阪野 貢/岡崎乾二郎の『而今而後』を読んで思ったこと:“ 管理される公共性 ” ―我田引水の言―

〇私事に渡ることをお許し願いたい。筆者(阪野)は先日、岡崎乾二郎(おかざき・けんじろう)の『而今而後(じこんじご)―批評のあとさき』(亜紀書房、2024年7月。以下[1])を読んでいた。そんな折、わずかな時間ではあったが、福祉教育の実践・研究に打ち込む新進気鋭のT先生と懇談する機会に恵まれた。そこでの話は、最近の大学事情をはじめ、筆者が追究してきた「まちづくりと市民福祉教育」をめぐる実践や研究の現状や課題等々にも及び、有意義なものとなった。
〇岡崎は、著名な造形作家、批評家である。[1]の  “ 帯 ”  には、「而今而後(=いまから後、ずっと先も)の世界を見通し、芸術・社会の変革を予見する。稀代の造形作家の思想の軌跡を辿り、その現在地を明らかにする、比類なき批評集」と記されている。そして、哲学者の柄谷行人(からたに・こうじん)が、「岡﨑乾二郎は稀有な存在である。彼にあっては、芸術制作と哲学的認識、自身の生活と社会運動が一つになっている」と評している。
〇また、フランス文学者の郷原佳以(ごうはら・かい)にあっては、[1]は「広い意味での、否むしろ原初的な意味でのメディア論の集成と言える。とはいえそれは、本書でまんがや映画、絵画や建築、音楽など、幅広いメディアの芸術が扱われているという意味ではない。四〇年近くにわたる著者の膨大な批評が、近代的なメディア観を一掃しているということである」(https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/reviews/20240917-OYT8T50054/。最終閲覧日:2025年2月1日)。
〇全くの門外漢の筆者が、そんな[1]の言説やメッセージを読み解くことはそもそも不可能である。よしんば多少読み込んだとしても、それを活かすことなど叶(かな)うはずもない。そんな思いを持ちながら、T先生と別れた後、改めて[1]をパラパラと読んでみた(見てみた)。そのときに目に留まったものに、パブリック(公)とプライベート(私)をめぐって論じる一文―「雨の中に流れる涙。――“ PUBLIC ART ”の『領域』」がある。その一節はこうである。

何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる
――よく知られた、伊勢神宮(内宮)を歌った西行の(ものとされている)一句。
そこに何があるかはわからない、けれどもかたじけなさ(恐れ多い、申し訳ない気持ち:阪野)がこみあげてきてたまらず、涙が流れる。パブリック(公)と言われる概念のつかみどころのなさを言い当てた、これほどの言葉はおそらくない。(中略)
パブリック、日本語にすれば公と呼ばれる概念は、ひどく誤解されている。たとえば、お上の意見は決して公の意見ではないし、無論衆目の一致が、公たる条件ではない。おおよそ国家であろうと国際連合であろうと=公であるわけではない。(中略)
国家をも超える、公の価値とは、個々人の主体の内側に抱え込まれるところのもの――それはたとえば人権と呼ばれる――にある。国家よりも個々人の抱える権利こそ、守るべき、公の価値たりうるというのは、それこそ憲法の基本である。(中略)
アーティストのヴィト・アコンチが、「公園の<公>園たる由縁は、そこにホームレスが住居をもうけ、アベックが人目を避けつつ交接し、ときに違法な商いや犯罪の現場になりうるゆえにである」と、あえて言わなければならなかったのは、世間がパブリックなスペースについて抱く誤解――そこは市民全員の利害および精神の一致を示す共有の場である――が、はびこっているからだった。しかし、もし、そういう市民全員の意志と生活が一つに集う幸福の場として公園を成り立たせようとするならば、かつて新宿西口広場で警官が連呼していたように「他の人の迷惑になります。ここで立ち止まらないでください」と言いつづける逆説に行き着くほかはないだろう。集団的な同調と幸福は相性が合わないし、管理によってのみ確保される公共性も公共性ではありえない。規律と強制によっては、かたじけなさも涙も得ることはできない。(232~235ページ)

〇筆者はこれまで、いわゆる「関係人口」として、地域福祉(活動)計画などの策定活動や福祉教育の研修・委員会活動などを通して、多くの地域に関わってきた。その際、<つかみどころのない>「公」について、提示し、議論してきたか。個々の住民の<抱える権利こそ、守るべき、公の価値たりうる>ものとして位置づけ、それを議論し、追求してきたか。それぞれの地域やそこに暮らす住民一人ひとりの<集団的な同調と幸福>を、「まちづくりと市民福祉教育」の名のもとで強要してきたのではないか。一人ひとりの住民の考えやそれに基づく行動を、一方向に誘導・規制してきたのではないか(それを期待したのではないか)。そして、それらは、意図的ではないにしろ結果的に<公共性>を<管理>することになっていた(なった)のではないか。
〇交流サイト(SNS)で雑多な人たちから支持を集め、厚顔無恥な振る舞いを続けるある自称政治家の顔がちらつく。警察官の<立ち止まらないでください>という声を背に、その歩を進める動員型とも言われるボランティアのある一団が思い浮かぶ。彼らには、昨日を振り返り、今日を確認し、明日を展望するわずかな時間さえも与えられず、ただ忙しそうである。そんな彼らに対しては、<かたじけなさに涙こぼるる>ことはない。
〇そんな思い・想いのなかで、岡崎の次の一節を見出した。「公共」という概念は、「特定の誰にも所属しない(誰のものでもない)がゆえに、誰にでも開かれているという点において、ユートピアという概念の実践的な展開として捉えることができる」(502ページ)。いまさらではあるが、改めて問い直してみたい言説でもある。
〇そして、我田引水の、また自分勝手の極みではあるが、T先生をはじめ本ブログの読者の皆さんには、「公共性」と「まちづくりと市民福祉教育」について議論していただきたいと思う。