遺言を綴る

「こんちは。大家さんいらっしゃいましたか?」

「いたよ、上がっておいで」

「遠慮なくもう上がってきました」

「出迎えもしないでごめんなさいよ」

「いえいえこちらこそ、勝手にお邪魔しまして、すみません」

「今日はどうしたの?」

「特に用事ということではなしに、ご機嫌伺いといったところですかね」

「それはありがたいね」

「そう言われると、来た甲斐があるってもんで」

「いやね、何を書こうか思い浮かばなくて、困っていたところなんだ」

「えっ、なにか書き物なんぞされていたんですか?」

「なあにね、認知症の予防ってとこですか。その日その日の記(しるし)は日記でしょう。あいにく隠居生活じゃ、これと言って日々変わったことなんぞ滅多のない。三日坊主どころじゃない。1週間に何かひとつあればいいほうで、そうなるともう書く気は失せますね」

「それで、どうされたんですか?」

「いやね、子どもらが父親のことをあまりにもよくわからないって。どんな仕事をしてきたのか、何を考えて生きてきたのか、そもそも父親という存在自体が危ういって言い出しましてね」

「そりゃ深刻なことで」

「そこで、何か残してみるのも一興かと、冷やかし半分に書き始めた次第です」

「なんですか、その書き物は?」

「新しいスタイルの〈遺言〉」

「えっ、遺言!」

「そう、子どもらにはいまさら残すものもないけど、この歳になって父親が何を考え、どんなことに心動かして、世間の風にあたっていたのかぐらいは、伝えることができそうだと思いましてね。書き始めてかれこれ早いもんで1年にもなります」

「1年! 毎日ですか?」

「そう。書き始めはまずは1ヶ月続けよう。そこで続いたら欲が出て、百日めざそうってくじけそうな心をだましだまし、書くだけは書いてきました」

「日記なら書けないのに、なんで遺言なら書けるんですか、よくわかんないですね」

「自分でもよくわかっていない(笑う)。ただ、〈世の中を見る目は年とらず〉ということだけは確かなようです。死に際に、まだ世間のことが気にかかり、子どものことや世の中の動きに一家言じゃありませんが残しておこうと。子どもらには、それが父親を知る手がかりになるんじゃないかと思いましてね」

「過去の自分をさらけ出して自分史を書くことが流行っていますが、それとは少し趣旨が違う様子で、いまの自分の立ち位置から世の中を見て感じたことを書き留める。それが父親の生き様として子どもさんに感じてもらう。新しい遺言のスタイルというのは、父親として人として職業人として、生きてきた人生訓の集大成みたいなもんですか?」

「そんな重たいもんじゃないですよ(笑う)。もっと気楽に書いているだけ。でも当たらずといえども遠からず。人生訓といった大それたもんじゃありませんが、その時々の世の中の動きに敏感に反応して、言葉に託して考えをまとめてるだけのこと。そこには〈わたし〉というものの考え方や生き方が、書き表されていれば御の字です。生きた時代の証も見えてきます。どうしてそう考えているのかという背景も想像できます。
遺言でそんな楽しい想像を手渡すことができるって、愉快じゃありませんか(笑う)」

「先だって、親の財産の奪い合いする子らの様子を垣間見てきましたが、この遺言には深刻なイメージはありませんね。なんだか、謎解きのような、この人は一体どんな人生を生きてきたのかをもっと知りたくなるような、興味津々になります。あっしも読んでみたいもんです」

「いやいや、これは遺言だから、公開は後悔することになりますんで、ここはひとつ堪えてやってください」

「ついプライベートに立ち入りまして、あいすみません。でも大家さんがあっしの話を聞きながら、世間の道理や道筋を示されるんで大したもんだと、いつも感心しておりました。センスというかその物言いのポイントが鋭くて、なるほどとつい納得してしまいますが、それってこうして書くことで、世の中を歩いていらっしゃるんですね」

「いや、いいですね! 〈書くことで世の中を歩いている〉って。さすがまとめるのがお上手だ。とてもいいヒントをいただきました。こうしてあなたと話していると、いつも世の中の粗末に出来ないことを教えていただき、つい書き出してしまいます。ほんとにありがたい」

「いえいえ、お褒めにあずかり恐縮至極、勘弁してください。こんなあっしの話をいつも真剣に聞いてくださり、アドバイスをいただくばかりで、お役に立っているとはつい知らず、これからもたんと世の中の難題を持ち込むことにいたしましょう」

「いやいや、それこそご勘弁、楽隠居させてください」

「いえいえ、そうすれば筆を折ることにもなりかねません。書くことは尽きることはありませんから、その気力が落ちないように、あっしがお手伝いいたします。
新しい難儀持ち込みボランティア、気力増進ボランティア、筆折らせませんボランティアってのはどうですか?」

「押し売り同然ボランティアは、こちらから御免被ります」(二人笑う)

「あっしにはまだまだ縁のない遺言ですが、新しいスタイルを学びました。有難うございました。これでおいとまします」

「いやいや、こちらこそ助かりました。さっそく書き出してみましょう」

「それでは、ごめんください」

「あなたと話すと何かホッとしますね。お気を付けて」

〔2020年7月16日書き下ろし。ブログ「鳥居一頼の世語り」が1年を迎える。新しい遺言スタイルをこれからもお楽しみに!〕