〇その場の「空気」を読んで、いとも簡単に同調あるいは妥協し、「勝ち馬に乗る」人がいる。その場の「空気」を読まず・読めず、自分の意見や態度を貫き通し、「我が道を行く」という気概がある人がいる。それはその人の個性や資質によるのか、その人が所属する集団や社会の対人的ネットワークや文化的特性によるのか。筆者(阪野)はしばしば、そのような場面に遭遇し、いろいろと考えさせられてきた。とりわけ昔ながらのムラ社会においては、強固な(そう評される)少数意見は「出る杭」として打たれ、ときには抜かれることにもなる。その意見は地域・社会に潜在化あるいは雲散霧消し、何事もなかったかのように見かけ上の穏やかな地域生活が続く。
〇日本社会はいま、超少子・高齢・人口減少・多死社会下にあって、「格差社会」「分断社会」「貧困社会」が進展している。さらに、コロナカ禍においてその厳しさが加速度的に拡大・深化している。日本の政治・経済は、新自由主義・国家主義体制のもとで、人々の生活の諸側面に破壊と統制(生活破壊と社会統制)をもたらしている。しかも、政治(政治家)と行政(官僚)の劣化は目を覆いたくなるほどに、留まるところを知らない。
〇そんななかで、政府によるメディア・コントロールが進み、政権にひれ伏して組織防衛に汲々(きゅうきゅう)とする既存メディアの姿がある。また、インターネットメディアの普及・拡大にともなって、マスメディア時代の(多数派意見としての)世論とは異なり、世論の多様化(分裂)や二極化(統合)が顕著になっている。
〇身近な地域や現今の社会で観察されるこれらは、本稿で取り上げる「沈黙の螺旋」現象でもある。
〇筆者の手もとに、E.ノエル=ノイマン著、池田謙一・安野智子訳の『沈黙の螺旋理論[改訂復刻版]―世論形成過程の社会心理学―』(北大路書房、2013年3月)がある。ノエル=ノイマン(1916年~2010年)は、ドイツの政治学者、世論研究者・実務家であり、1970年代以降のマスコミ・世論研究に大きな影響を与えた「沈黙の螺旋理論」で著名である。この理論(仮説)は、「自分の意見が少数派である、あるいはそうなりそうだと認知した人は孤立を恐れて沈黙し、逆に自分の意見が多数派だと認知した人は声高に発言する。その結果、少数派の意見はますます少数派になり、多数派の意見はますます多数派になっていく。その過程は螺旋的に循環する。そして同調圧力によって多数派の意見に同調する人が増え、多数派の意見が社会的に大きく顕在化し、『世論』が形成される」という議論である。周知の通りである。
〇以下では例によって、「まちづくりと市民福祉教育」を射程に入れながら、「沈黙の螺旋理論」のワンポイントをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
仮定(前提)―「準統計的能力」―
● 人々は自分の社会環境をよく観察しており、まわりの人々の意見に敏感で、また意見の趨勢の変化を感じ取ることができ、さらにどの意見が支持を増やしつつあり、またどの意見が支配的になりつつあるかを記憶にとどめることができる。(10ページ)
● 人間には意見風土(意見の分布状況や趨勢)を感知する素晴らしい能力(「準統計的能力」)があると推測でき、また公衆の注目を浴びるには何をすべきか理解している層もあれば、意見風土の圧力を受けるがままに沈黙させられてしまう層が存在する。(39ページ)
仮説―「孤立への恐怖」―
沈黙の螺旋理論は互いに独立した4つの仮説と、それら相互の関係に関する第5の仮説の上に成り立っている。
1. 逸脱者を孤立にさらすことで社会は彼/彼女に脅威を与える。
2. 人は孤立への恐怖を絶えず感じている。
3. 孤立への恐怖により、人は常に意見風土を感知しようとする。
4. この感知の結果が公的な場面での行動、特に意見の表明や沈黙に影響する。
第5の仮説はこれら4つの仮説が関連しあって、世論の形成、維持、変化がおこる。(235~236ページ)
「世論」とは何か―定義―
●「 世論とは、論争的な争点に関して自分自身が孤立することなく公然と表明できる意見である」。この定義は、複数の意見が互いに張り合っている状況にしか適用されないものであり、(理性的・合理的な)「世論」の基本的な定義である。(68ページ)
●「世論とは孤立したくなければ口に出して表明したり、行動として採用したりしなければならない意見や行動である」。この定義は、固体状になった・堅固に確定した伝統、道徳、なかんずく規範の領域におけるそれである。(69ページ)
● 意見や行動の様式が固定化すなわち伝統化・慣習化してしまった場合(68ページ)には、「 世論とは、自分が孤立したくないと思えば、公然と表明しなくてはならない態度や行動である。論争や変化の起きている領域では、世論とは自ら孤立の危険を冒すことなく表明できる態度を指す」。(209~210ページ)
● 「世論とは、ある社会の中で感情的、価値的負荷のかかった問題に関する人々の了解であり、しかも自分の立場を失ったり社会的に排除される脅威のもとで、個人や政府が少なくとも行動面で妥協することによって尊重すべき了解である」。この定義は、孤立の恐怖と相関する社会的な合意を強調するものである。(210ページ)
「沈黙の螺旋」現象―世論の発達過程―
沈黙の螺旋理論は、顔見知りの集団を超えた社会というところでも、合意から逸脱する個人を排除し孤立させる脅威が作用することを前提としている。他方、個人は多分に知るや知らずのうちに孤立への恐怖を抱いているが、これは天性のもの(「人間の社会的天性」)である。この孤立への恐怖から人々は、どの意見や行動のあり方が周囲で受け入れられるのか、また勢力を増しつつあるのはどの意見や行動様式なのかを常にチェックしているのである。この理論ではそのような評価を可能にするものとして準統計的能力の存在を仮定している。優勢意見の評価は意見表明の意図や行動そのものにまで影響する。自分の意見が合意の側に立っていると確信すれば、私的にも公的にも発言する勇気が出るだろう。たとえば、バッジやステッカーをつけたり、服を着たりといった目に見えるシンボルでその信念を表明するだろう。反対に、自分が少数派であると感じたときには慎重になって沈黙を守るようになる。こうしてついには、劣勢側の意見の支持者はハードコア層だけになってしまうか、あるいはやがてタブーと化すのである。(235ページ)
〇ノエル=ノイマンは、「沈黙の螺旋過程がその最終段階を迎えて大多数を呑み込んでしまってすら、孤立の脅威をものともしない少数者」(199ページ)、すなわち「ハードコア(層)」の存在について(必ずしも十分ではないが)言及する。ハードコア(「固い核」)は、沈黙がだんだんと広がっていくなかで、その場の「空気」や多数派の意見に気おくれすることなく、すなわち「集団思考」に陥ることなく「孤立への恐怖」を抑制して、確信をもって少数派の意見や異論を表明する人々である。彼らは、多数派意見の世論への「挑戦者」、沈黙する少数派意見の「代弁者」であり、社会変革のための存在となることが期待される。その際には、彼らが現に所属・準拠する組織や集団、地域コミュニティの価値観や規範、ネットワークなどが重要な役割を果たすことになる。また、政府によるメディア・コントロールが進む日本において「メディア(に)は、ある意見や立場を守る表現を提供する」(201ページ)ことが強く求められよう。別言すれば、権力と不正義に対する監視者としての使命と責任が厳しく問われる、ということである。留意しておきたい。
補遺
次の図は、本稿でメモった「沈黙の螺旋とハードコア」を概念図化したものである。参考に供しておきたい。