不登校どうする?

携帯の着信音が鳴った

「もしもし、あっ大家さん、ご無沙汰してました。お変わりありませんか?」

「ここんと電話がないので、忘れられたかと、つい寂しくて…」

「のっけから、嬉しいことをおっしゃいますね。ありがとうございます」

「いやいや、そう言えばきっと喜んでくれると思いましてね」

「なんですか、そのおっしゃりようは」

「いやいや自粛生活が終わって、あんたも仕事で忙しくしていることだろうと電話のないのは良い便りと思いながらおりました」

「さすが年の功、お見通しで」

「仕事でお忙しいことは重々承知で、この電話いまはいいですかね」

「大丈夫です。ちょうど仕事の手がすいたところで、グッドタイミングです」

「電話をしたのは、ちょっと相談に乗ってほしいことがありましてね」

「私のような者でもお役に立つんですかい?」

「これといって相談する人もいなくて、あんたに電話した次第です」

「またまたおっしゃいますね。これまた嬉しいやら哀しいやら」

「相談というのは、子どものことです」

「えっ、隠し子ですか?」

「バカ言っちゃいけないよ。そんなこと口が裂けても言えません」

「身に覚えがあるってことですか?」

「いやいやそうじゃなくて、身の覚えもなにもこれっぽっちもありません。潔白です」

「さっきのお返し、ちょっとからかってみただけですよ」(笑い声)

「ほんとに人が悪い」

「それで、子どものことってなんですか?」

「そうそう、そこんところが今日の用件、話の腰を折らんでくださいよ」

「すいません。それじゃ正座してお聞きいたします」

「改まってもらうと話ずらいね。実はね、学校が始まって、近所の子どもらも元気に通い出したんだが、ひとり小学校に行けない子がおりましてね。うちのばあさんが親御さんから話を聞いてきて、そのお鉢が私に回ってきたという次第です。どうしたもんかと思っていたら、あんたが不意に現れて、電話をしたという次第です」

「まるで妖怪ですね。なにか用かいって」(笑い声)

「またまた腰を折りますね」

「すみません。腰も口も軽いようです。あっしにはもう小学生の子はいないので、なんとも分かりかねますが、子どもにも子どもの事情ってんもんがあるんでしょうね」

「まるで大人だね」

「今どきの子は、けっこうしっかりとした考えを持っている子もいますんで、学校に行けなくなったわけもいろいろあるようです。まあ、学校の先生に相談ぶつのが一番ですね」

「ばあさんもそう話したようだが、どうも学校行けなくなったのはいまさらの話ではないようです。担任の先生も新学期で変わって、一度も会ったことがないっていうんだね」

「コロナのお陰で、春休みからこっち学校もお休みになっていたから、余計に行きずらくなっているんですかね」

「前の先生とは、折り合いが悪かったこともあったようだが、新しい先生ならと少しは期待したようだけど、子どもはなかなか行こうという気持ちにはなれないっていうんだね」

「無理に学校にやろうとしても、かえって子どもは行きたがらない。あっしも児童委員で子どものことやら親御さんのことで相談に乗ることもあるんですが、いろいろと双方訳ありで、こればっかりは難しいですね。子どもの言い分もあるんでしょうけど、小さい子なら、うまくそのあたりの事情を話すことができずに悩んでいることもありましょう」

「今度4年生の女の子。3年生の時に何かいじめられたことがきっかけで、学校に行くのを渋りだしたそうだ。親は先生にも相談したらしいが、いじめた子らと握手をさせて、さあおしまいと解決した気になっていたらしい。でもその後も陰で続いていたようで、親はまた先生に相談するんだが、さっぱり埒(らち)があかなくて、そのうち子どもがいやなおもいをするなら、学校に無理して行かせることはないと思ったんだね。でも子どもは子どもで、勉強のことがだんだん気にかかってきて心配しだした」

「親もきっと気が気ではなかったでしょうね。勉強が遅れたらどうしようと心配にはなるわね。特に3、4年生って、大事な学年だっていわれていますよ。国語や算数の基本中の基本をマスターしなければ、そのあとは〈落ちこぼれ〉になってしまうって。だから親の気持ちも子どもの気持ちも痛いほどよく分かります」

「そこで新学期、クラス替えで担任も替わるから行こうって、親子で話していたそうだ。ところがどっこい、コロナがやってきて3ヶ月も突然休みになってしまった。学校からは宿題がたんと出されたが、実は母子家庭でね、母親は一日中仕事に出ている。子どもはいつも留守番。だから母親の本心はせめて日中は学校に通ってほしいと思っていたんだが、いじめで不登校になっちまって、困っていたんだね。だから宿題を見てあげることもできず、早く学校が始まってくれれば、この子も立ち直れるだろうと期待していたんだ」

「ところがいつまでも学校が始まらない。宿題も思うようにできない。さて子どもはどんどん不安になっていく。学校が始まっても勉強についていけない、またいじめにあうかも知れないと思うと、だんだん気が重くなって、行きたくない、行けないって考えてしまったんでしょうね」

「さすがだね。私もそう考えた。だからこの子のことが不憫(ふびん)でね。何かいい方法はないかとおもい、あんたに相談した次第」

「一つは、学校の先生はスーパーマンじゃないってことですね」

「なんだい、それは」

「正義の味方で、どんな難事件も解決する能力の高い人ではないということです。ごく普通の大人です。教育者として特別な才能を持っているわけじゃない。世の中、先生、先生と持ち上げるから勘違いする人が出てくる。教育のことなら専門家なんだから何でも知ってるって。そんなわけないでしょう。仕事ですから、専門ともなればそれなりの知識や技術はありますよ。仕事上必要なことですよね。看護師さんや介護士さんは、国家資格を持っていらっしゃる。命を預かる仕事ですから、当然です。でも学校の先生は、教育系の大学出れば教員免許が出るだけです。大学出たくらいで、特別なものを持っているわけがない。直接子どもの生き死にに関わる仕事じゃないから、覚悟が足りない。だからしっかりと自分を磨きながら現場で経験を積んでいかない限り、一人前にはなかなかなれない。だからスーパーマンじゃない、ただの人です。〈ただものじゃない人〉になるには、子どものいのちとこころをしっかりと護るという覚悟が必要だと思うんですね。世間では、学校の先生だからという過度な期待感があって、学校のことや子どものことなら、なんでも解決できるものと勘違いされているんじゃないですかね。勉強を教えることが仕事だとおっしゃる方も多くいますが、肝心なところが抜け落ちているように思います」

「だから」

「不登校やいじめの問題がなかなか解決できないのも、子どものことを棚に上げて、こっちが悪いあっちが悪いって、責任の押し付け合いばかりしているからじゃないでしょうか。お互い出来ることと出来ないことがある。家庭の事情も親の仕事もそれぞれですから、せめて先生は先生なりに一人ひとりの子どものおもいを受けとめられる人であってほしいですね。分かったふりをする先生は、子どもには見透かされていることを知っておくべきでしょう。そんな先生に相談しても埒はあきません。だから余計にこじれていくんですね。親は我が子のことしか頭にないから、こうしてほしいああしてほしいといろんな注文をつけます。それができないとクレーマーになって、いいだけ先生を責め立てる。そうされないように、できるだけ防波堤を築いて自衛しなければならない。一概には言えませんが、先生と親との信頼関係はそもそも無理かもしれません。なにか利害関係になっているようで、間に挟まれた子どもたちが心配になります」

「親に先生の言うことは絶対だって、私らの頃にはそう教わって、先生に叱られて叩かれたと親に言えば、お前が悪いとまた叩かれて、しまいには先生に感謝したくらいだからね。いまは、体罰教師で訴えられるから、叱り方も難しいね」

「あっしらも、よく叩かれた口ですが、その後の先生がすまんかったと謝ったときには、なんだか不思議でしたね。先生もまた自分のいたらなさを責めていたのかと、いまはそう思っています。叩かれたときは〈こんちくしょう!〉ですがね。でもその先生好きでしたよ」

「先生はスーパーマンでなくていいと思うね。出来ること出来ないこと、苦手なこと得意なこと、人としてあって当たり前のことなんだから。子どもたちにもそんな姿を見せながら、まずは先生と子どもとの信頼関係をつくることが一番じゃないの。それこそ教育のプロとしてわきまえなければならないことだと思うけどもね」

「おっしゃるとおりです。子どもの問題の起こった学校の記事なんかを読みますと、子どもをかばうというよりは、自分たちのやったことを正当化することに躍起になっているって気がしてなりません。コロナ禍で勉強の遅れを取り戻すには、先生を増やさなければならないって言っていますが、問題は数ではなくて〈質〉ですよね。教えるだけなら、家庭教師のアルバイト学生を動員して、雇い入れればいいんじゃないですか」

「面白いね、その発想。学生もバイトがなくて困っているという話、一挙両得じゃないか。学生も教育系の学生にこだわることはないね。いろんな学部の学生たちが、授業を通して子どもたちに、先生じゃ伝えきれない〈学ぶ〉ことの面白さを伝えられるかも知れない。若い新鮮な感覚で、学校の閉鎖的で保守的な空気が変わるかも知れない。そんな改革をするなら、いまかも知れないね」

「学習サポーターって、いままでも学生が学校でボランティアしてましたからね。これを学生の就学援助というカタチで一律お金を配るんじゃなくて、別に労働対価として当たり前に学業と両立する仕事を与えるところに、意義がありますね」

「いままでどおりの学校では、子どもの多様性に先生が対応できないから、そのしわ寄せが不登校であったり、いじめといった問題がうまれる土壌をつくってきたかも知れない。だいたい世の中は、現状維持ではやりきれないという過飽和状態になったときに、英断を持って改革を為そうとする波が起こるね。その中核には、必ず若者たちがいるという歴史的な事実に気づくべきだよ。明治維新をやり遂げていくのも若者たちだった。この間の話で、60年安保闘争も挫折はしたが、確かに若者たちの新たな時代を創ろうとした息吹は感じたね。学校への〈子どもたちの反乱〉が起こってからずいぶんたつが、学校という閉鎖的な世界を開ける力は、若者たちが子どもたちと真剣に〈学ぶ〉ということを通して、お互いに成長し合うことが、いまこそ大事なことかもしれない。ただ世迷い言と一笑されてしまいそうな話になってしまったが、さっきの話に戻しましょうか」

「そうですね。きっと子どもが抱えている心配事って、一人だけじゃないと思いますね。率直に学校の先生と話し合うことと、それ以前に学校の方で子どもたちの不安を解消するための手立てを講じて受け入れなければならないのが、本来の仕事ですね。だから、そんな子がいることを前提に、他の子どもたちにも不安が起こらぬよう親にも話しておくべきことです。何せ2ヶ月も時間があったのですから、たっぷり教育書も読んで、教師としての資質の向上をはかったことでしょうから、是非その成果を見せていただきましょうか」

「学校に行けないで心配してる子に、あんたならどうする」

「あっしは、頭で考えるくらいならすぐに動く方ですから、深刻がらないで子どものもとにすっとんでいって、膝をつき合わせてお互い納得するまで話をしますね」

「おっしゃるとおり、そこだね。でも危ないね。マスクしてソーシャルディスタンスは取らなきゃいけないよ。親の相談の前に、心配な子どもの情報は持っているのだろうから、本来教師はそうあってほしいね。まあ、そこんところはしてない様子。まずは親が行くしかないが、仕事は休めないから、電話でお願いしてもらいましょうかね」

「あっしも、なにかお役に立てるといいんですが。新米の民生委員児童委員のあっしには、学校の敷居は高いもんだと行けずにおりましたが、それを承知でまずは気負わず動くことにいたします」

「そうすることも大事ですね」

「学校というところは、ただ勉強を教えるなら塾でも家庭教師でもできますが、人との関わり方や人としてのあり方、生き方は生身の人間同士がぶつかり合って、はじめて〈学ぶ〉ことができるってことですよね。勉強の成績しだいで人間の序列が決まるかのような教育は、やっぱりよくない。東大出て検察庁のお偉いさんになっても、賭け麻雀で自滅する姿をしっかり教えるべきでしょう。なぜそうなったのかって。偉人だけではなく反面教師もね」

「その通りだね。人間の能力を学力という物差しだけで測ろうとするいままでの教育が、少しでも変わっていくと嬉しいね。その前線で先生方には、子どもに信頼されるに足る人間力をつけてほしいと願うばかりだ」

「子どもばっかしじゃなくて、お年寄りも障がいのある方も、ここには心配ごとを抱えて困っておられる方がいらっしゃいます。まずは学校訪問、そして心配事の御用聞きも仕事の合間に精を出します。なんだか忙しくなりそうです」

「ありがたいね。あんたが近くにいるだけでどんだけ心強いことか。私もお世話になる身、よろしくお願いします」

「何をおっしゃいますやら。大家さんにはこれからもどんどん心配事を持ち込んで、あっしの知恵袋として、末永くお願いします」

「もう厄介事は勘弁していておくれ。楽隠居をしたいのだから」

「無理ですよ。なんせ世間がそれを許しません。世間が許してもあっしが許しません」

「おいおい、老い先短い年寄りになんてことを。まあ許してあげましょう」

「さすが情に厚い大家さん。今日もいい話をお聞きしました。ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとう。今度は顔を見せてください。今日はこれで」

「ごめんください」

〔2020年6月14日書き下ろし。学校が始まりました。心配な子どもたちへのフォローが気にかかります。〈忙しい〉という前提は、まずやめにしませんか〕