阪野 貢/地域・社会変革は自律教育活動や運動を伴う長期の過程である ―デヴィッド・ハーヴェイ著、大屋定晴監訳『反資本主義』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、デヴィッド・ハーヴェイ著、大屋定晴監訳『反資本主義―新自由主義の危機から〈真の自由〉へ―』(作品社、2023年12月。以下[1])という本がある。[1]は、日本でも話題になった旧著『新自由主義―その歴史的展開と現在―』(作品社、2007年2月)の続編・新版でもある。
〇[1]の出版意図は、「社会主義への関心が高まるさなかにあって、教育機関での授業に採用されるとともに、労働者階級と社会主義運動での民衆教育における教材をも提供すること」(12ページ)にある。そこでハーヴェイは、(1)資本主義体制の問題点、(2)資本主義体制の新自由主義国家化の現局面、(3)社会主義的代替案への移行の可能性、について論究する(316ページ)。要するに、マルクスの経済理論を通して現代資本主義の危機を分析し、社会主義的代替案を探求するのである。
〇本稿では、[1]のうちから、ハーヴェイの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

新自由主義に決定的な問題があるのではなく根本の問題は資本主義そのものにある
私見では、新自由主義とは一貫して、一つの階級プロジェクトと定義される。少数のエリート階級に、より多くの富と権力とを蓄積させる一つのプロジェクトなのだ。(49ページ)/資本主義の新自由主義的形態には深刻な問題があり、その是正は必要である。(35ページ)/最近では、自分たちが効率性と収益性を重視しすぎており、自らの活動の社会的、環境的影響といった問題に取り組むことが今や重要なのだと一部の企業集団が認めている。(34ページ)/だが、新自由主義が決定的問題だということには私は賛同しかねる。まず世界には、新自由主義的資本主義が支配的になっていないうえに、そこでの経済モデルが大衆のためにもなっていない地域がいくつもある。つまり問題は資本主義なのであり、その特殊な新自由主義的モデルではない。(35ページ)

革命とはひとつの出来事ではなく長期の過程である
資本主義体制には多くの矛盾があり、あるものは他のものよりも顕著だ。明らかな優先事項は、信じがたいほどの階級的、社会的不平等にあり、環境条件の崩壊にある。しかしその一方で「大きすぎて潰(つぶ)せないが、巨大すぎて存続できない」という矛盾が生じる。この基本的矛盾に挑まないかぎり、社会的不平等にも環境劣化問題にも対処できない。(43ページ)/資本主義が一夜にして破壊される革命的打倒が起こりうる時代が、かつてはあったと思われるにしても、今日にあっては、この種の夢想は不可能である。(45ページ)/(現在の資本主義体制の諸矛盾を解決するにあっては)既存の社会に潜むものを明らかにし、社会主義的代替案(オルタナティブ)への平和的移行を見つけだすことが課題なのだ。革命とは長期の過程であって、一つの出来事ではないのである。(46ページ)

浸透している複合的疎外こそ資本主義体制の変革が求められる前提である
労働過程からの疎外(注①)、現代的消費様式(注②)との関連で蔓延した疎外、政治過程と関わる疎外、伝統的に物事の対処を支援し人生の意味を与えてくれた多くの仕組みに関わる疎外――これらの疎外を包含した状況が生じている。これらがすべて組み合わさると恐ろしいことになる。疎外された人々がただそこに甘んじるほかなく、不満を抱え、受動的攻撃状態(注③)で集団形成から引きこもり、何もかも無意味に思えるがゆえに何事にも無関心になるとすれば、これは危険な事態だ。(254ページ)/(また)社会的不平等が急拡大し、負債懲役(負債を払うまで職を離れられない状態)の深刻化とともに賃金奴隷制(注④)も拡大し、環境的諸条件も急速に悪化している。薄っぺらな代償的消費様式と社会的包摂についての空虚な身振りとで人々は持ちこたえようとするが、この可能性も急激に消えつつある。不平不満は多種多様だ。疎外という概念が、政治的対話のなかで復活させられなければならない。この概念を抜きにして現在、政治の世界で進行していることは理解できないであろう。基本的に、すべての人々が疎外状況に陥っている。(255ページ)/疎外の諸構造を徹底的に見極めないことには、現在の困難から脱出することは不可能であろう。(256ページ)


① マルクスは、『経済学・哲学草稿』で(1)労働の生産物からの疎外、(2)労働行為における疎外、(3)類的存在(人間は生産共同体において他者とともに共同生活を営む社会的存在である)からの疎外、そして(4)人間からの人間疎外(自己疎外)、を説いた。
② 「労働過程からの疎外」の代償として、労働過程から離れた消費生活の豊かさを手にできる消費様式(代償的消費様式)が生み出されるが、その実は消費生活様式が資本によって誘導・強制され、消費活動における人々の自律性が略奪されている。
③ 怒りなどの否定的感情を直接表わさず、消極的かつ否定的な態度・行動で相手に反抗・攻撃する状態のこと(255ページ)。
④ 労働力の所有者である労働者は、生活を維持するために、いずれかの資本家に労働力を商品として売らなければならないという強制によって資本家階級につなぎとめられている。このような状態をマルクスは、『資本論』で「賃金奴隷制」と名づけた。

社会主義的代替案への移行の可能性は4つの矛盾する事態に見出される
ハーヴェイは、社会主義的代替案への移行の可能性を、アメリカ社会を念頭に、次のような4つの「矛盾する事態」に見出す。そして、それらの事態に対処しない限り、社会主義的代替案へと移行する可能性は切り開かれないとする。(「日本語版解説」324~327ページ)
第1は、「新しい労働者階級」の台頭である。自動車製造業や鉄鋼製造業などの伝統的な労働者階級とともに、ファーストフード産業や運輸産業などの新しい労働者階級について考えるべきである。この階級は、一時雇用契約による労働様式ばかりか、人種・民族・ジェンダーによるアイデンティティの分裂もあって、依然として未組織である。しかしその「きわどい道筋」が展開されながらも、彼・彼女らの組織化は反資本主義的プログラムの実現のために必須である。(第12章、207~208ページ)
第2は、資本の略奪の多面性に対応して、人々のなかに生じる多面的な疎外である。資本主義的生産様式における労働過程からの疎外だけでなく、社会的・経済的・政治的・文化的生活における複合的な疎外が浸透している。疎外されている、見捨てられている、無視されていると感じている人々のあいだには不快感が蔓延している。この疎外こそが革命の主体的条件の前提である(325ページ)。(第15章、254~255ページ)
第3は、人工知能に代表される近年の技術革新である。この種の革新は、「一方では、自由に処分できる時間を創造することである」が、他方では資本家階級の利益のために「それを剰余労働に転化することである」。自由に処分できる時間は労働者の解放にふりむけられるはずなのに、現実にはそうはならない。現実にはブルジョアジーの私腹を肥やすためふりむけられる。ここに中心的矛盾がある。資本主義体制そのものが変革されなければ、いかなる技術も「略奪」に応用される(326ページ)。(第18章、296ページ)
第4は、「自由」の問題である。真の自由とは、何でも望むことのできる自由な時間がある世界である。そのためには、きちんとした適切な生活を万人が送るために基本的に必要となるもののすべてが現実に提供されなければならない。社会主義社会における自由は、集団主義ではなく、基本的必要を満たすための個々人の自由である。そのような社会を確実に構築可能にするには集団的運動がなければならない(297ページ)。社会主義的解放のプロジェクトは、その政治的使命の革新として真の自由を提起する。これこそ、われわれが邁進できる目標であり、邁進すべき目標である。(第5章、108~110ページ)

今は社会主義的想像力を駆使できる好機である
(コロナウイルスへの対応という)緊急事態のまっただなかにおいて、われわれはじつにさまざまな代替的(オルタナティブ)体制を実験している。貧しい人や被災地域や被災集団に対する基礎食品の無償提供であり、無料の医療処置であり、インターネットを通じた別種の通信交流環境などだ。実際、新たな社会主義社会の輪郭はすでに明らかになりつつあり、だからこそおそらく右翼や資本家階級も不安のあまり、以前の状態に人々を連れ戻そうとしている。(299ページ)/今という瞬間は代替的社会を築くために、この社会主義的想像力を駆使できる時ではないのか? これはユートピアではない。(300ページ)/この面白い瞬間において、代替的な社会主義社会の構築可能性とそのための積極的活動とを本気で検討できるのではないか?(301ページ)

〇的外れの一言。上記の「新自由主義に決定的な問題があるのではなく根本の問題は資本主義そのものにある」という見出しから、40年以上も前のY先生の言葉を思い出す。「現象を現象で説明しても、何の役にも立たない」がそれである。現象(事実)と現象(事実)の関係性(つながり)=構造、現象(事実)と現象(事実)の共通点(通底するモノ)=本質、である。多くの現象(事実)と現象(事実)の関係性を多面的・多角的に追究することによって構造的に考えることができ、多くの現象(事実)と現象(事実)の共通点を横断的・総合的に探究することによって一般化・普遍化そして理論化を促すことになる。
〇いま一言。上述の「労働者階級と社会主義運動での民衆教育(注⑤)」についてである。ここでいう民衆教育(社会教育、成人教育)の主体は、労働者階級と社会主義運動の「当事者」自身であり、「代弁者」などではない。[1]のなかの「日本語版解説」に次のような一文がある。「福祉自給者は、専従組織者(オルグ)によって外部から組織されるべきではない。むしろ運動の目標は、福祉受給者自身の必要とする訓練と手段とを提供し、貧困当事者が自ら運動統率者となって分析し、戦略を立てられるようにすることにある」(329ページ)。「人々の思想の『革命』なくして、『集団的活動』の『組織化』もありえない」(339ページ)。
〇ここで、(障害はないほうがよいという)「障害からの解放」ではなく、(障害によってこうむる)「差別からの解放」を求めて、1970年代から80年代にかけて展開された「青い芝の会」の障がい者自身による障がい者運動を思い出す(注⑥、⑦)。とともに、障がい者自身が福祉教育を担う「福岡市身体障害者福祉協会」や「コミュニティおきなわ」の1990年代後半以降の取り組みを思い起こしたい(注⑧)。


⑤「民衆教育は、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレの活動と思想に端を発した、『対話』的関係にもとづく教育方法論である。そこから発展した民衆教育運動は、ラテンアメリカにおいては世界社会フォーラムの基盤にもなっている。その目標は、抑圧され『沈黙』を強いられた人々に対話的関係を構築することで、その抑圧状況を『意識化』させ、それを打破する知的・実践的能力を涵養することである」(大屋定晴「アメリカ反資本主義運動の位置―マルクス派の理論と直接行動派の倫理をめぐって」『季刊経済理論』経済理論学会、第50巻第2号、2013年7月、51~52ページ)。
⑥ <雑感>(67)障がい者差別と生の思想:「自分の存在意義を問う」(「“ただ生きる”ことの保障」×「“よく生きる”ことの実現」×「“つながりのなかに生きる”ことの持続」)―野崎泰伸「生の無条件の肯定」思想についての福祉教育的視点からのメモ―/2018年11月3日/本文
⑦ <雑感>(144)阪野 貢/言葉とフレーズと福祉教育 :福祉教育は障がい者から感動や勇気をもらい、自分を演じるための教育的営為か? ―荒井裕樹を読む―/2021年9月19日/本文
⑧ <ディスカッションルーム>(73)あの頃の福祉教育、その記憶と記録(4):「福岡市身体障害者福祉協会」「コミュニティおきなわ」 による「障がい者主導の福祉教育実践」―資料紹介―/2018年6月18日/本文

 

補遺  ―自律と教育:自律のための教育―
〇教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。それは、教育基本法にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味する(人間の自律=人格の完成)。そして、自律的人間こそが真に、地域・社会を担い、変革・創造することができる。
〇「自律」とは、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為の決定を可能にするためには先ず、自分を取り巻く環境やそのもとに展開されている状況、直面している出来事や事柄、問題などについて認識、理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志の存在を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。
〇こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見出すことができ、「自から」を「律する」ことができる点において人間は尊厳に値する存在であるといえる。そして、その尊厳を保持するためには、主体的・自律的な思考や判断、行動ができる人間(市民)の育成、すなわち「自律のための教育」(「自律教育」)が必要不可欠となる。それによってはじめて、地域・社会を変革し、新しい未来を開拓・創造することができるのである。
〇前述の「青い芝の会」の運動は自律のための闘争(ふれあい)であり、「コミュニティおきなわ」の実践は自律に基づく社会貢献活動であった。それらの根底に流れる「自律の思想」をいま、しっかりと思い起こしたい。