阪野 貢/「弱さ」と「多様性」―今中博之著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)は今中博之(いまなか・ひろし)氏から、新著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか―守り・守られる働き方のすすめ―』(晶文社、2022年4月。以下[1])のご恵贈を賜った。[1]は対話形式の本ではないが、読み進めるとしばしば今中氏が眼前に立ち現れ、親しく対話していることに気づく。またそのなかで、ときに自分の姿を見る(内省する)ことになる。鋭い論考によって、針で刺されたような痛みを覚えるのである。
〇[1]の主要な議論はチーム論である。そこでは、「デザインと社会福祉と仏教を行ったり来たりしながら」(24ページ)、働き方・仕事論や組織マネジメント・リーダーシップ論、そして生き方・人生論などが広く深く説かれる。しかもそれらは、今中氏の「デザイナーと障がい者とリーダー」としての多様な社会生活経験と幅広い教養、そして哲学・思想や社会学などの知識と言葉に裏付けられており、「私」を圧倒する。
〇今中氏の主張はシンプルである。「弱い人はお互いを守り合いながら長く生存できる。強い人を守る人はいない、強い人は生き残れない」。極論すればこれだけである。その際のキーワードは、「弱さ」と「多様性」である。今中氏はいう。「チームに一番必要なのは弱さである」。すなわち、人間はそもそも、弱い存在であり、弱いからこそチームを組んで生き延びようとする。弱く矛盾した存在としての個人が有機的につながることによって、チームは機能する。チームは強い人だけでは構成できないのである(9、113ページ)。
〇そしていう。「多様性を失ったシステムは崩壊する」。すなわち、共生社会はバラツキを是とする社会(多様性のある社会)であり、その違いをひとまとめにせずお互いを認め合う。違いが交差すれば違和感も生まれるが、それ以上に異なる視点が有効に機能し、新たな希望が見つかる。弱い人も強い人も、異なるものが異なるものとして共存・協働することが肝要である(17、103ページ)。今中氏のこうしたシンプルな思考が、みごとにコトの核心をあぶりだす。そして、「私」が「使える」モノを見出し、知見を導出し、管見を再構成するのを促し助けてくれる。小さくもあり大きくもある「喫茶店」(64ページ)での、今中氏との対話の魅力である。
〇筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の主体形成に関して、今中氏の「ソーシャルデザイン」と「チーム」についての論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

原点と視点
●個人のミクロ(小領域)的視点から、チームのメゾ(中領域)的視点を経て、社会のマクロ(大領域)的視点まで、一気通貫の幸せが実現できなければ、人の幸せはない。(12ページ)
●障がい者が生み出す作品や商品は「現代アート」であり、「障がい者アート」などとカテゴライズすることは、彼ら彼女らとその作品・商品の尊厳を否認することである。それは障害のあるアーティストに強烈なスティグマを与える。(32~33、130~131ページ)
●集団に多様性があるように見せかけるために「お飾りのマイノリティ」が選別されることがある。その「トークン(token:象徴)な存在」は、弥縫であり欺瞞である。(55~57ページ)
●「自立とは依存先を増やすこと」「依存症とは身近な他者に依存できない病気」(熊谷晋一郎)である。人はひとりで自立できないし、ひとりで自立してはいけない。障害の有無に関係なく、他者に依存することが自立である。(100~101ページ)

ソーシャルデザインとシーシャルデザイナー
●ソーシャルデザインとは、「社会的課題を解決するための意図的な企て」「(弱い人を)非差別化するデザイン」をいう。それは、「公憤」(正義感から湧きあがる公共のための怒り)を前提とする。(14~15ページ)
●ソーシャルデザインはまた、共通の目的のために自発的に結びつき、協働しながらも、度が過ぎた干渉はしない「ギルド(guild)的チーム」(生活共同体)のうえに成立する。つながり過ぎると協働することはできない。(37~38、85ページ)
●他者の生活の困りごとを解決したいと願う人は誰もが、ソーシャルデザイナーである。ソーシャルデザイナーはミクロ領域を注視し、常に弱者に寄り添い、傍(かたわ)らに立ちその機会を増やしていく。そのソーシャルデザイナーが「正義のミカタ」であるかどうかを決めるのは、弱者である。(14、42ページ)

チームとリーダー
●多様性を抜きにしたチームづくりは不可能である。多様な社会的背景を持つ人たちが集まれば、その人の数だけ仕事のバリエーションは増える。バラツキをバラツキのままひとつのチームにまとめれば、より永く生き延びる。(12~13、102、106ページ)
●チームが深く協働するためには、メンバーが悲しい秘密を持ち寄り・共有し・守り合えること、しかもメンバーに強すぎる結びつきを要求しないことが肝要である。そこには、信頼と安心があり、過剰なコントロールがない。(94~97ページ)
●他者の意見やアイディアは自分のものである。これはリーダーの特権ではなく、チームのメンバー全員に与えられ戦術である。メンバーの意見・アイディアが「取り込み、取り込まれる」なかで、意見・アイディアもチームも成熟する。(162~165ページ)
●チームには、他者に自らの揺らぎを見せない・ブレない「強いリーダー」ではなく、他者に自らの揺らぎを見せつつ、協働で答えを探る「専門家としての弱いリーダー」が必要となる。(169ページ)
●行政と企業とNPOが協働して社会的課題を解決する、しかもその三角形の真ん中に市民がいる市民自立型社会の形成が求められる(村木厚子)。そのためには、3つのセクター(行政、企業、NPO)を架橋する・垣根を越えて活躍する「トライセクター・リーダー(Tri-Sector Leader)」が必要かつ重要となる。(198~199ページ)

〇前述の「弱さ」と「多様性」に関するひとつの論点を再確認しておきたい。先ず「弱さ」については、高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)氏の「効率的な社会、均質な社会、『弱さ』を排除し、『強さ』と『競争』を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』(大月書店、2014年2月。12ページ)という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(146)「弱さ」考―「弱さの強さ」と「強さの弱さ」―/2021年11月24日アップ、を思い起こしたい。そこで紹介している天畠大輔(てんばた・だいすけ)氏と澤田智洋(さわだ・ともひろ)氏の次の一節を引いておくことにする。「僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない」(天畠大輔『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』(岩波新書、2021年10月、226ページ)。「『弱さ』の中にこそ多様性がある。だからこそ、強さだけではなく、その人らしい『弱さ』を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく」(澤田智洋『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』(ライツ社、2021年1月、51~52ページ)。ともに今中氏の言説に通底するところである。
〇「多様性」については、熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)氏の「凡庸(ぼんよう)コンプレックス」、すなわち個性のない・どこにでもいる規格化・平準化された「ふつう」の人間が、「奇妙に多様性を奨励する社会の中で、相対的に可視化された(奇抜な)障害者への嫉妬が芽生えるという転倒した現象も起きている」(熊谷晋一郎「『用無し』の不安におびえる者たちよ」里見喜久夫『障害をしゃべろう! 上巻 ―『コトノネ』が考えた、障害と福祉のこと―』(青土社、2021年10月、185ページ))という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(122)「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/2020年10月30日アップ、の一節を改めて引いておきたい(一部修正)。

「ふつう」は私とあなたの「あいだ」にある(私は、周りのあなたとの類似性を重視し、そこに安寧や安心を感じる。私は、周りのあなたとの相異性に緊張し、そこに不安や劣等感を感じる)。/「ふつう」は私とあなたの「ふだん」にある(私が「ふつう」を意識するのは、日常の生活場面においてである)。/「ふつう」の隣に「特別」がある(私には独自性欲求があり、それが自尊感情を高める一方で、孤独感や差別意識・偏見を生む)。/そして、私は「ふつう」を求め、あなたを「ふつう」にさせる(私は、人並みを求め、周りから目立つあなたを攻撃する)。