障害は個性ではない―障がい者差別の解消に向けて―

『月刊福祉』12月号が届いた。2013年6月26日に公布された「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」について特集が組まれている。そのテーマは、「障害者差別解消法が意味するもの」である。天竜厚生会理事長の山本たつ子先生が「特集の視点」で次のように述べている。

障害者差別解消法第4条には、「国民は、(中略)障害を理由とする差別の解消に寄与するよう努めなければならない」と定められており、差別の解消の推進は、国民の責務としている。義務規定ではないものの、社会全体で取り組むべき性格のものである。法の規定や義務づけによって差別は解消されるものではなく、国民一人ひとりの理解と意識変革が必要である。(11ページ)

取り敢えずここでは、障がい者差別の真の解消には、「国民一人ひとりの理解と意識変革が必要である」という指摘に注目したい。障害者差別解消法には、その「理解」や「意識変革」を促すための具体的な条文規定はない。第15条で、「国及び地方公共団体は、障害を理由とする差別の解消について国民の関心と理解を深めるとともに、特に、障害を理由とする差別の解消を妨げている諸要因の解消を図るため、必要な啓発活動を行うものとする。」と定めている。しかし、この条文(「啓発活動」)も単なる修辞に過ぎなくなるとも限らない。2016年4月1日からの施行に向けて、今後、政府による「基本方針」の策定やガイドライン(対応要領、対応指針)の作成が行われる。「理解」や「意識変革」のための教育・啓発活動(福祉教育)についての熟議が、強く求められるところである。そして、それに基づく福祉教育(「市民福祉教育」)の現実的で具体的な推進方策の探究と提案・実施を期待したい。

障がい者差別に関して、福祉教育の実践場面ではいまだに次のようなことが語られる。

「Bさんがもっている障害は、Bさんの個性です。皆さんもそれぞれ、個性をもっています。障害をその人の個性と考えれば、障害のある人を特別視することはなくなります。」

ここで問われるのは、障害イコール個性なのか。それは耳触りの良い言葉ではあるが、その考え方が、障害や障害のある人に対する無知や無理解、誤解、偏見や差別などを生ぜしめているのではないか。場合によっては、障害のある人を無意味に美化することに繋がらないか。その人に特有な特徴や性格を個性というとすれば、それはその人の価値観・世界観に基づく、その人らしい行動や考え方、生き方に見出される。またそれは、その人の生い立ちや地域・生活環境によって異なる。障害の有無にかかわらず、誰もが、その人の生命(生きる力)や生活、人生によって個性を形成し、発揮する。しかも、その個性は多様であり、多様性のなかにこそその本質がある。これまでにありがちな抽象的で理念的な「障害個性論」を唱えている限り、福祉教育による「共生社会」の創造はかなわないのではないか。障害は、男性と女性、子どもと高齢者などと同様に、そうである人の身体的・精神的・社会的・政治的・文化的な「属性」(そのものが有する本質的な特徴・性質)の“ひとつ”に過ぎないと考えるべきではないか、等々である。

「Aさんは重度の障害をもちながらも、その障害を乗り越えてあんなにも頑張っている。障害のない、恵まれている皆さんが、障害のある人に対して思いやりの心で接するのは、人間として当然のことです。」

ここで問われるのは、障害はすべて、乗り越えなければならないものなのか。乗り越えなければならないバリア(障壁)をつくっているのは、一体誰か。「障害のない、恵まれている人」イコール「優等者」「強者」か。「障害のある、恵まれない人」イコール「劣等者」「弱者」か。優等者から劣等者、強者から弱者への思いやりは、一方通行の、上から下への思いやりではないのか。障害のある人が、「障がい者」としてただ生きる(存在する)ことの意味は何か。障害の有無にかかわらず、誰もが、いかによりよく生きる(実存する)かが問われるのではないか。それによってこそ、自尊心や自己肯定感、生きがいなどを持ち、保ち、高めることができるのではないか。ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンは空念仏となっていないか。こうした問題意識を深め、課題を追究し、その解決を図ることによって、真の「共生社会」への道が開かれるのではないか、等々である。