重田信一「福祉教育の推進を考える」(1975年6月)―資料紹介―

歴史研究においては、研究素材としての史資料の収集、分析と解釈、根拠づけ(解釈の積み重ね)、そして歴史観などの仕方やあり方が問われる。なかでも、史資料の収集には多くの困難を伴い、難儀することがしばしばである。
思いがけず、富山県社協発行の機関誌『福祉とやま』第183号(1975年6月1日、2頁)に掲載されている重田信一先生(2011年11月26日没。享年101)の原稿「福祉教育の推進を考える」を発見した。
周知のように、1970年11月、東京で開催された「昭和45年全国社会福祉会議」の第3専門委員会において、「社会福祉の理解を高めるために―教育と社会福祉―」というテーマのもとに、福祉教育について研究協議された。全国レベルで実施された最初のそれである。その際、会議に先立って、全社協をはじめ東京都社協(一番ヶ瀬康子委員長)や大阪府社協(岡村重夫委員長)などで「福祉教育研究委員会」が設けられ、福祉教育の具体的推進方策をめぐって研究協議がなされた。そのうち、全社協の福祉教育研究委員会は、全国会議での研究協議を踏まえ、1971年5月に「福祉教育の概念について」と題する中間答申を出している。その際、委員長を務めたのが重田先生である。
委員会の答申・報告書には、委員長の意向や言説が反映されることがある。全社協の中間答申では、福祉教育が地域福祉におけるひとつの方法論として捉えられている。以下に紹介する重田先生の一文を通して、中間答申における福祉教育の概念規定を改めて読み返してみるのも一考である。

福祉教育の推進を考える――明治学院大学教授・重田信一
ここ二、三年は実に福祉優先のPR時代といってよい盛況であった。
しかし今年になって低成長経済の段階に入ると、地方財政の赤字を理由に、福祉政策の行きすぎがささやかれることは、どうしたことであろうか。
社会福祉政策の伸長は政治家のアクセサリーではなかったはずである。
社会福祉についての国民要求はもっと根の深いものであったはずである。
形態の上でなく実質として社会福祉サービスは深められなければならない。
その課題についてより効果的な方向はなんであろうかは、地域住民と共に考え実践することのなかで明らかにされよう。
そのためには、説明し知らせる広報と共に、考える広報が必要である。
ここ十年ほど前から社会福祉の教育広報の重要さが叫ばれるのも時代的な意味をもつのである。
ある市町村で福祉教育・広報をどこまで住民に浸透させることができるかは、大局的にはその市町村における公私の福祉活動がどこまで進展しているかによって限定される。
住民が全く知らないこと、関心のないことをPRすることがいかに困難であるかを、われわれは実際に身をもって知らされているはずである。
実践あってこそ広報も効があるのである。
議員選挙の立候補者の公約に福祉政策の拡充が大きく掲げられ、福祉の充実を要求する住民運動が新聞報道される一方で、住民大衆が身近かに社会福祉の実態にふれ身につまされて福祉の充実に共鳴する心境まで至っているとはいい切れない実状の下で、福祉行政や社協関係者はどう行動すべきであろうか。
まず一般的にいえることは、従来からの福祉活動のあり方を、経済高度成長以後の住民の生活実態と比較して再検討するところから始めるべきではなかろうか。
施設を例にとると、その施設活動に関連した生活問題についての情報を集め、職員との話しあいを経て、理事者にその結果を伝え、今後の施設運営方針決定に前向きの影響を与え、新しい運営方針の意味を職員が理解し、その担当業務を方向づけるよう働きかけ、更にボランティア活動を通じて社会福祉の理解者協力者を増加させ、また施設活動を通じて日常接触する保健衛生、教育の専門家や、民生児童委員、婦人団体の幹部等に、実態をふまえて福祉活動の方向を考えるように仕向ける努力を根気よくキメ細かに進めることを期待したい。
社協は当面する地域住民の生活問題の変容について注意を深めるよう、これに関連する行政資料の整理を、更に住民懇談会、アンケートの実施に努め、その結果を問題提起として広報紙を通じてPRする。
その上で中・高校の福祉教育指定校を設定すれば、抽象的な社会保障制度の解説や道徳教育にとどまることなく、生きた同じ地域社会の活動事例を通じて生徒と共に教師自身にも新しい生活問題とそれへの対処の基本的方向が理解してもらえるのではなかろうか。
社会教育もまた社会福祉の教養講座の枠を破ることができるだろう。
社会福祉の教育広報の推進は、行政職員や社協職員ひとりの小手先の仕事でなく、地域社会をあげての総合的な活動によって裏付けられねばならない。(完)

1977年度に学校における福祉教育の全国統一的な制度化が図られ、今日ではまちづくりを指向した地域ぐるみの福祉教育が広がっている。こうした福祉教育の歴史的展開過程を一瞥するとき、1975年時点で、その後の福祉教育や福祉教育指定校制度のあるべき姿を説いている。とともに、「社会福祉の教育広報の推進は、(中略)小手先の仕事でなく、地域社会をあげての総合的な活動によって裏付けられねばならない」と結語を述べていることには、重田先生の見識の深さと先見性の高さを感ぜざるを得ない。