阪野 貢 のすべての投稿

義を見てせざるは

台湾にワクチンを送ったニュースが 飛び込んだ
疲弊した心に 温情の深さを知らしめる
人の道に外れてはならない
人に義を正すことこそ勇なり

正義の反対は 悪ではないもう一つの正義
専制を押しつけてくる もう一つの正義
ワクチン供給の邪魔立てをする もう一つの正義
人道支援を選別する もう一つの正義
批判には厳しく制裁を下す もう一つの正義

もう一つの正義に
怯(ひる)むことなく 果敢に闘い続ける台湾
自由と自律を 死守し続ける台湾  
相容れない地平線に立ち 対峙し続ける台湾

困窮した国々への支援を 続けなければならない
ワクチン支援金を 差し出すだけでは意味はない
東京五輪を前にして 点数稼ぎになってはいけない
世界に人道を示してこそ 国民の品格が保たれる

外交とは 
人民交際と相互理解の場を 共有する
不変の信頼を獲得する場づくりを 協働する
永久不戦の政治を 鋭意創造する

外交力とは
友愛の連帯
勇気の発動
人道の実現
平和への希求と戦争絶対反対! 

〔2021年6月4日書き下ろし。東日本大震災から十年、台湾国民が迅速に見せた支援活動は、いまも心に刻まれている。過去の日本統治の時代を経ても、なお親愛の情を見せる方々に、このようなカタチで支援できることが、疲弊した心が温まる。管政権が打算的でないことを願う〕

付記
台湾に日本からのワクチン到着 市民から感謝の声が相次ぐ
日本が台湾に無償提供する新型コロナワクチン124万回分を載せた航空機が4日午後、台湾北部の空港に到着した。台湾メディアが一斉に報じた。台湾の市民から感謝の声が相次いでいる。茂木敏充外相は4日の閣議後会見で、2011年の東日本大震災の際に台湾から多額の義援金が送られたことに触れた上で「台湾との重要なパートナーシップや友情を踏まえた提供だ」と述べた。
台湾の蔡英文総統は、日本が台湾にワクチン提供を検討していると毎日新聞などが報じた5月28日、自身のツイッターに「深い友情に、心から感謝します」と、日本語で書き込んでいた。(毎日新聞2021年6月4日)

主権侵害にはあたりませ

東京五輪は 否が応でも開催します
選手団も 入国してきました
ボランティアが 一万人辞退しても
この流れは 誰にも止められません

ワクチン接種 ようやく一千万人超えました
これから ドシドシバンバン打ち続けます
開会式まで 自治体に厳命下して間に合わせます
市民の反対の声は そのうち萎(しぼ)みます
大衆操作には 子飼いのメディアが手練れています

All Japanの同調性を お見せしましょう
逆らう者には「非国民」の烙印(らくいん)を押すだけです
五輪が始まれば すぐに熱狂して屈辱は忘れます
感染が起こっても 自己責任だとしばきます
大丈夫  国民はチョロいもんです

主権侵害との批判は あたりません
安倍さんの強いご意向で 突っ走るしかありません
IOCとの信義の実現こそ 傀儡政権の最優先課題です

美しい国の幻想は消え 感染は必ずリバウンドします
五輪の最中に起こったら 即刻出国してください
安心安全の誓いにかけて IOCをお守りします

IOCに専制された国家元首の威信に賭けて
IOCの皆様に この一命を殉じます
小心翼々の者ですが おもてなしはお任せください

※美しい国(うつくしいくに、英訳:Beautiful Country ):「日本国の安倍内閣が国民と共に目ざす」と宣言した国家像である。 『活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」 』と定義されている 。
※小心翼翼(しょうしんよくよく):臆病な性質で、いつも恐れて、おどおどしていること。びくびくしているさま。もとは、細かい気配りで、慎み深いことをいう。

〔2021年6月2日書き下ろし。法治国家の主権侵害も厭わず、IOCに乗っ取られた悲劇の幕がもうすぐ開く〕

付記
「命の方が大事…検疫甘い…」東京オリンピック・北海道開催“中止を”
東京オリンピックの北海道での開催を、病院の名誉院長らが中止するよう訴えています。
北海道がんセンター西尾正道名誉院長「国民の命の方がずっと大事。無理をしてやる必要はない。非常に甘い日本の検疫体制を考えたら(感染者が)確実に増える」
6月1日に会見を開いたのは、北海道がんセンター西尾正道・名誉院長の他、18の市民団体などです。会見で西尾名誉院長らは、北海道内の新型コロナウイルスの感染者が東京や大阪を超える日もあることを指摘。これ以上、感染を拡大させないためにも、東京オリンピックの北海道での開催を中止するべきと訴えています。西尾名誉院長らは近く、鈴木直道・北海道知事に、開催に抗議する文書を提出する予定です。(北海道新聞2021年6月1日)

怨嗟(えんさ)を生む

恨みの根は 深く心の奥底に広がった
不公平感が 沸々と湧き上がり抑えきれなかった
どれだけ我慢すれば この苦境を乗り越えられるだろうか
どれだけ規制を守れば 倒産を回避できるのだろうか

感染拡大は高止まり マスクと往来自粛の間の抜けたお願いをする
科学者すらも置き去りにして 科学的根拠もなく五輪開催に邁進する
宗教がかったIOC信奉者は ただただワクチン接種を神頼みする
言うことやること的外れで IOCも顰蹙(ひんしゅく)を買う

ワクチン接種は 予定は未定であり決定にあらず
願望だけを押しつけて 不公平感を増幅させる
不信の梅雨を晴らすことができぬ為政者たちは
怨嗟の声に耳を塞ぎ目を閉じて いまはただ五輪を拝む

怨嗟の声に 6月の心は陰りが覆う
怨嗟の声で 6月の空は濁りを増す
怨嗟の声は 6月の世を嘆きで満たす

※怨嗟(えんさ):ある人や物事に対して怒りや不満を持って、その思いを外に出すこと。

〔2021年6 月2日書き下ろし。6月ワクチン接種がどこまで広がるのか。当たり前のことを為しえなかった「つけ」を秋には払っていただきましょう〕

縁木求魚なことば

縁木求魚なこと
人の流れは 止められないこと
聞き分けがないのではなく 政治家を信じてはいないこと
だから死ぬを待つよりも 生きるために打って出ること

縁木求魚なこと
失敗を認めぬゆえに 次の一手に迷いが生まれること
目先小手先だけで いつも手詰まりすること
子ども騙しに 命を預けるわけにはいかないこと

縁木求魚なこと
科学的根拠もなしに 行動規制をかけること
ワクチン接種プランは 思惑通りには進まないこと
五輪を開催すれば 風向きが変わると思い込んでいること

縁木求魚なこと
怒りのもとは 過去に学んでいないということ
いまさらそうくるのか この稚拙さが我慢できないこと
さもさもデータをかざして 正論ぶる態度に嫌気がさしたこと

縁木求魚なこと
入国時の水際作戦は 完璧じゃないってこと
インドの変異株も 別ルートで簡単にスルーすること
入国後の2週間待機など 破ってもお咎めがないこと

縁木求魚なこと
そもそもの不公平を さも正義のように制裁を下すこと
のらりくらりの 言葉遊びに飽き飽きしたこと
虎視眈々(こしたんたん)と 政局を仕掛ける輩がいること

※縁木求魚(えんぼくきゅうぎょ):木によじ登って魚をとろうとする意から、方法が間違っているために目的を達するのがむずかしいこと。また、やろうとしても絶対に不可能なこと。むりな望みのたとえ。

〔2021年6月1日書き下ろし。テニスの大坂なおみさんの「怒りは無理解から来る。変化することは人を不愉快にする」己を戒める深い言葉となった〕

阪野 貢/「市民社会論」再読メモ ―規範としての「市民」と実体としての「市民」―

〇筆者(阪野)の手もとにいま、「市民社会論」というタイトルの本が4冊ある(しかない)。(1)山口定(やまぐち・やすし)著『市民社会論―歴史的遺産と新展開―』(有斐閣、2004年3月。以下[1])、(2)吉田傑俊(よしだ・まさとし)著『市民社会論―その理論と歴史―』(大月書店、2005年7月。以下[2])、(3)今田忠(いまだ・まこと)著・岡本仁宏(おかもと・まさひろ)補訂『概説市民社会論』(関西学院大学出版会、2014年10月。以下[3])、(4)坂本治也(さかもと・はるや)編『市民社会論―理論と実証の最前線―』(法律文化社、2017年2月。以下[4])、がそれである
〇[1]において山口は、「市民社会」論をめぐる戦後の問題意識とその変遷、継承すべき戦後デモクラシーの遺産を明らかにし、1990年代に本格化しはじめた「新しい市民社会」論の特徴と内容、とりわけ「市民社会(論)の再構築」の動きを整理する(「帯」、320ページ)。終章の「むすび」で山口は、「市民社会」を「国家」「市場」とは区別される第3の領域として捉えるのではなく、「理念(とりわけ平等・公正)」・「場(共存・共生の場)」・「行為(自律的行為)」・「ルール(公共性のルール)」の4つの要件の総体として捉えるのが正しいのではないか、という。そして、「市民社会」とは、「さまざまの『公共空間』・『アソシエーション空間』が出会い、政治のあり方、経済のあり方、社会のあり方について、『共存・共生』の原理の上に立って協議する『場』を用意する諸条件の総体である」と再定義する(322ページ)

〇[2]で吉田は、「マルクスは階級社会または階級闘争論の理論家とみなされているが、そうであるだけではなく、彼は一貫した市民社会論の理論家でもある。彼の理論的出立点はヘーゲルの市民社会と国家の問題にあったが、その後も、市民社会概念と階級社会概念を中軸とした歴史観(「市民社会史観」と「階級社会史観」)を形成し、近代ブルジョア的社会、国家そして将来的協同社会についての総体的理論を樹立した」(53ページ)という。その視点・視座から、吉田は、マルクス市民社会論の再構成を軸に、現代的市民社会論の理論的問題と、西欧と戦後日本の市民社会論の歴史的展開について考察する。そこにおいて吉田は、国家や市場から独立した市民社会を構築する現代的市民社会論を批判する。とともに、「歴史貫通的な<土台>としての市民社会、ブルジョアジーとともに発展する近代ブルジョア的市民社会、そして将来社会における協同社会としての市民社会の重層的構成をもつ」(66~67、68ページ)マルクスの市民社会論(「重層的市民社会論」)について説く。
〇[3]の著者である今田は、日本の市民社会の構築に向けて、1980年代から30年以上にわたって実践・研究し問題を提起し続けてきた「歴戦の勇士」(岡本:ⅴページ)である。長年の経験と知見を基に、その集大成として、大学学部レベルの講義を取りまとめたものが[3]である。その内容は、日本の市民社会論の歴史的展開やデモクラシー思想の変遷をはじめ、フィランソロピーとボランティア、市民社会組織、社会的経済と社会的企業、パブリックとコモンズ、市民社会と政府・企業などと広範囲・多岐にわたる。1998年9月に設立された「市民社会ネットワーク」設立趣意書で今田はいう。「市民」は「政治的・社会的権利・義務を持ち、公共性を自覚した自立・自律した個人」である。「そのような市民がつくる社会が市民社会であり、市民社会の政治のルールが民主主義である」(16ページ)。
〇[4]は、今日的な市民社会の実態と機能を体系的に学ぶ概説入門書である。具体的には先ず、市民社会について考える際の5つの基礎理論(理論枠組)――①熟議民主主義論、②社会運動論、③非営利組織経営論、④利益団体論、⑤ソーシャル・キャピタル論を解説する。続いて、市民社会の盛衰を規定する諸要因のうちから特に重要と思われる6つの要因――①市民社会を支える資源としての「ボランティア・寄付」、②人々を市民社会へと誘う「価値観」、③市民社会の発展を促す政府と市民社会組織との「協働」、④新自由主義と市民社会の関係性(「政治変容」)、⑤市民社会を規定し構造化する「法制度」、⑥市民社会に決定的な位置を占める宗教や宗教団体(「宗教」)を解説する。そして最後に、市民社会がどのような帰結をもたらしているか(「市民社会の帰結」)の実態について、ローカルな視点やグローバルな視野から解説する。[4]は、それらを通して現代市民社会論の明日を問う著作でもある。
〇本稿では、「まちづくりと市民福祉教育」に関して論及するにあたって、山口定([1])と坂本治也([4])の所説から「市民社会」「市民」について個人的に留意したい議論や論点の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

山口定の所説
目的概念としての「市民社会」の定義
われわれのいう意味での「目的概念としての市民社会」は、第1に、まず「国家」(あるいは官僚支配)から「社会」が自立するという意味での「社会の自立」を、第2に、「封建制」や前近代的な「共同体」との関係において個々人が自立するという意味での「個人の自立」を、そして第3に、「大衆社会」ならびに「管理社会」との関係において個々人が「自立」を回復し、公共社会を「下から」再構成するという意味での「個々人の自立と公共社会の回復」をその中心的内容とするものである。(12~13ページ)

「規範的人間型」としての「市民」の概念
「市民」とは「自立した人間同士がお互いに自由・平等な関係に立って公共社会を構成するという<共和感覚>に支えられ、そうした人々の自治を社会運営の基本とすることを目指して公共的決定に主体的に参加しようとする自発的人間型」をいう。(9ページ)

「ブルジョア社会」「資本主義社会」「市場社会」と「市民社会」
90年代初頭以降、本格的に登場しはじめた「新しい市民社会」論(=現代的市民社会論)には、旧来の、そしてとりわけ戦後日本の人文・社会科学において論じられた「市民社会」論(=近代的市民社会論)とは異なるさまざまの特徴がある。(149ページ)
「新しい市民社会」論においては、中心的なキーワードである「市民社会」の概念そのものにまつわる重大な意味転換が見受けられる。すなわち「市民社会」は、これまでの「ヘーゲル=マルクス主義的系譜」の中では事実上「ブルジョア社会」と等値されてきたのだが、それに対して、90年代初頭以来、「ブルジョア社会」とは明確に区別されるばかりか、場合によっては、「ブルジョア社会」もしくは「資本主義社会」「市場社会」と正面から対立し、必要ならこれをコントロールするという方向性をもったものという位置づけが与えられている。(149~150ページ)
「新しい市民社会」論の特徴をとらえるのに重要なのは、「国家」と並んで「経済」もしくは「市場」という領域を別個に設定して、その両者に対置される独自の領域としての「市民社会」をクローズアップさせ、その意義を強調することである。(154ページ)

「市民社会組織」の4つの要件
「新しい市民社会」論においてそもそも、「団体」(あるいはアソシエーション)一般と「市民社会」団体すなわち「市民社会組織」(辻中豊)との定義上の区別は何か、つまり、どのような団体が「市民社会組織」なのか。(183ページ)
「市民社会組織」さらには「市民(運動)団体」たることを自称する場合には、①その構成員同士の自由・平等な諸権利の相互承認、②人々の自発的・自律的な合意に基づく組織運営、③情報公開が保障された上で行われる理性的討議による「公共性」の推進、④異質者間の共存・共生を可能にする多様性の相互承認の4つを、その内部組織のあり方に関する基本的なスタンスとすべきである。この要件のどれをはずしても、歴史的に形成され、維持され、かつあらためて蘇(よみがえ)ってきた「市民社会」の理念そのものの中核が失われることになるからである。(189~190ページ)

坂本治也の所説
「市民社会」の定義
今日的な文脈における市民社会は、政府、市場、親密圏(家族、恋人、親友関係)との対比において定義される。すなわち、①中央・地方の統治機構による公権力の行使ないし政党による政府内権力の追求が行われる領域としての政府セクター、②営利企業によって利潤追求活動が行われる領域としての市場セクター、③家族や親密な関係にある者同士によってプライベートかつインフォーマルな人間関係が構築される領域としての親密圏セクター、という3つのセクター以外の残余の社会活動領域が市民社会である。
換言すれば、公権力ではないという非政府性(non-governmental)、利潤(金銭)追求を主目的にしないという非営利性(non-for-profit)、人間関係としての公式性(formal)という3つの基準を同時に満たす社会活動が行われる領域が市民社会である(図1-1)。そして、市民社会にはさまざまな団体、結社、組織が存在しており、それらは「市民社会組織(civil society organization、CSOと略記されることもある)」と呼ばれる。(2ページ)

「市民社会組織」の具体例
市民社会組織には、個々の市民によって自発的に活動が始められた福祉団体、環境保護団体、人権擁護団体、スポーツ・文化団体、宗教団体、ボランティア団体などはもちろん、政府セクター寄りとみなされる政治団体、行政の外郭団体、社会福祉法人、学校法人、市場セクター寄りとみなされる業界団体、労働組合、農協、医療法人、親密圏セクター寄りとみなされる自治会・町内会、地縁団体など、多様性に満ちた雑多な団体・組織が含まれる。
また、一般社団法人、一般財団法人、特定非営利活動法人、宗教法人、消費生活協同組合などの特定の法律にもとづいた法人格をもつ団体はもちろん、法人格を有さない任意団体であっても、通常は市民社会組織としてみなされる。さらに、さまざまな社会運動・市民運動においてみられる、恒常的な組織としての実体をもたない運動体も、市民社会内部の存在として位置づけられる。(2~3ページ)

規範としての「市民」「市民社会」の概念
「市民」や「市民社会」という概念は、しばしば特定の規範的立場にとっての理想的な状態や到達すべき目標を表すために用いられる。たとえば、「市民」を「自主独立の気概をもち、理性的な判断や議論ができ、能動的に政治参加や社会参加する人々」と限定的に定義するような場合である。あるいは、「市民社会」を「人々が相互に尊重し合い、理性にもとづいて対等に対話を行うことを通じて、公共問題を自主的に解決していこうとする社会」と定義するような場合である。
これらの場合、「市民」や「市民社会」は「民主主義にとって理想的な人々」「めざすべき善き社会」といった規範的ニュアンスを含むことになる。また、そのような条件を満たさない人々や社会は「市民」や「市民社会」ではない、ということになる。(6ページ)

「市民社会」の3つの機能
市民社会はアドボカシー機能、サービス供給機能、市民育成機能という3つの重要な機能を有している。(12ページ)
(1)アドボカシー機能/アドボカシー(advocacy)とは、「公共政策や世論、人々の意識や行動などに一定の影響を与えるために、政府や社会に対して行われる主体的な働きかけ」の総称である。具体的には、①直接的ロビイング(direct lobbying)=議員・議会や行政機関に対する直接的な陳情・要請、②草の根ロビング(grassroots lobbying)=デモ、署名活動、議員への手紙送付など、団体の会員や一般市民を動員するかたちでの政府への間接的働きかけ、③マスメディアでのアピール=マスメディアへの情報提供、記者会見、意見広告の掲載など、④一般向けの啓発活動=シンポジュウムやセミナーの開催、統計データ公表、書籍出版など、⑤他団体との連合形成、⑥裁判闘争、といった多様な活動形態が含まれる。(12ページ)
(2)サービス供給機能/市民社会は、政府、企業、家族と同様に、さまざまな有償・無償の財やサービスを供給する。特に、市民社会の役割が大きいのは、福祉、介護、医療、環境、教育、文化芸術、スポーツなどの領域における対人サービス供給である。これらの領域では、政府、企業、家族では十分満たされなくなったニーズを、市民社会のサービス供給によって満たす動きが昨今強くみられるようになっている。(13ページ)
(3)市民育成機能/市民社会は人々が出会い、集い、語らい、取引や交渉を行う社交の場である。家庭や職場に比べると、市民社会における人間関係は、より多様な年齢、職業、階層の人々と交わる可能性が高いものとなる。また、そこでの関係性は、基本的に公権力や貨幣価値の力によって義務的ないし強制的に発生するものではなくて、個人の自由意思にもとづいて、自発的に形成され、不要になったら解消されるものである場合が多い。
このような多様かつ自発的な人間関係が育まれる市民社会組織への参加は、人々を民主主義に適合的な「善き市民」へと育成する機能があるとされる。(14ページ)

〇以上のメモから、「市民社会」論にいう「市民」には、「自立的」をはじめ「自律的」「理性的」「能動的」などの規範的価値や態度・行動が求められる。「自立的な市民」とは自助的自立や依存的自立をしている市民(「できる市民」)、「自律的な市民」とは自分で考え・行動し・責任を負う市民(「ブレない市民」)、「理性的な市民」とは知性や教養に基づいて合理的に判断する市民(「賢い市民」)、「能動的な市民」とは社会への参加や働きかけを行う市民(「行動する市民」)である。それらは、実体として存在する「市民」ではなく、理念的・規範的な「市民」像である。
〇また、「市民活動」と「市民運動」に関して、管見を交えて、とりあえず次のように整理できよう。すなわち、「市民活動」とは、特定の組織や団体に属さないいわゆる一般「市民」を中心に、環境・平和・人権・福祉・教育・文化・地域・まちづくりなど公共領域における広範な問題の発見と解決をめざして、協働的かつ継続的に取り組む集合行為である。そして、「市民運動」はひとつは、「市民自治」、ひいては「市民社会」の実現をめざす。
〇「市民」の要件と「市民活動」「市民運動」の成立条件でとりわけ重要なものは、「自律性」である。「自律」(autonomy)とは、権力に伏さず・権威に同調せず、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為決定を可能にするためには、自分が持つ知性や教養に基づいて、自分を取り巻く環境や直面している出来事・問題などについて認識・理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見いだすことができる。
〇要するに、真に「市民社会」に求められる「市民」像は、「自律的で理性的」な市民である。一面では、それを前提に、「自立的な市民」や「能動的な市民」が存在することになる。
〇人が自ら思考・判断し、自律的に行動するためには、個々人の自由意志と社会的責任に立脚した権利意識や自治意識をもって自覚的・能動的に学び続けることが肝要となる。こうした人間(「自律的で理性的な市民」)の育成・確保は、教育が取り組むべき根本的かつ現代的課題である。そしてまた、「まちづくり」に必要不可欠な営為である。それはまさに、「市民福祉教育」の課題でもある。
〇上述のメモからいまひとつ、「市民」の要件を満たさない人々は「市民」ではない、という議論について一言したい。すなわち、日本社会はいま、分断や格差、貧困、偏見や差別が拡大し、自立が強制され、自己決定(自己責任)が追及されている。加えてコロナ禍にある。そんな社会にあって、「市民」の要件(自覚・意欲・能力など)を欠く、あるいはそれが不十分であるとみなされる高齢者や障がい者、子ども、生活困窮者、外国籍住民などがいる。形式的・外見的には市民であっても、実質的・本質的には市民ではない状況に追い込まれ、社会的に排除されている人々である。市民になろうとしても、あるいは市民になることが期待されても、市民になりえない人々である。
〇現代市民社会には、抑圧され排除される人々(「市民」)が存在し、それを生み出す歴史的社会構造がある。ここに、現代「市民社会論」が取り組むべき本質的な課題が存在する。「社会変革論としての市民社会論の現代的意義」([2]34ページ)が問われるところである。そして、現代市民社会が抱える歴史的社会問題を抉(えぐ)り出し、その根本的・本質的な解決を志向する「まちづくりと市民福祉教育」の内容や方法が問われることにもなる。目に見えない新型コロナウイルスによって、「存在」する意味を問う時間と空間の余裕もなく、(自分も含めて)ただ必死に生きているヒト(「市民」)がいるなかで、改めて強く認識したい。

補遺(1) 
「市民社会」を構想する前提として、「大衆社会」からの“個人の自立”が問われることになる。「市民」と「大衆」の特性と関係性をひとつの座標図で表すと図1のようになろうか。
「市民社会」について論じるにあたって、「市民活動」と「住民活動」を区別し、その特性と関係性をひとつの座標図で表すと図2のようになろうか。⇒

補遺(2)
「市民運動」に関して、次の一文を再掲しておきたい(本ブログ<まちづくりと市民福祉教育>(3)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日投稿/⇒本文)。

市民運動は、人々に共通する焦眉の生活問題から生ずる。それは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、具体的な運動(活動)展開を通して歴史的・社会的問題としての生活問題を解決することを第一義とする。そして、その問題解決の道筋を探り、問題解決をより確かなものにし、その成果(行動と結果)を実効あるものにするためには、市民運動は次のような属性をいかに保持するかが問われることになる。すなわち、運動そのものがもつミッション性や思想性、公共性や政治性、批判性や革新性をはじめ、運動を通して醸成される集合的アイデンティティ(われわれ意識)、その基で社会変革の実現をめざす取り組みの組織性、他の地域や運動との交流・連帯を視野に入れた開放性や普遍性、それに運動を展開するうえでの計画性や継続性、などがそれである。これらは、運動主体の育成を図る市民福祉教育の内容や方法などを規定することになる。(中略)
市民運動は、その運動を生起させる社会構造や社会変動の矛盾や非合理の反映であり、「時代と社会を映し出す鏡」である。市民運動は、単なる異議申し立てや抵抗ではなく、また行政の補完化を促すものでもない。それは、市民が新たな秩序やそれを支える新たなパラダイムを提示あるいは構築するためのものであり、「豊かな社会を創り出す原動力」である。そして、市民運動の展開は、民主主義の定着・発展の過程や方法、度合いなどを問い直すことになり、「民主主義の成熟度を示すバロメーター」である。これらは、集団的・組織的活動としての市民運動の主体形成にかかわる市民福祉教育のあり方が厳しく問われるところでもある。

小林亮平/誰もが等しく将来が望める世界を創りたい ―丸山正樹著『ワンダフル・ライフ』を読んで―

この本――丸山正樹著『ワンダフル・ライフ』(光文社、2021年)を読むことになったきっかけは、ある人に勧められたからです。読んでまず思ったことは、この本の存在を知って、読むことができて良かったということです。

内容は、四本の話が同時進行していって、最後にそれぞれの話のつながりがわかるという構成です。そして、それぞれの話は、脳性麻痺の重度障害者と女子大学生との恋愛の話や、事故で頸椎損傷となった妻を介護する夫の話、妊活が実らず養子をもらおうとする夫婦の話、上司と不倫するOLの話などです。その話のなかに、それぞれのテーマとして、障害者差別の問題、障害者の自立生活の問題、障害児の親無き後問題、介護の人手不足問題などが語られています。それらは僕も時たま考えていることなのですが、再考する良いきっかけになりました。
「排除アート」についても語られていますが、その言葉は初めて知りました。そういう手段もあるのだなあと思ったと同時に、本音と建前を使い分ける日本人らしい発想だとも思いました。
ですが、それらの話がおおよそハッピーエンドとは言えない結末であると思えるのです。ハッピーエンドの未来も語られていますが、あくまでもそれは可能性のひとつであると提示されているだけで、現実はそうはならないと思えてくるような結末でした。そして、僕の過去の体験に似た話もあったにもかかわらず、それがハッピーエンドになるとは僕には考えられなかったため、「自分もどうせ……」と考えて結構落ち込みました。読み終わった後、もう少し前向きになれるような話があれば良かったと思いました。
でもそれは間違った考え方でした。大人になり世の中の大変さを知ると、多くの人は情熱を失い現実に冷めてしまいます。僕もその例に漏れず、危うく冷めた人間になるところでした。

「私たちにその夢を追う勇気があれば、すべての夢は実現する。」(ウォルト・ディズニー)

そう思って一度冷静になり、俯瞰して考えてみると、いくつか気になるところがあります。まずは、脳性麻痺の重度障害者の自立生活と恋愛についてです。彼は脳性麻痺で重度障害者であるが故に、日常生活で多くのヘルパーやボランティアの力を借りて、24時間の介護を受けながら生活しています。そんななかで、一人の男性ヘルパーと名前を交換し、自分が障害者であるということを隠して女子大学生と会うことにします。名前を交換して自分を偽ってくれることを了承したはずの男性ヘルパーも、次第にその女子大学生に近づきたいという欲に駆られて行動するようになります。
最初はこの男性ヘルパーに怒りを感じていました。しかし、よく考えてみると、脳性麻痺の重度障害者も甘いと思います。身分を偽ったこともそうですが、ヘルパーに対する認識が甘いです。欲に駆られた男性ヘルパーは、無資格で個人的に雇っている有償ヘルパーだということですが、自分が雇用主となりヘルパーを働かせる場合は、どういう能力を有していて、どういう性格なのかをじっくり勘案してさせる仕事を選ぶべきです。ですから僕は、自分のもとでヘルパーを働かせる場合は、信頼できる人、あるいはある程度信頼関係ができた人でないと大事な仕事は任せないことにしています。そして、次の言葉を時々思い出すようにしています。

「無能な部下など存在しない。上司が無能にしているだけだ。」( 吉田松陰)

この脳性麻痺で重度障害者の男性は、先天性の障害でしかも頭の良い人となっているので、ヘルパー制度を利用することに長けているはずなのに、どうしてこんなミスをしてしまうのか。こういうことが言えるのも人的資源に困っていなくて、ヘルパーを選ぶことができるという状況があってこそだと思います。

「溺れる者は藁をもつかむ」

そういう現実が、悲しい結末を生むのではないでしょうか。そしてその現実は、次に語る、事故で障害を負ってしまった妻の介護をする夫の話にも言えます。
結末から言うと、この妻は最終的に自分の意思で施設に入ることを選びます。「夫の負担になりたくない」「夫に迷惑はかけたくはない」という考えがあったのかもしれません。プライドの高い妻という設定ですが、若い頃から、障害児と介護をする母親との無理心中の記事を集めていたことで、障害を負ってしまった自分の将来を悲観したが故の行動なのかもしれません。でも、自分の将来を悲観するに至った情報というのは、古くて時代遅れだと思うのです。できることなら、最後まで自分の好きなように生きる方が、誰だって望ましいのではないでしょうか。
でも残念ながら、日本では障害者は社会から排除されるか隔離されるかという悪しき習慣がありました。それはいまも、基本的にはかわっていません。その最たるものが障害児と介護をする母親との無理心中で、事故で頸椎損傷(ケイソン)となった妻も、暗い将来しか想像できなかったのでしょう。
ですが、自然な流れで 「障害者 → 将来が暗い」 となるのはおかしくないでしょうか。障害者であれ健常者であれ、等しく将来が望める世界になって欲しいものです。また、そんな世界を創りたいものです。
それにはまず前例を作ることです。今までにも、障害者(特に先天的など若い頃からの障害者)が生涯、自分を貫いて好きに生きるという前例はあったでしょうが、それらは小数で特例扱いでした。そうではなく、もっと多くの実例があれば、そしてその先駆者が専門家となって、エキスパートレビュー(熟練した専門家が機器やシステムをレビューすること)できる環境が必要でしょう。

「ユーザビリティの専門家は、想定されているユーザーがどのような行動をとる傾向があるかを、過去の経験から蓄積しているため、ユーザーがいなくてもおおよそどのような操作を行うかを想像することができる。最初は個別に問題点を見つけ、後半では参加者全員で問題点の整理や分析、改善案の創出を行う。」(国際ユニヴァーサルデザイン協議会)

2001年に世界保健機関(WHO)が採択した国際生活機能分類(ICF)では、「障害とは本人の持つ要因(個人因子)と環境の持つ要因(環境因子)が相互に影響して生まれるものであるという相互作用モデルの考え方」が採用されています。つまり、個人の努力ではどうにもならないレベルでも、環境によっては改善の余地はあるということです。そもそも、環境によっては助かる命、助からない命というのもあります。また、支援技術(アシスティブ・テクノロジー)というのも日々進歩しています。
そういう情報があれば、本のなかに登場する障害を負ってしまった奥さんも、古くて時代遅れの情報に踊らされて自分の未来を悲観する前に、別の選択肢を考えることができたかもしれません。また文中に、障害児が施設ではなく、地域で暮らせるようになるための準備をするための施設を作りたいという人も登場します。そういった施設も、これからは必要になってくるでしょう。小規模なものは、既にチラホラと目につきます。

最初に述べた脳性麻痺の重度障害者の話にしても、事故でケイソンとなった妻の話にしても、こういった話はこれから先、共生社会を推し進めていくに当たってどんどん増加していくと思われます。私たちはそれに備えなければなりません。この本は、ただ読んだだけで終わらせてはいけない。そういう本だと思います。健常者も障害者も、誰もが共生社会の実現に向けて、それぞれの人生と将来を切り拓くことにつながる、つなげなければならないことを改めて思い起こさせてくれる本です。そういう意味で、「読むことができて良かったということです」。

参考文献
(1)遠越段『世界の名言100』総合法令出版 2014年
(2)池田貴将『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』サンクチュアリ出版 2013年
(3)国際ユニヴァーサルデザイン協議会『知る、わかる、ユニヴァーサルデザイン』一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会 2014年
 

五輪に揺れる世相を見る

悪事千里(あくじせんり)を走る
いやはや千里どころか 世界中にIOCの悪巧みが知れ渡る
IOCの敵は 日本国民なり
なぜか日本人が身を慎むのは 本末転倒か
一毛不抜(いちもうふばつ)の利己主義者を 許すまじ

夏下冬上(かかとうじょう)
炭を熾(お)すのに 夏は火種を炭の下に冬は上にするとよい
東京五輪の火種は 下からは燃え上がらず燻(くすぶ)り続ける
北京五輪の火種は 号令一下上から燃やすしかない
どちらも先見之明(せんけんのめい)を誤るは 必須なり

悪木盗泉(あくぼくとうせん)
いつまでやせ我慢が続くのか 限界が来ている
五輪開催のレガシーを捨てれば みんな楽になる
巷では緊急事態宣言の規制を破らねば生きてはいけぬ
そもそもの悪の権化は IOCなり

首尾一貫(しゅびいっかん)
『美しい国へ』を提唱した誰かさんに 加担した
五輪をやると決めたら 猪突猛進(ちょとつもうしん)
民の命を山ほど犠牲にしても 一命は賭けない 
IOCに「何と我慢強いのでしょう」って言われてる場合か

人間青山(じんかんせいざん)
どこで死んだっていいじゃないか
日本までやってきて そうも言い切れません
ワクチン打ったから大丈夫との保証はない
自己責任? コロナで死ぬのはご免だな
アスリートの声も聞こえてきます
濃厚接触するボランティアも危ないぞ!

惰気満満
LGBT法案 今国会不成立の情勢となった
性的指向と性自認を理由にした差別は 許されない
でも 自民党から反発が噴き出したんだとさ
差別を容認する議員たち 秋には居残りできるかな
危険な五輪は黙認して 馬耳東風と決め込む輩に
LGBT法に 因循姑息の旧態依然とした自民党の正体見たり

一喜一憂(いっきいちゆう)
五輪開催の世論の反対と世界の批判報道
世界と国内のコロナの感染者数の変動と死者の増加
医療機関の体制と重症ベッドの確保数
ワクチンの供給状況と接種の体制 接種者の増加数
五輪不参加の国や 不安を抱くアスリートの動向
つまびらかになる五輪予算の執行状況と無駄金
先憂後楽を旨とすべし
いまさら無理難題か 五輪を私物化する方たちには 

右往左往(うおうさおう)
国会に集う二束三文の輩は 我田引水に走り
大事を前に 拱手傍観する
政治家としての矜持は すでに捨てられていた

※惰気満々(だきまんまん):惰気は、怠る心。 なまけ心。 惰気が満ちてしまりのないさま。やる気満満の反対。
※因循姑息(いんじゅんこそく):旧習を改めようとしないで,その場しのぎに物事をする・こと(さま)。
※先憂後楽(せんゆうこうらく):天下のことについて世の人に先んじて憂え,遅れて楽しむこと。常に天下の平安を心がけていること。
※拱手傍観(きょうしゅぼうかん):重大な事態に当面しながら,手をこまねいて何もしないでいること。

〔2021年5月31日書き下ろし。いまさらのことかと〕〕

渇望

生きていけるだけで よかった
食べていけるだけで よかった
ただそれだけでも 難しかった

つまらないと 疎(うと)まれた
役立たずと イジられた
そうされても 逆らわなかった

与えられたことは そつなくこなした
言われたことには 素直に従った
文句が出なければ それでよかった

生まれてきてこの方 
だれかのために とか
世の中のために とか
力が入ることは してこなかった

ただ静かに生きていたかった
他人と深くつきあうこともなかった
ただ穏やかな気持ちでいたかった
他人と諍(いさか)うこともなかった

渇望
それは安寧
そして平穏
さらに浄土か

〔2021年5月30日書き下ろし。いま人は何を渇望するのか。信仰は最後の救いになるのだろうか〕

めんこいしょ/鳥居一頼

『めんこいしょ』(原詩)

ぐずって 泣きそう 
泣き顔がはじけ 泣き声が発せられるこの一瞬
顔を崩して こぼれる涙顔
めんこいしょ

つぶらな瞳と にらめっこ
ジッと顔を見てて 泣くかなと思ったこの一瞬 
ニコッと まさかのほほえみ返し
めんこいしょ

おいでをすると ためらいがちに
ゆっくり両手を伸ばして からだを預けたこの一瞬
やわらかな 匂い立つ顔
めんこいしょ

スプーンを自分で持つと 強情(ごうじょう)はって
口のまわりに たくさん散らかすこの一瞬
してやったりと にたり顔 
めんこいしょ

ことばにならない 声を出し
指さす方に 目を向かせ
おぼしきおもちゃを 差し出すこの一瞬
いやいやと かぶりをふる不満顔
めんこいしょ

素っ裸 湯船で
お湯と戯れて おいたをするこの一瞬 
満面の笑みをうかべる 赤ら顔
めんこいしょ

めんこくて めんこくて
ただただ めんこくて
包み込まれる いのちのぬくもり
めんこくて めんこくて
ただただ ありがとう
包み込む 二人の深い慈しみ 

いのちの限り 共に歩まん

保坂美保子『めんけなぁ』

ぐずめで べっちょかいで
なぎべっちょかいで はちけるときのこの一瞬
つらっこくずして こぼれてくる涙のつらっこ
めんけなぁ

まんまるっこい目ど にらめっこ
ジッとつらっこ見てて あや なぐべがと思ったこの一瞬
ニコッと まさがのほほえみ返し
めんこいすべ

「こ」ってへば どしたもんだべがって
ゆ~っくり両方の手っこ伸ばして 抱がさってきたこの一瞬
やわらけえ かまりっこのするつらっこ
めんけなぁ

匙(しゃじ)自分でたなぐどって じょっぱって
口のまわりさ いっぺちらがすこの一瞬
おらもでぎるんでと にったり
めんこいすべ

ことばではねんども 声っこだして
指さすほうを みれってしゃべる
これだが?って おもちゃっこやるこの一瞬
んでねんでねって 首っこふってふぐれっつら
めんけなぁ

はだがっこで 湯船さはいって
湯のながで遊んで いたずらっこするこの一瞬
ほれがおもしぇどってわらって 赤(あげ)ぇつらっこして
めんこいすべ

めんけくて めんけくて
たんだたんだ めんけくて
包み込まれる いのちのぬぐもり
めんこいすべ めんこいすべ
ただたんだ ありがでぇ
包み込む 二人の深い慈しみ

いのちのあるかぎり 共に歩いていぐべし

〔秋田県大館市比内町在住の共同研究者保坂美保子さん(一般財団法人大館市文教振興事業団大館市立栗盛記念図書館館長)〕 

金澤昌子『めんけべしゃ』

ぐずって 泣ぐどご
泣き顔っこはじけで 泣き声出でくるこの一瞬
顔っこ崩れで こぼれだ涙っこ
めんけべしゃ

大きなま(・)な(・)ぐ(・)ど にらめっこ
ジッと顔見で 泣くべがと思ったこの一瞬
ニコッと まさがのほほえみ返し
めんけべしゃ

おいでってへば どだべがど
ゆっくり手っこ伸ばして 抱がさってきた この一瞬
ぽわぽわど あまいかまりの顔っこ
めんけべしゃ

匙(しゃんじ)たなぐどって 強順(ごんじょ)ぱって
顔っこ カマネゴになるこの一瞬
得意満足で にったり笑う
めんけべしゃ

ことばにならねばって 声だして
あっち見れって 手っこのべて
これがっておもちゃを とってやれば
いやいや ほれでねって頭っこふって ふくれがお
めんけべしゃ

裸っこになって 湯さ入れで
ちゃぽちゃぽ イタズラこの一瞬
にっこにこの 赤(あげ)え顔っこ
めんけべしゃ

めごくて めごくて
ただただ めごくて
包み込まれる いのちのぬくもり
めごくて めごくて
ただただ ありがとう
包み込む 二人の慈しみ

命の限り 共に行くべし

※カマネゴ:顔に食べ物をいっぱい付けた状態。地域でもほとんど使われていない様子。
※「めんこいしょ」を「めんけべしゃ」「めごいごどだなぁ」「めんこいすべ」と地域でのバリエーションも多彩。替えるとニュアンスも変わるかと(金澤)

〔秋田県大館市在住の金澤昌子(かねざわしょうこ)さん(一般財団法人大館市文教振興事業団大館市立栗盛記念図書館館司書)〕

棟方梢『めごいべぇ』

ぐずって 泣ぐべが
泣ぎそうなつらっこがら 泣ぎ声ででくるこの一瞬
つらっこくずいでまって 涙っここぼれでくる涙顔
めごいべぇ

でったらなまなぐど にらめっこ
じたっとつらばみでで 泣くべがど思ったこの一瞬
ニコッと まさがのほほえみ返し
めごいべぇ

おいでってへば どんだべがって
ゆったらど両手ば伸ばして 抱がさってきた この一瞬
やわらけぇ かまりっこするつらっこ
めごいべぇ

しゃんじばじぶんでもずって じょっぱりはって
つらっこのまわりさ いっぺつけでまるこの一瞬
すげえべぇって にたっとしたつらっこ 
めごいべぇ

こどばさなねばって 声さだして
あじだって むがへで
こいだべがって思うおもちゃば とってやるこの一瞬
ちがうって あだまばふって不満だつらっこ
めごいべぇ

裸さなって 風呂っこで
湯っこで遊んで いだずらするこの一瞬
にたらっと笑っう あげえつらっこ
めごいべぇ

めごくて めごくて
たんだたんだ めごくて
包み込まいる いのちのあったかさ
めごくて めごくて
たんだたんだ ありがでな
包み込まいる 二人の深ゖ慈しみ

命の限り 一緒に行くべし

(共同研究者の青森明の星短期大学棟方梢先生。ちなみに、先生の出身地は青森県五所川原金木町、太宰治の故郷です〕

野間晴美『かいらしおすやろ?』

ぐずぐずゆうて 泣かはりまっせ
顔がはじけて 泣き声ではる とおもたとたん
顔を崩して こぼれる涙
かいらしおすやろ

つぶらなお目めと にらめっこ
じーっと顔見て 泣くやろか とおもたとたん
ニコッと まさかのほほえみ返し
かいらしぃなあ

おいないすると ちょっとためろうて
ゆっくり両のてえのばして からだをあずけはった とおもたとたん
やらかい におい立つお顔
かいらしおすやろ

スプーンをもつんやて ごんたゆうて
口のまわりに ぎょうさん散らかさはるわ とおもたとたん
ほれやったったと にたり顔
かいらしぃなあ

ことばにならへん 声だして
指さす方に 目を向かせ
おぼしきおもちゃを さしだそう とおもたとたん
ちゃうちゃうと かぶりをふって ふくれっつら
かいらしおすやろ

素っ裸 湯船で
お湯とほたえて てんごしゃはるとおもたとたん
満面の笑みをうかべる 赤ら顔
かいらしぃなあ

かいらしぃて かいらしぃて
ただただ かいらしぃて
包み込まれる いのちのぬくもり
かいらしぃて かいらしぃて
ただただ おおきにどす
包み込む 二人の深い慈しみ

いのちの限り 共に歩まん

〔共同研究者京都華頂短期大学名賀亨先生が依頼した、華頂短期大学附属幼稚園教頭野間晴美先生の作品〕

『や~らしかやろー』(佐賀弁)

ぐずー ぐずーいうて 泣くとやろうか
泣き面(つら)のうっかんげて 泣きじゃーた そん時
つらば よんごひんぐになゃーて こぼらかす涙のつらは
や~らしかやろー

こまーか めんこんたんと にらめっこ
ジーとつらば 見よっぎんた 泣くかにゃーと思うた そん時
ニコって ほほえみばかえすこんなんてん
や~らしかやろー

きんしゃい きんしゃいばすっぎ ちゃーがつかごとして
ゆっくらーと両手ばのばゃーて ごちゃあば なんかけた その時
やわらかか においのしてくっつら
や~らしかやろー

スプーンば自分で持っぎんた 強かふいして
くちんまわりい どっさい散らきゃーて そん時
どうじゃって ニタッてすっつら
や~らしかやろー

ことばにならん 声ばじゃーて
指ばさすとこば 見んしゃいて
こいかにゃーて思うごたっおもちゃば さい出す そん時
いんにゃ いんにゃ かんぶいかんぶいすっ ぶっちょうずら
や~らしかやろー

すっぱだきゃーで ふろんなかで
お湯とぞうぐいして いたずらばすっ そん時
つら中笑うたごとなって まっきゃきゃのつら
や~らしかやろー。

や~らしゅうして や~らしゅうして
ほんなごて や~らしゅうして
ひっこまるっごと いのちのぬっかった
や~らしゅうして や~らしゅうして
ほんなごってー ありがとうない!
だっこだっこすっ ふちゃあのふかーか やさしさ
いのちのあっかぎい いっしょに歩こうない!

〔友人の佐賀市社協桑原直子さんが依頼した、佐賀弁で演劇をしている方の作品〕

須々田秀美『めごいなぁ』

えへで 泣ぐんたな
泣き顔(つら)くぁして 泣ぎ声(ごえ)ば出すこのいっとぎ
顔(つら)こひしゃげで 流す涙顔(つら)こ
めごいなぁ

ちっちぇーまなごど にらめあい
じへっど顔(つら)こ見でれば 泣ぐべがど思(おも)たこのいっとぎ
にまらっと わいはのほほえみけし
めごいなぁ

こちゃこいってへば どすべがど
ゆったど両手ば伸ばし 抱(だが)さってきたこのいっとぎ
やっこして 香(かま)りっこえー顔(つら)っこ
めごいなぁ

さじば自分(ふとり)で持づど ごんぼほって
口(くぢ)のまわりば のったど散(ち)らがすこのいっとぎ
どだばど にったどして
めごいなぁ

何(なだ)がさわがね 声っこ出して
指(ゆび)っこさす方(ほ)さ 目っこ向かせ
こいだなっておもちゃば 取(と)てやたこのいっとぎ
んでねんでねって 頭(あだま)っこふるふぐれっ顔(つら)っこ
めごいなぁ

裸(はだが)っこで 湯(ゆ)こさ入って
湯(ゆ)こかまして 悪(わる)さばするこのいっとぎ
にまにまど笑う 赤(あげ)ぇ顔(つら)っこ
めごいなぁ

めごくて めごくて
たんだたんだ めごくて
包(つづ)みこまれる 命このぬぐだまり
めごくて めごくて
たんだたんだ ありがてなぁ
包(つづ)みこむ 二人(ふだり)の深(ふけ)ぇ慈しみ
命こあるうじ 一緒(いしょ)じに行くべ

〔白神山地ブナ林再生事業に取り組む日本山岳会青森支部の須々田秀美氏は、青森県平川市に在し弘前弁で表現する〕

宮城葉子『肝愛(チムガナ)さぬ』(ウチナーグチ)

肝(チム)ぬままならん 泣ちがーたー
泣顔(ナチガウ)ぬ にじら らん
泣(ナ)ち声(グィー)ーぬ出(ン)じたる
くぬ はっとぅま
顔(カウ) わじゃまち
涙(ナダ)落(ウ)とぅちゃる 顔(カウ)
肝愛(チムガナ)さぬ

目(ミ)ーまってん 目(ミ)ーぐゎーとぅ
みぃーくぅーめぇー
みぃーちきてぃ 顔(チラ)ぐゎー見(ン)ーちょうてぃ
くぬ はっとぅま
ニコッんでぃち まさかぬ
見(ミ)ーぐゎー笑(ワレェ)ー返(ゲェ)ーし
肝愛(チムガナ)さぬ

くぅーわっ! んでぃち さくとぅ
ちゃーすがやーんでぃち思(ウム)やがなー
ようーんなー たーちぬ手(ティー)
伸(ヌ)ばち 身体(ドゥー) あじきたる 
くぬ はっとぅま
やふぁってん ぐゎーとぅ
かばさ だちゅる顔(カウ)
肝愛(チムガナ)さぬ

サジ 自分(ドゥー)し 持(ム)っちゃくとぅ
がーはてぃ くちぬまんまーるや
いっぺー 散(チ)らかちゃる
くぬ はっとぅま
しーやんてぃ 目(ミ)ー笑(ワレェ)ー顔(ガウ)
肝愛(チムガナ)さぬ

くぅとぅばにならん 声(クィ)ー出(ン)じゃち
指(イービ)さする とぅくるんかい
目(ミ)ー向(ン)けぇーらしみてぃ
くりやんでぃ 思(ウ)まーりーる イーリムン
取(トゥ)らちゃる くぬはっま
ンパーンパーんでぃち
頭(チブル)ふる 肝(チム)ふがん顔(ガウ)
肝愛(チムガナ)さぬ

まる裸(ハラカ) 風呂(ユフル)桶(ウゥーキ)んじ
湯(ユー)とぅ がんまり遊(アシ)びし
痛(ヤマ)ちゃる 
くぬ はっとぅま
肝愛(チムガナ)さぬ

肝(チム)がなさぬ 肝(チム)がなさぬ
どぅく どぅく 肝(チム)がなさぬ
抱(だ)ちくだる
命(イヌチ)ぬ 温(ヌク)むい

肝(チム)がなさぬ 肝(チム)がなさぬ
いっぺー いっぺー ニフェードォー
抱(だ)ち込(ク)みたる 二人(タイ)ぬ母子(ファファクッ)ぬ
志情(シナサキ)ぬ深(フカ)さ 肝愛(チムガナ)さぬ
命(ヌチ)ぬあるかじり
いちまでぃん 共(トゥム)に 歩(アユ)まな

〔沖縄市在住の友人木下義宣氏の紹介で、童唄研究家の宮城葉子先生のウチナーグチ(沖縄語)での訳詩をいただいた。過去に「方言札」という「日本語の標準語激励の強硬手段としての罰札」により、貴重な言葉と文化を失った歴史があることを知った。先生は幼児教育の指導者教育に長年携わりながら、うるま市田場の古民家「沖縄のわらべ唄 民謡の里・田場ぬてぃーだぬ家-」を拠点に、現在も文化継承活動をされておられる〕

『かわえげな』(出雲弁)

ぐじって ほえそ
ほえがおがはじけ ほえごえがでてくー 
このえっしゅん
かおをめぐほど ぼろけるなんだがお
かわえげな

ちぶらな瞳と にらめっこ
じっと顔をみちょって ほえーかなと思った
このえっしゅん
ねこっと まさかのほほえんがえし
かわえげな

おいでをすーと こまったげに
ゆっくー両手をのばいて からだをあじけた
このえっしゅん
やおい ねおいたつ顔
かわえげな

さじをわでもつと えじはって
口のまわーね よーけちらかす
このえっしゅん
まいことやったと おれしげに
かわえげな 

ことばねならん 声だいて
指さす方に めーみかしぇ
おもったおもちゃを 差し出す
このえっしゅん
やだやだと あたまをふてぶー不満顔
かわえげな

まっぱだか いぶねで
おいとつばえて えけずすー
このえっしゅん
かおじーの笑みをうかべー まっかな顔
かわえげな

かわえげで かわえげで
ただただ かわえげで
つつんこまれー えのちのぬくもー
かわえげで かわえげで
ただただ だんだん
つつんこむ ふたーの深いえつくしん

えのちのかぎー えっしょにえかこい

〔共同研究者山本寿子先生が友人の出雲市在住の堀内クミさんに依頼し、さらに出雲弁の研究をされている方にお願いして訳していただいた〕

沈黙の価値

沈黙は 
美徳である
傷ついても 傷つけることはない
虐げられても 我慢すれば足りる

沈黙は
自己責任である
思考を 放棄する
結果を 甘受する

沈黙は
自己犠牲である
自由を 封印する
自律を 拒絶する

沈黙は
生存欲求である
悪意を 黙認する
正義を 不問とする

沈黙は
判断停止である
強権が 支配する
意思を 焚殺(ふんさつ)される

沈黙は
生き延びる術(すべ)である
無関心に 徹する
無抵抗こそが 絶対服従となる

沈黙を我慢できなくなったとき
恐怖を覚えるのは誰か
沈黙が破られるとき
驚愕(きょうがく)するのは誰か
沈黙が強権から解き放されたとき
何をかいわんや

〔2021年5月30日書き下ろし。沈黙は生存を賭けた覚悟により破られるのか〕