「雑感」カテゴリーアーカイブ

「偏見」を助長し、「逆差別」を生み出す福祉教育実践

福祉教育の研修会で、重度の身体障害のある女性の講演を聞くことになりました。彼女は、普段あまり見かけない車椅子に乗って、颯爽(さっそう)と登壇し、美しい声で話し始めました。舞台の脇には、マネージャーと思われる人がそれらしい姿で立っていました。講演の終盤に差しかかると、彼女は色紙にサインをし、最後には花束を抱えて、満面の笑みを浮かべながら退場していかれました。まるでアーティストの全国ツアーのひとコマのようでした。講演は、自身の著作に記されている過去の “出来事” についての話に終始していました。その内容は、「ありがとう」「笑顔」「支え合い」「絆」をキーワードに、自分の “生い立ち” とこれまでの “頑張り” を説く、その場限りの「人生の応援歌」でした。
  
学校における福祉教育実践の場で、脳性マヒ者の男性の講話を聴く機会に恵まれました。彼は、地域・地元で偏見や差別と闘っている普段の、普通の暮らしについて話し始めました。生徒たちは、彼の吃りながらの、重みのある一言一言に何かを見出 し、何かを掴みとろうと、真剣に耳を傾けていました。講話の内容は、障がい者は特別の存在ではなく、健常者と障がい者が共に「活きる」ためには、互いを知りあうことが大切である。とりわけ障がい者は、地域社会の一員として、地域のみんなに自分の意思を伝えることが大事である。それが、明日につながる、福祉のまちづくりのための障害者運動である、というものでした。講話が終わると、彼は、一杯のお茶をストローで啜(すす)り、車椅子に乗ってひとりで帰っていかれました。

筆者(阪野)は、彼女と彼の生き方については、とやかく言えないし、言うつもりもありません。このことを断ったうえで、あえて言えば、彼女の基調講演と彼の講話が、ともに社会福祉協議会の催 しによるものであることが気にかかります。両者の違いについて考えるなかで、関係者の「福祉教育観」を厳しく問い直す必要があるのではないか。そして、これまでの福祉教育実践は、障害や障がい者に対する「偏見」を助長し、「逆差別」を生み出 してきたのではないか。また、障がい者間の偏見や差別の問題を見過ごしてきた、いやあえて避けてきたのではないか。そんなことを考えてしまいます。また、それ故にか、彼の、福祉のまちづくりをめざして 「 共に『活きる』 」、 という言葉の重みが心に響きます。それは筆者だけでしょうか。

「福祉」と “ふくし” 、そして幸福学

昨年8月にH県社協で行った講演後に、受講者のお一人(民生委員)から「福祉」と「ふくし」のことに関していま一度確認したい旨のご連絡をいただいておりました。そのことが、2013年12月末にその年の手帳を読み返していた折に分かりました。遅ればせながら、次のように回答させていただきます。

「福祉」・・・「だんの らしの あわせ」「ふくし」
「しあわせ」・・・「満足していて、楽しいこと」
「福祉」・・・自分の、そしてみんなの「ふだんの くらしの しあわせ」(「ふくし」」)について、「いま」「ここで」、自分で、そしてみんなで「考え、汗を流すこと」

「しあわせ」(「幸福」)に関して、付け加えておきます。
ご案内のように、「幸福」(happiness、well-being)についての科学的な研究(「幸福学」)は、20世紀後半以降、心理学をはじめ経済学や社会学、医療や福祉の分野などで進められてきています。その用語や概念については、多義性をはじめ多様性や重層性、そして曖昧性をも多分に含んでいるといわざるを得ません。
一般的には、「幸福」は、「主観的幸福」(subjective well-being)と「客観的幸福」(objective well-being)に分けられますが、前者は「ネットワーク」「思いやりの心」「帰属意識」、後者は「健康」「所得」「地位」などをそれぞれ内実・要素として構造化されると考えられます。また、それらの関係をあえて図示するとすれば、図1のようになるのではないかと思います。
なお、蛇足ながら、「満足していて、楽しいこと」に関して、happiness(幸福)には「楽しさ」という意味もあります。また、19世紀のスイスの哲学者であるH.F.アミエルは「幸福の真の名前は満足である」といっています。さらに、生活満足度(life satisfaction level)は、生活の豊かさやゆとり、その質などに関する生活者本人による主観的な査定に基づくものであり、幸福度(happiness level)は「満足」をベースにした、生活者本人の健康状態や社会的境遇などによる心情的な評価に基づくものである、と考えられます。

「幸福」についての研究には、そのひとつとして、ソーシャル・キャピタル(社会関係資本:Social Capital、以下「SC」と略す。)についての研究枠組みやそれに関連する知見が「使える」のではないかと思料します。そこで、以下に、かつて筆者(阪野)がSCと市民福祉教育(Citizens Socio-education)に関して記した拙文を、多少長くなりますが、再掲します。なお、「教育」は、それによって環境やその変化への適応を可能にするという意味において、間接的に幸福に寄与することもある。しかし、教育自体としては主観的幸福(感)との関連性はほとんどない、という言説もあることを付記しておきます。

〇SCとは、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(network:社会的つながり)と、そこから生まれる互酬性の「規範」(norm:「~べきである」と表現することのできる行動や判断の基準・手本。法律や道徳・倫理・ルール・慣習など)、それに一般的な人々に対する「信頼」(trust)の3つの内実・構成要素からなる状態をいう。3つの関係については、「ネットワーク」は「信頼」や「互酬性の規範」(norms of reciprocity:お互いさまの支えあい)を生み、「互酬性の規範」や「ネットワーク」から社会的な「信頼」が生まれるというように、互いに他者を増加・強化させる関係にある、といわれる。それは、SCが多く蓄積されている地域・社会では、豊かなネットワークのもとに人々の協調行動が起こりやすく、人々は互いに信頼しあい、互いに支えあって、地域・社会の発展を促す、という論理である(R.D.バットナム)。
〇SC論の中心には、人々の「個人的つながり」あるいは「社会的ネットワーク」は価値のある財産(「公共財」)である、という前提が据えられている。これは、イギリスのことわざである「(大切なのは)何を知っているかでなく、誰を知っているかだ」(It is not what you know but who you know )に通ずるものでもある。
〇SCと市民福祉教育の関係について論じる場合、先ずは、SCの形成にとって市民福祉教育はどのような役割を果たすのか、市民福祉教育の展開にとってSCはどのような意味をもつのか、ということが問われよう。
〇SCの醸成・蓄積・向上によって人々のつながりや社会的ネットワークが豊かに構築されるところでは、人々の、福祉の(による)まちづくりやそのための市民福祉教育への関心や理解、参加はその度合いを高める。また、福祉の(による)まちづくりや市民福祉教育への関わりが高い人々は、パーソナルネットワーク(個人を中心とした他者とのネットワーク)や社会的ネットワークとの親和性や価値を高め、SCの蓄積・向上を促すことになる。
〇地域に根ざした、地域ぐるみの豊かな市民福祉教育の実践はSCを形成する。豊かなSCの蓄積は、より豊かな市民福祉教育の推進につながる。換言すれば、SCは市民福祉教育を推進するためのひとつの資源であり、またSCを醸成するプロセスは市民福祉教育の推進のプロセスの一部でもある、といえよう。その点において、市民福祉教育の進展の度合いは、SCのひとつの指標になり得るといってよい。
〇SCと市民福祉教育の関係は相乗的に互いを促進しあう関係(好循環関係)になり得るが、場合によっては、その関係性がマイナスに機能することもある。例えば、前近代的な小地域において、人々の旧来のつながりが強いところでは、福祉の(による)まちづくりやそのための市民福祉教育の関心や理解、参加は抑制される。情報提供や意見交換、社会参加活動が普段のインフォーマルな関係のなかで事象的にはスムーズに行われるがゆえに、それがかえって計画的な福祉の(による)まちづくり施策の推進や系統的な市民福祉教育の展開などについての認識や理解を鈍らせることになるのである。
〇SCは、それ自体の醸成・蓄積を図るための取り組みのなかから形成されるものではない。それは、人々が抱える生活問題やその重要な一部分である福祉問題の解決を図り、福祉の(による)まちづくりを進める取り組みを通して、統治パフォーマンス(遂行能力)を高め、より良き統治を実現する、その過程のなかから生まれるものである。
〇SCと市民福祉教育の関係については、図2のように示すことができよう。
(『Lecture Notes 地域福祉・まちづくり・市民福祉教育』2012年、57~59ページ)

1月6日17時

障害は個性ではない―障がい者差別の解消に向けて―

『月刊福祉』12月号が届いた。2013年6月26日に公布された「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」について特集が組まれている。そのテーマは、「障害者差別解消法が意味するもの」である。天竜厚生会理事長の山本たつ子先生が「特集の視点」で次のように述べている。

障害者差別解消法第4条には、「国民は、(中略)障害を理由とする差別の解消に寄与するよう努めなければならない」と定められており、差別の解消の推進は、国民の責務としている。義務規定ではないものの、社会全体で取り組むべき性格のものである。法の規定や義務づけによって差別は解消されるものではなく、国民一人ひとりの理解と意識変革が必要である。(11ページ)

取り敢えずここでは、障がい者差別の真の解消には、「国民一人ひとりの理解と意識変革が必要である」という指摘に注目したい。障害者差別解消法には、その「理解」や「意識変革」を促すための具体的な条文規定はない。第15条で、「国及び地方公共団体は、障害を理由とする差別の解消について国民の関心と理解を深めるとともに、特に、障害を理由とする差別の解消を妨げている諸要因の解消を図るため、必要な啓発活動を行うものとする。」と定めている。しかし、この条文(「啓発活動」)も単なる修辞に過ぎなくなるとも限らない。2016年4月1日からの施行に向けて、今後、政府による「基本方針」の策定やガイドライン(対応要領、対応指針)の作成が行われる。「理解」や「意識変革」のための教育・啓発活動(福祉教育)についての熟議が、強く求められるところである。そして、それに基づく福祉教育(「市民福祉教育」)の現実的で具体的な推進方策の探究と提案・実施を期待したい。

障がい者差別に関して、福祉教育の実践場面ではいまだに次のようなことが語られる。

「Bさんがもっている障害は、Bさんの個性です。皆さんもそれぞれ、個性をもっています。障害をその人の個性と考えれば、障害のある人を特別視することはなくなります。」

ここで問われるのは、障害イコール個性なのか。それは耳触りの良い言葉ではあるが、その考え方が、障害や障害のある人に対する無知や無理解、誤解、偏見や差別などを生ぜしめているのではないか。場合によっては、障害のある人を無意味に美化することに繋がらないか。その人に特有な特徴や性格を個性というとすれば、それはその人の価値観・世界観に基づく、その人らしい行動や考え方、生き方に見出される。またそれは、その人の生い立ちや地域・生活環境によって異なる。障害の有無にかかわらず、誰もが、その人の生命(生きる力)や生活、人生によって個性を形成し、発揮する。しかも、その個性は多様であり、多様性のなかにこそその本質がある。これまでにありがちな抽象的で理念的な「障害個性論」を唱えている限り、福祉教育による「共生社会」の創造はかなわないのではないか。障害は、男性と女性、子どもと高齢者などと同様に、そうである人の身体的・精神的・社会的・政治的・文化的な「属性」(そのものが有する本質的な特徴・性質)の“ひとつ”に過ぎないと考えるべきではないか、等々である。

「Aさんは重度の障害をもちながらも、その障害を乗り越えてあんなにも頑張っている。障害のない、恵まれている皆さんが、障害のある人に対して思いやりの心で接するのは、人間として当然のことです。」

ここで問われるのは、障害はすべて、乗り越えなければならないものなのか。乗り越えなければならないバリア(障壁)をつくっているのは、一体誰か。「障害のない、恵まれている人」イコール「優等者」「強者」か。「障害のある、恵まれない人」イコール「劣等者」「弱者」か。優等者から劣等者、強者から弱者への思いやりは、一方通行の、上から下への思いやりではないのか。障害のある人が、「障がい者」としてただ生きる(存在する)ことの意味は何か。障害の有無にかかわらず、誰もが、いかによりよく生きる(実存する)かが問われるのではないか。それによってこそ、自尊心や自己肯定感、生きがいなどを持ち、保ち、高めることができるのではないか。ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンは空念仏となっていないか。こうした問題意識を深め、課題を追究し、その解決を図ることによって、真の「共生社会」への道が開かれるのではないか、等々である。

調査データの構造化と研究論文の内容構成

某大学の学生からメールが届きました。学校における福祉教育をテーマに、教師や生徒を対象にした意識調査と当該学校における福祉教育実践の実態調査(事例研究)を行いたい。そこで、調査結果を整理・分析する際の枠組みと、論文の内容構成について知りたい、というのがそれです。
福祉教育に限定するものではありませんが、とりあえず、筆者(阪野)がかつて学生に提示していたものの一部 (「調査データの構造化のためのマトリックス」「研究論文の基本的構成」) を以下に記します。

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小さな「サロン」から一言

筆者(阪野)はいま、セカンドライフを楽しんでいる。人生設計通りの定年退職を機に、無為徒食や晴耕雨読といった暮らし方ではなく、これまでとは違った人生はないものかと考えた。不遜ながら、これまで“一所懸命”に取り組んできた「市民福祉教育」に関しては今後も若干の意見提示は続けるとしても、である。
そこで、4月早々にスイミングスクールに入り、いまでは新しい仲間もでき、週2~3回、スイミングを楽しんでいる。以下は、その仲間たちとの会話の一コマである。いろいろな暮らしと人生が見えてくる。

「俺は何もすることがなく、ここに来るのが仕事のようなもの。毎日2~3時間近くプールで泳いだり、みんなと話したりしている。月6万円ほどの年金で、会社勤めの40歳代の息子と、二人で細々と暮らしているのだが、ここが楽しい。」(70代後半・男性)
「大病を患ったこともあり、健康維持のために午前中は市立体育館でストレッチや筋力トレーニングを行い、午後はプールに来ている。実は『馬に人参』で、俺にとっての人参は晩酌だよ。」(70代前半・男性)
「数年前に夫を亡くしたが、一人暮らしのことを考えるとき、健康への投資だと思って入会した。1日500メートルを目標に、頑張って泳いでいる。来月はこのスクールで知り合った友だちと東京見物に行きます。」(70代後半・女性)
「マスターズ水泳大会での上位入賞をめざして、ほぼ毎日3000メートル泳いでいる。この前、初孫が生まれ、私もおばあちゃんになった。」(60代前半・女性)

このような会話を思い出したのは、今朝(10月14日)の地元新聞の「スポーツクラブ/70代、4割所属」という二段抜き主見出しと、「体力づくりに有効」という袖見出しの、次のような記事が目にとまったからでもある。

「地域のスポーツ同好会やフィットネスジムなどのスポーツクラブに所属している成人の割合は年齢が上がるほど増え、70代で40%前後となることが13日、文部科学省が体育の日を前に公表した2012年度体力・運動能力調査で分かった。時間に余裕のある高齢者層が積極的に運動に取り組んでいるためとみられる。」
「調査によると、スポーツクラブに所属する割合が最も高い年齢層は70代前半女性の44%。男性は70代後半の41%が最高(以下、略)」。

筆者は、自分のこととしても、こうした高齢者のスポーツ活動が人と人との新しいつながりを生み、それがまた次のつながりを呼び、その人の暮らしや人生を豊かなものにするという連鎖が起きることを期待している。これまでの福祉活動が、高齢者や障がい者などのスポーツ活動や学習・文化活動の振興とそれに基づくライフの質的向上について十分に取り組んできたかといえば、必ずしもそうはいえない。その際の、ライフの“質”とは、「生命の尊厳」(Sanctity of Life)と「生活の質」(Quality of Life )、併せて「人生の豊かさ」(Abundance of Life)をいう。
高齢者分野で始まった生活支援サービス活動のひとつに、「ふれあい・いきいきサロン」活動がある。全国社会福祉協議会が1994(平成6)年に提唱した活動である。「ふれあい・いきいきサロン」は、高齢者だけでなく、障がい者や子育て家庭など、誰もが楽しく気軽に参加できる「地域住民によるつながりづくりのきっかけの場」「地域の居場所」として、全国に5万2000か所を超え大きな広がりを見せている。
全国社会福祉協議会発行の『ふれあい・いきいきサロン』(生活支援サービス立ち上げマニュアル第4巻、2012年)には、「サロンは多種多様ですが、『自分の気の合う人たちだけで行う活動』ではなく、『地域の誰もが参加できる活動』でなければなりません。『地域の人たちに親しまれる場をつくる』という原則がサロンではとても大切です」(26ページ)と記されている。筆者を含め、上述のスイミング仲間にとって、スイミングスクールは心地よい「居場所」である。仲間たちは、「気軽に」「無理なく」「楽しく」「自由に」(44ページ)、そして「健康維持」のために泳いでいる。プールに出かけて行くこと自体が「心のハリ」(20ページ)をもたらしてくれる。ときには普段の生活の困りごとについて話し合う。そこはまさに「サロン」である。この小さなサロンを、全国社会福祉協議会がいう生活支援サービス活動のサロンのひとつとして、あるいはそのサロンを「立ち上げ」るためのひとつとして考えることは無理であろうか。筆者は、今後の自分自身の暮らしと地域における生活文化や福祉文化を醸成するひとつのプラットホームとして位置づけたいのだが。

地域福祉推進の基本的視点―福祉教育実践の内容と方法を考えるために―

5月27日にアップした 雑感(5)―『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」 を読まれた当研究所のブログ読者から、「地域福祉は、福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれるが、先ず「地域福祉」について考える際の基本的な視点や枠組み等に関する見解を急ぎ知りたい、という旨のメールをいただいた。とりあえず、以下のように回答します。

筆者(阪野)は、福祉教育の視点から「地域福祉」について講ずる場合、大橋謙策先生の『地域福祉論』(放送大学教育振興会、1995年)を主要文献として紹介し、また使用してきた。それは、岡本栄一先生の次の言説(理論分析・評価)に依拠したものでもある。
岡本先生は、地域福祉に関する諸理論を説明するに当たって、次の4つの「志向軸」を設定している。(1)コミュニティ重視志向軸、(2)政策制度志向軸、(3)在宅福祉志向軸、(4)住民の主体形成と参加志向軸、がそれである。そして、大橋先生の理論は、(4)の志向軸(「住民の主体形成と参加志向の地域福祉論」)に該当する、としている。なお、岡本先生にあっては、「志向軸」とは「地域福祉理論構成の軸足であり、柱である。各地域福祉論からすると、そこに独自性が現れているともいえるもので、いわば、それらにとっての特徴であり、強調点を意味している」(『地域福祉論』中央法規出版、2007年、10~20ページ)。
ところで、大橋先生は、上述の著書において、地域福祉を次のように定義(「整理」)している。「地域福祉とは、自立生活が困難な個人や家族が、地域において自立生活できるようネットワークをつくり、必要なサービスを総合的に提供することであり、そのために必要な物理的、精神的環境醸成を図るため、社会資源の活用、社会福祉制度の確立、福祉教育の展開を総合的に行う活動」(28ページ)である。そして、「地域福祉展開の考え方」として、次の10点を指摘し、説明している(31~34ページ)。(1)全体性の尊重、(2)地域性の尊重、(3)身近性の尊重、(4)社会性の尊重、(5)主体性の尊重 、(6)文化性の尊重、(7)協働性の尊重、(8)交流性の尊重、(9)快適性の尊重、(10)迅速性の尊重。
また、大橋先生は、別のところで、地域福祉についてさらに詳しく次のように述べている。「地域福祉とは、属性分野にかかわらず、自立困難な、福祉サービスを必要としている個人および家族が、地域において自立生活が可能になるように在宅福祉サービスと保健・医療・その他関連サービスとを有機的に結びつけるとともに、近隣住民等によるソーシャルサポートネットワークを組織化し、活用し、必要なサービスをその個人および家族の主体的生活、主体的意欲を尊重しつつ、“求めと必要と合意”に基づき総合的に提供し支援する活動であり、その営みに必要な住宅・都市構造等の物理的環境の整備、ともに生きる精神的環境醸成とを有機化し、総合的に展開することといえる」(『地域福祉の理論と方法』中央法規出版、2009年、36ページ)。
以下に、大橋先生の地域福祉の概念規定と「地域福祉展開の考え方」(10点)をベースに、筆者なりに援用、加筆したものを「地域福祉推進の基本的視点」として提示しておくことにする。なお、15の各項目については、内容的には相互関連性があり、重複するところがあることを予め断っておきたい。

地域福祉推進の基本的視点
(1)総合性
住民の地域生活を包括的・全体的にとらえ、求められる、また必要とされる事業・活動やサービスの展開や提供を総合的に行うことが必要である。
(2)地域性
住んでいる地域の歴史や伝統、特性に基づいた、また住民の生活実態や生活意識などに見合った事業・活動が展開され、サービスが提供できるようにすることが必要である。
(3)圏域性
地域福祉を推進するためには、住民の地域福祉生活圏域(エリア)を重層的に設定し、事業・活動の展開やサービスの提供の総合性と整合性が確保される必要がある。
(4)協働性
地域福祉の推進を図るためには、行政責任を明確にした制度的なサービスと住民のボランティア・市民活動との、一定の緊張関係が存続する有機的な連携・協働(共働)が必要となる。
(5)内発性
地域福祉は、行政主導による他律的・支配的発展ではなく、地域社会と住民による主体的で自律的な内発的発展の推進を図ることが必要である。
(6)主体性
地域福祉は、住民個々人の地域自立生活支援を目的にしているが、それを達成するためには、個々人の主体的・自律的な力量を高めることが必要である。
(7)身近性
身近な地区(小地域)において必要なサービスが気軽に利用できるとともに、身近な地域福祉活動やボランティア活動がそれぞれの地元で展開できるようにすることが必要である。
(8)リーダー性
豊かな人間性や優れた感性、リーダーシップや協調性、未来への先見性や果敢な行動力などをもった住民リーダーや組織リーダーを確保、養成する必要がある。
(9)迅速性
緊急事態に迅速に対応した、事業・活動の展開やサービスの提供・利用ができるようなシステムや行政組織を構築する必要がある。
(10)社会性
高齢者や障がい者も積極的に社会活動に参加し、社会的な交流と生きる希望や夢をもち、社会に貢献できる機会と場を作ることが必要である。
(11)交流性
老いも若きも、男も女も、障がい者もそうでない人も、多様な場・機会の創出やネットワークの構築などを通して日常的に交流し、活動することが必要である。
(12)快適性
高齢者や障がい者など全ての人が安全・安心で、快適に、いきいきと暮らせる“まち”や生活環境が整備される必要がある。
(13)文化性
生命の尊厳、生活の質、人生の豊かさ、という視点から、健康で文化的に、よりよく豊かに生きる(実存)ためのサービスの提供が考えられる必要がある。
(14)教育性
住民の、福祉の(による)まちづくりへの理解と関心を促し、そのための実践や運動に主体的・能動的・自律的に参加(参集、参与、参画)するための資質や能力の育成を図るための教育・啓発事業・活動が必要である。
(15)普遍性
地域福祉の推進をより確かなものにするためには、そのあり方や方向性などについて全国・世界規模で考えながら、自分の地域(地元)で活動・展開するという視点(グローカル)が必要となる。

「ウチ」「ソト」と社会的包摂

2013年3月、『社会的包摂にむけた福祉教育~共感を軸にした地域福祉の創造~』と題する「平成24年度社会的課題の解決にむけた福祉教育のあり方研究会報告書」が、全社協/全国ボランティア・市民活動振興センターから刊行された。それは、「従来の福祉理解・啓発のための福祉教育から、地域福祉を推進するための福祉教育、まさに次の段階(ネクスト・ステージ)を推進する時期にきている」(『報告書』3ページ。以下、「報告書」)という現状認識と、「社会的排除や社会的包摂、生活困窮者支援も視野に入れた今日の社会的課題の解決にむけた福祉教育のあり方を検討していく必要がある」(2ページ)という問題意識のもとに纏められたものである。報告書は、その第Ⅰ部で理念的な整理、第Ⅱ部で3つの実践報告、そのうえで第Ⅲ部では、地域福祉を推進する福祉教育の「新潮流」や、めざすべき「地域」像、社会的包摂にむけた福祉教育の具体的な「展開」、そしてそれらを実現あるいは推進するために求められる社協や社協職員の“変革”、などについて言及・提示している。
ここでは、第Ⅰ部のうちから、筆者(阪野)なりに注目あるいは留意したい叙述の一部を取り上げ、それをめぐる若干の“想い”や“考え”などを述べることにする。

「社会的に包摂されるということは、その人にとって社会関係が育まれ、その人らしく過ごせる居場所があるということである。」(4ページ)
「社会的孤立をなくすための施策として、『居場所と出番』が必要だと言われるが、それ以前の、居場所に行きたいという意欲や、出番がほしいという動機をどう持てるようになるか、そこへの支援が必要である。(中略)そのための具体的なアプローチのひとつとして、本人と地域に働きかけていく福祉教育に期待したい。」(5ページ)

誰もが一人の人間として、そして何よりも地域社会を構成する一人の住民として、今を、いきいきと、豊かに、尊厳をもって、“よりよく”暮らすことができるためには、「居場所」のみならず、「要場所」こそが必要かつ重要である。人は、地域において多様で、豊かな社会(人間)関係をもつことによって、他者からの役割期待に気づき、それを取り入り、その期待に応えるべく役割遂行を果たそうとする。そこから、他者や社会から必要とされている自分を覚知し、自分が存在する価値や自分らしく生きる意味を見出すことが可能となる。人が“よりよく”生きる(実存する)ためには、単に“居(い)る場所”があるだけでなく、地域社会のなかで自分を活かす・活かされる“要(い)る場所”が必要なのである。報告書が指摘する「出番」が含意するところでもあろう。

「やや批判的にソーシャルインクルージョンを捉えるならば、『誰が、誰を、どんな目的で、どのように包摂しようとしているのか』ということを考えておかなければならない。包摂する側と包摂される側の緊張関係と、なにより包摂される側の権利が尊重されなければならない。同時に、包摂する側の意識が問われるのである。」(4ページ)
「私たち自身が社会的排除を生みだしてきたのではないかという疑問を持たずして、あるいは社会的排除の構造や要因に論及しないまま、社会的包摂だけを重要だと説いていても、地域は何も変わらない。むしろこれまでのように単に『同化』させることになってしまうかもしれない。」(4ページ)
「社会的包摂とは、けっしてみんなを同じ価値観や生活様式に同化させることではなく、その人らしさ、あるいはお互いの違いを認めあい、共生していく姿である。福祉教育では、一人ひとりの違いと同じを大切にしてきた。同時に、違っていても『仲間外れにしない』という非排除の原則が前提になければならない。このことは、人権を基盤に共生の文化をつくるというノーマライゼーションの考え方である。」(5ページ)
「社会的排除は制度によってすべて解決できるのではなく、究極的には排除しない地域や人間関係をどう構築するかが求められるのである。そのためには、排除しないという地域住民の意志が大切であるし、そのための社会福祉の学びが不可欠である。すなわち地域を基盤とした福祉教育が重要な役割を有する。制度と専門職だけでは、社会的排除の問題は解決しないのである。」(4ページ);

武川正吾(東京大学)によると、社会的排除(social exclusion)と社会的包摂(social inclusion)という対概念は、例えばフランスでは、1970年代以降、「社会的不適応者」(薬物依存者や非行少年など)や若年長期失業者、移民労働者など、既存の福祉政策・制度・サービスの埒外に置かれてきた人びとの抱える問題が「新たな貧困」や「社会的排除」の問題として認識されるようになった。その後、フランスだけでなくEU諸国において、社会的包摂に関する社会問題が「社会政策」として展開されてきた。日本では、2000年頃から、社会福祉の新しい理念として、それまでのノーマライゼーションに代わって(あるいは加わって)、インクルージョンについて議論されるようになった、のである(武川正吾『福祉社会―包摂の社会政策』有斐閣、2001年、328~329ページ)。
周知の通り、ノーマライゼーション(normalization)は、「普通の生活」「共生」などを追求する社会福祉の根本的な理念のひとつである。それは、デンマークで、1950年代前半に知的障がい者をもつ親の会が取り組んだ「運動」に端を発している。日本では、1970年代後半頃に紹介され始め、とりわけ1981年の国際障害者年(「完全参加と平等」)と、それに続く1983年から1992年までの「国連・障害者の十年」などを契機に普及することになる。
福祉・教育関係者を中心に、こんにち、基本的な考え方や理念として支持されているソーシャルインクルージョンやノーマライゼーションは、いずれにしろ、EU諸国や北欧から移入されたものである。
ところで、日本人の人間関係には、「本音」と「建前」の二重基準(ダブルスタンダード)もその類であるが、「内(ウチ)」と「外(ソト)」の二面性をもつところにひとつの特殊性がある、といわれる。その点をめぐって、例えば、上田恵津子(京都ノートルダム女子大学)は、土居健郎の「甘え」の構造(弘文堂,1971年)や井上忠司の「世間体」の構造(日本放送出版協会、1977年)などの言説から、日本人の人間関係は、一般的に、「三層から構成されるものと想定することができる」として、3層構造論を説いている。「『内』に親しい身内や仲間の世界、『中間』に遠慮や義理や体面がからむ知人の世界、『外』に無縁の他人の世界」(上田恵津子「Self‐Focusと『他者』―日本人の自他関係の枠組みから―」『大阪大学人間科学部紀要』第22巻、大阪大学、1996年、391ページ)、というのがそれである。
社会的排除と社会的包摂は、一面では、排除=「外」部化、包摂=「内」部化を意味する。その際、「包摂」は、「共生」という美しい響きの言葉と相俟って、ひとつの理念や建前としてのそれに留まる。また、それは、マイノリティー(社会的弱者)をマジョリティー社会に「調和」あるいは「同化」(画一化、没個性化)させる。そして、その社会で生じるであろうリスクを予め回避するためのツール(道具)になる、といった危険性を孕んでもいる。
そこで先ず、基本的に求められるのは、上田がいう日本人に特有の人間関係(「内」「中間」「外」の3層構造)についての客観的で総合的な認識と理解である。誤解を恐れずにいえば、ソーシャルインクルージョンやノーマライゼーションの移入文化・翻訳文化の日本化、さらには地域化である。いまひとつ基本的に求められるのは、報告書もいう、包摂における住民の異質性や多様性の許容と共有である。そのうえで、(1) 社会的排除の主体と客体、排除の歴史と実態、排除に対する包摂の社会政策などについての理解。(2)排除されている集団・社会と包摂されている(される)集団・社会のそれぞれに内在する、偏見や差別、不平等などの反福祉的状況とそれを生み出す背景や構造、多様で複雑な要因についての個別具体的な実態把握と理解。そして(3)それらの過程を通して、排除と包摂が抱える問題を解決するために組織的・継続的な実践や運動に取り組むことができる住民(市民)の育成、などが求められる。以上の諸点は、学校における福祉教育にも十分に留意した「地域を基盤とした福祉教育」(筆者のいう「市民福祉教育」)の理念や構造、具体的な実践プログラムなどが問われるところである。
最後に、あえて次の2点をめぐって加筆しておきたい。ひとつは、包摂における住民の主体性や個性の尊重、異質性や多様性の共有に関してである。ここで、石垣りん(詩人)の詩について紹介することには多少の違和感を覚えないではないが、「仲間」と「表札」の一節である。「行きたい所のある人、/行くあてのある人、/行かなければならない所のある人。/それはしあわせです。」。「自分の住むところには/自分で表札を出すにかぎる。/自分の寝泊りする場所に/他人がかけてくれる表札は/いつもろくなことはない。/精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい。」(『石垣りん詩集 表札など』童話屋、2000年)。心にしみる、心の奥底にまで達する一言一句である。
いまひとつは、報告書が「社協はどう変わらなければならないか」のなかで指摘する次の一文である。「社会的包摂にむけた地域福祉を推進していく際には、黒子としてではなく、ワーカーの想い、意志、考え方などのワーカーの顔をしっかりと見せていくことが大切である」(18ページ)。この点に関して、叱責を受ける覚悟であえていえば、社協や社協職員はこれまで、コミュニティワークやコミュニティソーシャルワーカーとしてではなく、「黒子」という名のもとで、結果的には、地域や住民に「丸投げ」し、それを通して「管理」「監督」し、「調和」「同化」を促す側の立場に立っていたのではないか。それでは、地域や住民は変わるはずがない。「無縁社会」では当然のことながら、逆に血縁や地縁、そして序列の人間関係(風土)を今も残している地域においてもまた、それ故に然りである。

『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」

筆者(阪野)は、自治基本条例の制定に関して、松下圭一の著作を複数冊読み返す機会を持った。その際、手元にあった『社会教育の終焉』(筑摩書房、1986年)、『同書(新版)』(公人の友社、2003年)を併せて再読してみた。以下は、その読後感の一部といったようなものである。ちなみに、松下は、「シビル・ミニマム」(自治体の政策公準)や「官僚内閣制」(官僚が内閣の政策に強い影響力を及ぼしている状態)の造語でも著名な政治学者である。
松下の社会教育終焉論の問題意識は、「なぜ、日本で、〈社会教育〉の名によって、成人市民が行政による教育の対象となるのか」。「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない、道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」(『社会教育の終焉(新版)』3ページ)というところにある。要するに、そこには、政府ないし行政の「社会教育」への介入と、それによる「上から」の思想統制(「国家統治・国民教化」)、「教育という名の『生涯管理』」(118ページ)への嫌悪感がにじみ出ている、といってよい。
松下にあっては、「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育」を意味する。「今日の日本ではこれは高等学校水準」(3ページ)である。教育という言葉は、「未成年への〈基礎教育〉、あるいは未成年・成年を問わず特定社会の文化水準の習熟に不可欠な〈基礎教育〉のみに、限定すべき」(86ページ)ものである。そして、農村型社会を経て都市型社会の成立をみるにいたった今日、日本の国民は、「政治主体たる市民として『成熟』しつつある」。社会教育行政やその理論は、「国民の市民としての未熟を前提としてのみ、成立しうる」が、その前提はすでに破綻している。もはや、成熟した市民は、政府や行政によって「オシエ・ソダテ」られる対象ではありえない(4ページ)。
こうした松下の主張に異論をはさむとすれば、松下は、教育を直截的に「オシエ・ソダテル」営みに限定する。そもそも、教育は、一方的に「教え育てる」だけの営みではない。環境醸成や条件整備による間接的な教育もある。また、教育は文化同化のみならず、文化批判や文化創造のための営みでもある。今日、グローバル化時代に求められる高等教育システムのあり方が厳しく問われている。都市型社会の成立は、確かに生活・文化水準の向上や都市的利便性の享受を促したが、生活や教育の私事化や人間関係の希薄化などをもたらした。都市型社会の形成という歴史的かつ外的な要因によってのみ市民の成熟化が促されるのでもなく、また現代社会における成人はそのすべてが「成熟した市民」であるとはいいがたい。しかも、「成熟」は、完成やゴールを意味するものではなく、漸進的で、多様なプロセスを経て促されるが、成熟が「衰退」を意味することもある。したがって、成熟は「再構築」の過程として捉えることもできる。このように考えるとき、松下の言説には、「都市型社会」や「市民」に対する積極的な評価や過度の信頼がある。すなわち、そこには批判的視点や分析が欠けている。それゆえに、松下が想定する「教育」は一方的・限定的であり、「都市型社会」はプラス面の強調にあり、「市民」は一面的あるいは表面的である。その結果、その言説はユートピア的かつ理念的であり、偏狭で乱暴な立論にとどまっている、といわざるを得ない。
ところで、社会教育は、「自己教育」「相互教育」を本質とし、その実践が展開される代表的施設のひとつは公民館である。この点をめぐって松下は、次のように説いている。
「社会教育行政は、市民の『自己教育』『相互教育』といいながら、歴史的には、実質的に教化手段に堕していた」(136ページ)。「成人市民の自己教育・相互教育はむしろ『教育なき学習』というべきである」。「そこには、市民の自由な『学習』があるだけ」(5ページ)である。市民の「教育なき学習」すなわち「自由な学習」とは、「市民みずからによる〈模索・たのしみ・創造〉における模索過程」である。それを「市民文化活動」と呼べばよい。その「市民文化活動とくに模索における内部契機として、学習は位置づけられる」(89ページ)。すなわち、市民の自由な「学習」は、「〈市民文化活動〉の「模索」の一契機にとどまる。学習は自己目的たりえないのである」(5ページ)。
松下は続けていう。成熟した市民を「オシエ・ソダテル」教育ないし社会教育は、今日、もはや不要である。「『教育機関』たる公民館では、市民は社会教育行政職員によって準備された学習という『給付』をうけるたんなる受益者にとどまりがちになる」(44ページ)。しかし、市民の、生活から政治までの学習をふくめた「文化活動が『多様化・高度化』し、また市民の文化水準が行政の施策水準をこえてきた」(162ページ)今日、成熟した市民の活力を、社会教育行政のいう職員による「指導・援助」や「運営・管理」の公民館にとじこめることはもはやできない(59、60ページ)。ここに、職員をおかない市民管理・市民運営の、「貸部屋」ないし「たまり場」(29ページ)としての「集会施設」「地域センター」がうかびあがってくる。「それはコミュニティ・センターとよばれるかもしれない」(60ページ)。
以上の言説に関してはまず、「社会教育の終焉」の論拠のひとつである「市民の文化水準」の上昇について、それを判断する尺度や方法をどのように考えるのか。しかも、文化水準の高い、教養ある人が、必ずしも民主主義の精神や態度が形成されており、人権意識も高いとは限らない、といいたい。
公民館不要論については、例えば、小熊里実の次の指摘(「公民館論と公民館不要論の論理的つながり―公民館研究者はなぜ公民館不要論に反論しなかったのか―」『教育学雑誌』第44号、日本大学教育学会、2009年、117~130ページ)に留意しておきたい。「公民館論」と「公民館不要論」は、どちらも住民―行政間の対立軸を前提としている。両者の違いは、地域社会の民主的発展の進捗状況をどう捉えるかという点にあり、公民館論では「未だ達成せず」、公民館不要論では「成熟した」と捉えているという違いである(127ページ)。「少なくとも権力対住民という対立図式に基づく住民・行政間の関係を前提とする論理は、時代状況を考慮すれば明らかに採用できない。むしろ、両者の緊張関係は認めながらも両者の関係をより対等(・協力:阪野)なものとしてとらえる『協働』という観点からとらえ直す必要がある」。そして、「地域社会の各構成員による協治(ガバナンス:阪野)を念頭に置き、(中略)現代的な意味での『民主主義の学校』としての役割を公民館に付与していく必要がある」(129ページ)。すなわちこれである。そして、ここで、公民館の職員と地域住民(学習者、利用者)が一体になって豊かな学習活動や地域活動を計画的・継続的に展開する公民館活動が、全国のあちこちに蓄積されていることを思い起こしておきたい。なお、松下は、「協働」について、「今日、市民主権に反して、市民と行政とのナレアイになりがちな流行の考え方による『協働』という言葉をもちいて、市民文化活動と社会教育行政との協働を論ずることはマチガイである」(「新版付記」250ページ)と断じている。「協働」という名の行政の「下請け」化や「補完」化は「マチガイ」であることはいうまでもない。
また、松下は、「市民教育」についても言及する。「市民が、社会教育行政を終らせてゆけばゆくほどそれに反比例して、市民自治による市民文化の形成となっていく」(214ページ)。「社会教育行政は今日では市民文化の形成の阻害要因といわざるをえない」。「市民文化活動をめぐっては、行政は市民自治を基体としてミニマムの条件整備をするだけでよいのである」(213ページ)。「もし、『市民教育』がなりたつとしても、この市民教育も教育であるかぎり、成人にたいしてではなく、未成年にたいしてのみである。この意味では、学校に『道徳教育』にかわる『市民教育』の導入を訴えたい」(214ページ)。未成年に対する(学校における)「市民教育の基本」は「学校ですでにおこなわれているいわゆる『課外』の自治会、サークル、行事への参加の活性化」(215ページ)である。
「成人市民には、『市民教育』ではなく、現実の『市民参加』になる。市民参加には市民文化活動そのものが基盤となるとともに、これにくわえて自治体ことに基礎自治体としての市町村を中心に、(1) 市民行政=ボランティア・コミュニティ活動の展開。(2) 市民立案=政策ないし計画への批判・参画。(3) 市民決定=選挙ないし政党の選択。という参加が不可欠である。この過程で、市民はそれこそみずから教育なき『学習』つまり模索をふまえて、たのしみながら、創造をするのである」(215ページ)。
「市民自治」「市民教育」「市民参加」をめぐる以上の主張は、かなり楽観的なものである。学校における市民教育を適切かつ十全なものにするためには、「課外」活動としてのそれだけではなく、全教科・全領域における「教育」が基本となる。成人市民の全てが主体的・自律的に市民文化活動や市民参加をすすめるとは限らない。参加の過程を通して「学習」することはあるが、活動へのひとつの参加条件として、成人市民に上記の(1) (2) (3)の「市民参加」を促す契機や営みは依然として必要である。そのためのひとつに社会教育(その一環としての市民福祉教育)があることは排除できない。高度化・複雑化した都市型社会の地域における課題の解決と魅力の伸長、すなわち「地域づくり」の推進を図るためには、いわゆる「一般市民」だけでなく、むしろ専門的な知識や技術・技能を備えた「市民エリート」(坂本治也『ソーシャル・キャピタルと活動する市民』有斐閣、2010年、136ページ)を必要とする。そこには主体形成としての「教育」は欠かせない。市民参加や市民活動が活発化したとはいえ、なかには「動員」や「下請け」といった擬似的な主体性や公共性の問題が存在する。それを回避するためには「教育」(「学習」)が必要となる。「教育」と「学習」の関係については、「教育は学習の指導である」。「学習のないところに教育はない」(勝田守一『能力と発達と学習』国土社、1990年、149~150ページ)、といえる。

付記
本稿のタイトルをあえて「『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」」としたのは、福祉と教育を取り巻く今日的状況と、福祉教育実践・研究の問題点や課題、あるいは限界などについての筆者(阪野)なりの認識のもとに、福祉教育の終焉論や不要論、あるいは代替論などが提起された場合、それに如何に対応し得るか、反論の視点や論拠をどこに見出し得るか、といった想いを表示したものでもある。「地域福祉は福祉教育ではじまり福祉教育でおわる」(全国社会福祉協議会、2012年)といわれる。また、全国社会福祉協議会は、「社協がやらねばだれがやる」(2006年)、「住民主体による地域福祉の推進のための『大人の学び』」(2010年)と訴える。社会福祉協議会は地域福祉推進の中核的な組織・団体として、十全にとはいわないまでも、本当に、福祉教育の機能を果たし、役割を担うことができるのであろうか。松下圭一は、公民館は不要であり、市民が自由に活動できる場としてのコミュニティ・センターがあればよいという。本稿のタイトルが含意するところをくみ取っていただきたい。

「くえびこ」に想う

「障害者ら団結 缶バッジ販売」という二段抜き主見出しと、「介護者不足、事業所閉鎖に立ち向かう」「福島21団体が事業化」という2本の袖見出しの、地元新聞の記事(3月6日)に目が留まった。そこには白石清春氏の写真が大きく掲載されていた。彼はいま、福島県郡山市で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表として、障がい者の支援活動や運動を展開しているという。
彼は脳性まひのために車椅子生活をするが、その強く、激しく、そして誇りある生きざまから多くを学んだのは、筆者(阪野)だけではあるまい。青い芝の会の運動、とりわけ川崎駅前でのバスジャック闘争(1977年)や養護学校義務化阻止の運動(1979年)の顛末については、地域作業所やときには居酒屋などで彼から聞いている。
筆者が彼のことを知るのは、彼が1980年6月に相模原市で「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成した頃である。その後、彼は、地域作業所「くえびこ」(1982年4月)やケア付き住宅「シャローム」(1986年6月)の開設などを通して、障がい者の自立生活運動に取り組む。そして、1989年に郡山市に戻る。彼との直接的なかかわりは、5、6年のわずかな期間に過ぎない。
「脳性マヒ者が地域で生きる会」は、脳性マヒ者など障がい者の基本的人権の確立をめざし、具体的には、障がい者の自立と社会参加を促す「制度改革」と、障がい者や地域住民が「地域」で「生きる」ことの理解と認識を深める「意識改革」に取り組むための組織であった。「くえびこ」は、企業などの下請け作業は行わず、脳性マヒ者などが地域で生きるための運動の拠点、また個々の障がい者が自立生活能力を身につけていくための地域・生活学習の場として位置づけられていた。ちなみに、「くえびこ」(久延毘古)とは、日本神話に登場する神(「崩え彦」)で、田畑に立って農作物を鳥獣から守る案山子(かかし)を意味する。
かつて筆者は、彼とのかかわりを通して、「障害者の自立と福祉教育」と題する拙稿を草したことがある。以下に、そのうちから、彼の取り組みに関するコメントと管見の一部を掲載する。

彼らの取り組みは、時には力強く、時にはしなやかに、そしてなによりもしたたかである。彼らは、主体的な自己学習・相互学習をとおして、障害者がおかれている歴史的・社会的状況を科学的・客観的に認識する。そして、さまざまな危険(リスク)に挑み、多くの失敗を経験しながら、自立生活を求めて、自己実現をめざして主体的に行動するのである。その際、地域住民との社会的連帯を形成し、社会的諸施策の決定過程に参加することを自立の要件の一つとしてとらえていることが注目される。(中略)
自立とは、日常生活における自己選択、自己決定、自己管理、そして自己実現の行為とその過程をいう。換言すれば、自立とは、日常生活のなかで、生きがいをもってその人らしく自主的・主体的に生きぬくこと、そのための努力をすることを意味する。したがって、それが必要な時には、積極的に他者に依存し、他者から援助や協力を受けることも自立といえるのである。
こういった障害者の自立は、人格の完成と自己創造、自己実現をめざす障害者自身の自己教育活動によって初めて可能となる。また、それは、地域住民の障害者に対する偏見や差別が解消され、地域生活主体としての障害者と一般住民の間に相互支援的な関係――社会的「連帯」が構築されることによって成り立つ。
自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない。ここに、福祉教育の本質的で実践的な課題がある(『福祉教育の創造』相川書房、1989年、144~146ページ)。

筆者は、市民福祉教育について言及する際に、福祉サービスの「利用主体」に対する福祉教育や、福祉の(による)まちづくりの「運動主体」形成を図るための福祉教育にこだわってきた。そのこだわりは、このコメントからも読み取れるように、彼の、障がい者自身による自立生活運動に対する思いや取り組みからの“学び”にあるのは確かである。

付記
およそ25年ぶりに彼と電話で話すことができました。お互いに、相模原市でのことを思い出すのに時間を要することはありませんでした。
白石清春氏のますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。

車椅子は乗るものであり、押すものではない

筆者(阪野)が学外ではじめて愚考を開陳したのは、1982年12月、島根県社協主催の「島根県社会福祉研究指定校連絡会議」であり、その時のテーマは「福祉の心と福祉教育」であった。2013年3月、福井県社協主催の「市町社協ボランティアセンター実践研究会」が開催され、そこで「学校と地域と社協がつながる福祉教育とは」というテーマで管見を述べる機会を得た。これが大学教員としては最後の講演となる。
会議の名称やテーマを一瞥しただけでも、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」への転換を読み取ることができる。ちなみに、福井県社協では、1978年度からおよそ30年間にわたって取り組んできた「福祉協力校指定校事業」を、2009年度から「地域ぐるみ福祉教育推進事業」に移行させた。その目的は、「市町社協において、学校を含めたさまざまな社会資源との協働により、地域を基盤として福祉教育の実践を行い、地域福祉の推進を図る」ことにある。また、福井県社協では、2012年度から、「地域見守りフレンズ育み講座」と「地域コミュニティパートナー養成研修」により構成される「地域支え合い体制づくり人材育成事業」を推進している(『月刊福祉』2013年3月号参照)。これも「地域ぐるみ福祉教育推進事業」(地域福祉教育)の一環と考えられる。
福井県社協主催の今回の実践研究会では、いつものことではあるが、筆者にとっても多くの気づきや学びがあった。そのひとつは、「車椅子は乗るものであり、押すものではない」という一言である。
福祉教育実践では、障害や高齢の擬似体験として、車椅子を活用したそれが実施されてきた。そこには最初から、障がい者や高齢者は一方向的な「思いやりの心」をもって対応すべき「弱者」(客体)である、ということが想定されているといってよい。したがってそこでは、障害のない者や若者の優位性が強調され、それを発揮することが期待される。とともに、福祉教育実践に求められるICFの視点が欠落しがちである、ことを意味する。これまでの福祉教育実践では、「思いやりの心」を表すものとして「車椅子を押す」ための知識や方法・技術を学ぶことに偏りがちであった。それはときとして、「思い上がりの心」を抱かせることに繋がった、などというのは言い過ぎであろうか。
車椅子に乗るのは、生活機能の向上を図り、豊かな生活や人生を送ろうとする障がい者や高齢者、そのひと本人(主体)である。それはまた明日の自分でもある。福祉教育実践の展開過程では、障害理解や障がい者理解、障がい者の暮らし理解などを踏まえて、「車椅子は乗るものであり」、そして「車椅子は押すものでもある」という理解と認識を螺旋階段を登るように促し、深めていくことが肝要となる。
なお、場違いな蛇足ではあるが、主体と客体の関係をめぐってボランティアの世界で多用される、動詞に近い文章に、May I help you ? というのがある。「何か手伝いましょうか?」といった意味であろう。その際の主語はあくまでも「I=私」である。したがってそれは、「I=手伝う者」と「you=手伝ってもらう者」という、立場を異にした者の間に上下関係を生ぜしめることにもなる。その関係を乗り越えるためには、お互いのあり様を認知し、共感、理解、受容するための感性(心に感じ取る受動的または能動的・創造的な能力)や思考(頭すなわち理性を働かせて考えること)、そして実践行動(ある考えや価値観に基づいた行為や生き方)、言い換えれば感性的認識、理性的認識、そして実践的認識が求められる。福祉教育が存立し、その内容や方法が問われるところである。