阪野 貢 のすべての投稿

「くえびこ」に想う

「障害者ら団結 缶バッジ販売」という二段抜き主見出しと、「介護者不足、事業所閉鎖に立ち向かう」「福島21団体が事業化」という2本の袖見出しの、地元新聞の記事(3月6日)に目が留まった。そこには白石清春氏の写真が大きく掲載されていた。彼はいま、福島県郡山市で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表として、障がい者の支援活動や運動を展開しているという。
彼は脳性まひのために車椅子生活をするが、その強く、激しく、そして誇りある生きざまから多くを学んだのは、筆者(阪野)だけではあるまい。青い芝の会の運動、とりわけ川崎駅前でのバスジャック闘争(1977年)や養護学校義務化阻止の運動(1979年)の顛末については、地域作業所やときには居酒屋などで彼から聞いている。
筆者が彼のことを知るのは、彼が1980年6月に相模原市で「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成した頃である。その後、彼は、地域作業所「くえびこ」(1982年4月)やケア付き住宅「シャローム」(1986年6月)の開設などを通して、障がい者の自立生活運動に取り組む。そして、1989年に郡山市に戻る。彼との直接的なかかわりは、5、6年のわずかな期間に過ぎない。
「脳性マヒ者が地域で生きる会」は、脳性マヒ者など障がい者の基本的人権の確立をめざし、具体的には、障がい者の自立と社会参加を促す「制度改革」と、障がい者や地域住民が「地域」で「生きる」ことの理解と認識を深める「意識改革」に取り組むための組織であった。「くえびこ」は、企業などの下請け作業は行わず、脳性マヒ者などが地域で生きるための運動の拠点、また個々の障がい者が自立生活能力を身につけていくための地域・生活学習の場として位置づけられていた。ちなみに、「くえびこ」(久延毘古)とは、日本神話に登場する神(「崩え彦」)で、田畑に立って農作物を鳥獣から守る案山子(かかし)を意味する。
かつて筆者は、彼とのかかわりを通して、「障害者の自立と福祉教育」と題する拙稿を草したことがある。以下に、そのうちから、彼の取り組みに関するコメントと管見の一部を掲載する。

彼らの取り組みは、時には力強く、時にはしなやかに、そしてなによりもしたたかである。彼らは、主体的な自己学習・相互学習をとおして、障害者がおかれている歴史的・社会的状況を科学的・客観的に認識する。そして、さまざまな危険(リスク)に挑み、多くの失敗を経験しながら、自立生活を求めて、自己実現をめざして主体的に行動するのである。その際、地域住民との社会的連帯を形成し、社会的諸施策の決定過程に参加することを自立の要件の一つとしてとらえていることが注目される。(中略)
自立とは、日常生活における自己選択、自己決定、自己管理、そして自己実現の行為とその過程をいう。換言すれば、自立とは、日常生活のなかで、生きがいをもってその人らしく自主的・主体的に生きぬくこと、そのための努力をすることを意味する。したがって、それが必要な時には、積極的に他者に依存し、他者から援助や協力を受けることも自立といえるのである。
こういった障害者の自立は、人格の完成と自己創造、自己実現をめざす障害者自身の自己教育活動によって初めて可能となる。また、それは、地域住民の障害者に対する偏見や差別が解消され、地域生活主体としての障害者と一般住民の間に相互支援的な関係――社会的「連帯」が構築されることによって成り立つ。
自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない。ここに、福祉教育の本質的で実践的な課題がある(『福祉教育の創造』相川書房、1989年、144~146ページ)。

筆者は、市民福祉教育について言及する際に、福祉サービスの「利用主体」に対する福祉教育や、福祉の(による)まちづくりの「運動主体」形成を図るための福祉教育にこだわってきた。そのこだわりは、このコメントからも読み取れるように、彼の、障がい者自身による自立生活運動に対する思いや取り組みからの“学び”にあるのは確かである。

付記
およそ25年ぶりに彼と電話で話すことができました。お互いに、相模原市でのことを思い出すのに時間を要することはありませんでした。
白石清春氏のますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。

自己教育力と市民福祉教育

市民福祉教育は、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である。市民福祉教育のこのような規定は、内実的には、子どもから大人まで、教育の全領域において、また生涯学習とのかかわりで「自己教育力」(self-directed learning、self-educational ability)の育成を必要とする。
自己教育力という言葉(概念)は、社会教育における基本的な概念のひとつである「自己教育」と同様に、多義的で、その解釈は多様であ。たとえば、稲川三郎は、その著『自己教育力を育てる指導の実際』(黎明書房、1985年)で、自己教育力とは、「字義的に解釈すれば、『自分が』『自分を』『教育する』『力』ということになる。あるいは、『自分で』『自分を』『教育することのできる』『力』ということになる。と言うと、『自分が自分を』『自分で自分を』というのであるから、同じひとりの自分の中に、『教育する自分』と、『教育される自分』とが、なければならないということになる」(70ページ)と述べている。稲川によるこの部分の説述については、平易で分かりやすいとはいえ、その本質すなわちその性格や内容などについて理解するには不十分であるといわざるを得ない。
ところで、学校教育の改善策のひとつとして自己教育力の育成を最初に提唱(政策提言)したのは、1980年代の中央教育審議会である。具体的には、第13期中央教育審議会に設置された「教育内容等小委員会」が、1983年11月にそれまでの審議結果を取りまとめた「審議経過報告」においてである。そこでは、「自己教育力とは、主体的に学ぶ意志、態度、能力などをいう」として、次の3点について説いている。(1)「自己教育力とは、まずもって、学習への意欲である。児童生徒に学習への動機を与え、学ぶことの楽しさや達成の喜びを体得させることが大切である」。(2)「自己教育力は、さらに学習の仕方の習得である。今後の社会の変化を考えると、将来の日常生活や職業生活において、何をどのように学ぶかという学習の仕方についての能力を身に付けることが大切である」。(3)「自己教育力は、これからの変化の激しい社会における生き方の問題にかかわるものである。特に中等教育の段階では、自己を生涯にわたって教育し続ける意志を形成することが求められている」(『文部時報』第1279号、ぎょうせい、1983年、32~33ページ)。すなわち、自己教育力は、(1)学習への意欲、(2)学習の仕方の習得、(3)生き方の探求(生涯にわたる自己教育の意志の形成)、の3つの構成要素からなる、というのである。
なお、この「『自己教育力』の育成」等の「報告」は、「答申」でないがゆえに、学習指導要領の改訂にはつながらなかった。また、自己教育力という言葉に関しては、教育内容等小委員会の報告が出される10年以上も前、1971年4月の社会教育審議会答申(「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」)のなかで、社会教育の基礎は「自発的な学習意欲」にあることが力説されている。中央教育審議会は、1981年6月に「生涯教育について」の答申を出すが、そこでは、「今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。その意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい」とされた。この点を付記しておく。
第13期の中央教育審議会教育内容等小委員会報告以降、自己教育力について述べているものに、1984年9月に内閣総理大臣(中曽根康弘)の諮問機関として設置された臨時教育審議会の答申がある。たとえば、1986年4月の第2次答申では、「初等中等教育の改革」に関する「教育内容の改善の基本方向」について、「初等中等教育においては、生涯にわたる人間形成の基礎を培うために必要な基礎的・基本的な内容の修得の徹底を図るとともに、社会の変化や発展のなかで自らが主体的に学ぶ意志、態度、能力等の自己教育力の育成を図る」と述べ、具体的には「創造力・思考力・判断力・表現力の育成」(『教育改革に関する答申(第一次~第四次)』大蔵省印刷局、1988年、87ページ)を重視している。また、同答申では、「これからの学習は、学校教育の自己完結的な考え方を脱却するとともに、学校教育においては自己教育力の育成を図り、その基盤の上に各人の自発的意思に基づき、必要に応じて、自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、生涯を通じて行われるべきものである」(67ページ)。そのためには、「生涯学習を可能にし、促進し得るような社会の制度と慣行を生み出す学習社会の建設」(65ページ)をめざした、「生涯学習体系への移行」による「21世紀のための教育体系の再編成」が必要である、としている。
その後、第15期中央教育審議会が、1996年7月、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申において、「ゆとり」のなかで「生きる力」を育むことを重視する、と提言した。その点に関して次のように述べている。「これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を『生きる力』と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた」。
次いで、2003年10月には、第2期中央教育審議会によって、「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」答申がなされた。そこでは、「生きる力」を知の側面から捉えた「確かな学力」の育成を進めるべきであることの考え方が示された。そして、「子どもたちに求められる学力としての『確かな学力』とは,知識や技能はもちろんのこと,これに加えて,学ぶ意欲や,自分で課題を見付け,自ら学び,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力等までを含めたものであり,これを個性を生かす教育の中ではぐくむことが肝要である」と述べている。
「自己教育力」は、およそ以上のような答申や報告に基づく教育施策の歴史的変遷のなかで、今日の学校教育におけるひとつの鍵概念である「生きる力」や「確かな学力」などに包含される重要な能力として位置づけられている、といえよう。なお、発表(発行)の時期は前後するが、ここで、当時日本教育新聞編集局長であった有園格の次の論説に留意しておきたい。「自己教育力のとらえ方、考え方にはさまざまな解釈、論理の展開がみられる。しかしこれは自己教育力を人間の基本的な諸能力、価値志向、生き方の探究などを包括した統合概念として位置づけてきたからである。だからといって統合概念としての自己教育力の位置づけが間違っているとはいえないし、むしろ人間の問題を統合的にとらえる教育観および教育実践の目を育てることに役立つものと考える」(「教育改革論議と自己教育力」北尾倫彦編集『自己教育力を考える』(別冊指導と評価2)日本図書文化協会/図書文化社、1987年、18ページ)。
ここで、自己教育(力)に関するひとつの言説を紹介しておくことにする。今日おいてもしばしば引用あるいは援用される、梶田叡一のそれである。
梶田は、その著『自己教育への教育』(明治図書、1985年)で、「教師によって、またその学校での教育によって、教えられ育まれてきたものを土台として、自分自身でさらに学び、成長し続けることができるかどうかということ」、すなわち「自己教育の力を育てるということは、学校教育の持つ本質的な使命である。いや、教育という営みの全てが持つ本質的な使命と言ってもよい」(11ページ)。「自己教育とは、結局のところ、その人の生き方の問題にほかならない。(中略)自らの接するところ体験するところのすべてを、自己の認識の拡大深化のための糧とし、自己成長のためのきっかけとする、というのが自己教育である」(49、52ページ)と説いている。そして、自己教育への構えや意欲、そのための技能(「自己教育の構えと力」)を意味する「自己教育性」は、次の4つの側面が特に重要な意義をもつと考える。(1)成長・発達への志向、(2)自己の対象化と統制(コントロール)、(3)学習の技能と基盤、(4)自信・プライド・安定性、がそれである。それぞれについて、梶田は、(1)は、自分なりの「ねがい」(長期的な目標)と「ねらい」(当面の目標や課題)、そして「やる気」(達成と向上の意欲)をもって、自己の成長・発達をめざす力、(2)は、自分自身の現状や課題、可能性などについて認識、評価し、自分自身をコントロールして一定の方向へ向けていく力、(3)は、基礎的・基本的な学力(知識、理解、技能)と、それに基づく学び方の能力(知識、技能)、(4)は、以上の3つの側面を支える、自分なりの自信とプライド、そしてそれに支えられた心理的な安定性、であると述べ、自己教育力はこうした4つの側面から構成されるとしている(36~53ページ)。
以上から、ここで、論拠が不十分であることは承知のうえで、市民福祉教育のひとつの鍵概念となる自己教育力についての管見を述べておくことにする。
その要点は、自己教育力は学習への意欲の形成や学習の仕方の習得などとして狭く捉えるべきではない。自己教育力は、学校教育においてのみ育成されるものではない。それは、稲川がいう「自分が自分を」「自分で自分を」教育する力だけではなく、他者や、自分を取り巻く社会的状況や文化的環境、自分のライフステージやライフスタイルなどによって影響される。すなわち、自己教育力は、生涯にわたって自発的に学ぶ意欲(欲求と意志)や姿勢をもって、地域・社会の新たな変化や問題状況に主体的かつ積極的に対応し、自分ひとりであるいは他者と協働しながら、課題解決を自律的・能動的に図るために必要な能力である。それは、自らの生き方について、自省しながら是正・改善し、よりよい生き方を創造していく能力でもある。そういう点において、自己教育力は、「自己学習」「自己形成」「自己啓発」「自己統制」「自己陶冶」「自己実現」等々の概念を統合したものである。そしてそれは、福祉の(による)まちづくりにつながり、またつなげなければならない重要な概念である、といえよう。市民福祉教育は、こうした自己教育力をいかに育成し、その伸長を図るかが問われるのである。
なお、自己教育力に似た言葉に「自己学習力」がある。それは、知識や情報などを対象に、単に自分でそれらを学び、身につれる力を意味する。自己学習力は、自己教育力とは異なり、自らの「生き方」の問題やよりよい価値の創造を含まない言葉(概念)である。付記しておく。

車椅子は乗るものであり、押すものではない

筆者(阪野)が学外ではじめて愚考を開陳したのは、1982年12月、島根県社協主催の「島根県社会福祉研究指定校連絡会議」であり、その時のテーマは「福祉の心と福祉教育」であった。2013年3月、福井県社協主催の「市町社協ボランティアセンター実践研究会」が開催され、そこで「学校と地域と社協がつながる福祉教育とは」というテーマで管見を述べる機会を得た。これが大学教員としては最後の講演となる。
会議の名称やテーマを一瞥しただけでも、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」への転換を読み取ることができる。ちなみに、福井県社協では、1978年度からおよそ30年間にわたって取り組んできた「福祉協力校指定校事業」を、2009年度から「地域ぐるみ福祉教育推進事業」に移行させた。その目的は、「市町社協において、学校を含めたさまざまな社会資源との協働により、地域を基盤として福祉教育の実践を行い、地域福祉の推進を図る」ことにある。また、福井県社協では、2012年度から、「地域見守りフレンズ育み講座」と「地域コミュニティパートナー養成研修」により構成される「地域支え合い体制づくり人材育成事業」を推進している(『月刊福祉』2013年3月号参照)。これも「地域ぐるみ福祉教育推進事業」(地域福祉教育)の一環と考えられる。
福井県社協主催の今回の実践研究会では、いつものことではあるが、筆者にとっても多くの気づきや学びがあった。そのひとつは、「車椅子は乗るものであり、押すものではない」という一言である。
福祉教育実践では、障害や高齢の擬似体験として、車椅子を活用したそれが実施されてきた。そこには最初から、障がい者や高齢者は一方向的な「思いやりの心」をもって対応すべき「弱者」(客体)である、ということが想定されているといってよい。したがってそこでは、障害のない者や若者の優位性が強調され、それを発揮することが期待される。とともに、福祉教育実践に求められるICFの視点が欠落しがちである、ことを意味する。これまでの福祉教育実践では、「思いやりの心」を表すものとして「車椅子を押す」ための知識や方法・技術を学ぶことに偏りがちであった。それはときとして、「思い上がりの心」を抱かせることに繋がった、などというのは言い過ぎであろうか。
車椅子に乗るのは、生活機能の向上を図り、豊かな生活や人生を送ろうとする障がい者や高齢者、そのひと本人(主体)である。それはまた明日の自分でもある。福祉教育実践の展開過程では、障害理解や障がい者理解、障がい者の暮らし理解などを踏まえて、「車椅子は乗るものであり」、そして「車椅子は押すものでもある」という理解と認識を螺旋階段を登るように促し、深めていくことが肝要となる。
なお、場違いな蛇足ではあるが、主体と客体の関係をめぐってボランティアの世界で多用される、動詞に近い文章に、May I help you ? というのがある。「何か手伝いましょうか?」といった意味であろう。その際の主語はあくまでも「I=私」である。したがってそれは、「I=手伝う者」と「you=手伝ってもらう者」という、立場を異にした者の間に上下関係を生ぜしめることにもなる。その関係を乗り越えるためには、お互いのあり様を認知し、共感、理解、受容するための感性(心に感じ取る受動的または能動的・創造的な能力)や思考(頭すなわち理性を働かせて考えること)、そして実践行動(ある考えや価値観に基づいた行為や生き方)、言い換えれば感性的認識、理性的認識、そして実践的認識が求められる。福祉教育が存立し、その内容や方法が問われるところである。

「ヨコの広がり」と「タテの深まり」

昨日、『月刊福祉』4月号が届いた。そこでは、「福祉教育の今とこれから」と題する特集が組まれている。その巻頭を飾っているのは、原田正樹先生(日本福祉大学)の論文「福祉教育実践の新潮流―共生文化の創造をめざして」である。
そこで先生は、「福祉教育の新潮流の全体像をスケッチしてみる」として、「ICFの視点を取り入れたプログラム」「リフレクションを意識したプログラム」「まちづくりに広がるプログラム」「身近な地域での計画策定によるプログラム」「社会的包摂を意図したプログラム」をめぐって説述する。この5項目は、福祉教育の当面の実践課題であり、実践理論を構築するためのひとつの枠組みや方向性を示すものでもある。そして先生は、「福祉教育実践は、ネクストステージ(次の段階)を迎えようとしている。福祉教育の魅力のひとつは、制度に頼らない草の根の実践であるところにある」。福祉教育実践の広がりを期待するためには、システムやネットワークだけでなく、「実践を後押しする理論を構築していくこと」こそが必要である、と力説する。
原田先生はかつて、大橋謙策先生の福祉教育論について、「教育原理を踏まえた構造的な福祉教育理論体系」であり、ひとつの「原理論」としての枠組みが提示されている、と評した(『年報』創刊号、日本福祉教育・ボランティア学習学会、1996年)。「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために…」からはじまる大橋先生の福祉教育の概念規定は、今日においても多用、援用され、それに依拠した立論がなされている。
そういうなかで、松岡広路先生(神戸大学)がかつて、一番ヶ康子先生の福祉教育の概念規定とともに、大橋先生のそれは「包含的・総合的」であり、「汎用的」である。「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、〈未分化な学習者像〉、〈社会福祉活動の内実の曖昧さ〉、〈楽観的な社会形成ビジョン〉、〈教育概念の曖昧さ〉と約言できる」、と批判した(『研究紀要』第14号、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2009年)。
松岡先生が指摘する「総合的」の対義語は「分析的」である。「汎用的」の対義語は「専門的」である。福祉教育が対象(学習素材)とする地域の社会福祉問題については、それが個別具体的で多様性に富む存在であり、歴史的・社会的なものであるがゆえに、分析的な理解と総合的な判断を必要とする。福祉教育は福祉の(による)まちづくりに取り組む住民主体形成を図るための教育活動であるが、まちづくりや福祉教育の実践には「ヨコの広がり」(汎用性)と「タテの深まり」(専門性)が重要となる。
大橋先生の概念規定が提示されたのは30年前である。そしていま、経済・社会の激動に対応して福祉や教育が変動するなかで、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」へ、そして両者を融合した「市民福祉教育」の推進が求められている。それは、福祉教育やその実践の総合性と分析性、汎用性と専門性をバランスよく組み合わせたシステムやネットワーク、それに新たな福祉教育理論の構築が急がれることを含意する。その構築をより豊かで、確かなものにするのは、草の根の福祉教育実践であることはいうまでもない。

社会的不条理が跋扈

福祉教育と教育福祉の研究者のひとりに村上尚三郎先生がいる。先生は、筆者(阪野)にとっては、長きにわたってご懇篤なるご指導と格別のご高配を賜っている恩師のひとりである。
村上先生は現在、大阪の某短期大学の学長を務められているが、その大学のホームページにアップされている「学長メッセージ」は実にシンプルである。それゆえにアピール性が強い。「現在、社会的不条理が跋扈。人間関係における不調和がもたらすいじめ問題が、その最たるものである。」というのがそれである。「真実」はいつもシンプルであり、人によって作られるのであろうか。
「跋扈」(ばっこ)とは、強くわがままに振る舞うことを意味する。また、「いじめ」は、なにも子どもの世界だけの問題ではない。大人の世界におけるそれは、時と場合によっては組織的であり、卑劣極まりないものがある。
市民福祉教育は、社会福祉問題を解決するための実践や運動に主体的・能動的・自律的に取り組む住民主体形成を図るための教育活動である。市民福祉教育の実践や研究にかかわる者にまず求められるのは、一人ひとりの住民の、日々の暮らしにおける“悩み”や“苦しみ”、“怒り”や“悲しみ”、ときには“憎しみ”などの想いを、「社会福祉問題」のなかに広く、深く読み解くことである。また、福祉や教育に携わる者として忘れてはならないものに、「正義」と「倫理」がある。ある意味では、正義とは他者に対して公正で道徳的であることをいう。倫理とは他者に対して真摯で裏切らないことをいう。強く、深く留意したい。

教育における権力と権威―いじめの次は体罰か―

学校教育現場で、“いじめの次は体罰か!”という問題が生じています。福祉の世界でも同じようなことがあり、福祉施設では、利用者が職員から身体的虐待を受けたというマスコミ報道がなされますが、実は職員が経営者から心理的虐待を受けている場合もあります。私は、主に知的障がい者を対象にしている障害福祉サービス事業所に勤めていましたが、昨年の12月末、経営者の「総合的な判断」「分かるでしょ」とやらで、一方的に退職を強いられました。客観的・合理的な理由のない不当解雇であり、解雇権の濫用による不法行為であると思っています。福祉や教育について発言されている先生の考えを聞かせて下さい。

このようなコメントをブログ読者からいただきました。まず、前段の教育現場での体罰の問題については、次のように考えます。
学校現場ではこれまで、1970年代から「校内暴力」、1980年代後半から「いじめ」、1990年代から「不登校」、1990年代後半から「学級崩壊」、等々の問題を抱えてきました。そして、今回、潜在化、常態化していた「体罰」の問題が明るみになりました。
周知のように、学校における体罰は学校教育法(第11条)で禁止されています。「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」というのがそれです。しかし、それ以前に、体罰は人権侵害の行為のなにものでもなく、人間としての尊厳や自尊心を傷つけることは必定です。体罰をめぐって「愛のムチ」という言葉が使われることもありますが、それは空虚で、欺瞞に満ちた単なる“美辞”に過ぎません。そもそも暴力(身体的暴力、精神的暴力)を伴う体罰に訴えなければ教育・指導ができないということは、教師の資質と能力が厳しく問われるとともに、教師自らが教育とその責任を放棄するものであると断ぜざるをえません。
ところで、教育や教師の世界においてはこれまで、「権力」と「権威」をめぐる問題が教育哲学などの分野・領域で議論されてきました。学校における教育や教師に、(教育的)権威が不必要であると考えることはできません。しかし、その権威は、選択権のない被支配や服従、排除などを強要・強制するだけの、狭く偏った権力の行使に堕落してしまう危険性があります。体罰は不当な、悪しき権力の行使である、ということについては多言を要しません。
「権力」と「権威」について、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)は次のように説明しています。「権力:他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。」。「権威(authority):①他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。②その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。」。ここではとりあえず、権力は人を強制する力(power)であり、権威はそれに服する人の承認に基づくものである。権力を正当化するのは権威である、ということを確認しておきます。
ところで、教育的人間関係(かかわり)について多面的に研究する教育学者に岡田敬司(京都大学)がいます。イギリスにおける教育哲学・道徳教育研究の第一人者にピーターズ(Peters, R.S.)がいます。ここで、「教育」「権力」「権威」をめぐって、二人の言説のごく一部を紹介しておきます。
まず、岡田は、教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。人は、一般的には他律的存在から自律的存在へと成長・発達するが、そのためには時期や状況に応じて他者によって権力的あるいは権威的に主導される教育としての他律教育が必要かつ重要となる。ここでいう権力は「非自発的な服従を引き出す力」、権威は「自発的な服従を引き出す力」を意味する、と説いています(岡田敬司『かかわりの教育学―教育役割くずし試論―』(増補版)ミネルヴァ書房、2006年、246ページ)。
次に、ピーターズによると、教育とは、「本質的にみて、社会の構成員を価値あると考えられる生活形態の中に手ほどきすることである」(338ページ)。学校の存在根拠(レーゾン・デートル)は、「共同社会が価値あると認めるものを伝達することにある」(339ページ)。教師は、「権威をもった人物である。教師は、共同社会のためにある仕事をなし、その間、学校の中で社会的統制を維持するために、権威の座(in authority)におかれている。それと同時に、共同社会の文化の伝達者として雇用されているため、その文化のある側面について権威者(an authority)でなければならない。さらにまた、教師は、彼が権威を及ぼしている子どもたちの行動と発達について、また、子どもたちを教える方法について、ある程度まで、専門家であることが期待されている」(343~344ページ)。ここでいう「権威の座にあること」(being in authority)は、身体的・心理的強制や制裁、報償などによって「ある個人が他者を自己の意志に従わせるやり方」をいう「権力」を行使することとは異なる。「権威者であること」(being an authority)は、一般的には、信頼することのできる専門的な知識や能力をもっていることである。そして、その際の「権威」は、「基本的には、それに従う人たちの側でそれを承認しているがゆえにその行為を規制することになる、非個人的な規範的秩序または価値体系に訴えることを意味している」(341~342ページ)、などと述べています。そして、ピーターズは、「子どもたちに対して権威の座にある人々は、結局において子ども自身に自己規制のスタイルを発達させることになるような一つの原型を提供しなければならない。教師の権威は、他の世代に対して権威なくして生きることを学ばせるために必要である」(378ページ)。それゆえにこそ、教師には権威の行使が公的に正当化(合理化)されるのである、としています。(Peters, R.S.(1966)“Ethics and Education” 三好信浩・塚崎智訳『現代教育の倫理―その基礎的分析―』黎明書房、1971年)。
なお、唐突感が拭いきれませんが、ここで、国内における最高で独立した権力(強制力)である「国家権力」(「統治権」「主権」)と教育との関わりについて一言述べておきます。上記の岡田がいうように、教育の基本的目標は自律的人間の育成にあります。それは、教育基本法(第1条)にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味します。すなわち、「人間の自律」イコール「人格の完成」ということです。また、西原博史(早稲田大学)は、「民主的に決定された国家意思であっても踏み込めない個人の領域」(29ページ)があり、それが「自分らしく生きていく権利」を意味する「基本的人権」(43ページ)である。「戦前の例を挙げるまでもなく、教育行政が組織的に国民に対するイデオロギー的教化に乗り出した時、子どもの思想・良心の自由はもろくも滅び去っていく。それを防ぐためにこそ、教育基本法があり、思想・良心の自由などの憲法で保障された基本的人権がある」(195ページ)、と述べています(西原博史『良心の自由と子どもたち』岩波書店、2006年)。西原の言説を通して、要するに筆者(阪野)がいいたいのは、たとえ民意を反映した政権や選挙で選ばれた地方自治体の首長であっても、教育に対する政治介入は許されない、ということです。

次に、ブログ読者がいう「退職の強要」に関しては、次のように考えます。
組織は、ある意思決定を行い、その決定にしたがって事業・活動の推進を図ります。その際には権力が必要となります。組織がその目標の達成をめざして機能するためには、意思決定や事業・活動の推進に際して、権力の存在は不可欠です。またその際、権力が拡大・強化することは否定できませんが、だからこそ組織における権力とリーダーシップ、それにメンバーシップのあり方が厳しく問われることになります。
経営者は、個々の職員が「ソーシャルワークの知識、技術の専門性と倫理性の維持、向上が専門職の責務である」(日本社会福祉士会「社会福祉士の倫理綱領」2005年6月採択)ことを認識し、福祉専門職としての良心と良識に従う自律的な実践活動を展開する限り、その権力を実践活動にまで及ぼしてはなりません。権力的地位にある経営者の個人的独断や偏見によって何かが強要・強制されることは、厳しく排除されるべきです。権力の魅力にとりつかれた経営者は、さらなる権力を求める腐敗傾向をもつといわれます。そのような経営者のいる組織、言い換えれば権力をめぐって職員間の真の合意形成やチェック・アンド・バランスの実質化が図られない組織、そうした組織の改善・改革・革新を図るための正義と勇気、知識と能力などをもちあわせた職員がいない組織は早晩、モラルハザード(倫理の欠如)を招き、内部崩壊することになるでしょう。
最後に一言。福祉教育とりわけ学校福祉教育は、これまで、地域の「社会福祉問題」、それも高齢者や障がい者などの、しかもある意味では限定的な「福祉」問題を学習素材化する傾向があったがゆえに、学校内のいじめや不登校、そして今回のような体罰などの問題(教育福祉問題)については、十分に教材化、対象化してきたとはいえません。また、ホームレスや外国籍住民、精神障がい者、貧困・低所得者、一人暮らし高齢者などの「社会的排除や摩擦」「社会的孤立や孤独」をめぐる生活問題や福祉課題の実態をしっかりと見据えてきたかというと、これもまた消極的評価を下さざるを得ません。今後、学校福祉教育の推進を図るに際しては、地域に軸足を置くとともに、学校や教室にもしっかりと軸足を置くことが求められます。
いまひとつ。「退職の強要」に関しては、福祉サービスの利用者のみならず、福祉事業者(経営者)や職員に対する「福祉教育」が必要かつ重要であり、その教育の内容や方法についての検討がいま強く求められていることを指摘しておきます。

市民福祉教育研究所/2012年のブログ/年間レポート

市民福祉教育研究所/2012年のブログ/年間レポート 

統計情報
2012年にこのブログは7,219回表示され、訪問者は300人を数えました。
2012年には「まちづくりと市民福祉教育」14件、「ディスカッションルーム」10件、合計24件が投稿されました。
検索キーワードと表示回数は、「阪野貢」154回、「市民福祉教育研究所」140回、「市民福祉教育」113回、「福祉教育」60回、「パターナリズム 社会福祉」16回、「アウトリーチ 福祉」13回、「市民福祉教育けんきゅうしょ」11回、「アウトリーチの必要性」11回、「呼び寄せ高齢者」10回、「福祉教育研究所」9回等を数えました。
2012年6月25日にこのブログを開設して以来、2012年12月31日現在で7,219回表示されました。

注目記事
以下は、2012年に最もよく読まれた投稿です。末尾の数字は表示数です。
(1)「新しい公共」と市民福祉教育/2012年7月4日/205回
(2)「地域に根ざした」福祉教育実践と市民福祉教育/2012月7月4日/169回
(3)介護等体験と福祉教育―介護等体験は“古くて狭い”福祉観や教育観を再生産する―/2012年10月24日/165回
(4)シティズンシップ教育と市民福祉教育/2012年7月4日/161回
(5)パターナリズムと市民福祉教育/2012年9月10日/145回
(6)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日/135回
(7)ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育/2012年8月21日/134回
(8)福祉教育におけるアウトリーチ活動―福祉の(による)まちづくりの住民主体形成を推進するために―/2012年11月29日/124回
(9)批判的思考と市民福祉教育/2012年8月27日/99回
(10)呼び寄せ高齢者、孤立から共生への途―「男おいてけぼりのひとりぼっち」から「男それぞれの舞台の立役者」へ/2012年10月10日/95回

読者の所在地
読者の所在地は、合計9ヶ国、( )内は表示数です。
人気の国は、日本(7,167回)、大韓民国(19回)、モンゴル(17回)、アメリカ合衆国(7回)、フィンランド(2回)、台湾(2回)、イギリス(2回)、フランス(1回)、ドイツ(1回)等です。

ボランティア・平和教育・市民福祉教育―今、平和のための主体性と自律性を問う―

2012〈平成24〉年9月、「第21回全国ボランティアフェスティバルみえ」が三重県で開催されました。その分科会24では、「今、ボランティアを問う」というメインテーマのもとに、今日、「ボランティアの原則として掲げられていた、主体性、無償性、社会性(公共性)等について、その境界線上にある活動が広がってきており、『ボランティア』をどう捉えればよいのか、分かりにくくなっている(中略)。こうした状況をふまえ、改めてボランティアとは何かを考え」、「変えていくべきこと、変えてはいけないこと」(サブテーマ)について議論されました。
議論に先立ち、原田正樹先生(日本福祉大学)は、次のようなことを話題提起されました。

従来、ボランティアは「主体性」を大事にしてきました。(中略)「ボランティア」の自主的な行為としての側面、民主主義と平和を実現していくための市民社会の担い手としての側面が重視されてきました。しかし今日、さまざまな施策でボランティアが位置づけられるなかで、「ボランティア活動の義務化」や「県民総ボランティア構想」といった動き、国民保護計画での武力攻撃事態等における位置づけ、軽犯罪者等への社会奉仕命令、介護分野でのボランティア活動のポイント制度の導入などが議論されています。ボランティアが浸透してきたことと同時に、ボランティアが安易に国家や制度のなかに組み込まれています(『ボランティア情報』VOL.426、全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター、2012年11月)。

原田先生の、「ボランティアが浸透してきたことと同時に、ボランティアが安易に国家や制度のなかに組み込まれています」という指摘には、筆者(阪野)も認識を同じにするとともに、そうした状況に「危機感」さえ覚えます。
ここでは、「国民保護計画での武力攻撃事態等におけるボランティアの位置づけ」に関して、いま一度、若干の資料提示をしておきたいと思います。
まず、2003〈平成15〉年6月にいわゆる有事関連3法(武力攻撃事態対処法、自衛隊法一部改正法、安全保障会議設置法一部改正法)が成立し、続いて2004〈平成16〉年6月に有事関連7法(国民保護法、米軍行動関連措置法、捕虜取扱い法、自衛隊法一部改正法、国際人道法違反処罰法、特定公共施設利用法、海上輸送規制法)が成立しました。これによって日本の有事法制は整備・確立され、日本国憲法(平和憲法)の歴史に一大画期を成すことになりました。こうした一連の有事法制は、「備えあれば憂いなし」(小泉純一郎首相)という観点に立って、国家の安全のために武力攻撃等の緊急事態に対処するためのものです。しかし、この有事法制について、国民への周知は不十分であり、国民の認識と関心も低いといわざるを得ません。
国民保護法(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)は、有事関連3法のなかの武力攻撃事態対処法に関連する個別法として制定されたものです。それに基づいて、都道府県や市町村では既に「国民保護計画」が策定されています。国民保護法の第1条(「目的」)と第4条(「国民の協力等」)では次のように規定されています。

第一条 この法律は、武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに武力攻撃の国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにすることの重要性にかんがみ、これらの事項に関し、国、地方公共団体等の責務、国民の協力、住民の避難に関する措置、避難住民等の救援に関する措置、武力攻撃災害への対処に関する措置その他の必要な事項を定めることにより、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号。以下「事態対処法」という。)と相まって、国全体として万全の態勢を整備し、もって武力攻撃事態等における国民の保護のための措置を的確かつ迅速に施することを目的とする。
第四条 国民は、この法律の規定により国民の保護のための措置の実施に関し協力を要請されたときは、必要な協力をするよう努めるものとする。
2 前項の協力は国民の自発的な意思にゆだねられるものであって、 その要請に当たって強制にわたることがあってはならない。
3 国及び地方公共団体は、自主防災組織(災害対策基本法(昭和三十六年法律第二百二十三号)第五条第二項の自主防災組織をいう。以下同じ。)及びボランティアにより行われる国民の保護のための措置に資するための自発的な活動に対し、必要な支援を行うよう努めなければならない。

いま、とりわけ問題にしたいのは、第4条第3項の「国及び地方公共団体は、自主防災組織(災害対策基本法(昭和三十六年法律第二百二十三号)第五条第二項の自主防災組織をいう。以下同じ。)及びボランティアにより行われる国民の保護のための措置に資するための自発的な活動に対し、必要な支援を行うよう努めなければならない。」という規定です。要するにこれは、「ボランティア」が国や地方自治体の権限や管理のもとで、「国民の保護」のために「協力」「動員」させられることを意味します。それは、ボランティア活動の基本的性格である自発性や主体性、自律性や協働性が無視され、平和と自由と民主主義に対する意識を空洞化させることを必然にします。
ここで、安倍晋三首相(第一次安倍内閣)によって2006〈平成18〉年12月に改正された現行の教育基本法第2条(「教育の目標」)の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文言を思い起こしてみます。この条文に関しては、「教育憲法」とも呼ばれる教育基本法に「愛国心」が盛り込まれて愛国心教育が推進・強化され、戦前の国家主義・全体主義の基盤形成が図られていることを銘記しなければなりません。愛国心教育の強制は、個人の尊重(第13条)をはじめ、思想および良心(第19条)、信教(第20条)、表現(第21条)などの自由を保障した憲法に違反することは明白です。なお、憲法は国家権力を規制することによって国民の権利や自由を守るための法律(立憲主義)であり、憲法は国民が国家に、法律は国家が国民にそれぞれ守らせようとするものであることを確認しておきます。
筆者がいいたいことは、いま求められる「備え」は、恐怖感や不安感を前提にした有事体制や国民総動員体制をつくることではなく、巨大な国家権力と対峙し、有事政策に先行する平和政策とりわけ平和教育(それはすなわち市民福祉教育)の推進を図ることである、ということです。
そこで、以下に、「平和教育と福祉教育」に関する筆者の既発表の拙文に若干の加筆・修正を施したものを再掲しておきます(村上尚三郎・阪野貢・原田正樹編著『福祉教育論』北大路書房、1998年、22ページ)。

平和教育のねらいは、憲法と教育基本法の規定から、平和のうちに生存することを自覚的に追求し、平和のうちに生存する権利(「平和的生存権」)を行使する主体形成を図ることにある。そして、平和教育は、福祉教育と同様に、権利としての展開を必要不可欠とする。その際、平和は、戦争や紛争のない状態(「消極的平和」)を意味するにとどまらず、人権や福祉が保障された状態(「積極的平和」)をいう。
平和教育は、一般的に、「直接的平和教育」と「間接的平和教育」に大別される。前者は、戦争と平和に関する問題を直接的・意図的に取り上げる教育をいう。その内容は、広島平和教育研究所編集の『平和教育実践事典』(労働旬報社、1981年)によると、①戦争体験(「被害体験」「加害体験」「抵抗体験」)の継承、②戦争の科学的認識、③核時代の軍事状況についての理解、④平和を創造する行動力の育成、⑤国際連帯の精神の育成、などとなる。後者は、学習・文化・スポーツ活動や自然観察、動植物の飼育栽培などを通して人間(生命)の尊厳について教え、人権意識や仲間意識、そして豊かな人間的情操を育てる教育をいう。
平和教育は戦争と平和に関する問題を、福祉教育は地域の社会福祉問題をそれぞれ学習素材とする教育実践である。しかも、平和教育は、戦争の問題を中心的課題としながらも、貧困や飢餓をはじめ、社会構造的な不平等や不公正、差別や排除、それに自然環境や社会環境の破壊などの問題にも取り組む。また、平和教育と福祉教育は、その教育目標や方法論などにおいて共通するところが多い。たとえば、学校における平和教育と福祉教育はともに、学習素材についてのたんなる知的認識・理解にとどまらず、問題解決のための実践力を育成し、平和と福祉を創造する主体形成を図る。また、全教科・全領域での計画的・継続的かつ組織的な取り組みや、家庭・地域社会などとの連携・共働活動を必要不可欠とする。しかもともに、学校を越えた教育活動や運動へと発展させ、地域の平和活動・運動や福祉活動・運動などと結びつけることが求められる。
平和なくして福祉はなく、福祉なくして平和はない。平和教育と福祉教育(市民福祉教育)は表裏一体の関係にあるのである。

地域福祉懇談会と市民福祉教育―ニーズの把握と活動への動機づけをめざして―

当研究所のブログ読者であるS市社協の職員(コミュニティソーシャルワーカー)から、アウトリーチ活動のひとつとして計画的・継続的に取り組んでいる「地域ふくし懇談会」に関する資料の提供を受けました。それは、地域住民による地域・生活のニーズや問題の把握(顕在化と共有化)と、ニーズの充足や問題の解決を促すための事業・活動への内発的動機づけをめざすものです。要するに、それは、福祉の(による)まちづくりの主体形成を図るための市民福祉教育の実践活動そのものであるともいえます。以下に、その概要を紹介させていただきます。 

1.懇談会開催の趣旨
地域福祉の推進が社会福祉の基軸とされるなか、自分や自分の地域で暮らす住民が抱えている福祉課題を明確にし、その課題を地域住民が地域の福祉課題として捉え(共有化)、その解決・改善に向けた方策を住民がみんなで考え、みんなで行動するために懇談会を開催する。
具体的には、(1)住民の福祉に対する意識高揚と主体形成を図る(住民福祉教育の場)。(2)地域の福祉力(住民による福祉課題解決意識と能力)の向上を促す。(3)住民の意見を支部社協(校区ごとに組織された支部)活動および市社協事業に反映させる。(4) 市社協事業や支部社協活動を直接的に住民に知ってもらう機会とし、「住民に見える社協事業・活動」をめざす。(5)懇談会のテーマ設定や主要な論点の提示により、地域の関係団体や社会資源との連携強化を図る。(6)住民の地域福祉(活動)計画策定への参画の場とする。 

2.懇談会の変遷
源 流
自治会等の行事・会合の折に、支部役員や職員が出向き、「福祉」 をテーマに懇談や学習を行っていた。 
第1期 地域福祉活動計画の策定と周知(平成11年度)
「S市民地域福祉活動計画」を策定する際に、住民の福祉意識や福祉課題の把握と住民の計画策定への参画および住民への地域福祉啓発・教育を目的に、平成11年の8月から9月にかけて支部社協の協力により11の地域で開催(延べ492名が参加)する。福祉サービス利用者を代表し、障がい児・者とその家族の懇談会も開催する。「地域ふくし懇談会」の名称で、S市民地域福祉活動計画に毎年開催することが計画される。これにより平成12年度以降、毎年11地域、12の会場で開催することとなる。当初は懇談会案内チラシを全戸に配布し、住民に参加を呼びかける。その結果、例年延べ700名が参加。
第2期 統一テーマでの開催(平成12年度~13年度)
平成12年と13年開催の懇談会では、冒頭参加者に対し、社会福祉法に明記された「地域福祉」を推進するためには懇談会が重要であることを訴え、また、懇談会開催の趣旨を十分に伝える。平成13年からは、支部社協組織の強化や活動の開発・拡充を懇談の話題とすることにより、市社協と支部社協の共催とする。平成14年は、支部社協活動の拡充として、ふれあい・いきいきサロン活動を話題とする。また、子育て支援活動(子育てサロン)も話題とするが、住民の関心は低いといわざるを得ない状況がみられた。
第3期 地域別テーマでの開催①(平成14年度~15年度)
平成14年頃より、各地域および支部社協が抱える課題を取り上げるようになり、その明確化と共有化を図り、支部社協活動に反映しようとする意向が伺えるなど、支部社協の懇談会開催に対する自主性・主体性がみえるようになる。平成15・16年はS市地域福祉計画策定への住民参画が進む。平成15年から行政職員も参加。
第4期 地域別テーマでの開催②(平成16年度~17年度)
平成16年頃より、各支部社協がこれまでの懇談会で明らかになり共有化した課題に対して、より具体的なテーマを設定し、それらの解決方法の検討や研究のための懇談がはじまる。平成17年はS市地域福祉計画の周知を図る。平成17年頃から、児童・生徒に関する話題を取り上げたことにより、学校教職員が参加。合併地域においては、平成17年、18年にS市地域福祉計画策定への住民参画の場となる(平成17年から、延べ約1,000名が参加)。
第5期 地域別テーマでの開催③(平成18年度~21年度) 
平成18年頃より、懇談会開催の事前に支部長および支部社協役員等が研修を行い、より具体的な事業・活動の開発と展開方法について懇談する傾向が伺える。支部社協の奨励事業(メニュー事業―「地域ミニ集会、座談会」―)として、地域住民を対象にした学習会や懇談会、小地域での座談会の開催を支援する。
第6期 小地域福祉活動計画の策定(平成22年度~) 
より小地域での懇談会の開催をめざす。小地域福祉活動計画の策定を促す。
以上のうち、第1期と2期を黎明期、第3期と4期を定着期、第5期と第6期を発展期と時期区分することもできる。

3.懇談会のテーマ(一例)
(1)共通のテーマ
地域の福祉課題について。少子・高齢社会において私たちができること。地域住民である私たちがしなければならないこと、行政に支援を求めること。地域の関係団体との連携強化のために。支部社協組織および運営強化のために。支部社協活動の拡充のために。
(2)地域別テーマ
誰もが、いつまでもこの地域で豊かに生活するために。高齢になってもいきいきと暮らすために。バリアフリーのまちづくり。子どもを地域で守り、地域で育てる。ボランティア、市民活動の活性化のために。見守りネットワーク活動の拡充のために。災害時における住民相互の助けあい。ふれあい・いきいきサロン、子育てサロンおよび子育て支援。移送サービス。グループホーム(空き家を利用した宅老所)。

4.懇談会の成果
(1)「ふれあい・いきいきサロン」活動の展開
「地域で高齢者が気軽に集まる場所があるとよい」との発言があり、平成12年度から活動が始まった。さらに、各地の活動の様子をビデオに撮り、地域ふくし懇談会で紹介したことにより、全市に活動が広がった。
(2)「さわやかモーニング」活動の展開
サロン活動の必要性に関する発言を地域ふくし懇談会で紹介したところ、一地域のボランティアが、障がい者が気軽に集えるサロン(「ふれあいモーニング」)活動を開始した。
(3)「すくすくランド」活動の展開
平成14・15年度頃の懇談会で、地域で子育て支援の必要性を話題としたが、「何をしたらよいのか分からない」「その必要があるのか」などの意見が主流であった。平成17年度に、他団体である子育て支援ネットワーク協議会のメンバー(子育て家庭) から「地域における子育て支援活動を希望する」という発言があった。そこで、総合福祉会館で開催していたイベント「すくすくフェスタ」を平成18年度から地域で開催することにし、それによって地域住民が活動内容を理解することになった。その後、地域住民が、支部社協の事業として「すくすくランド」の活動を始めた。
(4)災害時要支援者避難支援活動の展開
災害時における要支援者の避難支援活動に関して、継続的に「組織・団体の連携と協働」「情報の把握と共有」「災害マップとその必要」などをテーマに懇談を重ね、平成 18年度より一部地域が要避難支援者の台帳の作成・整備と災害マップづくりに取り組んだ。現在は全地域が取り組み、全市レベルでマップができるに至っている。また、一部地域では、市が主催する総合防災訓練において避難支援活動や連絡(安否確認)活動を同時実施している。
(5)福祉活動者の拡大
①福祉委員の増員
一部地域の懇談会において、地域の福祉活動者である福祉委員の数が少ないことや、小地域(団地等)に福祉委員がいないなどの問題が提起された。これをきっかけに、地域の団体や住民同士が協議をし、福祉委員の設置・増員が図られた。
②地域団体役員の協力
自治会長や自治会福祉部長などの地域団体役員が懇談会を通じて地域の福祉活動を知ることによって、住民による地域福祉や見守りネットワーク活動等への関心が高まり、活動への協力が進んでいる。
③地域団体等との連携
子どもの安全確保を話題にすることによって、PTA役員や学校教職員の懇談会への参加と地域(福祉)活動に関する連携が進んだ。また、防犯・防災をテーマに懇談することを企画することによって、消防団員の参加と連携が進んだ。
④若年層の地域活動への関心と参加
子育て支援活動を行うにあたって、子育て家庭の保護者を支部社協団体の役員等に加えることにより、子育て世代の地域(福祉)活動への関心を高め、またその意見を支部社協が取り入れるようになった。
(6)地域住民の意識変革と社会力の向上
継続的に懇談会を開催してきたことにより、地域住民の、懇談会や会議などを企画・運営する力、問題を解決する力が向上してきた。
(7)高齢者施設の建設促進
一地域で空家を利用した「宅老所」と「移送サービス」が要望され、これに関する懇談と研修を重ねたところ、当該地域に社会福祉法人が経営する小規模多機能の施設が建設された。
(8)地域住民による福祉活動計画の策定
長年にわたる懇談会の開催を活かして、市社協では平成20年度頃から小地域住民福祉活動計画の策定を提案した。平成22年度から小地域で、地域住民による住民福祉活動計画の策定が進んでいる。さらに、この計画を策定することによって、これまでの事業・活動の拡大や新たな事業・活動の展開が図られつつある。
(9)「地域福祉計画」策定への住民参画の推進
平成15年度から始められた行政の地域福祉計画の策定過程において、住民参画の一手段として地域ふくし懇談会が活用された。また、それ以降、行政職員や市会議員などが懇談会に参加するようになっている。

ところで、原田正樹先生(日本福祉大学)は、地域福祉(活動)計画を策定するにあたって住民参加を促すためには次のような技法を用いることが肝要である、としています。(1)住民の関心を高めるための方法、(2)住民参加による検討を促すための方法、(3)住民の福祉課題を把握するための方法、(4)福祉学習を進めていくための方法。すなわちこれです。具体的には、(1)については①情報収集と広報活動、②情報公開とプライバシーの保護、(2)については①ワークショップ、②参加型住民懇談会、③住民参加型調査、(3)については①当事者からの福祉課題の丁寧な把握、②策定委員会の構成と人選の方法、③パブリック・コメントの方法、(4)については①シンポジウムなど学習プログラムの企画、②参加・体験型の地域発見プログラムの企画、③先進地の視察や情報交換、の各項目をめぐって説述しています。そして、「これらをすべて実施しなければ計画策定ができないわけではない。これらを組み合わせながら、それぞれの地域特性に見合った進め方をしていくことが重要である。」と指摘しています(武川正吾編『地域福祉計画―ガバナンス時代の社会福祉計画』有斐閣、2005年、135~149ページ)。
S市社協の「地域ふくし懇談会」は、参加した住民の話し合いや特定のテーマについての語り合いを意図した「参加型住民懇談会」であるといえます。参加者は、当初は、一般住民の参加もみられたとはいうものの、支部(地区)社協関係者や民生委員、ボランティア、自治会・町内会役員などがその多くを占めていました。その後、行政職員をはじめ地元の市議会議員や学校教職員、PTA役員などが参加し、ときには福祉施設の利用者や職員、青年団員や消防団員などの参加もみられました。しかし、福祉サービスの必要者や利用者、障がい者、外国籍住民、青壮年層のいわゆる一般住民などの参加は必ずしも多いとはいえません。また、中・高校生などの参加は当初から想定されていません。各界各層の住民や多様な関係者の参加をどのようにして促すか、懇談会でのファシリテーターをどのようにして確保・育成するか、懇談会で話し合われた事柄をどのようにして福祉の(による)まちづくりの実践や運動に繋げていくか、そしてその実践や運動を推進するための地域の住民・組織リーダーをどのようにして確保・育成するか、さらには「地域ふくし懇談会」と行政や地域の各種組織・団体などが実施している類似の懇談会との連携・協働をどのようにして進めるか、等々の課題があるといえるのではないでしょうか。
「地域ふくし懇談会」を開催するまず第1のねらいは、住民自身によって、地元での日常生活上のニーズや問題を具体的に把握し、それを共有化することにあります。
ここで、福祉ニーズに関する言説について若干触れたいと思います。ひとつは、ブラッドショウ(Jonathan Bradshaw)のニーズの把握の形態に着目した「社会的ニーズ」についてのそれです。ブラッドショウは、ニーズを(1)規範的ニーズ(normative needs):専門家や行政職員、研究者などによって、社会的な規範(「~べきである」と表現されるもの)や基準などに照らして把握されるニーズ、(2)感得されたニーズ(felt needs):本人が生活上の困難や支援の必要性を感得・自覚したニーズ。ウオント(want、欲求)に当たる。(3)表明されたニーズ(expressed needs):本人がニーズを自覚したうえで(感得したニーズに基づいて)、実際にサービスの利用を表明、申請したニーズ。デマンド(demand、需要)に当たる。(4)比較ニーズ(comparative needs):同じ特性をもつ個人や地域等でありながら、サービスの利用者や制度等が存在する場合とそうでない場合とを比較して、利用者等が存在しない場合に必要性があると判断・測定するニーズ、の4つに類型化しています(日本地域福祉学会編集『新版 地域福祉事典』中央法規出版、2006年、230ページ、等)。
「地域ふくし懇談会」では、例えば、ノーマティブ・ニーズは社協職員や行政職員、学識経験者、フェルト・ニーズは地域・生活上の困難を感知し、ニーズを抱え、自覚している住民、エクスプレスド・ニーズは今後懇談会への積極的参加が求められる福祉サービス必要者や利用者、コンパラティブ・ニーズは社協職員や行政職員、学識経験者、民生委員やボランティア・NPO等の地域(福祉)活動者、等々が先ずニーズや問題の表明や把握(顕在化と共有化)に意識的・積極的に取り組むことが求められるのではないでしょうか。懇談会の組織化や運営の仕方、具体的な懇談の技法、そして各地区の懇談会の交流や連携・協働などの進展が求められるところです。
いまひとつの言説は鷹野吉章先生(日本地域福祉研究所)の「地域福祉ニーズ」についてのそれです。鷹野先生によると、これまで福祉ニーズは公的な福祉サービスによって充足されてきたため、実質的には個人や家族の必要性(ニーズ)とほとんど同義とされてきた。しかし、地域福祉という範疇からニーズを考え直した場合には、「単に住民個々の生活上のニーズのみならず、集団や地域全体の福祉等の活動上の諸ニーズも含むべき」である。そして、鷹野先生は、地域福祉ニーズを「生活上のニーズ」と「福祉活動上のニーズ」に分類整理し、生活上のニーズを保持する者(「当事者」)は、「地域住民、なかでも福祉サービスを必要とする住民、また福祉サービス利用当事者組織」であり、福祉活動上のニーズを保持する者は「福祉活動を行う地域住民、民生委員・児童委員、福祉ボランティア、NPO団体、福祉事業者」である、としています(鷹野吉章「福祉ニーズの論点とニーズの顕在化~『地域福祉ニーズ』を展望して~」『コミュニティソーシャルワーク』第3号、日本地域福祉研究所、2009年、5~14ページ)。
「地域ふくし懇談会」では、これまで、「生活上のニーズ」を掘り起こし、顕在化させることに関心や意識が注がれ、それに比して「福祉活動上のニーズ」にはあまり留意してこなかったのではないでしょうか。また、「生活上のニーズ」と「福祉活動上のニーズ」を関連づけ、それを「地域福祉ニーズ」として把握してきたとはいえません。それが、S市社協職員が評価するように、住民の意識の変革や新しい事業・活動の展開が促されたとはいえ、未だ期待するほどには地域に根ざした、地域ぐるみの福祉の(による)まちづくりが進んでいないことに結果しているといえるのではないでしょうか。

福祉教育におけるアウトリーチ活動―福祉の(による)まちづくりの住民主体形成を推進するために―

日本福祉教育・ボランティア学習学会第18回いばらき大会(2012年11月24日~25日)で行われた山崎美貴子先生と仁平典宏先生の対談―「大震災から“かたり・つなぐ・くらし”へ」で、「アウトリーチ」という言葉とそれに関する意見が交わされていました。「アウトリーチと福祉教育」に関する見解や実践事例が知りたい。

上記のようなメールをいただきました。筆者(阪野)もその対談を拝聴させていただきました。多くを学び、深く考えさせられるものでした。極めて不十分ですが、取り急ぎ以下のことをお伝えいたします。

「アウトリーチ」という用語は、精神保健福祉領域におけるACT(Assertive Community Tretment:包括的地域生活支援プログラム)の訪問サービス活動に関して使われることが多いと思われます。ACTについて一言すれば、それは、1972年にアメリカのマジソン市にある州立病院でのPACTに由来し、日本では2003〈平成15〉年に千葉県市川市の国立精神・神経センター国府台地区で実施されたのが最初であるといわれています。ACTの特徴は、①積極的なアウトリーチによって日常生活の場で支援を行う。②必要なときに、必要な場所で、必要なサービスを柔軟に提供する。③保健・医療・看護・福祉・就労支援などの多職種によるチームアプローチを展開する、などにあります。
地域福祉の世界では、1980年代に在宅福祉が強調され、1990年代前半になると住民参加型福祉が注目されるようになりますが、そうしたなかでおよそ1990年代以降にアウトリーチという用語が多く使われるようになった、といえるのではないでしょうか。
また、文化・芸術の世界では、1990年代後半から、日頃、文化・芸術との接点が少ない人びとに対してそれを体験できる機会を提供する事業・活動の名称としてアウトリーチという用語が定着した、ともいわれます。
ここで、アウトリーチ(Outreach)という用語について、その意味するところをいくつかの辞典で確認しておきます。
(1)『小学館ランダムハウス英和大辞典』第2版、小学館、1994年。
「(より広範な地域社会などへの)至れり尽くせりの奉仕[福祉、救 済]活動。」
(2)『リーダーズ英和辞典』第2版、1999年。
「特定集団[社会]の健康管理・就職・社会活動などなにからなにまで手を貸すこと、至れり尽くせりの救済[奉仕]活動。」
(3)『現代社会福祉辞典』初版、有斐閣、2003年。
「クライエントの日常生活の場(自宅など)において必要な情報やサービスを提供する活動であり、特に、行政機関や地域福祉関連の機関において求められるソーシャルワーカーの機能である。また、地域のなかで生活困難に直面している人々を見つけだすことも意味し、その場合はケール発見と同義に使われる。いずれも、利用者の来訪をただ待つのではなく、ソーシャルワーカーが積極的に地域に出ていくという側面が強調されている。」
(4)『社会福祉用語辞典』第8版、ミネルヴァ書房、2011年。
「接近困難な人に対して、要請がない場合でもワーカーの方から積極的に出向いていく援助のこと。生活上の問題や困難を有しているものの、福祉サービスの利用を拒んだり、ワーカーに対して攻撃的、逃避的な行動を示す人に対して積極的に働きかけることを指す。アグレッシブ・ケースワークの具体的方法であり、ワーカーの側に積極的な態度が求められる。」
(5)『社会福祉用語辞典』中央法規出版、6訂版、2012年。
「社会福祉の利用を必要とする人々のすべてが、自ら進んで申請をするわけではない。そこで、むしろ社会福祉の実施機関がその職権によって潜在的な利用希望者に手を差し延べ、利用を実現させるような積極的な取り組みのことをいう。日本語訳としては「館外出張事業」ともされる。アウトリーチは手を伸ばしてとる、手を差し延べるなどの意味があるが、リーチアウトという用語が用いられることもある。」
以上を多少補足しながら要約すると、アウトリーチは、こちら側から相手側に一方的に何かを届けて終わる(「出前」)というのではありません。また、専門機関や専門家が、相手側への介入が必要であり、それが有効であるという診断や判断に基づいて「押しかける」ものでもありません。アウトリーチは、こちら側と相手側とが双方向の関わりをもち、協働(共働)実践を志向するものです。この点を地域福祉や福祉の(による)まちづくりの事業・活動に引きつけて述べるとすれば、アウトリーチ活動には、①地域住民の主体性や自律性を認識・理解し、地域主権や住民・市民主権を尊重する。②地域の歴史や文化に基づいた、地域の人的・物的・制度的な社会資源のネットワークを開拓・創造する。③個々の地域住民が抱える生活・福祉問題やニーズに個別具体的・柔軟に対応するとともに、地域に潜在・顕在的に存在する複合的な地域・生活課題に包括的に対応する、ことなどが求められます。
福祉の分野ではありませんが、財団法人地域創造によって、2010〈平成22〉年3月に『新[アウトリーチのすすめ]―文化・芸術が地域に活力をもたらすために』と題する「文化・芸術による地域政策に関する調査研究[報告書]」(以下、「報告書」と略す。)が刊行されています。その一部をご紹介します。
報告書は、「これからのアウトリーチをより確かなものとするために」は次の3点が必要であると説いています。①明確な目的を持ち、協力体制を構築する一方で、創意工夫と偶発性を誘発するよう周到な準備を。②アウトリーチの実施には、幅広い関係者との連携や協働が欠かせません。③アウトリーチは、事業の準備・実施に加え、長期的な展望を持つこと、実施後に振り返ることが重要(32~34ページ)。すなわちこれです。①の偶発性については、予期しない偶発性のなかに、「新しい可能性」が広がったり、「予期せぬ効果」が生まれる、としています。また、報告書では、アウトリーチの位置づけや内容を4つのアプローチとして類型化し、それぞれ(「アウトリーチにおける4つのアプローチ」)の目的、戦略、企画・実施主体、効果についてその違いを整理しています(15ページ)。4つのアプローチとは、A.劇場・ホール内での鑑賞・体験サポート、B.派遣型アウトリーチ①(単発・集中型)、C.派遣型アウトリーチ②(継続・長期型)、D.連携・協働型アウトリーチ(文化以外の政策分野と連携して企画・実施)、です。ちなみに、この4類型を学校福祉教育の実践に当てはめてみると、例えば、A.は子どもたちが福祉施設などを訪問し、利用者などと交流する。B.は学校に高齢者や障がい者などを招き、一時的な交流を行う。C.は子どもたちと高齢者や障がい者などとの訪問・交流活動を日常的な活動として位置づけ、長期的・継続的なプログラムとして展開する。D.は福祉以外の文化・芸術・スポーツ・レクリエーション、あるいは環境保全や国際交流・協力などとの協働プログラムを企画・実施する、ということになるでしょうか。
以上の所説は、市民福祉教育のあり方について考えるに際して、多少とも“参考になる”“使える”のではないでしょうか。
ここで、ひとつの実践事例をご紹介します。S市社協の学校福祉教育事業とそれを推進するための教員に対する「福祉教育研修会」の事例です。
S市社協では、国際障害者年の1981〈昭和56〉年度に市内の小学校2校を「福祉協力校」として単独指定したことから学校福祉教育事業に取り組みます。それ以降の主な取り組みは次の通りです。1984〈昭和59〉年度:福祉副読本(小学校5年生用)を発行・配付。1986〈昭和61〉年度:市内の全小・中学校を福祉協力校に指定。1988〈昭和63〉年度:学校と地域が結びついた福祉教育の推進をめざして「福祉協力校連絡会」を開催。1992〈平成4〉年度:小・中学生を対象にした福祉読本を発行・配付(1993〈平成5〉年3月)。2000〈平成12〉年度:地域福祉活動計画を策定し、住民参画・主導による「福祉のまちづくり条例」(仮称)と「福祉教育条例」(仮称)の制定の促進、「福祉教育推進委員」(仮称)の養成・確保、「福祉教育実践プログラム」の研究・開発などを計画化(2000〈平成12〉年5月)。2001〈平成13〉年度:主体的・能動的な、地域に根ざした福祉教育の推進を図るために福祉協力校を「福祉教育推進校」に名称変更。市内の全小・中・高等学校・特別支援学校を指定。福祉協力校連絡会を「福祉教育研修会」に内容変更し、教員と地域の福祉関係者が協働して福祉教育実践プログラムについて研究・開発。2002〈平成14〉年度:教育委員会との共催により3日間の福祉教育研修会を開催。教員をはじめ地域の福祉関係者、福祉教育に関心のある市民など約60名が参加。2003〈平成15〉年度:学校における主体的・独創的で、地域性豊かな福祉教育実践の展開を求めて、事業・活動に対する助成方法を「福祉教育推進校指定」と「福祉教育推進事業指定」の2本立てに変更。福祉教育推進校が校内(教員)研修の一環として開催する福祉教育研修会に協力・支援。
こうした取り組みから、S市社協では、早い時期から「学校福祉教育」から「地域福祉教育」への志向や展開が図られてきたといえます。学校の教員を社協に呼び寄せて「福祉協力校連絡会」を開催するだけでは、地域に根づいた、地域ぐるみの福祉教育は進まない。従って、福祉の(による)まちづくりはますます困難、不可能になる、といった思いが読み取れます。そこで、福祉教育におけるアウトリーチ活動として、S市社協の職員や学識経験者が学校や地域に出向き、全教員を対象にした校内研修のひとつとして「福祉教育研修会」を開催する。そして、そこには、学校が所在する地域の高齢者や障がい者、民生委員やボランティア、PTAの役員や保護者なども参加し、地元住民の主体的・自律的な参加(参集、参与、参画)による福祉の(による)まちづくりを押し進める。これがS市社協の福祉教育実践の取り組みです。
最後に一言。周知の通り、学校福祉教育(市民福祉教育)は、福祉の(による)まちづくりをめざし、地域の社会福祉問題を学習素材とする教育活動です。従って、学校や教室の屋内ではなく、もともと地域に出向き、地域に軸足を置かないと、そして地域に存在する多種多様な社会資源と連携・協働することによってしか実施・展開できない教育活動です。そこに、福祉教育におけるアウトリーチ活動の必要性と重要性の根拠がある、といえます。