〇「6月27日、午後1時の時報を13秒ほど前にお伝えしました」。2020年6月27日に放送された「久米宏 ラジオなんですけど」の最終回、その第一声である。「ゲストコーナー 今週のスポットライト」に登場したのは伊集院光。久米と伊集院の話のなかで、「永六輔」が何度も登場した。
〇筆者(阪野)はこの番組を、半年ほど前から、毎週土曜日の夕方か夜中にユーチューブで聴いてきた。6月27日は午後5時頃からである。その途中でふと、積読本の一冊に、井上一夫著『伝える人、永六輔―『大往生』の日々―』(集英社,2019年3月)があることを思い出した。そこで夕食後、この本を読み始め、併せて永六輔の『大往生』(岩波新書、1994年3月)を実に久しぶりに再読した。井上は1948年生まれ、元「岩波新書」編集者である。永は1933年~2016年、放送作家・作詞家である。
〇井上の本のカバー「そで」の「内容紹介」は次の通りでる。「1994年に発売されるやいなや、大反響を呼び200万部を超える大ベストセラーとなった『大往生』。担当編集者であった著者(井上一夫)はその後10年、永六輔と本作りの日々を共にし、「ラジオ」と「旅」を源泉とする「知恵の言葉」のありようを探っていく。現場にいたからこそ見えた、永六輔の実像とは――。豊富なエピソードを交え、語り継いでいく。」
〇永は『大往生』の「まえがき」で、寺山修司(1935年~1983年、歌人・劇作家)の次の一節を引いている。「生が終わって死が始まるのではない/生が終われば死もまた終わってしまうのだ」(ⅱページ)。
〇本稿では、多言を弄(ろう)さず、井上の一文と永の詞の一節に限ってメモっておくことにする(見出しは筆者)。筆者の「いま」と「これから」に、留意したい。
定点観測/井上一夫
(担当編集者が、本書は「一編集者の定点観測の記録」である、と表現してくれた。)わたしは、編集者という立場を「定点」としています。そした可能な限り永さんに寄り添いつつ、彼の魅力を「観測」してきたといってよさそうだ。
観測というアナロジー(類推、比喩表現)がぴったりと思った理由は二つあります。ひとつは、観測には観測者の能力と個性が関係していること。いうまでもないことですが、観測とは客観的なデータの羅列ではありません。読みとる行為があって、はじめて意味を持つ。そこには当然、読みとる側の課題意識が関わりますから、それなりの角度が生じます。つまり、本書に即してひらたくいえば、わたしが記憶したいと思ったことが中核になるということで、わたしの実感と照応している。
いまひとつは、観測である以上、ある客観性が求められること。記憶なるもの、ときに思い込みや思い違いの危険があります。実際の本づくりにあたっては、何度も当時のドキュメントを点検し、関係者の証言の聞きとりを行ないました。むろん完璧であるはずもなく、限界はありますが、訂正すべきは訂正する作業をへています。単なる記憶のみに収斂(しゅうれん)させては事実としても違う。つまり、わたしのなかに厳としてある「記憶の体系」をベースにしつつ、ある客観性を持った「観測記録」として本書ができたといっていい。「一編集者の定点観測の記録」、そのとおりかと思う。(237~238ページ)
生きる/永六輔
生きているということは
誰かに借りをつくること
生きてゆくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら
誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
(194ページ)
〇筆者は、「定点観測」に関する言葉として、「追っかけ」を想起する。40年以上も前からはじまった追っかけの最初の対象は、伊藤隆二と大橋謙策である。伊藤については、神戸・福祉教育・研究会/伊藤隆二編『「福祉教育」の研究』(柏樹社、1975年12月)からである。大橋については、全社協の「(第2次)福祉教育研究委員会」(1982年9月~1984年3月)からである。そしていま、鳥居一頼を追っかけている。鳥居一頼著「詩『ボランティア拒否宣言』に学ぶ“自立”と歪んだボランティア観~覚醒と受容そして意識変革を促す教材としての価値を探る~」(『人間生活学研究』第22号、藤女子大学人間生活学部人間生活学科、2015年3月)がその端緒である。ここでいう「追っかけ」は、自分の実践や研究に「使える」理論や方法を取捨選択し、それらを統合するための「仕事」(ハンナ・アーレント:工作物を製作する職人的な行為)であり、プロセスである。付記しておきたい。