「雑感」カテゴリーアーカイブ

鳥居一頼のサロン(9):「書く」

「書く」

文字を 小学校で習った以来
手紙すら書くこともなく
出す相手も いなかった わたし
勉強だって 好きじゃなかったから
本を読むのも 苦手だった
乳飲み子の妹をおぶって 通った学校
勉強に飽きたら
妹を泣かせて 校庭に退避した

年頃になり 口減らしで 隣村の貧しい農家に嫁いだ
山間の小さな村の 村はずれの小さな藁葺き土壁の家
朝から晩まで 野良仕事 子育てに追われる 毎日だった
そんな暮らしに こころがポカっと あいたまま ただ流された
誘われて 村の若妻会に ある晩顔を出した
農家の女も 自分のおもいを溜め込まないで
思ったことを 何でもいいから「書いてみれ」
そこに招かれた「女先生」に言われた

書くこと
考えた事もなかった
書くこと
ひらがなしか 書けなかった
書くこと
そったら時間なんか あるわけなかった

衝動が走った
「書きたい」
理由なんか ない
「書きたい」
暮らしの足しに なるはずない
「書きたい」
見返りなんか 期待もしない
「書きたい」
自分のいまのおもいを ぶつけたい

夜半 子どものちびた鉛筆を 手にした
おそるおそる 思い浮かぶコトバを 書きだした
小学校以来 初めて書いた綴り方
なんだか 嬉しくなった

この紙一枚の世界に 自分の書いたひらがなが 踊っていた
ただそれだけで こころが 休まるように 感じた
この紙一枚の世界に 自分の本音を 吐き出した
ただそれだけで こころが 落ち着いた
この紙一枚の世界に 嫁の過酷な苦しみから 一時(いっとき)逃れられた
ただそれだけで こころが満たされた

この一枚の世界だけが “わたし”という存在を明かす 自己の証明(しるし)
この一枚の世界だけが “わたし”に許された 思考の時間(とき)
この一枚の世界だけが “わたし”のこころを解放した 自由な空間(ばしょ)

「書く」ということ
文字を知った人間の 本質的な行動
それを 阻(はば)むことは 決して許されない
「書く」ということ
誰にも与えられた わき上がってくるおもいの表現方法
それを 拒(こば)むことは 決して許されない
「書く」ということ
社会的身分や血筋家柄 学歴や貧富を越えた 自由意志の世界
それを 否定する人は 
人間辞めなさい

〔鳥居一頼/2019年8月4日〕

※2019年8月16日改訂版。

「哀史」をつくる―姉歯暁著『農家女性の戦後史』読後メモ―

〇嫁に来たとき、何故か名前が変わっていた。隣近所の人たちから「みさを(仮名)さん」と呼ばれて驚いた。舅(しゅうと)は温厚で、それなりに気遣ってくれた。姑(しょうとめ)は一人息子の夫を溺愛し、私には厳しく、生活のすべてにわたって辛(つら)いことばかりだった。畑仕事は夜遅くまで、骨身を削られるほどにきつかった。盆も正月も、父が亡くなったときも在所(ざいしょ)には帰らせてもらえなかった。でも義父(おとうさん)と義母(おかあさん)をしっかりと看取り、送った。母(大正生まれ。享年95)の述懐である。
〇父と母は、地下足袋をはいたまま土間の椅子に座り、板の間に置かれた二つ三つの粗末な器(うつわ)で食事をした。ただ、父には箱善があり、器がひとつ多かった。いつも、である。近所から餅つきの音が聞こえてくるころには、短い時間ではあったが、餅つきが楽しみだった。それほど多くない餅と必ず、黒っぽい団子餅が搗(つ)き上げられた。決して美味しいとは言えない団子餅を食べるのは、母だけだった。舅と姑はもういないのに、である。
〇筆者(阪野)が小学生のころだったろうか。父との間で何があったかは知る由(よし)もないが、「しか~られて~」「しか~られ~て~」「……」。母の涙声を感じとった。真冬の夜、母は薄氷が張る大きな桶のなかで、市場(いちば)に出す野菜を洗っていた。母の手はひびとあかぎれで覆(おお)われ、大きく膨(ふく)れあがっていた。その野菜を父(明治生まれ。享年87)は、自転車やリヤカーに乗せて、片道1時間以上もかけて市場に運ぶのである。
〇筆者はよく病気や怪我をした。夜中、父が引くリヤカーに乗せられて、町医者に急いだこともあった。畑仕事がどんどん遅れていくことを気にしながら母は、筆者を背負って、バスに乗って町なかの大学病院へも通った。ある日、受付の不手際で診察が最後になったことがあった。午前の診察時間はとっくにすぎていた。そのときの母の顔は尋常ではなかった。ある日、母はつぶやいた。「あんたを背負って川に飛び込もうと思ったのは、一度や二度ではなかった」と。
〇こんなことを思い出したのは、『日本農業新聞』の広告欄に掲載された、姉歯暁著『農家女性の戦後史―日本農業新聞「女の階段」の五十年―』(こぶし書房。2018年8月。以下「本書」)が目にとまったときである。
〇筆者は10年ほど前から、地元JAの准組合員であり、「日本農業新聞」と雑誌『家の光』(家の光協会)を定期購読している。その新聞の「くらし」面に、「女の階段」という投稿欄がある。それは1967年に始まり、今日まで続いている。投稿者は「農家の嫁」「農家女性」「農村女性」である。
〇姉歯暁(あねは あき。経済学)は、本書の目的について次のように述べている。「『女の階段』の投稿と(1976年に初めて開催された「女の階段」全国集会のたびに刊行される:阪野)大会手記集には、高度経済成長期に大きく変化していく農村の風景と家族のありさまが見事に記録されている。その時々の女性たちの思いが綴られた投稿や手記は、まさに農村の内側からみたリアルな女性史であり、政治史、経済史、農政史であり、そして生活史そのものである。/結果的に複合的な視覚から歴史の動きを記録し続けることになったこの貴重な資料を軸に、ここに描き出されている農家女性たちの思いとその思いを生み出した時代を読み解くこと、さらに、直接的な言葉では語っていないにせよ、女性たちが『なぜ?』と問うてきた数々の『不条理さ』をもたらしてきたものを探ることが、本書の目的である」(13~14ページ)。
〇姉歯は、農家の嫁が書いた投稿文や体験手記を深く・広く読み込み、農家女性の生活や人生を細かく・丁寧に聞き取る。それに基づいて、戦後民主主義と農家女性の「戦後」、公害と農薬事故・被害、出稼ぎと農業の兼業化、農産物の輸入自由化、「日本型福祉社会」による在宅介護、などの政治的・社会的問題を浮き彫りにする。そしてそれらを、多面的・多角的に、鋭利に分析・洞察することによって農家女性や農村女性、労働(タダ働きと過重労働)と家事・育児・介護を担う「女性農業者」の“戦後史”に仕立てる。
〇しかしそれは、農家女性や農村女性の単なる“哀史”ではない。そこには、農家の嫁に寄り添い、その視点に立った「怒り」や「闘い」、「自立」や「解放」への共感や意志がある。そして姉歯は、現代の農業・農村問題につなげることも忘れない。ただ、姉歯が取り上げた投稿や手記の多くは上層農の女性たちによるものであり、1970年代後半から1980年代以降、「投稿欄から徐々に政策批判が消えていく」(16ページ)。留意しておきたい。
〇日本の農業・農村や農民は、アメリカ(「外」)と、政府や財界(「上」)による農政によって翻弄されてきた。それゆえに、農家女性たちは「女の階段」を通じて社会参加や交流・連携(「横」)を図り、(「下」から)一歩一歩「階段」を登り、展望を切り開いてきた。しかしいままた、TPP(環太平洋連携協定)やFTA(自由貿易協定)などの外圧あるいは内圧がかかっている。「地方創生」(2014年9月)をはじめ「女性が輝く社会」(2014年10月)、「一億総活躍社会」(2016年6月)、「地域共生社会(我が事・丸ごと)」(2017年9月)などの単なるスローガン政治が続いている。障がい者の雇用機会の確保を図るという「特例子会社」制度や、障がい者等の社会参加や地域貢献を進めるという「農福連携」事業、そして国際貢献の役割を果たすという「外国人技能実習制度」等々によって、「新たな哀史」がつくられている。
〇以下に、留意しておきたい姉歯の論点や言説と、農家の嫁の手記のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

自営業の農家の特徴――農家女性は経営者であり無償労働の提供者でもある
農家は自営業である。自営業はサラリーマンとは異なる特徴をもつ。それは、次の四つにまとめられる。第一の性格は自己雇用である。自営業の経営者家族内では、企業のように誰かを雇うのでも、労働者のように誰かに雇われるのでもなく、自分が自分を雇用する、すなわち自己労働を行う。第二に、独立自営であること、つまり経営権を持ち、経営主体として自立している存在である。第三に、家業であること、すなわち経営基盤が家族に置かれていることである。したがって、第四に、生業であること、すなわち、基本的に働く目的が利潤追求というよりまず暮らしを立てることにおかれている。「家」(いえ)とは「家の財産としての家産をもっており、この家産に基づいて家業を経営している一個の経営体」なのである。
したがって、女性たちは、自分の嫁いだ「家」=経営体を守るために、自らの利得を考えずに自己犠牲を払うことが求められる。それも自らの意思で、である。なぜならば、彼女はこの経営体の一員だからである。(27~28ページ)

「家」制度と純血主義――嫁は血筋から外れる存在であり「家族」ではない
嫁は、後継者を産み、生業を支える大事な働き手であると同時に、「血筋」からは外れる存在である。その意味で、嫁は「家族」ではない。(中略)家制度の強固なつながりからすれば、実際の「家族」は血族のみであり、本人たちも意識しないほどに深層に潜んでいるものは「純血主義」である。
経営権に関するすべての制度については「男系中心」におかれ、出産・育児については「母系中心」におかれる。したがって、嫁から生まれた子どもは、息子の血を受け継ぐものであり、子どもの所属は「家」にあるが、子どもの「血筋」を意識するとき、不思議なことにそれは「母系」を中心に据えられるのである。すなわち、嫁の子どもは、嫁という他人を通じて嫁の「血筋」を引き継ぐ存在であり、自分たちの「血筋」を引き継ぐものは「嫁に行った娘」の子どもなのである。
今でも多くの嫁たちが、子どものものを実家で揃えて持ってこいと言われ、しかも、その豪華さや品数を競わされることに苦悩している。(37~38ページ)

女性リーダーの再編――進歩的女性指導者が政府の国民的運動に加担した
山高しげり(1899年~1977年)、奥むめお(1895年~1997年)は、戦前は市川房枝(1893年~1981年)や羽仁もと子(1873年~1957年)らとともに婦人参政権運動の中心的役割を担っており、戦後、参政権が認められると、消費者運動のリーダーとして名を連ねるようになっていった。ただし、彼女らは、戦時中、国民精神総動員中央連盟に主要なメンバーとして参加し、女性たちをもっと徴用すべきとまで発言していた。いわば軍国主義の推進者であった。それが、戦後の日本で、消費者の権利拡大を要求し、くらしの向上を訴える側に立つことは一見すると対立しているようにも見える。
これらの女性リーダーたちの「戦争への積極的加担」の根底にあるものに対する若桑みどり(1935年~2007年。ジェンダー論)の分析は、この一見矛盾する行動の真の姿を明らかにするという意味で秀逸である。若桑は、進歩的な女性指導者たちが戦い続けてきた男性社会――それまで女性の社会的存在意義を無視し、締め出してきた――が、戦時中、生産現場における女性労働力の必要性を認めざるを得なくなったことを好機と捉え、自分たちが置かれている状況を改善できるチャンスと信じたのだと分析している。それは、戦後の生産性向上運動に再び彼女らが積極的に「加担」したことにも脈々と受け継がれている姿勢であるといえよう。
戦時にあっては、政府は国民を総動員するために、女性解放の闘士たちを逆に一般の女性たちに対するプロパガンダの担い手として再編していったが、戦後は、GHQ、政府、財界が生産性運動(①雇用の維持拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配:阪野)という国民的運動のプロパガンダの担い手として再び女性リーダーたちを再編していったのである。(41~42ページ)

GHQと政府の思惑――生活改善運動は生産現場と個人の生活の場までを包摂した
農村における生活改善運動の主たるものは、女性たちを農作業と家庭内労働の重労働から少しでも解放することに置かれていた。生活空間と作業空間の分離やかまどの改善、台所に窓を設け、日当たりや風通しを確保する台所改善事業、保存食や粉食(ふんしょく)の導入、農作業着の改善に加え、高度成長期に入ると、共同炊事、農繁期の保育所の設置など多岐にわたる活動が展開された。(50ページ)
生活改善運動は、一方ではアメリカと政府、財界の思惑を背負って、資本が生産現場だけでなく、個人の生活の場までを包摂しようとする衝動を原動力としながら進められたものである。家族計画を広めようとしたGHQの側にも、政府の側にも、現在では常識となっている女性の産む権利や母性の健康を人権(ヒューマン・ライツ)として捉える意識はなかった。その意味では、確実にこの運動は「上からの」押しつけでもあった。しかし、それは、戦争で失われた生活を再びとり戻そうとする生活者たる女性たちが受け入れたからこそ広がったことも事実である。
特に、受胎調節は、個人の性生活にまで国家が干渉するというものであったにもかかわらず、農村の女性たちに歓迎された。
当時、農村部では、避妊に対する夫の協力が得られないまま、幾度も妊娠し、その度に堕胎を繰り返し,死に至ったり、ひどい後遺症を負ったりする悲劇が頻発していた。(52ページ)

農業の近代化――「農業基本法」によって零細農家の整理と離農促進が図られた
「国民所得倍増計画」にもとづき公布された「農業基本法」は食料増産を主軸に置いた戦後直後の農政を転換し、輸入自由化路線を土台に据え農業の生産性を上昇させることを第一目標に掲げる、いわゆる「生産性至上主義」を示したものであった。と同時に、そこでは農業の生産性向上を図るために、農業の近代化、合理化を図る必要があり、そうすることで農業と他産業の所得格差の是正もはかることができるとする、第二の目標、すなわち所得の格差解消が掲げられていた。
基本農政のもとで進められた「農業の近代化」の「近代化」とは、実のところ、零細農家を整理してその分の農地を集約し、力のある農業者にこれを担わせることであった。(138ページ)
このような生産性向上が目に見えて計られていること、しかも、農家では後継の世代が大量に他産業へと流れていたことは、政府が考える「農業の近代化」を進めるために必要不可欠なものであった。零細解消のための技術的な要件はすでに揃っていた。ここに大規模な公共投資を行い、製造業労働者と肩を並べる賃金を得られる農家を育成するというのが、この所得倍増計画と、この理念に基づいて1961年に制定された「農業基本法」(1999年7月、「食料・農業・農村基本法」施行により廃止:阪野)であった。(138ページ)

「サンドイッチ世代」の自問自答――介護する側から介護される側になった
長年「女の階段」に継続的に投稿を寄せてきた女性たちの多くは戦後民主主義のもとにありながら、未だに家父長制的イデオロギーが蔓延する農村で悔(くや)しい思いを呑み込んで生きてきた、いわゆるサンドイッチ世代である。サンドイッチ世代とは「明治生まれの姑につかえ、戦後生まれの嫁との間に挟まれる世代」(中略)とされる。
この世代の女性たちは、自身の半生を介護に捧げ、いつか自分たちも嫁を迎えたら、それで自分は「嫁」としての役割から解放されるものと期待し、毎日を耐えてきた。その一方で、この世代の女性たちは、それまでの女性たちが背負ってきた不条理さを自分の代で終わらせたいと考える先進性をも身につけているのである。つまり、サンドイッチ世代とは、実は自分自身の中にある相克(そうこく)する感情に、葛藤を余儀なくされる世代のことでもあったのだ。
「女の階段」の女性たちは、自分自身が介護を受ける身になる時期が近づいていることを実感しつつ、この二つの相反する思いに自問自答を続けている。そして多くの場合、自分の介護に話が及ぶと、自分たちの世代がやはり次世代を解放できずに終わることを、ため息をつきながら認めることになる。(255ページ)

「日本型福祉社会論」のねらい――崩壊した共同体の再構築は夢想にすぎない
1979年、(中略)「日本型福祉社会」が新たな福祉政策のシンボルとして掲げられた。(264ページ)
日本型福祉社会論の目指すところとは、公的責任で運営されるべき福祉を自助努力と家族・地域の相互扶助に転換し、福祉予算を可能な限り削減することである。(266ページ)1970年代以降、すでに都市部やその周辺では、親と子だけの世帯、高齢者だけの世帯、もしくは高齢者を含む独居世帯が拡大していた。高齢化が進む農村部でも、若年層の流出がただでさえ顕著であり、地域全体で「人手不足」が常態化している現状からして、増える高齢者介護を地域で支える仕組みが作れるはずもない。加えて、ほとんどの農家が兼業となっている現状では、夫婦ともが農外労働に出ている家も多く、多世代同居であっても、常に家に介護者がいるわけではない。そんな中で福祉政策を在宅へと切り替えられれば、結局、介護する家族と、誰よりも介護される本人が福祉の枠組みから排除されるだけのことである。共同体を崩壊させながら歩んできた資本主義経済のもとで、崩壊した共同体を再構築することはただの夢想にすぎない。(267ページ)

学用品を買ってあげたい
子どもが小学校にあがるとき、学用品を買ってあげたいと思ったけれど、嫁に自由になるお金はなかった。買ってくださいなんて舅や姑にとても言えなくて、自転車に野菜を荷台からあふれるほどいっぱい積んで、暗くなるまで泣きそうになるのをこらえながら走り回って売った。そのお金で子どものものを買った。(姉歯による聞き取り、茨城県、2017年。本書〈以下、略〉35~36ページ)

子どものための万引き
学校の運動会、学芸会の時期になると、小さな万引きが農村地域で増加する、という労働省婦人少年局の調査がある。わが子のために、また、こどもにはずかしい思いをさせないためという親心が主婦の自由になる金がないため、つい手がでるという、いたましい母の姿ではないか。(『日本農業新聞』1965年5月7日付。36ページ)

「しまい湯に落つる涙」
「しまい湯に落つる涙を拭い得ずこの家に一人の味方も無しと」などという歌の抜き書きが目にしみて、ただ希望に満ちて生きてきたつもりの自分に、このような感情の起伏があったのかと、なつかしく思われ、若いお嫁さんへ同情がわきます。(中略)各人の努力と思いやりで公平な生活設計を家族みんなで打ちたてていきたいと願うものです。(『日本農業新聞』1970年8月20日付。81ページ)

豊かさの本質を考える
私たちの生活は本当に豊かな暮らしなのだろうか。生活は便利になっているが‥‥‥。豊富な物資、便利さの中の自分たちの生活を改めて振り返ってみるべきだと思う。(中略)昔に比べ、たしかに表面的にはゆたかになっているが、その代償は労働の増加と借金の増加ではなかろうか。豊かな生活は物の便利さとお金の豊かさだけだろうか。農村には農業から得た本当の豊かさを求めるべきではないだろうか。私たちはもう一度見直し、考え直す必要があると思う。(『日本農業新聞』1974年4月29日付。97、98ページ)

権力でおどされるのでなく
私達農民は生産物について質をよくし、農薬も適切な量と使用方法を守り、あくまでも安全良品への追求を忘れてはいけないと思います。米の減反政策でなく化学肥料や農薬の使わない有機農業をめざすべきです。(中略)「私達は今どこに向かって歩んでいるのであろう」と絶えず自問し、体は建物より、命は衣服より価値があるのです。権力でおどされるのでなく、あくまで人類全体の益をはかり進むべきではないでしょうか。(『「女の階段」手記集』第2集、1979年。114~115ページ)

農民と農協による農業潰し
農業潰(つぶ)しがここまで進んだことには農協の責任は大きいけれども、農業人(農民)の力不足ではないかと思います。農民も農協とともに歩んでくる中で、羽交い絞め(はがいじめ)にされ、丸め込まれて、それに男性がどっぷり浸(つ)かっている様子をみてきました。だから、JAの人も農民も外圧に負けない理論を学び身に付けるべきだと思います。(姉歯によるインタビュー。250ページ)

「私の人生は何なのだろう」
夫の母を15年間在宅介護で看とりました時、夫は「良く面倒を見てくれた。今度はおれの番だなあ」と何気なく言っていましたが、よもやこんなに介護の日が続くとは、思ってもみませんでした。(中略)(夫の)痴呆が始まってから4年半、何と私の介護生活は20年も続くのです。そして、これからも何年続くのか「私の人生は何なのだろう」と考えてしまいます。(『「女の階段」手記集』第8集、1996年。277ページ)

〇姉歯は、本書の「あとがき」で次のように述べている。「ここに描かれているものは、程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ。久しくなおらない病気)そのものである」(283ページ)。留意したい。

付記
(1)最近の「女の階段」投稿文を紹介しておくことにする。

(2)姉歯の言説の理解を深めるにあたっては、例えば、田端光美著『日本の農村福祉』(勁草書房、1982年7月)が参考になる。また、田端のことについては、田端光美著『坂と海と』(ドメス出版、2001年6月)がある。

もうひとつの「共生」:一人ひとりが大切にされ、「もろとも」の関係性で生きるということ―折戸えとな著『贈与と共生の経済倫理学』読後メモ―

有機農業によって自然と和解し、価格をつけない流通を成立させることによって貨幣の呪縛(じゅばく)から自由になる。それを実現させた一人の農民の営みを見ながら、本書は人間が自由に生きるための根源的な課題を提示している。(内山節:本書「帯」)

〇筆者(阪野)はいま、畑に作付けした夏野菜を収穫している。トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、トウモロコシ、オクラ、サヤインゲンなどである。夕食の食卓が賑(にぎ)わしい。有機栽培には程遠いが、土作りや肥料は牛糞堆肥と生ごみ発酵肥料、少しばかりの化学肥料、農薬は一切使っていない。そのせいか美味しい、そう思っている。ただ、トマトの元気が突然なくなったり(今年はとくに色づかない)、キュウリがびっくりするほど大きくなったり、トウモロコシを虫にご馳走したり、ナスのお礼肥(おれいごえ)を忘れたりと、いろいろである。別の畑では20輪ほどのヒマワリが、日照時間が少ない日々が続くなかでも、太陽に向かって伸びている(頑張っている)。
〇筆者(阪野)の手もとに、積読(つんどく)本の一冊であった、折戸えとな著『贈与と共生の経済倫理学―ポランニーで読み解く金子美登の実践と「お礼制」―』(ヘウレーカ、2019年1月。「本書」)がある。「贈与と共生」「お礼制」という言葉に興味・関心をもって購読したものである。
〇本書が事例として取り上げるのは有機農業運動である。有機農業運動は、「食と農を切り口として近代化、産業化、さらに国家主導の市場経済が牽引する経済合理性」(21ページ)へのひとつの抵抗運動である。この有機農業のモデル地域として注目されている“まち”に、埼玉県比企郡小川町(ひきぐんおがわまち)の下里(しもざと)地区がある。小川町は埼玉県中部に位置し、「和紙のふるさと」(「小川和紙」)としても有名な、人口約3万弱の町である。その下里地区における有機農業の取り組みに先進的・主導的な役割を果たしたのは、1971年に就農し、いま有機農業の第一人者と評される金子美登(かねこ よしのり)である。金子は、多くの消費者や地元の(農薬・化学肥料を使用する)慣行農家、企業経営者などとの「もろとも」(相共にすること)の関係性を重視しながら、「有機の里」霜里(しもさと)農場を営んでいる。
〇日本の有機農業運動では、生産者と消費者が直接農産物を流通させる方法を「提携」と呼ぶ。その「提携」のひとつの形態・手法として霜里農場で導入されたシステムに、「お礼制」と呼ばれるものがある。特筆される取り組みである。
〇「お礼制」は、「生産者と消費者が直接に関係を取り結び、両者が農産物の授受を行う仕組みのことをいう。基本的には農産物を『売買』するのではなく、生産者は農産物を消費者に贈与し、消費者側は各々の『こころざし』に基づいて農産物への『お礼』をする(おのおのがお礼の金額を考えて渡す)、ということから『お礼制』という名前がついている」(21ページ)。この方法は一般的な「提携」の方法ではなく、特異なものである。
〇「お礼制」とそのなかに埋め込まれている「もろとも」の関係性に関する重要な言葉が二つある。ひとつは、農場主の金子が折戸のインタビューに応えた言葉である。「『お礼制』に切り替えたことで精神的に安定し、百姓として人間的に開放されたみたい」(22ページ)。いまひとつは、福島第一原発事故に起因する放射能汚染問題が取り沙汰されるなかで、「お礼制」の消費者であった尾崎史苗が折戸のインタビューの際に語った言葉である。「心配は心配なんですけどね、金子さんのはね、“もろとも”と思いますよ」(24ページ)。金子に「人間的に開放された」と言わせた「お礼制」を解明し、尾崎に「もろとも」と言わせたその「関係性」の理論化を試みたのが本書である。
〇折戸は言う。市場原理主義の思想が「社会の非倫理化、社会的紐帯の解体、文化の俗悪化、そして人間関係自体の崩壊」(18ページ)などをもたらしている。その波は、近年「儲かる農業」「強い農業」などと喧伝(けんでん)される農業分野のみならず、「教育、医療など生活世界全体を覆う勢いで影響を及ぼし続けている」(18ページ)。「今人びとが生きる世界の中で『倫理』という言葉が盛んに使われるようになった」。それは、「他者をいたわり、自然への配慮を忘れずに、自分が属する社会のすべての構成員の幸福のために、責任を果たしつつ生きていくこと」を可能にするための規範として、「倫理」(「いかに生きるのか」「より善く生きるとは」)が模索されているからである(19ページ)。
〇このように説く折戸は、「お礼制」に内包されている「もろとも」の関係性の「倫理」的意味を考察する鍵概念として、「贈与」(互酬)と「共生」を用いる。「贈与」は「他者との関係性を豊かにすること」である。その際の「他者」とは、「私」以外の“人”と“自然”、「今」を生きるなかでの“過去”と“未来”などである。「共生」とは「もろとも」の関係性のなかで生きることである。その「もろとも」の関係性には、「自由・責任・信頼」が不可分に埋め込まれている。「自由」は能動的で自律的なそれ(別言すれば、消極的な「~からの自由」ではなく積極的な「~への自由」)であり、「責任」を担うことによってもたらされる。「責任」は「信頼」に報いることであり、「信頼」は「責任」を果たすための根本的な条件である。こうした「贈与」と「共生」には「覚悟」が必要である、と折戸は言う。
〇ここで、筆者が留意したい折戸の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(一部抜き書き。見出しは筆者)。

抵抗運動と「もろとも」の関係性
世界各地で大小多様な抵抗運動もまた活発化している。(中略)これらの人びとの動きは、多種多様に見えるが、その根底にある問題意識には共通点が見られる。人間の管理社会の広がりに対して自由、貧富の格差に対する平等、管理主義や全体主義に対して民主主義、恐怖や憎しみに対する相互扶助やケアといった生の根源に関わるテーマがその運動が問うている問題群である。(18ページ)
巨大システムの中で個が一括管理されていくような世界で、自然と不可分につながっている人間たちの尊厳をかけた(抵抗)運動は、私たちの生存と生きがい、生産と再生産、自由、責任、信頼にとってなくてはならない不可欠な要素なのである。その意味において、たとえすべての人が、生活全体を「もろとも」の関係性で構築することは不可能であったとしても、このような関係性のない世界では、私たちは生きることができないといっても過言ではないだろう。(335ページ)

「もろとも」の特性と「他者」
「もろとも」とは、端的にいえば「不可分性」を表する言葉である。不可分であるということは、あるものとあるものがつながっている状態を表しているが、「もろとも」とは、一体化、統一、統合ではなく、それぞれのかけがえのない唯一無二の「個」がまず存在し、それらは決して同質なものになることではないということを前提にしている。それゆえ、この「もろとも」の前提には、そもそも、一体化しえない、絶対的な外部、他者の存在が認識されなければならない。「もろとも」とは、言いかえれば別個のものが「つながりあい」、「重なりあう」状態を示しており、異なるものが融解し一つの物質のようになっている状態を表しているのではない。むしろ、決して混じりあうことのないもの同士が、その混じりあわない状態のまま、しかし、必要とされる者同士が「いかに共存するのか」ということを意味している。その意味において、「もろとも」とは「不可分性と相互補完性」の両方を併せもつ概念である。(300ページ)
他者という絶対に交わらない相手、理解できない相手を前提にしながら、相手をどう認識し、受け入れながら生きるのか。絶対的な他者の存在、その他者といかなる関係性を構築するのか、そのような関係性の構築のあり方が、(中略)「もろともの関係性」なのである。(301ページ)
時間においても、存在においても、他者とは絶対に内部化されない何か、もっと言えば決して内部化されてはならず、また私たちが容易に抹殺したり、消し去ったりすることができないなにものかとして、そこに「ある」。そして、その他者が「ある」こと(存在すること)によってのみ、自己は初めて成立できるという相互補完関係性が「もろとも」であり、その分かちがたい関係性は「もろとも」の不可分性である。この関係においては、他者は自己の存在の理由であり、条件となる。(301ページ)

「覚悟して受け入れること」と希望
(ポランニーの)resignation(覚悟して受け入れる)ということは、いかんともしがたいこの世の悲惨や社会の状況、例えば放射能汚染を単に受け身で受け入れて諦(あきら)めてしまうことでもなければ、それに順応し、何ごともなかったかのように思考停止して生きる道でもない。そのように私たち自身が何かを放棄してしまうこととは異なるのだ。その社会の現実を認識したうえで、受け入れなくてはいけないと一旦あきらめにも似た境地を通りながらも、なおかつ悪に対しては、否と言い続ける力をもち続け、より善き生き方を模索する人間の姿勢をいうのだろう。そこには、絶望ではなく、希望がなくてはいけない。ポランニーが「希望の源泉」という言葉を使ったのは、希望なきところには、そのような方向へ舵を切り、一歩を踏み出すことができないことを自らの第一次世界大戦の苦悩、そして第二次世界大戦の悲劇の中から学び取ったからであろう。覚悟して受け入れるとは、決して飼いならされて長いものに巻かれることではなく、絶望的な現実を認識しつつ、にもかかわらず、かすかであっても希望を捨てずに前進するという積極的な力の源泉となるのである。(328~329ページ)

〇本書は要するに、人間が「共に生きるとは何か」を問い、人間の「生の全体性を回復する」ためのひとつの「解」を有機農業の現場実践から提起したものである。その解は、市場原理主義が席巻(せっけん)する現代社会において、人びとに“希望”を与え、人びとを“元気”にする。
〇福祉(福祉教育)の世界ではいま、「地域共生社会」を実現するための「我が事・丸ごと」に関する実践や研究が流行(はや)りである。しかしそれらは、確固たる思想的・倫理的なバックボーンを持ち得ていない。それゆえに、社会保障費を抑制・削減するために国家責任を曖昧にしたまま、「地域生活課題」の解決に向けて自助・共助を強調し、地域社会や個人にその責任を負わせ、その「丸投げ」に加担することにもなる、といえば言い過ぎであろうか。「我が事・丸ごと」は、「もろとも」(自由・責任・信頼と共生)の視点・視座や考え方とは異なる。

補遺
「経済は社会のなかに埋め込まれている」(「埋め込み」概念)と説いたカール・ポランニー(Karl Polanyi、1886年~1964年)とその言説のごく一部を、若森みどり著『カール・ポランニーの経済学入門―ポスト新自由主義時代の思想―』(平凡社新書)平凡社、2015年8月、から紹介しておくことにする。

ポランニーは、19世紀的市場経済の行き詰まりから20世紀の激動の時代を生きた、ハンガリー出身の社会科学者(経済学・政治学・社会哲学。イギリスやアメリカで活躍:阪野)である。(中略)「社会における経済の位置」という視点から、市場社会の危機とファシズム台頭との関連や市場社会と人間の自由との関係を議論し、自由を効率の犠牲にしない産業社会の可能性を追究する著作を残している。(12ページ)

ポランニーは、歴史的、経済的、政治的、社会哲学的な深い洞察に基づく類例のない市場社会論を構築した。本書(若森)で詳しく取り上げる市場社会に関するポランニーの命題は、次の六つから構成される。
(1) 市場経済の拡大は人間の福祉と共同社会への脅威である。
(2) 市場経済の拡大がもたらす脅威に対して、さまざまな社会の自己防衛運動が動き出す。
(3) 市場経済は自然の産物ではなく政府の干渉によって構築された。
(4) 市場社会の許容する民主主義は制限されている。
(5) 市場社会が保障する平和は脆(もろ)い。
(6) 市場社会の自由は制限されている。(13ページ)

ポランニーは、経済を(1)人間と自然との相互作用の過程と(2)相互作用の制度化という二つの次元から把握する。「互酬・再分配・交換」は、人間と自然の相互作用の制度化の次元での分析概念として位置づけられており、この三つの分析概念は経済過程に安定性と統一性を与える「統合パターン」として定義される(互酬=集団や共同体における財・サービスの贈与、再分配=国家(中央)による財・サービスの取得と分配、交換=市場における自由な競争:阪野)。(207ページ)

ポランニーにとって真の自由とは、社会的自由である。それは、社会的存在としての人間は、自分と選択と行動が不可避的に引き起こす他者に対する影響の責任を引き受けることを通して自由でありうる、というもので、責任からの自由(逃走!)を支持することに無自覚な経済自由主義的な個人的自由の概念とは真っ向から対立する。(243~244ページ)

鳥居一頼のサロン(8):「福祉の授業の醍醐味」

「福祉の授業の醍醐味」

福祉の授業を終えて 校長室に戻った
校長は ソファに座ったまま 一言も発しなかった
沈黙が しばらく続く
耐えかねて 一緒に参観した教員が 口を開いた
「校長先生 そうですよね!」
校長は ただうなずいた
「どうしたんですか?」
「あの子らが 一人ひとり 自分の意見を発表するのを 初めて聞いたんです」

6年生45人との授業は 約束事が二つあった
ひとつは 
意見のある子は 挙手せず 必ず立つこと
自分の意見を聞いてほしいという 意思表示のカタチ
だから立つ
ふたつに ある子の発言を受けて 「同じです」という言葉を 禁句にしたこと
「同じです」と答えた子どもに 
「君の言葉で 言ってごらん」と促すと
少し意味が違った言葉が 返ってくる
「ほら 友だちとは少し違うね まったく同じではないね 
まったく同じには 決してならないんだ 
それが 人とは違う“きみ”である ということなんだよ」
子どもは 嬉しそうに 笑顔を見せた

そこから 子どもらは「自分の言葉」で 話さなくてはならなくなった
質問した
全員が立つまで 待った
見ている教員らは いぶかる
最後の一人が 不安げに立った

さあ 答えよう
順番に 自分の言葉で 答えていく
自分の番が終わると 緊張感から解放されてか ほっとため息を吐く
順番が進むにつれ 言葉につまりながらも 発言は続く 
前の子が何を言ったのかを 頭の中で反芻(はんすう)しながら 言い終える
残り十余人 山場を迎えた
「これから発表する子は 大変だね
だって みんなが言葉を 出し尽くしてしまった後に 
どんな言葉を使ったらいいのか すごく悩んじゃうね
最初に考えていた 自分の言葉を使われてしまったら 
また別の言葉で 考えなくてはならない
今まで発表してきた子よりも 
頭の中のコンピュータが ものすごい勢いで高速回転して 
言葉を探しているんだ 
すごいだろう 
だから がんばれって 応援してあげて」

その瞬間 自分の番が終わって ホッとした子どもたちの 目の色が変わった
「自分の言葉で話す」 
その大変さと面白さを 教室のみんなで 初めて味わう喜び
もがきながらも 言葉を生み出す苦しみを 共有した瞬間だった
最後のひとりの発表が終わると
期せずして 歓喜の拍手が起こった
やり遂げたという 充実感と満足感が 笑顔になって 教室を満たした
 
「あの6年生は 自分の意見を 自分から進んで発表する子どもたちでは ないんです」
何度も うなずく校長
「一人ひとりが 真剣に言葉を探しながら 自分の意見を堂々と発表したんですね」
強く うなずく校長
「僕ら教員が 打ちのめされた授業だったんです」
下を向いて うなずくしかない校長

子どもたちは 「自分の意見を持てず 進んで発表できない子」だと
烙印(らくいん)を押されたまま 6年間 学校に通ってきた
そう勝手に思い込んだ 教員集団は 子どもたちを洗脳(せんのう)し 
“出来ない子”のイメージを 植え付けてきた
だから 自信なげに 誰かに追従し 周りに調子を合わせる  
みんなと“同じです”が いつも逃げ道となり 卒業のときを 迎えていた

きょうの日が 子ども自身も教員も 変えた
取り返しのつかない “思い違い”をしていたことを 初めて知らされたのだ
そこには 彼らが求めてきた“子ども”たちが 実在していたのだった
予想外の展開は 教員の思惑(おもわく)から外れ
“以外だ”と いままで片付けてきた 教員の思い上がりや思い違いに 
気づかせるのは 容易なことではない
でも 子どもらは いとも簡単に 集団でやってのけた
自分にも仲間にも そして教員にも ポジティブな言動で 
見事に 他人(ひと)とは違う“わたし”であることを 意思表示したのだ 

教室での同調圧力が 子どもを圧迫し 
どれだけ その成長を阻害(そがい)してきたことか
子どもを理解するチャンスを 
どれだけ 見逃してきたことか
教員も子どもも その思い込みを変える機会を 
どれだけ 放棄(ほうき)してきたことか
子どもが身につけた能力や態度を引き出すことに 
どれだけ 手抜きしてきたことか
子どもに 負のレッテルを貼って 貶(おとし)めてきたことへの 深い悔恨(かいこん)
それが 重い沈黙の理由だった 

教員が思い込む その頑(かたく)なさを 打破しなければ 
子どもは いつまでも 彼らの思惑の中でしか 生きられない
彼らこそが 意識を変えなければならない存在そのもの
子どもと向き合うということは 
子どもの多様な有り様を共に見て 理解し合うということ
そこに 陶冶(とうや)の正否が 問われるのだ

なぜ 一期一会の「福祉の授業」で 子どもらは 躍動したのか
授業は 子どもらのおもいを そのままただ受けとめただけ
そこに生まれたのは “信じ合う”という空気
だから 意思表示することが 素直に面白いと感じる
自己肯定感が 仲間と共有された結果
彼らの思考と判断と行動を縛ってきた“しがらみ”から 自らを解き放った 
授業という枠組みの中で機能してきた “評価される発言”という苦痛ではなく 
自由で豊かな発想を 自らの言葉で語る喜びを 彼らは深く味わったのだ 

もしも この機会がなかったら…
彼らは 誤解されたままの 子どもたちであったに違いない
学び合うことの喜びを知ることなく “生きる”ということは 
悲劇でしかない

福祉の授業の醍醐味(だいごみ)は 
人間教師としての 「共育への道」を 探求すること
それは 
子どもが魅了(みりょう)される 学びの世界へと導く 道程となる

〔鳥居一頼/2019年7月12日〕

鳥居一頼のサロン(7):「The End of JAPAN」

「The End of JAPAN」

いつの頃から 社会に 
こうも鈍感(どんかん)な人間が 増殖蔓延(ぞうしょくまんえん)していったのか。

公害問題は 水俣病とスモッグともに過去形で語られ ジエンド。
環境問題を提起した 大津波による原発の爆発事故後の 全面停止も 
他所の原発再開で ジエンド。
政(まつりごと)のごたごたは 
為政者の誠実な説明拒否と 官僚の巧妙な忖度(そんたく)で ジエンド。
経済の振興も 数字上のバーチャルな世界を誇張(こちょう)して ジエンド。
国防も 沖縄の民の声を無視するばかりか 
ただただ 膨れあがった防衛費の浪費に 勇往邁進(ゆうおうまいしん)して ジエンド
子育ても学校教育も 子らの知情意 そして体の成長のバランスが崩れて ジエンド
医療と福祉は 保険料と年金のパイの実の奪い合いで破綻(はたん)し ジエンド。
天災地変は 国土防災力の欠如が露呈(ろてい)し 
回避不可能なため 被害甚大(ひがいじんだい)に陥(おちい)り ジエンド。

民は “鈍感力”という自衛力を 強化した。
社会に逆らわず 人ごとに干渉(かんしょう)せず
“あきらめ”という 思考停止の保護バリアを 張り巡らす。
わずかばかりの生活費を 稼ぐだけの仕事に就き 
欲をかかず ひたすら慎(つつ)ましく暮らす。  
何も考えず 不平も言わず スマホに指を走らせるだけ。
特にすることもなく 寿命が尽きて 
ジエンド。

こうして 
無為無策(むいむさく)の民は 
鈍感力で “生きにくさ”を 克服して 
静かに 終焉(しゅうえん)のときを 迎えた。
虚構(きょこう)の政を行った 権力者は 
支配する民を失い 自滅(じめつ)した……そうな。

残されたもの。 
返済不能な 国の莫大(ばくだい)な負債
都会の 廃墟(はいきょ)と化した 灰色の街並み
そして 毀損(きそん)された 戦争放棄の崇高(すうこう)な憲法
だった……とさ。

〔鳥居一頼/2019年7月6日〕

「生きづらさ」再考―一昔前と変わらぬ“いま”を考えるためのメモ―

〇「生きづらさ」という言葉や概念が使われるようになって久しい。藤野友紀(教育学)によると、「生きづらさ」という言葉が用いられたのは、雑誌記事検索で調べてみると、1981年の日本精神神経学会総会において「主体的社会関係形成の障害と抑制」として語られたのが最初である。2000年以降、「生きづらさ」などをタイトルに掲げる論考は一挙に増え、その学問的・実践的分野や領域も確実に拡がっている(藤野友紀「『支援』研究のはじまりにあたって―生きづらさと障害の起源―」『子ども発達臨床研究』創刊号、北海道大学、2007年3月、46ページ)。
〇「生きづらさ」の近接・関連用語に「障害」や「バリア(障壁)」がある。「障害」についてWHO(世界保健機関)は、2001年5月、ICIDH(国際障害分類)に変えて人間の生活機能と障害の分類法としてICF(国際生活機能分類)の考え方を提唱した。それは、「心身機能・身体構造」「活動」「参加」の3つの次元と「環境因子」「個人因子」の2つの因子によって構成されている。「バリア(障壁)」は、一般的には「物理的バリア」「社会的バリア」「制度的バリア」「心理的バリア」の4つに分類される。周知の通りである。
〇「生きづらさ」という用語や概念は曖昧である。しかもそれは、子ども・青年や貧困者、高齢者、障がい者などに固有のものとして、個人的・主観的な心情や問題・課題として捉えられることが多い。しかしそれは、モラルハザード(道徳性や倫理観の混乱・欠如)によるものではなく、現代日本の社会構造(現代資本主義)の政治的・経済的・社会的そして歴史的な欠陥や矛盾によるものである。その欠陥や矛盾は、1990年代、2000年代以降、なんら解決・解消されることなく、むしろ多様化・多層化・多元化が進んでいる。2016年3月に施行された安全保障関連法や2018年12月に発効した環太平洋パートナーシップ(TPP)協定(経済連携協定)などによる現代版「富国強兵」政策が推進される“いま”においても、である。
〇「生きづらさ」とは、社会や組織のなかに自分の「居場所」(「要場所」)が見つからず、将来(あす)への希望や展望をもつことができない生活上の困難や不利益を被(こうむ)っている社会的排除の状態をいう。
〇「生きづらさ」は、一人ひとりが抱える困難・不利益や不安・不満を自己責任に「内閉化した問題」や「他者との関係性」の歪(ゆが)みなどとして、複雑で多面的な様相を呈している。貧困のなかで思考や意欲までも奪われる人(湯浅誠「意欲の貧困」)や、社会や組織・集団における人間関係をうまくつくれない人などが思い起こされる。そうした人たちは、社会(財界)が求める制度やシステムによって選別・分断され、排除されている。
〇“いま”求められるのは、「生きづらさ」の正体を暴(あば)き、その今日的現状をあぶり出し、その解決策(社会参加支援や居場所支援などの社会的包摂支援)を探求することである。それは、対症療法的な単なる処方箋ではなく、「下から」のまちづくりや地域・社会改革を志向するものでなければならない。その担い手は言うまでもなく、「生きづらさ」のなかにいる一人ひとりの住民・市民であり、社会的・政治的アプローチを行う支援者や組織・団体である。そこでは、表面的な同情や共感ではなく、真の連携や共働のあり方が厳しく問われる。
〇「生きづらさ」や「生きにくさ」をタイトルにした本は、筆者(阪野)の手もとには5冊しかない。以下がそれである。

(1) 中西新太郎『〈生きにくさ〉の根はどこにあるのか―格差社会と若者のいま―』(前夜セミナーBOOK)特定非営利活動法人 前夜、2007年3月(以下[1])
「苦しいけれど声が出せない日常を生きるのが若い世代の状態である」(5ページ)。本書は、その「生きづらさ」や「現代日本の抑圧構造」を確かめ、検証するために行われたセミナーの記録を中心に編まれたものである。国家主義と新自由主義とを合体させた政治体制のなかで、「まさか生存権が保障されないはずはない、という思いこみは通用しない。生きづらいと思うことさえ許されない抑圧状況はいっそう深く、広く、この社会に進行している」(6ページ)と中西新太郎(社会哲学)は説く。

(2) 湯浅誠・川添誠編『「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ―』旬報社、2008年11月(以下[2])
本書は、社会活動家である湯浅誠と川添誠が「現代日本の生きづらさ」をテーマに、本田由紀(教育社会学)、中西新太郎(社会哲学)、後藤道夫(社会哲学)の研究者と行った鼎談を纏(まと)めたものである。湯浅は言う。「結局、私たちは『NOと言える市民・労働者・消費者になろう』と呼びかけたいんだ、と最近よく思います。こんな政治家はいらない、そんな非人間的な労働はしない、そんな商品は買わない、と個々の場面で人間(生)・労働・商品のダンピングに否をつきつけられる社会にしたい。それが言えるなら、そしてそれを言っても孤立しない、大丈夫だと感じられるようになれば、この社会の『生きづらさ』は相当程度軽減するだろう、というのがわたしの見通しです」(9ページ)。

(3) 香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己『「生きづらさ」の時代―香山リカ×上野千鶴子+専大生―』専修大学出版局、2010年11月(以下[3])
「現在確かに『生きづらい』状況が、人間の内側(こころ)にも外側(社会)にも蔓延している」(荒木敏夫、8ページ)。本書は、「生きづらさのゆくえ」をテーマにした講演とシンポジュウ、それを聞いた学生たちの座談会の記録である。講演では、香山リカ(精神科医)が「生きるのがしんどい、と言う若者たち」、上野千鶴子(社会学)が「ネオリベ改革がもたらしたもの」について「こころ」や「社会」の問題を解きほぐす。

(4) 岡田尊司『「生きづらさ」を超える哲学』(PHP新書)PHP研究所、2008年12月
親と折り合いが悪い人、いわれのない不安に悩む人、心に空虚感を抱えている人、「絆」に縛られている人、自分が何者かわからない人、生きる意味が見つからない人。「生きづらさ」を抱える人が増えている。アルツール・ショーペンハウァー(ドイツの哲学者)、ヘルマン・ヘッセ(ドイツの詩人・小説家)、サマセット・モーム(イギリスの小説家・劇作家)らの生き方や岡田尊司(精神科医)自身の豊富な臨床経験を通して、「生きづらさ」を乗り越え、自分らしく生き抜くための哲学を描き出す。それが本書である。岡田は最後に言う。「生きるための哲学は、生きようとする営みのなかにこそある」(253ページ)。

(5) 小山真紀・相原征代・舩越高樹編『生きづらさへの処方箋』ナカニシヤ出版、2019年2月
本書は、京都大学のメンバーを中心に2014年に立ち上げた共同研究による、「生きづらさ学」からの実践的アドバイスの本である。そこでは、「過保護,性差、外国人差別、発達障害など、学生生活をメインに想定した種々の『生きづらさ』を分野横断的に分析し、克服の具体的方法を提示する」(「帯」より)。その際の「処方箋」(ヒント)は、臨床現象学をはじめ、社会学、法哲学、文化人類学、防災学、障害学生支援、精神医学、環境分析など、まさに分野横断的・俯瞰的視点に基づいている。「生きづらさ学」は「生きづらさの横軸」を探す学問であり、「生きづらさの共通性」や「他者との関係性」に留意する必要がある、と言う。

〇さて、本稿ではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

困難の内閉化と「自己責任論」
被害を被(こうむ)っている側に「自分に責任がある」と感じさせてしまう、つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会にいたるところで蔓延(まんえん)している。(中略)一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じこめる強烈な力がはたらいている。私には異議を申し立てる権利があると言わせない、封殺する力である。責任を偽装すると言ったほうが正確であるが、これは、きわめて深い抑圧の姿である。(58ページ)
このようなレトリック(表現の仕方)や自分に責任があるという感じ方を導く有力な言説として「自己責任論」がある。(中略)抑圧された者たちを徹底的に無力にしていく思想的回路として、自己責任論をとらえる必要がある。(59ページ)

自立支援と「生存権」の損壊
(近年の「自立支援型政策」にいう)政策言語としての「自立」は、公的・社会的な支援に頼らずに自己責任で生きていくという意味である。(128ページ)
「権力」と「社会的無力」という不平等な関係を含んだ(自立―依存関係)が「自立」のあるべき姿として押しつけられている。(128ページ)
生存権を保障する政策は、事情があって自立できない人たちが対象であるが、自立支援型の政策では、「自立」の見込みや「意欲」の有無という新たな尺度で対象者を再分類する。(129ページ)
生存権を平等に保障するという考え方が崩れると、どのような結果が表れるか。意欲や見込みのあるなしは、権力者によって認定・選別されるから、保障を得るには、自分は意欲も自立の見込みもない「真の弱者」だと認めなければならない。(129ページ)
つまり、自立できない存在は完全に無力であるとされ、自立できぬ以上他の人よりも低い処遇に甘んじるよう社会的に強制される。「国家の慈悲によってはじめて人権を保護される」存在になる。19世紀に福祉国家の観念が出てくるまで通用してきた「残余的福祉」という考え方である。(129ページ)
「自立支援」は、「真の弱者」をあぶり出し、同時に、自立してがんばろうと思う者を「貧困な自立」の状態に固定していく、という結果を招くのである。(中略)「自立支援」という政策を使って絶対的な貧困を受け入れさせる、生存権損壊(そんかい)のスパイラル(螺旋〈らせん〉)が出現するのである。(130ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」と「生きづらさ」
「生きづらさ」の問題をつねに社会的次元で捉えようとするわたしたちの立場からすると、どうしても必要になるのは、現状を丁寧にあぶり出していくことで、自己責任論からの転換を図ることである。(湯浅、6ページ)
大きなレベルで自己責任論を批判することは、ある意味では易(やさ)しい。構造改革や新自由主義といった用語をもち出せば、何かが言われ、何かがわかったような気がしてくる。しかしそのことと、目の前にいる一人ひとりと向き合い、対応することが切り離されていたら、総論としては自己責任論を大いに批判する人が、各論ではその子・親族・友人にたいして自己責任論を振り回す、という悲喜劇が起こらないとはかぎらない。残念ながらそれは随所で起こっている。そうなると、現実には貧困状態に追い込まれていく人たちの数は減らない。自己責任論批判が増えていったとしても、現実の場面では、個々に切り捨てられていくからである。(湯浅、6~7ページ)

「自立」が強いる「生きづらさ」
貧困者(貧困のなかにいる若者)にとって、「自立」は存在しえない。ところが、(中略)(彼らは)つねに“社会”から“家族”から「自立」を迫られている。「いつまでもフラフラしていないで、まともな仕事について早く一人暮らしをしなさい」と。彼ら自身の仕事は、本人の選択によるものとされ、彼らが抱える困難は「自己責任」によるものとされる。彼らにとっては、「自立」は目標でありながら、自分自身を締め付ける抑圧の言葉である。(河添、19ページ)
「自立」をめざせばめざすほど、彼らは非人間的な労働環境への順応を要請される。しかしながら破壊された労働環境は、彼ら自身を安定的に「自立」させるようなものではないから、破壊された労働環境によって今度は労働者の精神状態が不安定になっていく。貧困と「自立」は両立しえない。(河添、19ページ)
このように、貧困のなかにいる若者は、「自立」しようにも「自立」しようがない。貧困を根絶していくことなく、「自立」を促すことはありえない。(河添、19ページ)

「強い市民社会」と“居場所”づくり
「強い市民社会」というのは、弱肉強食の市場原理にたいしてきちんと歯止めをかけられる社会、人間の弱さを認めて受け止められる社会、弱さの認識から相互扶助・社会連帯の必要性の認識を通じて、「市場」とは異なる「社会」を構想できる社会、を言う。そういう「強い市民社会」が確立していれば、社会制度はおのずと変わっていくはずである。(湯浅、174~175ページ)
「意義申し立てする社会連帯」というのは、「これはおかしい」ということを話し、数人なり、数十人のグループができれば、それでもって社会的に訴えていく、それが当たり前に行なわれるような、そういう社会的な雰囲気をつくっていきたい。(湯浅、175ページ)
「強い市民社会」をつくるうえでの(労働)運動論的なポイントは、(中略)究極的には“居場所”である。つまり、不満を言い合って、「おかしい」と思ったことをかたちにできる場所である。(河添・湯浅、177ページ)
社会に向けて発言ができたり、ただその場にいるだけでもお互いが尊重される安心感・信頼感を感じられる空間としての“居場所”が大事だと思う。(湯浅、178ページ)
「たたかうためには、たたかわなくていい“居場所”が必要である」。(中略)たたかわなくていい“居場所”は、たたかうための必要条件みたいなものである。(中略)そういう“居場所”が社会のなかから減ってきている。(湯浅、179ページ)

〇いまひとつ、[3]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「非行から自傷へ」と「ネオリベ改革」
社会学では社会というのは、個人の集まりではなく、ふるまいの集合である。(中略)人々のふるまいの集合に一定の規則があるから、その行動がなにを意味しているかがお互いにわかるおかげで成りたっているのが社会というものである。(上野、57~58ページ)
(1980年代から90年代頃から)いわゆる青年期の逸脱といわれるものが(中略)変化してきた。それを簡単に言うと、非行から自傷へ、である。他人を傷つけることから、自分を傷つけることへの変化である。(中略)攻撃衝動というものが、他者から自己へ向かっているのではないか。何か困ったことが起きたときになんでこんなことが起きたのか、誰が悪いのかと思ったときに「私が悪い」というしかないから、生きづらい思いをするのである。これを、「私が悪い」という代わりに「貧乏が悪い」、「社会が悪い」、「学校が悪い」、「先生が悪い」、それから「資本家が悪い」とか言えたらラクである。(上野、64~65ページ)
それなのに、誰も自分以外の人を悪いと言えず、責めることができないために、自分自身を責めるほかない。それで攻撃衝動が我と我が身(われとわがみ)に向かう。なぜそういうことが起きたのか? (それは社会学者によると)「社会が変わったから」(中略)社会環境やルールが変わったからである。(上野、65ページ)
(その一つが)いわゆる「ネオリベ改革」(「ネオリベラリズム」つまり「新自由主義」改革)と言われるものである。(上野、66ページ)
ネオリベこと新自由主義とは、ごく簡単に言うと市場万能主義のことである。公平な競争のもとで勝ち負けを争って、勝ったら勝者の能力と努力のおかげ、負けたら敗者の無能と怠惰のせい。そういう「自己決定・自己責任」の原理をさす。規制緩和をして勝者が残り敗者は退出する市場の原理に委(ゆだ)ねたほうが、財の最適配分ができるようになるという考え方のことである。(上野、67ページ)

「生きづらさ」と不安
「生きづらさ」の精神構造は、不安と似ているのである。あるいは「生きづらさ」の原因は漠然とした不安感なのではないかとさえ思う。自分自身が何者であるかの不安、自分の将来や可能性にたいする不安、人が自分をどう見ているのかについての不安、この社会の先行きに関する不安、そうしたもろもろの不安が、私たちの精神や生活を脅かし、「生きづらい」感覚をもたらしているように思えてならない。(嶋根、209ページ)
不安そのものを完全になくすことはできない。しかし不安に直面したとき、その原因が何に由来しているかを知れば、不安はやわらぐものである。同じように、私たちが何となく感じている「生きづらさ」も、他の人や他の社会と引き比べてみたり、その原因が私たちの外部にあることを知ったりすることで、「生きづらさ」の感覚を多少なりとも乗り越えていくことができるかもしれない。(嶋根、209~210ページ)

〇以上の諸言説のなかで、河添の「貧困者にとって、『自立』は存在しえない」「貧困と『自立』は両立しえない」([2]19ページ)という言葉から思い出すことがある。1956年11月から1963年7月にかけて、岸勇(当時・日本福祉大学)と仲村優一(当時・日本社会事業大学)との間で、公的扶助とケースワークの位置づけをめぐって展開されたいわゆる「岸・仲村論争」である。ここでは、その論争に関する加藤園子(当時・立命館大学)の一文を紹介しておくことにする。「今は昔」ではなく、「今も昔(も変わらない)」である。

岸説では「最低生活保障」と「自立助長」をあいいれるものとしてではなく、本来分離、対立したものとして位置づけている。そこでは、公的扶助にケースワークが導入される根拠となった「自立の助長」の意味について、自立の基本的要素は経済的自立であり、自立の喪失が社会的原因にもとづくものである以上、自立は国家の雇用政策によってはじめて助長されるものであること、そして、これに反して公的扶助の目的である最低生活保障それ自体は決して自立を助長するものではありえず、そこではむしろ「自立」という概念が似而非(えせ)なる意味にすりかえられ、その強調は、実は保護の制限と引きしめの意図がその背後に政策的に存在することを厳しくとらえねばならないとしている。そして「自立の助長」と関連して公的扶助にケースワークが導入された目的もまさにその民主主義的体裁によるにすぎず、保護引き締め強化による対象者の人権侵害の事実や公的扶助のもつ救貧法的本性をそれによって隠蔽・合理化することに役立てられてきているとして、仲村説と真っ向から対立することとなった。
(加藤園子「仲村・岸論争」真田是編『戦後日本社会福祉論争』法律文化社、1979年9月、91~92ページ)

鳥居一頼のサロン(6):「国道12号線」

「国道12号線」

札幌と旭川を結ぶ幹線道路 国道12号線。
老いた男が 無謀にも横断を始めた。
信号のある横断歩道は 遠回り。
背中に小さなリュックを 背負い
左手に 12ロールのトイレットペーパーのワンパック
右手に 5箱のテッシュのワンパックと重そうなポリ袋をさげて
痩(や)せて背を丸めた 貧相な風体の男は
数台の車をやり過ごし よたよたしながら 渡りきった。
目が合うと 一瞬苦笑いを浮かべる。 
歩道を 川沿に左に折れて 家路につく。
その背を見送りながら はたと気づく。
男の向かった先には ドラックストアがあり
そこでも 手にしていた品物は 買えるのに
男は 少しでも安い 遠方の店に来たのだろうと。

老いた男の 危険な行動は 
老いの暗澹(あんたん)たる行く末を現す いまの世相そのもの。

安全な「横断歩道」を渡る余力は 民に残されることなく 
渡れるのは 一部の恵まれた者たちでしかない。 
勝者の 傲慢(ごうまん)と蔑視(べっし)。
余録も途絶え 余力も萎(な)えて 年金に頼る多くの老いた民たちは 
命がけの横断を 強いられる。 
敗者の 羨望(せんぼう)と屈辱(くつじょく)。

判断力が鈍(にぶ)り 身体能力が落ちたと 嘲笑(ちょうしょう)され
事故にあえば 自己責任が問われるだけの 
不条理な 人の世の非情。
数十円安い物を 買い求めて 
よろよろと 歩くしかない民たちが 彷徨(ほうこう)する
孤独な 人の世の無常。

権力に取り憑(つ)かれた者たちの 百年安心の 虚言に
幻想を抱かされた 老いた民たちは
リスクにさらされながら 最短のルートを 今日も歩く。
暮らし向きの 厳しい民たちの 
生死の分岐道 虚実が入り交じる 国道12号線。

付記
老後に2千万円 正面から年金の議論を
90歳を超えて生きるには、夫婦の老後資金として年金とは別に2千万円の蓄えが必要だから、「人生100年時代」に備え、現役時代から資産形成を促す―。
こんな内容の金融庁金融審議会の報告書が波紋を広げている。
政府が、公的年金だけでは老後の資金は賄いきれないことを認めたのだから当然だ。
これを受け、安倍晋三首相は「不正確で、誤解を与えるものだった」と釈明した。麻生太郎金融担当相は報告書の受け取りを拒否し、実質的な撤回に追い込んだ。異例の事態と言えよう。
少子高齢化で年金財政が厳しいのは誰の目にも明らかである。
参院選をにらみ、政府・与党が火消しに躍起になればなるほど、国民の疑念は膨らむだろう。
年金の将来に不安を感じる人は多い。報告書は、これが現実のものであることを示したからだ。
政府は報告書を撤回して幕引きを図るのではなく、まず国民に丁寧に説明しなければならない。
与野党とも国会で年金制度を立て直す議論を始めるべきだ。
報告書は、平均的な無職の夫婦世帯(夫65歳以上、妻60歳以上)の場合、毎月の赤字は約5万円と試算した。20年生きると1300万円、30年だと2千万円不足することになる。
退職金が減少し、少子高齢化で年金給付水準の調整も予想され、不足額は今後拡大するという。
こうした見通しには一定の説得力があるものの、その対策として、政府が投資による資産形成を推奨するのは筋違いである。
そもそも、年金だけでは暮らせず、働かざるを得ない高齢者もいる。非正規雇用の人には、貯蓄する余裕のない人が少なくない。投資には縁遠いのが現実だ。
2004年の年金改革で、与党は「100年安心」を強調した。
多くの国民は、老後の安心の保証と受け止めたが、現実には、その趣旨は、給付の抑制を通じた年金制度の安定だったらしい。
制度の持続可能性を巡っても、公的年金の給付水準や財政見通しを試算した「財政検証」のたびに、信頼が揺らいでいる。
今年は5年に1度の財政検証の年で、既に内容が公表されていい時期である。
参院選への影響を懸念して、遅らせているとしたら、あまりに不誠実と言わざるを得ない。現実を直視して問題を正面から論じなければ、若い世代が年金保険料を支払う意欲を失うだろう。
(北海道新聞/どうしん電子版/社説/2019年6月12日)

〔鳥居一頼/2019年7月1日〕

「自己決定」と「自己責任」:いま改めてその虚飾と欺瞞について考える―小松美彦著『「自己決定権」という罠』と吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる』の読後メモ―

〇1990年代後半以降、財界の要望に応える「小さな政府」を実現するために、「措置から契約へ」という社会福祉基礎構造改革の推進が図られた(1998年6月:中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」等)。そのなかで、「自己選択」「自己決定」すなわち「自己責任」が声高に叫ばれるようになった。また、「市場原理の導入」などの新自由主義的教育改革の推進が図られた(1996年7月:中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」等)。そこでは、子ども・青年が抱える困難や不利益を、「自己責任」として個々人が引き受ける「生きる力」の育成が強調されるようになった。周知の通りである。
〇「自己決定」と「自己責任」は口当たりのよい言葉である。しかし、その言葉に関して、「自己」すなわち「個人」「ひとり」については曖昧であり、「共に」決定する、「共に」責任を取るなどとはあまり言わない。また、「自己決定」と「自己責任」の実相は、外見だけを飾り(虚飾)、人目をあざむき、だます(欺瞞)という危険性がある。
〇自己決定や自己責任について論述した本は、筆者(阪野)の手もとには、次の4冊しかない。

(1) 小松美彦著『「自己決定権」という罠―ナチスから相模原障害者殺傷事件まで―』言視舎、2018年8月(以下[1])
本書(語りおろし)は、『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書y、2004年7月)の増補改訂版である。旧版では、「自己決定権」の概念それ自体や「自己決定権」への無条件の信頼は非常に危ういことを論じている。旧版のインタビュー(2003年)から15年後のこんにちでは、主に医療や福祉の分野において、「自己決定権」「自己決定」という言葉と概念は当たり前のものになっている。しかし、その問題性は見えにくい形でますます拡がっている。「自己決定権」に加えて、「人間の尊厳」という言葉と概念も巧妙に作用し、差し迫った状況にある(3~4ページ)。小松美彦(専攻は生命倫理学)は、その問題状況をダイナミックに論考する。
(2) 吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学―』学習の友社、2014年12月(以下[2])
小泉政権(2001年4月~2006年9月)によって、競争原理を基本理念とする規制緩和の推進が図られた。そのなかで、1990年代以降の「自己責任論」が、政財界においてより一層強調されるようになった。また、経済の低成長下における社会保障費の削減を理由づける
考え方として、「自立・自助論」が展開された。ヨーロッパなどと比べて、日本では、社会的責任の観念が必ずしも十分に定着しているわけではない(6~13ページ)。こうした特殊「日本型自己責任論」(13ページ)について吉崎祥司(専攻は哲学)は、その内容と特質を批判的に検討し、それを克服するための課題と道筋を明らかにする。
(3) 高橋隆雄・八幡英幸編『自己決定論のゆくえ―哲学・法学・医学の現場から―』九州大学出版会、2008年5月
本書では、生命倫理における基本的概念のひとつである「自己決定」をめぐって、その歴史的由来や概念の意味、法的観点からの問題、医師や看護師の専門職の自律性とのかかわり、等々について多面的に論考する。そのなかで、小柳正弘(専攻は哲学)は、「『私たち』の自己決定」について、次のように述べている。自己決定の主体である「自己」は、理念としては「強い個人」が前提とされている。しかし、現実には「弱い個人」が主体として困難を引き受けているのが現状である。それでも「私」が自己決定しなければならないとすれば、私は他者によって支えられなければならない。すなわち、私が他者とともに「私たち」として決定することが必要となる。「自己が自己のことを決定する」という自己決定には、もうひとつ、「私たちが私たちのことを決定する」という自己決定の理念型が存在することを思い起さなければならない、と。(38~40ページ)。特筆しておきたい。
(4) 湯浅誠『どんとこい、貧困!』イースト・プレス、2011年7月
本書は、現代日本の貧困問題を現場から訴え続け、社会的包摂を説く湯浅誠(社会活動家)が子どもたちに書き下ろした自己責任論である。そこでのキーワードのひとつに、「溜め(ため)」がある。湯浅にあっては、それは、「がんばるための条件」「その人が持っている条件」を意味するが、基本的な「溜め」となるのは「お金」「人間関係(親や友達など)」「精神(的なもの)」の三つである。「家にお金がなくて、人間関係に恵まれないなら、社会がその人の“溜め”になればいい」。(49ページ)。また、自己責任論をふりかざす人たちに共通しているのは、「上から目線」である。自己責任論は「問い」を外に、社会に出てこないように封じ込めること、自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることである。自己責任論は、弱いものイジメが横行し、生きづらい、誰も幸せでない、満ち足りない社会をつくる(153~157ページ)。

〇さて、本稿ではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

自己責任論と「自己決定」「自己決定権」
政府の言う自己責任論は、国家や支配権力が、基本的に人々を強制したいと考えている事実の裏返しの表現にすぎない。自己決定をするのなら自分で責任をとれという、身の蓋もない態度の裏側には、文句を言わずに言うことを聞けという、国家の冷徹で傲慢な態度が透けて見える。(18ページ)
自己決定と自己決定権とはまったく違うものである。自己決定イコール自己決定権だと単純に考えていると、権利という制度的な思弁の土俵の上で、思わぬ落とし穴にはまってしまう危険がある。(19~20ページ)
私たちの行動には、「思わず~する」という無意識の行動、すなわち言葉で考えるというよりも身体全体で考えると言ったほうがよいようなものがあり、自己決定には、そういった具体的な生の実相が、まるごと含まれている。
これに対して、自己決定権にはこのような自ずからなる要素はない。自己決定権は、言葉によって普遍化された人為的な権利であり、思弁によって客観化された制度であり、さらには個別の実相を他人事に変えてしまう装置であり、したがって、いつでも政治的な恣意によって道具にされるという危険性をもったものである。(20ページ)

自己決定権批判の根拠
自己決定権という考え方には、根本的に問題がある。
①人が生きていくすべての場面において、個人が何かを決めるということは、決して個人の問題にとどまらない。自己決定権という言葉によって、人間関係の尊重すべき貴重な機微(微妙な事情・おもむき)が覆い隠されてしまっている。
②「本人の意思による」という自己決定権という言葉が謳(うた)われ、その美しい響きが無為に受け入れらてしまったことによって、(政府や政治に対する)人々の抵抗が鈍ってしまった。
③いったん自己決定権を盾(たて)にしてしまうと、さまざまなことに関して、自分のことは自分で決めればよいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまう。その結果として、自己決定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧がある。
④死は果たして自己決定できるのか。死は一個人に閉じ込められたものではなく、家族や医師、看護師など実に多くの人がかかわる。死は、周囲の人々すべてにまたがる、人間関係のなかでおきる事柄である。(40~49ページ)

自己決定・自己決定権と「共決定」
自己決定とは、起こっている事柄それ自体のことである。あるいは生の具体的な局面で私たちが絶えず行っている個々の判断や選択や行為そのもののことである。その意味では、人間が自己決定なしに通常の社会生活を送ることは、とてもできないと言ってよい。
自己決定権とは、自己決定することを社会や国家が、個人の権利として認めるということである。「する」あるいは「せざるをえない」のが自己決定であるのに対して、「認められる」あるいは「するために使う」のが自己決定権であると言ってよい。(98ページ)
私たちは、いつも他者とのかかわりのなかで自分の行動を決定している。同じように、自分が決定した行動は、いつもまわりの他者たちに少なからぬ影響を及ぼしている。決定すればそれで終わりということは本来的にない。
自己決定とは、他者との複雑な網の目のなかで行われるしかないものであり、そういう意味では、純粋な自己決定はない。私たちの行う決定は、好むと好まざるとにかかわらず、いつも本質的に「共決定」であることを強いられているといえる。(98ページ)

「共決定」と関係性・共同性
共決定とは、猶予のある場合にそうすべきだといモデルである。そのモデルを不毛なものにしないためには、それぞれがそれぞれの立場から努力し、徹底的に話し合いながら決めていくことである。(102ページ)
関係性を大切にする立場は、まず内と外を区別しない。個々の人間的な交渉から目をそらさないことを原則として、これを守ることができるのであれば、どこまでも外に広がっていこうとする態度のことである。(103ページ)
共同性を重視する立場は、私たちは私たち、あなたたちはあなたたちというように、そもそも内と外に縁取りをこしらえておいて、二つを区分けし固定していこうとする態度のことである。(103~104ページ)
だから、関係性を重視する立場は相互の異質性を厭(いと)わないし、共同性を重視する立場では自分たちのなかにある同質性に、まず目を向けるということになる。(104ページ)
個々の人間の具体的な実存を前にすれば、抽象的な同質性などというものは、はじめからどこにもない。共同体の掲げる同質性は、いつも避けがたい抽象性を帯びてしまい、個々人の具体的な個別性にあるかけがえのなさを、共同体の意思の名をもって、裏切っていくことになる。(105ページ)

「人権」と「存在」
「人権」とは、結局、国家や社会によって与えられる人為的なものである。しかし、それ以前に、障害者にせよ健常者にせよ、その人がいるということ、「存在」していること自体が第一次的なもののはずである。これ自体は絶対に否定できない。(311ページ)
仮に、心や意識が本当に絶無のまま生きている人がいるとして、それをどう考えたらよいのか。それでもその人が“そこにいる”という厳然たる事実が、その人から被(こうむ)る迷惑と呼ばれることまで含めて、私たち自身が“いる”ことを何らかの形で支えてくれているのである。「迷惑をかける―かけられる」という関係をもてることは、実は人間の豊かさに思われる。(316ページ)
「自己決定権」にせよ、「人間の尊厳」にせよ、検討にあたって必須のことは、型どおりの「人権」的な思考ではなく、誰々がいた、あるいは誰々がいるという「存在」ベースで考え直すことである。(319ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」の機能
「自己責任論」の機能とは、さしあたり、①競争を当然のこととし、②競争での敗北を自己責任として受容させ(自らの貧困や不遇を納得させ)、③社会的な問題の責任をすべて個人に押しつけ(苦境に立たされた“お前が悪い”)、④しかもそうした押しつけには理由がある(不当なものではない)と人びとに思い込ませ(る)ことによって、⑤抗議の意思と行動を封殺する(“だまらせる”)、というものである。そのようなものとして、「自己責任論」は、新自由主義的支配の合理化・正当化のためのイデオロギー(支配層の思想形態)であることを本質としている。(11ページ)

「自己責任論」の特徴
「自己責任論」は、次のような特徴をもっている。
①「自己責任論」は、「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に混同したうえで、「社会的責任」を否定する、あるいは相対化する。
②「自己責任論」は、社会的責任の否定にとどまらず、社会的な問題をすべて「個人」のうちに押し込め、個人的な解決を迫る。
③「自己責任論」は、個人が抱える困難は、誰のせいでもなく、当の本人の努力や能力の不足によるもので、その事実を受け入れよと強く迫る。一生懸命努力していても報われない場合は、そもそも「能力」が不足しているからだ、と個々人の「能力」の有無・高低をあげつらう。
④「自己責任論」は、本質的に「社会問題」であるのにもかかわらず、社会的責任に蓋(ふた)をして、問題をもっぱら個人的なものに還元し、しかも困難の最終的な原因を個人の能力に求めることで、「責任」を自認させ、抗議の意思も封じる。
⑤「自己責任論」は、それが流布しやすい理由の一つに、「一人前」の人間は、他人に頼らずに自立すべきもの・自ら助けるべきもの、という「自立・自助」の世間的常識がある。誰にも頼らずにちゃんと生活をたてていけないような人間は一人前ではない、といった「自立」観を前提としている。
⑥「自己責任論」では、何にせよ、自分で決定し、選択したことの結果について自分で責任をとるのは当然であり、ある人がおかれた状況・境遇は、そうした決定・選択の結果なのだから「自己責任」であるという一見もっともらしい理屈のもとで、「自己決定=自己責任」が説かれる。
⑦それらの結果として、「自己責任論」は、人びとの間に、多重的な分断をもたらし、個人を孤立化させるにとどまらず、たがいを敵視するように仕向ける。
これらの諸特徴をもつ「自己責任論」が通用しやすい特有の土壌(「社会文化」)が日本社会にはある。(16~17ページ)

自己決定の前提と条件
自己決定には、それを簡単に許さない前提や条件(困難性)がある。①自己決定は、社会制度や時代の支配的な社会的観念や意識、社会の風潮や趨勢、慣習や風俗などの「状況」の「圧力」や「傾向性」のもとで行われる。②「状況」の圧力や傾向性に対して自覚的・批判的であるためには、十分な情報の獲得と、「選択」の結果についての適切な判断が必要とされるが、それが困難である。③「状況」や「選択」にかかわる基本的な情報が獲得されているとしても、従属的位置にある労働者に、その特定の社会関係において自由な選択を行うことは許されない。(55~58ページ)
こうして、「自己決定」は多くの場合、疑似的で、決定者の「自己責任」を問えるようなものではない。つまり、「自己決定」は、個人の「自己責任」に直結させることができるようなものではない。真に自由な自己決定・選択が可能になる前提・条件の周到な吟味なしに、自己決定を自己責任に直結させるような「自己決定論」は、多く欺瞞をかかえるものである。(58ページ)
そこで、労働者が自己決定する際の鍵になるのは、個人が他者と「共にする決定」の場と仲間、連帯する組織を作り出すことである。(60ページ)

〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そこでの根本的な考え方は「実存」「自立」「共生」「まちづくり」「参画」「共働」などであった。
〇そのことを思い出しながら、改めて[1]における小松の言説を要約する。「自己決定」は、実際には、社会的広がりや他者との関係性(「関係としての私」「われわれのわれ」198ページ)のなかで行われる。「自己決定権は、個人主義を擬装しながら、実際には抽象化され、普遍化されることによって、いつでも国家共同体に転化・悪用されかねない危険性をもったもの」である。その意味で、「自己決定権を個々人の具体的な実存の側から見てみれば、そんなものは、はじめからないのだと極論してもよい。それをあるのだとなお言い募るのであれば、幻想としてあるのだと言うしかない」(106ページ)。これが、小松が最も強く主張する「自己決定権の欺瞞性」、すなわち「自己決定権という罠」である。
〇筆者は、本ブログの雑感(83)「“死”とどう向き合うか、『生死の教育』」を考えるために―大谷いづみと松田純のひとつの言説メモ―」(2019年6月1日投稿)で、従姉のことを「80歳代後半を認知症患者として『存在』し、『いのち』の自己展開を図っている」と書いた。また、自分自身のことを「みっともない生き方しかできなかった(できないでいる)」と書いた。
〇そのことを思いながら、筆者は、“いま”、“やっかいな自分”を“生きにくい社会”の“ここ”で、“みっともなくも生き抜く”ことを考えている。また、多少とも“生きやすいまち”づくりの末席に連なることができればと念じてもいる。そこに立ちはだかるのが、政府や財界が求める「自己決定」と「自己責任」である。それは、1990年代後半以降こんにちまで、とりわけ第1次・第2次安倍政権の空虚な「スローガン政治」(2006年9月:国会での所信表明演説「美しい国、日本」、2016年6月:閣議決定「ニッポン一億総活躍プラン」等)が推し進められるなかで、むしろこれまで以上に巧妙に作用している。

追記(2019年6月23日)
さっそく鳥居一頼先生から次のようなメール(抜粋)と玉稿(コラム)をいただきました。いつもながらのご厚情とご指導に感謝です。先生の「コラム」は、小松美彦著『自己決定権は幻想である』(洋泉社、2004年7月)と同じ時期に執筆されたものです。

「自己決定」と「自己決定権」は、個々の「意思決定」のあり方について、尊厳死問題も含めて考えなければならない重要な課題であることを再認識しました。また、「自己決定権」の裏にある「おぞましさ」も鋭い感覚で指摘されており、私にとっては、最近の日本の「差し迫った状況」を「易しい暮らしことば」で表現するというテーマを示されたという思いです。
次の一文は、地方紙(「室蘭民報」)に連載していた「子ども・未来・ボランティア」というコラムです。当時、世間で「自己責任」について当事者への批判が起こったことで触発され、したためたものです。いままた中東では、生臭い火薬の臭いが立ち上っている様子、繰り返される悲劇の前で、人間はその無能さをさらけ出しています。
今日はいみじくも沖縄「慰霊の日」であり、「沖縄全戦没者追悼式」が開かれました。犠牲になられた方々の御霊に哀悼の意を捧げます。

「個人と国家」/「子ども・未来・ボランティア」(第39回)、室蘭民報/2004年4月19日
四月十五日、イラクで拉致され人質になっていた三人の日本人が無事解放されました。一週間に及ぶ監禁状態は情報の乏しい中最悪の事態も想像されただけに、その無事を確信した時の家族の安堵の表情に、関心を持ち続けた人たちもほっとしたことでしょう。この事件で、イラク戦争が身近に感じた人も増えたに違いありません。
その間、真綿で首を絞められるような恐怖心を抱きながら無事を祈り続けた家族のもとに、心ない中傷や罵声を浴びせた輩がいたという報道もありました。人の不幸を見て「ざまあみろ!」とあざける卑劣な行為も世の常ですが、決して許されるものではありません。
現在も二人のジャーナリストが拉致(編集者注・日本時間十七日午後解放される)されているとのことですが、彼らはプロであり戦火の中で取材するのは「死」をも覚悟した上での行動とはいえ、それでもなお無事を祈るのは当たり前の人情です。人命の重さを痛感します。
今回の事件は、退避勧告が出ている戦乱のイラクで、ボランティアとして市民の中に入り市民と共に生きたいと切望した日本人が、「人質」としての価値を持つという事実を、国民に突きつけました。
止むに止まれぬ志と使命感の強さが、状況判断を誤ったことは否定できません。天候の異常を察知して山に登らず引き返す決断が本当の勇気であると考えれば、ボランティアの個人の意思は尊重されながらも、その個人の自己責任が問われることは必然です。
個人の想いで行動することは、「私発」というボランティア活動の原点です。何事もなければ、個人の活動として終始したのですが、「人質」となった瞬間に「個人」ではなく「日本国民」としての存在が問われ、個人と国家との関係を如実に象徴した事件となったのです。
それは、個人レベルの想像や行動の範疇を越えて、個人が国家間ないし民族間の争乱に巻き込まれたときには、簡単に戦略として「利用」される存在となるのです。その行為が卑怯だという倫理観では、決して解決されない現実を突きつけました。平和を当たり前の生活環境として享受し、その価値の重さに気づかない日本人に衝撃を与えたのです。それが戦争本来の姿であると。それは、「テロ」という言葉で一方的に相手の非を責めてきた「つけ」を払うことでもあったのです。
ボランティアは、想いも活動もそれぞれですが、「よきこと」をしているという善意を強調するだけでは、安心かつ安全の保障にはなりません。受け止める相手やその環境状況の判断を誤ると、「からまわり」したり「押しつけ」や「自己満足」とも映る危険性をはらんでいます。また、今回の事件では、拉致したグループから自衛隊の撤退要求が出されたことで、今後日本の国や国民がイラクに対してどのような支援がベストなのか、事態の進展を見極めながら論議されなければなりません。
さて、NHKのニュースの中で、「ボランティア活動家」と紹介されていましたが、「活動家」という表現には違和感を感じます。「活動家」というこわもてのイメージを付加することは不要です。私は、「ボランティア」です。

鳥居一頼のサロン(5):「義理を果たす」「原則論の正体」

「義理を果たす」

87歳のばーさまは 14、5年前に 連れ合いが死んでから
あの家で 気丈に独り暮らしをしていたんだよ。
子どもらは 村を出ていって 家さ帰ってくることは 滅多にない。
でも若いときから よく村のために尽くしてくれた夫婦だった。
お人好しで 何でも二つ返事で引き受けてくれたもんだよ。

身体が動いて元気なときは 若妻会だといって
サロンに 歩いてよく通ってきてた。
昔話に花を咲かせていたり ゲームや体操したりして
楽しそうに身体を動かしてさ みんなと笑っていたっけ。

小さな畑さこしらえて 一人ではもうこれっくらいが丁度いいって
毎日飽きずに 畑仕事をしていたっけ。
冬支度にかかる頃には 畑の始末も上手かったね。
裏山から薪さ背負ってきては まてい(丁寧)に軒下に積んでいた。
そうなんだ 灯油は 銭っこかかるっていってね
薪ストーブ焚いていたんだわ。
薪はそれでも 知り合いに頼んで割ってもらってたね。

年金だって 月たった3~4万円だったよ。
だから よく辛抱していたね。
明るい人だったから 愚痴ってるのを あんまり聞いたことなかったけど
一度 ぽつんと しゃべったことがあったわ。

「義理は欠けないね」
「どうしたの?」
「いやいや また世話になった人が 亡くなったって知らせがきて
 香典包まねばなんないのさ」
「物入りだね」
「うんだ。この歳になると 世話をかけた人がみんな先に死んでいく。
 じさまの葬式もみんなにお世話になって出させてもらったしね。
 じさまの親戚やわしの親戚 知り合いや隣近所にも ずいぶん世話になってきた。
 恩のある人もまだまだいる。
 だけど そろそろお迎えのくる歳に みんななってきたんだわ。
 わしより若く亡くなった人もいてね。長生きすればするほど、見送らねばなんない。
 知らせがくるたんびに 義理欠くわけにはいかないしょ」
「それは大変だね」
「浮世の義理さ欠いて あの世さ行ったときに じさまに会わせる顔がない。
 死んでまでも肩身の狭い思いさ かけたくないしょ。
 これがわしの最後のお勤めなんや」
と寂しげに笑った。

よほど やりくりが苦しかったのかも知れない。
年に十度ほど 香典を包むという。
葬儀には出ることは出来ないが 香典だけは欠かさない。
いままでお世話になった恩返しに 香典を包む。
義理を果たすことで 報われると信じている。
暮らし向きは厳しいけれども 自分が辛抱することで 義理を果たそうとする気概。
世間に後ろ指を指されぬよう じさまにあの世でよくやったと褒めてもらえるよう
世間の習わしのなかで 懸命に生きてきたのだ。

務めを終えた その安らかな表情に 南無阿弥陀仏と唱え 合掌した。
夫婦の今生での義理を欠くことなく 浄土へと旅立った。
村の会館での葬儀のおかげで みんな最期の別れもできた。

喪主の子も 老齢期を迎えていた。
母親が この村に残した人とのぬくもりを きっと感じていたであろう。
その義理を果たすことはできないと 親不孝を恥じ入るかもしれない。
失って初めて知らされる 母の温情と恩情が漂う しめやかな葬儀となった。

付記
贈与慣行は互酬という性格をもっているために、一種の相互扶助の感情を生み出すことになる。吉本隆明はこのような共同体のあり方についてつぎのようにいう。

そこでの共同体のあり方は、人類の理想といえる面をもっているのです。なぜならば、そこにおける村落共同体のあり方のなかには、相互扶助共生感情と、相互の親和感が豊かにあります。人間が人間として孤立している。民衆が相互に孤立をしたり矛盾しあったりする。そういう近代社会の病理とは遠い平安もあります。

「世間」の贈与・互酬という関係は、同時に「相互扶助共生感情」つまり「助け合いの精神」が宿る関係でもある。ただしそれは「無償」の助け合いではなく、いわば「有償」の助け合いである。それは義理・人情とよんでもいい。
(佐藤直樹『「世間」の現象学』青弓社、2001年12月、47ページ)

〔鳥居一頼/2019年6月18日〕

「原則論の正体」

2018年9月6日、胆振東部地震発生。
突然、停電になった。
水が出ない。断水だ。
ポンプアップしているから、停電になると地下水を汲み出せない。

役場の広報車が回ってきた。
「今日午後3時、地区会館に給水車が来ます。水を入れる容器を持って来てください」
広報車は、繰り返し給水車が来ることをふれ回る。

3時、部落の人たちが給水車を囲んだ。
口々に停電が復旧しないことに、愚痴をこぼす。

給水に張り付いていた役場の職員に、
「そこのおうちのおばあさん、足も腰も悪くて、ここまで水を取りにくることできないの。悪いけど、そこのお宅まで水を届けてあげてください」
丁寧にお願いした。
「それはできないね。給水車のところまでこれないと、水をあげるわけにはいかない。
それが決まりなので」
「それじゃ、歩けない人、病気で寝ている人、腰が悪くて重たいものを持てない人、みんなここには来られないわ。その人たちにここまで来て持っていけって言うの。それって、本当に規則なの。困っている人を少しでも楽にしてあげるのが、役場の仕事でないの」
「そう言われても、ルールはルールなので」
上から目線で、規則だと繰り返す職員と押し問答が続く。
一向に埒(らち)があかない。
非常事態にこそ機転を利かし、動かなければならないのに……失望。
あきらめて、そこで汲んだ水をおすそ分けした。

気分は最悪。
公僕も、ただの木偶坊(でくのぼう)になったというつまらないお話……ではなかった。

もつれた糸が解けたように、はたと気づいた。ここが分水界(ぶんすいかい)だったと。
歩けない人、病気で寝ている人、腰が悪くて重たいものを持てない人。
水を取りに、来られない人たちと来られる人の分水界。
ここまで水は運んでやるよ。
ここから先は、行政の仕事じゃない。
決まりがある以上、一線越えたら、みんなに公平にサービスしなきゃならないだろう。
そんなことしたら、人手もお金もパンクする。
だから住民の裁量で、どうぞお好きにやってください。
非常事態こそ、「住民の助け合い」を実現するチャンス。
心を鬼にして、規則遵守して仕事しているだけなので、責めないでください。
「われわれは施しを与えている」のだからという、高飛車な態度も意に介さない。
いままで行政がしてきたことの、延長線上にしかない対応の根っこにあるのは、
暮らしの実態や市民意識との乖離(かいり)だと、ようやく悟った。
彼らもまた、地域で暮らす者たちにも関わらず、
仕事への虚(むな)しさをなぜ覚えないのか、不思議に感じたが、
お上に庇護(ひご)された安定した暮らしがあるからだと、納得する。

役場だけではない。お国の事情も同じ。
役人は権力者に忖度(そんたく)し、民をほっぽり出していても、誰の文句も届かない。
権力者は、金がない、人手もかかる、だからみんなで助け合えと、法の下に号令をかける。
上流の水が濁(にご)れば、下流の水も濁る。
納めた税金が、施しの水に変わったとしても、
もらえる人ともらえない人がいる、歪んだ再配分という悪しき事態が、これからも続く。
情けないと、自らをさいなむあきらめ顔の、不条理な国に生きる心優しき民たち。

しかし、思考停止してはならない。
刹那主義(せつなしゅぎ)に陥ってはならない。
利己主義に陥ってはならない。
いまこそ利他主義に立つ、民の底力が試される。
お上の尊大な態度ややり方に、泣き寝入りはできない。
現状に我慢し、耐え忍ぶことを、美徳とはしない。
あきらめず、めげず、果敢に問題に立ち向かう。
解決には、民の才知と才覚を集めるしか道はない。
そこが、お上の思う壺であろう。

それでも、無作為に放置したら、後世まで悔(く)いる。
だから、やるしかない。
たった一度の人生、その主役は、自分。
追い込まれても、追い込まれても、負けない、負けたくない。
同じ思いを持つ、一人でも多くの心優しき民たちよ、
こころ一つにして、この世に、この地に、したたかでしなやかな民の力を集めよう。
誰もが人として、ここで幸せに生きるために。

〔鳥居一頼/2019年6月19日〕

“死”とどう向き合うか、「生死の教育」を考えるために―大谷いづみと松田純のひとつの言説メモ―

〇日本における「生命倫理教育」の草分けであり、「尊厳死」言説の研究に優れた業績をあげていると評されるひとりに、大谷いづみ(おおたに・いづみ)がいる。筆者(阪野)が大谷の論考にふれたのは、松原洋子・小泉義之編『生命の臨界―争点としての生命―』(人文書院、2005年2月)に所収の「『いのちの教育』に隠されてしまうこと―『尊厳死』言説をめぐって―」(論文)と「『問い』を育む―『生と死』の授業から―」(語りおろし)が最初である。
〇印象に残っている大谷の「語り」に、次のようなものがある(抜き書きと要約)。それぞれの語り口(切り口)はシャープであり、多くの示唆を得る。また、本質を突いた文や単語は聞き手(読み手)をハットさせる。

◍私は高校教師時代から、「人権」「平和」「民主主義」の三語は極力使わないで授業をしてきた。この三語はすでに答えるべき解答が用意されている、思考停止を引き起こす言葉でしかないからである。(143ページ)
◍ロリ・アンドリュース(ヒトゲノム解析機構)は出生前診断を「この世への入会審査」と言ったが、だとすれば尊厳死言説はこの世の「会員審査」だということである。自由な自己決定によって自らが会員制クラブの維持のためにクラブ外に出ていくこと、すなわち自らの質の低さを自認して自らを死へと廃棄することを納得するための概念装置が、「犠牲」「尊厳」なのではないか。(144、145ページ)
◍会員制クラブの正会員や準会員、員数外も、「何か」に怯(おび)えている。そのひとつが、役に立つ人間でなければならないという強迫観念である。その強迫観念は、役に立たないと見なせる人間への憤怒(ふんど)や憎悪(ぞうお)と表裏一体のはずである。その憤怒と憎悪を、妬(ねた)みや嫉妬(しっと)と連動させて正当化したのが、まさにナチズムだったのではないか。(150ページ)
◍ジェンダー論や障害学に期待するところはあるが、それが旧態然とした「人権」の話しに終始するのだとしたら、結局は「告発する被差別者」のスティグマを自ら招いて終わるだけで、さしたる展望はもてない。(151ページ)
◍世の中を支えているのは現場で日々賽の河原(さいのかわら:無駄な努力)のような労働にたずさわっている「小さき人々」なのであって、「天下国家を机上で脳天気に論じている高等遊民とその卵たち」に何がわかるか、という思いがないわけではない。現場の「上がり」が研究生活であるかのような、現場・研究双方の一部の見方にも抵抗がある。(中略)他方で、現場の体験に自閉しているだけでは閉塞感を深めていくばかりだろうというのも実感としてある。(154ページ)

〇今回改めて、大谷のその「論文」と「語り」を読むことにした。以上の「語り」に加えて、留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「癒し系授業」と「悩ませ系授業」
「いのちの教育」「死の教育」は、実は癒しブームと連動した「癒し系授業」だと見なせなくもない。子どもたちの生と死をめぐって、現実に起きる「事件」が、へたな小説を凌駕(りょうが:上回る。超える)してしまったような現代にあって心身疲れ果てた教師が、感動の涙に至る「癒し系授業」に活路を見いだしたくなるのは、わからないでもない。これに対して、バイオテクノロジーと先端医療の発達がもたらす生と死の問題群の、倫理的・法的・社会的ディレンマに向き合う生命倫理教育は、「悩ませ系授業」だと、わたしは本気で考えてはいるが、一見価値中立にその是非を問いつつ、結果、先端医療技術のつゆ払い(つゆはらい:先導して道を開く)役を果たす意味において、両者が補完関係を形成するであろうことは、見逃せない点である。(論文:95ページ)

「いのちの輝き」と「自分らしい死」
「いのちの教育」は、それだけが独立して作用するわけではない。だから、授業者や世間が期待するほど、生徒に影響力をもつわけではないことを、安心してもいる。しかし、一方では、「安楽死」や「尊厳死」が自己決定権にもとづく権利として教科書に叙述されて語られ、「自分らしい死」が「いのちの輝き」とともに語られる。他方では、少子高齢社会への懸念がつぼ型に移行しつつある人口ピラミッドとともに語られる。生老病死(しょうろうびょうし)を語るその枠組みは、太田典礼が著書で安楽死を提案した枠組みと重なってはいないだろうか。(論文:118ページ)

「自分は生きる」と「他者を殺す」
生老病死をディベイトのような二項対立の是非で問う問い方を批判し続けてきた。答は多様にあるはずなのに、たった二つの答に収斂(しゅうれん)させる問い方に、最初から、生理的嫌悪感を感じていたのだが、最近ようやく、その理由がはっきりした。生命倫理問題に関して、是か非か、という問いに答えることを強要することは、究極、自分が死ぬか生きるか、他者を生かすか殺すかという問いへの答を強要することに他ならない。しかも、「生命は尊いにしても、先端医療の発達した現在の、その尊さの複雑困難な状況」を、これでもかと提示した条件の下に答えさせるわけで、一見価値中立に見えるが、実際には、問い自体が「自分は生きる、他者も生かす」ことが肯定されにくい位置に置かれているわけである。このような問いは、問い方それ自体がまったく倫理的ではない。(語り:132~133ページ)

先端医療や高齢社会のつゆ払いと後始末
生死にかかわる問いは、教師の意図や教育技術がどうであれ、また意識的であれ無意識であれ、教師生徒双方が何らかの形で、「自分自身」を問題に織り込むことを余儀なくする。(136ページ)
ただ、当然落とし穴もある。生命倫理問題のディレンマを討論させたり考えさせたり、死に直面した人の話を聞いたり遺書を書かせ感性と体験に訴えたりして、教室の空気が「動く」ことに、教師は目を奪われがちである。(中略)だからこそ、考えたり感動したりした「その先」が何なのか、それを考える必要がある。生命倫理教育と死の教育は、一歩間違えば、先端医療と高齢社会のつゆ払いと後始末を相補的に成す危険性と隣り合わせである。(語り:137ページ)

「生命倫理教育」「死の教育」と「生死の教育」
学校での「生死の教育」は今後どうなっていくべきか。第一、大きくは生命倫理教育と死の教育に二分されている現在の生死の教育を止揚して、自己を問い、他者に問いかけ、社会を変革してゆく地平を切り拓くものにしていくこと。第二に、そのためには、生命倫理学と死生学だけを親学問にするのではなく、医療社会学や文化人類学、科学技術社会論、社会福祉学やジェンダー論、障害学など、近接領域、関連領域からの知見を貪欲かつ批判的に取り入れてゆくこと。第三に、生死の教育が、言挙げ(ことあげ:言葉を発すること)できない「小さき人々」の、言葉にならない言葉を掬(すく)い取ってゆくことである。
(語り:140ページ)

〇以上の大谷の、鋭い考察と深い洞察、そして強い筆力には驚嘆させられる。語るべきは「美しく死ぬ作法」ではなく、「みっともなくても生きのびろ」ということである(語り:139ページ)、と言う。大谷の論点や言説は「市民福祉教育」に通底するものが多い。市民福祉教育のねらいのひとつは、「生きる力」ではなく、「生きのびる力」を育てることにある。それが豊かなまちづくりを促す。再確認しておきたい。
〇さて、筆者の「積読」(つんどく)本のなかに、松田純(まつだ・じゅん)著『安楽死・尊厳死の現在―最終段階の医療と自己決定―』(中公新書、2018年12月。以下[1])と梶田叡一(かじた・えいいち)著『〈いのち〉の教育のために―生命存在の理解を踏まえた真の自覚と共生を―』(金子書房、2018年6月。以下[2])がある。
〇[1]で松田は、「21世紀初頭、世界で初めてオランダで合法化された安楽死。同国では年間6000人を超え、増加の一途である。容認の流れは、自己決定意識の拡大と超高齢化社会の進行のなか、ベルギー、スイス、カナダ、米国へと拡散。他方で精神疾患や認知症の人々への適用をめぐり問題も噴出している。“先進”各国の実態から、尊厳死と称する日本での問題、人類の自死をめぐる思想史を繙(ひもと)き、「死の医療化」(患者の「死ぬ権利」ではなく、法の下で医師が死を管理すること:阪野)と言われるその実態を描く」(「帯」より)。
〇松田は、「安楽死」を三つに区別する。①狭義の安楽死――医師が患者に致死薬を注射して生命を終結させる行為など。②医師による自死介助――医師が患者に致死薬を処方し、患者が自らそれを服用して生命を終結させることなど(服用でない形もある)。③生命維持治療の中止――「消極的安楽死」とも呼ばれ、臨床上の方針として、生命を維持するためのさまざまな治療を中止あるいは開始しないこと、がそれである(「はじめに」ⅱページ)。世界では①②③を「尊厳死」と呼ぶが、日本では「安楽死」と区別して、③のみが一般的に「尊厳死」と呼ばれている。
〇松田によると、現代の安楽死論の論調に、「自分の生命に対する処分権(死ぬ権利)」(205ページ)、すなわち自己決定権(憲法13条から導出される人権のひとつ)に基づく安楽死正当化論がある。しかし、そこには、「本人の自発的な要望による安楽死から、非自発的な安楽死の強制へのなし崩し的な拡大」、すなわち「『死ぬ権利』から『死ぬ義務』への転換」(208~209ページ)という危うさが潜んでいる。いわゆる「すべり坂」(〈安楽死を〉公共政策化すると、障害などを抱えた弱い立場にある人が、本人の意思に反して、家族や社会の負担とされ、被害を受ける可能性が増大すること)への懸念である(28ページ)。別言すれば、「なし崩し的な運用」への不安である。
〇また、松田によると、自己決定の判断をするためには、「自律」(autonomy)が鍵概念となる。その点について松田は、「自律」至上主義的な考え方に対して、「自律・独立と依存は表裏の関係にある」「人間は自由にして依存的な存在」(215ページ)であることを重視する。
〇松田にあっては「自律」とともに、「健康」(health)がいまひとつの鍵概念になる。「健康」については、WHO(世界保健機関)憲章「前文」の「身体的・心理的・社会的に完全に良い状態」という定義を想起する。それに対して松田は、健康を「完全に良い状態」という静止状態として捉えるのではなく、「立ち直り、復元力、適応力」として動的に捉えることが重要であるとする(222ページ)。オランダの女性医師マフトルド・ヒューバーが提唱する新しい健康概念、つまり「たとえ病気で苦境に陥ってもなんとか事態に適応し、人々の支援を受け入れ(=依存を受け入れ)、気落ちすることなくポジティヴに生きていくという健康観」(230ページ)である。

〇松田がいう「自律」と「健康」に留意しておきたい。「死」について考えることは、「生」の意味やあり方を問うことでもある。
〇次に、[2]における梶田の言説については、次の一節だけをメモっておくことにする。「尊厳死」思想に通底する根本的な言説である(見出しは筆者)。

「いのちの教育」はヒトがそこに存在していること自体を理解し承認することから始まる
「人間としての尊厳=ヒューマン・ディグニティ」という言葉は、「能力があるから」でなく、「役に立つ」からでなく、ましてや「美しいから」とか「感動を与えるから」でもなく、人間一人ひとり、そこに存在していること自体として、かけがえのない大切さがある、ということです。(「プロローグ」2ページ)
私自身と同じように、他の人も与えられた〈いのち〉を精いっぱい生きている存在なのだ、という根本的立場の同一性の認識がなくては、一人ひとりの個性や能力や社会的位置づけ等々の違いを乗り越えて互いが互いを無条件に尊重する、といった事態は生じないのではないでしょうか。(「プロローグ」3ページ)

蛇足
誤解を恐れずに一言しておくことにする。
以下を草することにしたのは、私事にわたるが最近、高齢者特有の心身上の変調が顕著になってきたことによる。また、他県の老人介護保健施設を訪ね、50数年ぶりに、びっくりするほど「小さくなった」従姉に再会したことにもよる。あまりにも壮絶な人生を送ってきた彼女はいま、80歳代後半を認知症患者として「存在」し、「いのち」の自己展開を図っている。「私はいまが一番幸せです!」という言葉が耳に残る。

〇落語「地獄八景亡者戯」(じこくばっけいもうじゃのたわむれ)が面白い。「まくら」のあと、「健康が一番でございます。‥‥‥さて、いずれ人間は死ななければいけないわけでございますね~」と「本題」に入る。
〇友達からもらった鯖(さば)を二枚におろし、その片身を肴(さかな)に一杯飲んだら鯖にあたって死んだ、いたって気楽な男、喜六。夢でもなし、現(うつつ)でもなし、空空寂寂(くうくうじゃくじゃく)としたところへ出てきて、薄暗い感じ。前を行く者、後ろから来る者、額に角帽子(すんぼうし)、首から頭陀袋(ずだぶくろ)、手には麻幹(おがら)の杖、糸より細い声をあげ、「お~い」。
〇喜六は、冥度への旅路で伊勢屋のご隠居と再会する。そして、喜六によってご隠居の立派な葬式の様子が語られる。隠居は、喜六が葬式の手伝いに来てくれていたことも、香典の5000円をくすねたことも知っていた。「わしゃ棺桶の隙間から覗いてたんや、ズ~ッと」。「あぁ、あの人も来てくれてるなぁ、この人も来てくれてるなぁと思てな、見てたんやで‥‥‥」。
〇私(阪野)はそろそろ「死に支度」について考えなければならない歳になった。私は、伊勢屋のご隠居とはちがって、自分の遺体が安置されている部屋の鴨居(かもい)や欄間(らんま)のあたりから下を見ている。粗末な棺桶の周りにいる数少ない弔問者や会葬者の「他人が知っている私」の話を聞いている。その話に対してときに、「私が知っている私」について語りかける。でも、その声は届かない。そこで、人生を振り返り、「私が知らない私」について考え始める。そうこうしているうちに、閻魔庁の門前にたどり着く。いよいよ閻魔大王の裁定が下り、既に決まっている4人(医者、山伏、軽業師、歯抜き師)の男に加えて、「私」(井の中の蛙の田舎教師)も地獄行きとなる。熱湯の釜や針の山などの責め苦をかいくぐるが、最後には「人呑鬼」(じんどんき)に丸呑みにされてしまう。しかし、その腹のなかで4人は暴れまくり、それにたえかねた人呑鬼は大王(「大黄」という下剤)を呑み、われわれを下(くだ)してしまう。そうするとまた、どこからか「他人(亡者)が知っている私」の話が聞こえてくる。
〇そこでまた、「私が知っている私」や「私が知らない私」の具体的な中身(なかみ)について考え始める。例えば、(現世では)みっともない生き方しかできなかった(できないでいる)ことはともかくとして、市民福祉教育に“一所懸命”であったとはいえ基礎的・専門的な研究力や実践力を身につけられなかったこと、現場と研究の双方において浅薄で皮相的な見方や取り組みしかできなかったこと、教育がもつ暴力性や市民福祉教育がもつ欺瞞性について十分に自覚しえなかったこと、それゆえに、まちづくり(福祉)や市民福祉教育を哲学する道筋を描くことに程遠かったこと、などについてである。加えて、早い時期から「福祉教育」について語ってきた者としての、“限界”や“責任”についてである。それは厳しく、重い。