阪野 貢/追補/「聞くこと」「話すこと」を考える:「ただ聞く」ことをめぐって ―尹雄大著『聞くこと、話すこと。』のワンポイントメモ―

言葉が信じられない時代であるのは間違いない。それでも私とあなたのあいだにある言葉を愛(いとお)しく思う。わかり合うためではなく、わかりあえなさが明らかになるとき、かけがえのない存在としてここにいることがわかるからだ。(下記[1]258ページ)

〇本稿は、<雑感>(183)「考えること」を考える:「哲学対話」をめぐって―梶谷真司著『考えるとはどういうことか』のワンポイントメモ―/2023年8月8日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、インタビュアー・作家の尹雄大(ユン・ウンデ)の『聞くこと、話すこと。―人が本当のことを口にするとき―』(大和書房、2023年5月。以下[1])という本がある。[1]は、濱口竜介(映画監督)や上間陽子(琉球大学教授)、坂口恭平(建築家)、そして「ユマニチュード」という認知症高齢者のためのケアの技法を開発したイヴ・ジネストらとの対話を通して、「聞くこと」、「話すこと」とはどういう体験なのか、人間にとって「言葉」とは何か、といったことをめぐる評論である。
〇ユマニチュード(Humanitude)とは、相手のことを大切に思っていることを伝えるための「見る・話す・触れる・立つ」(「ケアの4つの柱」)の技術を通して、人間らしさ(ユマニチュード)を尊重するケアの技法をいう。
〇[1]のキーワードのひとつに、「ただ聞く」がある。それは、上記の本ブログ<雑感>(183)で述べた、相手の話を聞きそれを「受け止める」ことが大切である、という指摘にも通じる。その点をめぐって、[1]における尹の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

余計な聞き方をせず「ただ聞く」という態度によってこそ信頼関係が生まれる
互いが「あなたを知りたい」というあまりの率直さに触れたとき、私が私であることを許される、認められる。そこに「私自身であっていいのだ」という安心を覚える。確実な約束を与えられるからそれが信じられるのではなく、ただ許され、認められることに自らを懸けようとする。それが信頼ではないか。/そうなると「あなたを知りたい」という問いかけで重要なのは「何を聞くか」でも、それによって話された言葉の理解でもない。この場にいる互いのあり方にただ注視する態度だけが必要だ。/そのとき聞くことは意味の理解につながらないだろう。というより、つなげる必要がない。日常においては、聞くことを理解にすぐさま結びつけてしまう。ともかくわかろうとするのもまた意識的な行為のなせる業(わざ)だ。そこからは信頼して言葉を紡げる関係性は生まれにくい。(27~28ページ)

「ただ聞く」とはその人の「今ここ」の感情を分かろうとする試みである
たいていの場合、人は相手の話を「その人の話」としてではなく、「自分の話」として聞きがちだ。自分の理解できる範囲の出来事を相手に見出しては「わかる」と言い、共感できないことはただちに「わからない」と判断する。わからなさを前にした途端、実際には口にしなくても、心の中で相手の話に対して「つまり・結局・要するに」を持ち出して解釈することに忙しい。その後に続くのは「だから良い・悪い」のジャッジだ。(43ページ)/「完全に聞く」(「ただ聞く」)とは相手を完璧に理解することではない。わかろうと試みる状態のことだ。/そういう時間と空間であるためには、互いの協力が必要になる。どのような関係性がそれを可能にするかといえば、少なくとも話し手がその人のすべてで「今ここ」において話すという態度が必要になる。(45ページ)

相手の話を「ただ聞く」ためには自分の判断基準や価値観を手放す必要がある
相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジ(判断)している。/私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。相手が良いことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。そうではない。自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。(233ページ)/私たちのジャッジの基準は、生まれ育った環境、時代、社会の中で選ばざるを得なかったというような、極めて個人的な事情に基づいている。生き延びるためにそれを身につけてきた経緯がある。(235ページ)/他人の話を聞く前に、自身のジャッジを形成するに至ったストーリーを知り、その顛末を最後まで聞きとり、それを手放さない限り、私たちは相手の話を聞くことができない。本当に尊重することができない。(237ページ)

生きている事実について「ただ聞く」ことによって「聞き取られない声」を聞かないといけない
(ドメスティック・バイオレンス(DV)や性暴力などの過酷な境遇を生きている少女など)「本当に話せない」という我が身を引き裂くような、晴れることのない思いが胸奥(きょうおう)に腹に全身にわだかまったまま生きている人が現にいる。そんな切迫した思いが、コミュニケーションにおいて推奨されている通りの共感や肯定を示すことで太刀打(たちう)ちできるはずもない。(93ページ)/「本当にのたうち回るような経験というのをした人は自分の体験を表す言葉を持たない」(上間陽子)。(94ページ)/身に刻まれた痛みや悲しみを抑えることも晴らすこともかなわない。引き裂かれた感情を抱え、それでも正気を保たないことには生きていけない。摩滅しそうになりながら生きてきた人の言葉が、穏当に理解できるようなものになるわけがない。身が軋(きし)むような生き方を強いられてきたのであれば、ほつれた語り口(まとまりを欠いた話し方:筆者)で言わざるを得ない必然性がある。(106ページ)/聞き取られない声がある。だから聞かないといけない。何を聞くのかではなく、ただ聞く。子供らにより良い生き方を諭す前にすべきなのは、すでに生きている事実について耳を傾けることではないか。(111ページ)

〇ここで、2つの文章を引いておきたい。ひとつは、「話をしている最中に概念的な理解をしようとして頭で考えてしまうということは、相手の話から常に遅れている。(中略)そのときその場にいながらそこにおらず、想定の中にまどろむことを自分に許している。端的に言えば、話を聞いていない」(21ページ)というそれである。意識的に集中して相手の話を聞き、いろいろ考えようとするとき、相手の「話を聞いていない」のである。対話における「聞くこと」「話すこと」と「考えること」(自分が設定した「問い」に自分なりに「答え」る営み)の難しさがここにある。体験的に納得できるところでもあり、留意しておきたい。
〇いまひとつは、「共感は理解への唯一の道ではない」(226ページ)。「共感は、相手の話を自分の話として聞いている。けれども本当に話を聞こうと思うのならば、他者の声を尊重するならば、相手の話を相手の話として聞かなくてはならない。あなたという存在は私の共感の及ばないところで生きている」(228ページ)というそれである。「ただ聞く」のは難しい。それは、対話の知恵や技法を問うものではなく、「今ここ」にいる相手を、かけがえのない存在・尊厳ある存在として真に「受け止める」ことによって可能になるのである。

(人の話を聞くにあたり)聞き慣れない表現に戸惑ったときに求めるべきは、戸惑いをちゃんと味わうことではないか。それもせずに正当性という正解に向かう道筋を選ぶ発想こそが、相手の話の聞けなさにつながっている気がする。(上記[1]194ページ)