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「むち打ち症」:激変時代を生き抜くための原理(9+1)―伊藤穣一、ジェフ・ハウ著『9プリンシプルズ』読後メモ/“おもしろさの探究と創造”―

〇桂米朝や文珍の落語「地獄八景亡者戯」(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)は、噺の筋と話芸の巧みさがおもしろい。その噺では、三途の川を渡る際に、死に方によって渡し賃(通常は六文、300円)がぼったくられる。閻魔(えんま)さんのお裁きを受ける前に、“金次第”である。それを節約し、三途の川を泳いで渡るのもまた一興かなという思いでもないが、筆者(阪野)は定年退職と同時にプールに通い始めた。いまではそれなりの時間と距離を泳げるようになった。ただし、ターンのやり方については習得していない(その意味は?)。
〇「今夜は少し早いけど、プールに行こうか」「うん、分かった」「‥‥‥」「赤信号だ」「‥‥‥」“ドカーン”「なに、なに、どうしたの」「すみません。すみません。路肩に移動してください」「‥‥‥」「申し訳ありません。お体は大丈夫ですか。ごめんなさい」「‥‥‥」「大丈夫ですよ」「警察を呼んでください」「保険会社に連絡してください」。寒風のなかの1コマ(1時間半)であった。
〇「むち打ち症の一歩手前ですね」「後になって症状が出てくることもありますので、2、3か月の間、週2、3回ほど通院してください」「わかりました」「電気をかけますね」「ウォーターベットもやりましょうかね」。何故か親切である。
〇冒頭から私事で恐縮であるが、昨年暮れの出来事である。いまも通院している。病院のリハビリ室はまるで桂文珍の噺「老婆の休日」の世界であり、時間である。「最近、Aさんをみないね」「そーだねー。どっか身体の具合でも悪いのかなー」「私もBさんも、元気だからこそ病院に来れる」。電気をかけながら楽しんでいる。
〇過日、宇野重規の『未来をはじめる―「人と一緒にいること」の政治学―』(東京大学出版会、2018年9月)を読んだ(本ブログ「雑感」(71)2019年1月12日投稿)。そこでは、伊藤穣一、ジェフ・ハウ著/山形浩生訳『9プリンシプルズ―加速する未来で勝ち残るために―』(早川書房、2017年7月。以下[1])が紹介されている。宇野によると[1]では、常識自体が激しく変化している現代という時代を生き抜くための処方箋――「9つの原理」(9プリンシブルズ)が示されている。「しなやかさと引く知恵とコンパスを持って」(168ページ)生きる、というのがそのひとつである。
〇遅ればせながら筆者は、早速[1]を入手し読むことにした。その原著は、Whiplash: How to Survive Our Faster Future(Grand Central Publishing,2016)である。原題の“Whiplash”は「むち打ち症」である。
〇「むち打ち症」になりかねないほどの高速で激変する未来(あす)を生き抜くには、どうすべきか。[1]では、その原理(指針)について、イノベーション(変革)をめぐる多くのトピックやエピソードを解説しながら提示する。その論考は、圧倒的な知性を自在に操(あやつ)るものであり、深く広い。難解なところもあるが、刺激的で興味深く、おもしろい。
〇[1]においては、現代社会の特徴は「非対称性」(asymmetry)、「複合性」(complexity)、「不確実性」(uncertainty)にある。「非対称性」(不均等・偏り)は、かつては大きな力に対抗するためには、同等の組織や強さを要した。今日では、小さなものが大きなものに脅威を与えている。「複合性」は、異質性、ネットワーク、相互依存性、適応性の4つの要素から成り立っている。「不確実性」は、これまで人類の成功は正確に予測する能力と直結していた。しかしいまの時代は、未来(あす)を見通すことができなくなっており、無知を認めることのほうが戦略的に優位性を持っている(30~35ページ)、等々を含意する。
〇こうした大きな社会変革が進むなかで、今後の時代や社会において重要になるのが次の「9つの原理」である。「(1)権威より創発」「(2)プッシュよりプル」「(3)地図よりコンパス」「(4)安全よりリスク」「(5)従うより不服従」「(6)理論より実践」「(7)能力より多様性」「(8)強さより回復力」「(9)モノよりシステム」。すなわちこれである。以下に、その要点を抜き書きすることにする。なお、各項目の次に記したキャッチーなフレーズは、訳者・山形によるものである。

(1)権威より創発(emergence over authority)/自然発生的な動きを大事にしよう
伝統的なシステムだと、製造業から政府まで、ほとんどの意志決定はトップが行っていた。従業員は製品やプログラムを提案するよう奨励はされても、専門家と相談してどの提案を実施するか決めるのは、管理職や権威を持つ他の人々だった。このプロセスは通常はゆっくりしており、何層もの官僚主義に包まれ、保守的な手順主義に妨害を受ける。
創発的なシステムは、そのシステム内のあらゆる個人がグループに役立つ独自の知性を持っていると想定する。その情報は、人々がどんなアイデアやプロジェクトを指示するか選択するとき、あるいはそうした情報を得てイノベーションに使うときに共有される。(55~56ページ)

(2)プッシュよりプル(pull over push)/自主性と柔軟性に任(まか)せてみよう
人的資源の最高の使い道は、必要なものだけを、必要とされるときだけに使って、人々をプロジェクトに引き込む(プルする)ことだ。タイミングが鍵となる。創発は問題解決に多くの人々を使うという話ではあるけれど、プルは、この発想をもう一歩先に進め、必要なものを、それがまさに最も必要とされているときにだけ使う。(75ページ)
「プル」は資源を参加者のネットワークから必要に応じて引き出し、材質や情報を抱え込んだりはしない。既存企業の管理職にとって、これは費用削減をもたらし、急変する状況に対応する柔軟性を高め、最も重要な点として自分の仕事のやり方を考え直すのに必要な創造性を刺激することになる。(80ページ)

(3)地図よりコンパス(compasses over maps)/先のことはわからないから、おおざっぱな方向性で動こう
地図は、その土地についての詳細な知識と、最適経路の存在を含意している。コンパスは、はるかに柔軟性の高いツールだし、利用者が創造性と自主性を発見して自分の道を見つけなければならない。地図を捨ててコンパスを取るという決断は、ますます急速に動くますます予測不能な世界では、詳細な地図は無用に高いコストをかけて、人を森に深く引き込んでしまいかねない、という点を認識している。でもよいコンパスは、常に行くべきところに導いてくれる。(106ページ)
地図よりコンパスを重視すれば、別の道を探究したり、回り道を有効に使ったり、予想外の宝物を見つけたりできるようになる。(106ページ)

(4)安全よりリスク(risk over safety)/ルールは変わるものだから、過度にしばられないようにしよう
現代の低コストイノベーションの可能性をすべて活用するにはこれ(安全よりリスク重視)が不可欠だ。(中略)これはますます、製造業、投資、アート、研究のイノベーションでも重要なツールになりつつある。(140ページ)
安全よりリスクに注目する潜在的な便益は、金銭的な利得をはるかに超える。(中略)これ(安全よりリスク重視)は投資と製品開発の古い階層モデルでは閉め出されていた人々にとって、各種の新しい機会を提供する。(142ページ)
これ(安全よりリスク重視)はあらゆるリスクの高い提案を盲目的に支持しまくる必要はないけれど、イノベーターたちや投資家たちに、いま何かをやる費用と、何かを先送りにしようか考える費用とをてんびんにかけるよう促すものだ。(143ページ)

(5)従うより不服従(disobedience over compliance)/むしろ敢(あ)えてルールから外れてみることも重要
不服従、特に問題解決のような極度に重要な領域での不服従は、しばしばルール準拠より大きな見返りをもたらす。イノベーションには創造性が必要で、創造性は――善意の(そしてあまり善意でない)管理職たちの大いなるフラストレーションの源(みなもと)ではあるけど――しばしば制約からの自由を必要とする。(中略)偉大な科学的進歩に関するルールは、進歩のためにはルールを破らねばならないということだ。言われた通りにしているだけでノーベル賞を受賞できた人はいないし、だれかの設計図にしたがっていただけでノーベル賞をもらえた人もいない。(167ページ)

(6)理論より実践(practice over theory)/あれこれ考えるより、まずやってみよう
理論より実践ということは、加速する未来では変化が新しい常態となるので、実際にやって即興するのに比べ、待って計画するほうが高い費用がかかるということを認識するということだ。古き遅き日々なら、計画は――ほとんどどんな活動でもそうだけれど、特に資本投資を必要とするもの――金銭的なトラブルと社会的な後ろ指を指されかねない失敗を避けるのに、不可欠なステップだった。でもネットワーク時代では、主導的な企業は失敗を受け入れ、奨励さえしている。いまや(中略)各種のものの立ち上げは、価格面でも大きく下がり、ビジネスは「失敗」を安上がりな学習機会として受け入れるのがごく普通になっている。(194ページ)

(7)能力より多様性(diversity over ability)/ピンポイントで総力戦やっても外れるから、取り組みもメンバーも多様性を持たせよう
人はつい、ある分野で最も賢く最もよい訓練を受けた人々――専門家――がその得意分野の問題解決に一番向いていると思いがちだ。(224ページ)
さまざまな局面で、多様性のある集団のほうが生産的だと実証する研究は増える一方で、このため多様性は学校や企業やその他の組織にとって戦略的に重要となりつつある。多様性は政治的にもいいし、宣伝にもいいし、その人の人種やジェンダーの平等への取り組み次第では善行にもなる。でも各種の課題のほうでも最大限の複雑性を持ちかねない時代にあっては、多様性は単によいマネジメントだ。これは多様性が能力を犠牲にすると思われていた時代からは驚くほどの変化だ。(225ページ)

(8)強さより回復力(resilience over strength)/ガチガチに防御をかためるより回復力を重視しよう
強さより回復力を示す古典的な例は、葦(あし)と樫(かし)の木の物語だ。台風が吹き荒れたとき、鋼鉄のように強い樫の木は砕けるが、柔軟で回復力のある葦は低くたわみ、嵐が通り過ぎるとまた跳ね起きる。失敗に抵抗しようとして、樫の木はかえってそれを確実にしてしまったわけだ。(243ページ)
長期では、強さより回復力を重視することで、組織がもっと活気ある、堅牢(けんろう。頑丈)で、ダイナミックなシステムを発達させる一助となるだろう。これはとんでもない破綻に対してずっと耐性が高い。はるか遠い偶発事に備えて資源を取っておいたりしないし、不要な手続きだの手順だのに過剰な手間暇を支出したりもしないので、予想外の嵐をも乗り切れるようにする、組織的な健康のベースラインを構築できる。(246ページ)

(9)モノよりシステム(systems over objects)/単純な製品よりはもっと広い社会的な影響を考えよう
ごく最近まで、科学は脳研究に対し、腎臓研究と同じやり方で取り組んできた。言い換えると、研究者たちは脳という器官を研究対象のモノとして扱い、その解剖学、細胞構成、体内の機能などに専門特化して生涯のキャリアとした。でもエド・ボイデン(神経科学者)
はこの学術的な伝統には属していない。(中略)かれのグループは、脳を名詞よりは動詞として扱うほうが多く、独立した器官よりはむしろ重なりあうシステムの焦点として扱い、そうしたシステムを理解するには、その機能を定義づける変化し続ける刺激群の文脈を考えねばならないとしている。(268~269ページ)
各分野のあいだやその向こうの空間は、学術的にはリスクが高くても、競争は少ないことが多いし、有望で風変わりなアプローチを試すにも必要な資源は少なくてすむ。そしていまはあまりうまくつながっていない既存分野間のつながりを開封することで、すさまじいインパクトをもたらせるかもしれない。(282ページ)

〇以上の原理(処方箋)はそれぞれ、「お互いと重なりあり、補いあうようにできている(順番は重要度とは関係ない)」。そして、「9つの原理」や[1]全体に通底する「原理」に、「教育より学習」(learning over education)がある([1]38ページ)。本稿のサブタイトルの「9+1」が意味するところである。なお、その「学習」は自分でやること、「教育」はだれかにしてもらうことをいう([1]38ページ)。
〇例によって唐突であるが、ここで、「まちづくりの10原則」について思い起こしたい(本ブログ「まちづくりと市民福祉教育」(11)2012年10月13日投稿)。「(1)公共の福祉の原則」「(2)地域性の原則」「(3)ボトムアップの原則」「(4)場所の文脈の原則」「(5)多主体による協働の原則」「(6)持続可能性、地域内循環の原則」「(7)相互編集の原則」「(8)個の啓発と創発性の原則」「(9)環境共生の原則」「(10)グローカルの原則」(日本建築学会編『まちづくりの方法』丸善、2004年3月、3~4ページ)がそれである。この「まちづくりの10原則」に「9つの原理」(「9+1」の原理)を掛け合わせて考えてみると、「まちづくりと市民福祉教育」の実践や研究の新たな視点・視座や問題あるいは課題を見出すことができようか(図1)。留意したい。それは、激しい世界の動きや時代の流れとそれが個別具体的に反映される地域・社会において、その動きや流れをおもしろいと感じ、その現状を変革する方向性を見出し、変革する力を育てることが強く求められる、と思うからである。誤解を恐れずにそれを別言すれば、“おもしろさの探究と創造”であろうか。

補遺
日本建築学会 「まちづくりの10原則」
(1)公共の福祉の原則
居住環境や町並み景観、地域経済、教育・文化など、地域社会の 公共の福祉に関わる事項を維持向上させ、安全性、快適性、保健・衛生などの基礎的な生活の場の条件、文化的な生活のための条件を整え、公共の福祉を実現する。
(2)地域性の原則
それぞれの場に存在する多様な(社会的、物的、文化的、自然的、歴史的な)地域資源とその潜在力を生かし、固有の地域性に立脚して進められる。
(3)ボトムアップの原則
公権力の行使としての都市計画や巨大資本による都市開発とは異なり、地域社会の住民と市民の発想を元に、地域社会における下からの活動の積み上げにより、その資源を保全し、地域社会を持続的に改善し、発展向上させる。
(4)場所の文脈の原則
歴史・文化の集積としての「場所の文脈」に対する共通理解の元で、社会・空間をその延長としてデザインし維持運営する。ここで言う場所の文脈とは、歴史的に積み重ねられた行為がそれぞれの場所に集積され生活を支える基盤となっているもので、それぞれのまちの社会と空間を支える基本であるとの認識である。
(5)多主体による協働の原則
個人やそれぞれの組織が自立しつつ、補完し合い、連携・協働して、活動する。このことは、一つのまちづくり活動の内部においても、さまざまなまちづくりが連携する場面においても、共通である。
(6)持続可能性、地域内循環の原則
持続可能な社会と環境を目指して、一挙に特定の目的を達成するのではなく、時間をかけた漸進的な過程を経ながら地域社会を構成する多様な主体の参加を得て持続的に進められる。そして、資源や財産、そして人材が地域内に循環し、持続可能な地域社会を維持しながら運営される。
(7)相互編集の原則
目標とする将来像が事前確定的ではなく、個々のまちづくり活動の成果が相互作用の過程を経ながら整合的に組み立てられ、徐々に「まち」の全体を形づくる。このプロセスを相互編集、相互デザインと呼ぶ。地域の内から、そしてボトムアップで全体を編集するのであり、それを導くのが目標空間イメージの共有とその持続を支える仕組みと技術である。
(8)個の啓発と創発性の原則
住民一人一人、個々のまちづくり組織の個性と発想が生かされ、個の自立と創発性により、それぞれが高め合いながら地域が運営されまちづくりが進められる。
(9)環境共生の原則
自然、生態学的環境の仕組みに適合し、物的環境を維持発展させる。そして、個々のまちづくりの活動の集積が広域的な生活圏、例えば河川の流域圏などの都市と農山漁村の複合環境体を維持向上させ、さらにそれらの集積である地球環境システムの維持に貢献する。
(10)グローカルの原則
地域性に立脚しながらも、常に地球的な視野で構想し、さまざまなネットワークに自らを位置づけ、活動する。まちづくりも、地域という境界を越えボーダレスな情報や知恵の交換が進められ、まちづくりの境界を越えて相互編集される。21世紀のグローバル社会の中では、地域性の原則を維持し、しかし地域に閉じこもるのではなく、拓かれた活動としてのまちづくりが展開されている。グローバルで、かつローカルな視点と行動が求められているのである。
(日本建築学会編『まちづくりの方法(まちづくり教科書第①巻)』丸善、2004年3月、3~4ページ)

「冷たい社会」を「冷たい頭」で考える、そこには「厳しい闘い」と「本当の優しさ」がある:子ども・青年と大人の社会認識や市民性を形成するための愉快な“学び”について―タコツボ的思考からの脱却とネットワーク型思考の展開―

〇昨年11月の日本福祉教育・ボランティア学習学会第24回大会(「あいち・なごや大会」)の「分科会」(自由研究発表)に参加した際、ある種の懸念や危惧が筆者(阪野)の頭をよぎった。福祉教育実践や研究は、その基軸である地域性と共働性をはじめ、多様性と共通性、学際性と総合性、創造性と変革性などについての「知」と「心」と「力」の育成・共有を確かなものにしてきたか。その取り組みはタコツボ化し、硬直化しているのではないか、というのがそれである。多少具体的にいえば、福祉教育は、①その成立基盤であり構成要素でもある科学的な「社会認識」の形成、②その理念や思想とされる「社会的包摂」や「共生社会」についての単一的思考からの解放、そして③その地域・社会の真の「あるべき姿」を展望し未来(あす)を切り開く「市民性」(市民的資質・能力)の育成、などをめぐる問題点や限界についての懸念や危惧である。
〇そんな思いを持ちながら、2019年元日に、不遜の極みであるが布団の温もりとほろ酔い気分のなかで(1)井手英策『18歳からの格差論―日本に本当に必要なもの―』(東洋経済新報社、2016年6月。以下[1])と(2)井手英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科―未来を語るために―』(有斐閣、2017年9月。以下[2])を読み返すことにした。
〇[1]のメッセージは、僕たちは「社会的弱者を見て見ぬふりする社会」「誰かのための負担をきらう、つめたい社会」「つながりの危機に直面した、生きづらい分断社会」に生きている。「弱者を生まない、誰も後ろめたさを感じなくていい。僕たちはもっと生きる価値のある未来を創り出すことができる」(カバー「そで」)。「誰もが自分の生き方を自分で決められる、そんな自由で公正な社会の可能性を一緒に考えてみませんか?」(112ページ)、である。[2]は「経済、政治、社会をめぐるさまざまな出来事を、できるだけわかりやすい言葉で、できるだけ多様な視点で説き明かし、最後に未来への一つの方向性」(3ページ)を示している。それは、知的な権威に批判的な態度をとる「反知性主義」に対する、「上から目線」の「ささやかな抵抗」(3ページ)でもある。その際、[1]は「財政学」の視点から、[2]は財政学(井手)、政治学(宇野)、経済学(坂井)、歴史学(松沢)などの「社会科学」の立場から説述し、提言を行う。
〇[1]の目次は次の通りである。井手の立ち位置や視点・視座、言説の内容の大筋を知ることができる。また、その項目だけからも、いまの日本社会を思索する際の多くの知的ヒントを得ることができる。

〇以上の項目をめぐる論述について、そのポイントを要すれば次の通りである。かつて「平等主義国家」と呼ばれた日本社会はいま、「格差社会」「分断社会」「自己責任社会」である。この社会を作り出した責任は、政府や財界だけにあるのではなく、「ふつうに生活している人たち、そう僕たちみんな」(29ページ)にある。日本は先進国のなかでも「小さくて効率的な政府」(20ページ)であり、「税への抵抗」が強く租税負担率も低い。「育児・保育、教育、医療、介護、障がい‥‥‥人間が人間らしく生きていくためには、さまざまなサービスが必要である。このサービスを(貧困層に限らず)みんなが受け取り、かわりに必要な財源を(所得に比例して)みんなで分かちあう」(5ページ)。すなわち、「取られる税」から「くらしのための分かちあい」(101ページ)へと視点を変換する。それによって、誰もが・中高所得層も「受益者」になり、「働かざる者食うべからず」の考え方や姿勢などお互いが対立・反発し合うことはなくなる。ここに、「絆」に頼るのではなく「絆」を作り出す(112ページ)、公平・公正で優しい社会が実現する。これが、井手が言う「必要の政治」の戦略(制度設計)である。それを支える哲学は、「所得の大小で人間を区別しない」「お金なんかで人間を評価しない」(96ページ)というものである。
〇ここで、[1]から井手の「思想の根っこにある考え方」(93ページ)について抜き書きする。そこには、福祉教育実践や研究のあり方を再認識する、あるいは問い直す視点や視座が見出される。科学的で革新的な「ネットワーク型思考」に基づく「発想の転換」や「逆転の発想」に留意したい。

◍ 考えてください。そもそも弱者を「助けてあげる」ことは100%正しいのでしょうか。(75ページ)
◍ 救済――それは、人間の善意であり常識でさえあります。でも、それは同時に、確実に、そして深く、人間を傷つけてしまいます。このことに気をつけないと、「救済」と「自己満足」とは紙一重になってしまうのではないでしょうか。(76ページ)
◍ 「傍観」することだけは絶対にやめなければならない。それは未来を創造する権利を投げ出すことだからです。(79ページ)
◍ かわいそうだから助けてあげるのではない、理不尽だから闘うのだ、(中略)弱者の幸福ではなく、人間の幸福を追求するのだ。(93ページ)
◍ みなさん。一度、人間の「違い」ではなく、「同じところ」に想いをはせてみませんか?(中略)みんなが必要なものの組みあわせについて。(110ページ)。
◍ 僕たちは、連帯や団結を人間に強いることはできません。なぜなら人間は人間の心を支配することはできないからです。(110ページ)

〇[2]では、いまの日本「社会をほどき、結びなおす」(1ページ)ために、(1)経済に関連する「GDP」「勤労」「時代」、(2)政治をめぐる「多数決」「運動」「私」、(3)社会における「公正」「信頼」「ニーズ」、(4)未来を読みとくための「歴史認識」「公」「希望」という12のキーワードを取りあげ、切れ味鋭く解説する。それは、「ぐずぐず言わずに考える!」(「帯」)、「知」の力で社会を変える、そのための「共通の知的プラットホーム」(3ページ)すなわち「教科書」の作成・提供である。
〇ここで、[2]から、筆者の関心事項について、そのいくつかを抜き書きあるいは要約する(「である調」に変換。見出しは筆者)。

運動の「正当性」とそのゆらぎ/第5章「運動」(松沢)
「自分たちのことは自分たちで決める」を理念とする民主主義社会では、理念と実際のずれを埋めるために、運動はなくてはならないものである。ある運動が起き、とくにそれが一定の広がりや影響力をもつ場合には、運動参加者のあいだで何らかの価値が共有されていること、また運動参加者はそうした価値が、運動が働きかける相手にも共有されていると考えていること、が前提となる。この「正当性」によって運動は支えられる。正当性の確保に失敗すれば、運動は失敗する。そもそも運動を起こすためには、一人ひとりの個人が結びついて〈私たち〉としてまとまることが必要である。その結びつきの軸になるのが正当性であるが、その軸は時代によって変する。いまの日本社会では、その軸が多様化しており、単一の〈私たち〉を立ち上げることはできなくなっている。それは、一面で、多様な価値観の共存を許す社会に近づいている、ということを意味してもいるが、現代日本の運動は、正当性のゆらぎのなかに置かれていると言える。(88~100ページ)

社会問題の個人化と民主主義の危機/第6章「私」(宇野)
民主主義とは、自分たちの問題を、自分たちの力で解決していく営みである。ところがいまや、若者は自らの生活に不安や不満を抱えていても、ともに問題を解決するための〈私たち〉をみつけられずにいる。団結すべき〈私たち〉の不在――現在の日本の民主主義の最も脆弱な部分がそこにある。かつては、社会問題を解決するにあたって、同じ境遇にある労働者の団結をめざす労働運動も可能であった。今日では労働者といってもおよそ一枚岩ではない。社会問題は、個人にすべて帰責できない事柄までが、個人の問題のように現れている。この社会問題の「個人化」こそが、〈私たち〉の問題を、〈私たち〉の力で解決する民主主義を困難にしている。(105~109ページ)

人々の節度と共生社会の創造/第7章「公正」(坂井)
他者とのかかわりのなかで自分が不公正に扱われることを嫌がり、対等に扱われたいと欲する自尊の心理は、人間が自然にもつものである。そしてこの心理は、他者が自分を対等に扱ってくれるのならば、自分も他者を対等に扱おうという感情につながる。ただしそうつながるためには自尊の心理に節度が必要である。節度がなく暴走すると、自分だけを尊重せよ、自分は他者を尊重しないという感情になってしまうからである。人々が節度をもち、互いを対等に扱おう、互いに必要とするものを尊重しあおうという感情は、人々が共生する社会の礎(いしずえ)となる。節度がきかないならば、相互尊重ではなく、自分だけを優遇せよとなるから、人々が互いに必要とするものを支え合う社会はつくれない。(134~135ページ)

「安心社会」の崩壊と「信頼社会」の構築/第8章「信頼」(宇野)
終身雇用や年功序列といった特徴をもつ日本企業に代表される、いわゆる「日本型組織」は「安心社会」の最たるものである。そのような日本の「安心社会」にも変化がみられる。日本社会は、「安心社会」ではなくなりつつある一方、他者との信頼関係に基づく新たな「信頼社会」にはうまく適応できず、結果として周囲に同調してしまっている、と指摘される(社会心理学者/山岸俊男)。現在、注目が集まっている考え方の一つに「ピア・ネットワーク」(peer network)がある。この場合の「ピア」とは「仲間」や「同等の立場の人間」をさす言葉である。上から下への支持(ママ。指示:阪野)・命令関係ではなく、対等な人間のあいだの相互評価とネットワークこそが、社会を動かす新たな原理となるべきである。「ピア・ネットワーク」は、21世紀の「信頼」の形なのかもしれない。上から力によって統制されるばかりでは、社会は円滑にも、効率的にも運営されない。社会を真に支え、動かすのは「信頼」である。(142~143、150~151ページ)

「パブリック」と「生活の場」「生産の場」「保障の場」の再編/第11章「公」(井手)
自助と共助に委ねられ、依然として自己責任に支えられた日本の財政をどうするのか。このことについては、人々に共通の「パブリック」なニーズを今後どうするのかという問題に加えて、家族やコミュニティなどの「生活の場」、企業を中心とする「生産の場」、国と地方自治体、自治体と自治体という「保障の場」の関係をどう立て直していくのかが問われることになる。私たちはこれから、人口が急激に減少し、経済の成長がかつてほどには見通せない時代を生きていくこととなる。気持ちはどうしてもふさぎかちである。でも、「希望」はある。人間に大切なのは、人口増大や経済成長そのものではなく、どのように人間らしい生活を維持していくか、どのように将来の不安をなくしていくかということである。生活に必要なニーズを3つの場を鋳(い)なおして満たしていく――まさにいま、地域が人口や経済の規模に応じて「生活の場」「生産の場」「保障の場」のそれぞれに力点を置きながら、それぞれの形で生活ニーズを満たしあっていく、そんな多様性の時代が訪れようとしているのである。(196~197、207ページ)

「まだ―ない」希望と「ウォームハート」「クールヘッド」/第12章(宇野)
人間は「もはや―ない」過去によって規定されているのと同じように、「まだ―ない」未来によっても規定されているのではないか(ドイツのマルクス主義哲学者/エルンスト・ブロッホ)。「希望」は、「私たちのなかにすでにある力」を顕在化させることにある。そしてそのような力をはっきりと見定めるためには、「社会科学」の力が必要である。かつてイギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルは、「ウォームハート」(温かい心)と「クールヘッド」(冷静な頭脳)の必要性を説いた。希望という「ウォームハート」と社会科学という「クールヘッド」を結びつけること、これこそが本書のメッセージなのである。(213、224ページ)

〇宇野重規の著作に、『未来をはじめる―「人と一緒にいること」の政治学―』(東京大学出版会、2018年9月。以下[3])がある。「政治って何なのだろうか」という中高生に対する講義と座談の内容を収録したものである。講義は、「『人と一緒にいる』のは素晴らしいことであると同時に、時としてつらいことでもある。自分とまったく同じ人間は、世界のどこにもいない。当然、人と人には、いつも『違い』がある。『違い』があるからこそ、人と一緒にいることはおもしろいし、楽しいけれど、時には対立が起き、すれ違いが生じる」(ⅱページ。「である調」に変換)という「基本的感覚」からスタートしている。そして、宇野は言う。「社会において対立はなくならない」(55ページ)。「政治とは本来、互いに異なる人たちが共に暮らしていくために発展してきたもの」(2ページ)である。「政治とは結局のところ人と一緒にいるということ」(126ページ)である、と。
〇[3]から、下記の一文を紹介しておく(「である調」に変換。見出しは筆者)。併せて、次の一節に留意したい。「思い込みを捨てて、なるべく長い射程で物事を考えてみよう」(15ページ)。「ひょっとしたら悲観的(あるいは批判的:阪野)なことを言う方が知的であるように見えるかもしれない」(221、223ページ)。「凡庸(平凡)な人が何も考えなくなるとき、巨大な悪を生み出す」(253ページ)。「人間が生まれてきたのは始めるためである(ドイツ出身の20世紀の政治哲学者/ハンナ・アーレント。」(255ページ)。けだし至言(しげん)である。

「強いつながり」と「弱いつながり」
いままでの政治学は、どうも「強いつながり」ばかりを重視してきた気がする。同じ国民なのだから共に戦うとか、利益を同じくする集団が自らの主張を政治的に実現するとか、ややもすればみんな「強いつながり」(strong ties)の世界でばかりで議論をする。しかし、そういう枠組みばかりで政治を議論していると、どうしても話が煮つまってしまう。これからは、政治の議論でも、もう少し「弱いつながり」を大切にした方がいいのではないか。「弱いつながり」(weak ties)の関係をあちこちにたくさん持っていると、有益な情報が得られたり、視点や発想の転換が生じたりし、ブレイクスルー(行き詰まり状態の打開)に至りやすい。(131~135ページ)

「自由でありたい」と「一緒にいたい」
ルソー(フランス革命や近代教育思想に影響を与えた18世紀のフランスの哲学者)は、生涯にわたって、自分と他者のみならず、自分自身と折り合いをつけることにも苦労した人であった。ルソーは矛盾を抱え込んで悩み、それを乗り越える答えとして「一般意志」(政治社会に必要な一つの意志。いまで言う「民意」)という謎のキーワードを生み出した。これに対して、カント(18世紀のドイツの哲学者)はルソーの思想のうち、自分のことは自分できめたい、自分のボスでありたいという部分を重視して、自律を大切にする哲学をつくった。これに対しヘーゲル(19世紀のドイツの哲学者)は、やはり人間は一人で閉じこもっていてはダメで、矛盾だらけの社会で、少しずつ自由であることを学び、成長していくしかないと説いた。ルソーの中にある「いつまでも一人の人間として自由でありたい」という部分と、「それでも他の人と一緒に社会をつくっていきたい」という部分を、カントとヘーゲルがそれぞれ発展させたとも言える。そして僕らは、いまでも、この三人の思考の枠の中で、ものを考えている(139、159~160ページ)

〇[1]「2」「3」はともに、現代社会が抱える問題や課題について多角的、根本的かつ歴史的な視点に立って、平易な言葉で、幅広く・奥深く解説している。内容は重いが、その説得力とメッセージ性は強く、「知」の面白さやダイナミズムを感じる。また、コトの真贋(しんがん。真偽)を見極めるための新たな視座を得ることもできる。
〇最後に、井上ひさしの次の言葉を付記しておきたい。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでもゆかいに」(井上ひさし「前口上」『the座』第14号、こまつ座、1989年9月、16ページ下段。電子書籍版/小学館、2016年9月)。

付記
筆者の手もとに、中野佳裕(社会哲学)の『カタツムリの知恵と脱成長―貧しさと豊かさについての変奏曲―』(コモンズ、2017年12月。以下[4])がある。[4]は、大学の学部講義(「開発学」「平和研究」等)を書籍化したものであるが、「自分の生き方そのものの転換を志す者のための格好の手引き」(「帯」)と評される「読み物」である。「カタツムリは脱成長のシンボルである」(12ページ)。「アカデミアの世界は形式ばっていて、どことなく窮屈だという印象(を持っている)。物を考える営みは、もっとリズミカルで創造的なものじゃないか、もっと自由で表現豊かなものじゃないか」(148~149ページ)。「コンヴィヴィアル(自立共生)な市民文化は、他者と共に楽しく考え、語り合い、学び合うことから始まる」(149ページ)、と中野は言う。言説の一部を付記しておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。

「関係性の貧困の深刻化」と「地球環境破壊の悪化」
人類社会は物質的に豊かになったが、その反面、社会の再生産の危機に直面している。社会的次元における「関係性の貧困の深刻化」(生活の個人化、社会関係の崩壊、生活の質的低下などの社会的危機)と、生態学的次元における「地球環境破壊の悪化」(自然環境の汚染、地球資源の枯渇、生物多様性の喪失などの生態学的危機)がそれである。(19~22ページ)

脱成長と感覚世界の変革
消費社会は人間を合理的経済人に還元し、わたしたちの感覚世界を一面的なものに変えてしまった。脱成長の理念と共振するローカリゼーション(地域づくり)の実践は多く存在する。その実践に共通するのは、単なる経済活動ではなく、生活の意味を再発見し、生活の形をデザインし直す表現活動でもある。人間が他の人間や自然と共に生きることの大切さを理解し、そのような生活を喜びのあるものにデザインしていくには、生活の速度を緩め、感覚を解放し、隣人との対話や自然との触れ合いの中から生活のルーツを再創造していくことが、遠回りに見えても確実な道なのではないか。(33~34ページ)

「貧しさ」と「惨めさ」
〈貧しさ〉を購買力の視点からのみ捉えることは、貧しき者たちがその固有の文化の中で営んできた生活倫理や生存のための技法(アート)を捨象し、彼らを資本主義経済の言説空間に閉じ込めることになる。「貧困層」(the poor population)と抽象的な集合名詞で括(くく)られるようになった貧者は、もはや能動的主体ではなく、経済政策の受動的対象へと還元させられている。貧者の内発的能力や自律性が否認されたとき、〈貧しさ〉は物質的生活と精神的生活の両側面で〈惨めさ〉を引き起こす。(57、58、61ページ)

地域づくりと創造性・芸術性
これからの地域づくりは、人間と物の世界との感性的な関係を捉え直すことから始めなければならない。わたしたちはもっと表現的な人間にならねばならない。だからこそ、このテーマに関わる学問研究は、人間の感性的な次元を重視し、未来への構想力を育むような言葉と仕掛けを演出していく必要がある。ローカリゼーションに関する研究分野においては、そこに携わった人が〈共〉(the common、一緒・仲間)の表現者となれるような、創造性と芸術性にあふれる知が生まれることを期待したい。(150ページ)

「“助けて”と言えない無縁社会」×「“違った意見”が言えない統制社会」:気がつけば民主主義が民主的な手続きによって内側から壊れている―奥田知志を読む―

〇2018年11月24日~25日、日本福祉教育・ボランティア学習学会の第24回大会(「あいち・なごや大会」)が日本福祉大学(愛知県東海市)で開催された。
〇奥田知志(おくだ・ともし。牧師、NPO法人抱樸理事長)の記念講演―「共に生きる意味」と、それを受けて行われた大橋謙策(おおはし・けんさく。東北福祉大学大学院教授、元日本社会事業大学学長)との対談―「共生文化の創造にむけた学び」は圧巻であった。宗教や実践・研究の体系を持つヒトは強くて深い。聞き手は感銘を受け、心が揺さぶられる。
〇周知のように、奥田は、生活困窮者(ホームレス等)に対して、信仰(神学)に支えられた深い洞察とそれに基づく個別的で包括的かつ持続的な「人生支援」を行っている。奥田は言う。「自己責任論の社会が私たちから奪ったものがある。それは『助けて』という一言である」(奥田知志『「助けて」と言おう―3・11後を生きる―』日本キリスト教団出版局、2012年8月、37ページ)。大橋は、地域福祉の理論と思想、方法(コミュニティソーシャルワーク)、そして福祉教育について実践的研究を進めている。大橋は言う。「新たな社会システムに必要な価値、意識として“博愛”の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(大橋謙策『新訂 社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月、227ページ)。
〇筆者(阪野)が奥田を知ったのは、NHKクローズアップ現代取材班編著『助けてと言えない―いま30代に何が―』(文藝春秋、2010年10月)である。その本の「帯」の一文、「言えない/孤独死した39歳の男性が便箋に残した最後の言葉は『たすけて』だった」に衝撃を受けたことを覚えている。いま筆者の手もとに、奥田が執筆した本(単著、共著、分担執筆)が6冊ある。

(1)奥田知志『もう、ひとりにさせない―わが父の家にはすみか多し―』いのちのことば社、2011年6月(以下[1])
本書の内容をあえて言えば、「絆の神学」とも言うべきであろうか。しかし、それは空論ではなく、具体的な「ホームレス」との出会いの中から紡(つむ)ぎだされた「絆の物語の神学」である。この時代に「だれ」と、どのような「絆」を結んで生きるのかと、この本は問いかけている。(関田寛雄「推薦の言葉」6ページ)、
(2)奥田知志『「助けて」と言おう―3・11後を生きる―』日本キリスト教団出版局、2012年8月(以下[2])
震災以来声高に叫ばれ続ける「絆」という言葉。しかし多くの場合、そこで意味しているのは自分に都合のよい絆のこと。ホームレス支援の現場と震災支援の中で見えてきた、傷つくことを恐れて自己責任論の中に逃げ込む現代人の心のあり方を問う。(「帯」より)
(3)奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ―人と社会をつなぐ―』(集英社新書)集英社、2013年8月(以下[3])
ホームレスが路上死し、老人が孤独死し、若者がブラック企業で働かされる日本社会。人々のつながりが失われて無縁社会が広がり、格差が拡大し、非正規雇用が常態化しようとする中で、私たちはどう生きればよいのか? 本当の“絆”とは何か? いま最も必要とされている人々の連帯とその倫理について、社会的に発信を続ける茂木健一郎と、長きにわたり困窮者支援を実践している奥田知志が論じる。対談本。(カバー「そで」より)
(4)佐藤彰・奥田知志・宋富子/明治学院150周年委員会編『灯を輝かし、闇を照らす―21世紀を生きる若い人たちへのメッセージ―』いのちのことば社、2014年3月(以下[4])
本書は、明治学院150周年記念連続講演会(2013年11月、明治学院高校主催)を再録したものである。奥田の講演「その日、あなたはどこに帰るか?―誇り高き大人になるために」が収録されている。メッセージは、「誇り高い人類として生きたいのならば、『助けて!』と言ってください。『助けて!』は、新しい社会を創造するために欠かせない言葉です」。(77ページ)
(5)奥田知志・稲月正・垣田裕介・堤圭史郎『生活困窮者への伴走型支援―経済的困窮と社会的孤立に対応するトータルサポート―』明石書店、2014年3月(以下[5])
奥田知志によって名づけられた「伴走型支援」の思想・理念・仕組みを確認するとともに、その成果と課題を実証的に明らかにしたうえで、これからの生活困窮者支援の方向性を示す必要があると考えた。それが本書である。(稲月正「はじめに」4ページ)
(6)埋橋孝文/同志社大学社会福祉教育・研究支援センター編『貧困と生活困窮者支援―ソーシャルワークの新展開―』法律文化社、2018年9月(以下[6])
本書は、①「伴走型支援」の内容、②家計相談支援の意味と方法、③学校ソーシャルワークの背景と機能、④保育ソーシャルワークの今後の方向性など、生活困窮者および(子どもの)貧困に関するホットイシューズを取り上げている。講演記録集。(埋橋孝文「序」3ページ)

〇本稿では、以上のうちから、[1]の論考について筆者が留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「一人称」で語られる「安心・安全」は人を無縁へと押しやる
「安全、安心の街づくり」とは、いったい何であったのか。そもそもホームレス状態の人々を「タイプの違う人」と呼び、「治安や秩序が乱れる」と決めつけているのは差別である。「安全、安心の街づくり」が人を排除し、その人たちを死へと向かわせている。「安心・安全」が、人を無縁へと押しやっているのである。
あえて問いたい。「安心・安全はそんなに大事か」と。自分たちの「安心・安全」を追求する地域社会が、「自分の安心・安全」を守るために他者との出会いのチャンスを自ら閉ざし、敵対心を燃やす。あるいは、それを理由に無関係を装う。([1]92ページ)
実際の「安心・安全」は、常に「一人称」で語られる。私の安心・安全、我が町の安心・安全、我が国の安心・安全、我が家の‥‥‥。そこには、あなたの安心・安全や彼らの安心・安全は存在しない。全部が「我がこと(一人称)」なのだ。
そもそも人が出会い、共に生きようとする時、人は多少なりとも自分のスタイルやあり様を変えざるを得なくなる。すなわち、自らの都合を一部断念せざるを得なくなる。出会いというものは、その意味で自分の「安心・安全」のみを願う私たちにとって、「危険」だと言わざるを得ない。出会いによって人は学ぶ。そして学ぶと、人は変えられ、新たにされる。([1]93ページ)

「自己責任論」は社会の無責任を肯定し人を分断・排除する
自己責任論社会とは、困窮状態に陥ったその原因も、またそこから脱することも、すべては本人次第、本人の責任であるという考え方である。現在の社会は、この自己責任論に席巻された感がある。([1]162~163ページ)
自己責任論の構造は、ある人に関する責任を、ある一定の範囲に押しとどめて理解するというものである。自己責任、あるいは身内の責任は、自分自身、あるいは家族という一定の範囲に責任を押しとどめた。その結果、周囲は無責任を装えたのだ。「自己責任論」は、社会の無責任を肯定するための理屈だった。
自己責任論的な構造は、日本社会においては以前からあったと思う。しかし、当時成長を続ける社会というものが前提として存在していたゆえに、がんばればチャンスを手に入れられるという時代でもあった。すなわち、個人のがんばりが効く時代であった。自己責任という言葉は、教育的な面も含め、ある程度の意味があったのだ。
しかし、現在のような低成長期において、企業社会や家族的経営と呼ばれたものは崩壊し、終身雇用制は原則ではなくなった(賃金労働者の4割が非正規雇用である:阪野)。公の行う社会保障も先細るなかで、自己責任は「励まし」ではなく、人を分断、排除するための用語となった。([1]168ページ)

「孤族」の時代は「何が必要か」とともに「だれが必要か」を問う
ホームレス支援において重要なのは、「ハウスレス」と「ホームレス」という、2つの困窮という視点である。ハウスレスは家に象徴される、食糧、衣料、医療、職などあらゆる物理的(・経済的:阪野)困窮を示す。もうひとつは、ホームレス。それは、家族に象徴されてきた関係を失っている、すなわち関係的困窮(無縁:阪野)を言う。税制と社会保障の一体的改革は、ハウスレス問題にとって重要な課題である。経済の動向がこの先どのようになるのか。労働者の権利がどのように守るのかなど、課題は山積である。しかし一方で、たとえ食べられるようになったとしても、だれと食べるのかという問題は、さらに重要な事柄なのだ。
この視点に立ち、野宿者支援をしてきた私たちが考え続けたことは、この人には今何が必要か、ということとともに、この人に今だれが必要か、ということであった。そして今日、このホームレス問題は、野宿状態という物理的困窮の有無にかかわらず、多くの人々が抱えている問題となっている。([1]171ページ)
「無縁社会」や「孤族」の時代は、ホームレス問題がもはや路上の問題ではないことを明示している。このホームレス化を促進したもの、その最大の要因が「自己責任論」であったと思っている。([1]172ページ)

「傷」つくことなしにだれかと出会い「絆」を結ぶことはできない
自己責任社会は、自分たちの「安心・安全」を最優先することで、リスクを回避した。そのために「自己責任」という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。
長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には「傷」が含まれているという事実だ。([1]209ページ)
傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら「出会った責任」が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感(自分は人の役に立っているという意識:阪野)や自己尊重意識にとって、他者性と「きず」は欠くべからざるものなのだ。([1]210~211ページ)
「傷つくという恵み」――国家によって犠牲的精神が吹聴された歴史を戒(いまし)めつつ、今こそ他者を生かし、自分を生かすための傷が必要であることを確認したい。([1]211ページ)

〇[1]にはいわゆる「囲み記事」が7本ある。そのなかに「手紙」(98~99ページ)、「配達されない手紙」(114~115ページ)がある。

〇言うまでもなく、民主主義の存立基盤は「参加」「熟議」「自治」であり、「多数決」はそのひとつの要素でしかない。民主主義イコール多数決ではない。
〇日本社会はいま、福祉や教育の世界においても、規制緩和や市民参加(「我が事・丸ごと」等)が声高に叫ばれるなかで、民主主義の崩壊が進み、国家権力による管理・統制が強化されている。「地域参加による学校づくりのすすめ」(「コミュニティ・スクール」等)や市民によるまちづくり(「地域福祉計画」等)の「主体性」や「自律性」も所詮は、規制緩和と同時並行的に管理・統制の変更や強化が図られるなかでのものに過ぎないのか。こうした社会認識のもとで改めて[1]を読むと、奥田らの地べたを這いずり回り、血がにじむ取り組みにただただ頭が下がる。とともに、日本社会の危うさを痛感する。そんななかで、「恵さん」と「信久さん」の手紙に一筋の光明を見出したい(注①)。これまで以上に、福祉教育実践や研究のあり方や取り組みが厳しく問われている。
〇福祉教育についての議論は、「学会」の界隈だけにあるのではない。個別具体的な実践や研究が展開されている福祉教育現場こそが重視されなければならない。「学会」は、最新の福祉教育実践や研究の成果を持ち寄り、多面的・多角的な視点から議論し、実践・研究の深化や発展を図る“現場”である。その“現場”ではいまだに、(岡村重夫や大橋謙策らの)権威ある学説を無条件に受け入れたり、眼前の地域・社会や新たな社会福祉問題に向き合おうとしない「報告」が散見される。高齢者や障がい者、生活困窮者、外国籍住民などを福祉教育実践や研究の「共働者」ではなく、言い古された「当事者」として位置づけるモノも多い。また、気鋭の実践家や研究者による実践・研究の学際的・総合的視点からの掘り起こしやブラッシュアップ(磨き上げること)も、必ずしも十分であるとは言えない。「あいち・なごや大会」に参加して思ったことのひとつである。


① NPO法人抱樸では、小・中学校からの「ホームレス」についての授業の依頼に応えるために、「生笑(いきわら)一座」を興し、公演カリキュラムにホームレスから自立した人による「語り」を取り入れている。その際の「当事者」によるメッセージは、(1)「生きてさえいればいつか笑える日がくる」、(2)「『助けて』と言っていい」である(日本福祉教育・ボランティア学習学会『第24回あいち・なごや大会 報告要旨集』2018年11月、38~42ページ)。

補遺
奥田の言説のキーワード・キーコンセプトのひとつに「伴走型支援」がある。奥田によるとそれは、「1988年にホームレス支援が始まり、以来、路上での生活やその後の看取りまで続く営みのなかで生まれた支援論である。学者が豊富な知識を駆使して構築した体系ではない。日々の経験が積み重ねられ、何よりも当事者から学ぶなかで澱(おり。液体の底に沈んだカス:阪野)が沈殿していくようにできた支援論である」([6]27ページ)。奥田は、生活困窮者支援における「伴走型支援の7つの理念」について次のように整理している。([5]56~72ページ抜き書き)
(1)家族(家庭)機能をモデルとした支援
家族(家庭)が持っていたと想定される機能に、①包括的、横断的、持続的なサービス提供機能、②記憶の蓄積と記憶に基づくサポートプラン策定機能、③持続性のあるコーディネート機能、④役割の担い合いによる自己有用感提供機能、がある。伴走型支援は、これらの家族(家庭)機能をひとつのモデルとした支援である。
(2)早期的、個別的、包括的、持続的な人生支援
伴走型支援は、生活困窮者が社会的に孤立状態にあり、しかも多様で複合的な課題を抱えているとの認識に立つがゆえに、早期的、個別的、包括的、持続的な支援でなければならない。それは「自立支援」にとどまらず、「人生支援」である。
(3)存在の支援
伴走型支援は、従来の問題解決型の「対処・処遇の支援」に加えて、「伴走そのもの」を支援とする。伴走者と当事者が、向き合うこと、関係すること自体が支援である。
(4)参加包摂型の社会を創造する支援
伴走型支援は、徹底して個人に寄り添うことから始まる。当然の帰結として、社会や地域を問うことになる。困窮者支援は、経済的困窮状態にあり、社会的に孤立した「個人の社会復帰を支援する」といわれるが、問題の本質は「そもそも復帰したい社会であるかどうか」というところにある。
(5)多様な自立概念を持つ相互的、可変的な支援
伴走型支援は、生活自立や社会参加を基軸とした社会的自立、経済的自立など多様な自立概念から構成される。伴走は、助けられたり助けたりという相互的な関係である。また、助けられた者が助ける側に変われる可変性が担保されなければならない。
(6)当事者の主体性を重視する支援
伴走型支援は、当事者が自分で自分を助ける力を得ることである。当事者は「できない人」ではなく、「自分を助けることができる人(になる)」との認識に立つ。「まず自助、次に共助、最後に公助」という順番が重視されるが、自助は、公助や共助が適正に機能している状況において成立する。
(7)日常を支える支援
伴走型支援は、人生支援である。そして人生の大半は、なにげない日常である。伴走型支援は、この日常を支える支援である。伴走型支援は、「日常は問題が起こる場所である」という認識に立ち、日常を支える参加包摂型社会の構築をめざす。

「ひとりでボーっと生きてんじゃねーよ!」:幸せは“関係性の豊かさ”にあるという言説―ステファーノ・バルトリーニ著『幸せのマニフェスト』読後メモ―

練りに練ったアイデアより、一瞬のひらめきが勝ることがある。このひらめきが、「ぼんやり」から生まれることが近年分かってきた。実は、何もせずにぼんやりしている時の脳は、意識的な作業をしている時の15倍ものエネルギーを消費している。つまり脳は働いている。(中略)確かに、思わむ文章が突然に浮かぶことがある。(日本農業新聞「四季」2018年11月30日)

〇筆者(阪野)が本稿を草することを思い立ったのは、畑仕事の合間に、ひとりで「ぼんやり」とあたりを見回していたときである。最近、畑仕事をすると以前にも増して疲労度が高まることに、「ガッテン」した。筆者がひらめきをメモるのは、かつては小さな手製の用紙であったが、いまはそれが携帯の電子機器に変わった。そのせいではないが、当初のひらめきはあらぬ方向へ漂っていったり、霧散霧消することも多くなった。別の意味で、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われそうである。
〇朽ちかけた白壁土蔵のある広い屋敷の旧家に、ひっそりと暮らす老夫婦がいる。同じ仕様の可愛い分譲住宅が立ち並ぶ一画からは、子どもたちの無邪気な笑い声が聞こえてくる。“幸せ”はどこにあるのか、を考えてしまう筆者が暮らす地域の光景である。老夫婦はかつては、上がり框(かまち)や縁側で、豊かな人間関係を持っていたのであろう。若い家族はこれから、外向きに開く玄関のドアから、新たな社会関係を作り上げていくことになる。
〇筆者の手もとにいま、2冊の本がある。(1)古沢広祐『みんな幸せってどんな世界―共存学のすすめ―』(ほんの木、2018年3月。以下[1])と(2)ステファーノ・バルトリーニ、中野佳裕訳『幸せのマニフェスト―消費社会から関係の豊かな社会へ―』(コモンズ、2018年7月。以下[2])、がそれである。古沢は環境社会経済学、イタリアのバルトリーニ(Stefano Bartolini)は経済学、中野は社会哲学を専攻する。本稿では、それぞれの論述から、注目しておきたい論点や言説のいくつかを紹介しておくことにする(抜き書きと要約。[1]は「である」調に変換。見出しは筆者)。

(1)古沢広祐『みんな幸せってどんな世界―共存学のすすめ―』
人類社会ではいま、生存環境の危機、グローバル社会経済システムの歪み、人間存在の空洞化(実存的危機。存在の不安定化や揺らぎ:阪野)が進行している([1]176~177ページ)。古沢は、世界が直面している経済・社会・文化・自然などの諸問題について多面的・多角的に考察し、「みんなが幸せに生きる世界」への道筋を探る。その際に拠って立つ視点が「共存」である。そして、互いの存在を受け入れ、「関係性の豊かさ」を追究する「共存学」を構想する。

「共生」と「共存」
「共存」という考え方は、これまでキーワードとされることが多かった「共生」という理想よりも緩やかな概念である。(中略)「共生」や「みんなが幸せであること」のように、全員が一つの価値観を共有することを理想とする世界は簡単には実現しないし、持続もしない。実際の世界で起きている出来事はもっと多様で複雑である。他者や他文化を許容し、受け入れ、変化を強制しないという意味で、「共存」を考えたい。多様な考え方や価値観、存在のあり方を探って困難な問題を解決に導くには、「共存」を土台に考えることこそ意味がある。
([1]11~12ページ)

「環境的適正」と「社会的公正」
新時代を象徴するキーワードとして、「持続可能な発展・開発(Sustainable Development)」という言葉が世界的に定着してきている。([1]42ページ)
持続可能な開発とは、より具体的には「環境、経済、社会について調和のとれた発展をめざすこと」と解釈されるのが一般的である。補足して言いなおすと、「発展の原動力である経済発展を、環境的適正(調和)によって、また社会的公正(貧困や格差の是正)によって、調和をはかる(調整される)こと」となる。([1]43ページ)

「結束型」紐帯と「橋渡し型」紐帯
人間存在のあり方については、「社会関係資本」(ソーシャルキャピタル)という考え方を手がかりにしてとらえることもできる。地域社会の基盤を強化する働きとして、近年注目されてきた概念である。人々のつながりや関係性が、地域社会の土台・基礎を形づくっている様子を示す。そこには、狭く限定的な結びつきとしての「結束型」紐帯(ちゅうたい)と、広域性をもつ多様でゆるやかな「橋渡し型」紐帯の二つのタイプがある。
地域がその存在基盤を揺るがされるとき、この二つの要素が微妙に重なりながら地域再建の動きとして展開されると考えられる。仲間内だけの狭い関係(結束型)だけに閉じこもらず、開かれた関係性(橋渡し型)が生じて、その両方がうまく連動することで思いがけない展開が生まれるのである。([1]130ページ)

「共存」と「共存学」
現代という時代が「共生」という理想ではとらえがたい状況にあり、混迷期を迎えていることへの仕切りなおし的な意味をもつ。
「共存学」では、対立や敵対を回避しつつ、より創造的な関係性への契機を含み込んだ状況に光をあてて究明していくこと、多角的視点から世界をとらえなおす取り組みをしてきた。「共存」とは、「多様な人間集団(地域社会、国家、国際社会)の存在様式において、敵対的関係(他者の否認)ではなく、互いに存在を受け入れ(存在受容)、関係性を維持しつつ多様性構築の可能性を保持する様態」ととらえている。
人間の世界は複雑な関係、安定性を欠いた緊張状態を内在させている。そこに、協調的関係と秩序が形成される過程として、対立、敵対、諸矛盾の克服・調整を経つつ、安定性や持続性に向かう共存の関係が形成されてきた。そして、共存からより安定した共生の関係が模索されてきた。それは一方向的で単純な動きではなく、複雑なダイナミズムと矛盾を秘めた多義的・重層的な諸関係を内在させている。いわば「共生」にいたるまでには多義的な経過や展開があり、その原初的形態とも呼ぶべき「共存」をキーワードに、諸問題を探る試みとして共存学は構想されたのである。([1]182~183ページ)

(2)ステファーノ・バルトリーニ、中野佳裕訳『幸せのマニフェスト―消費社会から関係の豊かな社会へ―』
深刻な現代社会の危機は、「関係性の衰退や幸福感の低下」([2]12ページ)によって特徴づけられる。バルトリーニは、“幸せ”の問題を主観的・個人的なものとしてではなく、社会的・制度的な問題として捉える。そして、「関係性の貧困」や「防衛的資本主義」に関するデータ分析を通して、脱物質主義的な社会構想(政策案)を提示する(注(1):阪野)。バルトリーニはいう。「経済成長を盲目的に信頼する文化」は「古びてきている」([2]318ページ)。アメリカは模倣すべき「モデル」ではない。

「関係性の衰退(貧困)」と「防御的な経済成長(資本主義)」
幸福度に関する、1975~2004年の米国のデータによると、所得の増加は幸福度にプラスの効果を与えるが、それ以上にマイナスの効果が上回っている。その主な要因は関係性の衰退である。さまざまな指標は、孤独、コミュニケーションの困難さ、不安、孤立感、人間不信、家庭崩壊、世代間の分断の増大、連帯や誠実さの低下、社会参加・市民参加の減少、社会環境の悪化を示している。
この幸福度指標は、社会関係財という概念を統計学的に示した結果である。この指標は、社会関係を通じて得られる人間の経験の質を示している。社会関係財が幸福度に与える影響は非常に大きい。([2]27ページ)
社会関係の悪化を引き起こす傾向にある経済的・社会的組織の類型を、〈防御的な経済成長によって動かされる資本主義〉(防衛的な資本主義)と呼ぼう。このようなタイプの資本主義では、経済成長が社会関係の悪化を引き起こすとき、経済の拡大成長によって社会関係(および環境)の破壊を推進するプロセスが発生し、そのプロセスが経済成長を導く。自己展開するこのメカニズムによって、私的所有に基づく富は増加し、コモンズ―社会関係財、環境―はますます欠乏していく。([2]31ページ)
社会関係の悪化は、さまざまな意味で現代人を〈働き詰めの生産者〉と〈熱心な消費者〉に変えてしまった。現代人はアイデンティティと魂の抜けた居住区に暮らし、それゆえに社会関係の悪化に一層晒(さら)され、より多く働き、生産し、ストレスを溜(た)め込んで慌(あわ)ただしく生活し、自動車を乗り回している。それゆえ、お金が必要となる。現代人はこのように暮らしながら社会関係と環境を悪化させ、そこから逃げようとする。これこそが防御的な経済成長の悪循環だ。([2]49ページ)

「消費文化」と「外発的」動機
我々の社会関係の質に影響を与えるきわめて重要な要素は、文化だ。(中略)関係性の悪化を導く文化は「消費」文化である。
消費文化、すなわち消費主義文化は、生活における外発的動機づけを重視し、内発的動機づけは軽視する。外発的動機づけと内発的動機づけの区別は、行為の動機を支える手段の違いとして現れる。「外発的」という言葉は、お金のように、人間の活動の本質とは関係のない動機につけられる。これに対して「内発的」という言葉は、友情や連帯や市民感覚など人間の内面における動機を指す。要するに、消費主義的な価値観を採用する諸個人は、感情、社会関係一般、社交的な行動をあまり重視せず、お金、消費財、経済的成功などの外発的な目標に高い優先順位を置く。([2]34ページ)
米国社会における社会関係の衰退の最も有力な要因は、この類の消費文化の普及である。([2]36ページ)

「社会関係財」と「社会関係資本」
社会関係財は、社会科学で広く使用されている「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」概念の一構成要素である。社会関係資本は、諸個人の間や個人と制度の間に存在するあらゆる種類の非経済的関係を指す。社会関係財以外にも、たとえば政治投票への参加、市民意識、制度に対する信頼などが社会関係資本に含まれる。([2]89ページ)
ロバート・パットナムは、米国の社会関係資本が1960年代以降衰弱しており、この傾向が米国内の社会的まとまりと民主主義の安定性を長期間脅かしていることを指摘している。([2]89ページ。注(2):阪野)

「ポスト・デモクラシー」と「民主主義の衰退」
コリン・クラウチ(イギリスの社会学者・政治学者)が使用する「ポスト・デモクラシー」という用語は、現代民主主義がその政治的意思決定過程において経済エリートからの大きな影響を受けている事実を示す。政治的意思決定は多くの場合、選挙で選出された政治家と経済的権益を独占する民間グループ〔=大企業など〕の間のやりとりに基づいている。その一方で、投票だけでなく討議や自主組織を通じて大衆が公共的選択に参加する可能性は著しく減っている。
ポスト・デモクラシーは民主主義ではない。なぜなら、公共的問題の管理を民主主義以前の状況―つまりは閉鎖的なエリート集団に帰属させる状況―にまで後退させているからだ。市民の役割は選挙の投票に行くだけとなった。しかも選挙は、事前に決められた限定的なテーマへと公共の議論を誘導する情報伝達の専門家たち〔=マスメディアなど〕によってコントロールされている。選挙という儀式の外で、市民は受動的で従順で無感動に生きる役を演じるように求められているのだ。([2]60~61ページ)
ポスト・デモクラシーは、防御的な資本主義の制度的支柱のひとつだ。我々に必要なのは生活可能な世界であり、より大きな経済的繁栄ではない。しかし、ポスト・デモクラシーは生活可能な世界をつくるのではなく、お金を増やすように我々を駆り立てる。([2]61~62ページ)
ポスト・デモクラシーは、お金を求める経済競争に火をつける。([2]62ページ)

〇バルトリーニによると、現代資本主義社会の病理の原因は、消費主義的価値観・文化の普及拡大による社会関係や親密な人間関係の悪化にある。その典型はアメリカに見られるが、ヨーロッパや日本においても例外ではない。そうした病んだ「消費社会」に取って代わるべきは、脱物質主義的価値観・文化に基づいて社会的共有財を重視する「関係性の豊かな社会」である。その社会を構築し支えるのは、内発的動機による労働である。
〇バルトリーニはいう。「消費主義の普及の主犯格は経済システムと教育制度である」([2]36ページ)。市場経済システムのもとでは、社会関係は個人的・物質的な利潤に基づくものとなる。関係性の豊かなまちづくりを進めたり、信頼・協力関係や満足度の高い労働の実現を図るためには、「連帯経済」の成長が求められる。連帯経済活動には、企業の社会的責任や非営利組織(NPO)、社会的協働組合などによるさまざまな活動があるが、それらは内発的動機づけに支えられている([2]306~307ページ)。
〇「学校は既存の体制(ステータス・クオ〈Status quo:阪野〉)を変革するためのエンジンとならねばならないのに、現在ではそれを再生産するために機能している」([2]58ページ)。「現代学校教育のキーワードは、認知能力を偏重する教育、生徒を社会から隔離する教育、課題の増加」([2]59ページ)である。「生徒が彼ら自身のニーズに応じて社会的・制度的環境を変える能力を発達させる教育を行うべきだ」([2]57ページ)。バルトリーニの教育言説である。
〇日本社会では、民主主義の根幹を揺るがす「政治の劣化」と「行政の劣化」が加速している。「地方創生」(「まち・ひと・しごと創生」)や「一億総活躍」(「働き方改革」)、「地域共生」(「我が事・丸ごと」)などの「お守り言葉」(鶴見俊輔)が多用され、乱舞している。真に成熟した社会とは到底思えず、負の現象が顕著に見られるスカスカの「定常型社会」である。アメリカ以上に深刻である。
〇最後に、[2]の訳者である中野佳裕の解説文「関係の豊かさとポスト成長社会」中の「日本への示唆―関係の豊かな社会は可能だ」([2]335~339ページ)を筆者なりに別言して、次のように述べておきたい。
グローバリズムの時代は終焉を迎え、世界各地でローカリズムの推進が図られている。しかし、日本の政界や産業界は、「経済成長神話」の呪縛にとらわれ、凋落するアメリカに追随(「アメリカ信仰」)している。そして、周回遅れの経済・社会改革や教育改革に余計な汗を流し、とりわけ現場はその「改革」とやらに振り回されている。教育は、「市場原理」や「競争原理」が導入され、政府による統制強化や右傾化が進んでいる。あるべき教育は、その時代の国家権力や経済社会のニーズに迎合することではない。いま求められるのは、主体性・創造性や自律性・内発性を重視した「関係の豊かな社会」(バルトリーニ)、「みんなが幸せに生きる世界」(古沢)の形成とそのための「市民」の育成である。


(1) 「働き方の改革」と「資本主義的労働」
バルトリーニは、「我々がもし幸福感に満ちた生活を欲するのであれば、(中略)生き生きとしたコミュニティや豊かな社会関係の発展を妨げる社会的・経済的・文化的制約を取り除く必要がある」([2]176~177ページ)という。そして、そのための政策(「幸せのための政策」)として、①「関係の豊かな都市をつくる」、②「子どものための政策」、③「広告に対する政策」、④「民主主義を変える」、⑤「働き方をどう変えるか」、⑥「健康のための政策」、などを提案する。
そのうちの、例えば⑤「働き方の改革」については、「労働満足度を改善するために何をすべきかについて明確なレシピを抽出できるだろう。それは、興味をもてるような仕事、ストレスの低い仕事、意味のある仕事、人間関係・社会関係構築の手段となる仕事の4目標に集約される」([2]237ページ)とする。そして、具体的に、①働く人の自由裁量と自律性を高める。②圧力、管理、インセンティブ(目標を達成するための奨励・刺激:阪野)など、労働組織のなかでストレスを生み出す要素を減らす、③仕事のプロセスが面白くなるように、労働内容をリデザインする、④労働と生活の他の側面を両立可能にする、⑤職場の人間関係の質を改善する、などを提案する。
例によって唐突であるが、資本主義社会(資本主義的生産様式)が根源的・恒常的に抱える「矛盾」に、「賃労働」(労働力の商品化)や「労働疎外」がある。労働疎外には、マルクスによると、①労働の生産物からの疎外、②労働行為における疎外、③(自由に意識的・創造的に活動することができる生き物である人間の)類的存在からの疎外、④人間からの人間の疎外、の4つがある(マルクス、城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』(文庫)岩波書店、1964年3月)。資本主義社会における労働は、資本によって強制される「苦役」(マルクス)であり、基本的には「内発的動機」によって行われるものではない。こうした考えに立つと、バルトリーニが説く「防御的資本主義」も資本主義社会の「矛盾」のひとつのあらわれ(現象形態)である。また、上述の対症療法的な諸提案については、資本主義社会の本質的理解に基づく議論が求められる。あえて付記しておきたい。
(2) 「社会関係資本」と「社会関係財」
バルトリーニは、「社会関係財は、社会科学で広く使用されている『社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)』概念の一構成要素である」といい、ロバート・パットナムの議論についてふれる。
アメリカの政治学者ロバート・D・パットナム(Robert D.Putnam)は、1993年に出版した『哲学する民主主義』(河田潤一訳、NTT出版、2001年3月。原題 Making Democracy Work)において、「社会関係資本」を次のように定義している。「調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(206~207ページ)、がそれである。要するに、社会関係資本は、人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率を高める働きをする社会的な関係をいう。そして、その内実・構成要素は「信頼」「規範」「ネットワーク」の3つである。パットナムはいう。「信頼、規範、ネットワークのような社会資本の一つの特色は、普通は私的財である通常資本とは違い、普通は公共財である点である」(211ページ)。
筆者はパットナムの言説から、社会関係資本は、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(社会的つながり)と、そこから生まれる「互酬性の規範」(お互いさまの支え合い)、そして一般的な人々に対する「信頼感」によって構成される、と理解している。
詳細については、本ブログ中のカテゴリー[まちづくりと市民福祉教育](5)「ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育」/2012年8月21日投稿、を参照されたい。

「まちづくりと福祉教育」の「当事者」の立ち位置と姿勢に関するメモ―「当事者研究」(向谷地生良)と「2.5人称の視点」(柳田邦男)、「“熱い胸”と“冷たい頭”」(一番ヶ瀬康子)、そして「住民当事者研究」などをめぐって―

〇「まちづくりと福祉教育」の「当事者」とは誰か。その当事者は立ち位置をどこに取り、どのような姿勢でその実践や研究に取り組むべきか。本稿のねらいは、この素朴で基礎的な質問にひとまず応えるための文献と、そこでの注目(留意)すべき論点や言説を紹介(再認識)することにある。ブログ読者からの「問い」に対する回答のひとつである。なお、以下の文献は、筆者(阪野)の手もとにある、限られたものであることを断っておきたい。

(1)中西正司・上野千鶴子『当事者主権』(岩波新書)岩波書店、2003年10月(以下[1])
(2)上野千鶴子『ケアの社会学―当事者主権の福祉社会へ―』太田出版、2011年8月(以下[2])
(3)日本福祉教育・ボランティア学習学会機関誌編集委員会編『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報(特集 福祉教育・ボランティア学習と当事者性)』Vol.11、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2006年11月(以下[3])
(4)石原孝二編『当事者研究の研究』医学書院、2013年2月(以下[4])
(5)柳田邦男『「人生の答」の出し方』新潮社、2004年4月(以下[5])
(6)一番ヶ瀬康子『社会福祉の道』風媒社、1972年12月(以下[6])
(7)一番ヶ瀬康子・大橋謙策編『学校における福祉教育実践 Ⅰ―保育所・幼稚園・小学校-』(シリーズ福祉教育 第2巻)光生館、1988年4月(以下[7])

〇周知のように、国(厚生労働省)によっていま、「地域共生社会政策」(「我が事・丸ごとの地域づくり」注①)が推進されている。確かで豊かな地域共生社会の実現を図るためには、行政や専門家による積極的・革新的な取り組みとともに、地域住民の学習・文化活動や「まちづくり」の主体形成、当事者の参加(参集、参与、参画)や共働が重要な課題となる。
〇「福祉教育」に関する主要な教育実践に、障害や高齢の疑似体験(車いす体験やアイマスク体験)や、障がい者や高齢者との訪問・交流活動がある。その展開に際しては、障がい者や高齢者などの当事者の参加や共働を如何に図るかが厳しく問われる。それは、場合によっては、「貧困的な福祉観の再生産」(原田正樹)を結果することになるからである。
〇「まちづくりと福祉教育」の当事者は、そこに暮らす子どもから大人までの全ての地域住民である。当然のことながら、「障害当事者」「高齢当事者」や社会福祉サービスの「必要者」「利用者」などもそれに含まれる。むしろ彼・彼女らが、「まちづくりと福祉教育」で重要な位置と役割を占めるべきである。まちづくりについていえば、地域・福祉意識の醸成・変革が求められる地域住民をはじめ、専門的な知識や技術をもつ実践者(専門家)や研究者も当事者である。学校福祉教育についていえば、子どもと教師、保護者、さらには地域住民も当事者である。
〇なお、『広辞苑(第7版)』(2018年1月)によると、「当事者」とは「その事または事件に直接関係をもつ人」をいう。「当事者」に関しては、「受益者」から「当事者」への移行、「当事者」研究から「当事者研究」への展開、などが指摘される。さらに、「当事者性」という用語に関して、当事者(障がい者等)の特性、当事者(障がい者等)の主体性、非当事者(非障がい者等)による当事者(障がい者等)の受容・共感や自己同一化の程度、などと多義的で、多様な意図をもって使われる。
〇このように「当事者」(広義)についてあれこれと思考を巡(めぐ)らしながら、[1]から[7]の文献における「当事者」とその立ち位置や姿勢に関する論点や言説の一部を紹介する(抜き書、要約)。

(1)「当事者主権」:中西正司・上野千鶴子
当事者とはだれか? 当事者主権とは何か?
ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、当事者とはサービスのエンドユーザー(商品を使う人:阪野)のことである。だからニーズに応じて、人はだれでも当事者になる可能性を持っている。
当事者とは、「問題をかかえた人々」と同義ではない。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から来ている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである。([1]2~3ページ)
当事者主権は、何よりも人格の尊厳にもとづいている。主権とは自分の身体と精神に対する誰からも侵されない自己統治権、すなわち自己決定権をさす。私のこの権利は、誰にも譲ることができないし、誰からも侵されない、とする立場が「当事者主権」である。([1]3ページ)
当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも―国家も、家族も、専門家も―私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である。([1]4ページ)

現代社会に必要なのは、個人個人が当事者となり、自分自身の人生に対する主権を行使することではないだろうか。そうすることで、社会は自分たちの望む方向に変わる。障害者は一歩先に自立したが、むしろ多くの非障害者はまだ自立できてはいない。世の中をこんなものさ、と受け入れていれば、自分のニーズにさえ気づかない。そのために、非障害者は当事者にさえ、なれないのだ。障害者の自立の理念に学んで、変えられないと思っている社会を変えてみようではないか。([1]205~206ページ)

(2)「当事者主権」:上野千鶴子
「当事者主権」とは、中西正司とわたしが共著『当事者主権』のなかで造語したものだが、「主権」という強い用語を当てたのは、「他者に譲渡することのできない至高の権利」という含意から来ている。人権の拡張によって得られた「ケアの権利」は、この当事者主権にもとづいていなければならない。だからこそ、ケアの権利の積極的/消極的の軸は、ケアすること/ケアされることの自己決定権の有無にもとづいて立てられたのである。([2]65ページ)
日本語の造語である「当事者主権」には、対応する英語圏のテクニカル・タームが存在しない。「自己決定権」を字義通り訳してself-determinismという訳語を対応させることは、(中略)「自己決定・自己責任」のネオリベラリズムの用語と混同されるおそれがあるため、採用を避けたい。当事者主権の訳語には、individual autonomyを暫定的に当てることとする。それは社会的弱者の自己統治権を意味するからである。([2]66ページ)

「当事者主権」という概念が障害学の分野から生まれたのは偶然ではない。というのも、「消費者主権」同様、援助の対象となっていながらその実、援助の内容についての自己決定権を長きにわたって奪われてきたのが障害者だったからである。障害者に限らず、女性、高齢者、患者、子どもなどの社会的弱者に「当事者能力」が奪われてきたことを前提に、それらの人々の「自己決定権」を主張するために、「当事者主権」という用語がつくられる必要があった。「当事者主権」とは何よりも社会的弱者を権利の主体として定位するために、必要とされた概念なのである。([2]67ページ)

(3)「当事者性」:松岡廣路
(障がい者や高齢者などの:阪野)「当事者」の学習が周辺に置かれたり、「当事者」が介在しない「非当事者」の教育・学習中心の福祉教育・ボランティア学習が推進されたりすることを懸念して、「当事者性」という考え方を、理論的なキー概念とすることも必要ではないだろうか。「当事者性」は、個人や集団の当事者としての特性を示す実体概念というよりも、「当事者」またはその問題的事象と学習者との距離感を示す相対的な尺度と捉えられるべきであろう。「当事者」またはその問題との心理的・物理的な関係の深まりを示す度合いといってもよい。
「当事者性が高め深められる」とは、たとえば、気軽にボランティアをはじめた後、徐々に対象者が身近な存在となり、その人との関係抜きには自分の生活を考えられなくなるような状況を指す。あるいは、「社会的に恵まれない、かわいそうな人」という発想から抜け出て、対象者の抱える問題を自分にとっての問題と捉えるようになり、対象者がともに解決のための行動を起こす仲間になったりするすることを意味する。(中略)福祉教育・ボランティア学習とは、「当事者性」を高め深めることを支援することによって、何らかの成果(問題意識・主体性・解決に向けての具体的行動)を得ようとする実践と言い換えることができるだろう。([3]18~19ページ)

(福祉教育・ボランティア学習における教育的な実践課題〈方向性〉として、次の3つを析出することができる。:阪野)ひとつは、〈包括的な当事者をいかに組織化するのか〉という方向性である。「包括的な当事者」とは、障害当事者に限定または固定化するのではなく、個人を取り巻く、親・施設職員・ソーシャルワーカーそしてボランティアや地域住民まで拡張して捉えるべきであるという考えである。包括的な当事者を組織化するということは、いわゆる当事者や家族・専門スタッフだけではなく、ボランティアあるいはそこに暮らす地域住民や子どもたち各々が、より「当事者性」の高い人たちに触れ合うことで共感・一体感・同時存在感を増し、自らの「当事者性」を高め深めていく過程を内在するものということができる。
もうひとつは、〈潜在的な当事者の意識化をいかに進めていくのか〉という方向性である。ニーズを意識化している人々のみを当事者と捉えるのではなく、問題の真っ只中に居るにもかかわらず問題を意識化しえていない人々も、潜在的な当事者であり、子どもや地域住民も、本来の当事者である。潜在的な当事者の意識化とは、己の問題状況を自覚し、それとの心理的・物理的距離感としての「当事者性」を高めるということである。
(そして3つ目は:阪野)〈いかに異なる当事者の連帯を促進するのか〉という方向性である。子ども・女性・障害者・高齢者・勤労者・在日外国人などの多様な生活者が埋没している今日の反福祉的状況を克服する包括的な力動を推進するものとして、福祉教育・ボランティア学習の意義が期待されている。当事者の連帯とは、異なる「当事者性」を重ね合い、多極的かつ有機的に「当事者性」を高め合っていくということになる。福祉教育・ボランティア学習は、そうした「当事者性」の深化・統合をいかに具体的に促進するのかを課題とする実践と同定しえるであろう。([3]16~20ページ。抜き書き、要約)
の進化
(4)「当事者研究」:石原孝二・河野哲也・池田喬
(べてるの家の実践では:阪野)「当事者性」について独特の理解がなされてきた。つまり、「自分のことは、自分がいちばん、“わかりにくい”」という理解のもとに、「自分のことは、自分だけで決めない」ということが当事者性の原則として受け継がれてきたのである。
自分が受けるサービスを自分で選択する権利を取り戻すという当事者運動における「当事者」とは異なり、べてるの家における「当事者」とは、自らの苦労を取り戻し、人とのつながりを回復することによって、自分を再発見していく人のことなのである。そうした再発見の場として機能するのが当事者研究にほかならない。(石原[4]28ページ)

当事者研究が自己を再発見していく営みであることは、べてるの家の当事者研究においても示されていたポイントである。当事者研究とは、当事者が人とのつながりの中で、苦労を取り戻し、言葉を取り戻し、自らの歴史性を取り戻していく作業であった。また、べてるの当事者研究の理念「自分自身で、共に」の「共に」には、当事者の仲間と共に、というだけでなく、専門家と共に、という意味が込められている。しかしこの場合の専門家の立ち位置は、あくまでも、当事者の主観的現実に寄り添う、ということにある。(石原[4]48ページ)。

当事者研究において目指されているのは、障害当事者が自分自身で自分の問題に取り組み、自発的に生活の質の向上を目指すことである。この形を見るならば、当事者研究の過程は、治療というよりも、デューイがいう意味での自己「学習」に近いといえないだろうか。(河野[4]84ページ)
当事者研究は、デューイの問題解決学習(Problem Solving Learning)の一種だといってしまってよいほどだ。(河野[4]87ページ)
こうした当事者による学びにおける教育者の役割は、生活の質を向上させようとする当事者の試みを尊重しながら、それが可能になるような当事者のケイパビリティ(潜在能力)を共同で開発していくことにある。何を学ぶことがどのようなケイパビリティを開発することにつながるのか、それがどのような生活の質の向上と結びついているのか。こうした学びの価値が当人にとって可視化されていることが、学習意欲を維持する。教育者は、学習目標を定めてそこへの道を教授するインストラクターではなく、当人が生活の質を高めるための選択肢を示唆するコーチでなければならない。
当事者研究は、自分の成長にかかわる知、すなわち、自己教育であり、自己教育以外に成長の道はないのである。これが当事者研究の優位性である。(河野[4]88ページ)

当事者研究が目指しているのは、当事者同士の共同的な探求の中で自己理解を深め、自分の問題に対する対処法を知ることであり、それを通して最終的に自律性を確保することである。したがって、当事者研究とは、比較不可能な個性を主張するための閉鎖的な自己表現ではありえない。当事者が、自己についての言及が絶対のものであり、無謬(むびゅう。まちがいがないこ:阪野)であると考えてしまえば、それは集団・個人の両レベルにおいて当事者の孤立を招き、最終的に当事者の活動を閉塞させてしまうだろう。
当事者研究は、当事者同士の相互援助によって障害を持った人々の共同性を確保すると同時に、その個々人の差異化と分節化を促し、自分自身で自発的に学びながら生きる手段を提供するものである。当事者が医学定義によって外から分類されるのではなく、当事者が自分の抱えている問題をどのように対処しているかという自己学習の観点からつながり合うときにこそ、当事者研究の大きな意味が明らかになる。(河野[4]109~110ページ)

当事者研究は、診断名や社会的なカテゴリーによる理解ではなく、当事者たちによる研究によって自分たちについての理解を獲得しようとする。当事者研究における当事者性とは、結局、その人その人の身体と言葉を介した生きる主体性だといえるのかもしれない。だとすると、この主体性は、健常者や研究者・専門家といったカテゴリー的理解の適用によって「私は当事者ではない」と思考するときにまさに逸(そら)されているものである。当事者とは、一人一人が、当事者研究に触れることを通じて「自分自身で、共に」なるべき何かなのである。(池田[4]146~147ページ)
当事者研究は、研究者・専門家も含めた私たちの一人一人が共に自分自身で考えるチャンスの場なのである。(池田[4]147ページ)

(5)「2.5人称の視点」:柳田邦男
私はかねて、拙著『この国の失敗の本質』(講談社、1998年12月、のち講談社文庫に)や『緊急発言 いのちへⅡ―医療事故・鉄道事故・臨界事故・大震災』(講談社、2001年9月)などで、専門化社会の専門家あるいは専門的職業人に求められるのは、ひとりひとりが「2.5人称の視点」を身につけることと、その視点を業務のなかで確実に生かせるような組織的な取り組みをすることだと提言してきた。1人称は被害者や患者や障害者本人、2人称はその家族。3人称は友人・知人や仕事でかかわり合う職業人からアカの他人まで。医療者や福祉の従事者をはじめ、行政官、法律家、教育者、ジャーナリストなどは、3人称の立場なのだが、冷たく乾いた3人称であってはならないはずだ。これからの専門的職業人には、3人称の冷静で客観的な判断をする立場を維持しながらも、被害者・患者・障害者などの弱い立場の人に対し、《自分が当事者あるいは家族だったら》という気持ちで寄り添うことも求められている。かと言って、2人称の家族と同じ気持ちになってしまったら、感情が同一化して、冷静で客観的な判断ができなくなる。そこで私は、これからの専門的職業人のあり方として、3人称と2人称の2つの立場を視野に入れた潤いのある「2.5人称の視点」の定着を提言したのだ。
そのためには具体的にどうすればよいのか。問題に取り組むときに、まず自ら現場に行き、被害の状況を実感するとともに、被害者、患者、障害者の生の声を聞くことだ。法規や理論の適用を机上で考える前に、現場を踏む。そうしてこそ本当に「わかる」という事実認識ができるのだ。そして、「法規上できない」とか、「科学的に証明されていないから何もできない」といった、ネガティブな発想を捨て、「現行の法規でも被害の拡大防止と救済の対応をする方法があるはずだ」とか、「根本的には法規をどう変えるべきか」とか、「科学的な証明はまだできていなくても、因果関係が黒に近い灰色であるなら、被害の拡大を防ぐためにまず手を打とう」(結果として白となって企業に損害が生じても、それは社会的に必要なコストとして行政が責任をとろう)というポジティブな発想をこそ優先すべきなのだ。「2.5人称の視点」の実践とは、そういう取り組みを指している。それが専門的職業人と行政・企業・学問の組織が、今まさに水俣病事件から学ぶべき課題なのだ。(5]192~193ページ)

(6)「“熱い胸”と“冷たい頭”」:一番ヶ瀬康子
“熱い胸”と“冷たい頭”というのは、私は感性的認識と理性的認識ということを別の言葉でいっているわけです。つまり“熱い胸”というのは感性的認識で、それは、大事にしないといけないけれど、そこにとどまっている限りより根本的な解決につながらないし、また自分はよいつもりでやっていても、結果的には間違っている場合もでてきます。なぜそうなったかということを深めながらより深い実践の展望を生みだすためには、なぜそうなったかという科学的認識あるいは理性的認識を媒介におかなければいけない。これが、“冷たい頭”だということです。
“熱い胸”から出発して“冷たい頭”をねりあげていきながら、“熱い胸”の正しい生かし方というものを、互いに深めていこうということの意味です。([6]57~58ページ)

(7)「感性的認識・理性的認識・主体的認識」:一番ヶ瀬康子
私は社会福祉への認識は、つぎの3つの段階をへて行われると考えている。それは、(1)感性的認識、(2)理性的認識、(3)主体的認識の3段階である。
(1)の感性的認識とは、“社会福祉”の必要を、漠然と心情的に認識している段階である。ことに自らと異なる他への認識の壁をこえつつ、他者との共感・共鳴あるいは愛情などを基底として、連帯への想いをいだきはじめる段階である。この段階での行動は、単純で、偶発的なものが多く、いわば慈善的なものにおわる場合も少なくない。しかし、自己中心的また排他的活動ではない他者との積極的関係がめばえはじめる段階である。
(2)の理性的段階とは、(1)の連帯への想いと素朴な活動が展開する過程で、そのことの意味や在り方を、より考究し有効性を検討しはじめる段階であるといえよう。それは、感性的段階での素朴な経験の集積のなかから会得し、その在り方を確認するレベルのものからはじまる。そして、他者たとえば高齢者の心理や生活上の特徴などをふまえて、その高齢者の状況を尊重しながらかかわりあうというレベル、さらにたとえば高齢者をめぐる社会福祉の在り方などにかんする矛盾の認識にいたるまで、多層でまた多様な道筋をたどるものと思われる。いずれにしても、(1)の感性的段階よりは、関係や環境との矛盾を客観視しながら、その在り方の認識に到達する段階であるといえよう。
それらに対し、(3)の主体的段階は、たとえば高齢者をめぐる問題など社会福祉の状況や矛盾に対し、積極的にかかわりながら、その充実、改善あるいは開拓、創造のための在り方を把握していく段階である。この段階では、たんに制度的な社会福祉を知っている、あるいは活用できるだけではなく、それをくみこみながら、もっと本質的な福祉を実現する社会福祉を自発的に創造していくための方向、方法に対し認識し、さらに自らのかかわり方への自覚をともなっていく段階である。つまり偶発的なボランティアとしてのレベル以上に、福祉を実現するための自発的な社会福祉(Voluntary Social Welfare)実践者としての認識の段階とも考える。
もちろん、以上のような3つの段階は、確然としているものではない。それは、発達の道筋のなかで、いわば螺旋的に、しだいにひろがりをもちつつ深まっていくのではないだろうか。([7]6~7ページ)

〇以上のうち、とりわけ[4]は、筆者にとっては何回読んでも衝撃を受け、感動を覚える本である。[4]でいう「当事者研究」は、2001年2月に北海道の「浦河べてるの家」(精神障がい者の地域活動拠点)で始まったものである。その「研究」の成立に重要な役割を果たした一人に、向谷地生良(むかいやち いくよし)がいる。
〇べてるの家の当事者研究は、障害や問題を抱える当事者に対して、医師(専門家や研究者)が診断し治療(援助)するのではない。当事者自身が自らの苦労や困難、苦悩や苦しみに向き合い、自発的・主体的に問い直し、それを言語化し、問題解決へ向けて対処(行動)する。そして最終的に自律性を確保する。その実践(作業)を「研究」という言葉を用いて、仲間や支援者とともに共同的・公共的に行い、それを通じて人や社会との「つながり」の回復を図るのである。
〇べてるの家の当事者研究では、「3度の飯よりミーティング」「手を動かすより口を動かせ」というキャッチフレーズ(理念)のもとで、「自分を語る」ことが重視される。それは、単に個人的な体験談を話すことではなく、その閉塞性からの脱却を図るために、「共同的に言葉や知を立ち上げていく」(池田[4]133ページ)のである。別言すれば、当事者は自己体験を表現する言葉が少ないがゆえに、「自分を語る」なかで仲間と共に言葉を考え、紡(つむ)ぎ、それを通して見地を見出し、知見を広げていくのである。この共同行為によって、個人的な体験が「その人だけの自己完結的なものではなくなり、普遍性とか広がりとかつながり」(向谷地[4]153ページ)を持つことになる。
〇それは、1人称である当事者が、「研究」という3人称的な立ち位置から自分の問題を外在化し、仲間と共有化していくことを意味する。この点において当事者研究は、柳田邦男がいう「2.5人称の視点」の実践であると言ってもよい。客観的で冷静な3人称(他人、専門家)の立場を踏まえながら、1人称(わたし、当事者)や2人称(あなた、家族)の心情を共感的に理解し寄り添う(当事者や家族の身になって考える)姿勢(実践)がそれである(資料①)。さらに、この潤いのある「2.5人称の視点」は、一番ヶ瀬康子がいう「“熱い胸”と“冷たい頭”」や社会福祉への「感性的認識・理性的認識・主体的認識」についての言説を想起させる。[5]と[6][7]を紹介するところである。
〇なお、[4]で河野は、べてるの家の当事者研究は「障害当事者が自分自身で自分の問題に取り組み、自発的に生活の質の向上を目指す」(河野[4]84ページ)点において、デューイの「問題解決学習の一種」(河野[4]87ページ)であるという。また、向谷地によると、当事者研究はそれをまちづくり(地域づくり)に繋げていくことによって、「足腰の強い市民社会をつくる基本」となる。浦河では「地域の課題や困難を市民みんなが持ち寄って、研究的に、アイデアを出し合って形にしていく」「町民当事者研究」を進めている(向谷地[4]174ページ)。この言説には、「まちづくりと福祉教育」に関して「2.5人称の視点」に注目するとともに、障がい者や高齢者自身が中心的な役割を果たす「まちづくりと福祉教育」を推進したり、地域住民による「地域共生社会」の「研究」という意味での「住民当事者研究」のあり方を考えたりするためのヒントがある。付記しておきたい。


① 2016年10月に厚生労働省に設けられた「地域における住民主体の課題解決力強化・相談支援体制の在り方に関する検討会(地域力強化検討会)」(座長・原田正樹)が、2017年9月、『地域力強化検討会 最終とりまとめ~地域共生社会の実現に向けた新しいステージへ~』を発表した。そのなかで、「地域づくりの3つの方向性」について次のように整理し、「これら3つの地域づくりの取組の方向性は、(中略)互いに影響を及ぼしあうものということができる。『我が事』の意識は、その相乗効果で高まっていくとも考えられる」と述べている(7ページ)。
(1)まちづくりに広がる地域づくり
「自分や家族が暮らしたい地域を考える」という主体的、積極的な姿勢と福祉以外の分野との連携・協働によるまちづくりに広がる地域づくり
(2)ネットワークにより共生の文化が広がる地域づくり
「地域で困っている課題を解決したい」という気持ちで、様々な取組を行う地域住民や福祉関係者によるネットワークにより共生の文化が広がる地域づくり
(3)一人ひとりを支えることができる地域づくり
「一人の課題から」、地域住民と関係機関が一緒になって解決するプロセスを繰り返して気づきと学びが促されることで、一人ひとりを支えることができる地域づくり
なお、原田は、この「地域づくりの3つの方向性」を、(1)まちづくりにつながる「地域づくり」、(2)福祉コミュニティとしての「地域づくり」、(3)一人を支えることができる「地域づくり」、と別言している(『平成30年度 地域福祉推進セミナー―基本資料―』島根県社協・島根県社協地域福祉推進委員会、2018年10月、93ページ)。

資料

補遺
「障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)とは簡単に言えば、障害、障害者を社会、文化の視点から考え直し、従来の医療、リハビリテーション、社会福祉、特殊教育といった『枠』から障害、障害者を解放する試みである」(石川准・長瀬修編著『障害学への招待―社会、文化、ディスアビリティ』明石書店、1999年3月、3ページ)。その「障害学」の成立の背景について、次の言説によって確認しておくことにする。「『まちづくりと福祉教育』の当事者」について思考する際に留意すべき点のひとつである。

医療・教育・福祉などの領域での各種専門職の働きかけが抑圧的なものであったという経験が、1960―70年代以降、障害者自身によって各国で語られ始めた。「〈障害〉を持つ障害者たちの「語り」ではなく、彼らを援助することの権限を与えられてきた専門家たちの「語り」が〈障害〉という現実を構成する支配力」を有してきたことが告発され始めたのである。障害者は、医療では治療やリハビリテーションによって「正常性」へと近づけるべき存在として、教育では社会への適応を支援すべき存在として、福祉では保護の対象となるべき存在として、非障害者の専門家によって位置づけられてきた。このことが、結果として障害者に否定的なアイデンティティを押し付けることにつながったという現実が、障害当事者からの強い批判の的となった。
そこには、問題の「代弁」や「共感」といったことに潜む危険性への自覚がある。これまで障害をめぐって「問題」とされたのは、多くの場合、障害者を取り巻く周囲の人々が「問題」としてとらえた事柄であって、障害者自身にとって「問題」と感じられた事柄ではなかった。したがって、問題解決を志向する取り組みは必ずしも障害者自身にとって望ましい方向に向かうものであるとはいえなかった。このような背景の下、ディスアビリティ・スタディーズは障害者自身による問題の定義づけを重視し、当事者の手による調査研究の重要性を強調したのである。それにあたっては、従来とは異なるオルタナティブな研究目標の探求も必要であるとされ、社会的抑圧の経験から出発して政治的取り組みを促進することへの貢献が一つの目的であるとされた。(星加良司「当事者性の(不)可能性―ディスアビリティ・スタディーズの存在理由」崎山治男・伊藤智樹・佐藤恵・三井さよ編著『〈支援〉の社会学―現場に向き合う思考―』青弓社、2008年11月、212ページ)

障がい者差別と生の思想:「自分の存在意義を問う」(「“ただ生きる”ことの保障」×「“よく生きる”ことの実現」×「“つながりのなかに生きる”ことの持続」)―野崎泰伸「生の無条件の肯定」思想についての福祉教育的視点からのメモ―

〇筆者(阪野)は、福祉教育実践や研究の重要な課題のひとつでもある「障がい者差別と生の思想」に関して、野崎泰伸(倫理学専攻)の本を読み返すことにした。『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』(白澤社、2011年6月。以下[1])と『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』(筑摩書房、2015年3月。以下[2])がそれである。再読のきっかけのひとつは、盟友(S氏)からの次のような返信メールである。「阪野さんがいう福祉教育に哲学や思想、倫理がないという話は、『保育指針』にそれがないということと重なります。何をどう教えるかはあっても、なぜそれが必要なのかは“自分の問題”として掘り下げられて来なかった。だから、児童福祉施設でありながら保育所は、社会福祉の『人権や社会正義、多様性の尊重‥‥‥』というような基本理念と重ならないのです」(2018年10月)。いまひとつのきっかけは、国会議員(杉田水脈・すぎたみお)による笑止千万の妄言(「LGBTのカップルは子供を作らない、つまり『生産性』がない」『新潮45』2018年8月号)や、中央省庁や地方自治体などによる「障害者雇用水増し問題」の発覚(2018年8月)にある。さらには、「相模原障害者施設殺傷事件」(2016年7月)を引き起こした元施設職員の「この世から障害者がいなくなればいい」という言葉を思い出すことによる。
〇[1]は、「障害学」の視点から、障がい者にとって「正義」とは何かを問い、生を肯定する「倫理」を新たに構想しようとしたものである。野崎は言う。この社会で障がい者が「生きづらい」のは、軽減・克服すべき個人の身体(障害)に問題があるのではなく、健常者を「正常」とする価値観にとらわれている社会に責任がある。従って、その「生きづらさ」を解消するためには、障がい者を分断・排除している社会が負担を負わなければならない。また、「障害はないほうがよい」という言説がある。その多くは「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまう。その「すりかえ」は、社会的負担の拒否を表明するものである。1970年代の「青い芝の会」などの障がい者運動は、「障害からの解放」ではなく(障害によってこうむる)「差別からの解放」を求めた。それらの運動は、「障害者の生存を無条件に肯定する」という「当たり前のことを当たり前に」要求したものであり、その主張に「学問」は学ぶべきである。改めて確認しておきたい野崎の言説のひとつである。
〇[2]は、「犠牲」という視点から、障がい者が抱える諸問題(「生きづらさ」)を検討することによって、「生の無条件の肯定」という思想の構築を図ろうとしたものである。野崎は言う。この社会では、経済成長至上主義や功利主義(「最大多数の最大幸福」)の考え方のもとで、貧富の格差や少数者の犠牲が前提・容認されている。そうしたなかで、障がい者が抱える「生きづらさ」の問題が私事化・矮小化され、障がい者やその家族、支援現場は犠牲を強いられ、追い詰められる。そして、閉鎖的な関係性が形づけられ、そこでのみ「生きづらさ」が共有されることになり、「共倒れ」が引き起こされていく。そしてまた、「何を言っても」「どうせ」この社会は変わらないという諦(あきら)めが、自分の暮らしを守ることに傾注させ、異質な存在(他者)を排除することを促す。こうした「犠牲の構造」のもとに障がい者を差別・抑圧し、捨て置くこの社会に抗するには、「生の無条件の肯定」という正義が問われ、倫理が求められなければならない。改めて押さえておきたい野崎の言説のひとつである。
〇野崎の言説について、筆者にとって意味不明や理解不能な点がいくつかある。例えば、野崎の言説の原点でもある「青い芝の会」の運動の「愛と正義を否定する(愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発する。人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉である)」や「問題解決の路を選ばない(安易な問題解決は危険な妥協ヘの出発である。問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動である)」という「行動綱領」([1]40ページ)。「障害はないほうがよい」という言説が「障害者は存在しないほうがよい」という議論に「すりかえ」られるという、その構造。「生の無条件の肯定」が起きるのは「奇跡であり、狂気の瞬間でもある」([1]197ページ)が、それは「感情や気持ちの問題」ではなく、広く「社会構造の問題」をも問うものであるという思考。WHOのICIDH(国際障害分類)からICF(国際生活機能分類)への移行について論究しないこと、等々がそれである。これらに関する分析や理論(論理)の展開については今後に期待することにして、以下では、福祉教育実践や研究に思いを致しながら、再確認あるいは再認識したいいくつかの論点や言説を紹介しておくことにする(引用、抜き書き。見出しは筆者)。

(1)『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』
障がい者問題の本質と「障害をもつ者ともたざる者との断絶」
障害者問題は特殊な問題ではなく、みんなの問題である。そのことを説明するために、次のようなことが言われる。みんな老いていくし、不慮の事故で障害者になったりする。あるいは、昨今では精神的な病になってしまう者も多い。このことから、誰もが障害や老いによっていつしか自分の身に社会的なハンディを背負わされるようになる。([1]8ページ)
こうした理解は「いま障害をもっていない者への説明」としては適切だ。だが、現に障害を有する者にとっては、こうした言われ方が生ぬるいと感じられるのもまた事実である。実際に「明日障害をもつかもしれない人」にとって「いままで障害を有してきた身体/精神がこの瞬間感じるもの」を感じ取ることは不可能である。障害をもつ者ともたざる者との間のこの断絶は、あなたと私が違う人間である以上、けっして完全に埋めることなどできないはずである。まずは、この断絶の存在を深く認識しなければ、なにも始まらない。
それでは「どのように」障害者の問題は〈私たち〉の問題であるということができるのであろうか。それは次のように考えることができる。現在の私たちの社会が、障害者を生きにくくさせていること、障害があるだけで人間扱いされないような社会に、あなた自身も、私も住んでいることを、あなたや私はどう考えるのか、を問わなければならないのである。そして、これこそが、障害者問題が〈私たち〉の問題であるという理由のもっとも基本的な部分なのである。([1]9ページ)
障害者を排除する社会にあなたや私が住むということ、そしてそのことをあなたや私はどう考えるのか、というところに問題の本質があると述べた。この問題には、2つの側面があると思われる。1つは、社会の正しさの問題、つまり正義の問題であり、もう1つは、こうした問題を自身から引き離さず、棚上げすることなく考えるという要素である。([1]10ページ)

障害学と「障害はないほうがよい」という言説
障害学とは、多くの健常者が考えるような発想、すなわち障害はなおしたり、克服すべきものだという視点を基本的にはもたない。そうした視点は、障害を「異常なもの」と考える発想であり、この社会で生活したければ、健常者のように「正常」になるように努力しなさい、という結論を導きやすい。なぜならば、この社会が健常者中心で回っているからである。これに対して、障害学の視点とは、まず「この社会で障害者が〈人間らしく〉生きていくためには、(障害者のほうではなく)社会はどのようにあるべきか」を考えるのである。([1]19ページ)
障害学では、障害を障害者個人のインペアメント(機能障害:阪野)の治療という枠組みから、社会における障壁が障害者を無力化するという枠組みへの変更を促す。([1]20ページ)
(障害についての2つの考え方である:阪野)医学モデル(個人モデル)と社会モデルとの違いは、次のように言うことができる。障害の医学モデル――障害者が〈生きづらい〉のは障害者本人の責任である。だからこそ、障害は本人が軽減・克服すべきものなのである。障害の社会モデル――障害者が〈生きづらい〉のは社会の責任である。したがって、障害者本人の〈生きづらさ〉の解消のためには、社会が負担を負わなければならない。
障害を社会的文脈において理解するということは、障害者の〈生きづらさ〉を誰が負担すべきか、つまり「帰責性の問題」が中核的な議論となる、と言えよう。([1]26ページ)
「障害はないほうがよい」という言説は、その多くが「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまうことに注目すべきである。社会モデル的に考えれば、「障害はないほうがよい」という問いに対する答えは定まらないはずである。([1]27ページ)
「障害はないほうがよい」が「障害者は存在しない方がよい」にすりかわってしまう背景には、社会的負担の問題がある。つまり、「障害はないほうがよい」を「障害者は存在しないほうがよい」にすりかえるのは社会的負担の拒否を表明しているのである。そのように考えたとき、「障害はないほうがよい」を問わせる場自体が、「すりかえ」も含めて、私たちが構築したものにすぎないとも言えるはずである。([1]27ページ)

障がい者運動と「障がい者の生存を無条件に肯定すること」
1970年前後に、重度障害者が個々の場面において声をあげ始めた。(中略)(そうしたなかで:阪野)特に注目されるのが、脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」の活動であろう。([1]36ページ)
(「青い芝の会」の:阪野)障害者本人が訴え、求め続ける障害者解放とは、障害からの解放ではなく、(障害によってこうむる)差別からの解放なのである。これは障害学でいうところの「医学モデルから社会モデルへ」というパラダイムシフト(支配的な考え方の劇的な変化:阪野)に符号している。([1]37ページ)
日本における戦後障害者運動を(中略)思想的に見ていけば、とりわけここ40年間の障害者本人による運動に胚胎(はいたい。芽生え、きざすこと:阪野)するのは、障害者の生存を無条件に肯定することであると言える。私は、この運動が面白いのは、当たり前のことを当たり前に言っていることにあると思っている。彼らの主張はしばしば非論理的であると言われたりもするが、私は明快な筋が通っていると考えている。障害者によって主張されたから意味があるのではなく、障害者によって主張された数々の主張が、社会において普遍性を帯びるからこそ、この運動には意味があると私は考えている。まず学問がなすべきことは、障害者運動の主張を学ぶことであり、それによって学問自身をとらえ返すことにあると、私は考える。([1]45~46ページ)

「当事者研究」と当事者が語ること
近年、「当事者研究」というものがなされている。それは、当事者自身の手によって、当事者が直面する問題を、当事者内部にとどまらず、当事者と(当事者を捨て置く)社会との関係によって考察していこうとするものである。([1]166ページ)
当事者が語り出すとき、さまざまな点で考えるべきことがある。まずは、そこに行きつくまでにその当事者がいかなる困難を経験してきているかは、想像すべきであろう。([1]167ページ)
語り出した当事者を勇気があると賞賛することも問題である。まず、誰が、何がそこまで当事者を語れなくさせてきたのかが問われるべきである。(中略)語り出す当事者を英雄化してしまうのは、「語ることのできる主体」を期待するだけの非当事者であると言わずに、他になんと言えようか。それはまた、いまだ沈黙せざるを得ない当事者たちへ向けた無言の圧力でもあるのだ。([1]167ページ)
そもそも、語り出す当事者の主張が、当事者一般の意見を代表するわけでもない。また、いったん語り出した当事者の主張の内容が、当事者であるというだけで正しさを担保されるわけでもない。ではなぜ、当事者の主張が大切になってくるのか。ここまでの理路をたどってくれば、当事者の(生きづらさ)を捨て置く学問体系や私たちの社会が不正義であるからだ、ということができる。それを正すためには、これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者の主張をつけくわえたもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう。([1]167~168ページ)

正義と倫理的命令としての「生の無条件の肯定」
正義というものが存在するのであれば、それはどのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない。生の無条件の肯定が、倫理的命令である。([1]193ページ)
(1)「生の無条件の肯定」は、感情や気持ちの問題ではない。「生の無条件の肯定」は、広く社会構造の問題をも問うものであり、条件をつけながら特定の存在だけを「生きる価値がある」とする社会構造に反対するものだと言える。(2)「生の無条件の肯定」は、生命の神聖性原理ではない。生命の価値を、他の価値と比べて絶対で最高の価値であるとする「生命の神聖性」という原理とも一線を画し、それがなければ他の、自由や平等などといった価値が実現しないという意味で、基本的かつ原初的な価値であると言える。(3)「生の無条件の肯定」は、スティグマを与えるものではない。当事者にスティグマを与えたり、スティグマを黙認する社会のようなものが、「生の無条件の肯定」を体現するはずもない。(4)「生の無条件の肯定」は、現前するものではない。「生の無条件の肯定」は、いまだ達成されたものでもないし、将来達成されるものでもないからこそ、正義なのである。([1]194~198ページ抜き書き)

(2)『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』
「生きづらさ」と共依存による「共倒れ」の社会
困っているとき、弱っているときに、誰かに何かをお願いしたり頼ったりすることを妨げてはなりませんし、誰かにSOSを発信すること自体はけっして悪いことではありません。(中略)〈生きづらさ〉をひとりで抱え込む必要などないからです。他方で、ある特定の相手と閉じた関係性が形づくられ、そこでのみ〈生きづらさ〉が共有されるような場合、「共倒れ」の危険性が出てきます。というのも、弱っている相手、支えが必要な相手を支えたくても支えきれなくなった場合、もはやそれは「共に生きる」状態ではなく、「共倒れ」と呼ぶにふさわしい状態だからです。([2]75ページ)
Xという条件を満たしていなければ生きる価値などないと思わせるような構造や価値観がこの社会に存在しているからこそ、共依存による「共倒れ」が起こってしまうのだと私は考えています。(中略)ですから私は、共依存による「共倒れ」を防ぐには、家族や近親者だけに責任を負わせてはならないと考えています。誰もが無条件に生きてよいというメッセージを社会が発し、それを可能にするような制度を整えることが、より根本的な解決法であろうと思うのです。([2]76~77ページ)

「犠牲のシステム」と「豊かに」生きられる社会
犠牲とは、交換や譲渡ができないもの、しないものを、その社会において、それができるようにする力のことである、と言ってよいのではないでしょうか。そして、真の「豊かさ」とは、交換不可能性、譲渡不可能性を源泉とする価値のことなのです。であるなら、交換不可能性、譲渡不可能性に基づく価値を、自発的にせよ強制的にせよ、社会に差し出してはならないのであり、それらの価値を守るために、交換可能な価値は存在すると考えることもできるのではないでしょうか。ここで私は、(中略)
交換不可能な価値を差し出さなくてもすむような社会を創出するためにこそ、交換可能な価値を使う必要があると述べているのです。
交換可能な価値の代表が貨幣であり、交換不可能な価値の代表が身体や生命、環境、尊厳です。交換可能な価値は、使用することによって価値が生まれ、交換不可能な価値は、そこに存(あ)るだけで
本源的な価値を有していると言えるかもしれません。([2]96ページ)
「豊かに生きる」とは、すべての生が、先述のような意味において犠牲にならないことであると私は考えています。人の生命や尊厳など交換不可能なものを、貨幣など交換可能なものに「交換」させ、それを「美談」に仕立て上げ、そうした「交換」を社会に埋め込んでいく装置が、「犠牲のシステム」なのです。([2]96~97ページ)
他者を犠牲にしない、そして私という存在も犠牲にされない社会(「犠牲のない社会」:阪野)こそが、他者と共に「豊かに」生きられる社会であると言えるのではないでしょうか。([2]97ページ)

障がい者の「生そのもの」を選別する「教育」と「観念」
日本の道徳教育においては、「生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する」(中学校学習指導要領:阪野)などと、生きることや生命を尊重することの大切さを児童・生徒に理解させることが重視されている。([2]190ページ)
(分離教育を前提とするこの国の:阪野)学校教育においては、障害のある「生そのもの」が、「学校教育に順応できる(順応させるに値する)」かどうかが、当人および家族の意向よりも優先的に問われることになるのです。つまり、障害のある「生そのもの」は、「この社会で生きるに値する/生きさせるに値する」かどうかが問われることになるわけです。こうして、障害をもつ子どもの「生そのもの」は、一般化・抽象化された「生命」観に基づく価値序列によって選別の対象となっていくのです。
こうした動きを、根本のところで推し進めているのは、政治や法律であるというよりはむしろ、「障害者の「生そのもの」は、生きるに値する/生きさせるに値するかどうかが問われても仕方がない」という、広く私たちを覆う観念なのではないでしょうか。そして、そのような観念は、世論によって強化され押し広げられ、私たちを、障害をもつ人を、「犠牲の構造」へと巻き込んでいくのです。([2]194~195ページ)

「生の無条件の肯定」と「権力に抗する倫理の姿」
一般化・抽象化された「生命」ではなく、個別・具体的な「生命」に目を凝らしてみると、ただそこに存在しているだけで、それは絶対的なのです。個別・具体的な「生命」は、ある空間と時間において間違いなく存在し(ています:阪野)。だからこそ、それは比類がないのであって、絶対的なのです。(中略)この「生きているということそのもの」(「生そのもの」)こそ、あらゆる生の原形であって、私たちはこうした「生そのもの」を無条件に肯定しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、「生そのもの」の否定は、原理的な水準において、すべての生の否定を意味するからです。こうした理由によって「生命の価値」「生命の尊厳」といった一般的・抽象的な次元よりもいっそう深い水準において、「生そのもの」を無条件に肯定する必要があるのではないかと私は考えているのです。([2]191~192ページ)
権力は「生そのもの」を、一般化・抽象化された「生命」に基づく価値序列に当てはめ、「生きるに値する生/生きさせるに値する生」であるかどうか選別していきます。その過程で権力は、「生そのもの」に「尊厳」を付与することで、「生そのもの」を肯定する回路を絶ってしまいます。だからこそ私たちは、そうした力に抵抗しなければならないのです。「生そのもの」を、それ自体として受け取ること、したがって、一般化・抽象化された「生命」として受け取ってはならないということ、「生そのもの」を無条件に肯定すること。それこそが、「生の無条件の肯定」が指し示す倫理の地平なのです。([2]200ページ)

社会運動と「民主的アプローチ」
多くの社会運動は、「他者と共に豊かに生きられる社会」の実現を目指しています。裏を返せばそれは、この社会が、まだそうなっていないことを意味しています。(中略)現安倍政権は、異質な人間を排除し、同質な人間をのみ成員とする社会を作ろうとしているように思えてなりません。異質な人間を異質なまま、この社会のメンバーとして受け入れようとせず、同質化を強要し、それに従わない人は構成員とみなさず、放遂しようとしているのです。それによってこの社会は、他者と出会う機会を失っていき、同質な人間だけで完結した、閉じた社会になっていくのではないでしょうか。([2]180ペジ)
社会運動にかかわる上で肝要なのは、ある属性をもつ人びとを差別し、見殺しにするこの社会を、「犠牲の構造」の上に成り立つこの社会を絶対に許さないという思いと、いつの日か、そうした社会を変革することができるという信念ではないかと私は思うのです。([2]215~216ページ)
いくら「来るべき社会」について議論をしても、その基底に「正しさ」がなければ、何の意味もありません。人びとがもし、「政治的な力による調整」によって多数派を形成することこそ民主主義の実践だと考えているとすれば、端的に言ってそれは誤りです。結局のところそれは、政治的に力の強いものこそが「正しい」と言っているのと同じです。複数あるプランのうち、もっとも論拠が確かで妥当性が高いのは何かをめぐって、意見交換をしながら合意を形成し、それに基づいて社会を運営していくというのが、あるべき民主主義の姿ではないでしょうか。([2]222ページ)

〇野崎の言説の核心は、「『生の無条件の肯定』は正義であり、倫理的命令である」という点にある。それを[1]では「障害者」の視点に立って、[2]では「犠牲」という視角から論究するのであるが、その主張を際立たせようとするあまり、論理の飛躍や混乱、不整合が散見される。例えば、野崎は「負け惜しみではなく、障害がないほうがよい、とは思わない障害当事者も存在する」ことから「『障害はないほうがよい』という問いに対する答えは定まらない」([1]27ページ)と言う。その意見については、筆者にも「自分がCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)であることを誇りに思っている」(本ブログ「雑感(20)」2014年10月1日投稿)という知人がいるが、一般論としては首肯しかねる。「障害はないほうがよい」。
〇とはいえ、必ずしも新味性があるとは言えないが、野崎の言説から福祉教育実践や研究が学ぶべき論点や主張も多い。例えば、「身体や生命は、そこに在るだけで本源的・絶対的な価値を有している」。「一般化・抽象化された『生命』ではなく、個別・具体的な『生命』に目を凝らすことが重要である」。「学校教育においても、障害のある『生そのもの』は価値序列によって選別の対象となっている」。「生きる・生きさせるに値するかどうかを問うという考え方は、世論によって強化・拡大されていく」。「これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者(障がい者)の主張をつけくわえるもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう」、などがそれである。
〇最後に、野崎の言説に通じるものでもあるが、本稿のタイトルとりわけ「自分の存在意義」(自分が存在している意味や価値。レーゾンデートル)に関して、平易に次のように言っておきたい。「人がそれぞれ、他者とともに豊かに生きるということ」=「人はそれぞれ、いま、ここに生きているというそのことに本源的な価値がある」(「ただ生きる」ことの保障)×「人にはそれぞれ、やりたいこと・やれること・やらなければならないことがある」(「よく生きる」ことの実現)×「人はそれぞれ、社会や歴史、自然・環境などとのつながりのなかに生きている」(「つながりのなかに生きる」ことの持続)。

補遺
野崎泰伸は、「倫理」と「倫理学」そして「哲学」について次のように述べている。
「倫理」とは、「人としてあるべき道についての掟」のようなものである。「倫理学」とは、「いかに生きるべきか」について考える学問である。「哲学」とは、人生のあらゆる出来事について、その根源にさかのぼって探究する学問である。倫理学は哲学のひとつの領域である([2]49ページ)。「障害とは何かを問うていく営為は哲学的であり、障害者とともに生きる社会はどうあるべきかを考える営為は倫理学的でもある」([1]21ページ)。

鳥居一頼のサロン(1):ボランティアという世界を生きて―いま、災害ボランティアについて思う―

私は、来週から秋田県に入り、ボランティア研修会と福祉教育(福祉の授業と地域福祉の推進)の仕事で、3市2町を回ります。
帰路、新潟県の聖籠町(せいろうまち)に行って、「スマイル」というボランティアグループの懇親会に参加します。中学生・高校生だった頃の彼・彼女らに、久しぶりに逢うことになります。彼・彼女らは、20年前に出会った子どもたちですが、毎年夏にボランティア活動を続けているもう30代半ばの青年たちです(拙著『子どもと学ぶボランティア』大阪ボランティア協会、2008年、164~166ページで紹介しているグループです)。
その仲間のひとりが障がい児を産んだときに、仲間たちが「聖籠においで。俺たちが子育てを手伝ってあげるから」と誘いました。それに応えて、その夫婦は聖籠町に移り住みます。ボランティア仲間の絆の強さを感じます。私は、7年前に1歳のその幼子を抱いたのですが、今回の訪問で再会できるのを楽しみにしています。その子はもう小学3年生になっています。
「スマイル」の20周年をみんなで祝うことと、私が参加することで遠くから駆けつける青年たちがいることは、私にとっては大きな宝物をいただく気分です。ボランティアという世界を生きてきた私の人生を、彼らが証明してくれているのです。その橋渡しをしている方こそ、本物のボランティアコーディネーターで、ご自身も子どもたちのおかげで共に成長しているといつも話される聖籠町社協職員の本田恵さんです。彼女のおかげで、私はいつも誰かに生かされているという事実に突き動かされているのです。
胆振(いぶり)東部地震の余震もいまだ続いています。被災地の厳しい現状も、支援している仲間たちやニュースによって伝わってきます。私は被災6日目に現地に入りました。安平町(あびらちょう)のボランティアセンターでは、若い人たちが一生懸命頑張っている姿に、本当に頭の下がる思いで感謝して戻ってきました。私と共に活動してきた仲間とも再会しました。
安平町早来(はやきた)地区では、私は30代の頃地元の小学校に勤めていたこともあり、その保護者を訪ねて安否の確認をしてきました。その中で、理・美容院をしている保護者のお宅をお邪魔すると、昨日水道が復旧したので今日から店を開けているとのことでした。店内には2人の老婦人が髪のセットをしておりました。そうした小さな日常を取り戻していくことが大切であり、そのことで気持ちが前向きになることを改めて感じました。
次に会った私と同年配の二人は、まちの連合自治会のトップでもありました。そこでの話は、これからの支援をボランティアだけに頼み、口を開けて待っていれば何かを与えてくれるという考えや姿勢では、「生活再建」には向かっていかないということになりました。支援物資の配給にしても、ボランティアセンターに依存していては、きっと滞ってしまうのではないか。また、それだけの手があるとは思えない。いま必要なヒト・モノ・カネ・情報と、これから必要になるヒト・モノ・カネ・情報は当然違ってきます。それぞれの段階に生ずる個々の多様なニーズを把握するには自治会を機能させることが重要であり、まずは連合自治会の会長等を招集して、被害状況を含めて情報の交換をすることで動き始めようということで話を終え、別れました。
その後、厚真町(あつまちょう)の避難所に向かいました。しかし、道路事情が悪く不通になっている箇所が多く、一番大きな被害を受けた地区は入場制限が行われているため、一般人は入れませんでした。また、避難所は多くの車両が道にあふれ、報道機関も多く目立ち、ニュースで観る情景そのままです。問題は、そこに行くには一本の橋を渡るしかアクセスできないということです。ボランティアは事前登録制でしか対応しないのは、人数が集まっても車の渋滞によって現地に入れない可能性が大きいことを思い知らされました。必ずといっていいほど、私のような「見学者」もいるのです。
後日、ボランティアが活動先を指示されるまで2~3時間も待たされたというニュースがありました。さもあらんというのが私の見立てでした。被災地の地勢によって必要な支援が行き渡らない状態が起こったことは、東日本大震災でも同様でしたが、今後しっかりと検証すべき課題です。
2000年の有珠山噴火の災害時も、本部に陣取った道社協や市町村社協からの応援メンバーは、日報の事務処理に追われたといいます。行政が求める情報の処理に多くの人と時間が割かれ、本来の支援のあり方が問われたのです。同様なことは、今回でもある町役場で本部機能が全く働かず、統制も出来なかった職員が、さも仕事をしたとの書類作成に走り回っていたという事態が起こったといいます。その町役場ではいろいろな失態がありました。停電のために断水した地域に給水車を出し、地区会館の前で役場職員が給水活動を始めました。そこで、地区の方がここまで歩いて来られないし、水のボトルを持つことも出来ない人がいる。だから、その職員に運んでやってほしいとお願いしたところ、ここまで取りに来てくれないと給水できないと断ったそうです。水は生命に関わる問題です。住民の生命を守ることを最優先にしなければならない行政の一員がと、開いた口がふさがらなかったそうです。地域の住民がその方に水を届けたのは、当然です。さてこの職員の言動を許せますか? 
目的は被災者の救援活動であり、給水はその手段です。給水することを優先して、本来の目的が何であるのかを見失ってしまうような事態が、災害の時には往々にして起こります。東日本大震災でも、自転車がほしいというニーズが1,000件あり、全国に呼びかけて集めたところ、500台の自転車が駐車場で野ざらしになっていたのです。なぜかと行政の担当に尋ねると、必要な人が1,000人いるので、1,000台集めてから渡さないと不公平になるという答えが返ってきたのです。ここで公平性が問題になりますか? そのことを担当以外の職員も見ていながら問題なしと考えていたのではないかと想像すると、なんともやりきれない思いがします。
災害では様々な状況が起こってきます。目的と手段をはき違えることがないよう、事に当たらなければならないと、多くの失敗から学んでいるはずです。しかし、やはり「他人事」で済まされてきたことに一因があろうかと思います。また防災や災害発生時のマニュアルを作成していても、いざというときはその通りにはいかないことも多々あります。行政マンには、臨機応変に対処できる「現場力」を身につけてほしいものだと、つくづく思います。
有珠山噴火災害のとき、私たちのグループは、ヘルメットを内地の自動車工場から寄贈を受け、洞爺湖温泉地区や虻田(あぶた)地区に住む方々の帰宅解除の際に身につけてもらうよう避難所に配布しました。また、冬期間仮設住宅に住む高齢者を対象に、全国から寄せられたボランティア支援金を使って1,000個の「湯たんぽ」の配布を行いました。子どもたちのメッセージカードをつけて実施したのです。それは、私が阪神淡路大震災のおりに、神戸の埋め立て海浜地区にあった仮設住宅で「寒さ」を訴えられたことによります。その話を聞いて女性スタッフが「湯たんぽ」を提案したのでした。北海道はこれから寒くなります。今回の地震災害が冬の期間でなくてよかったというのが率直な思いです。
仮設住宅もいま建設中ですが、抽選で決まります。これも非情なことです。東日本大震災の被災地で仮設住宅にお邪魔した際に、行く当てのない方々の苦渋を知り、そこでサポートする方々の行政への憤りを痛く感じてきたこともありました。雪降る前に避難生活から解放されるよう行政には踏ん張ってほしいと切に願うばかりです。全国からも大きな注目を浴びていることからも、生半可なことはできないでしょう。がんばれ! 行政!
今回の全道一円の停電は、まさか遠方の根室管内で酪農を営む乳牛の生命を奪うなど想像もつきませんでした。冬期間の停電であれば、生命にかかわる重大な事態です。北電が非難の的になっていますが、3日間で95%の通電を達成した現場の電気工事に携わった方々の労苦はいかばかりかと、深謝するばかりです。暮らしを取り戻すことにプロとして懸命に取り組む人こそ、企業は優遇すべきであると声高く訴えたいのです。人々の日々の暮らしを前線で身体を張って踏ん張り護る人たちの存在を、災害のときほど強く意識させられますが、それはとても恥ずかしいことです。それだけ漫然と、この暮らしを享受してきたことへの猛省を求められた、今回の災害でもありました。
安部首相が早々に現地視察をしました。それは、総裁選の前のアピールであることは見え見えでしたが、そのとき和歌山県や奈良県の山奥では、台風21号による停電の復旧が遅れているという事態が発生してずいぶん時間が経過していたのです。停電は近畿2府4県で9月9日現在約3万2,660戸を数え、倒木、土砂崩れなどで作業は困難を極め、復旧の長期化も取りざたされていました。それにもかかわらず、お連れの者を引き連れての“ご視察”でした。先の内閣改造で「全員野球内閣」がスタートしたと言われますが、全く期待感が湧かないのはなぜでしょうか。それは、停電の時に、不眠不休の状態で一刻も早く通電するために懸命に働いた、北海道電力職員の、その道のプロとしての仕事ぶりを評価しているからです。いまの政治家の薄っぺらい言動には、いつも裏切られています。沖縄の知事選ではありませんが、政治家の薄っぺらさに抗する市民の「社会力」を日頃から身につけていくことが、いま最も私たちに強く求められているのではないでしょうか。まずは、全国の被災地の復旧・復興を優先してスピードアップを図ってほしいと願うばかりです。願い事が多くなりましたが、それがいまの私の立ち位置なのです。
今日は台風25号が低気圧に変わりましたが、札幌はまだ雨が降り続いています。JRは札幌から遠方の路線は全面運休です。風が少し強くなってきました。これからは日本全国で「ご無事ですか」が挨拶になるのでしょうか。皆さんのご無事を祈るばかりです。

〔鳥居一頼/2018年10月7日〕

大田堯×中村桂子:大田教育学の「生命の視点」に学ぶ―『百歳の遺言―いのちから「教育」を考える』読後メモ―

〇筆者(阪野)にとっては珍しい事態であると思っているが、いま、机の上に20冊ほどの本が未読のまま積んである。いわゆる積読(つんどく)である。その原因のひとつは、本ブログの「ディスカッションルーム」(70)~(79)に、「あの頃の福祉教育、その記憶と記録(1)~(10)」(2018年5月16日~9月1日投稿)という題目のもとで資料紹介を行ったことによる。資料の検索と整理、通読や拾い読みは、「あの頃」を思い出す楽しいもの(作業)であった。ただし、ブログにアップした資料によって、筆者の福祉教育の実践や研究についての視点や考え方が問われることは承知している。
〇20冊ほどの本のなかに、B6変型判、135頁の手ごろな本がある。大田堯(おおた・たかし、教育研究者)と中村桂子(なかむら・けいこ、生命誌研究者)の対談本『百歳の遺言―いのちから「教育」を考える』(藤原書店、2018年4月。以下[1])がそれである。その「帯」の文章(「帯文」)は、次の通りである。「『生きる』ことは『学ぶ』こと/生命(いのち)の視点から教育を考えてきた大田堯さんと、40億年の生きものの歴史から、生命・人間・自然の大切さを学びとってきた中村桂子さん。教育が『上から下へ教えさとす』ことから『自発的な学びを助ける』ことへ、『ひとづくり』ではなく『ひとなる』を目指すことに希望を託す」。
〇[1]の内容は深くて広い。生命(いのち)とは何か、人間とは何か、教育とは何かについての対談は、本質的かつ学際的であり、鮮(あざ)やかで心地よいものでもある。ここでは、[1]から次の2つの文章だけを紹介しておくことにする(見出しと<注>は筆者)。

教育は生命の「根源的自発性」を補助する「アート」である
学習権の学習とは、食事や呼吸とおなじく、情報を自ら獲得したり、発信したりする営みである。いわば脳・神経系の行う新陳代謝の一つであり、人間が生きつづけていくうえでの生存権の一部、基本的人権のことをいう。子どもは生まれると同時に情報の新陳代謝を始める。情報は姿、形のないものだが、それなしには生きること、成長、発達すらもありえない。
教育はその天賦の学習力、生命の根源的自発性を補助する技(アート)である。したがって、上から与えられ、受けるものではなく、むしろその子その子(大人)に与えられたユニークな学習力に寄り添って、ひびき合い、「ひとなる」、一人前になるのを助ける重要な役柄を果たすものである。めいめいが自分の学習力の流儀で、教育を選び取る権利が保障されなければならない。それが「学習権を保障する教育への権利」だということになる。マララさんがテロへの唯一の武器として使った、エデュケーションの訳語としての教育は、この生存権としての学習権の保障を求める「教育」なのである。(大田、122~123ページ)

<注>マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai):2014年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの人権運動家。次の一節は、2013年7月に国連本部で行った演説のなかの名言である。
One child, one teacher, one book and one pen can change the world. Education is the only solution. Education first.(1人の子ども、1人の先生、1冊の本、1本のペンで世界を変えられる。教育こそがただ一つの解決策である。エデュケーション・ファースト。)

教育は「ひとなり」であり、「人づくり」ではない
「ひとなる」に対する言葉は「ひとづくり」でしょう。政府の看板政策として「人づくり革命」という言葉が使われています。それには「生産性革命」が並んでいますから、効率よい労働に従事する人材(この言葉も気になるものです)獲得を目的とする「人づくり」であることがわかります。
生きものは多様であるところに意味があり、もちろん人間にも多様性が重要です。(中略)私たち人間も生きものの一つとしてこの歴史の中で生まれてきたのですから違いをもつ一人ひとりが存在することに意味があるのです。その一人ひとりが思いきり生きることを応援するのが社会の役割でしょう。現代社会は、効率を求め、人間を機械のように見てしまう恐さがあります。大田先生の「ひとなる」という言葉には、均一のものを早くつくるという見方に対して、生きものとしての時間を大切にし一人ひとりが個性を生かして育っていく過程を見つめる眼を感じます。
生きものにとって大事なのは続いていくことであり、今一番望むことは次世代、その次の世代と続く未来の人々に誰もが生き生きと生きられる社会を渡すことです。(中略)今やるべきことは、もっともっと人間について考えることなのではないでしょうか。(中村、128、129~130、134~135ページから抜き書き)

〇[1]を読んだあと筆者は、芋(いも)づる式に、大田が[1]のなかで紹介している(14ページ)『地域の中で教育を問う』(新評論、1989年11月。以下[2])と、[2]のなかで紹介している(2ページ)『教育とは何かを問いつづけて』(岩波書店、1983年1月。以下[3])を再読することにした。その理由は、大田の「戦後の教育と教育研究」の足跡を再認識することにあり、それを通して[1]の理解を深めたいという思いからでもある。大田によると、「『地域の中で教育を問う』ということは、ふつうの人、人民(ピープル)に教育をゆだねるという心をこめたもの」([1]19ページ)であり、「『教育とは何かを問いつづけて』は、戦後の私の教育探求の跡を一思い(ひとおもい)に学生諸君に語ったのが基となって」([2]2ページ)いる。
〇ここで、[2]と[3]からそれぞれ、一つの文章を紹介しておくことにする(見出しは筆者)。

教育は「地域」からの教育改革の「土俵づくり」が重要である
子どもたちが、単に親のものでなく、まして国家に従属するものではない。人類という動物種の一員であることを考えると、子育てという事業は、種の持続という最も広い意味での公的事業だというべきである。
一大事業としての教育は、当然地域を基盤として進められる。地域は幼年期から学童期、青年期、壮老年期を通じての人間発達の社会的胎盤である。(中略)かりに、中央権力のもとでどんな理想的な教育改革の構想がねられたとしても、この地域からの改革の土俵づくりなしにはその実現は不可能である。この土俵づくりに決定的な役割を果たすのが地域の親と教師とである。
「子は天からの授かりもの」、みんなで育てるほかはない(中略)。そういう中で、はじめて親は過大な身勝手な注文を抑制し、教師もみんなの知恵を借りて子を育てるということで、親の参加に寛容になる。こういう親や教師の、子育てをめぐる協力の中での自己変革なしには、教育改革の土俵はできあがるはずはない。([2]341、343~344ページから抜き書き/付記(補巻)369、370~371ページから抜き書き)

教育は人間という「種の持続」を図ることをめざすものである
私自身の戦後の歩みも、(中略)人間にとって「教育とは何か」ということを尋ね続ける旅であったともいえそうです。
そのあげく、いま辿りついているのは、教育を人間という種の持続の問題の一環として捉えるということです。子育て・教育という次の世代への働きかけも、その時代、その社会のさまざまな要求を無視することはむろんできません。それらは教育にとって必要不可欠なものです。けれども、そういうあらゆる当面の諸要求に優先して、教育は人を人らしくすること、種の持続をはかることをめざすものだということです。
平和を願い、戦後にこだわりながら、教育とは何かを求めての私の旅は、これからも続けられます。それにしても、うかつにも教育という大それた研究課題を選んだ私としては、子育て・教育が統治者の便宜のためのものでないこと、教育学者や教師のためにあるのでもないこと、突き上げられるような実感なしに、軽々しく人権としての教育を口にしないことなどを心にとめつつ、さまざまの試練に耐えて、子どもの人としての自立を励ます親や教師たちの努力に学びながら、種の持続のいとなみとしての教育を問いつづけたいと考えています。([3]216、227ページから抜き書き)

〇大田にあっては、「子は天からの授かりもの」である。子どもが育つこと、一人前になること、「人格の完成をめざす」ことを、「ひとなる」という。人間は、全ての動植物がもっている「変わる力」「自己創出力」(「根源的自発性」)によって、置かれた環境のなかで「折り合い」をつけながら生きている。それは学習を重ねることでもある。生きものの根本には学習がある。その内発性による学習(学習権)を支援・保障し、一人ひとりの「持ち味を引き出し合う」ものが、教育である。それを通して人間は、人間という「種の持続」を図るのである。そういう意味において、教育は公的な事業であり、人類の一大事業である(大田堯『大田堯 自撰集成 4 ひとなる―教育を通しての人間研究』藤原書店、2014年7月。大田堯・山本昌知『ひとなる―ちがう・かかわる・かわる』藤原書店、2016年10月、等参照)。
ここに「大田教育学(教育人間学)」の原点のひとつ(「生命」の視点)がある。
〇ところで、大田の対談相手である中村は、[1]のなかで、小学校6年生の国語の教科書に「生き物はつながりの中に」という文章を書いていることを紹介している。中村は言う。その文章を読んだ子どもたちから手紙が来る。そのなかに、「いじめられてつらいから、僕は死のうと思っていました。でも、この「生きもののつながりの中に」を読んだら、僕がもしここで死んだら、このつながりを切っちゃうことになると思えてきて、死んではいけないと思いました」というのがあった。「嬉しかったです。(中略)これだけ受け止めてもらえると感激します」([1]92ページ)。
〇その文章を紹介しておきたい(中村桂子「生き物はつながりの中に」『国語 六 創造』光村図書、2014年3月検定済、226~229ページ)。

〇大田と中村の対談([1])は、福祉教育の実践と研究における根源的な問いでもある「生命の哲学」(いのちを生きること)について思い至らせる

付記
大田は言う。教育に対する国の介入が一段と悪化している。私たち自身の内面にある「教育」の既成観念(上から同化・同調を求めて教えたがる。教えることが過剰、学ぶことが過少)を克服する必要がある。「自然の生命が求める教育とは何か」を考え合おう、というのが『自撰集成』(全4巻・補巻)発刊の背景・理由である。
(1)『生きることは学ぶこと―教育はアート』(大田堯 自撰集成 1)藤原書店、2013年11月。
(2)『ちがう・かかわる・かわる―基本的人権と教育』(大田堯 自撰集成 2)藤原書店、2014年1月。
(3)『生きて―思索と行動の軌跡』(大田堯 自撰集成 3)藤原書店、2014年4月。
(4)『ひとなる―教育を通しての人間研究』(大田堯 自撰集成 4)藤原書店、2014年7月。
(5)『地域の中で教育を問う<新版>』(大田堯 自撰集成 補巻)藤原書店、2017年11月。

暗い谷間と怖い時代に生きた・生きる「ものいえぬ」農民の思い:怒り、悔しさ、叫び、そして祈り―佐藤藤三郎の『山びこ学校』と『まぼろしの村』の底流をなす“教育”と“村づくり”の思想―

(無着先生は)教師をやめて新たな学問に専念する、といって村を出たはずだが、「有名」になったそれの看板をはずすことがなかった。もちろんそうした個人の「自由」に立ち入る権利は誰にもないが、言われたこととなすことに一貫性がなくなっていたことを知る時、信頼が厚く深かっただけにその戸惑いは大きかった。
私は『山びこ学校』の出版によって人生が狂わされたと思ったことが何度もある。マスコミによって幼い青春のかよわい心が粉々にかきまわされた傷跡がいまだふさがっていないところは確かにある。
『25歳になりました』(1960年2月)は、私の独立宣言の書であり、25歳にして山びこ学校の殻を抜け出し新しい出発をするための記念碑のようなものである。(『ずぶんのあだまで考えろ』46~47、54、70ページ)

〇「にわか百姓」を決め込んでいる筆者(阪野)は、10年近く「日本農業新聞」を購読している。その2018年4月23日号の「論点」に掲載された、「森友問題と農政改革」と題する武本俊彦(食と農の政策アナリスト)の一文が目にとまった。その一節は次の通りである(抜き書き)。本稿を草しようと思ったひとつのきっかけは、ここにある。もうひとつのきっかけは、日本が民主国家であり法治国家であることを疑いたくなるような、最近の政治や行政の実相にある。さらには、憲法が揺らぎ、平和な社会が時の政権によって壊されていく、不安を通り越した恐怖にある。

森友・加計問題などを巡る安倍晋三首相や政府の対応は、時代錯誤の縁故資本主義を体現している。官邸主導の名の下、適正な手続きを経ずに一部の権力者周辺に利益をばらまくトップダウンで、短期的成果を求める。その本質は農政改革とも共通しており、近視眼的な政策手法の弊害について検証することが必要だ。
安倍政権が官邸主導で進める農政改革は、現場で創意工夫をしている人々の存在を無視し、地域の多様性を捨象する政策体系となっている。全国の農業や農家を画一的に考え、同じように短期的成果や経済合理性を追求するという思考回路で政策を構築しているのだ。
例えば、アベノミクスの目玉とされた地方創生は、地方への権限・財源の移譲よりも、補助金の活用によって中央政府の考え方に沿って地方の底上げを図ろうとするものになっている。人口減少・高齢化社会の到来、地震・災害の多発化といった不確実性が増す中、中央政府は本来、地方の創意工夫が発揮できるように、補完的役割に徹するべきである。だが、そうなっていない。これも短期的成果を求める観点から地域の諸条件を捨象する市場原理主義の考えに立脚している結果である。

〇感覚的・情緒的な本稿のタイトルについて、一言付記しておきたい。時代(1935年と1948年)と場所(東北と中部)は異なるが、佐藤藤三郎の思いや感情と筆者のそれが重なるところがある。先ず、「ものいえぬ」は、大牟羅良の『ものいわぬ農民』(岩波新書、1958年2月)を念頭においたものである。私事にわたるが、明治生まれの筆者の父(享年87)はまさしく「ものいわぬ百姓」であった。若くして嫁にきた大正生まれの母(享年95)はいつしか、世間に抗する「強い百姓」になり、何よりも「子どもに賭ける」親になった。それは貧困と差別ゆえである。
〇佐藤藤三郎は、1948年4月に山形県南村山郡山元村立山元中学校に入学した43人(卒業したのは42人)のうちのひとりである。いまも山元村(現・上山市)に生きる百姓であり、「もの書き」である。『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)は、周知の通り、無着成恭の指導のもとで、貧困と闘う彼・彼女らが2年生在学中に綴った生活記録(生活綴方集)である。そして、『まぼろしの村』(全5巻、晩聲社、1981年1月~7月)は、佐藤のエッセイ集である。「まぼろしの村」というタイトルについて佐藤は、次のように述べている。「この世の中の乱れを評して、村落共同体の滅亡だといい、新しい共同体の創造だとか『むら論』などということを、誰かれとなく口にしている。そして、村に残っている人にそれをやる義務があるみたいなことを、おこがましくいってくるやつがいるから、それらの人への反論として適当なことばと思ったからだ」(『まぼろしの村Ⅰ 村から日本の教師に訴える』245ページ)。
〇いま、筆者の机の上に、佐藤が書いた本が4冊ある。①『まぼろしの村 Ⅰ 村から日本の教師に訴える』(単著、晩聲社、1981年1月。以下[1])、②『まぼろしの村 Ⅱ 村から考える日本の教育』(単著、晩聲社、1981年2月。以下[2])、③『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった―』(単著、清流出版、2004年3月。以下[3])、④『ずぶん(自分)のあだま(頭)で考えろ―私が「山びこ学校」で学んだこと―』(単著、本の泉社、2012年12月。以下[4])、がそれである。例によって、それぞれから改めて認識あるいは確認したい言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。さらに、[1]と[2]からは、恣意的で我田引水な「つまみ食い」と評されであろうことを承知のうえで、留意したい一節(◍印)をピックアップしておく。

[1]『まぼろしの村 Ⅰ 村から日本の教師に訴える』
外圧によって破壊される子どもと親と教師
村人は、本質的には村を愛し、これからも村に生きていかなければならないと考えている。(25ページ)
が、しかし、(子どもたちや教育を破壊する力が)村のなかから起こる出来事ではなく、よそからの動きが「村」どころではないというせっぱつまったものを持ちこみ、そこに押し込んでしまう、という力があることを私は知らしめられる。そして、まぎれもなく学校教育それ自体も、村の自動的回転を促すために行なわれているのではなく、外的な動きを村に押し込んでくることの作用に力を貸しているのだ、ともいわざるを得ない。つまり今日の学校教育は、いまなお全国画一に、都市的あるいは工業的に、または無機的に行なわれている、ということである。したがって、こうした無機的な論理をすすめることは、コンクリートでかためた都市においてその効果があがることになる。別にいえば、新しい指導要領などでいう、ゆとりと充実の教育は、本来、自然に恵まれた農山村などでこそよくできる条件があるはずなのに、実はその成果がみられない、ということである。ほんとうの学力、それを評価する基準がこの世界ではまだまだ認められていないということが、親の頭を駄目にし、教師を駄目にし、教育をいけないものにしてしまっているのだ。(25~26ページ)

“解明力”を育成する学校と地域との有機的結合
初等、中等の教育は、基礎学力を身につけさせることに重点がおかれなければならないことはもちろんだが、一方的に知識をつめ込むことだけが学力を向上させることとは思わない。理解した知識をもとに、自然や社会を観察したり、批判したりする訓練の場もなければならないのではないか。そのためには、教師にはもっともっと校外に出て社会に接する機会が多くあって欲しい、と願わずにはいられない。(67~68ページ)
わたしが子どもの頃に、この村に一人のすぐれた教師がいた。その先生は、よく部落をまわって、父母たちを集めて座談会をやってあるいた。いまでいえば“社会教育”の分野にはいることかも知れない。子どもの教育のためには、親たちも一緒に教育しなければ効果があがらないと、そんなふうに考えていた先生であった。つまり、有機的な結合のなかで、その先生はものを考えていたことを、わたしはいまにして教えられる。(169ページ)。
学ぶということは、〈まねぶ〉ことともよくいわれるが、実はそこでおわるとするならば、何のために学ぶのかわからない。学ぶことの真のねらいは、解明する力をつけて新しいものを創造することである。解明するためにはまず疑いをもつことからはじまらなければならない。(185ページ)
教師自身が学校以外の社会に顔を出し、幾度となく子どもをとりまく社会に交わる機会をつくっていくなかから話題やテーマをひき出して学習にもち込むといった作業があればこそ、ことの事実にたちむかったとき、解明する力をそなえた子どもが育つのではないだろうか。(186ページ)

◍「村」はまぼろしの存在であって、現実にはそれが内部から喪失している。否、失わしめなければならないものが、村の若者の背に負いかぶさっている。それを払いのける活力は、村の若者のなかにはまだ沸騰などはしていない。(29ページ)

◍常に己が、己自身をみがこうと努力している人間の姿に触れるとき、その人間の美しさに人はみな忘れ得ぬ魅力を生涯感ずるのではないのかと、わたしは人と人との出会いやふれあいの大切さを感じさせられる。(85ページ)

◍教師自身が、自分の教育に情熱と誇りを傾けているであろうか。人間の美しさは情熱にある。その情熱こそが文句なく人から人へと伝わるものである。その大事な美しい「情熱」を燃やすことを、いま村の若者はどこでも修得できずにいる。(131ページ)

◍「地域に根ざした教育」とか「地域をおこす教育」といったようなことばを耳にする。ある校長先生のように自ら村人となる努力、あるいは、そのような実践があってこそ、教育は地域に根をおろすのではないのか。せめて、地域の人たちと酒をのみかわすことぐらい、時間のロスだなどといわないでくれ。(143ページ)

◍「地域」とか「むら」とか「共同体といったものは、そこに住む人間がつくるものである。「むら」はまず自らが作ることにこそ意義があり、必要によってつくられるものでなけれはならない。(187ページ)

◍「地域に僻地はあっても、教育の僻地は許されない」というのが、この村の学校の信条とされている。真の教育とはなにか。教師と生徒の精いっぱいの力のふれあいを、このような小さな学校にこそ見出せるように思える。(215~216ページ)

[2]『まぼろしの村 Ⅱ 村から考える日本の教育』
「村に残る教育」と「村から出る教育」、その矛盾
「村に残る教育をすればいいのか、村から出る教育をすればいいのか」。こんな問いかけをする教師がよくいる。ちょっと聞くと、「そうだなあ、村に残る教育が大事だ」と、いいたくさえなるような問いかけである。が、よく考えてみると、本来、教育にそんな差があるべきなのかという気になる。いうなれば、それは今日の教育のゆがみを認めてしまっていることになるからである。もちろん、現実的にゆがみをゆがみとして認めなければどうにもならないものがあるのかもしれないが、どうもシックリしない。(137ページ)
「村に残る」ということの意味は、まさに「百姓」として残るか、それ以外の職業に就くように指導するか、という意味である。百姓であるわたしには、「これほど多くの職業の種類があるのに、百姓だけをどうして教育の場においてまで差別しなければならないのか」と憤慨したくなる。(137ページ)
わたしは、「人間」を相手にする教育に、「村に残る」とか「村から出る」といった教育があっていいとは思わない。(そういわれるのは)日本の農業のありかたに問題があったからにほかならない。端的にいえば、農業では食えない状況下に農村はおちいったからである。(138、139ページ)
教育の中に「村を出る教育」だとか「村を守る教育」などというものがあってはならない。どこに住もうが、権利として学ぶ機会が与えられてしかるべきだし、差のある教育なんてあってはならない。(253ページ)

「住む都、ここにこそある」という地域への愛着と誇り
今夜も、シンシンと雪が降っている。わたしにとってはロマンティックな気持になる以前に、明日は、村の道路の除雪はどうなるか、ブドウ棚はつぶれないだろうか、杉の木は雪の重みで折れないか、と気にかかる。しかし一方では、こんな冬の夜に、朗々と本を読む声が聞こえてくることの楽しみを想像したり、ショパンやバッハの音楽が家々から響いてきたら、どんなにか楽しいだろうと想いうかべる。「住む都、ここにこそある」と、村びとのだれもが誇り、自らを信じて生きるよろこびが、この村にこだますることのくる日を、音ひとつない静かな部屋でひとり想いふけるのである。そして、踏まれても、蹴られても、差をつけられても、頑として、びくともしないでこの村に生きることのできる力を持っている少年少女が育つことを、「教育」にこそ期待してやまない。(253~254ページ)

◍その教育がなんであり、どうであったのか、百姓であるわたしたちには、知ることの必要などひとつも感じなかっのだ。ただ、ひとりの人間として、あるひとりのすごい情熱的な先生にめぐりあった、という事実は、どうにも動かせないこととして生きているだけなのた。(41ページ)

◍わたしがいま、お前にいいたいことはたったひとつ。「徹して学べ」。学んで「何かを期待する」などという望みは持っていない。がっちりと、自然に生える雑草のように、季節に応じておおらかにや育ってくれればそれでいい。他人にやさしく、己れに厳しい雑木のように育ってくれればそれでいい。(47、49ページ)

◍そもそも教育というものの基本理念は、国家から指図されて行なわれるものであってはならない。住民が要望するものをくみあげ、地域住民の意志を尊重し、それを教育に消化させていくという作業が“学校”というところにはなければならない。(78ページ)

◍教育は実利的なものでなければならない、などというチャチなことは考えていない。むしろ“あそび”こそが大事だと主張したい。“あそび”は、別のことばでいえば“ゆとり”である。人びとには、もっともっと無駄があってしかるべきだし、ましてや人を育てる教育には、さらにゆとりが必要だ。ゆとりというのは“余り”とはちがう。充実、ということばにほど近い。(118、120ページ)

◍もはや、教育に、個性豊かなローカル性などはない。中央がねらいとする機械的な(しかも精密な)人間がみごとにつくりあげられている。そういっても叩(たた)きつけられることはないであろう。(149ページ)

◍農民にいま必要な教育は、技術者としての力のほかに、人間としての力、つまり、「文化」というものを認識し、それを創造することのできる力をもつこと、そして政治や経済に対しては、従順であるのではなく、主体的にそれに取り組む姿勢をもつことが必要だ、ということだ。(158ページ)

◍「地方の時代」という。わたしにはそれを聞くにつけ、どうしても不満として残るものがある。というのは農業を駄目にし、都市を終末的状況に追いやったのは、どこのだれであったのか、ということを風呂敷に包んで、開こうとしないことである。(245ページ)

[3]『山びこ学校ものがたり』
教育は日常の生活や労働から遊離しては存在しない
「知識」とか「教養」といった言葉には多分に抽象的なものがある。だから「知識」や「教養」といった言葉が、実際の暮らしや生活からは遊離したものと考えがちな人が多い。しかし、そうではないのだ。事実や、生活と遊離したところに「知識」もないし「教養」もない。ましてや現実の暮らしから遊離した「教育」など意味がない、と無着先生は考えていた。21歳の若さにして、無着成恭という人間はそのようなアカデミズムを超えて、自分のイズム(「無着流教育」「無着イズム」:183ページ)を確立しようとしていたのだ、と私には考えられる。(11~12ページ)
ぼくはその授業(木の棒を使ってテコの原理を見せながら、反比例の理屈を説く「数学」の授業)を受けながら深い感動と同時に、憤怒(ふんど)の念を覚えたことが今にしてなお忘れられずにいる。「感動」を覚えたのは、「学問」とか「教養」「知識」というものは遠いところにあるのではなくて、日常の生活や、労働のなかにあるということを知ったからだ。(36~37ページ)
「憤怒」というのは、農民や土工などはいつも知識のない人間のように扱われていたが、生活や労働のなかではちゃんとそうした科学の法則を生かしている(テコは父や祖父が仕事のなかでいつも使っている)ではないか、といった悔(くや)しさからきているのだった。(37ページ)

生きるためには「知識」や「技」「術」が必要である
無着先生は、「たとえ試験の点数が悪かろうと、人間としての生き方をしっかりと教えた――」と主張した。(141ページ)
だが正直に言ってぼくはこの言葉にずいぶん悩み、疑問に思った。そしてその疑問は68歳になった今も解ききれないでいる。(141ページ)
試験の点数云々はともかく、人がより広い視野に立ち、高い人格を備え、いい仕事ができるようになるには「知識」や「技」(わざ)、「術」(すべ)をより多く身につけるための勉学や鍛錬をする必要がある。さらに思考力も判断力も、創造力もそれがあってこそ身につくのではないか、と思う。ぼくにそれらが足りないのは無着先生の教えが悪かったからだ、などと他人のせいにする気は毛頭ないが、そうしたことについて悩んだり苦しんだりしてここまで生きてきたということは確かである。(145ページ)
「知識」や「教養」を学ぶ機会に恵まれなかった悔しさがぼくの心の奥底にいまだ重く淀んでいる。(146ページ)

自分の座標をつくりそこに立つ教育が求められる
かつての学校教育の習わしにとらわれず、さらにまたアメリカ的民主主義に乗ることもなく、自らの思いのままに夢中で教育という仕事に青春を打ち込んだ無着先生の生きざまが、今の日本というこの国に改めて必要なのだ、と思えてならない。というのは今日の日本は、いわゆるグローバル化、特にアメリカという大国との共存のなかで繁栄したが、しかしそうしたなかですっかり自主と自立の道をなくしているからである。恐ろしいほどに、戦争が始まればその最前線に立たされるという危惧すら感じる。世界のなかの日本になったのではなく、グローバル化のなかで自分で立つ足場をなくしているのだ。(179~180ページ)
したがってぼくは今、自分の座標を自分でつくり、その座標のなかに自分が立って、世界の人々と交流できるようにならなければいけないのだとさかんに思っている。そうでなければ、身も心もなくしてしまうといった恐怖すら感じられてならない。そしてぼくは無着先生の20代のときの思いや活動を、余計なものは排除し、足りないものを補ないながら生かしていきたいものだと思っている。(180ページ)
中学のときに学んだ「自立した精神」「自由なる精神」をどこまで貫き通すことができたかはわからない。ただ、過疎化のまっただ中にいる村の現実のなかで、少しの田畑を耕し、少しの牛を飼い、山間地の「農」の可能性にこだわって、ぼくはぼくなりの青春の血潮をわかせる人生を送ってきたと思うのである。(199ページ)

[4]『ずぶんのあだまで考えろ』
「自分の言葉で話せ」「自分の脳味噌で考えろ」
「無着先生の言われた言葉で一番心に残っていること」は、「自分の言葉で話せ」ということと「自分の脳味噌で考えろ」ということである。(125ページ)
「自分の言葉で話す」ということは自分の考えを持つ、ということである。しかもそれが具体的でなければならない。(126ページ)
もちろん「自分の言葉で」といえば、自分のことしか考えない利己主義とか勝手すぎるということにもなりかねないが、そうではなく具体的な自分の身近なことにしっかり目を向けて考えていく、ということである。(127ページ)
とかく、「学校」というものには無着先生の言われるような「自分」(「自分の目で物事を見ろ」「自分の脳みそで考えろ」「自分の言葉で話せ」)というものの基本的なことが教えられていないような気がする。しかし一方、ともすると、無着先生にはそれがあまり強すぎているような気がしないでもなかった。いずれにしろ無着先生は教科書をそのまま教えるだけでなく、それにいつも「自分」という人間と知恵をプラスして授業をおこなったのだ。(195ページ)

「学校は楽しく生活する場である」
(昭和23年4月4日)入学式がひとまず終わり、新任の先生の紹介となった。(無着先生の)あいさつが並でなく、ふるっていたことが忘れられない。(173~174ページ)
まず「学校を勉強するところだ、などと考えたら大馬鹿者だ、楽しく生活する場なのだ」と言った。次に「先生なんて決して偉いものではない。君たちが社会に出て役に立つ人間になるための踏み台として利用するものだ」と言った。さらに「日本は戦争に負けたのだから新しく出発しなければならない国だ。だが敗戦国ゆえアメリカの教育や政策が押しつけられている。ともすると日本人はみんなアメリカの言いなりの骨抜き人間になる恐れがある。『学ぶ』ということは自分なりの生き方や、考え方を持つ骨のある人間になることだ」と、もはやテーブルの横に移って叫ぶように演説した。そして後に口調を弱め、「こんなことを言うとGHQ(連合国軍総司令部)に無着成恭ちょっと来い、銃殺だ、ドン、ということになるかも知れないけどね」といって生徒を笑わせた。だが、この演説ともいえるあいさつを聞いて、当時のすごくまじめな渡辺善正校長はきっと、生徒と一緒に笑いはしなかったという気がする。(174ページ)

「経済優先主義の教育に勝てなかった」
私はいま、私なりに「学校」ないしは「学校教育」といったものを「どこかおかしい」と思うことがしばしばある。「いじめ」の問題、そして自殺、さらには教師の酒気帯び運転だとかセクハラ事件といったものが、「またか、またか」と後をたたないからである。そしてそれらの根元はみんな同じところにある、と思えてくる。つまり、そこには「教育の自由」がなく、与えられ、押しつけられる「不自由さ」だと思えてくる。(210ページ)
明治5年にはじまる日本の「学校教育」というものは国民の要望や要求によってつくられ、できたものではない。(211ページ)
学校ないし教育は「民」が主であるのではなく「国家のため」、「権力」によって強制的に作らせられたものであった。(211ページ)
私たちはちょうど「敗戦」を挟んで学校生活をおくり、満たされない教育環境の中で育った。しかし幸か不幸か、敗戦によってアメリカ式の教育制度ががとり入れられ、押しつけられたものとはいえ、その制度は日本の学校教育を完全なものにはしていなかった。したがって無着先生のような一見勝手にも見えるほどの独創的な教育ができたのだ、といえば無着先生は「それは違う」と怒るかも知れないが私にはそう思える。(211ページ)
(2012年で85歳になられた)無着先生からのはがきの文面には「日本の学校教育は経済の競争優先のみに力が入れられていて、この国と人間の命をだめにしている」と書かれ、ちょっと寂しげに「おれはその経済優先主義の教育に勝てなかった」というようなことが記されていた。(212ページ)

〇筆者の書斎の本棚に、佐藤の本が4冊並んでいる。⑤『村に残ったぼくらの抱負』(共著、明治図書、1965年3月。以下[5])、⑥『村に居る―新しい文化を創る―』(単著、ダイヤモンド社、1996年6月。以下[6])、⑦『25歳になりました』(単著、百合出版、1960年2月。以下[7])、⑧『底流からの証言―日本を考える―』(単著、筑摩書房、1970年3月。以下[8])、がそれである。
〇[5]は、青年が村を見捨てざるを得ない農業政策が推進されるなかで、農村の革新や農業の体質改善を図ろうとする全国の農村青年たちの手記を編んだものである。[6]は、「父母」や「村」「花」「旅」などをめぐって、還暦を過ぎた佐藤自身の若かりし頃のことどもをときには烈しく、ときには静かに語る。そして、「農」と「村」のゆくえを案じる。[7]は、『山びこ学校』が世に出てから10年、その間の、佐藤の「若い農民としての生きざま」を綴ったものである。「今後、農山村に暮らす人びとにとっては、いっそうきびしい生活が余儀なくされる」という。そして[8]は、「貿易の自由化」などが進められるなかで、農民がいだく不安は一刻一刻と強まり、村を追われている。その「底流」をなす「時代」の「動き」のなかで、どうにかして人間らしく生きようともがいている佐藤の鼓動と叫び声が聞こえる。
〇[5]のなかに次のような一節がある。あえて引いておきたい。

農民も人間であるという主張を通し、生きていくための仕事であり、職業であるものをうんと大事にしていかねばならない。いままでのわたしたちは、生産、と価格、それを別々に考えていたように思われるが、自分の生産したものに対する正当な価格の要求は、生きる権利への要求であるのではないか、と、ほんきになって考える。(145ページ)

〇私事であり蛇足であるが、筆者(阪野)は父と向き合って会話をした記憶がほとんどない。しかし、「百姓ほどバカバカしい仕事はない。汗水たらして作った野菜の値段は、自分ではなく、他人によってつけられる。ときには肥料代にもならない。大雨や大風で、それまでの努力が一日でふいになる。百姓にだけはなるんじゃないぞ」。この口癖をいま、思い出している。父が野菜をリヤカーにのせて市場に運んでいった翌日、自転車のペダルを2時間近くもこいで「仕切り(金)」をもらいに行く。小学生の頃からの、筆者に課せられた仕事であった。ズボンのポケットに入れて持ち帰るのはいつも小銭であった。そして、その金額を知ったときの落胆した父の顔が、いまも脳裏に残っている。
〇[6]のカバーの「裏そで」で、佐藤は次のように述べている。「いま、村に居続けたことを、ぼくは、これでよかったと思っている。大きな味噌蔵こそ持てない暮らしだったが、山里ゆえのゆたかさを満喫しながら生きてきた」。そう思うのは、佐藤の「反権力の闘争心」や「深く広い思考」、「鋭い分析と表現力」、そして「豊かな感性」などに拠るのであろう。それに比して、筆者の両親は「ゆたかさ」を感じたときがあったのであろうか。何かを祈る「ゆとり」など、まったくなかったのではないか。それ以前に、「祈り」について知ることも、考えることもできなかったのではないか。
〇以下は、筆者が読んだ佐藤の8冊の本のなかで、一番好きな一節である。福寿草の生きざまとともに、土の温もりや豊かさを感じる。複数の地域(農村や都市)で「まちづくり」や「福祉教育」に関わってきた筆者にとって、その意味するところは深い。心に刻んでおきたい。

福寿草は残雪を割るようにして芽を吹き出し、花を開く。咲いた花はガリガリと凍る強い霜が降りても、その冷たさに萎(しお)れることもなく強く生きる。そして黄金色に輝きながら派手ぶることもなく黒い土に根を据(す)えて地味に生きている。そんな姿を見ていると、自らの過去にそれを重ね合わせ、悔(く)いというか罪というか、それ以上に自らの惨(みじ)めさのようなものが胸を締め付けてくる。
福寿草は土を選ぶのか、吸う水に好き嫌いがあるのか、とてもよく繁(しげ)るところと育ちにくいところがある。その植生は花のやさしさにも似合わぬ頑固さを想わせ、表には立たないが、それでいて頑(かたく)なな精神を宿している。
だがその頑固一徹そうな草花であっても、他の雑草が繁ってくると、その居場所を他の草に譲(ゆず)るようにして身を隠してしまい、どこに生えていたのかもわからなくなる。([4]75~76ページ)