〇本稿は、<雑感>(248)阪野 貢/アンチ・アンチエイジングの思想が示す「老い」論―上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房、2025年4月)のワンポイントメモ―/2025年10月24日/本文、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、芥川賞作家・ジャーナリストである辺見 庸(へんみ・よう)の本『コロナ時代のパンセ――戦争法からパンデミックまで7年間の思考』(毎日新聞出版、2021年4月。以下[1])がある。[1]は、「戦争法」(安保法制)から新型コロナウイルスのパンデミックに至る、「人倫の根源が抜け落ちた危機の7年間」(帯)の時代を辺見が凝視し、その疑いを鋭い思索(パンセ)として綴ったエッセイ集である。
〇ここでは、<雑感>(248)の追補として、[1]から、おのれの無知と無関心を問う「オババと革命」、おのれがケアされる哀しみについて吐露する「西瓜のビーチボール」、そのエッセイの一節をメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
不可視化される「オババ」:無知と無関心を問う
駅近くをあるいていると、よく蓬髪短躯(ほうはつたんく)の老婦人をみかける。わたしはかのじょを心のなかで(失礼ながら)オババと呼んでいるのだが、見かけよりはよほど若いのかもしれない。ゴム草履を履き、襤衣(らんい)ながらも、背筋をぴんとのばしてスタスタと忙しげにどこかへとむかっている。その姿をみるたび、ああ、きょうは元気そうだなとホッとする。どうじに、さまざまな感情が胸に渦巻く。このひとの塒(ねぐら)はどこなのだろう。どうやって生活しているのか。身よりはないのか。支援者はいるのだろうか‥‥‥。そして、はっと気づく。オババにかんするそうした疑問が、わたしにとって、ほんとうは、けっして切実ではないことに。/すれちがい、ワンブロックもあるかぬうちに、わたしはかのじょのことをあらかた忘れているのである。だいいち、わたしはかのじょの面立(おもだ)ちをまったくおぼえていない。声も知らない。名前も知らない。そして、かのじょについてなにも知らないことが、わたしの気分をなにがなし〝楽〟にしているのかもしれないと心づく。(170ページ)/わたしはオババを知らない。目をあわせたこともない。かのじょを天才的だとおもったことはある。快も不快も、わたしになんらの印象ものこさない。その身のこなしと目差し、気息(きそく)において、けだし天才的ではないかと。ちがう! わたしがかのじょの名前はおろか面差(おもざ)しも知らないのは、よくよくおもえば、わたしがかのじょを正視せず、なにも問うたことがないからだった。(172ページ)
〇辺見は、まちなかで見かける「オババ」に対し、その存在や生活を「切実ではないこと」として遠ざけ、無知と無関心によって自分が精神的に〝楽〟になっていることを自覚する。この個人的な無知や無関心は、上野が批判する「アンチエイジンの思想」の根底にある、「老い」や「弱者」を意識的に排除・遮断する現代社会の構造を、個人の内面レベルで反映したものと言える。
抵抗する「ビーチボール」:ケアされる哀しみ
介護老人保健施設に通いはじめて1カ月、目も気持ちもずいぶん慣れてきた。/施設にあっては他者の発見より、おのれを見なおすことのほうが多いかもしれない。総合着座体操というプログラムがあって、わたしのような通所者と諸症状のひかくてき重い車椅子の高齢入所者がいっしょになって着座したままラジオ体操などの運動をする。先日はラジオ体操のあと、西瓜の模様のビーチボールをつかい、女性指導員が意外なトレーニングをはじめた。なにかの童謡を口ずさみながらリズミカルに歩きまわり、ビーチボールを参加者に手わたして問う。「冷たいの反対はなーに?」。ビーチボールを持たされたおばあちゃんが嬉々として答える。「あったかい!」。「あたりい!」と指導員。/わたしはドキドキする。西瓜のビーチボールがこちらに回ってくるのではないか。いや、まさかそんなことはあるまい、と自己内問答。まさか点‥‥‥の根拠には<わたしは〝かれら〟とちがうのだから>があった。思わずハッとする。このばあいの〝かれら〟は、かれらなんかという区別か差別のニュアンスが滲(にじ)んでいたからだ。なんということだ!じぶんに舌打ちする。心がざわざわする。(中略)西瓜のビーチボールがわたしの膝にのせられた。<脳トレ質問>がだされる。/「明るいの反対はなーに?」/胸のなかに鉄の玉ができて、焼けるほど熱くなる。まっ赤になって胸のなかでゴロゴロ転がる。われながらたまげる。激怒しているのだ、わたしは。明るいという形容詞の反対はなにかとためらいもなく問うあなたは、わたしをかれらなんかといっしょにしているのだな。なんという無礼! 目が焔(ほむら)を噴(ふ)いた。/わたしはじぶんの怒りのはげしさにだじろぐ。にしても、なぜこんなにも憤るのか?おそらく、認知症と混同されたことだけではない。ここにかれらなんかといっしょにいること、そうせざるをえない心身の老い。それに焦っているじぶん。そして、どうしようもなく末枯(すが)れてゆくなりゆきをまだ諦観できないじぶんにいらだって、かれらなんかとじぶんを懸命に区別しようとし、同時に、他人にも区別してもらいたがったのである。目がうるんでくる。風景が掠(かす)れる。(199~201ページ)。
〇辺見は、「老い」を生きる自分が個としての尊厳を失い、「かれらなんか」として十把一絡げに同じ要介護者として扱われる屈辱に激しく抵抗する。この「老い」に伴う不安や主体性の喪失感の赤裸々な吐露こそ、上野の「アンチ・アンチエイジングの思想」、すなわち「老い」の否定的な意味合いを転換しその価値を肯定することの重要性を力強く裏付けるものと言える。
〇以上踏まえ、一言したい。辺見が描く「オババ」に対する無知と無関心と、「老い」に伴う尊厳の喪失への抵抗に対して、「老い」を自分の生の一部として能動的に捉え、主体的な生の課題として引き受ける意識や姿勢を育むことが肝要となる。そして、自己の尊厳を守り抜く主体的な生き方を可能にするため、「老い」についての社会的・思想的な学びを求め深めることが求められる。これは、「市民福祉教育」の重要な教育内容のひとつとして位置づけられるべきである。特に、「老い」を生きる高齢者自身が、これまでありがちであった福祉教育の一方的な客体(思いやりの対象)としてではなく、自己の重要な学習課題として「老い」に主体的に向き合う側面は、市民福祉教育の根幹をなす教育内容として確立されるべきであろう。




