阪野 貢 のすべての投稿

「哀史」をつくる―姉歯暁著『農家女性の戦後史』読後メモ―

〇嫁に来たとき、何故か名前が変わっていた。隣近所の人たちから「みさを(仮名)さん」と呼ばれて驚いた。舅(しゅうと)は温厚で、それなりに気遣ってくれた。姑(しょうとめ)は一人息子の夫を溺愛し、私には厳しく、生活のすべてにわたって辛(つら)いことばかりだった。畑仕事は夜遅くまで、骨身を削られるほどにきつかった。盆も正月も、父が亡くなったときも在所(ざいしょ)には帰らせてもらえなかった。でも義父(おとうさん)と義母(おかあさん)をしっかりと看取り、送った。母(大正生まれ。享年95)の述懐である。
〇父と母は、地下足袋をはいたまま土間の椅子に座り、板の間に置かれた二つ三つの粗末な器(うつわ)で食事をした。ただ、父には箱善があり、器がひとつ多かった。いつも、である。近所から餅つきの音が聞こえてくるころには、短い時間ではあったが、餅つきが楽しみだった。それほど多くない餅と必ず、黒っぽい団子餅が搗(つ)き上げられた。決して美味しいとは言えない団子餅を食べるのは、母だけだった。舅と姑はもういないのに、である。
〇筆者(阪野)が小学生のころだったろうか。父との間で何があったかは知る由(よし)もないが、「しか~られて~」「しか~られ~て~」「……」。母の涙声を感じとった。真冬の夜、母は薄氷が張る大きな桶のなかで、市場(いちば)に出す野菜を洗っていた。母の手はひびとあかぎれで覆(おお)われ、大きく膨(ふく)れあがっていた。その野菜を父(明治生まれ。享年87)は、自転車やリヤカーに乗せて、片道1時間以上もかけて市場に運ぶのである。
〇筆者はよく病気や怪我をした。夜中、父が引くリヤカーに乗せられて、町医者に急いだこともあった。畑仕事がどんどん遅れていくことを気にしながら母は、筆者を背負って、バスに乗って町なかの大学病院へも通った。ある日、受付の不手際で診察が最後になったことがあった。午前の診察時間はとっくにすぎていた。そのときの母の顔は尋常ではなかった。ある日、母はつぶやいた。「あんたを背負って川に飛び込もうと思ったのは、一度や二度ではなかった」と。
〇こんなことを思い出したのは、『日本農業新聞』の広告欄に掲載された、姉歯暁著『農家女性の戦後史―日本農業新聞「女の階段」の五十年―』(こぶし書房。2018年8月。以下「本書」)が目にとまったときである。
〇筆者は10年ほど前から、地元JAの准組合員であり、「日本農業新聞」と雑誌『家の光』(家の光協会)を定期購読している。その新聞の「くらし」面に、「女の階段」という投稿欄がある。それは1967年に始まり、今日まで続いている。投稿者は「農家の嫁」「農家女性」「農村女性」である。
〇姉歯暁(あねは あき。経済学)は、本書の目的について次のように述べている。「『女の階段』の投稿と(1976年に初めて開催された「女の階段」全国集会のたびに刊行される:阪野)大会手記集には、高度経済成長期に大きく変化していく農村の風景と家族のありさまが見事に記録されている。その時々の女性たちの思いが綴られた投稿や手記は、まさに農村の内側からみたリアルな女性史であり、政治史、経済史、農政史であり、そして生活史そのものである。/結果的に複合的な視覚から歴史の動きを記録し続けることになったこの貴重な資料を軸に、ここに描き出されている農家女性たちの思いとその思いを生み出した時代を読み解くこと、さらに、直接的な言葉では語っていないにせよ、女性たちが『なぜ?』と問うてきた数々の『不条理さ』をもたらしてきたものを探ることが、本書の目的である」(13~14ページ)。
〇姉歯は、農家の嫁が書いた投稿文や体験手記を深く・広く読み込み、農家女性の生活や人生を細かく・丁寧に聞き取る。それに基づいて、戦後民主主義と農家女性の「戦後」、公害と農薬事故・被害、出稼ぎと農業の兼業化、農産物の輸入自由化、「日本型福祉社会」による在宅介護、などの政治的・社会的問題を浮き彫りにする。そしてそれらを、多面的・多角的に、鋭利に分析・洞察することによって農家女性や農村女性、労働(タダ働きと過重労働)と家事・育児・介護を担う「女性農業者」の“戦後史”に仕立てる。
〇しかしそれは、農家女性や農村女性の単なる“哀史”ではない。そこには、農家の嫁に寄り添い、その視点に立った「怒り」や「闘い」、「自立」や「解放」への共感や意志がある。そして姉歯は、現代の農業・農村問題につなげることも忘れない。ただ、姉歯が取り上げた投稿や手記の多くは上層農の女性たちによるものであり、1970年代後半から1980年代以降、「投稿欄から徐々に政策批判が消えていく」(16ページ)。留意しておきたい。
〇日本の農業・農村や農民は、アメリカ(「外」)と、政府や財界(「上」)による農政によって翻弄されてきた。それゆえに、農家女性たちは「女の階段」を通じて社会参加や交流・連携(「横」)を図り、(「下」から)一歩一歩「階段」を登り、展望を切り開いてきた。しかしいままた、TPP(環太平洋連携協定)やFTA(自由貿易協定)などの外圧あるいは内圧がかかっている。「地方創生」(2014年9月)をはじめ「女性が輝く社会」(2014年10月)、「一億総活躍社会」(2016年6月)、「地域共生社会(我が事・丸ごと)」(2017年9月)などの単なるスローガン政治が続いている。障がい者の雇用機会の確保を図るという「特例子会社」制度や、障がい者等の社会参加や地域貢献を進めるという「農福連携」事業、そして国際貢献の役割を果たすという「外国人技能実習制度」等々によって、「新たな哀史」がつくられている。
〇以下に、留意しておきたい姉歯の論点や言説と、農家の嫁の手記のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

自営業の農家の特徴――農家女性は経営者であり無償労働の提供者でもある
農家は自営業である。自営業はサラリーマンとは異なる特徴をもつ。それは、次の四つにまとめられる。第一の性格は自己雇用である。自営業の経営者家族内では、企業のように誰かを雇うのでも、労働者のように誰かに雇われるのでもなく、自分が自分を雇用する、すなわち自己労働を行う。第二に、独立自営であること、つまり経営権を持ち、経営主体として自立している存在である。第三に、家業であること、すなわち経営基盤が家族に置かれていることである。したがって、第四に、生業であること、すなわち、基本的に働く目的が利潤追求というよりまず暮らしを立てることにおかれている。「家」(いえ)とは「家の財産としての家産をもっており、この家産に基づいて家業を経営している一個の経営体」なのである。
したがって、女性たちは、自分の嫁いだ「家」=経営体を守るために、自らの利得を考えずに自己犠牲を払うことが求められる。それも自らの意思で、である。なぜならば、彼女はこの経営体の一員だからである。(27~28ページ)

「家」制度と純血主義――嫁は血筋から外れる存在であり「家族」ではない
嫁は、後継者を産み、生業を支える大事な働き手であると同時に、「血筋」からは外れる存在である。その意味で、嫁は「家族」ではない。(中略)家制度の強固なつながりからすれば、実際の「家族」は血族のみであり、本人たちも意識しないほどに深層に潜んでいるものは「純血主義」である。
経営権に関するすべての制度については「男系中心」におかれ、出産・育児については「母系中心」におかれる。したがって、嫁から生まれた子どもは、息子の血を受け継ぐものであり、子どもの所属は「家」にあるが、子どもの「血筋」を意識するとき、不思議なことにそれは「母系」を中心に据えられるのである。すなわち、嫁の子どもは、嫁という他人を通じて嫁の「血筋」を引き継ぐ存在であり、自分たちの「血筋」を引き継ぐものは「嫁に行った娘」の子どもなのである。
今でも多くの嫁たちが、子どものものを実家で揃えて持ってこいと言われ、しかも、その豪華さや品数を競わされることに苦悩している。(37~38ページ)

女性リーダーの再編――進歩的女性指導者が政府の国民的運動に加担した
山高しげり(1899年~1977年)、奥むめお(1895年~1997年)は、戦前は市川房枝(1893年~1981年)や羽仁もと子(1873年~1957年)らとともに婦人参政権運動の中心的役割を担っており、戦後、参政権が認められると、消費者運動のリーダーとして名を連ねるようになっていった。ただし、彼女らは、戦時中、国民精神総動員中央連盟に主要なメンバーとして参加し、女性たちをもっと徴用すべきとまで発言していた。いわば軍国主義の推進者であった。それが、戦後の日本で、消費者の権利拡大を要求し、くらしの向上を訴える側に立つことは一見すると対立しているようにも見える。
これらの女性リーダーたちの「戦争への積極的加担」の根底にあるものに対する若桑みどり(1935年~2007年。ジェンダー論)の分析は、この一見矛盾する行動の真の姿を明らかにするという意味で秀逸である。若桑は、進歩的な女性指導者たちが戦い続けてきた男性社会――それまで女性の社会的存在意義を無視し、締め出してきた――が、戦時中、生産現場における女性労働力の必要性を認めざるを得なくなったことを好機と捉え、自分たちが置かれている状況を改善できるチャンスと信じたのだと分析している。それは、戦後の生産性向上運動に再び彼女らが積極的に「加担」したことにも脈々と受け継がれている姿勢であるといえよう。
戦時にあっては、政府は国民を総動員するために、女性解放の闘士たちを逆に一般の女性たちに対するプロパガンダの担い手として再編していったが、戦後は、GHQ、政府、財界が生産性運動(①雇用の維持拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配:阪野)という国民的運動のプロパガンダの担い手として再び女性リーダーたちを再編していったのである。(41~42ページ)

GHQと政府の思惑――生活改善運動は生産現場と個人の生活の場までを包摂した
農村における生活改善運動の主たるものは、女性たちを農作業と家庭内労働の重労働から少しでも解放することに置かれていた。生活空間と作業空間の分離やかまどの改善、台所に窓を設け、日当たりや風通しを確保する台所改善事業、保存食や粉食(ふんしょく)の導入、農作業着の改善に加え、高度成長期に入ると、共同炊事、農繁期の保育所の設置など多岐にわたる活動が展開された。(50ページ)
生活改善運動は、一方ではアメリカと政府、財界の思惑を背負って、資本が生産現場だけでなく、個人の生活の場までを包摂しようとする衝動を原動力としながら進められたものである。家族計画を広めようとしたGHQの側にも、政府の側にも、現在では常識となっている女性の産む権利や母性の健康を人権(ヒューマン・ライツ)として捉える意識はなかった。その意味では、確実にこの運動は「上からの」押しつけでもあった。しかし、それは、戦争で失われた生活を再びとり戻そうとする生活者たる女性たちが受け入れたからこそ広がったことも事実である。
特に、受胎調節は、個人の性生活にまで国家が干渉するというものであったにもかかわらず、農村の女性たちに歓迎された。
当時、農村部では、避妊に対する夫の協力が得られないまま、幾度も妊娠し、その度に堕胎を繰り返し,死に至ったり、ひどい後遺症を負ったりする悲劇が頻発していた。(52ページ)

農業の近代化――「農業基本法」によって零細農家の整理と離農促進が図られた
「国民所得倍増計画」にもとづき公布された「農業基本法」は食料増産を主軸に置いた戦後直後の農政を転換し、輸入自由化路線を土台に据え農業の生産性を上昇させることを第一目標に掲げる、いわゆる「生産性至上主義」を示したものであった。と同時に、そこでは農業の生産性向上を図るために、農業の近代化、合理化を図る必要があり、そうすることで農業と他産業の所得格差の是正もはかることができるとする、第二の目標、すなわち所得の格差解消が掲げられていた。
基本農政のもとで進められた「農業の近代化」の「近代化」とは、実のところ、零細農家を整理してその分の農地を集約し、力のある農業者にこれを担わせることであった。(138ページ)
このような生産性向上が目に見えて計られていること、しかも、農家では後継の世代が大量に他産業へと流れていたことは、政府が考える「農業の近代化」を進めるために必要不可欠なものであった。零細解消のための技術的な要件はすでに揃っていた。ここに大規模な公共投資を行い、製造業労働者と肩を並べる賃金を得られる農家を育成するというのが、この所得倍増計画と、この理念に基づいて1961年に制定された「農業基本法」(1999年7月、「食料・農業・農村基本法」施行により廃止:阪野)であった。(138ページ)

「サンドイッチ世代」の自問自答――介護する側から介護される側になった
長年「女の階段」に継続的に投稿を寄せてきた女性たちの多くは戦後民主主義のもとにありながら、未だに家父長制的イデオロギーが蔓延する農村で悔(くや)しい思いを呑み込んで生きてきた、いわゆるサンドイッチ世代である。サンドイッチ世代とは「明治生まれの姑につかえ、戦後生まれの嫁との間に挟まれる世代」(中略)とされる。
この世代の女性たちは、自身の半生を介護に捧げ、いつか自分たちも嫁を迎えたら、それで自分は「嫁」としての役割から解放されるものと期待し、毎日を耐えてきた。その一方で、この世代の女性たちは、それまでの女性たちが背負ってきた不条理さを自分の代で終わらせたいと考える先進性をも身につけているのである。つまり、サンドイッチ世代とは、実は自分自身の中にある相克(そうこく)する感情に、葛藤を余儀なくされる世代のことでもあったのだ。
「女の階段」の女性たちは、自分自身が介護を受ける身になる時期が近づいていることを実感しつつ、この二つの相反する思いに自問自答を続けている。そして多くの場合、自分の介護に話が及ぶと、自分たちの世代がやはり次世代を解放できずに終わることを、ため息をつきながら認めることになる。(255ページ)

「日本型福祉社会論」のねらい――崩壊した共同体の再構築は夢想にすぎない
1979年、(中略)「日本型福祉社会」が新たな福祉政策のシンボルとして掲げられた。(264ページ)
日本型福祉社会論の目指すところとは、公的責任で運営されるべき福祉を自助努力と家族・地域の相互扶助に転換し、福祉予算を可能な限り削減することである。(266ページ)1970年代以降、すでに都市部やその周辺では、親と子だけの世帯、高齢者だけの世帯、もしくは高齢者を含む独居世帯が拡大していた。高齢化が進む農村部でも、若年層の流出がただでさえ顕著であり、地域全体で「人手不足」が常態化している現状からして、増える高齢者介護を地域で支える仕組みが作れるはずもない。加えて、ほとんどの農家が兼業となっている現状では、夫婦ともが農外労働に出ている家も多く、多世代同居であっても、常に家に介護者がいるわけではない。そんな中で福祉政策を在宅へと切り替えられれば、結局、介護する家族と、誰よりも介護される本人が福祉の枠組みから排除されるだけのことである。共同体を崩壊させながら歩んできた資本主義経済のもとで、崩壊した共同体を再構築することはただの夢想にすぎない。(267ページ)

学用品を買ってあげたい
子どもが小学校にあがるとき、学用品を買ってあげたいと思ったけれど、嫁に自由になるお金はなかった。買ってくださいなんて舅や姑にとても言えなくて、自転車に野菜を荷台からあふれるほどいっぱい積んで、暗くなるまで泣きそうになるのをこらえながら走り回って売った。そのお金で子どものものを買った。(姉歯による聞き取り、茨城県、2017年。本書〈以下、略〉35~36ページ)

子どものための万引き
学校の運動会、学芸会の時期になると、小さな万引きが農村地域で増加する、という労働省婦人少年局の調査がある。わが子のために、また、こどもにはずかしい思いをさせないためという親心が主婦の自由になる金がないため、つい手がでるという、いたましい母の姿ではないか。(『日本農業新聞』1965年5月7日付。36ページ)

「しまい湯に落つる涙」
「しまい湯に落つる涙を拭い得ずこの家に一人の味方も無しと」などという歌の抜き書きが目にしみて、ただ希望に満ちて生きてきたつもりの自分に、このような感情の起伏があったのかと、なつかしく思われ、若いお嫁さんへ同情がわきます。(中略)各人の努力と思いやりで公平な生活設計を家族みんなで打ちたてていきたいと願うものです。(『日本農業新聞』1970年8月20日付。81ページ)

豊かさの本質を考える
私たちの生活は本当に豊かな暮らしなのだろうか。生活は便利になっているが‥‥‥。豊富な物資、便利さの中の自分たちの生活を改めて振り返ってみるべきだと思う。(中略)昔に比べ、たしかに表面的にはゆたかになっているが、その代償は労働の増加と借金の増加ではなかろうか。豊かな生活は物の便利さとお金の豊かさだけだろうか。農村には農業から得た本当の豊かさを求めるべきではないだろうか。私たちはもう一度見直し、考え直す必要があると思う。(『日本農業新聞』1974年4月29日付。97、98ページ)

権力でおどされるのでなく
私達農民は生産物について質をよくし、農薬も適切な量と使用方法を守り、あくまでも安全良品への追求を忘れてはいけないと思います。米の減反政策でなく化学肥料や農薬の使わない有機農業をめざすべきです。(中略)「私達は今どこに向かって歩んでいるのであろう」と絶えず自問し、体は建物より、命は衣服より価値があるのです。権力でおどされるのでなく、あくまで人類全体の益をはかり進むべきではないでしょうか。(『「女の階段」手記集』第2集、1979年。114~115ページ)

農民と農協による農業潰し
農業潰(つぶ)しがここまで進んだことには農協の責任は大きいけれども、農業人(農民)の力不足ではないかと思います。農民も農協とともに歩んでくる中で、羽交い絞め(はがいじめ)にされ、丸め込まれて、それに男性がどっぷり浸(つ)かっている様子をみてきました。だから、JAの人も農民も外圧に負けない理論を学び身に付けるべきだと思います。(姉歯によるインタビュー。250ページ)

「私の人生は何なのだろう」
夫の母を15年間在宅介護で看とりました時、夫は「良く面倒を見てくれた。今度はおれの番だなあ」と何気なく言っていましたが、よもやこんなに介護の日が続くとは、思ってもみませんでした。(中略)(夫の)痴呆が始まってから4年半、何と私の介護生活は20年も続くのです。そして、これからも何年続くのか「私の人生は何なのだろう」と考えてしまいます。(『「女の階段」手記集』第8集、1996年。277ページ)

〇姉歯は、本書の「あとがき」で次のように述べている。「ここに描かれているものは、程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ。久しくなおらない病気)そのものである」(283ページ)。留意したい。

付記
(1)最近の「女の階段」投稿文を紹介しておくことにする。

(2)姉歯の言説の理解を深めるにあたっては、例えば、田端光美著『日本の農村福祉』(勁草書房、1982年7月)が参考になる。また、田端のことについては、田端光美著『坂と海と』(ドメス出版、2001年6月)がある。

ほめる

園児が二人 砂場で遊んでいた

保母が 通りかかった
目ざとく見つけた 一人の園児
「先生 これ見て」
手のひらのものを 差し出す
「あら 上手に出来たわね」
その子は その後 同じものを たくさん作った

別の保母が 通りかかった
もう一人の園児が 遠慮深そうに 手のひらのものを 差し出した
保母は 匂いをかぐように 鼻を寄せ
「おいしそうな匂い なんの果物かな?」
その子は その後 これはリンゴ これはモモ これはメロンと
様々な 果物を 作っていった
カタチは よく似た果物だった

ほめるということ
子どもの 感応力を刺激し そばに寄り添い 一緒に楽しむこと
ほめるということ
子どもの 想像力と創作意欲 根気強く取り組む力を 引き出すこと
ほめるということ
子どもが 取り組む姿と その意欲や態度を 認め励ましてあげること
ほめるということ
子どもの 上手い下手とか 誰かと比べるとか そんな不安をとっぱらって 自由に表現する 手助けをしてあげること
ほめるということ
子どもが 自分を誇らしく思うよう“育つ”ために おとなは真剣に自分と向き合うこと

できない できていない
それは
おとなが “ほめる”ということを ほんとは知らないだけなんだ 
おとなが 子どもの感応力を もう感じられなくなっただけなんだ

そんな御託を並べることより 結果をほめれば 子どもは育つんだよ
その思い違いが 子どもの感応力を 見事に台無しにしていく  

〔2019年8月1日書き下ろし。ほめ方を知らない大人たちへのメッセージ〕
 
付記
「THE SENSE OF WONDER(驚くセンス)」
…感性(sensibility )感応力は、もろもろの人や生きもの、それに事物に対して敏感に対応する、ものに驚く、あるいは不思議がる、神秘的なものに驚異を感じる、そういう複雑な感性を、The Sense of Wonder (驚くセンス)と名付ける。
子どもたちは、生まれ出ると、実に敏感に外的世界に対する豊かで新鮮でデリケートな感性=感応力を働きはじめる。これが、実は後に発達する「わきまえる力」の泉です。
…「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。
…自然の子どもにとってかけがいのない良さは、沈黙の中で感性を刺激し、子どもの内面に豊かな感情を育んでくれます。
「それは何かを教えるためではなく、一緒に楽しむためなのです。」
人間の感性を耕すには相棒が必要です。すべて人間性は人間関係の中で定着するということです。だから、誰かと一緒に自然にふれるということがとても大事なのです。
「知性」とは、ただ孤独に自分の頭のなかに知識を蓄積しておけばよい、ないし”持って(having)” いればよいのではなく、違いを前提として他人と分かり合う知識が、生きてここにある” 身についたものとしてある(being)”ということが大事であり、感応力に支えられた知識を知性というのでしょう。
(『沈黙の春』で1962年の段階から地球汚染の警告を世界に投げかけた「レイチェル・カーソン」の遺稿『驚くセンス』から)

あいつとおれ

あいつが いるから 大丈夫!
あいつが いうから 大丈夫!
あいつが やるから 大丈夫!

だって あいつはおれの と・も・だ・ち
いつだって おれのいうとおりに してくれる
どこにだって いっしょについてくる
いつも 笑いながら おれのそばにいる
そうさ あいつとおれは なかのいい と・も・だ・ち

きょうも あいつと ふたりっきり
だれも おれたちを あいてになんかしてくれない
ときどき むしょうに はらが立つ
だから あいつといっしょに わるさする
ドキドキハラハラが たまんない
おれが こうしたいと思うところを あいつはよく知ってる
みつかって しかられても どうってことはない
やらなきゃよかったなんて おもったこともない
まわりのやつらに なんて言われても へこたれない
だって おれには あいつがいる
あいつを 信じている 
そうさ だれよりも 信じているんだ

ただ おれだって たまには あいつとけんかする
そんなときには だれかと遊びたい
でも あいつを ひとりにできない
だって あいつは みんなのきらわれもの
だれも 遊んではくれない
だから と・も・だ・ち になってやった

人間ひとりぼっちじゃ つまんない
もし おれがあいつなら きっとよろこんでいる
だれだって と・も・だ・ち って大事だよ
おれが と・も・だ・ち でいるかぎり
あいつは さびしくなんかない
まわりのみんなに ひどくきらわれていても
だれにも あいてにされなくても
だれか ひとりくらい そばにいてあげなきゃ
だから と・も・だ・ち の おれがいる 
おれも あいつがいないと…
ひとりぼっちだ

〔2013年12月23日。学級崩壊したあるクラスの子どもたちへのメッセージ加除訂正〕

子どもの遊び心とこっちょ

突然 男の子が 校長室の窓ガラスをノックする
「こっちょ 入っていい?」
「どうぞ!」
窓を開けると 這い上ってきて 窓枠に外靴を脱ぎ
そこから床に ドーンと飛び降りる
それが ことの始まりだった

北国の校舎は 雪が積もるので
地面から窓まで 結構高い
その高さに挑んで 子どもたちは よじ登ってくる
小さな子が這い上がってくるときは 下で高学年の子が持ち上げる

入りたくても 介添えなしでは よじ登れない子が
悔しそうに 下から窓を見上げる
校長室の窓の下に 白い五段の階段を つくってもらった
だれもが 自由に出入りできるようになった
放課後 こっちょの部屋は いつも子どもたちで溢れた

大雨の朝 六年生のモモが 傘をさして 窓の外に立っていた
開けると ビシャビシャに濡れた体で 勢いよく飛び降りてきた
傘からのしずくと体からのしずくが 辺り一面に散った
「おはよう」という言葉を残し モモは長靴を持って教室に向かった
後始末の雑巾は ビショビショに 重くなった

中休み モモがやってきた
「どうして 土砂降りの中 入ってきたんだ?」
「だって 突然そうしたかったから」
子どもは 理由(わけ)もなく したいと思った瞬間 行動する
おとなは 理由(わけ)を知りたがる
頭脳明晰(ずのうめいせき) 自由奔放(じゆうほんぽう)なモモを前にして
知的好奇心を放棄した
そのままを受けとめる 受け入れることを 学んだ
『子どもは 行動した瞬間 個性化する』

こっちょの部屋は 千客万来(せんきゃくばんらい)
突然子どもが窓から現れ 驚くゲスト
気心知れた新聞記者には 絶対記事にしないよう口止めする
おとなのつまらない干渉で 子どもの楽しみを奪われてはかなわない
おとなは 理由(わけ)を知りたがる
「窓は その下に階段を設けたことで “ベランダ”に なっただけ」

こっちゃは去り ただの校長に 替わった
階段は 取り払われ
旧(もと)の木阿弥(もくあみ)となった

〔2019年8月1日。『子どもと学ぶボランティア』鳥居一頼著/2008年5月5日発行/大阪ボランティア協会刊/p13~17参照〕

出発点

昭和48年春、新米教師は、仲洞爺小学校(昭和52年3月統廃合のため閉校)に赴任。
大横綱北の湖の出身地、北海道胆振管内壮瞥町、その洞爺湖畔にあった。
そこで十人にも満たない子どもたちと一緒に、湖畔の清掃活動をした。
夏、洞爺湖温泉街の方から南風に乗って、空き缶やゴミが、対岸の仲洞爺の湖畔に流れ着く。
そこは、学校のプールでもあった。

毎週月曜日の放課後、5つの段ボールに集める。
それが、子どもたちの小さなボランティア活動となった。
その子どもたちを、「地球の掃除行動隊」と名付けた。
だれもこの地球からは、決して逃れられない。
君がどこに住もうとも、そこは地球の一部。
そこを、住みやすく生きやすくすることができるかどうかは、一人ひとりの心の問題。
だから、たくさんのいのちを育む地球を守るために、君が今できることを身のまわりから始めよう、と。

『Thinking Globally Acting Locally(思考は地球レベルで、活動は地域レベルで)』
ちっぽけなグループでも、物事を考える想像力やスケールだけは、大きく育ってほしいと願った。
そのおもいは、ボランティア学習に関わる原点となり指針ともなった。
そして、その後の人生を決めた。

当時、小学校で子どもたちが、社会福祉やボランティアを学ぶことは、稀だった。
その学びの価値を見出す実践研究へと導かれ、いつしかライフワークとなった。
「地球の掃除行動隊」。
この小さな実践が深くこころに刻まれ、いまも生気をもらい、福祉と教育の世界で生きながらえている“わたし”がいる。

〔2019年7月31日。『ちょうどよい目の高さでの福祉教育』鳥居一頼著/1992年5月1日発行/大坂ボランティア協会刊/p10~11要約・加筆する〕

ありがとう

“ありがとう”って 言うと
どうして こころが あったかくなるのかな
どうして うれしく なっちゃうのかな
どうして 笑顔に なっちゃうのかな
どうして しあわせな 気分になるのかな

“ありがとう”って 言われると
どうして こころが あったかくなるのかな
どうして うれしく なっちゃうのかな
どうして 笑顔に なっちゃうのかな
どうして しあわせな 気分になれるのかな

“ありがとう”
知らない人でも
知ってる人でも
だれもが 笑顔になれる 魔法の呪文(じゅもん)
二人の間に あっという間に しあわせの橋をかけてしまう

“ありがとう”
素直に言えたなら
ひとは 憎み合うこともない
ひとは ののしり合うこともない
ひとは 恨み合うこともない
ひとは 殴り合うことは 決してない

だれもが 小さな思い合いをする 魔法の呪文
二人の間に あっという間に いさかいのこころを消してしまう

“ありがとう”
感謝の気持ちを表すコトバ
それは
“わたし”が いまここに 生きている喜びを 表すコトバ
生まれてきて よかったと 誰かに伝える コトバ
これからも たくさんのあったかい手で たくさんの思い合いのこころで
“わたし”を支えて はげましてくれる コトバ

“ありがとう”
ただそれだけで 
ひとは こころ豊かに 生かされる
不思議な 不思議な 魔法の呪文

〔2014年1月5日。2015年国文祭秋田大会:プレ大会2014年2月北秋田市「詩と書」のイベントで朗読される〕

まっすぐな まなざし 

まっすぐな まなざしを
まごころいっぱいの 
きみのこころに 思いっきりあつく向けよ

まっすぐな まなざしを
きみを愛(いと)しむ 
かけがいのないひとたちに ただひたむきに向けよ

まっすぐな まなざしを
この世界に生きる
すべてのいのちを やさしく抱きしめるように向けよ

まっすぐな まなざしを
時に くじけそうになり あきらめかける
きみの弱さや言いわけとの 静かな語らいに向けよ

まっすぐな まなざしを
こんなひとになりたい 
こんなことをしたい
そんな憧憬(あこがれ)に しなやかに向けよ

そして
まっすぐに
まなざしを
未来のきみに 向けよ
きみが生きる 未知なる世界に 
希望(のぞみ)高く したたかに向けよ

〔2014年2月6日。20年間福祉の授業を続けている秋田県鹿角市の小学生へのエール〕

見限られた8割の民たち

参議院選挙後の空虚感(くうきょかん)は どこからきているのか
民意を得たと 党首は 満面に笑みを浮かべて テレビで国民に報告する
問題を常に先送りし ご都合主義に凝り固まった 権力者の虚勢(きょせい)
投票率48.8% 戦後2番目の低率
棄権(きけん)した民が 国民の半数以上
棄権は 「政権への同意」と読み替えられ 勝利宣言の根拠となった
取り返しのつかない 愚弄(ぐろう)を冒(おか)した民たちが
うつろな目をして 画面を垂れ流す

政敵を罵倒(ばとう)する 街頭演説の姿は 
口汚いどなたかにあやかり 勝利を確信
当選した議員の数だけ競う 中身のない政策論争
政敵が負けたのは したたかな策略を弄(ろう)しなかっただけ
「憲法改正」という 民の関心の薄いテーマを掲げ 
投票場への足を遠ざけた 見事な戦略に 感服(かんぷく)の至り
結果 承認されたと豪語する 傲慢(ごうまん)さを 甘受(かんじゅ)する民たち

民意を得たという その確信は どこからきているか
有権者全体に対する 絶対得票率は 2割を切る
権力者が 選挙に勝つ条件は ただ一つ 
善良な民が 何もしないこと
残りの8割の民意は 反映されず 切り捨てられていくだけ
政権の相手は 支持してくれた2割の国民の欲求を満たすだけ
「棄権」のリスクを 熟考(じゅっこう)することなく 
子どもらに 未来を託す社会づくりの責務を放棄した 5割強の民たち
これからの人生への覚悟が 問われるのだ

その子どもらも 民の背を見て 自らの選挙権を 見事に放棄する
18歳は34%、19歳は28%の投票率
3年前の参議院選に備えて 文科省は全高校生に副教材を配布した
15年度に 主権者教育を実施したのは 94%
その実態は 皆目(かいもく)わからない
ただ 選挙の説明が「あった」と答えた高校生は 半数の51%
善良な教師たちは 文科省から配布された副教材を 配るだけ
政治的中立の確保に 悩みながらも 
結果 体制におもねいた 教師たち
子どもたちの 政治への無関心を ことさら強め助長する

多数決を絶対化してゆく 議会制民主主義の終焉(しゅうえん)
墓場化してゆく 議論不毛な国会議事堂
そこに蠢(うごめ)く者たちの 陣取り劇場
飽きもせずだらだらと 攻防を繰り返すだけの 低次元のマンネリ劇場
議員特権に固執(こしゅう)する者には 世間をあざといながら生きながらえる 甘美(かんび)劇場

さて 民に選ばれし者たちよ
くれぐれも 油断めさるな
栄華(えいが)は 常に凋落(ちょうらく)の憂き目にあうのが 世の習い
民を侮(あなど)ると 痛い目にきっとあうと 
議員先生 肝に銘じておかれますように

力のある民よ 
贔屓(ひいき)の者が 間違えを起こしたり 偉そうに振る舞ったりしたら 
躊躇(ちゅうちょ)なく お灸(きゅう)をすえてください
えっ できない?
「損得勘定するから… 少し待ってんか?!」

〔2019年7月28日書き下ろし。毎日新聞社説に触発されて〕

付記
「18、19歳の投票率31% 主権者教育の立て直しを」
これもまた深刻な数字である。
先の参院選での18、19歳の投票率(選挙区、速報値)は31%にとどまり、全体の投票率(48%)より約17ポイントも低かったことが分かった。
投票年齢が18歳に引き下げられて4年目。若者の政治への関心を高めるため、高校では政治の仕組みや投票の仕方などを学ぶ主権者教育が始まっているが、早くもおざなりになっていないだろうか。
総務省によると18、19歳の今回の投票率は、18歳選挙権導入後、初の国政選挙となった2016年の参院選と比べて15ポイントも減った。18歳は34%で、19歳は28%まで落ち込んだ。
投票権を得た最初の機会に投票に行かないと、その後もずっと棄権してしまう人が少なくないという。学校で政治を学ぶのは、そんな流れを食い止める狙いがあったはずだ。
文部科学省は公立、私立全ての高校生に主権者教育用の副教材を配布している。3年前の参院選に備え15年度に主権者教育を実施した高校は94%だったと同省は発表している。ところが「明るい選挙推進協会」が、その時点で高校生だった若者にアンケート調査したところ、「授業などで選挙について説明があった」と答えた人は51%だった。模擬投票の実施など積極的に取り組む高校は確かに増えたが、副教材を配るだけといった高校も多いとみられる。
3年前の参院選では東京都などで18歳の投票率が全体の平均を上回った。学校や自治体の取り組み次第で若者の投票率は大きく変わると関係者は口をそろえる。
18歳より19歳が低い状況も変わらない。高校を卒業し、大学進学などで引っ越しても住民票を移さない若者が多いのが大きな要因だ。大学生も4年間生活する自治体に住民票を移すのが原則だということをさらに周知させるべきだろう。
授業の中で「政治的中立」をどう確保するか。依然として悩み、二の足を踏む教師も多い。安倍晋三政権は今、主権者教育より、保守的な価値観を重視するような道徳教育に力を入れているようだ。
だが何のために投票するのか、民主政治の大切さを学び、生徒一人一人が考えて意見を交わすのが主権者教育の原点だ。政府は現状を把握して早急に立て直す必要がある。
(2019年7月28日。毎日新聞/デジタル毎日/社説)

村の保健師さん

「心配してたよ。心臓の加減はどう?」
「だいぶようなった。家で少しおとなしくしているわ」
「それがいいね。だんなさんも心配してたわ」
「家が一番落ち着くね。入院はこりごり」
「そうだね。また血圧上がらないようにしないと」
「あんたがいるから、ありがたいよ」
「時々来て、悪さしてないか、チェックするからね」

「また無理したって。腰は大丈夫?」
「腰痛は持病みたいなもん。膏薬(こうやく)はって寝てりゃすぐ治るさ」
「ご飯はどうしてる?」
「隣に面倒みてもらっているよ。こんなときほどありがたい」
「ほんと。助かるわ。奥さんが世話焼きさんだったから」
「うちのやつも、あの世で喜んでいるよ」
「なんもさ。年甲斐(としがい)もなく無理してって、心配してるよ。痛みが引かないようなら、一度病院さ行って診てもらわないと」
「もう少し、様子みるさ」
「お隣にも声かけておくから、まずはお大事に」

「なに心配してるの。言葉が遅いって」
「なんだか、まわりの子と比べたら、心配で」
「子どもと、たくさんおしゃべりしてる」
「仕事と家事と育児で、もうてんやわんや」
「忙しいのはわかるけど、テレビにお守りさせてない」
「テレビはあんまり。でもこの子スマホに興味があるみたいで、ひとりで遊んでるの」
「すごいね! って、褒(ほ)めると思う。残念!」
「えっ。どうして?」
「いまの若い子は、スマホで子守させるけど、でもそれじゃ無理。たくさん生きた言葉をかけること。いまおしゃべりできなくても、脳が活性化して言葉をバリバリ吸収していくの。
スマホやテレビで代用できないのは、お母さんの“生の声と反応”。
脳と心に刺激を与えていくのは、お母さん、あなたのやさしい声や言葉のシャワー。たくさん浴びせることと、そしてハグ。このままじゃ、あなたの心配が顔と声に出て、子どもが不安になるわよ」
「そうなの。パパにも、たくさんおしゃべりさせなきゃね」
「子育ては、まわりの子と比べたがるけど、もっと楽しみなさい。親になれば心配事も増えるけど、泣いて笑って、また笑って。あなたと子どもの“あったかい物語”を、たくさんつくってください」

村の保健師さん、
みんなの“こころとからだ”のケア・アドバイザー。
家族の“しあわせづくり”の仕掛け人。
あなたの笑顔と明るくポジティブな仕事ぶりが、みんなの元気と安心の拠り所。
頼りになります、頼りにしてます。

だから、「医者の不養生(ふようじょう」」にはならぬよう、あなたの健康が一番。
くれぐれも、“からだ”をいたわって、なが~く、おつきあいくださいって、
保健師さん、
みんなの声、聞こえていますか?

〔2018年11月14日。秋田県北秋田市・美郷町各保健センター保健師さんへのメッセージ〕

融和の心

「あそこの奥さん、認知症だってほんと?」
「そうらしいわね。この間ゴミステーションで会ったんだけど、燃えないゴミの日なのに燃えるゴミを持ってきててね、今日は燃えないゴミの日よって教えてあげたら、なんだかムッとして怒った顔して、ゴミ袋を持って戻っていったわ。なんか意地悪したような気持ちになって、気分がいまいち…」
「やっぱりね。気にはかかっていたんだけど、お店で会って挨拶したら知らんぷりされて変だなって思っていたのよ。何か気に障ったことしただろうかって、考えたんだけど心当たりもないし、もしかしてと思ってね。それで合点がいったわ。でも長い間ご近所で、お付き合いもあるし、これからどうしたらいいの?」
「このご時世、プライバシーがあるからって。みんな無関心を装っているけど、本当は気にかかって仕方がないっていうのが、本音じゃない」
「ひとり暮らしでいるだけに、何かあってからでは遅いしね。子どもらも離れていて滅多(めった)に帰ってくることもないし、気がもめるだけだわ」
「そういえば、民生委員が、昨日様子を見に行ってくれたって聞いたわよ」
「それはありがたいわね。民生委員が行ってくれたんなら、ほっとしたわ」
これで二人は、気にかかっていたことから解放され、その問題は一件落着したのでした。

さて、これで本当に解決したのでしょうか。
個人情報保護法は、情報化社会における個人のプライバシーを護るためにつくられた法律ですが、この法律が出来たばかりに、とんでもない事態が起こっていたのです。
当初は、決して悪意があったわけではありません。
でもそれが、世間で問題のある人には関わらなくてもいい、関わらない方がいいという孤立化を正当化する「方便(ほうべん)」に使われ出したって、知っていましたか?
瞬(またた)く間に広まって、相手のプライバシーを侵害(おかす)ことになるから、気にはかかっていても、それ以上は踏み込まない、心配なことや家の事情などなど、知ってはならないことを、知ろうとしてはいけないことになったのです。
立ち話ぐらいにしておいほうが、相手から憎まれることもなく、面倒に巻き込まれることもないから、まずは御身安泰(おんみあんたい)です。

そう考える人が増えてきて、世間の人情は、急速に冷えていきました。
お節介は嫌がられ、自分や家族のことだけに、執着(しゅうちゃく)しだしたのです。
他人(ひと)とは、もめぬようもつれぬよう暮らすことが一番だと、信じ始めました。
プライバシー保護は、相手と深く関わらぬように暮らすための、「適法」となってしまったのです。
そして、世間の“人と人とのつながり”が、バラバラに断ち切られていくのでした。

こんな冷たい世間はおかしい。
公然と弱い立場の人が、どんどん世間の淵に追いやられていく、現代の村八分。
そう気がついた人たちが、少なからずいました。
このままでは、人の道を全うできない、“人でなし”の世の中になる。
自分が生きている地域(ここ)で、こんな世の中をつくってはならない。
いまそっぽを向いている人も、いずれは行く道、辿(たど)る道。
世の移(うつ)ろいで変わらぬもの、それは人の道。
それをいま自分が動かねば、世は廃(すた)ると感じたのです。
人が突き動かされるのは、大義名分よりも情感です。
このままほってはおけないという、“おもいの熱さ”です。

もちろん、はじめからそんな熱いおもいや強い憤り、そして正義感があったわけではありません。
そのきっかけとなったのが、若いときからお世話になった先輩からの誘いでした。
「いま世間の弱い立場にいる人たちから一番求められているは、誰だか知ってるかい?
俺たち一人ひとりが、どんなに世の中を憂(うれ)い、何とかしたいと思っても、大した力にはならない。俺も人並みに、そこそこ稼いではきたが、ひと様、世間様に一肌脱ぐってことはね、何ひとつしてこなかった。なんだか、空(むな)しい気持ちになっていたときに、『恩はいただいた方に返すのではなく、世間にお返しなさい』と、若い頃にお世話になった人に諭(さと)されたことを、ふっと思い出して、心が動いたんだ。そこで、まだまだ動けるうちに、俺にも何か出来ることがあればと、知り合いに相談してみたら、民生委員を勧められて引き受けることにしたわけさ」
「受けた恩は世間にお返しする、ですか」
「どこまで返せたかは、お釈迦様(しゃかさま)しかわからないだろうが、それでもこの仕事にやりがいを感じているよ。だから、君にも一緒にやってもらえないかと内心期待しているんだ」

それから3年、仲間の支えや助言をいただきながら、微力ながら活動を続けている。
プライバシー保護の壁を越えて、地域の福祉の問題を、無関心な人たちと結びつけていく。それが、地域のぬくもりを取り戻す大きな課題、“きずな”づくりだ。
時に、活動が実を結ばず徒労となることも、しばしばあった。
陰口を叩かれ、無視されると、気力、体力、知力も消え失せる。
でも、活動を続けるうちに、協力しましょうと理解してくれる人や、ご苦労様、頑張ってと励ましてくれる人も、一人二人と増えてきた。
一番の支えは、「ありがとう」という感謝の言葉。
どんなにか勇気づけられたことだろう。

そしていま、痛みや喜びをわかちあう“融和の心”を、地域(ここ)に根付かせることが、大きな目標となった。
先輩らの頑張っている姿を見ながら、身の丈に見合った応分の仕事を続けよう。
そして、いつか「人生の恩返し」という民生委員・児童委員のおもいのバトンを、“あついまなざし”をもつ次の世代に、力強く手渡したい。

※個人情報保護法:氏名、生年月日、性別、住所など個人を特定し得る情報を扱う企業・団体、自治体などに対して、適正な取り扱い方法などを定めた法律。2005年4月に全面施行された。相次ぐ個人情報の不正利用や情報漏えいに対する社会的不安を軽減し、個人の権利と利益を保護するのが狙い。個人情報の適正な管理、利用目的の明確化、不正取得の禁止などが定められているほか、本人による情報の開示、訂正、削除等の権利行使も認めている。違反した場合は行政命令の対象となり、これに従わない場合には罰則規定(6カ月以下の懲役か、30万円以下の罰金)がある。

〔2019年5月6日書き下ろし。2019年度北海道民生児童委員専門研修会講義発表〕