妖怪に取り憑かれた男

携帯の着信音が軽やかに鳴る

「どうしたい。相変わらずバカやってるかい」

「初っ端からのご挨拶、恐れ入ります。どうもこうも、バカやろうにも外出自粛のこのご時世。何もできずに悶々としておりました。こう暇だと変に大家さんが恋しくて、つい電話しちゃいました」

「いやいや、退屈しきっていたところだから、なんともありがたいね」

「ドイツのメルケル首相が、〈いまは距離だけが思いやりの表現です〉って、いいことおしゃいましてね。それでつい思いやりの電話をかけた次第です」
「嬉しいね。メルケルさんのその言葉、さすが一国の宰相然として、いいね。安倍さんじゃ絶対言えないね。風格が違いすぎるな。彼には、説得力を生む信の一字が欠落してる。せいぜい憲法改正しますって、風吹かぬ旗を振ることにご執心で、コロナ禍のこのご時世に、風を読むことすらできねえ、とんちき野郎だ」

「おやおや、あっしが思ってたとこに、ドンピシャリ的を射ましたね。さすが大家さん。そのとんちき野郎のことで、トゲが刺さってなかなか抜けずにイラつく感じで、モヤモヤしてたんです。なんで安倍さん、憲法改正に肩入れしてるんですかね」

「言ってみれば、岸の爺さんの霊に取り憑かれているってとこかな」

「今日はまた、不気味な事の始まりですね」

「母方の爺さんは岸信介。戦犯を逃れて、戦後すぐに政界でのし上がって首相になり、権力を振るい〈妖怪〉とあだ名された爺さんだった。1960年に日米安全保障条約改正に反対して、全国で580万人が参加する大きなデモになっていったんだ。6月15日には、11万人が国会を取り巻いて、その中にいた東大の学生だった樺美智子さんが警察隊と衝突して亡くなるという事件が起こったんだよ」

「60年安保闘争ってやつですか」

「学生のわしは日和(ひよ)っていたので、いまさら何も言われんが、それが闘争に大きな力を与えてちまって、アイゼンハワーの訪日はキャンセル。挙げ句の果てに7月には、岸内閣は総辞職に追い込まれちまった。そんな騒動の中で、安保条約は結ばれていくんだがね」

「岸さんとの因縁って、なんですか?」

「タカ派のような首相ではあったが、最低賃金制や国民皆年金など当時としては、社会保障制度をつくって、高度経済成長の礎を築いた人でもあったんだ。その岸さんはGHQが押しつけた新憲法なんぞ認められないねえと、改憲に意気込んでいたわけさ」

「安倍さんが、盛んに憲法改正を訴えるのは、もしかして弔い合戦?」

「そう考えるとわかりやすい。紆余曲折があってなかなかできずにいまに至るが、彼は結構粘着質だから、しつこいタイプだね」

「それに根に持つタイプ」

「広島の河井夫婦に1億5千万もの金を渡して、宿敵打倒を果たした参議院選は、見事だったね。その金の使い方の汚さがいま暴露されて、検察がどこまで立件できるかが鍵になっているね。ここでまた、東京高検検事長の定年延長を得意の閣議決定にかけて、自分に累が及ばぬよう、検察まで牛耳ようと躍起になっている。そこで踊っている森法相もとんだピエロ、滑稽極まりない。コロナも最初はひとごとだった」

「安倍さんも、いまじゃやってる感を見せているのに、世界のリーダーに較べたら、とんと評判が良くない。都合の悪いことには、人が死んでも知らぬ存ぜぬと隠してきたツケが回ってきてるんですかね」

「うん、周りが見限るタイミングを知って、内心焦っていると思うな」

「憲法改正って、口を開けば自民党の悲願だの、自衛隊は合法化すべきだのって、憲法をいいだけいじくって、平気で違憲してきた人に意見してやってくださいよ」

「コロナで予定が狂ってしまったことが、大誤算だったね。彼の頭の中じゃ、爺さん悲願の憲法改正、自分のためのオリンピックの開催。それしか、頭になかったから、前代未聞のコロナで遅れを取った。軽く考えていたんだね。ところが、甚大な事態になってきて、伝染病対策の備えのない体制では、だれもアイディアが浮かばない。それどころか災害対策のような前例踏襲の対策しか思いつかない閣僚たちや官僚に預けてしまった。それがそもそもの致命傷。やることなすこと後手後手で、効果が上がらないから強権で縛ろうと、自民党からどさくさ紛れに改憲を持ち出す始末。それにすぐ乗って改憲を口にする軽薄なところが、さらに顰蹙(ひんしゅく)を買うなんて思ってもいない。優先順位が全く理解できない男。どこまでいっても能力のない宰相気取りに、国の舵取りを任せているだけでも、コロナ以上の危険極まりない甚大なリスクを民は負ってるんだよ」

「あっしらから見ても、本気でやってるって気にならない。その場しのぎの、それも専門家って言葉を多用して、さもさもらしく持ち上げては、失敗したら責任をおっかぶせるくらいの人身御供かとも思えてならない。それだけ信用できないってことですかね」

「妖怪爺さんの孫だけに、あなどれない策士だね。そこんとこでずいぶんやられてきた」

「なんですか、そこんとこって」

「一番は、集団的自衛権行使を禁じるっていうのを、憲法の解釈を変えるのに内閣法制局長官を代えて閣議決定するんだ。これで味を占めて、何でもかんでも法を無視して閣議決定する。特定秘密保護法、共謀罪、公文書改ざん、桜を見る会の私物化、検事長の定年延期、コロナ対策の全国一斉休校の独断決定、マスクの馬鹿げた配布も、そしていままた延長をかけるという緊急事態宣言と、一体何をやってきたんかと思うほどわけのわからんデタラメさが、この政権の正体だね」

「なんのために憲法改正するんですか? だって解釈変えて、法が違憲でないかどうかをチェックする内閣法制局が、はいその通りっていえば、みんないいですよってことになるんでしょ。憲法変えずに強引にやってこられたことを、なんで?」

「違憲だったわかってやってる確信犯は、それを合憲にするともっと強権を発動しやすくなるよね。集団的自衛権も、第9条を袖にする違憲だって憲法学者がこぞって反対したんだ。それこそ日本の法のエキスパートたちだ。それを無視して、御用学者の論を正論にするところが、この政権のしたたかさ。特定秘密保護法てえのは、漏れると国の安全保障がやばくなる情報を〈特定秘密〉にして、その情報を扱う者は調査・管理され、それを外部にでも知らせたり、外部から知ろうとしたりしたら罰せられるというとんでもない法律なんだ。スパイ監視法だね。余計に政権が何をしてもしでかしても、この法律で守られるという、とっても都合のいいもんをつくったというわけさ」

「戦前によく、治安維持法で国民を監視したことで、悪法っていわれたけれど」

「それが、共謀罪なんだ。改正組織的犯罪処罰法に含まれた〈テロ対策〉の共謀罪ってことなんだね。これは実際に犯罪を起こさなくても、相談や計画して準備していると疑われただけで捜査や逮捕ができるという、治安維持法の復活ともいわれた法だよ」

「それじゃ、大家さんとこんなやり取りしていて、不穏な者たちがよからぬ相談ぶってるってチクられると、取り調べられるってことですかい」

「その通り。この電話だってもう盗聴されているかもしれない。だって〈年寄りの反乱〉などと気勢を吐いたからね。人権や自由を侵害する恐れが強い法を、平気でつくってこられたのは、国会で論じることなく数の論理で強引に押し通してきただけのことでしょ。だからいまも国会は、何の役にも立ってはいない。一律10万円の支援を我が党が言い出しっぺですって、手柄の奪い合いをする程度のレベルの政治家たちに、一体何を期待できるっていうんだい」

「またまた怖いお話になってまいりましたね。これが怖い物見たさの楽しみです。ラインもメールも監視されるんですか? それって誰が決めるんですか?」

「捜査当局の腹一つだね。盗聴、盗撮、密告も重要な情報収集。だから、監視社会になるってずいぶん反対もしたけど、結局決まってゆく」

「監視社会って、いまのご時世そのものですね」

「そうだと思うよ。村から感染者が出たっていうんで、誰だと村役場にねじ込んでいく。小さな村ならではの互助の心が、簡単に打ち壊されていくのを目の当たりにすると、自粛を一見お願いしているように見える緊急事態宣言は、日本人の〈汚れを排除〉しようとする世間のおきて(心情)をうまく操作して、疑心暗鬼になるように集団監視させる。感染者を犯罪者に仕立てた大衆誘導のやり口は実に巧妙で、座布団一枚あげたいよ」

「好き勝手できるのに、なんでこのタイミングで改憲にこだわるんですか」

「優先順位がそもそもわかっていない。先に改憲ありきで走ってきただけに、何が何でも自分の代で道筋を付けたいという私的な願望であって、決して大義ではない。特に改憲に〈緊急事態条項〉を入れるといってるけど、これができれば内閣は国会のチェックを受けずに法律と同じ効力を持つ政令を出して、無条件に人権を制限することだってできちゃうんだ。自由な人の往来を禁止する罰則をつくって取り締まるってことは、いつでもやれちゃう。法律ができれば大義名分が立つから、当然取締りにあたる警察だけではなくて、みんなで堂々と取締りに参加することができるというわけ。法の番人にみんながなるってことなんだよ。それが戦前の国民を統制してきた〈非国民システム〉の再来ということだね」

「これって、劇薬みたいなもの?」

「劇薬か。使い勝手では薬にも毒にもなるが、多くは国民には毒になるだろうね。なんせどんな状況が緊急事態なのか、その判断やどんな法律で国民を縛るかは、その時々の政府の判断になるから、簡単には判断できないところが問題だね。それ以上にそれを提案しようというのがいまの内閣だけに、無理かな。さんざんいままでの汚いやり口を見てきただけに、信用できない者の話を、まともに聞けますかってところだね」

「いまのやり方でともかく収束に向かうようだったら、そんなもんはいらないわ」

「優先順位ってのは、そこんとこなんだ。いまの事態をできる限り有効な手を打って収束させることしかないだろう。まだまだ予断を許さない事態に有効な手をドンドン打たねば国家じゃない。医療者への感謝と支援はよく口にするけど、受け入れの病院の経営は6月には資金ショートするところも出てくるという。もっと深刻な問題があっても、厚労省は何の手立ても講じていない。出来の悪いマスクの配布より、こっちが先だろう。改憲論議はその後にしたって遅くはない。朝日の世論調査でも72%は、国会での改憲論議は急がなくてもいいってのに、暢気に論議しますっていう神経が全く理解できない。困窮者や労働者支援と経済の立て直しに集中すれよと言いたいね」

「その通り。改憲論議もすぐに改憲しますってしろもんじゃないでしょ」

「国民投票だのなんだのと手続きがあるから、おいそれとはいかんだろう。任期中には無理だとあきらめないのが、あの男の執着心だ。もう死に体にも関わらず、最後のあがきの改憲願望。ここは断(た)っていただきましょう。そもそも第9条をいじるなんて、そこからして反対が国民の6割以上もいるんだよ。自衛隊だって、現憲法でも認められているにも関わらずに、だ。そうするには意図があるわけで、集団的自衛権との絡みで〈軍隊化〉を目指してるんだろうね。日米安保条約も60年の還暦を迎え、核の傘下によって守られてるっていうけどそうかい? 本当にアメリカ追従の路線でいいのか、今一度考える節目の年かな。〈核時代の創造力〉(大江健三郎)を取り戻すときだと思うな」

「彼はいったい何様になりたいんですかね」

「憧れは絶対権力者。ロシアのプーチン、もしかして中国の習近平かもしれない。トランプは、金に執着する商人だからモデルにはならんだろう。この秋の大統領選挙でどうなるかわからんしね。残念ながら、今回安倍さんの指導者としての資質の低さが世界に知れ渡ってしまった。ドイツのメルケルの政治力が評価されるのは、ナチスや旧東ドイツの独裁政権による私権制限がトラウマになっていたことから、〈緊急事態法制〉という規制力の強い法ではなく、〈感染予防法〉で対応できるとふんで適用したんだ。それでも行動制限はかかったけど、93%が支持してるんだね。ナチスのよる独裁の負の歴史を踏まえて、やみくもに国民の自由制限や思想統制をするといった愚策は選ばない。その政治哲学と政治力学、そして倫理観のもとに、民主主義社会を維持しようとするメルケルの気概に満ちた〈ことば力〉が、国民を説得する。そんな指導者に触れて、国民には誇り高く映ったに違いない。そこが大きな違いじゃないかな」

「いまの指導者を誇れるかどうかという一点ですね」

「その通り。それぞれの価値観があるから、一概にどうこうとは言えないにしても、いまの国の指導者を誇ることができるかどうかで、国の行く末や国民の政治への意識の高さが左右される。このタイミングで出た改憲問題は、政治家のレベルの低さがまたも出ちまっただけのこと。情けない政治家を擁する国であることだけは、確かめられたかな」

「一つひとつのことの善し悪しを判断する前に、もっと基本にあるのは自分たちが選んだ政治家が、果たして誇れるに足る人材であるかどうか、ですね」

「このコロナ禍は、議員としての器量を見極める試金石だ。選挙後は一切顔を見ることのない〈雲の上の人〉を下界に降ろすことが、肝心だね。だからこそ、いま政府や政治を批判する声をないがしろにしてはならないんだ。本当に命や暮らしに危機感を感じているいまこそ、民の声を丁寧に上げていかなければならない。それこそが民主主義を守る闘いともいえるね。60年や70年の安保闘争よりももっと熾烈を極めた〈命と暮らしを護る国民闘争〉の渦中にいるのだと、そう思うと政治家たちはきっと焦るだろうね」

「その命や暮らしを護るためには、憲法こそが政治の根幹であり、あっしらの拠り所であるということですね」

「さすが、だんだん読みが深くなったね。こうして大事な話ができるのも、きっと今できる〈年寄りの反乱〉かもしれない。ただ政治の世界には、たくさんの〈妖怪〉が出番をいまかいまかと待っているから、油断大敵。常に政治を、政治家を監視しなければならないよ。それが国民の義務ってもんだ」

「おっと、監視されるんじゃなくて、こっちからしっかり監視する。いいですね。それが監視社会をぶっ壊すことになるってことですね。合点承知しました。今日も長々と講義をいただきまして有難うございました。次を楽しみに、今日はこれで失礼します」

「ありがとよ。あんたもコロナに罹らぬように、ましてや罹ったと思って動くのも大事だね。早く収束することを願って、わしも要介(ようかい)護にならぬよう昼寝とします。はい、さいなら」

※治安維持法(1925年制定):敗戦までの20年間、思想や大衆運動を弾圧した。当初は共産・無政府主義者を対象にしたが、改定を重ねるなどし、戦争に異を唱える人や自由主義者、宗教家らに適用を拡大した。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟によると、当局発表で約7万人が送検され、作家の小林多喜二ら拷問死した約90人を含め、少なくとも400人強が獄死した。

〔2020年5月4日書き下ろし。長文になり、読むのに疲れたことでしょう。二人の会話から改憲にまつわる問題を汲み取っていただければ…〕