「雑感」カテゴリーアーカイブ

阪野 貢/「つながり」を基盤とした市民福祉教育の展望 ―志水宏吉・ほか編著『社会関係資本を活かした学校づくり』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、志水宏吉・中村瑛仁・若槻健編著『社会関係資本を活かした学校づくり―事例とデータでみる子どもたちの「つながり」―』(ミネルヴァ書房、2025年6月。以下[1])と志水宏吉・若槻健編『「つながり」を生かした学校づくり』(東洋館出版社、2017年3月。以下[2])がある。「社会関係資本」(social capital)の概念を用いて、[1]では、子どもと子ども・教師・学級・家庭・地域との「つながり」を生かした学校づくりについて、事例調査と統計分析を通して実証的に探究する。[2]では、なぜ「つながり」が「学び」の充実につながるのか、「つながり」をどのように育んでいくか、学校は周囲との「つながり」をどのように生かせばよいか、等を20校の事例研究を通して明らかにする。その際、2007年に実施された「全国学力・学習状況調査」に依拠して導き出された、「離婚率」「不登校率」「持ち家率」の3つの要因による「つながり」の格差が学力の格差を生む、という言説がひとつの前提になっている。そして、これら[1]と[2]に共通する結論は、子どもたちを取り巻く「社会関係資本」=「つながり」を豊かにすれば、子どもたちの育ちや学びをよりよいものにする可能性が高まる([1]227ページ)、ということである。「つながり」こそが子どもを育てるのである([2]6ページ)」。
〇図1は、学校づくりに関する3つのタイプの社会関係資本(「つながり」)を示したものである([2]16~17、19ページ)。「きずな型」([1]では「絆型」と表記)は「内輪のつながり・結束の強さ」、「架け橋型」(同「橋渡し型」)は「外部とのつながり・風通しのよさ」といえる。ともに、主として「横の関係」で成立するものである。「結合型」(同「連結型」)は、学校の外部の専門家や専門機関などとの「つながり」を示すものであり、「縦あるいは斜めの関係」において成り立つタイプである([1]11~12ページ)。

図1 社会関係資本の3つのタイプと「つながり」

 

〇ここで、例によって我田引水的であるが、「まちづくりと市民福祉教育」に留意しながら、[1]と[2]の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「つながり」は学校内の「格差」を乗り越えるための資源である
家庭や個人が持つ資源は、経済資本、文化資本、そして社会関係資本という3つで把握することができる。経済資本(お金や財産)は、家庭の間に著しい格差があり、子どもたちは「豊かな家」や「貧しい家」に生まれ育つことになる。文化資本とは、親の学歴や教育観(教育というものを大事に考える姿勢・態度)から成り立つものであり、現代にはここにも大きな格差が生じている。それに対して社会関係資本は、独自の、大きな力を発揮するポテンシャル(潜在能力、可能性)を有している。子どもたちの間に存在する経済的・文化的不均衡を是正する力をもつものが、「社会関係資本=つながり」である。([1]224ページ)

地域を巻き込んだ学校づくりは子どもの「一般的信頼」と「外つながり志向」や「共生意識」を高める
学校づくりにおいては、子どもの身近な他者への信頼(「安心」)とともに、見知らぬ人も含む、幅広い他者への信頼(「一般的信頼」)にも着目することが重要である。([1]144ページ)/一般的信頼は、特定の他者との「つながり」によって育まれるが、特に地域の人たちとの「つながり」や教師との「つながり」が重要な要因となる。また、一般的信頼が育まれることによって、身内で固まるばかりでなく、外の世界に飛び出して、誰とでも交流しようとする志向性(「外つながり志向」が生まれる。加えて、多様な他者と共に生きているという感覚(「共生意識」)も高まる。([1]147~148ページ)

学校と地域の「つながり」が子どもの「レジリエンス」や「ウェルビーイング」を高める
地域との「つながり」が高い学校では、子どもの「レジリエンス」だけではなく、学校における「ウェルビーイング」も高い傾向にある。「レジリエンス(resilience)」とは、「心の柔軟性」などと訳され、さまざまな生活上の課題に粘り強く、柔軟に取り組む資質を指す。一方で、心の「回復力」とも解釈され、失敗した時や困難に直面した時に、その「ショックから回復し、状況に適応していく力」としても捉えられる。「レジリエンスが高い」とは、それらの課題や困難に柔軟に対応し、乗り越える力が大きいことを意味する。([1]199ページ)/「ウェルビーイング」とは、子どもが学校生活を含め日常生活を安心して過ごせている状態をいう。([1]202ページ)。

教師間の「つながり」(チーム指導と支援)が子どもの自尊感情やウェルビーイングを高める
教師が互いに連携・協働して、個々の生徒の状況について情報を共有しアセスメントを行ったり、学校内外の多職種と連携・協働することによって、教員集団の多様な生徒の課題・ニーズに対する感度(共振性)が高まる。こうした教職員の「チーム」としての実践は、子どもに対する集団指導と個別支援の「歯車を合わせる」ことになる。その結果、学校組織内での教師間の「つながり」が強まり、ひいては子どもの自尊感情やウェルビーイングを下支えすることになる。([1]55~56ページ)。

「つながり」は子どもの学びを豊かにするとともに市民性の涵養を促す
人と人との「つながり」なくしては、人は決して育たない。人の「学び」は、基本的に人と人との「かかわり」のなかで生じる。([2]13ページ)/社会経済文化的背景が厳しく、抱える困難が大きな「しんどい」子や地域にとって、「つながり」は決定的に重要である。([2]261ページ)/教師の役割は「つなぐこと」である。([2]256ページ)/学校と学校外の「つながり」の(「連携」ではなく)「協働」モデルは、保護者・地域の多様な思いや校種間の教育観の違いを取り込むことで学校文化を多様で子どもたちにとってより安心して育ち、豊かに学ぶものへと変容させる可能性に開かれている。([2]259ページ)/仲間を大切にすること、仲間をつくる力といった「つながり」は、「仲間とつながる力」「市民として社会を担い、社会をよくしていく力」といった市民性(シティズンシップ)の中核をなすものである。また、異年齢で交流したり、地域社会で学ぶことも市民性の涵養を促してくれる。([2]265ページ)

〇「社会関係資本」(以下、「SC」と略す)については、アメリカの政治学者パットナム(Robert D.Putnam)の研究が知られている。パットナムは、1993年に出版した『哲学する民主主義』(河田潤一訳、NTT出版、2001年3月。原題Making Democracy Work:「民主主義を機能させる」)において、SCを次のように定義した。「調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(河田潤一訳、206~207ページ)、がそれである。要するに、SCは、人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率を高める働きをする社会的な関係をいう。そして、その内実・構成要素は「信頼」「規範」「ネットワーク」の3つである。具体的に言えば、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(つながり)と、そこから生まれる互酬性の「規範」(お互いさまの支え合い)、そして知らない人を含んだ人々に対する一般的な「信頼」(信じあう心)が、SCを形成するのである。
〇すなわち、いろいろな人々同士が社会的に豊かにつながり(ネットワーク)、それに基づいて互いに信頼しあい(信頼)、“お互いさま”という思いから互いに支え合うこと(互酬性の規範)によって地域・社会の諸問題が解決され、より良い統治が進み、豊かな地域・社会が創り出される、という論理である。
〇志水らは、パットナムのSC論によれば、「ネットワーク」(つながり)に焦点化して論理の展開を図る。その際、底流に流れるのは、スイスの心理学者ピアジェ(Jean Piaget)の学習観(「学びは個人の頭のなかで起こる」)ではなく、学びは他者との共同的な活動を通じた社会的なプロセスであるとするロシアの心理学者ヴィゴツキー(Lev S. Vygotsky)の学習観(「学びは人と人との間で起こる」)である([2]12~15ページ)。
〇志水らによる一連の研究は、子どもを取り巻く「つながり」が、家庭の経済資本や文化資本の格差を乗り越え、子どもたちの育ちや学びを支える決定的な資源であることを実証している。ここで示された「きずな型」「架け橋型」「結合型」という3つの「つながり」の様態は、学校教育の枠組みを越え、「まちづくりと市民福祉教育」の核心とも深く共鳴するものである。
〇「ふくし」(「ふだんの、くらしの、しあわせ」)を支える基盤は、「つながり」である。志水らによると、地域との「つながり」を持つ子どもは「一般的信頼」や「共生意識」が高い傾向にある。これは、特定の身内だけで固まる閉鎖的な互助(「きずな型」)に留まらず、多様な他者と出会い、認め合う「風通しのよさ(「架け橋型」)」が、子どもの市民性を育んでいることを示唆している。市民福祉教育の本質は、単なる「思いやりの心」の育成やボランティア活動の体験ではなく、こうした多様な「つながり」のなかで「共に生きる作法」を学び、自らのウェルビーイングと地域のそれを形作っていくプロセスにある。
〇特に注目すべきは、「つながり」が子どもの「レジリエンス」を高めるという点である。現代社会において、子どもたちが直面する困難は複雑化している。しかし、学校が地域と「つながり」、教師や学校外の専門家、地域住民などが「結合型」のネットワークを構築することで、子どもは失敗しても立ち直れる「心の回復力」を得ることができる。この「受容される安心感」こそが、市民としての自律を支えるのである。
〇今後の「まちづくり」においては、学校を、地域社会の「つながり」を醸成するひとつの「ハブ」(結節点)として再定義する必要がある。教師の役割が「つなぐこと」であるのと同様に、市民福祉教育の推進者もまた、子どもと地域、あるいは困難を抱える人たちと社会資源とを編み直す「コネクター(接続者)」でなければならない。
〇「つながり」こそが子どもを育て、「つながり」こそが地域を再生し、「まちづくり」を進める。子どもたちが学校という枠を越えて、地域の多様な大人たちと関わる。そのなかで、「自分も社会の一員であり、誰かの『ふくし』に寄与できる」という実感を積み重ねる。そのプロセスこそが、真の意味での市民性の涵養である。そこに、社会変革・社会戦略としての「まちづくりと市民福祉教育」が位置づくのである。

阪野 貢/「多様性」の功罪:「共関」(≠共感)と「協繋」(≠連帯)をめぐって― 岩渕功一著『多様性とどう向き合うか』のワンポイントメモ―

国家として政策・法整備をしっかり進めて、差別や不平等を解消するための施策、法的地位の改正、差異の承認と多文化社会の構想を育むための市民教育などに国レベルで取り組むことは喫緊の課題である。(下記[1]71ページ)

〇筆者(阪野)の手もとに、岩渕功一著『多様性とどう向き合うか―違和感から考える―』(岩波新書、2025年12月。以下[1])がある。「多様性」という言葉やそれを尊重し奨励する言説や態度に、耳ざわりのいい・居心地のよい「共生」「共存」の物語を感じるが、どこか違和感を覚える。[1]は、「多様性」が既存の差別や不平等を隠すための免罪符になっていないかを問い、その言葉の欺瞞を暴きながら、他者との真の共生のための思考の枠組みを提示する。その際、岩渕の立論は、「多様性の尊重と奨励は、社会の中心に位置するマジョリティによって価値判断され管理される対象として存在している。多様性の語りは、マジョリティの/による/のためのものである」(14、15ページ)という認識を基点に置く。こうした状況が社会に組み込まれた(構造化・制度化された)差別や不平等を再生産し、マジョリティによる包摂と管理をもたらしている、と説くのである。
〇あえて先に結論を引くならば、岩渕のメッセージはこうである。「多様性を奨励する語りが問題なのは、あたかも多様性をめぐる問題が解決したかのように、あるいは多様性の奨励によって問題が解決するかのように語られることにある。(中略)多様性の奨励をめぐるさまざまな経験や違和感に目を向けて、耳を傾けて、構造化・制度化された差別・不平等の複雑な作用に向き合いながら、それを乗り越えていく方途をモヤモヤ感やしんどさと付き合いながら、さまざまな人たちと共に考えて話し合うことで、少しずつ自分を、周りの人との関係を、そして社会を共に変えていくことを目指すべきではないか。」(174ページ)。
〇本稿では、例によって恣意的であるが、次の4点についてメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

封じ込めと後景化:多様性の尊重と奨励は、社会に組み込まれている差別や不平等に向き合って解消する取り組みを封じ込め、後景化・後退させるような作用をもたらしている
多様性は文化的にも経済的にも有益で、生産的で、調和的で、豊かさをもたらすと肯定的なものとして語られるようになり、差異をめぐる差別と不平等の問題は挑戦的で、分断的で、否定的なものとみなされてしまいがちである。/多様性をめぐる問題を真剣に考えるのなら、差異をめぐるあらゆる差別、不平等、周縁化、生きづらさの問題に正面から向き合い、その解消に取り組むことは急務である。(中略)さまざまな企業、政府、自治体、教育機関、国際機関、NGO/NPOが多様性を尊重して受け入れ、活かすことが組織・社会のパフォーマンスの向上にとって重要だとしてその奨励・推進を謳っているが、制度化・構造化された不平等、格差、差別といった根源的な現実の問題が後景に追いやられてしまい、その問題の解消に継続して取り組んでいく必要を見失わせてはいないのか注視して検証することが求められる。(47ページ)

構造化の理解:多様性とは単なる個性の尊重ではなく、構造化された差別や不平等を直視し、それを自分ごととして捉え、その解消に向けて取り組む実践である
差別や不平等が社会の仕組みに組み込まれたものであることを理解すれば、多様性を奨励する取り組みに抱いていた自らの違和感に対して、これまでとは異なる見方ができるようになるのではないか。(118ページ)/多様性の尊重と受け入れの根幹にあるのは、差異をめぐる差別と不平等の解消であること。同じ社会に生きている人たちが何らかの差別や不平等を被っているとすれば、それは自分とは切り離されたものではあり得ないこと。それに疑問を呈して解消することは誰もが関わる社会全体の問題であること。それは個人の思いやりや優しさだけでは解消できないこと。そして、その解消は誰をもより生きやすくすること。/こうした発想の転換をすることで、社会における多様性をめぐる差別や不平等の問題を自分とは関係のない他人ごとであると認識するのではなく、それに関与したり対話しようとしたりする姿勢が育まれていく。構造化の理解は、他の人たちが経験している問題を自分ごととして捉えて、より能動的に関わっていくことを促してくれるのである。(118~119ページ)

共感から共関へ:社会変革にとって重要なのは、単に他者に対する共感力を持つことだけでなく、他者の苦難や生きづらさに自分自身も関与していることを認めることである
差別や生きづらさが社会で構造化されているとすれば、少なくとも同じ社会で生を営んでいる自分もそれに関わっており、不公正に対して異議を唱えて是正する務めがあると自覚することである。他者の苦難や生きづらさを自分ごととして考えるには、それをもたらしている社会のあり方とその変革には、その社会で生きる自分自身も意識する、しないにかかわらず、関わっていることを認識することが欠かせないのである。それは共感力を、誰もが共に関わっているという「共関」意識に結びつけることを意味する。(130ページ)/自分と異なる他者の感情や経験を理解し想像しようとする共感力は大切であるが、それに加えて、歴史的・社会的な文脈の中で構築されてきた他者が被る差別・不平等に対しての、同じ社会の一員である自分の関わりという軸を入れ込むことで、社会で構造化された問題に対する当事者意識とその是正に向けて、自分ごととして継続的に考えていくことを促す共関意識が芽生えてくるのではないか。(131ページ)

連帯から協繋へ:自分の経験とは異なる他者の差別や生きづらさに向き合い、同じではない当事者として支え合うためには、「学びひらき」と緩やかな「協繋」が求められる
社会において知らぬ間に布置されてきた自己と他者の不均衡で分断された関係性に気づき、批判的に向き合い、他者との関係性を自覚的に編み直し、より包含的で対話的な自己と他者の共生のあり方を模索する学びのあり方(プロセス)を「学びひらき」という。この学びひらきは、社会横断的な連帯につながる(136ページ)/(差別や不平等によって)分断化された状況に抗うには、多様な差別や生きづらさの経験をつないで互いの生きやすさを保証し合う在り方を模索する必要がある。(137ページ)/(それは連帯につながるが)連帯というと強い政治的あるいは苦難や利害を共有する集団の団結・結束を思い浮かべるかもしれない。しかし、今より求められているのは多様な生のあり方を肯定して、誰もが=自分も生きやすいように社会のあり方を共に変えていくことに向けた、差異を横断するしなやかな連帯である。(138ページ)/その意味ではむしろ「協繋(きょうけい)」という言い方が適切かもしれない。(中略)協繋は異なる価値観を持つ人々が、社会における不公正や不正義にともに抗うために対等な関係で関わり合うことである。(中略)少なくとも、いかなる差別に対しても理不尽でおかしいと向き合おうとすることである。(138~139ページ)

〇最後に、例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。ひとつは、「まちづくりと市民福祉教育」の根幹にある「共感」の本質的転換についてである。「まちづくりと市民福祉教育」において、高齢者や障がい者が直面する差別や生きづらさに単に情緒的な「共感」を寄せ、抽象的に「共生」を語るだけでは不十分である。その困難を生み出している社会構造や慣習に対し、無意識のうちに自分自身も加担しているという「当事者性」の自覚こそが不可欠である。こうした「共関(共に、関わり、関心を持つ)」意識を促す教育的営為こそが、岩渕の提唱する「学びひらき」の実践に他ならない。社会構造のなかに自分自身を位置づけ直すことで、高齢者や障がい者と共に社会を変革しようとする能動的な姿勢が初めて立ち現れるのである。
〇いまひとつは、「連帯」の質的転換についてである。「まちづくりと市民福祉教育」において、これまでの連帯は往々にして等質な集団による「同質性の連帯」に留まり、排他的な側面を持っていた(同質性による排除)。また、具体的な実践を伴わないまま、抽象的・理念的に「自立と連帯」のまちづくりについて説くこと(手垢のついたスローガン)に終始してきた感は否めない。今後は、異なる背景を持つ人々が共生する「異質性の連帯」へと、その質的転換を図る必要がある。岩渕が説く「協繋」こそが、異なる価値観を持つ人々が対等に関わり合い、共に社会の不公正に抗う「まちづくり」のための基盤となるのである。

阪野 貢/「5つの物語」再考―「共感の論理」の再構築と「構造変革の教育」への昇華―

〇本稿は、『5つの物語:その思想とメッセージと覚悟―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ―』2025年12月15日/本編、の補遺である。

「共事者」という視点:当事者と傍観者のあいだ
〇人はしばしば、ある事柄に対して当事者か非当事者(部外者、傍観者)かという二項対立に陥りがちである。当事者でなければ口を出してはいけないという自制や、当事者ではないことへの後ろめたさが、人々の関わりを阻害してしまうことも少なくない。小松理虔は、震災の被災地でありながら直接の被害が少なかった福島県いわき市小名浜での出来事や活動から、「中途半端さ」や「共事者」という概念を提唱する。この概念は、特定の専門家や熱心な活動家だけでなく、曖昧な立ち位置にいる多くの市民が「事を共にする」可能性を示唆するものである。自分自身の中途半端さを引き受け、当事者の傍らで関心を寄せ続ける「弱いつながり」こそが、強固な分断を溶かし、多様な人々を結びつける新しいコミュニティ(地域共生社会)の基盤となるのである。ほどよい距離感で関わり続ける「関心の継続」にこそ、新しいコミュニティの可能性があると言えるのである。

「依存」の再定義:依存を豊かにする編集術
〇白石正明や上野千鶴子の言説が示す通り、自立とは「依存先を分散し、豊かにすること」である。これを実現するためには、渡邉雅子が提唱する「多元的思考」を駆使し、現代社会を構成する「経済」「政治」「法技術(法、規範)」「社会」の異なる論理を柔軟に使い分けながら、目の前の困難を個人的な問題から社会的な「編集」(白石)の対象へと転記していく作業が求められる。また、梅川由紀が論じる「ゴミ屋敷問題」にみられるように、社会規範から逸脱した「傾き」を排除せず、その個別の文脈を尊重しながら周りの環境や構成を変える・整えるという作業・行為が肝要となる。そして、小松が説くように、「だれかの悲しみのよそ者」であることを自覚し、その「寄り添えなさ」に向き合いながら細い糸を手繰(たぐ)り寄せるように社会を編み直していくのである。

「共感の論理」の再構築:不可解性の受容
〇奥田知志が提唱する「不可解性」の受容は、他者理解を根底から覆す。人はお互いが「共感不可能」のなかに生きていることを認めることが、真の共生の出発点である。「あなたを完全には理解できないが、共にここにいる」のである。また、小松が説く「共事者」のように、中途半端で曖昧な関わりを許容する緩やかなネットワークを地域に張り巡らすことが肝要となる。このネットワークのなかで、人々は「支援者/被支援者」という二分法的な立場を脱却し、共に事にあたる『共事者』へと変容する。そこでは、「助けること」と「助けられること」が循環し、「受援」が特別な弱さではなく、共生のための作法として共有される。また、渡邉が言う「共感の論理」は、単なる同一化(かわいそうに思うこと)ではなく、相手の背景にある異なる論理を理解しようとする「多元的思考」と表裏一体のものである。それは情動に終わらず、誰もが「助けて」と言い合える社会の土壌を育み、一人ひとりが守られているという確かな安心感へと昇華されるのである。

「構造変革の教育」への昇華:市民福祉教育の視座
〇従来の「福祉教育」は、ともすれば個人の内面や道徳心に訴えかける「思いやり教育」に重きが置かれてきた。しかし、個人の善意のみに依拠するアプローチは、現状の社会構造を温存させ、かえって「助ける側(強者)」と「助けられる側(弱者)」の分断を固定化する危うさを孕んでいる。
〇渡邉が説く「共感的利他主義」(共感に基づく利他主義)は、相手の苦しみや悲しみを「自分ごと」として感じて手を差し伸べる、日本的な倫理観に基づく行動原理である。これは、辺見庸が吐露した「ケアされる側の激しい憤り」とセットで考えられなければならない。「明るいの反対はなーに?」という無邪気な問いかけが、一人の人間の尊厳を「かれらなんか」という枠に押し込める暴力となり得るのである。そこで、辺見がまた指摘した街角の「オババ」に対する無知や無関心を問い直し、不可視化された存在を地域という文脈のなかに再構成(編集)する知性が必要となる。
〇「市民福祉教育」は、単なる「思いやり」や「優しさ」を教えるのではなく、「まち」に暮らす他者の不可侵の尊厳(権利)に触れる際の、震えるような緊張感を教える場であるべきである。すなわち、市民福祉教育は、個人の「弱さ」やさまざまな「依存」を人間存在の普遍的な姿として捉え直す。そして、その条件のままに生きられるよう、白石がいう社会の「分母」(生産性至上主義、自己責任論)を問い直す。そのなかで、新しい価値観を創造する「構造変革の教育」へと昇華させる必要がある。
〇別言すれば、市民福祉教育とは、地域に潜在する「弱さ」を「輝き」に変えるための「社会の編集術」(白石)を習得するプロセスである。 「思いやり」という内面的なアプローチから脱却し、エイジズムや能力主義という社会構造を問い直す権利意識を育むこと。辺見の痛切な叫びや小松の誠実な葛藤を指針として、情動的な「共感」を論理的な「多元的思考」と連携させ、誰もが安心して依存できる「希望のまち(みんながつながるまち)」(奥田)を再設計すること。 「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」という確信を、個人の心ではなく地域の「構造」のなかに根付かせること。この構造変革こそが「ふだんの くらしの しあわせ」(阪野)を支える土台となる。こういった新たな「視座」を提示することが、「まちづくりと市民福祉教育」の本質であると言えよう。

備考
2026年1月4日、タイトル『5つの物語:その思想とメッセージと覚悟―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ―』を、『草稿「ふだんの くらしの しあわせ」それを編み直す7つの視座―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ―』に変更した。

阪野 貢/「不可解性の受容」に基づく「なんとかなる」「希望のまち」づくりの社会哲学―奥田知志著『わたしがいる あなたがいる なんとかなる』のワンポイントメモ―

「生きる意味のない “いのち”」なんて、あってたまるもんか

〇筆者(阪野)はかつて、本ブログに<雑感>(70)「“助けて”と言えない無縁社会」×「“違った意見”が言えない統制社会」:気がつけば民主主義が民主的な手続きによって内側から壊れている―奥田知志を読む―/2018年12月25日/本文 をアップした。今回、久しぶりに、奥田知志の新刊『わたしがいる あなたがいる なんとかなる―「希望のまち」のつくりかた―』(西日本新聞社、2025年8月。以下[1])を読んだ。
〇奥田は、北九州市において、30年以上にわたり生活困窮者支援の最前線に立ち続けてきた。[1]は、その活動の歩みから、支援の現場で培われた思想・哲学、そして誰も取り残さない「まち」をめざす未来への提言までを綴った随筆を集成したものである。それは、北九州市の特定危険指定暴力団の本部事務所の跡地という「怖いまち」の象徴だった場所を、「なんとかなる」「希望のまち」に再生する物語である。
〇いま、孤立と分断、困窮と格差、偏見と差別が常態化している。自己責任や身内の責任が必要以上に強要され、「助けて」と言えない人が増えている。自分だけ良ければいいという「自分病」(79ページ)が蔓延している。そんな構造的な問題を抱える現代社会にあって、奥田が理事長を務める認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」では、人と人との横の「つながり」を大切にし、「出会いから看取りまで」という伴走型支援を実施してきた。そしていま、「誰もひとりにしない」まち、「なんちゃって家族」のまち、「助けて」と言えるまち、の実現をめざして、(「なんとかする」ではなく)「なんとかなる」を合言葉(モットー・哲学)に「希望のまち」プロジェクトの推進を図っている。奥田は言う。「『希望のまち』は、『縦の成長』を羨望しつつも『横の成長』で共存するまちでありたい」(235ページ)。
〇「誰もひとりにしない」まちは、「ハウスレス(経済的困窮)」のみならず「ホームレス(社会的孤立)」の解消を最大の目標とする(174ページ)。「なんちゃって家族」のまちは、「家族機能の社会化」によって、家族でもなんでもない赤の他人が温かく緩やかにつながって日常を共に過ごす新しい家族の形を築く場をめざす(224~226ページ)。「助けて」と言えるまちは、誰もが「助けて」と言え、「助けて」と言われる相互扶助・支援や相互実現の関係性が機能する社会の実現をめざす(240ページ)。そして、「希望のまち」は、「助ける」と「助けられる」という営みが「いいかげん(ちょうど良い加減)」になるなかで創られ、どんな人も取り残すことのない「地域共生社会」を言う(245ページ)。
〇その「地域共生社会」について奥田はこう言う。それは奥田からの愛あるメッセージであり、奥田の確かな覚悟である。

われわれは、お互いが「共感不可能」の中に生きている。それを認めることが「共生」の始まりだ。いわば「共感不可能性の共感」である。/今、世界は「わかりやすさ」を軽薄に求めているように見える。「敵か味方か」「白人か有色人種か」。性的マイノリティーを侮辱し、多様性を否定し、他の民族や文化をヘイトする。「意味のないいのちと意味のあるいのち」と簡単に言う。「わかりやすい分類」は「分断」に過ぎない。/「別の人間」が「別の人間」として共存する。そのとき「別の人間である」あなたを尊重し、出会いを喜ぶことができるか。「わかりにくさ」、つまり「不可解性への耐性」が今求められている。それこそが相互豊穣の契機となる。/抱樸が創る「希望のまち」は「別の人間」が集まる場所。「別人」であることを喜べる場所。自分は自分のまま生きていてよい場所。わかりにくいが、面白い場所。(中略)そんなまちを創りたい。(267~268ページ)

〇およそ以上が、奥田の主張・言説のひとつのポイントである。それを、「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言(別言)しておきたい。
〇奥田にあっては、人はその複雑さゆえに、互いの存在を完全に理解するには限界がある。人を安易に二項対立的に分類したり、ある概念に押し込めることはできない。それぞれが、それぞれの違いを認め合い、理解できないそれぞれの部分も受け入れることが真の「共生」の土台となる。この考え方を市民福祉教育の観点から捉え直せば、真の共生を実現するための市民福祉教育は、この「不可解性」を学ぶ教育でなければならない。その目的は、自分にとって「不可解」な他者を排除せず、その存在を尊重できる市民的資質・能力を育成すること(市民性形成)にある。これは、「多様性」や「共生」を表面上・抽象的に語る姿勢を超え、生きづらさが社会構造的に常態化している現実と対峙することに繋がる。そして、この「不可解性の受容」を出発点として、誰もが生きやすい土壌を地域に耕し、構造的な変革としての「まちづくり」を推進することが、いま、真に求められているのである。「対峙」とはただ向き合うことだけではない。自分をつくり変え(再構築)、まちをつくり変える(再設計)、「創造のプロセス」を言う。
〇奥田はいま、「誰もひとりにしないまち」の実現をめざして、「希望のまち」づくりを進める。建物・施設としての「希望のまち」は、救護施設や交流スペースなどの複合的な機能を内包しながら、「地域の中に施設がある。施設の中に地域がある」(259ページ)という、日常に開かれた空間をめざすものである。この「まち」の重要な機能は、「なんちゃって家族」の関係性の創出であり、「助けて」と言い合えるコミュニティを地域に根差した日常の生活圏で構築することにある。この思想は、特別な活動ではなく、誰もが孤立しない何気ない日常を創り出すことにある。この点を市民福祉教育に落とし込むならば、そのための教育的営為(市民福祉教育)は、特定の施設・機関や活動のなかだけにあるのではなく、日常の生活圏全体を学びのフィールドとして、みんなの生涯にわたる “ふだんのくらし” のなかでこそ育まれるべきものである。
〇また、奥田が言う「なんとかなる」は、無責任・無批判な楽観論ではない。また、「なんとかする」という自己完結的な責任論でもない。それは、「わたしがいる あなたがいる」から「なんとかなる」という、他者への信頼を基盤とし、人と人との関係性(「つながり」)のなかで共同体的な問題解決を志向するものである。市民福祉教育の文脈では、市民一人ひとりが困難に直面した際に、自己責任論に陥ることなく、誰かとつながっていれば「なんとかなる」と信じられる地域的な安心感を醸成する営みと言える。この安心感こそが、誰もが「助けて」と言える「希望のまち」(みんながつながるまち)を築く土台となるのである。

補遺
本ブログの<雑感>(235)に、新美一志/福祉教育における「当事者性」と「相互主体性」に関する一考察―松岡広路、阪野貢、鯨岡峻の言説をめぐって―/2025年6月22日/本文 がアップされている。併せて参照されたい。

阪野 貢/「ごみ屋敷」考:「ごみは、人がごみと認識したときにごみになる。」―梅川由紀著『ごみと暮らしの社会学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、梅川由紀著『ごみと暮らしの社会学―モノとごみの境界を歩く―』(青弓社、2025年5月。以下[1])がある。[1]では、ごみを単なる解決すべき環境「問題」としてではなく、日常生活に密着した「生活文化」として捉える(「問題としてのごみの研究」から「生活文化としてのごみの研究」へ)。そのうえで、「現代日本の都市部に住む人々にとって、家庭から排出されるごみはどのような存在なのか」を明らかにする(27ページ)。具体的には、「ごみとモノの境界がどこにあるのか、時代によってその境界がどう揺れ動いてきたのか、ごみとモノの価値の違いとは何なのか」などについて、多くの雑誌や資料の分析、ごみ屋敷におけるフィールドワークを通して論述する(カバーそで)。
〇その際、梅川にあっては、モノには、「機能的価値」、「心情的価値」、「可能性的価値」という3つの価値が存在する。「機能的価値」とは「モノがもつ機能面に対する価値」(279ページ)、「心情的価値」とは「モノに与えた個人的な思い出や意味に対する価値」(281ページ)、「可能性的価値」とは「モノを所有することで得られるだろう未来の可能性に対する価値」(282ページ)をいう。モノは、この「3つの価値のいずれか、あるいは複数の価値をもつ対象(物品)」である。一方、ごみは、「モノの3つの価値を失ったもの、あるいは価値を放棄した対象(物品)」である(293ページ)。そして、梅川は、「モノとごみの間に存在し、完全にモノやごみとは言いきれない、あいまいな価値をもつ状態」(54ページ)、別言すれば「モノの3つの価値の一部を有し、一部を失った対象(物品)」(293ページ)として「マージナルな対象(物品)」というカテゴリーを想定する。それは要するに、モノとごみとの曖昧な境界領域(マージナル)に存在する中古品やリユース品などである。
〇また、梅川は[1]で、高度経済成長期の生活様式の変化によってごみと人間の関係、ごみとモノの境界がどのように変化したか、その社会的プロセスを追究する。例えば、掃除機の普及によって、掃除の仕方が「掃き出す」から「吸い取る」へ変わり、チリやホコリがごみとして意識されるようになる。その背景には、住宅構造の変化などがある。冷蔵庫の普及によって、食品を「冷やす」だけでなく「保管」することが可能になり、買いすぎや作りすぎなどによる余剰品を生み出すことになる。その背景には、食の洋風化や女性のライフスタイルの変化、マイカーの普及などがある(181ページ)。また、プラスチック製品の普及によって、モノの「古さ、汚れ、傷」を「味や風合い」ではなく劣化と捉え、使い捨ての行動を加速させることになる(210ページ)。その背景には、大量生産・大量消費の経済システムの確立や、耐久性よりも利便性や衛生・清潔を重視する社会意識の変化などがある。
〇続いて梅川は、こうしたモノとごみの境界が曖昧になり、モノの価値を放棄できない人々が抱える問題として、「ごみ屋敷」問題に焦点を当てて論を展開する。すなわちこうである。1968年には存在していたと考えられるごみ屋敷という現象が、大きく社会問題化したのは2006年頃からである(221ページ)。その問題性については、①防災・防犯機能の低下、②ごみなどの不法投棄の誘発、③火災の発生の誘発、④土壌汚染や水質汚濁のおそれ、⑤病害虫・悪臭の発生、⑥風景・景観の悪化、などが指摘されている(辻山幸宣。224~225ページ)。
〇ごみ屋敷の住人にとって、堆積された物品はごみではなく、上述の心情的価値や可能性的価値を放棄できずにいるマージナルな対象(物品)であるケースが多い。現代社会は物質的な豊かさと情報過多を特徴とし、物品やサービスの効率的な消費や短期間での更新(アップグレード)が絶えず求められる。その結果、たとえそのモノに潜在的な価値が残っていたとしても「価値を放棄する能力」(断捨離や整理能力)が社会的な規範として強く求められている(291~292ページ)。従って現代社会では、ごみ屋敷に堆積するこうしたマージナルな対象を「廃棄物=ごみ」と見なし、公的な介入による処分を促す。また、そのような合理的な行動をとることが「ふつう」と理解され、社会の機能維持に不可欠な規範として作用するのである(294ページ)。
〇すなわち、ごみ屋敷の住人は、現代社会の支配的な価値観(社会規範)、すなわちモノとごみを厳密に区別し(「モノとごみの二極化」303ページ)、廃棄することを前提とする消費社会に対して対抗的に応答する人である。その人がモノの価値を放棄できない要因は、社会的孤立やセルフ・ネグレクト(自己放任)といった生活上の課題、精神疾患(「ためこみ症」)や認知機能の低下などが複合的に絡み合って生じている(226~232ページ)。そして、この問題のより深い背景には、現代社会が抱える大量生産・大量廃棄の構造的な問題が横たわっており、ごみ屋敷は社会のひずみが個人に表れた現象として理解されるべきである。
〇およそ以上が、梅川の主張・言説のひとつのポイントである。ここから、ごみ屋敷の問題は、単なる個人的な迷惑行為ではなく、また単に「ごみを片づける」という表層的な対処に留まるものではない。そこには、その住人の価値観を尊重し、生活に寄り添いながら、生活支援や精神的ケア、地域とのつながりの再構築などを図る「福祉的対応」(238~239ページ)が不可欠となる。そして、持続可能で実効性のあるそのような支援を地域全体で実現するためには、「まちづくりと市民福祉教育」の視点・視座が重要となる。すなわち、「ごみ屋敷」問題は、地域社会全体で支え合うべき「まちづくり」の課題である。とともに、モノとごみに対する社会意識(すなわち生活文化)を変革し、住人に対する偏見やスティグマの解消を図って地域共生社会の基盤を築くための「市民福祉教育」の課題でもあるのである。

阪野 貢/追補・上野千鶴子「老い」論の深層―辺見庸著『コロナ時代のパンセ』のワンポイントメモ―

〇本稿は、<雑感>(248)阪野 貢/アンチ・アンチエイジングの思想が示す「老い」論―上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房、2025年4月)のワンポイントメモ―/2025年10月24日/本文、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、芥川賞作家・ジャーナリストである辺見 庸(へんみ・よう)の本『コロナ時代のパンセ――戦争法からパンデミックまで7年間の思考』(毎日新聞出版、2021年4月。以下[1])がある。[1]は、「戦争法」(安保法制)から新型コロナウイルスのパンデミックに至る、「人倫の根源が抜け落ちた危機の7年間」(帯)の時代を辺見が凝視し、その疑いを鋭い思索(パンセ)として綴ったエッセイ集である。
〇ここでは、<雑感>(248)の追補として、[1]から、おのれの無知と無関心を問う「オババと革命」、おのれがケアされる哀しみについて吐露する「西瓜のビーチボール」、そのエッセイの一節をメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

不可視化される「オババ」:無知と無関心を問う
駅近くをあるいていると、よく蓬髪短躯(ほうはつたんく)の老婦人をみかける。わたしはかのじょを心のなかで(失礼ながら)オババと呼んでいるのだが、見かけよりはよほど若いのかもしれない。ゴム草履を履き、襤衣(らんい)ながらも、背筋をぴんとのばしてスタスタと忙しげにどこかへとむかっている。その姿をみるたび、ああ、きょうは元気そうだなとホッとする。どうじに、さまざまな感情が胸に渦巻く。このひとの塒(ねぐら)はどこなのだろう。どうやって生活しているのか。身よりはないのか。支援者はいるのだろうか‥‥‥。そして、はっと気づく。オババにかんするそうした疑問が、わたしにとって、ほんとうは、けっして切実ではないことに。/すれちがい、ワンブロックもあるかぬうちに、わたしはかのじょのことをあらかた忘れているのである。だいいち、わたしはかのじょの面立(おもだ)ちをまったくおぼえていない。声も知らない。名前も知らない。そして、かのじょについてなにも知らないことが、わたしの気分をなにがなし〝楽〟にしているのかもしれないと心づく。(170ページ)/わたしはオババを知らない。目をあわせたこともない。かのじょを天才的だとおもったことはある。快も不快も、わたしになんらの印象ものこさない。その身のこなしと目差し、気息(きそく)において、けだし天才的ではないかと。ちがう! わたしがかのじょの名前はおろか面差(おもざ)しも知らないのは、よくよくおもえば、わたしがかのじょを正視せず、なにも問うたことがないからだった。(172ページ)

〇辺見は、まちなかで見かける「オババ」に対し、その存在や生活を「切実ではないこと」として遠ざけ、無知と無関心によって自分が精神的に〝楽〟になっていることを自覚する。この個人的な無知や無関心は、上野が批判する「アンチエイジンの思想」の根底にある、「老い」や「弱者」を意識的に排除・遮断する現代社会の構造を、個人の内面レベルで反映したものと言える。

抵抗する「ビーチボール」:ケアされる哀しみ
介護老人保健施設に通いはじめて1カ月、目も気持ちもずいぶん慣れてきた。/施設にあっては他者の発見より、おのれを見なおすことのほうが多いかもしれない。総合着座体操というプログラムがあって、わたしのような通所者と諸症状のひかくてき重い車椅子の高齢入所者がいっしょになって着座したままラジオ体操などの運動をする。先日はラジオ体操のあと、西瓜の模様のビーチボールをつかい、女性指導員が意外なトレーニングをはじめた。なにかの童謡を口ずさみながらリズミカルに歩きまわり、ビーチボールを参加者に手わたして問う。「冷たいの反対はなーに?」。ビーチボールを持たされたおばあちゃんが嬉々として答える。「あったかい!」。「あたりい!」と指導員。/わたしはドキドキする。西瓜のビーチボールがこちらに回ってくるのではないか。いや、まさかそんなことはあるまい、と自己内問答。まさか点‥‥‥の根拠には<わたしは〝かれら〟とちがうのだから>があった。思わずハッとする。このばあいの〝かれら〟は、かれらなんか・・・・・・という区別か差別のニュアンスが滲(にじ)んでいたからだ。なんということだ!じぶんに舌打ちする。心がざわざわする。(中略)西瓜のビーチボールがわたしの膝にのせられた。<脳トレ質問>がだされる。/「明るいの反対はなーに?」/胸のなかに鉄の玉ができて、焼けるほど熱くなる。まっ赤になって胸のなかでゴロゴロ転がる。われながらたまげる。激怒しているのだ、わたしは。明るいという形容詞の反対はなにかとためらいもなく問うあなたは、わたしをかれらなんか・・・・・・といっしょにしているのだな。なんという無礼! 目が焔(ほむら)を噴(ふ)いた。/わたしはじぶんの怒りのはげしさにだじろぐ。にしても、なぜこんなにも憤るのか?おそらく、認知症と混同されたことだけではない。ここにかれらなんか・・・・・・といっしょにいること、そうせざるをえない心身の老い。それに焦っているじぶん。そして、どうしようもなく末枯(すが)れてゆくなりゆきをまだ諦観できないじぶんにいらだって、かれらなんか・・・・・・とじぶんを懸命に区別しようとし、同時に、他人にも区別してもらいたがったのである。目がうるんでくる。風景が掠(かす)れる。(199~201ページ)。

〇辺見は、「老い」を生きる自分が個としての尊厳を失い、「かれらなんか」として十把一絡げに同じ要介護者として扱われる屈辱に激しく抵抗する。この「老い」に伴う不安や主体性の喪失感の赤裸々な吐露こそ、上野の「アンチ・アンチエイジングの思想」、すなわち「老い」の否定的な意味合いを転換しその価値を肯定することの重要性を力強く裏付けるものと言える。

〇以上踏まえ、一言したい。辺見が描く「オババ」に対する無知と無関心と、「老い」に伴う尊厳の喪失への抵抗に対して、「老い」を自分の生の一部として能動的に捉え、主体的な生の課題として引き受ける意識や姿勢を育むことが肝要となる。そして、自己の尊厳を守り抜く主体的な生き方を可能にするため、「老い」についての社会的・思想的な学びを求め深めることが求められる。これは、「市民福祉教育」の重要な教育内容のひとつとして位置づけられるべきである。特に、「老い」を生きる高齢者自身が、これまでありがちであった福祉教育の一方的な客体(思いやりの対象)としてではなく、自己の重要な学習課題として「老い」に主体的に向き合う側面は、市民福祉教育の根幹をなす教育内容として確立されるべきであろう。

阪野 貢/アンチ・アンチエイジングの思想が示す「老い」論 ―上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想』のワンポイントメモ―

「人間、役に立たなきゃ、生きてちゃ、いかんか」(259ページ)。「生きるのに、遠慮はいらないわよ!」(266ページ)。「人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか」(301ページ)。「安心して要介護になれる社会を!」(275ページ)。

〇筆者(阪野)の手もとに、上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房、2025年4月。以下[1])がある。「老いは文明のスキャンダルである」。これは[1]の冒頭の一文であり、上野がシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir, 1908-1986)の『老い(La Vieillesse)』(1970年)から受け取った核心的なメッセージである。人は皆、老い、衰え、やがて依存的な存在になる。これは、誰も抗(あらが)うことのできない普遍的な自然のプロセスである。しかし、現代の文明(社会システムや価値観の総体)は、この老いの現実を無価値なもの、恥ずべきものとして捉える。そして、そこから逃避し、それを拒否し、隠蔽しようとする。PPK(ピンピンコロリ)という理想の強要や、認知症予防という自己責任論の拡散などがそれである。老いを避け、若さ(自立)を維持・追求することを至上命題とする思想・価値観(「アンチエイジング」)こそが、人間存在の根源的な事実を無視した恥ずべき現代文明の言語道断な事実・欠陥(「スキャンダル」)である。これが上野の主張である。
〇上野は、「老人」についてこう言う。老人は老人として生まれるわけではない。加齢にしたがってやがて老人になる。ここまでは自明である。だが人は単に老人になるのではない。人は、長い間「他者」として蔑視してきた当の老人に自分自身が変貌したことを認めざるを得なくなる(「老いとは他者になる経験である」(7ページ))。そして、社会が押しつける老人のカテゴリーにしぶしぶ同意し、いわば二級市民であることに同意したときに初めて、ホンモノの「老人になる」のである(21、86、93ページ)。
〇そして、言う。「高齢者が好奇心を失わず、前向きに生き、死ぬまで成長を続ける(ことに価値がある)という高齢者観こそ、エイジズム(年齢差別)と呼ぶべきではないのか」(226ページ)。「人は老いる。老いれば衰える。加齢は成長と衰退の過程、『生涯発達』とか『生涯現役』といったかけ声をわたしは信じない」(261ページ)。「エイジズムの背後にあるのは、『生涯現役思想』こと効率と生産性優位の価値観である」(252ページ)。「ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいく。それなら『老い』に抗うアンチエイジングの自己否定的な試みよりも、老いを受容するアンチ・アンチエイジングの思想が、今ほど必要とされている時代はないのではないだろうか」(226ページ)。
〇ここで、次の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

エイジズムとアンチ・アンチエイジング:人は老い、衰え、依存のなかで尊厳を持って生きる存在である
私たちはセクシズム(性差別)の被害者でもあるけれど、エイジズム(年齢差別)の被害者でもある。/わたしたちは「若い(あるいは年齢より若く見える)ことが価値であるような社会に住んでいる。若い者ももはや若くない者も、その価値を内面化している。だからこそ、「お若いですね」が高齢者に対する「ほめ言葉」になり、高齢者もそれをうれしがる。/若さを維持するためのアンチエイジングは、健康食品やサプリメント、スポーツジム、ファッション、コスメなどさまざまな業界で一大市場を形成しており、高齢者たちはそれに虚しい投資を続けている。いわば自己否定のための投資というようなものだ。(13ページ)/アンチエイジング(老いや衰えを否定的に捉える思想・高齢者観:阪野)がこれほどに世の中に浸透した思想ならば、わたしたちはそれに対抗しなければならない。だからこそ、アンチ・アンチエイジング(老いによる弱さや依存を肯定的に捉える思想・高齢者観:阪野)なのである。(14ページ)

児童福祉と高齢者福祉:高齢者福祉は社会的「姥捨て」の制度的保障でもある
「子供は未来の現役であるから、社会は彼に投資することによって自分自身の未来を保証するのに反し、老人は社会からみれば執行猶予期間中の死者にすぎない」(ボーヴォワール)/児童福祉には根拠がある。次世代の生産性の担い手を育てることだからだ、他方、ただ死んでいくのを待つだけの高齢者には、何の生産性もない。/「なぜ老人を介護するのか」と問いを立て、答えを「人格崇拝」と「社会連帯」に求める立論は、わたしを納得させるものではないし、この問いに明快なこと答えを出した者はいない。だが、ともあれ、高齢者への社会福祉が世界的に進んできたことは確かである。(172ページ)/高齢者福祉には、なにがしか家族から高齢者を切り離したいという「姥捨て」(うばすて)の要素が見られる。すなわち高齢者福祉とは社会的「姥捨て」の制度的保障――それもみじめでない程度の――と考えてもよい。そして「みじめさ」の程度は、当該の社会が判定する。(174ページ)

自立と依存:社会は依存のネットワークであり、自立とは依存先の分散である
介護保険法にいう「自立」とは「依存のない状態」手っ取り早くいえば介護保険を使わないか、そこから「卒業」することを言う。他方、障害者総合支援法にいう「自立」とは、支援を受けながら何をしたいかを自己決定することを言う。(299~300ページ)/(高齢者と障害者の)「自立」と「自律」、「介護」と「介助」の違いは、障害者の権利が障害者による当事者運動の成果だったのに対し、高齢当事者による権利運動が存在しなかったことによる。(301ページ)/自覚するにせよしないにせよ、人は依存の網の目のなかで生きている。自分が依存される立場にも依存する立場にもあることを、認めたらよい。依存が悪なのではない。依存を可能にしない/できない社会が悪なのだ。(298ページ)/自分がしたいことをできない時。人に頼って何が悪いか。人に助けてもらったからといって、その人の言いなりになる必要は少しも無い。(300ページ)/人は老いる。老いて衰える。やがて依存的な存在になる。人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか。(301ページ)/

〇最後に、例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。それはこうである。市民福祉教育はこれまで、高齢者に関して、「お年寄り」に対する「思いやりの心」の育成や「互いに支え合う地域共生社会」の創造を強調してきた。上野の言説に依拠すれば、思いやりの心の育成という情操教育や道徳教育の視点は、老いることを非効率的で非生産的な現象として否定的に捉える社会構造を温存させ、自立を絶対視し、依存を悪とする思想を追認することにならないか。地域共生社会の創造というまちづくり学習や市民性教育の視点は、高齢者に対し、依存しない自立を要求し、地域貢献に取り組む生涯現役の高齢市民を要請することにならないか。
〇そこで、市民福祉教育は、高齢者を保護の対象と見なす一面的で情操的な単なる思いやり教育から脱却する。そして、老い、衰え、依存する存在としての高齢者の尊厳を「他者に依存する権利」として構造的・制度的に保障する社会システムへの変革を志向する。そのためのエイジズムへの権利意識と社会システムの理解を深め、それに基づいて「安心して老い、互いに頼り合えるまちづくり」に取り組むための教育へと転換する必要があろう。

 

阪野 貢/「共感的利他主義」と「多元的思考」―渡邉雅子著『共感の論理』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、渡邉雅子著『共感の論理――日本から始まる教育改革』(岩波新書、2025年9月。以下[1])がある。渡邉にあっては、近代を牽引したのは、資本主義、科学主義、民主主義、国家主義という4つの原理である。その内の資本主義の成長と拡大は、自然破壊と経済格差を生み出した。経済の「拡大・成長」から「持続可能な低成長」への移行が進んでいる現在、「人間と自然との関係を、自然を収奪の対象とする見方から、人間を自然の一部と捉える発想へと転換する必要がある。そしてこの新しい自然観に基づき、個人主義・利己主義的な価値から利他主義へと価値を転換することが、今、世界的に求められている」(ⅶページ)。そして、時代は、各人がそれぞれの価値観に基づいて生きる「多元的社会」へ移行しており、そこでは「状況に応じて、あるいは自己の信じる価値観に従って、複数の思考方法を柔軟に選択する能力」、すなわち「多元的思考」が不可欠となる(ⅷページ)。こうした考えに基づいて[1]で渡邉は、「共感的利他主義」を社会原理の基盤に置きながら、「多元的思考」を育む教育のあり方を提言する。

〇先ず、「共感的利他主義」についてである。渡邉にあっては、利他主義には、「合理的利他主義」「理性的利他主義」「効果的利他主義」「法・原理的利他主義」の4つの形がある。合理的利他主義は、「自己利益を利他の行為の動機」にし、利他を「課題解決のための合理的な手段」として考えるものである。理性的利他主義は、利他の具体的な行為を、「理性によって個人よりも大きな社会全体の利益や共通善のために起こす」ものである。効果的利他主義は、開発途上国への援助(寄付)のように、「効率性と費用対効果の最大化」を目的とするものである。法・原理的利他主義は、「宗教の教義や法律によって定められた義務」として行われるものである(97~99ページ)。これらの利他は、「『自然と切り離された人間』という前提のもと、まず『利己主義』を第一の選択肢として捉えた上で、その後に『利他』を実行しようとするものである。したがって、それは必然的に利己主義を土台とした利他にならざるを得ない」(103ページ)。
〇そのうえで渡邉は、「共感的利他主義」について次のように説述する。

共感に基づく利他主義(共感的利他主義)は、誰かが苦しんだり悲しんだりしているのを見た時、その人の状況に身を置き、自分ごととして苦しみや悲しみを感じて手を差し伸べる。現代では多様なメディアによって被災地の様子やさまざまな理由で苦しんでいる人が報じられると、身近な人のみならず苦しんでいる「知らない誰か」のもとにもボランティアが駆けつけ、それぞれの人ができる多様な援助が行われる。この利他のあり方は、相手からの見返りを期待したり、将来利他の行為の結果を取り戻す戦略を練ったり、計算・評価して効率的かつ費用対効果の大きい行為を選択したり(経済原理)、全体の利益となる法律や制度的仕組みを理性的に作ったり(政治原理)、個人の外側から善悪の判断によって定められたり(法技術原理)、ましてや自己実現を目指して行われるのではない。日常における他者との経験の積み重ねを通して、その時々の状況を捉えながら、私欲をとりはらって相手が何を望んでいるのかを瞬時に感じ取る、共感に依る利他である。相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他である。(99~100ページ)

〇そして、渡邉にあっては、「共感に基づくこの態度を社会で生きていく上のしつけとして、倫理として育んでいるのが日本の学校教育である」(100ページ)。日本以外の利他主義は、利己主義を土台にしたそれであり、自然を収奪の対象とする資本主義を中心的な原理とする「近代」の価値観から脱却できていない。「脱近代」(ポストモダン)を実現できるのは日本の利他主義とそれを含む教育である。新しいパラダイム(思考の枠組みや規範)においては、「日本の教育が育んできた利他のあり方こそ、改めて評価されるべきである」(95ページ)。
〇続いて、渡邉はいう。「共感を育む教育は、国語の読解方法の中に、そして綴方の伝統を受け継いだ感想文の中にあり、特別活動や多様な教科において共通して見られる教授法の中にも見つけることができる」(100ページ)。そして、具体的には、「五感を働かせた体験に基づいて感情を伝え合い、共感を育む日本の国語教育(読解、作文)は、世界から遅れた弱みではなく、AI時代にこそ強みとなる」(カバーそで)。すなわち、「共感の論理」は、AIにできない人間特有の能力を育むための土台となる。これが[1]における核心な主張である。

〇次に、「多元的思考」についてである。渡邉にあっては、「近代の成り立ちを歴史の大きな流れの中で捉えると、かつては宗教があらゆる領域を支配していたが、やがて『世俗化』が進み、宗教からまず政治が切り離され、次に法と科学が分離し、最後に経済が宗教と道徳から解放されて、それぞれが独立した機能を果たすようになった」(3~4ページ)。「近代における四領域への機能分化」である。そして現代社会は、「経済」「政治」「法技術」「社会」という異なる論理を持つ四領域によって構成されている。
〇それぞれについて渡邉はいう。「経済」領域では、「効率性の追求」を中心的な価値観に持ち、「経済活動を支える労働者・生産者の育成」を教育の目的とする。「政治」領域では、「公共の利益の追求」を中心的な価値観に持ち、「自律した政治的主体としての市民の育成」を教育の目的とする。「法技術」(「法」「規範」)領域では、「摂理と規範の伝授」(絶対的な知識や規範の伝授)を中心的な価値観に持ち、「宗教的、思想的、科学的に確立した『真理』を『規範』として伝えること」を教育の目的とする。「社会」領域では、「共感による連帯」を中心的な価値観に持ち、「他者および自己とのコミュニケーションを通じて社会秩序を成り立たせる道徳心を『自己形成』の一環として養うこと」を教育の目的とする(70~73ページ)。
〇そして、渡邉は、不確実性が増す現代社会においては、単一の「論理的思考法」に依存するのではなく、複数の異なる価値観に基づく思考を柔軟に使い分ける「多元的思考」が課題解決に不可欠である、という。すなわち、「多元的思考」は、「共感の論理」(共感的利他主義)を土台にして活かす実践的な能力である。[1]の、いまひとつの核心的な主張である。

〇以上の「共感的利他主義」と「多元的思考」の言説については、例えば、①人間と自然の関係性/人間と自然の関係論(環境倫理学)は多様であり、単に人間を自然の一部と捉える発想は、宗教や科学、文化を生み出した人間の独自性・特殊性を矮小化することにならないか、②利己・利他の二元論/利己主義と利他主義の二元論的な対比は単純に過ぎ、多様な利他主義の動機を過小評価あるいは等閑視することにならないか、③利他の情動性と社会性/「相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他」という「共感的利他主義」は、情動性が強調されるあまり、複合的に影響し合う社会的・継続的な地域課題の解決に向けた原理になりえないのではないか、④多元的思考の方法とプロセス/「多元的思考」は「柔軟に使い分ける」ことが求められるが、その具体的な方法やプロセス、評価基準などについての説明が不十分であり、どう考えるか、⑤感情と論理の連携/情動的な「共感」と論理的な「多元的思考」という性質の異なる能力は、どのように連携・統合され、課題解決のための実践的な能力になりうるのか、⑥教育目的の限定性/四領域における教育目的の指摘は、極めて狭く限定的で、偏りがあり、「教育の道具化」という批判を招かないか、⑦日本の学校教育現場の実態/いじめや不登校、教員の加重労働などの深刻な問題を抱える日本の学校教育現場は、国語教育(感想文)や特別活動によって共感を生む土台(場)たりうるのか、などが問われようか。
〇これらの点についての検討は、別の機会に委ね、ここでは例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。それは、「共感的利他主義」と「多元的思考」が、複雑で多様な地域課題の解決と市民が主体的・自律的に参加・共働する地域共生社会の実現に重要なひとつの論理的基盤となる、ということである。すなわち、具体的には、地域課題の解決や地域共生社会の実現に向けて「共感的利他主義」(人間的な温かさや倫理観)は市民の思考や対応にどう活かされるか、「多元的思考」(多元的に思考し判断する能力)は課題解決の実践方法やプロセスにどう貢献するか、が問われることになる。

阪野 貢/「中途半端さ」と「共事者」が “弱い紐帯の強み” を生む ―小松理虔著『小名浜ピープルズ』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、小松理虔(こまつ・りけん)著『小名浜ピープルズ』里山社、2025年5月。以下[1])がある。小松は「地域活動家」「ローカルアクティビスト」として知られる。[1]は、小松が生まれ・暮らす福島県いわき市小名浜での人との出逢いや触れ合い、出来事や活動の情景などを生き生きと描いたエッセイである。そこに書かれるのは、2021年つまり東日本大震災から10年を経た後の小名浜で生きる人たち(「小名浜ピープルズ」)と「ぼく」(小松)が交わした生の言葉(声)、すなわちリアリティである(19~20ページ)。その内容について[1]の “帯” は、こう記す。「東北にも関東にも、東北随一の漁業の町にも観光地にもなりきれない。東日本大震災と原発事故後、傷ついたまちで放射能に恐怖し、風評被害は受けたが直接の被害は比較的少なかった、福島県いわき市小名浜。著者はこの地で生まれ育ち〈中途半端〉さに悶えながら地域活動をしてきた。当事者とは、復興とは、原発とは、ふるさととは――10年を経た『震災後』を地元の人々はどう暮らしてきたのか。魅力的な市井の人々の話を聞き、綴った、災害が絶えない世界に光を灯す人物録」。そこで小松が問いかけるのは、今後も、どこかで起こりうる災害や出来事を、如何にして「自分ごと」として捉え、関わっていくことができるか(183ページ)、という点である。
〇[1]にしばしば登場する言葉に「中途半端さ」と「共事者」がある。その言葉に関する一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

中途半端な「当事者」としての葛藤
2011年の東日本大震災でも、ぼくの家はたしかに被災地とされる地域に含まれるけれど、倒壊したわけでも家族が命を失ったわけでもない。(11ページ)/たしかにつらい時期はあった。ぼくはある一面では被災者だったが、別の一面では被災者ではなかった。/ぼくは震災後、さまざまな活動を始めたが、外の人たちは、ぼくたちの活動を「被災地での取り組み」にカテゴライズしていく。ぼくはいつの間にか、「被災地でがんばっている男性」になった。(12~13ページ)。/ある時期から、ぼくの投稿は「福島で被災した当事者の声」としてひとり歩きしていった。閲覧数やリツイート数がものを言う世界で、自分の言葉に力を持たせるために、あるいはだれかを非難するために、「当事者」の言葉は好き勝手に都合よく持ち出され、本人の意志と関係ない方向で広がり、その先で論争をつくり出す。そこかしこに「真の当事者」が出現し、誤解や分断が深まり、語りにくい空気が生まれていった。部外者であればこんなことを悩まずに済んだのだろうか。ぼくは当事者と非当事者の間で、自分の「中途半端さ」に苦しめられた。(13ページ)

「共事者」という新しい視点
どこかに加害者としての側面があって、どこかで被害者の側面もある。ある課題では当事者であり、だけどある課題では当事者とは言えず、かといって無関心を決め込むわけにもいかないから、いろいろなことに興味や関心を持つけれど、すべての社会課題に関われる余裕もない。そういう中途半端で、曖昧で、揺らいでいる自分をそのまま丸ごと受け止めてみるしかないし、そこで踏みとどまるしかないんじゃないか。/なんなら、中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの被災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原爆事故の影響だってわからないじゃないかと思うようになった。そのプロセスで「共事者」なんと言葉が自分のなかから生まれた。共事者とは中途半端な人たちのことだ。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて出てきた言葉だった。(14~15ページ)

〇小松にあっては、東日本大震災で直接的な被害を免れたものの、被災地に住む者として当事者というレッテル(「被災地でがんばっている男性」)を貼られ、そのことが中途半端な当事者としての葛藤であった。そんななかで、地元でのさまざまな活動や人々との関わりを通して、この「中途半端さ」を否定するのではなく、それを受け入れ、むしろそこに意味を見出すようになる。すなわち、当事者と非当事者との間で揺れ動く存在を肯定的に認める。しかし、その立ち位置は、当事者でも専門家でもないという中途半端で曖昧なものである。またそれゆえに、それは多様な視点から物事を捉え、異なる立場の人々を結びつけ、新たな価値や役割を生み出す。その存在を小松は「共事者」と名付ける。
〇共事者は、「当事者の周囲にいて、関心を寄せたり、興味を持ったり、事の推移を見守ったりしている。つまり『事を共に』する」(177ページ)。小松はいう。「被災者とは言えないけれど被災地に生きている。被災地に生きているわけではないけどその土地に思いを寄せている。被災とは別の、でも似たような悲しみや苦しみを感じている。そんな『中途半端な人たち』が、ぼくたちの身近なところにたくさんいるということを忘れてはいけない」(18ページ)。
〇以上、小松が説く・提唱する「中途半端さ」とは、ある出来事において直接的な当事者ではないものの、無関係でもないという複雑で曖昧な立ち位置にある状態を指す。その葛藤からそれを肯定する過程で紡ぎ出された「共事者」という概念は、特定の事柄に対して当事者か非当事者(部外者、傍観者)かという単純な二項対立的な見方を超えて、より多角的で多様な「当事者性」や「共事者性」を認める視座を提供する。
〇また、「中途半端さ」を肯定し「共事者」という概念を創出したこの視点は、「まちづくり」においても大きな意味を持つ。それは、特定の専門家や一部の熱心な地域活動家だけでなく、それぞれが抱える「中途半端さ」や「曖昧さ」を認め合い、緩やかな連帯や共感のネットワーク(「弱い紐帯の強み」:アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッター)を構築しようとするなかで「事を共にする」という、新たなコミュニティ形成のあり方を提示する。ここで、次の一文を引いておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「寄り添えなさ」に向き合う
その人が見ている世界と自分に見えている世界が異なるのだとすれば、同情は傲慢になり、共感は暴力になってしまわないだろうか。他者とまったく同じ経験をした人はいないのだし、結局のところ、その当事者本人に成り代わることもできないのだから。体験も経験も悲しみも死者との向き合い方も人によって異なる。あなたの悲しみ、わかります、などとはますます言えなくってしまう。/じゃあどうすればいいんだろう。(223ページ)。/ぼくにできることといえば、その「寄り添えなさ」にこそ向き合うことじゃないか。ぼくらはみな、だれかの悲しみのよそ者だ。いま目の前にいる人は、自分とは異なる方法で悲しみと向き合っているかもしれない。自分の知っている世界などちっぽけで、その外側に、幾重にも幾重にも世界が広がっているかもしれない。そう想像してみる。寄り添えない世界に立って、それでもなお、他者との間に、細々とでもいいから手繰り寄せられそうな線を探し出そうとする。そんな営みの先に、きっと新たな世界が広がっていく。(224ページ)

〇さらに言えば、➀「中途半端さ」と➁「共事者」、そして➂「寄り添えなさ」という3つの視点は、「市民福祉教育」においても重要な意味を持つ。例えば、「中途半端さ」は、それを否定するのではなく、その姿勢を受け入れ、意味づけることを通して自己肯定感を育む。「共事者」は、他者への無関心を乗り越え、他者と「事を共にする」という連携・協働の姿勢を促す。「寄り添えなさ」は、他者理解の限界を認めながらも、継続的な傾聴と対話を通じて真摯に向き合う心構えや態度を養う。そして、これらの視点(➀自己肯定感の育成、➁無関心の克服と協働の促進、➂対話の心構えの養成)から人々は、地域の出来事や課題あるいは「まちづくり」について、多様な人々との緩やかなネットワークを構築する。そしてまた、その過程で人々は、主体的・協同的に学び、新たな価値や役割を見出すことになる。付記しておきたい。