きょうという日

にがてなこと
やりたくないこと
あきらめたこと

いやでにげだしたこと
とちゅうで なげだしたこと
あとでしようと ほったらかしたこと

それは みんな ほんとは しなきゃいけないこと
しなきゃいけないって おもっていたことばかり
きょう しなければならないことを
さきのばしに したことで
またきょうの日を むかえた
そして きょうの日も なにもしないで またすぎる

いつも いつでもやれるんだと
あんじを かけていた
いいわけだけが うまくなった
そして いつのまにか あたりまえに しなくなった
だから きのうも きょうも あしたも なんにもかわらない

なにもやっても むだだと
さもさも わかったようなふりをして
なんにもかんがえない なんにもしない なんにもかわらない 
“わたし”

このままずっと こうしていたら どうなるんだろう?
とつぜん そんな気もちに おそわれた
なんだか あたまも こころも からっぽになったような気分
それが 生きてるってこと?

そんな“わたし”に ようやくいやけがさしはじめた
するか しないか かんがえてきめるのは “わたし”
“ない ない ない”という 
こころのからを わらなきゃいけないって 気づいたら
むずかしくかんがえないで こころのままに ちょこっとうごいてみよう
いままでとは ちょっとちがった“こころの景色”が 見られるかも…
そこにきっと 信じられそうな“わたし”が 見つかるかも‥‥しれない

えっ! だれかが“わたし”の手をにぎった!?