「偏見」を助長し、「逆差別」を生み出す福祉教育実践(第2報)―Y氏の雑感―

「雑感」(2014年2月10日)にアップした拙文――「『偏見』を助長し、『逆差別』を生み出す福祉教育実践」に関して、早速、熱心なブログ読者のY氏から次のようなメールをいただきました。それを、議論を深めることができればという思いから、「Y氏の雑感」としてアップすることにしました。

前段について‥‥‥
(1)聴講者が「重度の障がい者がその障害を乗り越えて‥‥」を前提にした「講演」として聴いたことは、否定できないことかもしれません。また、おっしゃる通り、その場限りの「人生の応援歌」であるかもしれません。しかし、少なからぬ人々に感動を与えたのではないかと思います。正直、自分の障害を話題(ネタ)にしているといえばそれまでですが、少なくとも私は、他の人に対してあれだけの「人生の応援歌」を熱唱することはできません。あのような「人生の応援歌」を期待し、それを待っている人(聴講者)がいるということを考える必要があると思います。要は、障害のあるなしではなく、その人がその人の生き様を、どんな内容で話ができるかが重要だと思います。
(2)私は、「障碍」(人が困難に直面していること)は、なにも「障がい者」だけにあるものではないと考えます。それぞれの人がそれぞれの障碍を抱えています。そして、「障碍とともに生きることが人生である」といえるかと思います。「障碍を乗り越える」、それは自分自身のことであっても、多くの人々の力を借りながら乗り越えていることは確かなことだと思います。このことは彼女も私も同じです。
(3)講師を務めた彼女の今の生き方は誰が決めたのでしょうか? 彼女自身であると考えます! もし、人によって決められたものであるなら、それは至極悲しいことです。彼女自身も解ったうえで、今の活動をしているのかもしれません。彼女に対し最も偏見や差別のない第三者は、ご両親ではないでしょうか? ご両親は、今の彼女の生き方をどう思っていらっしゃるのでしょうか?
 
中段について‥‥‥
(4)彼の「普段の、普通の暮らし」の話に関して、前段の彼女の話は、「普段の、普通の暮らし」の話ではないということでしょうか? 福祉教育実践は、「普段の、普通の暮らし」の話が必要不可欠であり、彼女のような華やかな話は必要ないということでしょうか? 確かに一部の華やかな話に惑わされて、「普段の、普通の暮らし」が隠れてしまってはいけないことだと考えます。
(5)彼女の様子と比較するために、あえて次の一文を入れられたのでしょうか?
「彼は、一杯のお茶をストローで啜(すす)り、車椅子に乗ってひとりで帰っていかれました。」

後段について‥‥‥
(6)先生が今回の「雑感」で真に伝えたいことは、「社会福祉協議会による福祉教育の取り組みが、障害や障がい者に対する『偏見』を助長し、『逆差別』を生み出してきたのではないか。また、障がい者間の偏見や差別の問題を見過ごしてきた、いやあえて避けてきたのではないか。」ということだと理解します。
これは、社会福祉協議会の福祉教育実践に関して、核心を突いたご指摘であり、重要な問題提起だと思います。
(7)「障害」「障がい者」「障がい者の暮らし」についての理解の仕方と、「共に『活きる』 」まちづくりにつながる具体的な実践方法などについて、ご一緒に考えたいと思います。
(8)私は、何も分からぬままにこの仕事に就いたとき、「障がい者のあいだにも偏見や差別がある!」ことに驚きと寂しさを強く感じました。しかし、その偏見や差別に抗する術(すべ)はありませんでした。障がい者に対する福祉教育も重要だと考えています。

筆者(阪野)から、若干のコメントを付しておきます。
(1)に関して‥‥‥
「人生の応援歌」を全否定するつもりは毛頭ありません。筆者も、彼女のような「人生の応援歌」を大熱唱することはできません。
自分の人生について熱く語ることができる人がいる反面、何らかの事情によって語れない人、あるいは語りたくない人がいることも事実です。そこに偏見や差別が存在するであろうことも、想像に難くないと思います。
「障害のあるなしではなく、その人がその人の生き様を、どんな内容で話ができるかが重要だと思います」。このご指摘には同感であり、異を唱えるものではありません。
「講演」は、「関心」と「感動」、そして何よりも「変化」と「行動」を呼び起こすものでありたいものです。
(2)に関して‥‥‥
「障碍(人が困難に直面していること)とともに生きることが人生である」。心に留めておきたいフレーズです。
(3)に関して‥‥‥
誤解を恐れずにいえば、「障害」や「障がい者」に対する偏見や差別のうちで最も強いものは、家族のそれかもしれません。
親子の「血の繋がり」や家族の「絆」という言葉(美辞麗句)のもとで、日常的に無自覚に偏見・差別や抑圧・強制などが行われ、障がい者本人の自立と自律(二つの「じりつ」)が妨げられていることも事実ではないでしょうか。
ここでは、「基調」講演を企画した福祉関係者の「福祉教育観」こそが、厳しく問われるべきだと考えます。
(4)に関して‥‥‥
彼女と彼の「普段の、普通の暮らし」の話に注目すべきです。それよりも、ここでとりわけ目を向けてほしいのは、「地域・地元で偏見や差別と闘っている」彼の暮らしと、障がい者自身による市民運動としての差別撤廃運動や福祉の(による)まちづくり運動についてです。そして、障害があるなしに関わらず、同じ思いや志(こころざし)を持つ者同士が「共闘」することです。さらには、それを通して「共生」の道を探求することです。
(5)に関して‥‥‥
その通りです。彼女の講演は、「福祉教育」の分科会で、「基調」講演として行われたものです。しかし、その内実は「記念」講演というべきものでした。当日は、複数の分科会が準備され、著名な方々が基調講演を行っていました。そういうなかで、何故か、花束が贈呈されたのは彼女だけでした。たかが花束ですが、筆者はこの点を看過することはできません。
(8)に関して‥‥‥
障がい者と地域住民等との連携・協働とともに、障がい者や障がい者団体等の相互の連携・協働も必要かつ重要です。また、障がい者の自立生活運動や自立支援運動の推進を図るための福祉教育のあり方を問う必要があるのではないでしょうか。
筆者は、以前から、福祉サービスの利用者とともに、福祉従事者に対する「市民福祉教育」の必要性と重要性について指摘してきました。その際の市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりの主体形成(市民性形成)を図るために行われる意図的な活動をいいます。