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辻浩/私の「社会教育」実践と研究―地域と福祉と学校をつなぐ「社会教育」研究のこれまでとこれから(その1)―

辻浩の「地域と福祉と学校をつなぐ社会教育」実践と研究

―回顧と課題―

 

はしがき

〇筆者(阪野)は、長い間先延ばしにしてきた辻浩(つじ・ゆたか)先生のご高著を再読し、拙稿――辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―(備考参照)を草した。そこで学んだことは、表層的の誹(そし)りを免れないが、約言すれば次の通りである。

● 辻の言説は「生涯学習と社会教育と教育福祉」「社会教育と地域福祉と地域づくり」「学校教育と社会教育と地域づくり」「共生と自治と社会教育」「歴史と理論と実践」「研究者と実践者と住民」などの視点や枠組みのもとに、また「歴史研究と社会調査とアクション・リサーチ」の手法を用いた多面的・多角的な思考によって展開される。そこに通底するのは、「子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす」地域づくりについての熱い思いと真摯な姿勢である。
●辻の3冊の単著を時系列に沿って見ると、辻の「生涯学習論」やそのひとつの側面である「地域づくり教育論」や「教育福祉論」の形成過程、すなわち社会教育や生涯学習の実践や研究の抽象化・体系化の方法と過程がわかる。それは、戦後日本の社会教育研究や生涯学習研究の到達点(成果)でもあり、次の新たな実践や研究への展望を開くものであると言えよう。辻は、研究者の立ち位置や方法について、地域住民や現場職員の「学習」による認識や行動を重視し、その「歴史と実践のなかから苦悩と喜びをともなって立ちのぼってくるような記述をめざしている」とする。強く意識したい。
● 辻の言説の特徴のひとつは、「社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なもの」である。しかも辻は、「学習権保障としての教育福祉」 を主軸(前提)に、教育全体のあり方を見直す教育改革の視点とともに、主体的・自律的な住民(子ども・若者や成人)による「地域づくり」に視座を置いて「論」を展開する。例によって唐突ではあるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に課せられたものでもある。強く再認識したい。

〇この機会に、久しぶりに辻先生にご挨拶を申し上げたが、先生から『地域と福祉と学校をつなぐ社会教育』(私家版冊子、2024年)と題する冊子をご恵贈いただいた。名古屋大学大学院時代(2018年4月~2023年3月)の玉稿の一部を収録し、思いを綴ったものである。
〇筆者は、上記のような点を再確認しながらそれを拝読するなかで、本稿のようなモノをブログ読者に紹介したいという強い思いに駆られ、急ぎ集成作業を行った。そこで、辻先生に対しては失礼の極みであるが、事後承諾を得ることで本稿を投稿・アップさせていただいた次第である。従って、その一切の責任は筆者が負うものであことは承知している。先生と関係機関に対しては、まずはお詫びするしかない。
〇いずれにしろ、読者の皆さんには是非、辻先生の以下の「論稿」と「研究業績」を通して多くを学んでいただきたい。

(市民福祉教育研究所/文責:阪野 貢)


Ⅰ 「地域と福祉と学校をつなぐ社会教育」実践と研究

―辻浩 『地域と福祉と学校をつなぐ社会教育』(私家版冊子、2024年)―


『現代教育福祉論』の刊行から6年:名古屋大学で考えたこと

                                辻 浩

1.『現代教育福祉論』刊行の経緯
〇私が最初に単著として刊行した『住民参加型福祉と生涯学習―福祉のまちづくりへの主体形成を求めて―』(ミネルヴァ書房、2003年)は、領域的には福祉教育の研究ということができる。しかし、戦前の社会教育が翼賛体制に組み込まれたことから、たとえ福祉のためとはいえ、動員的になってはいけないと考え、住民が多様で切実な課題を抱えていることを強調し、そのことを理解できるように「学習の自由」が必要であることを訴えた。
〇そしてこの本を書いている頃から、1990年代半ば以降指摘されることになった貧困や格差の広がりについて授業で話すことが多くなり、社会教育の原論のテキストとして『現代の貧困と社会教育―地域に根ざす生涯学習―』(国土社、2009年)を編集した。これは切り口が明解でありながら社会教育の全体もわかるという点で反響が大きかったが、編者としては、前半の貧困や格差がすすむ中での社会教育実践の論稿と後半の社会教育の法や行政、施設の論稿が結びついていないと思った。その後、社会教育の計画論のテキストとして、『自治の力を育む社会教育計画―人が育ち、地域が変わるために―』(国土社、2014年)を編集することになったが、ここでも前半の自治体の計画や公民館の職員の仕事に関する論考と後半の地域課題の学習についての論稿が結びついていないと思った。
〇私がこのようなことに取り組んでいる間に、子どもや若者、女性の貧困に注目した研究がぞくぞくと発表された。また、障害のある人や外国にルーツをもつ人の研究も数多く発表されるようになった。私はそれらを紹介しながら社会的排除を克服する社会教育が求められていると授業で話していたが、何年かして、恩師の小川利夫先生の議論を受け継ぐようなものが必要ではないかと思うようになり、『現代教育福祉論―子ども・若者の自立支援と地域づくり―』(ミネルヴァ書房、2017年)を著した。貧困・障害・差別の問題を、理論、歴史、国際動向、学校づくり、地域づくり、から総合的に論じるものが1冊くらいあってもいいのではないかと考え、意識的に幅の広いものにした。
〇そこでようやく、教育福祉と社会教育と地域づくりが結びつけられるようになった。また、小川先生の教育福祉論を乗り越えることは考えず、受け継いで今の時代に照らして考えれば、自ずと何か見えるのではないかと思うようになり、小川先生が存命であれば、今の時代のどういうことに注目して研究をすすめるだろうと考えるようになった。そのようにしたことで、学校教育をどのように相対化して改革できるのか、組織労働の社会変革の力が低下している中で何に依拠して実践をすすめられるのか、といったことが自分の中で課題として明確になった。

2.研究室年報で考えたこと
〇『現代教育福祉論』の刊行の半年後に私は名古屋大学に赴任した。まず、研究室で発行されている『社会教育研究年報』(年報)を活性化させたいと思い、自分が率先して書くことにした。『現代教育福祉論』で書くべきことは全部書いたつもりだったが、自由に書ける機会ができると、教育福祉にかかわることばかりが頭をかすめ、結果的に、『現代教育福祉論』の補遺のようなものを書き続けることになった。
〇最初に書いた「『公害と教育』に関する教育福祉研究試論―森永ひ素ミルク中毒事件における『恒久救済』をめぐって―」(年報第33号、2019年)は、公害の被害にあった人やその家族はどのように自己を形成していくのか、いわば教育福祉における人格論を考えようとしたものである。このことに取り組むのには、中坊公平『私の事件簿』(集英社新書、2000年)の中で、安い粉ミルクを子どもに飲ませたことで自分を責める母親の話を聞くと「鉛を飲んだようだった」という記述が頭からを離れなかったということがある。また、大前哲彦先生から、ここでの補償の仕方は東日本大震災での原発事故の補償でも参考になるのではないかという話をうかがっていたこともかかわっている。我が子が障害を負わされたという怒り抱きながらも、子どもたちに何を残すべきかを考えて、一時金での補償ではなく生涯にわたって必要な医療・教育・福祉を受けられる「恒久救済」という補償を求めた親たち、その運動にかかわっていく医療や教育の専門家、報道関係者、そして誠実に責任を果たし再発防止にも取り組む加害企業。社会教育は社会運動の中の学びに注目してきたが、このような社会運動における合意形成に感銘を受けた。
〇次に書いた「『教育福祉的生涯学習』から見た教育基本法解釈の課題―困難を抱えた人々の連帯による教育の改革―」(年報第34号、2020年)は、現行の教育基本法で生涯学習が教育全体の理念となり(第3条)、教育の機会均等に障害のことが入ったことから(第4条)教育基本法の全条文を読み解くととどうなるのかを考えたものである。現行教育基本法は、教育の目標が徳目的に並べられていること(第2条)、私事である家庭教育に介入したこと(第10条)、教育行政による支配の可能性がないことを前提にしていること(第16条)、教育振興基本計画によって行政の権限が強化されたこと(第17条)など、大きな問題をもっている。また、生涯学習も「その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない」とされ、個人の豊かな自己形成ではなく、社会に貢献することが中心になりかねない条文になっている。しかし、法律として存在している以上、可能な限りいい方向に向かうように解釈できないものかと、空想的ではあるが、第3条と第4条を結びつけて「教育福祉的生涯学習」という概念を設定して、そこから教育全体を考えてみた。
〇3つ目に書いた「教育福祉実践を担うNPO・市民活動と公的社会教育―新しい価値観の創造と行政的・市民的承認の地域における結合―」(年報第35号、2021年)は、NPOが最先端の教育福祉実践を切り拓いている中で、職員の異動が激しい行政の社会教育は何をすべきかを考えたものである。このことに思い至ったのは、岐阜大学での社会教育主事講習の時である。NPOが展開している教育福祉の実践の話は学生が関心をもって聞くことなのに、そこでは反応が鈍かった。なぜだろうと考えて咄嗟に思い浮かんだことは、公務員や教員である受講者にとって、最先端の実践を切り拓いているNPOのようなことをするのは無理だと思われたのではないかということであり、そうであれば、NPOと協働する公的社会教育のあり方を示す必要があるということであった。そこで思い出したのが、西東京市の公民館での困難をかかえた人のことを考える講座のことである。ここでは、子ども・若者支援でも、母子世帯支援でも、性的マイノリティのことを考える講座でも、NPOの人から優れた実践の話を聞いた後、公民館職員が受講者同士の意見交換をリードし、アフターミーティングを呼びかけ、そこからさまざまな活動が立ち上がっていく。正規の行政の社会教育職員は頻繁な異動の中でかつてのような専門性を身につけることができず、非正規の職員は社会教育実践に長年取り組んでも決定権が与えられない。このような行政の社会教育職員の置かれている状況を率直に認めて、最先端の取り組みを行っているNPOが発信してる新しい価値観を地域・自治体に定着させていくことが公的社会教育の課題ではないか考え、そこでは古い価値観と対峙することも必要で、簡単にできる仕事ではないことも指摘した。
〇4つ目に書いた、「『学校から社会への移行期』における教育福祉と学校改革―『総合教育政策』の可能性―」(年報第36号、2022年)は、社会教育や教育福祉がもっとも必要な時期として「学校から社会への移行期」について考えたものである。社会教育の歴史を思い返せば、上級学校に進学できない農村青年や勤労青年の教育に力を注いできた。今日ではほとんどの子どもが高校に進学しているが、高校を中退した若者がどのように社会に出ていくことができるかが課題となり、高校や大学を卒業しても社会でつまずいた時の立ち直りの支援も課題となっている。また、障害のある人が特別支援学校高等部を卒業した後に、大学や専門学校に進学することが少なく、学習・文化・スポーツ活動に参加することも難しい。障害者権利条約を批准したにもかかわらずこのような状態になっていることから、文部科学省でも障害者の生涯学習のあり方を検討する有識者会議を設置して、モデル事業を委嘱している。有識者会議のメンバーでもある田中良三先生が学長を務める見晴台学園大学にかかわり、そこから「障がい者生涯学習研究会」や「全国専攻科(特別ニーズ教育)研究会」に参加して、学校卒業後の社会教育の整備だけではなく、卒業後の生涯学習を見通した学校教育の改革がめざされていることに感銘を受けた。このような中で、私は中央教育審議会生涯学習分科会の委員になり、生涯学習を所管しているのが総合教育政策局であることからすすれば、初等中等教育局と高等教育局にはたらきかけて「総合教育政策」の内実をつくってほしいと機会があるたびに発言した。また、附属中学・高校の校長を併任することになり、大学受験で終わるわけではない生涯学習時代にどのようなことを考えなければならないのかを生徒に話し、『希望への学びのために―「生涯学習の校長」が学校で語ったこと―』(私家版、2023年)にまとめてみた。
〇5つ目に書いた「教育福祉から見た『働くこと』による人間発達と地域社会―『もう一つの経済循環』を視野に入れて―」(年報第37号、2023年)は、困難をかかえた人の支援として働くことを位置づけることが必要であり、そのために人間らしい働き方がどのようにつくられつつあるのかをまとめたものである。ここには、学部時代に学んだエンゲルスの「猿が人間になるについての労働の役割」や「子どもの遊びと手の労働研究会」の取り組み、障害者の共同作業所づくりの理念、大学院時代に出会った「人間発達の経済学」「内発的発展論」「地域内経済循環」の考え方が背景にある。また、前任校で地域福祉のあり方を考えている中で出会った労働者協働組合や農福連携事業の取り組みや、若者支援の最先端を切り拓いている文化学習協同ネットワークで、「働くこと」をめぐって、その時々の取り組みを教えてもらったことが影響している。そして、社会教育・生涯学習研究所で福島県飯館村や長野県阿智村にかかわる中で、地域・自治体の最大の課題である人口減少に歯止めをかけるには、若者の目から見て、自分の願いが実現できそうな働き方ができそうかどうかということがそこに住むかどうかの分かれ目になることがわかったことも大きいことだった。このような「もう一つの経済循環」は社会に参加してその人らしく生きることができる仕組みではあるが、まだ局所的であり、大きな流れにするためには、住宅政策や社会保障制度の改革を求める運動ともかかわらせる必要がある。

3.教育福祉研究において心すべきこと
〇教育福祉という用語はまだ定着していないものの、困難をかかえた子ども・若者への関心が高まり、多くの研究が発表されるようになってきている。その原因として、格差や貧困の広がりが深刻に受け止められていることがあると思われるが、一方で、安易にこの研究に関心が向けられるという側面もあるのではないだろうか。教育福祉研究によって、これまでの研究の欠けた部分を埋めることができ、次々と起きる問題とそれに対応した実践には新しさがあり、そのことに取り組むことは社会正義にもかなう。しかし、教育福祉研究は人の困難を研究材料にする罪深さがあり、困難の原因を明らかにすることでレッテル貼り・宿命論につながることもある。その意味では、教育福祉研究には、子ども・若者の権利保障の立場に立ち、その運動に参加し、痛みを感じながら取り組むことが必要であり、その上で、表層的なことではなく本質的なことを見定めて研究する必要があると考える。
〇教育福祉を提唱した小川利夫先生は、進学できる青年と働く青年という「二つの青年期」に注目し、差別的な後期中等教育を問題にした。しかしその後、子ども・若者に限定しない教育福祉の研究も行われるようになっている。私も教育福祉を成人や高齢者の課題として授業で話していた時期もあるが、『現代教育福祉論』では子ども・若者の課題として考えた。すべての世代に教育と福祉の連携が必要ということにすれば、教育福祉研究の対象が広がる一方で、学校教育の差別的構造を改革するという教育福祉がもっていた重要な視点が入らなくなるということをわかっておく必要がある。また、子ども・若者の教育福祉の研究は、奨学制度のような学校教育福祉と居場所づくりのような社会教育福祉に分けることができるが、その重なりや関連を意識して、学校教育の改革につなげることに力点を置くのか、それぞれの領域の制度や計画、技術に力点を置くのかを考える必要がある。
〇教育福祉は当初、中卒集団就職者の自立、児童養護施設入所児童の高校進学率の低さ、障害児の不就学などに、自治体労働者や福祉施設職員、教職員が取り組み、その背景に労働組合や自主的な研究会があった。しかし今日、そのような組織的な労働者の社会運動の力は低下していく。このような中で、教育福祉と地域づくり教育の担い手はどのように変化してきたのか、それぞれの時代に精一杯の実践がどのように展開されてきたのかを跡づけるために、『<共生と自治>の社会教育―教育福祉と地域づくりのポリフォニー―』(旬報社、2022年)を著した。しかし現実の公務労働者をめぐる状況はますます厳しくなり、人員が削減され、非正規・委託で働く人が増え、手薄になる地域の末端を住民が「我が事・丸ごと」考えて支えることが期待されている。このような地域・自治体の全体構造を理解しないで、教育福祉実践だけに注目すると、実践者をますます過酷な状況に追い込むことになるのではないだろうか。そこで、今日の地方自治の動向の中で、優れた社会教育実践の創造と生活ができる労働条件の確保を同時に追求する道はないものかと、『地方自治の未来をひらく社会教育』(自治体研究社、2023年)を編集したが、まだ自覚的な公務労働者の苦悩と実践をいくらか前向きに示すことしかできていない。
〇教育福祉は困難をかかえた子どもの問題に限定するにせよ、そこから競争主義的な教育全体の問題に言及するにせよ、「国民の学習権確保」の課題として提起された。しかしその後、ポストモダンの思想的背景をもった主張があらわれ、同じ目の高さで交流することや異なる他者が出会うことの豊かさを実感することなど「関係形成」や「相互承認」に価値が置かれるようになり、さらには、困難をかかえた人の権利保障の取り組みは、低い位置にいる人を人並みに救い上げていくという上下関係でものを考えているとの指摘までなされるようになった。このような「権利保障の反作用」という指摘に対して、私は「関係形成・相互承認の反作用」ということがあるのではないかと考えてきた。そして、見晴台学園大学(発達障害の子ども・青年のための無認可の学園)や専攻科で在学期間を延長しようとする取り組みに触れて、その思いを強くしている。同じ人間として豊かな関係をつくることを否定はしないが、簡単にそのようなことができるとは考えられず、マジョリティとしての贖罪(しょくざい)の意識を潜(くぐ)り抜ける必要があり、そのためには、権利保障の取り組みに参加することが必要ではないかと考える。また、恵まれない環境が今なお存在しているにもかかわらず、社会的・制度的な課題に目を向けないのは、権利保障を求めてきた人びとの歴史と今日の取り組みを蔑(ないがし)ろにするものであり、関係形成や相互承認ができるようになったことだけを評価することは、自分の至らなさを反省するという意味で、国民総懺悔的な思考を広めることになるのではないだろうか。このような問題意識をもって、『高度経済成長と社会教育』(大空社出版、2024年)を編集したが、そこでは「権利としての社会教育」の歴史的文脈と課題を再確認し、形而上学に流れることが厳しく批判されていたことから示唆を得ることができた。
〇『現代教育福祉論』から6年、名古屋大学で研究と教育をする中で、教育福祉研究にはこのように考えなければならない課題があることに気づいた。このことを個々の論文に書く込むことはできないが、研究者としてのスタンスとして意識しておく必要がある。また、若手・中堅の研究者によって、教育福祉の個々の事象を取り上げた研究がなされていくと思われるが、年長の研究者によって、教育福祉全体を歴史の大河に照らして総括されることが何年かに一度は必要なのではないかと思っている。


出典:辻浩「教育福祉研究の展開のために」『地域と福祉と学校をつなぐ社会教育―回顧と課題―』(私家版冊子、2024年)1~5ページ。


Ⅱ 研究業績(抜粋)

謝辞:本稿の掲載について辻浩先生と名古屋大学大学院教育発達科学研究科に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所:阪野 貢
備考:<雑感>(212)阪野 貢/辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―/2024年8月1日/本文、をご参照下さい。

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阪野 貢/辻浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む―辻浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、辻浩(つじ・ゆたか)の本が7冊ある(しかない)。

(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習―福祉のまちづくりへの主体形成を求めて―』ミネルヴァ書房、2003年12月(以下[1])
(2)辻浩著『現代教育福祉論―子ども・若者の自立支援と地域づくり―』ミネルヴァ書房、2017年10月(以下[2])
(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育―教育福祉と地域づくりのポリフォニー』旬報社、2022年10月(以下[3])
(4)島田修一・辻浩編『自治体の自立と社会教育―住民と職員の学びが拓くもの―』ミネルヴァ書房、2008年8月
 本書では、自治体の自立には住民と職員の「学び」が不可欠であるという考えのもとに、住民と職員の協働による地域づくりの実践を取り上げ、自治の主体に育っていく姿を明らかにする。
(5)上田幸夫・辻浩編著『現代の貧困と社会教育―地域に根ざす生涯学習―』国土社、2009年8月
 本書では、「社会教育は社会問題教育である」(小川利夫)という考えのもとに、社会教育の本質を再認識し、今日の深刻な問題を解決するのに社会教育が有効であることを示す。
(6)辻浩・細山俊男・石井山竜平編『地方自治の未来をひらく社会教育』自治体研究社、2023年3月
 本書では、優れた実践の創造と職員の働き方は循環しながら発展していかなければならないという考えのもとに、社会教育職員の取り組みを紹介し、そのための適切な社会教育労働(公務労働)のあり方を論究する。
(7)辻浩編『高度経済成長と社会教育』大空社出版、2024年1月
 本書では、1950年代半ばから70年代初めにかけての高度経済成長期における社会教育の実践的・理論的課題をおさえながら、「地域社会教育実践史」を描く。

〇本稿では以上のうちから、辻の単著である3冊([1]から[3])を取り上げ、そこでの論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によってそれは、限定的で我田引水のものになることを断っておきたい。

(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習』
〇[1]のテーマは、生涯学習の視点から、「福祉のまちづくりを住民の主体的な参加ですすめるための視点や方法を明らかにする」(1ページ)ことにある。そこで辻は、住民参加による福祉のまちづくりの課題として、①批判精神と創造的情熱を統合すること、②困難を抱えている住民の参加を考えること、③住民参加を社会構造や社会規範のなかでとらえ実践的に解決すること、の3点を指摘する(1~3ページ)。そして、「当事者主体」「学習の自由の尊重」「住民と社会教育職員の学び」に焦点を当てて社会教育・生涯学習の歴史と理論と実践を提示する。その際辻は、これらの課題とめざすべき方向性について、抽象化・体系化された一般論として提起することよりも、実践者にその「苦悩や喜び」(4ページ)を語らせる(実践者の文章を引用する)というスタイルを取る。そこから、実践者とその実践に対して真摯に・誠実に向き合う辻の熱い姿勢が見て取れる。
〇併せて辻は「福祉のまちづくり」は、社会参加や自己実現を含むノーマライゼーションをめざして展開される必要がある。また、無償のボランティア活動に加えて非営利活動・市民活動も含めて住民の連帯に依拠して進められる必要がある。それはまた、住民によるインフォーマルサービスと自治体によるフォーマルサービスの関連を視野に入れて議論する必要がある。さらに、「福祉と教育」の共同性の追求とそこから生まれるその公共性のあり方を考える必要がある、という。こうしたことなどから辻は、「福祉のまちづくり」、その中心課題である「福祉に関する住民の理解を深め、誰もが社会に参加し豊かな交流がもてる地域社会をつくること」(18ページ)を、「社会参加を軸とした主体形成をめざす生涯学習」の視点(24ページ)から考察することになる。
〇その際辻は、「福祉と教育」(「教育福祉」と「福祉教育」)の関連(連携)をその歴史と実践から問い、住民の生活実態や人権問題に注目しながら追究する(論を進める)。

今日、違いが尊重される「共生」文化の育成と「協同」による地域社会経済発展に基づく地域づくりが求められる
今日、経済のグローバル化のなかで、一般労働者や「周辺地域」における貧困が深刻になってきている。構造的な失業に典型的に現れる「社会的排除」を克服するためには、地域社会経済発展の戦略が必要であり、そのための協同活動が求められている。/社会教育と社会福祉の関連を考える際、まずは社会教育の場面に参加していない人への機会の提供と、そこでの学習の内容や方法が問題となるであろう。しかし注意しなければならないのは、学習を通して住民の同質化を強要する結果になることであり、違いが尊重される共生の文化を育むことが大切である。また、経済的要因による社会的排除の問題が深刻になっているなかにあって、協同による地域社会経済発展という戦略のもとで人権問題を考えることが必要になってきている。(43ページ)

福祉教育プログラムが開発されればされるほど、「行為の中の省察」を行える「反省的実践家」が強調されなければならない
福祉教育のプログラム開発は、たんなる便利な教材づくりではなく、それを活用する視点を同時に提案してきた。しかし、プログラムが魅力的であればあるほど、福祉教育の実践者がそれに頼ってしまうという傾向も見られる。その意味で、福祉教育プログラムの活用と福祉教育の実践場面での実践者の主体的判断をどう組み合わせるかが課題となる。/そこで注目されるのが、ドナルド・ショーン(Donald Alan Schön)が提起する「行為の中の省察」(reflection-in-action)や「反省的実践家」(reflective practitioner)という視点である。(190ページ)/福祉教育プログラムが開発されればされるほど、実践者は実践を通じて「状況との対話」や「自己との対話」を行い、(自分の行為や考え方を振り返り、その改善を図りながら成長していく:阪野)「反省的実践家」が求められる。(191ページ)

困難を抱えた住民が社会参加するためにはまず、人と人が語り合い受け止め合える地域社会をつくることが必要である
現代社会は困難を抱えた人たちが社会から孤立し、存在証明を喪失するという現実を生み出している。また、そのような現実を生み出す装置として「世間」が機能し、困難を抱える人たちの異議申し立てを許さない精神的な構造がつくられている。さらに、そのような「世間」に向かって異議申し立てをした場合には、自分とは別の困難を抱えた人を差別する結果に陥ることが多いということも重要である。これらの議論から見えてくる現代社会の課題は、困難を抱えた人々が自分たちで語りあい、受けとめあえる関係をつくり、その関係を地域社会が認め、そこから何かを学ぶことではないだろうか。(217ページ)/福祉教育が主催者の意図に反して差別意識の助長につながる可能性があることは時に指摘されるが、その歯止めをどのようにかけるは難しい。住民誰もが自分らしく生きることのできる地域をつくるためには、一足飛びに人権や共生という価値やそれを実現する方法を提起するのではなく、困難を抱えた住民がまずは親密圏をつくり、そこでの話し合いや活動を地域が認めていくことが、遠回りに見えて意外に近道なのではないだろうか。(218ページ)

大人が地域の福祉に参加しながら共同意志を形成し、子どもとの関係をつくる教育改革が求められる
障害をもつ人への差別意識や偏見をなくすためにはできるだけ早い時期に障害をもつ子どもともたない子どもが触れ合うことが大切だといわれ、「総合的な学習の時間」の導入にともなって、子どもへの福祉教育の機会が増えてきている。(222ページ)/今日の教育改革に関する中央教育審議会の議論は、子どもを学校教育、社会教育、家庭教育でどのようにしていくかに議論が偏り、大人の学習や成長が子どもの発達や地域の教育力を高めるという文脈はほとんど見られない。しかも、子どもへの期待の核心は、経済のグローバル化のなかでますます激しくなる競争にうち勝つ「たくましい日本人」である。(223ページ)/このように、子どもの意見を聞かず、社会の退廃への有効な手立てを示さないまま、一部の大人が特定の価値にもとづいて、未来の国民像を議論しているところに、今日の教育改革に関する議論の欠陥がある。/まずは大人が地域の福祉に参加しながら、地球的な課題を考え、他者の声を「聴く」ことをはじめれば、そのことをもって、子どもとの対話が生まれ、大人と子どもの共同の関係が築けるのではないだろうか。(224ページ)

(2)辻浩著『現代教育福祉論』
〇[2]の課題は、「教育と福祉が連携して、すべての子ども・若者の豊かな人間発達を保障する道筋を明らかにすること」(ⅰページ)にある。その際、「子ども・若者の自立支援と地域づくり」というサブタイルが示すように、「困難をかかえた子ども・若者の自立支援の一環で、教育の機会均等を実現するための方策に思われがちな教育福祉から、人間発達にかかわる教育的価値と誰をも排除しない地域づくりにかかわる教育福祉にまで視野を広げて検討する」(ⅲページ)。そこで辻は、教育福祉を次のように定義する。「教育福祉とは、教育と福祉が連携して、子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす概念である。しかしそれは、静態的なものではなく、社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なものである。教育福祉は、困難をかかえる子どもにも等しく教育の機会を提供するためのものと見なされがちであるが、それだけではなく、教育全体のあり方を見直す視点であり、さらには、地域づくりの視点を提供するものでもある」(1ページ)。
〇そして辻は、この定義に基づいて教育福祉における4つの論点を提起する。①すべての子ども・若者にかかわる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題だけではなく、すべての子どもの幸せにつながる教育のあり方を全体的に検討することが必要である)。②「地域と教育」という視点からの教育福祉(教育福祉は学校内に限定されるものではなく、学校と地域が連携するなかで子ども・若者にかかわる多様な人々が共通に学ぶべきものであると考える必要がある)。③まちづくりにつながる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題解決のためにまちづくりと連動する必要があるが、それだけではなくまちづくりをすすめる契機としても考えることが必要である)。④社会教育・生涯学習の本質としての教育福祉(教育福祉は社会教育・生涯学習に内包されるが、その意義が大きくなるなかで教育改革と地域づくりに迫ることが必要である)、がそれである(4~9ページ)。こうした広く・新しい視野・枠組みのもとで辻は、これまでの教育福祉の歴史的・理論的な展開を丁寧かつ誠実に振り返り、そして今日的な課題に焦点を当てながら「現代」教育福祉論を展開する。

「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められる
教育福祉は便宜上、学校を中心に行われる「学校教育福祉」と地域を中心に行われる「地域教育福祉」に区分され、それぞれに個別領域の中で実践するタイプと領域横断的に実践するタイプがある。(34ページ)/「開かれた学校づくりにおける教育福祉」を追求する学校教育福祉と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」を追求する地域教育福祉は連携できることが多い。困難をかかえた子どもに対して社会的な制度や地域の力も活用して支援しようというスクールソーシャルワークと、住民やNPOが地域の現実を見つめ学習しながら子どもを支援する実践をつくってきていることが連携することで、今日の教育の全体を見直し、「学習権保障論としての教育福祉論」を大きく発展させることができる。/個別領域を重視した「学校・学級経営の中での教育福祉」や「成人教育の機会均等をめざす教育福祉」は課題が単純でわかりやすい。しかし、子ども・若者の生きづらさが問題となり、その解決が切実な社会の課題になっている中で、多機関連携重視の教育福祉論の発展がめざされている。すなわち、「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められているのである。(36ページ)

社会福祉のなかには具体的に問題を解決する「教育福祉」よりも、意識改革で問題を乗り切る「福祉教育」を重視する発想がないとは言い切れない
小川利夫の教育福祉論は、「教育福祉と福祉教育の関連」について、一つに、福祉教育が現実の教育福祉問題から切り離されてはならないこと(現実は切り離されていることが多いことへの批判を含む)、二つに、教育福祉と関連する福祉教育は、国家権力が支持するものと困難をかかえた民衆が支持するもののせめぎ合いの中で展開されていることを指摘した。(51ページ)/今日では学校教育と並んで車の両輪のように見られることが多い社会教育であるが、歴史的には学校教育を刺激し改革するものとして社会教育が存在した。それは社会の民主化と関連することであるが、必ずしもそうでないこともあった(近代日本の感化救済事業や社会事業は、生活支援のための「物質的救済」には消極的で、「精神的救済」に重要な位置が与えられた:53ページ)。このことは社会福祉が教育福祉を軽視して福祉教育に力を入れることを警戒しなければならないという指摘につながる。具体的に問題を解決する教育福祉よりも、意識改革で問題を乗り切る福祉教育を重視する発想が、今日の日本の社会福祉の中にないとはいいきれない状況の中で忘れてはならないことである。(53ページ)

今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている
今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている(図1:162ページ)。ここでは、一つに、教育運動を当事者が中心となって展開するようになってきていることが注目される(①の領域)。二つに、当事者が自らの権利を行使できるようになることを支援する地域での取り組みが見られることが注目される(②の領域)。三つに、ボランティア活動やNPOの力で、福祉のまちづくりとして子ども・若者の困難と教育にかかわる実践が展開されるようになってきていることが注目される(③の領域)。(そして)これらの根底に、自治の力による教育福祉のまちづくりがある(④の領域)。(161~163ページ)

図1 教育福祉をめぐる重層構造

教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりを進めることによって、真に自治的な地域づくりが可能になる
今日、高齢社会や生活困窮者の増加、過疎化、地域保全などに対応するために、政策として「行政と住民の協働(公私協働)」の必要が強く求められている。それは当初、財政的に厳しい中で地域課題を解決しなければならないという側面と、住民が自分たちのくらしを見つめかかわることの大切さという側面が融合したものであったが、今日、それに加えて、日本の国づくりの方向に積極的に協力する国民形成という色合いが強くなってきているように思われる。/このような福祉のまちづくりと「公私協働」の複雑な状況の中で、政策に振り回されない歯止めが求められている。そして<図1>のように、教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりをすすめることは、一つの歯止めになると考えられる。切実な課題をもった人のことを念頭におき、その人たちの発達を中心に地域づくりをすすめれば、国づくりの方向性に疑問が生じることもあり、真に自治的な地域づくりが可能になる。(163ページ)

(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育』
〇[3]の目的は、「すべての人が社会に参加して人間らしく生きることができる地域社会を、住民と職員(社会教育職員)の学びに依拠してつくるための実践的な課題を明らかにすること」(3ページ)にある。その際の視座は、「社会教育」をはじめ「共生」「自治」「教育福祉」「地域づくり」というキーワーで表される。辻はいう。「教育福祉と地域づくりの取り組みに含まれる学習を通して、人びとは<共生と自治>の力を身につけ、社会教育(「権利としての社会教育」)はそこで重要な役割を果たす」(5ページ)。「教育福祉」とは、「困難をかかえた人に対して、教育と福祉、すなわち豊かな人間発達の保障と生活基盤の安定をともに追求することである」(3ページ)。<共生と自治>は、「共生のために自治が必要であり、共生によって自治が高まる」(5ページ)という関係にある。こうした思考に基づいて辻は、<共生と自治>の視点から、戦後日本の社会教育論と社会教育実践を問題史的通史として跡づける。加えて、今日的な社会教育実践について、自らの理論的・実践的探究を丁寧かつ真摯に振り返りながら論究する(6ページ)。

「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められる
戦後日本の学習と教育の権利保障の動き(自己教育と条件整備を求める動き:阪野)は、1950年代後半から、その運動にかかわる住民と職員、研究者の間で「権利としての社会教育」と呼ばれるようになった。/「権利としての社会教育」は近代社会の中で確立した自由権と社会権を求めるものだったが、1970年代にユネスコで(自由権と社会権に続く:阪野)第三世代の人権(連帯の権利)が議論され、80年代に入って日本の社会教育でもそれに依拠した議論がはじまる。競争に苛(さいな)まれて人と人とがつながれなくなる一方で、障害のある人たちの社会参加が唱えられ、新たに定住する外国人が増えてくる中で、「連帯の権利」は社会教育を考える新しい視点となった。/しかし今日の状況を見ると、施設の貸し出しや講師の選定、展示内容、配架図書などをめぐって自由が侵害される事案が生じ、争いが起きないようにあらかじめ自己規制することも多くなっているように思われる。また、所得格差が他の要因とも絡(から)んで意欲格差にまで及んでいる中で、等しく教育機会を保障するとはどういうことかが問われている。したがって、社会教育研究は自由権と社会権の追求をないがしろにするわけにはいかない。「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められている。(30~31ページ)

住民参加による福祉のまちづくりはその実践が住民の統制や動員に転じないかを見極めることが重要である
福祉のまちづくりは、困難をかかえた人が地域とかかわりながら自己実現をめざすノーマライゼーションの理念にかなうものであるが、一方で、高齢化によって福祉予算の増額が必要であるにもかかわらず、財政構造を抜本的に改革できないことから、「自助」と「共助」で乗り切ろうとする側面がある。また、「地域包括ケアシステム」をつくるには住民への説明が必要であるが、はじめから政策的にゴールが設定され、そこに辿(たど)り着くことが求められる学習は主体的な学習ということはできない。福祉のまちづくりをめぐって、地域課題を学び実践することでかかわった人びとの人格や能力が豊かに形成されるのか、それとも地域課題への動員的な参加が恒常化し義務的な雰囲気にすらなっていくのか、それを見極めることが重要である。(73ページ)

「学習の自由」「教育の機会均等」の実現と「関係形成」「相互承認」を結びつけた社会教育論の展開が求められる
今日、多様な価値観を認めあってともに生きることができる社会をめざすことが求められ、仲間とともに主体的に課題に取り組むことも大切なことと考えられている。このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」への関心をもたず、(障害のある人とない人、高齢の人と若い人というように、立場の違う人が交流し、共感することができる:142ページ)「関係形成」や「相互承認」のみに注目する社会教育の考え方もある。(81ページ)/このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」という課題を捨象して「関係形成」や「相互承認」を追求する社会教育論は、一つに、今日起きている問題に目を閉ざしている点で、二つに、課題は残っているとはいえ今日の状況をつくってきた歴史的な努力に思いを馳(は)せない点で、三つに、これまで関係形成や相互承認ができなかったことが個人の責任にされてしまう点で、気づかないうちに今日的な新しい権力的統制に追随することにならないだろか。「学習の自由」と「教育の機会均等」を今日的な状況の中で実現することと「関係形成」「相互承認」を結びつけた自己教育運動に注目した社会教育論が求められる。(82ページ)

地域・自治体づくりには、学習をはじめ、住民のエネルギーとネットワーク、住民と職員の協働、一般住民の理解と合意などを生み出す仕組みや仕掛けが必要である
(「住民主体」で地域・自治体づくりをすすめる)長野県阿智村では、さまざまな課題をもつ住民が学習を通して共通認識をつくり、そこで出てきた課題を自治体職員もともに考える仕組みがある。地区の計画づくりや広報説明会、村の予算概要の配布を通して、住民が地域課題を自覚して、それを職員とともに考えることができ、公民館や社会教育研究集会で取り上げられることで、その課題を全村的に共有し、解決に取り組もうとする住民の出会いが生まれる。そして、具体的な活動は村づくり委員会や地域自治組織で取り組まれ、協働活動推進課がそれを後押しして、議会は政策をつくる。このようなことを通して、課題に取り組む住民のエネルギーが蓄積され、職員も住民とともに活動する意識をもち、そのことが労働組合で交流されている。(193~194ページ)/ここで注目すべきことは、このような学習と計画策定と情報発信を通して、地域の中で多くの住民から理解を得て合意をつくっていくということである。また、活動にかかわる住民のネットワークが形成され、そのことで当初の目的を達成した後も新しい展開があることも注目される。(194ページ)

アクション・リーチでは➀実践の流れを阻害しない、②実践者の執筆を支援する、③研究を受け止めてもらえる基盤をつくることが重要となる。
社会教育を研究する者の多くが、研究と実践のかかわりを求めて、フィールドをもって研究に取り組み、その方法論(アクション・リサーチ)をめぐる議論もなされている。(157ページ)/実践にかかわる研究者は、細かい事情を理解して鮮明な課題を提起するようになっていく実践者に対して、「負い目」を感じることもある。(161ページ)/実践の根幹にせまるアクション・リサーチのためには、(現在の取り組みだけに注目するのではなく)その実践が生まれる歴史的背景や社会的文脈を知らなければならないし、実践をつぶさに把握している実践者に学ばなければならない。(162、163ページ)/(研究者が実践者とアクション・リサーチを進めるためには、次のようなことが必要かつ重要となる:阪野)第一に、実践をリードする気持ちを抑えて、実践の流れを阻害しないようにするということである。研究者が実践の流れの中に身を置き、求められることに何とか応えていく中で、その先駆性や意義を察知して、それを住民や職員に伝えていくことは、研究者の認識の変容をともなう研究につながると考えられる。(210、211ページ)第二に、実践者が研究者に先立って論稿を書き、場合によっては実践者が執筆できる機会をつくったり、執筆を支援したりすることが大切であるということである。優れた実践を展開しそこに研究者を巻き込むのは力量の高い実践者であり、実践の経緯やその中で感じ取ったことを発信する力ももっている。実践をつぶさに知っている実践者や住民が先に執筆してこそ、研究者が書くべきことが見えてくる。(211ページ)第三に、アクション・リサーチを受け止めてもらえる基盤をつくりながら研究をすすめることが必要であるということである。研究の成果は本来、直接的であれ、間接的であれ、新しい政策の立案や優れた実践の広がりに貢献するものでなければならない。(そのためには)自分の研究を受け止めてもらえる状況を意識的につくることが必要になってきている。(212ページ)

〇以上の限定的なメモからではあるが、辻の言説は「生涯学習と社会教育と教育福祉」「社会教育と地域福祉と地域づくり」「学校教育と社会教育と地域づくり」「共生と自治と社会教育」「歴史と理論と実践」「研究者と実践者と住民」などの視点や枠組みのもとに、また「歴史研究と社会調査とアクション・リサーチ」の手法を用いた多面的・多角的な思考によって展開される、と言えよう。そこに通底するのは、「子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす」([2]1ページ)地域づくりについての熱い思いと真摯な姿勢である。
〇また、[1]から[3]を時系列に沿って見ると、辻の「生涯学習論」やそのひとつの側面である「地域づくり教育論」や「教育福祉論」の形成過程、すなわち社会教育や生涯学習の実践や研究の抽象化・体系化の方法と過程がわかる。それは、戦後日本の社会教育研究や生涯学習研究の到達点(成果)でもあり、次の新たな実践や研究への展望を開くものであると言えよう。辻は、研究者の立ち位置や方法について、地域住民や現場職員の「学習」による認識や行動を重視し、その「歴史と実践のなかから苦悩と喜びをともなって立ちのぼってくるような記述をめざしている」([14ページ])とする。強く意識したい。
〇辻の言説の特徴のひとつは、批判的精神と創造的情熱の統合と、困難を抱える住民の社会参加の重視(「当事者主体」)の姿勢にある。そしてその言説は、「社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なもの」([2]1ページ)である。そこでは、当事者が中心となって展開する「教育運動」が重視される。しかも辻は、「学習権保障としての教育福祉」 を主軸(前提)に、教育全体のあり方を見直す教育改革の視点とともに、主体的・自律的な住民(子ども・若者や成人)による「地域づくり」に視座を置いて「論」を展開する。例によって唐突ではあるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に課せられたものでもある。強く再認識したい。

追記
辻浩先生の「現代教育福祉論」理解を福祉教育の視点・視座から広げ深めるために、原田正樹先生の「福祉と教育の接近性」についての論稿を紹介しておきたい。『ふくしと教育』通巻34号、大学図書出版、2023年2月、2~3ページに収録されている。転載をご許可いただいた原田正樹先生に感謝申し上げます。

老爺心お節介情報/第60号(2024年7月24日)

「老爺心お節介情報」第60号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第60号を送ります。

2024年7月24日  大橋 謙策

〇酷暑の夏、皆様には如何お過ごしでしょうか。
〇私の方は、この暑さでは散歩もままならず、睡眠も熟睡できずと、少々へたり込んでいます。皆様には、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。

Ⅰ 「災害と福祉」のテーマに、日本地域福祉学会はどう立ち向かうのか?

〇2024年6月15日~16日に、第38回日本地域福祉学会東京大会が文京学院大学・本郷キャンパスを会場にして行われました。昨年の長野大会に続いての対面・集合型の大会で、久し振りに旧知の方々とお会いでき、旧交を温めることができ、嬉しい、楽しい機会でした。
〇私は、大会課題シンポジュウム「災害と地域福祉」のコメンテーターとして参加をしました。
〇コメンテーターとしては異色かもしれませんが、この機会に社会福祉関係者に災害支援のあり方を考え直してほしいと思い、以下のようなレジュメを用意して臨みました。
〇学会としては、災害にどう対応したのかという状況報告はそれなりに重要ですが、それはある意味“善意”のレベルであり、学会としては、被災者支援にどう対応するのか、対応の際の視点は、方法はどうあるべきか、その視点、方法は他の分野の被災者支援の方々とどこが同質で、どこが異質なのかを整理・対応することが、“誠意”ある対応ではないのかという考えのもとに、コメントというより、学会への問題提起という意味合いでレジュメを作成しました。





Ⅱ ケアリングコミュニティの形成と「社会福祉施設の地域貢献」

〇筆者は、1977年に大正大学で行われた日本社会福祉学会のシンポジストに指名され、学会デビューを果たした。その報告は、1978年の日本社会福祉学会紀要『社会福祉学』第19号に「施設の社会化と福祉実践ーー老人福祉施設を中心にー」として掲載されている。
〇筆者は、その論文において、社会福祉施設の社会化と地域化を進め、社会福祉施設を地域住民の生活を守る“共同利用施設”として位置づけるべきことを提言した。
〇その後、筆者は、2014年4月に『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房)を編者として上梓する。その本の中で「社会福祉におけるケアの思想とケアリングコミュニティの形成」と題する論文を書き、その一節で「ケアリングコミュニティの構築・コミュニティソーシャルワークの触媒機能」について言及した。
〇ケアリングコミュニティを構築するのには、地域の社会福祉施設が社会化、多機能化、地域化して、地域住民の生活を守る“共同利用施設”の役割を担うことの重要性を指摘した。
〇去る6月に行われた第38回日本地域福祉学会で「地域福祉優秀実践賞」を受賞した広島県福山市鞆の浦地区を基盤に実践を展開している「さくらホーム」の代表をしている羽田冨美江さん(理学療法士)が書かれた『超高齢社会の介護はおもしろい』(七七舎発行、CLC発売)を読んで、“我が意を得たり”と喜んだ。
〇まず、この本のサブタイトルが「介護職と住民でつくる地域共生のまち」というのが嬉しい。
〇第2には、筆者の1978年論文と同じに、「利用者さんを地域化する、「スタッフを地域化する」という理念を掲げて実践していることである。そのことにより、サービス利用者の居場所、生き甲斐が増進し、そのことを通して住民の意識が変わり、介護施設自体が地域の中に入り込んでいくというケアリングコミュニティづくりの実践が展開されている。
〇第3には、福山市鞆の浦地区といっても、人口3900人、高齢化率49・3%で、その地区の中がまた4地区に分かれていて、各地区の祭り、独自の文化を形成してきた地域状況を踏まえ、住民の自宅から半径400mの圏域ごとに小規模多機能型施設等を配置し、その施設が住民の生活を守る拠り所になっているという。これは、厚生労働省が進めている地域共生社会づくりの「小さな拠点」と同じ発想であり、事実上、それらの拠点施設が住民の生活を守る共同利用施設になっていて、ケアリングコミュニティを支えていることである。
〇第4には、「さくらホーム」で実践されているケア観が私の考え方と一致していることである。サービス利用者一人一人にあった、その人の生育歴や地域の人間関係、日常行動様式も十分踏まえたケアプランを作成提供していること、それを前提として、“介護とは相手の人生を支えることであり、生きる意欲をもち続けられようにサポートすること”であり、かつ“どんな人でも居場所がある地域とは、支援が必要な人を住民が自然に受け入れ、「相手に助けが必要なら、できる範囲で手を貸すのが当たり前」という文化がある町です”と言える羽田さんの生き方に大いなる共感をした。
〇皆さんには、是非、この本を読んで欲しい。そして同じような実践を全国で取り組みたいものである。
〇羽田さんの実践と同じように、ケアリングコミュニティづくりに取り組んでいる実践を書いた本を紹介するので、是非読んで頂きたい。
(参考文献)「ケアリングコミュニティの拠点としての施設・社会福祉法人の実践例」
① 『ソーシャルイノベーションー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方再生』(監修 雄谷良成 ダイヤモンド社、2018年9月)
② 『里山人間主義の出番ですー福祉施設がポンプ役のまちづくり』指田志恵子著、あけび書房、2015年10月ーー社会福祉法人優輝会(広島県三次市)の実践)

(2024年7月24日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所」で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野 貢/自己決定と意思決定:“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)―大橋謙策「老爺心お節介情報」第59号の記事に寄せて― 

〇市民福祉教育研究所のブログ記事で人気の高いもののひとつに大橋謙策の「老爺心お節介情報」がある。その第59号(2024年7月6日)で大橋は、「情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換―『求めと必要と合意』に基づく支援」という見出しのもとで、イギリスの「意思決定能力法」(Mental Capacity Act 2005:MCA)について次のように論述する。本稿は、その点をめぐる一人の読者からの問い合わせに、限定的ではあるが、応えようとするものである(資料紹介)。

 イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
 日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
 「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
 日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には“快”の表情を示すし、気持ちが悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
 その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

〇以下では読者の求めに応じて、(1)イギリスの「意思決定能力法」と(2)「自己決定」と「意思決定」に関する4本の論稿を紹介し、そのポイントのいくつかをメモっておくことにする(抜き書き)。

(1)イギリスの「意思決定能力法」
2005年意思決定能力法は、2005年4月に成立し2007年10月から施行された、イギリスにおける成年後見制度に関する基本法である。それは、それまでのパターナリスティックな制約を課していた管理主義的な制度から、本人(成年被後見人)の意思決定を尊重し支援する本人中心主義の制度への転換を図ったものである。なお、「パターナリズム」(paternalism)については、本ブログの<まちづくりと市民福祉教育>(10)パターナリズムと市民福祉教育/2012年9月10日/本文、を参照されたい。

① 菅冨美枝「自己決定を支援する法制度、支援者を支援する法制度―イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」『大原社会問題研究所雑誌』No. 622、法政大学大原社会問題研究所、2010年8月、33~49ページ。
2005年意思決定能力法の最大の特徴は、①弱い(vulnerable=傷つきやすい)立場にある人々をエンパワーし保護するための、統一的な法的枠組みを与え、②「誰が」「どのような状況に限って」本人に代わって意思決定をなす権限を与えられるのか、またその際には、 ③どのような他者関与が行われるべきであり、どのような関与が禁じられるべきか、を明らかにした最初の制定法であるという点にある。(33ページ)

2005年意思決定能力法は、知的障害者、精神的障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発点とし、判断能力が不十分な状態にあってもできる限り自己決定を実行できるような法的枠組みの構築を目指している。特に、契約法との関係では、契約する自由を守り、成年後見が開始されても契約能力は影響を受けない点が、わが国の制限行為能力制度にみられる法態勢(わが国の成年後見制度においては、成年後見開始の審判がなされると、本人は行為能力を制限され、民法上契約など「法律行為」をなすことができなくなる。)とは大きく異なる。(33ページ)

2005年意思決定能力法は、意思決定能力に困難を抱える人々が直面するあらゆる「決定」問題が主体的に解決されることを目的として制定された法律である。別の言い方をすれば、 2005年意思決定能力法は、他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律(後見人を中心とする成年後見法)ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされかたについて定める法律(本人を中心とする成年後見法)である。(34ページ)

2005年意思決定能力法において、「意思決定(decision-making)」とは、①自分の置かれた状況を客観的に認識して、意思決定を行う必要性を理解し、②そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して、③何をしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味している。結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目されている点が特徴的である。また、意思決定過程(decision-making process)に焦点が当てられることによって(前述,①②③の流れ)、意思決定を他者の支援を借りながら行う「支援された意思決定(assisted decision-making)」の概念が取り入れられうるという利点がある。(34ページ)

イギリスの成年後見法態勢は、人が「自律的存在」であることを出発点とし、自分の事柄について自分で決定することが困難な状況になっても、他者の介入(お節介)を排除しながらいかにして自己決定を貫けるかを問い、自己決定を持続できるための道を開くことに焦点を当てている。一方、一般的に言って、日本社会においては、「家族共同体型」福祉観が強く(例 臓器移植について、本人の同意と独立して、家族の同意が置かれている)、また、他人に対する依存心(自ら決定を行うより、行ってもらうことを好む「甘え」の姿勢)が強いという文化的特徴があるように思われる。自己決定を支援されることよりむしろ、決断自体を他人に任せることを好む文化、あるいは、他人からの働きかけを押し付けとは受け止めず、むしろ引き入れる文化において、成年後見制度という、本質的に他者関与を前提とした制度ゆえの「内在的権利侵害性」に対して、あまり危険意識は共有されていないようにも思われる。(35ページ)

② 田中美穂・児玉聡「英国の終末期医療における意思能力法2005の現状と課題―任意後見である永続的代理権と独立意思能力代弁人の意義をめぐって―」『生命倫理』日本生命倫理学会、Vol.24 No.1(通巻25号)、2014年9月、96~106ページ。
MCA2005は、意思能力が無く、自分で意思決定できない人について、その人に代わって何かを行ったり、決定したりする方法、いわゆる成年後見制度について取り決めた法律である。次の5項目を原則としている(MCA2005の原則)(97ページ)。
1.能力を失っていると証明されない限り、人は能力を有しているとみなされなければならない。
2.当人が自ら意思決定するのを支援する実践可能な措置がすべて失敗に終わったのではない限り、その人は意思決定できないものとして取り扱われてはならない。
3.単に愚かな決定をするという理由だけで、その人は決定することができないものとして取り扱われてはならない。
4.能力を失った人のために、あるいはその人の代わりに本法に基づいて行われる行為および決定は、当人の最善の利益(ベスト・インタレスト)に基づいてなされなければならない。
5.行為や決定が行われる前に、それらの行為や決定が必要とされる目的が、本人の権利や行動の自由をより制約しない別の方法で同程度に効果的に達成できるかどうかについて、検討されなければならない。(98ページ)

(2)「自己決定」と「意思決定」
人はさまざまな事柄について「自己決定」し、自分の生活と人生を自律的に生きる権利を有している。これは自己決定権あるいは人格的自律権として、憲法第13条に規定されている幸福追求権の一部に位置づけられている。「意思決定」については、2006年12月に国連総会で採択された「障害者権利条約」(日本は2014年1月に批准、同年2月に発効)のなかで“supported decision making”(支援を受けた意思決定、支援付き意思決定、意思決定支援)という用語が用いられ、日本では2011年8月公布・施行の「改正障害者基本法」(第23条)や2012年6月公布、翌2013年4月施行の「障害者総合支援法」(第42条)に「意思決定の支援」という文言が法文化されている。なお、「自己決定」については、本ブログの雑感(85)「自己決定」と「自己責任」:いま改めてその虚飾と欺瞞について考える―小松美彦著『「自己決定権」という罠』と吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる』の読後メモ―/2019年6月22日/本文、を参照されたい。

③ 遠藤美貴「『自己決定』と『支援を受けた意思決定』」『立教女学院短期大学紀要』第48号、立教女学院短期大学、2017年2月、81~94ページ。
もし自己決定を自分ひとりの意思と判断で選択・決定することであると捉えるならば、抽象的な概念の理解が難しいとされ、ことばで意思を表現することやことばで意味を受け止めることが難しいとされている知的障害当事者の自己決定は困難であるかもしれない。/ しかし、自己決定の困難さは知的障害当事者に限ったことではない。人はたくさんの選択肢の中から何かを選び、決定する時に周囲からの助言や支援を受け、判断しながら決定している。また、自分の意思というものは、自分ひとりで決めていくものではなく、周囲の人とのかかわりの中で決めていくものでもある。ただ、知的障害当事者の自己決定を考える時、これまで過小評価されてきたことや自己決定する経験が少なかったことなど、彼らが置かれてきた環境を考慮すると、 自己決定を保障するためにその経験を増やし、そのための環境を整え、社会的な認識を変え、過小評価されないようにするための社会変革が必要となる。(82ページ)

自己決定と意思決定、両者の用語の違いについて柳原清子は、「決意すること」という意味において大差はないが、原語は異なるとし、“self-determination”である自己決定とは、理解力・判断力を前提として、自己の決定に対する「主体性」「責任性」「自律性」を含む概念であり、人権・尊厳という捉えと意識が大きく関与するものであると述べている。一方、意思決定については、原語である“decision making”の“making”という語が“make”(つくる)の進行形の“~ing”であり、それは“decision”(結論・決定事項・決定)を“making”(つくり上げる)ということであることから、複数の要素とプロセスがからんでいる用語であること、ビジネスや政治など社会的に広く使われており、先の見通しを立て決断していくことを表した概念となっていると区別したうえで、自己か他者かを明確にしたい時は自己決定の語を、先のことを決めることは意思決定 の語を使うことが正しいと述べている。前者は「主体」を、後者は「対象」を指していると言える。(84ページ)

一方、知的障害当事者が自己決定の主体となった場合、その「主体」の能力・基準・条件によって自己決定か意思決定かを分ける考え方もある。例えば、柴田洋弥は「必要な判断能力に対して、本人の判断能力が十分であれば、自己決定によりその行為を行なうが、判断能力が不充分なときには、意思決定支援が必要となる」と述べている。木口恵美子もまた、「障害者の権利条約は、自分で自分の意思決定を行なう権利(自己決定権)を認めており、意思決定支援は自己決定が困難な人が意思決定を行なうための支援である」と述べており、当該当事者の判断能力が二つの用語を使い分ける基準となっている。このような判断能力に拠る分け方は個人モデルの視点であるとも言える。(84ページ)

④ 安西美咲「ソーシャルワークにおける『自己決定』と『意思決定』の理論構造の検討―日本における意思決定の支援に関するガイドラインの2つの類型―」『社会福祉学評論』第23号、日本社会福祉学会関東部会、2023年2月、31~45ページ。
最近は「自己決定」という言葉とともに「意思決定」という言葉が頻繁に使われるようになってきた。この「自己決定」と「意思決定」は同じ意味のように、または混同して使われることが多い。(34ページ)/「意思決定」という言葉の登場を整理していくと、ソーシャルワークの価値としてある「自己決定」は「意思決定」という言葉を使い分ける必要性に気づかされる。つまり、この2つの用語の理論構造を理解することが必要となる。/ここで整理をするとすれば、「自己決定」は“人権として尊重”するものであり、「意思決定」はその手段、すなわち、“能力として支援”するものとして考えるのが自然である。それぞれを独立した理論・価値として捉えることが重要である。(35~36ページ)

自己決定の権利を阻害され得る人たちは、意思決定の機会を奪われている状態だけでなく、意思決定をするための選択肢が少ない、すなわち意思形成をすることに難しさを抱えている可能性がある。そしてそれは本人の能力の問題だけでなく、経験不足によるものであったり、情報不足によるものであったりと、要因はさまざまあり得るのである。そう考えればソーシャルワーカーが行うべき意思決定の支援は、意思決定できる環境を整えていくことであり、それが「自己決定を尊重する」という価値と倫理に繋がってくるのではないだろうか。なお、そのことはただ選択肢を与え、そこから選択するということが意思決定の支援なのではなく、その選択肢をどのように持つのかという本人の価値観に寄り添った支援が必要となり、本人が選択・決定することを促し、見守るだけが意思決定の支援ではないということを示しているとも言える。(36ページ)

〇「自己決定」と「意思決定」について一言すると、自己決定についてはまず、クライエントには自分のことは自分で決定するというニーズや、自由や尊厳の基本的権利があるというバイステック(Felix P. Biestek)の「ケースワークの7原則」を思い出す。また、自己決定とは自分の考えに基づいて自由に自分らしく決定し生きることであるが(自律性)、その際の自分の考えや結論は、周囲の人や社会との関わりのなかで決めていく・決められるものである(関係性)。すなわち、自己決定は少なくとも、自律性と関係性を構成要素とする。
〇意思決定(力)は、①理解(意思決定のために必要な事柄を理解していること)、②認識(意思決定を自分自身の問題として認識していること)、③論理的思考(意思決定の内容について論理的に判断できること)、④表明(自分の意思(考えや結論)を表明できること)の4つの要素から構成されるといわれる(厚生労働省「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」2018年6月、4ページ)。
〇こうした自己決定や意思決定への支援は、自己決定や意思決定を可能にするひとつの手段・方法であり、自己実現を促す行為やシステムである、と言ってよい。しかも、自己決定支援や意思決定支援は、障がい者などの判断能力や決定能力は不十分であるということが暗黙に了解されており、それを如何に覆すか、そのための環境醸成や社会改革を如何に図るかが問われることになる。
〇なお、本稿のタイトルの“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)は、アメリカにおける自立生活運動のスローガンとして1980年代から使われてきたものである。上述の「障害者権利条約」の策定過程においても、すべての障がい者の共通の「思い」を示すものとして使用された。胸に刻むとともに、その思いをしっかりと行動に表すべき言葉である。そしてまた、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に通底する理念でもある。

阪野 貢/「教育の公共性」を考える:「まちづくりと市民福祉教育」は政治の課題である ―宮寺晃夫著『教育の正議論』再読メモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、宮寺晃夫著『教育の正議論―平等・公共性・統合―』(勁草書房、2014年5月。以下[1])がある。[1]では、経済・社会システムの自由化と市場化が促され、自助の強要と共助や公助の機能低下が進むなかで、教育の格差や不平等が深刻化している。そういう現状認識のもとで、「教育の正義」を問うのではなく、「正義」の名のもとで教育のなされ方を問い質(ただ)す。宮寺はいう。「『正義』の名で取り戻さなければならないものがあるとすれば、それは、『平等と教育』、『公共性と教育』、『統合と教育』をめぐる討議に、さまざまな考え方、さまざまな立場からの参加を人びとに保障する公論の場である。(中略)『行政の効率化』と、『住民に対する直接的な責任』の名のもとで、教育に関する公論の場を不必要とし、成り立たなくしている状況が、教育のイッシュー(課題、問題)を教育のプロフェッショナルだけで解決しようとする閉鎖的な状況とともに、不正義なのである」(ⅲページ)。
〇すなわち、[1]は、「教育に関して公論の場を維持するのが危うくなってきている」なかで、「平等・公共性・統合」という「議事項目」から一連の教育政策を分析し、それによって「公論の場」の復興を求める。そして、教育をめぐって「自由」と「平等」のあり方が問われる時代にあって、「自由のなかでの平等」をいかに実現するかを探るのである。なお、[1]は、2006年から2013年の間に書かれた論稿を編んだものであり、しかも「時論」としての性格をおびたものであると宮寺はいう。
〇ここでは[1]のなかから、「教育の公共性」をめぐる論点や言説に限って、そのいくつか(以下の②から⑤)をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

①「教育への希望」は、潜在的な能力や、生れや境遇などの個人的なものではなく、人びとの互恵的関係のもとで連帯意識を育む社会的課題である
貧困が、子どもの希望をいかに限られた範囲に押しとどめているか。それをもっともよく示しているのは、児童養護施設で生活する子どもたちの事例である。養護施設の子どもの多くは、みずからの意思で、大学進学を希望しない。成就できない希望は、はじめから選択肢に入っていない。だからこそ、希望の抱き方を広げ、いままで選択肢に入ってこなかった項目にも可能性を開いていくこと、つまり「希望への教育」がなされなければならない。それは、財政の裏づけを通して人びとの「社会的」連帯意識なしには実現しない。(48ページ)/どのような境遇の子どもも、進路の選択のさい、生れと境遇の不平等のために、はじめから視野に入ってこないような選択肢がないようにしていく責任が、政策立案者にはある。選択を可能にする財政的な基盤の整備をふくめて、人びとに、負担を共有させていく責任もある。「教育への希望」は、人びとの互恵的関係なしには実現しない。子どもの教育は、親個人の責任というより、人びとの連帯意識をはぐくむ「社会的」課題なのである。(49~50ページ)

② 教育の公共性には「公共的な理由」を添え、他者の立場からも受け入れ可能な自己利益をお互いに示し合うことが必要である
自己利益を考慮に入れない個人としての市民、その市民がつくりだす公共性。そうした市民的公共性が成り立っていると想定される公共圏(国家権力や市場経済システムから独立し、誰もが参加できて、人々の共通の関心事について語り合える空間:阪野)(108ページ)の内部でさえ、個人としての市民が特定の信条や宗派の教義など、要するにそれぞれの文化的背景に従った生き方をしており、それが個々の選択の準拠となっている。政治的な決定は、そうした多様な善き生を認め合ったうえでなされるのであって、公共圏の構成員としての市民は、背景的文化をいっさい洗い流した抽象的な個人でなければならないということはない。(109~110ページ)/市民は、自分の子どもの教育にかかわる決定については、さまざまな方針を有し、たがいに自己利益に突き動かされている。そうした多様な期待が重なり合うなかで、市民の間で合意形成を図るためには、人びとが主張を述べ合うとき、裏づけとなる理由、しかもその理由が、他の人、いや反対者の側に立っても受け入れられる理由(「公共的な理由」:ジョン・ロールズ)を添え、他者の立場からも受け入れ可能な自己利益をおたがいに示し合うことを通して、公共財としての教育の分配に、責任を分け合っていくことが必要である。(110~111ページ)

③ 教育の公共性は、外部に排除された/退出した人びとの批判にも開かれた自己批評的なものでなくてはならない
私的領域で享受される自由、とくに思想・信条・信念の自由、幸福感の自由、将来の見通しの自由など、個人の生き方に関わる多様な自由がそのまま公共領域に持ち込まれると、途端に多元的な状況が現出する。その公共領域に多元的な状況が現出すると、各自の自由な主張とその根拠はたがいに共約項を持たないまま文字どおり行き交うことになる。しかし、この多元的状況の現実から目を逸(そ)らすべきではない。この現実から新たな可能性が生まれてくることがありうるからである。その可能性は、なによりも共約項を持たない他者との討議を続けるなかから開けてくる。教育の公共性は、囲い込まれた市民的公共性を超えて、外部に排除された/退出した人びとの批判に開かれた自己批評的な公共性でなければはならないであろう。(154ページ)

④ 教育の公共性には、教育の私事化の流れが強まるなかで、教育機会の実質的な平等を確保するための公論の場を確保することが求められる
教育は「生存を維持する」ために必要とされる基本財であり、その限り共通に供給されなければならない面もある。「教育機会の均等」はその最たるものである。しかし、それ以上に教育は、「才能を開花させる」ための必要に根差しており、才能がさまざまであるように、必要の中身はさまざまで、公的支援で一律に満たされることはない。それゆえ「教育の公共性」は、単に統一性、平等性を指標にして語りつくされる主題ではない。それは、わたしたち一人ひとりの個別の必要と決定を、わたしたち全体がどこまで認めることができるかという問題ともかかわっている。(157ページ)/親の責任でなされる教育に重みが掛けられるなど、教育の私事化の流れが強まる一方で、社会全体で子育てに責任を果たすことを示すため、巨額の公費主出がなされようとしている。そうした逆巻く潮流がつくりだす渦のなかで、公共領域の教育に子どもを留める人と、私的領域の教育に委ねる人が、それぞれ立場(を)入れ換えて、たがいの教育意思の「正当化」(個人が自分の要求を相対化し、それが差し向けられる相手側(場合によれば反対者)からみても「正当だ」と認められる理由を示すこと。:157ページ)を図るフォーラム(公開討論)が必要になる。それを築くことが「教育の公共性」論の使命である。(160ページ)/(すなわち)すべての親が、“自分の子どもだけは‥‥‥”といい出しかねない個人化の時代だからこそ、自由のなかで平等性を確保する議論が求められる。その議論がなされていくには、なによりも、当事者が対等な立場で参加できる公論の場を、「正義」の名で確保していかなければならない。(187ページ)

⑤ 教育の公共性は、教育の多様性がもたらす諸問題(共生の強制は個人の自由と両立するか)について政治的解決が求められる課題である
(白人と黒人の生徒などを同じ学校で平等に教育する)統合教育は、良い効果が得られるからといって、正当化されるわけではない。問われなければならないのは、自由、すなわち、個人の幸福追求の自由とアソシエーションの自由を前提にしたうえで、なおかつ相反する生き方の人と暮しを共にさせることがどこまで正当か、という憲法的枠組みにかかわる根本的な問題である。要するに、共生の強制は個人の自由と両立するか、という問題である。(205ページ)/大人は、学校に対しても、親として、地域社会の一員として、国家(の憲法的枠組み)の担い手として、それぞれ異なる役割を同時に演じ、異なる責任を同時に負っている。/大人はわが子の親であるとともに、国家のすべての子どもの保護者でもある。このとき学校は、個人的領域でも、社会的領域でもなく、まさに政治的領域(ハンナ・アーレントの学校の3領域論)に属する公共の機関となる。教育の公共性とは、教育が多様性に対して開かれており、多様性を受け入れる準備ができているという「開放性」と「準備性」を意味するが、多様性がもたらす諸問題の解決は個人間の利害調整を超えて、全体的な公正性の観点から図られなければならず、それは政治の課題である。(206~207ページ)

⑥ 時代と社会によって変化する教育の価値規準は、社会的に複合化されたものであり、その単一化を急ぐべきではない
いま求められるのは、手品のようにハンカチのなかから教育の価値規準を取り出してみせることではないであろう。教育という財は社会の所産であり、社会の他の財を分配していく財でもある。何を「教育」と呼ぶかも時代と社会により変化していく。それゆえ教育の場合、価値規準自体が社会的な複合物であることを避けられない。そこで、価値規準の単一化をあえて急がずに、他の分野の価値規準との関連、競合、接続などを経たうえで、それらを統合する端的な規準を手探りでみつけていく努力が、まだまだ必要とされるのではないか。(255ページ)

〇以上の論点や言説は、「まちづくりと市民福祉教育」の実践や研究に通底するものでもある。⑤に関連して一言すれば、「まちづくりと市民福祉教育」はこれまで、政治的領域に位置づけて論じることに必ずしも積極的であったとはいえない。まちづくりは、公共性をはじめ地域性や多様性、自律性や共働性などが厳しく問われる活動であり運動である。教育や学校は、国家による巨大な政治システムであり、そのもとでの教育行政の重層構造に組み込まれている。そうであるがゆえに、「まちづくりと市民福祉教育」には、多くの市民一人ひとりに、また地域の多様な主体に改善や改革についての確かな決意や覚悟、そして行動が求められる。
〇そして、「いま」の政治へのアプローチなくして、「いま」の、また「新しい」「まちづくりと市民福祉教育」の推進を図ることは難しい。その点で、「まちづくりと市民福祉教育」は政治的な課題であり、政治的設定を必要とする。また、それが展開される場は、参加する市民に対して、「まちづくりと市民福祉教育」の意義をいかに受け止めるかが問われ、異なる価値観をもつ多様な人々が共に生きる 「開かれた共生社会」をいかに探求するか(⑥)が問われる「政治的実験場」(207ページ)となる。そこにおいて、多くの市民一人ひとりに、「希望」をつなぐ(①)「まちづくりと市民福祉教育」の推進か図られるのである。留意したい。

老爺心お節介情報/第59号(2024年7月6日)

「老爺心お節介情報」第59号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係の皆様

暑い日が続いていますが、お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第59号を送ります。
本体部分に、うまく「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」を組み込めませんでしたので、別々のファイルで送ります。できれば、一体化させて保存ください。
興味、関心のある方に自由に読んでもらってください。
皆様ご自愛の上、ご活躍下さい。

2024年7月6日   大橋 謙策

〇皆さま、暑い日々がやってきましたが、お変わりありませんでしょうか。私の方は変わらず過ごしています。
〇今号は、当初、6月に行われた日本地域福祉学会で学んだこと、感じたことを書こうと思っていたのですが、思うように考えがまとまらないので、先に日本社会事業大学同窓会北海道支部の機関誌『アガペ』に寄稿した第3回目の拙稿を掲載することにしました。

<日本社会事業大学同窓会北海道支部・『アガぺ』寄稿その③>

Ⅰ 情感的ケア観からアセスメントに基づく科学的ケア観への転換――「求めと必要と合意」に基づく支援

〇日本の医療の発展の要因の一つは、症状、病変の事象から、それがどこに起因するのかを診断する検査技術の発展が大きく貢献してきたと筆者は考えている。かつては、脈を取ったり、へらで舌の状態を観察したり、聴診器で心臓の鼓動や呼吸を確認するといった診断法が、今ではレントゲン、尿検査、血液検査、MRI、CTスキャナーといった検査機器の開発により、症状、病変の診断は特段に向上してきている。それらの検査を担う検査技師の養成、資格まで確立してきている。
〇かつて、巷で言い交された“あのやぶ医者は!”といった言葉は今日では死語になっている。
〇それに比して、社会福祉分野では、長らく中央集権的機関委任事務体制のもとで、サービス利用者が行政により認定され、その人たちが行政の委任を受けた措置施設で生活を送ることを前提に、その人のADL(日常自立生活能力)が低くければ、それを補完する“世話”として三大介護と呼ばれる排せつ介助支援、食事摂取支援、入浴介助支援が展開されてきた。
〇そこでは、措置されたサービスを必要としている人の生活を向上させるために、何をするべきか、何に気を付けるべきかの診断という発想は事実上なかったといっても過言ではない。1971年の「社会福祉施設緊急整備計画」の中では、それら福祉サービスを必要としている人々を施設に“収容保護”し、いわゆる“最低限度の生活を保障すればいい”という考えで貫かれていたといっても過言ではないであろう。
〇1971年以降の「入所型社会福祉施設中心の時代」においては、ある意味、措置された福祉サービスを必要としている人の生活を“丸ごと抱え込んで支援する”という発想のもとに、その利用者の個々の差異には着目せず、同じ生活リズムで、集団的に生活を“させる”というケアを提供する職員側の立場、視点からの対応の仕方で済まされてきた。
〇しかしながら、1990年の“社会福祉八法改正”により、在宅福祉サービスが法定化され、かつ地方分権の下で中央集権的機関委任事務体制の改革が求められるようになると、状況は変わる。
〇在宅福祉サービスを利用している人は、一人ひとり生活環境も違うし、行動様式も異なるし、同一空間で集団生活をしているわけではない。それだけに、在宅福祉サービスを利用している人の支援には個々人の生活状況や本人の希望を尊重したサービスの提供が求められるようになる。
〇筆者は、1987年に書いた論文「社会福祉思想・法理念におけるレクリエーションの位置」(日本社会事業大学研究紀要第34集所収、1988年刊)において、入所型施設で提供しているサービスの分節化と構造化の必要性を提起した。それは福祉サービスを必要としている人の状況に応じて分節化させたサービスの中から必要なものを選択し、パッケージ化(当時、ケアマネジメントという用語はなかった)させれば画一的なサービス提供にもならず、かつ在宅福祉サービスの個々人の状況に対応できるということを提起した。

註1 拙著『地域福祉とは何か――哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』(中央法規出版、2022年4月刊、P32参照)

〇このことを進めるためには、福祉サービスを必要としている人は何を望んでいるのかその人の希望、願い、思いをきちんと受け止めなければならないし、同時に福祉サービスを必要としている人にケア・支援を行う専門職が、その人にはどういうサービスが必要であるかを診断したうえで支援する必要があることも提起した。
〇筆者の言い方で言えば、福祉サービスを必要としている人の求め、希望と専門職が生支援上必要と考えることを出し合い、両者の合意で在宅福祉サービスの提供を考えていくという「求めと必要と合意」に基づく支援のあり方である。
〇ところで、福祉サービスを必要としている人々への支援において、よほど気を付けないと無意識のうちに“上から目線”の世話をしてあげるというパターナリズムになりがちになる。
〇福祉サービスを必要としている人はさまざまな心身機能の障害や生活上の機能障害において要介護、要支援の状態に陥っているので、ついつい福祉サービス従事者はその機能障害を改善、補完するために“いいことをしてあげる”という意識になりがちである。それは、一見“善意”に満ちた行為として考えられがちであるが、福祉サービスを必要としている人の意思や主体性を尊重しての“誠意”ある行為といえるのであろうか。
〇また、福祉サービスを必要としている人で家族と同居している場合には、福祉サービスを必要としている人本人の意思よりも、同居している家族が家族自身の“思い”、“願い”を福祉サービス従事者に話され、その家族の希望が優先され、ややもすると福祉サービスを必要としている本人の意向や意思は無視されがちになる。ましてや、福祉サービスを必要としている人は、日常的に同居している家族に普段から迷惑をかけているからという“負い目”もあり、家族に遠慮して、自分の意向、意思を表明しない場合が多々ある。日本の戦後の社会保障・社会福祉制度設計は、家族がおり、家族が“助け合う”ことを当たり前のように前提として設計されてきたために、福祉サービスを必要としている人本人の意思や希望は家族の前ではかきけされてしまいがちであった。
〇イギリスのブラッドショウは1970年代に、住民の抱える生活上のニーズを4つに類型化(①本人から表明されたニーズ、②住民は生活上の不安や不満、生活のしづらさを抱えているが表明されていないニーズ、③住民自身は気が付いていないし、表明もしていないが専門職が気づき、必要だと考えられるニーズ、④社会的にすでにニーズとして把握され、対応策が考えられているニーズ)した。
〇この類型化されたニーズにおいて、日本の社会福祉分野において気を付けなければならないニーズ把握の問題は、②の住民が生活上様々なニーズがあるにも関わらず気が付いていないか、自覚しておらず、表明されていないニーズである。
〇日本の“世間体の文化”、“忖度の文化”、”もの言わぬ文化”に馴染んで生活してきた国民は、自らの意思を表明することや自らの希望や願いを表明することに多くの人が躊躇してしまう。したがって、本人が自分の意見や気持ちを表明しないのだからニーズがないのだろうと解釈するととんでもない間違いを起こすことにもなりかねない。それらのニーズは潜在化しがちで、対応が遅れることになる。
〇一方、専門職が気づき、必要と判断するニーズにおいても、社会生活モデルに基づくアセスメントやナラティブに基づく支援方針の立案が的確に行われていればいいが、上記したようなパターナリズムでのアプローチをしている場合には専門職の判断が必ずしも妥当であると言えない場合が生じてくる。
〇イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
〇日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業が福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを判定するということを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
〇「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、③「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。
〇日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には“快”の表情を示すし、気持ちが悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
〇その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。

註2,菅冨美枝「自己決定を支援する法制度・支援者を支援する法制度――イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」法政大学大原社会問題研究所雑誌No622、2010年8月所収)参照

Ⅱ ナラティブ(人生の物語)を大切にした支援――福祉サービスを必要としている人のアセスメントを「医学モデル」から「社会生活モデル」へ

〇筆者は、1970年頃から、社会福祉学研究、社会福祉実践において労働経済学を理論的支柱にした経済的貧困に対する金銭給付と憲法第25条に基づく最低限度の生活保障の考え方では国民が抱える生活問題の解決ができず、新たな社会福祉の考え方が必要であると考え、提唱してきた。
〇筆者が考える社会福祉とは、その人が願うその人らしさの自立生活が何らかの事由によって阻害、停滞、不足、欠損している状況に対して関わり、その阻害、停滞、不足、欠損の要因を除去し、その人の幸福追求、自己実現を図れるように対人援助することだと考えた。
〇その場合の“自立生活”とは、古来から“人間とは何か?”と問われてきた課題を基に6つの要件(ⅰ)労働的・経済的自立、(ⅱ)精神的・文化的自立、(ⅲ)身体的・健康的自立、(ⅳ)生活技術的・家政管理的自立、(ⅴ)社会関係的・人間関係的自立、(ⅵ)政治的・契約的自立)があると考えた。と同時に、それらの6つの「自立生活」の要件の根底ともいえる、その人の生きる意欲、生きる希望を尊重し、その人に寄り添いながら、その人が望むナラティブ(人生の物語)を一緒に紡ぐ支援だと考えてきた。
〇戦前の生活困窮者を支援する用語に「社会事業」という用語がある。この「社会事業」には、積極的側面と消極的側面とがあるといわれており、その両者を統合的に提供することの重要性が指摘されていた。積極的側面とは、その人の生きる意欲、希望を引き出し支えることで、消極的側面は生活の困窮を軽減するための物質的援助のことを指していた。消極的側面は、気を付けないと“人間をスポイルする”危険性があることも懸念されていた。
〇現在の民生委員制度の原型である大阪府の方面委員制度を1918年に大阪で創設した小河滋次郎は、“その人を救済する精神は、その人の精神を救済することである“として、「社会事業」における積極的側面を重視した。しかしながら、戦後の生活困窮者を支援する「社会福祉」は積極的側面を実質的に“忘却”してしまい、物質的援助をすれば問題解決ができると考えてきた。
〇憲法第25条の最低限度の生活保障では消極的側面の対応でよかったのかもしれないが、憲法第13条に基づく幸福追求の支援ということでは、高齢者のケアであれ、障害者のケアであれ、生活困窮者の支援であれ、その人が送りたい“人生”、その人が願う希望をいかに聞き出し、その人の生きる意欲、生きる希望を支え、伴走的に支援していくことが求められる。
〇従来の社会福祉学研究や社会福祉実践では、「療育」、「家族療法」、「機能回復訓練」などの用語が使われており、その人らしさの生活を尊重し、支援するということよりも、ややもすると専門職的立場からのパターナリズム的に“治療・療育”し、“問題解決”を図るという目線に陥りがちであった。
〇また、従来の社会福祉学や社会福祉実践では、よくアブラハム・マズローの「欲求階梯説」が使われが、この考え方も気を付けないといけない。アブラハム・マズローがいう生理的欲求、安全の欲求、愛情と所属の欲求、自尊と承認の欲求、自己実現の欲求の6つの欲求の項目の意味は重要であるが、それらの項目において、下位の欲求が満たされたら上位の欲求が生じるという“欲求階梯説”はどうみてもおかしい。人間には、自ら身体的自立がままならず、他人のケアを必要としている人であっても、当然その人が願うナラティブ(人生の物語)があり、それを自己実現したいはずである。
〇その際、福祉サービスを必要としている人自らが自分の希望、欲求を表出できるとは限らない。福祉サービスを必要としている人の中には、さまざまなヴァルネラビリティ(社会生活上のさまざまな脆弱性)を抱えている人がおり、自らの願いや希望を表出できない人がいる。更には、障害を持って生まれてきたことで、多様な社会体験の機会に恵まれず、一種の“食わず嫌い”の状況で、何を望んだらいいのかも分からない人という生活上の“第2次障害”ともいえる状況に陥っている人もいる。このような人々の場合には、その人の“意思を形成する”ことに関わる支援も必要になってくる。
〇日本の社会福祉関係者の中には、1981年に世界保健機関で制定されたICIDH(国際障害分類)に基づくアセスメントを無意識に、いまだ利活用している人がいる。
〇ICIDHは、その人の心身機能に障害があるかどうかを診断し、その人の心身機能の障害がその人の能力不全をもたらし、ひいてはそのことがその人の社会生活上において不利をもたらすというImpairment――Disability――Handicapの関係を直線的に描くもので、心身機能の不全を診断することを基底とする「医学モデル」と呼ばれるものである。
〇この「医学モデル」は、ある意味わかりやすい構造になっているので、今でも多くの社会福祉関係の底層の心理として位置づいてしまっているが、これによる支援は機能障害を直すか、直せないまでもそれを補完するというレベルの支援になってしまう。
〇WHOは2001年にICF(国際生活機能分類)を発出し、ICIDHからICFへの転換を求めた。
〇ICFは、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えれば、従来のICIDHでは機能障害によりできないと思われていたことができるかもしれないので、その福祉サービスを必要としている人の“最低限度の生活保障”という考え方でなく、福祉サービスを必要としている人の生活環境を変えて、その人の自己実現を図る支援への転換を求めたものである。
〇ICFの考え方と昨今の急速な福祉機器の開発により、福祉現場は急速に変わらざるを得ない。介護ロボットや障害者のコミュニケーションを保障する福祉機器の導入如何では、従来の障害児・者、高齢者などの福祉サービスを必要としている人への支援のあり方は全く違うものになってします。
〇このような背景も踏まえて、筆者は従来の「医学モデル」に基づく診断(アセスメント)ではなく、社会生活上に必要な機能が歩かないかを基に診断する「社会生活モデル」に基づくアセスメントの必要性を提起している。
〇「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」の図の表頭の大項目に基づきアセスメントを行うことが、ケアの科学化には必須である。
〇今日のように、福祉機器の開発やICT、IoTが急速に進展している状況の下では、福祉サービスを必要としている本人は福祉機器を使ったら自分の生活がどのように変容するのかのイマジネーション(想像性)をもてない人がいる。そのような人々に対し、イマジネーションがもてるようにし、新たな人生を作り出すクリエーション(創造性)機能も重要な支援となる。
〇従来の社会福祉実践は、福祉サービスを必要としている人の「できないことに着目し、できないことを補完・補填する目的で、してあげるケア観」に陥りがちであった。幸福追求、自己実現を図るケア観に立つと、福祉サービスを必要とする人の「できることを発見し、それを励ますケア観」が重要になる。
〇社会福祉実践は、その人の生育歴におけるナラティブ(narrative:身の上話、経験などに関する物語)に着目し、その人が望む人生を創り上げることに寄り添い、支援することが求められている。

「社会生活モデル」に基づくアセスメントの視点と枠組シート

出典:大橋謙策『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版、2022年4月、135~136ページ。

(2024年7月5日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(「阪野貢 市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。
この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野 貢/「政治リテラシー」考:啓蒙主義的主権者教育と保守主義的主権者教育、市民性教育と国民性教育―関口正司編『政治リテラシーを考える』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、関口正司編『政治リテラシーを考える―市民教育の政治思想―』(風行社、2019年2月。以下[1])がある。[1]では、「政治リテラシ―」について原理、思想史、実際の取り組みという3つの観点から検討する。政治リテラシ―とは、政治に関する基本的な知識、政治に関与する際に求められる基本的な技能、そしてその知識や技能を積極的に用いる意欲や態度、それらの総体(15ページ)を意味する。すなわち、政治の営みに関する知識・技能・態度の複合体をいう(8ページ)。そして、関口らはこれまでの「主権者教育」に対して、「政治リテラシー教育」の必要性を説く。
〇主権者教育とは、主権者としての、「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の育成を図るための教育をいう。日本国憲法の下では、主権(国を統治する権力)を有する者は国民である。(付記参照)
〇[1]には、施光恒(せ・てるひさ)の論稿「主権者教育における責任や義務―よりバランスのとれた理想的主体像の必要性―」([1]61~89ページ)が収録されている。そこでは、学校における主権者教育がめざす主体像について、その「啓蒙主義的側面」と「保守主義的側面」のバランスの取れた理想的主体像として「相互作用的主体像」を設定すべきであるという。この点をめぐって、言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

現在の主権者教育における主体像―社会の合理的選択者・変革者としての主体像―
現在の主権者教育の目標とされている(理想的)主体像とは、社会の合理的選択者ないし変革者としての性格を色濃く持ち、積極的に社会に影響を及ぼしていく主体だといってよいであろう。つまり、政治に関する知識と関心を持ち、自分たちの権利や利害に自覚的であり、他者と議論を交わし協働し、積極的に政治参加し、政権や政策を選択し、社会を合理的に変革していく人々だと言えるであろう。(68ページ)

啓蒙主義的主体像と保守主義的主体像―その相互作用的な関係性―
現行の主権者教育における理想的主体像とは、政治思想的に見れば、啓蒙主義の影響を強く受けたものだといえる。自分の権利や利害について自覚的であり、それを守るために、他者と協力・結託し、社会や国家を意識的に構築し、変革していく主体である。しかし人間は、社会や国家を意識的に構築する主体というだけではない。逆に、ある社会や国家に生まれ落ち、その文化や伝統から学び、それによって一人前の知的思考や各種の活動が可能になるという側面もまた有している。/政治思想史的に述べれば、伝統や文化から影響を受け、自己が形成されるという側面を強調してきたのは保守主義の考え方である。保守主義を簡潔に規定するとすれば、人間の理性や知性の限界を強く意識し、国や地域の文化や伝統、慣習などを重視する立場だと言えるであろう。/人間と社会との関係は、啓蒙主義が強調するように、人間が社会を作り出し、また変革を加えるという側面ももちろんある。しかし同時に、保守主義が重視するように、人間の理性や知性が社会の文化や伝統を通じて形作られるという側面もある。(72~73ページ)

今後の主権者教育がめざすべき主体像―バランスの取れた相互作用的主体像―
主権者教育の目指すべき主体とは、「啓蒙主義的側面」と同時に「保守主義的側面」にも目配りし、どちらの育成も目指すものとして、つまり「相互作用的主体」として設定されるべきである。すなわち、政権や政策を選択し、社会や国を変革しようとする積極的意思を備えた存在であると同時に、社会や国の伝統や文化から恩恵を受けてきたことを認識し、その恩恵を将来も享受できるように、よりよき形で社会や国を次世代に手渡していく責任や義務が我々にはあるという自覚を有する主体こそ、今後の日本の主権者教育が目指すべき主体像だと言えるのではないだろうか。/こうした主体像からは、自己の権利や利益に自覚的であり、社会や国に積極的に働きかけていく能動性とともに、社会や国に対する責任や義務の意識も円滑に導くことが可能である。(79ページ)

〇筆者の手もとに、石田雅樹の論稿「『市民性』を陶冶する教育、『国民性』を育む教育―ジョン・デューイにおけるナショナリズムと教育」(『年報政治学』第71巻第2号、日本政治学会、2020年12月、237~255ページ。以下[2])がある。[2]では、第一次大戦期(1914~1918年)におけるジョン・デューイのテクストを主な対象として、能動的な市民を育成する「市民性教育」(citizenship education)と国民性(国民としての資質・能力)を育む「国民性教育」(national education)の言説を比較検証し、その教育論におけるナショナリズム(国家や民族の利益を強調する思想や運動)の位置づけを明らかにする。
〇[2]のうちから、石田の言説(デューイの教育論の理解・考察)のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

市民性教育は、デモクラシーを絶えずリニューアルし深化させる「市民」の育成を図る
デューイにおいて「市民性教育」とは、単に統治者にとって従順な市民を再生産することではなく、デモクラシーを構成する一員として社会に参入する手助けとなるものであった。/(すなわち)デューイにあって「市民」になるということは、単に有権者としてのみならず、家族・労働者・コミュニティの一員として社会に関わることであり、自分と異なる多様な他者と共に包括的に社会に参与し続けることで、デモクラシーを絶えずリニューアルする存在になることに他ならなかった。/(この点を踏まえると)デューイが「市民性」を涵養する「市民性教育」と、生活の糧を得る「職業教育」とを一体的に捉えることも(は)必然であった。(240ページ)

国民性教育には、国の歴史を学び直し、自らのアイデンティティを問い直し、建設的な愛国主義を涵養することが必要となる
デューイは、第一次大戦期の軍事教練や国民兵役などに言及するなかで、「国民性教育」は国民的統合や公共心(public mindness)の涵養を促すものであり、そのためには真のナショナルな社会理念が必要であると説く。また、その具体的プラン(国民性教育の構成内容)については、アメリカの歴史を学び直すこと、自らのアイデンティティを問い直すこと、建設的な愛国主義を涵養することなどの必要性や重要性を指摘する。(247~249ページ)

「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある
「市民性教育」は、形式的な法遵守や空疎な知識の獲得ではなく、「職業教育」と一体化することで、社会生活における「デモクラシー」を実践する技能を涵養するものであり、他方で「国民性教育」は、アメリカ国民のアイデンティティそれ自体を「デモクラシー」として再定義することで、デモクラシーとナショナリズムとの接合を行うものであった。両者は共に、自由で平等な「市民/国民」から成る社会こそが、アメリカであることを再認識させるプロジェクトを共有している。そうした点で、デューイによる「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある。(250ページ)

〇筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「まちづくり―みんなが主役のまちづくり―」や「まちづくり―みんなであるもの探しのまちづくり―」というキャッチコピー(スローガン)を使用してきた。一面的あるいは部分的には、「みんなが主役のまちづくり」は上述の「啓蒙主義的主権者教育」と「市民性教育」、「みんなであるもの探しのまちづくり」(ないものねだり、ではない)は上述の「保守主義的主権者教育」と「国民性教育」に通底するものであろう。なお、「まちづくり」に関して大橋謙策は、1970年代からスローガンのようにいわれていた「福祉のまちづくり」が90年代から「福祉でまちづくり」へと変わり、さらに2010年代には「福祉はまちづくり」といわれる時代へと移行した、という(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月、331、335ページ)。付記しておきたい。
〇本稿に関連する拙稿(記事)に次のようなものがある。併せてご参照いただければ幸いである。

①<雑感>(151)阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日/本文
②<雑感>(187)阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―/2023年9月16日/本文
③<雑感>(96)戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―/2019年10月8日/本文
④<雑感>(97)いじめ・愛国心・道徳教育:「道徳的価値ありきの、国家のための道徳教育」を問う―大森直樹著『道徳教育と愛国心』読後メモ―/2019年11月5日/本文

付記
主権者に求められる資質・能力(主権者教育の内容)については、上記の①<雑感>(151)の拙稿と併せて、例えば次の資料を参照されたい。

 

阪野 貢/「他者」考:「差別はいけない」と断じて終えるのではなく「差別を考える」文化の醸成が肝要である ―好井裕明著『他者を感じる社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、好井裕明著『他者を感じる社会学―差別から考える―』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房、2020年11月。以下[1])がある。[1]における言説を理解するに際しては例えば、好井自身による「他者性」についての次の一節が役立つ。

社会学とは「他者の学」だ。私たちが社会を構成するメンバーとして生きるとき、他者といかに交信でき、繋がれるのかが “ 解くべき重要な問題 ” となるだろう。ただ私たちは他者を本当に理解しきることなどできるのだろうか。他者理解がいかにして可能かと問うことは、翻って他者を理解することがいかに困難であるのかを確認することとなる。さまざまな「ちがい」をもつ他者が出会い、せめぎあう。この出会いやせめぎあいの様相を克明に見つめていけば、他者理解を邪魔しているさまざまなものが見えてくる。そしてさまざまなものをさらに考えていくとき、道徳や倫理の次元で差別や排除を否定するのではなく、世の中で起きてしまう必然として、社会学的考察の対象として、差別や排除を考えることができるようになる。/「他者理解の学」というよりむしろ「いかに他者理解が困難であるのかを考える学」としての社会学の「面白さ」。差別を考える社会学の魅力。『他者を感じる社会学』(2020年)で私が伝えたかったことの一つだ。(好井裕明「社会学的想像力をいかにしたら伝え得るのか―私が新書を書き続ける理由(わけ)―」『フォーラム現代社会学』第21号、関西社会学会、2022年5月、76ページ)

〇この記述をより広く深く理解するために、[1]のなかから次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

・差別は、他者理解――あるいは他者理解の難しさ――という深遠なコミュニケーションの過程で生じてしまう “ 必然 ” であり、私たちが他者を理解しようとし、他者と何かを共有し、伝え合おうとするときに(すなわち、他者とつながろうとする過程で)生じてしまう “ 摩擦熱 ” のようなものである。(20ページ)

・私たちは普段、人間として「素晴らしい」「豊かな」存在がいるし「つまらない」「貧しい」存在もいると考えるが、それはあくまで、そのような評価の対象となる人間の営みやその人が表明する価値観や思想に由来するものであり、その人の存在自体に張り付いている属性ではない。(81ページ)/また、「貴(とうと)い―賤(いや)しい」「浄(きよ)い―穢(けが)れている」という伝統的で因習的な人間の見方があるが、廃棄すべきである。(82ページ)

・(性別や年齢、人種や民族、障害、被差別地域など)ある人々や集団、地域や状況を「きめつける」さまざまなカテゴリー化が「あたりまえ」のこととして、その時々の支配的社会や文化に息づいている。(70ページ)/文化や社会の「あたりまえ」や「普通」に息づいているものの見方や価値観こそが差別や排除をうみだす原因なのである。(208ページ)

・多様なセクシュアリティを生きる人々が性的少数者という「カテゴリー」を生き、独自に歴史を創造していく主体であるという事実を見失うことなく、私たちは、常に支配的文化や価値を相対化する「くせ」を身につけていくべきである。(128ページ)

・部落差別は、身分差別や職業賤視(せんし)、地域への偏見が密接に絡み合っており、日本の中世以前からの歴史や文化に根ざした奥の深い問題である。(88ページ)/部落差別は、本当に「不条理で」「理屈にあわない」営みである。それを背後から支えているのが、「貴(き)―賤(せん)」という人間を “ 分け隔てていく ”  見方であり考え方なのである。(90ページ)

・「差別を考える」とは、「あたりまえ」や「普通」のことと見逃している「決めつけ」や「思い込み」をあらためて洗い出し、自分自身がより優しい気持ちで他者と出会い、つながり、気持ちよく生きていくために自分の「あたりまえ」や「普通」をつくりかえていく、ということである。(246ページ)

・日常生活に生起する偏見や差別をなくすためには、まずは自分自身で「差別を考える」 “ くせ ” を身につけることが必要であり、それによって “ 差別などしない自分らしさ ” を身につけることになる。さらに「みんな」で「差別を考える」ことを模索し、そうした営みの延長に、しなやかでタフな「差別を考える」文化が息づく日常が私たちの前に立ち現れてくる。(252ページ)

・差別を受ける人々の「リアル」に対する想像力の圧倒的な欠如、貧困がある。/他者への想像力が枯渇するとき、差別は繁殖する。今、まさに「他者へのより深く豊かで、しなやかでタフな想像力」が必要とされている。(255ページ)

〇こんにち、ネット時代におけるコミュニケーションの変化や社会の分断化・個別化が指摘されるなかで、多様な存在としての「他者」と向き合う対面の人間関係(つながり)が希薄化している。そんななかでまた、自分と向き合う機会も少なくなっている。それは好井にあっては、他者を尊厳あるひとりの「人間として感じない」ゆゆしき事態であり、そこから日常生活における差別や排除が生起する。その改善や改革を図るためには、「他者を感じる」「差別を考える」ことが必要不可欠となる(11ページ)。また、「差別はいけない」と断じて終えるのではなく、「今、ここ」(現在進行形)で「差別を考える」ことによって私が「かわり」、「みんな」が「かわる」のである(252ページ)。好井からのメッセージである。
〇この点を福祉教育の実践や研究に引き寄せて言えば、例えば障がい者差別についてその歴史や現状(実態)、原因や背景などをしっかりと押さえてきたか。障がい者は憐憫(れんびん)や同情の対象ではないとしても(いまだにそうであることが多い)、「あたりまえ」のように「思いやり」の対象として直截的に認識させてきたのではないか。障がい者差別はよくないこととして、反省すべき問題であり、反省すれば「それはそれでよし」としてこなかったか。
〇また、福祉教育実践や研究は、上述の「貴―賤」に関する部落問題(さらには天皇制)について、「家柄」や「血筋」といった人間の地位や場所、属性だけで評価するという “ 偏った ” 他者理解の仕方に言及してきたか。間違っても「寝た子を起こすな」という考えはないと思うが、どうだろうか。「浄(じょう)―穢(え)」に関して言えば、伝統的で因習的なジェンダーをめぐる知識や規範、性的少数者( LGBTQ)というカテゴリーを生きる人たちの理解について関心を持ってきたか(持っているか)。福祉教育実践や研究において、「他者を感じる」「差別を考える」問題は山積している。

 

阪野 貢/「他者」考:他者と共に生きることによって自分らしく生きる ―磯野真穂著『他者と生きる』のワンポイントメモ―

〇人は、2020年1月に始まるコロナ禍において、疫学理論や統計解析手法などを用いた新型コロナウイルスの感染予測(流行予測)に一喜一憂し、罹患のリスクを避けようとした。そんななかで、普段の暮らしにおいて如何に「自分らしく」生きるかを問い、それができる社会システムを求めたのは、昨日のことのようである。筆者(阪野)の手もとに、磯野真穂著『他者と生きる』(講談社新書、2022年1月。以下[1])がある。[1]において磯野は、前者の概念を「統計学的人間観」、後者のそれを「個人主義的人間観」と呼び、また「生の手ざわり」(生きていることの実感や経験)を求めて、前者に関して「“正しさ”は病を治せるか?」、後者に関して「“自分らしさ”はあなたを救うか?」([1]帯)と問う。
〇磯野は、現代社会における人間観、すなわち「人とは何か」「人とはどのような存在であるか」という問いに対して、3種類の人間観を措定する。統計学的人間観、個人主義的人間観、そして「関係論的人間観」がそれである。[1]におけるひとつのキーワードである。本稿では限定的になるが、それに関する一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
〇磯野はいう。「人間の病いと生き死に、及びそれをいかに避けるか、引き受けるかをめぐる問題の諸相の根底には、この3つの人間観の錯綜(さくそう)があると捉えるべきである。つまりあるひとりの人間の病気や死をめぐって、本人とその人を取り巻く人々の間で行き違いが起こる時、その問題に関わる人それぞれが、思考の根底で異なる人間観を前提としながら、同じ人、同じ問題について語っている可能性がある。ある問題に複数の関係者が存在する時、関係者それぞれがどのような人間観を持っているかで、立ち上がる価値と倫理は異なる。したがって、そこのすり合わせが意識的にも、無意識的にも起こらない話し合いは、どこまでも平行線を辿るだろう」(180~181ページ)。

統計学的人間観――病気の事前予測や予防的介入に価値を与える人間観
統計学的人間観は、主に疫学の文脈で提示されるが、例えば50代以上の男性は高血圧だと脳梗塞に罹患する確率が高いというように、統計学的にある集団を数量化することによって導かれた、社会のなかの平均的な人間像(「平均人」:アドルフ・ケトレ)に基づく人間観をいう(150ページ)。その「平均人」は、ある集団の特徴を客観的に表すとみなされながらも、実体としてそれはどこにも存在しない。複雑な計算式を通して現れる架空の物言わぬ人である。それはどこにでもいることにされているが、どこにもいない。誰でもあるが、誰でもない(153ページ)。統計学的人間観は、計算式の上に成り立つ極めて抽象度の高い人間観であり、その最大の特徴は、ある集団の行く末を予想することが可能になるという点にある(184ページ)。

個人主義的人間観――「自分らしさ」(=「私たちらしさ」)を礼賛する素地となる人間観
個人主義的人間観は、自分の内発的な選択や動機によって、社会規範や世間の当たり前に逆らって自分の望みを実現する・表明するといった意味の「自分らしさ」や個性という価値によって支えられる人間観をいう(162、163ページ)。しかし、その「自分らしさ」は、ある選択や行動が「自分らしい」と認められるためには、その選択や行動に社会的承認が伴う必要がある(165ページ)。すなわち、「自分らしさ」が達成されたと思われる時、実際そこで起こっているのは「私たちらしさ」の発現であり(212ページ)、「自分らしさ」はその響きとは裏腹に、合意の形成に他ならない。その点を捉え損ねると、「自分らしさ」は、「それはあなたが決めたこと」という過度の自己責任論や責任回避の機能を生み出したり、「異なる他者といかに生きるか」という共生への省察を欠くことになる(176ページ)。

統計学的人間観と個人主義的人間観の協働と相互支援
統計学的人間観は個々人の価値を棄却する冷たい人間観であり、個人主義的人間観は個々人の価値を大切にする温かい人間観であるように思える。しかし、このふたつの人間観は、一見相反するように見えながら、実は背後(裏)で手を結び協働しあいながら、互いの存在を支え合っている(186ページ)。それはそこに、「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対性を帯びた倫理が存在することによる(226ページ)。すなわち、統計学的人間観は、個人のかけがえのなさに絶対的な価値を置く個人主義的人間観に基づいて立ち上がっている(支えられている)のである(193ページ)。

関係論的人間観――自分と他者との「関係性」の生成や変化に価値を見出す人間観
関係論的人間観は、個人主義的人間観の特殊性を浮き立たせるために措定されたカテゴリであるが、他者との関わりのなかではじめて生まれる者として「自分」(個人)を捉える人間観をいう(212ページ)。そこにおいて、この人間観は、自分と他者との関係性の生成や変化に注目することになり、「他者とは何か」「出会いとは何か」「他者と生きるとはどういうことか」などを問うことになる。「他者」とは、分かり合えるかもしれないという存在であり、同時に分かり合えないかもしれないという両義的な存在である(232ページ)。そういう他者との関わり(つまり出会い)は、不安や恐れなどをもたらすが、他者との言動の相互行為を通してどのように他者と共に在るか、共に在り続けるかについて互いの間に規則性が生成される。この相互行為の場や規則(「共在の枠」:磯野)を前提に出会いは進展するが、未来に向かって共に在り続けるためにはその「共在の枠」を変化させていく身構えと身振り(「投射」:磯野)が必要となる(238~241ページ)。その意味において、「他者と生きる」とは、「共在の枠」を共有する自分と他者が、「投射」(相互行為の姿勢や態度)によってその関係性を維持し、新たな関係性を生み出すことによって、出会った他者と共に生きていく「私」/「あなた」が存在することをいう(251ページ)。

〇要するに、一見相反するかのように見える統計学的人間観と個人主義的人間観は実は、一緒になって「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対的な倫理観や価値観を創り出す。そしてそれは、絶対性を帯びているがゆえに、人々の営みを制約する。そこにおいて磯野は、両者の人間観を二項対立的な図式で措定するのではなく、両者は協働関係にあるという。そして(そのうえで)、3つ目の人間観として、自分と他者との関係性の生成や変化に注目する関係論的人間観を考えるべきである、という。それが、「他者とともに生きる」すなわち「自分らしく生きる」ことに繋がる。これが磯野の言説であり、視座である。
〇磯野は[1]の最後でいう。「ひとつの尺度で他者の生の長さ(人生の長さ:阪野)を測り、それを価値付け、生き方に介入する際には、唯一の生への畏怖(いふ)を宿した慎み深さが求められる」(269ページ)。留意したい。
〇この指摘から、例によって唐突であるが、これまでの福祉教育の実践や研究は真に「唯一の生への畏怖を宿した慎み深さ」をもってきたか。さまざまな人間観をすり合わせる地道な・丁寧な作業を行ってきたか。特定の人間観を強要し(押し付け)てはこなかったか。そんな疑問が頭をよぎる。