「雑感」カテゴリーアーカイブ

「ウチ」「ソト」と社会的包摂

2013年3月、『社会的包摂にむけた福祉教育~共感を軸にした地域福祉の創造~』と題する「平成24年度社会的課題の解決にむけた福祉教育のあり方研究会報告書」が、全社協/全国ボランティア・市民活動振興センターから刊行された。それは、「従来の福祉理解・啓発のための福祉教育から、地域福祉を推進するための福祉教育、まさに次の段階(ネクスト・ステージ)を推進する時期にきている」(『報告書』3ページ。以下、「報告書」)という現状認識と、「社会的排除や社会的包摂、生活困窮者支援も視野に入れた今日の社会的課題の解決にむけた福祉教育のあり方を検討していく必要がある」(2ページ)という問題意識のもとに纏められたものである。報告書は、その第Ⅰ部で理念的な整理、第Ⅱ部で3つの実践報告、そのうえで第Ⅲ部では、地域福祉を推進する福祉教育の「新潮流」や、めざすべき「地域」像、社会的包摂にむけた福祉教育の具体的な「展開」、そしてそれらを実現あるいは推進するために求められる社協や社協職員の“変革”、などについて言及・提示している。
ここでは、第Ⅰ部のうちから、筆者(阪野)なりに注目あるいは留意したい叙述の一部を取り上げ、それをめぐる若干の“想い”や“考え”などを述べることにする。

「社会的に包摂されるということは、その人にとって社会関係が育まれ、その人らしく過ごせる居場所があるということである。」(4ページ)
「社会的孤立をなくすための施策として、『居場所と出番』が必要だと言われるが、それ以前の、居場所に行きたいという意欲や、出番がほしいという動機をどう持てるようになるか、そこへの支援が必要である。(中略)そのための具体的なアプローチのひとつとして、本人と地域に働きかけていく福祉教育に期待したい。」(5ページ)

誰もが一人の人間として、そして何よりも地域社会を構成する一人の住民として、今を、いきいきと、豊かに、尊厳をもって、“よりよく”暮らすことができるためには、「居場所」のみならず、「要場所」こそが必要かつ重要である。人は、地域において多様で、豊かな社会(人間)関係をもつことによって、他者からの役割期待に気づき、それを取り入り、その期待に応えるべく役割遂行を果たそうとする。そこから、他者や社会から必要とされている自分を覚知し、自分が存在する価値や自分らしく生きる意味を見出すことが可能となる。人が“よりよく”生きる(実存する)ためには、単に“居(い)る場所”があるだけでなく、地域社会のなかで自分を活かす・活かされる“要(い)る場所”が必要なのである。報告書が指摘する「出番」が含意するところでもあろう。

「やや批判的にソーシャルインクルージョンを捉えるならば、『誰が、誰を、どんな目的で、どのように包摂しようとしているのか』ということを考えておかなければならない。包摂する側と包摂される側の緊張関係と、なにより包摂される側の権利が尊重されなければならない。同時に、包摂する側の意識が問われるのである。」(4ページ)
「私たち自身が社会的排除を生みだしてきたのではないかという疑問を持たずして、あるいは社会的排除の構造や要因に論及しないまま、社会的包摂だけを重要だと説いていても、地域は何も変わらない。むしろこれまでのように単に『同化』させることになってしまうかもしれない。」(4ページ)
「社会的包摂とは、けっしてみんなを同じ価値観や生活様式に同化させることではなく、その人らしさ、あるいはお互いの違いを認めあい、共生していく姿である。福祉教育では、一人ひとりの違いと同じを大切にしてきた。同時に、違っていても『仲間外れにしない』という非排除の原則が前提になければならない。このことは、人権を基盤に共生の文化をつくるというノーマライゼーションの考え方である。」(5ページ)
「社会的排除は制度によってすべて解決できるのではなく、究極的には排除しない地域や人間関係をどう構築するかが求められるのである。そのためには、排除しないという地域住民の意志が大切であるし、そのための社会福祉の学びが不可欠である。すなわち地域を基盤とした福祉教育が重要な役割を有する。制度と専門職だけでは、社会的排除の問題は解決しないのである。」(4ページ);

武川正吾(東京大学)によると、社会的排除(social exclusion)と社会的包摂(social inclusion)という対概念は、例えばフランスでは、1970年代以降、「社会的不適応者」(薬物依存者や非行少年など)や若年長期失業者、移民労働者など、既存の福祉政策・制度・サービスの埒外に置かれてきた人びとの抱える問題が「新たな貧困」や「社会的排除」の問題として認識されるようになった。その後、フランスだけでなくEU諸国において、社会的包摂に関する社会問題が「社会政策」として展開されてきた。日本では、2000年頃から、社会福祉の新しい理念として、それまでのノーマライゼーションに代わって(あるいは加わって)、インクルージョンについて議論されるようになった、のである(武川正吾『福祉社会―包摂の社会政策』有斐閣、2001年、328~329ページ)。
周知の通り、ノーマライゼーション(normalization)は、「普通の生活」「共生」などを追求する社会福祉の根本的な理念のひとつである。それは、デンマークで、1950年代前半に知的障がい者をもつ親の会が取り組んだ「運動」に端を発している。日本では、1970年代後半頃に紹介され始め、とりわけ1981年の国際障害者年(「完全参加と平等」)と、それに続く1983年から1992年までの「国連・障害者の十年」などを契機に普及することになる。
福祉・教育関係者を中心に、こんにち、基本的な考え方や理念として支持されているソーシャルインクルージョンやノーマライゼーションは、いずれにしろ、EU諸国や北欧から移入されたものである。
ところで、日本人の人間関係には、「本音」と「建前」の二重基準(ダブルスタンダード)もその類であるが、「内(ウチ)」と「外(ソト)」の二面性をもつところにひとつの特殊性がある、といわれる。その点をめぐって、例えば、上田恵津子(京都ノートルダム女子大学)は、土居健郎の「甘え」の構造(弘文堂,1971年)や井上忠司の「世間体」の構造(日本放送出版協会、1977年)などの言説から、日本人の人間関係は、一般的に、「三層から構成されるものと想定することができる」として、3層構造論を説いている。「『内』に親しい身内や仲間の世界、『中間』に遠慮や義理や体面がからむ知人の世界、『外』に無縁の他人の世界」(上田恵津子「Self‐Focusと『他者』―日本人の自他関係の枠組みから―」『大阪大学人間科学部紀要』第22巻、大阪大学、1996年、391ページ)、というのがそれである。
社会的排除と社会的包摂は、一面では、排除=「外」部化、包摂=「内」部化を意味する。その際、「包摂」は、「共生」という美しい響きの言葉と相俟って、ひとつの理念や建前としてのそれに留まる。また、それは、マイノリティー(社会的弱者)をマジョリティー社会に「調和」あるいは「同化」(画一化、没個性化)させる。そして、その社会で生じるであろうリスクを予め回避するためのツール(道具)になる、といった危険性を孕んでもいる。
そこで先ず、基本的に求められるのは、上田がいう日本人に特有の人間関係(「内」「中間」「外」の3層構造)についての客観的で総合的な認識と理解である。誤解を恐れずにいえば、ソーシャルインクルージョンやノーマライゼーションの移入文化・翻訳文化の日本化、さらには地域化である。いまひとつ基本的に求められるのは、報告書もいう、包摂における住民の異質性や多様性の許容と共有である。そのうえで、(1) 社会的排除の主体と客体、排除の歴史と実態、排除に対する包摂の社会政策などについての理解。(2)排除されている集団・社会と包摂されている(される)集団・社会のそれぞれに内在する、偏見や差別、不平等などの反福祉的状況とそれを生み出す背景や構造、多様で複雑な要因についての個別具体的な実態把握と理解。そして(3)それらの過程を通して、排除と包摂が抱える問題を解決するために組織的・継続的な実践や運動に取り組むことができる住民(市民)の育成、などが求められる。以上の諸点は、学校における福祉教育にも十分に留意した「地域を基盤とした福祉教育」(筆者のいう「市民福祉教育」)の理念や構造、具体的な実践プログラムなどが問われるところである。
最後に、あえて次の2点をめぐって加筆しておきたい。ひとつは、包摂における住民の主体性や個性の尊重、異質性や多様性の共有に関してである。ここで、石垣りん(詩人)の詩について紹介することには多少の違和感を覚えないではないが、「仲間」と「表札」の一節である。「行きたい所のある人、/行くあてのある人、/行かなければならない所のある人。/それはしあわせです。」。「自分の住むところには/自分で表札を出すにかぎる。/自分の寝泊りする場所に/他人がかけてくれる表札は/いつもろくなことはない。/精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい。」(『石垣りん詩集 表札など』童話屋、2000年)。心にしみる、心の奥底にまで達する一言一句である。
いまひとつは、報告書が「社協はどう変わらなければならないか」のなかで指摘する次の一文である。「社会的包摂にむけた地域福祉を推進していく際には、黒子としてではなく、ワーカーの想い、意志、考え方などのワーカーの顔をしっかりと見せていくことが大切である」(18ページ)。この点に関して、叱責を受ける覚悟であえていえば、社協や社協職員はこれまで、コミュニティワークやコミュニティソーシャルワーカーとしてではなく、「黒子」という名のもとで、結果的には、地域や住民に「丸投げ」し、それを通して「管理」「監督」し、「調和」「同化」を促す側の立場に立っていたのではないか。それでは、地域や住民は変わるはずがない。「無縁社会」では当然のことながら、逆に血縁や地縁、そして序列の人間関係(風土)を今も残している地域においてもまた、それ故に然りである。

『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」

筆者(阪野)は、自治基本条例の制定に関して、松下圭一の著作を複数冊読み返す機会を持った。その際、手元にあった『社会教育の終焉』(筑摩書房、1986年)、『同書(新版)』(公人の友社、2003年)を併せて再読してみた。以下は、その読後感の一部といったようなものである。ちなみに、松下は、「シビル・ミニマム」(自治体の政策公準)や「官僚内閣制」(官僚が内閣の政策に強い影響力を及ぼしている状態)の造語でも著名な政治学者である。
松下の社会教育終焉論の問題意識は、「なぜ、日本で、〈社会教育〉の名によって、成人市民が行政による教育の対象となるのか」。「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない、道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」(『社会教育の終焉(新版)』3ページ)というところにある。要するに、そこには、政府ないし行政の「社会教育」への介入と、それによる「上から」の思想統制(「国家統治・国民教化」)、「教育という名の『生涯管理』」(118ページ)への嫌悪感がにじみ出ている、といってよい。
松下にあっては、「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育」を意味する。「今日の日本ではこれは高等学校水準」(3ページ)である。教育という言葉は、「未成年への〈基礎教育〉、あるいは未成年・成年を問わず特定社会の文化水準の習熟に不可欠な〈基礎教育〉のみに、限定すべき」(86ページ)ものである。そして、農村型社会を経て都市型社会の成立をみるにいたった今日、日本の国民は、「政治主体たる市民として『成熟』しつつある」。社会教育行政やその理論は、「国民の市民としての未熟を前提としてのみ、成立しうる」が、その前提はすでに破綻している。もはや、成熟した市民は、政府や行政によって「オシエ・ソダテ」られる対象ではありえない(4ページ)。
こうした松下の主張に異論をはさむとすれば、松下は、教育を直截的に「オシエ・ソダテル」営みに限定する。そもそも、教育は、一方的に「教え育てる」だけの営みではない。環境醸成や条件整備による間接的な教育もある。また、教育は文化同化のみならず、文化批判や文化創造のための営みでもある。今日、グローバル化時代に求められる高等教育システムのあり方が厳しく問われている。都市型社会の成立は、確かに生活・文化水準の向上や都市的利便性の享受を促したが、生活や教育の私事化や人間関係の希薄化などをもたらした。都市型社会の形成という歴史的かつ外的な要因によってのみ市民の成熟化が促されるのでもなく、また現代社会における成人はそのすべてが「成熟した市民」であるとはいいがたい。しかも、「成熟」は、完成やゴールを意味するものではなく、漸進的で、多様なプロセスを経て促されるが、成熟が「衰退」を意味することもある。したがって、成熟は「再構築」の過程として捉えることもできる。このように考えるとき、松下の言説には、「都市型社会」や「市民」に対する積極的な評価や過度の信頼がある。すなわち、そこには批判的視点や分析が欠けている。それゆえに、松下が想定する「教育」は一方的・限定的であり、「都市型社会」はプラス面の強調にあり、「市民」は一面的あるいは表面的である。その結果、その言説はユートピア的かつ理念的であり、偏狭で乱暴な立論にとどまっている、といわざるを得ない。
ところで、社会教育は、「自己教育」「相互教育」を本質とし、その実践が展開される代表的施設のひとつは公民館である。この点をめぐって松下は、次のように説いている。
「社会教育行政は、市民の『自己教育』『相互教育』といいながら、歴史的には、実質的に教化手段に堕していた」(136ページ)。「成人市民の自己教育・相互教育はむしろ『教育なき学習』というべきである」。「そこには、市民の自由な『学習』があるだけ」(5ページ)である。市民の「教育なき学習」すなわち「自由な学習」とは、「市民みずからによる〈模索・たのしみ・創造〉における模索過程」である。それを「市民文化活動」と呼べばよい。その「市民文化活動とくに模索における内部契機として、学習は位置づけられる」(89ページ)。すなわち、市民の自由な「学習」は、「〈市民文化活動〉の「模索」の一契機にとどまる。学習は自己目的たりえないのである」(5ページ)。
松下は続けていう。成熟した市民を「オシエ・ソダテル」教育ないし社会教育は、今日、もはや不要である。「『教育機関』たる公民館では、市民は社会教育行政職員によって準備された学習という『給付』をうけるたんなる受益者にとどまりがちになる」(44ページ)。しかし、市民の、生活から政治までの学習をふくめた「文化活動が『多様化・高度化』し、また市民の文化水準が行政の施策水準をこえてきた」(162ページ)今日、成熟した市民の活力を、社会教育行政のいう職員による「指導・援助」や「運営・管理」の公民館にとじこめることはもはやできない(59、60ページ)。ここに、職員をおかない市民管理・市民運営の、「貸部屋」ないし「たまり場」(29ページ)としての「集会施設」「地域センター」がうかびあがってくる。「それはコミュニティ・センターとよばれるかもしれない」(60ページ)。
以上の言説に関してはまず、「社会教育の終焉」の論拠のひとつである「市民の文化水準」の上昇について、それを判断する尺度や方法をどのように考えるのか。しかも、文化水準の高い、教養ある人が、必ずしも民主主義の精神や態度が形成されており、人権意識も高いとは限らない、といいたい。
公民館不要論については、例えば、小熊里実の次の指摘(「公民館論と公民館不要論の論理的つながり―公民館研究者はなぜ公民館不要論に反論しなかったのか―」『教育学雑誌』第44号、日本大学教育学会、2009年、117~130ページ)に留意しておきたい。「公民館論」と「公民館不要論」は、どちらも住民―行政間の対立軸を前提としている。両者の違いは、地域社会の民主的発展の進捗状況をどう捉えるかという点にあり、公民館論では「未だ達成せず」、公民館不要論では「成熟した」と捉えているという違いである(127ページ)。「少なくとも権力対住民という対立図式に基づく住民・行政間の関係を前提とする論理は、時代状況を考慮すれば明らかに採用できない。むしろ、両者の緊張関係は認めながらも両者の関係をより対等(・協力:阪野)なものとしてとらえる『協働』という観点からとらえ直す必要がある」。そして、「地域社会の各構成員による協治(ガバナンス:阪野)を念頭に置き、(中略)現代的な意味での『民主主義の学校』としての役割を公民館に付与していく必要がある」(129ページ)。すなわちこれである。そして、ここで、公民館の職員と地域住民(学習者、利用者)が一体になって豊かな学習活動や地域活動を計画的・継続的に展開する公民館活動が、全国のあちこちに蓄積されていることを思い起こしておきたい。なお、松下は、「協働」について、「今日、市民主権に反して、市民と行政とのナレアイになりがちな流行の考え方による『協働』という言葉をもちいて、市民文化活動と社会教育行政との協働を論ずることはマチガイである」(「新版付記」250ページ)と断じている。「協働」という名の行政の「下請け」化や「補完」化は「マチガイ」であることはいうまでもない。
また、松下は、「市民教育」についても言及する。「市民が、社会教育行政を終らせてゆけばゆくほどそれに反比例して、市民自治による市民文化の形成となっていく」(214ページ)。「社会教育行政は今日では市民文化の形成の阻害要因といわざるをえない」。「市民文化活動をめぐっては、行政は市民自治を基体としてミニマムの条件整備をするだけでよいのである」(213ページ)。「もし、『市民教育』がなりたつとしても、この市民教育も教育であるかぎり、成人にたいしてではなく、未成年にたいしてのみである。この意味では、学校に『道徳教育』にかわる『市民教育』の導入を訴えたい」(214ページ)。未成年に対する(学校における)「市民教育の基本」は「学校ですでにおこなわれているいわゆる『課外』の自治会、サークル、行事への参加の活性化」(215ページ)である。
「成人市民には、『市民教育』ではなく、現実の『市民参加』になる。市民参加には市民文化活動そのものが基盤となるとともに、これにくわえて自治体ことに基礎自治体としての市町村を中心に、(1) 市民行政=ボランティア・コミュニティ活動の展開。(2) 市民立案=政策ないし計画への批判・参画。(3) 市民決定=選挙ないし政党の選択。という参加が不可欠である。この過程で、市民はそれこそみずから教育なき『学習』つまり模索をふまえて、たのしみながら、創造をするのである」(215ページ)。
「市民自治」「市民教育」「市民参加」をめぐる以上の主張は、かなり楽観的なものである。学校における市民教育を適切かつ十全なものにするためには、「課外」活動としてのそれだけではなく、全教科・全領域における「教育」が基本となる。成人市民の全てが主体的・自律的に市民文化活動や市民参加をすすめるとは限らない。参加の過程を通して「学習」することはあるが、活動へのひとつの参加条件として、成人市民に上記の(1) (2) (3)の「市民参加」を促す契機や営みは依然として必要である。そのためのひとつに社会教育(その一環としての市民福祉教育)があることは排除できない。高度化・複雑化した都市型社会の地域における課題の解決と魅力の伸長、すなわち「地域づくり」の推進を図るためには、いわゆる「一般市民」だけでなく、むしろ専門的な知識や技術・技能を備えた「市民エリート」(坂本治也『ソーシャル・キャピタルと活動する市民』有斐閣、2010年、136ページ)を必要とする。そこには主体形成としての「教育」は欠かせない。市民参加や市民活動が活発化したとはいえ、なかには「動員」や「下請け」といった擬似的な主体性や公共性の問題が存在する。それを回避するためには「教育」(「学習」)が必要となる。「教育」と「学習」の関係については、「教育は学習の指導である」。「学習のないところに教育はない」(勝田守一『能力と発達と学習』国土社、1990年、149~150ページ)、といえる。

付記
本稿のタイトルをあえて「『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」」としたのは、福祉と教育を取り巻く今日的状況と、福祉教育実践・研究の問題点や課題、あるいは限界などについての筆者(阪野)なりの認識のもとに、福祉教育の終焉論や不要論、あるいは代替論などが提起された場合、それに如何に対応し得るか、反論の視点や論拠をどこに見出し得るか、といった想いを表示したものでもある。「地域福祉は福祉教育ではじまり福祉教育でおわる」(全国社会福祉協議会、2012年)といわれる。また、全国社会福祉協議会は、「社協がやらねばだれがやる」(2006年)、「住民主体による地域福祉の推進のための『大人の学び』」(2010年)と訴える。社会福祉協議会は地域福祉推進の中核的な組織・団体として、十全にとはいわないまでも、本当に、福祉教育の機能を果たし、役割を担うことができるのであろうか。松下圭一は、公民館は不要であり、市民が自由に活動できる場としてのコミュニティ・センターがあればよいという。本稿のタイトルが含意するところをくみ取っていただきたい。

「くえびこ」に想う

「障害者ら団結 缶バッジ販売」という二段抜き主見出しと、「介護者不足、事業所閉鎖に立ち向かう」「福島21団体が事業化」という2本の袖見出しの、地元新聞の記事(3月6日)に目が留まった。そこには白石清春氏の写真が大きく掲載されていた。彼はいま、福島県郡山市で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表として、障がい者の支援活動や運動を展開しているという。
彼は脳性まひのために車椅子生活をするが、その強く、激しく、そして誇りある生きざまから多くを学んだのは、筆者(阪野)だけではあるまい。青い芝の会の運動、とりわけ川崎駅前でのバスジャック闘争(1977年)や養護学校義務化阻止の運動(1979年)の顛末については、地域作業所やときには居酒屋などで彼から聞いている。
筆者が彼のことを知るのは、彼が1980年6月に相模原市で「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成した頃である。その後、彼は、地域作業所「くえびこ」(1982年4月)やケア付き住宅「シャローム」(1986年6月)の開設などを通して、障がい者の自立生活運動に取り組む。そして、1989年に郡山市に戻る。彼との直接的なかかわりは、5、6年のわずかな期間に過ぎない。
「脳性マヒ者が地域で生きる会」は、脳性マヒ者など障がい者の基本的人権の確立をめざし、具体的には、障がい者の自立と社会参加を促す「制度改革」と、障がい者や地域住民が「地域」で「生きる」ことの理解と認識を深める「意識改革」に取り組むための組織であった。「くえびこ」は、企業などの下請け作業は行わず、脳性マヒ者などが地域で生きるための運動の拠点、また個々の障がい者が自立生活能力を身につけていくための地域・生活学習の場として位置づけられていた。ちなみに、「くえびこ」(久延毘古)とは、日本神話に登場する神(「崩え彦」)で、田畑に立って農作物を鳥獣から守る案山子(かかし)を意味する。
かつて筆者は、彼とのかかわりを通して、「障害者の自立と福祉教育」と題する拙稿を草したことがある。以下に、そのうちから、彼の取り組みに関するコメントと管見の一部を掲載する。

彼らの取り組みは、時には力強く、時にはしなやかに、そしてなによりもしたたかである。彼らは、主体的な自己学習・相互学習をとおして、障害者がおかれている歴史的・社会的状況を科学的・客観的に認識する。そして、さまざまな危険(リスク)に挑み、多くの失敗を経験しながら、自立生活を求めて、自己実現をめざして主体的に行動するのである。その際、地域住民との社会的連帯を形成し、社会的諸施策の決定過程に参加することを自立の要件の一つとしてとらえていることが注目される。(中略)
自立とは、日常生活における自己選択、自己決定、自己管理、そして自己実現の行為とその過程をいう。換言すれば、自立とは、日常生活のなかで、生きがいをもってその人らしく自主的・主体的に生きぬくこと、そのための努力をすることを意味する。したがって、それが必要な時には、積極的に他者に依存し、他者から援助や協力を受けることも自立といえるのである。
こういった障害者の自立は、人格の完成と自己創造、自己実現をめざす障害者自身の自己教育活動によって初めて可能となる。また、それは、地域住民の障害者に対する偏見や差別が解消され、地域生活主体としての障害者と一般住民の間に相互支援的な関係――社会的「連帯」が構築されることによって成り立つ。
自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない。ここに、福祉教育の本質的で実践的な課題がある(『福祉教育の創造』相川書房、1989年、144~146ページ)。

筆者は、市民福祉教育について言及する際に、福祉サービスの「利用主体」に対する福祉教育や、福祉の(による)まちづくりの「運動主体」形成を図るための福祉教育にこだわってきた。そのこだわりは、このコメントからも読み取れるように、彼の、障がい者自身による自立生活運動に対する思いや取り組みからの“学び”にあるのは確かである。

付記
およそ25年ぶりに彼と電話で話すことができました。お互いに、相模原市でのことを思い出すのに時間を要することはありませんでした。
白石清春氏のますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。

車椅子は乗るものであり、押すものではない

筆者(阪野)が学外ではじめて愚考を開陳したのは、1982年12月、島根県社協主催の「島根県社会福祉研究指定校連絡会議」であり、その時のテーマは「福祉の心と福祉教育」であった。2013年3月、福井県社協主催の「市町社協ボランティアセンター実践研究会」が開催され、そこで「学校と地域と社協がつながる福祉教育とは」というテーマで管見を述べる機会を得た。これが大学教員としては最後の講演となる。
会議の名称やテーマを一瞥しただけでも、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」への転換を読み取ることができる。ちなみに、福井県社協では、1978年度からおよそ30年間にわたって取り組んできた「福祉協力校指定校事業」を、2009年度から「地域ぐるみ福祉教育推進事業」に移行させた。その目的は、「市町社協において、学校を含めたさまざまな社会資源との協働により、地域を基盤として福祉教育の実践を行い、地域福祉の推進を図る」ことにある。また、福井県社協では、2012年度から、「地域見守りフレンズ育み講座」と「地域コミュニティパートナー養成研修」により構成される「地域支え合い体制づくり人材育成事業」を推進している(『月刊福祉』2013年3月号参照)。これも「地域ぐるみ福祉教育推進事業」(地域福祉教育)の一環と考えられる。
福井県社協主催の今回の実践研究会では、いつものことではあるが、筆者にとっても多くの気づきや学びがあった。そのひとつは、「車椅子は乗るものであり、押すものではない」という一言である。
福祉教育実践では、障害や高齢の擬似体験として、車椅子を活用したそれが実施されてきた。そこには最初から、障がい者や高齢者は一方向的な「思いやりの心」をもって対応すべき「弱者」(客体)である、ということが想定されているといってよい。したがってそこでは、障害のない者や若者の優位性が強調され、それを発揮することが期待される。とともに、福祉教育実践に求められるICFの視点が欠落しがちである、ことを意味する。これまでの福祉教育実践では、「思いやりの心」を表すものとして「車椅子を押す」ための知識や方法・技術を学ぶことに偏りがちであった。それはときとして、「思い上がりの心」を抱かせることに繋がった、などというのは言い過ぎであろうか。
車椅子に乗るのは、生活機能の向上を図り、豊かな生活や人生を送ろうとする障がい者や高齢者、そのひと本人(主体)である。それはまた明日の自分でもある。福祉教育実践の展開過程では、障害理解や障がい者理解、障がい者の暮らし理解などを踏まえて、「車椅子は乗るものであり」、そして「車椅子は押すものでもある」という理解と認識を螺旋階段を登るように促し、深めていくことが肝要となる。
なお、場違いな蛇足ではあるが、主体と客体の関係をめぐってボランティアの世界で多用される、動詞に近い文章に、May I help you ? というのがある。「何か手伝いましょうか?」といった意味であろう。その際の主語はあくまでも「I=私」である。したがってそれは、「I=手伝う者」と「you=手伝ってもらう者」という、立場を異にした者の間に上下関係を生ぜしめることにもなる。その関係を乗り越えるためには、お互いのあり様を認知し、共感、理解、受容するための感性(心に感じ取る受動的または能動的・創造的な能力)や思考(頭すなわち理性を働かせて考えること)、そして実践行動(ある考えや価値観に基づいた行為や生き方)、言い換えれば感性的認識、理性的認識、そして実践的認識が求められる。福祉教育が存立し、その内容や方法が問われるところである。

「ヨコの広がり」と「タテの深まり」

昨日、『月刊福祉』4月号が届いた。そこでは、「福祉教育の今とこれから」と題する特集が組まれている。その巻頭を飾っているのは、原田正樹先生(日本福祉大学)の論文「福祉教育実践の新潮流―共生文化の創造をめざして」である。
そこで先生は、「福祉教育の新潮流の全体像をスケッチしてみる」として、「ICFの視点を取り入れたプログラム」「リフレクションを意識したプログラム」「まちづくりに広がるプログラム」「身近な地域での計画策定によるプログラム」「社会的包摂を意図したプログラム」をめぐって説述する。この5項目は、福祉教育の当面の実践課題であり、実践理論を構築するためのひとつの枠組みや方向性を示すものでもある。そして先生は、「福祉教育実践は、ネクストステージ(次の段階)を迎えようとしている。福祉教育の魅力のひとつは、制度に頼らない草の根の実践であるところにある」。福祉教育実践の広がりを期待するためには、システムやネットワークだけでなく、「実践を後押しする理論を構築していくこと」こそが必要である、と力説する。
原田先生はかつて、大橋謙策先生の福祉教育論について、「教育原理を踏まえた構造的な福祉教育理論体系」であり、ひとつの「原理論」としての枠組みが提示されている、と評した(『年報』創刊号、日本福祉教育・ボランティア学習学会、1996年)。「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために…」からはじまる大橋先生の福祉教育の概念規定は、今日においても多用、援用され、それに依拠した立論がなされている。
そういうなかで、松岡広路先生(神戸大学)がかつて、一番ヶ康子先生の福祉教育の概念規定とともに、大橋先生のそれは「包含的・総合的」であり、「汎用的」である。「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、〈未分化な学習者像〉、〈社会福祉活動の内実の曖昧さ〉、〈楽観的な社会形成ビジョン〉、〈教育概念の曖昧さ〉と約言できる」、と批判した(『研究紀要』第14号、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2009年)。
松岡先生が指摘する「総合的」の対義語は「分析的」である。「汎用的」の対義語は「専門的」である。福祉教育が対象(学習素材)とする地域の社会福祉問題については、それが個別具体的で多様性に富む存在であり、歴史的・社会的なものであるがゆえに、分析的な理解と総合的な判断を必要とする。福祉教育は福祉の(による)まちづくりに取り組む住民主体形成を図るための教育活動であるが、まちづくりや福祉教育の実践には「ヨコの広がり」(汎用性)と「タテの深まり」(専門性)が重要となる。
大橋先生の概念規定が提示されたのは30年前である。そしていま、経済・社会の激動に対応して福祉や教育が変動するなかで、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」へ、そして両者を融合した「市民福祉教育」の推進が求められている。それは、福祉教育やその実践の総合性と分析性、汎用性と専門性をバランスよく組み合わせたシステムやネットワーク、それに新たな福祉教育理論の構築が急がれることを含意する。その構築をより豊かで、確かなものにするのは、草の根の福祉教育実践であることはいうまでもない。

社会的不条理が跋扈

福祉教育と教育福祉の研究者のひとりに村上尚三郎先生がいる。先生は、筆者(阪野)にとっては、長きにわたってご懇篤なるご指導と格別のご高配を賜っている恩師のひとりである。
村上先生は現在、大阪の某短期大学の学長を務められているが、その大学のホームページにアップされている「学長メッセージ」は実にシンプルである。それゆえにアピール性が強い。「現在、社会的不条理が跋扈。人間関係における不調和がもたらすいじめ問題が、その最たるものである。」というのがそれである。「真実」はいつもシンプルであり、人によって作られるのであろうか。
「跋扈」(ばっこ)とは、強くわがままに振る舞うことを意味する。また、「いじめ」は、なにも子どもの世界だけの問題ではない。大人の世界におけるそれは、時と場合によっては組織的であり、卑劣極まりないものがある。
市民福祉教育は、社会福祉問題を解決するための実践や運動に主体的・能動的・自律的に取り組む住民主体形成を図るための教育活動である。市民福祉教育の実践や研究にかかわる者にまず求められるのは、一人ひとりの住民の、日々の暮らしにおける“悩み”や“苦しみ”、“怒り”や“悲しみ”、ときには“憎しみ”などの想いを、「社会福祉問題」のなかに広く、深く読み解くことである。また、福祉や教育に携わる者として忘れてはならないものに、「正義」と「倫理」がある。ある意味では、正義とは他者に対して公正で道徳的であることをいう。倫理とは他者に対して真摯で裏切らないことをいう。強く、深く留意したい。