自然と時間―山里の時空を“生き抜く力”を育む―

6月のある日曜日の午後、T市社協のA支所が主催する住民懇談会(「参加型住民懇談会」)に参加するため、高速道路を降りた後、渓流沿いに車を走らせた。カーナビに表示される道案内の赤い線は、だんだんと細くなっていった。沿道の看板や建物をはじめ、自転車やバイクでツーリングをする人、鮎釣りやバーベキューをする人、背中を丸めて道路の端を歩く一人の老女。そのすべてが山と緑の「自然」につつまれ、溶け込んでいた。橋を渡ると、会場の「ぬくもりの里」の看板が目に入った。「時間」通りの到着であった。
「人間も自然の一部である」「人間は自然によって生かされる」などといわれる。これらの言葉の含意を空間軸と時間軸のなかで読みとると、人間は自然にいだかれ、自然とともに生きる存在である。自然のなかの一時(いっとき)を生き、担うことによって、自分の生きていること(「いのち」)が引き継がれていく、ということではないか。人間は、自然と社会における現実(現象)と、時間の継続性のなかに生き、生かされる存在なのであろう。「自然」と「時間」に関して、こんなことを考えながらのドライブであった。
A地区は、2005年4月にT市に編入合併した地区である。人口は約3,000人、高齢化率は42.0%と市内で一番高く、今後も高齢化と人口減少が続く。T市の人口は約42万人、高齢化率は19.6%である(2014年4月現在)。
7月に入って、農業協同組合新聞の電子版に掲載された、「ともに生きる社会 再創造を」と題する哲学者・内山節(うちやまたかし)の一文が目に留まった。多少長くなるが、以下に紹介したい。

東日本大震災以降の日本を見ると、そこにはふたつの動きが存在していることがわかる。ひとつは自分たちのコミュニティを再創造しながら、ともに生きる社会をつくりだしていこうとする動きであり、もうひとつは以前の社会に早く戻そうとする動きである。後者からは原発の再稼働やアベノミクスなどの動きがでてくる。このふたつの動きはこの大震災をきっかけにして、日本の社会を新しく再創造するのか、それとも元に戻すのかをめぐる対立である。そしてこのような対立が生まれる背景には、今日の日本の現実があった。
現在の日本が失っている最大の問題点は、ともに生きる社会の喪失であるといってもよい。ともに生きる社会をつくり直そうとする今日の動きは、この現実を直視する人々のなかから生まれたものである。そして東日本大震災が、この動きを加速させた。ともに生きる社会をつくろうとするとき、その基盤は地域である。今日の日本の課題は、市場原理を強化することではない。課題はともに生きる経済や社会をつくることにあり、その基盤としての地域を活力あるものにすることの方である。そのためには、都市と農村との、生産者と購入者との新しい連帯のかたちを模索することが必要なのである。いま大事なことは、アベノミクスに虚構性と危険性をみている人たちとともに、連帯感にあふれた社会を創造することである。それは都市の人々が農民や農村を守り、農民たちが都市の人々の食文化を守っていけるような社会である(一部中略)。

今日、日本の農民や農村は危機的状況にある。とりわけ、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加によって、モノだけでなくサービスや投資などの取引の自由化(市場原理の強化)が進み、日本経済の破綻を早め、「日本の社会の瓦解を促進する」ことが危惧されている。こうした現実を「直視」すると、今日の日本の課題は「ともに生きる経済や社会をつくることであり、その基盤としての地域を活力あるものにすること」である。これが内山の言説の要点である。
こうした経済の動向とともに、政治の世界では、右傾化とそれによる「上から」のナショナリズムの高まりが進み、憲法が提示する立憲主義と民主主義、そして平和主義が「危ない」状況にある。時間の流れ方が戦前のそれに戻っていく。内山がいう「以前の社会に戻そうとする動き」に関して、広く、深く認識することが求められるところである。なお、立憲主義とは、周知の通り、憲法は国家権力に縛りをかけるもの、国民の自由と権利を保障するために憲法によって政治権力の乱用を防止する、という考え方である。

内山といえば、「時間はどのようなものとして存在しているのか」を解こうとした、『時間についての十二章』(岩波書店、1993年)という著書を思い出す。内山は、「山里に暮らす人々は、縦軸の時間と横軸の時間という二つの時間のなかを生きている」(20ページ)という。

縦軸の時間は、過去、現在、未来が縦の線で結ばれている。それは西暦とか年号であらわすことができるような過ぎゆく時間であり、けっして戻ってくることのない不可逆的な時間である(20ページ)。
横軸の時間は、春が訪れたとき、村人は春が戻ってきたと感じながら、それを迎え入れる。春は円を描くように一度村人の前から姿を消して、一年の時間が過ぎ去ったのではなく、去年と同じ春が帰ってきた(くる:阪野)。時間は円環の回転運動をしている。このような時間存在をいう(22ページ、一部中略)。

要するに、「縦軸の時間」とは、誰にでも同じ速さで、過去→現在→未来と直線的で、客観的に流れる“時計の時間”をいう。「横軸の時間」とは、人間の営み=主体(自己)と自然や季節との関わりのなかで、回帰し、関係的に存在する時間をいう。この二つの時間のうち、商品経済が進展・浸透し、過疎化と高齢化が進んだ今日では、山村においても「縦軸の時間」が村人を強く支配している。これが、内山が説く「時間の存在論」のポイントのひとつである。また、内山は次のようにいう。

山里の世界でも、(中略)縦軸の時間と横軸の時間が矛盾しながらも全体で山里の時間を形成し、この二つの時間は使い分けられていた。自然と結びついた労働や暮らしのなかでは、あるいは自然との共時的な場を形成するなかでは、横軸の時間が支配的な時間軸になり、縦軸の時間が支配する社会との結びつきのなかでは縦軸の時間に依存していた。そして今日ではこの両者の矛盾が対立的なほどに高まったのである(32ページ)。

ところで、冒頭に記したA地区の住民懇談会では、「自然とともに存在する時間」(内山)の穏やかな流れのなかで、3回目の懇談会として議論が重ねられた。そして、それを踏まえて、住民福祉活動の理念や基本的な考え方に関するその地区ならではのキャッチフレーズが作成された。「笑顔と支え合いのまち、ぬくといA」がそれである。住民の思いは、「笑顔」は「健康」と「生きがい」、「支え合い」は「繋がり」と「集まり」を前提にし、住民相互の「支え合いなくしてこの地区は成り立たない」、というものである。都市部の他地区でのキャッチフレーズには、「豊かな自然」「自然が残る」などの文言が入る。その「自然」は二次的・人工的なものである。A地区には天然に近い自然が存在するが、「自然」という文言は住民からあまり出ない。「支え合い」への思いを強くもたざるを得ない山里(山間部)の厳しさである。それゆえに、そこには温かさ(「ぬくとい」)がある。
参加型住民懇談会は、住民にとって、この厳しさを再認識するとともに今後のまちづくりの方向性を展望し、この山里の時空を生き抜くための「共働」の場である。それはまた、“生き抜く力”を育む教育現場のひとつでもある。自主的・自律的で、計画的・継続的な開催が求められる。