阪野 貢 のすべての投稿

「社会は世界観に基づく」「生は死を内包する」を「考える」ために:ひとつの哲学言説―いま、改めて池田晶子著『14歳からの哲学』を読む―

編みものは、スーッとほどいてまた一本の糸に戻すことができます。そして同じ材料でまったく違う形、異なる用途のものを編み上げることができます。社会はなかなかそうはいきませんが、思いきって一本の糸にし、もう一度ていねいに編み直しましょうと提案したいと思います。(中村桂子編『編む』5ページ)

池田晶子さんが、大人は子供に社会を教えようとするけれど、子供が本当に知りたいのは社会ではなく世界だと書いていらして、なるほどと思いました。/基礎に世界観がないと、社会はめちゃくちゃになるでしょう。(『同上書』52、53ページ)

ていねいに編んで/できあがった世界を/ゆっくりとほぐすと/幸せがのぞく。(『同上書』270ページ)

〇筆者(阪野)は、「分解論」に関する拙稿(ワンポイントメモ)を本ブログの〈雑感〉(101)に投稿した(2020年2月6日)。その際、中村桂子編『編む』(JT生命誌研究館、2012年3月)を読んでいる。中村桂子(なかむら・けいこ)は、「生命誌」の提唱者であり、大阪府高槻市にあるJT生命誌研究館の館長を務めている。「生命誌」(Biohistory)は、人間も含めたさまざまな「生きもの」(生命)の38億年の歴史を知り、「生きもの」の世界がもつ「つながり」や「広がり」、すなわち「生きもの」の発生・進化・生態系を探究する。そして、一人ひとりが幸せに生きる、心豊かな人間社会をいかに作っていくかを考える(JT生命誌研究館ホームページ参照)。その学問の基本には、自然(宇宙・地球・生命)はすべて生成する(生れ出る)ものであると捉える「生命論的世界観」がある。
〇『編む』では、生命誌の中心的なテーマである「生命・人間・自然・科学技術の間の関係」をめぐる研究報告がなされている。「生きもの」の細胞や遺伝子などのミクロの世界の話は、筆者にとってはちんぷんかんぷんであり、字面を追うのがやっとであった。ただ、興味をそそられるものもあった。たとえば、江戸時代の花鳥画や動物画について解読研究する今橋理子(いまはし・りこ。美術史学)の話や、ウナギの産卵地を突き止めた塚本勝巳(つかもと・かつみ。海洋生物学)の話、そして研究者の生い立ちや研究の足跡、解明するための思考や実験の話などがそれである。
〇そんななかで、冒頭の文章やフレーズ、とりわけ「池田晶子」の名前に目が留まった。そこで、久しぶりに池田の著書『14歳からの哲学―考えるための教科書―』(トランスビュー、2003年3月)を読み返すことにした。池田晶子(いけだ・あきこ)は、日本語による「哲学エッセイ」を確立したと評される、稀有(けう)な自称文筆家である。『14歳からの哲学』は、長年にわたり、年代を超えて読み継がれている池田の代表作である。なお、池田は、2007年2月に46歳の若さで亡くなっている。
〇この本は、哲学の歴史や哲学者の考えを紹介・解説するものではない。「14歳以後、一度は考えておかなければならないこと」(「帯」)として、「考える」「言葉」「自分とは誰か」などの30のテーマについて、哲学の専門用語を使わず、平易な文章で読者に語りかけ・問いかける。本稿では、次の3つのテーマについてメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

目に見えない「社会」は観念であり、観念が変わらなければ現実社会は変わらない
目に見えないのに存在するもの、それは思いや考えである。思いや考えのことを、ここではまとめて「観念」と呼ぶことにしよう。(82ページ)
「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。「社会」は、観念として、自分や皆の「内に」存在しているものなんだ。(82ページ)
社会を変えようとする場合、先ず自分が変わるべきなんだ。社会は、それぞれの人の内の観念なのだから、現実を作っている観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。(83ページ)
世のすべては人々の観念が作り出しているもの、その意味では、すべては幻想と言っていい。社会がそうなら、国家というものもそうなんだ。人は、「日本」という国家が、外の物のように存在していると思って、それが観念であるということを忘れて、その観念のために命を賭(か)けて戦争したりする。観念のために命を捨てるなんて芸当ができるのは、生物のうちでも人間だけだ。これはとても不思議なことだ。(83、84ページ)
「社会」というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人の作り出した観念だということだ。複数の人が集まれば、複数の観念が集まり、混合し、競い合って、その中で最も支配的な観念、つまり最も多くの人がそう思い込む観念が、その集団を支配することになる。これが言わば「時代」というものだけれど、これも人々が自分で作り出している観念であることに変わりはない。「社会の動き」とは、つまり「観念の動き」であると見る習慣を身につけよう。(84ページ)

「自分」を愛するということがそのまま、「世界」を愛するということである
自分であるところのもともとの自分は、ただ自分であるということ。ただ自分であるということは、他人がいるから自分であるのではなく、他人がいてもいなくても、他人がいるかいないかに関係なく、その自分としてあるということだ。他人の存在は、自分が自分であると気づくためのきっかけにすぎない。自分の存在は他人の存在に依(よ)ってはいないのだから、その意味で、自分というのは絶対的な存在なんだ。(66ページ)
「世界」つまりすべてのことは、自分の存在に依っている。自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。(67ページ)
嫌いな人、イヤな人は、ああ、そういう人なんだな、丸ごと認めて受け容れてあげるんだね。むろん大変なことだよ。でも、それが自分のためなんだ。それができなければ、君が自分を本当に愛することはできない。自分を愛していない人生を生きるというのは、とても苦しいものだ。だって、嫌いな人からは離れればいいけど、誰が自分から離れることができるだろう。嫌いな自分と四六時中一緒にいるなんてことが、苦しくないわけがないじゃないか。(104ページ)
自分とは世界なのだ。だから、自分を愛するということが、そのまま、世界を愛するということなんだ。だから、もしも君が世のため人のために何かをしたいと願うのなら、一番最初にしなければならないことは何か、もうわかるはずだ。(104ページ)

「思う」ことではなく、「考える」ことこそが全世界を計る正しい定規になる
わからなくて不思議なことを、それが本当のことなのかどうかを知ろうとして、人は「考える」といことを始めるんだ。「考える」は、それまでの、ただなんとなく「思う」ということとは全然違うことなんだ。(8~9ページ)
考えるというのは、それがどういうことなのかを考えるということであって、それをどうすればいいのかを悩むってことじゃない。(9ページ)
自分が思っていることが、ただ自分がそう思っているだけではなく、本当に正しいことなのかどうかを知るためには、考えるということをしなければならないんだ。「本当にそう思う」ということと、「本当にそうである」ということとは、違うことだ。(14、15ページ)
人は、「考える」、「自分が思う」とはどういうことかと「考える」ことによって、正しい定規(尺度、基準)を手に入れることができるんだ。自分ひとりだけの正しい定規ではなくて、誰にとっても正しい定規、たったひとつの正しい定規だ。(16ページ)
その定規は、君が、考えれば、必ず見つかるんだ。正しい定規はどこだろうってあれこれ探して回っているうちは、それは見つからない。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。(17ページ)
考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。謎が謎として存在するから、人は考える、考え続けることになるんだ。(196、197ページ)

〇以上のポイントは、「社会は観念として、自分の内に存在している」(82ページ)。「自分が世界であり、世界(すべてのこと)は自分において存在している」(67ページ)。「自分は自分でしかないことによってすべてである(絶対的存在)」(68ページ)。「自分を愛するということがそのまま、世界を愛するということである」(104ページ)。「本当に生きるということは、わからないことをわからないと思わないで、誰にとっても正しいことを、考える・考え続けるということである」(23ページ)、となろうか。例によって唐突であるが、これらは、「市民福祉教育」にも通底する基本的視点でもある。留意したい。
〇ところで、福祉教育の世界で多用される言葉のひとつに、「共生」「共に生きる」がある。ここで、「生」とともに、「死」に関しても一言しておくことにする。
〇本ブログの〈雑感〉(99)に投稿した『沈黙の作法』(河出書房新社、2019年6月)において山折哲雄(やまおり・てつお。宗教学)は、柳美里(ゆう・みり。小説家)との対談のなかで、「死生観」について次のように述べている。「死生観」という言葉は、「死」が「生」の前にある。「死生観」という言葉の背後には、死を覚悟して生きる、死ぬことが即ち生きることであるという思想が控えている(32ページ)。柳が著書『自殺』で言うように、死を忌避(きひ)するのではなく、人生のなかに明確に位置づけることが大きな意味を持つ⦅「死を忌(い)み嫌うのではなく、生の中に死が潜(ひそ)んでいるということを意識することが大事なのである」(65ページ)⦆(33ページ)、と。
〇さらに付言すれば、山折哲雄は、著書『わたしが死について語るなら』(ポプラ社、2010年3月)のなかでこう述べている。「『共に生きる』という口当たりのよい言葉だけ掲げて、『共に死ぬ』ということはほとんど言わない」。「すべての人間がひとりで死ぬ運命の中に投げ出されている。だから『共に死ぬ』ということになる。『共に死ぬ』すなわち『共死』とはそういう意味なのである」(54ページ)。山折にあっては、「共生」は「共死」である。
〇また、柳美里は、著書『自殺』(文藝春秋、1999年12月)のなかでこう述べている。「自分とは何かと考察するとき、死はその入口であり、また出口である」(121ページ)。「生が死を内包しているという事実を、意識のレベルにまで高めることによって、死を自分のものにできるのではないか」(173ページ)。柳にあっては、「死はひとの内部で生と共存」(188ページ)している。いま求められているのは、殺人や交通事故、天災などによる「外部」の力によってもたらされる死ではなく、「死を人間の内側から捉え直す思想」(186ページ)である。
〇山折と柳の考えとともに、池田晶子が著書『人間自身―考えることに終わりなく―』(新潮社、2007年4月)と『人生は愉快だ』(毎日新聞社、2008年11月)のなかで説く「死」についてメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

生死は平等であり、人は生まれたから死ぬのである
多くの人は、生死を現象でしか捉えていない。死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ不本意だ、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかしいかなる死に方であれ、「死に方」は死ではない。現象は本質ではない。本質とは、「死」そのもの、これの何であるか。これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらできないではないか。(『人間自身』26ページ)
生死の本質は、年齢も経験も現在の状況も関係ない。生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。(『同上書』26ページ)
癌(がん)だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。すべての人間の死因は、生まれたことである。(『同上書』26ページ)

自分の死はないのであり、死は向こうから来るものである
人が死を認識できるのは、他人の死を見る時だけです。自分が死んだ時は、自分はもういないのだから、自分が自分の死を知ることはできない。自分の死は、「ない」のです。多くの人が死をどうイメージしているかというと、「どうやら自分が無くなる」というものです。でも、自分がないことをどうやってイメージするのか。「無」というものを考えられたら、無ではなくなってしまうわけです。ないものは考えられない。死は、ないのです。(『人生は愉快だ』278ページ)
人はよく「死に方」と「死」を一緒にしてしまっている。死に方とは、ギリギリのところまで生の側にあります。どんな死に方をしても、死ぬまでは生きているわけですから。「死に方」は選べても、「死」は選べない。死は向こうから来るものです。(『同上書』278ページ)

〇なお、池田晶子の著書のなかから「人生」「幸福」「愛と孤独」などの11のテーマを設定し、それに関する言葉のエッセンスを集めた本(名言集)がある。池田晶子著・NPO法人わたくし、つまりNobody編『幸福に死ぬための哲学―池田晶子の言葉―』(講談社、2015年2月)がそれである。「池田晶子の世界」のとば口(入口)であろうか。

補遺
池田晶子が著書『新・考えるヒント』(講談社、2004年2月)のなかで述べている「生きることと道徳」に関する一文を紹介しておくことにする(抜き書きと要約)。

先般、子供向けの哲学の教科書(『14歳からの哲学』)を書いた際、超越的根拠なしに道徳を教えることは不可能であることを、つくづくと思い知った。人に道徳を教えるとは、そもそもどういうことなのか。(210ページ)
自分とは何か、死とは、生とは、生命とは何かという問いの提起から説く起こし、最終的に、善悪、すなわち人生の意味を考えることへと導いたつもりである。もしそれが成功しているなら、人は、自分が自分であると思っているその自分が、いかに自明なものではないか、自分が自分であると思っているものの根拠は、実は自分にはないと、気がついてくれたはずである。道徳についての思索(しさく)は、この気づき、この不可解への気づきからしか始まらないのである。(211ページ)
いま現に生きているこの自分とは、いったい誰なのか、何なのか、この謎をまっすぐに考え詰めてゆく、あるいは強く感じようと努めてみるだけでも、問いの解がないと知ることによって、問いの向こうへと開かれるとでもいうべきか、ある種の永遠的感覚を自身として知る経験である。このとき超越的なものは内在的なものである。外在的教条など必要ないのである。(211~212ページ)
語られている言葉の背後にあるものは、誰が誰であり、何が何であると言うことができない、万物が照応(しょうおう)する混沌である。その混沌を混沌として認識し、これを畏怖(いふ)するところにこそ、道徳的感覚は発生するといってもいいだろう。(212~213ページ)

付記
本稿でとり上げた本の一覧である。
(1)中村桂子編『編む』JT生命誌研究館、2012年3月
(2)池田晶子著『14歳からの哲学―考えるための教科書―』トランスビュー、2003年3月
(3)山折哲雄・柳美里著『沈黙の作法』河出書房新社、2019年6月
(4)山折哲雄著『わたしが死について語るなら』ポプラ社、2010年3月
(5)柳美里著『自殺』(文春文庫)文藝春秋、1999年12月
(6)池田晶子著『人間自身―考えることに終わりなく―』新潮社、2007年4月
(7)池田晶子著『人生は愉快だ』毎日新聞社、2008年11月
(8)池田晶子著・NPO法人わたくし、つまりNobody編『幸福に死ぬための哲学―池田晶子の言葉―』講談社、2015年2月
(9)池田晶子著『新・考えるヒント』講談社、2004年2月

追記
大友信勝先生(聖隷クリストファー大学大学院教授)より次のようなメールを頂戴しました。衷心より厚くお礼申し上げます。(2020年2月27日)

市民福祉教育研究所から社会的に発信される問題提起は、それぞれのテーマや論点が深く、広く、含蓄に富んでいることはすぐわかります。「社会は世界観に基づく」、「生は死を内包する」を考える哲学言説と本の一覧は興味深く拝見いたしました。池田晶子さんを取り上げ、山折哲雄さん、柳美里さんを取り上げる視点と方法は、生きることの意味,死を考えることの重みを一体のものととらえ、平易にどう伝えるかという訴えを考えてのことでしょう。山折さんが『沈黙の作法』で親鸞を取り上げ,『教行信証』を博士論文にたとえ,『歎異抄』を揺らぎと本質に導くものと分析している下り等から多くの示唆を得ることができます。本質と原理をおさえ、柔軟に揺れながら、次の課題に物事を進め、人々を広く包み込んでいくありかたは素晴らしいと考えます。阪野先生から「もっと深く、広く、柔軟に考えようではないか」と言われているように受け止めました。これからも興味深く先生からの社会的発信を読ませてもらいます。

大友信勝「学生セツルメントと地域福祉施設との再会―ヤジエセツルメントを中心にして―」

はじめに
セツルメントをキーワードにした研究集会に講演依頼を受け、このようなテーマでまとまった発表をしたことがなく、半世紀以上前の実践を思い起こしながら責めを果たそうと考えている。副題のヤジエセツルメントの発表が中心で、主題に切り込んでいない。『レンガの子ども』やヤジエセツルメント保育所を論述している浅井純二さん等の先行研究を読み、自らの思い出とつないで述べてみたい。

1. 名古屋市南区弥次衛町(以下、ヤジエと略)がヤジエセツルメントの舞台
〇1959年9月、伊勢湾台風、約5000人が死亡。
〇ヤジエ町はどういう地域か。名古屋南部の被災地の一つ。ヤジエ町はゼロメートル地帯、低湿地の地域、応急仮設住宅(約300戸)が建てられ、その後、災害復旧公営住宅に移転するが、生活困窮で行き場のない被災者、非正規雇用が多く、在日コリアンの割合も高い。応急仮設住宅はバラックで8畳一間、共同トイレ、共同炊事場からなっている。
〇なぜ、在日コリアンが多いのか。名古屋南部工業地帯は戦前・戦時下の重化学工業を支え、朝鮮半島から徴用があった歴史を持っている。住宅地として環境は良くないが、ここに住み、台風にあい、他に行くところがない災害弱者に在日コリアンの割合が高かった。

2. ヤジエセツルメントの歩み
〇ヤジエセツルメントの歩みは伊勢湾台風の被災者救援から始まる。当初は様々な被災者救援活動が名古屋大学、愛知県立女子大学、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学等の学生たちによって行われる。救援活動からどうしてヤジエセツルメント保育所が誕生するのか。
〇避難所への避難が定着するようになると臨時保育所が開かれ、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学の学生たちが、その活動への参加をはかっている。この臨時保育所は学生たちが大学の災害対策本部等に必要を訴え、市役所に交渉し、その数や規模の拡大を図っている。臨時保育所が被災者にとって切実な要求であり、学生たちがその要求に答えた。
〇台風直後の臨時保育所が次第に既設保育所の再開によって縮小していく時期に、名古屋大学泥の会、日本福祉大学(学生自治会)が住民アンケートをとり、保育要求を掘り起こしている(1959年12月)。避難所も11月に入ると応急仮設住宅へと切り変わっていく。
〇ヤジエセツルメント保育所は元養鶏場(事務所)に1959年12月24日~1962年8月まで、民間保育所(無認可)として、市立宝保育園が開設されるまで活動した。
〇ヤジエセツルメント保育所の直接的な発足経緯はどういうものか。学生たちは、被災者の利用できる託児所がなければ働きに行けないという住民要求を受け止め、12月24日から冬休みを利用し、1月20日までやる予定であった。しかし、父母の会(1959年12月27日)で継続を望む声が強く、市から正式に元養鶏場(事務所)を借り、名古屋大学泥の会、日本福祉大学災害対策本部、旭丘高校童話部の3者による資金カンパの要請が行われている。
〇資金カンパは、地域と結びついた施設を作ることをうたい、設立総会がYWCAで行われている。ここで東京保育問題研究会からの保母派遣要請が行われている。
〇東京保育問題研究会から、及川嘉美子さん、難波ふじ江さんのお二人を迎え、2歳児から6歳児まで、約30名の保育を行った。
〇保育所運営委員会委員長は浅賀ふさ先生である。先の臨時保育所開設時点での市役所交渉の中心は浦辺史先生である。また、学生とともに保育所活動を支援したメンバーに、日本福祉大学保育研究室の土方弘子先生たちがいる。他大学でも、保育問題研究をしている先生方が保育要求にこたえる活動を活発に展開している。

3. ヤジエセツルメントとの出会い
〇1962年4月~1966年3月まで、ヤジエセツルメントに在籍し、1964年4月~9月はヤジエセツルメント委員長を担当した。伊勢湾台風(1959年)の時、どうしていたかといわれると、私は秋田県の高校生であり、入学が1962年である。
〇なぜ、ヤジエセツルメントに入ったのか。学生寮に入っていたが最も熱心な誘いを受けた。天下・国家を論じるので圧倒され、価値観が揺らいだ。子どもたちや地域を守ろうとする使命感のような熱意があった。他に、井戸田セツルメント、白水セツルメントが活動しており、部落問題研究会や児童文化部の人気が高かった。
〇家庭の事情で仕送りが期待できないことから、アルバイトと奨学金によって、活動と両立できるのかを心配した。母が長期の難病で医療費の負担が重く、そのため家計が傾き、その母も入試の時期に亡くなり、不安定な状態での入学だった。
〇ヤジエとの出会いは、1962年4月、市電で杁中から大久手を経由し、笠寺方面行きの市電に乗り換え、遠くて時間のかかる道のりだった。ヤジエセツルメント保育所が二人の保母と学生,保育問題研究会の支援で運営されていた後半の時期である。仮設住宅から災害公営住宅への引っ越しも始まっており、仮設住宅に空き家が出始めていた。セツルメントの学生たち(セツラー)は応急仮設住宅の空き家を借り、そこを拠点に活動していた。共同炊事場で食事を作り、共同トイレを活用し、質素でつつましい生活だが声を掛け合い、明るく元気だった。前年(1961年)、赤痢が発生したという話も聞いたが、湿地帯でバラックの仮設住宅、共同炊事場、共同トイレ、雨が降ると汚水がたまるような環境であり、発生してもおかしくないと納得した。これは大変なことになりそうだという予感がした。
〇セツルメントの会議は会議室がなく、様々な所で臨機応変に行われた。応急仮設住宅、災害公営住宅の階段の踊り場、近くのお好み焼き屋、夕方以降はセツルメント保育所、そして、大学のサークル室等である。当時のヤジエセツルメントは名古屋市立保育短期大学と日本福祉大学の2校で構成されていた。セツルメントの日常活動は、児童部、保育部、青年会部の3部門制であり、対外活動として、名古屋南部セツルメント協議会があった。名古屋南部セツルメント協議会は全国学生セツルメント協議会に加入しており、名古屋では、ヤジエセツルメントの他に、井戸田セツルメントと白水セツルメントが加入していた。ヤジエセツルメントのセツラー総会は名古屋市内のお寺を借りて合宿形式で行うことが多かった。OSも来て総会は賑やかで、夜は、せんべい布団1枚と毛布1枚である。
〇ヤジエセツルメントの活動は災害救援活動の歩みと復旧・復興とともに変化し、常に変動の中で次の活動の開拓をしていく事業の連続であった。保育部はヤジエセツルメント保育所が市立宝保育所への切り替えとともに閉鎖され、その後の活動は児童部に一部が引き継がれていく。青年会部は、セツルメント保育所を夕方から夜にかけて活動場所にしていたことから、活動の拠点を失うことになった。リーダーの青年たちが大同製鋼やブラザーミシン等、近くの活動拠点を検討するが継続できないことになった。青年会部はレクレーションと情報交換が主なものであり、特定の地域活動はしていなかった。セツルメントの執行部は青年会部を生活相談部に切り替え、生活保護の多い地域で地域要求にこたえる道を模索した。生活相談部は生活と健康を守る会、医療生協(南診療所)に接近するが、専従の職員や専門家もいない状態で、学生中心のため、勢い学習活動が重点になる。セツルメントの性格からすれば地域実践に結び付けなければ本来の役割は果たせない。アイデアはともかく、実施体制や条件が伴わず、1年有余でこの事業は中断している。

4. 学生セツルメントの特徴と限界
〇生活相談部の挫折を通して、学生としての活動について限界があることを学んだ。限界とは、地域政策を打ち出すには、主体の側に、専門性と継続性、活動の拠点(定住性)に関わる条件整備が求められ、情熱や意欲だけではできないということである。
〇セツルメントとは何か。セツルメントは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民が語源である。我が国は、戦前、東京帝大セツルメントが関東大震災(1923年)への救援活動(1924年)から発足している。しかし、権力の弾圧により、1938年に閉鎖している。戦後のセツルメントの多くは学生セツルメントとして取り組まれている。名古屋には、伊勢湾台風以前にセツルメントの歴史がある。しかし、当時(1962年)活動していたわけではなく、名古屋南部セツルメント協議会に入っていたのは、井戸田・白水・ヤジエの3つのセツルメントである。
〇ヤジエセツルメントはどういう性格のセツルメントか。それは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民ではない。あくまで、伊勢湾台風の被災者支援からから始まり、貧困という悪条件を持っている地域に入り、地域、父母の要求に沿って「子どもを守る」活動に重点を置く活動展開を目的にしている。地域政策を考え、青年会部、生活相談部を作ったが、セツルメント保育所閉鎖以降、拠点施設がなく、専従の専門家も配置していないことから継続的発展につなげることができなかった。学生には入れ替わりがあり、財政問題への対応が難しいという問題がある。ヤジエセツルメント保育所の閉鎖時に活動拠点の確保に向けて募金活動を社会的に呼びかけ、労働組合や各種社会団体に先輩セツラ―とチームを組み訪問したことがある。台風から2年有余が経過し、救援の熱気はなかった。その時の「苦悩」を今でも思い出すことがある。
〇1963年に入ると、ヤジエセツルメント保育所が前年度に閉鎖しており、名古屋保育問題研究会関係者が、名古屋で新たな共同保育所作り運動、保育労働運動に取り組んでいる時期でもあり、保育問題研究会は活発な活動展開を図っていく。セツルメントは、名古屋市立保育短期大学から新入セツラ―は入らず、日本福祉大学のセツラ―に絞られていく。全体としてこの時期を見れば名古屋の保育運動が活発になり、そこにセツルメントの実践現場から人材を送り出した側面もある。見方によれば、セツルメントは人材養成の役割を多少とも果たしたのではないかと考えている。

5. ヤジエセツルメントから何を学んだのか
〇『同じ喜びと悲しみの中で』というセツルメントの実践の書がある。福祉の思想・哲学が底を流れているような気がして、座右に置いていた。ヤジエ町は非正規労働者が多く、ここに留まることしかできなかった在日コリアン、生活保護受給者の多い地域であった。子どもたちは荒れていた。どうしてここまで荒れるのか。その深い意味が当初は分からなかった。荒れている子どもたちに何もできなかった。先輩セツラ―から話を聞き、やりかたを見ながら、子どもたちの顔や名前、特徴を覚えることに努め、そこから実践を始めた。
〇セツルメントをわかっていなかった。どういう性格の組織なのか。社会的な位置と役割は何なのか。その点を学ぶ必要があった。セツルメントの歴史を調べた。COSを組織化し、社会改良の視点、理念を開拓し、トインビーホールが生まれたことがわかってきた。なんということか。社会事業・社会政策の現代史の幕開けを切り拓いたのがセツルメントではないか。セツルメントは下層労働者の自立性の強化と貧困の解決に社会改良が不可欠だという視点から博愛の科学化、組織化を主張している。それを学んだ時に、目からうろこが落ちた。
〇セツルメントは、出発点に「悲しみを分かつ」思想を持っている。労働者教育といっても、トップダウンで知識・技術をダイレクトに持ち込まない。教育とレクレーション、娯楽を組み合わせ、柔軟にそれらを取り入れ、文化を大事にし、人間としての感性を掘り起こすことを事業の重点にしている。労働者教育を行って革命を起こすわけではない。社会改良への取り組みをせめてもの第1歩とみている。しかも、無報酬であるばかりか、自らがトインビーホールに寄付までしている。
〇セツルメントは貧困をどう見ているのかが気になった。非人間的な生活環境の人々にみる「低い品性」、これは無知と人間的自立のはく奪によってもたらされたとみる。マルサスの「人口の原理」にみる「恥の烙印」(Stiguma of Pauparism)という「劣等処遇の原則」を批判する源流についてもセツルメントから学ぶものがある。

6. ヤジエセツルメントと歩んで
〇セツルメントは仲間たちに正義感が強く、実践力のあるセツラ―が多く、人生の得難い先輩や仲間たちに恵まれたと思っている。
〇生活相談部の挫折をはじめ、苦い思い出はあるが、セツルメントでの成功談はない。しかし、セツルメントから学んだこと、やっていてよかったと思えることがある。名古屋南部セツルメント協議会の役員をやったことがある。日本子どもを守る会の総会に出た時のことである。会長の羽仁説子さんが貴重な時間を割てくださり、昼食の集いをもって、直接面談できる機会を作ってくださった。学生セツルメントの子どもを守る活動を熱心に聞いてくださったことが印象に残っている。その後、羽仁さんが関わっている自由学園について学ぶことができた。昭和大恐慌で大凶作の東北農村に当時(1930年代)、「農村セツルメント」を作ったのがお母様の羽仁もと子さんである。私が生活保護を担当した秋田県田沢湖町生保内にその農村セツルメントがあった。奥羽山脈の村々を生活保護で8年間担当し、中山間地域の貧困問題に取り組んだ。そこに自由学園の足跡が残っていた。
〇全学連電車(通称、往復とも夜行で各停)に乗り、氷川下セツルメントハウスに全国学生セツルメント連合の会議で通った時期がある。『太陽のない街』(徳永直)の地域であり、下町の風景、全セツ連のメンバーの生き生きとした姿から励まされるものがあった。
〇浦辺史先生、浅賀ふさ先生、高島進先生をはじめ、セツルメントとご縁のあった先生方と研究・教育交流ができ、研究者の社会的位置と役割について学んだ。
〇在学中に、社学連(全国社会福祉系学生ゼミナール連絡協議会)分科会において、日本福祉大学を代表して研究発表を行った。セツルメントの活動で、貧困の分析視点を学んだことが役に立ったものと考えている。
〇卒論は、朝日訴訟や結核政策の歩みを研究し、約6万字の長文を書いた。日本福祉大学に当時(1965年)、大学院はなかったこともあるが考えたことはなかった。当時考えていたのは、卒論で研究方法を学ばなければ、人生で再び学ぶ機会はないのではないか。そのため、卒業後、一人で実践に立ち向かえる基礎的な研究方法を身に着けようと考え、長文の卒論を考えた。長文は研究計画、研究方法をしっかり組み立て、先行研究や仮説の実証が必要であり、研究の仕方について基礎的な力量を形成しておかないと書けない。また、何のための卒論か。政策の代弁や受け売りをするのではない。社会問題を社会的に追求するような方向でなければ意味がない。社会問題を当事者の目線から見るために、日本患者同盟、朝日訴訟原告団を訪問し、専門的な動向は結核予防会、政策動向は厚生省(結核予防関連部署)に足を運んだ。全セツ連で、東京への出張やフィールドワークの手続きに少し慣れていたのが幸いしたと考えている。また、生活相談部の試行錯誤で、事前準備が必要なことも少しはわかっていた。セツルメントは先輩との議論で先行研究、実践記録、政策研究は事前にチェックしておかないと太刀打ちできないことから、自立的に研究する姿勢がセツルメントで形成されたとすれば、それが役立ったのかもしれない。
〇セツルメントでの成功談はないといった。1983年、名古屋南部で生活問題研究会(事務局、日本福祉大学)が被保護母子世帯調査を実施した。そのとき、偶然、ヤジエセツルメントで担当したAさんが調査対象に入っていた。貧困の世代間継承を断ち切ろうと実践していたが、厳しい生活の歩みを余儀なくされていた。AさんはDVを何とか乗り越えて心身の落ち着きを取り戻し克服への努力も始めていた。子どもさんへの教育計画を話している姿を見て、少し遠回りをしたが母子が健康でこの困難を乗り切ってくれるだろうと祈った。貧困の世代間継承を断ち切ることがどんなに難しいことか。主体的に学ぶ力、なぜ学ぶのかという人生の志や希望、学ぶための条件や環境等、いろいろなことが頭を駆け巡り、セツルメントの活動を反省させられることしきりであった。

終わりに
〇セツルメントで何を学び、多少とも身に着けたのであろうか。卒業後、郷里の秋田県庁民生部の職員となり、生活保護行政を担当した。担当地域の保護率を1年未満で秋田県で最も高い水準に引き上げたようであった。直ちに、厚生省の特別監査の対象になった。福祉事務所は国の特別監査に緊張した。査察指導員は「悪いことをしたわけではない」。「なぜ保護率が高いのか。実証できるデータを作成するように」という指示を出した。担当地域の「貧困問題の一考察」を約4万字でまとめた。国有林事業の衰退、鉱山の閉山、地域経済の不振、が重なる社会経済的要因による貧困が要因とまとめた。この資料は、特別監査で役に立ち、大きな指摘は出されなかった。また論文として、日本福祉大学社会福祉学会の学術奨励賞を受けた。セツルメントの経験、卒論作成が参考になった。セツルメントから何を学んだのであろうか。最も大事な学びは、利用者・当事者視点からみて、そこにより添える事。そのために社会正義が求められる。社会問題を地域・住民生活から見る社会科学的な視点、セツルメントの運営・実践に持ちこまれる問題に対して、開拓的・創造的に困難に立ち向かう姿勢だったのではないか。
〇セツルメントをやって「成功した」、「楽しかった」という思いでは殆どない。貧しい境遇であっても、人が生きるということの意味、どう生きたいかを考えさせてくれる源泉がセツルメントにある。在日コリアンの中心になっている方を訪問したことがある。質素な生活、災害や社会的偏見にさらされてきたというのに、子どもの学習支援へのお礼、落ち着いてインタビューに答える姿勢、品性から人間としての生き方や誠実さが伝わってくる。社会的地位、権力、お金がなくても庶民は子どもを守り、家族を守り、同胞を大事にして悲しみや苦しみを乗り越えて人間として生きている。使命感をもって、社会の底点に立って物事を考え、魂を磨くことがセツルメントから得られる価値ではないか。ヤジエの人々が置かれている社会的位置と環境、ここからどう生きていくか。そこからセツルメントは何を学び、自分たちは社会の底点に目線の標準を置き、そこからどう生きるかを貫くことではないか。
〇セツルメントは「福祉の思想」を形成する豊かな源泉だった。自助、互助(共助)が言われる地域福祉の中で、セツルメントはオルタナティブとして利用者・当事者の自主性とエンパワメント、共生と多様性の意味をいつも考えさせてくれる。子どもたちに人生の夢と希望、生きる目標と喜びをどう育てていくか。新自由主義の下で、もう一つの価値を掘り下げ、構築するように迫ってくる。
〇今回の講演依頼からいうと、一つ、大きな課題を残している。名古屋キリスト教社会館との比較を理論的にしていないことである。キリスト教関係者が全国から被災者支援に集まり、多くの社会貢献をした。その中で、名古屋キリスト教社会館は拠点を早く形成し、専門職を配置し、地域に根差し、専門性、継続性、発展性を示した実践を積んでおられる。名古屋キリスト教社会館から何を学ぶか。その点が課題として残されている。

資 料

低い危機管理意識

道北地域の自治体病院関係者と 総務副大臣との意見交換会
コロナウイルス対策で 参加者は事前にマスク着用を求める通知あり
傍聴者にも その場でマスクが配布された交換会
かの副大臣
「真剣な表情で話す皆さんに、真剣な表情で応えたい」と
ひとりだけ マスクの着用をしなかった
マスクして話す参加者の真剣な表情を マスク越しに想像しながら
自らはマスクなしで 真剣に対応するというパフォーマンス

某環境大臣が 対策会議を欠席したときに放った言い訳
「反省していることをわかっていただけなかったことを反省する」
わけのわからないリーダーもどきが 危機意識を軽視して
さも真剣に臨んでいますと 姿勢を見せる滑稽さ

事の発端は 国が過疎地医療の赤字体制解消を打ち出し
統合廃院の危機に瀕した地域の医療体制をどうするのか
そこが そもそもの協議の核心であり
ここで決まる話では あるまい
当事者は皆 病院の存亡をかけて 真剣にならざるを得ない
そんな当たり前の状況で 
マスク越しでは表情見えず 関係者との真剣な対応には 
マスクを外して 真剣な表情で応えたいとは 笑止千万

マスクを外すその前に
やるべきことがなかったのかを 
真剣に考慮すべきではないか
マスクを外したことで
真剣さがわかりましたと 参加者が納得したとしたならば
どんな集まりなのか 気が知れません

感染者は確実に 道内各地に拡散し 
道知事の初動のまずさが問われている
感染者には罪はないが ようやく発症地や年齢など 
具体的な情報が公開された
全く予想しなかった 中富良野町の小学生の兄弟までが罹患した
防ぎようのないコロナウイルス 流行真っ只中でのこの協議
かの副大臣 よさこいソーラン生みの親
格好つけて意気込んで 誠意を見せたいおもいの熱さ
ウイルスが踊らぬように 地方の医療体制強化に向けて
表情ではなく 態度でしっかり示すことこそ筋論なり
マスク外さずとも 真剣な協議ができれば問題ない
まずは防疫体制を 自ら範を垂れていただきたかった

後手に回った 政府の感染拡大を防止する対策も
ようやく 基本方針の整備の策定を指示した
「重症化防止を中心とした医療提供体制を早急に整える必要がある」
協議したのは 真逆の地域医療体制の統廃合 
道内で 医療提供体制が不整備の過疎地の住民は 
ウイルスの罹患すらわからずに 
売薬飲んであきらめなさいということか
日々の病気の治療と緊急事態への対策が喫緊に求められる
過疎地域の基幹病院の存続と医師の確保こそが 
いま改めて問われているのだ

北海道は いま緊急事態の不気味な幕開けを迎えた
せめてマスクで 飛沫が飛散しないよう
最低のエチケットを 呼びかけているのです
私だけは大丈夫という確証は 誰にもありません
同郷のよしみで どうぞご協力ください  

〔2020年2月23日書き下ろし。いまさら何をか言わん。重大な局面をつくったのは誰なんだ。医療提供体制といいつつ、一方で自治体の赤字の病院潰す相談ぶっている。このちぐはぐな政策がさらなる深刻な事態を将来引き起こすだろう〕

付記
首相、新型肺炎「重要な局面」 対策基本方針策定を指示
新型コロナウイルスについて、安倍晋三首相は23日に開かれた政府の対策本部の会合で、「国内の複数地域で感染経路が明らかではない患者が発生している。感染拡大を防止するうえで重要な局面だ」と述べ、今後の対策を整理した基本方針を策定する考えを示した。市中感染が懸念される中、蔓延(まんえん)期に向けた対応策の整備を急ぐ。
感染者総数は22日午後10時時点で769人。首相は会合で、「重症者の発生を抑制する観点から、重症化防止を中心とした医療提供体制を早急に整える必要がある」と指摘。患者数増大に備え、加藤勝信厚生労働相を中心に基本方針を整備するよう指示した。
同対策本部の開催は18日以来5日ぶり。
集団感染が起きた大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客だった栃木県内の60代の無職女性がウイルス検査で陰性と判断されて下船した後、22日に陽性が確認された。また、必要な検査をしないまま同船から下船した乗客が23人いたことも明らかになるなど同船での感染防止策の妥当性が問われる事態も起こっている。(朝日新聞社 2020年2月23日)

法治国家

法治国家の法が 改竄(かいざん)された
法が 恣意的に解釈されていった
法の番人が 役立たずとなった
法を隠れ蓑にして 統治を統制した
法は 法にあらずして無法化し
法をつくる者たちは 無用となった

法治国家を支える者たちは 言いなりになった
法治国家の下で働く者は 僕(しもべ)となり
独裁者の思惑で動く システムマシンと化した

時に 権力者の言質と法との整合性を国会で指摘され
死刑を命令する権者は 滑稽な辻褄合わせに奔走した
既成の法をないがしろにする 不遜な辻褄合わせに終始した
集団的自衛権の憲法解釈の変更を強行した手法は
いまも ご都合主義の権力者には 
有効かつ実現可能な手立てとなって
さらなる実効支配を 強化する
国家公務員たる官僚は ただただ従うのみで 
逆らうことなど もっての外
正常な判断力は放棄され 正義は葬られた
良識も見識もお飾り 巧みな処世術に磨きをかけた

法治国家を 名ばかりにする者たち 
立法府は 形骸化し 口汚い雑言蜚語の場となる
行政府は 忖度化し 上も下も口を濁す
司法は 危機感が鈍化し 法の遵守に口を閉ざす
法を法とは思わない 無法者たちが闊歩する

法治国家を 守りし者たち
茶番劇をいつまでも 
国費を使って ダラダラグダグダ続ける
敵失につけ込むこともままならず 
能なしと揶揄されても 返す刀は鈍刀なり
ただの烏合の衆は 民の支持を失い無力となる

法治国家を 軽視する者たち
集る数を頼りに
事あるごとに 情報統制の強化をはかる
真実を隠し続けて 保身をはかり
ミスはミスとは認めない 正当性を主張する
マスコミは スキャンダラスに報道し
民の鬱憤晴らしのガス抜きに 加担する 

見せかけの法治国家に生きし民
民に気配を感じとられぬよう  
民の悲痛な声も その意思も
静かに雪の降るが如く消されて
奪い取られ 捨て置かれいく

〔2020年2月23日書き下ろし。心ある国家公務員よ、隠している書類を小出しにせずに、良心があるならば白日の下にさらそうよ。法治国家の崩壊に手をこれ以上貸してはならない〕

昇る朝日に

釧路にいた
弊舞橋(ぬさまいばし)の袂(たもと)のホテルの10階
街並みから昇る朝日の神々しさに
その放つ真紅の色に
こころ奪われた
零下10度の冷え切った夜空を裂いて
今朝も街並みに その光を静かに照らし始める

人の世のざわつきも不安も打ち消していく
エネルギーに満ちた光を浴びたい
冷笑するかのように侵略を続けるコロナウイルスを
この光で焼き切ってもらいたい
限りあるいのちと慎ましい暮らしを
遠大なる宇宙をよぎる光で包んでほしい
よこしまな人間の邪悪な思惑こそ
荘厳な光で 消滅させてほしい

陽光に 身を隠す者たちは
嘘で固められた真実が 白日の下にさらされて
いつか身を滅ぼすだろう 
そうあってほしい

陽光に 身を委ねし者たちは
そのエネルギーを いのちいっぱいに浴びて
いつも身を清めることだろう
そう信じて 今日を生きる

〔2020年2月21日書き下ろし。数年ぶりに見た。ただこの高さのパノラマからの日の出は初めてだった。荘厳な日の輝きに宇宙の中の人間のちっぽけな存在を感じた〕

コネクティングルーム

身体が弱かった
でも職務上 海外に行かなければならなかった
遂行者は 医師だった
何か異変があれば すぐに処置できるように
万全の体制が求められ 宿泊するホテルを
部屋続きのコネクティングルームにした
要人は 意向を伝え 部下は手配した

全閣僚出席の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合
三閣僚が欠席するも 代理が出たから問題なしと 涼しい顔で票を稼ぐ
有能な要人には 替わるべき人材はいなかった
海外の国際会議ならばなおさらに 代理を出すわけにはいかない
体調不良をおして 何度も医師でもある官僚を同伴して海外に出た
身体は弱いが 責任感の強き要人は したたかだった
税金使った二人の行動が露見して 世間の批判に晒されようが
公私の区別はつけていますと 
同伴者とともに 悪びれることなく正当化する

コネクティングルームは 言い訳可能な 部屋続きなのです
コネクティングルームは 居心地のよい 相部屋同然なのです
コネクティングルームは 公私混同 どうでもよくなる部屋なのです

虎の威を借る狐たちは
今日も元気に 威張ります
いつもの通り 威張ります
これからは 検察からの新メンバーが入り もっと威張ります

虎の威を借る狐たちが
国会劇場の演目 無駄にただ増やします
己の無能と無恥を 思う存分さらけだします
政治への不信を強めてなおも平然と 生きながらえるのです

亡国への道を だれが阻むのでしょうか 

〔2020年2月20日書き下ろし。お仲間にいろんな疑惑や高圧的な態度が出ても、かばいきるのがいまの政権流儀。今春の国会劇場の茶番はエンドレス〕

強弁

証拠を突きつけられても かわす
不利な状況は 強弁でねじ伏せる
言質を取られれば 開き直って応戦する
発した言葉こそ真実であり 信じぬ者は人ではない

男は 操り人形のごとく 祭り上げられた 
男は トップの座に しがみつくしかなかった
男は 君臨を顕示するために 強弁を繰り返す

一生に一度の 男のロマンを満喫する
一生に二度も 男は権力の座についた
一生に三度目はないから 男は歴史をつくりたかった

称号は 在任歴代トップ ただ時間が無駄に過ぎただけ
実績は うんざりするスローガンばかりで 中身なし
信用は やること全てが裏目に出て 失墜するばかり 

男のコトバの嘘を暴く 桜をめぐるスクープに
世間は 溜飲を下げたけど
当たり前のことを回答したホテルの担当者
いまは その身に危険が迫る

男のしばきは 半端ない
意を汲み動く者たちは お眼鏡叶うチャンス到来
ANAは出入禁止と言い放ち 事態収拾図ります
さてさて ANAの幹部はどう出るか

裏取引して 男の言い分正しいと是正し
ホテルの担当 相当な処分になる公算ありしや
だれか 強弁に否定してください

〔2020年2月19日書き下ろし。ホテルの担当者の当たり前の対応がまかり通る世の中であれば、こんな心配不用です。それをねじ曲げるのが権力です〕

うだうだと…

知らない
調べない
出さない

誰かがやったことと
平気で 他人(ひと)に かつけて(せいにする)
身勝手な振る舞い 
死人が出ても 許された

あきらめの悪い男がいた 
拙い(つたない)コトバで 自己弁護した
意固地になった男がいた
拙いコトバで いつも切り返してきた
勘違いの甚だしい男がいた
拙いコトバが 身を滅ぼすとは知らなかった

もう限界だ
完全に 賞味期限は切れている
もう限界だ
賞味期限ではない 民の堪忍袋(かんにんぶくろ)
もう限界だ
取り繕う あんたのうだうだしたコトバ

往生際の悪い者たちがいた
政権の末期症状を 隠せば隠すほどに醜態(しゅうたい)を晒した
腐(くさ)りし悪臭を放す者たちがいた
目を背け鼻をつまみ耳をふさぐ民は 眼中になかった
民を常にないがしろにしてきた者たちがいた
民を愚陋(ぐろう)する言動の数々を 許すことができなくなった

だから そっくりお返ししよう
今度の選挙で 倍々返しの倍返し

〔2020年2月19日書き下ろし。ANAありがとう! でもANAインターコンチネンタル東京の回答した担当者が危うい。左遷される可能性は否定できない。そこに政治権力の怖さがある。闇に葬られることのないよう注視しよう〕

マチの銭湯物語

宿に着き 近くの銭湯に行った

下足の大きな木札を取って 入った
番台には 誰もいない
しばらくして 親父さんが出てきた
450円の湯料を払う
いつも持ち歩いている洗顔用ポーチに
入っているはずの シャンプーがなかった
親父さんは シャンプーないのかい 貸すよと
そういって 差し出した

久しぶりの銭湯の風情に つい懐かしさを感じた
湯船に 身を沈めた
痛い熱さが しばれた身体を容赦なく打った
湯船を独占する快感は なかなか味わえないいい気分

脱衣所で着替え しばし雑談した
常連さんは 新しい集合住宅に越していって
いまは 日に20人ばかりの客だという
爺さんの代に始めて 3代目 もう百年に近い
十の時に父が亡くなり 十八で母も逝き 
爺さんも 物心ついたときにはいなかった
それ以来半世紀 風呂屋を続けてきた
町からの助成金は 年20万円
油代で すぐ消える

いまでは 送迎付きの大きな風呂屋が幅を利かす
銭湯は廃れるばかりで ここ一軒となった
シャワーの取り付け金具や蛇口の部品のストックが これしかないと 
番台の後ろの棚に 置かれてあった
これをつくっていた会社が倒産し 壊れたらアウト
湯回りの設備を新調することなど 考えられない
そう言って 苦笑する 
いまじゃ 若い者も 子どもも少なくなって
銭湯に来るのは 高齢者だけ
メイン通りに面した銭湯も 世の移ろいにはあらがえず
商店街のさびれをもろに受けて 人通りも少なくなった
その中で老舗の羊羹屋が かろうじて体面を保つ
山の斜面を開いてつくった 古い歴史ある漁師町
漁が不漁で 頭を抱えるこのご時世
いまは観光客で 夏の一時賑わうが 
タバ風吹くと バタリと止まる

ところで 子どもさんは 
いらぬことを聞いてしまった
いないよと 72歳の親父さんは答えた
嫁ももらわず 一人で風呂屋を守ってきたのだ
とりとめない話をしていると 若い人が 入ってきた

丹精込められた観賞用植物が数鉢  
しばれつく玄関口に 置かれてた
緑鮮やかな葉は 客を迎える親父さんの気遣いだろうか
暖簾を分けて 雪降る街角に立った
向かえの羊羹屋に 十数年ぶりに入った
店員さんの 接待のこころに触れて またぬくまった

今年初めての どか雪を待つかのように
静かに更けてゆく

※タバ風:日本海から吹き上がってくる強い北西の風。一節に束になって吹く風とも。

〔2020年2月17日書き下ろし。大雪警報の中、翌朝街は除雪に追われていた。風呂屋の主人との語らいから、地域を守ることの厳しさを心に残した〕

ペンギンさんのお通りだい!

可愛いペンギン
冬の日差しを受けながら
でこぼこに一列つながって
朝の散歩に お出かけします

可愛いペンギン
ヨチヨチと 歩く姿はユーモラス
時々止まって 後から続く子を待ちます
目が合いました
幼いつぶらな瞳が 無造作に語りかけます
誘われたように おはようと声かけました

可愛いペンギン
キョトンとした表情を崩さずに
歩き出したそのとき 片手を振ってバイバイ返す
その立ち振る舞いこそ 今日一番の贈り物
こころは何だか 夢心地

可愛いペンギン
色とりどりの防寒具に身を包む 
ヨチヨチ歩く後ろ姿に
こころは無防備 ただただホッコリ 
スベりそうになりながら 元気な一歩踏みしめる
札幌のビルの谷間の風物詩
ペンギンさんのお通りだい!

〔2020年2月15日書き下ろし。見頃は午前10時過ぎ。市内の各所の保育園の外出風景。インフルエンザが流行しだした。ペンギンさん風邪引かないでね〕