社会福祉の分野においては、支援(その主体は利用者)や援助、保護(その主体は援助・保護者)が、ある一面では、サービス利用者の家族をはじめ行政や専門家などによる干渉や介入、管理や支配、あるいは分離・分断・隔離などを促進してきた。管理や支配とはいわないまでも、干渉や介入を支援や援助として捉えてきた社会福祉においては、パターナリズムの問題が社会福祉そのものの価値や倫理を根源的に問う重要な課題となる。
福祉教育においてはこれまで、その対象はいわゆる「健常児」といわれる子どもや、地域活動やボランティア活動への関心と理解、参加を期待するいわゆる「一般」の大人であり、高齢者や障がい者などを客体として位置づけるなかでその推進が図られてきたといってよい。そこでは、高齢者や障がい者などの福祉サービス利用者やその家族の自律や自己決定を推進するための福祉教育が、軽視あるいは無視されてきたともいえる。福祉サービス利用者の人間の尊厳と権利が保障され、自律と自己決定が尊重されることによって、はじめてサービスの充実・高度化が促される。そのためにもサービス利用者やその家族に対する福祉教育が必要かつ重要となるのである。
ここで、次の点について留意しておきたい。福祉サービス利用者やその家族が提供される・されたそのサービスについて「苦情」(不平、不満)をいう場合、その処理・解決・対応がいかなるものであっても、またその再発防止策や未然防止策(リスクマネジメント)が採られたとしても、それが貴重な情報提供としてではなくあくまでも「苦情」として認識・理解される限り、サービスの質的向上や研究開発にはおのずと限界が生ずる。すなわちこれである。
さて、パターナリズム(paternalism)の原義は、pater=father=おやじ(父)が子どもに対して、「あなた(本人)のため」という根拠・理由によって介入・干渉あるいは支配することである。したがってそれは、一面では、支配関係が存在することによって成立するといえる。
パターナリズムは、「その人のため」という理由が必須の要素である。パターナリズムは、「その人のため」になされる行為である。介入・干渉には、直接的・間接的、強制的・非強制的、介入・干渉者の権限の有無、被介入・干渉者が同意する場合と拒否する場合、等々が考えられるが、パターナリズムでいう介入・干渉は、あくまでも介入・干渉される「その人のため」に、その人に関することについて、のそれである。
花岡明正(新潟工科大学)は、パターナリズムを「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」に区別して、次のように定義している。「干渉(あるいは介入)される本人に判断能力がない、あるいは十分な判断能力がない場合に、干渉(介入)することを『弱いパターナリズム』という。本人に十分な判断能力がある場合でも、干渉(介入)することを『強いパターナリズム』という」。この定義では、「判断能力」とそれに関わる情報提供や注意喚起などをめぐってどう考えるか、判断能力の有無を判断・確定する基準をどう設定するか、等々が問われることになる。「パターナリズムが正当化できるか否かの議論では、この区分の意味は大きい」。
花岡の言説から、「パターナリズムの種類」については、ひとまず次のように整理することもできる。(1)積極的パターナリズムと消極的パターナリズム: 被干渉・介入者の福祉等を増大させることを理由に行う干渉・介入。被干渉・介入者の福祉等の減少を阻止・防止するために行う干渉・介入。(2)強制的パターナリズムと非強制的パターナリズム: 被干渉・介入者の自由等への干渉・介入を強く行う干渉・介入。被干渉・介入者の自由等への干渉・介入=強制を表面的には行わない干渉・介入。(3)身体的・物質的パターナリズムと精神的・道徳的パターナリズム: 被干渉・介入者におよぶ害が身体的・物質的なもので、それに対する干渉・介入。被干渉・介入者におよぶ害が精神的・道徳的なもので、それに対する干渉・介入。(4)能動的パターナリズムと受動的パターナリズム: 被干渉・介入者の福祉等を保護するために被干渉・介入者に何らかの行為を「行わせる」ための干渉・介入。被干渉・介入者の福祉等を保護するために被干渉・介入者に何らかの行為を「止めさせる」ための干渉・介入、などがそれである(花岡明正「パターナリズムとは何か」澤登俊雄編著『現代社会とパターナリズム』ゆみる出版、1997年、34~40ページ)。
パターナリズムが一般的に不当なものとして非難される理由は、それが個人の自律や自己決定を侵害するからである。親が子どもの成長発達のために行う支援や保護はパターナリズムの典型である。教育の営みのなかにもパターナリズムの問題が存する。いや、こんにちの教育のある部分は、パターナリズムそのものによって成り立っており、教育におけるパターナリズムは至極当然のこととして受け入れられてもいる。学校現場は子どもが主体・主役の場であるはずが、実際には教師が主人公の場になっており、また子どもの声は親・保護者によって代弁されることがしばしばである。こうしたことは、福祉や介護の分野における営みにも該当する。
個人の自律は尊重されなければならない。しかし、自律能力の育成(生成)や衰退、あるいは欠落などのレベルと内容は個々人によって異なり、多様である。それゆえに本人が被るであろう不快や不利益、本人に生ずるであろう悲惨な事態を避けるためには、本人への干渉や介入が必要となる。自律の尊重には、常にこうした矛盾した、逆説的な(paradoxical)問題が生ずることになる。例えば、年金や介護保険の保険料を納入させていることはその一例である。すなわち、本人の将来の生活の安定のために年金を積み立てさせる。要介護状態になった時のことを想定して介護保険料を納入させるのである。
パターナリズムの問題の中核は、本人の意思を尊重しようとすれば、本人の利益(例えば、生命・健康・安全等)が害されるというディレンマが含まれている、ということである。このディレンマの解決が、パターナリズムの「正当化」「正当化基準」「正当化要件」の問題である。
個人(本人)の利益や便益は誰が決めるのか。行政や専門家などが「本人のため」、「本人にとって最善のもの」であるといっても、本人ではない他者が決めた場合、その利益や便益は本人のものではない。その利益や便益の中身(内容)がいかに公正に、専門的に決められたとしても、また利益や便益についての選択が正当なもの、合理的なものとして本人に提示されたとしても、それは「個人の尊重」「自律の尊重」にはつながらない。
こうしたことから、中村直美(熊本大学)がいうように、「自律の領域への干渉・介入は、干渉・介入を受ける個人の自律の実現・補完のためにのみ正当化され(得)る」のである。中村はいう。「自律を尊重するが故にパターナリズムを否認するのではなく、自律を尊重するが故に(ある種の)パターナリズム(よきパターナリズム)を是認することが可能となるのである。あしきパターナリズムは、まさに自律を尊重しないパターナリズムとして、正当化されない」。「自律を尊重することは、その人のその人らしさを尊重することすなわち個人の尊重の実質、その中核を構成するものと考えられるのである」。すなわち、個人の尊重とは、“自分らしく”“自分を”生きることをいう。個人の自律を実現・補完するためのパターナリズム(よきパターナリズム)は、この個人の尊重に通ずるのである。要するに、福祉や教育の世界に浸透・通用しやすいパターナリズムについての考え方は、「自律を尊重するパターナリズム」のそれである、といえよう(中村直美「ケア、正義、自律とパターナリズム」中山將・高橋隆雄編著『ケア論の射程』九州大学出版会、2001年、90~116ページ)。
なお、学識経験者といわれる人が、福祉の(による)まちづくりを進めるために当該地域に関心をもったり、注意を向けたり、心にかけたり、心配したりするという意味において、その地域や住民(一般住民、特定の個人)に関わる段階では通常いわれるパターナリズムの問題は生じない。その地域や住民に関わることによって、その地域や住民の自由や自律、自己決定が侵害されたり、侵害の危険がある、つまり何らかの介入や干渉がある場合にパターナリズムの問題が生ずる(「あしきパターナリズム」)。臨床性や臨地性の高い「実践的研究」を行う学識経験者においては、十分に留意すべき点のひとつである。あえて付言しておきたい。