筆者(阪野)の、暮れから正月にかけての過ごし方は、ここ数年来、布団の温もりに包まれて分厚い本や別ジャンルの本、あるいは事典などを読むというものである。今年はなんと無謀にも、西田幾多郎の『善の研究』(1911〈明治44〉年1月)などのいわゆる西田哲学を読み返すことにした。「唯一の日本発の哲学」と評される西田哲学の本を読み返すといっても、文体も内容も難解極まりないことは痛感している。今回は、数冊の入門書や解説書も併せて読んでみたが、通読はしたものの、またもや大きな力で跳ね返されてしまった。そもそも、布団の温もりに包まれて読むという姿勢そのものが、不遜である。
周知の通り、西田の思想の根底・起点に「純粋経験」という概念がある。西田は、『善の研究』の第1編「純粋経験」第1章「純粋経験」の最初の段落で次のように述べている。
純粋経験は、「例えば、色を見、音を聞く刹那(せつな:極めて短い時間)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん:最も純粋なこと)なるものである。」(西田幾多郎/小坂国継 全注訳『善の研究』講談社、2006年9月、30ページ。( )内は筆者。)
この一節について、上記の小坂国継は、次のように解説している。
「主観と客観とが分離する以前の、統一的な意識状態を指して純粋経験というのである。それだから、純粋経験は『直接経験』と同義である。われわれがある対象を見たり聞いたりするその瞬間、われわれは対象と一体になっており、われわれと対象との間に間隔はない。
例えば、野山を逍遥(しょうよう)していて、思いがけなく野辺に咲く花が目に止まり、『あっ!』と驚きの言葉を発したその瞬間の状態が純粋経験である。その瞬間においては、私と花とは一体となっていて、そこには見る私もなければ、見られる花もない。ただ一つの事実があるだけである。」(『前掲書』476ページ)
要するに、純粋経験とは、主体と客体、主観と客観が対立する以前の経験であり、「知・情・意」(知性と感情と意志)がひとつになった経験である。それは、野辺に咲く花を見て、「私は花を見ている」「その花は野菊である」「その野菊は美しい」といった判断が生ずる以前の、「あっ!」と息をのんで直覚的に感じ取る瞬間、というのであろう。合理的かつ分析的な推理や思考によらない、それ以前の経験である。「あっ!」と息をのむ瞬間は、何も特別のものではなく、日常的に経験することでもある。
ところで、西田の大学での講義について、ひとつの面白いエピソードがある。西田は講義の途中でしばらく黙って考え込んだ後、急に「わからん!」といって講義をやめ、講義室を出て行った。学生たちも「わからん」ということに感動して教室を出た、というのがそれである。西田にとって講義は真剣な思索の場であり、学生にとってその講義は極めて難解であった、ということである(藤田正勝『西田幾多郎―生きることと哲学』岩波書店、2007年3月、82~83ページ)。
西田のそれと比ぶべくもなく、僭越至極であるが、筆者は、授業の際に学生には「緊張と集中」を求め、「関心と感動」を呼び起こす授業になるよう努めてきた。しかし、汗顔の至りであるが、学生に対して「あっ!」という純粋経験やそれらしき状態を生み出すことはなかった。筆者はしばしば、「伝わっていますか?」という“問い”を学生に投げかけた。学生に伝わっていなければ、伝え方に問題がある以上に、自分が真に「わかっていない」のである。赤面の日々であった。
そこで、筆者は、大学での授業では常に、次のような「自己点検・評価票」への記入を学生に求めた。その主要なねらいは、シラバス(授業計画)や実際の授業内容・方法などについて評価・反省し、改善することにあった。
はがき大のこの自己点検・評価票を丹念に読んでいたとき、「あっ!」と息をのんだことはしばしばであった。それが純粋経験やそれに近い状態であったといえるかどうかは別にして、教師冥利に尽きるものであったことは確かである。
付記
本稿を草することにしたきっかけは、大韓民国の慶北科学大学社会福祉科の尹貞淑教授によって阪野貢・木下康彦編著『福祉科教育法の構築と展開』(角川学芸出版、2007年9月)が2014年12月末に翻訳刊行されたことにある。尹先生とのやり取りのなかで、手元にある「福祉教育」に関するフォルダに「自己点検・評価票」がファイルされていることを思い出した。一片の紙に過ぎないが、何故か捨てがたい。
ところで、これまでの「福祉教育」研究は、一面では、全国各地で取り組まれている実践事例を掘り起し、それを咀嚼し、紹介することに汲々としてきた、といえばいい過ぎであろうか。紹介される事例のほとんどは、その基準を曖昧にしたままでの「先駆的」「モデル的」と評される実践である。事例の掘り起しや咀嚼の仕方が独善的な場合もある。しかも、その実践事例は、機が熟するのを待たずに流行おくれとなり、過去のものとなっていく。最近では、新しく紹介される実践事例の数も少なくなってきているように思える。自己点検・評価をベースにした、息の長い「事例研究」(「実践的研究」)を期待したい。