり」の方向と展望は、その地域に自分を同一化する「定住市民」を必要とするが、その能動性や主体性を如何に育成・形成するかという論理が欠落している、などと評されることによるのであろう。これらを総じて別言すれば、地域・住民が地域の実態を踏まえて主体的・自律的に統治権を行使する(国の地方への関与を縮小するという「地方分権」と対峙する)「地域主権」(regional sovereignty)の「社会変革」の課題や方法、展望が見いだせない、ということであろう。
〇玉野井の「地域主義」に共感するところは多い。「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動、それに「まちづくり」の実践・研究などに大きな示唆を与えた。しかし、それが規範的であるがゆえに、理論構築については厳しい評価を受けた(受けている)ことも確かである。(筆者による)以上の諸点はその一部であり、相互に関連し重なり合っているが、「まちづくりと市民福祉教育」に関する課題に通底するものでもある。そしてそれは、新たな「社会像」としての「コミュニズム」(共同体主義)や「地域主権社会(国家)」とそのための「市民」の育成・確保のあり方を問うことになる。あえて付記しておきたい。