阪野 貢/「やまゆり園事件10年」:なんで殺されなければならなかったのか?―「内なる差別」と共生社会の欺瞞、そして福祉教育の虚構―

〇筆者(阪野)が購読している新聞の2026年7月26日付社説、「やまゆり園事件10年:内なる差別に向き合おう」を読み、私たちのなかに潜む無意識の偏見や差別、優生思想、それらを乗り越えるための公私の施策や取り組み、そして「福祉教育」のあり方などについて、改めて考えさせられた。(⇨参照
〇事件から10年という節目を迎えるいま、被害者家族や施設職員、あるいは支援者の想いはいかばかりか。政府が進める障がい者の地域移行の施策は、実際にどこまで進展しているのか。また、障がい者との「共生」という考え方は、学校や地域・社会に定着してきたのか。とりわけ知的障害や精神障害をもつ人々は、置き去りにされてきたのではないか。そして、これまでの福祉教育は、無意識の偏見を解消するのに有効に機能してこなかったのではないか。偏見や差別の克服は教育だけでなく、社会全体で取り組むべき課題であり、学校における福祉教育に過大な期待を寄せてきた面はなかっただろうか。その学校教育としての福祉教育は、全教科・全領域での展開や、人権教育・道徳教育・平和教育などとの連携に十分な関心を払ってこなかったのではないか――。
〇こうした問いを友人や知人に投げかけたところ、さっそく熱量のこもった2通の回答をいただいた。それぞれの視点から見えてくる福祉教育の現状と課題、そして展望についての一文を、ここに紹介させていただきます(読みやすさを整えるため、一部表現を修正しています)。

【社説】
やまゆり園事件10年―内なる差別に向き合おう
「不幸な存在」と勝手に決めつけられ、命を奪われた重度障害の人たちの鎮魂を願わずにはいられない。相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に起きた入所者19人殺害事件から10年がたった。
事件の記憶が薄れつつある一方、人間の命に優劣をつけて「劣った遺伝子」を後世に残さないとする西洋の優生思想が形を変えて日本の社会に色濃く残る。
ユダヤ人や障害者、同性愛者らを迫害した戦前のナチス・ドイツに多大な影響を与えた優生思想は、「重度障害者はお金と時間を奪う不幸の元だから、必要ない」と凶行に及んだ植松聖死刑囚の発想に通じる。
経済合理性を重視する社会では、生産性や能力の高さで人の価値を測る風潮がはびこり、インターネットの空間は障害者を「役に立たない」「支援は税金の無駄遣い」などとする中傷であふれる。忌まわしい優生思想と地続きだ。
国は、障害者が施設から地域での生活に移行することを推進している。だが現実は、知的・精神障害者向けグループホームなどの新設に近隣住民が反対し、事業者側と対立する「施設コンフリクト」も少なくない。
偏見や差別は、誰もが大なり小なり持ち得る。障害者は不幸なのか。なぜ障害者に恐れを感じるのか。 一人一人が「内なる偏見や差別」に向き合えば、障害や能力主義に対する見方が変わるきっかけになるだろう。
人の価値を経済指標の一つに過ぎない生産性と結びつけるのは、理屈が通らない。仮に生産性で決まるのなら、乳幼児や失業者、寝たきりの人らも価値がないことになる。司法から社会に不要とされたも同然の植松死刑囚も、その一人にくくられよう。
国は障害者権利条約の批准に伴い、障害者の人権を守るための法整備を進めてきたが、福祉施設・事業所における虐待事案は増加し続けている。厚生労働省の調査では24年度に1267件と過去最多を更新し、被害者は2010人に上った。
多くの現場は慢性的な人手不足に悩まされている。職員が心身ともに疲弊し、感情の抑制が利かなくなって虐待に至るのも増加要因の一つだ。
障害福祉事業者の不正受給も拡大の一途をたどっている。指導監督権限を持つ自治体の対応は追い付いていない。ほぼ税金で賄われる障害福祉の総費用は25年度で約4兆3千億円。福祉の理念よりも利益優先の事業者の参入を招いた。
障害者向けグループホーム大手運営会社「恵」が、利用者から食材費を過大に徴収するなどしていたのは「経済的虐待」の典型といえる。
24年施行の改正障害者差別解消法は、障害者の困り事に無理のない範囲で対応する「合理的配慮」を企業に義務付けている。だが障害者への配慮や差別解消に関する研修に取り組む企業は少ない。内閣府の調査では未実施の企業が8割に上る。浸透は不十分と言わざるを得ない。
植松死刑囚が「共生社会を目指すのは間違っている」と言ったのは、差別解消をうわべだけで語る社会の欺瞞を肌で感じていたからではないか。
障害がない人本位に最適化された社会のありようを自分事として見つめ直す。それが共生社会の実現へ一歩踏み出すことにつながる。

【毛見さん】
正直に言うと、この社説を読んで少し落ち込んだ。相模原の事件からもう10年か、という感慨と同時に、自分たちは本当に何か変わったのだろうか、という疑問が拭えなかった。経済合理性、SNS上の中傷、施設コンフリクト、虐待の増加など、記事に挙がっている問題は、どれも社会の歪みの表れであると同時に、たぶん自分自身の心の中にもある何かを映し出しているのだと思う。
こうした問題に向き合うには、これまでのような福祉教育のやり方では正直足りないのではないか、と感じている。以下、思うところを書いてみたい。
まず、今の福祉教育がどうなっているかだが、学校では車椅子体験やブラインドウォーク、当事者を招いての講話といったものが定番になっている。企業でも、障害者差別解消法の施行以降、人権研修やダイバーシティ研修が少しずつ増えてきた。これ自体は悪いことではないし、一定の効果もあったはずだ。
ただ、課題も多い。
一つは、体験学習がどうしても「かわいそう」という同情で終わってしまうことだ。車椅子体験は障害の不便さを一瞬感じさせてはくれるが、下手をすると「障害者は大変で気の毒な存在」「自分は恵まれている」という優越感を裏で強めてしまう。これでは対等な関係を築くどころか、逆効果になりかねない。
もう一つは、学校で学んだ知識が実社会に出た途端に役に立たなくなることだ。内閣府の調査では、差別解消に向けた研修をやっていない企業が8割にのぼるという。学校を出れば、そこはネット上の「税金の無駄」的な言説が渦巻く世界で、教室で学んだことなど簡単に押し流されてしまう。
それから、これは自戒を込めて書くのだが、「生産性」という物差しを子どもの頃から無意識に刷り込まれている、という点も見過ごせない。テストの点数や効率で評価される日々を送っていれば、「福祉教育で優しさを学びました」くらいでは、その根っこにある能力主義的な価値観はびくともしない。
では、これからどうすればいいのか。
一番大事なのは、他人を「学ぶ」教育から、自分自身の中にある恐れや抵抗感を見つめ直す教育への転換だと思う。「なぜ自分は障害者に対してどこか身構えてしまうのか」「自分自身も『役に立たなければ』というプレッシャーに怯えていないか」、こういうことを、対話を通じてじっくりほぐしていく場が必要だ。植松の考え方を「自分とは無縁の異常者の妄想」として切り捨てるのは簡単だが、そこで思考を止めてはいけない気がする。
あと、障害を個人の問題として見る「医学モデル」ではなく、社会の側に障壁があるとする「社会モデル」の視点も、もっと当たり前に教えられるべきだろう。生産性で人を測る発想自体、健常者中心に社会が作られていることの結果でしかないのだから。
一回きりのイベントではなく、日常的に多様な人と関わり続けることも欠かせない。グループホーム建設への反対運動の背景には、結局のところ「よく知らないもの」への漠然とした不安があるのだと思う。子どもの頃から重度障害のある人と共に過ごす経験こそが、一番の土台になるのではないか。
最後に、福祉やケアの仕事の価値をどう捉え直すか、という点も避けて通れない。虐待の増加も人手不足も、結局「ケアという仕事」を社会が軽く見ていることの裏返しだと思う。経済的な生産性だけを「貢献」とみなす社会通念に対して、他者をケアすること、ただ生きていることそのものの尊さを、教育の核に据え直す必要がある。
やまゆり園の事件が突きつけたのは、口では差別解消と言いながら、裏では効率や能力で人を選別し続ける社会の欺瞞だったのだと思う。この欺瞞を超えるための福祉教育は、「障害者に優しくしましょう」という道徳の授業であってはならない。自分たちが知らないうちに飲み込んでしまっている優生思想や能力主義から、自分自身を解き放つための教育でなければ、意味がないと思う。
障害のあるなしにかかわらず、誰もがそのままで存在を肯定される社会へ。自分の中の差別から目をそらさず、問い続けることこそが、犠牲になった方々への一番の弔いになるのではないか。10年が経った今もなお、能力主義や優生思想は形を変えて残っている。ネット上の心ない言葉も、地域の施設コンフリクトも、現場の虐待の増加も、結局は私たちの中にある「内なる差別」の表れなのだと思う。植松の言葉を単なる異端者の妄言として片付けず、健常者中心に組まれた社会の歪みとして受け止め直すこと。そこから始めるしかないのだろう。

【加藤さん】
10年、という数字をどう受け止めればいいのか、よくわかりません。19人の命が奪われたあの事件から、もう10年が経ったのか。それとも、まだ10年しか経っていないのか。
事件のことを思い出すたびに、私は、いつも同じところで立ち止まります。植松死刑囚の言葉を「特殊な異常者の妄想」として片付けてしまえば、話は簡単です。でも、本当にそれでいいのだろうか。彼の言葉に、どこかで頷いてしまう自分がいないだろうか――そこから目をそらさずにいたい、といつも思うのです。
福祉教育とは何か。教科書的に言えば、障害や高齢、貧困といった困難を抱える人々への理解を深め、共に生きる社会を目指す教育、ということになるのでしょう。学校では総合学習や道徳の時間を通じて、障害理解の授業やボランティア体験、施設との交流などが積み重ねられてきました。障害者権利条約や差別解消法の考え方を受けて、インクルーシブ教育という言葉も、以前よりずっと身近になりました。障害者を「守られる存在」から「共に社会をつくる一員」へ――この意識の転換は、確かに前進してきたと思います。
けれども、意識の面でどれだけ言葉が整っても、学校という仕組みそのものは、今なお障害の有無で子どもを分ける「別学」「分離」を前提にしたままです。理念と現実の間には、まだ大きな溝が横たわっている。そのことを、私たちはどれだけ自覚できているでしょうか。
いくつか、心に引っかかっていることを書いてみます。
車椅子体験や高齢者疑似体験。あれは確かに、何かを感じるきっかけにはなります。でも、あの一度きりの体験が、「障害者はいつも助けてもらう側の人」という思い込みを、かえって刷り込んでしまってはいないでしょうか。本当に必要なのは、障害のある人自身の暮らしや思いに、日々のなかで触れ続けること。そして、障害というものが個人の内側にあるのではなく、社会との関係のなかで作られているのだと、体で分かっていくことなのだと思います。
それに、学校で何を学んでも、卒業して社会に出た途端、その学びが宙に浮いてしまうことはないでしょうか。内閣府の調べでは、合理的配慮の研修を行っていない企業が、実に8割にのぼるといいます。教室のなかでどれだけ丁寧に育てた感覚も、その先に受け皿がなければ、簡単に忘れられていく。福祉教育は、子どもたちだけのものではなく、企業や自治体、地域に暮らす大人たち全員の、生涯にわたる学びとして組み直す必要があるのではないでしょうか。
もう一つ、見過ごせないのは、障害者を取り巻く現実そのものが、まだ十分に知られていないということです。福祉施設での虐待は過去最多を更新し続けています。その背後には、慢性的な人手不足と、疲弊しきった職員の姿があります。不正受給や、いわゆる経済的虐待も後を絶ちません。福祉教育というものが、障害への理解にとどまらず、こうした制度の歪みや現場の苦しさにまで踏み込み、「その制度を支える一市民として、自分に何ができるのか」を考えさせるものであってほしい、と願わずにいられません。
では、これから先の福祉教育は、どこに向かえばいいのでしょうか。
まず、「かわいそうだから助ける」という慈善のまなざしを、手放すべきです。目指すべきは、すべての人の権利を守るという意味での人権教育への転換だと思います。障害者は支援を受けるだけの存在ではなく、自らの意思で社会に関わっていく、一人の市民なのですから。この視点に立って初めて、「生産性」という物差しで人の価値を測ろうとすること自体を、問い直せるのだと思います。
そのうえで、特別な機会ではなく、当たり前の日常のなかで関わり合う時間を増やしていくこと。同じ教室で学び、同じ町で暮らし、同じ職場で働く――そういう積み重ねのなかでこそ、「特別な存在」という眼差しは、少しずつ薄れていくものだと思います。偏見の多くは、結局「知らない」ことから生まれるのですから。
そして最後に、これが一番重要なことですが――自分自身のなかにある差別に、気づき、自覚し続けることです。差別は、決して他人だけの問題ではありません。誰の中にも、無意識のうちに能力や生産性で人を測ってしまったり、自分と違うものに不安を覚えたりする瞬間があります。それを恥じて隠すのではなく、「なぜ自分はそう感じたのか」「その感じ方は、誰かを傷つけていないか」と、問い続けること。福祉教育とは、知識を授ける営みである以上に、自分自身を絶えず省みる営みなのだと、私は思います。
やまゆり園の事件は、一人の犯人だけが抱えていた特殊な問題ではなかった。社会のなかに潜んでいた優生思想や能力主義を、私たちの前に映し出した鏡だったのだと思います。だからこそ、この出来事を風化させてはいけない。「命の価値は、生産性で決まるものではない」という、当たり前のはずのことを、これから先の世代へも手渡し続けなければならないと思います。
福祉教育とは、障害者について学ぶための教育、というよりも、自分自身の価値観を問い直し、多様な人々が互いを尊重しながら生きていく社会をつくるための教育なのだと、改めて感じています。一人ひとりが、自分のなかの差別と向き合い続けること。遠回りに見えても、それこそが、この事件を二度と繰り返さないための、確かな道になるのではないでしょうか。こんなことをいま、改めて思っています。

〇毛見さんの回答では、「能力主義」「社会モデル」「内なる差別」が強調されている。加藤さんのそれでは、「学校教育」「生涯学習」「人権教育」が注目されている。2人の考えに共通しているのは、これまでの福祉教育が陥りがちであった「車椅子体験などの一時的な同情」や「差別はいけませんという道徳的スローガン」の限界を厳しく見つめ直している点である。
〇すなわち、福祉教育は、障がい者と関わることによる「感動」や「思いやり」にすり替えることで、無意識の偏見を覆い隠してきたのではないか。車椅子体験などの「アトラクション化」によって、社会構造の問題や構造的な排除を「個人の道徳心」に回収してきたのではないか、という問い直しである。
〇人間の価値を生産性で測る社会構造(経済合理性を重視する社会)のなかで、私たち一人ひとりが抱く「不気味さ」や「恐れ」といった「内なる差別」の存在を隠さず直視すること。そして、「何ができるか(Doing)」ではなく、「ただそこに生きていること(Being)」を尊重し合う人間観に立脚すること。 福祉教育とは、障がい者や高齢者に対する「思いやりの心」を育むための教育にとどまらず、多層的・多角的なアプローチを通じて社会構造そのものについて批判的に言及し、同時に自分自身の人間性を問い直していく、実践的で持続的・総合的な営みである。
〇すなわち、福祉教育とは、社会のあり方や私たち自身の価値観を問い直し、「生産性によって人の価値は決まらない」という人権の理念を社会全体で共有していくための教育に他ならない。その点において、福祉教育は、効率や能力主義に偏りがちな現代教育の原点を問い直し、すべての人の「命」と「生」が保証され、「尊厳」を持って豊かに共に生きられる社会を拓く「学びの基盤」として位置づけられるべきであると、改めて強く認識させられた。
〇「福祉教育」の実践と研究はいまだ道半ばである、と言って立ち止まっている暇はない。福祉教育の実践と研究とは、社会の歪みを告発し、すべての人の命を護り、生を肯定し、人間としての尊厳を無条件に認め合うための、根源的な社会変革のエネルギーそのものでなければならない。