「老爺心お節介情報」第91号
〇皆さんお変わりありませんか。酷暑ともいえる夏が終わったら、秋雨前線の影響で晴れる間もなく9月が過ぎようとしています。
〇昨年は、金木犀の香りが漂うのが10月10日頃で異常気象かと思いましたが、今年は長雨のせいか、我が家の金木犀は9月20日には香りが漂い始めました。通常なら、金木犀が10月1日前後に咲いた後、銀木犀が1週間後に咲くのに、今年は同時に咲いています。やはり異常気象なのでしょうか。
〇9月は、各地のCSW研修と重層的支援体制整備事業の研修とで、秋田、佐賀、秋田、山形、岩手と飛び回っています。
〇秋田では、高速道路を使って北秋田市の鷹ノ巣から秋田へ戻る途中、線状降水帯の猛烈な雨に出逢い、“一寸先も見えない猛烈な雨”の中、高速道路を走らざるを得ず、交通事故に遭うのではないかとひやひやしながら身を委ねました。
〇山形・鶴岡市での研修では、実家が鶴岡の妻を帯同し、これが最後かもしれないねと言いながら、実家の墓参り、義兄の墓参り、義姉の墓参りを済ませ、鶴岡に在住している甥、姪を集めて楽しい懇談の機会を設けることができました。体の弱った妻は杖を突きながらの故郷への帰省の旅でしたが、“楽しかった、楽しかった”と喜んでくれました。
Ⅰ 2026年度社会福祉協議会活動全国会議で、筆者が「関係人口」として関わる二つの社会福祉協議会の活動が紹介されたーー山形県鶴岡市、長野県王滝村
(鶴岡市の地域福祉を巡って)
〇鶴岡市は、2005年の平成の合併で1市5町村が合併し、人口14万3千人、東北地方で最も面積が広い市になった。
〇2026年現在では、人口は11万3千人で、人口減少率は20年間で20%減である。旧町村単位の地域によっては、人口減少率が40%を超えている。高齢化率は37・5%、一人暮らし高齢者数は5531人である。鶴岡市には35の社会福祉法人がある。
〇2026年9月8日に行われた2026年度社会福祉協議会活動全国会議で、鶴岡市社会福祉協議会生活支援課長の今野良一さんが、「都市部と人口減少地域が共存する地域における社協活動の展開」と題して、全体シンポジウムで報告された。
〇その報告には立ち会っていないが、シンポジウムで報告した内容の資料をメールで送って頂いて見た。その報告内容は、筆者が2026年3月に鶴岡で行った研修で問題提起させて頂いた内容とほぼ同じである。
〇それは、鶴岡市の地域福祉計画も鶴岡市社会福祉協議会の地域福祉活動計画も、鶴岡市全域での計画になっているが、これからは全市的計画と同時に、地域包括支援センター圏域ごと(11か所)の状況を踏まえて、圏域毎の計画を作成しないと「2040年問題」に対応できないという提言であった。
〇合併前の旧鶴岡市街地での住民の社会生活課題と合併前の旧町村の住民の社会生活課題の現れ方は量的にも、質的にも違いがあるので、それを反映させた解決の方向を示す計画にしないと駄目だという提起である。
〇今回、9月17日に行った研修では、市内に35ある社会福祉法人の地域貢献がこれからは重要になるし、「2040年問題」に向けての社会福祉法人の経営問題が深刻になることを提起したが、既にその兆候が表れていることが今回の研修で明らかになった。
〇筆者は、今回の研修で、第1に、都市部と人口減少地域が共存する鶴岡市にあっては、地域属性が違うので地域包括支援センター圏域ごとのデータに基づいて、きめ細かく圏域ごとの課題を整理する必要があること、第2には、旧町村地域ではできているワンストップサービスを、同じように旧市街でもワンストップ相談システムを構築できるかどうか、社協の力量が問われていること、第3には、旧市街の地域包括支援センターは社会福祉協議会だけが委託を受けているのではなく、施設社会福祉法人も委託をうけているので、それらの地域包括支援センターが全世代対応型の相談支援システムに転換できるかどうかということ、第4には、鶴岡市社会福祉協議会自体が特別養護老人ホームや障害者の施設の経営を行っており、その状況の中で、35ある社会福祉法人をまとめ、そのプラットホーム構築の役割を担い、社会福祉法人の地域貢献活動のリーダーシップを取れるかが今後の鶴岡市社会福祉協議会の大きな課題であると提起した。
(長野県木曽郡王滝村社会福祉協議会と木曽谷の持続可能な地域福祉を巡って)
〇2026年9月8日に行われた2026年度社会福祉協議会活動全国会議の全体シンポジウムに登壇した3つの社会福祉協議会の内、2つの社会福祉協議会に筆者は「関係人口」として関わっている。王滝村社会福祉協議会がその一つである。
〇長野県木曽郡王滝村をはじめとする木曽郡6町村は合わせても人口が2万3千人に届かない。2040年には人口が28%減少すると予測されている。
〇その中でも王滝村は人口631人、高齢化率71・4%で、如何に持続可能な地域福祉を推進できるのか、その課題は王滝村そのものが存続できるのかという課題と一体である。
〇長野県はこのような人口が2千人前後の小規模町村が数多くあり、県政の大きな課題の一つになっているし、長野県社会福祉協議会自体の課題でもある(人口3000人以下16村、県全体の市町村の21%、人口5000人以下の町村29町村、県全体の38%)。
〇長野県社会福祉協議会は、山間部の孤立化地域を抱える長野県内の小規模自治体において地域を支える人材確保の問題や福祉サービス提供の地域格差も生じていることから、2022年8月より開催したオンライン情報交換会を母体に、2025年4月に、『信州むらから福祉ネットワーク (略称) U‐2000 村ふくネット』を立ち上げた。
〇筆者は、その『U―2000村ふくネット』の準備会の取り組みやその前段で取り組まれた長野市中条地区(旧中条村、元長野県社会福祉協議会事務局長の小池正志氏の生誕地)の活性化プロジェクトから関わりを持ってきた。
〇中条地区プロジェクトは長野市への合併に伴い、社協事務局組織も長野市中央に統合一元されたことにより、周辺地域の地域力が大幅に減退する中で、中条地区を再度活性化させようとの旧中条村社会福祉協議会の黒岩秀美さんたちが取り組んでいる活動である。
〇2026年度社会福祉協議会活動全国会議で王滝村社会福祉協議会事務局長の中嶋素道さんが報告された内容は、これらの活動の延長上に位置づけられた活動の一端の報告である。
〇中嶋素道さんは、「木曽地域における連携と協働による持続可能な地域の基盤づくり」と題して報告したが、その報告要旨は「 木曽地域では、人口減少や少子高齢化の進行に伴い、医療・介護人材の不足、公共交通の縮小、買い物支援、地域文化の継承など、住民の暮らしを支える基盤の維持が大きな課題となっている。2020 年から2050 年にかけて地域人口は約49%減少すると推計されており、全国の中山間地域に共通する課題が顕在化している地域でもある。こうした状況に危機感を抱いた社会福祉協議会、社会福祉法人、NPO 法人等は、地域や分野の枠を超えた連携の必要性を共有し、新たな協働の仕組みづくりに取り組むこととなった。 住民主体の支え合い活動を支援する「地域支え合い会員」の創設や、町村社協役職員研修、人口2,000人未満の自治体社協による「U2000 情報交換会」などを通じて、地域内外のネットワークづくりを進めてきた。その積み重ねを基盤として、令和5 年12 月から関係団体による協議を重ね、令和7 年10 月より「みんなの木曽『Ⅹ(かけはし)』プロジェクト」を始動した。本プロジェクトは、人と人とのつながりを軸に、多機関・他分野協働による新たな連携の仕組みを構築し、機関や地域の垣根を超えた持続可能な地域づくりを推進するものである。平時からの多様なつながりを災害時にも生かしながら、木曽地域の未来を支える基盤づくりに取り組んでいる」という内容であった。
〇中嶋素道さんたちが取り組んでいる『X(かけはし)』は、「かけ算(×)」で、 困難を乗り越え、持続可能な地域づくりの未来へ続く「かけはし」を創造! すると言う思いで命名された。
〇そのために、①、「多様な団体や機関との協働」、②、町村の枠組みを超えた協働」、③、「行政と地域の協働」(福祉事業の連携体制づくり、「新たな協働」)、④、ひとが繋がり、共生による地域づくり――ⅰ)「福祉の心を育む」地域づくり(福祉教育、包摂できる地域づくり)、ⅱ)「多世代交流」、ⅲ)「障がい者が主役」の地域づくり、ⅳ)「移住者と地域の協働」、ⅴ)「身寄りがなくても安心」して暮らせる地域づくり、⑤、「みんなの拠点づくり」(地域の拠り所、居場所づくり) 、⑥、「地域の文化の継承」、「多文化共生」、⑦、「地域間交流」の促進 ⑧、地域で支える「こどもたちの未来」、⑨、持続可能で、元気な地域づくりを目指している。
〇その活動の理念は、「地域」は、「日本のこころ(文化)」のルーツであり、「小地域」をたいせつに守る取り組みは「効率化」では守られない。日本の豊かな『文化』を守り、育む取り組みを推進することである。
〇長野県木曽谷の『X(かけはし)』の実践は容易ではない。木曽郡にある特別養護老人ホームは松本・塩尻・木曽郡の広域組合立であり、介護保険は木曽郡6町村の広域組合という状況の中で、町村社会福祉協議会は各々の町村からの補助金に多くを委ね、経営されている状況の中で、各種の経営問題も含めて木曽谷の地域福祉を持続可能なシステムに改編できるか、大きな試練が立ちはだかっている。『X(かけはし)』には、それを乗り越えるエネルギーと活動が期待されている。その活動を心から応援し、その思いが実現することを心より祈念したい。
〇と同時に、それは今後の日本全国の縮図を先取した取り組みであり、その実現を考え、支援することは日本地域福祉学会としても、地域福祉研究を標榜する研究者にも課せられた課題である。
(2026年9月21日記)
Ⅱ 「その時の出逢いが」―2020年代
『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑫
1 2020年代
(はじめに)
〇2020年3月に楽しい東北福祉大学大学院での研究指導を終え、退職した。
〇と同時に、1970年に東京大学大学院教育研究科修士課程を修了し、女子栄養大学に助手として採用され、大学教員生活が始まるが、それも50年間の大学教員生活を閉じることになった。
〇“使える研究者”になれるのであろうか、社会的に評価される研究者になれるのだろうか、恩師の小川利夫先生の教えを実現できるのだろうか“と日々悩み、家族にも迷惑を懸けながらの実践的研究にまい進した50年の日々が走馬灯のように蘇ってくる。
〇筆者の大学教員としての評価、「地域福祉と社会教育の学際的研究者」としての評価は関係の方々に委ねるしかないが、自分自身としては“もがき、苦しみ、葛藤”した日々であったが、いい大学教員生活、いい研究生活を送れたと感謝の念で一杯である。
〇家庭的には、ある日、“長女が我が家は母子家庭なの”と妻に言ったことを聞かされ、家庭生活を顧みない自分の研究生活を押し通せるか悩みはしたが、今となっては妻も、家族も“いい人生を送りましたね”と言ってくれているのが、何よりも嬉しいご褒美だと思っている。
〇筆者は、大学教員50年を祝うために、第3回の「四国歩き通しお遍路」に2020年4月に出発する。しかしながら、2019年から世界的に流行し始めた新型コロナ(COVID―19)のパンデミックで、途中、37番札所・高知県岩本寺で断念せざるを得ず、帰宅することになった。残された札所巡りは2021年4月に継続して、無事大窪寺で結願した。
〇筆者は、2023年10月26日に80歳を迎えた。後期高齢者は5歳ごとに体力が落ち、病気がちになると教えられて来たが、まさにその通りで80歳を迎える前(79歳時)の2022年3月14日に前立腺がんが発見された。この危機を乗り越えるのに足掛け4年掛かることになった。
〇それを乗り越えた2026年以降は、70歳代と同じように活発に活動できるようになり、全国各地のCSW研修で東奔西走する日々である。
➀ 第3回四国歩きお遍路・新型コロナ・「老爺心お節介情報」の発刊と中山道よろよろへとへと道中記
〇先に述べた通り、2020年4月2日、第3回四国歩きお遍路に出発した。前日の4月1日に(公財)テクノエイド協会の辞令交付を行い、幹部会を開催して、後を託して出発した。
遍路発ち ミツバツツジが 咲き誇る
見送りに 佇む妻や 沈丁花
〇歩きお遍路は、弘法大師と同行二人なので、一人で歩きながら、来し方を振り返り、自然との共生を楽しむ孤独な思索の時である。
〇これがとてもよく、歩き進めるほどに、自分の世俗の垢が取れ、五感の感覚も鋭くなっていくのが実感できる。バスや車で、ツアーを組んでの札所巡りには、この“贅沢な時間と空間”と“思索の時間”は確保されない。歩きながら、様々な事柄に思い巡らせる思索の時間は何物にも代えられない贅沢な喜びである。体は疲れるが、感覚は研ぎ澄まされていく。「お四国病」と言われるお遍路の魅力はこのことに尽きていると思っている。
〇今回のお遍路でも当然同行二人なので、一人で歩いていくのだけれど、いつからか自分の前後を歩く鹿児島の人と長崎の人とほぼ同じペースで歩き、挙句の果てに泊まる宿がいつも一緒になる。いつの間にか、親しく声を掛け合うようになり、宿では一緒に夕飯を食べ、お酒を飲むようになった。鹿児島の方は私より、一歳年上であるが、普段山歩きをしているとかで健脚である。弥次喜多道中よろしく、二人とは前になったり、後ろになったりと35番札所の清滝寺までは一緒だった。しかしながら、新型コロナの影響で、お遍路宿がほとんど閉まり、札所もお遍路さんを受け入れないとなり、お二人は出直すということで別れた。
〇私は行けるとこまで行こうと思って歩き続けたが、37番所札所で打ち止めをすることになった。それというのも、県外者立ち入り禁止の通達が出ているとのことで、岩本寺の先は進めなくなり、岩本寺から引き返すことになった。
〇予讃線窪川駅から高知駅経由、岡山駅経由で新幹線で帰途に就く。駅の売店も閉まっているところが多く、人との出逢い、接触を拒否する新型コロナの恐ろしさを改めて痛感する。
〇新型コロナが猛威を振るう中、本当に人との出逢い、交流がなくなり、閉塞・蟄居の状態となってしまった。これでは駄目だと思い、「老爺心お節介情報」を関係者に送りつけることにした。
〇「老爺心お節介情報」は、2020年5月20日に第1号が発刊された。約100名の関係者に私が勝手に、“老婆心”ではなく、“老爺心”からお節介情報を送ることにした。その評価は分からないが、2026年9月現在、90号まで発刊し続けている。
〇「老爺心お節介情報」の発刊の趣旨を第1号では以下のように述べている。
「私は、この3月で東北福祉大学大学院を退職しました。少し閑になるので、時々皆さんに一方的に、私が見て、読んで関心を持ち、皆さんと情報を共有しておいた方がいいと思われる情報を一方的に送ります。取捨選択して使ってください。
ただし、大学教員を辞めるということは、教育・研究上迫られて情報を集めるとか、その立場にいるから自然と情報が入ってくるとかということがなくなり、皆さんが職務上知り得ている以上には情報を把握していないかもしれません。まさに、私が知り得たレベルでの情報を独善的に取捨選択して、「お節介爺さん」として送り届けるものです」(2020年5月28日)
〇2020年4月の「歩きお遍路」は、結局、途中で打ち切らざるを得ない、いわゆる「区切り打ち」状況で終えたので、新型コロナが落ち着いたら岩本寺以降を歩き、結願したいと考えていた。
〇改めて、2021年4月2日から4月28日まで、岩本寺から歩き始めて、38番札所金剛福寺(足摺岬)から88番札所大窪寺まで27日掛けて歩くことができた。
〇「お四国病」に取り付かれたものの一人として、第4回目の四国歩きお遍路を目指していたが、後記するように前立腺がんが発見され、その治療に女性ホルモン療法を取り入れたせいか、足の筋力が落ち、踏ん張ることできなくなった。これでは、お遍路の“馬の背”と呼ばれる道を歩くことができず、“馬の背”から滑落して、遭難することも考えられるので、お遍路は諦めることにした。
〇その代わりと考えたのが中山道530キロを歩くことである。日本橋から京都3条大橋まで歩こうと考えて、2026年4月に挙行した。
〇しかしながら、初日から足裏にまめができ、日に日にそれが大きくなり、とうとう中山道の中間点を過ぎた木曽谷の妻籠宿でリタイアを余儀なくされた。
〇元長野県社会福祉協議会事務局長の小池正志さんはじめ、木曽谷の地域福祉を良くしようと頑張っている木曽郡内社会福祉協議会や社会福祉法人の方々がいろいろサポートしてくれたがリタイアせざるを得なかった。
〇年寄りの冷や水と言われるかもしれないが、2026年10月に、歩けなかった中山道の区間(長久保・大和橋~和田宿~和田峠登山口と馬籠宿~中津川宿)を歩き、できれば2027年4月に中山道・中津川宿から京都3条大橋までの残りを歩きたいと考えている。
〇「中山道よろよろへとへと道中記」は、阪野貢先生のブログに収録されているので関心のある方は御照覧ください。
➁ 79歳で前立腺がんの重粒子線治療
〇私は、70歳以降は職場の健康診断、あるいは任意の人間ドックも受診していない。その代わりと言ってはいけないのであろうが、痛風予防の服薬をしているので、その薬がなくなる際に、「かかりつけ医」で6か月ごとに血液検査をして、HbA1c,γ―GTP、血糖値、クレアチニン、コレステロールなどの検査を行っている。
〇2022年に入り、畏友の阪野貢先生の強い勧めがあったので、2022年3月に行った血液検査の際に、従来の項目に付け加えて前立腺がんの腫瘍マーカーの検査も入れてもらった。
〇前立腺がんの腫瘍マーカーは、70歳以上の人の正常基準値は4・0以下なのに、私の血液検査の結果は、15・4であった。かかりつけ医は、慶応大学系の稲城市民病院と自宅がある京王線若葉台駅の隣り駅にある日本医科大学を紹介し、すぐに受診して欲しいというという。
〇私は、日本医科大学を選択し、受診したら、やはり前立腺がんだという。改めて、MRI、CTスキャナー、骨シンチグラフィー検査、前立腺生検等の検査を受け、前立腺がんが確定した。幸い、前立腺以外へのがんの転移はなかった。
〇日本医科大学病院の医師の進めもあり、相鉄線の二俣川駅(自宅から1時間30分)にある神奈川県立がんセンターで重粒子線治療を受けることになった。
〇神奈川県立がんセンターでも同じような検査を行い、高リスク群で、ステージⅡという前立腺がんの診断が確定する。神奈川県立がんセンターでは、女性ホルモン治療はおこなわないので、日本医科大学病院で治療を受けた後に重粒子線治療を行うことになった。
〇神奈川県立がんセンターでの重粒子線治療は、2023年2月下旬から3月に掛けて、12回の照射が行われた。神奈川県立がんセンターは、小田急線、相鉄線を乗り継いで、自宅から約1時間30分掛かるが、照射はたったの15分もかからない。12日間通って、12回分の照射を受けた。照射後は90日間酒を飲むなと言われ、結局約100日間禁酒をすることになった。
〇前立腺がんの治療には苦痛を感じなかったが、100日間の禁酒は日々さみしいものであった。第2回の古希記念の四国歩きお遍路の際には禁酒を誓い、40日間酒を飲まずに通した。結願後の徳島での結願祝いの席でビールを飲んだが、まったく美味しくなく、早々に宴席を退出させて頂いた。しかしながら、前立腺がん治療に伴う禁酒期間100日後の解禁のビールはとても美味しかった。いまだその違いがどこからきているのか分からずにいる。
〇前立腺がんの治療後は女性ホルモン治療の影響で筋力が落ちると言われたが、まさにそれを実感する日々が続いた。医師に、女性ホルモンの影響だけでなく、80歳にもなれば、20代の人の筋力の3分の1になるのだから筋力が落ちて当たり前ですと言われたが、足に力が入らず、坂道は辛かった。意識して歩いて筋力の復活を試みてみたものの、回復は未だ道半ばである。
〇そんなこともあり、2025年7月からは、駅近くのスポーツジムに週1回は通い、ペダル踏み、ランニング、11種類のマシーンを使っての筋トレに励んでいる。筋力の増強には届かないものの、筋力維持にはつながっているのではないかと自分では思っている。特に背筋のトレーニングをしているせいか、姿勢がいいですねと言われることが多くなった。
➂ 寄稿した小稿――大学教員・研究者から後代の研究者・実践者へのメッセージ
〇大学の教員を辞めると原稿を書く機会が減少する。かつては、原稿が書けなくて呻吟したことが懐かしく思い出されるほど、原稿を書かなければという強迫観念から開放された。
〇また、大学の教員としての論文では、先行研究を踏まえて自分の論説を書くことが求められ、先行研究などの文献引用が厳しく求められていたが、退職後は自分の言葉で、できるだけ平易に文章を書けるように心掛けた。これも故小川利夫先生の教えで、年老いてからは自分の言葉で、平易に書くようにと言われてきたことを実行したことである。
〇第1の寄稿の機会は、日本社会事業大学専門職大学院教授であり、在宅医療を重視して認知症高齢者等の内科の診療所「つるかめ診療所」を開業している鶴岡浩樹先生からの依頼である。
〇鶴岡浩樹先生が、開業している医者向けに、社会福祉、ソーシャルワークのことを理解してもらう機会を作りたいということで、日本社会事業大学の現役の先生方を中心に、日本医事新報社から「福祉発。拝啓、お医者さま」という連載の企画を立てられ、筆者にも寄稿して欲しいということで書いたのが、「地域共生社会をめざすーケアリングコミュニティの形成」という小稿である(註 巻末資料・本号では省略)。
〇第2の寄稿は、筆者が、(公財)テクノエイド協会の理事長に就任したことにより、従来の社会福祉学会とは違う人々との出逢い、交流が始まるが、その一人が「シルバー産業新聞」を月刊で発行している株式会社シルバー産業新聞の社長をされている安田勝紀さんである。
〇ある時、安田社長から「シルバー産業新聞」に、“自立生活支援とケアマネジメント”という内容で寄稿して欲しいという依頼をうけたので、できれば12回の連載をさせて欲しいとお願いをした。その連載記事のタイトル一覧が以下の通りである。
「地域共生社会に向けた実践―自立生活支援とケアマネジメントの考え方」
第1回 「戦後第3の節目」としての地域共生社会政策とその求められる背景」(2012年1月10日号)
第2回 「救貧的福祉サービスからその人らしさの生活を支えるサービスへ」(2021年2月10日号)
第3回 「ナラティブ(人生の物語)を大切にする自立支援」(2021年3月10日号)
第4回 「求めと必要と合意に基づく支援」(2021年4月10日号)
第5回 「家族・地域の介護力、養育力の脆弱化とソーシャルサポートネットワークの必要性」(2021年5月10日号)
第6回 「国際生活機能分類(ICF)と自立生活支援」(2021年6月10日号)
第7回 「地域包括ケアの歴史的展開と地域社会生活支援」(2021年7月10日号)
第8回 「地域福祉に必要なシステムづくりと地域包括支援センターの原型」(2021年8月10日号)
第9回 「地域共生社会づくりに必要な新しい地域包括ケアシステムとコミュニティソーャルワーク」(2021年9月10日号)
第10回 「在宅福祉サービスと施設福祉サービスとの連結によるコミュニティケア」(2021年10月10日号)
第11回 「地域共生社会政策を推進する社会福祉法人の地域貢献」(2021年11月10日号)
第12回 「包括的・重層的支援と“上位計画”としての市町村地域福祉計画」(2021年12月10日号)
〇第3の寄稿は、日本社会福祉学会から、若手の研究者へのメッセージを寄稿して欲しいとのことで、2021年3月に「日本社会福祉学会ニュース第88号」に、「これからの社会福祉学に期待すること・社会福祉学研究方法と研究組織に関する小稿」を寄稿した。
〇そこでは、社会福祉学の性格は統合科学であり、哲学・価値に関わる部分、分析科学の部分、設計科学の部分、実践科学の部分、評価科学の部分から構成された構造を持っていること、研究組織論として、社会福祉学の教育・研究体制は多くの大学で講座制でなく、学科目制なので、それについての功罪を書いた。(註 巻末資料・本号では省略)
〇第4の寄稿は、日本社会福祉士会の機関紙「日本社会福祉士会ニュース200号」(2021年6月)に寄稿を頼まれ書いた。
〇タイトルは「これからの社会福祉士―地域共生社会政策と社会福祉士の役割」として書いた。
〇そこでは、①、社会福祉士は自らのアイデンティティをどこに乱しているのであろうか?②、社会福祉士が使用する用語と無意識のうちのパターナリズム及び救貧的社会福祉観、③、専門職団体としての社会福祉士集団の政策提言能力―社会的評価と個々人の力量、④、地域共生社会政策の具現化を左右するのは社会福祉士集団であるということを書かせて頂いた。(註 巻末資料・本号では省略)
➃ 書籍の刊行――研究者としての理論の集大成と地域福祉実践の体系化の支援
〇2022年4月に中央法規出版から『地域福祉とは何か』を出版した。
〇この本は、2020年3月に東北福祉大学大学院の仕事も終えた時、日本地域福祉研究所が編集発刊している雑誌『コミュニティソーシャルワーク』の編集長である田中英樹先生から、「地域福祉とは何か」を書いて欲しいと依頼され、雑誌『コミュニティソーシャルワーク』第26号(2020年)、第27号(2021年)に連載した。
〇それを基に、加筆修正して、2022年4月に中央法規から『地域福祉とは何か』として上梓した。慌ただしく発行したこともあり、索引が無く、二木立先生からお叱りを受けた。索引が掲載されたのは、第3刷りを発行する2025年3月である。
〇この本の出版で、私の地域福祉実践・研究の集大成ができたと思っている。1960年代から、「社会教育と地域福祉の学際研究」をしてきたが、その折々のエピソードも含めて『地域福祉とは何か』に収録できたので、満足感は大きかった。
〇ただ、裏付ける資料や文献をいちいち当たることができず執筆したので、誤りや年代の違い等あるのかもしれないが、それは後進のチェックに委ねることにして、一応「大橋謙策地域福祉理論の形成と発展」の下になる原型はできたと思っている。
〇その上で、この「その時の出逢いが」が『地域福祉とは何かを』を補完する資料になると思っている。
〇この他、筆者がアドバイザーを委嘱されたり、「関係人口」として長年関わり、「押しかけアドバイザー」的役割を果たしてきた富山県氷見市の地域福祉実践、宮崎県都城市の地域福祉実践を整理し、世に出すお手伝いをした。それが下記の本である。いずれも、筆者が監修するとともに、筆者自身もそれらの地域の地域福祉実践が社会的にみてどういう意義ある実践をしてきたかの解題的文章を載せている。
*『福来の挑戦―氷見市地域福祉実践40年のあゆみ』中央法規、2023年4月
*『自治公民館と社会福祉協議会が綾なす地域福祉実践-都城市社会福祉協議会の取り組み』ミネルヴァ書房、2026年7月
〇更には、新型感染症(SARZ)で、直前に中止になった2000年のアジア・太平洋ソーシャルワーク会議の開催準備を機に久しく厚誼が始まった、日本医療ソーシャルワーカー協会(MSW協会)の笹岡眞弓先生などと一緒にまとめた本がある。
〇宮城県石巻市での東日本大震災の被災者支援を日本医療ソーシャルワーカー協会(MSW協会)が石巻市の現地に支援事務所を構え、職員を常駐させ、10年間支援してきた1047ケースを分析する手伝いをすることになり、私も石巻市に足掛け3年通った。
〇その研究成果、報告書(下記)が、復興局から助成を頂き出版することができた。その本はその後中央法規から刊行・販売されている。
〇その報告書の監修を行うと同時に、筆者自身も「災害支援ソーシャルワーク」についての文章を書いている。
〇この本を同志社大学の立木茂雄先生(災害支援の在り方を社会学、社会福祉学の視点から研究し、多くの論文を書いている)から、“災害被災者支援における金字塔的業績”ではないかと過分のお褒めを頂いた。
*『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援―公益財団法人日本医療ソーシャルワーカー協会の相談支援1047ケースの実践報告』中央法規、2024年1月
〇災害支援ソーシャルワークの在り方は、先の号でも書いてきたが、2012年の厚生労働省の調査研究会以降、頓にその必要性と考え方を提唱してきた。
〇2024年1月1日に起きた能登半島地震・集中豪雨被災支援においても珠洲市、輪島市、穴水町を中心に調査させて頂き、石川県社会福祉協議会主催の被災者支援の振り返りのシンポジウムでも提案させて頂いた。また、石川県社会福祉協議会の能登半島地震・集中豪雨被災支援の報告書にも書かせて頂いた。
〇そのような中で、JVOADが穴水町の行政と社会福祉協議会との間で3者協定を結び、新たな災害被災支援の実践システムともいえる方法を確立してくれているので、その実践システムを広く世に問うという意味合いで、本として出版することにした。この本でも、筆者は監修の役割と同時に、「穴水モデル」ともいえる実践システムの意義と位置について小稿を書いている。
*『災害被災者支援の新たな実践システム・穴水モデル』ミネルヴァ書房、2027年刊行予定
〇同じように、全国の都道府県社会福祉協議会レベルで初めてのアドバイザーの役割を担った香川県社会福祉協議会の足掛け13年の足跡とそれに基づく香川県内市町社会福祉協議会の実践をまとめることを提案し、その本でも監修者と同時にアドバイザーとしてどのような思いでアドバイス、コンサルテーションをしてきたのかの小稿を書いている。これも下記のような形で上梓する予定である。
*『ニーズ対応型社会福祉協議会の実践・香川モデル』ミネルヴァ書房、2027年刊行予定
➄ 大学教員としての責務からの解放――傘寿に「大橋ゼミ50周年ホームカミングデー」(2023年10月28日・最終回)を開催
〇「大橋ゼミホームカミングデー」は平田富太郎学長に言われ、始めたイベントである。
〇2023年は大橋ゼミ50周年の節目の年で、「大橋ゼミホームカミングデー」を2023年10月26日の私が傘寿の誕生日を考えて行うことにした。いつも使用している東京・市ヶ谷の私学会館アルカディア市ヶ谷きで開催した。
〇この日は、2度目の帯状疱疹が目と頭に発症し、目を冷やしながらの催しであった。
〇この「大橋ゼミ50周年ホームカミングデー」で以下のような挨拶文を冊子に掲載した。
〇「大橋ゼミホームカミングデー」は、卒業生と会える楽しい日ではあるが、一方、大学教員として卒業生へのリカレント教育の一環としての意味も持っており、5年毎とはいえ結構緊張する日でもあった。
〇そんな思いを綴ったのが以下の挨拶文である。これで、大学教員としての責務から解放されるという思いと、卒業生と会う機会が少なくなるという一抹の寂しさがよぎった。
「大橋ゼミ50周年ホームカミングデー」挨拶文
●1989年、日本社会事業大学に赴任してから、15年を記念して第1回のホーミカミングデーを開催しました。
このホームカミングデーは、故平田冨太郎学長の提言です。平田富太郎学長は、単科大学としての日本社会事業大学は卒業生を大切にして、リカレント教育の一環として、ホームカミングデーをゼミ毎に開催すべきと強く要望されました。
●それは、私が1974年、日本社会事業大学に赴任する際、五味百合子先生、仲村優一先生から言われたことと同じです。
日本社会事業大学の教員は、個人の研究もさることながら、学生指導、学生への教育を大切にしてほしい旨の訓示が度々されました。
私は教員の大学教員の教務分担として、新任教員は学生委員会に所属させられ、学生教育の重要性を学べと言われました。
●恩師である小川利夫先生からは、厚生省(当時)から委託を受けている日本社会事業大学の立ち位置を考えたら、“単なる大学教員”に甘んじてはいけない。日本社会事業大学を代表して、日本社会福祉学会などで評価される研究者になれと諭されました。
●これらの教えを胸に、ある意味、家族を“犠牲”にして、日本社会事業大学で教育・研究に励んできました。
子どもたちは、父親と楽しい時間をどれだけ持つことができたのでしょうか、時には、学生の調査実習の際に、家族を連れて行き、家族は別行動してもらいながら、学生の調査実習の合宿指導を行いました。
家庭では妻に全てを任せ、妻に“明日は日曜日でしょ”と言われても、原稿書きがあるとか、文献を読まなくてはいけないからと言っては、家事もせず、子どもとの団らんの機会も多くは持てませんでした。
今となっては悔いは残りますが、私の研究、教育、実践に全面的に家族が協力してくれたお陰だと、妻と子どもに感謝の念で一杯です。心からお礼を伝えたいと思います。
●このような経緯があったからでしょうか、教員、研究者として日本社会事業大学の学長はもとより、日本社会福祉学会会長、日本学術会議会員、日本社会事業学校連盟会長をさせて頂きました。
結果として、日本社会事業大学の先生方からの教えに背くことなく、50年間の大学教員の責務を全うできました。
●研究者としての評価は後世に委ねなければなりませんが、研究業績を「著作集」として刊行するのではなく、ある意味、岡村重夫先生を見習った訳ではありませんが、大橋謙策理論の集大成ともいえる著作『地域福祉とは何かー哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』を2022年4月に上梓できました。
●唯一ともいえる残された課題は、5年ごとに行ってきたホームカミングデーをいつ終結するかという課題です。
ホームカミングデーは単に、卒業生が集まり、懇親し、近況報告をするというものでは駄目で、ホームカミングデーはある意味リカレント教育の場でもあるので、教員が教え子に最先端の研究、理論、実践を自ら指し示す機会でなければならないと教えられました。
そのために、ホームカミングデーごとに、5年間の間に教員がどのような論文を書いたのか、どのような実践・研究をしたのかを卒業生に示し、卒業生の学びを促す機会でもなければならない儀式でもあります。
このことは、結構教員にとっては辛いタスクであり、儀式です。教員として、研究者として、“生きて”いなければ、“論文を書いて”いなければ、ホームカミングデーは単なる懇親の場になってしまいます。
大橋ゼミホームカミングデーの機会に、私が5年間書いた物の中から、数編を選んで資料集として冊子にし、参加者に配布すると同時に、この間お世話になった方々に配布してきたのも、研究者、教員として責務を果たしていますという“アリバイ証明”でもありました。
この作業は、結構辛いもので、論文を書ける時もあれば、書けない時もあります。コンスタントに実践し、研究し、論文にまとめるという作業はよほど意識して取り組んでいないと書けないものです。
政策や制度の解説的なものは、すぐ“時とともに色褪せて”しまうもので、5年経っても色褪せず、卒業生に読んでほしいというものを書き続けるということは、一つ一つの論文で、常に社会福祉実践、社会福祉理論における研究課題は何か、事象を分析する視点に従来にない鋭さがあるか、事象に流されずに、社会問題として構造的にとらえられているかなど、研究者、教員としての知見が常に問われることになります。まさに、教員、研究者として“生きているか”が問われることになります。
これらの作業をするためには、常に“アンテナを高く、広く張り”、情報収集に努め、何が社会福祉分野における理論課題なのかを考えていなければできない作業であります。
大学教員としての現役の時は、仕事がら必要な情報が“相手からもたらされる”という状況もありますが、国や自治体、あるいは各種団体の役職・委員を退任しているものにとって、これらの役職・委員就任で得られている情報を自らの手で、体系的に収集把握することは容易ではありません。
また、大学の教員、研究者として、各種学会での発表のオブリゲーションもなくなり、75歳以上で名誉会員に推挙されると、学会の理論研究をリードしようというモチベーションも下がり、研究範囲が狭隘になり、唯我独尊的になり、研究意欲も減退することになります。
●私は今年80歳になり、上記の役割を担うことができなくなってきています。5年毎のホームカミングデーをここで終結し、教員、研究者としてなすべきことの責務から開放され、一人の“老爺”として、気軽に、自分の思うところを発信したいと思うようになってきました。2020年から始めた「老爺心お節介情報」の発信はその一端です。
●ホームカミングデーは今回で8回目を迎えますが、この間のホームアカミングデーの開催にあたっては、多くの卒業生のご協力、ご支援があったから開催できました。
今回も、岡村英雄さん、田中裕美子さんはじめ多くのゼミの卒業生のご協力、ご支援を頂きました。すべての人の名前を記載できませんが、この紙上を借りて、ここに厚く感謝とお礼を申し上げます。
●私は、後2年、(公財)テクノエイド協会理事長、富山県福祉カエレッジ学長を担う予定ですが、研究者、大学教員としての責務は今回のホームカミングデーをもって終了とさせていただきます。
卒業生の皆様には、自立した、かつ自律した職業人として、日本社会事業大学の建学の精神を忘れることなく、仕事に励んで頂きたいと思います。
皆様のご健勝とご多幸を心より祈念しています。今日からは、教師、研究者ではなく、“年老いた恩師”として、末永く懇親、懇談できればと願っています。
(2023年9月1日記)
(「その時の出逢いが」の執筆を終えるに当たって)
〇人生にとって「その時の出逢いが」の最初は、母親であり、父親であろう。しかしながら、私には生後6か月余で死に別れた父親との「出逢い」の記憶は全くない。
〇1944年5月に父は徴兵されて出征した。後には30歳代そこそこの若い母親と5人の子供が残された。父は、1946年3月17日、抑留されたシベリアのチェレンホボという収容所で病死した。
〇私に残された父の思い出は、出征の際に撮った記念の家族写真だけである。生後6か月の母に抱かれた乳飲み子には思い出す父の面影はひとかけらも無ければ、夢にさえ出てこない存在である。
〇「靖国の母」となった母は、30歳代前半で、5人の子供を育てるのは容易ではなかった。それでも、我が家には、なぜか多くの人が出入りし、何かと母に相談を持ち掛けていた。傍目には、自分の家族が大変なのに、何で他人様の相談まで受けるのか不思議であった。
〇今にして思えば、時代のなせる業であったのだろうが、母は物質的には貧しかったが、精神的には豊かな人生を送っていたのだと思える。
〇筆者が結婚した1970年4月26日の朝、母は筆者を父の仏壇の前に座らせ、“人が出入りする家庭を創れ、お隣とお裾分けできる家庭を創れ”と訓示を垂れた。その時は、何を言っているのかと思ったが、これも今にして思えば大切な教えだったと胸に落ちる。
〇そんな母を支えてくれたのが2歳上の兄で、定時制高校に通いながら、家計を支えてくれた。
〇二人のお陰で、私は昼間の高校に通わせてもらい、大学も自分の志望通りに進学させてくれ、大学院まで進学する我がままを許してくれた。二人の支えがなければ、今の私はいない。二人には感謝あるのみである。
〇当時、イギリス等のヨーロッパに行くのには、アンカレッジ経由で飛んでいたが、ある時からシベリア上空を飛べるようになった。
〇1975年11月、ヨーロッパの調査研究の帰り、はじめてシベリア上空を飛んでくれた。その時、自然と口ずさむように浮かび、詠んだ短歌が以下の句である。
「父の死す 白きシベリア飛ぶ朝 思い乱れて涙こぼれる」
「垂乳根の 母に見せたし亡き父が 眠れるシベリアの朝」
「止めどなく 流るる涙口惜しく シベリアに果てし父を思えり」
「三十年の 昔に死せる父の胸に われの乳児の姿刻める哉」
「白き野に 凍えて死したる父親の 心はいかに妻子思いし」
「亡き父が 送りし軍事郵便の 古びてあれど涙に見たり」
「二人の乳児の親なれば 亡き父の悲しき心 いくばくか分からん」
〇傘寿も過ぎ、妻との金婚式も終え、この2026年8月には最後の家族旅行になるかもしれないと家族での北海道旅行もできた。
〇妻とは、毎日のように悔いのない、楽しい、嬉しい人生を送ることができたねと感謝の言葉が口に上る。いつ、“お迎えが来ても”悔いはないねと話をする日々である。
〇これからどのような人生、出逢いがあるのか分からないが、これからも「出逢い」を楽しみ、感動する人生を送りたいと願っている。
(2026年9月23日秋分の日に)




