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あの頃の福祉教育、その記憶と記録(8):日本社会事業大学大橋研究室「社会教育行政における福祉教育の現状」等―資料紹介―

梅雨空に 「九条守れ」の 女性デモ (さいたま市「三橋公民館だより」/2015年6月提訴)
学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。 (ユネスコ「学習権宣言」/1985年3月採択)

〇全社協(「福祉教育推進検討委員会」)によると、社協が積極的・意識的に取り組むべき「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動である」。福祉教育の本質は、「住民参加と住民自治(市民自治)」、すなわち「平和と人権を基盤にした市民社会の担い手」(『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』全社協・全国ボランティア活動振興センター、2005年11月、5ページ)を育成することにある。 
〇全社協(「福祉教育実践研究会」)はまた、「住民主体による地域福祉推進のための『大人の学び』」について論究する。すなわち、社協は、「今こそ福祉教育における『大人の学び』について、積極的かつ戦略的に取り組むことを通じ、『地域の福祉力』を高める使命を果たしていくこと」が求められている。「大人の学び」の意義は、「人生をより豊かにするために、自発的に今までの経験や、知識を活かして福祉を学びあい、共生の文化を創造するための実践をすること」にある。社協には、そのような機会を積極的に提供することが求められている(『住民主体による地域福祉推進のための「大人の学び」』全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター、2010年11月、6、7ページ)、という。
〇日本社会はいま、政治と行政の劣化と退廃、右傾化・全体主義化と民主主義の破壊が進んでいる。そうしたなかで、今日、社会教育行政や社会教育施設において「公正中立」という観点や名目で「大人の学習権」を侵害したり、「学習の自由」や「表現の自由」あるいは「公的施設の利用」を規制する動きがある。
〇「梅雨空に 『九条守れ』の 女性デモ」。この俳句は、さいたま市立三橋(みはし)公民館の「公民館だより」(2014年7月号)への掲載が拒否された、74歳の女性が詠んだもの(「九条俳句」)である。彼女は、2015年6月、さいたま市に対し損害賠償と俳句の掲載を求めて訴訟を提起(提訴)した。「九条俳句不掲載損害賠償等請求事件」である。
〇この「九条俳句」訴訟について、原告「補佐人」を務めた佐藤一子先生はいう。本件訴訟の意義は、第1に「国民の学習権を公教育理念として明確化する初めての裁判」であること。第2に「『学習の自由・表現の自由』を保障する『公の施設』としての公民館の公平・中立性のあり方を問う裁判」であることにある。併せて、佐藤先生によると、公民館(社会教育施設)における「政治的課題の学習や政治的な意見表明の自由」は保障されなければならない。すなわち、「社会的問題、現代的な課題の学習」は「奨励」されなければならない。それによって、「積極的シティズンシップの促進(投票行動、民主的な社会の担い手、自覚的に社会に働きかける力、自治能力)」が図られることになる。「公民館だより」は、「地域住民の学習を奨励し学習成果を共有する(中略)欠くことのできない媒体」(第9回口頭弁論、補佐人・佐藤一子「意見陳述書」2017年1月)、すなわち「公民館活動の推進に資する媒体」である。こうした言説から要するに、“法律の素人”である筆者(阪野)にあっても、「公民館だより」への不掲載は「検閲」や「統制」以外の何物でもない。日本の教育(公民館活動等)は危機的状況にある、と思わざるを得ない。
〇周知の通り、「公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする」(社会教育法第20条)施設である。すなわち、公民館は、住民参加と住民自治による“まちづくり”の主体者意識や力量形成を図るための中核的な学習・文化施設であることが求められる。
〇そうだとすれば、大橋謙策先生が「(2010年代以降は)福祉はまちづくり」(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所、2016年11月、335ページ)であると説くことからも、福祉教育はこれまで以上に公民館(社会教育)に無関心や無関係ではいられない。福祉教育は学校教育のみならず、社会教育(公民館)との連携・共働が厳しく問われることになる。しかしこれまで、福祉教育関係者は社協に過剰な期待(理想)や要求を押し付け、一部の実践や研究を除いて、社会教育との「共働」関係を等閑視してきたのではないか。福祉教育は、社協や地域福祉の専売特許ではないことを強く認識すべきである。言い過ぎであろうか。
〇これもまた周知のことであるが、1985年3月にフランスのパリで開催されたユネスコの第4回「国際成人教育会議」で、「学習権宣言」(The Right to Learn)が採択されている。その宣言では、学習権とは「読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である」とした。そして、「学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である」と指摘している。
〇また、ユネスコの「21世紀教育国際委員会」は1996年4月、『学習:秘められた宝』(Learning:The Treasure within 、ドロール・レポート)を発表した。そこでは、生涯学習の視点から、人類発展のための教育のあり方として次の4つの柱を提示した。①「知ることを学ぶ」(Learning to know)、②「為すことを学ぶ」(Learning to do)、③「共に生きることを学ぶ」(Learning to live together)、④「人間として生きることを学ぶ」(Learning to be)、がそれである。
〇①「知ることを学ぶ」については、「十分に幅の広い一般教養をもちながら、特定の課題については深く学習する機会を得ながら『知ることを学ぶ』べきである」。②「為すことを学ぶ」については、「単に職業上の技能や資格を取得するだけではなく、もっと広く、多様な状況に対処し、他者と共に働く能力を涵養するために『為すことを学ぶ』のである」。③「共に生きることを学ぶ」については、「1つの目的のために共に働き、人間関係の反目をいかに解決するかを学びながら、多様性の価値と相互理解と平和の精神に基づいて、他者を理解し、相互依存を評価することである」。④「人間として生きることを学ぶ」については、「個人の人格を一層発展させ、自律心、判断力、責任感をもってことに当たることができるよう、『人間としていかに生きるかを学ぶ』のである」(社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック(第9版)』エイデル研究所、2017年10月、202ページ)、と説いている。こうした考え方については、地域と国と世界のレベルでグローバル化と文化の多様性をめぐる諸問題が複雑化・深刻化するなかで、「学習権」や「まちづくり」、あるいは「シティズンシップ(市民的資質・能力)と市民協働(共働)」などをめぐって自覚的でなければならない。
〇続いて、ユネスコは1997年7月、ドイツのハンブルグで開催した第5回「国際成人教育会議」で、「ハンブルグ宣言」(The Hamburg Declaration on Adult Education)を採択した。それは、「学習権宣言」を修正・発展させたものである。そこでは、「成人教育は1つの権利以上のものになる。つまり成人教育は21世紀への鍵となる。成人教育は行動的な市民性が生み出したものであり、また社会における完全な参加のための条件でもある」ことが強調された。そしてそれを実現するための「未来のアジェンダ(行動目標)」が作成された(『同上書』203~207ページ)。
〇筆者はいま、以上のような認識や理解のもとで、「大人の学習権」や「学習の自由」「表現の自由」などに関していくつかの問題意識と課題意識を持っている。そうしたなかで、筆者が「記憶」をたどって思い出すのは、(1)日本社会事業大学大橋研究室が発行した『社会教育行政における福祉教育の現状』(1977年8月)である。その後、(2)宮城県(1980年度)や秋田県(1981年度)、長野県(1983年度)などが取り組んだ、「福祉学習」を普及するための公民館指定事業である。(1)は、社会教育分野における福祉教育の実態を初めて明らかにしたものであり、「社会教育と福祉教育」のひとつの原典である。(2)については、福祉教育関係者は忘れがちであるが、全社協がいう「大人の学び」の推進を図るためにはいま、再検証と再評価を行うことが必要かつ重要となる。
〇そこで本稿では、まず(1)の報告書と、その理解を深め広げるために、同じ時期に『月刊福祉』(1977年10月号)に掲載された大橋先生の論考「地域福祉の主体形成と社会教育」を紹介する。(2)については、宮城県社協の「福祉学習普及公民館指定事業」に関する資料と、秋田県社協と長野県社協の「要綱」を紹介することにする。そのねらいは、改めて今後の「地域を基盤とした福祉教育」(学校福祉教育と地域福祉教育、すなわち「市民福祉教育」)のあり方について総合的に探究することにある。そして、その背景には、「平和と人権」「学習権と生涯学習」「シティズンシップと共働」等についてのグローカル(Think globally, act locally)な問題意識と課題意識がある。

(1)『社会教育行政における福祉教育の現状』日本社会事業大学大橋研究室、1977年8月、「はじめに」「もくじ」、1~30ページ(抜粋)

(2)大橋謙策「地域福祉の主体形成と社会教育」『月刊福祉』第60巻第10号(60巻記念号)、全社協、1977年10月、106~112ページ(全文)

(3)『昭和56・57・58年度指定 福祉学習と実践 豊かな人間性をめざして』宮城県社協、1984年3月、「はじめに」「目次」5~14、57~61ページ(抜粋)

(4)秋田県社協「秋田県福祉教育推進事業実施要綱」(1981年度~)、長野県社協「福祉学習モデル公民館設置要綱」(1983年度~)
① 秋田県社協「秋田県福祉教育推進事業実施要綱(県社協補助)」等

② 長野県社協「福祉学習モデル公民館設置要綱」等

付記(1)
「九条俳句」訴訟について、さいたま地裁(2017年10月13日判決)と東京高裁(2018年5月18日判決)は、「憲法に保障された住民の思想の自由・表現の自由は最大限に尊重されるべき」として、「公民館だより」への不掲載は「違法」であると断じ、慰謝料の支払いを命じた。しかし、掲載請求は、原告に「掲載請求権」はないとして棄却した。原告とさいたま市は、2018年5月31日、最高裁に上告した。以下に、原告の意見陳述書とさいたま地裁の判決文の一節を紹介しておくことにする。ともに刮目(かつもく)に値(あたい)するそれである(見出しは筆者)。(「九条俳句」市民応援団ホームページ参照)

原告の意見陳述書(2015年9月25日)―豊かな生涯学習―
俳句をはじめてから、興味、関心が広がり、物事をしっかり見るようになってきました。月一回の句会は、多くの事を学べる楽しい場となっています。/昨年6月初旬、銀座で集団的自衛権行使容認に反対する女性だけのデモに出会いました。雨の中、若い人から老人まで、子どもをおんぶしたり、ベビーカーを押している若い母親たちもいて、みんな「平和を守れ」「九条守れ」と声をあげながら行進している姿に自分の思いが重なりとても感動しました。/その時詠んだものが先の俳句です。

さいたま地裁の判決文(2017年10月13日)―教員の呪縛―
Aが、教育現場において、国旗(日の丸)や国歌(君が代)に関する議論など、憲法に関連する意見の対立を目の当たりにしてきたように、B及びCも、上記のような意見の対立を目の当たりにして、これに辟易(へきえき)しており、一種の「憲法アレルギー」のような状態に陥っていたのではないかと推認される。/Cら桜木公民館の職員らも、「九条守れ」という憲法に関連する文言が含まれた本件俳句に抵抗感を示し、(中略)十分な検討を行わないまま、本件俳句を本件たよりに掲載しないこととしたものと推認するのが相当である。

付記(2)
「生涯学習社会」や「知識基盤社会」「21世紀型市民」という言葉だけが躍(おど)っている。内閣府の「生涯学習に関する世論調査」によると、「この1年間に生涯学習をしたことがない」と答えた人は、1992年2月・51.8%、1999年12月・54.7%、2005年5月・51.5%、2008年5月・51.4%、2012年7月・42.5%、2015年12月・52.3%を数えている。これが日本の生涯学習の実態のひとつである。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(7):北海道社協による「福祉教育と学校経営」―資料紹介―

〇北海道社協・北海道ボランティアセンター(現・北海道ボランティア・市民活動センター)福祉教育専門委員会が1992年6月に発行した「ガイドブック」に、『福祉教育と学校経営』(子どもたちのボランティア活動推進のためのガイドブック/子どもと共に歩む シリーズ5)がある。それは、「学校経営の中に福祉教育を生かす」(1ページ)生かし方を纏めたものである。管見によると、この種の冊子(言及)はこれが嚆矢(こうし)であると思われる。その作業に関わり、中心的な役割を果たしたひとりに鳥居一頼(とりいかずより)先生がいる。
〇鳥居先生は、同じ時期(1992年6月)に、札幌で開催された「日本地域福祉学会第6回大会」において、「福祉教育推進のための中核組織機能についての一考察」というテーマで、北海道ボランティアセンター「福祉教育専門委員会」について自由研究発表されている。
〇このガイドブックと学会発表資料によって、(北海道における)1990年代初期の「福祉教育推進上の課題と展望」について考えることができる。本稿はそのための資料紹介である。なお、鳥居先生からはその後、資料のご恵贈を賜ったり、日本福祉教育・ボランティア学習学会の設立(1995年10月)に際して「呼びかけ人」としてお名前を連ねていただいた。感謝である。

(1)北海道社協・北海道ボランティアセンター福祉教育専門委員会『福祉教育と学校経営』1992年6月、「目次」、1~13、35~41ページ(抜粋)

(2)鳥居一頼「福祉教育推進のための中核組織機能についての一考察」1992年6月、1~5、9~11、20ページ(抜粋)

〇学校教育に関していま、従来からの「特色ある学校づくり」「地域に開かれた学校づくり」や、「魅力ある学校づくり」「地域とともにある学校づくり」、今回の学習指導要領の改訂(小・中学校は2017年3月告示、高等学校は2018年3月告示)によって「社会に開かれた教育課程」などの言葉(キーワード)をよく見聞きする。
〇新学習指導要領では、学校と保護者、地域社会との連携・協働を求めて、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)の普及やアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)の導入、カリキュラム・マネジメント(教育課程の編成・実施・評価・改善によって組織的・計画的に教育活動の質的向上を図ること)の確立などが指摘された。また、「何を知っているか」にとどまらず、「何ができるようになるか」(「知識及び技能の習得」「思考力、判断力、表現力等の育成」「学びに向かう力、人間性等の涵養」)の明確化が図られた。新学習指導要領は、小学校は2020年度、中学校は2021年度からそれぞれ全面実施され、高等学校は2022年度から年次進行で実施される。
〇こうした政策動向は、結論的に言えば、学校現場の教育実態や学校と地域社会の協働の実相から遊離した、教育改革の名の下で進められる政治主導の、管理・統制教育の強化を内実とするものである。それは、一連の教育「改革」(現状打破)が財界(政府がいう「社会」)の意向を反映したものであることによる。
〇学校経営は、一般的・概説的には、学校教育目標を達成するために、学校経営方針(学校経営計画)を策定し、それに基づいて「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」の経営資源(経営要素)を有機的・効果的に活用して、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)のマネジメントサイクル(PDCAサイクル)に従って行われる活動である。
〇日本の学校経営の基調は、「文部科学省による統制」「行政主導の学校経営」にある。また、学校や教師の専門性・優位性と保護者や地域住民の依存性・低位性がある。そうしたなかで、いま問うべきは、真に主体的・自律的で組織的・機動的な学校経営をどのように創造するか、そのための経営構造や経営過程、経営環境や経営戦略、そして経営「革新」(未来志向)をもたらすリーダーシップやメンバーシップはどうあるべきか、である。そこでは、すべての教職員と保護者、地域住民の学校経営への主体的・自律的な参加と、学校内外における経営資源の理性的・合理的な連携・協働(共働)が必要かつ重要となる。それが、学校経営(学校づくり)を地域経営(地域づくり)につなげ、その相互連関性を高めることになる。
〇約言・換言すれば、学校経営の基本的な課題は学校教育目標の設定であり、中核的なそれは教育課程の編成である。そして、それは、文字通りの地域社会の実態と児童・生徒の特性を踏まえたものでなければならない。しかも、そのための現場教師の専門的裁量を必要とする。強く留意すべきは、学校教育目標や教育課程を所与のものとして捉え、その具現化や実施の方法・手段の最適化を図るだけの学校経営は、思考停止や画一化を生み出す。そして、学校と地域社会との協働(共働)を形骸化させる、ということである。
〇上述の『福祉教育と学校経営』では、8項目にわたる「福祉教育の現代的課題」(1~2ページ)と「福祉教育を推進する7つの観点」(35~39ページ)が指摘されている。その多くは、今日の「学校経営における福祉教育」の未解決の課題であり、あるいは新たな課題として変容・変質している。また、「7つの観点」は、「学校経営における福祉教育」の基本的な観点である。しかしこれまで、福祉教育を「学校経営」の視点や枠組みで、総合的かつ体系的に論究することはほとんどなかったと言ってよい。
〇「福祉教育推進の中核組織」である市町村社協や設置されている「福祉教育専門委員会」は今日、一部を除いて、1990年代の“輝き”を失っている。地域福祉や社協活動は、「福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」と言われて久しいが、それは単なるスローガンでしかなかった(過去形)、といえば言い過ぎであろうか。
〇とは言え、そこでの言説にすべて首肯するものではないが、未来(あす)に望みをもっていま一度『福祉教育と学校経営』を読み返したい。その際、1990年代の福祉教育を懐かしみ、当時(当初)の理解や思考に固執してはならない。学校や教育は、時代と社会(「財界」ではない)の要請によって変質する。そして、福祉教育は、体制的で実用的な教育戦術ではなく、長期的視野に立ったボトムアップの教育戦略でなければならない。留意したい点である。

追記―鳥居一頼先生からの吉報―
「あの頃の福祉教育、その記憶と記録(7):北海道社協による『福祉教育と学校経営』―資料紹介―」(2018年7月12日投稿)について、鳥居一頼先生から丁重なメールをいただきました。相変わらずアグレッシブに地元で新しい「仕事」を立ち上げられ、また忙しく全国を飛び回っておられます。敬服するばかりです。先生のお許しを得て、メールの一部を「鳥居一頼先生からの吉報」として「追記」させていただきました。鳥居先生の確固たる思想と信念、それに基づく実践、先生がいまも関わられておられる北海道や秋田県の福祉教育・ボランティア学習などについての理解が深まれば幸いです。鳥居先生には衷心より厚くお礼申し上げます。(2018年7月20日)

私は、札幌の自宅に戻り、地域福祉の推進に関わるアドバイザリーな活動をしております。以前、先生の掲げる「市民福祉教育」について、HPで興味深く拝見させていただいておりましたが、私もいまだその必要性を地域に住み暮らす方々と共に考え、実践を積み上げてきているところです。
月形町という小さな町で施設を巻き込んだ初めてのフォーラムを展開しながら、いままさに動いているところでもあります。ここの計画は「あずましプラン」と命名され3年目です。
登別市社協の「地域福祉実践計画」(愛称「きずな計画」)もいまは13年目、3期計画の真っ只中で、市民主体の実践が継承されています。先生の提唱されている「市民福祉教育」創造の場となっています。道内では、まれな事例ですが、機会があれば社協のHPで「きずな計画」をごらんいただければ幸いです。
妹背牛町(もせうしちょう)という3,000人の農村地区では、80歳を超えたリーダが「わかち愛もせうし」の2期計画を行政と一体化して推進しています。閉鎖した街の中央部にあった店舗を、町民が集う拠点「わかち愛もせうし広場」に変えて、NPO法人を立ち上げて運営しています。道内でも話題の住民主体の地域拠点として注目されています。
北海道は夕張が有名になり注目されていますが、私なりに小さなまちの、そこで生きる人たちの福祉へのおもいを形にする仕事に携わりながら、もう少し頑張ってみようかと思っているところです。
ところで、先生のHPで紹介されていた秋田県社協の「学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム」は、現在全共募に勤める笈川氏との共同企画です。編集委員会を一応作って、こちらで用意した原稿をチェックする形ですが、特に教育委員会や行政、施設や学校関係者の名前を入れることで、県社協が福祉教育を推進するための戦略としての「お墨付き」をもってこの冊子を全県に配布するというもくろみでした。それだけに、生半可のものは作れないことと、「わかりやすいもの」「かつようしやすいもの」を念頭に、二人で知恵を絞ったことを思い出します。授業例の一部は現場の先生にも担当して書いてもらいましたが、彼とも一緒に授業を作ってきた仲間でもあり、今はまだ発達障がいのクラスを担当しているかと思います。多くの授業は私が当時出前授業で全国で行っていたものです。いまもまだその教材をもって、子どもとの福祉の授業に未練がましく年間15~20本程度しながら出歩いています。
また、秋田県社協の「活動別全体構造プログラム」は、当時の福祉教育の目標を構造化する上で、東京都ボラセンの活動別の視点を用いながら、私が分析したもので、あのような形で示したものは全国でも初めてだったかと思います。残念ながら、私の実践の弱さがいくつか露見していますが、学校が展開していくときには、その実践が消化しただけで終わることがないよう配慮したものです。一つの実践が多くの可能性に満ちた福祉教育・ボランティア学習の広く深い実践の一つであることを、強く願ったものであったことを思い出しています。
北海道の「子どもたちのボランティア活動推進のためのガイドブック」も、専門委員で現場を持っていたのは私だけだったために、地域懇談会に委員の先生方が行かれる際に、高齢者福祉施設の施設長をされている、私にはかけがえのない方から「俺はさっぱり学校のことがわからないから、話せない。だから、分からない俺にも説明できるように書いてほしい」と懇願され、書き出したものです。
紹介された『福祉教育と学校経営』は、当時全道中学校長会長を歴任された委員長の林先生との共著です。そのときに「鳥居さん、これを書いた以上はあなたも校長になって福祉教育を学校教育の中核に据えた経営をしなければならない」と教示され、その後小学校長を2校経験して、自分には向かないと分かって、途中下車して関西の大学に招かれた次第です。その時の「学校経営」について書いた本が『子どもと学ぶボランティア~「こっちょ」のボランティア授業論~』(大阪ボランティア協会、2008年5月)で、そこでは「子どもを粗末にしない共育」を教育方針に掲げています。いまの教育者に最も必要な子どもと向き合う姿勢や態度、そして理念でもあると考えております。これは、元朝日新聞の論説副主幹西村秀俊氏から伝えられた言葉でもあります。
今また札幌に戻ると、待ち構えたように初代の専門委員長だった平中先生に命じられ、「ハンセン病問題」について、北海道は療養所がなかったために、人権侵害に対する意識が非常に低い。その解決のためには教師の研修が必要だ。だから、その研修プログラムを考えてほしい。道内の先生方を新聞で募集して、初めて東京多磨全生園で札幌弁護士会の若手も参加し、研修会を実施しました。
その後、学校で教えるためのテキストを作らなければならないと考え、参加した先生方や弁護士会の方と共に編集委員会を立ち上げ、「おまえ、もう学校に来るな!」というハンセン病問題を授業化するためのテキストを作成、改訂版も含めて1万部を超える冊子を、道内の全ての小・中・高・大学、そして全国の関係機関・団体にも配布して、評価をいただきました。かかる経費はすべて道が補助金を申請して、その経費を活用したものでした。
フリーになると、いろいろな課題が提供されますね。自分の課題よりも相手にいつも忖度しています。
福祉教育を進める上で、関係性が弱かったのは「医療」ですね。福祉と教育と医療・保健の連動性をなんとかしたいという思いがあったのですが、医療者と接点がなかなかないために、難しいという思いが先立っていましたが、この課題もいま「北海道家庭医療学センター」とのつながりができて、日本で初めて「子どもの診られる力を育てるプロジェクト」を立ち上げて、この夏も札幌の隣の石狩市で特別支援学校の先生方との学習会を実施する予定です。もし興味がありましたら、「北海道家庭医療学センター」のHPから「診られる力を育てる」にアクセスしてください。授業の計画やアンケート分析など、いろいろと面白い資料が眠っています。
ところで、過去の資料が、先生の手によって蘇ってくるというのは、いま学校や地域の置かれている現状は、過去の課題が精算されず、積み上がってきた結果であるのかもしれません。うがった物言いで失礼かと思いますが、いまの政治の、あるいは政治家の無能さと経済の動向、そして学校の管理教育の徹底による人間教師力の低下を見るにつけ、そのツケを払わされる現役世代の、そして子どもたちの今日と明日のために、もう少しやるべきコトが、私にも残っているようです。
毎年10月には秋田県内で10日間ほどいくつかの町を回って、地域福祉や福祉教育に関わる事業に携わります。秋田に関わって、もう27年目です。子どもたちと会うのが一番の楽しみで、「福祉の授業」の深さを味わってきたいと思っています。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(6):秋田県社協による福祉教育「活動テーマ別全体構造プログラム」の作成―資料紹介―

〇筆者(阪野)は昔、秋田県社協の大友義勝さんと親しくさせていただいた時期がある。そのきっかけは、全社協の「学校における福祉教育ハンドブック編集委員会」(委員長:高橋靖直先生・玉川大学)であったと記憶している。記録によると委員の任期は1992年9月から1994年10月であり、編集委員会は1994年3月に『学校における福祉教育ハンドブック』(全社協・全国ボランティア活動振興センター)を上梓した。
〇その後、大友さんには格別のご指導とご厚情を賜った。①福祉教育に関する資料のご恵贈をはじめ、②『明日の福祉教育を考える―ともに生きる心をはぐくむために―』(秋田県社協、1994年3月)の刊行、③日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会(中部学院大学、2000年11月)のシンポジュウムへのご登壇、などがそれである。
〇①については後述するとして、②については、大友さんに大変なご迷惑をおかけすることになった。その冊子に掲載された拙稿「明日の福祉教育を考える」(草稿)についてある筋から訂正を求められたが、筆者がそれを断ったことによる。そのことをめぐって、大友さんには上京された折(1993年5月)に、わざわざ時間を割いていただいたことを思い出す。東京・新橋で、1時間半ほどご教示を賜った。筆者は当時もそしていまなお恐縮に思い、また汗顔の至りである。
〇ちなみに、訂正を求められた箇所は、例えば次の一節である(全部で12箇所)。大友さんらがその筋と協議し、最終的には若干の文言の訂正で終わっている。

〇③については、第6回大会の「基調報告」と大友さんの「レジュメ」の一部を紹介しておくことにする。大友さんは当日の朝、秋田を発たれ、家庭の事情で「シンポジウム」終了後すぐに戻られたと記憶している。恐縮の極みであった。

〇①については、いくつかの資料のうちから、『学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム―子どもの自主性を育む福祉教育の実践を求めて―』(秋田県社協・秋田県ボランティアセンター、1998年2月)を採り上げることにする。そのなかでも、「6 福祉教育推進プログラムの編集方針」(8~9ページ)と「7 プログラムの展開方法 (1)ボランティア活動プログラムについて」(9~10ページ)に注目し、福祉教育の実践活動の「トータルプログラム」(全体計画)を紹介する。福祉教育の現状を鑑(かんが)みたとき、時代背景や地域の状況に留意しながら、いま改めて確認し認識すべき事項である。
〇そこでは、福祉教育実践活動(プログラム)の理念と目的・目標、視点と枠組み、内容と方法、技術(手段)と技能(能力)などの総合性や系統性、関連性や発展性などが明らかにされている。それに基づいて、個別具体的な「授業プログラム」の作成や見直しが期待される。

(1)『学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム―子どもの自主性を育む福祉教育の実践を求めて―』秋田県社協・秋田県ボランティアセンター、1998年2月、14~31、80~84ページ(抜粋)                                  

〇以上に関して一言すれば、プログラムの内容(範囲とレベル)が総花的で平準的過ぎると、目的の実現や目標の達成に向けての焦点化が進まず、学校や地域の歴史や特色、資源を活かした実践活動の展開を困難にする。それは、専門的な知識と技術(技能)や多様な経験と応用力をもった福祉教育の担い手の確保・育成を難しくすることにもなる。留意したい。また、福祉教育推進プログラムにおいては、教育成果の確認・検証の視点や方法、教育内容や教育方法の改善・創造とその手順(「ふりかえり」「リフレクション」)などについての検討が必要かつ重要となる。そのためには、長期的かつ幅広い視野に立ってプログラムの研究・開発を進める体制・環境の整備・構築がより一層求められる。付記しておきたい。
〇さらにまた、福祉教育やそのプログラムについて考えるにあたっては、①問題や課題を発見する能力、②課題を処理し解決する能力、③他者や地域・社会と連携・共働する能力、④情報を整理・分析し企画・立案する能力、⑤提案力とプレゼンテーション能力、そしてそれらに共通し、基盤となる⑥主体的・自律的に思考し取り組む能力、などの育成が問われることになる。改めて確認しておきたい。
〇最後に、私事にわたるが、先日筆者は、富山県南砺市の「演劇・文化の山里 越中五箇山 利賀村」に車を走らせた。そばの郷、瞑想(めいそう)の郷、合掌文化村などを訪ね、天竺(てんじく)温泉の郷で食べた蕎麦と豆腐、岩魚の塩焼きは絶品であった。およそ20余年ぶりのことである。
〇筆者がかつて勤めていた東京・中野の宝仙学園短期大学(現・こども教育宝仙大学)では、1974年度から現在まで「利賀村移動授業」を継続的に実施している。東京から100名ほどの女子学生が、しかも8泊9日の日程で豪雪と過疎の村で知られる利賀村に入ることは、ニュース性の高い話題だったのであろう。毎年のように地元の新聞やテレビは移動授業の様子を報じた。また、短大では、学生が主体になってまとめた『利賀村を知ろう(東五箇山移動授業リポート集)』と題する報告書を刊行・配布した(第1集~第4集、1974年10月~1977年10月)。それらの情報を得て、筆者に連絡をしてくれたひとりの社協職員がいた。富山県社協の野田智さんである。その後、30年近くも富山県の福祉教育にかかわりをもつことになる。
〇短大では、移動授業の10周年を機に、『利賀村移動授業10年の歩み―保育者養成のあり方を考える―』(保育科研究報告書1)を1983年11月に刊行した。その前年の11月、「移動授業」に関して筆者を訪ねてきたひとりの学校の先生がいた。島根県松江市の松徳女学院中学校高等学校(現・松徳学院中学校高等学校)の幸野孝治先生である。また、その1年以上も前に(1981年の6月であったと思われる)、「移動授業・体験活動・福祉教育」などについて山本寿子先生からご連絡をいただき、お目にかかっていた。以後、島根県社協の福祉教育にかかわることになる。山本先生には、いまも福祉教育のご指導を仰(あお)いでいる(本ブログ「ディスカッションルーム」(70)2018年5月15日投稿、参照)。
〇利賀村が筆者の「福祉教育の世界」を広げてくれた。その日、筆者は利賀村を後にして、上述の野田さんに会うために射水市社協に向かった。その夜は食事をしながら、利賀村のことや福祉教育のことどもについて話が盛り上がった。県社協の福祉教育事情について話している時にふと、秋田県社協の大友義勝さんのことを思い出したのである。併せて、大友信勝先生(聖隷クリストファー大学大学院)のことも思い出していた。本稿を草することにしたきっかけである。帰途の車のなかでイメージしたタイトルは、「人の出会いとつながり、まか不思議!―『利賀村移動授業』と福祉教育―」であった。
〇蛇足ながら、「利賀村移動授業」の趣旨のひとつは、「利賀村の生活や文化を体験的に学ぶ。全く異なる地域社会・生活環境での自発的・自律的・体験的活動をとおして創造性やコミュニケーション能力を養う」(『10年の歩み』27ページ)ことにあった。我田引水のそしりを免(まぬが)れないが、いまにして思えばそれは「まち学習」や福祉教育にも通底するものであったのではないか。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(5):広島市社協による「地域にねざす福祉教育」―資料紹介―

〇1990年以降、「地域で福祉教育を推進する体制の整備」が図られ、福祉教育実践は「地域展開の時代」に入ったと評される。そのひとつに広島市社協による取り組みがある(全社協・全国ボランティア活動振興センター『福祉教育モデル事例集 地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』1996年3月、41~46、83~84ページ)。

〇広島市社協による「福祉教育推進事業」は1989年度から始まる。それ以降の取り組みで筆者(阪野)が先ず思い出すのは、「総合指定方式」(1989年度~)である。それは、福祉教育の学校指定(小・中・高等学校)に併せて、地域(地区社協)や福祉施設を市社協が独自に指定し、総合的・継続的な福祉教育の推進を企図したものである。
〇「福祉教育推進委員会」(1991年7月)の設置とそれを改組した「福祉教育推進協議会」(1996年7月)、「福祉教育推進マニュアル」(1994年7月)の策定とそこでの「福祉教育を推進するための7つの提言」なども思い出される。
〇「福祉教育推進委員会」「福祉教育推進協議会」は、福祉教育の計画的・組織的な推進・振興を図るために、福祉・教育関係者の連絡・調整や連携・協働、福祉教育の調査・研究などを行う組織(「問題別委員会」)である。「福祉教育推進マニュアル」は、それまでの福祉教育の成果と課題を集約するとともに、具体的な展開手法を示したものである。「福祉教育を推進するための7つの提言」は、福祉教育の位置づけと取り組みを「福祉教育推進計画的な視点」から捉えて整理し、その方向性を提示したものである。そこでは、「ノーマライゼーション」や「福祉のまちづくり」の理念のもとに、学校教育のなかでの子どもに限らず、広く地域や成人も含めた幅広い福祉教育の推進が強調されている。
〇以上を要するに、広島市社協が取り組んだ福祉教育の特色のひとつは、「地域にねざす福祉教育のすすめ」である。
〇周知のように、福祉教育の全国的な展開は、1977年度に創設された「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)から始まる。広島市社協は、その実施を12年間も見送った。それは、学校現場や教育委員会の理解と協働を得るための条件整備に時間をかけた(時間がかかった)ことや、福祉教育を福祉のまちづくりと地域福祉の推進を図るための事業・活動としてしっかりと位置づけようとしたことによるのであろう(推進体制の組織化)。それは誠意に基づく「静かな闘い」でもあったろう。それらの背景には、平和教育や人権教育(同和教育)の取り組みと積み上げがある。その点にも留意しながら、本稿では、広島市社協による「地域にねざす福祉教育」の資料紹介を行うことにする。その多くの資料については、当時から、堀田稔先生(元広島市社協、広島文化学園短期大学)や菅井直也先生(広島文教女子大学)らのご高配を賜っている。記して謝意を表したい。

(1)広島市社協『地域にねざす福祉教育のすすめ―福祉教育推進マニュアル―』1994年7月、「刊行にあたり」「目次」、1~10、192~193、224~225ページ(抜粋)

(2)広島市社協『地域にねざす福祉教育のすすめ―福祉教育推進マニュアル―』(ダイジェスト版、1998年)1998年11月(1996年3月初版)、「福祉教育を推進するための7つの提言」「目次」、1~21ページ(全文)

(3)広島市社協『地域にねざす福祉教育をめざして―福祉教育推進事業10周年記念大会―』1998年11月、「開催要項」「開会行事」「もくじ」、1~13、77、79~81、92~93ページ(抜粋)

〇菅井直也先生の次の玉稿を紹介しておきたい。福祉教育の「産みの苦しみ」を思い出す、興味深い論稿である。
①「福祉教育の推進体制に関する一考察―協力校指定をめぐるH市の事例から―」『鈴峯女子短期大学人文社会科学研究集報』第40集、1993年12月、1~26ページ。
H市における福祉教育推進のための取り組みの推移を「福祉教育指定校」の導入過程に焦点をあて、約10年間にわたってトレースし、外部からのはたらきかけに対する学校および教育委員会の閉鎖性と、これに対する地域の民間団体からの慎重なはたらきかけの事例を報告している。
②「福祉教育に対する地方教育行政当局の認識―某市『福祉教育推進マニュアル』の場合―」『鈴峯女子短期大学人文社会科学研究集報』第41集、1994年12月、1~11ページ。
教育現場あるいは教育行政機関における福祉教育や社会福祉そのものに対する認識を探る一環として、ある市における『福祉教育推進マニュアル』の作成過程において、教育委員会の担当部局が行った同マニュアル草稿への校閲内容に着目し、この内容を分析することにより、教育関係者と社会福祉関係者の福祉理解の相違や、福祉教育推進にあたって生ずる具体的な食い違いの内容を明らかにしている。

付記
筆者にとっては、政治家(政治屋)や官僚の世界でいま流行りの「忖度」(そんたく)よりも、一部の福祉・教育の組織や個人にみられる「不誠実」や「姑息」「狡猾」、「共生」をとなえながら他方で地位や権力に対する「憧憬」(しょうけい:あこがれること)の念を抱くことのほうが怖い。教育の統制や福祉の後退、民主主義の空洞化に“貢献”するからである。そんなことを思うなかで、菅井先生の玉稿②の本文(全文)と表4~表7(表4:3~4、表5:4、表6:5~6、表7:6~8ページ)を付記することにした。よほど気骨のある学校や社協でないと「福祉教育」は護れないし、推し進められなくなっている、と思うのは筆者だけであろうか。

備考

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(4):「福岡市身体障害者福祉協会」「コミュニティおきなわ」 による「障がい者主導の福祉教育実践」―資料紹介―

〇筆者(阪野)の手もとに、1990年代後半の「あの頃の福祉教育」実践のひとつを思い出す、「つづりひも」で綴(と)じた2冊の資料がある。①「出前福祉体験学習」に関する資料/福岡市身体障害者福祉協会/1998年9月、②「障害者による福祉教育プログラム」/コミュニティおきなわ/1998年11月、がそれである。そこで学んだことのひとつは、「自立生活支援」「まちづくり」「リハビリテーション」「ノーマライゼーション」「共に生きる」「平等と豊かさ」などの福祉教育実践のプロセスを支える基本的な理念(考え方)であった。そこに通底するのは「障がい者の視点」「障がい者による福祉教育づくり」である。
〇「福岡市身体障害者福祉協会」は、福岡市の肢体・視覚・聴覚・難聴の各障がい者団体で構成している「当事者団体」である。1950年に設立され、1978年に財団法人化、1998年に社会福祉法人化(財団法人は解散)し、障がい者の自立と社会参加を推進する当事者団体としてのミッションと福祉サービスを提供する事業体としてのミッションを担っている。「コミュニティおきなわ」は、市民参画のまちづくりを応援するための人材養成やネットワークづくりの研究開発を行う「市民団体」である。1994年に設立され、2001年にNPO法人化、2011年に株式会社化(「コミュニティおきなわまちづくり株式会社」に組織変更)し、そして2014年に解散している。
〇先ず、福岡市身体障害者福祉協会の「障害者福祉体験学習の出前講座」(略称「出前講座」)に関する資料を紹介することにする。それは、協会(福岡市障害者社会参加推進センター)の大坪光夫さんからご恵贈いただいたものである(1998年9月18日付、1999年5月25日付)。
(1)福岡市身体障害者福祉協会「障害者福祉の体験学習をされる学校・団体にお願い」等

(2)福岡市身体障害者福祉協会『ときめき福岡』No.75、1998年3月、1ページ(抜粋)

(3)福岡市身体障害者福祉協会「障害者チームによる小学校への『出前福祉体験学習』の効果―思いやりの心と自立への勇気を共感させる―」(全文)

〇次に、コミュニティおきなわが1998年5月に刊行した『障害者が福祉教育をになう―考え方とプログラム―』(研究レポート)等から、福祉教育プログラム例を抜粋して紹介することにする。そのレポートは、コミュニティおきなわの代表・石原絹子さんから入手したものであるが、石原さんからはご丁寧な返信を頂戴している(1998年10月12日付)。以下がその一部である。

この事業は今年で3年目に入ります。障害者も一市民として、その体験、個性をいかした社会貢献活動(フィランソロピー)をやろう。その際に、異業種でネットワークをくむことにより、効果性をひき出そうとするのが、「コミュニティおきなわ」の活動方針です。しかし、障害者自身がこのような考え方のコンセプトづくり(が)できているかというと、そうでもなく、今後さらに話し合いや学習が必要かと思います。
同封の研究レポートは障害者の視点から提案したものですが、これをさらに検証し、「学校で有効に使えるにはどうしたらようか」という視点で、学校マルチメディア研究会(小学校の先生方の自主研究会)と提携研究を始めております。今年度中には、「研究レポート・シリーズ2」を出版する予定です。
この研究レポートをもとに、今後どのように事業発展させていくかも、課題であり、コンセプトづくりもこれからです。金銭がからむ問題もあり、デリケートなむつかしい点もあります。

(4)コミュニティおきなわ「福祉教育プログラム事業から生まれた卵~異業種交流ネットワークから~」

(5)コミュニティおきなわ福祉教育部会企画・編集『障害者が福祉教育をになう―考え方とプログラム―』(研究レポート)コミュニティおきなわ、1998年5月、「目次」、1~2、25~69ページ(抜粋)

(6)コミュニティおきなわ『ガジュマルの木の下から』No.11、1998年10月、1~5、8~9ページ(抜粋)

〇筆者は、以上の資料(「記録」)から、福祉教育に対する熱い思いと「障害者が福祉のまちづくりを推進する」(大坪)、「障害者の立場から福祉教育の一翼を担う」(石原)という提言に、福祉教育実践の新しい動きや視点・枠組みとして注目したことを思い出す(「記憶」)。
〇周知のように、1995年は「インターネット元年」と言われ、2000年以降はインターネットの普及が急速に進んだ。筆者もパソコンやインターネットを通じて情報収集をする以前は、「足」や「紙」を使うしかなかった。その際、心情や意見、悩みや問題などを吐露する話や書簡をいただいたものである。それは時に主観的・心情的な表現ではあったが、その言葉のはしばしから重要な気づきやヒントを得たことも確かである。時代はすでに、「いまはむかし、自宅(屋内)でパソコンを使って情報収集する翁(おきな)ありけり」であろうか。ただ、「足で稼ぐ」(「発見の旅をする」)ことの大切さや面白さは昔もいまも変わらず、「人情の機微に触れる」ことが改めて重要な課題になっていると思われる。話(情報)の統制管理が進むなかで「上から」の情報を鵜呑みにしがちである、いまにおいてである。
〇福祉教育の推進を図るためには、子ども・青年や地域住民の学習活動を効果的なものにするための指導者(支援者)を必要不可欠とする。福祉教育指導者の確保と養成・研修それに活用は、福祉教育の「かなめ」である。学校における福祉教育の指導者は通常、教師である。地域における福祉教育にあっては、指導者を固定的にとらえることは難しく、社会福祉や社会教育などの関係者を中心にしながらも、多様な人々がそれぞれの特定の領域や機能に限定した指導者となる。福岡市身体障害者福祉協会やコミュニティおきなわの取り組みを通して、福祉教育の指導者(支援者)のあり方をめぐって学んだことは次のような諸点である。
(1)障がい者は、福祉教育の指導者としては素人であるが、提示する学習内容や学習方法の用い方によって、子どもや教師、保護者や地域住民の福祉教育への関心・意欲・態度に影響を与えることになる。時には子どもと教師のあいだにあって意思の疎通を図ったり、学習効果を高める役割を果たすことになる。
(2)障がい者による福祉教育実践は、車椅子、アイマスク、点字、手話、盲導犬などの福祉体験学習にとどまりがちである。その体験学習は、子どもや教師が障害や障がい者、そして障がい者のライフ(Life:生命、生活、生涯)に対する理解と関心を深め、それを通して地域・社会について関心と愛着をもち、福祉によるまちづくりのための具体的な活動や運動への参加(参集、参与、参画)を促すものでなければならない。
(3)障がい者が日常の生活体験を通じての住民性や福祉・教育行政からの自律性を確保するためには、子どもや教師との自由な思考に基づく人格的な交流を必要不可欠とする。そこでは、指導者としての障がい者は、子どもや教師との交流を通して学習者にもなり、学習者としての子どもや教師も指導者となる。「共学」「共育」、そして「共生」である。
(4)障がい者が自己の経験や知識・能力などを生かして子どもや教師の指導・助言・支援にあたることは、自己の経験や知識をさらに豊かなものにする。とともに、生きがいの創造や社会参加・地域貢献の促進を図ることになる。すなわち、障がい者による学習指導活動は、それ自体がそのまま自己表現や自己実現、さらには社会還元の活動でもある。
(5)福祉教育指導者としての障がい者を、豊かな経験やある意味で専門的な知識・技術を有する者に限定することは、学習指導の地域性や住民性の定着を困難にする。個別的な経験や知識・技術ももたないいわゆる一般の障がい者も指導者に組み入れ、その確保と養成・研修を図ることが肝要となる。それによって、地域に根づいた、住民同士の、身近な福祉教育実践の展開が可能となる。
(6)福祉教育の場や機会に多様な障がい者が出会うことによって、仲間意識や連帯感を生み、福祉によるまちづくりへの連携・共働活動を促すことになる。また、障がい者の学習指導は、その障がい者が所属し、日頃活動する障がい者団体やグループの事業・活動との関連において展開を図ることが肝要となる。それを通して、その団体・グループの活動を活性化することにもなる。
(7)とりわけ地域における福祉教育実践は難しい。その主な要因は、学習者(地域住民)の属性や生活の実情、それに基づく発達課題や生活課題、学習要求や学習必要などがそれぞれ異なるところにある。その点において、福祉教育実践プログラムの企画・立案と障がい者の指導内容や指導方法に定型はない。また、「プログラム例」(モデルプログラム)はひとつの「試案」にすぎず、評価と修正が常に求められる。

付記
参考文献として次の2点をあげておくことにする。
(1)『福祉教育ワークブック―福祉教育プログラム研究委員会 平成10年度研究報告書―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、1999年3月。
(2)横田清「障害者による社会貢献『福祉教育への参加実践』」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』Vol.5、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2000年12月、66~86ページ。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(3):京都市における「福祉の風土づくり」運動と福祉教育―資料紹介―

〇「福祉の風土づくり」運動というと、筆者(阪野)はまず、1970年代に始まる京都市(1973年)と横浜市(1974年)の取り組みを思い出す。横浜市では、1974年に「福祉の風土づくり推進委員会」(会長・富田富士雄)が設置され、翌1975年に策定された次のような基本理念のもとで、ソフトとハードが一体となった「福祉のまちづくり」の推進が図られることになる。「社会福祉は、住民による主体的な地域福祉活動に基盤をおいてこそ真の実現ができる。このような視点から市民の間に社会福祉への関心を高め、理解を深め、市民と行政が協力して福祉のための生活環境を整備し、『高齢者・子ども・障害者等すべての市民が生活し活動できる横浜市』を実現しようとするのが本事業の基本理念である。したがって、本事業は市民と行政による福祉意識の変革のための運動と障害者や高齢者を阻害してきた物的生活環境を整備する新しい街づくりが有機的に結びついて展開されなければならない」(横浜市地域福祉計画策定・推進委員会/横浜市『「誰もが安心して暮らせるまち」~横浜市地域福祉計画(全市計画)~』2004年5月、8ページ参照)、がそれである。当時の横浜市長は、革新の飛鳥田一雄(任期:1963年4月~1978年3月)であった。なお、周知のように全国の革新自治体は1960年代中頃から急増し、1970年代半ばに最盛期を迎え、市民本位や市民参加の促進、市民生活の重視や自治体福祉の拡大などを図った。しかし、1980年代に入ると革新自治体は後退し、その姿を消していった(「熱狂と挫折」)。
〇「京都の、安藤です‥‥‥」。2018年1月2日、新年最初の留守番電話のメッセージであった。「‥‥‥?」。「もしかして‥‥‥!」。2月27日、三重県四日市市で、安藤和彦先生を囲んで、筆者と教え子たちとで一献交わすことになった。昔話に花が咲くなかで、あの頃、安藤先生から福祉教育に関して格別のご教示やご高配をいただいたことを再認識した。お互いに歳は重ねたものの、いろいろな「記憶」がよみがえり、楽しいひと時であった。心地よい京都弁と、多様な(社会事業史、児童福祉、保育者養成等々)しかもシャープな切り口の話はあいかわらずであった。
〇本稿では、1970年代から1980年代中頃にかけての京都市における「福祉の風土づくり」運動と「福祉教育」に関する資料(「記録」)を、筆者の手もとにあるものに限って、時系列に沿って紹介することにする。その多くは安藤先生からご恵贈いただいたものである。
〇なお、当時の京都市長は、革新系として初当選した舩橋求己(任期:1971年4月~1981年7月)であり、京都府知事は、東京都の美濃部亮吉(任期:1967年4月~1979年4月)や大阪府の黒田了一(任期:1971年4月~1979年4月)らとともに、革新首長として名を馳せた蜷川虎三(任期:1950年4月~1978年4月)であった。

(1)福祉の風土づくり推進協議会「福祉の風土づくり推進協議会設立趣意書」1973年11月(全文)

(2)福祉の風土づくり推進協議会『福祉についての教育に関する意見調査』1977年8月、2~11、31~32、44~48ページ、「役員名簿」(抜粋)

(3)福祉の風土づくり推進協議会『福祉教育ガイドブック―教師のためのQ&A―』(編集責任:小倉襄二・安藤和彦・加藤博史)1982年9月、「まえがき」「目次」(抜粋)

(4)京都市社会福祉審議会「高齢化社会に対応する老人福祉の総合的な施策のあり方について」(答申)1984年3月(抜粋)

(5)京都市社協・福祉の風土づくり推進協議会編『京都市における福祉教育の実践―福祉協力校3カ年の歩み』1984年3月、「はじめに」「目次」、32、51~72ページ(抜粋)

(6)福祉の風土づくり推進協議会・京都市社協『小学校 福祉教育の手びき』1985年3月、「はじめに」「手びきの利用にあたって」「目次」、1~5、16~17ページ(抜粋)

〇以上の資料からまず、京都市における「福祉の風土づくり」運動と福祉教育は、「福祉の風土づくり推進協議会」の設立(1973年11月)、市内の公立小・中学校の教員(520名)を対象にした「意見調査」の実施(1975年9月実施、1977年8月報告)、「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(福祉協力校事業)の開始(1981年度から)、学校現場の教員のための『福祉教育ガイドブック』の作成(1982年9月発行)、福祉協力校による「福祉教育の実践」報告(1984年3月)、社会福祉審議会答申での「高齢者の自己教育と福祉教育」の言及・提案(1984年3月)等々、計画的・系統的かつ組織的に取り組まれたといってよい。
〇次に、福祉教育の志向性や可能性などに関しては、「意見調査」に関する安藤和彦先生と加藤博史先生のコメントに注目しておきたい。安藤先生はいう。福祉教育が、いかに、“福祉”の「理念」と「現実」の乖離をうめることができるか。それを棚上げにして、単に「知識教育」「躾(しつけ)教育」「押しつけ教育」に終ってしまうならば、何ら現状の反社会福祉的状況の変革のエネルギーとはならない。いま、真に必要なのは、「タテマエ」を乗り越え、「ホンネ」に切迫し、それを変革するための意識変革(自己変革)である。そのような「福祉教育」を通じて、地域社会における福祉意識や福祉基盤の形成ができ、真の意味での「福祉の風土づくり」の下地ができるのではないか(『意見調査』45~46ページ抜き書き)。
〇また、加藤先生はいう。“福祉教育”とは、ヒューマニティに関する感性や知性や勇気についての教育である。教育の根本にはヒューマニズムがあり、本来の教育を発展させていくことが、まさに“福祉教育”にほかならない。“福祉教育”においては、教育の手段や動機である共在性・共感性が目的そのものとなる。“福祉教育”すなわち人間が共に在ることのための触発的営為は、知的訓練などとは根本的に異なり、人間が共にある、全体的にふれあう場の設定を通してのみ真に可能なのである(『意見調査』47~48ページ抜き書き)。安藤先生と加藤先生の言説について改めて認識しておきたい。
〇そして、京都市の取り組みでいまひとつ特筆されるのは、社会福祉審議会答申で「高齢者の自己教育と福祉教育」について言及・提案されたことである。「高齢者自身の自己実現を目指す自己教育と同時に、市民各層に対する福祉教育を重視する必要がある。この福祉教育の場として、学校教育と社会教育があるが、これらを通じて、高齢者と市民各層との交流と学び合いが、高齢化社会に向けて、いっそう重視されなければならない。したがって、これからの高齢者の自己教育と福祉教育は生涯教育の観点においてとらえていくことが大切である」。「人権の尊重や相互の連帯、あるいは人間としての優しさなどを学ぶ福祉教育をすべての学校に位置づけていく必要がある。その中で、青少年と高齢者との理解と交流の場や機会ができる限り設けられていくべきである」。再確認しておきたい。
〇「福祉の風土づくり」(「福祉のまちづくり」)に通底する概念に、地域の「福祉力」と「教育力」がある。福祉力は、人的/物的、ソフト/ハード、フォーマル/ノンフォーマル/インフォーマル、潜在的/顕在的、などの構成要素から成る。教育力は、地域の歴史や文化、自然/社会規範や生活体験/地域の機関・施設・団体やその活動、などがもつ教育力に大別される。福祉教育のあり様は、この地域の福祉力と教育力が形成・発揮されている状況やその程度(力量)によって規定される。「福祉の風土づくりのための福祉教育」とともに、「福祉教育のための福祉の風土づくり」についても留意したい。
〇なお、「福祉力」と「教育力」に関して、福祉サービスの必要者や利用者は人的な福祉力であり教育力である、ということについて一言しておきたい。すなわち、地域住民としての福祉サービス必要者・利用者がもつ意識や知識、能力や経験は、有力な地域の福祉力・教育力である。また、それとして高められ発揮されるための条件整備や環境醸成が図られなければならない。その具体的な方策のひとつが福祉教育である。そのねらいは、権利意識や自治意識をもって能動的・自律的・積極的に福祉サービスの必要性を認識し、そして利用する。とともに、福祉制度・サービスの問題点などを指摘し、その改善・整備や新たな福祉制度・サービスの開発・創出のための活動や運動に参加(参集、参与、参画)したりする主体形成を図ることにある。そうした福祉サービスの必要者・利用者はまた、直接的・間接的に周りの関係者に偏見・差別・不平等の実態や反福祉的状況などについて関心を喚起し、地域・社会を教育・啓発する。福祉と教育はコインの裏表の関係にあり、「福祉のない教育はない」のと同一に、「教育のない福祉はない」のである。「福祉の風土づくり」運動の主体形成とともに、福祉サービスを必要とする・利用する主体をいかに形成するかは福祉教育の重要な問題であり課題である。強調しておきたい(阪野貢『福祉のまちづくりと福祉教育』文化書房博文社、1995年5月、159~165ページ参照)。
〇「福祉の風土づくり」に関わる福祉教育の近似概念に、「まちづくり教育(学習)」や「地域教育(学習)」「環境教育(学習)」などがある。それらの教育(学習)は、まち・地域を知ることから始まり、まち・地域づくりについての意識をもち、思考・判断・理解し、考えを共有し、行動(「共働」)するための営為である。教育(学習)は「何かが変わること」(林竹二)であり、「新しく動くこと」である。その営為を通して自己覚知や内省が促され、意識変革、行動変容、そしてその結果として地域・社会改革が進む。周知の基本的なことながら、最後にあえて付記しておきたい

参考
以下の「横浜市福祉のまちづくり 条例制定から現在までの経緯」は、2015年8月に開催された「第38回 横浜市福祉のまちづくり推進会議」に配付された資料のひとつである(横浜市ホームページより)。なお、「平成28年3月(予定)」の「横浜市福祉のまちづくり推進指針(改定版)」は、同年同月に決定・公表された。

補遺(2018年6月8日)
(7)小倉襄二『教育の課題としての市民福祉』福祉の風土づくり推進協議会、1978年7月(全文)

〇以上の小倉の言説から、次の一節をメモっておくことにする(要約)。
・ 「福祉の風土づくり推進協議会」は、「市民福祉」を支え展開させる「運動体」である。(34ページ)
・ 「社会福祉」は制度的くくりという意味が強い。「市民福祉」というのは、市民の日常性からニード・ペースで、その視角から福祉問題を再点検し、再討議しようということである。(23ページ)
・ 制度論も大切であるが、福祉に関わる物の見方、考え方・価値観、すなわち「思想性」が大切である。(24ページ)
・ 「社会正義」への問いかけとしての福祉課題というものは、非常に切実な教育現場の課題である。(29ページ)
・ 制度論を教えるだけでなく、基本的に、子どもたちの性格形成のなかに福祉に関わる非常にゆるやかな、ソフトな「指向性」が芽生えるような工夫が求められる。(29ページ)
・ “意識における変革”市民福祉にむかっての“市民意識への指向性”を作る必要がある。(33ページ)

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(2):岡尚志「山梨における福祉教育の試み」等―資料紹介―

〇1980年代における福祉教育実践で忘れられないものに、山梨県ボランティア協会の「福祉講話」がある。その発案者である岡尚志さん(享年72)の福祉講話に対する熱く強い思いは、並大抵ではなかった。ボランティア協会や甲府市内の学校にお邪魔して、いろいろとご指導いただいたことが思い出される。
〇岡さんの基本的な考え・思い(意思)やこころざし(意志)のひとつは、地域にねざした「ボランティア運動」の推進を図るなかで、「福祉の風土をもつ地域づくり」を進める。そのためには子どものころからの福祉教育やボランティア体験が必要かつ重要となる、というものであった。
〇福祉講話は、ボランティア協会に出入りする子どもたちとの関わりのなかで、「ふとした思いつき」から取り組んだ試みである。ボランティア協会に隣接する春日小学校(当時の校長は伊藤基先生)の体育館に集まったおよそ600人の生徒の前で、ひとりの視覚障がい者が自分の生きざまについて語った。1979年11月、第1回の福祉講話である。
〇岡さんはいう。福祉講話は、障がい者の単なる「体験発表の場」ではない。躍動する人間回復のエネルギーを充電させる「心の苗場」(苗床、なえどこ)である。そこには、心身にハンディを負いながらも一生懸命に生きること、人間を大切にすること、共に生きる平安で豊かな地域・社会をつくること、そんなごく当たり前の人間の願いがいっぱい潜(ひそ)んでいる。福祉講話は、児童・生徒や教師、父母たちに感動を与え、自分を見つめ直すきっかけとなる。講話をする障がい者にとっては、自分が教育現場で役立つ喜びや感激を得るとともに、積極的に社会参加し社会貢献するための自信をつけることができる(「日本福祉教育・ボランティア学習学会設立総会・第1回大会資料」36ページ)。
〇以後、福祉講話は小学校のみならず中・高等学校へと拡大・発展し、その取り組みも学校あげて、学年単位、クラス単位で行われ、さらには学校行事である生徒会主体の「ふれ愛集会」(甲府市立城南中学校、注①)などで行われることになる。また、福祉講話の推進を図るために、「福祉講話を広げる研究会」(1982年10月~)や「山梨の福祉教育を考える集い」(1984年2月~)、「ボランティア活動推進のための五者懇談会」(1993年2月~。県、県教育委員会、県社協、県ボランティア協会、青少年育成山県県民会議)などが設置・開催された。
〇以下は、山梨県ボランティア協会(当時、岡さんは事務局次長)によって「耕され、蒔(ま)かれ、育くまれた(「耕そう、まこう、育てよう」)土と葡萄(ぶどう)の香り豊かな『頭心動』(ずしんどう)の実践記録」(『ボランティア』第24巻第7号、富士福祉事業団、1989年11月、3ページ)、その一部である。

(1)岡尚志「山梨における福祉教育の試み―児童への「福祉講話」―」全社協・全国ボランティア活動振興センター『ボランティア・福祉教育研究』第2号、1983年9月、111~115ページ(全文)

(2)山梨県ボランティア協会『いのち輝いて‥‥‥生きた福祉教育の実践 ―「福祉講話10周年の集い」記念誌―』1989年12月(全文)

(3)岡尚志「山梨県における福祉教育の取り組み」『日本福祉教育・ボランティア学習学会設立総会・第1回大会資料』1995年10月、35~37ページ(全文)

〇ここで、岡尚志さんの基本的な言説のひとつについて改めて確認しておきたい。福祉講話は、子どもをはじめ教師や保護者などに驚きや感動を与え、障がい者に社会参加や社会貢献への関心や意欲を生み出す。そして、子どもや障がい者などが参加する、市民による“運動”としての「福祉の風土づくり」を推進する、というのがそれである。福祉講話は、障がい者の単なる「体験発表の場」ではないのである。
〇言い換えれば、子どもと障がい者などの相互交流や体験学習の促進が図られるなかでそれぞれが、固定化(習慣化)された意識や思考、態度や行動の枠組みやパターンを能動的に改変する(「概念くだき」)。そして、その個人的な変容が他者に影響を与え、新しい実践を創造すること(「概念つくり」)によって地域・社会変革を促す。その相互理解や相互変容の学習過程に福祉教育の意義や可能性が存するのである。もちろんそこには齟齬(そご)や誤解、動揺や葛藤、あるいは無批判な受容や追従なども生ずるが、それらといかに向き合い、よりよく対処するかが福祉教育の内容や方法を決めることになる。
〇日本社会(文化)の特徴は「集団主義」にあり、古くから「ウチとヨソ」や「村社会」「タテ社会」などと言われてきた。そういうなかでいま、「福祉の風土をもつ地域づくり」を進めるにあたって、多様性(diversity、ダイバーシティ)と地域主義(localism、ローカリズム)、「見解の相違」の尊重(agree to disagree、アグリー・トゥ・ディスアグリー)と「合意形成」(consensus building、コンセンサス・ビルディング)の推進が求められている。福祉教育はその「苗場」である。


①甲府市立城南中学校・山梨ライトハウス・山梨県ボランティア協会編『すばらしい 出会い―甲府・城南中「ふれ愛集会」の体験から―』山梨県ボランティア協会、1988年3月。城南中学校では、1987年11月16日、単発的な行事ではなく、年間計画に基づく活動(あいさつ運動、一円玉募金、古切手収集、奉仕委員会活動など)や日常生活の積み上げの結果として「福祉講話」を実施した。当日は、毎月1回行われる生徒集会の時間(6校時)に、27人の障がい者が講師となり全学級一斉に行われた。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(1):山本寿子「島根県における福祉教育について」等―資料紹介―

〇政治や官僚の世界では、「記憶の限りでは‥‥‥」「記録は廃棄した」がまかり通っている。その世界は、「一点の曇りもない」ところに「膿」(うみ)がたまる奇病・重病におかされている。奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)、摩訶不思議(まかふしぎ)である。また、政治屋の「上から目線」の物言いは不快の極みであり、怒りを覚える。政治主導→ヒラメ官僚→「忖度と自己保身」という構図も、あまりにも悲しく哀れである。そこには、政治家や(と)官僚機構の権力闘争が見え隠れする。
〇筆者は「現在」(いま)、自分の「記憶」と「記録」をたどって「あの頃の福祉教育」のことを「思い出す」必要性を痛感している。記憶は主観的で個人的なものであるが、記録は客観的で明示的なものであろう。そのとき、あるコトを記録する際には、「未来」(あす)のために何を記録に残すべきかという取捨選択の「意志」(こころざし)が働いている。その意志は、そのときの自分の関心事や価値観、判断基準などに基づくものである。
〇ここでいうあの頃の福祉教育とは、「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)が始まる1977年前後以降、1980年代のそれである。そのとき福祉教育は、学校を中心に、熱い「意思」(考え・思い)のもとで力強く動き始めていた。記憶と記録から、その時代(「過去」)の人々の意思や意志を読み取る・読み解くための資料紹介をしたい、というのが本稿である。その真のねらいは、形骸化・停滞化しているともいえる「いまの福祉教育」の活性化を図り、あの頃の福祉教育の“輝き”を取り戻したいということにある。
〇言い換えれば、いま、確かな記憶と残された記録に基づいてあの頃を「思い出す」ことによって、いまを変え、新しい「動き」を「下から」起こすべきであるというのが筆者の意思であり、意志である。経済界の要請に沿った「時の政府」が主導する、「上から」の福祉・教育改革に翻弄される「福祉教育」は、まっぴらご免こうむりたい。
〇周知の通り、1977年4月、全社協は、それまでの中央ボランティア・センターを改組・強化して、全国ボランティア活動振興センターを設置した。それ以後、福祉教育の普及と各地の実践経験をふまえた理論的体系化の作業、それにその推進方策についての研究協議が全国ボランティア活動振興センターを中心に行われることになる。
〇全社協・全国ボランティア活動振興センターは、1980年9月、福祉教育の理論的整理を行うために、「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)を発足させた。そして、そこでの研究成果は、翌1981年11月、「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」として中間報告された。中間報告では、学校における児童・生徒の社会福祉への関心と参加の促進を図るための基本的な考え方やひとつのモデルが示された。次いで、1982年9月、新たに「(第2次)福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)が設けられ、翌1983年9月、「学校外における福祉教育のあり方と推進」と題する中間報告がなされた。その際、同時に、岩手県(小学校)、島根県(中学校)、それに山口県(高等学校)の学校現場教師によって構成された「地元研究委員会」を中心に、主として学校の全教科・全領域における福祉教育指導案づくりがなされ、「学校における福祉教育の推進体制と指導案」が中間報告された。1984年11月、全社協から『福祉教育ハンドブック』が上梓された。それは、以上の福祉教育研究委員会による3つの中間報告をまとめたものであった。それによって、福祉教育は、一定の理論的整理が行われるとともに、具体的実践のための「水先案内」を得ることになる。
〇こうした理論研究とあわせて、全社協・全国ボランティア活動振興センターでは、1982年3月、『ボランティア・福祉教育研究』と題する研究誌を創刊した。その「刊行にあたって」には、「本誌はボランティアと福祉教育の両分野にわたる調査・研究・実践報告を丹念に収集し広く全国に伝え、研究と実践との橋渡しの役割を果したい」とあった。しかし、この分野での調査研究の機会がまだ十分に熟していなかったのか、翌1983年9月発行の第2号をもって廃刊となっている。雑誌の創刊にかかわった木谷宜弘先生らの意思や意志は、時代の10年先を行っていたのであろう。日本福祉教育・ボランティア学習学会(初代会長・大橋謙策)が設立されたのは1995年10月であり(注①)、『年報』が創刊されたのは1996年7月である(注②)。
〇全社協・全国ボランティア活動振興センターは、1983年3月、上述の第2次福祉教育研究委員会の研究日程の一環として「福祉教育セミナー」を開催した。セミナーは、それ以降、「東・西日本福祉教育研究協議会」(1983年度~1984年度)→「全国福祉教育研究セミナー」(1985年度~1989年度)などと名称を変えながら、福祉教育の具体的な取り組みや推進方策についての研究協議を継続的に行なっていく。そこでの研究協議は、①福祉教育の必要性や理念についての協議から具体的な推進方策についての検討、そして実践プログラムの開発へ、②学校や学校外における福祉教育実践から生涯学習としての福祉教育実践、そして地域における福祉教育実践へ、と拡大・深化していった。
〇以上は、1980年代の福祉教育の主要な動きである(阪野貢・ほか『福祉教育論―「共に生きる力」を育む教育実践の創造―』北大路書房、1998年4月、8~9ページ)。あの頃、全国のあちこちに福祉教育の推進を図っていた地方自治体や地域の住民・組織・団体などがあった。とりわけ熱心だったのは島根県である。
〇島根県の福祉教育といえば筆者は、「町ぐるみ福祉教育活動」を推進した瑞穂町(現・邑南町)社協の日高政恵さんとともに(注③)、松江市の山本寿子先生を思う。山本先生は、松徳女学院中学校高等学校(現・松徳学院中学校高等学校)教諭や松江市社協・松江市ボランティアセンター所長などの職を辞された現在もなお、一貫して福祉教育やボランティア活動の推進役を果たされている。山本先生とは、上述の「(第2次)福祉教育委員会」以来のお付き合いである。実はそれ以前に、東京の新宿で初めてお目にかかり、福祉教育についてご指導をいただいたことを思い出す。35年以上も前のことである。
〇先生はあの頃、日本私学教育研究所の研究員や島根県福祉教育研究会委員を務められ、『日本私学教育研究所紀要(教育経営編)』(第17号、第18号、日本私学教育研究所、1981年12月、1982年12月)や上述の『ボランティア・福祉教育研究』(創刊号)などに玉稿を寄せられている。また、「地元」(地方)で最初に開催された全社協・島根県社協主催の「西日本福祉教育研究協議会」の中心的なメンバーのひとりとして尽力されている。さらには、本務校での福祉教育実践を『福祉教育活動の歩み―教育課程における実践から―』(松徳女学院高等学校、1985年11月)に纏められている。
〇山本先生の玉稿を含めて、以下に、島根県における福祉教育に関する資料のいくつかを紹介することにする。それらの資料から、未来(あす)の、新しい福祉教育のあり方を読み解き、あの頃からの歴史を継承しつつ、新たな“輝き”を生み出したいと念じている。

(1)山本寿子「島根県における福祉教育について」全社協・全国ボランティア活動振興センター『ボランティア・福祉教育研究』創刊号、1982年3月、88~100ページ(全文)

(2)山本寿子『福祉教育活動の歩み』松徳女学院中学校・高等学校、1985年11月、1~11、22~27ページ(抜粋)

(3)島根県社協・島根県福祉教育推進協議会「島根県におけるこれまでの福祉教育の取り組み」「島根県社会福祉協議会における福祉教育推進の経過」『平成28年度~平成31年度 しまね流ふくし教育推進指針〈福祉教育推進のための手引書〉』2016年3月、「目次」、1~3、12~13ページ(抜粋)

(4)島根県社協・島根県福祉教育推進協議会「中学校における教科別・領域別福祉教育実践のあり方とその内容に関する研究」全社協・全国ボランティア活動振興センター『学校における福祉教育の推進体制と指導案―岩手県・島根県・山口県福祉教育研究委員会報告―』1983年9月、「はじめに」、69~82ページ(抜粋)



(5)全社協・島根県社協「昭和58年度 西日本福祉教育研究協議会」『昭和58年度 西日本福祉教育研究協議会資料』1983年9月、2~6、16~18ページ(抜粋)

(6)島根県社協・島根県福祉教育運営協議会『心のかよいあう地域づくりをめざす 福祉教育推進計画』1990年2月、「はじめに」「本書の活用に際して」「目次」、1~4、101~107ページ(抜粋)

(7)島根県社協・島根県福祉教育推進協議会『島根県福祉教育推進プラン21~地域を基盤とした質の高い福祉教育実践に向けた提案~』2002年3月(全文)

(8)島根県知事・島根県教育委員会「福祉教育の推進に関する基本的な指針」島根県社協・島根県ボランティア活動振興センター『ボランティアしまね』号外、1997年11月、4~8ページ(全文)

(9)松江市『松江市福祉教育推進基本計画』1997年3月(全文)

〇島根県社協では、「福祉教育運営(推進)協議会」の設置(1987年4月~)や「福祉教育推進計画」の策定(1990年11月~)などを通して、組織的、計画的かつ継続的に福祉教育に取り組んでいる。特筆されるところである。また松江市では、すべての地区公民館に地区社協が設置され、学習活動と福祉活動の一体的な取り組みがなされている。いわゆる「松江市方式」である。一言付記しておきたい。


①以下は、「日本福祉教育・ボランティア学習学会第1回大会」における木谷宜弘先生の「基調報告」のレジュメである(『日本福祉教育・ボランティア学習学会設立総会・第1回大会資料』27~28ページ)。

②1996年7月に創刊された『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』は、1998年10月に『福祉教育・ボランティア学習研究年報』として新訂版が発刊されている。

③大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著『安らぎの田舎(さと)への道標(みちしるべ)―島根県瑞穂町 未来家族ネットワークの創造―』万葉舎、2000年8月。

追記
ブログ読書のリクエストにより、本文の資料(1)と重複するが、「島根県福祉教育研究会」(代表・山本寿子)の『調査結果報告』(抜粋)と『提言』(全文)を紹介する。(2018年5月30日)

「民主主義がガラガラ崩れる。私たちは、その下で暮らしているのです」:いま改めて『山びこ学校』を読む―「山びこ」実践の「共同性」「解放制教育実践システム」と「市民福祉教育」を考えるための資料紹介―

〇いま、筆者(阪野)の机の上に4冊の本がある。岩田正美『貧困の戦後史―貧困の「かたち」はどう変わったのか―』(筑摩書房、2017年12月。以下[1])と無着成恭編『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』(青銅社、1951年3月。以下[2])、そして佐野眞一『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』(文藝春秋、1992年9月。以下[3])、奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』(学術出版会、2016年2月。以下[4])、がそれである。
〇1945年8月の敗戦(1931年9月の柳条湖事件から始まる15年戦争の終結)によって、すべての国民の生活は「飢餓状態」「絶対的貧困状態」「総スラム化現象」に陥った。[1]は、戦後日本の貧困の「増減」ではなく、その「かたち」の変容を描き出したものである。敗戦直後の貧困の「かたち」は「孤児」「浮浪者」「戦傷病者」「失業者」などであり、現代のそれは「子どもの貧困(ひとり親家庭)」「単身高齢者」「ホームレス」「ネットカフェ難民」などであろう。
〇[1]で岩田はいう。「『自立』支援という政策目標は、個人の怠惰が貧困を生むという、きわめて古典的な理解に基づいている。だが問題は、怠惰ではないのだ。貧困を個人が引き受けることをよしとする社会、そうした人びとをブラック企業も含めた市場が取り込もうとする構図の中では、意欲や希望も次第に空回りし始め、その結果意欲も希望も奪いさられていく。だから問題は、『自立』的であろうとしすぎることであり、それを促す社会の側にある」(324~325ページ)。「貧困の責任を個人が引き受け、貧困を不可視化する市場や企業の日本的な仕組みを変えていくのは困難な道程であろうが、そのような転換なしには、重なり合った貧困はますます社会から遠ざかろうとして、その『かたち』すら明確には見出せなくなるかもしれない。『かたち』が曖昧な貧困の放置は、この社会の不安と分断を不気味に拡大させていくことになるだろう」(326~325ページ)。強く首肯するところである。
〇いま、日本では「民主主義の根幹の破壊」や「教育現場への国家権力の介入」が進んでいる。それは、「公の崩壊」や「政治と行政の歪み」などと指摘される以前の、「主権者は誰か」ということが厳しく問われていることを意味する。日本人はこれまで、厳然と残るタテ社会の人間関係のなかで、真の「主権者」になった経験がないのではないか。そんなことをも思いながら筆者は、何十年ぶりかに、「戦後民主主義教育の金字塔」と評された無着成恭(むちゃくせいきょう、1927年3月~)の[2]を読む気になった。その冒頭をかざるのが、石井敏雄の詩「雪」(1ページ)である。「雪がコンコン降る/人間は/その下で暮しているのです」。山形県の僻地の寒村(貧しい村)で貧困と闘い、たくましく生きた子どもたちの生活綴方、なかでも江口江一の「母の死とその後」(2~18ページ)には胸が締めつけられ、重い痛みを覚える。佐藤藤三郎の「答辞」(岩波文庫版、1995年7月、297~301ページ)には、無着の生活綴方教育実践の神髄に触れる思いがする。
〇ここで、江口の「母の死とその後」と佐藤の「答辞」の全文を紹介しておくことにする。
佐藤藤三郎は江口について述べている。「子供の時に両親を失い、生活の苦労を誰よりも深く知っていた君は、なんとかして、村から貧しさを追放しなければならない、という遠大な夢を持っていた。農業立地に恵まれないわが村をおこすのは、林業以外みちはない、君はひたすらにその信念に生き、すべての行動が、そこにあった」([3]301ページ)。


佐藤藤三郎は無着について述べている。「先生はあの三年間さわがれた自分に耐えきれなくて、本質的に生きるため東京へ飛びだしたんじゃないかという気がするんです。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を『耐えられなかった』とはっきりいえる」([3]315ページ)。

〇[2]に併せて、[3]と[4]を読むことにした。[3]は、「教育(教師)と宗教(僧侶)」「栄光と挫折と変節」の間で苦悩した無着と、その後の高度経済成長を底辺から支えた43人の子どもたちの人生の軌跡を描いたルポルタージュである。例えば、無着は、山元中学校に赴任して6年目の1954年4月に退職(「谷間の英雄」の「村からの追放」)し、上京する。1956年4月に明星(みょうじょう)学園に再就職し、27年間にわたって教鞭を執る傍ら、「教育タレント」活動(TBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者など)を行った。石井敏雄は、農業や出稼ぎ(土建業)で生計を立て、その後、家族とともに神奈川県に移住している。江口江一は、就職した山元村森林組合で植林活動に腐心するが、32歳になる直前に生涯を終えた。残された長男は6歳、江口が父親を亡くした歳であった。佐藤藤三郎は、農業高校を卒業後、農民と著述家(評論家)として生き、「もの言う農民」(大牟羅良『ものいわぬ農民』岩波新書、1958年2月)として多くの著作を持っている。
〇[4]は、「『山びこ』実践とその思想が、日本の教育実践と理論の質的飛躍の基盤となる可能性をもっていたとするならば、それはなんだったのか。それは戦後教育実践・思想・理論史において、どこにいってしまったのか」(17ページ)を問うものである。それを明らかにするために、「山びこ」実践に対する教育界内外にわたるさまざまな領域の言説を検討し、その議論の跡を丹念に辿る学術書(戦後日本の教育思想史研究)である。
〇[4]で奥平はいう。「子どもたちが生活と労働に組み込まれているという点をテコにして、子どもたちを生活と学習の従属者から、学習と生活の主体者に転換していく教育、それが『山びこ』実践だった」(11ページ)。「『山びこ学校』と生活綴方への情熱は50年代後半になると急速に衰退する。衰退はまず教育研究の領域で、次に教育実践の領域に広がっていった。(中略)どうしてこれほどまでに急速に、『山びこ』実践礼賛から教科・教材研究へと、関心が絞り込まれていったのか(「生活綴方教育の縁辺(えんぺん)化」187ページ)。『山びこ』実践とその生活綴方実践は、今から見れば、一時的に流行した歴史的出来事としておけばいいのか。それとも、やはり戦後教育実践の画期をなすものであり、戦後教育の実践と研究の基本的方向を示す典型だと位置づけ、継承すべき実践だったのか。教育学が理論的賞賛の後に、理論化の努力を中断してしまったように見えるのはどうしてか。賞賛を持続するにせよ、そこから離れるにせよ、戦後実践史における位置づけができずに経過していったのはどうしてか」(8ページ)。これらの指摘は、生活綴方教育実践に今日の福祉教育実践の視点や枠組み、側面や要素が含まれていたのではないかと考える筆者にとって、興味深い。福祉教育の実践と理論のより一層の進展を図る過程で、常に留意すべきところである。民主主義が危機にさらされ、アクティブラーニングをめぐる空疎な議論やコミュニティ・スクールの無批判的な導入が進められている今日において、なおのことである。
〇以下では例によって、[4]から、「市民福祉教育」の実践や研究に「使える」論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。本稿のサブタイトルの意味はここにある。

教育は、歴史的・社会的で具体的な生活課題に立ち向かう子どもに、文化の継承と批判・抵抗・革新(「文化伝達と文化革新」)を促す営みである
教育という営みは疑いもなく子どもを既成文化の枠組みの中に取り込むことである。しかし教育の成功によって既成文化に取り込まれた子どもたちは、他方ではその既成文化の改革者になるように期待されてきた。文化の継承者であることと文化の革新者であることを共に実現する教育という難問、あるいは文化革新の方法を内にもつ文化継承の方法の発見という難題が、教育・学習の思想にはつきまとっている。
子ども時代は既成文化の徹底した受容・継承者に、一人前になったら文化革新者にという常識的な実践的考え方は、それなりに有効に働いているのだが、そこでは継承者から革新者への転換過程が教育学的考察の外に放り出されて、偶然に委ねられている。支配的文化に悪の浸透する危険がある社会においては、文化伝承と文化批判・抵抗・革新との転換あるいは関係の実践は、教育的計画として構想されなければならない。「山びこ」実践の継承に固執したいくつかの教育思想は、文化継承・革新問題にどのように悪銭苦闘したか。(18ページ)
子どもたちは歴史的具体的生活課題に立ち向かいつつある生活主体だという「山びこ」実践の基盤となっていた視点を、どこかに置き忘れてしまった。(335ページ)
教育が社会的統制であることは避けられない。しかし教育のその場において、その「社会」統制を「子ども」・学習者の歴史的生活的主体形成過程に絶えず転換する、そのような実践と制度のあり方を求め続ける教育思想の系譜が生まれていた。その教育思想の系譜を見直す必要がある。(335~336ページ)

「山びこ」実践は、個々の生活問題の主体化と客観化・社会化を通して地域・社会改革を進める、綴方による共同主体形成の取り組みであった
「山びこ」実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。
それは、社会改革の既成理論や未来社会構想を鵜呑みにして、自分自身と子どもたちにそのまま受け取らせようとすることではなかった。社会改革=村・地域社会の改革もその未来構想も、無着自身にとって、いまだ未知の探究課題だった。無着のしたことは、生活の現実に子どもたちの目を向けさせ、子どもたちに生活現実が抱えている問題を具体的に発見させ、そして子どもたちと一緒に、村と生活をつくり直していく方法を見つけ出し、その問題解決の実践に参加していくことだった。
したがって「山びこ」実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった。(70ページ)
「山びこ」学級は、教師と生徒が一緒になって、生活と学習の共同体をつくっている。そこには、多様なレベルの主体性をもつ子どもたちと教師がいて、その多様なレベルの主体が集まっていた。それら多様な主体は、無着を頂点とする共同主体となっていた。その共同主体の中で、対話、討論、協同活動・行動・遊びなどを通して、個別の主体が承認され、矛盾を醸成し、一層高いレベルの主体へと発展していく。「山びこ」実践はそういう構造をもっていたと見ることができる。個別の未熟な主体性を認め、受け入れるという指導者無着の姿勢は、子どもたちそれぞれみんなの姿勢と見方になっていった。(74ページ)

「山びこ」実践には、「解放制教育実践システム」として、限定化した「子ども」と「社会」を現実のそれに帰還(螺旋的展開)させる機能が働いていた
どのような教育システムであれ、教育を意図し計画するためには、無限に複雑多様な現実をそのまま取り込むことはできない。一定の視点をもって「子ども」と「社会」とを限定して構成して、教育の要素とせざるを得ない。学校教育がその教育計画において想定する「子ども」と「社会」は、現実の子どもと社会そのままではあり得ない(159ページ)
「山びこ」実践が従来の教育実践と異なるところは、実践それ自体のなかに、絶えず現実に生活する子どもに帰り、その子どもの現実生活に帰って、「子ども」と「社会」を更新し続ける実践システムになっていたことである。現実の子どもと社会への帰還を実現する主要な方法的回路になったのが、「山びこ」実践の生活綴方だった。
現実の子どもと社会に立ち帰って、狭い枠組みの内に切りつめられた「子ども」と「社会」を拡張し、子どもたちが納得する新しい「子ども」と「社会」へと更新しつづける教育システム成立の可能性を「山びこ」実践に見ることができる。そのように、現実の子どもと社会への帰還のルートをもつものを「解放制教育実践システム」と呼び、現実への帰還の制度・方法をもたず内部完結するものを「閉鎖制教育実践システム」と呼んで区別することができる。(159ページ)
(無着は、)「子ども」が現実生活の課題を背負って生活主体として学校で学習し生きることができたこと、それがいかに貴重で特色のある実践システムだったかということ、それを理解していなかった。そのために無着は数年の悪戦苦闘の後に、自身の直観と情熱によって切り拓いた教育実践の解放制システムという特色を放棄し、在来型の閉鎖制システムの範囲の実践に落ち着いてしまった。それは無着だけに生じた選択ではなくて、1950年代後半以降から60年代に続く日本の教育界の多勢に生じた選択でもあった。(160ページ)

教育は、人間形成の生活的総合性と全体目的について自覚的であり、個別領域における妥当性だけを追求する「局部的合理主義」に陥ってはならない
戦後教育学の代表的担い手の一人である宮坂哲文も、生活綴方教育実践への世間の興奮が冷めた後でも、生活綴方教育の意味を高く評価し続けた一人だった。(240ページ)
宮坂は徹底した生活教育論者だった。その「生活」は子どもの具体的で身近な生活から、子どもの所属する集団と全体社会の生活まで、全生活を意味した。その全生活過程が必要とする人間形成の有機的部分として学校の教育・学習・訓練は存在する、と見たのである。現実の子どもと子どもが生きる社会との諸関係の総和が、子どもの人間形成過程である。学校の教育過程はその一部であり、教科指導や生活指導はさらにその一部である。そうした総合的生活連関、言いかえれば人間形成の生活的総合性から切り離されて教育の目的・過程・方法・技術が設定されるとき、局部的合理主義に転落する危険が生れる。生活綴方的教育方法は子どもの具体的生活に即して教育を更新していく道筋をもっている、と宮坂は判断していた。(245~246ページ)
学校教育は歴史的社会的生活実践の一環として位置づけられなければならない。宮坂はこの点を重要なことだと考えていた。生活綴方によって、子どもの学校生活は、具体的現実的生活実践全体の一環としての位置を得ることができる。宮坂が教育実践と理論について強く警戒していたことは、教育が向かうべき全体目的についての自覚的反省を忘却し、実践の個別領域に視野を限定し、そこだけで自足する実践と理論になることだった。(251ページ)

〇日本の戦後教育には、「学習者の主体性を主導的性格とする教育実践と教育理論」([4]335ページ)を求める教育思想の系譜があった。それを駆動したのが無着の「山びこ」実践であり、その理論化に取り組んだのが小川太郎や大田堯(おおたたかし)、勝田守一(かつたしゅいち)、宮坂哲文(みやさかてつふみ)らの教育学者であった。また、「山びこ」実践は、鶴見俊輔(つるみしゅんすけ、哲学者)や上原専禄(うえはらせんろく、歴史学者)、鶴見和子(つるみかずこ、社会学者)らの思想に大きな影響を与えた。
〇奥平は[4]で、小川太郎や鶴見俊輔らの多くの、多面的な言説を丁寧に辿り検討することを通して、「山びこ」実践や生活綴方教育実践の未発の「ゆくえ」を描き出そうとする。国や行政、社会組織やシステムなどを民間企業化し全体主義化することをねらって、政治が教育に介入し、教育内容や方法に対する統制が「ドンドン」進められている(「民主主義がガラガラ崩れる」)今日において、である。
〇ここで思い出すのは、江口俊一の生活綴方「父の思い出」([2]26~31ページ。岩波文庫版、47~52ページ)の次の一節である。「みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、『戦死をした』という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが『ちきしょう』と思った。しかし、誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」([2]28ページ)。涙がこぼれる。とともに、真の「主権者」とその教育についての思いを強くする。
〇最後に、「生活綴り方運動」の問題点や弱点を指摘しながらも、『山びこ学校』の理解者であった鶴見俊輔の次の一節を付記しておくことにする(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想―その五つの渦―』岩波書店、1956年11月)。

戦後の生活綴り方運動の新しい頂点をつくった無着成恭の方法は、マルクス主義的であると多くの都会的評論家から批判されたが、その創案者の無着は、マルクス主義の文献とは別個に、プラグマティズムの文献とも別個に、また生活綴り方運動それ自身の文献からさえも別個に、つまりほとんど何の文献の系統にもよらず、山形県山元村の現地の中学生に社会科を教えるというその実際上の問題を解決する努力の中から、直線的に『山びこ学校』という文集をつくったのである。(94~95ページ)
プラグマティズムというのは、行為(プラグマ)が思想に先んじることを主張する立場であるとするならば、生活綴り方運動は、哲学史上のプラグマティズムよりも、もっと徹底的にプラグマティックな運動の形をもっている。(75ページ)
アメリカのプラグマティズムが、哲学書から無意味な議論をおいだすための、「読み方」の方法としてはじめて工夫されたのにたいして、この日本のプラグマティズムは、自分の生活の真実を描くための「書き方」の理論として出発したため、環境に対する働きかけの面が強い。アメリカのプラグマティズムが〔形而上学的迷路に思想が入るのをふせぐためにつくられた〕防禦的プラグマティズムであるのにたいして、生活綴り方運動は、〔生活改善に目をむけさせる〕攻撃的プラグマティズムとなった。(75~76ページ)

付記(その1)
〇無着の[2](1951年6月25日、5版)から、江口江一の「母の死とその後」の全文を重ねて紹介しておくことにする。

〇佐藤藤三郎の「答辞」の全文を、『山びこ学校(新版・定本)』(百合出版、1956年3月初版。1973年6月、増補改訂版第20刷、257~261ページ)から重ねて紹介しておくことにする。

付記(その2)
〇無着成恭および『山びこ学校』関連年譜―奥平康照[4]317~321ページ―

「支援学」ノート―「相互支援」「相互実現」に関する基本的な視点/追補:大橋謙策「『我が事・丸ごと地域共生社会』とコミュニティソーシャルワーク機能」―

ケアリングコミュニティとは、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。筆者はそれを地域福祉の基盤づくりであると考えている。/そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されていかなければならない。こうしたケアリングコミュニティは、①ケアの当事者性(エンパワメント)、②地域自立生活支援(トータルケアシステム)、③参加・協働(ローカルガバナンス)、④共生社会のケア制度政策(ソーシャルインクルージョン)、⑤地域経営(ローカルマネジメント)といった5つの構成要素により成立している。(原田正樹「ケアリングコミュニティの構築に向けた地域福祉―地域福祉計画の可能性と展開―」大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房、2014年4月、100ページ)

〇いま、その問題意識は必ずしも目新しいものではないが、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現について声高に叫ばれている。それを単なるスローガンに終わらせないためには、またあるべき「地域共生社会」を実現するためには、「相互支援」と「相互実現」についての基本的理解が必要かつ重要となる。
〇筆者(阪野)は、管見ながら、しかもその一部に過ぎないが、人と人が共に生き、共に支え合うこと(「相互依存」interdependence)によって自己成長と相互成長、自己実現と相互実現を促す地域社会、すなわち「ケアリングコミュニティ」(caring community)に関して次のように考えている。(1)地域のあらゆる住民が「安心」して暮らせるまちは、「安全」と「信頼」と「責任」のまちである。安心=安全×信頼×責任、である。(2)まちづくりは、そこに暮らす住民が相互に支援し合う(「相互支援」の)地域コミュニティを創造するために、意識と思考と行動の変革を図ることから始まる。まちづくりは相互支援であり福祉教育である。(3)「自立」(「依存的自立」)は、自己選択と自己決定、そして自己責任に基づく自己実現の過程を通して達成される。それは、個人的なものにとどまらず、歴史的・社会的・文化的状況や背景によって規定される。自立は自己実現のための手段であり、歴史的社会的性格(特徴)を持つ。(4) 自己決定と自己実現は、個人的営為ではなく、自分と他者との相互の認識と行動に基づいた自己成長と相互成長を通じて初めて可能となる。自己実現は「相互実現」である。(5)現在の日本社会では、格差社会や管理社会が進展するなかで、持続可能な相互支援型社会を如何に形成するかが問われている。管理は画一化や受動化を促進し、支援は多様性や能動性を尊重する。地域共生社会は相互支援型社会である。なお、これらとともに、またこれらを可能にするためには、まちづくりや地域福祉についての多様な政策・制度的対応や専門機関・専門家による対応などが必要かつ重要であることは言うまでもない。
〇いま筆者の手もとには、そのタイトルやサブタイトルに「支援」などの文言が含まれている本が4冊ある。いや、それしかない。

(1)支援基礎論研究会編『支援学―管理社会をこえて―』東方出版、2000年7月。
(2)舘岡康雄著『利他性の経済学―支援が必然となる時代へ―』新曜社、2006年4月。
(3)舘岡康雄著『世界を変えるSHIEN学―力を引き出し合う働きかた―』フィルムアート社、2012年11月。
(4)森岡正博編著『「ささえあい」の人間学―私たちすべてが「老人」+「障害者」+「末期患者」となる時代の社会原理の探究―』法藏館、1994年1月。

〇本稿では、それぞれの本のなかで論じられている「支援」に関する言説について、筆者なりにいま一度押さえておきたい一節を、抜き書きあるいは要約することにする(見出しは筆者)。それは、「支援」に関する基本的な文献や考え方について知りたいという、熱心なブログ読者からの依頼に不十分ながらも応えるためである。

(1) 支援基礎論研究会編『支援学』
〇「支援学」(Supportology)は、1993年に発足した「支援基礎論研究会」(オフィス・オートメーション学会〈現・日本情報経営学会〉の研究部会)が7年余にわたる研究活動を通して新しく開拓した学問分野である。「本書は、ハウツーを教える入門書ではなく、広く支援現象、支援行為一般の研究の指針を与えることを目的にした見取り図である」(2ページ)。ここでは、本書に収録されている今田高俊(現在は東京工業大学名誉教授)の論稿「支援型の社会システムへ」における言説について紹介する。

管理型社会システムから支援型社会システムへ
現在、行き過ぎた管理機構のひずみや亀裂が集中的にあらわれ、管理の限界がいたるところで露呈するようになっている。管理を中心とする運営法では、もはや活力ある社会を確保できない状態である。/意義のある人生や生活を築き上げるためには、管理に代わる社会の仕組みが必要である。管理に代わる新しい社会編成の在り方としてもっとも有望なものは支援である。支援型の社会システムへの構造転換をはかることが、現在、さまざまな形であらわれている社会問題を解決するために不可欠である。/1990年代以降、ボランティア活動やNPO(非営利組織)、NGO(非政府組織)による活動活動が高まった。これらの活動は、管理ではなく支援を、市民自身の自発的な意志によっておこなおうとする動きである。(9~10ページ)

支援の定義
支援とは、何らかの意図を持った他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的に他者のエンパワーメントをはかる(ことがらをなす力をつける)ことである。(11ページ)

支援と自省的フィードバック
支援は、自分で勝手に目標を立てて効率よくそれを達成するという、従来の私的利益の追求行為からは区別される。被支援者がどういう状況に置かれており、支援行為がどう受け止められているかを常にフィードバックして、被支援者の意図に沿うように自分の行為を変える必要がある。これができない支援は本当の意味での支援ではない。(12ページ)

支援と配慮とエンパワーメント
支援をおこなう当事者は、あくまでも自分の生き甲斐や自己実現を得るという動機が前提になっている。この意味では、私的なものである。ただし、この私的性格は、被支援者の行為の質が改善され、被支援者がことがらをなす力を高めることを前提としており、いわゆる利己的な行為ではない。私的な自己実現が、直接、他者に対する気遣い、配慮へとつながっている。要するに、支援には、他者への「配慮 care」と「エンパワーメント」が決定的に重要である。(12ページ)

支援と支援システム
実際に支援が成立するためには、一連の支援行為がばらばらになされるのではなく、それらがまとまりをもったシステムを形成することが必要である。また、支援は固定したシステムではうまくいかない。被支援者が置かれている状況変化にあわせて、システムを変えていく必要がある。/支援システムは、人的・物的・情報的資源を関係づけ、それらが支援を効果的に実現できるようなモデル(ノウハウ)を備えることが重要である。(12~13ページ)

支援学の体系化
20世紀が管理の世紀であるとすれば21世紀は支援の世紀である。今後、管理が消滅することはありえないが、少なくても支援の発想が社会のなかに組み込まれ、肥大化した管理の仕組みを縮小する方向に進まざるをえないだろう。弱肉強食型の競争主義とそのグローバル化が進みつつあるが、これがアナーキー(無秩序)な社会あるいはその反動として管理主義の強化につながってはますます住みにくい世界になる。そうならないためにも今後、支援学を深め体系化していくことが重要である。管理に代わる支援の発想を持って、グローバル時代の共生原理をつくりあげていくことが、われわれの責任である。(234ページ)

〇管理型社会から支援型社会への転換が求められている。支援は、支援者(支援主体)と被支援者(被支援主体)というセットで意味をなす行為であり、①「他者への働きかけ」を前提にして、②「他者の意図の理解」、③「行為の質の維持・改善」、④「エンパワーメント」を構成要素とする。支援には、支援者の「自省的フィードバック」と、被支援者への「配慮」と「エンパワーメント」が重要である。支援の実質化を図るためには、「ヒト、モノ、カネ、情報」などの資源を効果的・効率的に活用し、またそのためのモデル(ノウハウ)を備えることが必要となる。とともに、支援システムを形成し、しかもそのシステムは被支援者の置かれた状況に応じて柔軟・自在に変化・対応する(「自己組織化」する)ことができるものでなければならない。
〇支援学は管理学に対置される。支援学は、社会生活上の諸問題を解決し、被支援者の「エンパワーメント」を図ることによって自己実現が達成され、それを通じて共生社会の創造に貢献することを使命とする。
〇以上が今田の言説、その一部である。注目されるのは、支援の概念に「エンパワーメント」が含意されていることである。そこから、支援が成立するためには、被支援者の意図が優先され、支援者の支援が自己目的化してはならないことになる。今田にあっては、「自分の意思を前面にださない」「相手への押しつけにならない」「相手の自助努力を損なわない」が、「支援に要請される条件」(15ページ)となる。

(2) 舘岡康雄著『利他性の経済学』
〇本書は、とりわけその前半は、舘岡康雄(現在は静岡大学大学院)の博士論文「”支援”の理論化と実証化に関する研究―利他的なビジネスモデルがもたらす経済合理性―」(東京工業大学社会理工学研究科)がベースになっている。舘岡は1996年から「プロセスパラダイム」の概念を提唱するが、「支援」と「プロセスパラダイム」に関する言説のみを抜き書き(要約)する。

自己中心の「管理」と相手中心の「支援」
管理は、自分から出発して相手を変える、相手をコントロールする行動様式である。それに対して支援は、相手から出発して相手との関わりにおいて自分を変える、自分で(自由意志で)自分をコントロールする行動様式である。/すなわち、管理は自己中心の行動様式であり、支援は相手中心の行動様式である。/したがって、管理の被行為者は「させられている」のであり、支援の被行為者は「してもらっている」のである。(86~87ページ)

リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ
いま時代は、あらゆる分野で「リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ」と動いている。パラダイム(paradigm)とは、その時代に共通するものの見方や捉え方(価値観、枠組み、考え方)をいう。/管理行動では、管理者は計画を提示し、その計画と被管理者の結果とのズレが重要とされる。そこでは、「結果」(リザルト、result)が重視され、管理者と被管理者の関係は「させる/させられる」の一方向の関係にある。管理行動はリザルトパラダイムにおける行動様式である。/支援行動では、支援者は相手の刻々変わる状況を知り、それに合わせて被支援者と相互作用を行ないながら支援を達成していく。そこでは、「過程」(プロセス、process)が重視され、支援者と被支援者の関係は「してもらう/してあげる」の双方向の関係にある。支援行動はプロセスパラダイムにおける行動様式である。(87、88、93~94ページ)

〇以上が舘岡の言説、その一部である。舘岡にあっては、支援はあくまでも支援者の自由意志で行われものであり、支援をするかしないかは支援者に委ねられる。「動員による支援」「支援の管理」「支援の制度化」などは想定されていない。また、舘岡の言説で重要なのは、「プロセスパラダイム」についての提言である(91~97ページ)。相手(被支援者)の動きに合わせて自分(支援者)も動きを変える。また、相手(被支援者)にも自分(支援者)の動きに合わせて動きを変えてもらう。両者が寄り添ってこうした動き(動的な活動)をするとき、その過程(プロセス)で問題解決能力が高まり、両者は「合一の方向に向かう」(100ページ)、とされる。留意しておきたい点である。

(3) 舘岡康雄著『世界を変えるSHIEN学』
〇舘岡は、民間企業の人事部での経験を踏まえて、2001年から「SHIEN学」を提唱する。本書は、学生やビジネスマンが気軽に読める「SHIEN学の入門書」である。「支援」をあえて「SHIEN」とローマ字表記する意義、「管理」「支援」「SHIEN」あるいは「協働」などの概念の相互関連、SHIEN「学」の学問としての成立要件や理論的枠組みと体系性、などについての言及は必ずしも十分なものであるとは言えないが、要点を紹介する。

SHIENと「お互いの力を引き出し合う能力」
「支援」は上位者が下位者に、力のあるものが力のないものに、施すという概念である。/SHIENは、互いに助け合うことで、重なり(つながり、関係性)のなかったところに重なりをつくり、「してもらう/してあげる」を交換するという、新しい時代の問題解決法のひとつである。/SHIEN学では、相手の力を引き出したり、逆に相手からも自分の力を引き出してもらったりする能力を「してもらう/してあげる能力」と呼ぶ。/SHIENの原理というのは厳密なシステムではなくて、重なりがなかったところに重なりをつくったり、相手からしてもらうことと、こちらがしてあげることを、相互に交換したりすること。ただそれだけである。(13、35、58、155ページ)

「してもらうこと」と「豊かな関係性」とSHIEN学
「してもらう」能力を高めるためには、自分の「弱みを相手に見せること」が非常に大切であり、「相手によい質問をすること」「相手を褒(ほ)めること」も有効である。それによって自分と相手との豊かな関係性を深めることができる。/「してもらう/してあげる」というのはテクニックではなく、非常にいい関係性があるからこそ生まれるものである。志が同じで、ひとつの目標に向かっていく集団があったならば、惜しみなくお互いの能力を出し合っていって、一緒につくるよろこびを感じることが、お互いが幸せになる、何よりの方法である。/「してもらうこと」がSHIEN学のスタートであり、本質である。(60~65ページ)

プロセスパラダイムの時代と競争的共存の時代
これからの、「動いているものを動くままに」捉えるプロセスパラダイムの時代は、今までのリザルトパラダイムの時代の、「善か悪か」「有か無か」「量か質か」「ハードかソフトか」といった二項対立を越えて、新しい解へジャンプすることができる自由な社会である。/そういう時に大切になってくるのは、「してもらう能力」である。新しい時代には「してもらう」ことは必須となる。/苦手なことはしてもらってよいのである。そして自分は、自分の得意なことで相手をSHIENする。また今、競争的共存の時代が来たともいえる。競争しているのだけど、同時に共存してもいるわけで、ひとり勝ちの時代はすでに終わっているのである。/人間関係でいえば、「関係をつくることに積極的」(「関係積極性」)であることが大切な時代である。(82~83、119ページ)

リザルトパラダイムとプロセスパラダイムの違い
20世紀型のリザルトパラダイムと21世紀型のプロセスパラダイムの違いは、図1の通りである。(43ページ)

〇以上が舘岡の言説、その一部である。舘岡は、上下関係のなかでの一方向の支援(「施し」)を「支援」、対等な関係のなかでの双方向の支援を「SHIEN」とする。そして、「SHIEN」は、新しい時代(プロセスパラダイムの時代)における、「新しい働きかたを実現する行動原理」(15ページ)となる、という。
〇舘岡にあっては、「SHIEN学」でいう「SHIEN」とは、「自分よりも他人を大事にしたり、助けたりする考え方(=利他性)を軸に、行動を起こすこと全般」(18ページ)を指す。「SHIEN学の本質」「SHIENの神髄」は、「してもらう/してあげる能力」であり、お互いの力を引き出し合うことである。そこで重要になるのが、自分と相手を「つなぐ」こと、「関係性を高め合う」ことであり、舘岡はそれを「重なりをつくる」という。

(4) 森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』
〇本書は、生命倫理や法哲学、仏教哲学などを研究する5人の共同研究のプロセスを纏めたものである。読み応えのある包括的で深淵(しんえん)なテーマ設定がなされているとともに、一般にありがちな共同研究の成果報告でないところがユニークで興味深い。本書の「ささえあいの人間学」とは、人と人が互いに「ささえあって」生きるという形の社会原理を探究し、人々にささえられながら生まれ死んでいく人間の「いのち」のあり方について議論する枠組み(学問)である。ここでは、本書に収録されている土屋貴志(現在は大阪市立大学)の論稿「『ささえる』とはどういうことか」等における言説について紹介する。

「ささえ」と「ささえあい」 
人間同士の「ささえ」は、すべて「ささえあい」にほかならないのではないか。というのは、人間は必ず何らかの「他者」を必要とする存在であり、その意味で、完全に自分の力で自立しているわけではないからである。現実の「ささえ」の場面においては、一方向的な「ささえ」(「ささえる」側は自立しており「ささえられる」側は依存するだけであるような状況)が成立しているわけではなく、必ず両方向的な「ささえあい」(双方が「ささえ」「ささえられ」合っているような状況)になっているのである。/人間は何らかの他者を「ささえる」ことによってよろこびを得る存在であり、他者が何も返すことができなくてもその他者によって「ささえられている」ことになるのである。(105ページ)

「ささえる」と「ともにいる」
「ささえる」ことは、「相手にかかわっていこうとする」ことである。/「かかわり」こそ「ささえ」の基盤であり、かかわりのないところには相手もなく、したがって相手への働きかけもあり得ないからである。その意味で、かかわりを保っていこうとする姿勢こそ何にもまして必要なものであり、なくてはならないものである。/しかも、時間を惜しまず、傍に共にいるということ、この「ともにいる」ということこそ、かかわりの本質を表すことである。/「ともにいる」ということ、かかわっていく姿勢によって「ともにいる」ということを示すことが、「ささえる」ということの最も基本的な事項になるのである。(57~58、60~61ページ)

「かかわり」と「受容」
相手にかかわっていくとは、相手を受け容れていくことである。相手を受け容れる余裕がなければ、かかわっていくことはできない。もしその余裕がないまま無理にかかわろうとするなら、必ずひとりよがりに終わることになる。相手を受け容れるということは、結局のところ、相手に対していろいろな気持ちを抱く自分自身を受け容れることに他ならない。その意味で、いつでも、どんな相手にも、求めに応じてかかわってゆけるようにするには、つねに自分自身をみつめて、あらゆる自分を受け容れる用意が必要である。相手を受け容れる余裕は、実は自分自身を受け容れる余裕から生まれるからである。(59~60ページ)

「ささえ」と「共感」
「ささえ」の根底にあるべき考え方は、「共感」が達成されるように努めるべきである、ということである。/「ささえ」の場面では、「共感」が必然的な前提になっている。/「共感」とは、相手の私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの「あたかも‥‥‥のように」という性格を失わないことである。いいかえれば、①相手の体験を、その本人が感じているままに感じ取ること、②相手の体験はあくまでその人自身の体験であり、私自身の体験とは別であるとわきまえていること、この二つの条件を同時に満たすことである。/ただし、「共感」だけで相手を「ささえた」ことにはならない。「こころのささえ」の場面を離れて、相手が具体的な介助や援助や治療を要求している場合には、「共感」の達成だけでは「ささえあい」の達成は不十分なものとなる。(281、290~291、296、299ページ)

〇土屋にあっては、「ささえる」ということについての原則的な考え方のひとつは、「どんな事実であれ、その人に関する事実は第一義的にその人本人のことであって、他の人のことではない」(52ページ)。「事実に直面しそれを受け容れなければならないのはその人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない」(50~51ページ)ということである。ある事実についての当事者性(「自分のこと」である度合い)について言えば、本人が最も「当事者」であり、身近な人ほど「当事者性」が高く(つまり、より「自分のこと」であり)、身近でない人ほど低い(逆に言えば、「第三者性」すなわち「ひとごと」である度合いが高い)ということになる。しかし、具体的な「ささえ」の場面では、問題になるのはつねにいま現在目の前にいる相手であり、「当事者性の序列」は問題にならない(51~53ページ)。土屋の基本的な言説として押さえておきたい点である。

〇以上の叙述を踏まえて、ここではひとまず、「支援」とは、自分・支援者(支援主体)と相手・被支援者(被支援主体)の「要求と必要と合意」「受容と共感とエンパワメント」に基づいて、「相互支援と相互作用」「相乗作用と相乗効果」「自己実現と相互実現」を図る活動(行動様式)でありプロセスである、と理解しておくことにする。その際、支援者や被支援者は、個人だけでなく、集団や組織、コミュニティ、社会などを含む。「支援主体」や「被支援主体」の意味するところである。
〇ところで、筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」について論考する際に、「共働」(coaction)の概念を重視してきた。また、その構成要素として、①多様な個人や集団・組織・コミュニティ・社会、②目標や価値観の共有化と統合化、③新しい場(ステージ、プラットホーム)の創設、④その場への主体的・自律的な参加(参集、参与、参画)、⑤多面的な相互作用による相互補完や相乗効果、⑥社会的統合や融合の達成、などを考えてきた。
〇図2は、「支援」に留意しながら、多様な主体による「対抗」から「共働」への過程を、ひとつのモデルとして図示したものである。例えば、「対抗」段階では、内部(当事者間)における上下関係や外部(第三者)との対等(並立)な関係における競争、管理、支配を意味している。「連携」段階では、役割と責任の相互確認や協力の相互促進に向けた行動を起こす。「協働」段階では、目標の明確化を図り、舘岡がいう「重なりのなかったところに重なりをつくる」即ち「関係づくり」(パートナーシップづくり)を進め、協同することを意味する。そして、新しく設けられた「場」における相互補完やそれによる相乗効果によって協働の融合・一体化が図られ、相互支援や相互実現が成立する。それが「共働」の段階である。こうした段階の過程を通して、「創発」(単なる総和以上の成果が生み出されること)や「共創」(イノベーションによって共に新しい価値を創り上げること)、「共生」(すべての人の人格と個性を尊重し、共に支え合いながら共に生きること)が実現することになる。

〇筆者が本稿で言いたいのは、「相互支援」と「相互実現」、そのための「共働」が「地域共生社会」の神髄である、ということである。

付記
上野谷加代子(同志社大学)は、人が共に支え合って生きていくためには「助け上手と助けられ上手」になることが大切である、と説く(『たすけられ上手 たすけ上手に生きる』全国コミュニティライフサポートセンター、2015年8月)。森岡正博(早稲田大学)は、人間は他からささえられてはじめて生活でき、自己決定できる存在であり、「他からささえられ、他をささえてゆく」ことこそが「人間」の本質である、と言う(森岡正博「序 方法としての『ささえあい』」森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』20ページ)。あえて可視化するほどのことでもないが、「ささえあい」(「ささえる」ことと「ささえられる」こと)の諸相について、例示的(上位と下位、優位と劣位)に図3に示しておく。

追補
5月26日、大橋謙策先生から玉稿「『地域福祉実践の神髄』―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」(「地域福祉の遍路道」 四国・こんぴら地域福祉セミナー資料集 寄稿/A4判、39字×40行、16枚)を拝受した。いつもながらの深く鋭い論述は学ぶところ大である。
周知の通り、大橋先生は、「福祉教育」「ニーズ対応型福祉サービスの開発」「コミュニティソーシャルワーク」の機能の具現化とその理論化を求めて50年間、地方自治体(市町村)レベルでの実践を主なフィールドとして、「実践的研究」に取り組まれてきた。その研究スタイルは、「『バッテリー型研究方法』ともいえるもので、実践家の実践を理論化、体系化するとともに、研究者の理論仮説を実践家に提起し、実践してもらい検証するという研究者と実践家とがあたかも投手、捕手のようにバッテリーを組んで行う方法」である。
筆者(阪野)は、先生の「実践的研究」に導かれてきた一人であるが、筆者の関心は先生の「社会福祉学研究」「地域福祉論研究」における「大橋福祉教育論」にある(本ブログ中の[まちづくりと市民福祉教育](26)「大橋福祉教育論」再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―/2014年11月4日投稿 を参照されたい)。
ここで、大橋先生の了解のもとに、玉稿の一部を紹介させていただくことにする。「福祉教育」「ケアリングコミュニティ」「コミュニティソーシャルワーク」について論究する際の視点や枠組みについて多くの示唆を得ることができる。先生からは「大いに論じていただければ‥‥‥」という丁重なメールを拝受している。

「我が事・丸ごと地域共生社会」とコミュニティソーシャルワーク機能
地域自立生活支援の推進を図るためには、①福祉教育の推進、②ニーズ対応型福祉サービスの開発とそれを企画できる力量のある職員の養成、③住民と行政の協働を成り立たせる触媒、媒介の機能をもったコミュニティソーシャルワーク機能とそれを実施できるシステムの整備、が必要かつ重要となる。これら3つの機能は「地域福祉実践の神髄」ともいえる。
「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現にはいろいろ難しさがある。そうであればあるほど、改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認しておきたい。それが常に意識されていないと、福祉サービスを必要としている人を発見し、その人々が抱える問題を“我が事”のように理解、共感し、その問題を行政と住民が協働して地域を挙げて解決することはできない。そして、それを推進しようとすればするほど、行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク機能が求められることを意識化しなければならないからである。
改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認すると、①地域に顕在的、潜在的に存在する生活上のニーズ(生活のしづらさ、困難)を把握(キャッチ)すること、②それら生活上の課題を抱えている人や家族との間にラポール(信頼関係)を築くこと、③時には、信頼、契約に基づき対面式(フェイス・ツー・フェイス)によるカウンセリング的対応も行う必要があること、④その人や家族の悩み、苦しみ、人生の見通し、希望等の個人的要因を大切にしつつ、それらの人々が抱えている問題がそれらの人々の生活環境、社会環境との関わりの中で、どこに問題があるのかという地域自立生活上必要な環境的要因に関しても分析、評価(アセスメント)すること、⑤その上で、それらの問題解決に関する方針と解決に必要な方策(ケアプラン)を本人の求め、希望と専門職が支援上必要と考える判断とを踏まえ、両者の合意の下で策定すること、⑥その際には、制度化されたフォーマルケアを有効に活用すること、⑦そのうえで、足りないサービスについてはインフォーマルケアを活用したり、新しくサービスを開発するなど創意工夫して問題解決を図ること、⑧問題解決には多様な関係者の個別対応型支援ネットワーク会議を開催したり、必要なサービスを統合的に提供するケアマネジメントの方法を手段とする個別援助過程を基本的に重視しなければならないこと、⑨と同時に、その個別援助を支える地域を構築するために、個別対応型の必要なインフォーマルケア、ソーシャルサポートネットワークの開発とコーディネートを行うこと、⑩地域での個別支援を可能ならしめる地域づくりに関する“ともに生きる”精神的環境醸成、ケアリングコミュニティづくりを行うこと、⑪個別生活支援の外在的要因である生活環境・住宅環境の整備等も行うこと、を同時並行的に、総合的に展開、推進していく活動、機能である。
これらのコミュニティソーシャルワーク機能が十分意識化されない皮相的な取り組みで「我が事・丸ごと地域共生社会」という政策が展開されることに、行政も社会福祉関係者も、住民も十分留意しなければならない。したがって、市町村においてコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムがない中で、安易に、コミュニティソーシャルワーカーという名称だけが一人歩きすることには気を付けなければならない。