〇「情けは人の為ならず」(ことわざ)は、「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある」という意味である。「人に情けをかけるのは自立の妨げになりその人のためにならない、の意に解するのは誤り」(『広辞苑』第七版、2018年1月)である。
〇「北風と太陽」はイソップ寓話のひとつである。物事を「やたらにきびしくおしつける」よりは、「おだやかにじっくりいってきかせる」ほうが大きな効果を得ることができる、と言う。
〇筆者(阪野)の手もとに、山岸俊男(1948年1月~2018年5月、社会心理学者)が書いた本が6冊ある(しかない)。
(1)『社会的ジレンマのしくみ―「自分1人ぐらいの心理」の招くもの―』サイエンス社、1990年10月(以下[1])
社会のなかでは、自分1人得をしようとしたことが、思いがけない大問題になることがある。例えば、違法駐車・ゴミ問題といった身近なものから、オゾン層破壊・地球温暖化といった環境問題や、資源枯渇まで、みなその例といえるのではないか?/これらの、「結局は自分で自分の首を絞める」といった現象は「社会的ジレンマ」と呼ばれ、社会心理学において個人と社会をめぐる重要なテーマとして、研究が進められている。/本書では、このような問題の根底にある人間心理をとらえて、人間が社会生活を営んでいる限り、どうしても避けて通ることのできない「ジレンマ」を解説し、その処方箋を示している。(カバー「そで」)
(2)『社会的ジレンマ―「環境破壊」から「いじめ」まで―』(PHP新書)PHP研究所、2009年11月(以下[2])
違法駐車、いじめ、環境破壊等々、「自分一人ぐらいは」という心理が集団全体にとっての不利益を引き起こす社会的ジレンマ問題。/「社会的ジレンマ」は、一人一人の個人ではなく、集団や社会全体が「わかっちゃいるけどやめられない」状態だと言える。つまり、皆が何をしなければならないかをわかっていても、必要なことができないために起る結果に苦しんでいる状態である。/数々の実験から、人間は常に「利己的」で「かしこい」行動をとるわけではなく、多くの場合、「みんながするなら」という原理で動くことが分かってきた。本書では、この「みんなが」原理こそ、人間が社会環境に適応するために進化させた「本当のかしこさ」ではないか、と説く。(カバー「そで」。14~15ページ)
(3)『日本の「安心」はなぜ、消えたのか―社会心理学から見た現代日本の問題点―』集英社インターナショナル、2008年2月(以下[3])
現代の日本社会が直面している倫理の喪失とは、実は、倫理の底にある「情けは人のためならず」のしくみの喪失の問題である。/倫理的な行動、あるいは利他的な行動は、それを支える社会的なしくみがなくなってしまえば、維持することは困難である。たとえ他人に親切にしても、それが自分の利益につながらないのであれば、誰も利他的に行動しなくなる。/「情けは人のためならず」は、無私の心を称揚する武士道的な倫理観とは相容れない。/本書では、「モラルに従った行動をすれば、結局は自分の利益になるのだよ」という利益の相互性を強調する商人道(「正直さ」の原理)こそが、人間の利他性を支える社会のしくみを作ることができる、と言う。(「まえがき」4~5ページ)
(4)『信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム―』東京大学出版会、1998年5月
信頼は人々の間の、あるいは組織の間の関係を可能とする社会関係の潤滑油であり、信頼なくしては、社会関係や経済関係を含むすべての人間関係の効率はいちじるしく阻害されることになる。この意味で、信頼は個人の生活を豊かにしてくれる私有財としての関係資本(social capital、社会関係資本)であると同時に、我々の社会を住みやすい場所にしてくれる公共財としての関係資本でもある。本書は、ロバート・パットナム(Robert D.Putnam)らの社会科学者が強調する、このような関係資本としての信頼の理解を、個人の認知や行動といった心理学者や社会心理学者が扱う信頼の理解と何とかして結びつけようとした、信頼についての研究成果をまとめたものである。(「まえがき」ⅰページ)
(5)『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方―』(中公新書)中央公論新社、1999年6月
社会の流動化や人間関係の希薄化が進むなかで、日本はいま「安心社会」(信頼を必要としない社会)の解体に直面し、自分の将来や日本の社会・経済に大きな不安を感じている。/日本はもうこれまでのように、安定した社会関係が提供する、閉鎖的な集団主義の温もりのなかで「安心」して暮らし続けることはできなくなる。/「信頼」とは、「相手がやるといったことをやる気があるのか」「もしかしたら裏切られるかも知れない」という不確実性があるなかで、相手に対してどの程度信用し、どの程度期待するかということである。/集団主義的な「安心社会」の解体はわれわれにどのような社会をもたらすか。本書は、開かれた「信頼社会」の構築をめざす、社会科学的文明論、斬新な「日本文化論」である。(カバー「そで」。8、13、15~18ページ)
(6)『「しがらみ」を科学する―高校生からの社会心理学入門―』(ちくまプリマ―新書)筑摩書房、2012年3月
社会は「しがらみ」である。/「しがらみ」は、自分の考えや行動に対するまわりの人たちの反応を予測して、その予測に自分の行動を合わせる必要があるということである。/「しがらみ」は、多くの場合、私たちが実は望んでいない行動を取るように私たちをしむける。いじめを止めさせたいと思いながら、いじめを傍観してしまう子どもたちのように。/そうした行動を取るのは、社会のなかで私たちが、自分で自分の自由を「しばり」つけているからである。それが(社会の一番基礎にある)世間としての(契約や法律に基づく公的な組織や制度に基づく)社会の本質である。/そうした「しばり」から多少なりとも自由になることができれば、日本の社会にもっと活気が出てくるのではないか、と本書は述べる。(3、186、187ページ)
〇本稿のテーマに関して、以上を大胆に要約すれば次のようになろうか。すなわち、社会秩序の基本原理は、監視し合い、互いに不利益なことをした者を追い出すという、相互監視と相互規制である。日本人は必ずしも、和をよしとし、協調し、信頼しやすい心の持ち主ではない。コントロールしあえる関係を信頼し、集団の秩序に従って行動することによって安心を獲得してきた。閉鎖的な「安心社会」は過去のものである。現代社会には、違法駐車、いじめ、環境破壊等々、“自分一人ぐらいは”という心理で人々が自分の利益や都合だけを考えて行動すると、社会的に望ましくない状態が生じてしまうという葛藤(「社会的ジレンマ」)の問題が存在している。その誘因(「インセンティブ」)は、特定の行動を取る個人の心のなかにではなく、人間を取り巻く環境のなかに見出される。そこに求められるのは、相手の信頼性を見極める社会的知性を身につけ、他人との信頼関係を積極的に結ぶことができる、外に向けて開かれた「信頼社会」の構築である。
〇ここで、[1]における山岸の主張の概要を紹介しておくことにする(一部要約。「である」調に変換)。
まず、人々が「利他的利己主義」を身につけることが必要である。教育によって、人々に利他的利己主義を植えつけることは、あまり難しいことではない。少なくとも、自分の利益を無視して他人のために行動せよという利他主義を植えつけるよりは、ずっと簡単なはずである。
それに、社会的ジレンマの解決のためには、利他主義よりも利他的利己主義の方が有効な場合が多くある。利他主義者は非協力者をのさばらせてしまうことになるが、利他的利己主義者を相手にすれば、ガチガチの利己主義者も、一方的に相手を詐取(さしゅ)し続けるわけにはいかないことを悟るようになるからである。
それと同時に、社会的ジレンマでは、みなが非協力的な行動をとり続ければ、結局はみなが損をするという「因果応報」の構造を、人々、特に利他的利己主義者たちに知らせることも必要である。自分で自分の首を絞めるような結果は避けたいと思っている利己的利己主義者たちも、ある状況が社会的ジレンマ状況であることに気づかなければ、「協力的な」行動をとろうと思わないからである。たとえばフロン入りのスプレーを使うことが、環境破壊につながることを知らなければ、誰もそのような行動を差し控えようとはしないであろう。
次に重要なのは、利他的利己主義者が進んで協力するようになる環境を作ることである。そのためには、「わけのわかった」利己主義者である利他的利己主義者――たぶんほとんどの人々がこの範疇に入ることになると思うのだが――に対して、「協力しても自分だけ馬鹿を見ることはない」という保証を与えることが最も重要であり、そのためには非協力者が少数のうちに何とかコントロールするための手を打つ必要があるであろう。
もちろんこれだけですべての、あるいはほとんどの社会的ジレンマの解決に直接つながるとは限らないであろうが、社会的ジレンマ解決のためには最低限これだけは必要なのではないかと思う。(227~228ページ)
なお、筆者(山岸)が一番心配しているのは、様々な社会的ジレンマの解決を求める声によって、全体主義的な強権の発動を人々が望むようになる日が、そのうちにやってくるのではないかということである。(226ページ)
たとえば外国人の単純労働者が大量に流入し、「少数民族問題」が重大な社会問題化する日は遠くないであろう。そうなった場合に、相互信頼と「内発的な」相互協力によってではなく、相互規制システムにより社会的ジレンマ問題を解決してきた日本社会で、これまでの相互規制システムがうまく機能しなくなってしまう可能性がある。その時、「強権」によって「少数民族問題」を押え込もうという動きが出てくるのは目に見えている。そうなる前に、何とか「強権」を使わなくても、様々な社会的ジレンマ問題が解決できるような体制を整えておくことが必要だと、筆者は強く考えている。(227ページ)
〇「情けは人の為ならず」という「利他的利己主義」について一言する。それは、「最終的に自分自身の利益を考えて、表面的には他人のためになる行動をすること」を意味する。この「海老(えび)で鯛(たい)を釣る」行動をとる人(「わけのわかった」「かしこい」利己主義者)は、「偽善者」と呼ばれ、軽蔑されることもある。しかし、その利己主義的な行動やエネルギーが社会的ジレンマを解決し、集団や社会全体の利益をもたらすことになる([1]47、107ページ)。
〇こうした考え方に立つ山岸は、それゆえに、人間性の変革を図るという社会的ジレンマの「精神主義的」な解決に疑問を呈する。山岸は言う。「自分の身を犠牲にして他人のためにつくす」愛他的な心を育むような人々を教育する、あるいは説教する必要はない。社会的ジレンマを解決するためには、自分の利益だけを追求するよりも、全体の利益を考えて行動するほうが結局は大きな利益が得られるという社会環境を整備(相互協力関係の構築)することが肝要である。そのような環境のなかでは、リスクはつきものであると認識しながら、誰もが協力的に行動するようになり、長期的な利益を確保することになる([2]210~211ページ)。他者との豊かな人間関係を自主的・積極的に結ぶ「信頼社会」の構築である。そこにおける有効なモラル(道徳律)は、「安心社会」(閉鎖社会)のなかで「清貧の思想」や「無私の精神」を説く「武士道」のそれではなく、「正直」で、誰とでも協力しあう「商人道」のそれである([3]4~5、238~259ページ)。
〇求められるのは、上意下達の国家統制的教育ではなく、時間をかけて一人ひとりの人間の持ち味を引き出し、それを育むための環境整備である。そのなかで、「情けは人の為ならず」の教育すなわち利他的利己主義教育にゆっくりと、しかも着実に取り組むことである。また、「北風と太陽」の話は、旅人が服を脱ぐのは個人的・内発的な要因によるのではなく、強い北風と優しい太陽が競争する(環境の)なかで引き起こされたインセンティブ(誘因)の話でもある。唐突ながら、市民福祉教育に通底する考え方として留意しておきたい。
蛇足
本稿を草しているときに久しぶりに、内田樹・高橋源一郎 選『嘘みたいな本当の話』(イースト・プレス、2011年6月)を読み返した。ショート・ストーリーは「つかみ」と「オチ」がいのちである、と内田は言う。「クスッ」と笑えたものに次の2点がある。
「忘れ物」
友人は自転車でコンビニへ行き、歩いて帰ってきた。
「するめ」
するめが好きだ。/先日、思いっきり齧(かじ)ったら、ムチ打ちになった。
次の3点は筆者の駄作である。自分では「クスッ」と笑えるのだが‥‥‥。
「サービス」
花見の帰り、高速道路のサービスエリアでひとやすみした。/店に入ると、「デイサービス」のコーナーがあった。/「‥‥‥」/「ティサービス」だった。
「散歩」
愛犬と散歩していたころは、予定の時刻に帰宅していた。
一人で散歩しているいまは、無事に帰宅できるかが心配になっている。
「遺影」
額に入ったチマチョゴリを着た記念写真を土産に、帰国した。/それをみた息子のひとこと。/遺影に使えるなあ。