阪野 貢 のすべての投稿

札幌感染拡大打つ手なし

2日 札幌は過去最多の246人となった
有難くない新記録
大阪の吉村知事は 威信をかけて失敗認めず
しっぺ返しでオロオロしてる大阪の二の舞は
ここ札幌で 市長と道知事が教訓を生かさず再現される

去年の11月の第3波
市も道も対策遅れで  師走と正月の稼ぎをパアにした
市は4月から7回 百人突破の緊急事態
30日には 感染対応病床の440床は362床が使用中
2日 市はまん延防止等重点措置の要請をするか調整中とか
暢気なコメント言ってるだけで 道もいまだ具体的な動きなし
道は市に GWの特別対策として要請した
24日から外出・往来自粛 学校の部活動休止 公共施設の一部休止
27日からは市内のすべての飲食店・カラオケ店などへの「時短営業」
5月11日までには メドは立たず延期は必須
5日の五輪テストマラソンが終わるまで ほっかぶりを決め込む

それでなくても 内地からの人の出入りはストップできない
日本ハムも7選手とコーチ1人 チームスタッフ2人が陽性判定
2日の札幌ドームでの西武戦は中止となった
プロの選手は球団の厳しい管理下 予防には細心の注意をしてきたはずだ
そのバリアが簡単に破られたことを 軽視してはならない
いまさらまん延防止法を発令しても 効果の是非は大阪ですでに実証済み

緊急事態宣言を出さねば ならないタイミングで
道の御仁は 判断をどこに委ねているのやら
市の御大も 目立った業績もなく せめてコロナで挽回も期待薄
ワクチン来るまで 我慢を強いるだけのことしか今はない
それならそれと 声を大にして緊急声明でも発するしかない
去年の2月 道知事は超法規的に個人の行動規制を行った
責任取ると覚悟の発言 いまは過去に捨てられたパフォーマンス
頼りのワクチン接種の体制も 心許ない声が聞こえてく

医療も介護も 365日現場はいつも真剣勝負
感染者の痛みを引き受けながら
少しでも休ませたいと念じながらも 裏切りは続く
コロナの感染記録を 綴るだけの事しかできぬと知りつつも
それでも書き残さなければ 流されてゆくのが怖い
エッセンシャルワーカーの無事を いまは祈りたい

〔2021年5月2日書き下ろし。二日前に記録した間もなく、事態はさらに悪化していく。市も道も5日までは、会議を開いても結論ありきでかわすだろう。げすの勘ぐりと蔑まれても疑問は消えぬ。五輪開催は人の命と引き換えるに値するのか〕

付記
道内コロナ感染 過去最多326人 札幌246人
道などは2日、新型コロナウイルスの新規感染者数が、昨年11月20日の304人を上回り、過去最多の326人になったと発表した。
このうち札幌市発表分は過去最多の246人。昨年11月19日の197人を上回り、初めて200人を超えた。道分は47人、旭川市分は19人、小樽市分は4人、函館市分が10人。(北海道新聞2021年5月2日)

老爺心お節介情報/第24号(2021年5月2日)

「老爺心お節介情報」第24号   

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。新緑が目と心を癒してくれる季節になりました。
〇私は、この4月2日から、昨年、新型コロナウイルスに伴う緊急事態宣言発出により中断を余儀なくされた「四国歩きお遍路」を再開しました。4月3日に高知県37番札所岩本寺から歩きはじめ、4月28日に88番札所大窪寺を打ち、無事結願しました。その後、徳島から和歌山へフェリーで渡り、高野山奥の院に詣で、4月30日夕刻に帰宅しました。
〇26日間に亘るお遍路は、721キロ、1030941歩で、一日平均27・8キロ、39652歩の行程でした。出発時の体重が71・4キロ、体脂肪率が19であったのが、帰宅後は体重が68・7キロ、体脂肪率15でした。
〇今回のお遍路は、ある意味、四国4県の市町村社会福祉協議会への行脚でもありました。高知県社会福祉協議会、高知市社協、津野町社協、土佐清水市社協、宿毛市社協、宇和島市社協、今治市社協、観音寺市社協、丸亀市社協、善通寺市社協、香川県社協を訪問し、関係者と懇談をしたり、資料をお渡ししたり、定年退職した職員と懇談する等の交流をしてきました。
〇皆さん、新型コロナウイルスの件もあり、十分な時間も懇親の機会も持てない中でしたが、当初の目的の一つは遂行できたかなと思っています。いずれ、「四国歩きお遍路喜寿紀行の後編」としてまとめたいと思います。
〇留守の間、受領した郵便物を5月1日に整理していて、皆さんに情報提供しておいたほうがいいと思われるものを下記に列挙しました。参考にして頂ければ幸いです。

Ⅰ 東日本大震災関係資料

①「災害福祉支援ネットワーク、DWATの実態把握、課題分析及び運営の標準化    に関する調査研究事業」富士通総研・行政経営グループ
②「東日本大震災宮城県民100の提言」宮城県サポートセンター支援事務所
③「令和2年度東日本大震災被災者実態調査研究報告書」岩手県社会福祉協議会
④「東日本大震災に伴う生活支援相談員活動事例集2020」岩手県社会福祉協議会
⑤『岩手県における生活支援相談員の活動と地域福祉』山崎美喜子・山下興一郎、岩手県社会福祉協議会共編、中央法規
⑥『地域福祉から未来へー社協職員が向き合った3・11』
『地域福祉から未来へ2―社協職員が歩んだ10年』原田正樹編著、全国コミュニティサポートセンター発行

Ⅱ 新型コロナウイルスに伴う生活福祉資金「特例給付」関係資料

①「兵庫県内社協・新型コロナウイルス感染拡大に伴う生活福祉資金特例貸付レポート2020」兵庫県社会福祉協議会

(2021年5月2日記)

静寂な世界

ある総合病院の土曜の午後
正面玄関から入り 検温して手指を消毒した
受付は 会計の窓だけが開いていて 
警備員が所在なくしていた
会計と薬の受け渡しを知らせる電光掲示板は
仕事を終え消えていた
黙礼を交わし 待合の長い廊下を歩き始めた

診察カードの自動チェック機も
電源が切られて置かれていた
調剤室の窓口を過ぎ 
検査室・処置室と向き合う 内科の診療室の待合には
いまは誰一人ソファーに座る人もいない
薄暗い廊下をさらに歩いていく
静寂な世界がただ続くだけだった

土曜の午後のある病院の当たり前の風景
月曜の早朝から土曜の1時まで患者でごった返していた
いま待合の廊下は 混雑から解放されていた
帰り際 モップで床を拭く清掃員がひとり
黙々と仕事していた
挨拶を交わし 外に出た

ただそれだけのことだった
何か不思議な静寂さが懐かしかった

〔2021年5月1日書き下ろし。休みなく動くコロナ治療の最前線も、いつかこの静寂さが戻ってほしいと願わずにはいられなかった〕

笑顔と感謝

あなたが訪ねて来る日まで
待ち遠しく暮らしておりました
あなたの笑顔が嬉しくて
コロナの不安が消えました

あなたの声を聞くだけで
ご無事を確かめておりました
あなたの笑顔に会いたくて
どれだけ持ち望んでいたでしょう

あなたと会っておしゃべりできるまで
1年間も待ちました
あなたの優しさに触れたくて
ようやく心が安らぎます

あなたと出会いふれあうだけで
生かされている私を感じています
我慢しないでなんでも話してください
あなたの笑顔に励まされ癒やされて
やる気と元気が湧いてきます
感謝のおもいでいっぱいです

あなたが目の前にいるだけで
いつもの明るさ感じています
あなたの心遣いが嬉しくて
今日も元気に暮らせます
あなたにお世話をいただきながら
いまは感謝のおもいでいっぱいです

〔2021年4月30日。先日出た道民児連機関誌「アンテナ」№211に掲載された詩であ
る。書いた時には「希望」があった。いまは「失望」から再びの道を歩まねばならない。笑顔と感謝の日々が来ることを信じて〕

とめられない!とまらない!

3回目の緊急事態宣言
時間たりない 打つ手ない
ワクチンたりない 打つ人いない
出入りストップできない 壁はない
感染とめられない ウイルスとまらない

28日コロナ感染者の発表
札幌は170人 全道で219人
道内の1日当たりの感染者数200人超えは 1月15日以来
札幌は 昨年11月20日以来の170人超えとなった。
5日のマラソンテストマッチ 中止の声はいまだない
市長は 市民は自宅でテレビ観戦を奨励する
病床使用数 440床の約74%
それでも平然と 五輪ありきの開催に固執する

兵庫は 過去2番目の多さの600人
大阪は 1260人 過去最高となった
東京は 925人 900人超えは1月28日以来3カ月ぶり
千台にのる勢いは 誰にもとめられない
今さらながらの首都圏4都県の知事の共同発信 間が抜ける
「遊びに来ないで」

市井の声は 届いてはいない
「五輪しないで!選手来ないで!」
「医療者に先にワクチン打って!」
「生活保障して!」
「感染の数だけ数えて仕事になるなら私にさせて!」
「かけ声ばかり命令ばかりで聞きあきた!」
「家で仕事が出来ないから会社に出るしかない!」
「どれだけ規制の効果があるのか証明して!」
「北海道にも来ないで!」

安全地帯で暮らせる人には 下々の苦痛とは無縁となる
危険を冒してもいいという人は 救いようがない
リスクを抱えて仕事する人は いまは変異種と闘い続ける

ワクチンの接種数は 発表されていても
全国まばらにばら撒かれて 集団免疫にはほど遠い
やってますとその言い訳で 何をしてるか皆目不明
正式な契約とメドが立ったのでは 雲泥の差
安心してくださいとは なめられたものです

さてGW後の結果を どう判断して解除するのか
「政治的判断」とやらの 裏側を探ってみませんか
えっ 濁って泥沼化して何も見えません!
国民には ジタバタするなって言った先から
政治家たちは 言いつけを守らず泥試合に興じる

今夜のIOCとの5者協議
傲慢なバッハの発言に 開いた口が塞がらない
IOCに 日本の安全と国民の命を預けられますか?
IOC以外が五輪中止を判断したなら
日本に賠償請求の可能性があるという
踏んだり蹴ったりの顛末 どう決着が着くのやら
これを教訓に 札幌も冬の五輪誘致など撤回すべきです

きょうの日の記録
国内の感染者 58万2585人で5793人増える
死者 1万126人で51人増える
累計ではなく 現在の罹患者の数が知りたい
現状の患者がどれだけいるのか 現状を理解するには必要不可欠だ
ここで致死率を積算してみて驚いた
北海道は 誇りたくない異常事態の全国1位
大阪の倍であり 兵庫以外は1%台と出た
北海道 感染者23749人(+219)/死者854人 致死率3・59%
(括弧内は今日の感染者数、死者は累計)
◆埼玉37416(+224)/745 1・99
◆千葉32896(+144)/620  1・88
※東京137351(+925)/1880 1・37
◆神奈川53040(+257)/816  1・54
◆愛知32761(+323)/627  1・91
※京都12259(+140)/186  1・51
※大阪79039(+1260)/1404  1・78
※兵庫30648(+600)/672   2・19
○福岡22784(+440)/349   1・53
◆沖縄12335(+63)/134   1・09
(※は緊急事態宣言 ◆はまん延防止法 ○は個人的に関心のある県)

〔2021年4月28日書き下ろし。GW前の感染状況のレポートである。人の出入りを制限した期間限定では、この繰り返しはエンドレス。道は致死率をどう分析してるのか不明〕

付記
首都圏4都県知事「遊びに来ないで」 GW前に共同発信
ゴールデンウィークが始まるのを前に東京、埼玉、千葉、神奈川の首都圏4都県知事が28日、新型コロナウイルスの対策を話し合うテレビ会議を開いた。「1都3県には遊び来ないで」などと「ステイホーム」を呼びかける共同メッセージを発信した。
メッセージでは、飲食時の感染対策やテレワークを活用した出勤抑制を都県民に依頼。公園や路上での飲み会についてはコンビニなどにも注意喚起に協力を求めた。
東京都の小池百合子知事は会議の冒頭、GWについて「爆発的な感染拡大を阻止できるか、重要な分岐点」と指摘。埼玉県の大野元裕知事が「この機会にしっかりと首都圏が一体となってワンボイスでできればいい」と述べた。神奈川県の黒岩祐治知事も「連携していくことで我慢のウィークを実現していきたい」とし、GW前に共同メッセージを出す意義を強調した。また、千葉県の熊谷俊人知事は車の「県外ナンバー」に非難が集まることなどへの懸念に触れ、「分断が起きないよう細心の注意を払いながら丁寧な発信を心がけたい」とした。(朝日新聞2021年4月28日)

東京の感染者「1日500人」で緊急事態解除すると…「再拡大」
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い25日に3回目の緊急事態宣言が発令された東京都について、1日当たりの新規感染者数が500人を下回った段階で宣言を解除すると、2カ月足らずで1000人超の新規感染の拡大を招くとの試算を、東京大の仲田泰祐(たいすけ)准教授(経済学)と藤井大輔特任講師(同)が公表した。経済損失も大幅に増加する可能性があるという。感染力が強いとされる変異株への置き換わりが急激に進んでいる影響で、これまで以上に感染の抑え込みが難しくなっているためとみられる。
試算は4月25日までのデータをもとに、ワクチン接種の状況も加味して、今後の感染者数の推移と経済への影響を予測した。都内で広がりつつある英国由来の変異株の感染力が、従来株の1・5倍と仮定した。1日当たりの新規感染者が5月第2週に500人を下回った状態で宣言が解除され徐々に飲食店などが営業再開した場合は、新規感染者数は再び増加に転じ、6月第4週には1000人超、7月第1週には1500人を超えると試算。緊急事態宣言を再発令するレベルに達し、経済損失額は約3兆8000億円に膨らむと見込んだ。
5月11日までとしている現在の緊急事態宣言の期間を延長し、6月第2週に250人を下回った段階で解除した場合も、8月第3週には1800人超に達し、経済損失額も3兆5000億円超との結果になった。一方、1日当たりの感染者数が100人を切ると予測される7月第4週まで宣言を延長した場合は、その後の新規感染者数は緩やかに増加するものの、ワクチンの接種が進む効果もあり、宣言を再発令することなく収束に向かうという。経済損失額も約2兆6000億円となった。
実際の感染者数の推移は、変異株の感染力や人々の行動によって大きく異なってくるとみられる。仲田准教授は「仮に感染者数が横ばいのまま宣言を解除すれば、より早期に感染の再拡大を招き状況はさらに厳しくなる。できる限り、感染者数を下げて解除することが望ましい」と話している。(毎日新聞 2021年4月28日)

悪夢が甦る

二度ならず三度目が来るとは
誰が予想しただろうか
不気味な予感は 現実味を帯びて来る

悪夢は 甦りを待つ
悪夢を 甦らせる呪文が聞こえてきた
悪夢が 足音を忍ばせ不気味に迫る

悪夢なら 早く覚めて欲しい
悪夢なら 一時の我慢を堪えればよい
悪夢ゆえ 金縛りにあうのが怖い

その悪夢を招く者が 支配の席に三度(みたび)就く
その吐く虚言に 被支配者は服従する
その傲慢な態度に 被支配者は隷属する
その野心的凶暴さは いつか被支配者に武器を持たせる
その権力という欲望は 枯渇することなく湧き上がる
その命が尽きるまで 支配することを天命とする

ただの凡人は 凡人らしく振る舞うことを拒否する
無能な凡人は 非凡であると偽り着飾って己を騙す
信望なき凡人は 見返りに金と地位をばらまく
世襲の凡人は それだけが命綱で取り巻きと政界を渡る
小賢しい凡人は 待望論を演出して蘇りを図る

悲哀なのは その支配を三度されようとも 喜んで甘受する
無謀なのは その支配に刃向かうことなく すべて甘受する
非情なのは その支配が私欲に塗れていても 構わず甘受する
悲惨なのは その支配の先にある戦争すら 疑わず甘受する
無知なのは その支配による命の搾取を ひたすら甘受する

無関心・無批判・無抵抗のエゴが
悪夢のような現実を甦らせる
正義心・倫理観・感情の劣化が
悪夢に彩られた社会を甦らせる
信託・信用・信頼の喪失で
悪夢の政治が甦る

〔2021年4月27日書き下ろし。25日三選挙全敗後何を正すのかも分からず、悪夢が蘇ることに大きな不安を感じている。五輪以上に不遜な事態が起こる予感して怖い〕

阪野 貢/「贈与」再考メモ―コミュニズムとアナキズム―

贈与概念を初めて体系的な社会分析のために用いた研究は、マルセル・モースの『贈与論』である。その主要な問いは、贈物の中に潜むいかなる力が、貰い手に返礼させるのかというものである。これに対するモースの答は神秘性を帯びている。つまり、マオリ族が用いる「ハウ」という観念それ自体に原因を求めた。「ハウ」とは、「物の霊、とくに森の霊や森の獲物の霊」とされ、返礼されずにいると――もち主を殺してでも――元の場所に戻りたがる「贈与の霊」である。贈与者は、贈物をハウと共に送ることで、貰い手に対して神秘的で危険な力を行使していることになる。この観念を媒介として、富、貢納、贈与の義務的循環と、それを通じた社会的結合関係の維持機能を説明するというのが、かの古典的名著の主旨であった。(下記[5]、28ページ)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、3冊の本がある。白井聡(しらい さとし)著『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社、2020年4月。以下[1])、斎藤幸平(さいとう こうへい)著『人新世の「資本論」』(集英社、2020年9月。以下[2])、内田樹(うちだ たつる)著『コモンの再生』(文藝春秋、2020年11月。以下[3])がそれである。現代の日本社会は、「格差」「分断」「貧困」、そして「コロナ禍」などの言葉で語られる。その現状は、「グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠(さくばく)たる」([3]6ページ)ものである。この3冊の本は、こうした行き詰まる資本主義社会の「いま」と、向こう側の新たな「社会像」について思考する際に役立つ。
〇[1]にあっては、自立が強制され、自己決定(自己責任)が追及される現代資本主義社会を生き延びるための「武器」になるのは、カール・マルクスの『資本論』である。1980年代以降の新自由主義(ネオリベラリズム)は、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理主義」などをキーワードに、社会の仕組みだけではなく、人間の魂や感性、センスを変えてしまった。資本による生産・労働過程のそれのみならず、労働者の魂、人間の全存在(身体・心理・文化・社会的諸側面の全体。人間の「全体性」)の「包摂」である(66、67ページ)。[1]は、『資本論』のキモを平易に解説した画期的な入門書であるが、裏にあるテーマは「新自由主義の打倒」(222ページ)である。別言すれば、「資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法」(「帯」)である。
〇[2]において斎藤は、「マルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を〈コモン〉として持続可能に管理することであった」(190ページ)として、「資本主義の転換」を迫る。その際の〈コモン〉とは、「社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す」。それは、資本主義(新自由主義)でも社会主義(国有化)でもない「社会像」(「脱成長コミュニズム」)であり、「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理する」(141ページ)ことをめざす。
〇[3]で内田はいう。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)によって、グローバル資本主義と新自由主義は大規模な修正を余儀なくされることになる。その先に取り得る選択肢のひとつが「コモンの再生」である。それは「いま」、世界各地で、共同・協働のネットワークの再評価が始まっていることからもうかがい知ることができる(270ページ)。内田にあっては、国民国家がより小さな政治単位に分割されてゆく「『地域主義』がこれからの流れ」(261ページ)になるなかで、「コモン(共有地)」とは(「私」ではなく)「私たち」による「ご近所」共同体(6ページ)である。
〇私事にわたるが、2020年9月、「PSA:4.43」が筆者のその後の生活を決することになった。同年12月、「グリソンスコア:9」によって奈落の底に突き落とされる。そして、コロナ禍のなかの2021年4月、手術のために12日間の入院生活を強いられた。入院中のある日、(本当に)何故かふと、40年以上も前のことであるが、他界した伯父の「献体」のことを思い出した。身体の「贈与」である。なお、伯父は晩年、百姓仕事などのすべてを娘婿に渡し、近くの寺院(真宗高田派本山 専修寺)で奉仕活動に没入している。
〇いま、資本主義社会の行き詰まりについて批判する文脈で、またコミュニティの再興が叫ばれ、「コモンズ」(共有資源)や「コミュニズム」(共同体主義)について論じられるなかで、「贈与」が注目されている。「贈与」は多義的で、多用あるいは乱用されている感があるが、その言葉で思い出すのはマルセル・モースの『贈与論』である。モース(1872年~1950年)は、フランスの社会学者・文化人類学者であり、協同組合運動を中心とする社会主義思想への共感・共鳴を示していた。1925年に出版された『贈与論』は、「バイブル的存在」(小林修一)、「現代贈与論の原点」(平尾昌宏)などと評される。周知の通りである。
〇以下では、モース著・森山工(もりやま たくみ)訳『贈与論 他二篇』(岩波文庫、2014年7月。以下[4])におけるモースの基本的な議論・主張のうちから、(1)「贈与の3つの義務」と(2)「全体的社会的事象」についてのみ再確認しておくことにする。それは例によって、「市民福祉教育」実践・研究に「使える」であろう理論や方法に関する筆者の個人的な関心による。
〇モースにあっては、伝統的な「贈与」は、「贈り物をおこなう義務」「贈り物を受け取る義務」、そして「受け取った贈り物に対してお返しをする義務」の3つの義務から成っている。この「贈与」「受領」「返礼」という義務のうち、その根幹に位置づけられるのは第3の義務すなわち「返礼」である。それは、「贈与」と「受領」の義務を前提としている(101ページ)。要するに、モースがいう「贈与」は、相互性(互酬性)に基づく義務的な「贈与交換」(「贈与と交換」「贈与=交換」「贈与という名の交換」)である。そして、モースによると、「贈与」「受領」「返礼」は「気前よく」(60ページ)なされねばならず、「借りを返さないままでいる」(395ページ)と劣位に置かれたり、対抗関係を生み出すことになる。この点は現代社会においても然りである。「ギフト(gift)という一つの単語が『贈り物』という意味と『毒』という意味」(37ページ)の両義性を持つといわれる所以でもある。物の贈与には悪意や敵対といった感情的要素(感情的価値)が備わっているのである。モースはいう。「物には依然として情緒的な価値(精神的価値:筆者)が備わっているのであって、貨幣価値に換算される価値(金銭的価値:筆者)だけが備わっているわけではない」(393ページ)。
〇「返礼」の義務の特徴は、「贈与の恩恵に浴した人には、もらったものと等価のものに、さらに何かを上乗せしてお返しすることが義務づけられるようになること」(15ページ)にある。そして、「贈与」「受領」「返礼」が果たす機能は、物の交換や流通それ自体ではなく、「贈り物を受け取るということ、さらには何であれ物を受け取るということは、呪術的にも宗教的にも、倫理的にも法的にも、物を贈る側と贈られる側とにある縛りを課し、両者を結びつける」(43ページ)ことにある。すなわち、「贈与」「受領」「返礼」の循環・体系は、個人や集団などの間に友好的な関係(紐帯)を生み出し、その維持・強化を促すのである。モースはいう。「社会が発展してきたのは、当のその社会が、そしてその社会に含まれる諸々の下位集団が、さらにその社会を構成している個々人が、さまざまな社会関係を安定化させることができたからである。すなわち、与え、受け取り、そしてお返しをすることができたからである」(450ページ)。
〇ところでモースは、「贈与」は、「社会生活をかたちづくるあらゆることが、ここで混ざり合っている」という。それは、「宗教的な制度であり、法的な制度であり、倫理的な制度である――この場合、それは同時に政治的な制度でもあり、家族関係にかかわる制度でもある。それはまた、経済的な制度である」。それゆえにモースは、これを「『全体的な』社会的現象」(「全体的社会的事象」)と呼ぶことを提唱する(59ページ)。これは、「『全体』への強い志向性にもとづいて学術的探究に臨む」(「訳者解説」476ページ)モースの社会学・文化人類学の特徴を示すものである。ここで、次の一文を引いておくことにする。「全体を丸ごと考察すること、これによって、本質的なことがら、全体の動き、生き生きとした様相を把捉(はそく)することができたのであり、(中略)社会生活を具体的に観察することのうちに、新しい諸事象を見いだす手段がある。(中略)全体的社会的事象を考究すること以上に差し迫ったものはないし、また実り多いものもない」(442ページ)。
〇上述したように、モースは[4]で、「贈与の3つの義務」に基づく贈り物が循環することによって、社会的連帯・紐帯が生み出されることを指摘した。その点に関して、私事ながら本稿の冒頭に記した伯父の「献体」の贈与行為についてはどう考えるのか。公益財団法人・日本篤志献体協会によると、「献体の最大の意義は、みずからの遺体を提供することによって医学教育に参加し、学識・人格ともに優れた医師・歯科医師を養成するための礎となり、医療を通じて次の世代の人達のために役立とうとすること」(同ホームページより)にある。現在、わが国には献体篤志家団体が62団体あり、献体登録者の総数はおよそ30万5000人を越え、そのうちすでに献体した人は約14万人に達している(2019年3月31日現在)。
〇伯父の献体行為は、宗教的な動機も考えられるが、見返りを求めない、利他主義に基づく不特定の匿名他者への自発的な贈与であった。また、伯父が普段所属していたアソシエーション(機能集団)やコミュニティ(共同体)に対する個人的な感情(正義、責任、義務、感謝、愛、自己実現など)の発露であったろう。しかもそれは、医学教育に参加し、医療を通じて次世代の人達に役立とうとする公的な贈与であったといってよい。さらに言えば、医学や医療技術、生命科学や生命倫理などの発展をもたらし、回りまわって伯父の家族の自己利益にもつながることが想定される。いずれにしろ、伯父の献体行為は何らかの個人的・社会的な連帯意識に基づくものであり、またその行為の結果として人々の個人的・社会(文化)的な連帯意識の形成が促される。あえて指摘するほどに目新しいものではないが、ひとつの論点として再確認しておきたい。
〇筆者の手もとにいま、2冊の本がある。仁平典宏(にへい のりひろ)著『「ボランティア」の誕生と終焉――〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』(名古屋大学出版会、2011年2月。以下[5])と山田広昭(やまだ ひろあき)著『可能なるアナキズム――マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年9月。以下[6])がそれである。そこに見いだされるひとつの論点([5]の〈贈与のパラドックス〉、[6]の「支配への抵抗」)について留意したい。
〇[5]において仁平は、「ボランティアをはじめとする参加型の市民社会の諸カテゴリーは、『善意』や『他者のため』と解釈される契機を不可避的に含むことになる。(中略)この『他者のため』と外部から解釈される行為の表象」を「贈与」と呼ぶ(10ページ)。そのうえで、「近現代の日本におけるボランティア言説の展開をたどり、参加型市民社会のあり方を鋭く問いなおす」(「帯」)。サブタイトルにいう〈贈与のパラドックス〉(paradox:逆説、矛盾)とは、贈与は行為者の真の意図とは別に、交換や見返り、偽善や自己満足などとして外部観察されがちである、という意味である。平易に言えば、「贈与の偽善性」「贈与の疑わしさ・怪しさ」である。
〇「アナキズム」には、「無政府主義」「政治的極左」「革命思想」といったイメージがつきまとう。その実は互酬性や相互扶助に基づく「支配に抗する思想」である。[6]において山田は、モースの『贈与論』を手がかりに、多くの思想家の議論・言説について言及し、「来たるべき経済」(贈与経済)社会を模索する。そして山田は、「非中心性、自主的連合、そしてつねにダイレクトに否を表明できる直接民主主義、これらはアナキズムの変わることのない基底である」(228ページ)。アナキズムは「個人的自由の追求と連帯の追求とがけっして矛盾しないと考える思想」である。「個人の自由の確保こそが真の連帯の条件である」(195ページ)、という。なお、ここで筆者は、アナキズムに関して「地域主義」(「小さな政府」)の理念を基盤に、「市民」のつながりや集まりである「地域コミュニティ」における「共働」をイメージしている。誤解を恐れずに付記しておきたい。

アナキズムとは、個人の自由を抑圧・侵害するようなあらゆる支配権力(とくに国家権力)を否定し、上からの組織化や統制を拒否しながら、合意によって自由で調和的な社会を建設しようとする思想である。したがってその根本には、権力による支配や強制なしに、社会を運営していくことが可能だとする発想がある。方法は大別してふたつある。ひとつは直接政治の領域に入って、国家権力を打倒しようとするものであり、もうひとつは国家権力と直接対決するのではなく、権力支配とは無縁な空間を(多くの場合、小規模かつ分散的性格の自治的協同体を建設するなどの方法で)非政治領域のなかに作り上げることによって、国家による権力支配を骨抜きにしていこうとするものである。(上記[6]、195、196ページ。中見真理(なかみ まり)著『柳宗悦――時代と思想―』東京大学出版会、2003年3月、59~60ページ。)

補遺
筆者の手もとにいま、在野の日本近代史家・渡辺京二(わたなべ きょうじ)の本『幻のえにし――渡辺京二 発言集』(弦書房、2020年10月)がある。少し長くなるが、次の一文を引いておきたい。なお、渡辺は、『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年1月)などで知られる作家・石牟礼道子(いしむれ みちこ)を「50年間一緒にやってきた戦友」(本書、119ページ)という。二人の「道行き」(歩み)については周知のことである(米本浩二『魂の邂逅――石牟礼道子と渡辺京二――』新潮社、2020年10月)。

自分というものがこの世に生まれてきて満足するような人間のあり方というのは、一人一人が独立するしかないんですよ。一人一人が独立してね、自分の主人公になってね、そういう本当に独立した人間がある地域を介してね、地域というのは土地、土地は自然ということでもあるけれども、そういうものを介して、お互いが結びついて、その土地の生活を守り抜いていくということしか無いんですよ。
要するに、僕らは自分自身をまず独立させることなんですよ。それはどういう意味かというと、自分の考えを持つことなんですね。自分の考えを持つ。(253~254ページ)
自分の頭で考えるということは、コモンセンスで考えることなんです。コモンセンス。つまり普通の良識です。生活する上での普通の理屈で考えればいいわけなんですよ。すべての事柄は。そうするとおかしい事は、いくら理論ぶって言ったっておかしいわけなんです。そういう健全な批判能力みたいなものをね、保持していこうというのが、自分が一人である事なんですよ。(255ページ)
つまり自分は一人である、自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、自分がある土地に仲間とともに結びついていると感じるからなんだ。ところがそういう基盤がなくなっているからね。自分が生きている土地に相当するのは、自分がともに生きてきた仲間なんだよ。自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる。それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく自分が自分でありたい人たちで作った仲間が、小さな国になっていく。そういうものをしっかり作るということが僕の思う革命なのさ。それ以外はない。(257~258ページ)

追記(「岐阜新聞」2023年3月5日朝刊/2023年3月13日)

太書きの万年筆

万年筆をいただいた
インクを買い求めた
Blue-Blackがひと瓶 棚にあった

万年筆は コンバーター式になっていた
インク瓶にペン先を浸して 直接インクを吸い込む
初めての体験で手間取り 左手がインクに塗(まみ)れた
やり方のミスに気づき ようやく注入を終える

試し書きをした
気分が高揚してくるのを 抑えきれなかった
太いラインが滑らかに流れる
欲しかった太さのペンだった
葉書や手紙は 出来るだけ手書きを旨とした
太い文字で書くことに 憧れていた

年齢が邪魔をした
高価なものを買っても どれだけの時間がこの先あるのか
宝の持ち腐れで 持つという欲を満たすだけのことになる
そう考えると 二の足を踏んだ
それでも 事務用品売り場に並べられた万年筆を
試し書きをすることもなく ガラス越しにながめながら 
値札を見て通り過ぎた

いま持っている二本の万年筆の一本は もう五十年にもなる
就職した春 初任給四万円のうち五千円をはたいて
田舎の文房具店で買って 名前を入れてもらった
札幌の専門店で何度かクリーニングをして 長らえている
もう一本は 道庁に異動した記念に求めた
これもかれこれ二十五年は ゆうに経つ
書くことは ワープロからパソコンにシフトしてしまったが
どちらも 思い入れの強い二本となっていた

学生時代は ミミズのはったような
自分にしか解読できない 下手くそな文字を書いていた
教師になって 板書したり ガリ版原紙を切ったりすることで
子どもに分かる文字を 書かねばならなくなった
万年筆は 大人になった一人前の証の一品であった 
手書き文字の上達への願いを込めた一品ともなった
いまでも何かの署名の時には 心して万年筆を使う

さっそく 礼状を一筆認(したた)めた
いただいた万年筆の 初仕事となった
重厚感のあるボディーは すぐに手に馴染む
ソフトタッチで ペン先から流れるインクの描く線は
下手な文字も それなりの装いをまとって表れる
太い線は 感謝の思いを伝える言葉を力強く支えた
書き終えて 近くの郵便局で投函した

ペン先の太さで表現された文字が
己の性格を見せるとしたら
さしずめ今までの万年筆からは
鋭く尖った攻撃的なタッチが 強調されていた
神経質な性格を もろに表出した文字となっていた
文章の言葉のはしはしに 優しさが見えていても
手紙の中の文字は 堅く鋭く緊張感を伝えていた

今日からは この万年筆を使いこなすことにしよう
柔らかなタッチを 身につけよう 
性格も多少穏やかになるのではと 期待をこめよう
贈ってくれた方の宿題は ここにあるのかもしれない
時世の変化に ゆったりと構えて考える
浮世の流れに ゆるやかに身を任す
そんなおもいを書き記すには 本当に有難い一品となった
待てよ 
そこまでまだ 老成できぬ己がいた
ちょうどいいというバランスを 取るにはまだ未熟者だった

今世の不条理を語るに 太く力強い文字から発せられる
その言葉に 生気を吹き込みたい
ここに見つけた手書きの新しい太文字の世界に
柔らかさと強さを兼ね備えた表現を見出したい
そこにペンを握る者の覚悟と 伝わることの確信を見つけたい
だから文字を手書きするという感覚を 忘れてはならない

〔2021年4月27日書き下ろし。一本の万年筆をどう使いこなすのか。今日の詩の下書きから始まった新しい習慣づくり。楽しみが増幅されてゆく。師に感謝するばかりである〕

新任校長を祝う

あなたが思い描く共育は
蔑視され軽視された子らに添いて歩む
ゆかしさのなかにあふれる慈愛は
理を諭しながらも子らの情感に迫る
悲しみを負いし子らの心痛を引きとる

この共育の道にあるもの
宇宙の時空間の一瞬に出会った奇跡と
地球という命の惑星に生きる奇跡が
容赦ない感染症や命の危機に抗い
打ちのめされることが 決してないよう
思い切り生きるに値する逞しさを 育てるしかない

モラル軽薄の時代に 人として生きるということ
いつも子どもを粗末にしない共育を 問い続けたい
思いやりややさしさを育てる力こそ いまこそ求められる
さらなる信望を得て 人間教師としての成長を願う
涸れることのない 子らへの共育愛こそ
責務を全うすべき あなたの校長としての真の姿かと
よき地域の風土の中で 共感同行する先生たちと
子らをど真ん中にした 共育の可能性を追求してほしい
とびっきりの笑顔が 子らの学び合う喜びとなることを信じて

〔2021年4月26日書き下ろし。新卒の時代から福祉教育を共に進めて歩んできた小学校の先生が、今春校長になった。多忙の折り電話で小1時間ほど抱負を聴きながら喜びにしたっていた。優しさの中におもいの強さを秘めた女性である。その経営手腕に期待したい〕

世間に生きる

自分のことで  精いっぱいです
他人(ひと)のことなど 構っていられません
食べていくだけで カツカツです

自分のことしか 考えられません
他人のことなど 無理です
先のことすら わかりません

自分のことも できません
他人のことなど できるはずはありません
求められても 余力はありません

なぜほっといてくれないんですか
他人事は煩わしいばかりです
他人事に関わりたくないんです

なぜひとりにさせてくれないんですか
押しつけがましい善意が苦手なんです
求めてもいない善意が苦痛なんです

なぜ責めるのですか
他人に迷惑はかけていません
他人の邪魔にもなっていません

他人事だと距離を置く
ひとは避けることも逃げることもできず巻き込まれる
他人事だと知らんぷりする
ひとは好むと好まざるに関わらず巻き込まれる
他人事には立ち入らない
ひとは否応なく世間の動きに巻き込まれる

自分のことだけ 考え暮らしてきたが
いつの間にか 他人事のど真ん中にいる
自分さえよければと 身勝手に暮らしてきたが
世間の器の中で 生かされていることを知る
拒みきれない世間のしがらみの中で
他人事に翻弄される自分を見る

〔2021年4月25日書き下ろし。世間にはいろいろな人が生き暮らす。他人事に巻き込まれ嫌な思いもさせられる。どんなに距離を置こうと、そこで暮らす以上、逃げ出せない〕