〇筆者(阪野)の手もとに、志賀信夫著『貧困理論入門―連帯による自由の平等―』(堀之内出版、2022年5月。以下[1])という本がある。志賀にあっては、貧困とは「人間生活において何かが剥奪(はくだつ)されている状態」であり、「あってはならない生活状態」(8ページ)のことをいう。その貧困を論じることと、貧困問題を論じることとは異なる。前者は、「貧困とは何か」や「貧困対策の理論的核となる原理」について論じることであり、後者は、「現象した貧困」を論じることである。志賀は前者に焦点化したものを「貧困理論」と呼び、[1]のテーマとする(7ページ)。
〇[1]ではまず、「貧困」や「階級」などの諸概念について整理する。次いで、貧困理論の歴史的変遷について整理・検討する。そのうえで、現代日本の貧困問題の検討・考察を通じて、「階級論的貧困理論」を練り上げる。
〇志賀によると、貧困を理解する方法には「階層論」的な視点と「階級論」的な視点の2つがある。その際の「階層」とは、「なんらかの特徴にそくして人びとを区分し層化したもの」(27ページ)である。この立場においては、「貧困を余儀なくされている階層の人びとを事後的にどのように階層移動させるか」(28ページ)ということが課題となる。それに対して「階級」とは、「何らかの地位身分の違いを指示する概念」(28ページ)である。それは、資本主義社会においては「資本-賃労働」という地位身分、すなわち「資本家-労働者」という階級を問うことになる。この立場においては、「貧困をそもそも生じさせる社会関係、つまり『資本-賃労働関係』そのものの変革や資本の振る舞いに対する規制」(28ページ)が課題となる。そして志賀はいう。「前者は、いま現在起きている現実問題への対応であり、後者は、根本原因への介入である。この両者はどちらか一方だけが重要であるというのではなく、その両方が重要である」(28~29ページ)。
〇志賀によると、貧困と非貧困を区別する境界は歴史的に変化し、貧困の概念は歴史的に拡大してきた。それにともなって貧困理論は、19世紀末から20世紀初頭の「絶対的貧困理論」(チャールズ・ブース、シーボーム・ラウントリー)から、20世紀半ばの「相対的貧困理論」(ピーター・タウンゼント)、そしてEUにおける現代(1980年代以降)の「社会的排除理論」へと発展してきた。絶対的貧困理論においては、貧困は「『動物的生存の維持』さえもできないような生活状態」を指す。相対的貧困理論においては、貧困は「『一般的な生活様式(style of living)の維持』ができないような生活状態」を指す。それは、時代と社会によって変化する。現代の貧困論の社会的排除理論においては、貧困を「『幸福(=well-being)を追求できないような自由の欠如、権利の不全』という視点」から理解しようとする(32ページ)。すなわち、そこでは、幸福を追求するための「自由の平等」が社会的目標とされ、それを如何に拡大するかが重要となる。また、「社会的排除」(Social Exclusion)の対概念は「社会的包摂」(Social Inclusion)であるが、それは、「自由」と「権利」が実質的に保障されている状態をいう。それを可能にするのは「自己決定」に基づく「社会参加」である(118ページ)。
〇要するに、志賀にあっては、現代の貧困(「新しい貧困」)は、「自由・権利」に基づく「自己決定型社会参加」の阻害の問題を含んでいる。従って、現在の貧困対策は、個人の「自由・権利」が実質的に保障されているか否かが問われることになる。ただし、こうした貧困概念の拡大は、従来の絶対的貧困や相対的貧困が一掃されたことを意味するものではない。日本においては、「いまだに餓死事件が後を絶たないし、低所得や所得の喪失は貧困問題の中心であり続けている」ことに留意する必要がある(119ページ)。
〇志賀は、以上のような現代の貧困に関する「社会的排除理論」を提示したうえで、貧困を解消するための戦略について論じる。その中心は、「相対的過剰人口対策」と「脱商品化」である。
〇「相対的過剰人口」は、「資本-賃労働関係」のなかで、生産技術の進歩・向上等によって構造的・必然的に生み出される労働者人口(失業者)をいう。それは、景気循環によって排出される労働者(流動的過剰人口)や、都市労働者の供給源である農村に潜在している過剰人口(潜在的過剰人口)、就業が不安定な日雇い労働者(停滞的過剰人口)などの形態をとって現れる。この「相対的過剰人口」は、「失業者個人のあり方に注目し、行動変容や認識の変容によって就労を促す『失業者』対策」(200ページ)によって解消することはできない。そこで必要とされるのは、「資本の振る舞いの規制や『資本-賃労働』という社会関係への介入・変革を促す『相対的過剰人口』対策」である。そして志賀はいう。社会変革をめざす「相対的過剰人口」対策と、個人の変化をめざす「失業者」対策はいずれも重要である。「前者だけに終始するならば、社会変革が実現されるまで多くの人びとが貧困状態を脱することができないし、後者だけに終始するならば、貧困は自己責任の証左であるという主張を裏付けるものとして機能してしまう」(200ページ)。
〇「脱商品化」は、保育、教育、医療、介護、住宅などを低額化、無償化、普遍化することをいう。さらに「社会環境の整備に努め、個人の自己決定に基づく要求があれば、能力に対する支援や特性への配慮をおこなっていくというものである」(174ページ)。これを志賀は「ベーシックサービス(BS)」と呼ぶ(207ページ)。そしてこれは、「自由の平等」の具体化と権利の実質的保障の実現を促すことになる(175ページ)。こうした脱商品化は、貨幣がなくてもそれらの商品(BS化された共同所有物)を利用できるようになり、「労働力商品を常に売らなければ生きていけないという状態から徐々に抜け出し、労働力の脱商品化」を可能にする(208ページ)。そして志賀はいう。「BS化されていく領域を増やしていくことができれば、その過程で資本主義的生産様式や『資本-賃労働関係』は廃絶されていき、貧困根絶の道の先に、資本主義社会とは異なる包摂型社会が実現するかも知れない」(212ページ約)。
〇以上が、「資本-賃労働関係」の廃絶の必要性を説く「階級論」的視点に立って、「社会的排除理論」を手掛かりに立論する志賀の「貧困理論」、その概要である。ここで、いささか長い引用であり、重複するところもあるが、志賀の言説の理解を深めるために、その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
「社会的排除」とは「市民的生存」が否定されたり「自己決定型社会参加」が阻害されている状態をいう
「自己決定」できるためには、選択可能な選択肢の束が必要である。この選択肢の束とは、「自由」の広さのことである。社会全体で保障しようと約束し、法としてルール化した「自由」の範囲が「権利」であり、この「権利」を持つ人びとのことを(「市民(citizen)」と呼ぶ。(116ページ)/貧困概念と自己決定概念が関連付けられながら議論され始めているということは、貧困概念に「自由」と「権利」の要素が付加されつつあるということである。つまり、人びとに保障されるべき生存のあり方の歴史的変遷は、「動物的生存」(絶対的貧困理論)⇒「共同体的生存」(相対的貧困理論)⇒「市民的生存」(社会的排除理論)と整理できる。また、貧困対策のなかで保障されるべき社会参加のありかたは、(家父長制的共同体のメンバーシップに基づく(105~106ページ))「役割遂行型社会参加」⇒(シティズンシップの諸権利に基づく(106ページ))「自己決定型社会参加」と変化してきていると整理できる。1980年代以降、何らかの事情により「市民的生存」が否定されていたり、「自己決定型社会参加」が阻害されている場合、これを「社会的排除(Social Exclusion)」の状態にあると表現するようになってきている。(116~117ページ)
現代の貧困理論や貧困対策には労働者階級の「階級意識」や「連帯」に基づく「階級的視点」が必要である
「階級はなくなった」「階級など古い」という言説は、連帯の不可能性を大きくする。日本では、社会の人びとが総中流化したという言説が人口に膾炙(かいしゃ。広く知れ渡ること)し、彼ら・彼女らに内面化させられ、労働者階級としての連帯の意義が不透明化させられている。そのため、労働生活を含む生活の保障が弱体化し、代わって分断による生活と労働の管理が前面化傾向にある。階級的な緊張関係ではなく、「国民一丸となって」というスローガンは日本でなじみのものとなっている。(194ページ)/当然のことだが、階級的視点を持った貧困研究や反貧困の社会運動は、拙速に「資本-賃労働関係」の廃絶を強調するものではない。「資本-賃労働関係」が継続していても、シティズンシップの諸権利の実質化は併存することが可能である。また、これまでの歴史的過程のなかで人びとの自由と権利の拡大は達成されてきており、その連続性を無視するなどということもありえない。逆に、「資本-賃労働関係」と自由と権利の併存があるからといって、それが階級的視点の不必要性を意味するものでもない。ここでは、貧困を根絶する連帯のための必要条件が階級的視点であるといっているのである。(195ページ)
貧困・差別を根絶するためには「脱商品化」と「資本-賃労働関係」の廃絶を進めることが必要となる
保育、教育等をはじめとするBS化は、権利の実質的保障にもつながる。BS化されれば、貨幣がない場合でも、保育サービスや教育をうけることができる可能性が高まるからである。教育が脱商品化されれば、教育への権利が実質的に保障される道がひらかれる。食への権利も食料が脱商品化されれば実質的に保障される可能性が高まるだろう。(210ページ)/ただ、課題もある。BSのような共同所有は、社会の人びとの共同的な経営を原則としなければならない。そしてその共同的な経営は、差別がある場合、うまくいかないことが予測されるのだ。経営の場に差別が持ち込まれ、権力勾配(こうばい)が生じてしまうと私的所有に傾いたり汚職につながるからである。汚職は共同経営に対する信頼を動揺させ、私的所有の台頭は共同経営を突き崩す直接の原因となる。私的所有は、差別と貧困の上でこそ花開く。別の見方をすれば、資本主義的生産様式や「資本-賃労働関係」を維持したままで貧困・差別の完全な根絶は不可能だということである。(210~211ページ)
〇筆者の手もとに、白井聡著『今を生きる思想 マルクス―生を呑み込む資本主義帯―』(講談社現代新書、2023年2月。以下[2])という本がある。[2]において白井は、「われわれの意識や感性、感覚、価値観、思考といった、普通われわれ一人一人が『自分のもの』であると信じて疑わないもののなかに、資本主義のロジックがどのように入り込んでいるのか、(中略)われわれ自身のなかで資本主義がどのように深化しているのか、それをマルクスの理論を通じて検証する」(6~7ページ)。
〇先の[1]で志賀は、「社会参加」の概念や論理に基づいて、「社会的排除」の対概念である「社会的包摂」について論じる。しかしそれは、「社会的排除」の議論に比して必ずしも十分なものではない。そこでここでは、きわめて恣意的であることを承知のうえで、[2]で白井が説く「社会的包摂」についてみておくことにする(抜き書きと要約)。
〇白井はいう。「マルクスの言う『包摂』は、社会学などでよく使われる『包摂』とは、ニュアンスがまったく異なる。後者の『包摂』は、『社会的包摂』などといった言い回しで使われ、どちらかと言うと肯定的な意味合いで使われる。社会的に周縁化された存在や、逸脱したあるいは逸脱しかかった存在を、社会がその一員として受け入れ、適切な居場所を与えることを、社会学的な意味での『包摂』というのである。/これに対して、マルクスの言う『包摂』には、何かを包み込み、徐々に圧迫し、ついには窒息させるという意味合いを読み込むことができる。つまり、否定的なイメージを喚起する。/では、何が何を包み込むのか。端的に言って、資本主義のシステムがわれわれ人間の全存在を含むすべて、自然環境を含む全地球を包み込む」(100ページ)のである。
〇資本主義的生産様式において労働者は、生産手段(物を生産するための原料や工場・機械など)を持っていないために、自らの労働力(物を生産するための人間の精神的・肉体的能力)を商品として資本家に売り、資本家の指揮・監督のもとで労働することになる。これは、資本が労働を「形式的に包摂」(形式的包摂)することを意味する。しかもその資本は、剰余価値(労働者の労働力の価値(賃金)を超えて生み出される価値。利潤)を生産するために、生産力の向上を常に追求する。そこで、労働者はそのプロセスに巻き込まれ、生産様式の絶えざる変化に適応することを強いられる。これは、資本による労働の「実質的包摂」を意味する(103、104ページ)。
〇そして白井はいう。本来、「仲間」や「協働」「共感」「連帯」「団結」といったものは自主的につくり出すべきものであり、仕事の「やりがい」も自ら発見すべきものである(119ページ)。しかし、新自由主義の現代において、「19世紀的な蓄積様式に回帰した資本」(116ページ)は、「実質的包摂」を高度化し、労働者を純然たる「労働力商品の所有者」へと還元させている。そういうなかで資本は、労働者のあいだで自然発生しない「協働」「共感」「連帯」「団結」や「やりがい」などの情動を商品として売るに至る。これらの情動商品の代金は、労働者の賃金から天引きされており、低賃金はその結果である(118~119ページ)。こうして、「われわれの情動、感情生活までもが商品化され、買うべき対象となった後、まだ包摂されていないものとして残っているものは何もない」(120ページ)。これが白井がいう「新自由主義段階の包摂」である。留意しておきたい。
〇ここで、「資本が人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており、それによって運動している。その意味で、人類にとって資本は他者である」(96ページ)というマルクスの「資本の他者性」の概念が思い出される。併せて筆者は、(1)労働の生産物からの疎外、(2)労働行為における疎外、(3)類的存在(人間は生産共同体において他者とともに共同生活を営む社会的存在である)からの疎外、そして(4)人間からの人間疎外(自己疎外)、というマルクスの「疎外論」を思い出す(マルクス著、城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年3月)。
〇雇用破壊が進む現代社会について「格差社会」「分断社会」「無縁社会」「管理社会」、あるいは「貧困強制社会」( ※)などと言われ、「資本主義の危機」が叫ばれる。その基底をなすのは紛(まぎ)れもなく「階級社会」である。そこから、それらの言葉が表す諸現象について議論したり、「共生社会」を展望する際には、「階級論的視点」が必要かつ重要となる。本稿で言いたいことのひとつである。例によって唐突ながら、それは「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究にも通底する。
※藤田和恵著『不寛容の時代 ボクらは「貧困強制社会」を生きている』 くんぷる、2021年8月。
補遺
図1は、「資本-賃労働関係」に関し、賃労働の再生産過程の範式を示したものである。参考に供しておくことにする。
資本の循環過程におけるGは貨幣、Wは商品、Pmは生産手段、Aは労働力、Pは生産過程、W´は剰余価値によって増加した商品、G´は剰余価値によって増加した貨幣、をそれぞれ表す。賃労働の再生産過程におけるA(W)は労働力商品、APは労働過程、(G)‥‥AP‥‥Gは賃金の後払い、をそれぞれ表す。――は資本および労働力の流通過程、‥‥は商品および労働力の移動、==は資本の下での労働者の労働、をそれぞれ表す。
労働者は労働市場において、労働力を商品として販売するが、その販売に失敗すると失業という労働問題を抱える。労働過程(資本にとっては生産過程)においては、低賃金、長時間労働、劣悪な労働環境などの労働問題が生じる。消費生活過程では、資本から独立し、労働者の消費生活が世帯内で私的・個別に営まれる。そこでは、労働問題の具体的結果として、また労働者やその世帯内の個人的な理由によって生活上の諸困難(生活問題)が生じる。未来の労働力である子どもの生育にも支障をきたすことになる。一方、資本は、労働力の再生産の必要から、あらゆる手段を駆使して労働者の消費生活に介入する。
なお、高齢者や障がい者は、資本にとって衰退した労働力あるいは欠損した労働力であるがゆえに、労働市場・労働過程・消費生活過程において、健常な労働者に比してより厳しい状況に置かれることになる。