老爺心お節介情報/第85号(2026年5月6日)

「老爺心お節介情報」第85号

〇皆さんは、ゴールデンウィークをどう過ごされていますか。
〇私は、足の傷が痛く、歩けず、家に蟄居していました。童謡の「みよちゃん」ではありませんが、“ケンちゃんはおんもに出たいと泣いている” 日々のゴールデンウィークです。足が痛いと何もする意欲が沸きません。でもやることがないので、「その時の出逢い」の第85号を少しづつ書いていました。
〇ゴールデンウィーク中にする予定だった小さな庭の畑の野菜の作付も延期です。庭木も繁茂し始めていますが、今はなるようにしかなりません。 来週から出張が始まるのですが、歩いていけるか心配です。
〇皆さん、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。
(2026年5月6日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑧

Ⅰ 2000年前半―社会福祉学界の代表としての矜恃と不安、プレッシャー

〇2000年代前半は、1990年代までの研究が評価された結果なのか、社会的な活動が求められるようになり、個人の教育・研究の関心事のみならず、日本の社会福祉学界の代表としての立ち振る舞い、矜恃が求められた時代でした。
〇私自身の器、度量、力量を越える役割が求められ、自信のなさに押しつぶされそうなプレッシャーとそれらの役割が自分を成長させてくれているということが実感できる活動時期でした。
〇2000年代前半の活動の主なものは、➀日本社会福祉学会会長の職務、②日本学術会議会員としての職務、③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務、④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟・アジア・太平洋会議の日本大会の実行委員長の職務、⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務、⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務である。

➀日本社会福祉学会の会長としての職務

〇1998年10月に行われた日本社会福祉学会の理事選挙でトップ当選をし、会長に選出された(1998年~2003年、連続2期)。前会長の阿部志郎先生とは18歳の年齢差であった。
〇それまでの日本社会福祉学会の会長は、一番ケ瀬康子先生(通算4期)、浦辺史先生(通算3期)、仲村優一先生(2期)等が重任してきた他、磯村英一先生、岡村重夫先生、若林龍夫先生、木田徹郎先生、三浦文夫先生たちで、1954年の日本社会福祉学会創設時の会員(会員196名)であり、その後の日本の社会福祉学界を牽引してきた重鎮ばかりであった。創設時の会員以外で会長になったのは、筆者が最初である。
〇筆者は、1989年に公選理事になり、関東部会を担当したが、1992年の公選理事で選ばれた2期目は事務局長を仰せつかった。その際、「社会福祉学会ニュース」の刊行(小松源助先生が事務局長時代にニュースが2号出ているが、その後は発行されていない。それを復刊継続して3号として定期化させた)と公選理事のマンネリ化と理事の若返りを進めるための規約改正をした。当時の日本社会福祉学会は会員数が4000名を超える学会になっていたので、多様な会員の意見が反映されるようにすべきだと考えたからである。
〇規約改正は「理事の多選を禁止し、理事は通算4期まで、かつ理事は連続2期までは継続できる」とする内容である。したがって、理事を連続して2期まではできるが、連続2期したらいったんは理事を退き、3年間は役職に就けないという規約改正であった。
〇当然、筆者も2期で退き、3年間の間隔をおいて、1998年に再度理事に選ばれ、会長に就任した。
〇この若返りを進める規約改正により、新たな新進気鋭の理事たちが登場してくる。白澤政和先生、黒木保博先生、高橋重宏先生、上野谷加代子先生等が当初は推薦理事で理事会に入り、その後公選理事として選ばれ、学会としてなくてはならない活動を展開してくれた。
〇日本社会福祉学会の会長として行ったことは、(ⅰ)学会創設50周年行事、(ⅱ)日本社会福祉学会文献賞の創設、(ⅲ)『社会福祉学会研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(ミネルヴァ書房)の刊行、(ⅳ)韓国社会福祉学会(当時の韓国社会福祉学会会長は梨花女子大学の金聖二教授(前出)との学術交流協定の締結である。
〇社会福祉学分野における優秀な論文、著作を表彰する制度は、既に三浦文夫先生のご尽力で損保ジャパン(旧安田火災記念財団)が行ってくれていたが、日本社会福祉学会としても優秀な著作について表彰することにより、会員の研究意欲を高めたいと考えて日本社会福祉学会文献賞を創設した。
〇韓国社会福祉学会会長の車興奉先生(後に韓国保健福祉部長官に就任、日本の厚生労働大臣に該当)から、「感謝牌」が贈られた(「感謝牌」の銘文は「先生は日本社会福祉学会会長に在職していた際に韓国社会福祉学会に対する多大な関心と愛情を持ち、活発な学術ならびに人的交流を推進し、これをもって両国の社会福祉の発展とともに相互友好増進に大きく貢献しましたので、韓国社会福祉学会会員の心を込めて感謝の意を伝えたいと思います。」2015年4月29日、韓国社会福祉学会長車興奉)。
〇韓国の社会福祉界とは、社会福祉学会の学術交流だけでなく、日本地域福祉学会との学術交流も行われるようになり、その端緒を切り開くことができたと喜んでいる。
〇2026年1月には、筆者の教え子が韓国社会福祉協議会の会長に選出され、就任している。これからも韓国と日本の友好関係が継続していくことを切に願うものである。

②日本学術会議会員(2000年~2005年)

〇日本学術会議は、全国に87万人いると言われている科学者、研究者の中から、当時は会員定数210人が7部門に分かれている会員の定数毎に、関連する学会が選挙をして会員候補者を選出し、それを内閣総理大臣が任命する組織である。
〇日本学術会議は政府の諮問に応える政策提言とともに独自に政府に対して勧告できる権限を有している、いわば科学者、研究者の“国会”とも称される組織である。
〇日本社会福祉学界をはじめとした社会福祉関係学会は、会員選出の枠を持っていなかった。
〇日本学術会議には、社会福祉学界からは小川政亮先生、一番ケ瀬康子先生、仲村優一先生が選出されていたが、小川政亮先生は社会保障法の、いわば法学系の会員として選出されていた。一番ケ瀬康子先生が、社会学の分野の会員枠を一人譲ってもらって、社会福祉学界が推薦して会員になっていた。したがって、その当時の科学研究費は社会福祉学としての独立した細目を持たず、社会学分野へ申請し、採択されれば科学研究費が得られる仕組みで、結果的に社会福祉学界の科学研究費の採択率は低かった。
〇筆者は、既に1990年の時に、日本社会福祉学会選出の会員推薦人(1990年)に選ばれていたし、1994年には日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡会委員・幹事に任命されていたので、日本学術会議についてはそれなりの関わりを持っていた。東洋大学の山手茂先生や日本女子大学の田端輝美先生などと一緒に日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡委員会の「対外報告書」(「社会福祉に関する研究・教育体制の拡充・強化についてー高齢社会に対応する社会サービスの総合化対策の一環として(1997年)、「社会サービスに関する研究・教育の推進について」(2000年))を起草していた。
〇しかしながら、いざ日本学術会議の210名の一人に選ばれるとそのプレッシャーに押しつぶされそうであった。約87万人いると言われている科学者の中から210名が会員に選ばれて日本の科学技術のあり方について論議するということは、余ほど多面的、多角的論議できる知見、博識がなければならないわけで、相当に緊張していたことが自分でも分かった。他の会員は、錚々たるキャリア、名望のある方々で、直接話をするのも憚れるような緊張感であった。
〇とりわけ、筆者が会員の時に出した対外報告「ソーシャルワークが展開できる社会システムづくりへの提案」(2003年)についての幹部会での質疑は今でも冷や汗が出る。
〇日本学術会議の対外報告は、幹部会と呼ばれる日本学術会議の会長、副会長、7部会の部会長、副部会長から構成される会議で、そこで報告し、質疑応答を受けて「対外報告」として出していいかが決まる。いわば、社会福祉学界を代表して、時の社会福祉に関わる学術、教育・研究体制、政策のあり方に関して、今後のあり方を示し、各分野の学術、教育・研究体制との整合性があるか、対外報告としてのインパクト、必要性が問われる機会であった。
〇幹部会議では、いろいろ質問を受けたが、ありがたかったのは、工学系の会員で、日本製鉄に勤めている会員が、この対外報告はとても重要で、今まさに求められている政策課題であり、学術研究課題であるという趣旨の“応援発言”をしてくれた。幹部会議が終わった後も是非頑張って欲しいと励ましてくれた。
〇当時の日本学術会議は、会長が東大総長を務めた、工学系の吉川会長であったこともあり、日本の学術体系全体の見直しが検討されていたことも“追い風”になったのであろう(日本学術会議は、2003年に『人間と社会のための新しい学術体系』を発表。そのことに関わって、筆者は「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」を2004年に執筆(『社会福祉学研究の50年――日本社会福祉学会のあゆみ』ミネルヴァ書房、2004年11月所収)。
〇このように、仲村優一会員の時から、毎期毎に必ず「対外報告」を出し、ソーシャルワークの必要性と社会福祉学の固有性を訴えてきたこともあって、2003年度から日本学術振興会の科学研究費において、社会福祉分野が社会学から独立して「細目」で認められるという、日本社会福祉学界の長年の“悲願”が実現できた。
〇社会福祉分野は、長年、大学の教育現場でも「社会福祉論」という用語を使っており、「社会福祉学」ではなかった。これ以降、「社会福祉論」ではなく、「社会福祉学」という用語の使い方が定着していく。それは、私にとっても日本社会事業大学入学時からの疑問に対する回答になった。
〇筆者は、その時から何年か科学研究費の審査委員を仰せつかった。ちなみに、その当時は看護学もリハビテーション分野も科学研究費としての独立は認められていなかった。
〇筆者が日本学術会議の「福祉研連」の委員・幹事の際の1999年9月に『福祉研連ニュース』を発刊し、日本学術会議の学会として認定登録されている社会福祉系学会の会員に配布した。
〇それら『福祉研連ニュース』を含めて、社会福祉関連の対外報告などを収録した『社会福祉・社会保障研究連絡委員会 韓国・対外報告・報告集』を2005年9月に刊行しているので参照願いたい。
〇筆者が会員に選出されていた当時、第1部会員の中には万葉集の研究で文化勲章を受けた中西進先生や東京大学名誉教授で出土した農具の分析から、縄文文化と弥生文化の地域分布の違いを明らかに、歴史的に縄文時代を経て弥生時代になるという歴史観の誤りを指摘した先生で、かつ文部科学省文化財保護審議会会長もされている藤本強先生等の斯界の権威ある先生方との交流は、緊張したけれど楽しかった。

③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務

〇日本の社会福祉関係者が長年求めてきた社会福祉専門職化、国家資格化は1987年の「社会福祉法及び介護福祉法」の制定により実現した。この法律が成立する背景には、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」に代表されるように、急激な高齢化に伴う介護人材の質・量の問題が大きな課題だった。
〇他方、1986年に行われた国際ソーシャルワーク会議、国際社会業学校連盟会議での論議を基にした斎藤十郎厚生大臣の強いリーダーシップがあった。
〇1987年成立の「社会福祉士及び介護福祉士法」の時代は、いまだ在宅福祉サービスは成熟しておらず、入所型社会福祉施設サービスの時代であった。しかも、当時は、中央集権的機関委任事務の時代であり、福祉サービス利用の可否は都道府県の福祉事務所か市レベルの福祉事務所が担っていたので、そこではソーシャルワーク機能は全くといっていいほど関心を持たれず、社会福祉研究者の一部が声高にソーシャルワークを言っていたにすぎない時代だった。厚生労働省は殆ど関心を寄せていなかった。
〇当時、筆者は「ソーシャルワーク」、「ソーシャルワーカー」と言ってもその必要性を分かってもらえないので、筆者は「ソーシャルワーク機能」という言い方を敢えてした。「ソーシャルワーク機能」は教師も、弁護士も保健婦も持っているが、それらを総体的に集中的に機能として持っているのが、ソーシャルワーカーで、在宅の障害者、とりわけ、精神障害者や高齢者の支援には、これからソーシャルワーク機能が求められることを言ってきた。
〇1990年の社会福祉関係8法改正で、在宅福祉サービスが法定化され、かつ1990年代後半になると「介護の社会化」が叫ばれ、介護保険制度の導入が決まってくる。
〇そのような状況のなかで、在宅福祉サービスの推進には、ケアワークとソーシャルワークとの連携、有機化が必要ではないかと筆者は考え、仲村優一先生や田端輝美先生などと相談する。当時、神川県立保健福祉大学(学長阿部志郎先生)は「ヒューマンケア」という考え方を標榜して大学教育を行っていたが、我々は日本学術会議などの検討も踏まえながら、イギリスが1998年に「ソーシャルケア研修協議会」を設立したことを参考に「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を2000年に立ち上げた。
〇この「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」には、日本社会福祉学界をはじめ社会福祉系学会、日本社会福祉士会等の社会福祉士専門職団体、日本社会事業学校連盟などの養成機関の他に、日本介護福祉学会、日本介護福祉士養成校協議会、日本介護福祉士会等の関連する17学会、団体が加盟して発足した。まさに社会福祉界の「大団円」と言っていい組織である。
〇この組織の発足式で、仲村優一先生が、“戦後50年間、このような大同団結した組織を創ろうとしてできなかったことが出来、本当に嬉しいとの挨拶をしてくれた。
〇各々の団体の特色、違いを超えて、日本の社会福祉界の向上、日本の社会福祉教育、介護福祉教育の発展、日本の社会福祉・介護福祉の専門職化の向上に寄与できる一石を投ずることができた。発足当初は、仲村優一先生が日本学術会議の会員だったので、会長職をお願いしたが、筆者は副会長として、その後2代目会長として、この協議会の運営に当たった。

④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟及び国際ソーシャルワーク連盟のアジア・太平洋地域会議の日本大会の実行委員長の職務

〇筆者が提起して「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を立ち上げたこともあり、2003年に日本の長崎で行う第17回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議の実行委員長を仰せつけられた。
〇第17回大会は、長崎国際大学の高橋信幸先生、綿裕二先生が精力的に事務局を担ってくださり、ハウステンボスなどを会場に第1回大会を開催する予定で、印刷物をはじめあらかた準備が整った段階で、国際的な感染症SARS(中国で拡大、重症急性呼吸器症候群)が蔓延の兆しを示したことから、厚生労働省から国際会議を自粛するようにとの連絡が入り、急遽中止せざるを得なくなった。約2000万円の損失が出たが、実行委員会の加盟団体に分担負担をして頂き決算することができた。
〇その後、筆者は韓国・ソウルで行われた第18回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で「ソーシャルワークの挑戦と対応―アジア太平洋地域における新しいパラダイムの開発」、マレーシアのペナンで行われた第19回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で、「ソーシャルワーク・発展のための触媒」と題して基調報告をさせて頂いている。
〇日本でのアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を開催したことがなかったので、国内外からアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議をして欲しいとの要請を受けて、再度日本は第21回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を2011年に行うことになった。
〇この時も実行委員会委員長を仰せつかり、早稲田大学の田中英樹先生を中心に事務局を担っていただき、早稲田大学を会場に行うことができた。
〇どういう訳か、この第21回大会の時も、MERS(中東呼吸器症候群)が感染し始め、シンガポールなどの国から開催中止の要請があったが、流行の状況を考えて実施することにした。国内外から25か国、約700名(国外200名余、国内460名余)が参加してくれた。参加者の参加費だけでは開催費用が賄えないので、広く協賛金を募り約4000万円を集めた。
〇筆者は、実行委員長として『「ソーシャルワークと社会開発のためのグローバルアジェンダ」への日本からの提案」をさせて頂いた。
〇この大会の開催に当たっては、秋元樹先生、岩崎浩三先生、高橋重宏先生、白澤政和先生などに大きな役割をになって頂いたし、医療ソーシャルワーカー協会や日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士会等の専門職団体が大きな役割を発揮してくれた。
〇その後、2007年に日本社会事業学校連盟の会長になり、加盟校の「理事長・学長」会議を開催し、厚生労働省社会・援護局長へ、ソーシャルワーク教育のカリキュラム、国家試験の出題基準を改正するべきだという申し入れをしたりする。それらの活動の中から、教員中心の日本社会事業学校連盟では、ソーシャルワークやケアワークの質の向上に向けてのソーシャルアクションは効き目が薄いと考えて、日本社会事業大学の長尾立子理事長や日本福祉大学の丸山悟理事長に働きかけて、「社会福祉系大学経営者協議会」を結成して頂いた。
〇そうこうするうちに、大学受験18歳人口の減少、3K職場という負のイメージを払しょくできず、社会福祉系大学の受験者数が激減し、経営が厳しくなっていった。

⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務

〇東京都生涯学習審議会の委員には1996年から任命されている。しかしながら、審議会会長に任命されたのは2001年(~2009年)からである。
〇東京都生涯学習審議会会長は、従来社会教育委員の会議の会長も併任するようで、筆者も2002年に東京都社会教育委員の会議の会長を兼ねることになった。
〇更に、東京都社会教育委員の会議の会長は、一般社団法人全国社会教育委員連合の会長を兼ねるということであったが、それは組織が違うのだからと当初は固辞した。しかしながら、その役職をする人がいないとかで、2003年には就任させられた。
〇筆者は、いろいろな地方自治体の委員を任命された時、単なる委員の時には左程主張しないが、部会長や委員長、会長を仰せつかった際には、事務局案に対して意見を述べるだけではなく、また、事務局の諮問に応えるだけではなく、事務局に対し常に建設的提案をし、委員会としての建議の権限を大切に委員会、審議会の運営を心掛けてきた。
〇東京都生涯学習審議会でも、審議会の場だけではなく、事務局との打ち合わせの際にも新たな提案を常にしてきた。
〇会長になった1期目、2期目は、生涯学習を個々人の自己充足的な生涯学習のレベルに留めず、社会参画型の生涯学習の必要性を打ち出した。とりわけ、中高年層が社会参画する「新しい公共」の創生とコミュニティづくりに関しての答申を出した。
〇第3期目、4期目は、筆者が日本社会教育学会などで1970年代に研究していた「学校外教育」の組織化の考え方を基に、「地域教育プラットホーム」構想を打ち出した。この考え方は文部科学省の社会教育課にも影響を与え、政策として「学校支援地域対策事業」や「地域学校協働事業」として展開されている。
〇第5期、6期目は「教育行政」を振興するための社会教育行政の在り方について、社会教育行政がもっと中学、高校の教育を支援するあり方の必要性を提起している。
〇この間、東京都生涯学習部梶野光信社会教育主事が筆者の考え方に共鳴してくれ、行政内部で受け入れやすいような提案の形式を整えてくれた(梶野光信著『ユースソーシャルワーク』(生活書院、2025年)参照。梶野さんは主任社会教育主事を経て、現在は日本大学の教授をされている。梶野さんは東京学芸大学の小林文人先生の教え子である)。
〇全国社会教育委員連合会長としては、主に年1回行われる全国社会教育研究大会の実施である。全国をブロックごとに巡回するこの社会教育研究大会で、時には基調講演を行ったり、時には開催県の知事との対談などを行ってきた。大分県は江戸時代三浦梅園や廣瀬淡窓等の学者を輩出しており、それらの県の歴史を学びながら、当時の大分県知事の広瀬知事が広瀬淡窓の末裔であったこともあり、そのような話題を引き出しながら、その県の社会教育の振興策と地域づくりについて話をしてきた。
〇全国社会教育委員連合会長を15年間務めたこともあり、全国各地に出かけることができた。
〇ただし、この組織の悩みの種は、文部科学省からの補助金がなく、大会開催の費用の捻出、連合会事務局の維持管理に頭を悩ませたことである。
〇とはいうものの、全国の都道府県で社会教育委員として地域づくりに、手弁当で奮闘されている方々にお会いでき、それらの方々の社会教育振興への情熱、地域づくりへの情熱に触れられたのはとても幸せであった。中でも、香川大学の清國祐二先生、大分大学の山崎清男先生、八戸学院大学の内海隆先生、島根大学の島田雅治先生、有馬毅一郎先生等本当にお世話になると同時に、お互いの意見交換ができたことが嬉しかった。
〇また、事務局を担ってくれた元国立社会教育研修所課長をされた坂本登先生や宮崎大学の教授をされた上条秀元先生、あるいは事務局を手伝ってくれた林洋子さん親子(事務局にお金がないものだから、アルバイトを雇う代わりに林さんは息子さんにいろいろ手伝わせていた)との出逢いは楽しいものであった。
〇更には、文部科学省生涯学習局長が主宰する雑誌「生涯学習政策」等にも執筆の機会が与えられ、生涯学習、社会教育について論議をすることができたのもいい経験であった。

⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務

〇筆者、仲村優一先生や三浦文夫先生が担っていた各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務を後任として任されることが多かった。
〇日本経済界は1990年頃から社会貢献活動(CPI)を重視し、会社の創立周年行事などの際に福祉財団を設立するのが当時はやった。
〇これらの財団の機能を積極的に活用し、日本の社会福祉界へ新風を吹き込んだのが三浦文夫先生であった。
〇筆者は、1994年に大和証券福祉財団の評議員(後に理事)、選考委員、1999年に公益財団法人日本生命財団・高齢社会助成選考委員(後に選考委員長、理事)、2003年に損保ジャパン福祉財団・社会福祉文献賞選考委員長(~2017年)、みずほ福祉財団評議員などを務めている。この他にも、NHK厚生文化事業団、朝日新聞厚生文化事業団などにも関わらせて頂いた。
〇中でも、印象的な役割は、日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長を仰せつかったことと、損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞選考委員長を仰せつかったことである。
〇いずれも、前任の委員長は三浦文夫先生で、この財団活動の礎を構築された先生である。日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長は初代が岡村重夫先生、2代目が三浦文夫先生で、3代目が筆者である。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会は、急速に高齢化が進展する中で、新たな福祉サービスの開発事業に積極的に助成をし、日本の高齢者福祉政策に多大の影響を与えた。当初は、特別養護老人ホームを経営している社会福祉法人に助成していたが、1990年代後半には、在宅福祉サービスが法定化されたこともあり、地域福祉の推進の視点も盛り込まれ、市町村社会福祉協議会などへの助成も行われた。
〇日本生命財団は、この助成事業の成果を発表するシンポジュウム並びに講演会を東京・有楽町のニッセイ劇場と大阪の会場とで行ってきた。時には、1000名の聴衆を集めて、それらのシンポジュウム並びに講演会が行われた。高齢社会助成選考委員会の委員長は、そのシンポジュウムの司会進行を担ったり、時には講演を引き受けなければならず、それはとても名誉なことと感じるとともに、その重責は大変なものであった。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の活動は、『地域包括ケアの実践と展望』(大橋謙策・白澤政和共編、中央法規、2014年)が刊行されているので参照願いたい。この本の巻頭言を三浦文夫先生が「地域包括ケアシステムの源流」と題して書いているが、地域包括ケアの考え方と日本生命財団が果たしてきた役割、位置が簡潔に述べられている。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、損保ジャパン福祉財団の前身の財団法人安田火災記念財団から日本地域福祉学会が助成をうけて、1993年に『地域福祉史序説』を上梓していたこともあり、地域福祉研究、活動支援団体として馴染みのある財団であった。筆者は、1993年当時、日本地域福祉学会の事務局長で、地域福祉史研究会を総括する立場だったので、そのような機会を与えて頂いた財団に“恩義”を感じていた。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、その財団の後継財団が創設してくれたので、かつその当時は社会福祉学分野での文献表彰制度は事実上皆無だったので、非常に嬉しかった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、毎年前年度まで刊行された単著を対象に選考する。毎年、30冊程の著書が選考対象になり、5人の選考委員が第1次、第2次、第3次審査を行い、文献賞候補を決め、理事会の承認を得て、文献賞が授与される。文献賞には賞金100万円と副賞としてヴァン・ゴッホの「ひまわり」の七宝焼きが贈呈される。選考委員長は、選考の経過と選考した著書へのコメントを出すことが求められる。ある意味、博士論文の審査と似ている。
〇選考委員長の職務は重いが、自分では掴んでいなかった著書を読む機会となり、大変勉強させられる。京都大学の金沢周作著『イギリス近代とチャリティ』とか、福岡大学の廣澤孝之著『フランス「福祉国家」体制の形成』等、学ぶことが多かった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、ある時から授賞式だけではなく、受賞作に関わるテーマでのシンポジュウムを開催し、より研究課題を深める取り組みもしている。
〇これらの財団の活動に参加して学ぶことは、我々はどうしても社会福祉界の関係者や福祉行政の関係者とのみ交流していて、普段日本の経済界を牽引している方々との交流は殆どない。いわば、一種の“視野狭窄”の世界で生きている。しかしながら、財団の理事会や評議員会に参加している方々はいろいろな経済界の分野の業務に携わっている方々が多く、食事をしながらのさりげない会話の中に、あるいは人とのお付き合いの仕方の中に学ぶ点は多い。丸紅の社長、みずほ銀行の頭取、日本生命の会長、大和証券の会長、近畿鉄道の社長などとの会話・交流は、まさに日本経済界を牽引している人たちだとういう重厚感と存在感を感じる機会であり、人格的に尊敬できる方々ばかりである。
〇「井の中の蛙」とはよくいったもので、社会福祉関係者だけの世界で生きて、分かったつもりになっている自分が恥ずかしいと反省する機会が多々あった。
(2026年5月5日記)