〇嫁に来たとき、何故か名前が変わっていた。隣近所の人たちから「みさを(仮名)さん」と呼ばれて驚いた。舅(しゅうと)は温厚で、それなりに気遣ってくれた。姑(しょうとめ)は一人息子の夫を溺愛し、私には厳しく、生活のすべてにわたって辛(つら)いことばかりだった。畑仕事は夜遅くまで、骨身を削られるほどにきつかった。盆も正月も、父が亡くなったときも在所(ざいしょ)には帰らせてもらえなかった。でも義父(おとうさん)と義母(おかあさん)をしっかりと看取り、送った。母(大正生まれ。享年95)の述懐である。
〇父と母は、地下足袋をはいたまま土間の椅子に座り、板の間に置かれた二つ三つの粗末な器(うつわ)で食事をした。ただ、父には箱善があり、器がひとつ多かった。いつも、である。近所から餅つきの音が聞こえてくるころには、短い時間ではあったが、餅つきが楽しみだった。それほど多くない餅と必ず、黒っぽい団子餅が搗(つ)き上げられた。決して美味しいとは言えない団子餅を食べるのは、母だけだった。舅と姑はもういないのに、である。
〇筆者(阪野)が小学生のころだったろうか。父との間で何があったかは知る由(よし)もないが、「しか~られて~」「しか~られ~て~」「……」。母の涙声を感じとった。真冬の夜、母は薄氷が張る大きな桶のなかで、市場(いちば)に出す野菜を洗っていた。母の手はひびとあかぎれで覆(おお)われ、大きく膨(ふく)れあがっていた。その野菜を父(明治生まれ。享年87)は、自転車やリヤカーに乗せて、片道1時間以上もかけて市場に運ぶのである。
〇筆者はよく病気や怪我をした。夜中、父が引くリヤカーに乗せられて、町医者に急いだこともあった。畑仕事がどんどん遅れていくことを気にしながら母は、筆者を背負って、バスに乗って町なかの大学病院へも通った。ある日、受付の不手際で診察が最後になったことがあった。午前の診察時間はとっくにすぎていた。そのときの母の顔は尋常ではなかった。ある日、母はつぶやいた。「あんたを背負って川に飛び込もうと思ったのは、一度や二度ではなかった」と。
〇こんなことを思い出したのは、『日本農業新聞』の広告欄に掲載された、姉歯暁著『農家女性の戦後史―日本農業新聞「女の階段」の五十年―』(こぶし書房。2018年8月。以下「本書」)が目にとまったときである。
〇筆者は10年ほど前から、地元JAの准組合員であり、「日本農業新聞」と雑誌『家の光』(家の光協会)を定期購読している。その新聞の「くらし」面に、「女の階段」という投稿欄がある。それは1967年に始まり、今日まで続いている。投稿者は「農家の嫁」「農家女性」「農村女性」である。
〇姉歯暁(あねは あき。経済学)は、本書の目的について次のように述べている。「『女の階段』の投稿と(1976年に初めて開催された「女の階段」全国集会のたびに刊行される:阪野)大会手記集には、高度経済成長期に大きく変化していく農村の風景と家族のありさまが見事に記録されている。その時々の女性たちの思いが綴られた投稿や手記は、まさに農村の内側からみたリアルな女性史であり、政治史、経済史、農政史であり、そして生活史そのものである。/結果的に複合的な視覚から歴史の動きを記録し続けることになったこの貴重な資料を軸に、ここに描き出されている農家女性たちの思いとその思いを生み出した時代を読み解くこと、さらに、直接的な言葉では語っていないにせよ、女性たちが『なぜ?』と問うてきた数々の『不条理さ』をもたらしてきたものを探ることが、本書の目的である」(13~14ページ)。
〇姉歯は、農家の嫁が書いた投稿文や体験手記を深く・広く読み込み、農家女性の生活や人生を細かく・丁寧に聞き取る。それに基づいて、戦後民主主義と農家女性の「戦後」、公害と農薬事故・被害、出稼ぎと農業の兼業化、農産物の輸入自由化、「日本型福祉社会」による在宅介護、などの政治的・社会的問題を浮き彫りにする。そしてそれらを、多面的・多角的に、鋭利に分析・洞察することによって農家女性や農村女性、労働(タダ働きと過重労働)と家事・育児・介護を担う「女性農業者」の“戦後史”に仕立てる。
〇しかしそれは、農家女性や農村女性の単なる“哀史”ではない。そこには、農家の嫁に寄り添い、その視点に立った「怒り」や「闘い」、「自立」や「解放」への共感や意志がある。そして姉歯は、現代の農業・農村問題につなげることも忘れない。ただ、姉歯が取り上げた投稿や手記の多くは上層農の女性たちによるものであり、1970年代後半から1980年代以降、「投稿欄から徐々に政策批判が消えていく」(16ページ)。留意しておきたい。
〇日本の農業・農村や農民は、アメリカ(「外」)と、政府や財界(「上」)による農政によって翻弄されてきた。それゆえに、農家女性たちは「女の階段」を通じて社会参加や交流・連携(「横」)を図り、(「下」から)一歩一歩「階段」を登り、展望を切り開いてきた。しかしいままた、TPP(環太平洋連携協定)やFTA(自由貿易協定)などの外圧あるいは内圧がかかっている。「地方創生」(2014年9月)をはじめ「女性が輝く社会」(2014年10月)、「一億総活躍社会」(2016年6月)、「地域共生社会(我が事・丸ごと)」(2017年9月)などの単なるスローガン政治が続いている。障がい者の雇用機会の確保を図るという「特例子会社」制度や、障がい者等の社会参加や地域貢献を進めるという「農福連携」事業、そして国際貢献の役割を果たすという「外国人技能実習制度」等々によって、「新たな哀史」がつくられている。
〇以下に、留意しておきたい姉歯の論点や言説と、農家の嫁の手記のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
自営業の農家の特徴――農家女性は経営者であり無償労働の提供者でもある
農家は自営業である。自営業はサラリーマンとは異なる特徴をもつ。それは、次の四つにまとめられる。第一の性格は自己雇用である。自営業の経営者家族内では、企業のように誰かを雇うのでも、労働者のように誰かに雇われるのでもなく、自分が自分を雇用する、すなわち自己労働を行う。第二に、独立自営であること、つまり経営権を持ち、経営主体として自立している存在である。第三に、家業であること、すなわち経営基盤が家族に置かれていることである。したがって、第四に、生業であること、すなわち、基本的に働く目的が利潤追求というよりまず暮らしを立てることにおかれている。「家」(いえ)とは「家の財産としての家産をもっており、この家産に基づいて家業を経営している一個の経営体」なのである。
したがって、女性たちは、自分の嫁いだ「家」=経営体を守るために、自らの利得を考えずに自己犠牲を払うことが求められる。それも自らの意思で、である。なぜならば、彼女はこの経営体の一員だからである。(27~28ページ)
「家」制度と純血主義――嫁は血筋から外れる存在であり「家族」ではない
嫁は、後継者を産み、生業を支える大事な働き手であると同時に、「血筋」からは外れる存在である。その意味で、嫁は「家族」ではない。(中略)家制度の強固なつながりからすれば、実際の「家族」は血族のみであり、本人たちも意識しないほどに深層に潜んでいるものは「純血主義」である。
経営権に関するすべての制度については「男系中心」におかれ、出産・育児については「母系中心」におかれる。したがって、嫁から生まれた子どもは、息子の血を受け継ぐものであり、子どもの所属は「家」にあるが、子どもの「血筋」を意識するとき、不思議なことにそれは「母系」を中心に据えられるのである。すなわち、嫁の子どもは、嫁という他人を通じて嫁の「血筋」を引き継ぐ存在であり、自分たちの「血筋」を引き継ぐものは「嫁に行った娘」の子どもなのである。
今でも多くの嫁たちが、子どものものを実家で揃えて持ってこいと言われ、しかも、その豪華さや品数を競わされることに苦悩している。(37~38ページ)
女性リーダーの再編――進歩的女性指導者が政府の国民的運動に加担した
山高しげり(1899年~1977年)、奥むめお(1895年~1997年)は、戦前は市川房枝(1893年~1981年)や羽仁もと子(1873年~1957年)らとともに婦人参政権運動の中心的役割を担っており、戦後、参政権が認められると、消費者運動のリーダーとして名を連ねるようになっていった。ただし、彼女らは、戦時中、国民精神総動員中央連盟に主要なメンバーとして参加し、女性たちをもっと徴用すべきとまで発言していた。いわば軍国主義の推進者であった。それが、戦後の日本で、消費者の権利拡大を要求し、くらしの向上を訴える側に立つことは一見すると対立しているようにも見える。
これらの女性リーダーたちの「戦争への積極的加担」の根底にあるものに対する若桑みどり(1935年~2007年。ジェンダー論)の分析は、この一見矛盾する行動の真の姿を明らかにするという意味で秀逸である。若桑は、進歩的な女性指導者たちが戦い続けてきた男性社会――それまで女性の社会的存在意義を無視し、締め出してきた――が、戦時中、生産現場における女性労働力の必要性を認めざるを得なくなったことを好機と捉え、自分たちが置かれている状況を改善できるチャンスと信じたのだと分析している。それは、戦後の生産性向上運動に再び彼女らが積極的に「加担」したことにも脈々と受け継がれている姿勢であるといえよう。
戦時にあっては、政府は国民を総動員するために、女性解放の闘士たちを逆に一般の女性たちに対するプロパガンダの担い手として再編していったが、戦後は、GHQ、政府、財界が生産性運動(①雇用の維持拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配:阪野)という国民的運動のプロパガンダの担い手として再び女性リーダーたちを再編していったのである。(41~42ページ)
GHQと政府の思惑――生活改善運動は生産現場と個人の生活の場までを包摂した
農村における生活改善運動の主たるものは、女性たちを農作業と家庭内労働の重労働から少しでも解放することに置かれていた。生活空間と作業空間の分離やかまどの改善、台所に窓を設け、日当たりや風通しを確保する台所改善事業、保存食や粉食(ふんしょく)の導入、農作業着の改善に加え、高度成長期に入ると、共同炊事、農繁期の保育所の設置など多岐にわたる活動が展開された。(50ページ)
生活改善運動は、一方ではアメリカと政府、財界の思惑を背負って、資本が生産現場だけでなく、個人の生活の場までを包摂しようとする衝動を原動力としながら進められたものである。家族計画を広めようとしたGHQの側にも、政府の側にも、現在では常識となっている女性の産む権利や母性の健康を人権(ヒューマン・ライツ)として捉える意識はなかった。その意味では、確実にこの運動は「上からの」押しつけでもあった。しかし、それは、戦争で失われた生活を再びとり戻そうとする生活者たる女性たちが受け入れたからこそ広がったことも事実である。
特に、受胎調節は、個人の性生活にまで国家が干渉するというものであったにもかかわらず、農村の女性たちに歓迎された。
当時、農村部では、避妊に対する夫の協力が得られないまま、幾度も妊娠し、その度に堕胎を繰り返し,死に至ったり、ひどい後遺症を負ったりする悲劇が頻発していた。(52ページ)
農業の近代化――「農業基本法」によって零細農家の整理と離農促進が図られた
「国民所得倍増計画」にもとづき公布された「農業基本法」は食料増産を主軸に置いた戦後直後の農政を転換し、輸入自由化路線を土台に据え農業の生産性を上昇させることを第一目標に掲げる、いわゆる「生産性至上主義」を示したものであった。と同時に、そこでは農業の生産性向上を図るために、農業の近代化、合理化を図る必要があり、そうすることで農業と他産業の所得格差の是正もはかることができるとする、第二の目標、すなわち所得の格差解消が掲げられていた。
基本農政のもとで進められた「農業の近代化」の「近代化」とは、実のところ、零細農家を整理してその分の農地を集約し、力のある農業者にこれを担わせることであった。(138ページ)
このような生産性向上が目に見えて計られていること、しかも、農家では後継の世代が大量に他産業へと流れていたことは、政府が考える「農業の近代化」を進めるために必要不可欠なものであった。零細解消のための技術的な要件はすでに揃っていた。ここに大規模な公共投資を行い、製造業労働者と肩を並べる賃金を得られる農家を育成するというのが、この所得倍増計画と、この理念に基づいて1961年に制定された「農業基本法」(1999年7月、「食料・農業・農村基本法」施行により廃止:阪野)であった。(138ページ)
「サンドイッチ世代」の自問自答――介護する側から介護される側になった
長年「女の階段」に継続的に投稿を寄せてきた女性たちの多くは戦後民主主義のもとにありながら、未だに家父長制的イデオロギーが蔓延する農村で悔(くや)しい思いを呑み込んで生きてきた、いわゆるサンドイッチ世代である。サンドイッチ世代とは「明治生まれの姑につかえ、戦後生まれの嫁との間に挟まれる世代」(中略)とされる。
この世代の女性たちは、自身の半生を介護に捧げ、いつか自分たちも嫁を迎えたら、それで自分は「嫁」としての役割から解放されるものと期待し、毎日を耐えてきた。その一方で、この世代の女性たちは、それまでの女性たちが背負ってきた不条理さを自分の代で終わらせたいと考える先進性をも身につけているのである。つまり、サンドイッチ世代とは、実は自分自身の中にある相克(そうこく)する感情に、葛藤を余儀なくされる世代のことでもあったのだ。
「女の階段」の女性たちは、自分自身が介護を受ける身になる時期が近づいていることを実感しつつ、この二つの相反する思いに自問自答を続けている。そして多くの場合、自分の介護に話が及ぶと、自分たちの世代がやはり次世代を解放できずに終わることを、ため息をつきながら認めることになる。(255ページ)
「日本型福祉社会論」のねらい――崩壊した共同体の再構築は夢想にすぎない
1979年、(中略)「日本型福祉社会」が新たな福祉政策のシンボルとして掲げられた。(264ページ)
日本型福祉社会論の目指すところとは、公的責任で運営されるべき福祉を自助努力と家族・地域の相互扶助に転換し、福祉予算を可能な限り削減することである。(266ページ)1970年代以降、すでに都市部やその周辺では、親と子だけの世帯、高齢者だけの世帯、もしくは高齢者を含む独居世帯が拡大していた。高齢化が進む農村部でも、若年層の流出がただでさえ顕著であり、地域全体で「人手不足」が常態化している現状からして、増える高齢者介護を地域で支える仕組みが作れるはずもない。加えて、ほとんどの農家が兼業となっている現状では、夫婦ともが農外労働に出ている家も多く、多世代同居であっても、常に家に介護者がいるわけではない。そんな中で福祉政策を在宅へと切り替えられれば、結局、介護する家族と、誰よりも介護される本人が福祉の枠組みから排除されるだけのことである。共同体を崩壊させながら歩んできた資本主義経済のもとで、崩壊した共同体を再構築することはただの夢想にすぎない。(267ページ)
学用品を買ってあげたい
子どもが小学校にあがるとき、学用品を買ってあげたいと思ったけれど、嫁に自由になるお金はなかった。買ってくださいなんて舅や姑にとても言えなくて、自転車に野菜を荷台からあふれるほどいっぱい積んで、暗くなるまで泣きそうになるのをこらえながら走り回って売った。そのお金で子どものものを買った。(姉歯による聞き取り、茨城県、2017年。本書〈以下、略〉35~36ページ)
子どものための万引き
学校の運動会、学芸会の時期になると、小さな万引きが農村地域で増加する、という労働省婦人少年局の調査がある。わが子のために、また、こどもにはずかしい思いをさせないためという親心が主婦の自由になる金がないため、つい手がでるという、いたましい母の姿ではないか。(『日本農業新聞』1965年5月7日付。36ページ)
「しまい湯に落つる涙」
「しまい湯に落つる涙を拭い得ずこの家に一人の味方も無しと」などという歌の抜き書きが目にしみて、ただ希望に満ちて生きてきたつもりの自分に、このような感情の起伏があったのかと、なつかしく思われ、若いお嫁さんへ同情がわきます。(中略)各人の努力と思いやりで公平な生活設計を家族みんなで打ちたてていきたいと願うものです。(『日本農業新聞』1970年8月20日付。81ページ)
豊かさの本質を考える
私たちの生活は本当に豊かな暮らしなのだろうか。生活は便利になっているが‥‥‥。豊富な物資、便利さの中の自分たちの生活を改めて振り返ってみるべきだと思う。(中略)昔に比べ、たしかに表面的にはゆたかになっているが、その代償は労働の増加と借金の増加ではなかろうか。豊かな生活は物の便利さとお金の豊かさだけだろうか。農村には農業から得た本当の豊かさを求めるべきではないだろうか。私たちはもう一度見直し、考え直す必要があると思う。(『日本農業新聞』1974年4月29日付。97、98ページ)
権力でおどされるのでなく
私達農民は生産物について質をよくし、農薬も適切な量と使用方法を守り、あくまでも安全良品への追求を忘れてはいけないと思います。米の減反政策でなく化学肥料や農薬の使わない有機農業をめざすべきです。(中略)「私達は今どこに向かって歩んでいるのであろう」と絶えず自問し、体は建物より、命は衣服より価値があるのです。権力でおどされるのでなく、あくまで人類全体の益をはかり進むべきではないでしょうか。(『「女の階段」手記集』第2集、1979年。114~115ページ)
農民と農協による農業潰し
農業潰(つぶ)しがここまで進んだことには農協の責任は大きいけれども、農業人(農民)の力不足ではないかと思います。農民も農協とともに歩んでくる中で、羽交い絞め(はがいじめ)にされ、丸め込まれて、それに男性がどっぷり浸(つ)かっている様子をみてきました。だから、JAの人も農民も外圧に負けない理論を学び身に付けるべきだと思います。(姉歯によるインタビュー。250ページ)
「私の人生は何なのだろう」
夫の母を15年間在宅介護で看とりました時、夫は「良く面倒を見てくれた。今度はおれの番だなあ」と何気なく言っていましたが、よもやこんなに介護の日が続くとは、思ってもみませんでした。(中略)(夫の)痴呆が始まってから4年半、何と私の介護生活は20年も続くのです。そして、これからも何年続くのか「私の人生は何なのだろう」と考えてしまいます。(『「女の階段」手記集』第8集、1996年。277ページ)
〇姉歯は、本書の「あとがき」で次のように述べている。「ここに描かれているものは、程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ。久しくなおらない病気)そのものである」(283ページ)。留意したい。
付記
(1)最近の「女の階段」投稿文を紹介しておくことにする。
(2)姉歯の言説の理解を深めるにあたっては、例えば、田端光美著『日本の農村福祉』(勁草書房、1982年7月)が参考になる。また、田端のことについては、田端光美著『坂と海と』(ドメス出版、2001年6月)がある。