「沈黙の作法」:肩を並べて「聴いて聴いて聴く」「待って待って待つ」、そこからしか始まらない―山折哲雄・柳美理著『沈黙の作法』読後メモ―

〇1990年代後半から始まったと言われるネット社会、その昨今の進展にはすさまじいものがある。しかしそこには、光と影、功と罪が混在する。ネット社会は一面では、肩を並べて「会話」することを必要としない社会である。人間相互の内的な「つながり」を必要としない社会である。例えば、FacebookやTwitter、LINEなどのSNS(Social Networking Service)空間では、発話を伴わない無機質な場面が繋がり、短文や単語、絵文字や隠語だけが飛び交う。そして、自分とは違う考え方や価値観を持つ他人を排除し、狭い世界を彷徨う。その結果、「本当の自分」を見つけ、自分らしく豊かに生きることができなくなる。
〇そんなことを思いながら、山折哲雄・柳美里の対談本『沈黙の作法』(河出書房新社、2019年6月)を読んだ。そこでは、二人の厳しくつらい経験と時空を超えた思索が縦横に織り成され、感性が研ぎ澄まされ、対話を深化・発展させていく。そして、その語らいは「沈黙」へと収斂する。山折哲雄(やまおり・てつお)の専門は宗教学、思想史であり、柳美里(ゆう・みり)は劇作家、小説家である。周知のことである。
〇以下に、山折・柳の対談の一コマや言葉をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。それは、「他人の思想の断片をハシでつまんで、その無自覚の浅知恵を上手に働かせて『パク』る」(205ページ)ことではない。「まちづくり」や「市民福祉教育」について思索・思考するための視点やヒントを探りたいがためである。

「共苦」によって傾聴する
柳 :(東日本大震災による)あまりにも大きな喪失、目の眩(くら)むような痛みによる沈黙を前にして、自分がどのような言葉を持てるのか? 何がしかの言葉を携(たずさ)えて共闘を呼び掛ける前に、まず共苦(きょうく)による沈黙が必要なのではないかと感じていて、それはやはり聴くことでしかないのではないのか。聴いて聴いて聴くことの先に言葉を持ち得るのかどうかは、わたしにはまだわかりません。(68ページ)
山折:共闘という言葉が促す人間の行動は、人と人を結び連(つら)ね、連帯によって集団を組織して、共同の運動をなして立場を強め、その結果に対して責任を持つことです。柳さんのおっしゃる共苦は、悲劇的な状況に置かれている他者と自分の一対一の関係ですよね。その関係が喚起する在り方というのは、一人の孤独な生き方で、尚且(なおか)つひたすらに沈黙に向かわなければならない。非常に辛い仕事ですよね。(68~69ページ)

人と人との「間」を取り戻す
柳 :人と人との関係は、「間」を見詰めて、相手と自分を客観視することが重要です。相手との差異を共通点と同じ比重で認めることが出来れば、相手を尊重することが出来ると思うんですが、インターネットの世界では、同意・賛成の意見を持った人たちで固まり、異なるものを排除・攻撃するという傾向が顕著(けんちょ)です。(97~98ページ)
山折:科学者や社会科学者の書く文章が「人」に変わってきた。「人間」から「人」に変わる時に落ちるのが「間」ですね。さらには(中略)カタカナで「ヒト」と表記されるようになった。(98ページ)
「人間」「人」「ヒト」という変化をどう捉えるかということですよね。柳さんかおっしゃるように、人間の関係性を客観視出来なくなるということが社会現象化していると言えるかもしれない。(98~99ページ)
柳 :インターネットの世界では「間」がすっぽり抜けています。TwitterやLINEなどのSNSでは、人と人との「間」を飛ばして、いきなり相手に自分の感情を手づかみでぶつける。(中略)今こそ、インターネットの介在(かいざい)で一挙に埋め立てられてしまった人と人との「間」をどうやって取り戻すのかという議論が必要なのではないでしょうか。(99ページ)

不安定さを支える「思想」を持つ
柳 :定着と移動、土着と流浪(るろう)、というのは、わたしも考え詰めて来ました。わたしの場合、考えざるを得ない境遇に生まれたから。(122ページ)
山折:流浪は、場に投げ出され、拠(よ)り所(どころ)が無く、自分を心細い存在にする行為だけれども、塵芥(じんかい)のように流されていくその流れの只中(ただなか)で創造の契機をつかむことはある。そういった緊張感というか、面白さはあるんだ。表現するってことは何であれ、そういう緊張の瞬間を我が物に出来るかどうかでしょ?(123~124ページ)
 :緊張の瞬間を我が物にするためには、自分の軸を持たなければなりません。それには、安定するための思想ではなく、不安定さを支えるための思想が必要です。(124ページ)
 :流浪の民は移動する度に、場所、蓄積したもの、人間関係を失います。でも、新しい場所や人間関係に対する不安や脅威によって、孤独や孤立によって、自分という存在が問(と)い質(ただ)され、予見不可能な事や時へと自分を拓(ひら)いていく覚悟が生まれるわけです。逆説的ではありますが、流浪していた方が、自己に対する在り方を定立しやすいのかもしれません。(129ページ)。
山折:定着するライフスタイルの中に居場所が在るとは限らない。(129ページ)

長い「沈黙」を共有する
山折:真の苦境に追い込まれた時、知識として体に染み込ませたものは全て揮発(きはつ)します。最後に何が残るのか? 自分の苦境と、苦境に陥った自分の気持ちも相手に伝えるためには、言葉に拠(よ)るしかない。でも、言葉は一言も思い付かない。長い沈黙が続く。長い長い沈黙を経て、一つ、二つの言葉が出て来る。(145~146ページ)
柳 :沈黙というのは、言葉と言葉の断絶や溝ではなくて、言葉と言葉の梯子(はしご)みたいなものですね。(147ページ)
山折:沈黙は、最高で最終的な宗教言語なんです。沈黙が宗教言語であるということを忘れたから、気の利(き)いた不必要な言葉を沈黙に注入し始めるわけですよ。
沈黙の大切さを忘れた日本人は、ケアだとかカウンセリングなどというカタカナ語に毒されています。(147ページ)
柳 :言葉ではなくて、沈黙によって神や仏や人と結ばれるということですね。(147ページ)
柳 :会話が途切れると、その沈黙を気まずいものとして感じる人が多いですよね。なんとか話が途切れないように、どうでもいい話を次から次へと続けて間を持たせる。話の合間に訪れる沈黙の中にこそ思考の契機が在る。話し合うよりも、黙り合う時間を共有することが大切なんです。(198ページ)

沈黙の「作法」を身につける
 :対面というのは、お互いの内に在る沈黙を突き付け合うようで緊張しますよね。両者それぞれに孤立している硬い沈黙です。(176ページ)
山折:悩みを抱えて来訪した相手の話を聴く。聴いて聴いて聴く。一方的に聴いた後になんらかの方向性を示すか示さないのかというのが、宗教者と心理療法士の差なのではないかというのが、河合隼雄(かわい・はやお)さんとの懸案(けんあん)の課題でしたね。でも、河合さんはその時おっしゃったんだ。心理療法士だって聴いている最中あるいは聴き終えた後に方向性は考える。なんらかの方向性を示す言葉を伝えるよ、と。では、両者の聴き方は同じなのか? 両者が示す方向性は同じなのか? いま、わたしが思ったのはですね、宗教者が示すのは沈黙なのではないかということなんです。沈黙に至る道筋に法則は無いんだよね。でも、作法は在る。沈黙の作法です。(177ページ)
柳 :沈黙の作法、いい言葉ですね。法則は無いけど作法は在る。法則は守らなければならない決まりで、いわばマニュアルですものね。作法は、物事を行う仕方、やりかたです。作法に在って、法則に無いものは、美です。逆に法則に在って、作法に無いものは、実利です。(177ページ)

〇かつて物事を長い目で見たり、長いスパンで考えたりすることは、ありふれたことであった。しかしいま、「みみっちいほど、せっかちになった」。「待たなくてよい社会になった。/待つことができない社会になった」(鷲田清一『「待つ」ということ』KADOKAWA、2006年8月、7、9ページ)。これも、「つながり」が断絶した社会とともに、いまのネット社会のひとつの実相である。そんな時代や社会にあって、「沈黙の作法」を身につけ、「なぜ生きるのか」「いかに生きるべきか」「いかに死ぬべきか」といった「生きる意義」や「生き死にの問題」(山折:12、13ページ)に深く分け入ることが求められる。「まちづくり」や「市民福祉教育」においても然りである。
〇筆者が住む地元新聞は、2020年1月9日の社説で、「相模原事件初公判」について次のように論じた。「もう一つ、この裁判で目を向けなければならないことがある。公判の冒頭、裁判長は『被害者のうち1人を除き、住所や氏名などを明らかにしない』と説明。検察側は起訴状朗読で死亡者を『甲A、B‥‥』、けが人は『乙A、B‥‥』とし、氏名を伏せた。家族の多くが差別と偏見に苦しめられた経験を持つことに配慮した『匿名審理』だ。/また遺族らの傍聴席は他の傍聴人から見えないよう遮蔽(しゃへい)された。16年(2016年4月)施行の障害者差別解消法が掲げる『人格と個性を尊重し合いながら共生する社会』とは懸け離れた重い現実がそこにあることを忘れてはならない」(『岐阜新聞』2020年1月9日朝刊)。
〇権力者や社会的強者の横暴や理不尽がまかり通り、ひとりの人の声がその隅々まで響き渡る時代と社会。権力や強力に近づき、群がる「人」また「ヒト」。そんななかで、心を閉(と)ざし、身を竦(すく)め、物音ひとつ立てずに暮らす大勢の社会的弱者がいる。「ちんもく」である。それをみんなで破るためには、肩を並べて「聴いて聴いて聴く」。肩を並べて「待って待って待つ」。もう一度、そこから始めるしかない。それによって、「間」が生まれ、「言葉」や「思考」が生まれ、「つながり」と「共働」「運動」が生まれるのである。

補遺