阪野 貢 のすべての投稿

阪野 貢/「ごみ屋敷」考:「ごみは、人がごみと認識したときにごみになる。」―梅川由紀著『ごみと暮らしの社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、梅川由紀著『ごみと暮らしの社会学―モノとごみの境界を歩く―』(青弓社、2025年5月。以下[1])がある。[1]では、ごみを単なる解決すべき環境「問題」としてではなく、日常生活に密着した「生活文化」として捉える(「問題としてのごみの研究」から「生活文化としてのごみの研究」へ)。そのうえで、「現代日本の都市部に住む人々にとって、家庭から排出されるごみはどのような存在なのか」を明らかにする(27ページ)。具体的には、「ごみとモノの境界がどこにあるのか、時代によってその境界がどう揺れ動いてきたのか、ごみとモノの価値の違いとは何なのか」などについて、多くの雑誌や資料の分析、ごみ屋敷におけるフィールドワークを通して論述する(カバーそで)。
〇その際、梅川にあっては、モノには、「機能的価値」、「心情的価値」、「可能性的価値」という3つの価値が存在する。「機能的価値」とは「モノがもつ機能面に対する価値」(279ページ)、「心情的価値」とは「モノに与えた個人的な思い出や意味に対する価値」(281ページ)、「可能性的価値」とは「モノを所有することで得られるだろう未来の可能性に対する価値」(282ページ)をいう。モノは、この「3つの価値のいずれか、あるいは複数の価値をもつ対象(物品)」である。一方、ごみは、「モノの3つの価値を失ったもの、あるいは価値を放棄した対象(物品)」である(293ページ)。そして、梅川は、「モノとごみの間に存在し、完全にモノやごみとは言いきれない、あいまいな価値をもつ状態」(54ページ)、別言すれば「モノの3つの価値の一部を有し、一部を失った対象(物品)」(293ページ)として「マージナルな対象(物品)」というカテゴリーを想定する。それは要するに、モノとごみとの曖昧な境界領域(マージナル)に存在する中古品やリユース品などである。
〇また、梅川は[1]で、高度経済成長期の生活様式の変化によってごみと人間の関係、ごみとモノの境界がどのように変化したか、その社会的プロセスを追究する。例えば、掃除機の普及によって、掃除の仕方が「掃き出す」から「吸い取る」へ変わり、チリやホコリがごみとして意識されるようになる。その背景には、住宅構造の変化などがある。冷蔵庫の普及によって、食品を「冷やす」だけでなく「保管」することが可能になり、買いすぎや作りすぎなどによる余剰品を生み出すことになる。その背景には、食の洋風化や女性のライフスタイルの変化、マイカーの普及などがある(181ページ)。また、プラスチック製品の普及によって、モノの「古さ、汚れ、傷」を「味や風合い」ではなく劣化と捉え、使い捨ての行動を加速させることになる(210ページ)。その背景には、大量生産・大量消費の経済システムの確立や、耐久性よりも利便性や衛生・清潔を重視する社会意識の変化などがある。
〇続いて梅川は、こうしたモノとごみの境界が曖昧になり、モノの価値を放棄できない人々が抱える問題として、「ごみ屋敷」問題に焦点を当てて論を展開する。すなわちこうである。1968年には存在していたと考えられるごみ屋敷という現象が、大きく社会問題化したのは2006年頃からである(221ページ)。その問題性については、①防災・防犯機能の低下、②ごみなどの不法投棄の誘発、③火災の発生の誘発、④土壌汚染や水質汚濁のおそれ、⑤病害虫・悪臭の発生、⑥風景・景観の悪化、などが指摘されている(辻山幸宣。224~225ページ)。
〇ごみ屋敷の住人にとって、堆積された物品はごみではなく、上述の心情的価値や可能性的価値を放棄できずにいるマージナルな対象(物品)であるケースが多い。現代社会は物質的な豊かさと情報過多を特徴とし、物品やサービスの効率的な消費や短期間での更新(アップグレード)が絶えず求められる。その結果、たとえそのモノに潜在的な価値が残っていたとしても「価値を放棄する能力」(断捨離や整理能力)が社会的な規範として強く求められている(291~292ページ)。従って現代社会では、ごみ屋敷に堆積するこうしたマージナルな対象を「廃棄物=ごみ」と見なし、公的な介入による処分を促す。また、そのような合理的な行動をとることが「ふつう」と理解され、社会の機能維持に不可欠な規範として作用するのである(294ページ)。
〇すなわち、ごみ屋敷の住人は、現代社会の支配的な価値観(社会規範)、すなわちモノとごみを厳密に区別し(「モノとごみの二極化」303ページ)、廃棄することを前提とする消費社会に対して対抗的に応答する人である。その人がモノの価値を放棄できない要因は、社会的孤立やセルフ・ネグレクト(自己放任)といった生活上の課題、精神疾患(「ためこみ症」)や認知機能の低下などが複合的に絡み合って生じている(226~232ページ)。そして、この問題のより深い背景には、現代社会が抱える大量生産・大量廃棄の構造的な問題が横たわっており、ごみ屋敷は社会のひずみが個人に表れた現象として理解されるべきである。
〇およそ以上が、梅川の主張・言説のひとつのポイントである。ここから、ごみ屋敷の問題は、単なる個人的な迷惑行為ではなく、また単に「ごみを片づける」という表層的な対処に留まるものではない。そこには、その住人の価値観を尊重し、生活に寄り添いながら、生活支援や精神的ケア、地域とのつながりの再構築などを図る「福祉的対応」(238~239ページ)が不可欠となる。そして、持続可能で実効性のあるそのような支援を地域全体で実現するためには、「まちづくりと市民福祉教育」の視点・視座が重要となる。すなわち、「ごみ屋敷」問題は、地域社会全体で支え合うべき「まちづくり」の課題である。とともに、モノとごみに対する社会意識(すなわち生活文化)を変革し、住人に対する偏見やスティグマの解消を図って地域共生社会の基盤を築くための「市民福祉教育」の課題でもあるのである。

市民活動紹介

市民によるまちづくり活動の紹介
Introducing city development activities by citizens


公民館:講座企画・生涯学習活動

コミュニティセンター:情報発信・オンライン交流活動

地区集会場:意見交換・話し合い活動

図書館:読み聞かせ・図書整理活動

神社:祭典準備・伝承活動

小学校:放課後学習サポート・地域学習活動

地区集会場:子育て支援・ふれあい生き生きサロン活動

地域:安否確認・見守り活動

公共広場:レクリエーション・世代間交流活動

公共広場:避難・防災訓練活動

公共施設:緑化推進・清掃美化活動

公共施設:地域共生支援・日本語教育活動

公共施設:政策提言・活動報告活動

 


実践事例紹介

「総合的な学習の時間」における市民福祉教育実践
―施設訪問・交流活動―

Integrated Study Time:
Practical Citizen Welfare Education
— Facility Visits and Exchange Activities―


事前学習:きんじょ の おじいさん、おばあさんを たずねよう!

フィールドワーク➀/高齢者による施設案内:わたしが あんないするね!

フィールドワーク➁/高齢者から学ぶ:むかし この きんじょ はね!

フィールドワーク➂/地域を知る:ご 近所 だから また来てね!

事後学習:おじいさん、おばあさんから おそわったことを コトバ にしよう!

報告会:まなんだことを ほうこくします!

意見発表会:こんなまちにしたい!

 


 

プログラム紹介

市民福祉教育プログラムの紹介
Introduction to the Citizen Welfare Education Program


市民福祉教育プログラム 1-➀/交通安全ボランティア

市民福祉教育プログラム 1-➁/インクルーシブ教育

福祉教育プログラム 1-➂/慰問活動(以前は、こんなことをしていた!)

 


 市民福祉教育プログラム 2-➀/地域学習


市民福祉教育プログラム 2-➁/地域探究学習

福祉教育プログラム 2-➂/疑似体験(以前は、こんなことをしていた!)

 


市民福祉教育ブログムム 3-➀/地域ふくし懇談会

市民福祉教育プログラム 3-➁/意見発表会

福祉教育ブログムム 3-➂/行政主導型まちづくり以前は、こんなことをしていた!)

 


市民福祉教育プログラム 4-➀/子ども提言活動

市民福祉教育プログラム4-➁/赤い羽根共同募金活動

福祉教育プログラム4-➂/募金活動(以前は、こんなことをしていた!)

 


 

 

阪野 貢/追補・上野千鶴子「老い」論の深層―辺見庸著『コロナ時代のパンセ』のワンポイントメモ―

〇本稿は、<雑感>(248)阪野 貢/アンチ・アンチエイジングの思想が示す「老い」論―上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房、2025年4月)のワンポイントメモ―/2025年10月24日/本文、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、芥川賞作家・ジャーナリストである辺見 庸(へんみ・よう)の本『コロナ時代のパンセ――戦争法からパンデミックまで7年間の思考』(毎日新聞出版、2021年4月。以下[1])がある。[1]は、「戦争法」(安保法制)から新型コロナウイルスのパンデミックに至る、「人倫の根源が抜け落ちた危機の7年間」(帯)の時代を辺見が凝視し、その疑いを鋭い思索(パンセ)として綴ったエッセイ集である。
〇ここでは、<雑感>(248)の追補として、[1]から、おのれの無知と無関心を問う「オババと革命」、おのれがケアされる哀しみについて吐露する「西瓜のビーチボール」、そのエッセイの一節をメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

不可視化される「オババ」:無知と無関心を問う
駅近くをあるいていると、よく蓬髪短躯(ほうはつたんく)の老婦人をみかける。わたしはかのじょを心のなかで(失礼ながら)オババと呼んでいるのだが、見かけよりはよほど若いのかもしれない。ゴム草履を履き、襤衣(らんい)ながらも、背筋をぴんとのばしてスタスタと忙しげにどこかへとむかっている。その姿をみるたび、ああ、きょうは元気そうだなとホッとする。どうじに、さまざまな感情が胸に渦巻く。このひとの塒(ねぐら)はどこなのだろう。どうやって生活しているのか。身よりはないのか。支援者はいるのだろうか‥‥‥。そして、はっと気づく。オババにかんするそうした疑問が、わたしにとって、ほんとうは、けっして切実ではないことに。/すれちがい、ワンブロックもあるかぬうちに、わたしはかのじょのことをあらかた忘れているのである。だいいち、わたしはかのじょの面立(おもだ)ちをまったくおぼえていない。声も知らない。名前も知らない。そして、かのじょについてなにも知らないことが、わたしの気分をなにがなし〝楽〟にしているのかもしれないと心づく。(170ページ)/わたしはオババを知らない。目をあわせたこともない。かのじょを天才的だとおもったことはある。快も不快も、わたしになんらの印象ものこさない。その身のこなしと目差し、気息(きそく)において、けだし天才的ではないかと。ちがう! わたしがかのじょの名前はおろか面差(おもざ)しも知らないのは、よくよくおもえば、わたしがかのじょを正視せず、なにも問うたことがないからだった。(172ページ)

〇辺見は、まちなかで見かける「オババ」に対し、その存在や生活を「切実ではないこと」として遠ざけ、無知と無関心によって自分が精神的に〝楽〟になっていることを自覚する。この個人的な無知や無関心は、上野が批判する「アンチエイジンの思想」の根底にある、「老い」や「弱者」を意識的に排除・遮断する現代社会の構造を、個人の内面レベルで反映したものと言える。

抵抗する「ビーチボール」:ケアされる哀しみ
介護老人保健施設に通いはじめて1カ月、目も気持ちもずいぶん慣れてきた。/施設にあっては他者の発見より、おのれを見なおすことのほうが多いかもしれない。総合着座体操というプログラムがあって、わたしのような通所者と諸症状のひかくてき重い車椅子の高齢入所者がいっしょになって着座したままラジオ体操などの運動をする。先日はラジオ体操のあと、西瓜の模様のビーチボールをつかい、女性指導員が意外なトレーニングをはじめた。なにかの童謡を口ずさみながらリズミカルに歩きまわり、ビーチボールを参加者に手わたして問う。「冷たいの反対はなーに?」。ビーチボールを持たされたおばあちゃんが嬉々として答える。「あったかい!」。「あたりい!」と指導員。/わたしはドキドキする。西瓜のビーチボールがこちらに回ってくるのではないか。いや、まさかそんなことはあるまい、と自己内問答。まさか点‥‥‥の根拠には<わたしは〝かれら〟とちがうのだから>があった。思わずハッとする。このばあいの〝かれら〟は、かれらなんか・・・・・・という区別か差別のニュアンスが滲(にじ)んでいたからだ。なんということだ!じぶんに舌打ちする。心がざわざわする。(中略)西瓜のビーチボールがわたしの膝にのせられた。<脳トレ質問>がだされる。/「明るいの反対はなーに?」/胸のなかに鉄の玉ができて、焼けるほど熱くなる。まっ赤になって胸のなかでゴロゴロ転がる。われながらたまげる。激怒しているのだ、わたしは。明るいという形容詞の反対はなにかとためらいもなく問うあなたは、わたしをかれらなんか・・・・・・といっしょにしているのだな。なんという無礼! 目が焔(ほむら)を噴(ふ)いた。/わたしはじぶんの怒りのはげしさにだじろぐ。にしても、なぜこんなにも憤るのか?おそらく、認知症と混同されたことだけではない。ここにかれらなんか・・・・・・といっしょにいること、そうせざるをえない心身の老い。それに焦っているじぶん。そして、どうしようもなく末枯(すが)れてゆくなりゆきをまだ諦観できないじぶんにいらだって、かれらなんか・・・・・・とじぶんを懸命に区別しようとし、同時に、他人にも区別してもらいたがったのである。目がうるんでくる。風景が掠(かす)れる。(199~201ページ)。

〇辺見は、「老い」を生きる自分が個としての尊厳を失い、「かれらなんか」として十把一絡げに同じ要介護者として扱われる屈辱に激しく抵抗する。この「老い」に伴う不安や主体性の喪失感の赤裸々な吐露こそ、上野の「アンチ・アンチエイジングの思想」、すなわち「老い」の否定的な意味合いを転換しその価値を肯定することの重要性を力強く裏付けるものと言える。

〇以上踏まえ、一言したい。辺見が描く「オババ」に対する無知と無関心と、「老い」に伴う尊厳の喪失への抵抗に対して、「老い」を自分の生の一部として能動的に捉え、主体的な生の課題として引き受ける意識や姿勢を育むことが肝要となる。そして、自己の尊厳を守り抜く主体的な生き方を可能にするため、「老い」についての社会的・思想的な学びを求め深めることが求められる。これは、「市民福祉教育」の重要な教育内容のひとつとして位置づけられるべきである。特に、「老い」を生きる高齢者自身が、これまでありがちであった福祉教育の一方的な客体(思いやりの対象)としてではなく、自己の重要な学習課題として「老い」に主体的に向き合う側面は、市民福祉教育の根幹をなす教育内容として確立されるべきであろう。

阪野 貢/アンチ・アンチエイジングの思想が示す「老い」論 ―上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想』のワンポイントメモ―

「人間、役に立たなきゃ、生きてちゃ、いかんか」(259ページ)。「生きるのに、遠慮はいらないわよ!」(266ページ)。「人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか」(301ページ)。「安心して要介護になれる社会を!」(275ページ)。

〇筆者(阪野)の手もとに、上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房、2025年4月。以下[1])がある。「老いは文明のスキャンダルである」。これは[1]の冒頭の一文であり、上野がシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir, 1908-1986)の『老い(La Vieillesse)』(1970年)から受け取った核心的なメッセージである。人は皆、老い、衰え、やがて依存的な存在になる。これは、誰も抗(あらが)うことのできない普遍的な自然のプロセスである。しかし、現代の文明(社会システムや価値観の総体)は、この老いの現実を無価値なもの、恥ずべきものとして捉える。そして、そこから逃避し、それを拒否し、隠蔽しようとする。PPK(ピンピンコロリ)という理想の強要や、認知症予防という自己責任論の拡散などがそれである。老いを避け、若さ(自立)を維持・追求することを至上命題とする思想・価値観(「アンチエイジング」)こそが、人間存在の根源的な事実を無視した恥ずべき現代文明の言語道断な事実・欠陥(「スキャンダル」)である。これが上野の主張である。
〇上野は、「老人」についてこう言う。老人は老人として生まれるわけではない。加齢にしたがってやがて老人になる。ここまでは自明である。だが人は単に老人になるのではない。人は、長い間「他者」として蔑視してきた当の老人に自分自身が変貌したことを認めざるを得なくなる(「老いとは他者になる経験である」(7ページ))。そして、社会が押しつける老人のカテゴリーにしぶしぶ同意し、いわば二級市民であることに同意したときに初めて、ホンモノの「老人になる」のである(21、86、93ページ)。
〇そして、言う。「高齢者が好奇心を失わず、前向きに生き、死ぬまで成長を続ける(ことに価値がある)という高齢者観こそ、エイジズム(年齢差別)と呼ぶべきではないのか」(226ページ)。「人は老いる。老いれば衰える。加齢は成長と衰退の過程、『生涯発達』とか『生涯現役』といったかけ声をわたしは信じない」(261ページ)。「エイジズムの背後にあるのは、『生涯現役思想』こと効率と生産性優位の価値観である」(252ページ)。「ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいく。それなら『老い』に抗うアンチエイジングの自己否定的な試みよりも、老いを受容するアンチ・アンチエイジングの思想が、今ほど必要とされている時代はないのではないだろうか」(226ページ)。
〇ここで、次の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

エイジズムとアンチ・アンチエイジング:人は老い、衰え、依存のなかで尊厳を持って生きる存在である
私たちはセクシズム(性差別)の被害者でもあるけれど、エイジズム(年齢差別)の被害者でもある。/わたしたちは「若い(あるいは年齢より若く見える)ことが価値であるような社会に住んでいる。若い者ももはや若くない者も、その価値を内面化している。だからこそ、「お若いですね」が高齢者に対する「ほめ言葉」になり、高齢者もそれをうれしがる。/若さを維持するためのアンチエイジングは、健康食品やサプリメント、スポーツジム、ファッション、コスメなどさまざまな業界で一大市場を形成しており、高齢者たちはそれに虚しい投資を続けている。いわば自己否定のための投資というようなものだ。(13ページ)/アンチエイジング(老いや衰えを否定的に捉える思想・高齢者観:阪野)がこれほどに世の中に浸透した思想ならば、わたしたちはそれに対抗しなければならない。だからこそ、アンチ・アンチエイジング(老いによる弱さや依存を肯定的に捉える思想・高齢者観:阪野)なのである。(14ページ)

児童福祉と高齢者福祉:高齢者福祉は社会的「姥捨て」の制度的保障でもある
「子供は未来の現役であるから、社会は彼に投資することによって自分自身の未来を保証するのに反し、老人は社会からみれば執行猶予期間中の死者にすぎない」(ボーヴォワール)/児童福祉には根拠がある。次世代の生産性の担い手を育てることだからだ、他方、ただ死んでいくのを待つだけの高齢者には、何の生産性もない。/「なぜ老人を介護するのか」と問いを立て、答えを「人格崇拝」と「社会連帯」に求める立論は、わたしを納得させるものではないし、この問いに明快なこと答えを出した者はいない。だが、ともあれ、高齢者への社会福祉が世界的に進んできたことは確かである。(172ページ)/高齢者福祉には、なにがしか家族から高齢者を切り離したいという「姥捨て」(うばすて)の要素が見られる。すなわち高齢者福祉とは社会的「姥捨て」の制度的保障――それもみじめでない程度の――と考えてもよい。そして「みじめさ」の程度は、当該の社会が判定する。(174ページ)

自立と依存:社会は依存のネットワークであり、自立とは依存先の分散である
介護保険法にいう「自立」とは「依存のない状態」手っ取り早くいえば介護保険を使わないか、そこから「卒業」することを言う。他方、障害者総合支援法にいう「自立」とは、支援を受けながら何をしたいかを自己決定することを言う。(299~300ページ)/(高齢者と障害者の)「自立」と「自律」、「介護」と「介助」の違いは、障害者の権利が障害者による当事者運動の成果だったのに対し、高齢当事者による権利運動が存在しなかったことによる。(301ページ)/自覚するにせよしないにせよ、人は依存の網の目のなかで生きている。自分が依存される立場にも依存する立場にもあることを、認めたらよい。依存が悪なのではない。依存を可能にしない/できない社会が悪なのだ。(298ページ)/自分がしたいことをできない時。人に頼って何が悪いか。人に助けてもらったからといって、その人の言いなりになる必要は少しも無い。(300ページ)/人は老いる。老いて衰える。やがて依存的な存在になる。人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか。(301ページ)/

〇最後に、例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。それはこうである。市民福祉教育はこれまで、高齢者に関して、「お年寄り」に対する「思いやりの心」の育成や「互いに支え合う地域共生社会」の創造を強調してきた。上野の言説に依拠すれば、思いやりの心の育成という情操教育や道徳教育の視点は、老いることを非効率的で非生産的な現象として否定的に捉える社会構造を温存させ、自立を絶対視し、依存を悪とする思想を追認することにならないか。地域共生社会の創造というまちづくり学習や市民性教育の視点は、高齢者に対し、依存しない自立を要求し、地域貢献に取り組む生涯現役の高齢市民を要請することにならないか。
〇そこで、市民福祉教育は、高齢者を保護の対象と見なす一面的で情操的な単なる思いやり教育から脱却する。そして、老い、衰え、依存する存在としての高齢者の尊厳を「他者に依存する権利」として構造的・制度的に保障する社会システムへの変革を志向する。そのためのエイジズムへの権利意識と社会システムの理解を深め、それに基づいて「安心して老い、互いに頼り合えるまちづくり」に取り組むための教育へと転換する必要があろう。

 

老爺心お節介情報/第77号(2025年10月21日)

「老爺心お節介情報」第77号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第77号を送ります。
ご笑覧下さい。

2025年10月21日  大橋 謙策

〇漸く秋めいてきました。我が家の庭木に、金木犀が2本あります。例年ですと、9月末から10月初めに咲くのに、今年は咲きませんでした。若木の金木犀が咲いたのが10月10日、古木の金木犀は漸く10月19日に咲きました。草花の様子を見ても気候がおかしいことが分ります。銀木星は、金木犀ほどには匂いませんが咲いています。
〇2022年3月に発見され、2023年2月に重粒子線治療を受けていた前立腺がんは、2024年6月にはホルモン療法も終わり、全ての処方が終了しました。
〇その後はその後は3か月ごとの経過観察をしていましたが、前立腺がんマーカーが0・008で推移していることもあって、この10月15日に受けた経過観察により、次回の経過観察の診察は6か月後になりました。これからも、当分の間は経過観察が必要とのことですが、取り敢えずは“完治”したものと考えてよいとの診断でした。
〇厚生労働省から、2025年7月25日にだされた『2040年に向けたサービス提供体制等のあり方』報告書は、今後の社会福祉制度、体制に深く関わる報告書です。ダウンロードして読んでください。ある意味、この報告書は、重層的支援体制整備事業と対になる報告書で、従来の社会福祉研究、社会福祉実践のあり方が全面的に問い直される考え方を内包させています。
〇この10月26日で、82歳になります。週1回は地域の囲碁クラブに行き、“脳トレ”を行い、週1回はスポーツジムに通い“筋トレ”をし、毎日8500歩から1万歩歩いて、毎日晩酌をする生活をする日々です。お陰様で、各地のCSW研修にも出かけられ、ご当地の美味しい肴で、美味しくお酒を酌み交わすことができています。
〇「老爺心お節介情報」第77号を送ります。“人との出逢い”やその当時の出来事に関わる記憶が定かでないところもあるので、今後加筆修正があるかもしれません。ご笑覧下さい。
(2025年10月21日記)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』

 Ⅲ 1970年代後半における「ボランティア研究」と「施設の社会化論」

〇1974年に日本社会事業大学の専任講師に就職でき、筆者の研究関心、研究領域は、社会教育に偏っていた1970年代前半と異なり、社会福祉領域へと変化していく。その橋頭保ともいえる研究課題は「ボランティア研究」と「福祉教育研究」であった。

➀日本青年奉仕協会と「ともしび運動」の総括研究

〇筆者が、いつ誰の紹介で、どのような経緯を経て日本青年奉仕協会に関わるようになったのかは記憶が定かでない。しかしながら、社団法人日本青年奉仕協会が刊行している『青年と奉仕』の第100号記念特集号(1975年12月刊行)に「ボランティアと社会教育」と題して論文を書いている。この100号記念号では、一番ケ瀬康子先生や柴田善守先生が座談会に登場している。
〇日本青年奉仕協会は、総理府の青少年問題協議会や文部省の社会教育審議会のオピニオンリーダーを務めた末次一郎氏が主宰して、1967年に創設された組織である(末次一郎氏は、佐賀県白石町生まれで、戦前の陸軍の中野学校二俣川分校の卒業生、戦後の北方領土返還活動や沖縄返還などの影の功労者で、岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘等の歴代総理大臣の相談役を務めた影のフィクサーでもあった)。
〇日本青年奉仕協会には、祐成善次、新田均、興梠寛等の職員がおり、全国ボランティア研究集会を開催していた。多分、その全国ボランティア研究集会に参加していて、交流がはじまったのだと思う。
〇少々、時期は前後するところがあるが、山梨県ボランティア協会(岡センター長)、静岡県ボランティア協会(小野田全宏現理事長)、世田谷区ボランティア協会(牟田悌三会長)、東京都ボランティアセンター(吉沢英子センター長、日本女子大学、大正大学教授)、富士福祉事業団(枝見静樹理事長)らとの交流もこの頃から始まる(大阪ボランティア協会は戦後初期の1947年に同名の組織がたちあがったが、現在の大阪ボランティア協会は1965年に発足している。筆者との関係は地理的に遠いということもあり、交流が深まるのは1977年の日本社会福祉学会で、当時の岡本栄一事務局長(後に聖カタリナ大学教授)と出会ってからである)。
〇多くの社会福祉関係者は、1995年の阪神淡路大震災支援のボランティア活動を称して「ボランティア元年」と言っているが、ボランティア活動はすでに1970年代中頃から各地で取り組まれている。
〇1970年代中ごろのボランティア活動に関わる隆盛は、その当時都道府県及び都道府県社会福祉協議会が取り組んでいた一種の精神作興運動である「福祉の風土づくり」といウ感性運動があった。
〇その先鞭をつけたのが、神奈川県知事の長洲一二知事で、1976年に神奈川県で「ともしび運動推進協議会」が設置され、1978年には「ともしび運動を進める県民会議」が発足する。
〇1976年に「ともしび運動を進める県民会議」に「ともしび運動促進研究会」が設置され、筆者が委員長を仰せつかった。それは、神奈川県庁職員の大澤隆さんの推薦でなされた人事だと聞いている。大澤隆さんは日本社会事業大学の先輩で、岩手県社会福祉協議会職員を経て神奈川県に就職、後に岩手県立大学の教授を務める。
〇この委員会では、行政からの一方的な戦前のような精神作興運動にならないよう、福祉教育の在り方やボランティア活動のあり方、住民参加について丁寧に論議をした(「ともしび運動促進研究会中間報告―ともしび運動の発展をめざして」1977年参照、委員には青年奉仕協会興梠寛、南里悦史(東大大学院1年後輩、後に九州大学教授)西山正子(後に茅ヶ崎市議員)、大澤隆(神奈川県民生部))。
〇この「ともしび運動の中間報告書」で、筆者は「福祉教育の定義」を整理する。

(註1)
「福祉教育とは、憲法第13条、第25条等の規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作り上げるために、歴史的にも、社会的にもそがいされてきた、社会福祉問題をそざいとして学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的活動」(上記報告書P4)

〇これ以降、各地で、名称は異なるものの、「福祉の風土づくり」運動が都道府県社会福祉協議会によって展開される。筆者は、この取り組みの講師として各地に呼ばれた。多分、それは「社会教育と社会福祉の学際研究」をしていたからであろう。

➁全社協「ボランティア基本問題研究委員会」の作業

〇全社協が、各地の善意銀行や奉仕銀行などのネットワークの役割を担っていた「中央ボランティアセンター」を、1977年に国庫補助が付いたこともあり、全国ボランティア活動振興センターへと改組した。
〇全社協のボランティア活動の牽引者は木谷宜弘先生で、徳島県社会福祉協議会時代に善意銀行を作り、その力量が買われ、全社協のボランティア活動の担当者に迎えられる(木谷宜弘先生は、後に淑徳短期大学教授、福山平成大学教授を務める)。
〇その全国ボランティア活動振興センターが、1968年に策定していた「ボランティア活動を育成するためにーボランティア育成基本要綱」を改訂すべく、1979年6月に「ボランティア基本問題研究委員会」を立ち上げる。委員長は、阿部志郎先生で、筆者は作業委員会委員長と起草委員会の委員長を仰せつかった。
〇筆者は、この機会以降木谷宜弘先生に懇意にして頂き、共編著をいくつも上梓しているが、その最初の契機がこの時である(木谷宜弘先生とは、通算28回を数える四国地域福祉実践研究セミナーで毎夏お会いし、俳句の指導を頂いた。四国地域福祉実践セミナーでは、日本社会事業大学の先輩で、徳島県の部長、徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた丸川悦史先生とも毎夏お会いしている。丸川悦史先生も俳人で、お二人には本当によくして頂いた。その二人に加えて、真言宗仁和寺派願成寺の大西智成住職(元社会福祉法人阿波老人福祉会理事長)、徳島県社会福祉協議会職員の日開野博さん(後に四国大学短期大学部教授先生)等、皆ボランティア活動や社会福祉協議会の仕事での出逢いである)。
〇この「ボランティア基本問題研究委員会」の委員には、当時のボランティア活動を牽引していた方々が就任していた。委員長の阿部志郎先生を始め、富士福祉事業団の枝見静樹理事長、ハーモニィ・センター理事長の大野重男さん、大阪ボランティア協会理事長の柴田善守先生、東洋大学の吉沢英子先生、日本青年奉仕協会の新田均さん、厚生省専門官の根本嘉昭さんなどが委員になっていた。
〇「ボランティア基本問題研究委員会」で、筆者はフランスの「博愛」、「公民」の精神こそボランティアの理念であると考え、その当時のボランティア論とは異なる発想をした。マルセル。モースの「贈与論」とは異なる論理の展開をした。
〇この研究委員会の報告書に書かれている「ボランティア活動の構造図」を、後日2010年3月26日に椿山荘で行われた日本地域福祉研究所主催の筆者の学長退任を祝って行われたシンポジウム「大橋謙策先生地域福祉論の警鐘・発展の集い」に、和田敏明さんはシンポジストして登壇してくれ、大橋地域福祉論の中枢は「ボランティア活動の構造図」にあると述べてくれた。
〇この報告書では、ボランティア活動の目標を「自立の連帯の社会・地域づくり」とした。単に、“地域社会”とせず、“社会・地域づくり”としたのは、“住民が住んでいる最も基礎的ケアの公共圏は、地域であり、基礎の自治体である市町村”であることを自覚し、そこを拠点に発展的に“ケアの公共圏”を国、国際へと広げる考え方を示したかった。はじめから広い公共圏域を考えることもあるが、悪くすると、自分の住んでいる自治体を置き去りにして、“社会”で活動をしているという“自己満足”になりかねない。筆者のこれらの考え方には、江口英一の論文が影響していたのかもしれない。
〇その上で、地方自治体を豊かにするのには、①隣近所でのあいさつ、見守り、助け合いの機能、②日常的に意識しないと忘れられ、置き去られている、時には排除、偏見にさらされている障害者等福祉サービスを必要としている人、家族を発見し、支えていく機能、③地方自治体の社会福祉問題を計画的に改善する方向を示す社会福祉計画づくりという3層の構造図を示し、その土台、基礎になる福祉教育の必要性を指摘した。
〇と同時に、民生・児童委員、社会教育委員、保護司、消防団などの関係者も重要なボランティア活動をしている人々であることを書いた。これらの人は、ボランティア活動の契機は行政からの委嘱であるが、これらの人々の活動がなければ地域は維持できないし、良くならないことを位置づけした。

(註2)
ボランティア活動の性格と構造

〇「ボランティア基本問題研究委員会」での活動が認められたのであろうか、その後各地の社会福祉協議会から招聘されることになる。
〇1978年、富山県社会福祉協議会から市町村社会福祉協議会職員研修で招聘された。担当してくれたのは、日本福祉大学卒業生の浅野、小平の両氏であった。日本福祉大学卒業生という“仲間意識”があったのであろう、二人に、単発の研修の講師で呼ぶのではなく、少なくとも3年継続して職員研修に呼んで欲しい旨をお願いした。職員研修に参加しいて、このような提案に飛びついてくれたのが、氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん、小矢部市社会福祉協議会の加藤邦子さんらで、その後氷見市には約40年刊継続的に関わるし、小矢部市とも約10年間通うことになる。これが、筆者の「バッテリー型研究」の走りである(『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践40年のあゆみ』中央法規出版、2023年4月刊行参照)。
〇同じころ、宮城県社会福祉協議会の阿部守枝事務局長にも招聘され、同じような関わりの持ち方をお願いしたが、東和町の藤原さんなどとの関係はできたが、「バッテリー型研究」実践の関わりはできなかった。
〇「ボランティア基本問題研究委員会」の作業委員長、起草委員長を仰せつかったのは、筆者が1977年10月号の『月刊福祉』に「地域福祉の主体形成と社会教育」という論文を掲載していたことや、先の神奈川県の「ともしび運動」の総括研究をしていたからではないかと推察している。
〇『月刊福祉』の論文では、住民の生活課題を解決するには地方自治体の役割が重要で、社会福祉は「地域を見直し」、制度上、実践上きちんと位置付けるべきだと主張し、そのためにも地方自治体毎に地域福祉計画を策定するべきであるし、それを可能ならしめる住民の福祉学習の重要性、社会教育との連携の必要性を説いた。
〇1975年頃、筆者は戦前の「自由大学」の研究プロジェクトに参加していた。その一環で、小川利夫先生に連れられて、長野県上田市の在所にある別所温泉を訪ねた。上田自由大学(信濃自由大学)創立時のメンバーである猪坂直一さん、山越脩蔵さんにインタビューをするためであった。
〇上田自由大学は、1921年に上田在住の絹などを扱う青年たちが起こした住民の手による学習の機会であった。土田杏村や高倉輝を中心に、谷川徹三、新明正道、中田邦造、三木清、井隆等錚々たる講師陣を迎えて、上田自由大学が運営されていた。その提唱者の山越脩蔵さんや猪坂直一さんにインタビューすることが目的であった。
〇宮原誠一先生が推進されていた信濃生産大学等も含めて、住民自身の企画による自由な、体系的な学習の在り方に関する研究の一環であった。
〇このような研究プロジェクトの一員であったこともあり、筆者は東京都三鷹市勤労青年学級をより発展させた、体系的な「地域青年自由大学の創造」という論文を1979年に書いている(『講座日本の学力第14巻 青年の学力』に所収)。
〇そのような背景もあり、筆者は山口県宇部市の「婦人ボランティアセミナー」(文部省国庫補助金事業)の企画を任された時、体系的なボランティア学習のセミナーを企画した。
〇宇部市教育委員会の担当者は、田中辰彦社会教育主事で、朝に度々電話を頂くことになるのだが、田中辰彦さんは、いつも“おはようございました”と言って電話してきていた。“おはようございます”ならわかるけど、“おはようございました”はいくら方言にしても私にはなじめない挨拶をする方でした。
〇田中辰彦さんは、社会教育主事の養成課程で当時九州大学にいた小林文人先生(後に東京学芸大学)と懇意にしていて、「婦人ボランティアセミナー」をやるなら大橋謙策に相談しろということで、私が東京都国立市公民館で講師をしている時に訪ねてこられ、それ以来親交が深まっていく。
〇宇部市の「婦人ボランティアセミナー」は、文部省国庫補助事業として1977年から実施される。毎年6月開講、翌年2月終了で、9か月間に20回以上に亘り、➀社会福祉に関する基礎学習とボランティア活動の理念の学習、②高齢者や障害者等の地域における具体的生活問題の学習、③住民の辞が区次週、相互学習の重要性を学ぶ社会教育の基礎学習、④社会福祉のボランティア活動に必要な手話・展示・車椅子操作等の実践技術の習得、⑤聴覚障害者施設での体験学習の5分野を学ぶ。筆者は、このセミナーの常勤講師を20年以上続けてきた(「婦人ボランティアセミナー」はその後2年生になり、男女共学になった。『いきがい発見のまちーー宇部市の生涯学習推進構想』東洋堂企画出版、1999年6月参照。この宇部市の構想が1989年の東京都狛江市社会福祉協議会が策定した「あいとぴあ推進計画」における「あいとぴカレッジ」へと継承される)。
〇宇部市へは、当初夜行列車で、その後YS11の飛行機で、その後ジェット機と新幹線で通った。宇部市での思い出は沢山あるが、筆者が小学校6年の時に鯖を食べて蕁麻疹になり、それ以来鯖を食べられなかったが、宇部市の居酒屋で“だまされたと思って食べてごらん。ぶりよりも、マグロよりもおいしいよ”と言われ恐る恐る鯖を食べた。その鯖のおいしいことに感動し、以来生鯖を食べることができるようになったし、好物になった。

➂日本社会福祉学会デビューと「施設の社会化論」

〇筆者が、日本社会福祉学会に入会したのは、大学院の修士課程が修了した時であるが、日本社会福祉学会デビューは、1978年に大正大学で行われた大会で、大会プログラムである「シンポジュウム・社会福祉施設の社会化」のシンポジストに指名された時である。このシンポジュウムの発言をまとめたものが。1978年の日本社会福祉学会の紀要に「施設の社会化と福祉実践」として掲載された。
〇大正大学のシンポジュウムを終えて帰る際、大正大学キャンパスのイチョウ並木のところで、大阪ボランティア協会の岡本栄一先生と早瀬昇さんに呼び止められ、“今日のシンポジュウムでの発言はとても良かった”とお褒めの言葉を頂いた。岡本栄一先生と早瀬昇さんとの出逢いはこの時が最初である。
〇この時のシンポジュウムの発言をまとめた「施設の社会化と福祉実践」の論文は、全社協が1976年度から始めていた「福祉施設長専門講座」の「地域福祉論」の開講科目講師を岡村重夫先生から1988年度に受け継いだ以降、科目名称を「社会福祉施設と地域社会」と改称して、この論文をテキストとして活用してきた。今でこそ、社会福祉法人の「地域貢献」が声高に叫ばれているが、筆者は既に1980年代に「社会福祉法人が経営する社会福祉施設の地域化と社会化」を主張し、その財源確保のためにも社会福祉法人の後援会の組織化の必要性を説いていた。
〇1970年代前半から後半にかけて、小川利夫先生が務められていた「教育制度改革委員会」の会合は頻繁に行われていて、筆者もその末席を穢していたので、小川利夫先生や一番ケ瀬康子先生、堀尾輝久先生等と顔を合わせる機会が多かった。そんな折、小川利夫先生が、“一番ケ瀬さんが、お前のことを軽薄だ”と評価していたぞと言われた。何を基にそう評価されたかは分からないが、この一言は、自分が「社会教育と社会福祉の学際研究」をする上で、大きな意味をもった。一番ケ瀬康子先生にも評価される社会福祉研究をしないと、学際研究者として認めてもらえないと襟を正す言葉だった(一番ケ瀬康子先生には、その後、光生館から一番ケ瀬先生に話があった「福祉教育シリーズ」全7巻の編集をすべて任せてくれた。他方、1987年に日本地域福祉学会を創設する際には、“大橋さんは、私に盾ついて、社会福祉学会の分派活動として日本地域福祉学会を創設するのかと叱られた。しかしながら、日本地域福祉学会の理事は引き受けて貰えた)。

④アメリカの社会福祉教育の視察と世田谷区老人大学構想

〇1971年に日本社会事業大学の学長を退任されていた木村忠二郎先生が、1974年には理事長も退任された。
〇木村忠二郎先生は筆者が日本社会事業大学に入学した時の学長でもあり、筆者が学生自治会の副委員長を務めていた時の交渉では朝8時に大学で面談をした思い出がある(木村忠二郎先生は、厚生省事務次官を退任された1958年9月に財団法人社会福祉研究所を創設され、理事長に就任する。筆者は、2010年6月に財団法人社会福祉研究所の第5代目の理事長に就任する。財団法人社会福祉研究所は、残念ながら2021年6月に経営できずに解散した)。
〇木村忠二郎先生の後任には厚生省社会保険局長をされた伊部英男先生(灘尾弘吉先生の娘婿)が就任された。
〇伊部先生は、なぜ日本社会事業大学に社会福祉施設で働く職員の養成課程がないのかと指摘された。厚生省は1971年の「社会福祉施設緊急整備5か年計画」を契機に、社会福祉施設の増設をしているのに、厚生省の委託を受けている日本社会事業大学が社会福祉施設に働く職員の養成をしていないのはおかしいということだった。
〇また、その頃は、戦前の海軍博物館で、空襲を受けていた日本社会事業大学の建物は老朽化が進んでいて、日本社会事業大学の再建のあり方が幾度となく学内で論議されていた時代である。
〇厚生省は、1975年3月に、厚生省社会局長私的諮問委員会「社会福祉教育問題検討委員会」を設置し、「今後における社会福祉関係者教育の基本構想及び社会福祉教育のあり方」を諮問した。
〇他方、1971年4月に、日本社会事業大学は併設していた社会福祉事業職員研修所を全国社会福祉協議会へ移管を決定した(筆者は、この時初めて教授会で発言し、社会福祉事業職員研修所の移管に反対する意見を述べた)。
〇このような経緯があり、1971年6月にアメリカの社会福祉教育の現状を視察研究すべく視察団が結成された。団長は福武直先生(当時、社会保障研究所所長)で、団員には三浦文夫先生(社会保障研究所部長)、石井哲夫日本社会事業大学教授、小林迪夫厚生省専門官が選ばれていた。どういう風の吹き回しか知らないが、筆者もその視察団の団員に選ばれて初めての海外旅行でアメリカへ行った。アメリカでは、ミシガン大学やニューヨークのアデルファイ大学などを視察した。
〇その視察での見聞が活かされて1975年7月に先の諮問委員会の第1次答申「社会福祉教育のあり方について」が出される。
〇当時、筆者は、世田谷区老人大学設立検討委員会(座長、世田谷区在住の貞閑静(元東京都日比谷図書館館長)さん、早稲田大学教授(社会教育選考)の横山宏先生も委員)の委員として任命され、「老人大学の構想」をすべて起草させて頂いていた(『老いて学ぶ 老いて拓く』(三浦文夫編著、ミネルバ書房、1996年所収の拙稿「世田谷区老人大学のあゆみ」参照)。
〇その老人大学の運営を託す学長を誰にするか、筆者は思案中だったので、アメリカ視察中に、福武直先生が世田谷区在住だったこともあって、世田谷区老人大学の学長になってくれますかと打診をしたら受け入れてくださった。
〇福武直先生は、東大紛争中、東大の副総長で、加藤総長を補佐する立場にいたので、東大定年後は大学教員への転出はしないと決めていたということだったが、“老人大学の学長”ならいいと言って引き受けてくれた(ちなみに、老人大学の第2代学長は三浦文夫先生。三浦文夫先生が退任するとき、第3代目の学長になれと打診をされたが、筆者は固辞させて頂いた)。
〇世田谷区老人大学は、1977年に開設された。先述したように、筆者はこの頃戦前の「自由大学」の研究をしていたこともあり、ボランティアセミナーも老人大学も住民参加による企画に基づいた自由な、体系的な学習機会の創出が必要だと考えていた(『老いて学ぶ老いて拓く』P56参照、三浦文夫編著、1996年、ミネルヴァ書房)。それこそが、住民の主体形成を図る道であり、住民自治が遂行できると考えていた。
〇その当時の社会教育には、「高齢者の社会教育」、「障害者の社会教育」という分野は研究的にはほぼ皆無の状態であった。
〇筆者は、老人大学の理念、目的を「老人大学とは、➀地域に生きる、②集団で生きる、③若者と生きる、④汗を流して生きる、⑤文化をもって生きる高齢者の自己啓発の場である」と考えた。教育課程は、2年制とし、➀履修者の興味・関心を考え、かつ履修者の問題発見・問題解決型協働学習が可能となるよう、定員25名のコースを4コース(社会コース、生活コース、福祉コース、文化コース)開設、②各コースには若手研究者をチューターとして配置する、③2年後の終了時には卒業論文(レポート)を提出、④2年後の終了時には、“老人の翼”、“老人の船”による修学旅行を行うといった構想であった。この谷、随時文化講演会を開設することも提案した。
〇世田谷区老人大学構想に当たっては、兵庫県が推進していた「いなみの学園」を訪ね、学園長の福智盛先生や北九州市の周防学舎を訪ねた。福智盛先生との厚誼はその後も続いた
(2025年10月21日記)

阪野 貢/「共感的利他主義」と「多元的思考」―渡邉雅子著『共感の論理』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、渡邉雅子著『共感の論理――日本から始まる教育改革』(岩波新書、2025年9月。以下[1])がある。渡邉にあっては、近代を牽引したのは、資本主義、科学主義、民主主義、国家主義という4つの原理である。その内の資本主義の成長と拡大は、自然破壊と経済格差を生み出した。経済の「拡大・成長」から「持続可能な低成長」への移行が進んでいる現在、「人間と自然との関係を、自然を収奪の対象とする見方から、人間を自然の一部と捉える発想へと転換する必要がある。そしてこの新しい自然観に基づき、個人主義・利己主義的な価値から利他主義へと価値を転換することが、今、世界的に求められている」(ⅶページ)。そして、時代は、各人がそれぞれの価値観に基づいて生きる「多元的社会」へ移行しており、そこでは「状況に応じて、あるいは自己の信じる価値観に従って、複数の思考方法を柔軟に選択する能力」、すなわち「多元的思考」が不可欠となる(ⅷページ)。こうした考えに基づいて[1]で渡邉は、「共感的利他主義」を社会原理の基盤に置きながら、「多元的思考」を育む教育のあり方を提言する。

〇先ず、「共感的利他主義」についてである。渡邉にあっては、利他主義には、「合理的利他主義」「理性的利他主義」「効果的利他主義」「法・原理的利他主義」の4つの形がある。合理的利他主義は、「自己利益を利他の行為の動機」にし、利他を「課題解決のための合理的な手段」として考えるものである。理性的利他主義は、利他の具体的な行為を、「理性によって個人よりも大きな社会全体の利益や共通善のために起こす」ものである。効果的利他主義は、開発途上国への援助(寄付)のように、「効率性と費用対効果の最大化」を目的とするものである。法・原理的利他主義は、「宗教の教義や法律によって定められた義務」として行われるものである(97~99ページ)。これらの利他は、「『自然と切り離された人間』という前提のもと、まず『利己主義』を第一の選択肢として捉えた上で、その後に『利他』を実行しようとするものである。したがって、それは必然的に利己主義を土台とした利他にならざるを得ない」(103ページ)。
〇そのうえで渡邉は、「共感的利他主義」について次のように説述する。

共感に基づく利他主義(共感的利他主義)は、誰かが苦しんだり悲しんだりしているのを見た時、その人の状況に身を置き、自分ごととして苦しみや悲しみを感じて手を差し伸べる。現代では多様なメディアによって被災地の様子やさまざまな理由で苦しんでいる人が報じられると、身近な人のみならず苦しんでいる「知らない誰か」のもとにもボランティアが駆けつけ、それぞれの人ができる多様な援助が行われる。この利他のあり方は、相手からの見返りを期待したり、将来利他の行為の結果を取り戻す戦略を練ったり、計算・評価して効率的かつ費用対効果の大きい行為を選択したり(経済原理)、全体の利益となる法律や制度的仕組みを理性的に作ったり(政治原理)、個人の外側から善悪の判断によって定められたり(法技術原理)、ましてや自己実現を目指して行われるのではない。日常における他者との経験の積み重ねを通して、その時々の状況を捉えながら、私欲をとりはらって相手が何を望んでいるのかを瞬時に感じ取る、共感に依る利他である。相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他である。(99~100ページ)

〇そして、渡邉にあっては、「共感に基づくこの態度を社会で生きていく上のしつけとして、倫理として育んでいるのが日本の学校教育である」(100ページ)。日本以外の利他主義は、利己主義を土台にしたそれであり、自然を収奪の対象とする資本主義を中心的な原理とする「近代」の価値観から脱却できていない。「脱近代」(ポストモダン)を実現できるのは日本の利他主義とそれを含む教育である。新しいパラダイム(思考の枠組みや規範)においては、「日本の教育が育んできた利他のあり方こそ、改めて評価されるべきである」(95ページ)。
〇続いて、渡邉はいう。「共感を育む教育は、国語の読解方法の中に、そして綴方の伝統を受け継いだ感想文の中にあり、特別活動や多様な教科において共通して見られる教授法の中にも見つけることができる」(100ページ)。そして、具体的には、「五感を働かせた体験に基づいて感情を伝え合い、共感を育む日本の国語教育(読解、作文)は、世界から遅れた弱みではなく、AI時代にこそ強みとなる」(カバーそで)。すなわち、「共感の論理」は、AIにできない人間特有の能力を育むための土台となる。これが[1]における核心な主張である。

〇次に、「多元的思考」についてである。渡邉にあっては、「近代の成り立ちを歴史の大きな流れの中で捉えると、かつては宗教があらゆる領域を支配していたが、やがて『世俗化』が進み、宗教からまず政治が切り離され、次に法と科学が分離し、最後に経済が宗教と道徳から解放されて、それぞれが独立した機能を果たすようになった」(3~4ページ)。「近代における四領域への機能分化」である。そして現代社会は、「経済」「政治」「法技術」「社会」という異なる論理を持つ四領域によって構成されている。
〇それぞれについて渡邉はいう。「経済」領域では、「効率性の追求」を中心的な価値観に持ち、「経済活動を支える労働者・生産者の育成」を教育の目的とする。「政治」領域では、「公共の利益の追求」を中心的な価値観に持ち、「自律した政治的主体としての市民の育成」を教育の目的とする。「法技術」(「法」「規範」)領域では、「摂理と規範の伝授」(絶対的な知識や規範の伝授)を中心的な価値観に持ち、「宗教的、思想的、科学的に確立した『真理』を『規範』として伝えること」を教育の目的とする。「社会」領域では、「共感による連帯」を中心的な価値観に持ち、「他者および自己とのコミュニケーションを通じて社会秩序を成り立たせる道徳心を『自己形成』の一環として養うこと」を教育の目的とする(70~73ページ)。
〇そして、渡邉は、不確実性が増す現代社会においては、単一の「論理的思考法」に依存するのではなく、複数の異なる価値観に基づく思考を柔軟に使い分ける「多元的思考」が課題解決に不可欠である、という。すなわち、「多元的思考」は、「共感の論理」(共感的利他主義)を土台にして活かす実践的な能力である。[1]の、いまひとつの核心的な主張である。

〇以上の「共感的利他主義」と「多元的思考」の言説については、例えば、①人間と自然の関係性/人間と自然の関係論(環境倫理学)は多様であり、単に人間を自然の一部と捉える発想は、宗教や科学、文化を生み出した人間の独自性・特殊性を矮小化することにならないか、②利己・利他の二元論/利己主義と利他主義の二元論的な対比は単純に過ぎ、多様な利他主義の動機を過小評価あるいは等閑視することにならないか、③利他の情動性と社会性/「相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他」という「共感的利他主義」は、情動性が強調されるあまり、複合的に影響し合う社会的・継続的な地域課題の解決に向けた原理になりえないのではないか、④多元的思考の方法とプロセス/「多元的思考」は「柔軟に使い分ける」ことが求められるが、その具体的な方法やプロセス、評価基準などについての説明が不十分であり、どう考えるか、⑤感情と論理の連携/情動的な「共感」と論理的な「多元的思考」という性質の異なる能力は、どのように連携・統合され、課題解決のための実践的な能力になりうるのか、⑥教育目的の限定性/四領域における教育目的の指摘は、極めて狭く限定的で、偏りがあり、「教育の道具化」という批判を招かないか、⑦日本の学校教育現場の実態/いじめや不登校、教員の加重労働などの深刻な問題を抱える日本の学校教育現場は、国語教育(感想文)や特別活動によって共感を生む土台(場)たりうるのか、などが問われようか。
〇これらの点についての検討は、別の機会に委ね、ここでは例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。それは、「共感的利他主義」と「多元的思考」が、複雑で多様な地域課題の解決と市民が主体的・自律的に参加・共働する地域共生社会の実現に重要なひとつの論理的基盤となる、ということである。すなわち、具体的には、地域課題の解決や地域共生社会の実現に向けて「共感的利他主義」(人間的な温かさや倫理観)は市民の思考や対応にどう活かされるか、「多元的思考」(多元的に思考し判断する能力)は課題解決の実践方法やプロセスにどう貢献するか、が問われることになる。

老爺心お節介情報/第76号(2025年10月1日)

「老爺心お節介情報」第76号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第76号を送ります。
本文に張り付けができなかったので、添付ファイルでの(註)が3つあります。
皆様、ご自愛の上ご活躍下さい。

2025年10月1日  大橋 謙策

そのときの出逢いが
出逢い そして感動
人間を動かし 人間を変えてゆくものは
むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ
感動が人間を動かし
出逢いが人間を変えてゆくんだなあ・・・
(相田 みつお)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➁

Ⅱ 日本社会事業大学卒業後から大学院修士課程修了を経て、日本社会事業大学専任講師就任までの時代―主に社会教育活動での出逢い

➀東大大学院修士課程入学から1970年 

〇筆者は、1967年に日本社会事業大学を卒業し、東大教育学部宮原誠一研究室の研究生になる。
〇大学院に進学して、できれば研究者の道に進みたいと決意した日本社会事業大学の4年生の時には、おぼろげながら「社会教育と社会福祉の学際研究」をしたいと考えるようになった。
〇研究者の道への選択と研究テーマに大きな影響を与えてくれたのが、小川利夫先生が1962年、37歳の時に書かれた論文「わが国社会事業理論における社会教育観の系譜―その『位置づけ』に関する一考察」(日本社会事業大学研究紀要『社会事業の諸問題』第10集)であった。奇しくも、私も小川先生と同じようなテーマで修士論文を書くことになる(修士論文テーマ「戦前社会事業における『教育』の位置」)。
〇大学院研究者への進学を志した日本社会事業大学の4年時は、相変わらず教育科学研究会などに出入りし、群馬県島小学校での実践で一世を風靡した斎藤喜博先生の研究会にも出入りし、教育実践の考え方、方法などについても学んだ(後に発刊された『斎藤喜博全集』を購入したが読み切れなかった。『島小の実践』等単行本の幾冊かは読んだ)。
〇他方、社会福祉論(当時は「社会福祉学」とは言えず、「社会福祉論」であり、体系化された「社会福祉学」への構築を目指した。筆者が、「社会福祉学」を躊躇なく使用するようになったのは、2003度から日本学術会議において日本学術振興会の科学研究費の細目として「社会福祉学」が認められ、「社会学」から独立した時からである)については、当時労働経済学を学ばなければ駄目だと言われていた時代でもあり、大河内一男、氏原正治郎、隅谷三喜男、戸塚秀夫等の著作を読んだ(後日談になるが、日本社会事業大学の専任講師になった際、日本社会政策学会に入会しろと言われた。日本社会政策学会は日本社会福祉学会の親学会だから入会しろと言われたが、私は入らなかった。また、当時は、大河内一男の昭和13年論文「我國に於ける社会事業の現在及び将来―社会事業と社』第22巻5号、昭和13年8月)は社会福祉論を学ぶ者の必読文献と言われ読んだが、なぜ社会事業が労働経済学の社会政策の“補充・代替”の位置にあるのか疑問に思い、納得しなかった。仲村優一先生の『社会福祉概論』は“補充・代替説に立脚している)。
〇そのような経緯もあり、社会福祉論を憲法第25条を法源とする社会的生存権の位置づけだけでいいのかと疑問を持つようになるし、当時の社会福祉学界の通説である「狭義の社会福祉と広義の社会福祉」という言い方には幻滅を感じることになる。
〇そんな折、1967年に『経済学全集22「福祉国家論」』(小谷義次編著)の別冊に収録された江口英一先生の論文「日本における社会保障の課題」を読み、これこそが「社会教育と社会福祉の学際研究」をする際の道しるべだと思った。
〇その当時は、何故か別冊という方式が出版界で流行っていた。少年雑誌などの付録付き雑誌と同じ感覚だったのか分からないが、紙の装丁箱に入っている『福祉国家論』に江口論文は柴山幸治著「福祉国家と経済計画」という論文とともに別冊として入っていた。筆者にとっては、本体の本よりも別冊の江口論文の方が面白かった。
〇この江口論文に示唆されて、対人援助としての社会福祉は国家レベルの政策ではなく、市町村自治体レベルで整備され、システム化されるべきだとの確信を得た。
〇筆者の地域福祉研究は、江口英一学説と岡村重夫学説を乗り越えようとするところから始まった。

➁1970年は筆者の人生の大きな節目

〇1970年は筆者にとって、「人生の大きな節目」であった。
〇「第1の節目」は、1970年3月に東京大学大学院修士課程を修了したことである。「東大紛争」等があり、必ずしも全力で取り組めたとはいえないまでも、東大の中央図書館の地下に個室閲覧室を借りられて、資料を必要なだけ借りて読み、書けたことは自分にとって大きな財産になった(後日談になるが、日本社会事業大学の清瀬移転に伴い、図書館棟を建設できたので、そこに教員や大学院生が研究できるように個室の閲覧室を設けたが、利用者は少なく、後日廃止された。日本社会事業大学大学院の院生の研究能力、研究姿勢に正直落胆した)。
〇修士論文の審査は、宮原誠一教授、碓井正久教授、裏田武夫教授(図書館学)、藤岡貞彦助手などの教員の列席の他、多数の院生にも公開される修士論文公開審査会であった。
〇修士論文のテーマは、拙著『地域福祉の展開と福祉教育』、『地域福祉とは何か』にも収録させて頂いたが、「戦前社会事業における『教育』の位置」である。
〇その審査結果は、宮原誠一先生から良い評価を頂いたが、宮原先生から今度は「社会教育における社会事業の位置を」を研究する必要があるのではないかとの指摘を受けた。
〇宮原誠一先生は1970年3月で退官されたので、最後の指導を受けた院生だった。修士課程を修了し、かつ博士課程への進学も認められた。博士課程での指導教授は碓井正久先生にかわった。
〇1970年の「第2の節目」は、1970年4月26日に日本社会事業大学の同級生の渡部貴恵と結婚したことである。
〇渡部貴恵とは日本社会事業大学1年時の夏休みに一緒に神奈川県立中里学園のボランティア活動を行った。3年次の社会調査実習では、同じ小川利夫班(助手 高澤武司先生、後に岩手県立大学ソーシャルワーク学部学部長)で「中卒青年の集団就職調査」を行い、かつ3年次からは「教育科学研究会」で一緒に雑誌「教育」の勝田守一論文を輪読した仲であった。
〇日本社会事業大学卒業時には、将来一緒になろうと結婚の約束はしたものの、渡部貴恵は東京都職員、私は研究生で将来が見通せない状況だったので、東大大学院の修士課程を修了したら結婚しようということで、1970年4月26日に結婚式を挙げた。新婚旅行の費用は全て渡部貴恵が負担してくれた。結婚のお祝いに夫婦茶碗を2組頂いた(一組は煎茶用の九谷焼で、仲村優一先生から頂いた。もう一組は栃木の方で益子焼のほうじ茶を飲む夫婦茶碗である。その二組の夫婦茶碗は壊れることなく、結婚後55年の現在も毎日使われている)。
〇1970年の「第3の節目」は、女子栄養大学の助手に採用されたことであった。
〇女子栄養大学で教育学を教えていた柴田義松先生から小川利夫先生に話があり、私が女子栄養大学の社会福祉論を担当する助手として採用された。
〇柴田義松先生は、教育科学研究会のメンバーで斎藤喜博先生と教授学部会を作って活躍していた先生で、旧ソ連のレフ・ヴィゴツキーの『思考と言語』の翻訳者でもあった(柴田義松先生は1985年に東大教育学部助教授に転出、のちに教授。日本教育方法学会会長。柴田義松先生の影響もあって、スイスの心理学者・ピアジェの『言語と思考』を齧ったりした)。
〇女子栄養大学の助手の話があった際、私は東大大学院の博士課程に在籍したまま、助手になれるなら受諾しますと生意気にも条件を出し、それが認められて大学院との2重籍で就職した。
〇女子栄養大学の助手の待遇は、一般事務職員と同じように朝から夕方まで勤務する形態で、朝出勤すると出勤簿に押印しなければならなかった。授業を担当する助手なのに、一般教養科目を担当する教室(教授3人)の掃除、お茶くみ、雑務を命じられた。他の実験系教室の助手は助手とは名前が付いているものの、副手か事務職員のような扱いであった。
〇東大紛争を見てきたものにとって、これは看過できないので、まず助手会を組織化した。心ある助手たちと話をし、助手会を作り、助手の地位向上のために助手会の機関誌『あしすたんと』を1971年に創刊した。創刊号の巻頭言を筆者は書いており、そこで助手会結成の目的を“女子栄養大学は「食」にかかわる研究をする単科大学であり、その栄養大学における研究等はどうあるべきかを志向しつつ、助手の研究体制を向上させるところにある”と述べている。
〇助手会の滑動もあって、①出勤体制を教授たちと同じフレックスタイム制にできた、②主任助手制度を創設してもらい、待遇改善を図った、③教授会に助手会の代表を出席させることなどの改善が図れた。
〇このような活動を助手会会長として主導したので、講座制の強い実験系の教授に睨まれ、大学院博士課程と女子栄養大学の2重籍は認めないといわれ、3年半で女子栄養大学助手を退職した。いまとなっては、給料をもらえる助手を継続し、博士課程を退学する道を選べばよかったと後悔しているが、その当時は研究者の道を選んだ以上博士課程を全うしたいと考えていた。
〇助手の籍を失ったので、1973年1月から日本社会事業大学の専任講師に採用される期間、東京都職員であった妻の扶養家族になった。当時、男が妻の扶養家族になるという発想がなく、随分もめたそうだが、結果として認めてもらった。収入の面は、三鷹市勤労青年学級の講師をしていたので、それなりにあったが、健康保険面で扶養家族にならざるを得なかった。

➂稲城市社会教育委員と「社会教育推進全国協議会」、「社会教育学会」の活動

〇1970年4月、我々夫婦は東京都南多摩郡稲城町に移住した。稲城町は、1971年に3万人特例市として稲城市に昇格した。
〇稲城市に昇格することもあってか、稲城市教育委員会に社会教育主事が設置されることになった。東京都教育庁からの依頼もあって、小川利夫先生は日本社会事業大学で筆者の2年後輩の川廷宗之さん(後の大妻女子大学教授)を紹介した。当時、日本社会事業大学には社会教育主事養成課程があった。
〇川廷さんとは、顔見知りだったこともあり、かつ筆者が東大大学院で社会教育を専門に学んだ人ということで、弱冠26歳の若さなのにいろいろな機会を与えて頂いた。1969年に設置していた稲城市社会教育委員の会議の委員に筆者を推薦してくれた。
〇早速、稲城市社会教育の礎になる稲城市社会教育委員の会議で、稲城の社会教育の将来像を論議し、1972年に「公民館及び図書館の運営について」と題する答申を出し、①公民館7館構想、②社会教育主事等の専門職の採用、③公民館運営審議会、図書館運営協議会等の住民参加の手立ての保障、④後述する「公民館3階建て構想」の実現を提言する。
〇稲城市においては、それまで公民館や図書館はなかったが、婦人会や青少年委員会による活動が活発で、東京都内でも一目置かれる活動をしていた。
〇稲城に戦前移住してきて、いろいろ生活改善などの活動をしていた当時の社会教育委員の会議の議長の勝山道子さんや稲城市で最初の女性議員になる富永ヨシ子さん等、外部からの移住者がある意味婦人会の活動を活性化させていた。
〇一方、青少年委員活動としては、長坂泰寛さんや川島実さん等の地主層が頑張ってくれていた。
〇社会教育委員の会議は、移住組の人々と地元の土着民である、地主層の白井威さん(後の東京都議会議長、東京都社会福祉審議会でも筆者と同席)等が混在して、“新しい稲城のまちづくり”をしようと活気に満ちた論議をしていた。この時期は、稲城市の公民館の整備計画等これからの稲城市の社会教育のあり方、プランを立てるという楽しい時期であった。
〇社会教育主事も川廷宗之さん以降、毎年のように採用され、浜住治郎さん(現、被団協事務局長)、向山千代さん、霧生久夫(?)さん、霜島義和さんなどが採用され、研究会を作り、稲城の社会教育の楽しい夢を語った。
〇稲城村は明治22年(当時人口3600人、現在9万5千人)に7つの村が合併して発足するが、社会教育委員の会議はその合併した旧村(稲城市の大字単位)毎に一つの公民館を立てるという7館構想という画期的な答申を社会教育委員の会議はした。その構想は現在実現している。新しく大規模開発された地域にも必ずコミュニティセンターか文化センターが設置された。
〇1973年に最初に建てられた公民館は、1960年代に東京都三多摩で論議された「公民館3階建て論」に基づき、1階はロビー及び軽食が摂れるコーナーとホール、2階は社会教育団体事務室(共同使用の印刷機器やロッカーなどを整備)及び集会室、3階は図書館、4階は学習・研修室といった、当時の最先端の考え方を反映したものになった。この公民館には市役所の職員が常駐する保育室を設置した(1947年に制定された児童福祉法の保育所の目的の一つに、女性の社会参加と地位向上のために保育所が必要と考えられていたことを援用)。
〇筆者は、新しくできた中央公民館において、1974年に「住みよい稲城を創る会」(代表大橋謙策)主催の「稲城の福祉を考える集い」を開催した。公民館に約400名近くが集まり、「父子家庭の子育て」、「学校拒否児の課題」、「嫁の立場での舅、姑の介護」の体験発表を聞いて頂き、その後分科会に分かれてグループワークが行われた。体験発表者を探すのには苦労したが、大成功を収めた。「学校拒否児」の親御さんが15名も来られていて、急遽その分科会を作らざるを得なかったことがとても印象的であった。
〇この頃、筆者は江口英一先生が指摘されたように、住民の暮らしを守るためには市町村の社会福祉サービスを充実させることが重要だと考え、稲城市の社会福祉問題にも関心を寄せ、保育所づくり運動や就学援助制度の改善を図っていた。就学援助制度は、文部省(当時)基準でいくと生活保護基準の1・5倍であったが、筆者は1・8倍まで引き上げるべきだと陳情し、結果的に1・6倍になった(当時、長崎県香焼町が1・8倍で、筆者は長崎まで視察に行った)。
〇保育所づくりでは、公民館保育室は設立できたが、保育所の増設はなかなか進まなかった。そうこうするうち、我が家に子どもが産まれ、保育所入所を申請したが、市役所は“保育に欠けることは認めるが、保育所に空きがない”と申請却下の措置決定通知書を寄越した。ご丁寧に、その決定通知書には、“この決定に不服がある場合には、児童福祉法、行政不服審査法に基づき、不服申し立てができます”と書いてあった。
〇筆者は、不服申立制度があることは当然知っており、福祉事務所に電話をして、あれだけ保育所増設の必要性を言ってきたのに、”保育所に空きがない“から措置できないというのなら不服申し立て制度を活用して不服申し立てをします。1週間後に不服申し立て書を提出しますと福祉事務所に通告をした。1週間後、福祉事務所から電話があり、”保育所に空きがでましたので、入所してください“ということで、”不服申し立て騒ぎ“は終わった。
〇筆者は、その後も保育所増設運動や保育料の適正化運動を行い、稲城市保育問題審議会や稲城市社会福祉委員会等を行政に設置させ、住民参加の社会福祉行政のあり方を追求してきた。
〇稲城市では1975年4月に統一地方選挙があり、筆者が代表を務めていた「住みよい稲城を創る会」からも候補者(須恵淳さん。稲城市市議会議員、コマクサ幼稚園園長)がでて、現職の森直兄候補と争ったが、敗退する。そのような敵対行為をした筆者を森直兄市長は、干すことなく、社会教育委員も保育問題審議会の会長も続投させてくれた。のちには、「稲城市地方自治功労賞」まで授与された。
〇敗れた須恵淳さんには、コマクサ幼稚園の副園長として手伝えと言われ、それから10年間、非常勤で副園長を務めることになる。この時は、教育科学研究会で学んだことが大いに生かされた。
〇1970年前後の筆者の滑動は、「社会教育と社会福祉の学際研究」とはいうものの、圧倒的に社会教育分野での活動が中心であった。
〇東大の宮原研究室の研究生にも関わらず、「社会教育推進全国協議会」(国土社の「月刊社会教育」の読者が中心に、1963年に設立され、民主的社会教育推進の全国セミナーを毎年8月各地持ち回りで行っていた。その活動に筆者は参加していた)や修士課程に入学した際には、小川利夫先生の推薦を頂き、日本社会教育学会の会員になった。
〇また、筆者が日本社会事業大学の卒業生で、それなりに社会福祉分野が分る人として認識されていたのか、1960年代末からの東京都立三多摩社会教育会館での障害者の青年学級の調査研究や1970年に東京都教育庁が始めた「市民の自主企画による市民講座」のあり方プロジェクトの「社会福祉コース」の講師を命じられた。
〇立教大学の室俊司先生(東大宮原研究室出身)ともども、都内各地から選ばれた、各地の婦人(当時の使用語)の地域活動のリーダーたちと「自主企画による市民講座」のあり方を論議した。「社会福祉コース」には、練馬区から世良田さん、杉並区から杉山さん、文京区から若林さん、品川区から山口さん、板橋区から手嶋さん、世田谷区から植村さん等、各地域の若手の女性リーダーたちが地域づくりに燃えて参加してくれていた。
〇「社会福祉コース」では、当時出版された「自分たちで命を守った村」(岩波新書)を読んで学習していることもあって、「社会福祉コース」のメンバーで、岩手県沢内村を1970年に訪ねた。
〇当時の、大田祖電村長や、深沢正雄元村長の奥様(当時、沢内村社会福祉協議会の事務局長)、高橋典茂さんらに深沢村政が始めた「自分たちで命を守った村」の理念、活動について話を聞き、感動した(沢内村には、その後もたびたび訪問し、1990年には沢内村地域福祉活動計画「コーリムプラン」を作成し、「コーリム大学」を開催した)。
〇コースの人々とは、東京都教育庁の事業が終わった後も、月1回女子栄養大学の松柏軒で食事を取りながら勉強会を続けた。
〇そんな経緯も作用したのか、1971年の第8回社会教育全国集会では「権利としての社会教育とはなにか」のテーマで基調講演を任された。このテーマは、日本社会事業大学の小川政亮先生の著作『権利としての社会保障』をもじったものであった。その縁で、1972年に、雑誌『都政』に「権利としての社会教育と社会教育行政」という論文が掲載された。
〇1969年には、日本社会教育学会紀要第5号に「社会教育主事の「専門職化」に関する一考察」を書いたし、1971年には『日本の社会教育 第15集 社会教育法の成立と展開』(日本社会教育学会編、東洋館)に「社会教育法制と社会事業―地域福祉を巡る隣保館と公民館」という論文が採択され、収録されている。

➃「社会教育と社会福祉の学際研究」の萌芽と『月刊福祉』への登場

〇1970年に大学院修士課程を修了して、研究者への道が見通せるようになったので、本来研究テーマにしていた「社会教育と社会福祉の学際研究」を隣保館や地域福祉との関りで深めようと考えた。
〇この頃、小川利夫先生、永井憲一先生(法政大学教授)、平原春好先生(東大教育学部教育行政専攻)らと日本教育法学会の設立と研究会が持たれていた。筆者は、その研究会の事務局を担っていたということもあり、1972年に勁草書房より刊行された教育法学叢書第2巻の『教育と福祉の権利』に執筆の機会が与えられた。「へき地教育・夜間中学――貧困の世代継承と「教育福祉」」と題して執筆した。小川先生、永井先生からは「貧困の世代継承」という表現はどうなのだろうかと疑問が出たが、筆者は“貧困が世代を超えて継承されてしまっていることが問題であり、それを断ち切る教育と社会福祉にならなければならない”と言い張り、この表現を認めて頂いた。
〇この論文を書くに当たって、糀谷中学や小松川第4中学(?)等の夜間中学を訪問調査し、夜間中学の先生方との交流や高野実(?)さんが書いた「夜間中学」という本を読んだりした。
〇また、それの延長で、時期は少々後になるが、一粒社から1978年に刊行された『教育と福祉の理論』(小川利夫・土井洋一編)の編集実務を担当し、「社会問題対応策としての教育と福祉―戦前の歴史的構造の一考察―」を書かせて頂いた。
〇そのような研究生活を送っていた折、日本社会事業大学の1年先輩の和田敏明さん(筆者は、和田さんを「ミスター社協」と呼んでいる。全社協の地域福祉部を主に歩き、最後は事務局長、その後ルーテル学院大学教授、『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー・社会福祉協議会の変遷とこれからへの期待及び提言』(香川県社会福祉協議会刊、2024年3月参照))が全国社会福祉協議会の地域福祉部に勤務していたことや、東大教育学部社会教育学科出身の根本嘉昭さん(後の厚生省専門官、立正大学教授)が全社協に就職したということもあり、全社協地域福祉部に出入りするようになる。
〇丁度その頃は、1969年に「コミュニティー生活の場における人間性の回復」(国民生活審議会報告)がだされ、文部省も厚生省も含めて各省庁挙げてコミュニティ政策に取り組んでいた時代である。
〇同じように、全社協も、1971年5月に「地域福祉センター研究委員会報告案」を出す。また、1971年6月には「福祉事務所の将来はいかにあるべきかー昭和60年を目標とする福祉センター構想」(社会福祉事業法改正研究作業委員会報告)が出され、戦前のセツルメントや隣保館の“再生”が謳われたことに感動し、自分が行おうとしている「社会教育と社会福祉の学際研究」はまさに、この地域福祉センター構想を拠点に展開できるのではないかと喜んだ。
〇1971年7月に行われた全社協、神奈川県隣保事業協会主催の「全国地域福祉センター研究協議会」に胸躍らせて参加した。しかしながら、論議の中心は、その当時の隣保館の経営、運営をどうするかということに終始していて、筆者はいたたまれず、隣保館の今後のあり方とその実現のあり方を論議する場ではないのかと質問した。横須賀キリスト教会館の阿部志郎先生が、後日“大橋君はあの時発言したね”と覚えていてくださった。
〇当時の全社協職員の中には、日本社会事業大学卒業生が沢山いた。学部だけでなく、研究科、専修科、短大の卒業生が多くいた。それは、戦後初期に、戦前の海軍博物館の跡地利用で、日本社会事業大学のみならず全社協等の社会福祉団体が一緒に事務所を構えていたことも影響していたのかもしれない。
〇多分、そんなことも影響しているのだと思うが、全社協職員には「社会教育と社会福祉の学際研究」をしている筆者をある意味使い勝手がよかったのかもしれない。1973年11月には、『月刊福祉』に「新しい貧困と住民の教育・学習活動」を書かせてもらっている。また、1977年1月号の『月刊福祉』に「社会福祉のための社会教育―その三つの枠組み・試論―」、1977年10月号の『月刊福祉』に「地域福祉の主体形成と社会教育」という論文を書いている。
〇そのような縁があったからか、全社協出版部の矢口雄三さん(日本社会事業大学の同窓生)の薦めもあって、1978年2月には全社協出版部から『社会教育と地域福祉』を編著として刊行出来た。
〇この編著では、実践編では1960年代から取り組んできた「障害者の社会教育」(西宮市の肢体不自由者の生活学習と町田市の大石洋子(東大教育学部出身の社会教育主事)さんの心身障害者の青年学級の実践を取り上げた)や体系的高齢者の生涯学習を推進していた兵庫県の「いなみ野学園」等を取り上げた。
〇また、地域福祉分野の実践では、山形県社会福祉協議会が推進していた地域保健活動である「かあちゃんの病気をなくす運動」を渡部剛士先生に、ノーマライゼーション思想に基づくまちづくりとして、田代国次郎先生(当時東北福祉大学教授)に「福祉モデル都市」第1号になった「仙台・福祉のまちづくり」について書いて頂いた。
〇理論編としては、「教育と福祉」の理念・構造や「教育と福祉」の歴史的系譜等筆者が書き留めてきた論文を収録させて頂いた。
〇1972年から日本社会事業大学の非常勤講師を務めていたこともあり、日本社会事業大学の小川政亮先生には『扶助と福祉』(至誠堂、1973年刊)に「『世帯保護』の原則と「教育を受ける権利」、「入院助産制度―子どもの私有性と社会性」、「母子家庭と世帯の自立助長―母子福祉資金問題」を書かせて頂いた。
〇また、鷲谷善教先生には、1973年刊の『社会福祉労働論』(鳩の森書房)で「児童指導員解雇事件に内在する課題」という論文を書かせて頂いた。この論文は、児童養護施設に根強くあった、模擬家庭観に基づく実践と“滅私奉公的職員論”の在り方を批判し、科学的支援論の必要性を問うたものであった。

➄1974年4月に母校の日本社会事業大学の専任講師に就任

〇小川利夫先生が「教育制度検討委員会」の事務局長に就任されるなど忙しくなり、かつ名古屋大学への転出も決まっていたので、日本社会事業大学には、1972度から非常勤講師として勤めていた。
〇この当時は、聖心女子大学(橋口菊先生、東大教育学部社会教育専攻)、千葉大学(福尾武彦先生・社会教育学、中島紀恵子先生・看護学)、成蹊大学で社会福祉論を教えると同時に、和光大学で社会教育を教えた。和光大学では、講義の他に、非常勤にも関わらずゼミナールも担当し、12年間教えた。
〇1974年4月、母校の日本社会事業大学の専任講師に就職できた。実は、この時、東京学芸大学の小林文人先生(九州大学教育学部出身、社会教育推進全国協議会のメンバー)から、社会教育担当の講師で来ないかと言われていたが、小林先生には、申し訳ないが、もし日本社会事業大学で採用されなかったら東京学芸大学にお世話になりますといって、正式決定を待って頂いた。結果として、東京学芸大学をお断りして、母校の日本社会事業大学に専任講師として就職した。その選択には、母校というだけでなく、「社会教育と社会福祉の学際研究」をするのには、日本社会事業大学の方が研究環境的にいいと考えたからである。
〇1974年4月、正式に日本社会事業大学専任講師として就職できた。仲村優一先生から辞令を交付されたが、その折、仲村先生に、”先生、この給料の額は、準保護世帯の基準ではありませんか。何とかならないのですか”と聞いたら、”この基準は国家公務員の給料表に準じているのでどうにもならない”といわれ、給与の低さを実感した。
〇就職に当たって、仲村優一先生と五味百合子先生(戦前の日本女子大学社会事業学科卒業、戦前の社会事業講習会の修了者、日本社会事業大学では研究生活をせず、学生課長として一貫して学生指導(学生を守る)に従事した)から言われたことは、”日本社会事業大学の教員は、研究者として日本の社会福祉界に貢献することは大切であるが、それ以上に学生の教育・指導をしっかりして欲しい。日本の社会福祉界を向上させるために、学生をしっかり育てて、卒業させることを重んじてほしい”と説かれた。
〇この考え方を筆者は守り通したと自負している。2年次、3年次のゼミナールで、学生の興味・関心に即して、いくつもの「小ゼミ」を作り、「小ゼミ」のテーマを共同研究させ、親ゼミで報告させるとともに、「小ゼミ」毎にテーマに即したゼミ論文集を書かせ、それを持って”温泉付き、お酒付き、スキー付きのゼミ合宿“を毎年行ってきた。
〇後日談になるが、1989年には、当時の平田富太郎学長の提案を受けて、日本社会事業大学「大橋ゼミ」開設15周年を記念して、第1回の「大橋ゼミ」卒業生の「ホームカミングデー」を開催した。
〇それ以降、5年おきに行ってきた。教員としての筆者も5年間の研究業績を印刷し、参加者に配布するし、卒業生とともに学ぶ機会を作ってきた。
〇2023年10月に第8回目の「ホームカミングデー」を開催し、「ホームカミングデー」の行事は終了させて頂いた。筆者が80歳になったということと、筆者が社会福祉界の実践、研究に目配りをして情報を集め、それに関して論文を書き、その5年間の論文を「ホームカミングー」で配布することが辛くなってきたからである(筆者の情報発信は、その後「老爺心お節介情報」として、現在74号まで発信している)。
〇この「ホームカミングデー」という考え方は、筆者が日本社会事業大学の清瀬移転の際に打ち出した、今後の大学の在り方の一つとして「卒業生のリカレント教育」の場になるべきだという考え方とマッチしていた。

(註1)
「我が師を語る(1)仲村優一先生とソーシャルワーク」
(『ソーシャルワーク研究』115号・2003年秋号所収、相川書房)



(註2)
『故仲村優一先生偲び草―研究業績・社会活動の功績』刊行にあたって(2016年2月14日)

(註3)
「日本社会事業大学名誉教授五味百合子先生お別れの会弔辞」(2009年4月5日)

 

(2025年10月1日記)