ぼくらの先生じゃない(その2)

しんちゃんの母親は 子どもの言葉をそのまま伝えた
「先生は ぼくらの先生じゃない」
一瞬 聞き間違えたかと思った
そうではなかった
確かに ぼくらの先生じゃない と言ったのだ
いつもニコニコして口数の少ない子が 
こんなことを言うとは 思いもしなかった
下げた頭は混乱し なかなか持ち上げることができなかった

ようやく決心がついて 面を上げた
正面に座っていた母親から 笑顔がもれていた
なんで? 
狐につままれたような気持ちだった
「先生 しんいちはね」と 切り出した
「先生は ぼくらの先生じゃなくて 北海道の先生なんだ」
震えが 止まらなかった
自慢げにこう話したと 母親は笑いながら話を続けた
子どもからいただいた 最上の評価だった

もう一つの 仕事があった
早朝 自宅のワープロから叩き出された原稿は 
福祉教育の推進資料として 道内の社協に配られた
学級をあけて 他の町で講演や 公開授業をした
福祉教育の普及啓発が もう一つの仕事になっていた
だから 交通アクセスのいい町の学校に 異動したのだ
札幌には 千歳まで車で30分 JRで40分
東京には 千歳空港から1時間半で 飛んで行けた
休みは 内地での仕事をこなした
それだけでは済まなくなって 平日も 道内や内地に飛んだ

だから 子どもたちには 自習を強いた
留守の間の授業の計画も 1ヶ月前からしておかないと
子どもたちに 迷惑がかかる
留守の間は 他の教員が補欠に入る
だから余計に 準備周到しなければ ならない
さらに 子どもたちの学習態度や 教科の進捗状況も つぶさに点検される
まさに 開かれた教室そのものなのだ

子どもたちは わきまえていた
留守番をするには どうしたらいいのか
見事に その期待に応えてくれた
一つも 事故がなかった
喧嘩もなかった
一致団結して クラスを守った
その心意気に甘えて 出歩く機会が多くなった
それでも 子どもたちは 応援してくれた
もちろん お土産も楽しみにしていた

その思いが しんちゃんのことばに 凝縮されていたのだった
「先生は北海道の先生だ」
そう誇らしげに語った息子に 母親は嬉しそうに頷(うなず)いた
「いい先生でよかったね」

これ以上 子どもたちに負担をかけることは できなくなっていた
そんな 自省の中にある私の背中を しんちゃんが押してくれた
だから 辞める決心をした
支えてくれたクラスのみんなの 信託に応えるために
北海道の先生になることを 決めた
いま動かなければ 北海道の福祉教育は頓挫する
思い上がった自負心
でもそこに 子どもたちの希望を見つけた

卒業 別れの時が来た
「先生は先生を辞めます 北海道の先生になります」
感謝を込めて 学担として最後の挨拶を終えた
たった18年間の 教職生活だった
未練はなかったが 授業ができなくなることが 寂しかった

〔2019年10月9日書き下ろし。なぜ私が小学校の教師を辞めたのか〕